否定と肯定 (ミック・ジャクソン監督 / 原題 : Denial)

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前回の記事で採り上げた「ユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命」に続いて、これもナチスに関連する映画で、やはり事実に基づいて制作されたものである。だがその内容は全く異なっており、舞台は 1994年から 2000年。つまり、戦争中の話ではなくて、戦後何十年も経ってからの話である。前回に続き、ここでも邦題をまず話題にすると、「否定と肯定」という邦題に対し、原題はただ「否定」だけである。これも確かにちょっと難しいところがあって、「否定」という題名はシンプルすぎて、なんだかよく分からない。「否定と肯定」と対立させた方が、何かと目を引くので、これはこれでよいのではないだろうか。では、ここで否定されたり肯定されたりしているのは何か。それは、ナチスによるユダヤ人の大量殺戮、つまりはホロコーストの存在である。この話題は、現地から遠く離れたこの日本の地で普通に考えて、すぐにはピンとこない。アウシュビッツをはじめとして、あれだけ収容所の施設や、戦後の解放時に撮影された被害者たちやその遺品の写真が残っているのに、ホロコーストがなかったというようなことが、果たしてどのように主張しうるのか、という感覚に囚われるのが普通であろう。だがそう言えば日本でも以前、ホロコーストはなかったという記事を載せて廃刊になった雑誌があった。今調べてみると、雑誌の名前は「マルコポーロ」。文藝春秋社の雑誌であり、廃刊は 1995年である。つまり、ちょうどこの映画の舞台となっている裁判が行われていた頃だ。この「マルコポーロ事件」については日本語でも詳しい Wiki があり、それを読めばいろいろ分かるのかもしれないが、それよりも映画自体について語ることとしよう。

