山形旅行 その 2 羽黒山、本明寺、注連寺、大日坊、酒田市 (土門拳記念館、本間家旧本邸、海向寺)

さて、前回の記事に続く山形旅行記の 2日目。この日はいよいよ念願の出羽三山詣での日である。出羽三山とは一体何か。もちろん、月山 (がっさん)、羽黒山、湯殿山のこと。一般的にはほら貝を吹いて山野を駆け巡る山伏のイメージで知られる、修験道 (しゅげんどう) の聖地である。これは、羽黒山の入り口に立っている石碑。
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ただこの出羽三山、知れば知るほどに謎の多い地域である。例えば、三山という名称とは裏腹に、この中で実際に山であるのは、月山 (1,984m) のみであるらしい。羽黒山 (414m) はその北端の一角であり、また湯殿山は、月山の南端に位置する渓谷なのである。これが山形県のホームページに記載されている出羽三山の位置関係。確かに、この三山が近い地域に連なった地形になっていることが分かる。
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私は以前ふと疑問に思ったことがある。それは、この地域 (山形県というよりは秋田県というべきなのか ? 実際には県境である) の代表的な山は、鳥海山ではないのかということだ。その標高は 2,236m。月山を凌ぐ高さなのである。上の地図の通り、地理的には出羽山地の北側に存在しており、この山こそ出羽三山のひとつにふさわしいのでは? と思ったのである。実は今回、後で述べる大日坊を訪問した際に、この疑問へのヒントを得ることが出来た。寺の方の説明によると、もともと江戸時代に出羽三山というと、この鳥海山、月山、そしてもうひとつは葉山 (はやま) という標高 1,462m の山 (月山の東側に位置する) を指したという。なので、実は現在我々の知る出羽三山とは、近代以降に定着したものであるらしい。それから、日本の近代の宗教政策と言えば、神仏分離であり廃仏毀釈である。このあたりの事情は、なかなか資料がなくて現代の我々には知りえない様々な壮絶なドラマというか、仏教の危機があったらしい。この出羽三山では今でも強く神仏混淆の雰囲気があるが、それに加えて、天台系と真言系の対立もあったようだ。言うまでもなく天台系は、天海僧正以降、江戸幕府に極めて近い。その一方で真言宗は、天台宗と同じ密教系でありながら、高野山の奥の院で開祖空海が未だに生きているという強い信仰によって、この庄内地方に即身成仏の習慣を作り出した。そう、一口に出羽三山の即身仏と言うが、実際に即身仏を輩出したのは、天台宗の月山、羽黒山ではなく、真言宗の湯殿山系の寺院のみであることに注目しよう。私自身、このあたりの事情については勉強不足であるが、最近、「出羽三山の神仏分離」という本も購入したことだし、これからいろいろ調べて行けば、面白い発見があるものと考えている。また、最近読み終えた「仏像ミステリー」という本は、いずれこのブログでもご紹介するが、平易ながら大変面白く、この出羽三山を巡る現実的で人間的な確執について、最後の章で語っているので大変参考になる。

ともあれ、山形旅行 2日目、まず向かった先は羽黒山であった。ここには何といっても素晴らしい国宝建造物と対面しなくては。登山道の入り口近くにある駐車場に車を停め、随身門をくぐると、山道を登るのかと思いきや、そこから下って行くのである。途中、古い社が左右に並んでいる場所を通るが、これがまたなんとも神秘的。
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ほどなく見えて来るのは、滝と、その前に立つ祠である。羽黒山に詣でる行者たちが禊をした (する?) 場所らしい。本当に神秘的な場所だ。
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さあ、お目当ての建物はもうすぐなのであるが、その前に見えるのは、天然記念物の「爺杉」(じじすぎ)。鬱蒼たる森には杉の木が立ち並ぶが、それにしてもこれは明らかに特別な木だ。樹齢は 1,000年を超えるらしく、近くに婆杉もあったが、近年暴風で倒れてしまったらしい。近年って言っても 1902年のことなのですがね (笑)。
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まさに神韻縹渺たるこの杉の佇まいに打たれてその場に佇んでいると、あ、あれ、その右手奥に、これまた堂々たる巨木が見える。だがこの古木は、上に伸びながらも、何やら水平方向の直線を何本か持っている。爺杉と同じく、どう見ても森の地面からすっくと立っているのだが、なんというべきか、そこには何か、爺杉と競い合うような垂直への強い意志が感じられないだろうか。森厳たるその佇まいには、実にただならぬ雰囲気があって、空恐ろしくなるくらいである。
