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以前もこのブログで触れたことであるが、東京におけるコンサートのメッカであるサントリーホールは現在改修中。通常定期演奏会をここで行っているオケはそれぞれに、それぞれにほかの会場で定期演奏会を継続中だが、ひとつだけ、本来サントリーホールで行っているべき定期演奏会を取りやめたオケがある。NHK 交響楽団 (通称「N 響」) である。もちろん東京 No.1 オケとしての存在感は未だ健在であるものの、昨今のほかのオケの充実ぶりには目を見張るものがあり、その意味では、このオケが行っている 3つの定期プログラムのうち 2つが、あの巨大な NHK ホールでの演奏であることは、今後 10年の N 響を占う上では、由々しきことなのではないかと私はいつも思っている。なので、サントリーホールが改修中、サントリーホールでの定期を取りやめ、代わりにその NHK ホールでの 3ヶ月だけのシリーズ (と、同じ内容でのミューザ川崎シンフォニーホールでの木曜 15時からのシリーズ) になったことに、複雑な思いを抱くファンは多いことだろう。この 3回シリーズ、上のポスターにある通り、4月は広上淳一、5月はウラディーミル・フェドセーエフが指揮台に立ち、そして今月 6月の最終回は、オランダ出身の古楽専門指揮者、トン・コープマンの登場である。今年73歳。「渋谷・大人の寄り道」をどのように演出してくれるのであろうか。
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実はこの演奏会、発表当初は英国の名指揮者、ネヴィル・マリナーの指揮で予定されていた。だがマリナーは昨年 10月、残念ながら 92歳で大往生。そして代役として選ばれたのがコープマンである。これはなかなかに興味深い。というのも、マリナーはモーツァルトを得意にしていたとはいえ、(研究はともかく実際の演奏活動においては) 飽くまで現代楽器オケを指揮する演奏家であったのに対し、このコープマンは一徹なまでの古楽指揮者。チェンバリスト、オルガニストでもある彼は、1979年に自ら設立したアムステルダム・バロック管弦楽団との演奏活動を積極的に展開して来た。実は彼とそのアムステルダム・バロック管とは、1991年の 5・6月と11月に、開場間もない池袋の東京芸術劇場で、モーツァルトの全交響曲 (番号付き 41曲、もとい 40曲 <なぜなら 37番は欠番なので> + 番号なし数曲) とレクイエムを、全 11回の演奏会で踏破しているのである。それも今となってはバブル時代の歴史的イヴェントと言えようが、加えてすごいのは、そのすべてを 1993年に NHK が BS で放送したこと。当時私はがんばって全 11回をビデオに録画したのだが、実は 1度だけ緊急番組が放送されたために録画し損ねたのである。それは今回調べてみると、第 4回。何の緊急番組であったかというと、元総理大臣、竹下登の証人喚問である (笑)。これもまたバブル時代末期のイヴェントであった。

ともあれそのような古楽のスペシャリスト、コープマンは、その経歴を見ると、王立コンセルトヘボウ管やベルリン・フィル等の一流モダンオケにも客演の実績があるとのこと。今回は N 響との初共演であるが、果たしていかなる結果になるのであろうか。今回の曲目はすべてモーツァルトで、以下の通り。
 歌劇「魔笛」K.620序曲
 フルートとハープのための協奏曲 K.299 (フルート : カール・ハインツ・シュッツ、ハープ : シャルロッテ・バルツェライト)
 交響曲第 41番ハ長調K.551「ジュピター」

