ダニエレ・ガッティ指揮 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 (ヴァイオリン : フランク・ペーター・ツィンマーマン) 2017年11月20日 サントリーホール

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前日の川崎公演に続く、オランダの名門ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団と、昨年からその新たな首席指揮者の任にあるイタリアの名指揮者ダニエレ・ガッティによるコンサートである。今回サントリーホールでは、上のチラシにあるように 2回のコンサートが開かれる。そのうち 11/21 (水) の曲目は、既にご紹介した 11/19 (日) の川崎での曲目と同じなのである。実は前回の記事に少し書いた通り、今回のコンセルトヘボウの来日公演の 2つのプログラムは、かなりシンプルなものになっているのだが、今回の曲目は以下の通り。
 ベートーヴェン : ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品61 (ヴァイオリン : フランク・ペーター・ツィンマーマン)
 ブラームス : 交響曲第 1番ハ短調作品68

名曲で真っ向勝負とも取れるし、ちょっと冒険心を欠くかなぁとも思われる。あるいは、未だ新しいコンビゆえに冒険を避けるという意図もあるのだろうかとも考えてしまう。だが、前日の川崎でのコンサートは、曲目のシンプルさなどどうでもよくなってしまうような、上質な演奏を聴かせてくれた。課題は集客である。前回の記事には書かなかったが、川崎公演は日曜日であるにもかかわらず、かなり空席が目立つ淋しい入りであった。そして今回、月曜日のサントリーホールはどうだったかというと、これが当日券の販売もない満席ぶり。まずはほっとしたのである。これがこのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の本拠地、その名もコンセルトヘボウ。英語でいう「コンサートホール」という、そのものズバリのシンプルなホールである。私の実感するところ、ヨーロッパ文化のひとつの頂点をなすと言ってもよい素晴らしいホール。
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さてこの演奏会でソロを務めたヴァイオリニストは、ドイツの中堅、フランク・ペーター・ツィンマーマン。私と同じ 1965年の生まれで、今年 52歳。1983年に若杉弘指揮のケルン放送響のソリストとして初来日してから既に 34年。常に世界の一線で活躍してきたヴァイオリニストであるが、いつまでも童顔というか、若々しさを保っている人である。
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同世代のドイツのヴァイオリニストでは、1歳下のクリスティアン・テツラフがいるが、以前このブログでもご紹介した通り、テツラフが寄らば斬るぞという雰囲気の禁欲的なイメージであるとすると、このツィンマーマンはもう少し親しみやすいキャラクターであり、超絶技巧を売り物にせず、飽くまでヒューマンな温かみを感じさせる人である。今回のベートーヴェンの演奏でも、そのことを再度認識することとなった。この曲はヴァイオリンソロの登場までが結構長いためか、あるいはモーツァルトのコンチェルトと同じく、書かれた時代の演奏スタイルを反映してか、ソリストがオケのヴァイオリンのパートを一緒に弾くことがある。今回はまさにそうで、ツィマーマンは冒頭からごく自然に、楽員たちとともに音楽に入って行った。このコンチェルトにおいては、このような冒頭の流れが重要で、コンチェルトとしては異例に長い作品だけに、冒頭に乗れないと、そのまま改善のきっかけを失う例もある。そのような場合、大抵は「妙に静かなベートーヴェン」になってしまうというのが私の経験則なのであるが、今回は最後までそのような妙な静かさは到来せず、相変わらず統一感のある絶妙の音色で一貫したコンセルトヘボウの美しい音を堪能することができた。さすがこのソリストとこのオケ (そういえば、前日ソロを弾いたチェロのタチアナ・ヴァシリエヴァも、今日はオケの一員として楽しそうに弾いていた)、そしてこの指揮者である。ガッティに関して言えば、冒頭のティンパニへの指示から、かなり丁寧な指揮ぶりで、音像の明確なイメージが常にある様子であった。時にファゴットやチェロの旋律がよく響くこともあり、この曲の持ち味を充分に引き出していたと思う。ツィンマーマンはアンコールとして、バッハの無伴奏ソナタ第 2番の終楽章を弾いた。運動性のある音楽だが、やはり彼のヴァイオリンは、ここでも温かい人間性を感じさせるものであった。