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そう、これこそが、私が今回の旅で即身成仏と並んで対面を心待ちにしてきた、羽黒山の国宝五重塔だ。樹齢 1,000年の杉の木と競い合うように、人智が成し遂げたこの成果は、素のままの木の色を纏って、鬱蒼たる森の中に立っているのである。ここに来れば誰しもが、しばし立ち去りがたい思いに駆られるであろう。このような奇跡的な建造物を眼前にして感じた思いを、日常生活でも折に触れ思い出すことができれば、いかなる困難にも立ち向かえるような気がするのだ。
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来た道を戻り、駐車場に着いたが、その正面にある「いでは文化記念館」に興味を惹かれて入ってみた。「いでは」とは恐らく「出羽」のことであろう、内部には出羽三山の信仰についての様々な資料が展示されている。実際、この羽黒山には数多くの古そうな巡礼者向け宿坊が存在していて、修験道の信仰が未だに現在進行形のものであることが分かる。さて以下のポスターも、異形のものとか摩訶不思議なものに多大な興味を抱く私にとっては大変面白いものだが、タイトルの左隣に見える妖怪のような人物は誰だろう。
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実はこれ、飛鳥時代、崇峻天皇の第三皇子である蜂子皇子 (はちこのおうじ) である。父崇峻天皇が 592年に蘇我馬子によって暗殺されたので、聖徳太子によって匿われ、船に乗って都を脱出、出羽の国に辿り着いたという。そして彼は出羽三山を開いたのである。注目すべきはその特異な容姿である。
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この異形の顔は、多くの人々の悩みを聞いていることでそのようになったと言われているらしい。うーん、面白い。卑しくも天皇の血を引く高貴なる皇子をこのように描くには、きっと何か理由があったに違いない。この蜂子皇子の墓が、驚くべきことに羽黒山の山頂付近に残っている。皇族の墓なので、古墳と同じく、宮内庁の管轄となっているのである。この土の下で一体何を思う、蜂子皇子。
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誠に古い時代の物語がここで展開しているのであるが、前掲の「仏像ミステリー」という本には、大変興味深い説が載っている。それは、この蜂子皇子による出羽三山開創は、江戸時代の創作であろうというものだ。その創作を行った人の名は天宥 (てんゆう)。それまで真言宗系であった出羽三山を天台宗に宗旨替えし、それによって幕府の庇護を勝ち得ようとした僧である。この天宥が、彼以前の歴史書には出てこなかったこの蜂子皇子を開祖として祀り上げたのは、天皇家による権威づけが目的であったらしい。つまり、この皇子は実在していなかったということだ。歴史には必ずそれを作り出そうとする人間の意図が働くもの。この出羽三山の峻厳な自然を前にしても、人間たちの営みはどこまでも人間的なのである。羽黒山の山頂の鳥居の朱は、そんなこと知らぬげに鮮やかだ。
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この羽黒山山頂には、2つの重要文化財建造物がある。ひとつは鐘楼。このように檜皮葺である点が変わっているが、いかにも山岳信仰の雰囲気があって面白い。
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もうひとつは、これも非常に珍しい巨大神社建築で、三神合祭殿。ここに詣でれば、三山すべて回ったのと同じご利益があるという。まあ実際は、そんな楽をしようとしてはいけないのでしょうがね (笑)。この巨大建築、この地域ではほかでも目にしたように、邪鬼が柱を支えていて面白い。
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さてそれから私たちは、湯殿山系の即身成仏を見たいと思って車を走らせた。おめあては後述の注連寺と大日坊であったのだが、その途中にたまたまもうひとつ、即身成仏を祀るお寺の前を通りかかり、立ち寄ることにした。つまり、最初から庄内地方の全 6体の即身仏を拝観しようという意図はなく、本来なら飛ばしてしまったかもしれないこの場所の前を通りかかるとは、これも何かのお導きかと思ったのである。お寺の名前は本明寺で、祀られているのは本明海上人。
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実はお寺で伺って驚いたことには、この本明海上人は、庄内地区の 6体の即身成仏の中で最も古く、江戸初期、1683年の入定 (にゅうじょう) である。ということは、この地区で後に即身成仏を目指した僧たちの深い尊敬を集めた仏さまであったわけだ。境内にはその入定跡も残っており、大きな石碑が立っている。壮絶なる思いを今に伝える場所である。
