橋本 敏男著 : 荷風晩年と市川

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永井荷風 (1879 - 1959) は、日本文壇史上に残る文豪と称される人。荷風の名前を知らない人はほとんどいないと信じたいが、さて。昨今ではこのブログのひとつのキーワードとなっている (?) 「昭和は遠くなりにけり」という感覚に基づけば、荷風などは随分と昔の人であると思われても仕方ない面がある。この本は、荷風が晩年を過ごした千葉県市川市で、生前の荷風を知る人たちに執念でインタビューした内容をまとめたもの。荷風ファンにとっては、それはもう面白くて仕方ないものに仕上がっている。著者の橋本敏男は、1937年生まれ。もともと読売新聞社の記者であるが、定年後にこのような荷風研究をしているらしく、ほかにも何冊か荷風についての著作がある。

私は今でこそ永井荷風を心から尊敬すると言えるが、若い頃は何というかこう、なんとも低俗な場所に出入りしたスケベオヤジのような悪い印象があって、どうにもその作品に踏み込む勇気がなかったものである。
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それでも「墨東綺譚」は若い頃に読んだし、その後「あめりか物語」(1908年)「ふらんす物語」(1909年) と読むにつれて、この作家の懐の深さにようやく気付いた次第。その間にも私は磯田光一による荷風の評伝も読んでいるし、最近では沢山出ている荷風のぶらり東京散策についての書物を何冊も買い込んでいるのだ。また、古本屋で旧かなづかいの古い荷風作品を何冊か購入し、黄ばんだページをめくりながらウームと唸っている。そう、昔はイヤらしいと思っていた人物が、気が付けば並ぶ者のない偉大な存在になっていることなぞ、そうそうあるものではない。

彼は明治12年の生まれであるが、父は日本の近代化間もないその時代に、既にプリンストン大学やボストン大学に留学経験があったというから驚きだ。世間の秩序に逆らう偏屈オヤジの印象が強い荷風であるが、素晴らしい文化的な家庭に生まれたということだ。米国では日本大使館や横浜正金銀行の現地スタッフとして勤務したが、その後コネの力でフランスに渡り、かの地の文化にどっぷり浸ったわけである。クラシック音楽ファンとしての私は、まず「あめりか物語」に驚嘆。この中には、当時未だ没後26年(!!)であったワーグナーの作品についてのあれこれの記述があり、また、真に驚愕すべきは以下の文章だ (表記は原文のママ)。

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(初対面の女性相対して) 劈頭第一に、自分はオペラが好きかどうかという意外な質問に会い、つづいて、プッチニの「マダム・バターフライ」の事、今年四、五年目で再び米国の楽壇を狂気せしめたマダム、メルバが事。それから、今年の春初めてアメリカで演奏されたストラウスの「シンフォニヤ、ドメスチカ」の事など、意外な上にも意外な問題に、自分は今までの覚悟は愚か、宛ら百年の知己を得たような心地で、殆ど嬉し涙が溢れて来そうであった。
UNQUOTE

つまり、軽く口説こうとした女性から、思わぬことに当時最先端の音楽の話が出て、大変に感動したということである。ちなみにプッチーニの「蝶々夫人」の初演は 1904年。オーストラリア出身の歌姫ネリー・メルバは 1893年に22歳でニューヨークのメトロポリタン歌劇場にデビューしている。また、リヒャルト・シュトラウスの Sinfonia Domestica、つまり家庭交響曲は 1904年に作曲者自身の指揮で、ニューヨークで世界初演された。「あめりか物語」が書かれた 1908年には、プッチーニは 50歳。シュトラウスは 44歳。バリバリの働き盛りの作曲家たちであったのである!! この驚きがさらに増大するのが、岩波文庫の「ふらんす物語」に付録として収録されている、「西洋音楽最近の傾向」という文章 (1907年にニューヨークで執筆) だ。なんとここでは、若手有望作曲家として、シュトラウスとドビュッシー (シュトラウスより 2歳年上) が比較されていて、彼らの作品のあれこれについて詳細に論じられているのである!! 彼らは当時最先端の現役作曲家であったわけだ。もうクラクラして来てしまう。これが若き日の荷風。
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だが彼の非凡なところは、このような高尚な芸術を論じる一方で、異国の地の女性たちとアヴァンチュールを徹底的に楽しんでいることだ。なんとも先進的ではないか。ただひたすら美を愛する人。このことを頭に入れれば、たとえ彼が老年に至って頑固ジジイになったとしても、我々が払うべき尊敬の念にはいささかも関係しないはず (?)。

