サイモン・ラトル指揮 ベルリン・フィル (ピアノ : ユジャ・ワン) 2017年11月24日 サントリーホール

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サイモン・ラトル & ベルリン・フィル、最終章。いよいよ東京での演奏会である。11/24 (金)、25 (土) の 2回、サントリーホールで開催されるこのコンビのコンサートは、今年の数々の一流オケの来日の中でも、最もチケット争奪戦の激しかったもの。会場前には、「チケット求む」の紙を持って佇む人の姿が、どうだろう、6 - 7人はいただろうか。ただ、その方法ではなかなかチケットをゲットするのは難しかろう。その一方で会場には、「招待券受付」という窓口があって、スポンサーである TDK の関係者や得意先の方々は、そちらを利用したのであろう。もちろん、オーケストラコンサートにとって、スポンサーは不可欠な存在で、そのスポンサーが招待券を配布することには全く問題がない。だが、一方で純粋に音楽を聴きたくてもチケットが手に入らない人と、必ずしも音楽に興味がなくとも招待されたから会場に赴くという人とがいるだろうことは、なんとも皮肉なことではある。かく言う私も、なんとか最安席を 2次マーケットで (もちろん定価で買えるわけはない) 入手した口なので、純粋にこのコンサートを聴きたかった人たちの気持ちはよく分かる。いや、正確には今回、当日券をゲットできるかもしれないチャンスがあったのだ。その経緯は以下の通りだ。前回の記事で書いた通り、もともとこのコンサートのソリストとして予定されていたピアニスト、ラン・ランは来日中止となり、その代役としてユジャ・ワンが登場することとなった。そこで主催者は、ラン・ランのキャンセルによるチケットの払い戻しを認め、そこで返されたチケットを、当日希望者に抽選で販売するという策に出たのである。これはかなり良心的なことではあると思うのだが、ラン・ランなら聴きたいがユジャ・ワンには興味がないからチケットを払い戻すという判断をした人がどのくらいいたのか、大変興味があるのである。それにしても、この左手首が腱鞘炎とは・・・。やはりラン・ランも人間だったのである (笑)。
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この日の曲目は以下の通り。
 リヒャルト・シュトラウス : 交響詩「ドン・ファン」作品20
 バルトーク : ピアノ協奏曲第 2番 (ピアノ : ユジャ・ワン)
 ブラームス : 交響曲第 4番ホ短調作品98

なるほど、前日は真ん中に現代曲を置いたロシア音楽プロ、今回は真ん中に協奏曲を置いたドイツ音楽プロである。さて、それが関係しているのか、コンサートが始まる前に舞台を見渡して気づいたことには、前日の川崎でのコンサートはそうではなかったのに、今回は、ヴァイオリンが左右対抗配置になっているのである!! つまり、前日は指揮者の左手から右回りに、第 1ヴァイオリン、第 2ヴァイオリン、チェロ、そして指揮者の右側がヴィオラ、その奥がコントラバスであったのに対し、今回は第 2ヴァイオリンとヴィオラの位置が入れ替わっていたのである。うーん、今回の曲目で、ブラームス 4番の第 1楽章あたりにはヴァイオリンが交互に歌う箇所もあるから対抗配置が効果的ともいえ、またバルトークのコンチェルトの第 1楽章では弦楽器が完全に沈黙するので、対抗配置であろうとなかろうと関係ない部分もあるので、前日と違う配置でも問題ないという判断だろうか。そう思って彼らの演奏風景の写真を見てみると、ヴァイオリンが対抗配置になっているものも、そうでないものもある。また、ヴィオラとチェロの位置が逆のときもある。やはり、ホールの特性やメインの曲目によって、配置を替えているということだろうか。
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ともあれ、音楽を聴いてみよう。最初の「ドン・ファン」はもちろん天下の名曲で、このような高性能のオケによるコンサートのオープニングには最適なのであるが、プログラムに掲載されているラトルのインタビューによると、この曲は自分がベルリン・フィルの首席に着任した頃に採り上げ、今回は久しぶりだが、カラヤン (この曲を得意とした) の死後、あまりこのオケで演奏されていなかったという。なるほど。だがやはりベルリン・フィルほどこの曲を演奏するのに相応しいオケもちょっとないだろう。いきなり突風のように吹き抜ける弦楽器はまさに一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルだし、オーボエのソロ (今日はマイヤーではなかったが) も実に繊細。ラトルの指揮はいつもの通り、グイグイ進めるところと抒情的に歌うところを微妙に (決して強引にではなく) 色分けして、曲の持ち味を最大限に引き出すもの。ほんのわずか、ホルンに不揃いの箇所があったようにも聞こえたが、それを除けば、まずは完璧の出来である。