実はコープマンと N 響は、同じ曲目で翌 15日 (金) は (しつこいようだが平日の 15時から!!) 川崎で、また 17日 (土) は上田市で、18日 (日) は豊川市で演奏会を開く。私の野心は、そのような地方公演を聴きに行くことであったが、今週土曜日から出張が入ってしまったので、やむなく今回、NHK ホールでの「水曜夜のクラシック」シリーズの一環であるコンサートに出かけることとした。ひとつ興味深いのは、今回もともとマリナーが予定していた曲目は、最初が「フィガロの結婚」序曲、それから 25番の交響曲、次に、これは同じフルートとハープのための協奏曲を経て、最後は 36番「リンツ」というプログラムであったのだ。つまりコープマンに指揮者が変更になって、協奏曲以外の曲目は総入れ替えになってしまった。理由は判然としないが、勝手に解釈すると、協奏曲以外は後期のウィーン時代の作品で揃えたかったということではないのか。その推測には理由があり、今回のフルートとハープのソリストは、いずれもウィーン・フィルの首席奏者。
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それに加え、今回客演コンサートマスターを務めるのは、元ウィーン・フィルのコンサートマスターとしておなじみの、あのライナー・キュッヒルなのである。つまりこのコンサートの主要な演奏家たちは、みなウィーン・フィルの一部ということになる。ウィーンで生まれた曲を演奏したくなるのも無理はない (笑)。
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さて、コンサートの内容であるが、私としてはいくつかの点で複雑な思いを抱くことになった。まずひとつは、やはり会場の大きさ。最近 NHK ホールの音響は、私の気のせいか、以前よりもよくなったような気がするのだが、とはいえ、多分に想像力でその響きを補って聴く必要があるケースが依然として多い。ほかのオケが響きのよいホールで自発性溢れる演奏を自在に展開している今、やはりこの環境が N 響の 10年後にとって重要な意味を持つだろうと、繰り返したい。今回の演奏では、前半がコントラバス 2本、後半が 4本という小さな編成であり、その微妙なニュアンスを聴きとるには、残念ながらこのホールは大きすぎる。それから、キュッヘルであるが、例によってひとりだけ、本当に冒頭の「魔笛」序曲から、音がビンビンと響いてくるのである。これはもちろんよい面もあると思うが、指揮者の志向する音楽はノン・ヴィブラートの古典的プロポーション。ウィーン的な蠱惑的音楽とはかなり異なっている。もっとも、ウィーン・フィルとても最近は多くの古楽系指揮者を指揮台に迎えてはいるものの、「これぞウィーン・フィル」という音はやはりロマン的なものであると思う。だから、キュッヒルの音が飛び出して聴こえてくることは、音楽のスタイルという観点からは、やはりちょっと違和感があったのである。但し、後半の「ジュピター」でキュッヒルの手元をよく見ていると、前半とは異なり、わずかにヴィブラートをかける場面もあるように見受けられ、実際に聴こえてくる音も、尻上がりに均一性が改善したように思えた。音楽とは本当に生き物なのであって、一流のプロといえども、すべて思ったように行くとは限らず、それこそが生演奏の醍醐味だと思うのである。コープマンの指揮自体は、予想した通り、鳥肌立つような霊感に満ち溢れたものとは言えない実直なものであったが、その小柄なからだをせっせと動かし、指揮棒を持たない両手でオケをリードする姿には真摯さが見られて、好感を持つことはできた。その一方で、モーツァルトの交響曲でも「ジュピター」くらいになると、少しはロマン性、と言って悪ければ、音楽の「味」が必要な箇所も多い。これは、以前も例えば、クリストファー・ホグウッドとエンシェント室内管の実演でも感じたことである。今回の演奏では、もう少しその「味」が欲しいような気がした。そしてコープマンが演奏会終了後の拍手に応えて、客席に向かって「モーツァルト!!」と叫んで指揮し始めたのは、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の第 1楽章。アンコールでありながら、提示部をきっちり反復するあたりも真面目な印象だが、これは「ジュピター」よりもしっくり来る、N 響のアンサンブルがよく響いた演奏であった。あ、それから、フルートとハープのための協奏曲のソリストたちに関しては、もちろんきっちりとまとまっていたものの、正直、ちょっとおとなしいかなという気がしないでもなかった。彼らはアンコールとして、結果的にこの日唯一のモーツァルト以外の曲目 (笑)、ジャック・イベールの間奏曲を演奏し、これも洗練された優れた演奏であった。

上で書いたことはちょっと否定的に響くかもしれないが、でも私はこの演奏会を結構楽しんだことも事実。いわゆる古楽系の指揮者では、N 響はロジャー・ノリントン (私は彼のことを真の天才だと思う) との共演は多く果たしてきたが、ノリントンは病気も患ったし、既に高齢。この系列の指揮者で新たな可能性を発掘するには、コープマンのような人はなかなかに面白い選択だと思う。N 響の挑戦ということになるものと思うので、また再演があってほしい。やはり、次はバッハではないでしょうかね。まぁまずはその前に、土曜の上田でのコンサート、頑張って頂きたい。どうやら音響のよさそうなホールがあるようだ。上田の人たちが羨ましい (笑)。
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# by yokohama7474 | 2017-06-15 00:28 | 音楽 (Live) | Comments(5)

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今年の大ヒット作である。GW 前の公開なのに、未だにシネコンではかなりの頻度で上映されている。私にとって「美女と野獣」は、特集上映の際に劇場で見た1946年のジャン・コクトーによるモノクロ映画、1991年のディズニーによるアニメ映画、そしてブロードウェイで見たミュージカル (ベル役が東洋人であった)、と一通りの経験があり、ないのは劇団四季の日本語版ミュージカルくらいか。今回の実写版はやはりディズニーによるものであるが、なかなかに手の込んだ作りであり、もともとよく知られた内容であることもあって、万人が楽しめる内容であるがゆえに、これだけのヒットになっているのだろう。有名ミュージカルの映画化としては、「オペラ座の怪人」や「レ・ミゼラブル」などもうまくできていたが、この映画もそれらと肩を並べる作品であろうと思う。もちろん、何か人生が変わるような感動を覚えるというものではないかもしれない。だが、なんとも華麗な映像を見るだけでも価値はあろうというものだ。

