大野和士指揮 東京都交響楽団 2018年 1月20日 東京芸術劇場

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今年に入ってからの東京のオケの演奏会において、私が冗談半分に言ってきたことは、年明けからカンブルラン / 読響と、大野 / 都響の、一騎討ちの様相を呈しているということなのであるが、その伝で言えば、既に前者は 3公演をすべて体験し、今回の演奏会は後者の 3公演目。これはまたかなり気合の入った内容であるが、それは以下のようなもの。
 ミュライユ : 告別の鐘と微笑み ~ オリヴィエ・メシアンの追憶に (ピアノ : ヤン・ミヒールス)
 メシアン : トゥーランガリラ交響曲

このブログで何度もご紹介して来た通り、1960年生まれの大野和士は現在、この東京都交響楽団 (通称「都響」) の音楽監督。東京の音楽都市としての顔のかなり重要な部分は、現在から近い将来にかけて、この人の双肩にかかっていると私は認識しており、それゆえにこそ、このような意欲的なプログラムを聴き逃すわけにはいかないのである。
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今回メインの曲目になっているメシアンの大作トゥーランガリラ交響曲は、20世紀最大の作曲家のひとり、フランス人のオリヴィエ・メシアン (1908 - 1992) の、文字通りの代表作。だが 75分という長さと、そのめくるめく音響の特殊さゆえに、実演で聴く機会は、少ないとは言えないが、さほど多くもない。大野自身も、随分以前の東京フィルの音楽監督時代に採り上げたことがあると記憶するが、日本での指揮はそれ以来ではないか。この曲は 10楽章から成っている長大なものであるが、実演では、ちょうど半分の第 5楽章が終わったところで休憩を取ることが多い。それは、その第 5楽章が凄まじい大音響で終結するため、ちょうど前半の終わりに相応しいからだろう。だが今回の大野 / 都響の演奏では、全曲が通して演奏された。いや、それのみならず、メインのトゥーランガリラ交響曲に先立って、4分ほどのピアノ・ソロの曲が演奏された。それは、1947年生まれのフランスの作曲家、トリスタン・ミュライユの「告別の鐘と微笑み~オリヴィエ・メシアンの追憶に」という曲で、1992年にメシアンの追悼として作曲されたもの。私がこのミュライユの名前を知ったのは、小澤征爾が京都市交響楽団を指揮して世界初演した「シヤージュ (航跡)」という作品によってである。これは 1985年、京都信用金庫創立 60周年を記念して、このミュライユとマリー・シェーファー、そして武満徹の 3人の作曲家に委嘱されたもの。その初演のライヴ CD は非売品として制作され、最近でも時折オークションを賑わせているようだ。私も実家に帰れば、この演奏の録画がベータテープに保存されているはず (古いなぁー。笑)。
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今回、ベルギーのピアニスト、ヤン・ミヒールスのピアノで演奏されたこの短い曲は、実にメシアン的な曲なのであり、実際にパリ国立高等音楽院でメシアンに師事した作曲者が感じたであろう、メシアンとの別離の深い悲しみを具現したような音楽。題名に含まれる「微笑み」とは、メシアン晩年の管弦楽作品のタイトルであり、また解説によると、メシアン初期の作品、前奏曲「苦悩の鐘と告別の涙」(1929年作) からの素材を利用しているらしい。ミヒールスはその研ぎ澄まされた感覚において、ただならぬピアニストと聴いた。尚、私の手元にはメシアンの全作品集という 32枚物のセット CD があり、フランス語の原題を頼りにその「苦悩の鐘と告別の涙」を聴いてみたが、21歳という若い頃から、メシアンサウンド全開である。これは今回のピアニスト、ミヒールス。
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さて、メインのトゥーランガリラ交響曲であるが、まさにその光彩陸離たる演奏は、期待通りの大いなる聴き物であり、コントラバス 10本の大編成の弦楽器が唸りを上げるさまは、まさにこのコンビならではの迫力であった。この曲ではオンド・マルトノという電子楽器が活躍するが、今回もこの楽器の世界における第一人者である原田節 (たかし) が担当し、全く譜面を見ずに全曲を演奏していた。実際のところ、彼がいなければ、これだけの頻度で日本でこの曲が演奏されることはなかっただろう。
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ここで全曲を聴いてみて理解できたことには、一体どこまで伸びて行くのかと思われる第 5楽章の大音響が終わり、瞑想的な第 6楽章に移行するところで、その対照に、この曲の持つ深い味わいが実感されるのだ。確かにこの間に休憩が入ると、緊張感が一旦途切れてしまうだろう。実際今回の演奏では、大野と都響らしい強い集中力が最初から最後まで一貫しており、それは大変に素晴らしいものであった。それから、今回の演奏で初めて気づいたことには、多くの打楽器が使われていて、打楽器奏者は 9人という異様な大所帯であるにもかかわらず、実は、この曲にはティンパニが含まれていないのである!! なるほど、ここで渦巻く音響には、東洋的な陶酔感もあり、キリスト教的な神のもとへの昇天あり。だが、調律をして演奏するティンパニのような打楽器、言ってみれば、規律の許す範囲で鳴り響く太鼓は不要であって、ただ神秘的な鐘の響きだけ、ひたすら鮮烈なリズムだけ、あるいはドンドンというパルス的な音だけを、作曲者は打楽器に求めたということであろう。今回の演奏では、最初の方で鐘の音が少し聴こえにくかったことを除けば、メシアンの頭の中で鳴っていた多彩な打楽器はこのようなものだったろうと思わせる、都響の面目躍如たるものがあった。これは、2日前に行われた東京文化会館での演奏の様子。
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だが、そのように高水準の演奏であったからこそ、私が多少残念に思ったことがある。それは、最近のこのコンビの演奏を採り上げる際に何度か書いてきた感想と同じなのであるが、芯のある音で強い推進力を発揮することは瞠目すべきなのであるが、その一方、弱音で、ある場合にはピンと張り詰めた緊張感、またある場合には、のんべんだらりと揺蕩う感じの音に、さらなる改善が期待できる気がするのである。今後の大野と都響の演奏においては、そのような課題がどのように克服されるかに、耳をそばだてたいと思う。その意味では、例えば、そうだなぁ、モートン・フェルドマンはやりすぎかもしれないが、ウェーベルンあたりを演奏して、感覚を研ぎ澄ましてもらえれば、何か発見があるのではないだろうか。余計なことかもしれないが (笑)。

