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テオドール・シャセリオー (1819 - 1856)。見覚えのある名前であり、どこかの美術館で作品に触れているはずだが、明確には思い出せない。確か昔、大学で文学部の講義を選択して、フランスのロマン主義と新古典主義から印象派に至る流れを一通り学んだ際にも、その名が出て来たような気がする。このポスターに使われている女性の肖像画を見ると、描き方自体には古典的な要素を持ちながらも、どこかに憧憬をたたえたその女性の表情には、型通りの写実を超えた、どこかなじみがあるようなないような、不思議な感覚を覚える。いずれにせよ、一般にはほとんど知られていない、37歳で夭折したこの画家の初めての展覧会が、上野の西洋美術館で開催中である。なかなかに貴重な機会と思い、ちょっと覗いてみた。

シャセリオーは、カリブ海のイスパニョーラ島 (現在は2/3がドミニカ共和国に、1/3がハイチに所属) で、フランス人の父と現地生まれの入植者 (いわゆるクレオール) の母の間に生まれた。現代の、しかも極東の島国に住む我々にとってはこのあたりは感覚的にちょっと分かりにくいが、当時ヨーロッパ列強諸国はいずれも植民地を持ち、自国から遠く離れた中南米にも、多くのヨーロッパ人たちが進出していたわけである。ドミニカも、スペインとフランスが取り合いをしていたようであり、複雑な歴史を持つ。シャセリオーの父も、もともとはナポレオンが送った (そ、そうなんだ!!) イスパニョーラ島への遠征軍に参加して現地に住みついたらしく、その後パナマやコロンビア独立のために奔走し、投獄されたこともあるという、行動の人であった。シャセリオーが 2歳のときに一家はパリに移住する。そこで絵の勉強を始めたシャセリオーは、11歳のときに、当時新古典主義の大家であったドミニク・アングルの弟子となることを認められた。早熟の天才であったわけだ。これは、1835年、16歳のときの自画像。彼は決して美男ではなかったという記録があるようだが、ここで見る若い男性は、確かに美形ではないものの、神経質さを感じさせる一方で、何か自分の中に存在する芸術への思いを冷静に見つめているようである。なるほど、早熟の天才である。
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これは、「16世紀スペイン女性の肖像の模写」。制作年は 1834 - 50年頃となっているので、正確なところは分からないのであろう。これが誰の姿で、誰の作品の模写であろうと、垂れ下がった首飾りをぐっとつかんだ左手が異様に逞しく、見る者をどきっとさせる点において、極めてユニークな作品と言えるのではないだろうか。
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これは、1837-38年頃の「黒人男性像の習作」。これは、師であるアングルが「キリストの誘惑」という作品を描こうとして、そこに登場するサタンの習作を描くようにシャセリオーに指示が出たことによって制作されたもので、現在でもアングル美術館所蔵になる。私が面白いと思うのは、この白々しいまでに青い空だ。黒い肌で描かれた堕天使の背景としては、なかなかのセンスではないか。右下に描かれた、握ったり開いたりする手も、表情があって面白い。
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アングルからシャセリオーに出された指示も展示されているが、こちらの方は平板な表情になっているので、10代にしてシャセリオーが、師の指示を超えるような想像力に富んだ制作を行っていたことの証明になるのではないだろうか。
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これは「アクタイオンに驚くディアナ」(1840年)。未だ 20歳そこそこだが、世間ではアングルの後継者と目されていたところ、本人は師と袂を別つ決意をし始めていたらしい。そのせいか、この作品はこの年のサロンに落選し、酷評を受けたという。芸術家の歩む道のりは、もちろん本人の意志次第でありながらも、時として運命的な要素に左右される。早熟であったシャセリオーが選んだ道は、歴史的な評価という点では必ずしも最善の策ではなかったのかもしれないが、だがそれゆえに、150年以上を経ても人々に訴える力を持つのかもしれない。この作品を見て私が連想するのは、英国で活躍したスイス人画家、フュースリ (「夢魔」で有名) である。また、右の後ろの方で女性が 2人並んでいるところなど、シュールなまでの不思議な雰囲気である。極めてユニークではないか。
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これも同じ 1840年の「石碑にすがって泣く娘 (思い出)」。後ろの木が、女性の哀しみに同調するように身をよじっている。このタッチは、もうダリに近いとすら言えるようなシュールなものだと思うのは、私だけであろうか。
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彼はその後イタリアへ旅をし、帰国した 1841年、パリのサン・メリ聖堂の礼拝堂の注文を得る。これはその習作、水彩で描かれた「エジプトの聖マリアの生涯」(1841 - 43年)。英国のラファエロ前派を予感させるようなタッチではないか。
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当時ギリシャ神話はポピュラーな題材であったが、シャセリオーは、いわゆる文学性を伴う絵画表現に傾くことで、新古典主義からロマン主義に鞍替えしたとされる。私は以前から、この 2派が、当時区別されたようには明確な差があるとはとても思えず、画家のメンタリティには通底する部分があると思っているのだが、この 1845年に描かれた「アポロンとダフネ」を見ると、ロマン主義を超えてむしろ象徴主義に近づいていると思う。
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それを証明するかのように、展覧会には象徴主義の代表選手であるギュスタヴ・モロー (1826 - 98) の同じ主題の作品が展示されている。これは制作年は不詳とのことだが、モローは、7歳上のシャセリオーから大いなる影響を受けたという。
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シャセリオーの文学趣味のひとつの表れとして、シェイクスピアの「オセロ」の版画の連作が挙げられる。1844年の初版はごく少数しか刷られなかったが、ロマン主義の大家であるドラクロワはそれを所持していたという。これは、「もし私があなたより先に死んだら・・・」。言うまでもなく、デズデモナとその侍女であろう。
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そしてこれは、「気絶したマゼッパを見つけるコサックの娘」(1851年)。マゼッパと言えば、バイロンが詩にしており、また音楽の分野ではリストやチャイコフスキーが題材にしていて、典型的なロマン派のテーマである。主人公マゼッパは、有力者の妻と不倫を犯し、馬の背中に縛り付けられて荒野に放たれるというワイルドな物語である。ここには異国趣味も色濃く出ていて、それもロマン派の典型例なのである。
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さらに、文学的でロマン派的な作品の好例がある。「マクベスと3人の美女」(1855年)。言うまでもなくシェイクスピアに題材を採っている。いわゆる器用な作品という感じはあまりせず、文学に表れた人間的な要素をキャンバスに描き出すことが画家の意図であるように思われる。
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次は「泉のほとりで眠るニンフ」(1850年)。泉と言えば、師のアングルの作品が有名だが、ここで横たわる美女の描き方は、アングルのそれとは全く違う。挑発するようにあけっぴろげになっている脇の下に毛が描かれているという事柄だけでも、師の新古典主義とは大きく異なるシャセリオーの感性が分かろうというものだ。この作品のモデルは、当代一の美女と謳われた女優のアリス・オジーという人らしく、文豪のヴィクトル・ユゴーは彼女に入れ込んで、あろうことか、彼女を巡って息子と争ったという。全くフランス人は・・・(笑)。
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シャセリオーの画業はこのような神話を題材にした作品だけでなく、同時代の人々の肖像画にも見るべきものがある。これは「アレクシ・ド・トクヴィル」(1850年)。由緒ある貴族の家に生まれたこのトクヴィルは、政治家であり法学者であって、シャセリオーと家族ぐるみのつきあいをしていたという。若干神経質なようでいて、だが同時に意志の強そうな表情が印象に残る。
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余談だが、この展覧会の会場には、高山裕二という人が書いた「トクヴィルの憂鬱」という本を売っていて、面白そうなので買ってしまった。トクヴィルを例に取って、19世紀フランスロマン主義の青年論について語った本である。
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肖像画の名品をもう一点。展覧会のポスターにもなっている「カバリュス嬢の肖像」(1848年)。モデルとなったマリー=テレーズ・カバリュスは、名門の家に生まれ、当時のパリで最も美しい女性の一人に数えられたとのこと。当時 23歳。知的でありながら人間味あふれる肖像画ではないか。
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19世紀のフランスの画家にとってはオリエント世界はエキゾチズム溢れる場所であったが、ロマン主義の泰斗であるドラクロワがモロッコ旅行で色彩に目覚めたことはよく知られている。シャセリオーもアルジェリアに滞在して、かの地の光のもとで様々なスケッチを残している。これは「バブーシュ (室内履き) の 6つの習作」(1846年頃)。溢れる好奇心でスケッチしている画家の姿が目に浮かぶ。
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これも同じ頃の「床に座るアルジェのユダヤ人女性」。油彩画よりもなだらかなタッチで描かれた水彩画で、完全に色を塗り切らない点にゆとりが見られて面白い。
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さて、シャセリオーが手掛けた畢生の大作は、1842年に完成した会計検査院の壁画である。このような立派な建物であったらしい。
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シャセリオーが描いたのは総面積 270平米の壁大小 15面で、「戦争」「平和」を中心的テーマとしており、描かれた人物は 230人以上。当時のフランスにおいて、独力で描かれた壁画としては最大のものであったらしい。これが当時描かれた版画。
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だが残念なことに、この壁画は1871年のパリ・コミューンの騒乱 (普仏戦争敗北後に勃発した市民の蜂起) の際に建物ごと焼かれてしまい、今では断片がルーヴル美術館に残るのみらしい。これが焼かれてしまった壁画の様子。
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なんとももったいない話だが、歴史の歯車が大きく動いた時代。貴重な絵画の犠牲もやむないことであったのかもしれない。この展覧会では、スケッチや古い写真でその壁画を偲ぶことができる。これは「母親と老人の間に立つ『平和』」と、「戦支度を調えさせる『秩序』」。
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これは、焼かれた後に撮られた写真で、「力と秩序」。
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フランス 19世紀の壁画と言えば、もちろんピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ (1824 - 1898) が有名で、私も 2年前にパリの記事を書いた際に言及したが、そのピュヴィス・ド・シャヴァンヌは、5歳上のシャセリオーから大きな影響を受けたという。上記の通りの、モローへの影響と並んでピュヴィス・ド・シャヴァンヌへの影響こそが、シャセリオーの短い人生の軌跡を永遠のものにしているのではないだろうか。展覧会にはまた、彼が晩年に手掛けた、パリのサン = ロック教会というところの壁画の習作も展示されている。これは「インド人に洗礼を施す聖ザビエル」(1852 - 53年)。初期から変わらぬ鮮やかな青が印象的だ。
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そしてシャセリオーは、1856年、37歳の若さで亡くなってしまう。展覧会の図録を見ても、その死因については「正確な病名は知られていない」とある。もともと虚弱な体質であったらしい。死後の見舞客の署名には、モローやピュヴィス・ド・シャヴァンヌも含まれているという。いかなる天才も死は免れないが、150年以上経ってから、このように遠い日本の地で展覧会が開かれていることを知ると、本人もさぞや驚くであろう。短い人生でスタイルを変えて自己の芸術を探求したその姿から、時代の雰囲気を色濃く感じることができて、大変興味深い展覧会であった。

