椿貞雄 千葉市美術館

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千葉市美術館は、その日本美術の企画の卓越ぶりにおいてよく知られているが、地方の公立美術館の使命のひとつは、その土地に住んだ画家の作品を展示して再評価を促すことであり、その意味でこの美術館も例外ではない。生まれは山形県米沢市であるが、人生の後半を船橋市で過ごした、この椿貞雄 (1896 - 1957) という画家の没後 60周年を記念して彼の画業を紹介するこの展覧会は、この美術館ならではの企画であり、泰西名画に飽き足らない趣味の方には、足を運んでみて損はないと申し上げておこう。会期は 7/30 (日) までであり、もちろん他の都市への巡回はない。

この画家については、私も全く知識がなかったが、上のチラシに「師・劉生、そして家族とともに」とあることから、岸田劉生 (1891 - 1929) の弟子であるようだ。そういえば自画像とおぼしきこの青年像は劉生風の厚塗りであり、日本的な洋画を描いた人なのかと思われる。だが、チラシを手に取った私の目に入ったのはこのような作品。
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これは東京国立近代美術館の所蔵になる「髪すき図」(1931年作) であるが、この奇妙にシュールなエロティシズムは、私をして即座にあの謎めいたスイスの巨匠、バルチュスを思わせたのである。例えば、バルチュスによるこの「赤い机と日本の女」(1967 - 76年作)。この作品は節子夫人をモデルにしているので日本的であるのは当然であるが、もしこの椿貞雄なる画家に、バルチュスに通じるような怪しい感性があるとするなら、是非見てみたい。椿貞雄、果たして船橋のバルチュスと呼ぶべき画家であったのか。
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さて、答えを急いでしまってはよくないかもしれないが、でもやっぱりはっきりさせておいた方がよいと思うので書いてしまうと、椿はバルチュスとは全く異なる画家でした (笑)。それでも、以下は言えるのではないか。つまり、岸田劉生から高く評価され、師と近しく交流を持った彼は、その作風も師に追随するものでありながら、実は全く違うテンペラメントも潜在させていた。つまり、もし違った経歴を歩んだなら、もしかするとバルチュス的感性に近づいた可能性もあるかもしれないと思うのである。以下、その作品を辿って行こう。

椿は故郷の米沢で旧制中学時代に水彩画を描いており、当時東京で始まっていた岸田劉生らのフュウザン会のポスト印象派活動に憧れていた。1914年に彼は中学校を中退して上京。この作品はその際に初めて油絵具を入手して描いた「落日 (代々木附近)」。ゴッホ風のこのような作風が、椿の憧れたポスト印象派のイメージであったのだろう。
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だが椿は、その頃の劉生の作風が、むしろ北方ルネサンスの細密描写に向かっていることを知った。そして彼は劉生に手紙を送り、自作を携えて劉生の自宅を訪問した。その椿の手紙に対する劉生の返事 (1914年12月29日付) が本展に出展されている。「貴方の挙げられた様な人々と自分をならべられると恐縮します。しかし尊敬をもつて下さる事は嬉しく思ひます。私に解る事だけは御話致しませう。いつでもよい時に御出で下さい」とある。きっと椿は、尊敬する劉生に対して、西洋の大家たちの名前に言及しながら、是非お会いしたいと、熱烈なファンレターを送ったのであろう。年齢は 5歳しか違わないものの、既に中央画壇で気を吐いていた劉生に対する椿の憧れが偲ばれる。
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そのとき椿が劉生のもとに持参したのが、展覧会のポスターにもなっている「自画像」(1915年作) である。
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劉生はこれを見て、椿に展覧会への出展を薦め、その結果この作品は一等なしの二等を受賞。それに対して劉生は、前年に仕上げていた自画像に「椿君に贈る」という文字を英文で書き入れて椿に進呈した。これがその劉生の自画像。下の方にある "Send to Mr. S. Tsubaki" という文字は、確かに北方ルネサンス風である。昨年西洋美術館で開かれた「クラーナハ展」では (私も昨年 12月20日に記事にし、そこでは触れなかったが)、日本におけるクラナッハ受容史の一例として、これに似たスタイルの劉生の作品が展示されていたものだ。
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それ以来椿は劉生の傍らで画家修業に励み、師と同じ場所で写生をしたりするなどして、この大家の影響を大きく受けて行く。椿による北方ルネサンス風の文字の書き込みの例として、1915年作の「八重子像」を挙げよう。妹を描いたものだが、師の作風への私淑は明白である。