監督は、1955年生まれの米国人、ビル・コンドン。このブログでは、イアン・マッケランが老いたシャーロック・ホームズを演じた「Mr. ホームズ 名探偵最後の事件」を採り上げたが、およそ CG とは縁のない、今回の映画とはまた全く違うテイストのものであった。だが、その前には「シカゴ」の脚本を書いたり、ビヨンセが出た「ドリームガールズ」の監督などを手掛けていて、ミュージカル映画とのかかわりは深いようだ。
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だがそれにしても私が思い出すのは、コクトー (以前も書いたことがある通り、私は彼の大ファンなのであるが) の古い映画では、主役のベルが野獣の城の中に入ったとき、暗い廊下には燭台を持った手が沢山壁から突き出ていて、それらがにゅーっと動いてベルを驚かすというシーンがあった。もちろん今から 70年前には CG はないから、様々な工夫が監督の才気を感じさせるシーンにはなっていたが、今から見るとなんと素朴なこと (笑)。
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ところが今回の映画では、燭台自身がこのように自在に動き、かつリュミエールというその名前が示す通り、もともとフランス人の召使が魔法によってこの姿に変えられたらしく、フランス語なまりの英語を喋るのである。コクトー映画とのなんたる違い (笑)。
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そして、最後に魔法が解かれたときに現れるこの人の素顔を見ても判別するのは難しいのだが、演じているのはあの英国の名優、ユアン・マクレガーなのである!! こういう凝り方の積み重ねが、映画に奥行を出していることは間違いないだろう。
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いやそれにしても、この映画の出演陣は大変豪華である。上述の「Mr. ホームズ 最後の事件」に続き、イアン・マッケランが時計のコグスワースの役として出ているし、ポット夫人はエマ・トンプソン。また、主人公ベルに言い寄る悪い奴、ガストンを演じるのは、「ドラキュラZERO」や「ハイライズ」、また「ホビット」シリーズで精悍なイメージの強いルーク・エヴァンス。また、ベルの父モーリス役は、「ワンダとダイヤと優しい奴ら」でアカデミー助演男優賞を獲得したケヴィン・クライン (どうでもいいけどこの人、昔懐かしいアイドル女優フィービー・ケイツと結婚しているらしい。16歳差。まあ本当にどうでもいいことなのだけれど)。野獣 / 王子役はダン・スティーヴンスという俳優。彼の顔にはなじみはないが、「ナイト・ミュージアム / エジプト王の秘密」でランスロット役を演じていたり、テレビシリーズ「ダウントン・アビー」に出ていたらしい。
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この映画のひとつの見どころは、野獣の見せる細かい表情である。映像技術の発展によって表現の幅が広がっていることは確実だが、それをいかに使いこなすかはまた別の話。この映画はそのあたり、大変に上質にできている。ほらこの表情、上の役者さんの顔の面影があるでしょう。あごひげのあたりとか (笑)。・・・ところでこの映画の CG で唯一惜しいところは、大詰めで野獣が屋根から屋根へ飛び移るあたりのシーン。これはちょっと古典的ないかにも CG という感じで、リアリティを欠いていた。
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そしてベルを演じるのは、「ハリー・ポッター」シリーズのハーマイオニー役で名を馳せたエマ・ワトソン。既に 27歳になった。
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私は「ハリー・ポッター」の第 1作から、彼女はきっといい女優になるに違いないと思っていた。そして今、この映画に見る彼女は確かに美しく知的で、また勇敢さを持つ役柄でもあり、その意味では何も不満はない。だが正直なところ、彼女はこれまであまり作品に恵まれているようには思われず、本来ならもっとよい仕事をしていてもよさそうなのに、と感じてしまう。昨年「コロニア」というチリのクーデターの話に出演していたので見たいと思ったが、見損ねてしまった。このベルのような優しい役ではなく、もっと強い役を演じてみてはいかがだろうか。今後に期待したい。

それから、今回はベルと野獣の心の通い合いにはシェイクスピアが絡んでいる。「ロメオとジュリエット」はロマンティックで好きではないと主張する野獣が、エマの言葉を引き継いで語る言葉はこのようなもの。

QUOTE
恋は目でものを見るのではない、心で見る、
だから翼もつキューピッドは盲に描かれている。
(小田島雄志訳)
UNQUOTE

これは、同じシェイクスピアの「夏の夜の夢」から。なるほど、この作品のテーマと共通しますな。なかなかに憎い引用だ。

最後にもうひとつ余談。なんでもこの作品、公開前に監督が、「ディズニー映画初の同性愛シーンがある」と宣言し、マレーシアではそのシーンをカットしようとしたため、ディズニーが上映を拒否したということがあったらしい。また、米国アラバマ州は上映禁止を宣言、ロシアでは 16歳以上指定になったという。だがこのニュースには違和感がある。こんなに大ヒットしている映画の一体どこに、そんな騒ぎになるようなシーンがあるというのか。調べてみたところ、どうやらこのル・フウという役に関するものらしい。演じるのはジョシュ・ギャッドという俳優。
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彼はガストンの仲間で、その心酔者のように描かれているが、だからと言って「同性愛」シーンがあったとは到底思えない。では何がいけなかったかというと、どうやら、最後で全員がダンスを踊る際に、男と組んで踊っていることであるようだ。うーん、そうだったかなぁ。そう言われればそうだったかもしれないが、集団の中だし、それほど目立つシーンではなかったはず。もしその程度で大騒ぎした国があったのなら、ちょっと違和感がある。もしかすると、監督が確信犯的に話題作りとしてそのようなニュースを事前に流したのでは・・・と勘繰りたくもなってしまう。逆に、もし「同性愛」シーンを楽しみにして劇場に足を運ぶ人がいたら、きっとがっかりするだろう (笑)。

ともあれ、様々な話題を詰め込んだヒット作。見ないと人生の損とは言わないが、魔女の呪いならぬ現代の映像の魔法に酔いしれるには、なかなかによい作品であろうと思う。

# by yokohama7474 | 2017-06-14 01:20 | 映画 | Comments(2)

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注目のコンビが来日だ。私が深く尊敬する指揮者、ステファヌ・ドゥネーヴが音楽監督を務めるブリュッセル・フィル。この指揮者については、このブログを始めて未だ日も浅かった頃、2015年 6月 8日の記事において、NHK 交響楽団を指揮した演奏会で採り上げて絶賛した。当時の記事は未だ短いものであったのだが、この川沿いブログはその後膨張しており (笑)、様々な寄り道をしながらも、東京で接することのできる文化の隆盛を地方に海外に、また将来に伝えるべく、心してこの記事を書くこととしよう。

