シルヴァン・カンブルラン指揮 読売日本交響楽団 (クラリネット : イェルク・ヴィトマン) 2018年 1月13日 サントリーホール

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先にニューイヤーコンサートの様子をレポートしたフランスの名匠シルヴァン・カンブルランと読売日本交響楽団 (通称「読響」) の、今年 2回目のコンサートである。読響はご覧の通り、時々カッコいいチラシを作るのであるが、今回のものも、なかなかにスタイリッシュ。だが、そこで謳われているコピーは、必ずしもプログラムとの関連性が明確でないこともある。なになに、今回は「私は孤独で、こんなにも愛されている」ですと??? なんだか分かったような分からないような (笑)。まぁ今回の曲目で言えば、1曲目は孤独と関係するものであり、写真の中の鬱陶しい天気の様子からも、その線が濃厚かとも思われる。そうそう、このコンサートは大変に凝った曲目ゆえ、集客は今一つではあったが、私の見るところ、これは東京の音楽ファン必聴の素晴らしいプログラムであり演奏であったと思う。曲目は以下のようなものであった。
 ブリテン : 歌劇「ピーター・グライムズ」から 4つの海の間奏曲
 ヴィトマン : クラリネット協奏曲「エコー=フラグメンテ」(クラリネット : イェルク・ヴィトマン、日本初演)
 ブルックナー : 交響曲第 6番イ長調

これらの曲目の間には特に共通点が見当たらないようでいて、こうして並べてみると、独特の色合いを感じることができる。そのことを実感した私の思いが、拙い文章で伝わるか否か心もとないが、以下に感想をつれづれに綴ることとする。この演奏会、私の見間違えの可能性も否定できないものの、2階センターの最前列に、指揮者の下野竜也、評論家の長木誠司、作曲家の細川俊夫 (か、もしかするとそのそっくりさんたち???) が集うほどの注目度の高いものであった。だがマエストロ・カンブルランは、飽くまでくつろいでおられる (笑)。
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まず、最初の「ピーター・グライムス」の 4つの海の間奏曲の冒頭が鳴り響いた瞬間、カンブルランと読響の広く深いメシアン体験を実感することとなった。これは陰鬱さと表裏一体の美しさがありながら、それだけではなく、何か近代的な精神がピンとそこで張っているような音楽。まさにオケの力量を試されるような曲なのであるが、この鋭い感性と高音の浮遊感の両立は、なかなかに大変なことであるに違いない。この曲はブリテンのオペラの代表作である「ピーター・グライムス」の間奏曲を 4曲集めたもの。オペラのストーリーは、英国の田舎の漁村における少年殺しがテーマになった陰鬱なもので、主人公ピーター・グライムスの孤独はこのオペラのそこここを支配し、英国特有の暗い空とあいまって、このオペラに深い陰影を与えている。この 4曲の間奏曲にはそれぞれ異なった個性があるが、カンブルランと読響はそれを鮮やかに描き分けて実に見事であった。また終曲では、音が海さながらに激しくうねるのであるが、ティンパニの表現力には素晴らしいものがあった。

