勅使川原三郎 佐東利穂子 トリスタンとイゾルデ 2017年 4月30日 シアターχ

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このブログにしては珍しく、2回続けて演劇の記事となった。だがしかし、前回のリヒャルト・シュトラウスと同様、今回も音楽に関係する内容の舞台なのである。このブログで何度か採り上げてきた私の敬愛するダンサー、勅使川原三郎の公演。題材として採り上げられるのは、あのワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」だ。

今回の会場は、勅使川原が本拠地とする荻窪のカラス・アパラタスではなく、両国にあるシアターχ (これは「エックス」でなくギリシャ文字で、「カイ」と発音する) である。ここは有名な寺である回向院に隣接し、かつて初代の国技館のあった場所に立っているビルの 1階にある。最大客席数 300だが、席の配置によって 100席程度にもなるらしい。勅使川原のダンスのように、大劇場ではなく小劇場で接する方がよりよく楽しめるパフォーマンスには最適のサイズであろう。私は随分以前にこの劇場には何度か来ていて、それは、学生時代の素人演劇の仲間が、ここで何度か芝居を打ったことがあるからだ。そのような素人劇団が使うのと同じ劇場を、日本が世界に誇る前衛ダンサーが使うとは、なんとも面白いこと。最近演劇の世界が遠くなってしまっている私にとって、若き日の自分と暗闇の中で出会うのではないかと思われる (?) このような場所に久しぶりに出かけることができて大変嬉しかったし、東京の文化の諸相を考えるには貴重な機会となった。

さて、実は今回の「トリスタンとイゾルデ」は、昨年 5月にカラス・アパラタスで初演されたものの再演。今回は 5回のパフォーマンスが行われたが、私が見たのはその最終回。演じる方も、かなりこなれた段階に至っていたことであろう。狭い劇場ではあるものの、老若男女によってほぼ満席の入りであった。勅使川原は今回も佐東利穂子とデュオでのダンスとなったが、今回の題材である「トリスタンとイゾルデ」はまさに男と女の物語。当然のように勅使川原が演じるのがトリスタン、佐東が演じるのがイゾルデという解釈が自然だと思うが、実際のところ、そのようなことはあまり重要ではなく、響いてくる音楽と、二人の人間が作り出す動きとのコンビネーションをトータルに受け止めるべきではないだろうか。尚ここでの勅使川原の役割は、「構成・振付・照明・美術・衣装・選曲」となっている。要するにすべて彼がひとりで手掛けているのである。
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ここで、上演に向けた勅使川原の言葉を引用する。

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リヒャルト・ワーグナー作曲のオペラ上演は、本来 4時間におよぶ壮大な音楽劇ですが、私たちはダンスとして 1時間にまとめました。巨大な演奏も驚異的な歌唱も常に密やかで繊細です。闇に消え入るようなはかない人間の内側に深く沈んでいる感情が横たわる夜の幕を一枚一枚はがすように描きます。冷たすぎる夜、熱すぎる感情、音楽の背後の深い沈黙、引き裂かれる闇、原作にある不可能な愛、死、人間への郷愁という秘密の刻印を、私は全身に焼き付けられた感覚を否定できません。(中略) 目の前にある「時刻」に我の全てを投げ出す覚悟、それは私たちの「ダンスの時」であり「トリスタンとイゾルデ」が、与えてくれる貴重な「生」であります。「死」が透けて見えるような、真水のような「時」といってよいかもしれません。
UNQUOTE

なるほど、ここで勅使川原はオペラのストーリーを追うことに主眼を置くのではなく、飽くまでもそこに表れた、死への憧れといった人間の不可解な感情と、そこに秘められた闇の世界の強い力をこそ、ダンスという抽象的手法で表現しようとしたのであろう。だから、もしこのオペラの全曲を聴いたことのない人であっても、そのモノトーンの舞台で進行する一連の動きを見ることで、何やら胸がざわついたのではないだろうか。その意味ではこの上演は、「トリスタン」を知らない人をこそ、その夢幻的な魅力へ誘うものと言ってもよいかもしれない。とは言え、原作の流れは尊重されているように見える箇所もあり、特に、2幕の最後で傷つき倒れるトリスタンはそのまま表現されていたし、第 3幕で勅使川原は、着ていたジャケットを畳んで舞台に置いて退場し、入れ替わりに入ってきた佐東はそのジャケットにしがみついて最後は横たわって静かになるという作りになっていて、これも原作のひとつの解釈だと思う。だがこれをもって頽廃的ということはやめよう。まさにそこには、透けて見える死の誘惑の末に見えてくる、生の貴重さが表現されていたように思われる。

