アンドレア・バッティストーニ指揮 東京フィル 2017年 2月18日 新宿文化センター

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東京フィルハーモニー交響楽団 (通称「東フィル」) が、首席指揮者であり世界的にも有望なイタリアの若手指揮者、1987年生まれのアンドレア・バッティストーニの指揮で演奏したのは、ジュゼッペ・ヴェルディの「レクイエム (死者のためのミサ曲)」である。これを聴かずしてなんとしよう。ただ会場が若干珍しくて、新宿文化センターなのである。このホールにはかなり以前、小澤征爾指揮新日本フィルによるマーラーの 7番のコンサートを聴きに来たことは覚えているが、実際に足を運ぶのはそれ以来なのではないだろうか。因みにそのコンサートは、手元にプログラムを引っ張り出してきて確認したところ、1988年のこと。今回の指揮者バッティストーニが未だ 1歳の赤ん坊であった頃だ (笑)。堀口大井という人 (定期会員と書いてあるが、一般の人だったのだろうか) によるメチャクチャ詳細な曲目解説が、実に 11ページに亘って掲載されていたのも懐かしい。これが新宿文化センター。ホールとしては決して悪い音響ではないし、オルガンもある立派なホールだ。
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私はこの会場に辿り着くまで、このホールの選択はひとえに、サントリーホールが改修中であることが原因とばかり思っていた。ところがそうではなくて、このコンサートは、新宿区成立 70周年を記念するものなのである。そのひとつの象徴が合唱団で、新宿文化センター合唱団という名称を持つが、それはほかでもない、今回の公演のために一般公募によって結成された 270名の合唱団。昨年 7月から練習を重ねてきたという (合唱指導は山神健志)。なるほど道理で、合唱団メンバーの家族友人知人の皆さんが客席に多くいたわけで、メンバーが入って来たときに舞台に向かって手を振る人もいたし、私の周りでも、「あ、いたいた、右から○人目」などと言っている人もいた。おかげでチケットは完売御礼。そして、舞台に居並ぶオケと合唱団、そして独唱者はすべて日本人で、指揮者のバッティストーニのみが外国人という事態にあいなった。開演前に会場アナウンスで、新宿区長も鑑賞に訪れていることが告げられ、スポットライトが当てられて区長の紹介がされたが、スピーチの類はなく、すぐに演奏に入って行ったのは一見識であった。ちなみに、このような記念の機会には、通常はもう少し祝典的な曲 (典型例はベートーヴェンの第 9番であろう) が選ばれるのが普通であり、死者のためのミサ曲とは一見ふさわしくないようだが、後で述べるように、この曲に刻まれているのは、あらゆる人間の生と死のドラマなのである。都内でも有数の活発な人の動きを持つ新宿区にて、過去にここに生きた人、そして今生きている人、これから生きて行く人、すべての人のドラマが一般市民による合唱団によって歌い上げられるのだと思うと、大変意義深い演奏会なのである。