さて、メインは天下の名曲ブラームス 1番である。一言でいうと、これもまたこのコンビらしい、きめ細かくまた美しい音楽であったが、私としては最高の名演と評価するには若干の躊躇あり、という気がした。ここでガッティが目指したものは、やはりオケの音質の高さと、それを取りまとめて自らが作り出す流れであったと思う。このブログで何度も書いている通り、ブラームスの交響曲は、まず何よりも極めて洗練された質の高い音でないと成功しないのだが、その点では今回の演奏は、やはり素晴らしい出来ではある。だが一方で、飽くまで私の好みだが、作曲者が 20年間艱難辛苦を乗り越えて書いたこの曲においては、やはりどこかで、野蛮なまでの生命力が欲しいところ。その点には少し物足りないかなという気がしたのである。例えば弦楽器の編成であるが、前日のマーラーがコントラバス 7本、チェロ 10本であったのに対し、この日のブラームスは、コントラバス 6本にチェロ 8本。つまりブラームスはマーラーよりも早い時代という整理であって、ことさらにこの曲の重量感を強調する意図はなかったのだろう。それから、この曲は第 3楽章と第 4楽章が続けて演奏されることが多く、それによって、短い休息から一気にクライマックスに雪崩れ込むというイメージができるのだが、今回の演奏ではその箇所では明確に演奏を切り、その代わり、第 2楽章から第 3楽章に入る部分をつなげていた。これは珍しいが、第 2楽章の抒情を、第 3楽章の気軽な雰囲気で中和しようということか。それから、第 1楽章提示部の反復はなかった。これらを考え合わせると、やはりガッティの求めたものは、劇的な音楽よりも流れのよい音楽であったように思う。その点、どのパートも隅々まで美しさに満ちたオーケストラは、彼の目指す音楽を見事に音にしていたとは考えられる。音楽とは、様々な表現があるから面白く、どの演奏家も同じなら、わざわざ聴きに行く価値がない。今回の私の印象も、またこのコンビの今後の演奏を体験する中で、また変わって行く可能性もあるかもしれない。そして、今回もアンコールはなし。これはもしかすると、昔のカラヤンよろしく、ガッティのポリシーなのかもしれない。
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終演後、サイン会があるというので参加した。なんでも、高円宮 (宮様ご自身は既に亡くなっているので、今では久子妃殿下のことをこう呼ぶのだろうか。オランダ王室とは仲がよいらしい) が表敬訪問されているとのことで、少し時間がかかるとのスタッフの説明であったが、それほどひどく待たされることなく指揮者が登場した。プログラムにこのようにサインをもらい、今後のこのコンビの演奏への期待を高めたのである。
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さて、海外一流オーケストラ来襲シリーズが続いているが、次の音楽の記事は、いよいよアレである。私もアレが本当に楽しみだが、アレの記事をアップするまで、音楽好きの方も、是非、このブログの映画とか美術の記事をお楽しみ下さい。よろしくお願いします。

# by yokohama7474 | 2017-11-21 00:59 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ダニエレ・ガッティ指揮 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 (チェロ : タチアナ・ヴァシリエヴァ) 2017年11月19日 ミューザ川崎シンフォニーホール

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オランダの首都アムステルダムに本拠地を持つ世界最高の楽団のひとつ、コンセルトヘボウ管弦楽団の来日公演である。2年前の前回の来日公演では、ユジャ・ワンをソリストに迎え、指揮を取ったのは、もともとこのオケの打楽器奏者であったグスタヴォ・ヒメノであった。その時の演奏会の様子や、コンセルトヘボウ管のドキュメンタリー映画、また、現地アムステルダムで聴いたコンサートなど、このブログでは様々な角度からこの世界有数のオケの活動を描いてきたが、今回の来日公演にはまた格別な意義がある。それは、大の人気者マリス・ヤンソンスを引き継ぎ、昨年から首席指揮者に就任したイタリアのダニエレ・ガッティ (1961年生まれ) との初の来日公演になるからである。
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既に前日京都での演奏会を済ませ、これが 3日連続の首都圏のコンサートの最初。その後は長崎と大阪での公演があり、計 6公演である。今月初旬からの海外オーケストラ襲来組のひとつであるが、ただ、今回のコンセルトヘボウ管の曲目を見てみると、この百戦錬磨のオケとしては、楽々こなせるような内容ではないかと思う。プログラムは 2種類あって、この日の川崎での演奏会では、以下の通り。
 ハイドン : チェロ協奏曲第 1番ハ長調 (チェロ : タチアナ・ヴァシリエヴァ)
 マーラー : 交響曲第 4番ト長調 (ソプラノ : マリン・ビルトレム)

ははぁ、なるほど。古典派というか、ほとんどバロックに近い小編成のコンチェルトと、演奏時間は 1時間を要するとはいえ、マーラーの交響曲の中で最も穏やかなものとの組み合わせである。そう、確かにそうなのであるが、実際に聴き終わってから振り返ってみると、音符の数やテンションの高さだけが音楽の密度ではないことに思い当たる。さすがガッティとコンセルトヘボウの組み合わせによる演奏だと、実感したのである。

