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東京都品川区 中延ねぶた祭り 2016年9月17日

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ねぶた祭りというと、もちろん東北は青森の大規模で勇壮な祭りである。私は小学生の頃に映画「八甲田山」でその光景を見て以来、その迫力に心から魅せられている人間なのである。そして、もう20年近く前になってしまうが、このねぶたと、弘前のねぷたを見に、家人と二人で現地に赴いたことがある。もちろん実際に目の当たりにした祭りの迫力は到底忘れるものではない。久しぶりにまた行ってみたいなぁと思う今日この頃なのであるが、なんとなんと、東京都品川区でも、2年に一度、ねぶた祭りが開かれるという。私が東急線のマイナー路線(?)、池上線または多摩川線の沿線に暮らし始めてからまる 7年。地区で言うと大田区ということになるが、都心からの移動は必ず品川区を通過する。なので、この祭りが行われるという品川区の中延(なかのぶ)は、ほとんど我が家の隣町くらいの感覚だ。だが、これまでそんな祭りがあるとは聞いたことがない。ところが調べてみると、今年がなんと既に15回目だという。2年に一度で15回目ということは、既に30年の実績があるということだ。これはどんなものか、是非見てみたいと思い立ち、家人とともに繰り出してみることとした。

上記のポスターの通り、17時からということなので、その15分ほど前に東急池上線の荏原中延駅に降り立った。もしかすると、駅は押すな押すなの大混雑、警官の懸命の交通整理も空しく、道には芋の子を洗うように人が溢れ、押しつぶされそうになる子供たちが悲鳴を上げる・・・そんな情景が繰り広げられているのではないかと思ったが、ええっと、そこまでの混雑ではないですねぇ(笑)。
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この荏原中延という駅、初めて降り立ったが、なんとも昭和の雰囲気漂う、よいところだ。そもそも東急池上線は、どの駅にも商店街があって、一度すべての駅で順番に降りて散策してみたいと、以前から思っているのである。地図によると、ねぶたは、その名も昭和通りという商店街(あ、あの、上野あたりを通っているあの道路とは別です)を通ってから角を右に曲がり、アーケード付の商店街、上の写真にも名前のある中延スキップロードを練り歩くという。駅から数百メートル歩くと、やはり結構な人込みである。特に最初にねぶたがやってくる昭和通りは、なかなかの混雑だ。
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祭りというと、やはりビール片手に焼き鳥や焼きそばだろう。おあつらえ向きに何やら喉が渇いてきたし、小腹も減ったきたぞ。こういうところでは意気投合する夫婦なので、早速アーケードの商店街に入り、ビールを調達。このあたりは未だ人込みは見られない。
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あっ、うまそうな焼きそば発見。早速頂きました。やはりねぶた祭りが開かれる土地である青森県黒石市は、焼きそばが名物であるらしい。
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そしてよい気分になって来たところで、アーケード商店街から昭和通りの方に移動。この商店街のマスコット(?)、しょうちゃんとも対面。うーむ、ハンプティ・ダンプティばりの卵の化身であるか。でもちょっと正体不明(笑)。
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と、突っ込みどころ満載の土地柄を満喫していると、おっ来た来たねぶたが。それほど大きくはないが、なかなか本格的ではないか!! 祝15回!!ちゃんと回転するし、裏には情緒豊かな女性の絵もきっちり描いてある。
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本家青森のねぶたは、山車があまりに巨大で、大通りを進んで行くので、山車の近くに寄ることはできないが、この中延ねぶたのよいところは、一応警官が道を空けるようにと指示は出すものの、ロープが張ってあったり柵が設置されているわけではなく、沿道に陣取った人たちは間近に山車を見ることができる点である。また、ねぶた祭りでは、山車の後をハネトと呼ばれる踊り子たちが足に鈴をつけ、笛や太鼓に合わせて「らっせーら、らっせーら」の掛け声とともに練り歩くのだが、ここでもそのような人たちが大勢いる。いいなぁー、楽しそうだなぁー、次回は是非ハネトとして参加したい!!
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いわゆる実際のねぶたの山車は、ここでは4台。これが2台目だ。
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だがよく見るとこの場所、道幅が狭いこともさることながら、上の方に電線が縦横無尽に走っているではないか。この山車、兜のあたりはこんな感じで、電線を引きちぎってしまうのではないかとハラハラする。
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だが、大丈夫なのだ。ちゃんと先がT字型の長い木の棒を持った係の人がいて、このようにいちいち電線を上げて、山車を通すのである。なかなか大変だ。
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3台目は、東北復興を謳っている。
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そして現れた4台目が、今回の最優秀賞らしい。さすが、大変にダイナミックで、思わず見とれてしまう。
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回転機能を使わないときには、横にちゃんとつっかえ棒をしている。こんなところを覗き込めるのも、このねぶたならでは。
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段々暮れ始めた昭和通りの高さをいっぱいに使い、山車が前に進んで行く。
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ワンちゃんもハッピを着て、心配そうに見守っています。「祭りって気分が高揚するけど、安全には充分気をつけなさいよ」ってか。
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そして山車はアーケード商店街の方へ。お囃子もよく響き、なんとも熱狂的。いやー、カッコいいなぁ!!
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ここのスペースは一層狭いので、細部が折り畳めるようになっている。狭い土地に暮らす日本人ならではの気配りだ(笑)。
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そうして商店街の奥に消えて行くねぶた。その間30分程度。だが山車は20時まで練り歩くとのことで、あたりが暗くなると一層綺麗であろう。もっとも、上で見た電線の問題があるので、暗い時間に屋外を進むことには無理があるだろう。主催者の方々の苦労が偲ばれる。お疲れ様です。
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いやー、身近にこんな素晴らしいお祭りがあるとは知りませんでした。もっと知名度が上がってもよいように思うが、でもこれ以上混雑するとこのように間近で見ることができなくなるだろうから、近隣の人たちのみが楽しむイヴェントとして継続して行ってもらいたいものだ。よし、2年後は足に鈴をつけて、「らっせーら、らっせーら」と行くか。ぎっくり腰にならないように気を付けないと。

by yokohama7474 | 2016-09-18 02:18 | 旅行 | Comments(0)

初詣 (芝 増上寺 / 目黒五百羅漢寺 ほか)

あけましておめでとうございます。2016年の元日です。今年が皆様にとってよい年でありますように。

今朝の東京はきれいに晴れて、光あふれる新年になりました。川沿いの我が家のベランダは、遮るものがないので、空気の澄んだ晴れた日には富士山が見えるのですが、今日は本当にきれいなその姿を拝むことができました。
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あまりに気持ちがよいので、超安・近・短で初詣に行こうと思い立ち、そう言えば以前このブログでご紹介した芝 増上寺の狩野一信による五百羅漢図展が今日から新たな展示だなということを思い出して、早速出かけてみることに。門前にはこのような巨大な「初詣」の立札が。
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東京屈指の名刹ではあるが、首都圏でも明治神宮とか川崎大師とか鶴岡八幡宮とかに比べれば混雑はまだかわいいもの。でも境内にはいろいろ屋台が立ち並び、正月ならではの光景で、なにやら楽しい気分になる。
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そして面白かったのは、境内の一角で行われていた猿回し。今年が申年であることに因んでの特別興行であろうか、これを専門とするさる団体、その名も日光さる軍団から来ている。これがまた、なんとも芸が細かくて抱腹絶倒。初笑い猿の逆立ちだ。いやー、楽しい楽しい。
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宝物館で五百羅漢図の第 21 - 40幅を見ようとしたら、何やら焦げ臭いにおいが。どうやら過去のお札やお守り等を燃やしている場所らしい。そこに立っているこんな看板。皆さんダメですよ、屋台のたこ焼きを食べたあとのゴミをこんなところに捨てては。
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ここでは宝物館と徳川将軍家の墓所の紹介は繰り返しなので省略する。さて、増上寺を後にし、日も徐々に陰りつつある中、五百羅漢つながりで目黒の五百羅漢寺へ。なんと今日から 7日まで、入場料が無料なのである。ここには元禄時代の僧侶、松雲元慶禅師 (1648 - 1710) が江戸の浄財を集めて執念で制作した五百羅漢像がある。実際には五百体以上あったらしいが、三百年以上の歴史の星霜を経て災害で壊れたり寺から流出して、減ってしまった。だが今でも 305体が現存しており、それを一体一体眺めることはなんとも幸せな時間なのである。最初のお堂に祀られている羅漢さんたちにはそれぞれ教訓的な言葉が添えてあり、なるほどなるほどと感心することしきり。新たな年の始まりにふさわしい。堂内は撮影禁止なので、ネット上でピックアップした画像でご覧頂こう。
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最初の長いお堂の最後には、このような奇怪な動物が。妖怪好きにはたまらんですなぁ。これは獏王と言って、あの悪い夢を食らうという有名な架空の動物だ。これは羅漢像と同じ松雲元慶禅師の作だが、正直なところ、羅漢像よりも鬼気迫る感じがたまらない。よってこの像だけは国指定の重要文化財になっている。よい初夢を見ることができますように。
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そしてやがて見えてくるメインのお堂。この記事の五百羅漢寺の写真の中で、これだけは私が今日撮った写真だ。
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内部はこのようになっている。巨大な釈迦三尊像を中心に、夥しい羅漢像も居並ぶ空間だ。正月ということもあってか、内部ではシタール (これだけはハテナだったが 笑) の響きに乗って釈迦の説法を朗読した録音が流れていた。これもまた、年の初めとしてはそれぞれの人たちの人生を冷静に振り返る機会になるに違いない。
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本当に五百羅漢寺は私にとって魂を洗い清める場所。これからも折に触れ、訪れてみたい場所である。

さて、目黒にはほかにも由緒正しい寺がいくつかあるが、その中で、重要文化財の清凉寺式釈迦如来立像を正月三が日に開扉している大円寺に行ってみようと思い立ったものの、既に太陽は傾き、宵闇が漂い始める頃合い。それでも近くまで車で辿り着き、ふと見ると、なんと真正面に富士の雄大な姿が。ここは目黒駅から雅叙園の方に向かって下りる行人坂 (ぎょうにんざか)。江戸時代は交通の要衝であったらしいが、同時に富士山の見える名所でもあったらしい。ちょうど太陽が沈む直前、絶好のタイミングで拝むことのできた富士の姿。
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そんなわけで、大円寺の拝観は叶わなかったものの、元日に朝の富士と夕の富士を両方見ることができたことはなんとも特別なことである。今年はいい年になる予感。この 2つの富士を胸に、頑張るぞー!!
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by yokohama7474 | 2016-01-01 23:29 | 旅行 | Comments(0)

岡山旅行 その 2 吉備路 (備中国分寺、宝福寺等)、倉敷 (安養寺、大原美術館等)、岡山 (後楽園、岡山城)

前回の記事では、岡山県のくらくらするような歴史と伝説のロマンをお伝えしたが、今回はその続き、旅行の 2日目、11月 1日 (日) の様子をご紹介する。この日も、前日に負けず劣らぬ発見の連続で、私は岡山の魅力にどんどん憑りつかれてしまうのである。