by yokohama7474 | 2017-04-22 01:31 | 美術・旅行 | Comments(4)

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河鍋 暁斎 (かわなべ きょうさい 1831 - 1889) については、このブログでも何度か言及してきたし、特に、2015年 8月 2日付の記事では、三菱一号館美術館で開かれた彼の展覧会を採り上げた。暁斎は幕末から明治にかけて活躍した絵師で、その流れるがごとき筆さばきで貪欲なまでに展開した制作活動は、実に自由闊達で迫力満点。どの作品を見ても飽きることがない。浮世絵と狩野派を習得し、時に西洋画の技法も取り入れるという、大変なエネルギーの持ち主であったようだ。その暁斎の展覧会が開かれてえいるのを知ったとき、「まぁ暁斎はもうよく知っているからな」と不遜にも思ってしまった私なのであるが、実際に足を運んでみてびっくり。この展覧会で展示されているのはすべて、英国人コレクター、イスラエル・ゴールドマンの所蔵になるもので、初公開の作品を多く含んでいるという。展覧会の副題に「世界が認めたその画力」とあるのはその意味であって、海外からの里帰り展覧会なのである。但し、正直なところ、私はこの「世界の」という形容詞が嫌いなのであって、その理由は、日本のものがもともと世界水準に劣っている、あるいは劣っていなくても充分に知られていないということが前提になっていて、いじけた島国根性 (?) を思わせるからである。これに対して、当のコレクター、ゴールドマン氏の発言に注目してみよう。彼は 2002年にやはり自身の暁斎コレクションを日本で展示した際に、「なぜ暁斎を集めるのですか?」と訊かれて、「暁斎は楽しいからですよ!」と答えたという。そうなのだ、画力が世界に認められたか否かは関係ない。暁斎は楽しい。その極めてシンプルな理由だけで、蒐集するにも鑑賞するにも、充分な理由になるではないか。文化を楽しむとは、そういうことなのだと私は思うのである。

ゴールドマン氏が暁斎作品の蒐集に目覚めるきっかけとなった作品が最初に展示されている。「象とたぬき」(1871年以前)。
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小さなタヌキに鼻を差し伸べる象のユーモラスな姿を、ささっと描いたもの。ゴールドマン氏は 35年ほど前、この作品をオークションで入手したが、翌日別のコレクターに譲ってしまい、それを後悔して、その後何年も懇願してまた買い戻したという。現在では彼の自宅の寝室に飾られているという。この象には紐がつけられていることから、1863年に行われた象の見世物興行の際にスケッチされたものと推測されているらしい。舶来の大きな動物と、土着の小さな動物の出会い。

