上岡敏之指揮 新日本フィル 2017年 3月11日 すみだトリフォニーホール

e0345320_23065999.jpg
この日、3月11日はもちろん、東日本大震災からまる 6年後。このコンサートのチラシには、「あの日を思う。」とあって、当然ながらすべての日本人はあの日のことを忘れられるわけもなく生きているわけであるが、改めて 3・11がまた巡り来たことについては、大きな感慨を抱くのである。ただ、実はこの演奏会、もうひとつの演奏会とセットになっている。つまり、3/13 (月) に行われるエリアフ・インバル指揮ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団のコンサートと合わせて、「すみだ平和祈念コンサート 2017 - すみだ×ベルリン」と題されているのである。いずれもマーラーの交響曲、今回が第 6番、インバル指揮の方では第 5番が演奏されるのであるが、実はこれらのコンサートは、東日本大震災だけではなく、もうひとつの「あの日」、つまり 1945年 3月10日の、いわゆる東京大空襲をも偲ぶものなのである。その空襲では下町一帯が火の海と化し、今回の会場、すみだトリフォニーホールのある錦糸町界隈でも多くの犠牲者が出たということだ。このふたつの惨事は、ひとつは未曾有の天災、もうひとつは戦争という人災であって、その種類は異なるものの、多くの人の命が奪われたという点では共通しており、今生きている我々としては、人間の命のはかなさと、それゆえに生きている時間の尊さを実感する機会になるという点でも、それらの惨事を思い出すことには大きな意義がある。また、これらはすみだトリフォニーホール開館 20周年のイヴェントの一環でもある。小澤征爾指揮新日本フィルによるマーラー 3番でこのホールがオープンしたことをつい最近のことのように覚えているが、もう 20年になるのか・・・。まさに光陰矢の如し。せっかくなのでその時のプログラムの表紙と、機関誌「トリフォニー」創刊号に掲載された小澤のインタビューの写真を掲げておこう。
e0345320_00024952.jpg
さて今回、このホールを本拠地とする新日本フィルが、現在の音楽監督、上岡敏之 (かみおか としゆき) とともに取り組んだのは、マーラーの交響曲第 6番イ短調「悲劇的」。震災を偲ぶにはあまりにも生々しいというか、最後が明るい勝利ではなく、まさに破局で終わる曲であるので、犠牲者の追悼には適当でないような気も正直するのであるが、指揮者上岡によると、「魂を慰めるコンサートであるより、今を生き、明日への希望を見出す人へのメッセージとしたい」とのこと。この曲の中で示された人間の内面の葛藤や、悲劇的な運命に抗う力、そして絶望の彼方に見えることもある希望の表出に主眼が置かれた選曲ということであろうか。
e0345320_00101675.jpg
このブログでも過去に何度かこのコンビの演奏を採り上げ、期待が大きいがゆえに時に今後の課題として留保したくなる点も、私なりに感じるところを正直に記して来た。今回の演奏も、大変素晴らしい部分と、もっとこのように鳴って欲しいと思う部分がないまぜになった内容であったと思う。まず、客席から舞台を見上げると、ステージ奥のオルガンに向かって左側の高いところに、カウベルと縦に吊るした何本かの銀色の鐘が目に入った。以前も横浜でのこのコンビの「ツァラトゥストラ」の演奏の際に、やはり吊るすタイプの鐘がオルガン横に陣取っていたことを書いたが (昨年 9月12日の記事ご参照)、ここでも舞台からわざわざ外れての演奏で、これらの楽器の音を際立たせるという意図であろうかと思われた (実際、演奏の度にスポットライトが当てられていた)。ちなみにカウベルとは読んで字のごとく、牛の首につける鈴のことで、大小様々のサイズがある。スイスに行くと本当に牛の首につけられているし、お土産の定番でもある。
e0345320_00251699.jpg
こんなものを楽器として交響曲に使った人は、もちろんマーラーが最初である。今思いつく限りでは、オーケストラでカウベルを使う曲としては、この曲以外には同じマーラーの 7番と、これはそのものズバリ、アルプスの情景を描いたリヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」くらいである。マーラー 6番がウィーンで初演された 1907年に描かれたカリカチュアがこれである。この曲で使われた打楽器の多さを揶揄しており、異様な風体のマーラーが、「警笛ラッパを忘れた! これでもう 1曲、交響曲が書ける!!」と言っているというもの。この曲の音響の斬新さに対する当時の人たちの戸惑いを、ユーモラスに表現している。
e0345320_00270520.jpg
今回の演奏であるが、まさに「悲劇的な」冒頭、低弦がザッザッザッザッとリズムを刻むところは、テンポは若干遅めながら軽めの音で、多くの演奏で聴かれる、地獄への行進のような壮絶な絶望感は感じられなかった。今にして思えば、全曲に亘る上岡の設計は、この曲の異様なまでの禍々しさや強烈な威圧感を強調するのではなく、とにかく美麗な音でアクセルを踏んだりブレーキを踏んだりすることで、様々な人間的な思いを描き出すということだったのであろうか。各楽器は大変丁寧にパートを演奏し、特に弦楽器はメリハリが効いていてよく鳴っている。その一方、課題も数々あり、例えば開始後ほどなくして聴かれるトランペットの叫びは、どんな名門オケでも、多くの演奏で大抵音が外れてしまうのであるが、残念ながら今回もしかり (だが、提示部の反復により同じ箇所が再度出て来たときには、なんとかクリアしていた)。もちろん、部分的なミスをあげつらうつもりはないが、概して今回の演奏での金管パートは、張り裂けるような強烈さを欠いていたと思うが、いかがであろうか。木管は、もともとこのオケは昔からレヴェルが高いのであるが、うーん、今回の演奏では緊密さや鮮烈さに、もう一歩の課題を残したか。この曲の第 2楽章と第 3楽章の順番は作曲者自身最後まで迷っていたらしいが、以前は第 2楽章がスケルツォ、第 3楽章がアンダンテという順番が通常であったところ、最近ではその逆がポピュラーになりつつあり、今回もそうであった。私は個人的には、スケルツォ - アンダンテの順番を絶対的に支持する派であるが、まあ、アンダンテ - スケルツォが作曲者の意向により近いのなら、やむないか。今回の演奏では、第 2楽章アンダンテの後半の盛り上がりでの弦楽器の深い情緒が大変に印象的。また、その場所ではカウベルがしきりに響くのであるが、オルガン横の高いところのものではなく、舞台上から聴こえた。サイズの小さいものであったのだろうか。マーラーの破天荒な発想で、平和な風景が歪んで行く悲劇性がよく描かれた箇所である。第 3楽章スケルツォでも、弦楽器の各パートの表現力に感嘆。ティンパニも上手い。そして終楽章、30分に及ぼうという阿鼻叫喚の音響地獄である。昔の日本のオケの演奏では、この楽章の途中で明らかにエネルギー切れを起こすことが多かったが、それを思うと今回は見事な推進力が保たれていた点、素晴らしい。だがその一方で、本当に胸が苦しくなるような瞬間には、あまりお目にかかれなかったきらいがある。つまり、オケの表現力が限界に達して「悲劇的」になることはなく (笑)、それゆえに、悶え苦しむ音楽の本当の怖さにはもう一歩迫り切れないようにも思ったと言ったら、語弊があるだろうか。全体を通して上岡の指揮は、上述の通り、かなりアクセルとブレーキの踏み替えが見られ、即興的に見えながらも音楽の核心に迫ろうという意欲が感じられるもの。その意味では、素晴らしい瞬間も多々あったものの、恐らくは指揮者とオケの関係がさらに練れてくれば、より一層息の合った演奏が期待されるものと思う。