まずはベルギーの首都であるブリュッセル。EU の本部がある都市でもあり、先の空港でのテロにも負けじとヨーロッパの誇りを保ち、文化の灯をともし続けて欲しいものである。
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ベルギーは、いわゆるベネルクス 3国 (ベルギー、ネーザーランド (= オランダ)、ルクセンブルク) のひとつ。もちろんドイツやフランスというメジャーな国とは異なり、文化的にも多様なのであるが、それゆえにこそ、真にヨーロッパらしい存在であると言えると思う。私はこれまでに 3回ブリュッセルを訪れており、そのいずれもが、当時かの地のオペラハウス、モネ劇場の音楽監督であった大野和士の指揮を聴くためのものであったのだが、この街の中心にあるグラン=プラスは、かのヴィクトル・ユーゴーが「世界で最も美しい広場」と絶賛した場所であり、そこに身を置くと、本当に時間を忘れるのである。
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さて、ブリュッセルはそのような素晴らしい街なのであるが、では、ベルギーと聞いて人は何を思い出すだろう。ビール。チョコレート。もちろん。だが人物についてはどうだろう。まず思い出すのは、アガサ・クリスティが創作した名探偵、「灰色の脳細胞」を持つエルキュール・ポワロ。それから実在の人物では、もちろんブリューゲルほかのルネサンス期のフランドル絵画の画家たちもおり、世紀末象徴主義のクノップフ、そしてシュールのマグリット。音楽の分野ではなんといっても作曲家セザール・フランク。それから指揮者では、アンドレ・クリュイタンス。こうして並べてみると、フランスでもないドイツでもない、またオランダとも異なる、ベルギーという国の一筋縄では行かない個性を感じることができる。そんな国のオーケストラとしては、もちろん上述のモネ劇場のオケも素晴らしいが、それ以外ではやはり、ベルギー国立管弦楽団に指を屈する必要があるだろう。上に名前の挙がったアンドレ・クリュイタンスが手塩にかけたこのオケは、2003年に、当時未だ 20代で天才ともてはやされた音楽監督ミッコ・フランクのもとで来日した。だが今回、ドゥネーヴとともに初来日を果たしたこのブリュッセル・フィルはそれらとはまた異なるオケであり、1935年にベルギー国立放送のオケとして発足した。ドゥネーヴは 2015年 9月からそこの音楽監督を務めているのである。

ではこのドゥネーヴ、いかなる指揮者であるのか。1971年生まれのフランス人。ゲオルク・ショルティ、ジョルジュ・プレートル、小澤征爾らのアシスタントを務め、このブリュッセル・フィル以外にも、昨年まで名門シュトゥットガルト放送響の首席指揮者を務めたほか、現在はあのフィラデルフィア管弦楽団の首席客演指揮者でもある。私が過去 2回、彼の演奏に接したところで断じてしまうと、この人こそ、時代を担う巨匠になるべき素晴らしい指揮者だ。
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そのようなドゥネーヴとブリュッセル・フィルが今回演奏した曲目は以下の通り。
 ギューム・コネソン (1970 - フランス) : フラメンシュリフト (炎の言葉)
 ベートーヴェン : ピアノ協奏曲第 5番変ホ長調作品73「皇帝」(ピアノ : モナ=飛鳥・オット)
 ベートーヴェン : 交響曲第 3番変ホ長調作品 55

今回このコンビは全国で 9回のコンサートを開く (東京以外には名古屋、札幌、金沢、姫路、広島、観音寺、福岡) が、そのいずれのコンサートでも、コネソンの「フラメンシュリフト」が冒頭に演奏される。ドゥネーヴとブリュッセル・フィルは最近ドイツ・グラモフォンからこの作曲家の作品集を発売したようで、会場にもその CD のジャケットをあしらったこのような自立式の宣伝が見られた。
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演奏に先立ってドゥネーヴは指揮台でマイクを持ち、このオケの第 2ヴァイオリンの首席である萩原 麻利の通訳で聴衆に語り掛けた。傑作だったのは、開口いちばん、萩原が "Ladies and Gentlemen, good afternoon!" と英語で呼びかけたのに続いて、ドゥネーヴが「ミナサン、コンニチハ」と日本語で喋ったことであった。私はこのようなユーモアのセンスが大好きなので、客席で声を挙げて笑ってしまいました。そしてドゥネーヴが解説することには、このコネソンの曲は、ベートーヴェンとドイツ音楽に捧げられたものであり、冒頭の音型はあの第 5交響曲と同じであるとのこと。そして自分たちが最近コネソンの CD を出したことが述べられ、「終演後にはサインします」との発言もあった (この箇所での萩原の通訳は「終演後に CD をお買い求め頂けます」であったが・・・)。それから、ドゥネーヴが語ることには、来日の直前に難関コンクールとして知られるエリザベート王妃コンクールがブリュッセルで開かれ、チェロ部門で日本人の岡本侑也が 2位に入り、協奏曲の伴奏を自分たちが行ったこと、それから、日本を代表する作曲家、細川俊夫の新作を初演したこと (これは、同コンクールでチェロの課題曲となった「昇華」という曲のことだろう) が述べられた。
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今回の演奏会のプログラムは、ベートーヴェンの作品と、そのベートーヴェンへのオマージュから成っているわけだが、私も今回初めて知ったことには、ベートーヴェンの祖父はブリュッセル近郊の生まれ。彼の名前に入っている van は、確かにオランダあたりに多いもので、生粋のドイツ人のものではない。なるほど、ヨーロッパは誠に一筋縄ではいかないのだ。そして演奏されたコネソンの「フラメンシュリフト」は確かに、フランス的な曖昧模糊としたものではなく、弦がザッザッとリズムを刻むドイツ風の音楽で、かつ華やかさも併せ持つ 10分程度の曲。終演後にドゥネーヴがスコアを抱えて指さしていたのが印象的であった。

