ヒッチコック / トリュフォー (ケント・ジョーンズ監督 / 原題 : Hitchcock / Truffaut)

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私の手元には、かれこれ20年以上に亘り、1冊の大部な本がある。タイトルは、「ヒッチコック / トリュフォー 映画術」。タイトルの上にはデカデカと「定本」と書かれている。これは映画好きなら誰でも知っている本であるが、もし映画にあまり興味のない方でも、アルフレッド・ヒッチコックとフランソワ・トリュフォーという二人の映画監督の名前は知っているだろう。この「映画術」という書物は、そのトリュフォーがヒッチコックに対して行った長時間インタビューをまとめたもの。
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この本はハードカバーの大判、写真掲載も多いとはいえ、3段組で350ページを超える大部な書物であるので、実は私も冒頭の部分以外は網羅的に読んだわけではなく、ヒッチコックの作品を見たときに都度その作品に関係するページを開いて見て、そこで展開される詳細な技術論に、まぁ訊く方も訊く方だが、特定のシーンの細部に至るまで撮影方法を覚えている方も覚えている方だな、と感心する(笑)、そんな用途で付き合ってきた。面白いのは、英国人ヒッチコックはフランス語を解さず、フランス人トリュフォーは英語を解さないのに、これだけの量の会話が成立したということ。無類の映画好きのフランス育ちの米国人女性が通訳を務めたらしいが、インタビューする方もされる方も、ともに映画にかける人並はずれた情熱があったからこそ、このような書物が成立したのであろう。そしてここで私が記事を書こうとする映画は、この書物に採録されたインタビューの一部の音声と、関連するヒッチコック映画の数々のシーン、そして現在活躍中の映画監督 10人のヒッチコック映画に関する思いを語るインタビューからなるドキュメンタリー映画。監督・脚本は1960年生まれの米国人で、評論家、脚本家、そしておもにドキュメンタリーの監督でもある、ケント・ジョーンズ。これは、昨年の東京国際映画祭でこの作品が上映された際に舞台に登壇したそのジョーンズと、この作品の中で語る 10人の映画監督のひとり、黒沢清。
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この映画の見どころはなんと言っても、書物に採録されたトリュフォーとヒッチコックの生の会話を、残されたテープの再生によってそのまま聴けるということに尽きるだろう。本当にトリュフォーが喋るフランス語を、通訳が同時に英語に訳し、それにヒッチコックが英語で答えることで、ほとんど時間のロスなく会話が継続している様子がよく分かる。それから、ヒッチコックは明らかにここではゆっくりと言葉を喋っており、淀みがない。もちろん、使われているのが、日本語に比べて論理性の高い英語であることも関係はあると思うものの、この場合においては使用言語にかかわらず、発言すべきことが明確に頭の中で整理されている証拠であると思う。映画監督という、自らの趣味性を保ちつつ多くの人々を束ねる立場の職業の人はそうでなければならない。ただ、宗教に話題が及ぶとノーコメントの態度を取るところや、俳優について結構侮蔑的な表現を使うところ、また、品のない内容を説明するところなどには、人間ヒッチコックの赤裸々な姿が出ていて興味深い。現代の監督たちのインタビューを含め、この映画はすべてヒッチコック映画の何たるかを様々な角度から再認識する内容で、その意味では、ヒッチコックに興味のない人には無縁の映画であろうが、既にヒッチをよく知っている人、あるいはこれからヒッチの映画を見てみたいと思う人には、大変面白い内容に間違いない。映画史において並ぶ者のないサスペンスの巨匠が残した世界は、まさに汲めども尽きぬイメージの宝庫である。彼の映画の中では、人間の持つ根源的な恐怖、その裏にある人間の弱さ、あるいは運命のいたずらや、犯罪を犯す人間の心理、等々が渦巻くドラマ性を生み出しているわけで、ある意味で、それは過ぎ去ってしまった過去の時代の産物でありながらも、いつまでも色褪せない永遠の映画術(まさに!!)の成果であるとも言えるだろう。

