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パロディ、二重の声 日本の一九七〇年代前後左右 東京ステーションギャラリー

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私は昭和 40年 (1965年) 生まれなので、日本の高度成長期の末期に少しかかる世代であり、たまたま幼少期に住んでいたのが大阪の北部であったため、幸いなことに、大阪万博には何度か足を運ぶことができた。当時弱冠 5歳ながら、その記憶は極めて鮮烈で、万博こそが自らの社会との関わりの原点であると認識している人間である。そんな私にとって、1970年代の日本のパロディ文化を扱ったこの展覧会は、実に興味深いもの。まず、展覧会に出向く前に、上記ポスターと同じ表紙をあしらった、雑誌「東京人」の特集号を読んで行った。特集名は、「これはパロディではない」・・・むむむ、なんと逆説的な。
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この「東京人」の特集では、横尾忠則 (1936 - ) のインタビューと赤瀬川原平 (1937 - 2014) についての記事が中心的であるが、この展覧会に実際に足を運んでみると、やはりこの 2人の活動紹介が、かなり重要な部分を占めている。会場では一部の作品を除いて写真撮影可能であるが、例によって私は携帯もすべてロッカーに預けてしまい、会場で写真を撮ることはできなかったので、いつものように図録から撮影した写真を中心に、この展覧会を振り返ってみたい。

