没後 90年 萬 鉄五郎展 神奈川県立近代美術館葉山

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萬鐡五郎 (よろず てつごろう 1885 - 1927) の名は、日本の近代の美術に興味があれば必ず知っている名前であるが、一般的な知名度はどうであろう。実際、大正モダニズムを代表するような彼の作品は、その分野に関連する展覧会では必ず出品されているものではあるが、日本の洋画の中での位置はどうであろうか。だが、ここに彼の評価を端的に表すひとつの例がある。上のポスターの左端に掲載されている彼の作品、東京国立近代美術館所蔵の「裸体美人」(1912年) は、なんと国の重要文化財に指定されているのである。明治以降に描かれた日本の洋画の中で、重要文化財に指定された作品が一体何点あるのだろう。ふと思い立って、文化庁のサイトで、すべての重要文化財の絵画 1,838点をざっと調べてみた。ヴィジュアルなイメージなしに名称だけでざっと見ただけなので、間違っているかもしれないが、重要文化財の洋画の総数は 18。まあこの数字が間違っていたとしても、せいぜいが 20作品程度であることは間違いない。そして、日本の洋画家として欠くことのできない名前である梅原龍三郎と安井曾太郎の作品はそこには入っていないのだ。この 2人の巨匠画家たちの生年は 1888年だから、この記事の主人公である萬よりも 3歳下なだけなのである。もちろん、今後彼らの作品も重要文化財指定を受けることになるであろうが、現時点で見たときに、明治期の錚々たる洋画家たちの中で、フォーヴィスム風の荒々しい作風を持つ萬の作品がこれだけの高い評価を得ていることは、非常に興味深いと思うのである。因みにこの展覧会は、この記事を書いている 9/3 (日) に、私が見に行った会場である神奈川県立近代美術館 葉山での開催は終了し、この後は 9/16 (土) から 2ヶ月間、新潟県立近代美術館での開催となる。これが萬の肖像写真。
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そして、彼の生没年に注目しよう。彼は結核のために、満 41歳で亡くなっているのだ。だが、イメージとしては夭逝の天才という感じではなく、むしろ、かなりの数の作品を残した人という評価ができるのではないか。未だに全貌をよく知られているわけではない萬の画業を辿るには恰好の機会であり、私はこの展覧会を堪能した。展覧会はまず、萬が未だ画家を目指す少年であった頃の作品から始まる。これは、1898年、彼が 13歳の頃の図画帳。現在の岩手県花巻市の生まれであり、東北らしい、正確さを追求する忍耐を感じさせる画業の始まりだ。
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これはその 3年後、16歳の頃のもので、当時神田にあった速成文学会という画塾の通信教育。朱書きでの指導に真摯に向き合う少年の姿を伺い知ることができる。
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これは 1902年、17歳の頃の水彩画で、「中門 (八丁)」。何の変哲もないようでいて、扉の向こうの風景や、手前の地面に生えた赤い植物など、何か単なる描写を越えた画家の思想のようなものが感じられはしないか。
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これは 1905年、最初期の油彩画で、「静物 (コップと夏みかん)」。20歳の素直な感性が感じられる。
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萬は 1907年に東京美術学校 (現在の東京藝術大学) に入学し、黒田清輝らについて学ぶ。これは 1908年の「雪の風景」。故郷の風景であろうか。詩情あふれる作品であるが、通り一遍の雪景色ではない点、さすがである。
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これは 1909年の作品で、授業において描かれたのであろう、「裸婦」。この色遣いは、早くも後年のフォーヴ風の雰囲気を纏っているように思われる。
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萬は自画像を多く描いているが、これは 1911年、「点描風の自画像」。なるほどここでは、後期印象派風でもあり、一種表現主義的でもあるように思われる。萬は自画像を多く描いており、この後も何点かの自画像を見ることになるだろう。
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これも素晴らしい作品で、1911 - 12年の「落暉 (荷車ひきのいる風景)」。激しい西日 (題名の落暉 = らっき = とは日没のこと) は、ここでは幾千の光彩溢れる光線の束となって街に降り注ぐ。なぜかしら懐かしいこの風景。
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そして 1912年についに彼は生涯を通しての代表作を描く。上でも触れた、東京国立近代美術館の所蔵になる重要文化財、「裸体美人」である。1912年とは、明治の最後の年、明治 45年である。大正というモダニズムの時代に先駆けて、このような自由な感性を持ちえた萬は、本当に稀な人であると思う。これはほとんどフォーヴの世界。フォーヴィスムは、1905年にパリで開かれたサロン・ドートンヌの出品作から名付けられたもの。そのわずか 7年後、27歳の萬に、一体何が憑りついたのであろうか。この赤と緑の補色、空にポカリと浮かんだ雲、女性の腋毛など、実に強烈なのである。
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展覧会にはこの作品の下絵や習作が展示されている。この習作を見てみると、完成作よりもはるかにおとなしい。やはり制作の過程で何かデモーニッシュなものが彼に憑りついたのであろうか。
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ここで再び、萬の自画像の数々をご紹介しよう。まずは大原美術館所蔵の「雲のある自画像」(1912年作)。「裸婦美人」の雲はほぼ白であったが、ここでは緑と赤の、やはり補色関係で表されている。不思議な感覚の自画像だ。
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これもやはり「雲のある自画像」(1912 - 13年作)。これはまたちょっと危ない雰囲気をたたえた作品であり、目の下の隈は緑色である。
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そして今度は「赤い目の自画像」(1913年作)。これは目だけでなく全体が赤を基調とした作品で、短期間の間に自らをモデルにしてスタイルを模索する画家の魂が感じられよう。
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これは 1915年の「自画像」。今度はプリミティヴというかルオー風というか、また全然違った作風である。