ヒッチコックの残した映画作品 (テレビ用は除く) は56本。かつてトリュフォーがこのインタビューを行った1960年代 (書物では、1966年の「引き裂かれたカーテン」までが対象となっている) においては、見たい作品があっても、封切を逃せば二番館にかかるまでは見ることができない環境であり、いかにパリにはシネマテーク・フランセーズという専門施設があると言っても、そう簡単にヒッチコック作品の数々を頻繁に見ることはできなかったはず。それに比べれば現代はなんとも恵まれた時代で、例えば私の手元にある DVD は、サイレント映画を含めたヒッチの全 56作中、数えてみると実に 52作をカバーしているのである。ないのは、処女作の「快楽の園」(1925年)、2作目の「山鷲」(1926年)、11作目の「エルストリー・コーリング」(1930年)、17作目の「ウィーンからのワルツ」(1933年) の 4本のみ。だが調べてみるとこのうち「山鷲」は、数枚のスチール写真しか現存していないとのこと。そんなわけで、残りの 3作もいずれは手に入れたいが、問題 (?) は、後期の主要作品はほぼ見ているものの、それでも穴があり、前期のイギリス時代の作品に至っては、半分も見ていないということだ。人間、便利な環境に甘やかされるものである。このドキュメンタリー映画を見たことをきっかけに、改めてヒッチコック映画の豊穣な世界に浸りたい!! と切に感じている。しかも彼の誕生日はたまたま私と同じ、8月13日。ヒッチコック、あなたはサイコーだ。
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ついでにと言ってはなんだが、トリュフォーについても少し個人的な思いを述べておこう。私が封切で見ることのできた彼の映画は、遺作となった「日曜日が待ち遠しい!」(1983年) だけである (ファニー・アルダンのコツコツという靴音の鮮明だったこと!!)。実際のところ、私の文化面での趣味は幼時からもっぱら幻想性や怪奇性にあったので (笑)、そのような要素からほど遠いヌーヴェル・ヴァーグに興味を持ったのは大人になってからなのである。トリュフォーという人がいると初めて認識したのは、あの「未知との遭遇」(1977年) の学者役で、どうやら彼が有名な映画監督らしいと聞いてから。
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実際に私は、今に至るもそれほど熱心なトリュフォー・ファンとは言い難いが、唯一忘れられない思い出がある。それは、1984年のある日。当時19歳で浪人生であった私は、とある大学の講義に紛れ込んでいた。今となっては時効であろうから白状すると、それは当時映画評論で時代を席巻していた、フランス文学者で後の東京大学総長、蓮實重彦の映画論の講義であったのだ。入ってきた蓮實先生は、大柄な人であるが、実に悄然と教壇に立っていた。そして彼が学生たちに向かって最初に発した言葉は、「先刻連絡を受け取ったばかりですが、フランソワ・トリュフォーが亡くなりました」というものであった。聴講する学生たちの中から、「えっ」という絞り出すような声があちこちで響いたのをよく覚えている。今調べてみると彼の命日は10月21日。脳腫瘍であったらしい。蓮實重彦はこのトリュフォーやゴダールやエリック・ロメールら、「カイエ・デュ・シネマ」誌に集った映画人たちを称揚し、彼らを積極的に日本に紹介した最大の功労者。当時、自らも「リュミエール」という映画誌を創刊した頃であった。なので、トリュフォーの死を蓮實重彦の口から聞いたという事実は、今となっては歴史的なイヴェントである。そして、トリュフォーたちカイエ・デュ・シネマの論客が強い尊敬の念を表明した監督たちのひとりがヒッチコックであり、上で触れた大部な書物「ヒッチコック / トリュフォー 映画術」も、蓮實と、いわばその同志である山田宏一との手になる翻訳によって日本に紹介された。山田宏一に至っては、今回の映画の字幕まで担当しているという、今に続く深い関与ぶりである。それもそのはず、彼は1960年代にパリに在住し、カイエ・デュ・シネマの同人であったのである。
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蓮實は1936年生まれ、山田は1938年生まれであるが、ともに、ただ映画マニア、あるいは評論家という狭い範疇に留まる人たちではなく、紛れもない第一級の文化人である。1980年代に多感な時代を過ごした我々の世代は、その時代に満ちていた文化的刺激を広く深く享受したし、そのことを一生忘れることがないだろう。だが一方で、あの日あの教室でともにトリュフォーの死を知った人たちは、今どのくらいそのことを覚えているのか、ちょっと知りたくなるのである。日常生活にまみれて、文化にかける若き日の情熱を維持できないことがあっても非難はできないが、現在では気骨ある老人たち (笑) となったこのような文化人たちの背中を見て、少しでも文化的な刺激を思い出したいものだ。これは昨年、三島由紀夫賞の受賞記者会見で、マスコミを手玉に取った蓮實。いや実に見事な快刀乱麻ぶりでした(笑)。
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便利な時代であるからこそ、ヒッチコックの映画のような過去の素晴らしい文化遺産が衰えぬ生命力を保っていることと、それをフランスに日本に、また世界に紹介する情熱を持った先人たちに感謝し、我々の世代にも、文化体験の意義を後世に伝えて行く義務があるのだと、この映画を見て珍しく気分が高揚している私であった。

by yokohama7474 | 2017-01-07 00:41 | 映画 | Comments(0)