最初のコンチェルトでソロを弾いたのは、ロシア人のタチアナ・ヴァシリエヴァ。コンセルトヘボウの首席チェロ奏者である。
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この長身とその名前で思い出したのだが、彼女は庄司紗矢香の親しい友人で、以前、ナントや東京のラ・フォル・ジュルネで、庄司と組んでブラームスの二重協奏曲を弾いていた人ではないか!! 知らない間にこの名門オケの首席に就任していたとは。
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このハイドンの演奏、コントラバス 2本の小編成で、ヴァイオリンは左右対抗配置だが、出て来る音は現代オケのそれである。実は冒頭は、ごくわずかソロとオケの呼吸が揃わなかったかと聴こえ、この先どうなるかと思いきや、もう第 1楽章の半ばには、コンセルトヘボウの美しい響きに魅了されていた。内輪のソリストを頂いたオケは、当然のようにソロと一体となった音楽を歌って行くし、指揮のガッティも、その流れを邪魔することなく、要所要所で響きをちょっと締めたり開放したりする。さすがに世界一流のオケであると思うのは、その音楽が、あたかも流れ行く川のようにキラキラと輝き、その場面場面で、微妙な光の反射を見せるのである。こういう音楽は、聴く人の心を豊かにする。そう、音符の数とは関係なく、聴く人の心を豊かにする音楽なのである。ただ、ヴァシリエヴァのチェロは、テンポもよく表現も鮮やかで、確かに巧いのだが、強いて言うと若干優等生的というか、真面目すぎて面白みを欠く面もあったように思う。それは、どちらかというと奔放なタイプの音楽家を好む私の独断であるのだが、ハイドンの愉悦の表現には、ちょっと踏み外しがあった方がよいような気もしたことを、正直に述べておこう。それはアンコールで弾かれたバッハの無伴奏チェロ組曲第 1番の第 1楽章でも変わらない印象であった。ただ逆に言えば彼女のチェロは、オケの流れに逆らわないものなので、オケの首席奏者の道を選んだのは妥当だったのかもしれない。

さて、指揮者ガッティについて書いてみよう。私はこの指揮者に対して、少し複雑な印象を持っている。日本でも、1998年のボローニャ歌劇場における「ドン・カルロ」の熱演を未だに記憶しているし、翌年にはロイヤル・フィルとも来日し、マーラー 5番などを演奏したのを聴いた。ところが、私がロンドンに住んでいた 2009年、ちょうど首席指揮者がこのガッティからシャルル・デュトワに代わるタイミングで、フェアウェルとして演奏されたベートーヴェンやマーラーの 9番という大作は、完全に空振りの凡演であったのだ。ところがその後デュトワが振るとロイヤル・フィルは活き活きしていたので、やはり相性というものがあるのかと思いながら、さてガッティの本当の力はどこに、と思ったのだが、同じころ、まさにこのコンセルトヘボウとともにロンドンで行ったコンサートで聴いたチャイコフスキー 5番は、実に鮮やかな名演であったのである。イタリアの若手指揮者のホープであった頃から時も経ち、今や名門コンセルトヘボウの首席指揮者として 56歳のガッティが聴かせてくれる音楽を、じっくり楽しみたい。そう思って聴いた今回のマーラー 4番。実はここでも、ハイドン同様、冒頭の鈴と木管の作り出すテンポが、ほんのわずか、いびつかと思った。だが今回も、彼らはすぐに体制を立て直し、深い陰影に富んだ美しい演奏を繰り広げたのであった。改めて実感するガッティの指揮の特色は、イタリア人らしくよく歌うことと、緩急のバランスが素晴らしくよいことだ。うーん。これだけ情報量の多いマーラー 4番の演奏も、ちょっとないのではないだろうか。特に第 3楽章では、静かにうねり続ける音の流れが、秋の夕映えのように無限の情緒をたたえて、聴く者に強く迫ってきた。また第 4楽章は、かなりギアチェンジが必要な音楽であるのだが、バタバタする箇所は皆無。常にバランスがよく視野の広い指揮ぶりであったと思う。ところで、今回ソプラノ・ソロにはユリア・クライダーというドイツ人が予定されていたが、体調不良とのことで、急遽マリン・ビストレムというスウェーデン人歌手に変更になった。この歌手、私には知識はなかったのだが、以前 BS で放送された、アムステルダム歌劇場 (時折コンセルトヘボウがピットに入る) で上演されたガッティ指揮の R・シュトラウスの「サロメ」で主役を歌っていた人だ。その番組は録画して、もちろん (?) 見ていないのだが、悪魔的なサロメの世界から遠く離れた清浄な天国の生活を、今回は歌うことになったのである (笑)。正直、ドラマティックな歌唱の方がやはり合っているのではないかと思ったが、突然の代役として立派にその役を果たしたと思う。
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ところで、私が聴きながらツラツラ考えていたのは、マーラー 4番とシュトラウスの「サロメ」は、作曲は同じ頃ではないのかということ。今調べてみると、前者の初演は 1901年 1月。後者の初演は 1905年12月。5年ほどの差はあるが、音楽史的観点からは、同時代の作と分類してもよいであろう。マーラーとシュトラウスは、友人でもありライヴァルでもあったわけだが、血みどろの世界と清浄な世界は、実は近い感性でつながっていた時代だったのかもしれない。そんなことで、アンコールには (「サロメの 7つのヴェールの踊り」には打楽器が少ない編成だったので) シュトラウスの歌曲でもやってくれないかと思ったが、結局何も演奏されずに終わった。昨今の東京における来日オケの公演でアンコールなしは珍しいが、マーラー 4番の終結部、清澄な湖に沈んで行くようなハープの低音が未だに耳に残っており、それがそのままコンサートの終結部であったことに、ガッティの見識を思う。さて、このコンビが演奏するもうひとつのプログラムは、どうなることであろうか。