実際、暁斎はなんでもできた人であるのだが、やはりこのような動物の姿をユーモラスに描いた作品が楽しい。これは「鯰の船に乗る猫」(1871 - 79年)。この髭のはえた鯰は、明治政府の役人を揶揄しているのだとか。
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同じ一連の作品から、「カマキリを捉える子犬」。ここにはあまり風刺的な毒は感じられず、ただ子犬の可愛らしい仕草が活写されているのであるが、ただ、やっていることには残虐性もあって、ただ可愛いだけではない点、やはり暁斎の個性であろう。
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暁斎はまた、鴉を多く描いた。絵師としての日々の習練の象徴であったらしく、海外にも多く輸出された。フランスの作家エドモン・ド・ゴンクールは、パリの町を自転車で走る人の姿を、「暁斎の掛物にある、飛び行く鴉のシルエット」のようだと評したとのこと。うーん、詩的な表現だ。以下、「枯木に鴉」と「柿の枝に鴉」。
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これは「月下猛虎図」。墨だけで描かれた白黒の中、目だけが黄色くて不気味である。芦雪の飄々とした味わいの虎とは違って、文明開化を経た時代のリアルな怖さを持っていると言えるのではないか。
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これは、「虎を送り出す兎」(1878 - 79年)。明らかに「鳥獣戯画」のスタイルを模したものであろう。暁斎の腕なら鳥羽僧正 (が「鳥獣戯画」の作者なら) に、決して負けてはいない。
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ユーモラスなだけではない暁斎の動物絵画は、このような面白い作品も含む。「月に手を伸ばす足長手長、手長猿と手長海老」。足の長い老人が手の長い老人を肩車しその先に手長猿が、またその先に手長海老がいて、月を取ろうとしているようである。かたちの面白さだけで、見ていて飽きない。まるでジャコメッティの彫刻のようではないか (笑)。
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このような暁斎の奇想の数々は、暁斎漫画なる出版物 (1881) における数々の図版にも存分に表れている。北斎漫画に匹敵するほど、多彩で勢いがあるのではないか。
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これは、「天竺渡来大評判 象の戯遊 (たわむれ)」(1863年)。この記事の最初に掲げた墨絵について述べた通り、この年に江戸の両国橋西詰で象の見世物興行があり、それを題材にしたもの。同様の図が何枚もあるが、本当にこれだけ多様な芸を象にさせたのであろうか。幕末の異様なエネルギーを思わせて、圧倒的だ。
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この作品など、ヨーロッパ人はどのように見るのであろうか。「五聖奏楽図」。五聖とは、磔になりながらも扇子と鈴を持っているキリストに加え、それぞれ楽器を持ったり手拍子と歌で盛り立てる、釈迦、孔子、老子、神武天皇。明治政府によるキリスト教の解禁は 1873年。この絵はその頃の様子を表したものであろうか。破天荒な発想だが、やはり「楽しい!」という感想を誰もが持つであろう。
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暁斎はまた、明治に入る頃から亡くなるまでほぼ毎日、絵日記を書いていたらしい。ただ彼はそれを手元に残さず、欲しがる人に譲ったため (ほ、欲しい!!・・・)、散逸してしまっているとのこと。ゴールドマン・コレクションには、あの有名な英国人建築家、ジョサイア・コンドル (最近ではコンダーとも。1852 - 1920) が暁斎に弟子入りして修業している頃のことが書かれているとのこと。このような落書き同然のものであるが、いかにも暁斎らしくて、やはりなんとも楽しい。現代でも、例えば山口晃のように抜群の技量を持つ画家が似たようなことをしているのが嬉しい。
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これは版画で、「蒙古賊船退治之図」(1863年)。以前も「ダブルインパクト」という興味深い展覧会についての記事でご紹介したことがある。元寇の際に、迎え撃つ日本側が、何やら爆発物で元軍を撃退している場面。この誇張された爆発の様子や大荒れの海に、やはり幕末の鬱積したエネルギーを感じることができる。
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これも暁斎らしい「鍾馗と鬼」(1882年)。よく見ると、振り上げた右手は少し小さいように見えるが、不思議と全体のバランスは大変よい。また、鬼のユーモラスなことも暁斎の持ち味だろう。
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暁斎の描いた魑魅魍魎たちの中に、幽霊も含まれる。このブログでは以前、幽霊画の展覧会もご紹介しているが、私にとっては、格調高い芸術的な絵と同等に、幽霊画はや妖怪画は強い興味のある分野であり、その分野における暁斎の存在感は揺るぎない。これは「幽霊に腰を抜かす男」。幽霊の姿は、そのゴワゴワの髪と、うっすらとした後ろ姿の輪郭だけで表されており、素晴らしい表現だと思う。これはもしかして、リアルな幽霊というものではなく、腰を抜かしている男の内面の恐怖心がかたちを持って現れているだけかもしれない。
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だがこちらの方は、リアルこの上ない幽霊だ。「幽霊図」(1868 - 70年)。おぉ、怖い。その痩せ方やほつれ毛、恨めしそうな目など、どれも本当に怖いが、右半分に行灯の光が当たって白く浮かび上がっているところがなおさら怖い。光が当たるということは、何らかの物質がそこに存在しているということであるからだ。物質的な存在であれば、何か危害を加えるかもしれないという、人間の根源的な恐怖に呼びかける。
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これは、展覧会のポスターにもなっている「地獄太夫と一休」。室町時代の遊女である地獄太夫が、一休の教えを受けて悟りを開いたという伝説をテーマにしたもの。太夫の着物は非常に手の込んだ描き方になっており、彼女の左横にいる三味線を弾く骸骨と、その頭の上で踊る一休、それに加えて踊り狂う多くの小骸骨たち。なんと不気味で謎めいて、でも楽しい、暁斎流であることか。
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これは、多くの妖怪たちが跋扈する「百鬼夜行図屏風」。暁斎にしては丁寧に描いている方だろう (笑)。明治期は大きな価値観の転換期であり、人々の間に戸惑いや不安もあったに違いなく、異形の存在である妖怪たちに、リアリティがあったのではないか。だがここでも、暁斎の描く妖怪たちは楽しそうで、決して怖くだけではない。その意味では、上で見た幽霊画とは少し性質を異にする。
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なんでもできてしまう暁斎は、仏教的な題材も扱っている。これは「龍頭観音」(1886年)。観音の衣の描き方などはさすがだが、どうしても龍の存在感に目が行ってしまうのは私だけか。
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このように、個人のコレクションとは信じられないほど多彩で質の高い作品群で、どんな人でも楽しめること請け合いだ。実はこの展覧会には、世界初公開となる暁斎の春画の数々も展示されていて興味深い。ネット上で春画の画像を公開するのは教育上よろしくないし (笑)、私自身は春画の芸術性自体にそれほど確信が持てずにいるので、ここでご紹介はしないが、ひとつ言えることは、暁斎の春画はどれも非常にユーモラスで、思わずくすっと笑ってしまう。それは、露わな人間性の発露がそこにあるから、ということは言えると思う。その一方、今回改めて気付いたことには、これだけの画家にして、未だ重要文化財指定の暁斎作品がないということだ (私の認識違いでなければ)。上の作品群にも制作年が定かでないものが多く、画鬼という異名を取っただけあり、まさに日々生きることすなわち描くこと、という人であっただけに、絶対的な代表作が少ないということだろうか。例えば上記の「地獄太夫と一休」など、もし日本にあれば重文指定後補になってもおかしくないように思うが、在外作品であるので、そうはならないわけである。暁斎については恐らくこれからますます再発見が進むと思われ、その楽しさを多くの人たちが味わえるよう (「世界が認めた画力」という押しつけ型の認識ではなく、人々が本当に楽しめるよう)、いずれかの作品の重文指定を待ちたいと思う。
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by yokohama7474 | 2017-04-08 12:57 | 美術・旅行 | Comments(0)

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私は昭和 40年 (1965年) 生まれなので、日本の高度成長期の末期に少しかかる世代であり、たまたま幼少期に住んでいたのが大阪の北部であったため、幸いなことに、大阪万博には何度か足を運ぶことができた。当時弱冠 5歳ながら、その記憶は極めて鮮烈で、万博こそが自らの社会との関わりの原点であると認識している人間である。そんな私にとって、1970年代の日本のパロディ文化を扱ったこの展覧会は、実に興味深いもの。まず、展覧会に出向く前に、上記ポスターと同じ表紙をあしらった、雑誌「東京人」の特集号を読んで行った。特集名は、「これはパロディではない」・・・むむむ、なんと逆説的な。
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この「東京人」の特集では、横尾忠則 (1936 - ) のインタビューと赤瀬川原平 (1937 - 2014) についての記事が中心的であるが、この展覧会に実際に足を運んでみると、やはりこの 2人の活動紹介が、かなり重要な部分を占めている。会場では一部の作品を除いて写真撮影可能であるが、例によって私は携帯もすべてロッカーに預けてしまい、会場で写真を撮ることはできなかったので、いつものように図録から撮影した写真を中心に、この展覧会を振り返ってみたい。

