東京二期会公演 リヒャルト・シュトラウス作曲 楽劇「ばらの騎士」 (指揮 : セバスティアン・ヴァイグレ / 演出 : リチャード・ジョーンズ) 2017年 7月30日 東京文化会館

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このブログはクラシック音楽に普段縁のない方にも楽しんで頂けるように、それなりには工夫して書いているつもりであるが、曲についての面倒な説明や、固有名詞があれこれ出てくると、どうやら難易度が上がるらしい。ということで、今回はかなりくだけた始まりとすることにした。オペラには様々な作品があり、その味わいもまさに千差万別。だが、もし「涙腺が刺激されるオペラ」には何があるかと問われればどう答えよう。私の場合、2つのオペラが真っ先に頭の中に浮かんでくる。私がいかに心のすさんだ冷たい人間であっても (いや、そうだと宣言しているわけではないですよ。たとえそうであってもの話)、この 2つのオペラには涙腺が刺激されずにはいられない。まずひとつは、プッチーニの「ラ・ボエーム」。大詰めの音楽ではなく、第 1幕のミミとロドルフォの出会いの場面、つまり、「私の名はミミ」と、それに先立つ「冷たい手を」である。オペラ通の方にはバカにされるかもしれないが、実際そうなのだから仕方がない。そしてもうひとつ泣けるオペラは、ほかでもないこの「ばらの騎士」なのである。

18世紀、マリア・テレジアの時代のウィーンの貴族が婚約者に銀製のばらを送るという架空の習慣を題名に持つこのオペラは、豊麗な音響に包まれた作品であるが、その内容はいわばドタバタ喜劇。聴いたことのない人は、どこに泣ける要素があるのかといぶかるかもしれない。ところがあるんです。終幕の大騒ぎのあとの 3重唱と、それに続く 2重唱。音楽の力はこんなにすごいものかと思うほど、泣けてくるのである。だから、もし初めてこのオペラを DVD などで見る人は、登場人物の行動がけしからんとか品がないとか思って途中でやめてしまってはいけない。最後の最後に、この世のものとも思えない音楽と出会う瞬間、それまでのドタバタがあったがゆえに人は心から感動を覚えるのであるから。シュトラウスという大天才がものした、信じがたいほど素晴らしい音楽なのである。これが比較的若い頃のシュトラウス。
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今年の東京では、私の知る限り、この「ばらの騎士」が 2種類上演される。ひとつは、11月から 12月にかけて、外国人歌手を主役級の役柄に迎えて行われる、新国立劇場の公演。そしてもうひとつは、今回私が鑑賞したもの。この公演は、二期会創立 65周年、財団設立 40周年を記念して行われるもので、英国の名門音楽祭、グラインドボーン音楽祭との提携公演であるらしい。二期会の公演はこのブログでも何度も採り上げている通り、ワーグナー、シュトラウスというドイツものを採り上げることが多いが、ひとつの大事な点は、多くの場合、キャストがすべて日本人であることだ。今回のこの「ばらの騎士」は、音楽だけで正味 3時間、休憩を含めると 4時間を要する大作で、登場人物も大変に多い。だがキャスト表を見てみると、見事に全員日本人で、しかもかなりの脇役に至るまでダブル・キャストが組まれているのだ。
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以前も書いたと思うが、世界の大都市の大部分においては、オペラハウスがひとつだけ (もちろん、ウィーンやベルリンは例外) あって、ほぼすべてのオペラ公演がそこで上演される。ところが東京の場合、オペラハウスでの公演以外に、この二期会や藤原歌劇団が年に何演目も公演を打っている。加えて、ホール (日生劇場など) の主催公演もあり、そして、欧米各地のメジャーマイナー入り乱れてのオペラハウスの引っ越し公演が頻繁にある。そう、オーケストラコンサートの数同様、オペラの上演回数に関しても、東京は、控えめに表現しても世界有数、もしかしたら世界一かもしれないのである。そしてさらに驚くべきは、この二期会の公演のように、キャストが全員日本人ということも多いのだ。こんなことが東京以外で起こっているとは思えない。もちろん、すべての上演が世界最高水準ではないかもしれない。だが、若い歌手でも舞台に立つチャンスが与えられることで、どんな大作・難曲でもレパートリーとして定着して行く。それこそがまさに文化の発展である。今回の公演では、そのことの価値を改めて実感することとなった。

