佐渡裕指揮 東京フィル (笙 : 宮田まゆみ) 2017年 1月22日 オーチャードホール

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東京フィルハーモニー交響楽団 (通称「東フィル」) の今月の指揮台に立つのは、人気指揮者の佐渡裕。この東フィルで特にポストを持っているわけではないが、このオケには比較的頻繁に登場しているように思う。彼の持ち味は、大柄な体を活かしたダイナミックな音楽であり、その明るく親しみやすい性格も、高い人気の一因であろう。私見では、元来彼の持ち味に最もフィットする曲は、(1) 躍動的なリズムに満ち、(2) 誰でも親しめる美しいメロディを持ち、(3) ドラマティックに鳴り響く曲。例えばチャイコフスキーやドヴォルザーク、その他ビゼーやレスピーギ、ベルリオーズやサン・サーンスの有名曲などがまず挙げられるのではないか。だが昨年のウィーン・トーンキュンストラー管との来日で証明されたように、近年のヨーロッパでの活躍によって、彼の表現力は一段と懐が深くなって来ているように思う。従って今の佐渡には、新たなレパートリーを期待したくなるのである。その点で今回の曲目は大変興味深い。

 武満徹 : セレモニアル - An Autumn Ode - (笙 : 宮田まゆみ)
 ブルックナー : 交響曲第 9番ニ短調 (ノヴァーク版)

ふむふむなるほど。武満の曲は、上記の 3条件のうち (1) と (3) の要素は非常に薄く、(2) については、美しいメロディであるにせよ、誰もが親しめるというわけではない。かたやブルックナーの方は、(3) だけは文句なしだが、長大な曲には曲折あり、そのドラマ性は宗教がかっていて、誰でも盛り上がりに感情移入できるわけではない。(1)、(2) の要素もあるものの、やはり同様の理由で、万人受けするような音楽にはなっていない。つまりこの 2曲は、もともとの佐渡の持ち味からすると、少し毛色の違ったものと考えることができる。そうであるからこそ、ここで佐渡の新境地を聴きたいと思って会場に足を運んだのである。
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この日のコンサートは 15時からで、実は私は、それに先立って 11時から行われたプレ・トークとリハーサルへの入場券を所持していたのだが、何せ前日の夜に海外出張から帰ったばかり。最近は年のせいか時差ボケも激しくなっていることもあり、大事を取ってそれには出かけず、本番だけを聴くこととした。

会場に到着して知ったことには、この 2曲の間に休憩はないとのこと。つまり、武満の静謐な音楽の終了後、その雰囲気を持ったままブルックナーの森厳な音楽に入って行くということだ。もちろん、楽器編成も違うし前者にはソロも入るので、オケの配置換えの時間は必要であり、武満終了後に拍手なしでブルックナーに入って行ったということではない。最初の「セレモニアル」は、わずか 8分ほどの曲であり、ブルックナーは 1時間程度なので、合計の演奏時間は 1時間半ほど。長すぎることもなく、連続演奏は一見識であると思う。

さて最初の「セレモニアル」は 1992年の作品で、このコンサートのプログラムにはなぜか言及がないが、松本でサイトウ・キネン・フェスティバル (現セイジ・オザワ・フェスティバル松本) が初めて開催されたとき、その最初のオーケストラコンサートで小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラと、今回と同じ宮田まゆみの笙によって世界初演された。このコンサートはその後チャイコスフキーの弦楽セレナードとブラームス 1番が演奏された、誠に素晴らしいものであったのだが、せっかくなので私の手元にある当時の映像 (BS での生放送を録画したヴィデオからディスクにダビングしたもの) をお見せしよう。冒頭、笙奏者は演奏しながら客席をゆっくり歩いて、舞台に上がって行った。
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これは 1992年 9月 3日、松本文化会館 (現キッセイ文化ホール) での演奏。つい 2日前に 57歳になったばかりの小澤 (つまり、今の佐渡と近い年頃)は未だ若々しく、この 4年後に死を迎えることになる 62歳間近の武満も元気そうだ。そして唯一、25年の時の経過を感じさせないのが、笙の宮田まゆみである。
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この笙 (しょう) という楽器は、もちろんもともとは日本古来の非常に古い宮廷音楽、雅楽で使われる楽器であり、拍節感なく、まさに宙に立ち昇るという表現そのままの神秘的な音が出る。西洋のパイプオルガンと同じ原理であり、いわば口で吹く雅やかな携帯式オルガン (?) である。宮田は、私が未だ学生であった 1980年代からこの楽器を使って、雅楽にとどまらずに様々な現代音楽に取り組んでおり、実に 30年以上に亘って、名実ともにこの楽器の第一人者である。先端的な雅楽グループ伶楽舎のメンバーでもあり、同グループが昨年上演した武満の雅楽「秋庭歌一具」の演奏にも参加していた。あたかもこの楽器の音の持ち味のように、ガツガツすることなく、だがいつ終わるともしれない連続した活動を変わらずに長く続けている、そんな特別な演奏家なのである。楽器の特性もあって、上の写真のように白装束で巫女風のいで立ちをすることが多く、今回の演奏もそうであった。客席からステージを見る限り、年を取ることもないような神秘的な力を備えた巫女のようである。

