大阪 中之島界隈 適塾、大阪市立東洋陶磁美術館 (ヘレンド展)

大阪、中之島のフェスティバルホールでバーンスタインのミサを聴いた日、つまりは 7月15日 (土) のことになるが、演奏会の前に久しぶりに訪れておきたい場所があった。それは、緒方洪庵の私塾である「適塾」(てきじゅく)。中之島からもほど近い場所にあり、戦時中の激しい爆撃を奇跡的に逃れて今に残る江戸時代の町屋建築として、非常に貴重であり、国の史跡・重要文化財に指定されている。本当にビジネス街にそこだけ異空間のように残っているのであるが、以前あった隣のビルを撤去したらしく、現在はその場所が公園となっていて、洪庵の彫像も置かれている。この日はまさにうだるような暑さであったが、なぜか暑い日に日本家屋を訪れると、懐かしいような思いを抱くことが多い。この日もそんなタイムトリップを楽しむことができた。
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さて、現代の我々は緒方洪庵 (1810 - 1863) のことをどのくらい知っているであろうか。高校の日本史の教科書にも必ず出てくる名前であるゆえ、その名を知らない日本人はあまりいないであろう。だが、何をした人であるかについて具体的に語れる人はさほど多くないはず。かく言う私も、以前この適塾に来たことがあるから、彼が蘭学者であり、この私塾で福沢諭吉や大村益次郎をはじめとする、日本の近代化に大きな貢献のあった人々を育てたということくらいは知っているが、さほど威張れるような状況ではない。そこで簡単に彼の人生を紹介すると、生まれは今の岡山県、武士の家である。1825年、元服後に父とともに大坂に移り、翌年、佐伯という姓を緒方に変える。その後江戸や長崎で蘭学を学んだ後、1838年に大坂に帰り、適塾を開く。つまり、彼が洪庵「先生」としての活動を始めたのは 28歳という若年であったことになる。その年に結婚もし、6男 7女を設けることとなる。評判が上がってもとの場所が手狭になったため、1845年に商家を購入して適塾を移転。これが今に残る建物である。その後佐賀藩から種痘を得て、除痘館という施設で天然痘の治療事業を始めた。実は彼自身、8歳のときに天然痘にかかったことがあるというから、その病気に恐ろしさを知っていたということであろうか。洪庵の医学界への貢献としてはもうひとつ、コレラ対策もあるという。1862年、幕府の要請により江戸に移るが、翌年、突然喀血して死去したという。生まれつき体は丈夫ではなかったようなので、過労という事情でもあったのだろうか。
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この洪庵の医学事業は子孫に受け継がれ、現在の大阪大学医学部のもととなった。従って、この適塾は現在、大阪大学の管理となっているようだ。幕末にこの世を去った偉大なる先達の意思が 150年に亘って継続されているとは、なんとも素晴らしいことではないか。この適塾の内部は、資料は撮影禁止だが、建物は撮影が許されている。もともと商家であり、入り口は狭いが奥行が深い。江戸時代そのままの佇まいがなんとも心地よい。
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興味深いのは 2階の奥にある塾生たちの暮らした大部屋である。適塾は塾生同士が切磋琢磨する環境が整っていて、お互いに教えあったり徹夜で議論したり、たまには騒いだりしたようである。こんな急な階段で階下とつながっており、真ん中に柱が一本立っている。
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この柱、よく見ると刀傷があり、壮年の塾生たちの血気さかんな様子がよく分かる。ここで若き福沢諭吉や大村益次郎、橋本佐内、大鳥圭介らが、日本の未来について熱心に語り合った様子を想像するのも楽しい。
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このように大変に貴重な場所なので、大阪に行かれる場合にはちょっと立ち寄ってみる価値はあると思う。そして、この適塾の隣にも、なんともうひとつ重要文化財の建物があるのである!! それは愛珠 (あいじゅ) 幼稚園。明治初期、1880年に建てられているが、驚くなかれ、未だに現役の幼稚園として機能しているのである!! 現在は建物の修復作業中であるようだが、それを機会に文化財として保存ということではなく、幼稚園であり続けるようである。歴史あるこの建物の威厳を見ると、これは実に信じがたいことだ。こんなところで学ぶ園児は一体どんな幼少期を過ごすのであろうか。それからここは、江戸時代の銅座の跡であるらしく、その石碑も立っている。
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そして、気が付くとこの幼稚園の道を挟んだ反対側のビルの入り口近くに、上記の除痘館という天然痘治療施設の跡があって、このような碑が立っている。またこのビルにはあらゆる科の医院が入っていて、緒方洪庵の意思を継ぐ活動が現代にまで継続していることが分かるのである。
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さて、そこから中之島の方へ向かうと、洋風の古い建物が見えて来る。以前、ここで行われたテレマン室内管弦楽団のコンサートをご紹介したこともあるが、これは重要文化財の大阪市中央公会堂。
