千葉県 市川市 その 1 市川市文学ミュージアム、永井荷風旧居、白幡天神社、葛飾八幡宮、不知八幡森

恒例の、東京近郊、安・近・短の文化の旅シリーズである。今回採り上げるのは、千葉県市川市。東京の東側、江戸川を渡ったすぐに位置する街で、これはもう、ほとんど東京と言ってよい。異論のある方、ここはひとつ穏便に。そもそも、葛飾という地名があるが、それはどこを指すのであろうか。その質問にはもちろん、今の葛飾区、つまり東京都 23区内だろうと答えたくなる。だがしかし、東葛飾高校(トウカツ)という学校があるが、あれは千葉県の学校なのであって、東京都ではなく、どうも様子がおかしい。そこで調べてみると、葛飾という地名は、なんと奈良時代の正倉院文書にも登場する非常に古いもので、江戸時代に下総国の一部であった葛飾郡とは、現在の東京・千葉・茨城・埼玉にまたがる地域であったらしい。つまり、現在の感覚で東京だ千葉だというのがそもそもおかしいのであって、歴史を振り返ってみるときには、今の都道府県にとらわれてはいけないのである。実際に調べてみて分かったことには、現在の市川市には大変古い歴史があるのだ。ここでご紹介できるのはそのほんの一部だが、これまで市川市の歴史的真価をご存じなかった方には有意義な情報であろうと信じるので、是非お読み頂きたい。

そもそも私が以前から市川の歴史的な場所を歩きたいと思っていたには理由がある。それは、文豪永井荷風 (1879 - 1959) の終焉の地であるということだ。今年の 1月 8日の記事で、「荷風晩年と市川」という本をご紹介したが、実はそのときに私は、いつの日か市川方面を探訪して記事を書くと宣言した (http://culturemk.exblog.jp/25136000/)。今回の記事はその宣言に基づくものである。もっとも、この記事はこのブログの記事として最も不人気なもののひとつで (笑)、アクセス数が非常に少ない。大変に残念である。ワーグナー関係の記事とかユジャ・ワンのコンサートの記事にはひっきりなしにアクセスがあるので、いずれこれらの記事の題名だけ残して、中身は「荷風晩年と市川」にすり替えてやろうかしらん、などと考えている今日この頃 (もちろん冗談です)。