今回我々が泊まったのは、倉敷国際ホテル。大原美術館のすぐ裏手にあり、棟方志功の大きな版画や、児島虎二郎 (あとでご紹介する) の油絵などがかかっていて、老舗ホテルの風格がある。但しそれほど巨大ホテルではなく、サービスも行き届いていて、なかなかに快適だ。
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さて、前日の吉備路めぐりは、最後は夕暮れによる時間切れとなってしまったので、今日は少し早起き。ちょうど前日の激しい山道踏破が幸いして疲れてぐっすり眠ることができたおかげで、目覚めは上々だ。倉敷から 10km ちょっとの道のりを北上して、再び吉備路へ。最初に向かったのが、作山古墳 (つくりやまこふん) だ。前日訪れた造山古墳とは、発音が同じでも字が違う。ともに巨大な墳墓 (長さは、造山古墳が 350mで全国 4位に対し作山古墳は 286m で、それでも 9位。高さは両者とも同じ 24m) であるが、もうひとつの違いは、造山古墳が完全な丘のように木を伐採していたのに対し、こちらはそのまま森のように鬱蒼と木が茂っていることだ。この写真のように、古墳があまりに巨大なので、交通の便を追求してのことだろう、古墳を貫いて道路が走っている。また、古来旅人が多いのであろうか、祠が祀られている。
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古墳の中は本当にそのまま、深い森だ。朝早いこともあり、空気が本当においしく、都会の空気で汚れた肺をきれいにしてくれるようにすら思われる。
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この説明板によると、吉備地方の豪族がその権威を見せつけるために、人々の往来の多い場所沿いの自然の地形を利用して作った墳墓であると推測されるとのこと。やはりかなり強大な権力が古代のこの地にあったようである。また、どうやら棺は盗掘されていないようで、未だに墓の主は前方部分に眠っていると見られると書いてある。なんたること。どうにかして発掘する方法はないものであろうか。古代吉備の王、今もここに眠る。
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さてそれから少し車で移動して、備中国分寺へ。国分寺は言うまでもなく、奈良東大寺を総本山として聖武天皇の命によって鎮護国家のために全国に建てられた寺である。各地の国分寺で、地名としてはともかく寺として現存しているものは少なく、寺自体が現存していたとしても、当時の建物の現存は望むべくもない。いくつかの幸運な国分寺が、時の権力者の保護を受けて後世に伽藍を復興しているケースが数えるほどあるのみだ。この備中国分寺は、16世紀の終わりに備中高松城主であった清水宗治の援助で再興し、その後再度の衰退を経て、18世紀初頭の宝永年間にまた復興した。この寺の象徴は、なんと言ってものどかな野原の中にそのすっきりした姿を見せている五重塔だ。1820年の造営、岡山県唯一の五重塔で、国の重要文化財に指定されている。前日の夕刻、どんなにがんばってもきれいに撮れなかった塔も、朝の光に惜しげもなくその姿を見せてくれている。いやー、美しい塔だなぁ。国分寺の境内の様子や周りの風景とともにお楽しみ下さい。
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このあたりは吉備路風土記の丘と名付けられていて、のどかな風景の中を散策するのが大変気持ちよい。徒歩圏内にある見どころを以下に紹介しよう。まずは、こうもり塚古墳。名前の由来は、かつて石室内に多くのコウモリが棲みついていたことによる。これは 6世紀後半の造営と推測される古墳であるが、驚くべきことに、石組がむき出しになった古墳の奥にまで入ることができ、玄室内に今も残る大きな棺のすぐ近くまで行くことができるのだ。古代の雰囲気をそのまま感じることのできる場所である。
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数百メートル歩くと、国分尼寺跡がある。国分尼寺は、国分寺とともに全国に建てられた尼寺で、奈良の法華寺が総本山であるが、国分寺と違って国分尼寺は後世に再興された例は全国にもないのではなかろうか。この備中国分尼寺も、今は林の中に礎石が残るのみ。だが、何もないがゆえに返って昔日の営みを追想できる場所になっている。時折通り過ぎる風が心地よく、物言わぬ路傍の石仏もまた味わい深い。
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さて、この近くに何やら茅葺の建物が見える。行ってみるとそれは、県内から移築してきた古民家 2軒である。上が、もともと医師の自宅であったものが、後に山手村という村の役場として使われていたもの。下は、旧山陽道に沿う茶屋であったとのこと。ここにも過去の人々の息吹が残っている。大勢で賑わう観光地にはない味わいがある。
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さらに、このようなポスターが目に付いた。
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満谷 国四郎 (みつたに くにしろう 1874 - 1936) は洋画家で、私も過去に幾つかの展覧会で作品を見たことがある。出身がここ岡山県の総社市で、昨年できたばかりという総社吉備路文化館というこじんまりとした美術館が、所有作品 40点弱を展示していた。あいにくカタログも作成されておらず、思い切って「写真はダメですか」と係の人に訊いてみたのだが、「写真ですかー。わっはっは」と、鼻にもかけてもらえなかったので、展示作品の写真はないのだが、生涯の画業を通して、西洋絵画を学んで試行錯誤する様子が大いに偲ばれた。郷土の人たちがこのような画家の存在を誇りに思うとは、大変に意義のあることだと思う。

さて、この後西の方に数 km 車を走らせ、宝福寺というお寺へ。ここには日本美術史上のビッグネームが関係しているので、見落とすわけにはいかない。
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そのビッグネームとは?
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一休さんではありませんよ。室町時代の巨匠画家、雪舟だ。彼の幼年時代の逸話として有名な、涙でネズミを描いたという話は、この寺が舞台であるのだ。絵に夢中で禅の修行に身が入らないため、和尚さんに柱に縛り付けられたが、流した涙で足を使ってネズミを描いたところ、その出来栄えに感心した和尚が、雪舟の画業への没頭を許したというもの。私も小学生のとき国語の教材で読みましたよ。手の自由を奪われながら足で絵を描く天才少年というイメージは、絵画にかける静かな情熱を表していて、なかなかによくできていると思う。もちろんこれが実話であるか否かは分からないものの、確かなことは、少年雪舟がこの寺で修行していたという事実だ。ということは、私がこれらの記事に書き連ねているような吉備路の古代の神秘あふれる空気を吸って、雪舟は幼年時代を過ごしたということだ。今後彼の作品を見るときには、そのようなことを頭の片隅に置いておく意味もあるかもしれない。ところでこのお寺、境内もきれいに整備されていて、気持ちの引き締まるような素晴らしい佇まいなのだ。仏殿内の龍は江戸時代のものだが、夜な夜な堂を出て水を飲みに来るというので、目に釘を打ったとのこと。また、始まったばかりとはいえ紅葉が美しく、国の重要文化財である三重塔がよく映える。
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そして、件の雪舟の涙で描いたネズミについても、方丈という建物の前にこのような親切な解説が。
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方丈の写真がこれだ。ほぅ、言わなきゃ分からないのに (笑)、わざわざこの建物は当時のものじゃないよと言ってくれているという、大変に真摯な態度のお寺です。でも、当時のものではないと知っていても、想像力で補ってこの方丈を見るというのが、大方の人たちのすることだろう。つまり、これが当時のものでなくても、この建物を見て、ここで雪舟が涙でネズミを描いたのだと思うと、なんとも感慨深いものがある。なかなか雰囲気あるじゃないですか。
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とまあ、境内にある数々の見どころに満足して、「あー、このお寺のあれこれを拝観できてよかったぁ」という満足感とともに帰路につこうとすると、ふとこんな表示が目に入った。
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な、なに?! これではまだ、拝観したことにならず、本当に拝観したい者は、1,000円払って座禅してからにしろということか?! 寺院拝観をなめるなということだ。これは厳しい。整備された境内の様子にすっかり甘えてしまっていたが、それではまだこの寺を拝観したことにはならないということのようだ。是非次回は予約をして、本物の拝観を経験しなければ・・・。恐れ入りました。

さて、もともとの計画では、10時くらいに倉敷に戻って大原美術館に行こうと思っていたが、宝福寺の拝観が実は中途半端 (?) であったと判明したとはいえ、内容は充分に濃く、既に予定よりも多く時間を要してしまっている。でも、大原美術館に行く途中に、どうしても寄りたいところがあるのだ。それは、朝原山 安養寺というお寺。782年に創建されたと言われる古刹で、重要文化財の兜跋毘沙門天 (とばつびしゃもんてん) と吉祥天、そしてそれ以外になんと 40体もの毘沙門天像を所蔵するという。駐車場は山の中の道路から少し下ったところにあり、このような石段を上がって境内に辿り着く。巨大な毘沙門天の銅像が門の上にご覧頂けよう。かなり荘厳な雰囲気だ。
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一群の仏像は、成願堂 (じょうがんどう) と名付けられた宝物館に収められている。堂内は写真撮影禁止なので、現地で購入した本からの撮影でご覧頂こう。まずは重要文化財の二点、兜跋毘沙門天と吉祥天、そして、堂内にところ狭しと並ぶ 40体の毘沙門天だ。
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見たところ、技量には多少の優劣はあれども、大きさはほぼ同じ、どれも皆平安時代の古様を示していて、地方色も豊かである (後代のものがあったとしても様式を古様に倣っているということだろう)。明らかに寄せ集めではなく、まとまった彫刻群だ。このあたり、倉敷市の北の市境には標高 300mほどの山が連なっており、その主峰、福山の中腹 (倉敷市朝原) にはその昔、大規模な伽藍が建立され、「朝原千坊」と呼ばれたそうだ。その後の戦乱で荒廃が進んだものの、この安養寺のみが現在に至るまでその命を保っているとのこと。これらの毘沙門天は、その名も毘沙門堂という堂にもともとは収められていたらしいが、これだけのまとまった数が残ったということは、きっと地元の人たちが命をかけて救い出し、守り抜いたということであろう。文書によれば、もともとは 108体あったという。それにしても、よくぞ歴史の荒波を越えて現在に残ったものである。熱烈な人々の思いが、そのような奇跡的なことをなしとげるということだろう。尚、この寺の裏山には、平安時代の古い経塚 (お経を地中に埋める塚) があり、宝塔や仏を線刻した瓦、誕生釈迦仏などが出土しており、重要文化財に指定されている。また、日本における禅宗の創始者のひとり、栄西 (ようさい) は、ここから遠からぬ吉備津神社の神官の家に生まれているが、11歳の時に安養寺という寺で修行したとの記述が「元亨釈書」という有名な歴史書にあり、同名のいくつかの寺が候補になっているが、ここ、朝原・安養寺もその有力な候補とのことである。寺好きのこの私ですら、岡山に行くことが決まってから初めて知ったこの寺には、全く侮るべからざる歴史があったということだ。改めて自らの無知を恥じた次第である。