戦争中の空襲によって家 (偏奇館、もちろん万巻の蔵書も一緒に) を失った荷風は、東中野、明石、岡山と転々とする。戦後岡山で谷崎潤一郎と食事をして大変感激したという話は知っているが、今回初めて知ったことには、偏奇館を焼け出されてから荷風が頼ったのは、菅原明朗 (すがはら めいろう、1897 - 1998、なんという長命!!) であったのだ。と言ってもこの名前は一般にはあまり知られていないと思うが、作曲家である。私自身もそれほど彼の音楽を知っているわけではないものの、以前 FM のエアチェックで何曲か耳にしたことがあって、名前はよく知っている。調べてみると、長い人生に沢山の作品を残しているのである。菅原と荷風は、浅草オペラの台本と作曲という関係で共演したことがあるらしい。それは 1938年に初演されたオペラ「葛飾情話」。これはそのときの写真で、右端が荷風、左奥が菅原、ほかの 3名は歌手である。一体どんな作品であったのだろうか。
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荷風が市川に居を構えたのは 1946年で、何度か転居しながらも死ぬまで市川に暮らした。最初はほかの人の家に同居であったため、変わり者の荷風はあれこれ問題を起こしたようだ。市川市では、近年になって荷風の記憶を整理して保存しようという動きが起こり、そしてこの本は、その過程における産物なのである。2003年に市川市が荷風生誕 125周年を記念して開いた展覧会の準備において、関係者たちのインタビューが行われたが、その中には新発見の事実もあって大変興味深く、この本の中にその詳細が述べられているのである。実は私はこの本を片手に、市川の荷風ゆかりの場所を年末年始に歩いてみようかと思ったのであるが、既に文学ミュージアムなる市川市の施設が存在していると知り、どうせならそこを見てから街を歩いてみようと考え直した次第。加えて、この地域の古代からの歴史についての本も購入しているので、いずれそちら方面も探訪して記事を書いてみたい。いつになるかは分からないが、市川の知られざる一面に触れることになると思うので、是非ご期待頂きたい。

さてこの本にはもうひとつ、大変に興味深い部分がある。それは、作家の井上ひさし (1934 - 2010) が 2005年にやはり市川で行った講演である。実は彼が若い頃に浅草のフランス座というストリップ劇場 (講演の中で井上は、この表現は誤解を招くとし、「きちんとした劇場です」と説明している) の文芸部に所属していた頃、荷風が何度かそこにやって来たらしいのである。そのあたりの説明がもうそれは抱腹絶倒。私など、読みながら何度も声を上げて笑ってしまいました。晩年の荷風の印象を明確に示すとともに、井上ひさしという人の才能の多彩さも思い知ることができた。私の場合、小学生の頃に井上の「ブンとフン」という作品に入れあげ、その後「モッキンポット師の後始末」「手鎖心中」と読んで行ったが、「子供のくせに心中の本を読んでいるのか」と大人たちにいぶかられたことが原因で (?)、その後彼の作品には疎遠になってしまった。もちろん一般的には「ひょっこりひょうたん島」を代表とする放送作家から、「吉里吉里人」で小説家としてブレイクした人というイメージがあると思うが、そのユーモア感覚には改めて脱帽である。近く私はまた井上作品を読むことになるだろう。だがそれにしても、この人の老年の肖像写真は、荷風と似ているではないか!! まあ、井上がその講演で語っている荷風の歯の汚さは、井上にはなさそうであるが (笑)。実際荷風の肖像写真には、口を堅く結んだものが多く、その理由を、私はこの井上の講演で知ったのである。
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日本文学には、汲めども尽きぬ豊潤な泉が沢山ある。ここでも先人たちの過去の遺産が、現代においてもなお光り輝いていることを認識するのである。

by yokohama7474 | 2017-01-08 00:11 | 書物 | Comments(0)
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