澁澤龍彦 ドラコニアの地平 世田谷文学館

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澁澤龍彦 (1928 - 1987) は、少なくとも私の世代で、ヨーロッパの芸術で、時に幻想的、高踏的、あるいは退廃的なものに興味のある人であれば、誰しもが多くを教えられたであろう、稀有なる文学者であった。本職は一応フランス文学者と言うべきなのであろうが、ヨーロッパのあらゆる幻想的、高踏的、退廃的な芸術を日本に紹介した功績は不朽のものであるし、その膨大なエッセイにおけるペダンティックな語り口と、マルキ・ド・サドやジャン・コクトーの翻訳、そしてまた小説においても、その特異な才能を高らかに天下に知らしめた人である。今と違ってインターネットのない時代、彼の著作でしか知ることのできない画家の名前や歴史的な事象、あるいは興味深い場所は数知れず、私は学生の頃に何冊もそのような澁澤の本をむさぼり読んだものである。当時私の周りには、このサングラスを真似ている先輩もいたものだ。
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ここで紹介するのは、昨年没後 30年を迎えた澁澤の業績を紹介する、世田谷文学館で開かれた展覧会。多くの生原稿や澁澤の所有していた様々なオブジェや美術品等が所せましと並んでいて、長年の澁澤ファンにとっては、まさにたまらない内容であった。これは、親しい友人であった三島由紀夫と語らう澁澤。1970年 5月の撮影というから、三島が自決する半年前の写真で、彼らが語っているのは稲垣足穂について。雰囲気も題材も、いかにも昭和の時代のあだ花であるが、今となっては、激しく怪しい耽美性において、この 2人が日本の文芸に果たした役割には絶大なものがあると、改めて実感するのである。
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さてこれは、澁澤のトレードマークであったサングラスをあしらった、展覧会の図録の最初のページ。展覧会の副題は「ドラコニアの地平」だが、この「ドラコニア」とは小惑星群の名前であるが、ここでは「龍彦の領土」という意味の自らの命名で、いわば澁澤の作り出した特異な世界を表す表現である。もちろん、「龍 = ドラゴン」との関連もあるだろう。
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そうそう、展覧会の内容もさることながら、会場であった世田谷文学館について簡単にご紹介しよう。京王線の芦花公園駅からほど近いところにある、その名も芦花公園という公園の中にあり、主として世田谷区ゆかりの文学者についての資料を収集・展示している。実は私も昨年の晩秋にこの澁澤展を見るために初めてここを訪れたのだが、なんとも気持ちのよい場所であったので、そのときの写真をまずお目にかけよう。
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この公園に名前を残している「芦花」とはもちろん、明治の小説家、徳冨蘆花のこと。今でも彼の旧宅が公園内に残されていて、建物同士を結ぶ長い廊下を含め、内部を見学することができる。
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私も蘆花について名前以上に何を知っているわけでもないのだが、兄のジャーナリスト徳冨蘇峰と並んで有名な文筆家である。兄・蘇峰の旧宅の一部は、我が家から遠からぬ大田区の山王という場所に保存されていて、いつの日にかこのブログで、以前回ったことのある馬込あたりの文士たちの暮らした跡をご紹介する記事を書きたいので、またその時に、この兄弟の業績について考えてみたい。さて、世田谷文学館の入り口には、このブログでも昨年展覧会をご紹介した洋画家、絹谷幸二の大きな作品が展示されている。1995年作の「愛するものたちへ・希望」。
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さて、このおよそ澁澤ワールドとはほど遠い健全な作品 (笑) から、澁澤展における展示物、またはそのイメージの紹介に移ろう。まず、これまでにも様々なメディアに紹介されてきた、彼の書斎の写真。私の記憶が正しければ、いつか見たやはり澁澤に関する展覧会では、実物大の写真で再現されていたような気がする。あれはいつだったかなぁ。ここに見えている人形は、言うまでもなく四谷シモンの手になるもの。
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また、無機的な鉱物や貝殻が好きであった彼は、戸棚にこのようなものも飾っていたらしい。
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興味深かったのは、ジャン・コクトーから澁澤にあてた手紙。コクトー作品の数々を翻訳して日本に紹介した澁澤への謝意を表明したものであろう。宛先には "Tasso Shibusawa" とあるが、この「タッソ」とは、澁澤の名前「タツオ」と 16世紀イタリアの詩人タッソー (音楽ファンにとっては、リストの交響詩でも知られる名前であろう) とをかけたもの。澁澤が自身をそう名乗ったということのようである。
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澁澤と言えば、その耽美性や衒学性とともに、意外とお気楽なユーモアが彼の個性をなしている。これは、彼がマルキ・ド・サドの「悪徳の栄え」を翻訳し、わいせつ罪で訴えられた、いわゆる「サド裁判事件」に関して、自身で語った原稿。思えば日本の文学者の伝統は、その巧まざるユーモアにあると言うこともできるのではないか。
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彼はまたヨーロッパ各地を旅して、興味深い場所をあれこれ訪れている。展覧会では、念入りに作成された彼自身による旅の記録を見ることができた。例えばイタリアのボマルツォ庭園など、澁澤が紹介したということで大いに興味を引く場所であり、いつか実際に足を運ぶのが私の夢のひとつなのである。
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さてここで私は、この展覧会を振り返って内容を紹介するのに、通常の美術展とは異なる難易度を感じ始めている。それは、展示物の写真をあれこれ載せても、澁澤を好きな人には何かイメージが伝わるにせよ、そうでない人に対してはあまり意味がないような気がするからだ。そういう方には一言。澁澤を読んで下さい。彼の文章を少しキザと思われるのはやむないが、だが、ちょっとほかにないような素晴らしく文化的な内容が山盛りであり、今でも様々な著作が簡単に手に入る。もちろん古本なら、こんな昭和な雰囲気を味わいことができて、それはそれでまた味わい深いのだが。
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そうそう、ひとつ興味深かったのは、澁澤が暗黒舞踏家、土方巽の葬儀で読み上げた弔辞である。生原稿と、そこから起こした全文の活字が展示されているだけではなく、葬儀の際に読まれた実際の弔辞の録音が流れていた。
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土方と澁澤の交流関係はよく知られているが、1986年 1月に 57歳で亡くなった土方を追悼する澁澤の言葉は、時にユーモアもありながら、悲痛なもの。意外なことには、その弔辞の中で、あまり澁澤と接点があったとも思われない寺山修司の死に言及し、「まさに死屍累々であります」という発言がある。寺山の死は 1983年だからその時よりも 3年前ではあるが、澁澤の目から見ると、土方と共通する土俗的な精神を持った日本の芸術家の死ということで、何か連鎖的なものを感じたのかもしれない。痛々しいのはその細く高い声で、途中で咳払いし、「最近喉の調子が悪いのです」と謝罪するのである。周知の通り、澁澤は咽頭癌で声を失い、結局その病でこの世を去るのだが、調べてみると、癌の発見は、この弔辞を読んでからわずか 8ヶ月後の 1986年 9月。まさにこの土方の葬儀の際には、彼の喉は既に、癌に侵されていたわけである。土方の死から 1年半ほどしか、彼はこの世に留まることができなかった。奇しくも土方と澁澤は同じ 1928年の生まれ。昭和を駆け抜けた文化人たちである。展覧会には、その澁澤が声を失ってから家族や友人と行った筆談のあとも多く展示されていたが、これが面白い。
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入院中に見舞いに来た友人が辞する際に、ベッドから起き上がってエレベーターまで送ろうとした澁澤に、その友人が無理しなくてよいと言ったことに対し、「それだけのダンディズムがまだ残ってる」と書いてみせたという。いかにも澁澤らしいではないか。

