セールスマン (アスガー・ファルハディ監督 / 原題 : Forushande)

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最初にお断りしておくと、この記事で採り上げる映画は、もともと大々的に公開されていたわけではなく、私が見たときには既に単館上映となっていたが、それも既に終了していて、今この瞬間は見ることが叶わない映画である。だがそれでも、将来的にはネット配信や DVD / BD などで鑑賞の手段があるであろうから、ここに感想を記しておくのもあながち意味のないことではないだろう。もちろん映画好きの方なら既にご存じの映画であろうし、上のチラシにもある通り、今年のアカデミー賞で外国語映画賞を獲得しており、その前に昨年のカンヌ映画祭で脚本賞と男優賞を受賞したほか、多くの映画祭で様々な賞を得ている作品である。

まず興味を惹くのは、これがイランの映画であるということだ。イランは、国際ビジネスの観点からはなかなかに難しい国。つまり、米国の経済制裁は既に解除されているにもかかわらず、未だドル決済ができず、トランプ政権の態度もよく見えないため、ビジネスを展開するには不安定な要素が多い国なのである。とは言っても、イランからは我々にも既になじみのある大映画監督が輩出している。その名はアッバス・キアロスタミ。惜しくも昨年 76歳で亡くなったが、小津安二郎を心から尊敬すると言っていたこの監督の手腕は、国際的にも高く評価されていた。私が劇場で見ることができたのは「桜桃の味」だけであったが、なかなかブラックな面のある、一筋縄ではいかない大変な傑作であった。あとは、今調べてみて分かったのだが、「カンダハール」という面白い映画を撮ったのも、イラン人であるモフセン・マフマルバフ。なるほど、イランでは既にこのような傑作が生まれているわけで、この「セールスマン」が突然変異というわけではないわけだ。これが、この映画の監督アスガー・ファルハディがオスカーを受賞したところ。
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題名の「セールスマン」(原題の "Forushande" は、恐らくはこの言葉を意味するペルシャ語の、アルファベット表記であるように思われる) は、アーサー・ミラーの有名な戯曲「セールスマンの死」(1949年作) に由来する。この映画の主人公である夫婦は、ともに地元のアマチュア劇団に所属して、この戯曲の舞台上演に連日出演している。その上演期間中にあるトラブルが起こるので、映画の中では物語の進行とともに「セールスマンの死」の舞台が何度も登場する。その意味で、戯曲「セールスマンの死」はこの映画の発想となんらかの関係があるはずだ。私は若い頃素人演劇にかかわったこともあるので、この戯曲のことは当然よく知っている・・・はずなのであるが、恥ずかしながら、実際の上演を見たことはなく、また、以前手元にあったはずのアーサー・ミラー戯曲集も、今書棚に見つからない。なので、残念ながら「セールスマンの死」について知ったように語ることができない。そこでプログラムに掲載されている監督の言葉をここで要約すると、「セールスマンの死」は、ある社会階級が崩壊して行く時代の社会批判であり、急速な近代化に適応できない人々が崩壊する様子を描いている。その状況は今のイランの状況と似ており、急速な変化における選択肢は、「適応」か「死」である。本作の主人公であるエマッドとラナという夫婦は、舞台上でもセールスマンとその妻を演じていることから、実際の生活においても、セールスマンとその家族に直面して、運命の選択を迫られる。・・・なるほど、そういう発想でできた映画なのである。その点についてのイメージを持たないと、この映画にすっきりしないものを感じて本質を見失うことにもなりかねないだろう。ところでアーサー・ミラーはよく知られたように、一時期マリリン・モンローと結婚していて、彼女のために「荒馬と女」の脚本を書いている。このあたりについて語り始めると、またぞろ順調に脱線してしまうので (笑)、ここではモンローとミラーのツー・ショットだけ掲げておこう。
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この映画の感想を簡単に述べると、登場人物同士のかなり微妙で複雑な関係をなかなかうまく表現していて、面白い映画だと思う。ストーリーそのものだけ見ても、先を読ませない展開であり、その意味でもドラマとしての完成度は評価できる。その一方で、手持ちカメラを多用して動きのある映像が若干雑な作りに思えることもあって、緻密さを感じさせることがあまりない。そのために、せっかくうまく作られたドラマ性が、もうひとつ観客の心をわしづかみにしないもどかしさがあるのではないか。正直、主人公の男が、トラブルから一体何を感じ、それに対してどのように対処したいのか、分かりにくい作りになっていると思う。だが、そのような欠点を認めても、私としてはこの映画を高く評価したい。それは、舞台と実生活の間に存在する共通性と相違性を、生のままに描き出したというその創作態度によって、なにか人間の本質的なところを突いているからである。この夫婦は上の写真の夫婦とは異なり、世界的な意味での地位も名声も富もないが、様々な感情を持ち、自らが属する社会の中における確固たる位置を持っている。