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中之島地区にはほかにも、やはり重要文化財の大阪府立中之島図書館や、辰野金吾設計の日本銀行大阪支店など、歴史的な建造物が立ち並んでいて壮観だ。本当はそれらをすべて写真に収めてここで紹介したかったのであるが、なにせ炎暑である。熱中症で倒れる前にその案はあきらめました (笑)。そして目指す次なる目的地へ。その目的地、大阪市立東洋陶磁美術館は、このような建物である。
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広く知られていることに、この美術館には国宝 2点、重要文化財 13点を含む 4,000点に及ぶ東洋の陶磁器、つまりは陶器と磁器、もっと平たく言うと「焼き物」が収蔵されている。以前日本に存在した総合商社のひとつ、安宅産業の創業家によって収集された世界有数の陶磁器コレクションである。安宅産業自体は 1977年に伊藤忠商事に吸収合併されて消滅したが、このコレクションは住友銀行等の銀行団に引き継がれ、そして 1980年、コレクションの散逸を避けるため、当時の住友銀行頭取の磯田一郎によって、大阪市への寄贈が決定された。美術館の開館は 1982年。その後 1998年には新館の増設と本館の改修がなされた。私が前回この美術館を訪れたのは、その改修前なので、今回は久しぶりに安宅コレクションの真価に触れることになった。また私が訪れたときには、3ヶ月以上に亘る展覧会、「ヘレンド展」が開かれていた。ヘレンドはハンガリーの窯であり、19世紀半ばから現在に至るこの窯の様々な作品が展示されていて興味深かった。そもそも陶磁器は東洋のもの。西洋人がそれを真似ようと試行錯誤したという事実は、なかなかに面白い。だから私は、このヘレンド展を見たあとに、この美術館の平常展示で東洋の、つまりは中国・韓国・日本の陶磁器を見て、そのどちらに軍配を上げるかは自ずから明らかであると思ったものだ。陶磁器の美は、言葉で説明するのはかなり難しく、実物を前にじっくり見るしかない。この美術館の至宝である国宝の 2点をお目にかけよう。つまり、油滴天目茶碗と、青磁器「飛青磁 花生 (とびせいじ はないけ)」である。前者は既に以前、「茶の湯」展でご紹介したが、まあその姿の凛々しく美しいこと。
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前述の通り、今回はこの美術館改修後初めての訪問だったのであるが、ひとつ気づいたことには、平常展示の名品は、その上の天井がガラスになっていて自然光が入るようになっている。これはひとつの見識ではあるが、多分改修時には未だ充分に開発されていなかった LED というものが現代にはある。率直なところ、上からの自然光 (曇りや雨の日には全く光が差さない) よりも、周囲を暗くして LED ライトを当てる方が、名品の持つ力が発揮されるように思う。その点が少し残念であった。ところで今回のヘレンド展の出口で売っていたヘレンドのコーヒーカップ、その柄には記憶があった。家人が一時期集めていたカップでこういうものがあったはず。帰宅して確認したところ、ありましたありました。我が家の食器棚に並ぶヘレンドたち。もともと軽めのカラフルな色合いが気に入っていたが、これを機会にもっとお近づきになりたいと思いましたよ (笑)。
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このように中之島地区は素晴らしい文化に満ちた場所なのである。江戸時代、天下の台所として発展した大坂は、その名が大阪となったあとも繁栄し、戦前までは東京を凌ぐ経済規模を誇ったという。その遺産の一端に触れることのできるこの地区を、もう少しマイルドな気候のときにほっつき歩きたい。と、ここで思い出したことには、随分以前に、誰もが知る建築家、安藤忠雄がこの地区の再開発計画を作っていた。それはなんらかの理由で (バブル崩壊?) 実現しなかったようであるが、ふと思いついて書棚からそのプロジェクトに関連する本を取り出して来た。それは、SD (Space Design の意) という建築専門雑誌の 1989年 9月号。当時、大阪駅近くのナビオ阪急で開かれた「安藤忠雄建築展 中之島 2001」という展覧会で購入したものだ。なるほど、2001 ということは、21世紀の中之島を創造しようというプロジェクトであったのだろう。上でもご紹介した中央公会堂の内部に大きな卵型のホールを設置しようという斬新なアイデアである。この雑誌には安藤の直筆サイン (彼の初期の代表作のひとつ、大阪の茨木市にある光の教会の十字架をかたどったもの) があるので、お目にかける。
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安藤に関しては、今年の秋に回顧展が予定されているので、その際にまた大いに語ることになろう。大阪の人による大阪の改造、実現すれば興味尽きないものとなったであろう。ともあれ、この中之島地区の面白さは現状でも充分なもの。文化を愛する方々には、是非足を運んで頂きたい。

by yokohama7474 | 2017-08-05 23:13 | 美術・旅行 | Comments(0)
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