まず 21世紀も 1/5 近く経過した現在の視点から、1970年代をいかに位置づけられるかを考えてみよう。テレビはあったが (白黒からカラーに移行)、携帯も WiFi も LINE も YouTube もなく、冷戦は未だ厳然として世界の規範を成しており、オイルショックが起こり、公害の被害が深刻であった時代。昭和も半ばを過ぎ、日本は高度経済成長から安定成長に移行。人々はそれぞれに充実感を味わいながら、未来を信じて頑張って生きていた頃 (もちろん個人差は多々あれども) と言えるのではないか。それゆえに、アートの面においても、社会への深刻な抵抗よりも、多かれ少なかれ遊び心をもった行動がメインになったのであろう。サブカルチャーという言葉が当時あったか否か分からないが、流行を追う若者たちは時として、社会の中で支配的な発想から外れ、奇抜なものを面白いと思う感性を持ったわけで、その感性を反映したのが、様々なパロディの登場であったと言えるだろう。この展覧会は、今で言えばサブカルチャーとまとめることができるようなアートやメディアの活動による時代の諸相を、数多くの作品や資料によって立体的に浮き彫りにしている。最初の方には 1960年代の作品が並んでいるが、これはどうだろう。
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Hi-Red Center による「第 5次ミキサー計画」のポスター (1963年、未完) である。ハイレッドセンターとは、高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之の 3人による、ハプニング系の活動を行うグループで、その名称は 3人の苗字の最初の一文字を英語に置き換えたものである。私はそれぞれのアーティストに思い入れがあるので、この 3人が元気に街中で暴れていた (?) 時代を目撃したかったなぁと強く思うのであるが、だがそれは叶わぬこと。せめてこのような、時代の雰囲気をたたえた遺品に、当時の活気を偲ぶのみである。ちなみにこのポスターでは、高松の紐、赤瀬川の紙幣、中西の洗濯バサミがトレードマークとして使われているが、中でも赤瀬川の紙幣、これは有名な千円札裁判 (1963 - 70年) から明らかなように、社会が価値があると信じているものへの抵抗、あるいは揶揄といった姿勢を示している。これぞまさにパロディ精神!! 千円札裁判とは、赤瀬川が千円札をモチーフに作品を発表したところ、それが有価証券偽造の罪に問われたという事件。冗談のような大真面目な事件で、昭和のアート史では有名だ。以下の作品、「大日本零円札」(1967年) はその裁判の過程で制作されている。千円札を使うと問題あるなら、零円札なら実在しないものだから描いてもよいだろうという、この開き直りはすごい。国家権力にしてみれば、いかにも可愛くない態度としか言いようがない。
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赤瀬川のこの反骨精神にはお手本がある。それはジャーナリストの宮武外骨 (1867 - 1955) だ。「滑稽新聞」等で国家権力を批判したため、度々投獄されている。赤瀬川はあるとき古書店でこの宮武の出版物を見つけて以来、彼に心酔するようになったという。1971年にはこのような宮武の写真を使った作品、「宮武外骨肖像と馬オジサンと泰平小僧」を制作している。
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吉村益信 (ますのぶ、1932 - 2011) は、60年代の日本のネオ・ダダ運動の提唱者であるが、赤瀬川に、自らが進学していた武蔵野美術大学を勧めたのは彼であったらしい。今回調べていて初めて知ったことには、この吉村のアトリエこそ、私が 2015年 7月21日の記事で写真をご紹介した、磯崎新設計の「新宿ホワイトハウス」なのだ!! 日本のアートが元気な頃へのノスタルジーを覚える。この展覧会には、その吉村の代表作「豚 ; Pig Lib」(1994年作と、制作年はちょっと反則? だが) が展示されている。意味をあれこれ考える前に、このシュールな雰囲気を楽しみたい。
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それから、やはりネオダダの中心人物のひとりであった篠原有司男 (うしお) の作品を経て、横尾忠則のコーナーがある。冒頭に掲げた白黒のポスターは彼の 1964年の作品で、「TOP で POP を!」と題されている。もちろん、ここでパロディのネタにされているのは、名デザイナーであり師でもあった亀倉雄策のこのポスター。
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もちろん、1964年の東京オリンピックのポスターであるが、横尾はランナーたちを、手前からピカソ、ルオー、ビュフェ、リキテンスタイン、スーラの画風で描いた。トップを切るのはポップアートを代表するリキテンシュタインの画風のランナーである。芸術におけるオリジナリティ信奉を皮肉ったものらしい。いかにも横尾らしい作品である。また、やはり横尾の手による名画のパロディが並んでいるので、ひとつご紹介すると、1967年の「アンリ・ルソー 『眠るジプシー』より」。
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ルソーの原画はこちら。つまり横尾は、砂漠のライオンがジプシー女を食べてしまったという設定に変えているのである。
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これは、鈴木慶則 (よしのり、1936 - 2010) の「非在のタブロー (マグリットによる)」(1967年)。
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シュールを代表する有名なマグリットの「大いなる戦い」という作品を半分描いて、残りの半分はキャンバスの裏側になっている。実はこのキャンバスの裏側も、画家が描いたもの。いかに神秘的なマグリットの作品も、絵画である以上は物質なのだというアンチテーゼなのであろうか。次は、漫画家でありイラストレーターであった立石紘一 (1941 - 98) の、「大農村」という 1966年の作品。
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上部の肖像画が毛沢東であり、どうやら核兵器を題材にした内容であることは誰でも分かるが、下の方にいるサングラスの男は誰だろう。タモリのようにも見えるが、制昨年を考えるとそれはあり得ない。実はこれ、以下の米国の雑誌の表紙のパロディなのである。
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その名も「MAD」という雑誌。1952年発刊で、今でも継続しているらしいが、死や性など、通常はタブーとされるネタを扱うブラックな露悪的雑誌とのこと。進駐軍払下げのこの雑誌が神田で売られているのを、この立石や、あとで登場するマッド・アマノが購入して影響を受けたらしい (因みにマッド・アマノのマッドは、この雑誌に因む名前であるとのこと)。尚、上に掲げた号は 1961年 1月号で、右にニクソン、左にケネディの顔が (こちらは逆さまで) 描かれている。調べてみると、民主党候補ケネディ vs 民主党候補ニクソンが争ったのは 1960年の大統領選。この選挙については Wiki もあって大変興味深い。もちろんケネディが勝つのだが、極めて僅差、しかも、今では歴史家の間で、マフィア絡みの選挙違反がケネディの勝利を助けたとされているらしい。このブラックな雑誌では、この選挙をどのように扱っていたのだろうか。この装丁はすなわち、投票・開票前に雑誌が出版され、勝った方を表紙にして読んでねということなのかも。

これは岡本信治郎 (1933 - ) の「星月夜」(1969年)。もちろんゴッホの名作のパロディである。
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あのゴッホの深くて重苦しい精神世界を、かるーく変貌させていて、可笑しい。もちろんゴッホは素晴らしいが、このような作品によって一度距離を置くことで、より一層ゴッホの偉大さが分かるというものではないか。

さて、実はこの展覧会、1970年代をテーマとしながら、上で見て来たのは、ほとんど 1960年代の作品ばかり。時代には流れというものがあるので、それを辿ることにこそ意味がある。教条的に 1970年代に固執しない点、一見識であると思う。そして次は、1970年の作、木村恒久 (1928 - 2008) の代表的なフォトモンタージュ、「焦土作戦」である。降り注ぐコカコーラの瓶は、戦後日本の急速なアメリカ化を揶揄しているのであろうか。
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同じ木村の、これは「都市はさわやかな朝をむかえる」(1975年)。ニューヨークとナイアガラの滝のミックスは、一度見たら忘れない。私も、多分中学生の頃にこの作品を見て、ずっと頭の中に残像が残っている口だ。パロディの無条件の楽しさを感じる。
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展覧会には増殖するメディアのパロディについての展示が数多くあり、ビックリハウスなど、様々な雑誌が並んでいる。ありましたありました、この雑誌。
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だが、特筆すべき面白さを感じたのはこれだ。
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これは、ぷろだくしょん我 S という前衛アーティスト集団による、「週刊週刊誌」という雑誌。1971年 5月12日号から 10月20日号まで、名古屋で実際に販売された。実はこれ、表紙以外すべて白紙の週刊誌なのである!! こんな宣伝がされたという。
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これはいわばハプニングと呼ばれる芸術行為の一例と言え、実に人を食った行為であるが (笑)、口コミで後半は毎号数百部の売り上げがあったという。・・・うーん、私なら買わないけどなぁ。遊び心を持った人たちが、当時の名古屋には多かったということか。