さて、澁澤の著作についてあれこれ語るとなると、それはなかなか大ごとなのでやめよう。ただここで、あと 3つばかりのエピソードを語りたい。ひとつは澁澤の住居について。上で写真を掲載した彼の書斎やオブジェは、彼が晩年まで住んでいた北鎌倉の自宅での写真である。ここは一般公開されていないはずだが、生前の書斎をそのまま残してあると聞いたことがある (龍子未亡人が今でもおられるはず)。いつか保存・公開される日を待ちたい。上に、その書斎を実物大の写真で再現した展示を見た記憶があると書いたが、どうにも気になったので、例によって書庫をガサゴソ漁り、みつけて来たのがこの本だ。ここには、篠山紀信の手になる澁澤の書斎の写真がいろいろ載っていて興味深い。今でも中古で簡単に手に入るので、ご興味おありの向きにはお薦めしておこう。
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ところでこれはどう見ても展覧会の図録で、私はそれに出掛けたはずだが、どこにもその展覧会への言及がない。そして調べてみると、インターネット時代のありがたさ、1994年に西武百貨店池袋店の 12F、ロフトフォーラムで開かれたものと簡単に判明した。なるほど、そう言えばそんな記憶が甦ってくるのであった。

次に 2つめのエピソード。実は私は、澁澤がこの北鎌倉の家に移る前に住んでいたという家に、行ったことがあるのだ!! もちろんそれは澁澤が退去してからずっと後のことで、多分今から 20年くらい前 (上記の西武百貨店での展覧会の数年後だったか)。会社の先輩が何かのツテがあって、ある日曜日に、随分と古い空き家の木造家屋を見せてもらうことができたというだけだ。場所はやはり鎌倉で、何か小川のすぐそばだったと思う。そのことも随分長く忘れていたのだが、今回の展覧会に、その家に住んだ頃のことを書いた生原稿があったので、急にそれを思い出したというわけだ。その家には別に何か痕跡があるわけでは全くなかったが、敬愛する澁澤の旧居というだけで、感動したことは覚えている。今はどうなっているのだろう。