さて、それからようやく倉敷の中心部にとって返すこととした。倉敷といえば、大原美術館を中心とした美観地区が観光の中心である。このような情緒ある町並みが整備されている。でも、2枚目の写真は、NHK の「タイムスクープハンター」でよく出てくるような街のセットにも見える (笑)。
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大原美術館。言わずと知れた、1930年に設立された、日本を代表する私設美術館である。日本で初めての西洋近代美術館でもある。倉敷紡績二代目社長の大原孫三郎のコレクションをもとにしており、コレクションの形成にあたっては、大原家をパトロンとしていた画家の児島虎二郎 (1881 - 1929) がヨーロッパで作品を買い付けた。児島自身の作品は、この記事の冒頭部分でも掲げておいたが、しっかりしたモデリングと鮮やかな色彩を持つ、なかなかに優れたものが多い。何よりも、この人の眼力によって、現地の美術商にカモにされることなく、高水準の作品を収集できたのであろうと思う。尚、もうひとり児島善三郎 (1893 - 1962) という洋画家もおり、人物像など作風も似ている点があると思うし、○二郎と△三郎だからてっきり兄弟かと思いきや、全く関係ないようだ。
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私にとっては、小学生のときに初めて訪れて以来、今回が 3度目の訪問。しかし、発見はいくらでもある。例えば、この美術館を近代西洋専門の美術館ととらえると、大きな間違いになるのだ。日本人画家だけの作品を展示する新館 (初期の洋画から前衛作品まで) もあれば、日本の民芸運動の作家たち (濱田庄司、バーナード・リーチ、河井寛二郎、富本憲吉ら) の作品も多く所蔵し、また、中国をはじめとする東洋美術もある。実に驚くべき多彩な内容を誇る美術館である。
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ここでは、数あるこの美術館の所蔵品の中から、2つの作品をご紹介する。ひとつは、日本で唯一この美術館だけが所蔵する、エル・グレコ (1541 - 1614) の作品、「受胎告知」。この作品だけ展示も特別扱いで、照明を落とした部屋に一点だけ飾られている。伝統的な宗教絵画とは全く異なるその劇性や鮮烈な色使いが、感性を限りなく刺激する。私は世界のどの美術館でも、この画家の作品があるとワクワクするし、画家自身が暮らした街、スペインのトレドを訪問した際には、偽物と分かっている (笑) 画家の旧居で陶然とし、大作「オルガス伯の埋葬」の前では、涙も流さんばかりに感動したものだ。エル・グレコの際立った個性を充分に表したこの素晴らしい作品が日本にあることを、心から喜びたいと思う。
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もうひとつは、ベルギーの画家、レオン・フレデリック (1856 - 1940) の、「万有は死に帰す、されど神の愛は万有をして蘇らしめん」という大作。題名の通り、最初の 3枚では、人々が死に絶えて行く場面が描かれ、中央の 1枚は地獄の業火のあとに地表を覆った氷河が溶ける場面、そして最後の 3枚では、復活した人々が神に感謝を表している。このフレデリックという画家について、私も詳しくは知らないが、いかにも象徴主義 (フランス語でサンボリズム。あ、サンバのリズムではないですよ 笑) の一大中心地であったベルギーの画家らしく、あまりに高踏的すぎず、俗っぽさ一歩手前という感じが、とてもよい。以下の写真ではなかなか細部が分からないので、ご興味おありの方は是非現地でご覧頂きたい。この 7枚が壁の高い部分に横一列に並んでいて、見上げて鑑賞するが、そのサイズがぴったりであることから、この作品の購入に合わせてこの美術館の本館の幅が決められたものと考えられている。そんなところにも、金に飽かせてやみくもに作り上げたコレクションとは異なる審美眼を感じることができるのである。
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さて、大原美術館を後にして、残るは岡山市内である。そこで見るべきは、もちろん天下の名園、後楽園と、天守閣は戦後の再建ながら、重要文化財の櫓を擁する岡山城だ。

水戸の偕楽園、金沢の兼六園と並ぶ、日本三名園のひとつ、後楽園。ここも子供の頃に訪れたことがあったが、当時はまだジャイアンツの本拠地はドームではなく後楽園球場であったので、なぜその球場が岡山に姉妹施設を持っているのか不思議に思ったものだ (笑)。あ、もっとも、大人になった今でも、「えっと、日本三名園って、ここと偕楽園と、あとどこだっけ・・・あ、六義園か」と言ってしまった私という人間も、うっかりにもほどがある (笑)。六義園は東京の駒込にある柳沢 吉保邸の庭の遺構だが、いかに私が昔駒込に住んでいたからと言って、加賀百万石のあの素晴らしい兼六園には、さすがに太刀打ちできるはずもない。

ともあれ、写真をいくつか掲載する。門を入ってしばらく歩くと、眼前に広がる緑と、その向こうに聳え立つ岡山城の姿が実に壮大だ。その黒さから、別名「烏城 (うじょう」と呼ばれる岡山城、鉄筋コンクリートの再建であれ、やはりその姿をここで見ることができることには大きな意味がある。庭園もすみずみまで手入れされていて、さすがに天下の名園の名に恥じないものがある。
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これは、庭園の中にある流点 (りゅうてん) という東屋だが、色の違う石が 7個並んでいて、ここで履き物を脱いで、石を愛でながら休憩することができる。全国でもここだけにしかないらしい。なんとも風流な。
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園内にいる動物たちも、何やらのんびりしているように見える。
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さて、それから岡山城に向かうこととしたが、近くは見えても車で移動した方がよいかなと考えていると、後楽園の外、旭川沿いの道にはこのような表示が。
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うーむ。これだけデカデカと散歩道などと書かれてしまうと、この道を散歩するしかないですな。ご指示に従いましょう。と、近代的な橋の向こうに見えてきました、岡山城の雄姿が。いい姿です。
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この城は、1573年に宇喜多秀家がその前の領主である金光 (かなみつ) 氏を滅ぼして入城、改築したもの。関ヶ原の戦い後は小早川秀秋が城主となった。例の、関ヶ原で西軍から東軍に寝返ったとして後世評判の悪いあの武将だが、そのときわずか 19歳で、岡山入場後 2年後、1602年に 21歳で急死した。その後の岡山城は、池田氏の居城として明治維新に至った。その天守閣は惜しくも 1945年に戦災で焼失、現在のものは 1966年に鉄筋コンクリートで再建されたもの。焼失前の写真は以下の通りだから、現在の天守閣はかなり忠実に復元されたものと思われる。
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戦争で焼け残った月見櫓が重要文化財に指定されており、中に入ることもできる。
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城の敷地内には、過去を偲ばせるものがあれこれ残っている。宇喜多氏が城を本格的に改築した際の古い石組が地中から発見されている。
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天守閣横の御殿の跡には、地上に間取りの線が引かれており、また、礎石や台所の流しなどを見ることができる。
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城に来るといつも、周りの風景を見ては過去に思いを馳せる。天守閣最上層より旭川越しに後楽園と、その手前の例の「散歩道」を望み、かつての城主たちも「こちらが後楽園までの散歩道でござる」と誘導されたものかと、夢想してみた。日本全国で、戦争で失われた城は結構多く、その損失は計り知れないものの、それも長い歴史の中の人間の営みの結果と思って、せめて今再建された天守閣の眺めを楽しみたい。
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その後、岡山市内で家人が昔通った小学校など覗いてみたが、なんでも創立 140周年とのこと!! すごい歴史である。そういえば岡山には、閑谷学校という藩校があったことは有名だ。昔から教育熱心な地域であったわけだ。古代に巨大な王権を持ち、近世から近代にかけて豊かな文化が花開き、日本で最初に西洋美術館ができたこの岡山には、まだまだ尽きせぬ魅力があるようだ。またの機会、イヌ、サル、キジのトリオでまた出かけてみたい。

by yokohama7474 | 2015-11-07 18:03 | 旅行 | Comments(0)

岡山旅行 その 1 高梁市 (備中松山城ほか)、鬼ノ城、吉備路 (吉備津神社ほか)

ふと思い立ち、10月31日 (土) から 11月 1日 (日) にかけて、夫婦で岡山を旅行することにした。それには幾つか理由があって、まあ私自身はイカの切れたタコのように、じゃなかった、糸の切れたタコのように、どこでもフラフラ出かけていく神出鬼没な人間であるが、家人の場合は過去数年、老犬を獣医に預けるのを嫌がるゆえに、旅行らしい旅行に行けなかったという事情がある。我が家の愛犬、メスのビーグル、ルルは 10月 8日に 17歳 8ヶ月で星になってしまったが、それは新しい家族旅行の始まりだ。これでルルは、目には見えないけれども我々夫婦とどこにでも旅行に行けるようになったのだ。飛行機にも簡単に乗れるし、美術館にも、レストランにも、どこでも (吠えたり、粗相したり、拾い食いせず、理想化されたお利口さんの姿となって ・・・笑) 我々の後をついてくるし、どこでも気兼ねなく一緒に入れる。ということで今回は、家人が幼少の頃少し住んでいたこともあるという岡山に、目に見えないルルとともに出掛けることとした。

岡山で観光名所と言えば、まず日本三大庭園のひとつである後楽園。それから倉敷の大原美術館。ほかに何があるのだろうか。実は、私のような歴史・文化に興味のある人間にとっては、大変な見どころ満載の場所なのである。神社仏閣や大小の美術館はもとより、古墳、城、巨石と、それらにまつわる歴史のミステリーとロマンがてんこ盛りだ。空港からレンタカーを借りて、いざ出発。しばらく走ると、キャンプ場に早速こんな看板が。
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イヌ、サル、キジ? ええっと、うちの家族は、目に見えないイヌと、それから私がサルで、家人がキジということか。これって・・・おぅ、桃太郎ではないか。なるほど。岡山は桃太郎伝説の発祥の地と言われている。お腰につけたキビダンゴは、吉備団子、つまりは吉備の国 = 岡山県の名物ダンゴのことだ。これについてはまた後にするとして、まずは最初の目的地である備中松山城へ。この城は、標高 430m地点に、山城として日本で唯一現存する天守閣かつ、日本で最も標高の高い場所に建つ天守閣を持っており、重要文化財に指定されている。「天空の城」と言えば、兵庫県朝来市の竹田城が有名だが、この備中松山城も、気候条件さえ合えば、こんな風に雲海に浮かぶ様子を見ることができる。このような写真 (私が撮ったものではありません) を見て是非行ってみたいと思ったのであるが、実際に雲海に浮かぶ朝の景色は次回以降に取っておくことにした。
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さて、この城に辿りつくには、相当な覚悟が必要だ。山の中で車を駐車場に停め、そこからシャトルバスで現地に向かうとのことだったので、早速 300円を払ってバスに乗ってみることに。こんな狭い山道を登って行く。
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さて、バスを降りたらすぐ城かと思いきや、そこから 700mのハードな山中の道のりを、えっちらおっちら登ってゆかねばならないのだ。手すりのある場所もあるが、以下の写真のように、全くの山道がほとんどだ。年輩の方々もふうふう言いながら頑張っている。これはかなり厳しいぞ。
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こんな看板が出ている。はいはい。注意しますが、なんで「じゅう」がひらがななのかよく分からない。何か意味があるのだろうか・・・。漢数字の十を使うと、10分間だけ注意すればよいと勘違いする人がいるからか?!
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ともあれ、厳しい山道の向こうに、見えてきました見えてきました。石垣です。こんな山奥にこんな立派な石垣があるとは、なんとも驚きだ。
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この備中松山城、もともとは鎌倉時代に築かれた山城であるらしい。戦国時代には三村 家親 (みむら いえちか) が城主となり、宇喜多氏と反目。その子、元親 (もとちか) の時代に、宇喜多氏と結んだ毛利氏に離反して織田信長方についたため、三村氏は毛利方の小早川 隆景 (こばやかわ たかかげ) に滅ぼされた。その後宇喜多は織田と結んで毛利と戦うことになり、毛利 輝元 (もうり てるもと) はこの松山城を前線基地として利用したという。関ヶ原の戦いの後、備中は幕府の直轄地となり、松山城には代官として小堀 正次 (こぼり まさつぐ) が配置される。その息子が、有名な作庭家となる小堀 遠州だ。その後城主は池田氏、水谷 (みずのや) 氏と遷り変わる。水谷氏断絶後は、あの赤穂の浅野氏が城を管理し、大石 内蔵助も 1年間この城に勤務した。その後また城主が何度か入れ替わり、幕末までは板倉氏が藩主として 8代務めた。幕末には朝敵との扱いになったが、山田 方谷 (やまだ ほうこく) という陽明学者が藩の執政として明治新政府に恭順することとし、無血開城したとのこと。

