ヒトラーへの 285枚の葉書 (ヴァンサン・ペレーズ監督 / 英題 : Alone in Berlin)

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荒唐無稽のストーリーの娯楽大作にも映画の面白さはもちろん大いにあるものだが、その一方で、歴史的な事実に材を採った社会的なメッセージを持つ映画に接することもまた大事であろうと考える。あえて言えば、そのように様々な違ったタイプの作品に接することで、映画という表現分野の持つ力の多様性を実感できるし、見る方の鑑賞の幅も広がろうというものだ。この作品など、そういう問題意識のある人には、かなり興味をそそられるタイプの作品であると思う。題名の示す通り、第二次大戦中のドイツを舞台にした物語。ストーリーは分かりやすい。戦争で我が子を失ったドイツ人夫婦が、それを機会にナチ政権を非難する匿名のカードをベルリンの街中にばら撒き始める。当然ながらゲシュタポ (秘密警察) が犯人を探し求めるが、なかなか見つけることができない。夫婦が街中に配って歩いたカードの数は、実に 285枚。だが、果たしてナチの手から逃げおおせるのか・・・というもので、実話に基づいていることもあり、いかにも重いテーマを扱っている。私個人はしかしながら、この作品が、映画としてそのテーマを充分に咀嚼し、歴史に残るような水準の作品になっているかと問われれば、残念ながら否定的な答えになってしまうだろう。以下、徒然に印象を綴ってみよう。

ここで夫婦を演じているのは、アイルランド人俳優のブレンダン・グリーンソンと、英国出身のオスカー女優、エマ・トンプソン。
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私がこの映画に注目したのは、まず第一にはエマ・トンプソンの出演であったのだが、なぜかここでの彼女は、時にかなりパターン化された演技をしているように思われてならない。もちろん、期待通りの非凡なシーンもあるが (ナチ親衛隊中佐の夫人を責める箇所など)、どうだろう、ちょっと遠い目をしているシーンが多すぎないか。ここでの彼女の役回りが、無謀な試みを始める亭主に対して、彼を咎めながらも同調する忍耐強い女性の姿であることは分かる。そしてその裏に、この夫婦の堅い絆があることをこの映画が示そうとしていることも分かる。だが、それでもやはり私は納得しない。例えば、昔を思い出して二人だけの時間に慰めを見出そうというシーンは、ちょっとこの映画の趣旨に反するのではないか。戦争下、愛する息子を失いながらも必死に生活を送る夫婦に、甘い慰めを考える余裕があったか否か。もしかすると作り手の意図は、悲惨な現実を描きながら、観客に癒しを与えたいということなのかもしれないが、もしそうなら、それはやはり映画の基本トーンに沿わないように思うのだ。一方のブレンダン・グリーンソンは、これまで数々の映画に出演しているものの、主演映画は少ないようだ。いわば彼の地味さが、この父親役に適しているとの判断による起用であろうか。確かに、寡黙で不器用ながら、心の中には強いものを持って決然たる行動に出るという人物像は、よく出ている。だが、やはりここでも、何かが足りないもどかしさを否定することができない。それは恐らく、普通の人に潜む狂気のようなもの、それが出て来ていないからではないか。実はほかにもう 1人、重要な役柄の登場人物がいる。この人だ。
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ドイツ人俳優、ダニエル・ブリュール。ここでの役柄は、主役夫婦を追い詰めるゲシュタポの警部である。タイプとしては、彼の名を一躍高めた「ラッシュ / プライドと友情」における天才レーサー、ニキ・ラウダに近いものがあると言えるだろう。つまり、優秀な能力を持ちながら、他人とのコミュニケーションには問題があり、その行動が冷徹一辺倒に見えながらも、実は人間性もあるという点においてである。だが大きく違う点が一つある。それは、ここでは彼は現場をすべて任されているわけではなく、メンツを重んじる党 (親衛隊) からの強いプレッシャー、しかも人の命にもかかわるようなものの下にいるという点だ。そのつらい立場と、一方で妥協のない強い信念をよく表現しており、私は彼こそがこの映画における最大の功労者であると思う。