最後のエピソード。澁澤が日本に紹介したアーティストは沢山いて、例えばレオノール・フィニーとかゾンネンシュターンなどがそうだが、中でも人形作家ハンス・ベルメールの怪しい作品群は、本当に澁澤好みのものである。実はこの展覧会が開かれていた前後にも、場所は全然異なるが、渋谷の Bunkamura のギャラリーで、澁澤ゆかりの作家 (四谷シモンや金子國義ら) の作品の展示即売会をやっていたのだが、かれこれもう 10年以上前だろうか、その Bunkamura で同様のイヴェントが開かれたことがあった。そのときに私は、ハンス・ベルメールのリトグラフ作品を購入したのであった。昨年の澁澤没後 30年を記念して、ここで我が家秘蔵のベルメール作品をご披露しよう。1969年作の「青い瞳」という作品。秘蔵している理由は、保管ということもあるが、何より、飾っていてあまり気持ちよい絵ではないからだ (笑)。
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そんなことで、とても澁澤文学の全貌には迫れなかったが、彼の偉大なる足跡の片鱗くらいはご紹介できたかと思う。最近でも人気が衰える気配のない澁澤の膨大な著作は、時に公序良俗に反しながら (?)、人々の感性を刺激してやまないのである。そして私は世田谷文学館をあとにして、晩秋の空気の中、芦花公園を散歩しつつ、今度は書斎のほこりくささを忘れて、ひなたぼっことしゃれこんだのである。
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# by yokohama7474 | 2018-01-19 00:55 | 美術・旅行 | Comments(0)  

フラットライナーズ (ニールス・アルデン・オプレヴ監督 / 原題 : Flatliners)

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前回の記事に続いて、期待外れの映画について語らなくてはならない点、誠に残念である。しかも前回に引き続き今回も、超常現象をテーマにしている点に共通点がある。ただ前回の「プラネタリウム」にはまだ、主演のナタリー・ポートマンの熱演等の見るべきものがあった。それにひきかえこの映画、ただただ残念な出来であると言うしかないのである。これはちょっとお薦めしません。予告編で明らかになったのは、医学生たちが死後の世界に興味を持ち、自分たちを実験台にして、自ら臨死状態となり、死後の世界を体験してから蘇生するという実験を行う。だが、その危険な実験の代償はあまりにも大きかった、というストーリー。そして、上のチラシにある通り、その臨死状態が 7分を超えることで、パンドラの箱が開き、何か恐ろしいことが起こるという設定のようであった。・・・もうネタバレでも何でもいいから書いてしまうと、本編の中では 7分を超えたらどうなるかという展開は出て来ず、ただ彼ら医学生 (1人を除く) の臨死実験が順番に描かれるのみである。なのでこの 7分云々は、多分日本での宣伝のために独自に作られたものであろう。ここで描かれているのは、要するにそのような不謹慎な真似をした医学生たちが、自らの深層心理に向き合うことで、恐ろしい体験をするという設定であり、それ以上でもそれ以下でもない。そもそも題名の「フラットライナーズ」の意味は何であろうか。私も本編を見てから気づいたのだが、これは Flat な Line、つまりは「平坦な線」、これである。
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私としても肉親を亡くした自らの過去の悲しい体験から、このような画像は見たいと思っておらず、本当に嫌な気分になるのであるが、人間につけた計器の反応がフラットになるとは、既に生命反応がないということで、この映画ではそのことを Flatline と呼んでいる。ここで 5人の医学生たちが行う臨床実験のことは、"Flatlining" という言葉で表現されている。誠に不謹慎だと思うのだが、まあ映画だからその設定は仕方ないとして、では、その先いかなる事態が待ち受けているのか。何か人間の感性に強く訴えかけるものがあるだろうか。いざ、臨死実験!!
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さて、人によってはこの後の展開を、もしかしたら「これはすごい」と思うこともあるのかもしれないが、申し訳ないが私は、ずっと白けたまま画面を見ていた。言ってみれば、いわゆる普通のホラー映画として、不気味なシーンがあれこれ出て来るのだが、まあそれだけだ。彼らが出会う事態には、彼ら自身の深層心理が大きく関係しているのだが、それはいずれも特殊な経験によるもの。鑑賞者たちが「あぁ、これは自分の身にも起こるかも」という切実な恐怖を感じることは金輪際ない。じゃあ、なんのためにそんな設定にしているのか? そう思うと、見ているうちにだんだんいらついてくる。ご存じの方にはヒントになるだろうが、邦画でも昔、「催眠」という映画があって、そこには「緑の猿」という謎の存在がいるという設定であったが、この「フラットライナーズ」もそれと同様の内容だ。だからなんなんだ (笑)。別に大して怖くもないし、人生の価値に対して何か新たな視点から問題提起するものでもない。おっと、悪口を言っていたら蘇生したか。
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私としては、この映画を語るのにこれ以上時間を費やすつもりはないが、ただ、ここに出演している若手俳優たちは、それぞれに今後の活躍が期待される人たちであるようなので、それには少し触れておこう。まず、上で写真を掲載した本作の実質的な主役であるコートニー役は、エレン・ペイジ。これまでの代表作は「X-Men」シリーズで、そのナイーヴな表情は、印象に残るものではある。
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また、レイという役を演じるのは、メキシコ出身のディエゴ・ルナ。メル・ギブソン主演の「ブラッド・ファーザー」でだらしない若者を演じていたのは覚えているが、それ以外にも、「ローグ・ワン / スターウォーズ・ストーリー」にも出演していたようだ。この映画では結構オイシイ役を演じている。
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その美形で注意を引くのは、マーロー役のニーナ・ドブレフ。ルーマニア出身らしい。
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そもそもこの映画、1990年制作の同名の映画を、最新の医学に基づいてリメイクしたものらしい。
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私はこの映画を知らなかったが、マイケル・ダグラス製作で、出演はジュリア・ロバーツ、ケヴィン・ベーコン、キーファー・サザーランドというなかなかに豪華なラインナップ。実は今回のリメイク版も同じマイケル・ダグラスの製作になり、前作で医学生のひとりを演じていたキーファー・サザーランドは、本作では医大の教授役で出演している。
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今回の監督はデンマーク出身のニールス・アルデン・オプレヴ。馴染みのない名前だが、「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」で名を上げた人らしい。最近は結構北欧からハリウッドに進出する監督が多いようであるが、また次回に期待しましょう。