私はバッティストーニの才能を極めて高く評価する者であるが、過去にこのブログでも何度か採り上げた通り、すべての演奏を大絶賛というわけでもない。だが今回は、結論から先に言ってしまうと、大変に感動的なコンサートとなり、この曲の偉大さ、ひいては (月並みな表現だが) 音楽の素晴らしさをつくづく実感することとなった。そもそもこのヴェルディのレクイエムは、クラシック好きの人にとってはもちろんよく知る曲であろうが、このブログはクラシックに造詣のない方にも読んでもらいたいと思って書いている。その私は、ここで強く主張しよう。もしあなたがこの曲を知らないとすると、それは人生にとっての大きな損失。是非是非、いかなる手段でもよいからこの曲を聴き、何度も鑑賞を繰り返し、その偉大さを心の深いところで享受して欲しい。西洋音楽の頂点のひとつであるから。これが偉大なるオペラ作曲家、ジュゼッペ・ヴェルディの肖像。
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と書いてはいるが、この曲の冒頭の神秘性は、録音では決して真価が分からない。墓の底から湧き上がるようなかすかな低弦、そしてピアニッシモによる呟きのような合唱。こうして書いているだけでも、ゾクゾクしてきてしまうのである (笑)。今回の演奏でも、この冒頭の弱音はことさらに神秘的であり、この日の演奏を生で聴いた人だけが実感できた金縛りの瞬間と言えるだろう。そしてこの演奏においては、バッティストーニの指導力云々よりもむしろ、オケ、独唱、合唱すべての人々がこの上ない自発性を発揮して成し遂げた充実感を感じることとなった。実に彫琢豊かな演奏で、曲の個々の部分が持つ持ち味と深みを充分に表しており、合唱団の人たち (かなり年輩の方も多く含まれていた) にとっても、きっと生涯忘れられない経験になったことだろう。独唱の 4人は、ソプラノの安藤赴美子 (つい先頃まで新国立劇場で、名匠フィリップ・オーギャン指揮のもと、「蝶々夫人」の主役を歌っていた)、メゾソプラノの山下牧子 (深い声で常に安定感を示した。彼女も新国立劇場の「蝶々夫人」でスズキを歌っていたのである)、テノールの村上敏明 (予定された歌手がインフルエンザにかかり、急遽代役で登場したにもかかわらず、実に美しい高音を聴かせた)、バスの妻屋秀和 (いつもの通りの強い表現力)。いずれも素晴らしい出来であったが、中でもソプラノの安藤は、最終曲「リベラ・メ」の冒頭のソロでは、ついに楽譜を持つ片手を離して、体を屈しながら、深い感情を込めた歌唱を聴かせた。そうなのだ、この曲は古今のレクイエムの中でも最もドラマティックでありオペラティックな曲。人間のドラマこそが曲の命であり、感情の赴くままに自由なテンポ設定をする指揮者にオケも食らいついて行き、なんとも生々しい人生のドラマが展開した。繰り返しだが、これは全員の勝利であり、現代の東京で実現できる音楽の水準の高さを示すものであったろう。主演後のバッティストーニも、実に嬉しそうにしていた。
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今回バッティストーニと東フィルによるほかの演奏会に心当たりがなかったので、帰宅してから調べると、この「レクイエム」と、翌日に静岡県磐田市で演奏会を開くのみ。たった 2回の演奏会のためだけに来日したのだろうか。彼はまた 3月に東フィルの指揮台に戻ってくるが、イタリア指揮界若手三羽烏のひとりとされる人であるから、世界が彼を待っているはず。日本に長く滞在する可能性は低いのではないか。実は演奏中にふと気づいたことには、やはりこの三羽烏の一人とされるダニエーレ・ルスティオーニも、ちょうど今来日中のはず。二期会の「トスカ」と、それから東京都交響楽団とのコンサートもあるはず。残念ながら今回私はいずれにも足を運ぶことはできないが、昨年 6月の東京交響楽団との演奏会を記事として採り上げた。
http://culturemk.exblog.jp/24489238/

ちょうど同じ時期にイタリア三羽烏のうち二人までが東京に滞在しているとは、東京はやはりなかなかだと思っていたのであるが、実は、この演奏会終了時、充足した思いで会場を出ようと通路を出口方面に歩いていると、客席に白人がいるのが見えた。・・・な、なんとそれは、そのルスティオーニその人ではないか!! 一瞬ジロジロ見てしまったが、自分でも驚いたことに、考える間もなく彼に話しかけてしまったのである。
 私「マエストロ・ルスティオーニですか?」
 彼「(ちょっと戸惑って) は、はい」
 私「今日はどうでしたか。彼はあなたのライバルですよね?」
 彼「(やや気色ばんで) ライバルじゃない。同僚です!!」
 私「(丁重にお辞儀して) そうですか。では、『トスカ』がんばって下さい」
 彼 (無言で笑ってうなずく)

その後楽屋に向かう風情であり、そんなところで一般人からあれこれ言われたくないのはよく分かるので、自分の無遠慮さを申し訳なく思ったが、実は、後で調べて分かったことには、彼はこの日 14時から東京文化会館で二期会の「トスカ」を指揮していたのである!! このバッティスティーニのコンサートは 18時からであったから、ルスティオーニは、オペラを振ったあとすぐに上野から新宿に移動したに違いない。やはり二人は親しい友人なのであろう。すると、バッティスティーニも二期会の「トスカ」を見たのかもしれない。これがルスティオーニ。バッティストーニよりも 4歳年上である。
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ところで今回のプログラムに、バッティストーニの以下のような言葉が掲載されている。

QUOTE
ヴェルディの「レクイエム」には、イタリア人と神との関係が反映されています。イタリア人の「祈り」は、とても個人的なものなのです。自分と「神」との対話。私は神にこう尋ねる、とか、私はこのようなことが起こらないように願う、とか。だからこの「レクイエム」は、とても個人的で、人間的な作品なのです。
UNQUOTE

なるほどよく分かる。では今回、ひとりのイタリア人のもと、何百人もの日本人が成し遂げた演奏を、バッティストーニは、そして「同僚」のルスティオーニは、どのように感じたであろうか。そして、今後の音楽界を担うイタリア三羽烏のうちの二人までが集う、新宿文化センター。なんとも素晴らしい出来事ではありませんか!!二人して新宿界隈に飲みに行ったのでしょうかね (笑)。

by yokohama7474 | 2017-02-19 01:55 | 音楽 (Live) | Comments(0)