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そして次に向かった先は、注連寺。ここは、作家森敦が芥川賞受賞作「月山」を執筆した場所であり、また、弘法大師ゆかりの七五三掛 (しめかけ) 桜という、最初は白く、そしてピンクに色が変わって行く珍しい桜がある。
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また本堂の中には現代アートの天井画がいくつもあって興味深いが、なんと言ってもこの寺の主役は、即身成仏、鉄門海上人であろう。
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この方は庄内地方の即身仏でも最も有名な人ではないだろうか。1768年の生まれ。もともとは川で働く労働者であったが、武士とトラブルになって相手を殺してしまい、注連寺に駆け込んで出家したと言われている。出家してのちは様々な社会事業を行い、その事績をたたえる石碑は、東北地方各地で実に 194基も見つかっているという。また、雨乞いのために左目をくり抜いたり、昔のなじみの遊女が寺を訪れたとき、修行にかける自分の気持ちを表すために自らの睾丸を切り落としたなど、凄まじいエピソードが残る。まさかと思いたくなるが、学術調査によって、実際に生前に左目を摘出していたことや、遺体に睾丸がないことも判明しており (因みに彼の睾丸のミイラとおぼしきものが、前回の記事でご紹介した鶴岡の南岳寺に残っているという。手元にその白黒写真もあるが、掲載はやめておこう 笑)。また、地元の漁師たちは、今でもテツモンカイと称するタコ採りの道具を使っていると、以前テレビで紹介していた。そのような鉄門海上人、実は即身成仏修行の途中、1829年に 62歳で亡くなってしまい、死後に人々の手によってミイラ化されたとも言われている。それだけ彼の活動が、人々から深く尊敬されていたということだろう。だがここで私は思うのだ。極限的に厳しい修行を生き延びないと即身仏にはなれない。普通なら栄養失調で死んでしまうような食生活を続けながら、でも死んでは全く意味がないわけで、なんとか生き続けなくてはならない。つまりは、死ぬために必死になって生きるという、なんとも想像を絶するパラドックスの中で彼らの修行は行われたわけだ。私には想像できないが、強い信仰心と、実は上記のような天台系との対立の中にあった真言系の僧侶たちの激しい闘争心が、そのような特殊な習俗を生み出したということか。

そして次に訪れたのは、大日坊。
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ここに祀られているのは真如海上人。なかなかに堂々たる存在感だ。実はこの寺にはほかにも 2体の即身仏があったが、残念ながら焼けてしまったそうである。
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さてここで、最後の目的地である酒田市の海向寺に向かったのであるが、もちろん酒田は、北前船で大成功を収めた豪商本間家 (「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われた、あの本間である) の本拠地であり、また、私の尊敬する写真家土門拳の出身地でもある。なので、いくつか写真をご紹介する。まずこれが土門拳記念館。あのニューヨークの MOMA で知られる (しばらく前に日経新聞で「私の履歴書」を書いていた) 建築家、谷口吉生の設計で、とても美しい。土門拳は古寺の写真も素晴らしいが、人物のポートレートとか、戦後の子供たちの風景を切り取った写真にも、素晴らしいものが多い。
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そう言えば、この土門拳記念館のある公園の一角に、南洲神社なるものがある。南洲とは西郷南洲、つまりは西郷隆盛のことであるが、なぜに西郷を祀る神社が酒田にあるかというと、戊辰戦争の際に朝敵となってしまった庄内藩に戦後処理のために派遣されたのが西郷で、その人間味あふれる寛大な統治に、庄内の人たちは西郷を深く尊敬したという。そのような縁で、西南戦争でも旧庄内藩から派遣された兵士が亡くなっているし、戦後の西郷の名誉回復に庄内の人たちが奔走したという事情もあったようである。銅像で西郷と話し合っているのは、庄内藩士、菅 実秀 (すげ さねひで)。
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本間家の旧本邸は、時間がないながら、なんとか覗くことができた。本間美術館や、旧鐙屋、山居倉庫なども面白そうであったが、今回は時間切れ。いつか雪辱を果たしたい。これが本間のお屋敷。