このように、私としてはちょっと残念な出来という感想を持った映画であったが、死後の世界に対する根源的な興味は、確かに誰にでもあるものと思う。脳の研究から超常現象が解明される日がいずれ来るかもしれないが、でもやはり、分からないからこそ限りない興味の対象になるとも言える。そういった知見を持った映画であれば、喜んで見たいと思うのである。

# by yokohama7474 | 2018-01-18 00:57 | 映画 | Comments(0)  

プラネタリウム (レベッカ・ズロトヴスキ監督 / 原題 : Planetarium)

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この映画は昨年上映されていたものであるが、小劇場での公開とはいえ、あまり評判がよくなかったのか、気がつくと上映が終了してしまっていた。だが、これはやはり映画好きなら見逃してはいけないものだろう。なにせ主演がナタリー・ポートマン。共演が、これは私も知らない女優だったが、名前から明らかなジョニー・デップの娘、リリー=ローズ・デップ。2016年にこの作品がカンヌ映画祭でプレミア上映されたときの女優たちのツー・ショットと、デップ親子の写真がこちら。ちなみにリリー=ローズの母は、昔アイドル歌手であったフランス人のヴァネッサ・パラディなのである。
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もちろん私がこの映画を見たいと思ったのは、彼女らだけが理由ではない。もしこの 2人が感動のラヴストーリーで共演していたら、私はきっとパスしたはず。この映画はそうではなく、1930年代のパリを舞台に、死者の魂を呼び出す降霊術を行う姉妹が主人公であって、そこにはオカルトの気配が漂う。このように超自然現象が題材となると、俄然私の興味は動き出すのである。だがちょっと待て。冒頭に掲げたチラシは一体なんだ。この姉妹役の女優たちが、泡だらけのバスタブで何やらタバコを吸っている場面。これはどうみてもオカルトの要素はない。私は思うのであるが、この映画があまりヒットしなかったとすると、訴える観客層を絞り切れなかったからではないか。感動ストーリー派か、心霊オカルト派か。どちらかに、いやこの場合は明確に、後者に絞った方がよかったのではないかと思うのである。

さて、そのように上映終了してしまった映画を、私はどのようにして見ることができたのか。それはこうである。あるとき都内のアート系小劇場で何かの映画を見たときに、既に上映終了してしまったはずのこの映画のチラシを発見。取り上げてチェックしたところ、なぜか 1/8 (月・祝) の上映時刻だけが記載されている。上映している劇場の名前は、ユジク阿佐ヶ谷。初めて聞く名前であり、ユジクの意味が分からない。阿佐ヶ谷は我が家から出掛けるにはかなり不便なところで、以前勅使川原三郎のダンスを見に行くために多大な時間を要して、閉口したことがある。そうそう、阿佐ヶ谷には確かラピュタの名を冠した映画館もあるはず。何か関係があるのだろうか。と思って今調べてみたら、なんとこの「ユジク」とは、ユーリ・ノルシュテインのアニメ「霧の中のハリネズミ」の主人公ヨージックから取ったとのこと。
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あー、なんたること!! そうだったのか。このブログで書いたことは未だないかもしれないが、ノルシュテインの代表作「話の話」は、私にとって生涯ベスト 10に入るほど大好きな映画。なのでこの「霧の中のハリネズミ」も当然見たことがあるが、不覚にも主人公の名前までは覚えていなかった。なんでもこの劇場の支配人はノルシュテインその人と交流があるらしい。うーん、道理で言ってみるとなかなかに落ち着いた、いい小劇場であるわけだ。壁には黒板があって、やはり今この劇場で上映中のスウェーデン映画「サーミの血」を題材にしたチョーク画が描かれているが、これは水沢そらというアーティストの作品。壁にはまた彼の小品がいくつかかかっているが、これは展示即売なのである。なかなか面白いとは思うが、ただこの作風は、ヘンリー・ダーガーを知っている人にはその模倣ぶりが一目瞭然だ。ともあれ、この 48席の劇場にかかっている作品たちは、なかなか味わい深く、映画ファンとしてはかなり刺激を受ける場所である。因みにこの「プラネタリウム」も「サーミの血」も、今週金曜日、1/19 まで上映しているので、まだ間に合いますよ。