さてここで、この曲の歴史的背景と受容史について書いてみたい。メシアンは第二次大戦中の 1941年、収容所で演奏するために、突飛な編成による「世界の終わりのための四重奏曲」を書いた。明日をも知れぬその過酷な環境で生まれたその曲は、今にも息が絶えそうな細々とした音が絡まっていて、聴く人をして心胆寒からしめるものなのである。だが、戦後になって、当時ボストン交響楽団の音楽監督であったセルゲイ・クーセヴィツキー (20世紀の多くの名作の生みの親である) の委嘱によって書かれたこの曲には、ある意味で東洋的、またある意味ではキリスト教の昇天を思わせる、豊麗でありながら浮遊感のある音響 (ティンパニを必要としない音響) に満ちている。1949年にこの曲をボストン響と世界初演したのは、そのクーセヴィツキーの愛弟子であった若き日のレナード・バーンスタインその人であった。残念ながらバーンスタインはその後この曲を採り上げることはなく、初演時の全曲のライヴ録音も残っていない。ただ、以前このブログでご紹介したことがあるが、バーンスタインによる初演のためのリハーサルの断片を、かろうじて録音で聴くことができるのみだ。さて、初演後のこの曲の演奏であるが、スタジオ録音としては、1961年のモーリス・ル・ルー盤が初めてであったと理解する。そして、世界で 2番目のこの曲のスタジオ録音は、1967年に小澤征爾がトロント交響楽団を指揮したもの。また小澤は、よく知られている通り、作曲者立ち会いのもと、NHK 交響楽団を指揮して、このトゥーランガリラ交響曲を 1962年に日本初演した人。この小澤と N 響による日本初演も、全曲録音が残っているとは聞いたことがなく、私の知る限り、随分以前にアナログレコードで発売された N 響のアンソロジーの中に、いくつかの楽章が収録されていたのみである。いずれ全曲が発売されることを期待したい (またここで、この曲を世に出したボストン交響楽団と小澤の長い関係を、思い出さずにはいられない)。だがこの小澤 / トロント盤以降、プレヴィン / ロンドン響盤しかスタジオ録音がない時代が続く。そしてこの曲が本当に 20世紀の名作の地位を獲得したのは、その後 1980年代から 1990年代にかけて、エサ=ペッカ・サロネン、サイモン・ラトル、チョン・ミョンフン、リッカルド・シャイーという 1950年代生まれの当時の若手指揮者たちが、相次いで録音を世に問うたことがきっかけではなかったろうか。例えば、彼らより一世代上で、メシアンの弟子でもあったピエール・ブーレーズは、メシアン作品の録音は小品だけで、このトゥーランガリラ交響曲を演奏したとは聞いたことがないし、あらゆるレパートリーを手掛けたロリン・マゼールあたりも、この曲を演奏したというイメージはない。従ってこの曲は、20世紀の終わりにかけて、若手指揮者によって急速にその評価を高めたものであるわけで、時代の指向について面白い示唆を感じることができる。