そんなわけで、GW の一日、安・近・短の旅である。最初に向かうことにしたのは、市川市文学ミュージアム。車で市川インターを下りて国道 14号線に向かう途中、右手にコルトン・プラザが見えるが、そのすぐ横、市川市生涯学習センターの中にある。このような、なかなかにしゃれた立派な建物である。
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あちこちで文化探訪の旅を続けてきている私には、経験則から来るひとつの思惑があった。今回市川では、荷風の旧居や彼のゆかりの地をまずは訪ねたいと思ったのだが、いかんせん整備された観光地ではないので、充分な情報がない。調べてみると大変詳しい記事を書いておられるブログなどもあり、それなりにイメージを持つことはできたものの、やはり情報量に限界はある。その点、その地に足を運べば、地元で発行している地図などあるに違いないと思ったのである。案の定、そこには「いちかわ 時の記憶」とか「昭和の市川に暮らした作家」などの発行物が販売されていて、街歩きには大変参考になったのである。
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この市川市文学ミュージアムには、荷風のみならず、市川ゆかりの文学者たちの遺品や原稿の数々が展示されている。展示スペースはごく限られたものであり、展示品は撮影禁止なので写真は掲載できないが、地元の誇りが感じられるこのような場所を、私は大好きなのである。因みに、作家としては荷風以外には、幸田露伴・文親子、井上ひさし、安岡章太郎、中野孝次、五木寛之、そして脚本家の水木洋子などがここ市川に暮らしたことがあるようだ。それから、NHK の朝ドラ「梅ちゃん先生」のオープニングで有名になった山本高樹による、荷風の家やその近所を再現した情緒あふれるジオラマが 2つ展示してあったが、残念ながらそれも撮影禁止。正直なところ、このジオラマの撮影を許可して頂ければ、もっと宣伝することができると思うのだが。仕方ないので、同じ山本によるジオラマを表紙にあしらったこのような雑誌の写真を掲げておく。
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さて、いよいよ事前に当たりをつけておいた荷風関連の場所の探訪である。当然最初に訪れたのは、京成八幡駅近くの「大黒家」。晩年の荷風が毎日ここでカツ丼を食べていたとは有名な話。
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だが、私が訪れたこの日は休業中。事情はよく分からないが、何かトラブルがあったようで、食べログも掲載留保になっている。早く再開してほしいものだと思う。
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ランチとしてこのカツ丼をあてにしていたのだが、やむなく近辺で、これも悪くない食事を取り、早速その近くにある荷風終焉の家を探すことにした。ネットで調べるといろいろ詳しい情報が出てくるが、観光地ではなく未だに人の住んでいる家なので、ここでは場所について明記することは避ける。大黒家からすぐ近くである。この塀は昔の写真で見るものと同じである。決して豪邸ではなく、晩年の質素な暮らしぶりが伺える。この場所から戦後の世の中を見ていた、あるいはそこから回避していた荷風に、思いを馳せる。
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それから歩き出した道は、その名も「荷風ノ散歩道」と名付けられている。先に訪れた文学ミュージアムでもらった地図を片手に、荷風が散歩したという道を歩く。荷風が通った歯医者や文房具屋などが今も営業を続けている。
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ネット情報や本の事前の情報に従い、荷風が通っていたという銭湯、菅野湯 (「すがの」とはこの地の名前) を探してみる。数年前のネット情報や、本のこの記事には、「今も健在」とある。
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ところが、東菅野 1-4 という番地と地図を頼りに探してみたのだが、そこには銭湯は既にない。もしかすると、このような駐車場あたりがその跡地になるのだろうか。
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気を取り直してまた歩き出し、辿り着いたのは、これはなくなるわけがない (笑)、白幡天神社。荷風はよくここの境内に佇んでいたという。源頼朝が 1180年、以仁王による令旨に応じて挙兵したが敗走し、安房の国で再起を期したが、その際この地で白い旗を揚げたのが、社名のいわれとも言われている。
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この神社には、この地にゆかりの 2人の文学者、つまり幸田露伴と永井荷風の石碑が立っている。
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ここで幸田露伴の名前が出たが、実はこの偉大な文学者はこの近隣で終焉を迎えている。1947年のその葬式は、荷風もこっそり見に出かけたらしい。きっと直接の交友関係はなかったのであろう。私は今回、地図とにらめっこしてその露伴終焉の家の場所を特定しようとしたが、今となっては既に跡形もない。露伴の家と言えば、「蝸牛庵(かぎゅうあん)」と名付けたものが、愛知県の明治村にあると記憶するが、調べてみるとそれは随分古い時代 (1897年から約 10年) のもの。だが露伴は転居しても自分の家のことを蝸牛 (カタツムリのこと) 庵と名付けたらしいので、この市川の終焉の家も同じ名前であったのだろう。また、その少し東側に一時期荷風の住んだ家があったらしい (終焉の家に移るまで。因みに荷風は市川で 4軒の家に移り住んだ)。こちらも、石碑も何もなく、場所の特定は不可能。ただ住所でこのあたりかと思って撮ったのがこの写真。細い道が微妙に曲がっているあたり、一筋縄では行かない荷風の好みを反映しているように思う。