そして 2曲目にユジャ・ワン登場だ。この驚異のピアニストについてはこのブログでは以前散々書いているので、詳細は省くが、次にその演奏を日本で聴けるのは来年 3月のニューヨーク・フィルの来日まで待つ必要あると思っていた私のような人間にとっては、もちろんラン・ランも聴きたかったが、その代役をユジャ・ワンが務めるという事態に、まさに快哉を叫びたくなる。彼女のベルリン・フィル・デビューは 2015年 5月。パーヴォ・ヤルヴィの指揮でプロコフィエフの 2番のコンチェルトを弾いた。今回は野性味の強いバルトークのコンチェルトであるだけに、期待が高まる。これは、楽団のサイトから拝借した、日本公演に先立つ中国ツアーにおける武漢でのリハーサルと本番の模様。あっ、この衣装は今回のものと同じものではないか。
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今回のバルトーク、私の席からは残念なことにピアノの音が聴こえにくく、全体としてちょっとオケの音量が大きかったような気がする。だが、ユジャ・ワンの超絶的な腕の動きを見ていると、ピアノを打楽器として使っているようなこの曲の本質が見えてくるような気がした。前述の通り、第 1楽章は弦楽器は一切登場せず、オケは打楽器と管楽器だけなのであるが、第 2楽章に入ると、遠い夕焼けに溶けて行く景色のような微妙な色合いが、弦楽合奏によって示される。美しい瞬間だが、まるでアイヴズの「宵闇のセントラルパーク」の冒頭のような浮遊感や神秘性があり、ベルリン・フィルの弦の音は実に素晴らしい。この楽章では今度は金管楽器が登場しない。第 3楽章は慌ただしく変転する音楽で、ここでは様々な楽器が鳴り響く。そんな多彩な音楽的情景の中を泳いで行くユジャのピアノは、もちろん技術的に完璧であるだけでなく、確固たる自信を感じさせるもの。ただ惜しむらくは、打鍵の強さがもっとあれば、私のような安い席の聴衆にまで、その強い音楽が届いたのに、と思う。そして、演奏終了後はラトルとともに何度か舞台に登場したが、ラトルが舞台奥のハープ奏者の席 (ここが空いていたのは、「ドン・ファン」ではハープは使われたが、バルトークでは使われなかったからだ) に座って舞台上の一聴衆となり、アンコールとしてラフマニノフのヴォカリーズが演奏された。冒頭はちょっとコントロールしすぎで流れが悪いように思ったが、その後は抒情性をよく表現していた。そして 2曲目は、指揮者とコンサートマスター (今日も樫本大進) の方に、「まだ時間大丈夫かしら」という物問いたげな視線を向け、「まっ、やっちゃいますか」とばかり弾き出したのは、昨年のリサイタルのアンコールでも弾いた、プロコフィエフの 7番のソナタの終楽章。これはいつもと変わらぬ完璧な演奏で、ラトルもしきりに拍手をしていた。