まず 21世紀も 1/5 近く経過した現在の視点から、1970年代をいかに位置づけられるかを考えてみよう。テレビはあったが (白黒からカラーに移行)、携帯も WiFi も LINE も YouTube もなく、冷戦は未だ厳然として世界の規範を成しており、オイルショックが起こり、公害の被害が深刻であった時代。昭和も半ばを過ぎ、日本は高度経済成長から安定成長に移行。人々はそれぞれに充実感を味わいながら、未来を信じて頑張って生きていた頃 (もちろん個人差は多々あれども) と言えるのではないか。それゆえに、アートの面においても、社会への深刻な抵抗よりも、多かれ少なかれ遊び心をもった行動がメインになったのであろう。サブカルチャーという言葉が当時あったか否か分からないが、流行を追う若者たちは時として、社会の中で支配的な発想から外れ、奇抜なものを面白いと思う感性を持ったわけで、その感性を反映したのが、様々なパロディの登場であったと言えるだろう。この展覧会は、今で言えばサブカルチャーとまとめることができるようなアートやメディアの活動による時代の諸相を、数多くの作品や資料によって立体的に浮き彫りにしている。最初の方には 1960年代の作品が並んでいるが、これはどうだろう。
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Hi-Red Center による「第 5次ミキサー計画」のポスター (1963年、未完) である。ハイレッドセンターとは、高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之の 3人による、ハプニング系の活動を行うグループで、その名称は 3人の苗字の最初の一文字を英語に置き換えたものである。私はそれぞれのアーティストに思い入れがあるので、この 3人が元気に街中で暴れていた (?) 時代を目撃したかったなぁと強く思うのであるが、だがそれは叶わぬこと。せめてこのような、時代の雰囲気をたたえた遺品に、当時の活気を偲ぶのみである。ちなみにこのポスターでは、高松の紐、赤瀬川の紙幣、中西の洗濯バサミがトレードマークとして使われているが、中でも赤瀬川の紙幣、これは有名な千円札裁判 (1963 - 70年) から明らかなように、社会が価値があると信じているものへの抵抗、あるいは揶揄といった姿勢を示している。これぞまさにパロディ精神!! 千円札裁判とは、赤瀬川が千円札をモチーフに作品を発表したところ、それが有価証券偽造の罪に問われたという事件。冗談のような大真面目な事件で、昭和のアート史では有名だ。以下の作品、「大日本零円札」(1967年) はその裁判の過程で制作されている。千円札を使うと問題あるなら、零円札なら実在しないものだから描いてもよいだろうという、この開き直りはすごい。国家権力にしてみれば、いかにも可愛くない態度としか言いようがない。
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赤瀬川のこの反骨精神にはお手本がある。それはジャーナリストの宮武外骨 (1867 - 1955) だ。「滑稽新聞」等で国家権力を批判したため、度々投獄されている。赤瀬川はあるとき古書店でこの宮武の出版物を見つけて以来、彼に心酔するようになったという。1971年にはこのような宮武の写真を使った作品、「宮武外骨肖像と馬オジサンと泰平小僧」を制作している。
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吉村益信 (ますのぶ、1932 - 2011) は、60年代の日本のネオ・ダダ運動の提唱者であるが、赤瀬川に、自らが進学していた武蔵野美術大学を勧めたのは彼であったらしい。今回調べていて初めて知ったことには、この吉村のアトリエこそ、私が 2015年 7月21日の記事で写真をご紹介した、磯崎新設計の「新宿ホワイトハウス」なのだ!! 日本のアートが元気な頃へのノスタルジーを覚える。この展覧会には、その吉村の代表作「豚 ; Pig Lib」(1994年作と、制作年はちょっと反則? だが) が展示されている。意味をあれこれ考える前に、このシュールな雰囲気を楽しみたい。
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それから、やはりネオダダの中心人物のひとりであった篠原有司男 (うしお) の作品を経て、横尾忠則のコーナーがある。冒頭に掲げた白黒のポスターは彼の 1964年の作品で、「TOP で POP を!」と題されている。もちろん、ここでパロディのネタにされているのは、名デザイナーであり師でもあった亀倉雄策のこのポスター。
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もちろん、1964年の東京オリンピックのポスターであるが、横尾はランナーたちを、手前からピカソ、ルオー、ビュフェ、リキテンスタイン、スーラの画風で描いた。トップを切るのはポップアートを代表するリキテンシュタインの画風のランナーである。芸術におけるオリジナリティ信奉を皮肉ったものらしい。いかにも横尾らしい作品である。また、やはり横尾の手による名画のパロディが並んでいるので、ひとつご紹介すると、1967年の「アンリ・ルソー 『眠るジプシー』より」。
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ルソーの原画はこちら。つまり横尾は、砂漠のライオンがジプシー女を食べてしまったという設定に変えているのである。
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これは、鈴木慶則 (よしのり、1936 - 2010) の「非在のタブロー (マグリットによる)」(1967年)。
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シュールを代表する有名なマグリットの「大いなる戦い」という作品を半分描いて、残りの半分はキャンバスの裏側になっている。実はこのキャンバスの裏側も、画家が描いたもの。いかに神秘的なマグリットの作品も、絵画である以上は物質なのだというアンチテーゼなのであろうか。次は、漫画家でありイラストレーターであった立石紘一 (1941 - 98) の、「大農村」という 1966年の作品。
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上部の肖像画が毛沢東であり、どうやら核兵器を題材にした内容であることは誰でも分かるが、下の方にいるサングラスの男は誰だろう。タモリのようにも見えるが、制昨年を考えるとそれはあり得ない。実はこれ、以下の米国の雑誌の表紙のパロディなのである。
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その名も「MAD」という雑誌。1952年発刊で、今でも継続しているらしいが、死や性など、通常はタブーとされるネタを扱うブラックな露悪的雑誌とのこと。進駐軍払下げのこの雑誌が神田で売られているのを、この立石や、あとで登場するマッド・アマノが購入して影響を受けたらしい (因みにマッド・アマノのマッドは、この雑誌に因む名前であるとのこと)。尚、上に掲げた号は 1961年 1月号で、右にニクソン、左にケネディの顔が (こちらは逆さまで) 描かれている。調べてみると、民主党候補ケネディ vs 民主党候補ニクソンが争ったのは 1960年の大統領選。この選挙については Wiki もあって大変興味深い。もちろんケネディが勝つのだが、極めて僅差、しかも、今では歴史家の間で、マフィア絡みの選挙違反がケネディの勝利を助けたとされているらしい。このブラックな雑誌では、この選挙をどのように扱っていたのだろうか。この装丁はすなわち、投票・開票前に雑誌が出版され、勝った方を表紙にして読んでねということなのかも。

これは岡本信治郎 (1933 - ) の「星月夜」(1969年)。もちろんゴッホの名作のパロディである。
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あのゴッホの深くて重苦しい精神世界を、かるーく変貌させていて、可笑しい。もちろんゴッホは素晴らしいが、このような作品によって一度距離を置くことで、より一層ゴッホの偉大さが分かるというものではないか。

