東京・春・音楽祭 ワーグナー作曲 楽劇「神々の黄昏」演奏会形式 (マレク・ヤノフスキ指揮 NHK 交響楽団) 2017年 4月 1日 東京文化会館

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今年も 4月に突入し、また春が巡って来た。結構寒い冬であったが、桜の開花の知らせを耳にしてから後、また寒い日が続いており、この日も、前日のみぞれ交じりの雨は弱まったものの完全にはやむことなく、終日曇り空の鬱陶しい天気であった。都内を代表する桜の名所である上野公園はこのような景色であり、桜は満開には程遠いにもかかわらず、人出は決して少なくない。さすが上野である。
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そんな中、今年も上野を舞台に繰り広げられる東京・春・音楽祭が既に開幕している。その目玉であるワーグナー作品の演奏会形式上演、今年は超大作「ニーベルングの指環」の 4作目にして最終作、楽劇「神々の黄昏」である。2014年から毎年 1作ずつ、足掛け 4年でこの 4部作のすべてを実演で耳にすることができたが、その成果は世界に問うことのできるレヴェルであり、改めて東京の音楽水準の高さを思い知る。最大の貢献者は、NHK 交響楽団 (通称「N 響」) を指揮したポーランド生まれのドイツ人指揮者、マレク・ヤノフスキであろう。1939年生まれであるから、現在 78歳。既に押しも押されぬ巨匠であると言ってよい。
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このシリーズ、昨年の「ジークフリート」の記事で、ヤノフスキの「指環」との関わりについて少し触れたが、レコーディング・デビューが名門シュターツカペレ・ドレスデンを指揮したこの超大作であったという衝撃ぶりであったものの、それからのヤノフスキの活動は、決して常に世界最前線の華やかなものであったとは言い難い。だが、ひとりの芸術家が生涯を掛けて世界を飛び回って音楽を追及して来た、その確かな足跡に思いを馳せるには、実際の演奏会に足を運ぶにしくはない。芸術家にはそれぞれ、活動期間に応じた環境の変化や自身の芸風の変化がついて回り、どの時点でその芸術家と巡り合うかという点も、聴衆にとっては予測できないもの。特に演奏芸術の場合は、その巡り合わせは大きな要素であると思うが、その意味で、この 4部作の実演を今のヤノフスキの指揮で聴くことのできた我々は、その幸運を感謝しなくてはならない。今回の会場には、シリーズ完結を記念したポスターが貼られており、同じ柄の A3 ポスターも売っていたので購入した。
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尚、このポスターの後ろには、今年の東京・春・音楽祭の一環として開かれる様々なコンサートのポスターが飾られている。世界で知られた有名演奏家たちが綺羅星のごとく並んでいるということでは必ずしもないが、だがしかし、音楽との接し方において、そのような点はさほど重要ではない。鳴っている音楽に虚心坦懐に耳を傾けることこそが、音楽の醍醐味であるはず。これらのポスターをひとつひとつ見て行くと、そのプログラムの妙から、演奏家たちの熱意までを感じることができ、そのいずれの演奏会にも足を運ぶことのない自分の怠慢を責めたくなるような思いに駆られるのである。その思いに耐えて (?)、ワーグナーの世界に入って行こう。
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まず、作品について少し語ってみたい。ステージ上で奏でられて耳にストレートに入ってくる上質の音楽を耳にしながら改めて気付いたことがある。ワーグナーが楽劇スタイルを確立して後のオペラ 7作品は、そのほとんどが正味演奏時間 4時間を超える大作ばかりだが、この「神々の黄昏」は不思議なことに、演奏時間の長さをさほど感じさせない作品なのである。例えば、この「指環」4部作中、恐らく最も人気の高い「ワルキューレ」でも、第 2幕のヴォータンとブリュンヒルデの二重唱や、終幕のヴォータンのモノローグなど、上演に接するたびに「長いよ!!」と言いたくなるのを抑えることができないし、刺激的な音楽が凝縮しているはずの「トリスタンとイゾルデ」でも、第 2幕で主役 2人が延々と歌い続ける箇所で、あくびをしないことは稀なのである (笑)。そんな私でも今回、この「神々の黄昏」を長いと思うことはなかった。15時開演で、30分×2回という短い (!!) 休憩時間のせいもあって、演奏終了は 20時10分。上演時間はほんの 5時間10分である・・・って、やっぱり普通に考えれば長いのであるが、その長さを感じさせない演奏であったのだ。ひとつには、作品自体において緩慢な箇所が少ないと言えるだろう。ワーグナーの作品で長くなりがちな二重唱としては、このオペラでも、序幕のジークフリートとブリュンヒルデ、第 1幕のヴェルトラウテとブリュンヒルデ、第 2幕のアルベリヒとハーゲン、等々あるが、いずれもストーリーを進めるために必要な長さ以上ではない。大詰めのブリュンヒルデのモノローグも適度な長さで、その意味では無駄のない作りと言えようし、またなんと言っても、「ジークフリートのラインの旅」「ジークフリートの葬送行進曲」「終曲」と言った、オーケストラの威力満開の曲もいくつかあり、また、「指環」4部作で唯一、合唱が入る作品でもある。ワーグナーは自作の脚本をすべて自分で書いた人だが、この「神々の黄昏」は、実は 4部作で最初にその台本の原型が書かれている。ということは、ワーグナーの芸術は、発展するとともに、ストーリーテリングの観点からは、どんどん肥大して行ったということだろうか。