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また、その頃の劉生による椿の肖像も残っている。1915年作の「椿君之肖像」。いかつい顔つきである。椿自身の述懐によると、「僕が岸田さんへ手紙を出した時、何しろ椿貞雄なぞと言ふと馬鹿に、やさしい名なので、色白のやさ男で水彩か何かやつている中学生だと思つてゐたら、まるでその正反対で、びつくりしたさうだ」とのこと。だが、この深紅の背景に、上京して絵画修業に燃えている若者のたぎる心を頼もしく思う劉生の気持ちが表れているではないか。
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これなどは、劉生の有名な作品と同じ場所で描いていることは明白だ。「冬枯の道」(1916年作)。
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一方でこれなどは、ちょっとフォーヴの匂いすらする、なかなかの鋭いセンスではないか。「風景 (道)」(1915年)。未だ 20歳にもなっておらず、美術の専門教育も受けていない若者の作品であるとは信じられないほどだ。
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だが、彼の画業を見ているとやはり、師の影響をまずは全身で受け入れることにその基本があったと言えるように思う。これは 1918年作の「雪国の少女」であるが、その背景の濃い赤だけでなく、人物の内面に迫ろうという姿勢も師の劉生に倣っているように思う。
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これは 1920年の「芝川照吉像」。この芝川氏は劉生や青木繁のパトロンであった美術コレクターで、椿も劉生もこの人の肖像を何点も描いていて、この展覧会に出展されている (以下に一点ご紹介する)。因みに芝川家は大阪の実業家の家系で、その子孫 (本家・分家に分かれてはいるようだが) の方とは、私もたまたま面識があったりもするのだが、以前読んだ「大阪の近代建築と企業文化」という本にこの芝川家に関連する建築について詳しく書かれていて、面白かった。愛知の明治村にも、もともと西宮にあった武田五一設計による芝川又右衛門邸が移築・保存されている。
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さて、岸田劉生と言えば誰でも知っているのが、娘をモデルに描いた麗子像のシリーズであるが、椿もまたそれに近い作風の作品を多く残している。これは 1921年作の「童女像 (毛糸の肩掛をした菊子)」。菊子とは椿の妹の娘だが、なんとこれ、重要文化財に指定されている劉生の「麗子微笑」(東京国立博物館蔵) で使われた肩掛を借りて描いている!! 「麗子微笑」はこの展覧会には出品されていないが、参考としてここに写真を掲げよう。はぁー、確かに同じ肩掛だ。
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かと思うと、この菊子をモデルにした全く違う作風の作品もある。「洋装せる菊子立像」(1922年作)。この作品を見ていると、椿の中に芽生える師匠の作風からの脱皮を模索している姿を感じるのは、私だけであろうか。この奇妙な抒情は、既知の画家で強いて探せば、国吉康雄あたりに似てはいまいか。国吉は椿より 3歳上だから同世代だが、当時米国にいた国吉と椿との間に接点があったわけもないだろう。だが、実は芸術家として通じる面もあったのかもしれないと想像するのも楽しい。
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椿は白樺派の芸術家たちと交流を持ったようだが、これは白樺派を代表する作家、武者小路實篤の肖像 (1922年作)。武者小路と言えばお爺さんになってからの写真しか見たことがないような気がするが、当時 37歳。この絵にも「於新しき村」とある。彼が新しき村を開いたのは 1918年。未だ理想に燃えていた頃の肖像であろう。
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さて、日本の洋画家の場合、結構手すさびに日本の伝統的な手法の作品をものしているケースがある。この展覧会には、劉生、椿双方のそのような作品が幾つも展示されていて、油絵とはまた違った味わいがあって面白い。例えばこれは、岸田劉生による「芝川照吉大人肖像」(1922年作)。上で椿による油絵の肖像をご紹介したパトロンだが、ここでは何かくつろいだ感じで、いたずらっぽいとすら見える飄々とした表情を見せている。
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一方でこれは椿貞雄の「昼寝」(1928年作)。へちまの垂れる下で気持ちよさそうに女の子 (娘だろうか?) が昼寝をしている気楽な雰囲気の作品。随分油絵とは雰囲気が違うではないか。