さて、実はこの展覧会、1970年代をテーマとしながら、上で見て来たのは、ほとんど 1960年代の作品ばかり。時代には流れというものがあるので、それを辿ることにこそ意味がある。教条的に 1970年代に固執しない点、一見識であると思う。そして次は、1970年の作、木村恒久 (1928 - 2008) の代表的なフォトモンタージュ、「焦土作戦」である。降り注ぐコカコーラの瓶は、戦後日本の急速なアメリカ化を揶揄しているのであろうか。
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同じ木村の、これは「都市はさわやかな朝をむかえる」(1975年)。ニューヨークとナイアガラの滝のミックスは、一度見たら忘れない。私も、多分中学生の頃にこの作品を見て、ずっと頭の中に残像が残っている口だ。パロディの無条件の楽しさを感じる。
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展覧会には増殖するメディアのパロディについての展示が数多くあり、ビックリハウスなど、様々な雑誌が並んでいる。ありましたありました、この雑誌。
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だが、特筆すべき面白さを感じたのはこれだ。
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これは、ぷろだくしょん我 S という前衛アーティスト集団による、「週刊週刊誌」という雑誌。1971年 5月12日号から 10月20日号まで、名古屋で実際に販売された。実はこれ、表紙以外すべて白紙の週刊誌なのである!! こんな宣伝がされたという。
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これはいわばハプニングと呼ばれる芸術行為の一例と言え、実に人を食った行為であるが (笑)、口コミで後半は毎号数百部の売り上げがあったという。・・・うーん、私なら買わないけどなぁ。遊び心を持った人たちが、当時の名古屋には多かったということか。

会場にはまた、様々なパロディ漫画の類もあって面白い。恥ずかしながら私は知らなかったのだが、長谷 (ながたに) 邦夫 (1937 - ) という漫画家は、このパロディ漫画の大家であったようだ。この 1969年の「ゲゲゲの星」は、その名の通り、ゲゲゲの鬼太郎と巨人の星の ミックス。驚くべし、双方の超人気マンガの同時代パロディなのである (笑)。子供の頃に読んだ漫画雑誌のページの端にはよく、「○○先生にお便りを出そう!」などと書いてあったが、このマンガの場合、「長谷邦夫先生をけなすお便りをだしてやろう!! あて先は東京都新宿区・・・」と、実際のプロダクションの住所が書いてある。すごい時代である。
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そして、こちらの方は私の守備範囲内なのだが、1968年に発表された、つげ義春の伝説的代表作「ねじ式」(いわゆる芸術漫画というのだろか、内容はかなり退廃的かつ夢幻的) のパロディ。まずは同じ長谷邦夫による「バカ式」。おなじみのバカボンのパパが出て来るが、この長谷は、赤塚不二夫のブレインであったらしい。このバカさ加減、実に楽しい。もう長らく私の書庫に収まっている、ハードカバーの筑摩書房版つげ義春全集全 8巻を引っ張り出してきて、オリジナルの「ねじ式」から、パロディのもととなった場面の写真を撮影したので、比較されたい。
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この「ねじ式」は短い漫画なので、パロディにしやすいのだろう。赤瀬川原平によるパロディ、「おざ式」(1973年) も展示されているので、その中のワンシーンと、そのオリジナルを掲載しておく。
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ここで口直しに (笑)、著名なイラストレーター、久里洋二 (1928 - ) による「ピカソ模写」(1980年) をご紹介しよう。ピカソの青の時代の代表作、「自画像」を、青ではなく赤で彩ったもの。さすがのセンスであると思う。
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次に、記憶にある懐かしいポスターを発見。いずれも 1976年の営団地下鉄のポスターで、「帰らざる傘」と「独占者」。説明不要の映画スターの肖像を使った (そうでなければ成り立たない)、大変よくできたもの。デザインしたのは河北秀也 (1947 - )。
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最後に、赤瀬川の千円札裁判とはまた異なる点で、パロディの本質を考えさせられる裁判になった有名な例をご紹介する。上で一度名前の出て来たグラフィックデザイナー、マッド・アマノ (1939 - ) によるこの作品。「週刊現代」に掲載され、1970年に「SOS」という単行本に掲載された。
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ところがこれは、著名な山岳写真家、白川義員 (よしかず、1935 - ) が撮影した写真がもとになっている。米国保険会社 AIU の 1970年のカレンダーに掲載された写真がこれだ。確かに、アマノ作品がこれに手を加えたものであることは、比べてみれば明白だ。裁判になったのも理解できる。
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この裁判は「パロディ裁判」と呼ばれ、足掛け 16年に及んだが、アマノ側の敗訴に終わったらしい。表現の自由とは何かという点において、考えるべき点が多々ある事例となったのである。

このように、1970年代の前後左右のパロディ文化を振り返ってみると、様々な文化の様相を見ることができる。人生において笑いは欠かせない要素。ここで展示された数々の作品や作家の姿勢から、そのことを学ぶことができるだろう。アートやサブカルチャーは時代を映す鏡でありながら、時を経た今となっても、あれこれ考えさせる要素があるのは、笑い自体の不変の価値によるものであろうと考える。そうしてこの展覧会は、私としても、人生の途次を折々に彩るべきギャグのセンスを磨かねば、と再認識する (?) よい機会となったのである。

by yokohama7474 | 2017-04-04 00:00 | 美術・旅行