次に演奏された「皇帝」では、若手ピアニスト、モナ=飛鳥・オットが登場。1991年生まれだから今年 26歳。3歳年上の姉、アリス=沙良・オットと同じく、ドイツ人の父と日本人の母の間に生まれている。これは姉妹のツーショットだが、向かって右がモナ。むしろ姉よりも大人びた風貌と言ってもよいのでは。
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だが今回の演奏は、率直なところ、姉アリスの演奏レヴェルにはごくわずか届かないような気がしたのは私だけであろうか。非常にきれいな音で長い指が鍵盤を駆け巡るのであるが、この曲であればもう少し力強さが欲しいし、それに伴う山っ気というか、緩急の使い分けがあった方がよかったと思う。その一方、若い音楽家が自らを信じて疾走することは何よりも素晴らしいことであり、今の彼女にできる演奏であったという点には気持ちよいものを感じさせてもらった。今後の活躍を楽しみにしたい。アンコールとして弾いたリストの「巡礼の年『ヴェネツィアとナポリ』」のカンツォーネは、一転して暗い情緒を感じさせる名演であったことから、このピアニストの様々な可能性を感じることができた。

そしてメインの「エロイカ」であるが、これは快速テンポで駆け抜ける爽快な演奏となった。「皇帝」でもそうであったが、ドゥネーヴは指揮棒を持ち、ヴァイオリンの左右対抗配置も取らないが、弦楽器 (コントラバス 6台編成) にはヴィブラートをかけさせず、キビキビとした現代的なベートーヴェンを描き出した。第 1楽章のコーダでトランペットが「行方不明」になる箇所も、この勢いで聴くと気にならないから不思議である。かと言って無味乾燥な演奏ではなく、時にはごくわずかテンポを落としてみたり、第 3楽章スケルツォの中間部のホルン 3重奏もほのぼのとした味わいのものであった。このオケの性能はかなり高く、この気持ちよい演奏の実現においてその性能はいかんなく発揮されたと思う。ただ 1箇所、第 2楽章葬送行進曲の冒頭すぐに弦が細かく刻む場所でずれてしまい、音楽がギザギザな感じになってしまった点が惜しまれた。

アンコールとして演奏されたのは、(ドゥネーヴの日本語まじりの紹介のあと) シューベルトの「ロザムンデ」間奏曲第 3番。ここでは一転して遅いテンポで極めて抒情的な演奏が聴かれ、いかにもロマン派という雰囲気が醸成された。弦楽器を見ていると、ヴァイオリンはヴィブラートなしだが、チェロの一部は朗々とヴィブラートをかけていた。味わい深い演奏だったので、次は是非ドゥネーヴのドイツ・ロマン派が聴いてみたいものだ。

終演後のサイン会は、ピアニストが先に準備していて、指揮者は遅れてやって来ることとなったが、和気あいあいという大変よい雰囲気であった。モナは姉アリスと同様、日本語には全く問題なく、サインを求める人たちに丁寧に応対し、時折やって来る知り合いの人たちとも楽しそうに会話していた。一方のドゥネーヴはまた、きっちりとファンの目を見てコミュニケーションを図っており、サインをしては「ヴォアラ」(フランス語で「はいどうぞ」の意味) などと言いながら、これまた楽しそうであった。これらの写真で、その楽し気な雰囲気が伝わるとよいのだが。
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ベルギーからの初来日のオケと若手ピアニストは、これから地方巡業となる。奏者たち自身、是非日本での演奏を楽しんで頂きたいし、ヨーロッパの現在を我々日本人の前で表現して欲しいものだと思う。

# by yokohama7474 | 2017-06-11 23:34 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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東京初台の新国立劇場が、現在のオペラ部門の芸術監督である飯守泰次郎の指揮のもとで進めている、ワーグナーの超大作「ニーベルングの指環」4部作の 3作目、「ジークフリート」である。初回の「ラインの黄金」は私も見に行って、2015年10月 2日の記事で採り上げた。2作目の「ワルキューレ」は昨年 10月に上演されたが、残念ながら私は見ることができなかった。そして今回の「ジークフリート」である。尚、新国立劇場では来シーズン (2017 - 18) の開幕演目として、今年 10月に最後の「神々の黄昏」を上演し、飯守体制の締めくくり第一弾とすることになる。これについてはまた後で述べることとしよう。