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また、ほかにも興味深い例が紹介されている。江戸時代初期の肉筆浮世絵を、劉生と椿がそれぞれに翻案しているのである。オリジナルは寛政期 (1624 - 1644年)、作者不詳の「犬を連れた禿 (かむろ) 図」。
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その題材を劉生は「狗をひく童女」(1924年作) に、椿は「春夏秋冬図屏風」の「春」(1931年作) に転用している。劉生の場合は麗子をモデルとし、オリジナルの構図を換骨奪胎しているが、椿の場合は完全に画題を分割している。尚この椿の作品はパリで制作されたもの。
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椿は 1929年に船橋に移り住んだが、それは尋常高校の図画教員としてであったとのこと。どのような教師であったのだろうか。これは 1928年に描かれた「入江 (伊豆風景)」。ここでは空も海も建物も強い存在感をたたえていて、この画家が新しい道に入りつつあったことを感じられるような気がする。
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その翌年、1929年12月に、ついに恩師との別れがやってくる。満州からの帰途に立ち寄った山口県の徳山で客死したのである。38歳であった。既に大家ではあったが、あまりにも若い死だ。死因は胃潰瘍と尿毒症。彼は既に 10年以上前に結核の診断を受けていたが、それは誤診であったと言われ、転地療養していた鵠沼では元気だったそうだ。それだけに劉生の死は椿にとってショックであったろう。これは死後の劉生を椿が描いた「柩の中の劉生」。いかつい顔を涙でグシャグシャにしながら描いたであろう椿の姿を想像すると、なんとも胸が詰まるような哀しみを覚える。
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冒頭の方でご紹介した不思議な作品「髪すき図」は、この後、1931年の制作である。上で見た通り、5歳上の師匠に従って必死に絵画修業を続けて来た未だ 30代の画家にとっては、師を失ったあとに自らの方向性を模索する必然性があったのであろう。彼の本来持っている資質の中に、この「髪すき図」や、上記の国吉風の作品などに見られる強い表現力があったことを感じたものと思う。画家は 1932年に渡欧。パリを中心に、オランダ、スペイン、イタリアを訪れた。これは師の影響からの決別であったのであろうか。例えば 1932年のこの「アンドレ裸体」の豊かなモデリングは、これまでの椿の作品にはないものだ。もっとも、モデルの体格が日本人とは違うという要素は確実にあるだろうが (笑)。
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これは同じ年にパリで開いた個展の肉筆ポスター。油絵ではなく軽いタッチの水彩で、日本的な雰囲気を、エキゾチックにならない程度にうまく使っているではないか。パリ生活をエンジョイしたのかと思いきや、椿は早く日本に帰りたいとばかり考えていたらしい。
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欧州滞在はわずか 5ヶ月ほどであったが、帰国してからの彼の作風には、少し大らかな要素があるような気がしないでもない。これは 1934年作の「四季の図」という縦長の作品から上の方と下の方、つまり春のシーンと秋のシーン。重い油絵の世界を忘れたような、邪気のない絵である。
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展覧会には椿の静物画の変遷を辿るコーナーがあり、これがまた大変興味深い。また若い頃に還って、これは 1921年作の「静物 (りんご)」。劉生は、結核と診断された頃から室内での制作に切り替えたため、椿もそれに従って室内で静物画を描いたのだという。この作品は、写実性はそれなりにあるものの、上の作品を見たあとでは、なにやら重苦しく見える。
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同じ題材において、師弟の画風の違いを見てみよう。これは 1926年に劉生が描いた「冬瓜茄子図」。なんとも粋な雰囲気で、モノの実在感というよりは装飾的な印象すら受ける。劉生の意外な一面と言ってもよいかもしれない。
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椿は同じ題材を同じ頃から油彩で描いているが、劉生の死後も表現の模索は続き、1942年に制作した「冬瓜茄子図」では、このようになった。
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劉生との差は一目瞭然で、この作品では、モノの存在感が迫ってくる迫力がある。1949年の「冬瓜図」になると、さらにその存在感はただならぬものに成熟しているのである。描かれる対象ですらもはや、のうのうと安定して座ってはいられない (?) のである。