# by yokohama7474 | 2017-11-20 00:21 | 音楽 (Live) | Comments(0)

トゥガン・ソヒエフ指揮 NHK 交響楽団 2017年11月18日 NHK ホール

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このブログで過去何度か、その高い能力を称賛してきた、北オセチア出身の名指揮者、トゥガン・ソヒエフが NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の指揮台に戻ってきた。今年 40歳になる彼は、トゥールーズ・キャピトル管弦楽団とベルリン・ドイツ交響楽団という 2つのオケを率いるほか、現在ではモスクワのボリショイ劇場の音楽監督も兼任しているという多忙な身である。私は以前から、この指揮者を初めて実演で聴いたときから、絶対に大成すると確信したと声高にふれ回っているが (笑)、実際、そのような自分なりの予感が的中し、その指揮者の活躍が活発化することは嬉しいし、何よりも、東京で実際に聴けるのがありがたいではないか。今回彼は、11月の N 響定期 3プログラムのうち 2つを指揮し、残る 1つのプログラムは、既にこのブログでご紹介した通り、マレク・ヤノフスキが担当した。ソヒエフの 2つのプログラムはすべてプロコフィエフ作品で、この指揮者を聴くには最適と言ってもよいと思うが、特にこの日の曲目は、大変興味深い。
 プロコフィエフ (スタセヴィチ編) : オラトリオ「イワン雷帝」作品 116