そしてメインのブラームス 4番は、言うまでもなく天下の名曲。この晩秋の雰囲気に相応しい、人間の孤独と暗い情熱を感じさせる曲である。ここでもラトルとベルリン・フィルは素晴らしい演奏を展開した。いつもの通り、弦楽器はからだ全体で分厚い音を出し、木管はクリア、金管は輝かしい。冒頭のため息のような音型はなかなかに情感豊かに演奏され、全曲の至るところで纏綿たる情緒が歌われた。だがそこはラトルで、決して重くなりすぎることはなく、なんというか、あまり凹凸のない平らな地面をグイグイ力強く進んで行って、気がつくと地面は摩擦で熱を帯びているという印象。これはなかなか言葉にしにくいのだが、私がいつも感じるラトルの音楽の特性だ。つまり、極端な緩急はつけず、また、鳴っている音たちの広がりや、その深さ高さというよりも、むしろ強固な平面としてのつながりを思わせる音作り、という印象なのである。このスタイルは、いかなる音楽にも対処できるので、ラトルの音楽が情緒的すぎたり、無味乾燥であることはまずない。それはもちろん見事な演奏なのである。だが、前日のラフマニノフの演奏について少し書いた通り、時にそれは、鳴っている音の圧力は感じても、心底感動する音楽にならない、ということはないだろうか。世界最高の指揮者と世界最高のオケのコンビをこんな風に書くと、気分を害される方もおられると思うが、1985年のフィルハーモニアとの初来日に始まり、バーミンガム市響、ウィーン・フィル、そしてベルリン・フィルとの組み合わせを日本で聴き、ロンドンでも、オペラや、古楽オケとの共演を聴いたこともあるこのラトルという指揮者の過去の印象から、どうも私にはその印象が抜けないのだ。過去の演奏でとりわけ心に残っているのは、東京オペラシティで聴いたバーミンガムとのマーラー 7番で、それは、大変熱心に練習をするオケを、波に乗る若手指揮者が強力に統率したという演奏だった。その時に持つこととなった、平面が摩擦でチリチリ燃え始め、ついにはそこで音楽が牙を剥くという印象は、今も変わらない。変わったのは、もとから世界一流のオケが相手であるということであり、ひたすら完璧を目指すことによって、逆に新たな境地が見えなくなるというジレンマが生じたことではないか。それを避けるため、あの手この手で曲目に工夫を凝らしてきたラトルであり、彼なりの進化は当然見て取れるものの、ベルリン・フィルとのコンビではもうこの先はないほどの境地に達してしまい、今後の展望が見えにくくなってしまったのではないか・・・。今回のブラームスを聴きながら、彼の過去の演奏も思い出し、少し複雑な気分を味わうこととなったのである。ただこれは、私の思い入れゆえの評価かもしれず、前日のラフマニノフ同様、今回のブラームスを名演と呼ぶことに、私は躊躇しない。その一方で、来年 9月にラトルが新たな手兵であるロンドン交響楽団を引き連れて来日する際、同じブラームス 4番を演奏するということが、私の中の大きな期待になっている。同じ曲を選んだことに何か意味があるのだろうか。自分の耳で確かめたい。...と書いた後に気づいたことには、それは間違いで、その演奏会、来年 9月29日(土) のメインは、ブラームス 4番ではなく、正しくはシベリウス 5番であること発見。演奏会の長さとしても、曲の座りとしてもその方が適当であろうから、最初の発表は、もしかすると誤りであったのかもしれない。大変失礼しました。

今回もラトルは日本語で、「ミナサン、ドウモアリガトウゴザイマス」と客席に呼び掛けたが、今回はそれ以上のコメントはなく、曲目紹介だけでアンコールが始まった。ドヴォルザークのスラヴ舞曲作品72-2。スローで抒情的な曲で、ブラームスの人間悲劇のあと、これは恰好のデザートとなった。この曲はちょうど、打楽器としてはティンパニ以外にはトライアングルしか使われておらず、ブラームス 4番のあとに演奏するにはちょうどよい編成であった。

東京公演はもう 1回、11/25 (土) にサントリーホールで開かれる。曲目は、既に川崎で聴いたものと同じなので、私は聴きに行かないが、ラトルとベルリン・フィルの最終章を、多くの聴衆が堪能することだろう。そして、オケ、指揮者それぞれの次のステップを期待しよう。たまたま上で、ラトルのバーミンガム時代のことに触れたので、青年指揮者ラトルへの多少のノスタルジーを持って、その頃に録音されたシベリウス 2番 (1984年) のジャケットを掲載して、この記事を終わりにしよう。
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by yokohama7474 | 2017-11-25 02:04 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

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