成城学園創立100周年記念音楽会 ハイドン : オラトリオ「四季」井上道義指揮 新日本フィル 2017年10月 9日 すみだトリフォニーホール

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東京・世田谷区にある成城学園は、著名人を数々世に送り出している名門中学・高校・大学である。私なぞ、生まれは大阪で、東京に出てきてからも東側とか北側に専ら縁のある生活を長く送り、その後は神奈川県と海外を転々として、今は東京南部の住民であるわけで、世田谷とか成城とかいう高級な響きには、少しばかり敷居が高い思いを禁じ得ないのである。1917年に成城小学校が設立されたのがその始まりで、今年は創立 100年ということになるらしい。この演奏会はそれを祝って開かれたもの。その成城学園の出身者の中で、有名な音楽家は、小澤征爾と井上道義という指揮者たちである。これは昨年、成城大学名誉博士記を授与された小澤征爾。
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今回の演奏会では、成城学園の OB・OG を中心に結成されて既に 80年の長い歴史を誇る成城合唱団が主役で、オケは成城出身の井上道義が指揮する新日本フィル、演奏会場はこのオケの本拠地、錦糸町のすみだトリフォニーホールである。演奏された曲は、ハイドンのオラトリオ「四季」という大作だ。ハイドンのオラトリオとしては、このブログでも過去 2回採り上げた「天地創造」が最も有名であるが、この「四季」もそれに次ぐ知名度を持つ。「天地創造」の 2年後、1801年に 61歳のハイドンが作曲したこのオラトリオ、台本は、英国のジェームス・トムソンの詩に基いて、「天地創造」と同じヴァン・スヴィーテン男爵が書き上げたもの。「天地創造」では神がこの世界を創造し、最後に人間を創造し、その人間たちが未だ楽園にいるところまでを描いていたが、一転してこの「四季」は、それから幾星霜を経てからの時代、オーストリアの田舎を舞台に、父と娘、そしてその恋人の若い男の 3人が、村人たちとともに四季折々の情景や感興を謳い上げるもの。つまりは、神ではなく人間の行為がテーマになっている。オラトリオは宗教曲であるから、通常は神への信仰を高らかに歌うものであるゆえ、このような世俗の生活を描くオラトリオは珍しい。だがこれぞ、どんな音楽を書いても人間性の謳歌を忘れなかったハイドンの面目躍如。実に楽しい曲なのである。人々が四季の中で平和な暮らしを営み、自然の恵みを享受できるのも、神のおかげであるという発想が基礎にあり、最後は神への賛歌で終わる点は、まぎれもない宗教曲である。だが、例えばベートーヴェンの「田園」も同じような発想でできているが、決して宗教曲でないのと同様、この「四季」も、宗教的感情は結果であって、その前に人間賛歌がある点が、当時としては相当に先端的であったろう。これがハイドンの肖像。
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会場はほぼ満員。もちろん合唱団のメンバーの友人親戚の方々もおられただろう。ある中年女性などは、「今日の曲目ってなんだっけ。『四季』? あぁ、ヴィヴァルディね」とおっしゃっていたが (笑)、私は確信する。その方もきっと、このコンサートを楽しまれたに違いない。まず何より、井上と新日本フィルの演奏には小股の切れ上がった快活さと、活き活きとした絶妙のニュアンスが満ちていたと思う。ユーモラスな音楽に井上のユーモラスな指揮。例えば春において、羊や魚やミツバチや小鳥は、音楽の中で楽しく動くかのようであったし、夏の嵐は強烈に吹き過ぎて行ったし、秋の情景の中の狩りには緊張感があるとともに、角笛の咆哮もよく鳴り響いていたし、冬には凍えた旅人を溶かすような一家の団欒、そして若い男女の初々しいやりとりと周りの人々の冷やかしの面白さが横溢していた。今回の演奏では演奏者の配置が興味深くて、チェンバロは指揮者のすぐ前で、オケの方を向いて置かれている (よって指揮者の指示は見えなかったはず)。ソリストの 3人は、弦楽器のすぐ後ろ、木管・金管の前に並ぶというもの。合唱団にはかなり年配の方々もおられたが (後半で、ちょっと足元がおぼつかない方がおられてひやひやしたが、なんとか大丈夫であった)、様々なニュアンスに満ちた合唱のパートを力強く歌い上げていて、これは歌われた方々にとっても大変な充実感であったろう。その充実感は、創立 100周年を祝うにふさわしいものであったに違いない。これは、過去の成城合唱団と新日本フィルの共演の様子。会場は今回と同じすみだトリフォニーホールであるようだ。但し、今回はオルガンもハープもなし。
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この作品の歌詞はもともとドイツ語だが、今回はすべて日本語訳。会場では日本語の歌詞が配られ、ほとんどの人たちがその歌詞を見ながら聴いていた。原語でないことの賛否はあるだろうし、私も通常なら原語支持者なのであるが、今回はあまり気にならなかった。それはつまり、歌手たちの声だけでもかなりの部分を聴き取ることができ、文語調を採用していることもあって、簡潔な歌詞がよく音楽に乗っていたと思うからだ。庶民の自然との関わりや、生きている喜びを歌うという曲の内容に鑑みても、母国語で歌うことには充分意味がある。そんなことを感じる演奏であるから、やはり成功であったのだと思う。ソリストは、このところ大活躍のソプラノ小林沙羅が相変わらず素晴らしく、テノールの小原啓楼、バリトンの青山貴も美声を聴かせた。それにしてもハイドンの音楽は、様々な描写という点において、時代の制約を超えた面白いものだ。その一方、メロディを作り出す際には、高い職人性が発揮されている。例えば「春」の中で、農民が鼻歌まじりに歩いているシーンがあるのだが、ここで作曲者は、あの有名な交響曲第 94番「驚愕」の第 2楽章のテーマを転用している。実はこの箇所、台本を書いたヴァン・スヴィーテン男爵は、当時はやりのオペラの一節を使おうとハイドンを説得したが、ハイドンは頑としてその案をはねつけたという。人間的で大らかに見えるハイドンの、職人的こだわりを感じさせるエピソードではないか。

それにしても、井上道義の最近の活躍ぶりには本当に目を見張る。このブログでも何度もご紹介した通り、全くタイプの異なるレパートリーのどれを聴いても、オケを自在に操り、自分の音楽にしてしまう手腕は大したもの。病気を克服したことで、何か違うものが見えるようになったのであろうか。今後もこの人の演奏会には、できる限り足を運びたい。
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最後に、この演奏会を聴きながら思い出したことをひとつ。この成城合唱団くらい古い歴史を持っていると、いくつかの西洋の声楽曲のレパートリーを日本語訳で歌うという習慣が確立しているのだろうかということ。というのも、以前パルテノン多摩で聴いた小澤征爾指揮のやはり新日本フィルによるバッハの「マタイ受難曲」が、やはり日本語訳による歌唱であったことを思い出したからだ。あれも確か成城合唱団であったはず。帰宅して早速調べると、やはりそうであった。1997年 6月22日の演奏だから、あれからもう 20年経つのか・・・。
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西洋で作られたキリスト教の宗教音楽を母国語で歌う。そこには日本独自の感性が生きているし、心を歌に乗せるという意味では、そのような「伝統」には揺るぎない必然性があるということだろう。そのようなことを再認識する、素晴らしい演奏会であった。

by yokohama7474 | 2017-10-09 23:30 | 音楽 (Live) | Comments(0)
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