会場にはまた、様々なパロディ漫画の類もあって面白い。恥ずかしながら私は知らなかったのだが、長谷 (ながたに) 邦夫 (1937 - ) という漫画家は、このパロディ漫画の大家であったようだ。この 1969年の「ゲゲゲの星」は、その名の通り、ゲゲゲの鬼太郎と巨人の星の ミックス。驚くべし、双方の超人気マンガの同時代パロディなのである (笑)。子供の頃に読んだ漫画雑誌のページの端にはよく、「○○先生にお便りを出そう!」などと書いてあったが、このマンガの場合、「長谷邦夫先生をけなすお便りをだしてやろう!! あて先は東京都新宿区・・・」と、実際のプロダクションの住所が書いてある。すごい時代である。
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そして、こちらの方は私の守備範囲内なのだが、1968年に発表された、つげ義春の伝説的代表作「ねじ式」(いわゆる芸術漫画というのだろか、内容はかなり退廃的かつ夢幻的) のパロディ。まずは同じ長谷邦夫による「バカ式」。おなじみのバカボンのパパが出て来るが、この長谷は、赤塚不二夫のブレインであったらしい。このバカさ加減、実に楽しい。もう長らく私の書庫に収まっている、ハードカバーの筑摩書房版つげ義春全集全 8巻を引っ張り出してきて、オリジナルの「ねじ式」から、パロディのもととなった場面の写真を撮影したので、比較されたい。
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この「ねじ式」は短い漫画なので、パロディにしやすいのだろう。赤瀬川原平によるパロディ、「おざ式」(1973年) も展示されているので、その中のワンシーンと、そのオリジナルを掲載しておく。
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ここで口直しに (笑)、著名なイラストレーター、久里洋二 (1928 - ) による「ピカソ模写」(1980年) をご紹介しよう。ピカソの青の時代の代表作、「自画像」を、青ではなく赤で彩ったもの。さすがのセンスであると思う。
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次に、記憶にある懐かしいポスターを発見。いずれも 1976年の営団地下鉄のポスターで、「帰らざる傘」と「独占者」。説明不要の映画スターの肖像を使った (そうでなければ成り立たない)、大変よくできたもの。デザインしたのは河北秀也 (1947 - )。
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最後に、赤瀬川の千円札裁判とはまた異なる点で、パロディの本質を考えさせられる裁判になった有名な例をご紹介する。上で一度名前の出て来たグラフィックデザイナー、マッド・アマノ (1939 - ) によるこの作品。「週刊現代」に掲載され、1970年に「SOS」という単行本に掲載された。
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ところがこれは、著名な山岳写真家、白川義員 (よしかず、1935 - ) が撮影した写真がもとになっている。米国保険会社 AIU の 1970年のカレンダーに掲載された写真がこれだ。確かに、アマノ作品がこれに手を加えたものであることは、比べてみれば明白だ。裁判になったのも理解できる。
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この裁判は「パロディ裁判」と呼ばれ、足掛け 16年に及んだが、アマノ側の敗訴に終わったらしい。表現の自由とは何かという点において、考えるべき点が多々ある事例となったのである。

このように、1970年代の前後左右のパロディ文化を振り返ってみると、様々な文化の様相を見ることができる。人生において笑いは欠かせない要素。ここで展示された数々の作品や作家の姿勢から、そのことを学ぶことができるだろう。アートやサブカルチャーは時代を映す鏡でありながら、時を経た今となっても、あれこれ考えさせる要素があるのは、笑い自体の不変の価値によるものであろうと考える。そうしてこの展覧会は、私としても、人生の途次を折々に彩るべきギャグのセンスを磨かねば、と再認識する (?) よい機会となったのである。

by yokohama7474 | 2017-04-04 00:00 | 美術・旅行 | Comments(0)

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このブログで展覧会を採り上げるときには、なるべく開催期間中にとはいつも思っているのであるが、どうしてもそれを果たせないことがある。今回もしかりで、こともあろうに、今これを書いているのは、この展覧会の最終日の、しかも閉館後何時間も経った時間帯。加えてこの展覧会、東京での開催だけで、地方巡回はない。ということは、私がこの記事を書いてこれは素晴らしいと主張しても、誰もこの展覧会を今後見ることはできないわけで、なんともひどい話になってしまうのである。これはこのブログで何度も繰り返してきた悲劇 (?) なのであるが、せめて私はここで、東京で開かれたこの展覧会の意義と限界を、後世に語り伝えるつもりでこれからの記事をまとめることとしよう。

題名で明らかな通り、これはティツィアーノをはじめとするヴェネツィア・ルネサンスに関する展覧会。昨年 11月 3日の記事でも、国立新美術館で開かれた「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」という展覧会をご紹介したが、それを補完するような位置づけと思うと興味深い。日本においてはルネサンスはそのままフィレンツェの絵画運動かのように思われているかもしれないが、もちろん、当時のイタリアは数々の都市国家からなっており、東方貿易で富を築いたヴェネツィアは、その富にふさわしいだけの文化をその地で築いたのである。当然にして絵画の分野でも天才が現れた。私は 20年ほど前にこの街を一度訪れたきりで、長らくご無沙汰してしまっているが、中学生のときから、聖マルコ寺院を見るまで死なないぞと誓っていたほどの憧れの地であり、幸いなことにその人生の目標が 30代で達成できた時には、痛く感動したものである (笑)。その際、現地を訪れる前にヴェネツィア派についても一通りの勉強をして行ったものであるが、それが今でも私のヴェネツィア・ルネサンスの知識のもとになっている。それによると、代表的な画家はもちろんティツィアーノと、それに続くティントレット、そしてヴェロネーゼであるが、それに先立って、ヤコポやジョヴァンニらのベッリーニ家、そしてあの神秘的な「テンペスタ」を描いたジョルジョーネがいたことが重要なのである。その観点からこの展覧会を見てみると、もちろんポスターになっている「フローラ」等のティツィアーノの優品はいくつかあるものの、それ以外に瞠目すべき作品というものは、実はそれほど多くない。とはいえ、当然のことながら、16世紀のイタリア絵画をそう沢山一度に日本に集めることを期待するのは、そもそも筋違いというもの。それゆえ、フィレンツェとは一味も二味も異なるヴェネツィアならではの絵画の在り方を、限られた材料から考える機会としては貴重なものになったということで、納得すべきなのであろう。

会場はかなりの混雑かと思って出向いたところ、予想外のガラガラぶりで、そのあたりにも、ヴェネツィア派の日本での人気が決して高くないことが伺えた。音楽好きの私としては、ヴェネツィアと言えば、ワーグナーが亡くなった場所であり、またストラヴィンスキーが埋葬されている場所であることから、死のイメージが強い。もちろん、シェークスピアの「ヴェニスの商人」の街であり、トーマス・マン / ルキノ・ヴィスコンティ / ベンジャミン・ブリテンの「ヴェニスに死す」の街であり、また、ヴェルディのオペラでも (特に調べることなく思いつくまま列挙するだけでも)、「2人のフォスカリ」と「オテロ」の舞台になっている街。つまりは、とても明るく楽しい街ではなく、退廃と策略と陰謀の街であるということだ。そこには統領 (ドーチェ) がおり、その人はまず、怜悧で狡猾な奴と相場が決まっているのだ (笑)。試しに、この展覧会に出展されていラッザロ・バスティアーニ (1449 から記録 - 1512) の「統領フランチェスコ・フォスカリの肖像」(1460年頃) を見てみよう。
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フィレンツェでもルネサンス時代には人物を真横から描いた作品が多く存在するが、このような冷たい老年の男性を描いたものが、どのくらいあるだろうか。しかもこの人物、まさにヴェルディの「2人のフォスカリ」の主人公で、あり、そのヴェルディのオペラの原作を書いたのは、あのバイロンだ。そのような芸術家たちをひきつけるような、何か力強く耽美的な要素を、この統領の生涯が持っていたということであろうか。この衣服の描き方も素晴らしく、まさにヴェネツィアで生まれた芸術の一典型ということになるのではないか。次に、バルトロメオ・ヴィヴァリーニ (1430 頃 - 1491 以降) の「聖母子」(1465年頃) を見てみよう。
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とてもルネサンス時代の絵画とは思えない、古風なイコン風の作品。ヴェネツィアが東方との貿易で栄えた街であることまでを思わせる、独特な静謐さをたたえた作品である。だが反面、フィレンツェで花開いた人間賛歌的な側面は、ここではあまり感じられない。そしていよいよ、ヴェネツィア派を築いたベッリーニ兄弟の一人、ジョヴァンニ・ベッリーニ (1435頃 - 1516) の「聖母子」(1470年頃) が登場する。もとの所有者の名に因んで、フリッツォーニの聖母と呼ばれているらしい。人物は彫塑的で、その動きはここでも制限的で生硬であるが、その澄んだ青空が美しく、シュールですらある。
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だがその後しばらくは、会場に並んでいる作品群は私の心をあまりとらえない。技術的にそれほど見るものがあるとは思えない。だが、この作品の前で、はたと足を止めることになった。
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これこそ、あの大画家ティツィアーノ・ヴェッチェリオ (1488/90 - 1576) の若い頃の作品、「復活のキリスト」(1510 - 12 年頃) なのである。なるほど、20代前半ということになるが、この展覧会でほかに並んでいる画家たちの作品に比べて、キリストの身体に宿る存在感は紛れもなく非凡なものだ。顔が小さく描かれているのは、下から見上げられることを想定してのものであろうか。ここでも空の青さが、何やら現実を超えた世界に見る者を運んで行くような気がする。そしてしばらく進むと、この展覧会の目玉、やはりティツィアーノの「フローラ」(1515年頃) に辿り着く。
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NHK の日曜美術館でも特集を組んでいたが、この作品はフィレンツェのウフィツィ美術館の所蔵で、長らく美の規範のひとつとみなされてきた。確かにその肌の色の生々しさや、金髪の流れるさま、また白とピンクの衣服の陰影など、見れば見るほど美しい。フローラは花の女神であり、その右手につかんだ花からは、芳香が漂ってくるようですらある。このティントレットの若い頃の 2作には、天才ならではの輝きが見られ、彼がその後の長い画家人生で追求して行く美学の萌芽が見られるとともに、若い頃ならではのまっすぐな感性も感じることができて興味深い。この作品を見るだけでも、この展覧会の意義は大きかったと言えるだろう。しかも、繰り返しになるが、会場はガラガラで、東京の美術ファンたちは、大変もったいないことをしたようにも思う。