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同じ 1915年の「目のない自画像」。うーん、ついに怪談の中の「むじな」になってしまったか (笑)。画家をこのように追い込んだものは一体何だったのか。世界における大規模な戦争か、それとも全くの内面的な要素であったのか。
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萬の目は浅草の繁華街にも向くこととなった。これは 1912 - 13年作の「軽業師」。ここで想像するのはやはりシャガールか。
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これも同時期、1912年の「飛び込み」。色と形態が躍動している。
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日本の洋画家によくある通り、萬も時に日本画を描いて、新たな境地を模索している。これは 1914年の「木小屋」。なかなかの情緒ではないか。
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これも斬新な表現だ。同じ 1914年の「怒涛の図」。砕け散る波が、あたかもモノトーンの点描画になっていて面白い。
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1915年に描かれた水墨による抽象画は非常にユニークだ。この「構図」など、どう見てもカンディンスキーの模倣である。
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彼が「裸体美人」を自らの最高傑作と思ったか否かは定かではない。というよりも、多分通過点くらいにしか思っていなかったろう。油絵の世界での試行錯誤はその頃も続いていた。これも 1914年の「男」。立派な筋肉であり、昔の実直な日本人を思わせるが、その体躯からは、どこかセザンヌを思わせるような、微妙な幾何学性が感じられると思う。
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萬の絵画表現は凄みを増して行くのだが、そこには何か、迷いも感じることができるように思う。この 1915年の「土沢風景 --- だんだん畑のある ---」は、曲がりくねった松が面白いが、画家の暗い心情を表した画面になっているのではないだろうか。
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1918年の「かなきり声の風景」を見ると、さらに画家の内面がさらけ出されたものになっていて、色遣いが毒々しい分、どこか痛々しい。
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これは 1918年の「薬罐と茶道具のある静物」。静物画でありながら対象物が動いているような表現であり、それであるがゆえに、キュビスム風に様々に異なる角度から見たモノに実在感を感じるのであろうか。
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キュビスムと言えば、これも萬の代表作のひとつと言えるであろう、1917年作の「もたれて立つ人」。上で見たのっぺらぼうの自画像とキュビスムの邂逅であるが、ここでは対象は明らかに女性である。代表作「裸体美人」からわずか 5年で、萬は遠いところにまで到着している。
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これは 1918年の「郊外風景」。対象物を大きくとらえ、大胆な色遣いで運動性まで感じさせる。
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さてこれは、1922年に描いた水墨画「砂丘」。鉄斎かとみまがうばかりの南画風表現ではないか。きっと萬という人は、強い生命力を持っていて、目に見える世界にも様々な種類があった人だったのだろう。
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これは 1923年の「少女 (校服のとみ子)」。ここでは明らかにマティス風の表現が試みられていて、しかもそれがかなりサマになっている。
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このように様々なスタイルを逍遥して精力的な活動を展開して来た萬であるが、1927年、41歳の若さで亡くなってしまう。結核であった。そんな彼が未完成として残した「裸婦 (宝珠をもつ人)」(1926 - 27年作)。和風のようでもあり洋風のようでもあり、不思議な雰囲気だが、ここでこの人物が宝珠を持っていることから、仏教的なイメージも醸し出されている。
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実は、萬が生まれた岩手県には、坂上田村麻呂以来の毘沙門天信仰が盛んで、いくつものユニークな古い毘沙門天像が残されている。この裸婦が宝珠を持つ姿勢は、花巻市の成島毘沙門堂の本尊との共通性が指摘されている。これは本当に迫力満点の重要文化財であり、私も 35年ほど前に一度見たきりであるが、また東北の仏像詣でに出掛けたいと思わせるに充分なものなのである。それにしても、萬が毘沙門天のイメージを使おうとしたのなら、その理由は何だったのであろうか。
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萬が他界した 41歳とは、画家としてまだまだこれからという年齢である。その短い様々なタイプの作品を数多く残したこの画家の画業を一言でまとめるわけにはいかないが、ある意味では、日本の洋画家としての利点とハンディキャップを両方意識していた画家だということはできるだろう。「裸体美人」に感じるモダニズムだけでない人だということを実感させる、大変に有意義な展覧会であった。

by yokohama7474 | 2017-09-03 23:28 | 美術・旅行 | Comments(2)
Commented by 丸山 伸行 at 2017-09-05 08:05 x
この企画のせいで花巻の記念館はスッカスカなのでした😅ふんだんに作品を織り込むこのブログのおかげで、すっかり行った気になれました❗35年前とは、「はずみで」東北に旅したときのことでしょうか❔松本竣介と並んで岩手の生んだ夭逝の画家ですね😢
Commented by yokohama7474 at 2017-09-05 21:06
> 丸山 伸行さん
これは大規模な展覧会ですからね。現存する萬の作品はほぼ全部集められたのではないでしょうか。松本俊介のような、いかにも夭折の天才というイメージはないですが、地元では大切にされているのでしょうか。「はずみ」東北旅行、また出ましたね (笑)。はい、そういうことになりますね。
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