それぞれの城には誠に長い歴史とドラマがあることを思い知る。現在の天守閣は、1681年の改修によって形が整えられたということだが、どうやってこんな山の中に城を築くことができたのか。ヒントはここにある。
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この城、堅い岩盤の上に建っており、築城に必要な石は、麓から運び上げて来たのではなく、ここで調達したものらしい。だが、現在では岩が少しずつ裂けて来ているので、落盤が起こらないよう、精密に観測しているとのことだ。さて、ここからさらに上にある石垣を見ながら、一気に天守閣まで登ってみよう。
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また、天守閣と並んで重要文化財指定を受けている二重櫓も公開中だ。天気がよくて、気持ちがいい。
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今このように立派な姿を見せている備中松山城であるが、ほかの現存の城郭同様、明治以降は荒廃が進み、その後大規模な改修が行われて昔日の姿を取り戻した。なんでも、あまりに深い山中にあるので、取り壊しも大変な作業となるため、残されることとなったらしい。何が幸いするか分からないが、いずれにせよ、城を貴重な文化財として保存・修復しようという人々の熱意がなければ、私たちが今これを見ることは叶わなかったわけである。天守閣に展示されている昔の写真や新聞記事。なんと痛ましい姿か。
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さて、備中松山城を後にして、市街地に下りて行った。ここは高梁 (たかはし) 市というところで、石火矢町 (いしびやちょう) ふるさと村という一角に古い町並みが保存されていて、武家屋敷が 2軒公開されている。これはそのうちのひとつ、旧折井家。きれいに整備されていて気持ちがよく、昔の日本人の生活を思って衿を正したくなる。玄関には電動人形が待ち構え、センサーに反応して来客にお辞儀をするので、訪問者は皆、「うぎゃっ」とか「あー、びっくりしたー」とか悲鳴を上げている。なかなかしゃれた演出だ (?)。
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先に城の歴史の中で、小堀遠州の名に触れたが、ここ高梁には、彼が若い頃に手掛けたとされる庭園 (国指定の名勝) が残っている。三村氏の菩提寺でもある、頼久寺である。もともとは、足利尊氏が全国に作った安国寺のひとつであったとのこと。この枯山水の蓬莱庭園も非常によく手入れされていて、借景を含めて400年前の天才作庭家、遠州の発想の冴えを今に伝える貴重なものである。
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また、ここ高梁には近代の遺構もある。これは、明治 22年 (1889年) に建てられた基督教会堂。県内最古のキリスト教会だそうだ。早くも明治 13年に、あの新島襄がこの地を訪れて布教活動をしていたらしい。近代文明の先進地であったわけですな、この岡山県は。
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この建物は、高梁市立郷土資料館。明治 37年 (1904年) に建てられた小学校の校舎を使って、地元の古い生活に関する資料を展示している。残念ながら撮影禁止であったが、講堂にあたる 2階の広いスペースには、天皇皇后両陛下の肖像写真を飾って扉を閉める神棚のようなスペース (奉安殿と呼ぶらしい) がそのまま残っていて、興味深かった。幼少時に数年間だけ岡山県人であった家人によると、岡山は非常に教育熱心な県で、この資料館の前に立っている二宮金次郎像も、昔はあちこちで見かけたそうな。
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さて、次も城に出掛けることとした。ある意味、今回の旅行で最も楽しみにしていた場所。それは、総社市にある、鬼ノ城 (きのじょう) と呼ばれるところだ。ここは謎に満ちた巨大な山城なのであるが、近年になって発掘、整備が行われ、一部の復元がなされているだけで、古いものは何も残っていない。それもそのはず、遥か昔、7世紀に建設された朝鮮式山城ではないかと言われているのだ。それは古い話だなぁ。もっとも、「日本書紀」等の書物には一切記載がなく、実際のところは分からない。ただ最も有力な説が、663年に倭国軍が白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れたため、敵が本土に攻撃を仕掛けてくるのを恐れて天智天皇が渡来人たちに築かせた防御の砦であるというものなのである。なんでも西日本には同様の古代山城がほかにもいくつかあるらしい。ただこの鬼ノ城の場合は、全く違った伝説のあるところに神秘性がある。それは、この場所に温羅 (うら) と呼ばれる鬼が棲んでおり、悪事を働いたため、朝廷は吉備津彦命 (きびつひこのみこと) を遣わして成敗したというもの。これが桃太郎伝説のルーツであり、この場所は、鬼が棲むがゆえに、鬼ノ城という名がついた由。以前読んだ本に、鬼と製鉄の関係について書いたものがあった。製鉄技術は半島から伝わったものであろうし、この中国地方は、恐らく古来から地下資源が豊富であったということであろう。瀬戸内海から内陸に入って来て製鉄を行った渡来人と、その平定に苦慮した中央政権という構図があるのであろうか。この吉備路を旅すると (これから後にも記事の中で触れるように)、今は失われてしまった古代のなんらかの政権の痕跡が、のどかな風景の向こうに感じられて、歴史好きにはたまらないのである。

さて、そのような神秘の場所、鬼ノ城は、どのようなところなのか。ビジターセンターが完備していて、全体図が掲げられている。
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標高 394mの山の頂上に、30ha にも及ぶ敷地を持っているという。よっしゃ、これも踏破してやろうと意気込み、見えないルルを連れて、いざ登山!! ・・・と思いきや、先の備中松山城とは異なり、ここはかなり近くまで車で入れるようになっており、少し歩くとこんな光景が見えて来る。岩があちこちに露呈しており、そのところどころが人為的に切り取られている。中にはかなり巨大なものもある。
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そして、おっと、あれは何だ!!
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山の上に再建された、堂々たる西門。日本で古代山城が復元されたのはここが唯一の例であるそうだ。もちろん図面はおろか、文字での記録も一切残っていないから、礎石から大きさを想定し、古代朝鮮建築のイメージに基づいて行った再現だ。発掘しても瓦は出てこないので、瓦ぶきではなかったらしい。砦のデザインがビジターセンターにあったが、敵を防御する、その名も鬼ノ城とあって、このようなおどろおどろしい鬼のイメージが使われている。歴史好きならず、妖怪・怪獣好きにもたまらないところだ。私にぴったり (笑)。
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さて、西門にさらに近づいてみる。
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そしてついに正面に。これ、壁は古代の製法に基づいているということで、再現された建物自体、かなりワイルドだ。そこから見える風景もなんとも雄大で、周りの平野はもとより、遠く瀬戸内海まで見渡せる。これなら砦としての機能は果たせそうだ。
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その奥にもズンズン入って行ったが、あとは本当に古い礎石が一部に点々とあるのみ。歴史の風雪の中で全く何も残っていないが、それでも古代の人々の息吹が伝わってくるような気がするから不思議なものだ。管理棟跡や倉庫の跡は、間違いなく昔の人間の営みの残りなのだ。
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さて、実はもうひとつ、角楼というものが復元されている。角地にあって、敵の攻撃を確認するための展望台のようなものか。角楼から西門を望む。
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立ち去り難い思いを抱きながら帰途につくが、山の中に拓かれた展望台から、もう一度鬼ノ城を振り返る。一瞬、自分が 7世紀にタイムスリップしたような錯覚にとらわれる。歴史を学問として考えるなら、記録がないというのは謎の解明には致命的であろう。だが、古代のロマンや伝説が生まれた背景に対しては、各自が自由に想像力の翼を伸ばすことが許される。このような場所に立って見なければ分からない思いもあるものだ。素晴らしい経験をしたと実感する。
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それから南に向かい、吉備路に。さすがに山城 2件をハシゴして、体力の消耗とともに時間も気になるところ。今晩は倉敷に宿泊予定なので、ボヤボヤしていられない。吉備路の探索も厳ジィのだ。地図をぐっと睨み、効果的な観光の鉄則、まずは遠いところを攻めよとのルールに従い、吉備津神社へ。なんでも国宝の建造物があるらしい。「続日本後記」の 847年の項目に出てくる神社らしいが、上記の温羅伝説もあって、創建はさらに遡ると言われているとのこと。ここはなかなかにすごいところで、他の神社で見かけたことのないものがザクザクあるのだ。寺のように石段を登った先に門があり、その向こうにいかなる世界が広がるのか、ワクワクする。
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すると、屋根でつながった豪放な拝殿と本殿が。これらは室町時代、1425年に建てられたもので、このように天井がなく豪快な作り。日本でここだけにしかない吉備造りと呼ばれる建築。国宝の国宝たるゆえんで、この空間にいるだけで気持ちが引き締まるのだ。
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横から見るとこのようになっている。本殿が 2棟続きになっていて、その前に拝殿がつながっているのがよく分かる。
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本殿に向かって右に移ると、そこにもほかに例のない建物がある。実に 400mも続く回廊である。回廊は、例えば京都の東福寺とか奈良の長谷寺にあるが、ここの回廊はなだらかな下りになっていて、あたかも龍のようであり、その存在感は抜群だ。回廊の脇には種々の小さい社があるのであるが、その中でも興味深いのは、重要文化財に指定されている御釜殿 (おかまでん)。子供の頃に読んだ怪談本に「吉備津の釜」というのがあったが、それは上田 秋成の「雨月物語」所収であった。この吉備津神社の御釜殿では、釜の鳴る音で占いを行っており、今でも申込みをすれば占いを受けることができる。私たちが行ったときには既に時間外であったが、その御釜殿に続く回廊の上に草が根を張っていて、その生命力が印象的であった。退治された鬼、温羅の唸り声が釜の立てる音だというが、鬼の生命力があらゆるところにはびこっているのであろうか。
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さて、そろそろ日も傾き始めた。先を急ごう。次に向かったのも、なかなかほかに類例のない場所。楯築 (たてつき) 遺跡だ。これはなんと、いわゆる古墳時代に先立つ弥生時代の墳丘墓で、全長 80mを超える円丘を挟んで両側に突出部がついている。現地に置いてある解説に、復元図が掲載されている。
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この図の円丘の部分に、何かが描かれている。驚くなかれ、これらが楯状やあるいは祠を作り込んだ幾つもの巨石で、今でもそれらは存在しているのだ。
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巨石マニアの方なら先刻ご存知であろう (?)。英国、ストーンヘンジからさほど遠くない場所に、エイヴベリーという指折りのパワースポット場所があるのを。この縦築遺跡はそれよりもかなりスケールは小さいものの、その神秘的な存在感には共通するものを感じる。一体、誰が何のためにどうやってこんなものを作ったのか。石は黙して語らないが、かつてここには人間が意思を持って作業をしたことは明白で、文献などという姑息なものを吹っ飛ばす迫力がある。