そのような作品を、舞台上演ではなく、演奏会形式で聴く意味は大きい。ピットではなく舞台に並んだオーケストラが出す多彩な音を充分楽しむことができるし、音楽の構造も分かりやすく感じることができる。ヤノフスキはドイツ物をレパートリーの中心には置いているものの、決して、昔風の鈍重なワーグナーを奏でるのではなく、きめ細かくしなやかで、透明感もあり切れ味も鋭い音楽を鳴らす。これは大変な聴きものなのであるが、その指揮に応えているのが N 響であるというのが嬉しいではないか。かつて、サヴァリッシュやシュタイン、あるいはマタチッチといったワーグナーの大家のもとで演奏して来た楽団が、今また新たな成果をヤノフスキとともに達成する場に立ち会えることは、この上ない喜びだ。しかも、そこでコンサートマスターを務めるのは、先般ウィーン・フィルを定年退職したライナー・キュッヒル。いつもながら、全体を統率しながらも、彼自身のヴァイオリンだけが際立って艶やかに聴こえる瞬間が何度もあり、ここでもオーケストラ芸術の粋を堪能することができたのである。これは 2015年の「ワルキューレ」終演時の写真。
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ただ、今回会場で知ったショッキングなニュースがあったのだ。あろうことか、主役の 2人、ブリュンヒルデとジークフリート役の歌手が、揃って本番間近でキャンセルしてしまったのである!! ブリュンヒルデとして予定されていたクリスティアーネ・リボールはともかく、ジークフリート役のロバート・ディーン・スミスは、世界的な名声を誇るヘルデン・テノールであり、このシリーズでも、2015年の「ワルキューレ」でジークムントを歌っている、いわば上演の目玉歌手。そのキャンセルは痛い。主催者側の発表によるとこの 2人とも、既に来日してリハーサルに参加していたが、急な体調不良で舞台に立てなくなった由。だが、オペラとはいえショービジネス。The show must go on! 主催者はなんとしても代役を探さなくてはならない。そして本番 3日前、3/29 (水) に日本に到着したばかりの 2人の代役歌手たちが、その窮地を救った。ブリュンヒルデ役はレベッカ・ティーム。ジークフリート役はアーノルド・ベイズエン。
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会場で配布されていたプログラムにおいては、通常、歌手の紹介は写真なし、経歴 3行程度なのだが、この 2人はこのように、冊子に挿入された一枚ものの紙に、写真入りで非常に詳しい経歴が紹介されている。このあたりにも主催者の誠意が見えて好ましい。2人とも国際的に活躍している歌手のようである。
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とはいえ、あの超大作「神々の黄昏」の主要な役を、欧米から遥か離れた極東の地にまでやって来て、充分な準備時間もなしに、演奏会形式とはいえ全曲歌うということは、それだけで至難の業。急な代役でそんなことができる歌手が、世界に果たして何人いるだろうか。実際この日の歌唱で、この 2人の歌手は明暗を分けた。ブリュンヒルデのレベッカ・ティームは、細かい箇所で完璧でないことも何度かあったものの、技術を補うその強い声によって聴衆を圧倒した。その一方、ジークフリートのアーノルド・ズベイエンは、残念ながら、声量・音程・表現力とも課題ありで、何より、この役に必要な快活さ (それがないと悲劇が引き立たない) を聴くことができなかった。聴きながら私は、「同じ『指環』におけるテノールでも、この声なら、ジークフリートではなくてミーメとかローゲの方が合っているのでは?」と思っていたのだが、帰宅して調べると、なんとなんと、この東京・春・音楽祭では、2014年の「ラインの黄金」で、そのローゲ役を歌っていたのだ!! 舞台で「神々の黄昏」のジークフリートを歌った経験もあるようだが、役柄としては彼に適したものではないということだろうか。だが、上述の通り、突然の代役ではるばる日本まで飛んで来て、到着 3日後にこれやれと言われても、普通はできません!! 全曲歌いだけでも立派なもの。多くの聴衆も同じように感じたのだろう、カーテンコール時には、ブラヴォーも出なかったが、ブーを言う人もいなかった。日本のファンは思いやりがあるのである。

