ワーグナー : 楽劇「神々の黄昏」(飯守泰次郎指揮 / ゲッツ・フリードリヒ演出) 2017年10月 7日 新国立劇場

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このオペラを見る前日の私と会社の同僚の会話。
私「明日、またオペラ見に行くんですよ」
同僚「あ、そうなんですか。私も本格的にオペラを見たことはないんですけど、子供の頃にちょっとピアノをやっていましてね、クラシックも結構好きなんです (ドヤ顔で)。ほら、よくあるじゃないですか、オペラ名アリア集みたいな CD。ああいうのを聴くと、オペラっていいなぁって思いますよね」
私「確かにそうですよね。でもね (と、ここで声を潜めて)、今回聴くオペラには、全くアリアがないんです」
同僚「???? そんなオペラってあるんですか?」
私「それがあるんです。このオペラは、休憩も合わせると 6時間くらいかかるんですけど、幕によっては 2時間ぶっ通しで演奏されて、しかもその間、音楽の中断は一切なし。アリアの後で拍手喝采なんていうこともないんです。しかも話の内容が暗くて重い」
同僚「(信じられないという顔で) 6時間???? そんなオペラ、見に行く人いるんですか。だって、すごい忍耐を強いられるじゃないですか。楽しくないですよね。客席はガラガラなんじゃないですか」
私「(大きくうなずいて) まぁ、そう思うのが普通ですよね。でも、大混雑なんですよ。日本人ってド M なんですかね」
同僚「へぇー、オペラって楽しくて華やかなものかと思っていました。(困惑顔)」

そんなわけで、世間一般の人々の通常の感覚では、なかなかに忍耐を必要とする、ワーグナーの超巨大オペラ、4部作の楽劇「ニーベルングの指環」の最終作、楽劇「神々の黄昏」は、土曜日の公演ということもあってだろうが、チケットは完売の大盛況。東京、初台にある新国立劇場の創立 20周年に当たる今年の、秋からの新シーズンの幕開けなのである。今シーズンは、バイロイトでの修行経験を持ち、ワーグナー指揮者として盛名を馳せるオペラ部門の芸術監督、飯守泰次郎の最後のシーズンでもある。彼がこの劇場で 3年がかりで取り組んで来たワーグナーの「指環」シリーズの、掉尾を飾る公演である。既に初日は一週間ほど前の 10月 1日 (日) に迎えていて、千秋楽である 10月17日 (火) までの間に、6公演が行われる。飯守は 1940年生まれであるから、既に 77歳。
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このオペラハウスには未だ、専属のオーケストラというものが存在しない。オーケストラピットに入る回数が多いのは東京フィルであるが、例えばこの「指環」ツィクルスを振り返ってみると、最初の 2作、「ラインの黄金」と「ワルキューレ」はその東京フィルであったが、前回「ジークフリート」は東京交響楽団、そして今回の「神々の黄昏」は読売日本交響楽団 (通称「読響」) なのである。指環のツィクルスを、このように違った 3団体が演奏するというオペラハウスも珍しいと思うが、換言すればそれは、東京に存在する数々のオケが、それぞれの活動に忙しいということであろう。世界のどのオペラハウスも、その活動において例外なく大きな挑戦になるこのワーグナーの「指環」ツィクルスを、創立 20周年にして既に 3回り目、しかも今回は過去 2回と異なる演出とは、本当に東京はどうかしている。しかもそれぞれが大入り満員ということは、よほど日本の聴衆はド M 揃いであるのか。私は今回の 4部作の上演のうち、「ワルキューレ」だけは残念ながら見逃したが、その他の 3部作は見ることができた。もちろんそれが何から何まで世界最高水準のワーグナーとは言わないが、とにかく東京でこれだけワーグナー演奏が行われている中、オペラハウスでのツィクルス上演の価値は計り知れないし、特に今回は、芸術監督である飯守の指揮も面目躍如であり、とにかく、ド M と言われようとも、このような音楽を実際に体験することには、ちょっとほかにない価値があるものと断言しよう。