さて、この上演の意義については以前の「ラインの黄金」の記事に一通り書いておいたので、ここでは簡単に触れるにとどめる。ドイツ人ゲッツ・フリードリヒ (1930 - 2000) は、20世紀の後半において主にそのワ-グナー演出で世界を席巻したカリスマ演出家である。今回新国立劇場で上演されているツィクルスは、彼が晩年にフィンランド国立歌劇場で演出したもの。余談だが、先に来日したフィンランド人の名指揮者エサ=ペッカ・サロネンが近く同歌劇場で「指環」ツィクルスを上演するというニュースがあったが、その演出もこれになるのであろうか。そもそもフリードリヒの「指環」というと、ツィクルスとしての日本初演となった 1987年のベルリン・ドイツ・オペラのもの、いわゆる「トンネル・リング」と言われるものが知られている。以下、その「トンネル・リング」の一場面。全 4作を通じ、このようなトンネルが舞台奥にずっと存在しているというコンセプトであるようだ。今回初台で上演されているものは、これに比べれば随分と穏便な演出であると言える。
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この作品について指揮者飯守が語るところや、今回の上演のリハーサル風景などは、新国立劇場のウェブサイトで動画を見ることができるが、会場にもモニターが設置されてその映像が流れている。
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この飯守リング、世界一流のワーグナー歌手を集めた上演であり、その点こそまずは大きな意義を見出すことができるだろう。今回の主役ジークフリートを歌うのは、テノールのステファン・グールド。ワーグナーファンにとっては既におなじみの名前であろう。
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実はこの人、今回の「指環」4作にすべて出演する。実のところ、これは少し奇異である。「ジークフリート」と「神々の黄昏」でひとりの歌手がジークフリート役を歌うのは普通。また同じ歌手が「ワルキューレ」でジークムントを歌うのも大いにありである。だが、「ラインの黄金」は? そこにはいわゆる英雄的な役、ヘルデン・テノールは登場しないのだ。そしてこのグールドがそこで歌ったのはなんと、狡猾な策士である火の神、ローゲなのである!! 私は以前の「ラインの黄金」の記事でその違和感を述べておいたが、だがしかし、4作すべてに登場する役柄がないこの作品 (ヴォータンですら「神々の黄昏」には登場しない) で、世界的なヘルデンテノールがそのようにしてまで、すべての作品で歌唱を聴かせてくれる東京という街は、恵まれていると解釈しよう。その他の歌手としては、エルダのクリスタ・マイヤー、ブリュンヒルデのリカルダ・メルベートもバイロイト経験豊富なワーグナー歌手たち。
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それから、ミーメのアンドレアス・コンラッド、アルベリヒのトーマス・ガゼリ、さすらい人 (ヴォータン) のグリア・グリムスレイはいずれもこのシリーズで以前同じ役で出演していて、ツィクルス上演の一貫性があることになる。これは大いに意義のあることである。さてそのような恵まれたキャストを使った今回の公演、私の記憶にある 2年前の「ラインの黄金」よりもさらに優れた成果を挙げたものと高く評価したい。飯守はかつてバイロイトで助手を務めた経験から、日本ではワーグナー指揮者としての確固たる名声を保っているが、その彼も既に 76歳。円熟の年齢である。今回の東京交響楽団 (通称「東響」) を指揮しての演奏には、それぞれの示導動機 (ライトモティーフ) を丁寧に描き出そうという意図が明確に見え、オケの高い力量もあって、それが充分に成功していた。プログラムに掲げられた飯守自身の言葉 (これは奇しくも、やはりプログラムに載っているフリードリヒが残した言葉とも共通するのだが) によると、この「ジークフリート」は交響曲にたとえるとスケルツォ楽章であると。もちろん、古典的な交響曲の構成においては、第 3楽章は諧謔味のあるスケルツォなのであり、ワーグナー自身がどう考えていたかは知らないが、確かにこのオペラの第 1幕では、リズミカルで諧謔味のある個所が続く。だが、これも飯守自身が述べている通り、このオペラはまた同時に「指環」4作の中で最も抒情的な箇所も持つのであって、印象派に影響を与えたとされる「森のささやき」や、作曲者自身が「ジークフリート牧歌」として別の曲を書いた優しい主題は、「指環」のほかの 3作には聴かれないものだ。次作で神々が終末を迎える前に聴かれるこのユーモアや抒情性が、この作品を一筋縄でいかないものとしているのである。それゆえ、最後のジークフリートとブリュンヒルデの二重唱は、「まさに幸せの絶頂にあり、音楽的にもドラマにおいても『指環』四部作全体の一つの頂点である」と同時にまたそこには、「より深い意味を孕んだドラマ」があるとする飯守の解釈は納得性が高い。日本のワーグナー受容にも既に長い歴史があるが、東京の劇場でこれだけ音楽的にも知的にも刺激に満ちた上演がなされるようになったことは、一過性のものではない、東京の文化として将来につながるものになったと思うのである。

演出について少し触れておこう。第 1幕は、このような森の前にある鍛冶屋の小屋で展開する。メルヘン調もありながら、登場人物たち (さすらい人 = ヴォータンは上の森の方から現れ、ミーメと屋外のテーブルで対話する) がうまく動ける機動性もあって、よくまとまっている。
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第 2幕はなんといってもファフナーが変身した大蛇退治がメインだが、この大蛇にはおどろおどろしさは皆無。また、森の小鳥は黄、白、赤、緑、青と 5羽出てくる。このうち歌手が演じるのは 4羽 (日本の若手歌手による)、残りの 1羽、青い鳥だけはダンサーが演じた。
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第 3幕ではヴォータンとエルダ、ヴォータンとジークフリート、そしてジークフリートとブリュンヒルデというそれぞれの組み合わせの歌唱が、がらんとした空間で展開する。注目すべきはラストの二重唱であり、上記の飯守の言葉にある通り、これはただの幸せな歌ではなく、死に向かう自暴自棄の歌に変わって行くのであるが、そこで 2人の男女はブリュンヒルデの盾や鎧を放り投げ、その自暴自棄ぶりを明確にするのである。
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歌手の歌唱はいずれも危うげのないもので、特に出ずっぱりのジークフリート役、ステファン・グールドはさすがであったが、だがそれでもやはり彼も人間、大詰めでは少し疲れが見えたか。しかし、実際に舞台でこのような作品を見ると、むしろそのようなことは当たり前。上演全体を目で耳で味わうことが、オペラの醍醐味なのである。

