チャイコフスキー : 歌劇「エフゲニー・オネーギン」(演奏会形式) ウラディーミル・フェドセーエフ指揮 チャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラ 2017年11月 9日 NHK ホール

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毎年秋に NHK ホールを舞台に繰り広げられる NHK 音楽祭。今年の公演数は 4つで、その最初を飾ったパーヴォ・ヤルヴィ指揮 NHK 交響楽団によるモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の素晴らしい公演は、既にこのブログでもご紹介した。音楽祭の 2つ目の公演であったキリル・ペトレンコ指揮バイエルン国立管弦楽団によるワーグナーの「ワルキューレ」第 1幕ほかは、事前の予想通り素晴らしい内容であったようだが、私は聴くことができなかった。今回の記事でご紹介するのは第 3回目の演奏。このブログでは何度もその演奏をご紹介している、85歳 (!) のロシアの巨匠、ウラディーミル・フェドセーエフが指揮する手兵、チャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラによるものである。このオーケストラは、私の世代であれば旧モスクワ放送交響楽団といった方が通りがよいし、この NHK 音楽祭の表記では、チャイコフスキー交響楽団となっている。名称はともあれ、この名指揮者が 1974年以来、実に 43年に亘って首席指揮者を務めてきている楽団なのである。このロシア有数の名コンビが今回演奏会形式で採り上げたのは、チャイコフスキーの不朽の名作オペラ、「エフゲニー・オネーギン」である。もっともこの題名も、NHK 音楽祭のプログラムによると、前半部分が「エフゲニー」ではなく「エフゲーニ」になっている。原語表記には一定のルールを持つ NHK のこと、なんらかの根拠あってのことだと思うが、この作品での歌唱を聴いていると、「オネーギン」という名前もロシア語での発音は、「オニェーイギン」のように聴こえるが、そのように表記しなくてよいのだろうか。

まあそんなことはどうでもよい。先の記事で書いた通り、この日私は、昼間に日生劇場でドヴォルザークの「ルサルカ」を鑑賞し、日比谷から千代田線に乗って明治神宮前まで移動し、NHK ホールでのこの公演に臨んだわけである。開演前には NHK ホール名物 (?)、助六寿司を腹に掻き込んでからの鑑賞となった。冒頭に掲げたのは、NHK ホールの入り口に下がっていた垂れ幕である。85歳という年齢がとても信じがたい、指揮者フェドセーエフ。今回もオペラ全 3幕を、指揮台にストゥールすら用意せず、徹頭徹尾、立って指揮をした。
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さて、この「オネーギン」という作品、聴く人誰もが納得する傑作であり、大変に充実した内容を誇っているのだが、原作はロシアの国民的作家・詩人のアレキサンドル・プーシキン (1799 - 1837) である。私はこのプーシキンが「オネーギン」の原作小説を執筆したという小屋を、モルドヴァ共和国の首都、キシニョフ(あるいはキシナウとも) で見たことがあるという話は、2016年10月16日の、ゲルギエフとマリインスキー歌劇場の来日公演による、同じ「オネーギン」の上演に関する記事で書いた。面白いことに、ロシアオペラの傑作は、ことごとくがこのプーシキンの原作によるものと言っても過言ではないのである。この「オネーギン」と並ぶチャイコフスキーの代表的なオペラである「スペードの女王」もそうなら、グリンカの「ルスランとリュドミラ」、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」、リムスキー=コルサコフの「金鶏」といった具合。驚かされるのは、このリストには歴史ものあり空想ものあり、そしてこの「オネーギン」のような人間ドラマありで、その幅広さは尋常ではない。換言すると、この作家がこれだけ幅広い作品をものするだけの想像力の持ち主であったからこそ、19世紀ロシアの貴族社会を舞台にした、なんとも切なくまたリアリティのある人間ドラマを書くことができたのであろう。これがプーシキンの肖像。
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今回のプログラムにフェドセーエフが寄せた言葉から一部を抜粋しよう。

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「エフゲニー・オネーギン」--- ロシアの二人の天才、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー、アレキサンドル・プーシキンによって生み出された、まるでロシア人の人生についての百科事典の様な作品です。心、慈悲、そして愛を通して物事や世界を捉えること、それこそが偉大なるロシアの姿であり、そのすべてがこの作品の中に反映されていると思います。
UNQUOTE