続く曲は、今回が日本初演であったヴィトマンのクラリネット協奏曲。私はあれこれ硬軟とりまぜた現代音楽を愛好する者であるが、寡聞にしてこの作曲家の名前は初めて聞いた。1973年生まれのドイツ人で、ヘンツェやリームに師事した経歴を持ち、今ヨーロッパで最も注目されている作曲家のひとりであるという。2004年にはザルツブルク音楽祭の、2009年にはルツェルン音楽祭の、それぞれアーティスト・イン・レジデンスを務めた経歴を持つが、一方でクラリネット奏者でもある。
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実は今回日本初演されたこのコンチェルトは、カンブルランの指揮、作曲家自身のクラリネットで 2006年に世界初演されている。オーケストラは当時のカンブルランの手兵であったバーデン・バーデン & フライブルク SWR 響と、フライブルク・バロック・オーケストラであった。ここで 2つの団体名を挙げているには理由がある。実はこの曲、2群のオケから成り、しかもそのうちひとつは現代楽器のピッチで調律されている一方、バロック・オーケストラはそれより低いピッチとなっている。解説でそれを読んだとき、では 1曲目と 2曲目の間では舞台上は大幅に変更されるだろうと思ったが、案の定、10人ほどの係の人たちが登場して、椅子や楽器の配置を大幅に変えた。演奏の準備をするだけでもかなり大変な曲なのだ。全曲 20分ほどなので、さほど長くはないのだが、そこで繰り出される音響の多彩さは、こればかりは聴いてみないと分からないだろう。管楽器を、吹くのではなく。口の部分や底の部分を手で叩いたり、ソロ・クラリネットも、時に音を出さずに楽器に息を吹き込んだりする。なかなか舞台で聴ける機会はない作品であろうし、視覚を伴う鑑賞では、面白い箇所も様々にあった。このヴィトマンはなかなかの才人であると思う。但し、このような創作態度の裏に、ただ音の美しさを追うだけでは新しい芸術音楽として存在を認められないという発想があるのなら、ちょっと心配だ。つまり、音楽たるもの、耳で聴いて感動するものであるべきだし、鳴っている音が面白くとも、果たしてそこにはどこまで表現としての切実さがあって、一般人にもその切実さが届くかということかと思う。

そしてメインはブルックナーであったのだが、彼の中期以降の交響曲としては最も演奏頻度の少ない第 6交響曲。このあたりもカンブルランの選曲のセンスが伺われて面白い。この 6番は、古いドイツの巨匠たちでブルックナーを頻繁に演奏した指揮者たち、例えばブルーノ・ワルターとかハンス・クナーパッツブッシュもレパートリーにはしていなかった。その一方、オットー・クレンペラーにはこの曲の録音があるし、ウィルヘルム・フルトヴェングラーも、残念ながら第 1楽章が欠損しているが、録音が残っている。ブルックナーのシンフォニーとしては異例なほど、揺蕩う部分が少なく、攻撃的と言いたくなるほどの運動性を持った曲と言え、私は昔からかなり好きな曲である。考えてみれば、そもそもカンブルランのようなフランスの指揮者がブルックナーを指揮すること自体、それほど多くはないわけで、今回はその意味でも興味深い機会であったのだ。蓋を開けてみれば、いかにもカンブルランと読響らしく、速めのテンポで粘らずに純粋な音響を紡いで行く演奏であり、これならブルックナーをあまり好きでない人でも、楽しめるのではないかと思った。そう、こういうブルックナーには、実はかなり説得力があるのだ。その代わり、音の流れに乗れなければ、空虚な音響になってしまう恐れがある。その点、やはりカンブルランは只者ではなく、実にきっちりとリズムを振り続けながら、ブルックナー独特の偏執狂的とすら言える音の流れを壮大に再現した。素晴らしい才人である。
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そういえば、今年生誕 100年を迎えたレナード・バーンスタインのことを考えると、今回の最初の曲、「ピーター・グライムス」の 4つの海の間奏曲は、彼がボストン響を指揮して生涯最後のコンサートで演奏した曲であり、またブルックナーは、正規録音では 2種の第 9交響曲しか残さなかったが、私は非正規版で、ニューヨーク・フィルを指揮したこの 6番を持っている。私の見るところ、バーンスタインほど栄光に飾られながらも実際には孤独であった人は、そうはいない。それを考えると、実はこの演奏会の隠れたテーマは、「私は孤独で、こんなに愛されている」と呟くバーンスタインであったというこじつけも、結構面白い説になるのではないか。いずれにせよカンブランと読響は、今こそ傾聴すべき高みに達している。彼が読響の常任の座から降りてしまうと、その後はどのくらい聴けるのか分からないので、今のうちにこのコンビをできるだけ聴いておきたいと思うのである。

by yokohama7474 | 2018-01-14 22:44 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

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