チョン・キョンファ ヴァイオリン・リサイタル 2017年 1月28日 サントリーホール

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ホールを満たした 2000人の聴衆の前に、たったひとりで立つ。ステージで手にするのはヴァイオリン一丁。オーケストラはおろか、通常ならリサイタルで伴奏してくれるはずのピアノもいない。これから始まる、音楽の正味演奏時間だけでも優に 2時間を超える多彩な作品の演奏において、奏者は音楽のテンポや強弱やその他微細なニュアンスまで、たったひとりで表現しなければならない。これはなんとも大変なことだ。ヴァイオリニスト冥利に尽きるとも言えるかもしれない。だがその孤独感はいかばかりか。そもそも音楽を奏でる際、演奏家は厳しく自己と向き合い、そして最終的には聴き手に放たれる音たちを、自らの深いところから引き出さねばならない。バッハが書いた 6曲の無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータは、音楽史上燦然と輝く名曲であるが、奏者を究極の緊張感に置くものではないだろうか。

韓国の生んだ世界最高のヴァイオリニストのひとり、チョン・キョンファは現在 68歳。来年デビュー 50周年を迎える。若い頃にはまさに激しく燃える情念の音楽で世界に切り込んだ彼女は、いつの頃にかレコーディングはあまりしなくなり、一時期は指の故障もあって演奏活動を数年間休止せざるを得なかった。少なくともクラシックの世界では、昔と違ってメジャー・レーベルがスター演奏家のレコーディングを陸続と世に出すという状況はもはやなく、常にその名声と演奏活動が安泰で、新録音も定期的に出るという演奏家は、極端に少なくなってしまった。そんな中、東京では様々な世界的演奏家の実演に頻繁に触れることができる環境があり、その意味では我々はアジアのほかの街と比べても、格段に恵まれていると思う。チョン・キョンファの場合、2013年に久しぶりに日本を訪れて以降、2015年、そして今回と、2年に一度は来日公演を開いており、昔を知っているファンもそうでないファンも、現在の彼女の音楽に大きな喝采を送っているのである。しかも今回は上記の通り、ヴァイオリン音楽の最高峰、バッハの無伴奏ソナタとパルティータ、全 6曲を一晩で演奏する。そもそもこの曲目で収容人員約 2000人のサントリーホール、及び世界の主要ホールを満員にできるヴァイオリニストが世界に何人いるだろうか。多分、片手を超えるか否かというレヴェルではないか。一例として、昨年このブログでも採り上げた、中堅ヴァイオリニストとして実績も知名度も充分であるはずのクリスティアン・テツラフですら、800席の紀尾井ホールでの演奏であった。そもそもヴァイオリンの音がちゃんと響くホールのサイズとしては、本来その程度が限度であり、2000人のホールでヴァイオリン・リサイタルを行うということは、それだけ聴きたいと思う人の数が多いということを意味する。今回、どういうわけか全館休業日となっていたこの日の暗いアーク森ビルで、唯一灯りがともっていたサントリーホールの当日券売り場は、しかしブラインドが下りていた。つまり、満員御礼である。皆、彼女の音楽を聴きたいと思ってこのホールに集まって来たのである。
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今回の演奏曲目詳細は以下の通り。すべてバッハ作曲。
 ソナタ第 1番ト短調 BWV.1001
 パルティータ第 1番ロ短調 BWV.1002
 = 休憩 15分 =
 ソナタ第 2番イ短調 BWV.1003
 パルティータ第 2番ニ短調 BWV.1004
 = 休憩 20分 =
 ソナタ第 3番ハ長調 BWV.1005
 パルティータ第 3番ホ長調 BWV.1006

開演は 18時30分、終演は 21時35分。まさに演奏家と聴衆が音楽を挟んで対峙する、密度の濃い 3時間であった。チョンは昨年 5月に北京で、これら 6曲を一晩で演奏するコンサートを演奏。この 6曲の大変な通し演奏は、今回日本では、福岡、大阪に続いて今回の東京での演奏。そして 5月にロンドン、その後ニューヨークと続くとのこと。またそれに先立ち昨年 4月、実に 15年ぶりのスタジオ録音としてこれら 6曲を録音。日本でも昨年 10月にワーナー・クラシックスから発売されている。尚、68歳でのこの 6曲の録音は、これまでの最高齢記録イダ・ヘンデル (やはり素晴らしい伝説的ヴァイオリニストであり、88歳で未だ現存のようだ) の 67歳を抜いて新記録であるとのこと。この記録は、きっとチョン自身が将来更新するのではないか。