とこのように、新たな劇場との出会いによって、また東京における文化との接点が増えたことは嬉しいのだが、だが肝心のこの映画、残念ながらさっぱり楽しむことができなかった。ひとつ確実なことは、ナタリー・ポートマンなしにこの映画はできなかっただろうということ。降霊術を実際に行う妹をうまく押し立てながら、フランスで映画の道に深入りして行く姉を、ほぼ出ずっぱりで演じていて、セリフのかなりの部分をフランス語でこなす点を含め、その演技自体は称賛に値する。因みに彼女はもともとフランス語ができたわけではなく、パリに移住して、この映画のために勉強したとのことだ。とはいえ、別にこの映画のためにパリに移住したのではなく、旦那 (「ブラック・スワン」の振付師) がフランス人であるからであるようだ。まぁいずれにせよ、これはある意味でナタリー・ポートマンの映画と言える。実年齢では親子に近いほども年の離れたリリー=ローズ・デップ (ナタリー 36歳、リリー=ローズ 18歳) と、姉妹と言っても違和感ありませんな。
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だがこの映画、どういうわけか大変に流れが悪い。ストーリーには先を読ませない意外性がある割には、なるほどと思う瞬間が極めて少なく、逆に、「なんなんだよこのオッサンは。何がしたくて姉妹を厚遇するんだよ」「姉妹の間の関係は本当はどうなんだよ」「ほかの登場人物たちが、男も女も印象薄すぎ」「うぇー、この展開には必然性ないよ」「この設定はちょっと陳腐ではないかい」というハテナが、見ているうちに次から次へと沸いてくる。そして私の根本的な疑問は、なぜこの映画は 1930年代を舞台にして、しかも降霊術を題材にする必要があったのか、ということである。本当に理解に苦しむ。まあこの際、「リリー=ローズ・デップの右の眉が切れているのはなぜなんだろう」とか、「うわー、この表情、お父さんにそっくり!!」という感想は、それほど重要ではないと言ってしまおう。でも、見ているときにそういったことが気になるという時点で、既にして映画としての流れに課題があるということも言えるだろう。
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それから、音楽にもちょっと気になる箇所が。ナタリー・ポートマン演じるローラが思いがけず映画の道に入って苦労し、そして何か達成したときに (それが何だったのか、今思い出せないのだが。笑)、明らかにストラヴィンスキーの「火の鳥」の中の「子守歌」の模倣が鳴り響く。この曲は、昨年ゲルギエフとマリインスキー歌劇場管の演奏会のアンコールでも演奏され、それから、このブログの記事では触れるのを忘れたが、アレハンドロ・ホドロフスキーの「エンドレス・ポエトリー」でも数ヶ所で使われていた。もちろん名曲であるからして、映画で使われるのは理解できるが、この映画では、なぜにその響きを模倣して、しかも原曲のクオリティに及ばない曲をつけるのか。映画において音楽が本来持ちうる素晴らしい力を思うと、この映画における音楽のレヴェルは、大変残念だとしか言いようがない。因みに題名の「プラネタリウム」は、恐らくはラストシーンから来ていて、人生は所詮、室内で星を眺めるようなこと、とでもいう意味なのかと思う。だが、この題名と映画全体のトーンには、少し齟齬があるのではないだろうか。

監督はフランス人女性のレベッカ・ズロトヴスキ。私は初めて聞く名前だが、レア・セドゥ (例の「007 スペクター」でのボンドガールである) を主演に起用した「美しき棘」というデビュー作 (2010年) で注目を集めたという。
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もちろん、この 1作だけで監督の力量を全面否定することは避けたいと思うし、ましてや、あのユーリ・ノルシュテインに因む名前の劇場で鑑賞した映画であるから、ネガティヴな感想はここらで一旦胸にしまい込んで、この監督が次にまたよい作品を撮ることと、ユジク阿佐ヶ谷が今後も意欲的な上映を続けて行ってくれることを、期待したいと思います。

# by yokohama7474 | 2018-01-16 23:34 | 映画 | Comments(0)  

KUBO / クボ 二本の弦の秘密 (トラヴィス・ナイト監督 / 原題 : KUBO and the Two Strings)