さて、そこからほど近い、造山 (つくりやま) 古墳へ。面白いことに、この近辺には同じ「つくりやまこふん」が 2つあり、ひとつは造山、もうひとつは作山と書く。この日は途中で時間切れとなってしまったので、後者の作山古墳は翌日に持ち越しとなったが、これらはいずれも大変に巨大な古墳であるのだ。特にこの造山古墳は、なんとなんと、大阪の堺市にある巨大古墳群、仁徳天皇陵、応神天皇陵、履中天皇陵に次ぐ全国第 4位の規模を誇る巨大さで、全長 350m、高さ 24m。もちろんゼロから山を築いたのではなく、自然の山を加工しているが、それでも古墳築造に要した労働力はのべ 150万人とされている。埋葬者は不明だが、5世紀頃のここ吉備の支配者の墓であるとされる。ということはこの時代、ヤマト政権とは別の、強大な地方政権がこの土地に存在していたことになる。古墳の麓にある駐車場に、想像上の吉備の支配者の彫刻が。
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この古墳、翌日訪れた作山古墳と同様、極めて珍しいことに、墳丘の上に上ることができる。こちらの造山古墳は樹木が伐採されているので、よりその生の大きさを実感することができるのだ。すぐ横にまで民家が迫っているのが分かる。
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暮れゆく墳丘の上から見下ろすと、この地域特有の焼き畑農業の煙がそこここに見える。私たち以外には訪れる人は誰もなく、歴史の波に消えて行った古代の王の眠る巨大墳墓は、今日もまた闇の中に沈んで行こうとしている。西洋にもこのような「神の宿る風景」を描いた画家がいた。ドイツ・ロマン主義のカスパル・ダヴィッド・フリードリヒだ。ここはあの世でもこの世でもなく、目に見えない犬を連れた私と家人は、まさにその境界を自由に遊んでいる。
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さて、幻想の世界に遊んでばかりはいられない。これから 10kmちょっとの道のりを走って、倉敷に宿泊だ。と、夕闇の中にすっきりとした五重塔のシルエットが。吉備路のシンボルとも言える、備中国分寺の塔である。なんとか美しいシルエットをとらえようとカメラを向けるが、既に露出不足で、どう頑張ってもピンボケだ。でもせっかく撮ったので、ここに掲載しておこう。この世とあの世が交わるとき、歴史の星霜を超えた神秘のヴィジョンが現前する。もっとも現実は、歴史の星霜に思いを馳せるには空腹が邪魔をする状態であったが (笑)。
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というわけで、2日目については数日後にまた改めてアップ致しますので、乞うご期待。

by yokohama7474 | 2015-11-03 20:58 | 旅行 | Comments(0)

大田区観光協会主催 東海道五十三次 品川宿~川崎宿

以前、9月20日付の記事で、大田区が企画した街歩きをご紹介したが、それから約 1ヶ月。やはり大田区が主催する別のツアーに参加した。その名も「東海道五十三次 品川宿~川崎宿」。ここで気づくのは、品川宿は今で言う品川区であろうし、川崎宿は川崎市であろう。大田区はその間に位置する。東海道の出発地点はいわずと知れた日本橋。最初の宿が川崎宿になる。このツアーは、東海道の間の宿 (あいのしゅく) であった大田区の地域を歩いて回ろうというもの。但し今回は前回より長い 7km の道のりを 2時間半かけて踏破する。9月よりは日差しは弱まっているとはいえ、天気予報によると、汗ばむような気候とのこと。無事歩き通せるだろうか。ひとつの注意点は、前回のように途中で足を故障することがないようにすることだ。それに関しては誰のせいでもなく、私自身の責任だ。今回歩くのは以下の白地図に記載されているエリア。
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分かりにくいかもしれないが、JR 大森駅を出て、第一京浜 (国道 15号線) に沿って南下して歩き、最後は京急蒲田駅近くにある PIO (大田観光プラザ) で解散というもの。待ち合わせの大森駅は、ご覧の通りなかなか栄えている。
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今回も、定年後のボランティアとおぼしきガイドの方が案内して下さる。そうそう、申し忘れたが、このツアーの定員は 30名。応募が 54名あったというから、ほぼ 2倍の競争率を勝ち残っての参加ということになる。さて、歩き始めてすぐ。大森駅のすぐ近くで早くも解説だ。一体ここに何があるというのか。これだ。
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これ、道路の横に三角形の中州のような場所があり、その回りをぐるりと囲む部分だけ茶色い道になっている。一見するところ、意味のない場所に見える。これは一体何なのか。答えは、昔の路面電車のターミナル。以下の地図の左端、旧国鉄の線路の横に、わっかのようになった場所が見えるが、それがこの場所なのだ。
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なるほど。土地の記憶というものはそう簡単に消えないのですね。ブラタモリならここで往年の路面電車が CG でガタガタ動き出すところだろう。

さて、そこから商店街を抜けて、鷺 (おおとり) 神社へ。それほど古い神社ではなく、江戸時代の創建らしいが、昔から酉の市 (とりのいち) が有名らしく、今でも大賑わいになるらしい。
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それから第一京浜に出て、密厳院というお寺へ。今回のガイドの方は相当なベテランで、懇切丁寧な解説が非常によかったが、難を言えば、時々説明内容が奔放に発散することで、このときもお寺を通り過ぎてしまい、気が付いて戻ったものだった (笑)。まあ一応私は目的地が分かったので、グループが行き過ぎたのを尻目に、先に写真を撮っていたのであるが (笑)。
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ここでも見ものはふたつ、ひとつは、あの有名な八百屋お七に関するもの。このお地蔵さんだ。
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八百屋お七は、僧侶 (とは限らないのかな、創作の世界では) に一途な恋をし、火事が起これば恋人に会えると思い込んで放火をして、死罪になった少女。西鶴の「好色五人女」に採り上げられ、その後いろいろな歌舞伎や浄瑠璃を通して非常に有名な存在になった。私は学生の頃駒込に住んでいたので、その駒込で本郷通りに面した吉祥寺という寺が、お七ゆかりの寺であることはよく知っている。その寺は彼女が恋人と出会ったところと言われているそうで、今でも駒込吉祥寺には、彼女と恋人吉三の比翼塚なるものがあるのであるが、調べてみるとどうやらそれは史実ではない可能性が高いらしい。まあいずれにせよ、駒込はこの大森界隈からは随分と遠い。ここ密厳院にあるそのお七ゆかりの地蔵とは、一体いかなるものなのだろうか。寺にある説明板は以下の通り。
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鈴ヶ森刑場跡はここからそれほど遠くないが、一夜にして飛来したという伝説が、この切ない恋に殉じた少女の怨念を感じさせて、なにやら凄みがある。ご覧の通り現在でも千羽鶴が奉納されているということは、このお地蔵様に願を掛ける人たちが多いということだろう。250年を経て未だ力を保つ霊験あらたかなお地蔵様である。

もうひとつこのお寺で見るべきは、この阿弥陀様だ。
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これは何かというと、実は庚申 (こうしん) 塔なのだ。江戸時代の風習で庚申講というものがあり、その本尊として祀られたもの。人間の体内には三尸虫 (さんしちゅう) という虫がいて、庚申 (干支のひとつ) の日、人間が寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告に行くという道教の考えに基づき、庚申の日には夜通し眠らずに勤行や宴会をした。その本尊は、多くは青面金剛 (しょうめんこんごう) だが、このように阿弥陀を祀る例があったとは知らなかった。1662年に作られており、大田区で二番目に古い庚申供養塔であるそうな。まあそれにしても、徹夜で宴会をする口実としてはなかなか手が込んでいて (笑)、江戸時代の人たちの心の豊かさに思い至る。この磨滅した阿弥陀様も、夜通し続く人々のさんざめきに微笑んでおられたのではないだろうか。

さて次に向かったのは、磐井神社。実に貞観元年 (859年) 開創という古い神社で、その際、武蔵の国の八幡社の総社に定められたという。江戸時代には将軍も何度も参拝したらしい。
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ここには面白い石が二つある。写真撮影は許されなかったが、石に烏のかたちが浮き出た烏石 (うせき)、それに、転がすと鈴のような音を立て、鈴ヶ森の地名の由来となったという鈴石である。いずれも今は屋内に保存されているが、何やら霊的なムードが満点だ。また、この神社の前、第一京浜沿いに、磐井の井戸というものがある。昔はここも神社の境内であったらしい。
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古来東海道の旅人たちに重宝され、霊水と言われてきたとのこと。というのも、ここは昔は海のすぐ脇であったにもかかわらず、この井戸からは真水が出たことによる。ただ、土地の伝説で、この井戸の水を飲む人が心清ければ真水、そうでなければ塩水になると言われているとのこと。一度一般に解放して、人々の心の汚れ具合を試してみるというのはどうでしょうかね。

それからまた第一京浜に沿って歩き出すことになったが、上記の通りそのあたりはいわゆる大森海岸。明治の頃には花街となり、芸妓を置く大きな料亭が立ち並んでいたらしく、それは昭和まで存続した。この写真は、その中のひとつ、料亭 福久良 。なんという規模!!
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その料亭のあった場所には今、会社かマンション ? とおぼしき建物が建っているが、よく見ると、この石垣や奥に見える石組は、当時の料亭のものを残しているのであろう。知らなければ何の気なしに通り過ぎてしまうが、やはりそれぞれの土地には記憶が宿っているのである。
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その並びには、今でも大きい構えの天ぷら屋さんがある。創業明治 30年。以前からここを車で通る度に気になっていた場所だ。磐井神社の中にある稲荷社に、明治の頃の寄進者とおぼしき個人や企業の名前が彫ってあったが、この天仲はそこにも名前があった。
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さてそれからしばらくはものも言わずに歩き、見えてきたのがこの分岐点。
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この右に湾曲している大きな道路が第一京浜であるが、左側の道、一方通行でこちらからは車では入れない道が、旧東海道なのだ。現在の名称は美原 (みはら) 通り。もともとは北原・中原・南原で、三原通りという名前であったものが、いつの時点でか、漢字が変わってしまったもの。
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正直、昔日の面影はほとんど残ってはいないが、多分道幅は昔ながらのものなのであろう。また最近では、江戸時代から続く老舗であれそうでない店であれ、ちょっと江戸風な看板を出すようになっており、それはそれで情緒があるというものだ。
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よく知られている通り、この大森界隈は、もともと海苔の養殖でにぎわっていた。これが最盛期の養殖場と加工工場の写真であるが、その規模には驚かされる。たかが海苔と思うなかれ。
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この美原通りは 1.5km ほど続いているが、途中で小さな橋がある。これはするがや橋 (または内川橋) と呼ばれるもので、昔この橋のたもとに、駿河屋という茶屋があったらしく、ここから左に行けば羽田の方に続いているらしい。この駿河屋、浮世絵にも描かれている。
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この駿河屋が有名なのには理由がある。鶴屋南北の作になる歌舞伎「浮世柄比翼稲妻 (うきよづかひよくのいなずま)」で、白井権八が、「お若けえの、お待ちなせえまし」と呼び止められるのが、この駿河屋の前なのだそうである。この芝居は観たことがないが、現地を見てしまった以上、いつの日にか鑑賞したいものだ。大田区の説明板、以下の通り。
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さて、もう結構歩いてきたので、少し足が疲れているが、同行の年輩の方々が大変元気なので、負けてなるものかと、(目の前の障害物には充分注意しながら) 歩幅も大きく、歩き続ける。そして辿り着いたのが、旧大森区役所跡。大森区は昭和 7年にでき、その後蒲田区と合併して大田区となった。当時の建物は現存せず、今はその場所に大森警察署が建っているが、その建物の横手に面白いものがある。ひとつは西南戦争の、もうひとつは日清戦争の戦没者慰霊碑だ。前者は 1877年、後者は 1894年の勃発なので、いかに古い石碑であるか分かる。両方とも山縣有朋の揮毫になるものだが、大森と何か縁があるのであろうか。
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さて、東海道を辿る旅であるからには、どこかに道しるべのようなものがあってもよいものではないか。このあたりで唯一それがあるのが、第一京浜から東に少し入ったところにある日蓮宗の寺、大林寺だ。
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これが道しるべであるが、日蓮宗の宗徒の手によるものだけに、南無妙法蓮華経と刻んである。大田区には、以前もこのブログで紹介した本門寺という日蓮宗の聖地があり、その本門寺への道を池上道と呼んだらしく、この道標はその池上道にもともとあったものらしい。
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さて、ここから残りは 2kmとのこと。実はこの後に訪れたのは、梅屋敷跡と薭田神社であって、実はこれは前回 9月20日のウォーキングツアーで既に見たので、ここでは省略する。