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そして今回最後の目的地、海向寺へ。ここには、コンクリート作りの収蔵庫内に、2体の即身仏がおわします。本堂の軒下には、先の羽黒山の三神合祭神と同様、邪鬼が柱を支えていてユニークだ。
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ここに並んでおられるのは、忠海上人 (1755年入定) と、円明海上人 (1822年入定)。空調のよくきいた静かな収蔵庫でのおふたりとの無言の対面に、ほかの寺にはない緊張を感じることとなった。
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なお、上でご紹介した注連寺の鉄門海上人の使用した鐘がこの寺に展示されていた。少し叩いてみると、カーンと乾いた音がした。
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今回対面することのできた 6体の即身仏、お姿や色やかすかな表情にもそれぞれ違いがあることが分かった。色については、これまでに保存の目的で手や顔に防腐剤を塗ったり、また目の回りだけ色をつけるということもあったため、個々の即身仏で違いが出てしまったという。また時代的にも、最も古い本明海上人が 1683年の入定、最も新しい鉄龍海上人が 1878 - 80年の入定と、約 200年の幅があるわけで、東北地方における即身成仏の習慣が根強く継続したことが分かる。生前は荒くれ者であった人もおられるが、壮絶な修行の末、現在では仏さまとして祀られていることは、人々に勇気を与えると言えるであろう。実はそれぞれのお寺でお聞きしたことには、どの仏さまも 12年に一度、丑 (うし) 年に衣を新調して着せ替えるらしい (但し、大日坊のサイトには、6年に一度で、丑年と未 (ひつじ) 年とあるが)。その際に古い着物は裁断してお守りの中に入れ、一般の人に販売する。そのようなことも、即身仏という存在が未だに地元の人々の心の支えになっていることが分かるのである。海向寺の境内に住んでいるこのノラネコ (いい毛並みのようだが) を見ても、生きとし生けるものへの愛着を感じてしまう私であった。それにしてもこのネコちゃん、もうちょっと人間になついてもよいのでは ? (笑)
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さて、海向寺を辞そうとして車を発進すると、実に素晴らしいナイス・サプライズに遭遇した。あの滝田洋二郎監督、本木雅弘主演の映画「おくりびと」のロケ地のひとつが、なんと海向寺の真ん前であったのである!!
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「小幡」という、既に使われていない割烹の建物だが、確かに見覚えがある。
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そうそう、冒頭の方で、主人公が新たな勤め先を探すという、こんなシーンがありました。
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私はこの映画が好きなので、ロケ地にたまたま巡り合えて、単純にハッピーだったのであるが、調べてみるとこの映画、酒田や鶴岡の各地でロケを行ったようである。生と死がすぐ近くで隣り合い語らいあう即身成仏の土地、庄内地方において、このような生と死にまつわる映画が撮影されたとは、なんとも感慨深い。かつてこの地を走り回った現在の仏さまたちも、この映画の撮影を温かく見守ったことであろう。

前回の記事の冒頭で、今回の旅行をクラゲ・アンド・ミイラの旅などと軽口叩いてしまったが、実際問題、その対照は興味深い。つまり、生命の維持を全く他人任せとして水中をフワフワ漂うクラゲと、この上ない激しい意志で生をつなぎ、そして自ら死まで決してしまう即身成仏。これほど極端な対照はない。我々の人生においては、そのどちらの極端な事態も、通常は発生しないのであるが、そのような対照に心を留めることで、普段見失いがちなことに気づくことができるかもしれない。なので、山形でクラゲ・アンド・ミイラの旅、大いにお薦めしたいと思います!! 最後に、加茂水族館自慢の、直径 5m の大クラゲ水槽の写真をアップするので、瞑想にご活用下さい。
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by yokohama7474 | 2017-08-14 01:04 | 美術・旅行 | Comments(0)
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