但し、歌手 (とオーケストラ団員のほとんど) が日本人であっても、今回の指揮者と演出家は外国人だ。今回ピットに入るオーケストラ、読売日本交響楽団 (通称「読響」) のコンサートも振ったことがあるドイツの指揮者、セバスティアン・ヴァイグレ (1961年生まれ) は、現在フランクフルト歌劇場の音楽監督として気を吐いている。演出のリチャード・ジョーンズも、英国ロイヤル・オペラのみならず、スカラ座や MET などでも仕事をしているほか、通常の演劇の演出も行っている。今回の記者会見時の様子がこちら。興味深いことに、今回の上演は、東京のあと、名古屋 (愛知県芸術劇場)、大分 (iichiko 総合文化センター) にも巡回するという。尚、名古屋と大分では、これも名指揮者であるラルフ・ワイケルトが指揮を取る。
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東京での公演は 4回で、私が見たのはその最後のもの。上記の写真の通り、7/26 (水)・29 (土) のキャストと、7/27 (木)、30 (日) のキャストは完全に異なるもの。これだけの数の歌手たちがドイツ語の作品をきっちりと歌いこなすのを見て聴いて、きっと指揮者も演出家も、日本の歌手の水準の高さに目を見張ったものであろう。私の見なかった方の回には林正子、妻屋秀和、幸田浩子というおなじみの人たちが出ていて、キャストの知名度の点ではそちらの組の方が正直なところ高かったようだが、私の場合、新たな歌手に接して感動する喜びに価値を見出すタイプなので、むしろこの組の方に期待をもって見に行ったのである。

まず特筆すべきは、ヴァイグレ指揮の読響による雄弁な音楽。冒頭部分は、情事を表現したと言われている、活力と艶美さを兼ね備えた音楽で、ここは勢いよくきれいな音で走り出さないといけないところ、実に堂に入った滑り出し。それから第 2幕冒頭は早馬であるが、そのギャロップの楽しくまたしっかりしたこと。第 3幕では、オックス男爵を驚かすための仕掛けを試しているわけで、ガシャガシャと不協和音が響くが、そのいたずらぶりが充分に表現されていた。ヴァイグレの指揮は実に巧みで、優美な箇所は絶妙の呼吸で音の艶を引き出し、騒音をかきわけるような箇所でも、オケが乱れることはまずない。「ばらの騎士」の音楽は実に手の込んだ複雑なものであるが、これだけ鳴っていれば申し分ない。

歌手陣も総じて安定した出来。舞台にはプロンプターボックスが見当たらず、この長丁場をどの歌手も余裕で歌いこなした。特に元帥夫人役の森谷真理 (もりや まり) は、この役に必要な、適度な色気と大人の分別を充分に表現していて見事。2016年12月23日のヤクブ・フルシャ指揮東京都響の第九の記事で紹介した通り、ウィーン在住で、レヴァイン指揮のもと MET で「魔笛」の夜の女王を歌った経験もある人だ。
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オクタヴィアンの澤村翔子は、あとで述べるように、演出によってパンツ役としての個性が少し抑えられてしまったようにも思うが、演技も含めて熱演。ゾフィーの山口清子は未だ若い歌手のようで、声量には課題があったが、声の質は美しいと思った。多少残念だったのはオックス男爵の大塚博章で、この役の粗雑さ (それゆえに憎めない) には少し合わないタイプの歌手だと思った。

演出について少し述べると、最近の傾向に沿うように、舞台装置は概して簡単なものであり、巡業を行うという現実的な要求を満たしている。役者にも結構細かい演技をさせ、音楽に合わせた動きなどもあって、この千変万化の音楽にうまく乗るものであったと思う。ただ一方で、そこに何かポンと膝を打つような新たな発見もないように思った。冒頭でいきなり、舞台奥で元帥夫人が全裸 (もちろん肌色のスーツ) でシャワーを浴びているのを見て、これは結構過激に走るのでは、と思ったことからすれば、やや拍子抜けと言ってもよいかもしれない (あ、裸を期待したわけではないので念のため 笑)。第 1幕ではこのような長いソファの上で物語が展開する。壁の時計は開始時には 8時30分を指していて、実際に 70分間の演奏時間中、針は進んで行く。ここで通常と違ったのは、オクタヴィアンは最初に登場して来たときから女性の長い髪を束ねておらず、その姿はどう見ても女性なのである。この役の面白みは、「フィガロの結婚」におけるケルビーノ同様、女性が男を演じる役において、劇中でその男役が女を演じるというジェンダー・パニックなのであるが、何かあえてそのような要素を消してしまったように思われた。
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第 2幕は、最初はこのような前景で進み (ゾフィが結婚の衣装を着せられているところ)、壁が開くと、奥に水の流れるファーニナル邸の玄関が現れる。その後は今度は長いテーブルが現れて、ゾフィはその上に登らされる羽目になる。歌手たちの動きに変化をつけようという意図だったのか。
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第 3幕は終始このような屋根裏部屋のような場所でストーリーが展開する。オックスの下心に応じて (?) 照明が変わるのが面白い。だが、細部の小道具にはあまり説得力が感じられず、また、通常はオックスのズラは、騒ぎの中ではがされてしまうのだが、この演出では自分で堂々と取っており、これもあまり必然性を感じない (笑)。この写真の場面はもちろん最後の 3重唱で、ここでは天井の高い部屋でじっくりと歌われるこの名曲に、やはり今回も酔いしれることとなった。
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この作品が作曲されたのは 1910年で、作曲者 46歳のとき。今日でも頻繁に演奏される一連の交響詩群を書き終え、オペラに移行して行く時代の作品であるが、この作品は未だ作曲者 5曲目のオペラであったわけで、しかもその前が「エレクトラ」、さらにその前が「サロメ」と、既に超絶的な作品を書いていたことを思うと、空恐ろしいような気がする。ホフマンスタールという一流の作家との共同作業ということもあって、まさしく世紀の傑作のひとつである。考えてみれば、若い頃からの盟友であったマーラーが亡くなったのは、このオペラが初演された 1911年。時代の過渡期である。もちろん世界情勢も明らかな過渡期であり、3年後に勃発した第一次世界大戦によって大ハプスブルク帝国は崩壊してしまうわけだ。上記の 3重唱で元帥夫人が語る「何事にも終わりがある」という言葉は、その意味では大変に象徴的なのであるが、そんな思いもあって、奇跡の 3重唱が壮大な夕焼けのように響くのを聴くと、いつも私の涙腺は緩んでしまうのである・・・。