通常 N 響定期では、チラシが作られることはなかったが、最近は時々あるようで、このコンサートも、上に掲げたような派手なチラシが作成されている。もちろん、それだけ注目のプログラムであるということだろう。この作品、ご存じの方も多いと思うが、あの映画史上の巨匠、セルゲイ・エイゼンシュテインが監督した映画「イワン雷帝」にプロフィエフがつけた音楽を編集してオラトリオとしたもの。曲としての知名度はそれなりにあろうが、実際に演奏されることは決して多くない。その理由の第一は、やはり作曲者自身の手によって編曲されたものではないということではないだろうか。その点が、同じプロコフィエフが、やはりエイゼンシュテインの映画のために書いた音楽を、こちらはカンタータとして編曲した「アレクサンドル・ネフスキー」とは異なると言える。だが、実際に聴いてみると、いかにもプロコフィエフらしい音楽でありながら、極めて平明で、大変に親しみやすい曲である。だが、曲について語る前に、ここはどうしてもエイゼンシュテインについて触れなくてはならない。1898年に現在のラトヴィアのリガに生まれ、1948年に没した、ソ連時代の巨匠映画監督である。このような、一目見たら忘れない、個性の強い顔立ちであった人。
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映画史をかじる人なら誰でも、彼の唱えたモンタージュ理論を知ることとなり、その代表的な例として、「戦艦ポチョムキン」(1925年) の中の有名な「オデッサの階段」のシーンを知ることとなる。ここでそこに深入りすることはしないが、私も映画好きのご多分に漏れず、学生時代に彼の作品の多く、つまりは最初の「戦艦ポチョムキン」から最後の「メキシコ万歳」までを見た。もちろん「イワン雷帝」も、完成した第 1部 (1944年)、第 2部 (1946年) のみならず、スターリン政権の圧力によって部分的に撮影されて頓挫した第 3部の断片まで見たことがある (因みにその機会は何かの講座だったかもしれず、講師は明確に思い出せないが、篠田正浩だったような気がしないでもない)。私の場合は、映画の文脈だけではなく、ロシア・アヴァンギャルドへの強い興味もあり、それらはいずれも非常に興味深いものであった。「戦艦ポチョムキン」はサイレントであるが、後からショスタコーヴィチ 5番などを録音した版でも見たし、弁士付きの上映も見た。それに対して「イワン雷帝」の場合は、あの弦楽器が目まぐるしく動く中、金管が奏する雷帝のテーマがしっかり録音されていて、「あ、プロコフィエフだ!!」と思ったものだ。これがそのエイゼンシュテインの「イワン雷帝」からのワンカット。
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この「イワン雷帝」をコンサートで演奏するとき、今回のようなアブラム・スタセヴィチ (1907 - 1971) の編曲による版以外にもいろいろな版があり、私などは、昔ロストロポーヴィチが録音した (そして新日本フィルでも指揮した) マイケル・ランケスター版で親しんだ方であるが、このスタセヴィチは 1940年代の映画音楽の録音を実際に指揮した経歴のある人らしく、彼の手になるオラトリオ「イワン雷帝」は、1961年、プロコフィエフ生誕 70周年 (没後 8年) の記念演奏会で初演されたもの。それゆえ、ある意味でオーセンティックな版とは言えるのかもしれないが、実はこの曲がもうひとつポピュラーにならない理由として挙げたいのは、語りつきのこの版においても、イワン雷帝が何者で、いかなる敵にどのように戦ったかのストーリーが、よく分からないからである!! 今回の演奏では語りを歌舞伎役者の片岡愛之助が務めたが、あえて歌舞伎風の雰囲気で語ったのはよいにせよ、やはりストーリー展開が不明であるのは同じ。なお、愛之助の公式ブログを見てみると、奥様はドラマの撮影が雨で流れたので、この日急遽 NHK ホールに来ていたらしい。ほぅ。私の席からは見えませんでしたよ (笑)。
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余談だが、エイゼンシュテインは日本文化に興味があったらしく、若い頃は日本語も学んでいたらしい。実は、1928年に史上初の歌舞伎の海外公演がソ連で行われた際、二代目 市川左團次 (1880 - 1940) と面会している。映画「イワン雷帝」にも歌舞伎の影響があると言われている。これがその左團次とエイゼンシュテインの写真。
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このように、作品としての課題は避けがたくあれこれありながら、だがこの日の演奏の素晴らしかったことは疑いがない。もちろんソヒエフの指揮が、いつものように音楽の大きな流れを作り出していて、きめ細かくまた呼吸よくオケの力を引き出していたことは、圧倒的と言ってもよかったであろう。この指揮者と N 響との相性はかなりよいように思う。そして、一方の功労者は、東京混声合唱団であろう。さすがに譜面を見ながらの歌唱であったが、ロシア語というなじみのない言語で、これだけの長丁場を乗り切るだけでも大変なのに、その力強い歌には、きっとソヒエフも満足したことだと思う。例えば後半のある曲では、合唱が徐々にクレッシェンドして行くところがあるのだが、その音量の絶妙なコントロールには大変感動した。それから、この曲には児童合唱も含まれていて、今回は東京少年少女合唱隊であったが、70分ほどのこの曲の最後 1/4 ほどの部分にしか出番がないにも関わらず、ハミングやロシア語の歌詞を美しく歌っていて (最後の方には、チャイコフスキーの大序曲「1812年」の冒頭に使われているロシア正教の聖歌「神よ汝の民を救い」のメロディが出て来る)、これもまた特筆もの。ともにウクライナ出身の 2人のソリスト、つまりメゾソプラノのスヴェトラーナ・シーロヴァとバリトンのアンドレイ・キマチは、出番は少ないが、これも安定した出来であった。このように、総じて、曲の弱点を補ってあまりある奏者たちの熱演に、会場は沸いたのである。このような演奏頻度の低い曲が、このような水準の演奏で聴けることは、本当に貴重なことであると思う。ソヒエフの才能はとどまるところを知らない。
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次の彼の来日は、来年 3月。また手兵トゥールーズ・キャピトル管弦楽団との演奏である。彼が得意とするロシア物とフランス物が並んでいて、これまた聴き物であり、早くも待ち遠しい思いに駆られてしまうのである。