超大作であるから、45分の休憩を 2回挟んで、5時間45分の上演時間。さすがにこれでは腹が減るので、会場には軽く食べられるものが売られていて、なかなか気が利いていた。ジークフリート限定、サンドウィッチ BOX (1,000円) なるものもあったが、私が食べたのはハッシュドビーフ。名前は「鍛冶屋の歌」。600円とリーズナブルだ。
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このオペラハウスは街中にあって敷地も限られているので、工夫して空間を作っているが、満員の聴衆が休憩時間に思い思いに過ごしているのを見ると、東京におけるオペラの楽しみも定着して来ているなと改めて感じた。来シーズンで開場 20周年。飯守体制最後の年となり、その後はいよいよ大野和士に芸術監督がバトンタッチされる。その飯守体制最後のシーズンのオペラ上演のラインナップは以下の通り。
 ワーグナー : 神々の黄昏
 ヴェルディ : 椿姫
 R・シュトラウス : ばらの騎士
 J・シュトラウス : こうもり
 細川俊夫 : 松風 (日本初演)
 オッフェンバック : ホフマン物語
 ドニゼッティ : 愛の妙薬
 ヴェルディ : アイーダ
 ベートーヴェン : フィデリオ
 プッチーニ : トスカ

なかなかバランスの取れた演目だが、この中で私にとっての注目は、細川の「松風」と、それから新演出の「フィデリオ」だ。この「フィデリオ」は飯守自身の指揮で、ノオノーレはリカルダ・メルベート。フロレスタンはステファン・グールド。そう、今回のジークフリートとブリュンヒルデのコンビである。そして演出はあの、カテリーナ・ワーグナー。むむむ。2015年のバイロイトでの「トリスタン」の演出には正直なところ閉口したが、今回はいかに。今からまだ 1年ほど先になるが、是非見てみたいと思う。あ、もちろん、既にチケットを購入している「神々の黄昏」では、ステファン・グールド以外にもペトラ・ラングのブリュンヒルデや、なんと新国立劇場初登場のヴァルトラウト・マイヤーが歌うヴァルトラウテ (端役だが・・・) も楽しみである。「オペラパレス」との名称を持ったこの新国立劇場が、今後ますます東京の音楽文化において欠かせない場所になって行くことを切に希望する。
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# by yokohama7474 | 2017-06-11 11:34 | 音楽 (Live) | Comments(5)

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ハリウッドを代表する俳優で、監督としても前作「アルゴ」で世界の絶賛を浴びたベン・アフレックの新作である。さぞや大々的に宣伝して大ヒットしているだろうと思いきや、上映している劇場はかなり限られていて、どうも日本ではあまり盛り上がっている気配がない。これは場合によっては、上質な映画を見逃す危険があるのではないかと思い、慌てて劇場に足を運んだのだが、案の定、これほど真摯に作られた映画をもし見逃すなら、それは映画好きとしては由々しき事態。この記事を是非参考として頂き、劇場に足を運ぶことで、ベン・アフレックという稀有な才能が今後も映画を作れるよう、是非応援して頂きたいのである。