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さて、それからやはり荷風がよく散歩したという葛飾八幡宮に向かおうとして、地図を片手に歩いていると、面白い場所を発見。あの切り絵の天才、山下清が暮らした障害者施設、旧八幡学園の跡地である。前の記事でアール・ブリュットの画家、アドルフ・ヴェルフリをご紹介したが、天才的としか言いようのない山下清の作品こそ、日本のアール・ブリュットなのではないか。施設自体は既に市内のほかの場所に移転し、今でも存続はしているようだが、山下のいた場所には、その痕跡すらない。
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そして、葛飾八幡宮である。そう、東京都葛飾区ではなく、千葉県市川市にある堂々たる葛飾八幡宮。神社の裏手の鳥居から境内に入ることを許して頂こう。だかその後正面にも回り、市川市指定の文化財である随神門からもお参りしたのである。
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この神社は、現在でも相当な規模であるが、その歴史も大変古く、平安時代、寛平年間 (889 - 898) に宇多天皇の勅願によって創建されたという。また、白幡天神社と同じく、ここにも源頼朝の伝説がある。このような石なのであるが、これは頼朝がこの神社で武運を祈った際に、彼の馬が残したひづめの跡であるという。それゆえ、「駒どめの石」と呼ばれているのである。
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面白いのは本殿の前に置かれた常夜灯である。荷風の日記「断腸亭日乗」の中に、この石灯篭の裏に「明和五年丙子 (ひのえね) の年号を見る」とあるらしいが、実際にはこのように「明和五戊子 (つちのえね) 年」である。因みに明和 5年とは、1768年。
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それから荷風は同じ記事に、この大きな絵馬についても言及している。これは神功皇后 (この神社の祭神) と武内宿禰による新羅出兵の図で、幕末のもの。荷風は、「大した画家の作品ではないようだが、最近このようなものを見ることが少ないので、昔の浅草観音堂を思い出して見入ってしまった」というようなことを書いている。
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またこの神社には、その歴史を感じさせる素晴らしい樹木がある。推定樹齢 1200年を超えると言われる天然記念物、通称「千本公孫樹 (イチョウ)」。根元に沢山の木が集まって幹をなしているように見えるのでその名があるという。つまりこの木は、この神社の歴史をつぶさに見てきたことになる。頼朝が挙げた雄たけびも聞いているわけである。
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さてこの葛飾八幡宮を出て京成の線路を横切り、国道 14号線を渡ったところに何やら不思議な場所がある。私は以前何度かこの場所を車で通っていて、いつも気になっていたのである。こんな場所だ。
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一部分だけ残された竹藪。これは不知八幡森 (しらずやわたのもり)。荷風はこれについて、やはり「断腸亭日乗」で少し触れているが、「竹林の中に石碑があるが、石垣に囲まれて見ることはできなかった」としている。この場所は車で前を通るだけで何か異様な雰囲気を感じるが、それもそのはず、江戸時代から長らく「入ったら出てくることのできない場所」と言われてきたのである。あの黄門様、水戸光圀が中に入って神の怒りに触れたという伝承もあるようだ。確かに、この鬱蒼とした竹藪は、一目見るだけでも禁忌の場所のイメージがある。ちょっと覗いてみると、一部の竹は枯れて茶色くなり、倒れているのだが、そのままになっている。
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現地に立っている説明板によると、もしかするとこれは、古い時代の八幡宮の「放生 (ほうじょう) 池」の跡ではないかとのこと。生きた魚を放つため、立ち入り禁止であったその池が、後に埋め立てられ、「入ってはいけない」との伝承のみ残ったという説だ。この森の中央の地面は四角形になっていて、その説は有力であるらしい。歴史があり、人々の往来が多いにも関わらず、歴史的な空白 (千葉県の名前の謂われになった千葉氏の支配の時代には、内紛でこのあたりは荒廃したという) ができたことで、なんとも神秘的な場所ができてしまったわけである。なるほど、歴史だけでもそうはならないし、ただ空白があるだけでもならないわけで、様々な要因が重なってこのような景観が生まれているということになる。

さて、ここまでは永井荷風が過ごした街の様子であったが、それからまた、違った顔の市川探訪に続いて行くのである。

by yokohama7474 | 2017-06-03 01:13 | 美術・旅行 | Comments(0)
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