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このブログではこれまでアニメ映画を採り上げたことがあっただろうか。どうも今すぐには思い出せない。なので、きっとこの映画が初めてか、あるいはほんの数本目ということになろう。私はアニメ映画だからといって何か思い入れがあったり、あるいは逆に軽んじたりすることは全くなく、ただ面白そうなら見たいという、それだけの動機で見る映画を選ぶ人間だ。この映画の場合、予告編を見たときから CG 臭があまりなく、何やら手作り感満載という印象であったし、何より、そう、ただ面白そうだったので、見に行くことにしたのである。そして知ったことには、これはパペットと小型セットを使ったいわゆるストップモーション・アニメ、つまり、一コマずつ撮影してその連続によって動きを作るという昔ながらの手法による映画なのである。エンドタイトルで少しメイキングが見られるが、職人たちの究極の手作業によって作られたことがよく分かる。プログラムの解説によると、制作には 94週 (つまりほぼ 2年間だ) を要しており、1週間で制作されるシーンの長さは平均 3.31秒 (トホホ)、総作業時間は 115万時間近く、主人公クボの表情の数 4,800万通り、等々の途方もない数字が並んでいる。これは、ストップモーション・アニメ史上最大の人形 (4.9m) と、最小の折り紙による人形。
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上記に見えるイメージと、クボという主人公の名前からも明らかな通り、この物語は古い時代の日本を舞台にしている。だがこれは米国映画であり、セリフもすべて英語 (もちろん日本公開に当たっては日本語吹き替え版もあったが、私はポリシーとして原語主義なので、日本語版を見ることはない)。なので、日本人から見れば、海外で見かけるようなナンチャッテ日本料理店のようなキッチュな雰囲気がないでもないが、細部に至るまで非常に凝った作りで日本を再現していることは、すぐ分かる。なんでも監督 (この映画を制作したライカという会社の社長であるトラヴィス・ナイト) は幼い頃から何度も日本を訪れており、日本の芸術・文化を深く愛している人であるらしい。特にここでは、黒澤明と宮崎駿へのオマージュが捧げられており、制作にあたっては日本人アーティストに何度もアドバイスを求めたという。監督のトラヴィス・ライトは 1973年生まれで、これが長編アニメ監督デビュー作となる。
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さてこの映画、すべての人が必見とまで言うつもりはないが、その丁寧な作りによる映像を追いながら、大変に楽しめる出来になっているので、ファンタジーが好きな人にはお薦めしたいと思う。ストーリーは簡単で、主人公のクボという少年が、追っ手に追われて三つの武具を探す旅に出るというもの。彼には不思議な力があって、折り紙に三味線の音色で命を吹き込むことができるのだ。
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この折り紙というものは、外国人から見ると東洋的な魔法のように見えるらしい。私が今読んでいる (そのうちこのブログでも採り上げるであろう) 中国系米国人ケン・リュウの短編集「紙の動物園」でも、そのような感覚の作品があるが、この映画のように見事な映像で見せられると、折り紙は本当に魔術であるかのように思われてくるのである。命ないものに命を吹き込むのがストップモーション・アニメであれば、それはまさしく魔法であり、そもそも映画とは、起源においてそのような魔法の一種であるのだという思いを新たにする。この映画に登場するキャラクターは、主人公クボをはじめとして、一応かわいいと思われる面もありながら、どこかでユーモラスであったりグロテスクであったりして、一度見たら忘れないものである。ただ、サルはともかくクワガタは、ちょっと日本風からは離れた造形かなぁ。まあ米国の作品だから仕方ないのだが、ミスター・インクレディブル風である。
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上でメイキング風景を見た巨大ドクロは、本編ではこんな感じで、そのぎこちない動きが、返って迫力を作り出していた。
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もちろんこの巨大ドクロのイメージの源泉は、この浮世絵であろう。歌川国芳の「相馬の古内裏」。私の手元にも、かつて国芳展で購入したこの絵の「紙のジオラマ組立キット」があるが、未だ組み立てていない (笑)。
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それから、水中に巨大な目玉が揺れるこのような不気味なシーンもある。
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これはもちろん、ルドンがヒントだろう。
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私が気に入ったキャラクターは、この敵役である。2人の女性がコンビで出てくるのだが、強い妖術の使い手で、現世の存在なのかあの世から来るのか分からず、その能面のような無表情な、それでいて笑っているような仮面が不気味。
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これに似たイメージを探すと、ヴェネツィアのカーニバルもさることながら、さしづめこれになるだろうか。
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私も子供の頃むさぼるように読みましたよ。エログロに満ちた乱歩文学の本質は、子供にはとても分からないということに後年気づいたものであるが (笑)、でもやはり少年期にポプラ社の少年探偵シリーズを読んでいればこそ、長じてから大正モダニズムの雰囲気にも、すっと入って行けたと思うのである。ともあれ、映画に出てくる映像にどんな既知のイメージを重ねるかは人それぞれであろうから、このようなイメージの連鎖は、この映画の本質とは必ずしも関係がない。だがそれでも、文化の作り手が何かほかの文化から刺激を受けることで、鑑賞者が得ることができるイメージはどんどん豊かになるもの。ここではあえて黒澤も宮崎も関係ないイメージだけを並べてみたが、それでもこうして脈絡なく並べてみることで、何か面白い発想が浮かんできはしないか。ここでのイメージに共通するのは、「恐怖との対峙」ということだろう。そして恐怖とは、他者からの攻撃もあれば、ルドンのモノクロ版画のように、自らの中に潜む感情であることもある。物言わぬパペットたちが、それぞれに恐怖と対峙し、それを克服することで成長して行く姿に、人は感情移入するのである。やはり魔術的ではないか。