歌手陣の中で最も印象に残ったのは、ハーゲン役のアイン・アンガーであった。このブログでも、昨年 9月のパーヴォ・ヤルヴィ指揮 N 響のマーラー 8番、11月のウィーン国立歌劇場来日公演「ワルキューレ」のフンディング役、同じく 11月のティーレマン指揮シュターツカペレ・ドレスデン来日公演「ラインの黄金」のファフナーをご紹介した。エストニア人の素晴らしい歌手。
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また、今回グンターを歌ったマルクス・アイヒェ、アルベリヒのトマス・コニエチュニー (2014年のこのシリーズでの「ラインの黄金」でも同じ役を歌っており、また昨年のウィーンの来日公演の「ワルキューレ」ではヴォータンを歌っていた) 等、国際的キャストは大変に充実。また脇役では日本人歌手も健闘していて、ここでは、3人のノルンと、それからやはり 3人のラインの乙女が全員日本人。実はこのそれぞれの 3人組のうち 2人までは同じ歌手が演じたが、ノルンの 1人、ラインの乙女の 1人は、その役だけで出演。そのうち、ラインの乙女の 1人は、おっとびっくりの小川里美だ。日本を代表するソプラノのひとりで、イタリア・オペラのイメージが強い人だが、ここではアンサンブルながら完璧な歌唱を聴かせていた。帰宅して調べたところ、2014年の「ラインの黄金」でもやはり同じ役を歌っていた (3人の乙女は彼女以外の 2人も併せて全員、その時と今回で同じ歌手)。
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そのように大変充実した内容が、今回のツィクルスの掉尾を飾ることとなった。ヤノフスキは昨年からバイロイトでこの指環を指揮しているはずであり、いよいよワーグナー指揮者としての頂点を極めようとしている。その彼の日本における業績はこれでひとつの区切りであるが、是非是非これからも様々な作品を指揮して欲しい。今年11月には N 響定期に登場して、ベートーヴェンの「英雄」をメインとしたプログラムを指揮する。これから N 響とさらに近い関係を築いて欲しいものだと思っている。最後に、プログラムに掲載されているヤノフスキのインタビューから一部を引用したい。

QUOTE
ちょうど 3年前、東京での『リング』が始まる少し前に東京・春・音楽祭からインタビューを受けました。そのときに私は、「資本主義の国々は多くの問題を抱えており、その形態を変える試みが今、早急になされるべきだ。その際、エコロジーの問題と経済的な問題とが調和しなければならない」と答えました。当時はまだイギリスの EU 離脱や、今のアメリカの大統領を想像していませんでした。欧米の多くの国々が自国中心の考えに傾いており、それがいいことだとは決して思いません。世界における貧富の極端な格差を縮めることは、この時代ますます難しくなってきています。『神々の黄昏』の最後でワーグナーは未来への希望を託しましたが、彼がもし生きていたら、このような表現をするかどうか、私にはわかりません。
UNQUOTE