東京には東海道の面影はほとんど残っていないことを再確認することにはなったものの、土地の記憶は確実に消えずに残っていて、人々がそれを守ろうとしていることに感銘を受けた。特に街道は、人々が行き交う場所であっただけに、人の息吹が活き活きと感じられることを実感した。美原通りなどは、特に目的なくぶらぶらしても面白そうだ。また天気のよい日に散策することとしよう。今回は負傷もなく、無事帰還しました!!


by yokohama7474 | 2015-10-26 00:56 | 旅行 | Comments(6)

プラハ散策

チェコ共和国の首都、プラハ。中世の街並みをそのままに残す、世界遺産の美しい街だ。私はもう 10年以上前に出張でここを訪れ、たまたま (いやホントウです!!) 週を越えてヨーロッパの別の都市に移動することとなったので、土曜日に街を歩き回ったものである。営業担当者における出張とは、自分を通常と違う環境に置いて、まさに相手方と相対して商談を行う勝負の場。心地よい緊張感をもって充実した仕事を達成するには、その街の空気を吸い、その街の歴史を知り、その街の文化に触れることだ。気楽な観光とは一線を画する、そのような異国の街との真剣勝負、それはよりよい仕事のために絶対に必要であると信じる (なんだかしつこいな 笑)。

今回、業界の国際会議 (Conference) に参加するためにこの街を久しぶりに訪れた。重要な打ち合わせがいくつも設定され、夜の会食もビジネスの機会。ホテルに帰ってからも、容赦なく入ってくるメールへの対応。年とともにひどくなる時差ボケに苦しみながらほぼ業務日程をこなし、最終日、余った 2時間ほどを利用して、同僚とともに街を散策した。プラハのランドスケープと言えば、まずこのカレル橋だろう。
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音楽好きの方は、チェコ音楽の父と言われるスメタナが作曲した交響詩「モルダウ」をご存じだろうが、このモルダウというのは川の名前で、現地ではヴルタヴァ川と呼ばれる。この川、ここプラハではかなりの川幅であり、水量も多い。このカレル橋は、そのヴルタヴァ川にかかるいちばん大きな橋で、実に 1402年の完成というから、既に 600年以上経っているわけだ。両側には 30体の聖者たちの彫刻があり、日本人にもおなじみのフランシスコ・ザヴィエルもある。ご覧の通り自動車は通行止めで、涼しくなってきた初秋の気持ちよい気候の中、ここを行き交う人たちは誰もが楽しそうだ。遠くの丘の上に見えるのがプラハ城。もし「モルダウ」をご存じない方は、このカラヤンの演奏で、水源の水の滴りが大河へとうねって行く情景を思い浮かべてみては如何。あるいは、この後の記事を、これを BGM として読んで頂くのも一興かと。
https://www.youtube.com/watch?v=k0DjWBmsYPs

さて今回、私にはどうしても見ておきたい場所があった。それは、旧ユダヤ人墓地。前回の滞在では、定休日 (= ユダヤ教の安息日) である土曜日に当たったために見ることができなかった。そして今回は・・・残念ながらやはり Closed。なんでも、ユダヤ教の祝日に当たっていたようだ。よくよくついていない。ただ、鉄の扉に開けられたガラス窓から、写真だけは撮ることができた。この墓地は 15世紀にできたらしく、現在ではさすがに使われていないが、ユダヤ教では墓地の移転が認められていないことから、狭い敷地内に折り重なるように墓石が建てられたという。なんともすさまじい雰囲気だ。
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私がこの墓地に興味を覚えたのは、子供の頃に読んだ妖怪図鑑に、ユダヤ教の伝説であるゴーレムという土人形が載っていたからである。ゴーレムと墓地を結び付ける要素が何であったか覚えていない。だが、鬼気迫る雰囲気に奇妙なノスタルジアが漂う独特の空間であり、折り重なった無言の墓石たちのそれぞれがゴーレムのように見えてくる。この写真は、無声映画「巨人ゴーレム」から。
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そう。プラハは土人形の街であり、錬金術の街であり、ヴンダーカマーの街であり、不条理の街なのだ。チェコは、芸術的なアニメ映画の伝統を持ち、特に巨匠ヤン・シュワンクマイエル (私は以前から大ファンだ) を生んだ国。また、世界で初めてロボットという言葉を使った作家カレル・チャペックを生んだ国でもあるのだ。命ないものが動く神秘がこの街にはふさわしい。

そのようなプラハの雰囲気において欠かせない有名作家がいる。ほかでもない、フランツ・カフカだ。街中で彼の生家を見かけた。
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この家は、街の中心地である旧市街広場の近くにある。旧市街広場は 13世紀に作られたものらしく、チェコ人が誇りとする宗教改革の先駆者、ヤン・フス (1369 頃 - 1415) の大きな銅像が立っている。
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この広場は大変賑わっており、面白い見世物もある。これ、どういう仕掛けだか分かりますか。360度回って確かめたが、上の人物は明らかに宙に浮いています。おぉ、さすが神秘の街プラハ。ジロジロ見てみると、下の人物の右手は作り物で、棒が地面にまで達して固定されている様子であることが分かった。上の人物は、支柱の上に据え付けられた座面の上に座っているのであろう。ただそれにしても、よくできている。無遠慮にカメラを向ける私に、下の人物が鋭い視線を投げかけて威嚇したので、ちゃんとチップをあげました。ただこれ、このまま静止しているときはいいけど、仕事を終えて帰るときはどうするのだろう。よっこらしょと着物をまくるとカラクリ丸出しではないか。ま、長い布をまとっているのは、その際にカラクリを隠すためなのかも。
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これは街中にデーンと存在する旧火薬庫。1475年建造。下の部分を普通に自動車が通っています。
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それからこれは、ルドルフィヌム (芸術家の家)。この中にドヴォルザーク・ホールがある。立派な建物だ。プラハにはもうひとつ、スメタナ・ホールを擁するやはり美しい建物、市民会館があるが、あの有名な音楽祭「プラハの春」に一度行ってみたい。バイロイトのようなド M なイヴェントとは違って、大変にたおやかで健全な音楽祭であろうと思う。
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プラハ散策の最後は、坂道をせっせと登ってプラハ城へ。門の前からは見晴らしのよい風景が広がっている。
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城内に入るとすぐ目の前に屹立するのが、聖ヴィート大聖堂。14世紀から建てられ始めたが、完成は実に 20世紀とのこと。壮麗な建物で、チェコ出身でパリでポスター作家として一世を風靡したミュシャ (チェコ語ではムハ) も一部装飾に関与しているらしい。ヨーロッパの教会はどこもそうだが、異教徒でも敬虔な思いにさせるこの空間はすごい。
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さて、歩き回って少し疲れたので、再びカレル橋近辺に戻り、ヴルタヴァ川に浮かぶ船がレストランになっている場所へ。少し汗ばんだからだに、チェコ名物ピルスナービールのうまいこと!! 船の先端部分、カレル橋を臨む屋外の席で、疲れ切った日常で蕩尽したエネルギーの充電に励むのは、なんとも素晴らしい体験だ。ぷはー。
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かくして、ヨーロッパ文明におけるこのような意味深い充電が、我々ビジネスマンの明日の活力となり、ひいては日本経済に貢献することとなるのである。けだし、出張に出ては街の空気を味わえ。しつこいって。笑

by yokohama7474 | 2015-10-16 00:09 | 旅行 | Comments(0)

東京 大田区 「六郷用水と映画の街蒲田」菖蒲園跡、粺田神社、円頓寺、梅屋敷公園、キネマ通り、夫婦橋、ミスタウン映画街跡、松竹キネマ撮影所跡

以前、大田区の名所である池上本門寺と、一年に数日だけ一般公開される庭園、松濤園についてご紹介したが、実は松濤園の受付 (朗峰会館という建物) で、大田観光協会なる社団法人が発行している「大田区まち歩き News」というものが目に留まった。何の気なしにめくってみると、大田区内の街歩きツアーのあれこれが紹介されている。これは面白そうだぞと家人と意気投合し、今回、「六郷用水を中心に歴史が見えるまち歩き」なるシリーズのうち、「六郷用水と映画の街蒲田」なるツアーに申し込むことにした。忘れないうちに書いておくと、もしこのようなツアーにご興味がおありの向きは、以下のサイトでチェックされるとよい。都内の方にとっては、超安・近・短の面白い旅となること請け合い。
http://www.o-2.jp/machiaruki/

東京以外にお住まいの方は、「おおたく」というと、「太田区」と勘違いされることが多いと思う。正解は、テンのない「大田区」だ。その理由は簡単。区内の 2大繁華街 (?)、大森と蒲田をくっつけでできた名前であるからだ。それさえ覚えれば、もう間違えることはないでしょう。これであなたも、どこから攻められても大丈夫な、筋金いりの大田区通!! それから、もうひとつ覚えておきたいのは、蒲田駅には 2つあって、ひとつは JR 蒲田駅、もうひとつは京浜急行蒲田駅であることだ。この 2駅は直線距離で 1km 弱離れていて、なんとか 2駅間を結ぶ「蒲蒲線」ができないかと検討されてきており、確か東京オリンピックに向けての整備案にもあったと思うが、どうなったのだろう。京急蒲田駅周辺は近年高架となり、踏切渋滞の解消と羽田空港へのアクセスのよさが実現されているが、JR 蒲田駅周辺もそれにまけじと再開発継続中である。

さて、今回のツアーは、JR 蒲田駅東口ロータリーに集合し、約 3.5km の道のりを 2時間くらいかけて歩こうというもの。さてここには、大田区通なら知っておかねばならない彫像がある。そう。モヤイ像だ。「えっ?! モヤイ像って渋谷じゃないの?」と驚くなかれ。渋谷にあるものと同じようなモヤイ像がどっしりと存在していて、説明板もある。なんでも、渋谷のものと同じく大島から送られたもので、もともと対になっていたもう 1体は、今では青森にあるらしい。この正面の顔の前になぜか空き缶が置いてあるのが、蒲田らしいと言えば蒲田らしい (笑)。
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この像、両サイドに顔があって、裏の顔はこんな感じ。これは女性ではないか。雌雄一体のようだ。ではモヤイには性別はないか、または両性具有、ヘルマフロディットかまたはアンドロギュノスということか (難しいって)。
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このような昭和の雰囲気と気合のあふれる解説も、なんともいい感じだ。「人々よ、蒲田でモヤい合おう!!」ということだ。「Why not ! モヤイもっと!!」という感じになるではないか。
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ふと見ると周囲にはいくつかの彫刻が。職人の街大田区を象徴するような力強い彫刻がこれだ。「躍進工業蒲田」とある。力強い職人が、全裸で歯車を抱えている・・・が、なぜか不自然さが。おっと、これ、本当に男か? 股間が不自然ではないか。ここにも両性具有?? いやいや、「進撃の巨人」か (笑)。
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さて、まだツアーが始まってもいないのに早くも寄り道しているのは私たちくらいで、集合場所には既に 3人の案内の人たちと、10名弱の参加者の人たちが。案内の方々は大田区の職員さんだろうか、あるいは、定年後の趣味でボランティアをなさっているのだろうか。いずれにせよ、各自が同時通訳のときにかけるようなイヤホンを配られ、説明者が喋ると、少し離れていても説明が聞こえるという気配り。これがもし、「大田区を歩こう会」などと気の利いたつもりの面白くないしゃれを入れた旗が立ち、ワッペンをつけさせられ、化粧の濃いベテランの女性ガイドが白手袋をつけ、大きなスピーカーを使って裏声で説明してくれる、といったアレンジだったら、その場で帰ろうかと思っていた。なんとも大人なツアーである。