それからここでは、何人ものハリウッドの名優たちが声の出演をしている。例えばサルはシャリーズ・セロン、クワガタはマシュー・マコノヒー、月の帝はレイフ・ファインズといった具合だ。彼らの声の演技はさすがだと思う。クボ役のアート・パーキンソンは 2001年アイルランド生まれで、「ゲーム・オブ・スローンズ」というテレビシリーズの子役で有名になったらしい。
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この映画は米国でも結構ヒットし、昨年のアカデミー賞やゴールデングローブ賞にノミネートされたらしいが、彼らから見ると、日本の風景やキャラクターがエキゾチックという点もあるにせよ、CG 流行りの今日、このような手作りのストップモーション・アニメに何やらほっとするという要素もあるのかもしれない。トラヴィス・ナイト率いるスタジオライカ、次回作を楽しみにしましょう。

# by yokohama7474 | 2018-01-16 00:27 | 映画 | Comments(0)  

ニューイヤーコンサート 2018 大野和士指揮 東京都交響楽団 2018年 1月14日 サントリーホール

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今年に入ってから私が体験しているコンサートは、あたかもシルヴァン・カンブルラン指揮の読売日本交響楽団と、大野和士指揮の東京都交響楽団 (通称「都響」) との一騎打ちのような様相を呈している (笑)。実はこの日とその前日は、山田和樹と日本フィルが、バーンスタイン生誕 100年記念の演奏会を開いていて、私としては相当に迷ったのであるが、いっそ上記の一騎打ちを楽しむかと思い、そちらを諦めてこの演奏会に行くことに決めたのだ。今回の大野と都響の演奏会は、ニューイヤーコンサートと銘打たれているが、日本赤十字社の献血チャリティ・コンサートでもある。かくして会場で幾ばくかの金銭を寄付した私は、いかなるニューイヤーコンサートになるのかと期待しながら、サントリーホールの席についたものである。今回の曲目は以下の通り。
 ヨハン・シュトラウス : 喜歌劇「こうもり」序曲
 ヴェルディ : 歌劇「椿姫」から「乾杯の歌」「ああ、そはかの人か」~「花から花へ」
 ビゼー : 歌劇「カルメン」から前奏曲、「恋は野の鳥」(ハバネラ)、「ジプシーの歌」
 プッチーニ : 歌劇「ラ・ボエーム」から「冷たき手を」「私の名はミミ」「愛らしい乙女よ」
 ストラヴィンスキー : バレエ組曲「火の鳥」(1919年版)

なるほど、前半にはオペラの序曲や超有名なアリアを並べ、後半はごく短い近代のバレエ組曲で〆るというわけである。侮れない知恵者の大野のこと、ありきたりなウィーンの猿真似のニューイヤーコンサートになるわけもない。
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このコンビの充実ぶりは既に何度もこのブログで書いてきているので、今更何を書こうかと思うくらいだが、それでもやはり、最初の「こうもり」序曲がずっしりとした音で、しかも勢いよく走り出した瞬間、やはりその充実感には圧倒される。これはいわゆるウィーン風のシュトラウスではなく、ただ新年にふさわしいフレッシュな音楽なのである。もちろんウィーンにはほかにない素晴らしい流儀があることは当然だが、かの地から遠く離れたこの東京でも、作曲者の頭の中で鳴っていたであろう音に迫るプロたちがいる。それでこそ西洋音楽は世界で演奏されるのである。喜悦感、疾走感、そして劇的な要素まですべて鳴り響いた「こうもり」序曲であった。

そして、メジャーなオペラ 3曲の中のいちばんおいしい部分を味わうこととなった。今回登場した歌手は 3人。まずはソプラノの大村博美。フランスをメインの舞台として活躍している歌手である。
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「椿姫」と「ラ・ボエーム」で彼女と組むテノールは、笛田博昭。堂々たる体躯で、イタリアで数々の入賞歴のある人だ。
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そして「カルメン」を歌うメゾ・ソプラノは脇園彩。先にやはり大野 / 都響の第九の記事でも言及した通り、名指揮者ファビオ・ルイージの指揮のもとで、メルカダンテの「フランチェスカ・ダ・リミニ」の世界初演に参加したほか、既にミラノ・スカラ座の舞台にも立っている。
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この 3人の歌はいずれも素晴らしく、聴きなれたはずのこれらの名曲に、「あぁー、やっぱりオペラはいいなぁ」と思わせてくれる出来栄えであった。特に、私は「ラ・ボエーム」には滅法弱く、今回演奏された第 1幕の後半のシーンではいつも、涙腺が緩まないように自分に気合を入れる必要があるのだが (笑)、今回もその気合がなければ、オイオイと泣いてしまったかもしれないほど感動的であった。日本人はそもそも、体格的にオペラ歌手としてはハンディがあるという事実はあると思うのだが、それでもやはり、優秀な若手は自然と世界で活躍の道を見つけるのである。世界的に見てもオペラ界では、絶対的なスターの数は減っていると思うので、優秀な若手歌手には、是非臆せず世界で活躍して欲しいものである。そして時折故郷である日本で、その成果を聴かせてくれればありがたいと思う。今回の一連の曲を聴いていて、今年 9月から新国立劇場の芸術監督に就任する大野のさらなる活躍が本当に楽しみになった。というのも、今回の歌手 3人は、大村が二期会、笛田が藤原歌劇団、脇園がフリーと様々。もちろん二期会も藤原歌劇団も充実した活動を展開しているが、国内の歌手の世界もいろいろしがらみがあって大変であると聞く。これまで海外で活躍してきた大野が芸術監督に就任することで、新国立劇場では、海外からやってくる優れた歌手たちと、日本の優れた歌手たちがさらに自由に共演できるようになればよいと思う。今回のコンサートは、ごくシンプルなオペラ抜粋であったとはいえ、実は今後の東京での活動を見据えた大野のしたたかな実験の場であったのではないだろうか。