今回の演奏では、宮田は佐渡とともに袖からステージに現れ、初演時のときのように客席から上がっては来なかった。だがその音が透明感をもって立ち昇ったのは全く同じで、実に神秘的だ。オケも笙の音に触発されたように、透明感のあるニュアンス豊かな音楽を奏でて、素晴らしかった。揺蕩う弦楽器を聴いていると、その後演奏されることになるブルックナー 9番の第 3楽章アダージョを思わせるような深い抒情すら感じたものである。なるほどこれは、リズミカルな音楽を全身で叩き出す旧来の佐渡スタイルではなく、曲の個性を充分に引き出す多様性を実現した演奏である。

そしてメインのブルックナー。この曲は第 4楽章を書きあげないうちに作曲者が亡くなってしまったので、未完成なのであるが、深遠なアダージョ楽章である第 3楽章で終わるので、むしろ座りの悪いフィナーレがあるより感動的だという声もある。なにしろその内容は実に深く重く、ただドラマティックに鳴らすだけではその本質は立ち現れて来ない、恐ろしい曲だ。佐渡の師匠であるバーンスタインは、終生ブルックナーとは縁遠い指揮者であったが、この 9番だけは、ニューヨーク・フィル、ウィーン・フィルと 2度に亘り録音している (それ以外には、非正規録音の 6番が私の手元にあるが、ブルックナーのほかの交響曲は指揮したとは聞いたことがない)。佐渡自身は、昨年 9月に、手兵である兵庫芸術センター管弦楽団を指揮してこの曲を演奏している。そのときはこの 1曲だけのプログラムであったようで、佐渡のこの曲にかける意気込みが伝わって来る。佐渡は恩師バーンスタインの晩年、ウィーン・フィルとのこの曲の録音にみっちり立ち会ったそうだが、その意味でも強い思い入れがあるのだろう。因みにこれがそのバーンスタインの録音のジャケットだが、まるでマーラーのような濃厚な演奏で、賛否両論ある内容だ。
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そして始まった佐渡の演奏は、遅めのテンポを採った、実に丁寧なもの。東フィルはここでも好調で、弦は雄弁に語り、旋律を朗々と歌い上げるかと思うと、いずれかのパートがピツィカートの伴奏に回るときには、実にしっかりと弦をはじく。木管のニュアンス、金管の迫力も申し分ない。そうして紡ぎ出される音楽は見通しが非常によく、時には爽快感すらあって、ひたすら重厚濃厚なバーンスタインのブルックナーとは随分と印象が異なる。第 2楽章スケルツォではまさにリズムが強烈に炸裂し、ここは従前からの佐渡らしい豪放な音楽が鳴っていた。だが一転して深遠な第 3楽章では、深く美しい弦の音色が、まさに前半に演奏された武満の音楽すら回想するように抒情的に響く。そして音楽がいよいよ深く潜行するアダージョの後半では、佐渡は指揮棒を置いて素手で指揮をし、ワーグナーチューバの遥かな響きが虹のように消えて、静かに全曲を終えた。聴いていて演奏上の不安とか疑問とか、そういった違和感を覚えることなく、最後まで見事に統制された演奏であったと思う。もちろん東京の聴衆は、ギュンター・ヴァントやスタニスラフ・スクロヴァチェフスキ、あるいは朝比奈隆といった指揮者たちによるこの曲の超絶的な演奏を体験しているので、さらに壮大で神秘的な音楽を求める人もいるかもしれない。だが、私の感想としては、今回の佐渡の演奏には、今の彼のなしうる説得力ある音楽が非常に素直に表れていたので、大変感動的であったし、今後の彼の活動にも大きな期待をかけたいと思うのである。

実は冒頭の方で、もともと佐渡の持ち味が発揮される作曲家として私が列挙した人たちには、意図的にドイツ・オーストリア系作曲家は含めなかったのである。だが今回の演奏で、今後この分野での充実が期待されることとなった。今月の東フィルとの定期のもうひとつのプラグラムは、ブラームス 1番がメインである。私は聴きに行けないものの、これもきっと佐渡らしい名演になるのではないだろうか。

by yokohama7474 | 2017-01-23 00:44 | 音楽 (Live) | Comments(0)
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