と書いていて、ひとつ頭をよぎったことがある。それは言語。この映画はドイツを舞台にしていて、登場人物の役柄も全員ドイツ人である。にもかかわらず、使われている言語は英語なのだ。これは些細なようでいて、やはり大きな問題であるように思う。戦時下のドイツをリアルに描くなら、ドイツ語の響きでなければ、本当の意味の切実さは出ないのではないだろうか。これは私が音楽好きで、オペラにおける原語主義に毒されているということもあるのかもしれないが、でも、「ハイル・ヒトラー!!」と敬礼する人たちが英語で会話しているなんて、大いに違和感があり、やはりおかしいと思う。実はこの映画、英・仏・独の合作映画であり、世界での公開を前提にするなら、商業上英語が最も有利という事情があったのかもしれない。だが。だがである。こんなことを言ってもせんないと思うが、例えばメル・ギブソンがこの映画を撮るとしたら、やはりドイツ語で撮ったと思うのである。言語の選択はひとえに、作り手の信条の問題。この監督には違った信条があったということだろう。これについては後述する。

ここで話題になった本作の監督は、実は自身で脚本も書いているのだが、その名はヴァンサン・ペレーズ。どこかで聞いた記憶があると思ったら、この人でした。
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そう、あのパトリス・シェロー (もちろんオペラファンにもおなじみの名前) 監督の「王妃マルゴ」で、あのイザベル・アジャーニ (最近活動を聞かないですねぇ、でも素晴らしい女優) と共演していたあの俳優なのである。この映画を見たのはちょっと前と思っていたが、調べてみると 1994年。もう 23年も経っているかと思うと空恐ろしいが、スイス出身のこのヴァンサン・ペレーズは現在 53歳。まだまだイケメンの面影は充分ですな。
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この作品で彼が描きたかったのは、特別な英雄ではない普通の夫婦が、恐ろしいナチス体制下で自分たちの声を発したということで、その意義は現代に我々にも響くものだと思ったからだという。また、ドイツ人とスペイン人の血が流れている自分のルーツを探ると、ドイツ人の叔父が戦死していたり、スペイン人の祖父がファシストに銃殺されていたりという事実が分かったことが、本作の制作を後押ししたようだ。実はこの映画には原作があり、ハンス・ファラダというドイツの作家が 1946年、死の 3ヶ月前に発表した「ベルリンに一人死す」(邦訳も出ているようだ) である。本作の原題、"Alone in Berlin" は、その原作の英題と同じなのであろうか。この「ベルリンに一人死す」という小説は、ファラダがゲシュタポの資料に基づいて、つまりは現実に起こったことを題材として、命を削るほど凄まじい勢いで書き上げたものだが、2010年になってようやく英訳が出版され、ベストセラーになったらしい。ペレーズがこの映画を英語で撮ろうと思ったのは、それが理由だとのこと。これが原作者のファラダ。ナチから睨まれ、精神的葛藤から極度のアルコールと薬物依存に走ったらしい。
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確かに、この作品が突きつける重いテーマは、我々ひとりひとりに、独裁制のもとで自らの意見を明確にする勇気が果たしてあるか、という問いであろう。もちろんそこには命の危険があり、そう軽々に「自分でも同じことをやっただろう」と言える人は、まずほとんどいないであろう。その一方で、追いかけるゲシュタポにも様々な人間の確執やメンツ、階級制があり、決して一枚岩ではなかったこともここで描かれていて、興味深い。なにせ、泣く子も黙るゲシュタポの警部がこんな顔になってしまうのだから、世の中複雑なのである。そして結末では、もっと複雑なことが起こってしまうのである。
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映画の内容については厳しいことを書いてしまったが、この映画のテーマの重さ自体には異論の余地はない。なので、事実としての重みは、充分受け止めたいと思う。どの時代を生きるにおいても、歴史に学ぶことほど大切なことはないのだから。

by yokohama7474 | 2017-08-17 00:25 | 映画 | Comments(0)
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