今回の 6曲を聴いてみて改めて思うのは、まずはこの音楽の内容の深さ。これは演奏云々 (あ、これは安倍首相の言うように「でんでん」ではなく、正しくは「うんぬん」と読みます。念のため) の前に、まさにこの不朽の音楽の持つ価値によるものであろう。そしてここでのチョンの演奏には、彼女ならではの明確な個性が刻印されていて、まさに圧巻だ。バッハのようなバロック音楽は、もはや作曲当時の楽器の演奏法を考慮することなしには演奏が難しいが、もしそのような古楽奏法を第一と考えれば、ともすると、流れはよくても血圧の低い、面白みのないバッハになってしまう可能性がある。その点チョンは、さすがに一味違う。彼女にとってこの曲集は、ニューヨークのジュリアード音楽院で稀代の名教師イヴァン・ガラミアンに師事した頃から半世紀以上勉強して来たものであるというが、だがそれは半世紀以上前の解釈というわけでは決してない。最近の流れである古楽奏法も明らかに意識した上で、彼女でしかなしえない表現力を強く押し出したものになっているのである。昔のように情念をそのままぶつけるという印象は減じているものの、その音楽は決して常に流れが流麗であるわけではなく、楽章によってはアクセントが強すぎるように感じる箇所もある。また楽章の終結部などでは、ほんのわずか呼吸する間を空けることで、インテンポが崩れる場合もある。だがそれがチョンの個性。演奏スタイルにおいては時代の趨勢に充分留意しながらも、磨き抜かれた音と安定したテクニックはもちろん健在で、ここぞというときの集中力と深く聴き手の心に訴えかける表現力には瞠目すべきものがあった。特に有名なシャコンヌを終楽章として持つパルティータ 2番における没入ぶりは素晴らしく、また、例えばソナタ 3番の第 2楽章などでも、先へ先へと進む生命力に打たれる瞬間が何度も訪れた。まさに自分と厳しく向き合った結果としての、説得力の強い音楽を聴くことができたと思う。

今 2013年の公演プログラムを手元に持ってきてみると、その前年にソウルでこのバッハの無伴奏全 6曲を演奏したとある。そのインタビューでの彼女の発言を抜粋しよう。

QUOTE
それは、かつてない充足感を与えてくれた経験でした。自分の演奏にとても批判的な私は、若い頃はバッハの「無伴奏」を全曲演奏しようなどとは、夢にも考えませんでした。しかし昨年は、今の私を受け入れて演奏する他に、選択肢はないと思ったのです。バッハの無伴奏は録音も決定しており、それは今年か来年に、実現するはずです。録音が実現したら、ツアーでも全曲演奏を手掛けたいと思っています。
UNQUOTE

なるほど、この発言にある通り、数年前から計画されたレコーディングでありツアーであったわけである。いみじくも本人の言う通り、「今の私を受け入れて演奏する」、それが今回聴かれた音楽であったと思う。そして、件の録音は、これである。
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そう、これは今回の演奏会終了後のサイン会で、CD のブックレットに私がもらったチョンのサイン。長蛇の列をなしたファンに対して彼女は非常にフレンドリーに対しており、笑っている人には "I like your smile!" と言い、笑っていない人には "Smile!!" と呼びかけ、ずっとハッピーに喋っている感じ。そして私にサインをくれたときにも喋っていたことが原因であろう、サイン右下のハートマークを誤って 2度書いてしまい、"Oh! You have two hearts!!" と微笑みかけてくれた。ご覧の通り、右下のハートマークに加え、左上には "Love" とあり、意外と「女の子」しているチョン・キョンファであった (笑)。

いや、非常に強い集中力で知られる音楽家である彼女が、聴衆に対しては大変にフレンドリーな人であることは、彼女の音楽を考える上でも、認識しておいてよいかもしれない。というのも今回の演奏中に、滅多に見られない珍しいシーンがあったのだ。2曲目、パルティータ 1番の第 2楽章コレンテは急速なテンポで突き進む超絶技巧を要する楽章だが、その危なげない演奏の途中でチョンは突如として弓を楽器から離し、演奏を完全に止めてしまったのだ!! 何が起こったのかと固唾を飲んだ次の瞬間、彼女は激しく咳き込み始めた。空気の乾燥によるものか、あるいは気管支に唾液でも入ってしまったのであろうか。ひとしきり咳き込み、落ち着いてきた彼女に対し、客席から男性の声が飛んだ。"No problem!!" --- これで客席には笑いが起き、当のチョン自身も満面の笑顔で声のした方を見て、会場には拍手が沸き起こったのだ。私自身は、音楽を聴く緊張から自分を解放したくなかったので拍手はしなかったが、あのようなステージと客席とのコミュニケーションは好ましいものと思われた。そして楽章冒頭から再開された音楽は、より一層集中度と音の鮮度が上がったように聞こえたものであった。生演奏ならではのハプニングから、演奏会の素顔が見えることがあるが、今回はそのよい例であった。

これから 70に向かい、さらに充実の活動を繰り広げてくれるであろうチョン・キョンファ。年齢とともに変わるもの変わらないもの、それぞれに楽しみにしたいと思う。これは 9歳のとき、つまり本物の「女の子」の頃の彼女の写真。楽器を持つ構えは変わっていませんねぇ。天才少女が本当の天才になるだけでも大変なのに、70の声を聞いて新たな境地に向かうとは、本当に素晴らしいことだと思う。たったひとりで 2000人の聴衆の前に立つだけの価値がある演奏家なのである。
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by yokohama7474 | 2017-01-29 02:05 | 音楽 (Live) | Comments(0)
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