この映画のストーリーは簡単と言えば簡単で、米国ジョージア州アトランタにあるエモリー大学というところで教鞭を取っている女性歴史学者デボラ・リップシュタットが、その著書で非難したホロコースト否定論者、歴史学者のデイヴィッド・アーヴィングから訴えられる。そしてそれから判決までの 6年間、デボラは弁護士たちと時に対立しながらも懸命に裁判を戦うというもの。ここでも主役を演じる女優が素晴らしい。レイチェル・ワイズである。
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どうしても「ハムナプトラ」シリーズのヒロインという印象が強く、それ以外には初期の「チェーン・リアクション」や「魅せられて」などの記憶はあっても、オスカーを取ったことがあるわけでもないので、正直なところ、女優としての活動が世界トップクラスかというと、なかなかそうだと言いきれないところがある。だが私は以前このブログで、「グランド・フィナーレ (原題 : Youth)」における彼女の演技を称賛した。そしてこの作品を見て、現在の彼女の充実ぶりに大変感銘を受けたのである。この映画の内容は実にハードで、色気は全くゼロなのだが、彼女が演じたがゆえに、モデルになっている女性のリアリティを超えて、主役は実在感のある人物に仕上がったと思う。いや、さらに言うならば、色気など入り込む余地などない弁護士とのやりとりにおいて、彼女が演じるがゆえに、なぜか品のよい色気まで漂っているような気がしたものだった。重い内容であるがゆえに、ただファイティングポーズを決めるだけの女優であればこうはならなかったはずで、やはりこのレイチェル・ワイズの起用が功を奏したものと思う。実在のデボラ・リップシュタットは実在で、このようにレイチェル・ワイズとのショットも公開されている。これはきっとロンドンの王立裁判所の内部であろうか。私はもちろん中に入ったことはないものの、外見はよく知っていて、それはそれは厳かな建物である。
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この映画を、ただ単に裁判でどっちが勝ったかだけ見ていては、もったいない。是非、弁護士たちの喋る英語を、そのトーンを含めてじっくり聞いてみて欲しい。我々日本人は、どうも言語で何かを語ることが苦手だといつも思うのだが (母国語であっても)、ここで法廷弁護士リチャード・ランプソンを演じるトム・ウィルキンソンと、事務弁護士アンソニー・ジュリアスを演じるアンドリュー・スコットが口にする言葉の数々は、人間社会の中で何か大きな問題が起こって、それに一致団結して立ち向かうという行為においては、どうしても必要となってくる、卓越した言語センスを強く感じさせるのである。この写真で、ワイズの向かって右がトム・ウィルキンソン、左がアンドリュー・スコット。
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ここで弁護団は、ユダヤ人虐殺という Emotional になりがちな争点を扱うにつき、極めて冷静に相手と論戦を交わすという筋立てを考えることで、Emotion を離れた作戦で勝利へのシナリオを書くことになる。それに対して異を唱える被告のリップシュタットの思いに、観客は感情移入するのであり、そもそもこの弁護士たちの手腕はどうなのかと不安になる瞬間が何度も訪れる。映画はそのあたりの観客の感情移入を巧みに利用しながら、アウシュビッツ現地での検証のシーン (ロケは一部で、俳優の演技はセットで行われたようだが) を設け、ホロコーストの生き残りの女性役を設定するなどの方法により、被告リップシュタットの勝利を願うのだが、判決は最後の最後まで明らかにならない。というのも、陪審制を排してひとりの判事による判決を選んだリップシュタットの弁護団が一連の法廷でのやりとりのあとに判事から聞く言葉は、ホロコーストの事実があったか否かはともかく、「なかった」と信じる歴史学者の表現の自由を示唆するものであるからだ。なるほど、これは観客が導かれる義憤からすると随分に意外なものであるがゆえに、もしかしたらそれが判決になるのでは、との大きな不安感を醸成するのである。
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これは実際にあった裁判に基づくものであるから、いかに映画と言えども、事実は事実として正確になぞる必要がある。今の時代はなんでもすぐにネットで調べれば情報を取ることができ、原告である実在のデイヴィッド・アーヴィングの顔写真や、判決後の彼の生活や行動までもが、日本語ですぐに判る。それはここでは引用することはせず、映画を映画として評価したい。つまりこの映画では、裁判の行方を辿ることだけが重要なのではなく、このような気の滅入る裁判の中において、正義を守るためにいかなることをすべきかに思いを致せば、私たちが日常直面する困難に立ち向かうためのヒントを得ることができると思うのである。そう思わせるのも、原告のアーヴィング役を演じたティモシー・スポールの演技が優れているからだろう。一度見たら忘れないこの風貌は、随分以前にこのブログでも採り上げた「ターナー、光に愛を求めて」のターナー役でも印象に残ったし、「ハリー・ポッター」シリーズでもおなじみだ。
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監督のミック・ジャクソンは英国人で、あまり耳に覚えのない名前であるが、ケヴィン・コスナーとホイットニー・ヒューストン共演の「ボディガード」の監督であるという。随分昔の映画だが、テレビの分野でも活躍している人であるらしい。既に 74歳のベテランである。なるほど、この映画で法廷弁護士役でもできそうな海千山千の人であるように見える (笑)。
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ホロコーストがあったのかなかったのかということが法廷闘争になること自体が、我々多くの日本人の想像力を超えているのであるが、それを 20年も経たないうちに実名入りで映画にしてしまうということも、なかなか日本にはないことである。つまりはそれだけ、ヨーロッパの人たちにとっての裁判の判決は決定的な事柄であり、また、ホロコースト自体がヨーロッパの根幹にかかわる問題だということなのだろう。極東の地でこの映画を見る我々は、せめてそのことに想像力を伸ばしながら、人間の生き方について、世界のどこでも、いつの時代でも、この映画から学べることを学びたいと思う。人間の本質を考えるにあたって、大変示唆に富んだ映画であると思うのである。

さて、年明けから 1日に 1件以上のペースで記事を書いてきたが、私は今日これから出張に出てしまうので、次のブログの更新は週末になります。それまで皆様、ごきげんよう。

by yokohama7474 | 2018-01-21 21:32 | 映画 | Comments(0)  

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