芸術とは、時を超えるものでありながらも同時に、その時代を映すもの。この時代、我々が芸術から学ぶものは限りなく多いと思う。音楽を聴いているだけで世界が変わるわけでは決してないが、古い音楽から目の前の現実へのヒントをもらうことはあるはず。過度に教養的になるのもよくないと思うものの、やはり、活きた音楽から現代社会や自らの人生へのなんらかの示唆を得たいものであります。

by yokohama7474 | 2017-04-02 01:42 | 音楽 (Live) | Comments(11)
Commented by 吉村 at 2017-04-02 21:58 x
4日の公演を聴いてきます。主役の交代、ショックですが、ジークフリートの調子が上がっている事を祈念します。
Commented by yokohama7474 at 2017-04-02 23:40
> 吉村さん
そうですね。また感想をお聞かせ下さい。
Commented by dd907 at 2017-04-04 16:09
2日前に開設したばかりです。ワーグナーが好きなのでためになりました
Commented by 吉村 at 2017-04-04 17:18 x
ブリュンヒルデ、本来のキャストの人、良いですね。ジークフリートは代役の人は声量不足ですね。ヴァルトラウテは最高でした。
あと、平日なのに、大盛況です。何という数のワグネリアン達でしょう!
Commented by yokohama7474 at 2017-04-04 22:58
> dd907さん
コメント及びイイネ、ありがとうございます!! ブログを拝見しましたが、ご自身で切り絵を描いておられるのですね。根気の要る作業でしょうから、創作活動の合間に、音楽で息抜きされるのもよろしいかと思います。このブログは、音楽だけでなく、広くかつ脈絡なく (笑)、文化の諸相に迫ろうとしておりますので、よろしければまたお立ち寄り下さい。
Commented by yokohama7474 at 2017-04-04 23:02
> 吉村さん
そうでしたか、ブリュンヒルデは本来予定されていた歌手が体調を回復したのですね。このブログでも、ワーグナー関連の記事のアクセスが大変多くて、いつも驚いています。そういうわけででしょうか、9月の東京でのバイエルンの「タンホイザー」は、すべて平日の 15時開演ですね (笑)。それでチケットが売れてしまうのでしょうから、全く困った・・・いや、喜ばしいことです。
Commented by dd907 at 2017-04-04 23:32
お返事ありがとうございました。吉祥寺生まれで、立川や八王子にも住んでいましたが現在札幌在住です。上野の桜が懐かしいです。母が「沈黙」を読んでから、ずっと遠藤周作を読んでいまして、映画「サイレンス」の感想を聞かされましたが本を読んだ最初のインパクトが強く、本の方が良かったと言っていました。これは人それぞれですよね。
Commented by yokohama7474 at 2017-04-05 01:37
> dd907さん
なるほど。確かに、読書は人間の想像力をフルに刺激するので、大概、映画とその原作本では、原作本の方が面白いですよね。もちろん映画には映画の面白さがあり、両方楽しめればそれに越したことはないと思います。
Commented by dd907 at 2017-04-05 12:15
yokohamaさんの記事は幅広く興味深いです。度々失礼させて頂きますが、昨日アサシンクリードの記事を読み、テンプル騎士団や陰謀論の本も読んでらっしゃるとのことで嬉しい限りです。ダ・ヴィンチコードから入りテンプル関連本や攻略本、マグダラとヨハネ派、フリーメイソン等興味が尽きません。昨年末、飯森さんの「リング」を聴きに行き大編成のワルキューレを堪能しました。

Commented by yokohama7474 at 2017-04-05 23:44
> dd907さん
ワーグナーも陰謀論も、とことん楽しみたいものですね。今後ともよろしくお願いします。
Commented by dd907 at 2017-04-05 23:51
こちらこそよろしくお願いします。
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