散歩する侵略者 (黒沢清監督)

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この映画の監督は黒沢清である。学生時代、映画研究会というサークルに所属していた私は、自分自身はそれほどの熱意はなくとも、周りにはいわゆる「自主映画」、要するに当時なら 8mmフィルムを使って、非商業ベースで作る映画のことだが、その分野に深入りしている人たちがそれなりにいた。その世界の人たちにとって、黒沢清という名は既に有名で、尊敬を込めて彼のことを語る先輩などもいたものだ。もちろん、この人がプロの監督になって、現在に至るまで活躍していることは知っていたが、過去にどんな映画を撮った人だっけという家人の質問に対し、うーんと数秒考えて、30数年ぶりに私の頭の中から出て来た記憶は、「えぇっとあのほら、洞口依子の出た、あれだよあれ。ええっと・・・そうそう、『ドレミファ娘の血は騒ぐ』」という作品名。実は私はこの作品を見た記憶はないのだが、伊丹十三が出ていて、その彼が自身の監督作「タンポポ」でも洞口依子を起用していて、その中でマーラー 5番が使われていた (特に卵を使ったラブシーンでのアダージェット) ことなどを急に思い出したりして、なんだか懐かしいような眩暈がするような、妙な感覚にとらわれたものである。宇宙人に狙われるとはこんな感覚なのかもしれない (笑)。現在では誰でも動画を作成してネット上で公開できるわけで、昔の「自主映画」(その多くは自己満足のために作られたものであったと言えば語弊はあるが、私はそう思っている) という言葉について回る感覚は、既に過去のものになってしまっていると思うが、その分野から出て活躍している日本の映画監督は沢山いるので (Wiki にも「自主映画」という項目があることを今回発見)、それが現代日本の文化のひとつを源泉にもなっているということだろうか。これが黒沢監督。
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さて、この映画を見る人のほとんどは、自主映画などという言葉を知らない人であろう。だから、例えば室内のシーンがやたら暗いなぁと思われるケースもあるように思っても、あまり気にしないかもしれない。実際この映画では、照明はどうなっているんだと思う暗めの画像が多く、私のような人間には、それが「自主映画的」に見えてしまうから、たちが悪い。もちろんこれには好みの問題もあって、私の場合は、室内劇の場合には精妙な、凝りに凝った人工的な映像が好きで、そのためには CG の効果的活用も重要だと思うのだが、もちろんそうでない意見もあるだろう。プログラムを読むと、黒沢の前作「クリーピー 偽りの隣人」と同じ真夏の時期の撮影となったが、映像のトーンが同じにならないように、少し寒々とした映像にするため、北欧の映画の色彩を参考にしたという。北欧の映画と言えば、古くはベルイマンなどがあり、最近の北欧映画をこのブログでいくつかご紹介したこともあるが、さて、その試みは成功しているだろうか。私個人の感想は、上記で明らかであると思う。日常に潜む奇怪な出来事の不気味さを表現するなら、もっと精密な絵が欲しい。

だが、映画そのものには見るべき箇所はいろいろあって、結構楽しめた。予告編からも明らかであったように、この映画においては、人間世界に紛れ込んだ宇宙人たちが地球を侵略するという設定になっている。長澤まさみと松田龍平が夫婦を演じ、後者が宇宙人の役柄である。
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この松田龍平という役者、本当にほかの役者にない、大真面目でいてとぼけた不思議な味わいがあって、もうそのまま宇宙人かい、と言いたくなる名演技である (笑)。要するに、「この人変わっているな。ちょっと変だな」と思わせるところが、日常に潜む不気味さの知覚の始まりであるとすると、彼の演技はその知覚を促す最高のものであると思うのだ。それに対して長澤まさみは、イラストレーターとして社会で活躍する女性という役柄だが、見事なまでに劇中ずっと不機嫌なのである。これはこれでまた、年齢的にもそのような役が似合うようになってきていると思うし、これからも怒る女性を演じ続ければ、逆に笑顔を見せた瞬間に、最高に輝くのではないか (笑)。いや実際、この映画でも、ネタバレは避けるが、そのようなコンセプトも見られたような気がする。それから、彼女が劇中で二度発する「もぅ、やんなっちゃうなぁ」という嘆きの言葉は当然、小津の「東京物語」における杉村春子のセリフへのオマージュであろうが、その言い回しは結構いい味が出ていた。きっと監督の厳しい演技指導があったのではないか。