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夫婦の間に起こるトラブルとは、こういうものだ。それまで住んでいた建物が、隣の土地の工事のために傾いてしまい、中古マンションへの転居を余儀なくされる夫婦であるが、ある日夫が帰宅してみると、妻が額から血を流してシャワーで倒れている。彼女がシャワーを浴びている間に呼び鈴がなり、てっきり夫だと思った彼女がロックを解除してシャワーに戻ったところ、入ってきたのは別の人物で、その人物に暴行を受けてしまったのだ。実はそのマンションの以前の居住者は、部屋に男を入れていかがわしい商売をする女性 (その女性は画面に登場しない点、評価したい) で、事件はどうやらそのことと関係しているらしい。二人はつらい思いを抱えながらも「セールスマンの死」への出演を続け、夫は真相解明に向けてひとりで動き出す、というもの。私が評価したいのは、この夫婦それぞれの人間像。夫は実は高校教師であり、生徒からはかなり慕われている。また、最初のシーンでは、傾いたマンションからの脱出の際、寝たきりの人の移動に手を貸すなど、良心を行動で表すタイプ。一方妻の方は、かなりおとなしい性格であり、自分がどんな被害に遭ったのかを語ろうとはしない (よって、彼女の受けた暴行が、ただ殴られただけなのか、性的なものを含んでいたのかは、最後まで明らかにならない)。後半に至って、その優しい性格から神経が参ってしまうシーンも出てくる。そしてこの 2人の間には、お互いへの遠慮に起因する気まずい雰囲気がつきまとい、少なくとも夫婦で揃って犯罪行為を糾弾するということにはならない。ほら、こんな感じで妻はこっそり夫の様子を見るのである (笑)。
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面白いのは、正義感が強く頼りがいのある男として描かれた夫が、犯人憎しの感情にとらわれ、かなり暴走してしまうという点である。これこそ人間の赤裸々な姿であり、これほど極端なケースでなくとも、誰にでも日常生活で起こりうることではないか。そして最後の展開は息詰まるものであり、ドラマは一気に渦を巻く。ネタバレはしないが、私はこのようなシーンを思い出すと、胸が苦しくなってしまうのだ。往々にして悲劇と喜劇が背中合わせになっており、難局を乗り切ったと思ったら次の難局が待っているのが人生。いつ何時、あなたがこの老人のように、ちょっとした過ちから危機的な状況に陥らないとは限らない。心してこのシーンを見る必要があるのである。
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その他印象に残ったシーンを挙げると、子供のいない夫婦が友人の息子を預かって、3人で夕食を取るシーンである。このメガネの少年がなんとも可愛らしく、この陰鬱なドラマの中で、何かちょっとほっとするシーンであるとともに、家族というもののあるべき姿を、疑似家族を通して表現している優れたシーンでもある。この少年がイノセントでピュアであればあるほど、現実世界で起こることの醜さが浮き彫りになる。そのようなことを、陳腐になることなく描き出す監督の手腕は、確かなものであると思った。可愛いでしょ? (笑)
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繰り返しだが、この映画の展開自体は洗練の極という感じではないので、流れの悪い映画だなと思われる方もおられよう。だが、「セールスマンの死」を題材として使用した点を含め、この映画のヴィジョンは非常に明快であるので、細部の不備にとらわれて映画全体の表現力を見ないことになると、大変にもったいないと思う。イランという、我々に日常なじみのない国から届いたこのような人間社会へのメッセージを、真摯に受け止めたいものである。また、小規模な公開であったとはいえ、このような映画を見ることができる東京の文化的環境を、誇りに思いたい。

by yokohama7474 | 2017-07-27 00:37 | 映画 | Comments(0)
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