いよいよ出発前の説明となった。まずはこの蒲田駅東口の再開発の説明から入るが、実は数日前にここで大規模な映画のロケが行われたとのこと。それは東宝が来年公開予定で撮影中の、新作ゴジラ映画だというではないか!! 確か前作でもうゴジラはやりませんと宣言したはずだが、ハリウッド版があまりに恐竜じみているのでまた日本で作ることになったのか?! 調べてみると、脚本・総監督 : 庵野 秀明、監督 : 樋口 真嗣という期待できるコンビである。
http://www.oricon.co.jp/special/47834/
それにしても、なぜゴジラは蒲田にやってくるのか。昔たくさんあったキャバレーも、もうほとんどないと案内の人が言っていたから、キャバレー目当てではなさそうだ。多分、羽田に上陸して都心に進むときの、蒲田はただの通り道というのが妥当な推測ではないだろうか。あるいは、モヤイ像がモヤい合ってゴジラと対決?! いずれにせよ、楽しみだ。あ、それから樋口監督、労働者の彫像に、自らの監督作「進撃の巨人」との共通性を見出したことだろう。

ところで、私の手元には、昔の大田区の写真集が何冊かあるのだが、そこに何枚か、蒲田駅の写真があるのでご紹介しよう。最初が昭和10年。なかなか立派な駅舎ではないか。もともと蒲田駅の開業は明治 37年。あとで説明する菖蒲園の開園がきっかけになったともいい、当初の利用者は 1日数人だったが、大正 9年に年間 130万人、昭和 7年には 1,370万人に急増した由。
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しかしながら、この地区は戦争で焼け野原になってしまった。昭和 30年代のバラック駅舎がこれだ。
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そして、今回待ち合わせ場所になった東口ロータリー。昭和 32年の撮影。何やら想像できる気がする。左の三和銀行は、つい先日まで三菱東京 UFJ 銀行だった (今は、斜め向かいあたりにあったみずほ銀行が、再開発取り壊しのためここに移転)。この蒲田駅東口は、GHQ が羽田空港拡張のための資材置き場にしていたため、この頃まで開発が遅れたが、その用地を逆に利用して、映画館が続々誕生したということらしい。蒲田といえば映画だが、それは松竹撮影所があったからというのが無理のないイメージであるところ、実は、松竹は昭和 11年に大船に移転しているので、興業の世界で戦後蒲田が賑わった理由は、撮影所があったからではなく、職人さんやサラリーマンが沢山いて、庶民の娯楽が発達したということらしい。
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さて、前置きが長すぎるが、そろそろツアーに参加しよう。今回のルートは以下の地図の破線である。
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今回探訪する蒲田は、大別すると以下の 3つ。
・古代から近世までの蒲田
・六郷用水が通る蒲田
・映画の街としての蒲田

なじみのない方にご説明すると、六郷用水とは、多摩川の水を今の狛江市で取水し、それを六郷領と呼ばれた現在の大田区地域に水路網を張り巡らせたもの。1590年に江戸に入り、この六郷領が広大な平地であるにもかかわらず水利の悪い土地であることに気づいた徳川家康が、小泉次大夫に命じ、14年かけて作られた。これによりこの地域は稲作地帯へと変貌したが、その後工場の進出により灌漑用水としての役目を終え、生活排水路となり、暗渠となっていったもの。現在でも大田区の街を歩くと、もと六郷用水が通っていた場所があちこちにあって、ブラタモリではないが、過去の土地の歴史が分かると、なんとも興味深いものがいろいろ見えてくるのだ。このあたりの昔の様子は以下の通り、呑川 (のみかわ) と六郷用水の中に重要施設が点在しているのが分かる。
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蒲田駅から歩いてほんの数分、現在の「あやめ橋」のあたりに、明治35年 (1902年)、菖蒲園ができた。一説によると、そこに人を呼ぶために住民の運動が起きて、今の蒲田駅が開業したとのこと。上の地図でも分かる通り、この菖蒲園、かなり大きなものだったようで、敷地は一万坪。大正時代まで人気のスポットであったらしい。現在のあやめ橋の欄干には菖蒲の模様が刻まれているが、昔日の様子を想像するのは難しい。
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古い絵葉書だろうか。白黒に着色した菖蒲園の様子。人の顔が、今の日本人と違っている!!
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菖蒲園跡から東邦医大通りに入る。その突き当りに現在、東邦大学医療センターがあるが、その前身は帝国女子医専といって、NHK の朝ドラ「梅ちゃん先生」で主人公が通う大学のモデルになっているそうだ。まあ、堀北真希のような学生がいたかどうかは知りません (笑)。

東邦医大通りから少し右に入ると、左手に薭田神社 (ひえたじんじゃ) が見える。この神社の歴史は恐ろしく古く、社伝によれば、709年に僧行基が刻んだ神像が神社のもととなっており、10世紀に編纂された「延喜式」にその名が記載されているらしい。「薭田」という字が転じて「蒲田」という地名になったという説が有力であるとのことで、まさにこの土地の歴史の始まりがここにあるようだ。
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すぐ先に円頓寺という寺がある。小田原北条氏の家臣、行方 (なめかた) 氏ゆかりの寺。行方 弾正の供養塔があるとのことだが、門は開いていないので、由緒を書いた石碑を撮影 (すみません、読めません)。
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それから大通りである第一京浜 (旧東海道) へ。そこには昔梅園があり、梅屋敷と呼ばれていた。今でも京浜急行に梅屋敷という駅があるが、その謂れは知らなかった。今は小さな公園になっているが、江戸時代は名所として知られ、広重の「江戸名所図会」にも採り上げられているらしい。東海道に面してはいるが、江戸の中心からは遠く離れているので、幕末の志士たちが会合を開いたこともしばしばあったとのこと。また、明治天皇もこの地が大層お気に入りで、何度も立ち寄ったそうだ。この場所、何度も車で通りすぎたことがあるが、このような歴史ある場所の名残が存在するとは、全く気付かなかった。無知とは嘆かわしいことだ。
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昔の梅屋敷の様子はこんな感じであったらしい。
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さて、ここまででも充分興味深く、歴史の残り香を求めてキョロキョロしていたのだが、トイレ休憩の際にアクシデント。冒頭に掲げた地図を見ながら、歩いてきた道を思い出し、過去に思いを馳せていると、突然右足太ももに強い衝撃が!! あまりの痛さにもんどりうって、何が起きたのかと思って振り返ってみると、自転車が入らないように半円形の金属の柵 (ちょうど腿くらいの高さ) がいくつか地面に設置されているところを、ちょうど夢中になって地図を目の前に開いてスタコラ歩いていたためにその存在に気づかず、速度を落とすことなくそのまま激突したというわけ。目を白黒させて右足を抑える私を見て、家人は私がいつもの悪ふざけをしているものと思ったらしいが、これは痛かった。私はせっかちな性格で、歩くのが早いのだ。一方、金属の柵は、通行するものをなんであれ妨害するのが役目だから、ちょうど視界の全面を地図に占拠されているアホな男に容赦せず、全力でぶつかったというわけだ・・・。

こうしてツアー後半戦は、名誉の負傷とともに継続することと相成った。実際地図を (ほかにぶつからないように注意しながら) 再度見てみると、まだ半分しか来ていない。ほかの年輩の参加者の方々はお元気そうだ。なんとか足を引きずりながらついて行くしかない。

キネマ通り。これは撮影所とは関係なく、キネマ館という映画館が昔あったことによるそうだ。ほっほう、文字がさかさまだが、「キネマのびっくり市 プレゼントセール」か。なんとも昭和な感じがよい。「キネマを逆から読むと寝巻だな」、などと関係ないことを考えて、足の痛みを忘れるという悲痛な努力をする私。実は、キネマを逆から読むと、「招き」であって「寝巻」ではないのだが・・・。
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呑川のほとりに立つ北野神社。その名の通り天神様を祀っているようだが、大雨だかで上流から他の神社の御神体が二度も流れついたゆえ、「神様はよほどここがお好きなのだろう」ということで建てられたそうな。「神様、北野神社にきたのか」と、またまた救いがたいダジャレで痛みを忘れようとする私。
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次は夫婦橋。かつて呑川に堰が設けられて、六郷用水が分水されていたため、橋が旧東海道に二本並んでいたため、このような名前がついた。その夫婦橋の親柱 (橋の四隅の柱) が 2箇所に分かれて保存されている。これは、すぐ近くの公園に設置されたもの。この公園は、昭和まで使われていた舟揚場で、やはり過去へのノスタルジーを掻き立てる。
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ここで京急蒲田駅の反対側に出る。来るときに通った菖蒲園の、呑川の反対側に出ると、目立たないところに、蒲田橋という、今は存在しない橋の親柱が。昭和初期のもので、橋がなくなって無用の長物となったとき、老朽化したこの親柱は破棄される運命にあったが、有志の方々の努力で、今の場所に設置することができたという。昔の蒲田の中心地はこの橋のあたりであったらしく、その歴史を未来に留めたいという思いが、困難を可能にしたわけである。過ぎた時間に思いを馳せると、足の痛みも少しは和らぐ・・・気がする。
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さて、残りは映画に関する過去の痕跡めぐりだ。先にも書いたが、JR 蒲田駅東口近辺は、戦後 GHQ の資材置き場になっていたため、開発が遅れたが、その代わりに土地が沢山あったので、昭和 30年代に映画館が立ち並び、浅草、新宿と並ぶ映画館の多さを誇ったという。逆川 (さかさかわ) という支流の近くに、ミスタウン映画街というものがあったらしい。面白いのは、松竹の撮影所は既に戦前にこの場所にはなくなっていたにもかかわらず、人々の頭の中に、蒲田と映画を結びつけたのは、ひとつにはやはりその撮影所であったのではないか。昔のミスタウン街とは、今の相鉄ホテルの裏側 (?) あたりだったらしいが、そのあたりに大変面白いものが残っている。このような遊興施設。
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中に入って左の階段を数段降り、振り返ってみると・・・。
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なんとなんと。これ、知っている人に教えてもらわないと、絶対に辿り着けない (笑)。なぜこのように、外から絶対見えないところに立っているのか。この記念柱は、昭和 42年に建てられ、文字を揮毫したのは、松竹の大プロデューサー、城戸四郎 (1894 - 1977) だ。なんとも味わい深い。

さて、名誉の負傷を負いながらのツアーも、ようやく最終目的地が見えてきた。昔の松竹撮影所跡には、今、アプリコという大田区のコンサートホールが立っている。そのホールでコンサートを聴いたことはあるが、そこに、撮影所の正面に架かっていた小さな橋の跡が残されていようとは。その橋とは、松竹橋。この写真の手前に写っているのがそれだ。
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まず、アプリコ前に、映画「キネマの天地」の撮影用に作られた松竹橋のレプリカがある。
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そして、アプリコに入り、コンサートホールに向かって左手の入り口近くに、なんと本物の橋の名残が。しばらく前まで行方不明であったものを、鎌倉の個人が所有していることが分かり、大田区に寄付されたとか。私が神のごとく尊敬する小津安二郎 (1903 - 1963) も、この橋を何度も通ったのだ。感無量。
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このアプリコの地下 1階には、撮影所のジオラマが展示されている。サイレントのときはよかったが、トーキーで撮影と同時に録音するようになると、蒲田地区の工業発展につれ、雑音が入る環境となってしまったため、昭和 11年に大船に移転したとのこと。
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ここでツアーは終了。後半は足を引きずりながらであったとはいえ、大変に面白い 2時間の散策であった。歴史には諸相あり、人々が集まる聖なる場所や遊興の場所、用水路、なんでもない路地、巨大施設、古くから営業を続ける店・・・。それぞれに人々の暮らしの痕跡があるから面白い。このような企画を続けている大田区には最大限の敬意を表し、もしかして東京 23区のそれぞれに同じようなツアーがあるとすると、その土地土地の過去の記憶を辿ることで、東京の全体像も見えてくるのではないかと夢想した。実際にほかの区については調べていないものの、そのうち調べてみたいと思っている。そして、いくら夢中になっても、地図で視界の全部を覆ってしまうことだけはするまいと、腫れ上がった右足太ももをさすりながら、ひとりうなずいている次第である。

by yokohama7474 | 2015-09-20 02:44 | 旅行 | Comments(0)