# by yokohama7474 | 2017-11-19 22:53 | 音楽 (Live) | Comments(2)

ピエタリ・インキネン指揮 日本フィル 2017年11月17日 サントリーホール

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今月から来月初旬にかけて、数々の一流オーケストラが海外から来日する東京の音楽界であるが、こういうときであるからこそ、日本のオケにも頑張ってもらいたい。そして、その頑張りを目の当たりにすることで、外来オケの水準にため息をついたり興奮するだけではない、充実の音楽体験ができようというものだ。そのような期待をもって出掛けたこの演奏会は、日本フィルハーモニー交響楽団 (通称「日フィル」) とその首席指揮者である 37歳のフィンランド人、ピエタリ・インキネンによるもの。その意欲的な曲目は以下の通りである。
 ラウタヴァーラ : In the Beginning (日本初演)
 ブルックナー : 交響曲第 5番変ホ長調

今回の演奏会は途中休憩なしで行われた。それは、前半のラウタヴァーラの曲が 7分程度と短いこともあるが、もうひとつ、その自然への共感が、メインのブルックナーとも近似する要素があるからだろう。いや実に意欲的な試みだ。このインキネン、その華奢な外見によらず、かなり大胆な策略家と見える。
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さて、現代指揮界では、エサ=ペッカ・サロネンを代表として、フィンランド人の指揮者たちの活躍が目立つ。このブログでも何度かそのようなことに触れてきたが、このインキネンは未だ 30代で、これからまだまだ活躍の場が広がって行くべき人であり、そのような俊英の指揮を日フィルで聴ける喜びは大きい。だがフィンランド指揮者というと、ひとつ課題がある。それは、何かというとフィンランドの国民的作曲家であるシベリウスの作品を演奏することを求められることである。もちろんシベリウスの音楽は素晴らしいし、フィンランド人がそれを素晴らしく演奏することは事実である。だが、指揮者たるもの、自国の音楽だけ指揮してよいと思うわけもなく、自らが率いるオケとは、様々なレパートリーを演奏して行くべきである。その意味でこのインキネンと日フィルの関係は面白くて、首席客演指揮者時代からシベリウスを集中的に採り上げ、主要作品は既に演奏し終わってしまった。さてそうなるとインキネンとしては、「まず、求められる期待には応えたでしょう。あとは自分の好きなことをやりますよ」と言いたくもなるであろうし、実際最近は、ワーグナーの楽劇を含む後期ロマン派を集中して演奏している。そして、ブルックナーのシリーズもその一環であろう。パーヴォ・ヤルヴィと NHK 響、ジョナサン・ノットと東京響といったコンビもブルックナーをシリーズで手掛けているようだが、インキネンと日フィルには彼らなりの個性を聴いてみたいものだ。

だが、そのブルックナーに先立って演奏された曲が、なんとも気が利いている。現代フィンランドを代表する (そして、実は私は知らなかったのだが、昨年惜しくも亡くなった) エイノユハニ・ラウタヴァーラ (1928 - 2016) の作品。この人は、北欧らしいヒーリング的要素を持つ音楽を書いた人で、万人に愛される作風を持つ。アシュケナージはこの作曲家のファンだし、意外なところでは、サヴァリッシュもその曲を演奏していたものだ。かく言う私も大好きで、今手元の CD 棚を調べてみると、オンディーヌやフィンランディアといったレーベルから出ている彼の作品集を 5枚持っている。ただ、彼の珍しいファーストネームを今回初めて知って、これは覚えられないなと思っている (笑)。
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今回演奏された「In the Beginning」は、上に日本初演と書いたが、実はアジア初演。そもそも世界初演自体がつい最近で、それは今年の 9月 8日に、このインキネンの指揮するザールブリュッケン・カイザースラウテン放送フィル (まさにこの 9月にインキネンが首席指揮者に就任した) によってなされたばかり。プログラムには日フィル共同委嘱作品とあるので、インキネンが、自らが率いる 2つのオケを通して委嘱した作品であろうと思われる。作曲自体は 2015年とのことだが、いずれにせよラウタヴァーラ最晩年の作であって、作曲者自身も音として聴くことはできなかった。世界の創造のような弱音から始まり、緩急を交えて最強音に達したところで終わる曲だが、明らかに、この作曲家が生涯愛したフィンランドの自然の美しさが想定されているであろう。ここでの日フィルは、個々の楽器が実にニュアンス豊かに音の流れを表現していて、見事であった。