その他、前田敦子、満島真之介、東出昌大、小泉今日子、そしてとりわけ笹野高史といった脇役陣が、それぞれの個性を出していて面白い。それから、主役の一角である長谷川博己も、「進撃の巨人」や「シン・ゴジラ」といった近作よりも、この飄々とした演技の方が、私にはよほどしっくり来る。ラスト間近ではなかなか体を張った演技も見せるが、ただ監督の演技指導に沿っているというのではなく、かなり自主的に役作りしたのではないかと想像される。
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ストーリーに関して、この程度はネタバレにならないと想定して書いてしまうが、ここに出て来る数人の宇宙人たちは、侵略の対象である地球人のことをよく知るために、様々な概念を人間から採取している。例えば「家族」「所有」「自由」仕事」「自分」・・・。そのような概念を抜き取られた人間は、時にハッピーな人格に生まれ変わるのであるが、あるひとつの概念だけは、それなしには人間が人間たりえない、というのが映画のメッセージ。勘のよい人はここでピンと来るであろうから、これ以上深入りはしないが、まあそれだけこの映画の設定には、誰にでも分かる平明さがあって、その点は (たとえ室内の映像が暗くて不満であっても 笑)、多くの人の共感を得られるものと思う。ハリウッドにおけるこの手の映画とは異なり、本当に世界中で宇宙人が人間世界を侵略する迫力のあるシーンは全然出てこない。だからここでの「宇宙人」は、ひょっとして比喩なのではないかと思われるほどだ。そう、ここでの侵略者たちは、のんきに人間社会を散歩するのである。この映画がカンヌ映画祭の「ある視点」部門に出品されたこともうなずけようというものだ。なので私は、この映画が「自主映画」的であるか否かは一旦忘れ、それなりに楽しめるユニークな映画であるということはここで申し上げたいと思う。カンヌでの松田と長谷川。
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プログラムを読んで知ったことには、これはもともと演劇が原作らしい。イキウメという劇団が 2005年に初演し、2011年に再演、そして今月末から 12月にかけて、東京・大阪・福岡でまた再演されるという。作・演出を手掛けるのは 1974年生まれの前川知大 (ともひろ)。この劇団では SF、ホラーといった系列の作品を上演しているという。プログラムに掲載されているインタビューでは、この作品のタイトルには「ウルトラセブン」に通じるものがあるのでは、という指摘に対し、確かに影響はあると認めている。「日常の中に宇宙人がいる、という違和感が好きなんです」と語っており、そのイメージの源泉は、メトロン星人であるそうだ。私はその分野でのマニアではないものの、幼時に体験した「ウルトラセブン」のいくつかのストーリーに見られたシュールな感覚は、いわゆる幻想的なイメージの源泉のひとつにはなっている。特にこのメトロン星人の回 (「狙われた街」) は、実相寺昭雄が演出をした伝説的なものであり、確かにそこからの演劇人への影響とは、いかにもありそうなことだ。うーむ、この芝居、ちょっと見てみたい。もともと私は、素人映画と同様、素人芝居にも手を染めていたこともあり、演劇も好きな人間であるにも関わらず、最近はほかの分野にプライオリティを置いている関係で、ほとんど芝居を見ることがない。これを見れば、自主映画的感覚と演劇的感覚の差異について、新たな発見があるかもしれないなぁ。
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by yokohama7474 | 2017-10-11 00:49 | 映画 | Comments(0)
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