以前の「ジークフリート」の記事でもご紹介した通り、この公演は新国立劇場では新たなものなのであるが、ドイツのカリスマ演出家であったゲッツ・フリードリヒ (1930 - 2000) が、もともとフィンランド国立歌劇場で晩年に手掛けたもの。
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もちろん伝統的な演出ではないものの、それほど理屈っぽかったり過激性を纏っているわけでもなく、決して音楽の流れを邪魔することはない。むしろ、フリードリヒにしては大人しすぎるような印象すらある。プログラムには彼がフィンランド国立歌劇場での新演出の際に書いた文章が載っているのだが、そこに書かれているのは、まず、「指環」4部作の最初に登場するアルベリヒが、この「神々の黄昏」の終結部に、「世界の舞台から完全に退場すべく再登場する」こと。実際にクライマックスにアルベリヒがコソコソと姿を見せるが、そんな演出はこれまでに見たことがないので、帰宅してワーグナー自身による台本をチェックしてみたが、やはりアルベリヒの登場は、ト書きには書かれていない。だからそれは、フリードリヒ独自の演出なのである。なるほど、もともと「ラインの黄金」の冒頭で、ラインの乙女たちのところにこの醜いアルベリヒがやってくるところから始まるこの壮大な物語の最後でも、そのアルベリヒを登場させて、一種の円環構造を作り出そうというわけか。実はこの終結部では、もうひとつ、意外なことが起こるのだが、ネタバレを避けるため、そのことに触れることはやめよう。ただ、フリードリヒは同じ文章の中で、「闘争は終わった。また別の新しいドラマが始まるのかもしれない」と含みを持たせていて興味深い。この「神々の黄昏」の実質的な主役とみなすこともできるブリュンヒルデについて彼は、「ワルキューレ」以降彼女が辿った道が、「幸福と苦悩と絶望に満ちた神が見捨てた人間への道」であったという。黙示録の天使のように彼女は救世主となり、この壮大な作品の終曲に登場する「愛による救済の動機」(「ワルキューレ」の第 3幕で、ジークフリートを身ごもっていることを知ったジークリンデが高らかに歌うあのメロディ) にワーグナーのその思いが込められているという。これは作品を知っている人にとっては全く難解ではなく、非常にストレートに響いてくるメッセージである。フリードリヒの言葉でもうひとつ面白いのは、この「神々の黄昏」でブリュンヒルデがジークフリートの暗殺に加担するのは、「嫉妬のゆえではなく、『なすべき大義を果たさず、自分を失って道化を演じる』ジークフリートの姿に耐えられなかったからだ」という主張。確かにその通りである。これが大詰め、ヴァルハラが炎に包まれる場面。
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この演出では、序幕の 3人のノルンが操る運命の糸は、実際に赤くて長いロープであり、それが切れてから第 1幕に入るのだが、このロープは全編に亘って床の上に存在し続け、なんらかの境界線を作り出しているようである。また、地上からは何本も棒が突き出ており、これらの簡易な舞台装置が、全体の情景を形作る。その舞台は一貫して暗い。
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上にも書いた通り、この演出においては、舞台で起こることの意味を深読みする必要はさほどなく、それゆえに音楽を邪魔しないものであったし、その一方で、もしどうしてもその意味を考えたい人がいたとすると、それなりに知的な刺激を受けることも可能である。大演出家が晩年に辿り着いた自由さを感じることができるような演出であると言えるだろう。私はオペラを見ながらそれほど思考を巡らす方ではないが、それでもここで気づいたことはいくつかある。例えば、「指環」四部作において、この「神々の黄昏」の独自性は何だろうかということ。つまり、ほかの 3作にあてはまって、この作品にはあてはまらない事柄である。ひとつは、この「黄昏」だけ、神々の長たるヴォータンが登場しないこと。もうひとつは、この「黄昏」だけ、合唱が登場するということだ。片方に眼帯をして槍を持つヴォータンの姿はここにはなく、その代わりに槍を持っているのは、ジークフリートを卑劣な手段で殺害するハーゲンである。そしてこの演出では、ハーゲンの属するギービヒ家の人々、つまりは合唱団であるが、彼らもみな、軒並み槍を持っている。これは、前作までは神々の長たるヴォータンだけに許されていた槍の携行が、今や人間たちにも許されており、しかも、片目を犠牲にすることなく自由に各々がその権利を享受しているということではないか。つまり、既に神々の君臨する世界は崩壊していて、人間たちがのさばる世界に移行していることが象徴されてはいないだろうか。ヴォータンが登場せず、合唱団が登場するこの作品ならではの演出である。
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演奏については、私はまず指揮者飯守の並々ならぬ気合に圧倒された。指揮ぶりを見ていると非常に丁寧で、オケの伴奏にも事細かに指示を出していたが、やはり、新国立劇場オペラ部門の芸術監督として、自らの能力をすべて出し切ろうという決意が見られたものと思う。読響もその指揮によく応えていて、力感漲る音を奏でていた。ときにはさらなる洗練と美麗さを求めたい部分がないではなかったが、まずは力感の表明なしに、この作品は演奏できない。その意味で、第 3幕でハーゲンが登場して人々を集めるシーンから、ジークフリートの殺害、そして葬送行進曲までは圧巻で、作品の神髄に触れることができる素晴らしい流れが作り出されていた。これはリハーサルの様子。
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歌手陣に関して言うと、ジークフリートのステファン・グールドの充実した歌いぶりはいつも通りだし、随分以前からバイロイトに出ているペトラ・ラングのブリュンヒルデは、時に一本調子の部分も聴かれたものの、終盤の表現力はさすがであると思った。グンターのアントン・ケレミチェフ (ブルガリア) やハーゲンのアルベルト・ペーゼンドルファー (オーストリア) も安定した出来。それから、グートルーネの安藤赴美子は、以前もこのブログで、ピエタリ・インキネン指揮日本フィルの「ラインの黄金」演奏会形式上演におけるフライア役に触れたが、今回も、外人勢に囲まれてその小柄さが目立つのは気の毒ではあったが、一貫して凛とした歌声を聴かせ、好感を持つことができた。だが、やはりこの公演で最も感銘を受けたのはこの人、ヴァルトラウテ役のヴァルトラウト・マイヤーである。
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ワーグナー歌いとして世界に君臨してきたメゾ・ソプラノであるが、既に 61歳。その歌唱にはさすがに年を感じる部分は否めないが、私が感心したのは、年齢的なことを越えて、役柄の本質を表現力で聴かせてしまうその抜群の技量である。やはり、そのプロフェッショナルな経験と不断のトレーニングが、そのような歌唱を可能にしているのであろう。役柄は、最近のヴォータンの落ち込んだ様子を告げ、指環をラインの乙女たちに返すことをブリュンヒルデに告げるワルキューレのひとりであるが、短い登場シーンの割には重要度が高い。崩壊に突き進む神々の世界の実情と、奸計に陥っているにも関わらずジークフリートの愛を信じようとするブリュンヒルデの強い思いが、これによって聴衆に伝わるからだ。今回初めて新国立劇場の舞台に立ったマイヤーであるが、さすがの貫禄を見せつけ、日本の若い歌手たちにとっても大きな刺激になったことであろう。