音楽は、勅使川原の言う通り、全曲から 1時間程度を抽出したもので、まずは 1幕から前奏曲全曲が流れ、その最後の 2つのピツィカートに重なって、二人が媚薬を飲んだあとの場面に続く。2幕からは、二重唱の最後の方からマルケ王が入ってくるまで、そして幕切れでトリスタンが倒れるシーン。3幕からは、あの荒涼とした前奏曲と牧童の笛、トリスタンの独唱部分が少しと、最後にイソルデによる愛の死。なんだ、こう書いてみると、オペラのストーリーを順番に追ったダイジェスト版にはなっているわけである (笑)。特筆すべきは使用されていた音源で、現代音楽に続く鋭敏な感性とか、線の細い神経質な展開というものではなく、むしろ汚いくらいの音を含んで力強く流れる太い奔流であったのだ。この音源の強い説得力が、ダンサーたちの踊りを大いに助けていたものと思う。前奏曲が鳴り出したときから、それほどひどい音質ではないものの、モノーラル録音であることは明らかで、時折出てくる歌手の歌唱も時代めいていることから、フルトヴェングラーがロンドンで録音した全曲盤を音源として使用しているのではないか、と勝手に解釈した。但し、マルケ王の入ってくる場面ではドタドタという音も聴こえたように思ったので、ライヴ盤かもしれない。もしそうなら、確かフルトヴェングラーの全曲ライヴは残っていないはずなので、クナッパーツブッシュだろうか。まさか 1952年 (まさにフルトヴェングラーがロンドンでスタジオ録音した年) のカラヤンによるバイロイト・ライヴということはなさそうに思うのだが・・・。ともあれ、素晴らしい演奏でした。
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改めて思うことには、ダンスが表現できるものには様々なものがあれど、このような音楽史上に残る名曲とがっぷり四つに組むことで、見る者がその曲の本質をよりよく知ることや、さらには、これまで気づかなかった曲の特徴にも気づくことがあるということだ。だがそのことは、ダンスが音楽を聴くためのヒントになるということではなく、飽くまでダンスとしての表現に、豊かな文化的文脈があるということなのであろう。その意味では、さらに抽象的な世界で先入観なく楽しめるオリジナル・ダンス作品も見てみたい。・・・そして、私は知っている。勅使川原と佐東は、この「トリスタン」公演のあと、休む間もなく次の公演に入ることを。それは「硝子の月」という新作で、GW 後半、5/5 (金) からの上演である。これがその公演のポスター。もしこのブログをご覧の方で、未だ勅使川原のダンスを見たことのない人がおられれば、これをご覧になることをお薦めします。
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さて、生と死を巡る物語によるダンス公演終了後、隣の回向院を散策した。江戸時代から、様々な生と死を見てきた寺院である。あの芥川龍之介もこのあたりで生まれ、この寺の境内で遊んでいたはずだ。
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ここには鼠小僧次郎吉の墓があるのが有名だが、実はこんなものも。
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先般の四天王寺についての記事で、天王寺界隈にある初代竹本義太夫 (1651 - 1714) の生誕地の石碑をご紹介したが、その後数日を経て、今度はその墓に遭遇するとは、奇遇である。これは何か芸事でも習えという神の啓示か? そういうことなら、今度ウクレレの練習でも始めようかしらんと思ったのだが、あとで調べてみると、上方の人、竹本義太夫の本物の墓はやはり大阪の天王寺界隈にあるそうで、これは大正時代に入って東京のファンが建てた記念碑のようなものであるらしい。それから、西日を受けて神々しく輝く、このような犬猫の供養塔もある。「トリスタン」鑑賞によって昂った思いの中、これを見て「死が透けてみえるような真水の時」に思いを馳せると、生きとし生けるものたちへの限りない哀惜の念を感じるのである。
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ふと見るとその近くに、そのような私の溢れる思いを知る由もなく、呑気に寝ている猫一匹。うーむ。とても「死が透けて見えるような真水の時」などということを考えているようには見えないが (笑)、実際コイツも、与えられた真水の時を享受しているわけであり、その平和な風景に、私の心は和んだのである。
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by yokohama7474 | 2017-05-03 01:22 | 演劇 | Comments(0)