そうして、日本でも岩城宏之や秋山和慶、井上道義らがこの曲を手掛けるようになったが、私がここで触れたいのは、若杉弘である。既に 1月11日付の、やはり大野和士指揮東京都交響楽団の演奏会についての記事に、彼がこの都響の音楽監督として残した大きな足跡をご紹介したが、このトゥーランガリラ交響曲も、当然のことながら採り上げている。それは、1986年 2月14日、東京文化会館での演奏。私はそのときの第 5楽章の終わりの大音響を、今でも鮮烈に覚えているのだが、今回引っ張り出してきたその演奏会のプログラムには、若杉と、それから、そのときピアノを弾いていたミシェル・ベロフのサインが入っている。そしてオンド・マルトノはもちろん、今回と同じ原田節なのである。
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私はよく思うのであるが、やはり都響の今があるのは、この頃の若杉の冒険的な取り組みがひとつの出発点になっているのではないだろうか。そして私は、記憶の中にあった大変興味深い写真を、ちょっと頑張って探してみて、なんとか手元に持って来ることができたのである。
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これは、1988年 5月 4日、フランスのディジョンという街でのショットで、当時の音楽監督、若杉弘のもとで都響がヨーロッパツアーを行ったときの一コマ。写真は左から、当時の都響の楽団長であった今村晃、そして若杉弘、それから当時のコンサートマスター古澤巌、そして右端が、若き日のマエストロ大野和士なのである。1988年というと、28歳の大野は、ちょうどザグレブ・フィルの音楽監督に就任した年。前年にトスカニーニ国際コンクールで優勝したばかりの頃である。私は今回この写真を見つけてきて、何やら胸が熱くなるのを抑えることができない。29年前の撮影当時、大野が将来都響の音楽監督に就任すると知っていた人は誰もいないわけであるが、その後楽団は曲折を経て、東京でもトップを争うオケに成長しており、当時若杉が組んでいたのと同様の凝ったプログラムを、今は大野が組んでいるのである。それから、この写真が撮られたときには未だ長引いた計画でしかなかった新国立歌劇場の芸術監督としても、大野は若杉の後継者ということになるわけだ。東京には東京の、音楽の醍醐味が存在する。私はただの一聴衆に過ぎないが、せっかくブログという手段で様々な人たちにメッセージを発することができるので、そのような意識を東京の音楽ファンの方々と共有できることを、大変に有難く思うのである。

by yokohama7474 | 2018-01-21 00:33 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

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