この映画の舞台は 1920年代、禁酒法時代の米国である。監督でありながら主役を (ついでに? 脚本と共同製作も) 務めるベン・アフレックの役柄は、警察幹部の息子として生まれながら、第一次世界大戦参戦の際、次々に犠牲になって行く仲間たちを見て厭世的となった若者で、今ではボストンを拠点に数人でつるんで銀行強盗を行っているやさぐれ者である。ボストンではおりしもアイルランド系とイタリア系のギャング同士が反目しあっているが、アフレック演じるジョー・コフリンは、そのようなギャングとは一線を画して、基本的には人殺しはしない方針なのであるが、時代の激動の中で数奇なる運命に弄ばれて行く、という物語。ボストン以外にはフロリダ州タンパが舞台となっている。話は結構陰惨であり、時代背景が日本人にはなじみがない (禁酒法時代を舞台にしたギャング物は結構多いのだが) ことが、大々的に公開されていない理由なのかもしれないが、もしそうだとすると、惜しいことだ。ここでアフレックが描こうとしているものは普遍的な人間の心理なのであり、運命に抗う個人の赤裸々な姿であって、我々が日常を生きる上でヒントになるような事柄も多く含まれている。まずやはり、アフレック自身の姿が、戦争による心の傷のため、世の中に対して斜に構えたところもあり、時には卑劣な手段を用いながらも、激動の時代を懸命に生きる男を強烈に表しており、心に残るのである。彼なりにこだわりがあり、リスクも取りながら野心もあり、また大事なものを守ろうとする姿勢は、いつの時代でも必要なもの。例えばあなたが、集団の中で対立する 2派のどちらかについたとき、その親玉とどのようにつきあうか。相手方の親玉からの接触にどう対処するか。移り変わる状況の中で、人間としての矜持をいかに保つか。これは現代のサラリーマンにとっても、切実な課題になりうる (笑)。アクションもでき、複雑な心理のあやも表現できるこの俳優から、生きるヒントをもらおうではないか。
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この手の映画は、まずセットにかなり金がかかるものだし、服装や髪形など、細部のリアリティも重要になってくるし、映像のトーンもその時代らしさが求められる。私としてはそれらの点においてこの映画はかなり上質な仕上がりであると思うので、まずはその点においては映画としての成功の条件は満たしていると言えるだろう。調べてみると美術は、いずれもコーエン兄弟の作品「トゥルー・グリット」「ヘイル、シーザー!」でアカデミー賞にノミネートされたジェス・ゴンコールという人。そして撮影は、「JFK」「アビエーター」「ヒューゴの不思議な発明」で実に 3度のアカデミー賞に輝くロバート・リチャードソン。なるほど、そういう優秀なスタッフが参加しているだけのことはある。因みに、アフレック自身が共同製作者であることは上述の通りだが、共同製作者のうちのもうひとりは、なんとあの、レオナルド・ディカプリオなのである!! ディカプリオとアフレックの接点はあまり思い当たらないが、探してみたところこんな写真を発見。ディカプリオがぞんざいに (笑) 左手に握っているのはオスカー像である。2015年、第88回アカデミー賞で彼は「レヴェナント 蘇りし者」で主演男優賞を獲得したが、これはそのときのパーティーでのツーショット。時期からして、もしかするとこのときにアフレックがディカプリオにこの映画への出資を打診したと考えてもおかしくないのではないか。
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ともあれこの「夜に生きる」の素晴らしい点は、その美術やカメラワークの質のみならず、一連の役者たちの貢献にあることも間違いない。例えば、アフレックの妻役を演じるこの人。
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そう、ゾーイ・サルダナである。たまたま前の記事に採り上げた「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス」でも重要な役柄であったので、このブログでは連続登場ということになるが、あぁよかった、ここでは素顔である (笑)。激動の時代、裏社会にも通じる身であり、自分をしっかり持ちながらも献身的に夫を支える妻の役を、繊細に演じている。それから、またしても私を驚愕させたのはこの女優だ。
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未だ 19歳ながら、その表現力には恐ろしいものすら出て来た、エル・ファニング。このブログでも絶賛した怪作「ネオン・デーモン」での熱演も記憶に新しいが、ここではまた全く違う役柄ながら、大変に重要な役を高い説得力で演じている。この写真は彼女の最初の登場シーンで、そのときはほんの端役かと思うのである。ところがところが、思いもかけない展開によって、彼女の存在が、あれよあれよという間に、この映画のかなめにすらなって行き、そして意外な顛末となるのである。平凡な若い役者であれば、この役自体の重要性を観客に認識させることはできなかったと思う。もはや「ダコタ・ファニングの妹」という呼び方では失礼だろう。末恐ろしい存在である。

また、この映画の原作者が面白い。1965年ボストン生まれの米国の作家、デニス・ルヘイン。この映画での製作総指揮も兼ねている。
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過去の作品を見てみると、「探偵パトリック & アンジー」シリーズというもので知られているようだが、「ミスティック・リバー」「シャッター・アイランド」という映画化された作品もある。そういえば、前者はボストンが舞台であったのははっきり覚えているが、後者も、調べてみるとまたしかりなのである。つまり彼は故郷ボストン (米国屈指の歴史ある街である) にまつわる物語を創造し続けているということか。もっともこの「夜に生きる」のもうひとつの舞台であるフロリダでは、KKK の活動や人種差別、また宗教の問題もこの映画には出てくる。これらは東海岸の問題ではなく、米国の本音と建て前の差が赤裸々に現れる南部の問題であるだろう。その意味で本作には、現在に続く米国の闇の部分がクローズアップされているという面もある。なお、このルヘインの「探偵パトリック & アンジー」シリーズの 1作、「愛しきものはすべて去りゆく」という小説は、やはりベン・アフレックによって「ゴーン・ベイビー・ゴーン」として映画化されているが、日本では未公開であるようだ。

このように興味深い要素が沢山詰まった映画であるがゆえに、見ても絶対損にならないと申し上げておきたい。余談だが、"Live by Night" という原題から私が思い出したのは、学生時代に映像論のゼミでテーマとなっていた 1950年代ハリウッドと赤狩りに関連して見せられた、ニコラス・レイ (1911 - 1979、一般的に知られる代表作は「理由なき反抗」だろう) の作品、"They Live by Night" という映画であった。当時は日本公開されていない映画であったので、字幕なしのビデオを教室のスクリーンに投影しての鑑賞であった。その後 1988年に「夜の人々」という邦題で公開されたようだが、わずかに残る私の印象では、なんとも暗い映画であり、やはり銀行強盗を描いた映画であった。これは 1948年の制作で、ニコラス・レイのデビュー作。この作品と今回のアフレックの「夜に生きる」を関連づけた英語の記事がないかと思って検索してみると、ロサンゼルス・タイムズのレビューがヒットした。ざっと見たところ、役者としてのベン・アフレックは監督としてのベン・アフレックに貢献していない、と厳しい論調で、似たような題名の古い作品でも、レイの「夜の人々」の方がもっと汚くタフだった、とある。これはアフレックの作品を誉めていないということでしょうね (笑)。ただ私としては、アフレックにはいくつもの顔を持って活躍して欲しいし、このロサンゼルス・タイムズの記者が主張するように、最近彼が演じているバットマンが彼に合っているとは、全く思いません!! というわけで、レイの「夜の人々」からの、これだけ見るとあまりタフには見えないショットでこの記事を終えることとしよう。
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# by yokohama7474 | 2017-06-11 01:01 | 映画 | Comments(0)