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もうひとつ、私が素晴らしいと思った椿の静物画はこれだ。1948年の「壺 (黒い壺に南天)」。1943年から 5年間を費やして描かれたものである。ここでついに壺はその存在感のあまりの強さから、ただならぬシュールなものと化している。例えばこれが世界の最後に見る風景であれば、人は安心するであろうか、不安に思うであろうか。ただの壺なのに、そんなことまで思わせるとはなんたること。

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そしてこれもやはり静物画であるが、1957年、絶筆となった「椿花図」。彼の苗字と同じ花を描いたのは何かの因縁であろうか。入院の朝、病院の車が迎えに来る前に一気に描いたものであるとのこと。未だ生きる意欲が衰えない切り花の姿であり、見る者に鮮烈な印象を与える作品である。
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椿の描いた富士山の作品を二つご紹介する。まずは 1940年の「赤富士図」。もちろん北斎の赤富士とは異なり、写実的な光景であるが、私が面白いと思うのは、中腹より下の木々の細かい描き方である。雄大な景色の中、実は木々の内には無数の生命が息づいているのだという印象を受ける。
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その観点でこちらを見ると、ここには生命の息づきからさらに進んで、具体的な生活の要素が描かれていることが分かる。そのスケール感といい、距離感を保ちながらも人間的な作風といい、これまでの椿作品とは随分違う。これは 1954年に描かれた「富士図 (二の宮)」。近いうちに不染鉄 (ふせん てつ) という知られざる画家の展覧会をご紹介するが、その不染の描く富士にも相通じるところのある、強い表現力のある作品なのである。
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さて、展覧会の最後のコーナーには、彼が描いた家族の肖像もあれこれ展示されている。これは 1931年作の「婦人像 (隆子像)」。妻の姿である。またまた冒頭近くの「髪すき図」に戻ると、その絵の中、右側で女性の髪をすいているのがこの人である。昔の日本家庭における献身的な妻というイメージであるが、画家の方もそれほど緊張して描いていないようにも思われる。決して写実的ではないが、画家の信頼が表れた肖像ではないだろうか。
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これが椿家の人たち。1935年の写真で、左端が椿、右端が妻、隆子である。幸せそうな家庭ではないか。奥さんも、むしろ肖像画よりも近代的な美人です (笑)。
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ところでこの写真の左から 2人目に利発そうな女の子が映っているが、彼女は次女の夏子。上の写真の 2年前、1933年の椿による夏子の肖像画はこれだ。おかっぱ頭が活発さを表している。
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この夏子さん、長じて染物のデザインに従事することとなる。師事したのは、あの人間国宝芹沢銈介だ。私も 5月13日の記事で、静岡の登呂遺跡の横にある彼の美術館及び旧居をご紹介したが、独特の抒情ある素晴らしい染物の数々を制作した人。その薫陶を受けた椿夏子が制作した屏風、「愛別離苦」がこれだ。この題名は仏教用語で人間界の八つの苦しみのうちのひとつで、肉親との生別、死別のこと。ここで夏子は、父貞雄の遺愛の焼き物をテーマとして採り上げ、恐らくは父との死別の悲しさを表現しているのであろう。
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本当はほかにもご紹介したい作品がいろいろあるが、上記だけでも、この画家の画業について一通りのイメージは持って頂けるものと思う。岸田劉生への私淑から始まり、その模倣を経て自らの独自な美意識を追い求め、また、日本的なものもうまく取り入れながら、風景や静物や人物を真摯に描き続けた画家であった。もし違った環境にいれば、それこそバルチュスのように、もっと退廃性を感じさせる作風になったかもしれないという可能性も感じさせるが、実際にはそうはならなかった。実生活で常に家族とともにあり、また、心の中に生き続ける師への尊崇の念が、生涯に亘って彼の画風を決めたものであろう。自らの創造意欲に忠実に生きた画家の姿に、芸術家としての誠意を見ることができる、そんな心に残る展覧会であった。

by yokohama7474 | 2017-07-19 01:01 | 美術・旅行 | Comments(0)
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