次に私の目に留まったのは、ベルナルディーノ・リチーニオ (1485/89 頃 - 1550 頃) の「騎士の肖像」(1520 - 23年作)。
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まるで近世イタリアを舞台にした映画に出てくるような、若々しくありながら、髭によって威厳も備えている、しかしまたどこか寂し気な、なんとも複雑な要素を持つ騎士の姿ではないか。作者は肖像画を中心に手掛けた画家であるらしい。ヴェネツィアでは統領の肖像は数多くあり、あとで見る通り、中心画家ティツィアーノの活躍の場のひとつもそこにあったが、統領以外にも描かれた人たちがいて、ティツィアーノ以外にも高い技術を持った画家がいたことを認識するのである。だがこの影のある表情にまた、ヴェネツィアならではの憂鬱さを感じてもよいように思う。

そしてまた、あまり記憶に残らないいくつかの作品の前を通り過ぎると、そこにはティツィアーノのもうひとつの傑作、ナポリのカポディモンテ美術館の所蔵になる「ダナエ」(1544 - 46年頃) がある。上記の「フローラ」から実に 30年ほどを経た時代の作品である。
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金の雨に姿を変えたゼウスが、ダナエとの交合を果たすというエロティックな場面であるが、金の雲から降り注いでいるのは、雨ではなく、なんと金貨なのである!! それゆえこのダナエは高級娼婦を表すという説もあるらしい。この頃のティツィアーノは既に当代一流の画家として押しも押されぬ地位を築いており、代表作「ウルビーノのヴィーナス」も描いている。当時はヌードを描く口実としてギリシャ神話が題材にされたとはよく耳にする話であるが、ローマ教皇庁でもそのような嗜好を持つ人々は多くいたのであろう。既にドイツでは宗教改革は始まっていたが、教皇庁のお膝元であるイタリアでは、未だこのようなエロティックな作品が描かれていたことは興味深い (いや、以前見たように、宗教改革のドイツでも、クラナッハの裸体画がひそかな人気であったことを思い出すと、これは国を超えた人間の共通性であるのか 笑)。ある意味では、成熟した時代のあだ花であり、自らの画家としての技術をひたすら磨いて行ったティツィアーノにとっては、ただ美麗ではない、世俗性を持った美を描くことに、保身上も芸術上も、意義を見出していたということであろうか。

ギリシャ神話に題材を採ったヌードをもうひとつ。ティツィアーノに続く世代のやはり天才画家、ヤコポ・ティントレット (1519 - 1594) である。「レダと白鳥」(1551 - 53年)。未だに若い頃の作品であるだけに、後年のうねり上がるような迫力はないが、ヴェネツィアという怪しい土地柄の個性は、既に充分に表れていると思う。
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上述の通りティツィアーノはまた、多くの肖像画を残したが、この「教皇パウルス 3世の肖像」(1543年) は、紛れもない傑作だと思う。この肖像画は、神聖ローマ皇帝カール 5世 (言わずとしれた、ハプスブルク家絶頂期の皇帝) との面会に先立って描かれたという。絵の中の含意について諸説あるようだが、興味深いのは、このようなヨーロッパにおける教会と世俗のトップが面会する場面に、この画家が関わっているということだ。ここに見るティツィアーノの人間観察眼には恐ろしいものすらあるように思う。
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これはやはりティツィアーノの「マグダラのマリア」(1567年)。70代後半、既に晩年に差し掛かった時期の作である。工房で作成したのかもしれないが、年齢を感じさせない肉体の生々しさと、背景の空の青さはどうだろう。
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そしてこれは、ティントレットの「ディアナとエンディミオン (またはウェヌスとアドニス)」(1543 - 44年)。この制作年代が正しければ、上記の「レダと白鳥」よりもさらに若い頃の作品である。ただ実は、そうではなくて晩年の作とする説もあるようだ。そもそも、題材も定かではないとは、未だ研究が充分進んでいないということだろうか。ともあれ、その謎めいた毒々しさは、紛れもないティントレットの個性であると言ってもよいと思う。
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本展では、工房作を含むパオロ・ヴェロネーゼ (1528 - 1588) の作品が何点か展示されているが、これは本人作とされる「聖家族と聖バルバラ、幼い洗礼者ヨハネ」(1565年頃)。これはまた、いかにもヴェロゼーネらしい、穏やかで、微光を放つような気品をたたえた素晴らしい作品ではないか。
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その他、版画も展示されていて、全出展作品は約 70点。ここでご紹介したのはその中でも優品ばかりであり、とても優品と言えない作品も正直多かったが、それでもヴェネツィア・ルネサンス独特の個性が随所に感じられる、充実した展覧会であった。かくして私のヴェネツィア再訪への思いは、日に日に強くなるのであった。フェニーチェ劇場でオペラ鑑賞したこともないし・・・。
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by yokohama7474 | 2017-04-02 23:39 | 美術・旅行 | Comments(0)