アンコールが演奏されたのであるが、それは、マーラーの第 5交響曲の第 4楽章アダージェットである。この交響曲は、まさに大震災当日、2011年 3月11日に同じトリフォニーホールで、ダニエル・ハーディングのもと、この新日本フィルが演奏した曲。聴衆はたったの 100人ほどであったらしく、ハーディングはそのことを深く心に刻むことで、その後このオケや東京の音楽界との絆を強くしたものだ (NHK のドキュメンタリーにもなった)。ちなみに私はその日、アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィルの演奏を聴きにサントリーホールに行く予定であったが、交通機関のマヒで果たせなかった。そちらもやはり、ごく少数の聴衆の前で演奏がされたようである。ともあれ今回のアンコールは、もちろんその日のことを思い出すための選曲であったのであろう。メインの 6番でも終始好調であった新日本フィルの弦が、焦らすように遅いテンポになったり、感情のままに早いテンポになったりする上岡の指揮によくついて行って、実に感動的な名演となった。

そんなわけで、今回もこのコンビへの期待と課題が交錯する思いで会場を後にしたが、以前より (それこそトリフォニーホールがオープンした 20年前より) はるかに向上したオケの表現力を、才能ある日本人指揮者がいかに面白く育てて行くかという点で、やはりこのコンビからは目が離せないと思う。今回の会場は満席ではなかったので、さらに宣伝が必要だろう。是非是非、次回を期待!!
e0345320_01230432.jpg

by yokohama7474 | 2017-03-12 01:24 | 音楽 (Live) | Comments(0)