バイロイトについて (旅の総括)

バイロイトでの一週間の滞在を終え、無事日本に帰ってきました。羽田で飛行機を降りた瞬間、サウナに入ったような、熱い空気が全身を包み込む感覚を受け、改めて日本の湿気に驚いた次第。川沿いの自宅でユニクロの派手なステテコなど着てくつろぎながらビールを飲んでいると、日本に帰ってきたという実感が湧きますな。

さて、せっかく初めてバイロイト経験をしたので、少し振り返って総括しておきたい。

現地で購入した英語の薄手のガイドブックによると、この街には 800年の歴史があるが、そのうちの 3回に亘る機会が街を形成したとされている。すなわち、
1. 辺境伯妃ウィルヘルミーネ (1709 - 1758) によるロココ文化の繁栄
2. ジャン・パウル (1763 - 1825) の詩作によるロマン主義の台頭
3. ワーグナー (1813 - 1873) による祝祭音楽祭の開始
である。これらの人物に共通するのは、いずれもほかの街からやって来たということだ。すなわちこの街は、偉大なる世界の中心ではなかったが、外部から来た人たちが独自の文化を発信する起点にはなったということだ。但し、18世紀から 19世紀の頃の交通網はよく分からないが、少なくとも現在、この街が交通至便であるかというと、全くそうではない。私の場合は、ニュルンベルクの空港から代理店手配の車で 1時間以上をかけてバイロイト入りした。音楽祭に参加する人々は、いずれにせよ陸路でかなりの距離を移動しないと、空港に辿り着かない、不便なところだ。だが、かといって、全く何もないところに劇場を作ったのかといえばさにあらず。上記の 1. と 2. があったからこそ、3. が実現したのであろう。実際、バイロイトから鉄道で移動すると、なだらかな丘陵地帯がずっと続いていて、そこに存在している駅の周りには、文字通り何もないのだ。従ってワーグナーは少なくとも、本当に何もない場所には祝祭劇場を建てるという選択はしなかったことになる。

さて、上記 1.については、エルミタージュや新宮殿について触れたので省略するとして、2. について少し書いておきたい。ジャン・パウルである。
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今回バイロイトとその周辺を訪れて、この詩人が現地では未だ深い尊敬を集めていることを知った。エルミタージュに向かうタクシーの中からも、彼にゆかりの場所らしいところを幾つか通ったのである。日本でも主要著作は翻訳されているようだが、創土社なる出版社が全集を発行する予定があったが、全 26巻の予定が、4巻で途絶えてしまった模様。この出版社、幻想文学を中心に、意欲的な出版をしている。ネットとは便利なもので、以下のような情報を見つけた。うーん、いろいろ読んでみたい!!
http://www.green.dti.ne.jp/ed-fuji/column-booksmetamorphas.html

ところでこのジャン・パウルの全集が、ワーグナー旧居、ヴァーンフリートの書棚にもあったのを、もちろん私は見逃しませんでしたよ。先にご紹介したベートーヴェンもそうだが、必ずしもワーグナー自身が読んだとも限らない。だが、ここにあること自体、なんとも興味深い。
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尚、以前もご紹介した、ジャン・パウルが書いた言葉、つまり、「右手に詩の才能を、左手に音楽の才能を」携えた人物の到来を待っているという言葉 (ちなみにこれは、E・T・A・ホフマンの「幻想小品集」に寄せた序文が原典らしい) は、私にとっては実は大変長いつきあいのある言葉であるのだ。クラシック音楽を聴き始めてまもない頃、今から 37-38年くらい前になろうか、神保 璟一郎という人の書いた、「名曲をたずねて」という上下 2巻の文庫本 (大変に懐かしい!) を繰り返し読んで、膨大なレパートリーについてお勉強していたわけであるが、その本のワーグナーの欄に、この言葉が書いてあったのだ。当時の私は、ワーグナーのオペラ全曲は聴いたこともなく、ただ序曲・前奏曲の数々に感動していただけであったが、詩と音楽を対比させるこの言葉のロマン性に、心打たれたものだ。今日、久しぶりにその本を引っ張り出してきて見てみると、この言葉を記した人物が、ジャン・パウルではなく、「詩人リヒテル」と書いてある。これは一体何だろうと思って調べてみて、分かったのだ。ジャン・パウルの本名が、ヨハン・パウル・フリードリヒ・リヒターなのだ!! そして、彼が序文を寄せた E・T・A・ホフマン (1776 - 1822) についてはバンベルクの欄でご紹介したが、この序文を持つ作品は、どうやら「カロ風の幻想小品集」というのが正式名称だ。えっ、これってあの、シューマンの「幻想小曲集」のヒントになった、あれか? そうなのだ。それだけではない。この作品集に含まれている「クライスレリアーナ」も、シューマンがそのままの題名で有名なピアノ曲を書いているではないか。さらにさらに、この題名にあるカロは、有名なフランスの版画家、ジャック・カロ (1592 - 1635) のことだろう。ここで連想されるのは、マーラーがジャン・パウルの小説に影響されて書いた交響曲第 1番「巨人」の第 3楽章は、「カロ風の葬送行進曲」だ。ヒントになったのは、以下のようなカロの版画だ。
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こうして見てくると、ロマン主義の潮流の中で、絵画、文学、音楽がお互いに密接に関連していることが分かる。本当に面白いし、知るほどに自分の無知に思い至る。

さて、ワーグナーである。辺鄙であっても文化的な伝統のあるバイロイトを、自らの祝祭を執り行う場所として選んだわけであるが、もしかすると、上記のジャン・パウルの言葉を知っていて、あえてこの場所を選んだのではないか。ちょっと調べた範囲ではそのような説は見当たらなかったが、したたかな彼であれば、可能性はあるような気がする。いずれにせよ、歴史の荒波に耐えて、この音楽祭は継続している。ただ、例のド M 論に戻ると、あの環境であの音楽を聴きたいと思う人は、やはり少しその性向があるのかもしれない。例えばストラヴィンスキーはその自伝で、バイロイトのことを散々にけなしていた記憶があるし、小林 秀雄も、バイロイト体験を苦々しく書いている。合わない人には決定的に合わないのだろう。実は今般、現地に行って気づいたことには、国際的な観客が集まっているとはいえ、ドイツ語を耳にする機会が予想以上に多かった。メルケル首相もバイロイトが大好きだという。ということは、ワーグナーを好きな人の多くは、ドイツ人自身であるということだ。ド M 性とそのことに、少し関係があるような気もするが、いかがであろうか。ドイツ人は勤勉ではあるものの、少し極端に走る傾向がある。もちろん、端的な例はナチということになろうが、この超右翼政党、よく知られている通り、正式名称は「国家社会主義ドイツ労働者党」である。極左が極右になってしまうこの矛盾。もちろん、あまりに紋切型の決めつけをする意図はないが、ナチとの関連云々の前に、もともとワーグナーの作品の中に、いわゆるドイツ的なものの根源が含まれていることは事実であって、それをいかに受け止めるかという態度が問われているのであろう。なかなかに難しい問題である。

話題が堅くなったので、がらっと変えてみよう。バイロイト音楽祭の幕間の食事についてだ。先にレストランを予約して高価なチキンを食べたことは記事に書いたが、実は、隣のカフェテリアでは、もっとカジュアルなものも食べられるのだ。例えばこれ。
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フェスティヴァル・ソーセージという名前で、お値段は 5.5ユーロ。レストランのチキンは 35ユーロだから、これが 6つは食べられる計算だ !! これはお得です。また、この女性が作っているものはなんでしょう。
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答えは焼きそば。野菜入り 7ユーロ。そこにエビを入れても 8ユーロだ。まあお味はそこそこですが。
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ちなみに、街中には日本料理屋もあって、メニューはドイツ語だが、ちゃんと日本語のできる女将さんがいて、長期滞在には重宝する。鮭とトンカツ弁当に、キリンビールを飲んで、確か 20 ユーロくらいだったか。
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それから、街中の小さなショッピングモールのようなところで、ギャラリーを見つけた。女流アーティストがワーグナーを素材に制作した風刺的な作品を販売している。店の番をしていたオジサンは、最近ワーグナーについての本も書いたとのことで、少し立ち話してみた。
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なんでも、友人のお嬢さんが合唱団のメンバーで、一般には公開されない通し稽古 (ゲネラル・プローベ、略してゲネプロ) を何度も見ているという。「指環を見に来たのか」と訊かれたので、「そうなんだけど、音楽は素晴らしいのに、演出が最低で」と答えると、「全くその通り。ジークフリートがカラシニコフ銃でファフナーを殺すなんてありえない」と、大声で笑う。今回の演出は概して、信じられないくらい歌手に動き (舞台の最上部まで、ほぼ垂直のハシゴを何本か使って登っていく等) を強要するもので、それぞれの歌手の苦労が思いやられたが、以前の記事にも書いた通り、「ヨハン・ボータ (ジークムント) だけは体が重すぎて、だから『ワルキューレ』だけ動きが少ない舞台だったんだよ」と言っていた。

このように街中でワーグナーの話をするのは楽しいものだが、実はこのバイロイト、市街地のいろんなところでワーグナーの彫像に出会うことになる。生誕 200年の 2013年に設置されたものである模様。
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そして、台座の部分に、かつてバイロイトで活躍した歌手の紹介が。これは日本でも人気のあったハンス・ホッターだ。
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ところがである。よく見るとこれらのワーグナー像、全然掃除されていないらしく、蜘蛛の巣張り放題だ!!
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ほかの場所の像では、蜘蛛まで見ることができた。
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これはちょっと複雑な気分である。この像、私が泊まっていたホテルにも飾ってあって、これなら屋内だから蜘蛛の心配はないはず (笑)。実はこれ、500ユーロで販売もしているらしく、ちょっと考えたが、狭い自宅には置く場所がないので、泣く泣く購入を断念した。外に置くと、蜘蛛の巣張りますしね。
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ホテルのすぐ近くを、気持ちのよい小川が流れていた。どうやら赤マイン川というらしく、白マイン川と並んで、大河マイン川の源流であるそうだ。郊外の宮殿、エルミタージュは、この川の流れをうまく利用しているらしい。
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ということで、不愉快な演出は、それはそれとしていろいろ考えるヒントを与えてくれたし、この街の歴史や佇まいからも、多くのことを知ったり感じたりすることができた。今度行くとしたら、そうですなぁ、ザルツブルク音楽祭で一週間過ごし、バイロイトには 1演目見るために立ち寄る程度がいいかもしれない (笑)。飽くまで個人の感想なので、ご参考まで。

by yokohama7474 | 2015-08-17 00:04 | 旅行 | Comments(0)