そしてメインのブルックナー 5番は、インキネンと日フィルの個性がはっきり出た演奏になった。まず編成は、弦はコントラバス 8本だが、管楽器はスコアの指定通り、木管は 2本ずつで、金管の補強もない。この曲には終楽章をはじめとして大音響が炸裂する箇所が多いが、インキネンの意図は、壮大な音宇宙を描き出すよりも、まさにラウタヴァーラの曲の精神と同じような、自然への賛美を表現することではなかったか。それを表すように、オーボエ、そしてフルートを中心とした木管の透明度は素晴らしく、例えば第 2楽章の後半でそのオーボエとフルートが掛け合う箇所や第 3楽章スケルツォの中間部など、本当に美しい瞬間であったと思う。もちろん弦楽器 (ヴァイオリンは左右対抗配置) も揺蕩う大河のように、最初から最後まで集中力を維持して、この曲の持ち味を美しく歌い上げた。上のチラシの宣伝にあるように、確かに「瑞々しくも懐かしい」ブルックナーになっていたと思う。だが、私個人としては、これも宣伝文句にあるように、「こんなブルックナーを聴きたかった・・・」とまで思ったかというと、その点は保留しておこう。この曲も (奇しくも前座のラウタヴァーラの曲と同じく) 作曲者が生前に音になったのを聴かなかった曲であるが、ブルックナーの頭の中には、当時の奏者の演奏能力を超えた、壮大な音の大伽藍が鳴っていたものと思う。その意味では、この美しい演奏は、どこかこの曲の本質とは異なる点があるのかもしれない。その点、やはり課題は金管ではないだろうか。大詰めの巨大なクライマックスでは立派に鳴っていた金管だったが、むしろそこに至るまでの、時には弱い音でニュアンス豊かに吹くべきところには、まだまだ改善の余地はあったように思われてならない。そのピースがぴったりはまる時、このような一種独特の情緒のある演奏は、より一層説得力が増すのではないだろうか。明確な個性を打ち出しつつあるインキネンと日フィルの演奏にはこれからも触れて行きたいし、大いに期待するものである。
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インキネンの日フィルの次の登場は来年 4月。マゼールが編曲した「指環」の抜粋をメインとしたワーグナー特集がどのような演奏になるか、今から楽しみである。

# by yokohama7474 | 2017-11-19 00:04 | 音楽 (Live) | Comments(0)

亜人 (本広克行監督)