このような上演、課題があるからこそ意義がある。以前も述べたことだが、東京にオペラハウスがあって、日本人外国人入り乱れてこのような大作に取り組むことの文化的意義は大きく、我々はこれを誇りに思いたいと思う。これからの 20年、またその先の 20年、いかなる進化がこの新国立劇場に起こるのか、楽しみにしたいと思っている。

さて最後に、この公演のプログラムに (新国立劇場ではいつもそうであるように)、日本における「神々の黄昏」上演史という記事が載っているので、そのことについて触れてみたい。そもそもこの作品、全曲の日本初演は 1987年まで達成されなかった。それは、朝比奈隆指揮の新日本フィルによる演奏会形式上演。そのすぐ後には、ベルリン・ドイツ・オペラの来日公演で「指環」ツィクルスが日本初演され、それが「神々の黄昏」の舞台上演としての日本初演でもあった。これらを含め、今までに日本で行われたこの曲の上演は、以下の通り。
 1987年 : 朝比奈隆指揮 新日本フィル (演奏会形式)
 1987年 : ベルリン・ドイツ・オペラ来日公演 (ヘスス・ロペス・コボス、ハインリヒ・ホルライザー指揮)
 1991年 : 二期会公演 (若杉弘指揮)
 2002年 : ベルリン国立歌劇場来日公演 (ダニエル・バレンボイム指揮)
 2003年 : 飯守泰次郎指揮 東京シティ・フィル (演奏会形式)
 2004年 : 新国立劇場公演 (準・メルクル指揮)
 2006年 : マリインスキー劇場来日公演 (ワレリー・ゲルギエフ指揮)
 2010年 : 新国立劇場公演 (ダン・エッティンガー指揮)
 2011年 : あらかわバイロイト公演 (クリスティアン・ハンマー、佐々木修指揮)
 2017年 : 東京・春・音楽祭公演 (演奏会形式、マレク・ヤノフスキ指揮 NHK 響)

なるほど、これだけか。作品の規模と難易度、日本のヨーロッパからの距離を考えれば、充分多いような気もするし、非常に限定的だとも思われる。もちろん私もこの中のいくつかは実際に楽しんだが、せっかくなのでここで、朝比奈隆による日本初演のプログラムの写真を掲載しよう。
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今でもはっきり覚えているが、当時学生であった私は、事前にブーレーズ指揮によるバイロイトでのライヴ録音 (アナログレコード) を図書館で借りて曲を予習して行ったが、当日会場でも、配られた歌詞 (日本語訳のみ) を一生懸命に追いながら、演奏を聴いていた。最初の休憩は 90分あったので、東京文化会館を出て上野の坂道を下り、どこかのとんかつ屋に入って、一心不乱に次の幕の歌詞を読んでいたものだ。思えば当時は未だ、このような大作を舞台で見ることは思いもよらなかったが、壮大なスケールに対する憧れは明確に持っていた。そして、長じるに及んで、ド M の道に入って行くことになろうとは・・・(笑)。私の会社の同僚のような人にはとても想像できないだろうが、なぜかこのワーグナー体験には、麻薬的なものがつきまとうのであり、私も当面この麻薬はやめられそうにない。