先の記事でご紹介した、池田満寿夫と佐藤陽子の「創作の家」から我々が向かったのは、伊豆山神社。タクシーの運転手さんに、「イズヤマ神社までお願いします」と言うと、「はい、イズサン神社ですね」との返事。そうなのだ、「伊豆山」は「イズサン」と読むのである。この神社が位置している山の名前であり、これが伊豆の名前の由来なのだそうだ。私がここに行きたいと思ったのは、上古の昔に遡るというその古い歴史もさることながら、神社に併設された伊豆山郷土資料館に、面白そうな文化財がありそうな気がなんとなくしたからである。実際その勘はバッチリ当たったのであるが、その前に、この神社に辿り着いた際に運転手さんが説明してくれるには、「あれが小泉今日子が寄進した鳥居です」とのこと。小泉今日子ってあのキョンキョンかい、と思ったらその通りで、なんでも、この神社の宮司さんの嫁? がキョンキョンの友人であるとか。鳥居の裏にはしっかりと、「平成 22年 4月15日 奉納 小泉今日子」と書いてある。
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ここ熱海の地は、日本でも珍しい横穴式源泉を持ち、山中から湧き出した温泉が海岸に走り落ちる様子から、「走湯」と呼ばれており、そもそも熱海という名は、その走り落ちる温泉によって海が熱くなるということが語源になっているらしい。ここ伊豆山神社は、その走湯を神格化したもので、古くは伊豆権現とも走湯権現と呼ばれて信仰を集めていたとのこと。その格式は非常に高く、関八州総鎮守という位置づけであり、昭和天皇や現在の皇太子も訪れたことがあるとのこと。興味深いのは、この神社には等身大をはるかに超える平安時代の男神像が伝わっていること。日本最大の神像彫刻であり、重要文化財に指定されている。通常は本殿に安置されていて絶対拝観は叶わないが、昨年、奈良国立博物館で開かれた「伊豆山神社の歴史と美術」展には出品されたとのこと。ここで私は自己嫌悪に陥る。そんなに貴重な彫刻が展示されていたのに、私は全く愚かで、当時この伊豆山神社も知らなければ、展覧会の開催自体も知らず、その貴重な機会を逃してしまったのである。実に惜しいことをした。これが、私が一生見ることが叶わない可能性大の、その神像。素晴らしい保存状態であり、なんとも堂々たる存在感ではないか。
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この神社はまた、源頼朝とも縁が深い。平治の乱のあと伊豆の蛭ヶ小島に流された頼朝は、その後 20年を経て平氏打倒の兵を挙げることとなるが、その流刑中にこの地を頻繁に訪れ、ここで北条政子と出会ったとされている。境内にはこのような石があり、頼朝と政子がここで語らって恋に落ちたとの解説がある。真偽のほどはもちろん定かではないものの、当時この神社が持っていた兵力による保護がなければ、頼朝が挙兵するのは無理であったということらしい。その意味で、日本の歴史において極めて重要な場所なのである。
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タクシーの運転手さんは、「この神社に行く人で、資料館に行きたいと言う人はほとんどいませんよ」といぶかしげであったが (?)、本殿横の資料館に向かったのである。ただ、本殿を素通りするのは神様に失礼であると思い、資料館に行く前にお参りした。本殿の手前の建物、拝殿の欄間の彫刻がちょっと気になったが、色も綺麗だし、そんなに古いものではないのかもと思い込んだ。その後、これが私にとって大変に価値のあるものだと判明したのであるが。
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そうして向かった資料館。えっ、なんだ、こんなに小さいのか・・・。
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タクシーを待たせているし、このように小さな場所だから、ささっと見て出ようと思ったのだが、受付の男性が「説明しましょうか」と出て来られ、ほんの数人しかいない観覧者に対して展示品の説明を丁寧に始めた。それゆえ、結果的に 30分前後その資料館にいることになったのだが (笑)、実に興味深い話をあれこれ聞くことができて大変楽しかった。まず最初の衝撃は、上述の拝殿の彫刻である。正面に見える現在極彩色になっている龍の彫刻の、素木版が置いてある。なんでもこちらがオリジナルで、関東大震災だかの時に落下してしまったので、現在のものはその複製に彩色したものであるという。
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驚きはその作者である。波の伊八だ!! この新聞記事にある通り、つい最近、2012年に判明したばかりだという。
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波の伊八 (1751 - 1824) は、一般的にはあまり知られていないかもしれないが、江戸時代に活躍した彫刻家で、寺社の装飾を専門に手掛けた人。千葉の出身であり、同県に多くの作品を残しているほか、関東一円で作品が確認されている。波を得意とし、彫刻家仲間では、「関東に行ったら波を彫るな」(= 伊八に勝てるわけがない)と言われるほどの腕前であった。最も有名な作品は、千葉県行元寺の欄間の彫刻で、これはまさに波なのであるが、その地を訪れた葛飾北斎が、その伊八の彫刻にインスピレーションを得て、あの有名な「神奈川沖浪裏」を制作したと言われている。私は数年前にその行元寺を訪れたことがあり、周辺の寺にある伊八の彫刻も併せて見て回って痛く感動し、地元で作成している伊八作品の写真集まで購入したものだ。その伊八作品のご紹介は、以前からこのブログの使命 (?) であると私は考えていて、いずれ現地を再訪して記事を書くつもりである。従って、ここではそれらの伊八作品の写真を掲載するのはやめておこう。いずれにせよ、熱海で思わぬ伊八との再会を果たし、私の心は、熱海の海なさがら、熱くなったのである。

それ以外にもこの資料館には、平安時代の経筒 (経巻等を銅の容器に入れて地中に埋めたもの) や宝冠阿弥陀如来やその脇侍、伊豆大権現の扁額や、銅製の伊豆大権現像などが展示されていて、大変な充実である。以下、宝冠阿弥陀 (これと一具であったもう一体の宝冠阿弥陀は現在、広島県の耕三寺所蔵であるが、快慶作であると近年判明し、重要文化財に指定されている)、扁額 (八咫烏、鳩、ヤモリ等が隠れている。江戸時代、姫路藩主酒井忠道 (ただひろ) --- あの大画家、酒井抱一のいとこである --- の揮毫)、伊豆権現像 (鎌倉時代の作で、近年修復されたが、温泉をかけて礼拝されたらしい)。
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またこの神社には極めて特異な絵画作品も伝わっている。それは、法華曼荼羅。北条政子の髪を使って梵字が表されているという。本当に政子のものか否かは不明だが、実際に人の髪を使っていることは確かである由。私が乗ったタクシーの運転手さんは、以前これが公開されたときに奥さんと一緒に見に行ったが、それはそれは不気味だったとコメントしていた (さすが地元の人、そのような稀なチャンスを逃さずにお宝に接していますね!!)。
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このように大変充実した伊豆山神社と伊豆山郷土資料館を離れ、最後に向かった先は、起雲閣 (きうんかく)。もともとは 1919年に、海運王と呼ばれた内田信也の別荘として築かれ、岩崎別荘 (非公開)、住友別荘 (現存せず) と並ぶ熱海三大別荘のひとつと謳われたとのこと。その後、一時は、東武鉄道を創立した、こちらは鉄道王と呼ばれた根津嘉一郎の所有にもなったが、1947年に旅館となり、熱海を代表する宿として多くの文人墨客が訪れたという。2000年には熱海市の所有となり、大正・昭和のロマンを残す貴重な場所として一般公開されている。入り口の門は、極めて簡素で品がよい。
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庭に入ると、誰もが感嘆の声を上げるであろう。大変よく手入れされた豪快な日本庭園だ。
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建物の中に入ると、高級旅館そのままの雰囲気だが、いくつかの部屋にはこの宿にゆかりの文学者の資料が置いてある。こんな具合である。
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太宰治がこもって執筆活動をしていた建物は現存していないらしいが、この場所で撮影されたこのような豪華なショットがあって、大変興味深い。
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左から山本有三、志賀直哉、そして谷崎潤一郎である。私の敬愛する谷崎の書が展示されている。
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また、室内の装飾にも興味が尽きない。根津嘉一郎が建てた洋館には、玉姫 (たまひめ)、玉渓 (ぎょっけい) と名付けられた部屋があり、まさに古きよき日のロマンの息吹を今に伝えている。
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それから、金剛と名付けられたローマ式浴室。三島由紀夫もここで自らの裸体を鏡に映して、惚れ惚れしていたのであろうか (笑)。午後の光が、過ぎ去りし日の残照をたたえている。
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このように熱海には、遥か古代から近代までの興味深い場所が目白押しなのである。今回は訪問できなかったが、中山晋平、佐々木信綱、坪内逍遥らの旧宅も残っているらしいし、谷崎の別荘も、公開はしていないが現存しているらしい。その他、もうひとつの古い神社である来宮神社などもあるし、これはまたいつか時間を見つけて、再度出かけていかねばならんな、と思っている。それから、前の記事で熱海ゆかりの貫一・お宮は若い人は知らないだろうなどと書いたが、もちろんこれらの人物が登場する尾崎紅葉の「金色夜叉」が、私にとって親しい存在であるわけもない (笑)。だが私の書庫には、どうやらこの作品の初版本の復刻とおぼしい書物が存在している。「近来絶無之奇書」とある!! (笑) 以前読みかかって中断したままになっているので、できれば再度取り掛かり、次回の熱海訪問までには貫一の気持ちになれるよう、がんばりたいものだと思っている。熱海、おそるべし。
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by yokohama7474 | 2017-03-29 01:05 | 美術・旅行 | Comments(0)

前回の MOA 美術館での「山中常盤物語絵巻」の記事に続き、熱海の文化スポットを幾つかご紹介したい。熱海を、温泉と貫一・お宮 (って、若い人は知らないか 笑) だけの街と侮ってはいけない。1500年の歴史を持ち、鎌倉時代には源頼朝ゆかりの地となり、江戸時代には徳川家康お気に入りの湯となり、そして明治以降は財界人は別荘を持ち、あまたの文人墨客がこの地で創作し、またお互いに交流を持った。そのように歴史の蓄積のある街であるから、今でも実は多くの文化的スポットを抱える見応え充分の場所なのである。私も若い頃は仲間の不良連中と、何度も熱海や伊東に遊びに行ったものだが、正直当時の熱海は、ちょっと寂れたかなぁという感じがあった。それに比べると今回実感した賑やかさは、ちょうど 3連休の中日ということもあって、それはそれは大したもの。これからご紹介する文化遺産には、近年になって整備されたもの、あるいは今現在整備中のものもあり、これからまだまだ熱海の歴史的意義にスポットが当たって行くものと思うので、このような記事が文化に関心を持つ方々のなんらかの参考になればよいと思います。