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またもや、という言葉が何度目か分からぬほどだが、マンガを原作とする邦画である。マンガが悪いと十把一絡げに乱暴な議論を展開するつもりは毛頭なく、原作が何であれ、面白い映画でありさえすればよいのである。予告編を見て、これは何やら面白そうだぞという気がしたので、見に行くことにしたのである。上のポスターも結構よくできている。というのも、この黄金色をバックにして空気中を黒いものが漂っているこの浮遊感、どこかで見たことはないか。そう、これである。
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俵屋宗達の「風神雷神図屏風」。では、主演の佐藤健と綾野剛は、風神雷神であるのか。あながち的外れでもない・・・かどうかは別として、この 2人、人間にはない特殊な能力を持っていて、それこそ彼らが、フウジンやライジンさながら、アジン (亜人) と呼ばれる理由なのである。つまり、人に似て人にあらず。人間の生命は一度きりなのだが、この亜人たちは、一旦生命を終えても、すぐにまた再生するのである。であるから、闘いで傷つき、絶体絶命のピンチに陥ったときにすることは簡単。一度自分を殺すのだ。そうするとリセットされ、傷のない新たな自分として再度敵に攻撃を仕掛けることができるのである。なるほど、この設定はなかなかにユニークだ。不死身の体を持っていれば、かなり大胆なこともできるはずであるからだ。それゆえ、こんな状態であったものが、
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切羽詰まると、こんな感じになってしまうのである。
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なるほどこれは、普通にはない設定である。だが、映画の中でこれが散々繰り返されてみると、正直なところ、ちょっと辟易としてくる。君たち、もっと命を大事にしろよと言いたくもなってくるのだ (笑)。真面目な話、人間とは弱いものなのだ。このような便利な能力があれば、真剣に自分の身を守ろうとは考えないゆえ、敵と戦う意欲を維持することは極めて困難になってくるものだと思う。それゆえ、この映画では、彼ら亜人、とりわけその道のベテラン (?) である佐藤を演じる綾野剛は、ある想像を絶する耐え難い目に遭ったことへの復讐として人間社会を恐怖に陥れるという設定になっているのである。
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この役者の持つ一種独特の危なさには、なかなかのものがある。最近では、(劇場で見なかったのでこのブログの対象とはしないが) 剣道に魅入られた男を演じた「武曲 MUKOKU」など、その狂気を孕んだ危ない要素のみならず、主人公の内面のナイーブさや、若き日のうぶな外見まで、実に幅広く演じていて素晴らしかった。そしてこの映画でも、ムキムキ筋肉の披露を含め、なんとも楽しんで悪役を演じていることが明らかで、こういうことができる役者がそうそういるとは思えない。それに対する佐藤健 (たける) は、この作品の本広監督とは既に「るろうに剣心」シリーズで組んでいる (綾野も 1作目に出演している)。これもまたマンガを原作にするシリーズであるが、私はこの「るろうに剣心」シリーズには、明治の日本の毒がうまく表現されていると思っていて、結構好きなのである。佐藤健という俳優はそのシリーズと、NHK BS あたりの遺跡の旅のドキュメンタリーで見たくらいであるが、その身のこなしには非凡なものがあることは明らかで、これから多くの映画で様々な役柄を演じて、演技の幅を広げて欲しいと期待している。なんだかお父さんのようなコメントですが (笑)。さすが本広監督、佐藤の持ち味を充分分かっているのだろう、この映画は、拘束された彼の瞳のアップに始まり、自由を得た彼の瞳のアップで終わるのである。あ、それから、これは女性ファンサービスであろうか、彼も綾野に負けじとムキムキ筋肉を披露している。ムキムキ同士の死闘。
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この映画、このように主役 2人の肉弾戦をはじめ、見どころはあれこれあって、まあこれはネタバレとは言わないだろうから書いてしまうと、大林宣彦と大森一樹が出演しているのが面白い。以前からどこかで、「大林」と「大森」の違いについてちょっと書いてみたいと思っていたが、ここではその暇はないので飛ばしましょう。とにかくこの映画にはあれこれ工夫があって、面白いと言えば面白い。だが一方で、課題も多いと言わざるを得ない。ひとつは、脇役の存在感。申し訳ないが、善玉悪玉、男性女性を問わず、ここでの主役 2人以外の役者陣には、私は感心しなかった。よい映画を作るには、よい脇役が必要である。私が感じたように、脇役の水準に限界があることが、もし今の邦画の状況であるなら、ちょっと残念なことである。それから、リセットを繰り返す亜人たちの戦いぶりにも、映画としての手に汗握るほどのサスペンスを感じることはなかった。例えばこういう分身たちが戦うシーンが多く出てきて、その CG には見るものはあったものの、設定にちょっと無理があるだろう。こんな便利なものがあるなら、自分がどこかに出掛けずとも、あるいはムキムキ同士の肉弾戦を展開せずとも、常にこの分身を使って戦わせていればよい。「ウルトラセブン」のカプセル怪獣の時代ならいざしらず、現代では、荒唐無稽な中にも説明可能なストーリー作りの必要があると思うのである。
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それから、例のリセットである。この映画の設定の最大のウリであるこの点が、様々なシーンで緊張感をそいでいる。そして、特殊部隊をひとりで軽々とやっつけるという設定もナンセンス。人生は決して、決して、リセットできないし、本当のプロフェッショナルな訓練を受けた特殊部隊には、いかに亜人と言えども、そうそう簡単にかなうわけはないのである。我々が現実社会で見ている厳しさとか絶望感には、このような設定ではどうしても届くわけがない。もちろん、映画であるから、荒唐無稽な設定自体は大いに結構であるが、この時代にこのような映画を世に出すことの必然性は、感じてみたいものだ。あ、その点について、ひとつ思うことがある。最近の邦画には、「人に見えるけれど本当は人ではないものが、人間世界に紛れて生活している」という設定のものが多くはないか。「寄生獣」「東京喰種」がそうであったし、「進撃の巨人」にもその要素がある。こうして並べてみると、本作を含めてすべてマンガが原作である。もちろん、洋画でも、ちょっと古いが「メン・イン・ブラック」などの同種の作品があるが、もともと多様な人たちが集まっている米国では、そのような設定にはユーモアをまぶさないと、シャレにならない。その点日本は、均一性は比較にならないほど高いがゆえに、このような設定のマンガや映画が、結構シリアスな設定として描かれるのだろうか。自分が人と違った存在であることへの恐怖が、日本の社会には存在していて、それがマンガに反映されているのだろうか。ここで現代マンガ文化論をぶつつもりはなく、私にはそんな資格はないが、ふとそんなことを思ったものであった。

フウジンライジンアジン、日本独自の文化として認定されるには、まだまだ課題が多いと考えるべきだろう。こらこら、リセットしても、状況はすぐには変わりませんよ!!
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# by yokohama7474 | 2017-11-18 22:36 | 映画 | Comments(0)