by yokohama7474 | 2017-10-08 11:48 | 音楽 (Live) | Comments(4)
Commented by 吉村 at 2017-10-12 22:31 x
フリードリッヒの演出は、一見クセがあるようで、ある意味安心してみられましたね。何より、最後の演出には観ている自分が救われた気がしました。
あと、プログラムに書かれていたヴァルハラが最後まで焼け落ちていないのではないか、という論考は、ラインの黄金でのヴァルハラの位置づけの曖昧さも含めて、ワーグナー、そしてドイツ文化における権威・権力と芸術の関係について示唆に富むものだと思いました。
それにしても、こういる水準のワーグナーを繰り返し観れる/聴けるんで、ドMが拡大再生産されるんでしょうね。うれしいことです。
Commented by yokohama7474 at 2017-10-12 22:58
> 吉村さん
おっしゃる通りですね。私にとっては、「エイリアン : コヴェナント」に続いて、ヴァルハラ城の位置づけを考える機会となりました (笑)。ワーグナーの場合は、台本も音楽もひとりの人間から生まれていることもあり、その作品群がこの世に登場して以来宿命的に、純粋に音楽として楽しむのではなく、必ず社会的な観点からの考察が必要なのだとは言えるかもしれません。日本におけるド M の拡大再生産は、今後も続くでしょうね。
Commented by desire_san at 2017-10-16 15:47
Crop Stockさん、こんにちは。
いつもながら、興味深い視点でのレポートを大変興味を持ってブログを読ませていただきました。4部作の楽劇「ニーベルングの指環」に対する「神々の黄昏」の脚本が私には納得できないことはね私のブログにも書きましたが、「神々の黄昏」でブリュンヒルデがジークフリートの暗殺に加担するのは、「嫉妬のゆえではなく、『なすべき大義を果たさず、『なすべき大義を果たさず、自分を失って道化を演じる』ジークフリートの姿に耐えられなかったからだ」という考え方は一理あると思いました。ただ、女性として根が悪人でないことが分かっていて、愛しているジークフリートを殺すことに加担するリュンヒルデに、ハーゲンに踊らされて『自分を失って道化を演じている』という自覚はなかったのでしょうか。悪人と愚か者ばかりの「神々の黄昏」の脚本を見る限り、「闘争は終わった。また別の新しいドラマが始まるのかもしれない」というフリードリヒの見方はあまりに楽観的のように思えます。
 それはともかくとして、ワーグナーのオーケストラの演奏では、異なる複数の旋律を同時に演奏する対位法が駆使され、ライトモティーフが重層的に折り重なって壮大な音楽の響きや多彩な音楽の響きが融合した音楽はすばらしいですし、重要な場面でオーケストラの音楽がストーリーをけん引し、最後の「ブリュンヒルデの自己犠牲」に続く大管弦楽が織りなす壮大な幕切れは、言葉を使わずに総てを音楽に託したことからも、「神々の黄昏」を造った目的は、壮大な「楽劇」を造ることであって、ストーリーは音楽生かすための道具にすぎないようにも思いました。まあ、このようにいろいろな視点で考えられるのが、ワークナーの作品の面白さかも知れません。

私も楽劇『神々の黄昏』を鑑賞した体験を詳しく音楽を私流に解析し整理しながら、このワークナーの素晴らしい楽劇の体験と感動をレポートしたてみました、読んでいただけると嬉しいです。ご感想・ご意見などをブログにコメントいただけると感謝します。


Commented by yokohama7474 at 2017-10-16 23:19
> desire_sanさん
コメントありがとうございます。確かに、ジークフリート殺人事件の経緯においては、ブリュンヒルデにも猛省を促したい点はありますね (笑)。裁判になったら、有罪は免れないかもしれません。ただ、現代人の日常的な感情と、ひたすら美学的な観点で書かれた 19世紀の台本の間には、齟齬があってしかるべきかもしれませんし、そのあたりをどの程度容認できるかによって、個々の聴き手のワーグナーへの関わり方は変わってくるのだと思います。いずれにせよ、ワーグナーの楽劇におけるオーケストラの圧倒的な力は、誰にも否定できないことですよね。ブログ拝見致します。
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