なるほど、そうなのか。ただ私は、どのロシア人も徹夜でラヴレターを書いたり、必要以上にニヒルを気取って異性を振ったり、自暴自棄になって決闘を申し込んだり、人妻になった元恋人に言い寄ったりするのだと、ここでフェドセーエフが言っているとは思わない (笑)。どうしようもない心の綾によって翻弄される人間たち、そして彼らの人生に対するそれぞれに真摯な思い、そういったことについて語っているのだと思いたい。さて今回の演奏、そのような指揮者の強い思い入れが充分に感じられながらも、フェドセーエフらしく感傷を排した、一本筋の通った再現であった。この曲の冒頭は、華やかでも劇的もなく、主人公タチヤーナの内面を思わせるメランコリックで繊細な音楽。その冒頭のニュアンスの豊かさは、聴衆を一気に作品世界に引き込むだけのものであったと思う。今回は完全な演奏会形式で、歌手たちは燕尾服やドレスを着用していて、舞台前面、指揮台の左右で歌う。実は譜面台が左右それぞれに置かれていたのだが、冒頭にオリガ役の歌手が、「これは邪魔ね」とばかり持ち上げて横手の方に片づけてしまったのである (笑)。実際、譜面を見て歌う歌手はひとりもいない。そして後半には、譜面台は両方とも片付けられていた。今回の主要な役柄はすべてロシア人歌手によるもので、私の知った名前はひとつもなかったが、経歴を見ると、それぞれにロシアや世界の名門オペラハウスで歌っている人たちで、若手ばかりである。つまりこれは、日本にいながらにして、ロシアの若い世代の最高の歌手たちを聴ける機会であったのだ。名前だけ挙げておくと以下の通り。
 タチヤーナ : ヴェロニカ・ディジョーエヴァ
 エフゲニー・オネーギン : ワシーリー・ラデュク
 レンスキー : アレクセイ・タタリンツェフ
 オリガ : アグンダ・クラエワ
 ラーリナ : エレーナ・エフセーエワ
 グレーミン公爵 : ニコライ・ディデンコ

今回の歌手陣では、際立った存在はいなかったように思うが、それぞれに持ち味をよく活かしたアンサンブルであったと思う。試みに、やはり見事な演奏であった昨年のマリインスキーの来日公演のキャスト (やはり全員ロシア人) と突き合わせてみたが、同じ歌手はひとりもいない。さすがロシアは人材豊富であると驚嘆する。それから、端役は日本人が歌ったが、音楽教師トリケ役の清水徹太郎は、舞踏会における悲劇の予兆を逆説的に強調するとぼけた歌を、大変巧みに歌っていた。合唱は新国立劇場合唱団で、さすがに譜面を見ながらの歌唱であったが、安定した出来栄えであった。

指揮に話を戻すと、フェドセーエフは相変わらず指揮棒を持たない素手の指揮によって音楽を堅実に引っ張りながら、要所要所では見事な統率力を見せた。何よりも、全体の見通しがよかったと思う。その設計は、実は休憩の取り方にも出ていて、この 3幕もののオペラでは、通常は各幕間に休憩が入るのだが、今回の途中休憩は 1回のみで、時間も 20分のみ。前半は第 1幕と第 2幕第 1場まで。後半は第 2幕第 2場と第 3幕。こうすると前半に「手紙の場」とワルツ、後半にレンスキーのアリアとポロネーズ、という具合に、聴きどころが分かれる。一方で演奏時間は、前半 1時間50分、後半 50分と、若干いびつにはなったが、幕の切れ目でも聴衆の拍手に応えることなく、次の幕の分厚いスコアをドンと指揮台に置いて、ろくに間も置かずに淡々と次の幕に入っていくあたりに、この指揮者のよい意味での職人性を見た思いがする。
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そんなわけで、85歳の巨匠の、若々しくもニュアンス豊かな演奏に、静かな感動を覚えることとなった。人間が生きていくことののっぴきならなさを、このように淡々と表現されると、大仰な演奏よりも、返って説得力が増すのである。聴衆の皆さん、間違ってもオネーギンのように去勢を張ったり、レンスキーのように嫉妬に駆られて無謀なことをしてはいけませんよ。人と人の心には、常に通じるものがあるべきで、コミュニケーションこそが大事なのである。いつになく説教くさい終わり方ですな (笑)。

by yokohama7474 | 2017-11-11 01:41 | 音楽 (Live) | Comments(0)
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