そして休憩後の「火の鳥」は、期待通りに色彩渦巻く演奏となった。但し、今回も感じたこのコンビの課題は、弱音部の色気ではないだろうか。強い音で推進力を出す部分に比べて、ゆっくりした場所での微妙なニュアンスには、このコンビであればさらにさらに豊かな表現が可能であると思うのである。尚、今回は「美しく青きドナウ」や「ラデツキー行進曲」がアンコールで演奏されることもなく、これもいかにも大野らしくて私は好感を持った。

さて、もう一度大野のオペラについて考えてみよう。私は彼の指揮するオペラ公演やオーケストラ公演を、海外でも何度か聴いているが、ここではそのうち 2つをご紹介する。ひとつは 2007年10月20日、メトロポリタン歌劇場でのヴェルディ「アイーダ」。もうひとつは 2009年 5月 2日、リヨン歌劇場でのベルク「ルル」。いずれも忘れがたい舞台である。
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ヨーロッパの昔ながらの指揮修業のスタイルは、歌劇場での練習ピアニスト、いわゆるコルペティトールとして様々なオペラ公演の舞台裏に接することである。これには当然言葉の壁もあり、なかなかに厳しい鍛錬であろうと思うのだが、その経験は血となり肉となって、その指揮者の音楽性の根幹をなして行くものだと思う。ところが、指揮者コンクールで優勝することでキャリアを始める人が増えてくると、なかなかそのような経験に恵まれないことも多いだろう。だが幸いなことに (と言ってよいのか否か分からないが)、現代指揮界で活躍する指揮者には、コンクールではなく、たたき上げで頂点に至った人もいて、その典型はクリスティアン・ティーレマンであろう。日本人にはそのようなキャリアはかなりハードルが高いのは自明だが、大野の場合は、コンクール歴はあるが、若い頃からコルペティトールの経験もあって、それが、欧米各国でのオペラ指揮に役立っているのだと思う。音楽家として世に認められるには様々な要素があるとはいえ、これから日本で上演されるオペラの質を高めているには、大野ほどの適任者はいないだろうと思うのである。オペラとは実に厄介なもので、余談としてその一例を挙げると、今回の演奏会で一部が演奏されたオペラ、「こうもり」「椿姫」「カルメン」「ラ・ボエーム」はいずれも、超のつく有名作品ばかりであるが、これまでに活躍した一流指揮者で、この 4曲すべての録音を残した人がどのくらいいるだろう。まず、カラヤンを挙げよう。そして・・・レヴァインは、もちろんいずれも指揮しているだろうが、「こうもり」全曲の録音はあるのだろうか。ショルティは? やはり「こうもり」が欠けているのでは? アバドはそもそもプッチーニを振らなかったし、ムーティもプッチーニは「トスカ」だけのはずで、「カルメン」も「こうもり」も、きっと振っていないのではないか。小澤が「椿姫」を指揮したとは、少なくとも近年は聞いたことがない。マゼールですら、この 4作の録音は揃わないし、メータもしかり。以上は私が今の理解の中で書いているので、調べれば間違いもあるかもしれないが、いずれにせよ、この 4作品の録音を残したメジャー指揮者として、カラヤン以外は思いつかない・・・と思っていたら、もうひとりいた。自分の気に入った作品しか指揮しない、極めてレパートリーの狭い指揮者で、よく本番直前に緊張のあまり (?) キャンセルすることが多かった変わり者の指揮者。そう、カルロス・クライバーである。なるほど、それなりにクラシック音楽の録音・録画が頻繁になされてきた時代でも、この超メジャー作品すべてを記録として残すには、世界楽壇の帝王か、孤高の天才指揮者でなければならなかったわけだ (笑)。オペラの面白さや奥深さは、こういうところにもあると思うので、是非マエストロ大野には、そのようなオペラの尽きせぬ面白さ・奥深さを、東京の聴衆に存分に表現して欲しいと思う次第である。

# by yokohama7474 | 2018-01-15 00:24 | 音楽 (Live) | Comments(0)