このように、課題も成果もそれぞれに楽しい上演であったのだが、実は私には、第 3幕で壁にかかっていた絵画について、なかなか思い出せないというオマケがついた。これはヴィーナスであって、画家の名前には確か「ネル」がついたはず・・・。うーん、でもそれ以上思い出せない・・・。呻吟しながらネットで「ネル ヴィーナス」と検索すると、なんということ、画家の名前はアレクサンドル・カバネル (1823 - 1889)、オルセー美術館所蔵の「ヴィーナスの誕生」(1863年作) であると確認でき、溜飲を下げたのである。便利な時代になったものだ!! カバネルは 19世紀フランスのアカデミーの画家である。
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この「ばらの騎士」という作品の持つ力は、とても簡単に語りつくせるものではないが、もしこれまでこの作品をご存じなく、今後名古屋か大分でご覧になろうという方は、是非是非、最後の 3重唱で涙腺が緩む経験をして頂きたい。その経験をする前と後とでは、シュトラウスの音楽について、ロマン派の美学の究極について、また、戦争に突入して行ったヨーロッパの歴史について、実感できるものが変わってくることと思いますよ。それはすぐれて文化的な出来事と言えると思う。

by yokohama7474 | 2017-07-31 00:24 | 音楽 (Live) | Comments(4)
Commented by rui-carlos at 2017-07-31 23:03
「もしこれまでこの作品をご存じなく…」というのはまさに私のためにあるような言葉です。一年ほど前まで一応クラシックファンを自称しながら聴くレパートリーは極々限られていた私は、昨秋のブルックナー初体験依頼クラシック音楽への欲求がにわかに高まっております。とは言えこの記事を読んでなかったらオペラというジャンルに興味を持つにはまだまだ時間がかかったと思いますし、リヒャルト・シュトラウスも今一つ守備範囲外のままだったかもしれません。また我が大分でそのようなオペラが上演されることにも気がつかなかったかもしれません。人間の興味とは不思議な物だと思いますので。ブログ主様のおっしゃるとおり便利な時代になったものです。
 またヴァイグレは今月9日大分にて九州交響楽団を指揮しワーグナーとブラームスを地方のクラシックファンに届けてくれたことは以前もお知らせ致しました。何となく活躍ぶりが嬉しく思われます。
 早速「バラの騎士」チケットを手配しようと思います。ありがとうございます。
Commented by yokohama7474 at 2017-08-01 01:47
>rui-carlosさん
そうおっしゃって頂ければ、記事を書いた甲斐があります。是非、シュトラウスのめくるめく世界をご堪能下さい。ただ、オベラをご覧になる際には、事前に曲の概要を知っておいた方が絶対によいので、予習されることをお薦めします。
Commented by 吉村 at 2017-08-05 21:31 x
私も第三幕の三重唱と二重唱にはいつも泣かされます。(あと、フィガロの結婚で伯爵がContessa perdono, perdono, perdonoと歌ってからの赦しにもいつも泣かされます。)
今回も泣かせてもらいました。元帥夫人とオックス男爵は、私は30代の感じが好きです。リヒャルト・シュトラウスもそんなイメージですし、今回の演出もそんな感じでしたよね。
でも歌唱的には、例えばシュヴァルツコップとかエーデルマン位じゃないとしっくりこないのも事実です。
その意味からは完璧な演出にはなかなか出会えませんね。かつてキリテカナワが40代半ばの時元帥夫人をボストンのオペラで歌ったんですが、それが一番近かったかもしれません。
まあ、その時は彼女だけが抜きん出ていて、バランスは悪かったんですが、最高でした。
Commented by yokohama7474 at 2017-08-05 23:33
> 吉村さん
この作品はある意味での究極的な要素があるので、元帥夫人を歌う歌手にとっても大きなプレッシャーでしょうね。なかなか理想の歌唱には出会えないのですが、私の場合はなんと言っても、1994年のカルロス・クライバーとウィーン国立歌劇場の来日公演におけるフェリシティ・ロットが忘れがたいですねぇ。3重唱では、彼女と、アンネ・ゾフィー・フォン・オッターのオクタヴィアン、バーバラ・ボニーのゾフィーで、それはもう涙なしには聴けない究極の演奏でした。思い出すと、今でも涙が出てきます (笑)。
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