何はともあれ、まずこれだ。
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これは熱海駅のまん前、ロータリーに面した場所にある足湯。その名も「家康の湯」と名付けられている。家康は熱海の「大湯」という温泉 (現存する) の湯を愛し、わざわざ江戸まで運ばせたといい、1604年に家康がこの地を訪れてから 400年を記念してこの駅前の足湯が作られたらしい。実はこの家康の湯の横には、大湯を模した間欠泉が設けられ (ということは、実は帰ってきてから調べて分かった。上の写真の向きからだと左側に間欠泉があったらしいが、見逃してしまった・・・)、そこから流れる湯に足を入れることができて、大人気スポットになっている。すぐ横にはタオルの自動販売機もあり、いかにも気が利いている。なので、熱海に列車でお出かけになる女性の方、決してストッキングを履いていかないように、との家人からのアドバイスであります (笑)。
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さて、それでは熱海駅から徒歩で行ける大変貴重な場所をご紹介しよう。それは重要文化財、旧日向別邸 (きゅうひゅうがべってい)。熱海駅前のロータリーを抜けて、突き当りを左に進み、右手に東横インを見て、その先の春日町という交差点に着いたら、右手にある細くて急な坂道を登って行く。ウェブサイトの表示では徒歩 7分だが、春日町からの上り坂はかなりの急勾配。歩いて行く人は、時間と体力の余裕を見ておく必要がある。この看板が見えたら、左手の石段を下り、右手に見えるのが旧日向別邸だ。
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なぜに時間的なことを気にすべきかというと、上の看板に記載がある通り、この場所は完全予約制。土・日・祝日の一日数回のみ、事前予約をした人たちだけが入れるのである。いやいや、大人気の観光スポットならともかく、この場所はそれほど人気殺到というわけではなかろう。予約しなくても大丈夫では、と思う方もおられよう。だが現地の入り口にはこのような表示が。
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実際私たちは、熱海駅から徒歩で現地に向かい、細い坂道を上るとは知らずに海の方まで一度出てしまうという方向音痴ぶりを夫婦で発揮していたため、予約時刻ちょうどに到着すると、その時刻に予約した他の人たち 10名はすべて到着済で、少々恐縮してしまったのである。日本人は時間厳守なのである。さてそれでは、これは一体いかなる場所か。上の看板にはっきりと書いてあるのだが、ドイツの名建築家、ブルーノ・タウト (1880 - 1938) が設計した建造物なのである。タウトについては私もこのブログの過去の記事で触れているので、もしご存じない方がおられれば、以下をご参照。

http://culturemk.exblog.jp/24559203/

http://culturemk.exblog.jp/23671987/

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タウトはドイツでいわゆる表現主義の建築や集合住宅などを手掛けて活躍していたが (そのうちの幾つかは現在世界遺産に登録されている)、共産党寄りの思想の持ち主で、実際にソ連で活動していたこともあったため、1933年に反共産主義のナチスが政権を取ると、迫害を逃れて日本に亡命。高崎に居を構え、わずか 3年とはいえ、桂離宮をはじめとする日本の建築を研究し、弟子も育てたのである。それゆえ彼の名前は日本でも半ば神格化されていると言えるほど知られているのであるが、実は彼が実際に設計した建造物は、少なくとも現存するものはこの旧日向別邸のみなのである。それゆえこの建造物は極めて貴重で、重要文化財に指定されている。だがその指定は 2006年のこと。つい最近なのである。現在でも未だ、充分観光地として整備されているとは言えず、私が現地を訪れた日には、「この施設の案内 DVD がちょうど昨日完成して、今日初めてお見せするんです。でもナレーションも音楽もないんですけど」と、熱海市の職員の方であろうかまたはボランティアの方であろうか、現地の案内の男性が笑って説明して下さった。

タウトが設計したのは、アジア貿易で成功した日向利兵衛という実業家が熱海に持っていた別邸の、その地下の部分なのである。地上に建っている母屋自体も、このように一見何の変哲もない日本家屋に見えるが、設計は、銀座和光や横浜ニューグランドホテル、また東京国立博物館の原案を手掛けた渡辺仁。こちらは現在公開されていないが、将来的には補修の上公開する計画はあるようだ。
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現地で入手したチラシに、母屋と地下室の見取り図があるので掲げておく。タウトが設計した地下部分は、いちばん下に記されている部分。
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現地は写真撮影禁止なので、この施設を現在所有する熱海市のホームページからいくつか写真を借用する。まず、地上から階段を下りた場所がこれ。竹をうまく使って機能的にできている。
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この部屋は社交室になっていて、当時ダンスなどを楽しんだようだ。あまり広くはないが、和風のようでもあり、モダニズムの匂いもする、タウトらしい建築である。天井からやはり竹を接いだ長い棒が横に吊るされていて、そこに多くの電球が並ぶ。だが係の人によると、直列式なのであまり明るくはないようだ。
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真ん中の部屋は洋間と上段。敷地内に段差があるので、木の階段が設けられ、落ち着いたような敷居が高いような、一種独特の空間になっていて面白い。
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そしてその奥は日本間とやはり上段。空間構成は洋間と似ているが、天井が違うし、手前左のびっくりな位置に床の間まである。またこの部屋には天井に照明がなく、行灯を移動して使用したらしい。
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実はその奥にももうひとつ部屋があるのだが、これは用途不明の和室。ネットでも写真が見つからないので、こればかりは、是非現地でご体験頂きたい。実はこの建造物、日向家が手放したあと、自宅として使用した人が 2人いたが、どうも住居には向かないということで都度売却され、結局企業の保養所として 1952年から 50年ほど使用された。その間少しの改修はあったようだが、かなり原型をとどめたまま使用されたのは何よりであった。その後、東京の篤志家の婦人がこの建築の価値を認めて寄付をし、それによって 2004年に熱海市の所有となったとのこと。貴重な文化財を伝えて行くのは、その価値を認める人たちの思いと、その思いを実現するための資金。タウトが日本に残した唯一の建築、長く後世に伝えて行くのは我々の役目である。

次に向かった先は、創作の家と名付けられた場所。誰の創作かというと、洋画家の池田満寿夫 (1934 - 1994) と、そのパートナーでヴァイオリニストの佐藤陽子 (1949 - ) である。この 2人の芸術家がともに暮らした旧居が、当時そのままの状態で公開されていて大変興味深い。尚、池田が比較的若くして亡くなったことは知っていたが、死因は知らなかった。Wiki によると、地震が起こった際に犬に飛びつかれて昏倒し、急性心不全で亡くなったとショッキングなことが書いてあって驚く。調べてみるとほかの情報もあるようで、真実は分からないが、突然の死であったことは確かなようだ。このワンちゃんだろうか・・・。犬好きとしては何やら胸に来るものがある (涙)。
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この創作の家、熱海駅から MOA 美術館の方向に向かう途中にあり、やはり徒歩ではかなりきついが、歩けないほどではない。
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家の中は撮影禁止なので、詳細はご紹介できないが、上記のように急逝してしまった主の佇まいが今でもそこに残っていて、まるで芸術家夫婦に温かく迎え入れられたようだ。池田が使用していた古い音響機器などもそのままだし、洗面所やリビングの佇まいも、人間の生活の匂いがする。また、入り口近くに来訪者用の岩風呂 (もちろん温泉) とサウナがあって、池田の手作りのステンドグラスなどもあり、芸術家風のもてなしが微笑ましいし、一介の観光客でも、まるで歓待されているように感じるのである (笑)。また、佐藤が若い頃に斎藤秀雄の指揮で演奏したチャイコフスキーのコンチェルトの CD が地下の音楽室から流れていて、屋内が音楽に満たされている。主を失ったアトリエも、その BGM のもと、なんとも落ち着いた雰囲気で、大変気持ちよかった。佐藤は未だ現存だが、近くのマンションに居住しているという。きっと、死を看取った池田との大事な思い出が、この家には満ちているに違いない。観覧する方も、そのようなことを感じながら、芸術が生まれ来る瞬間に思いを馳せたいものである。

熱海文化の旅、次回に続きます。

by yokohama7474 | 2017-03-28 01:18 | 美術・旅行 | Comments(0)

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この展覧会のタイトルにある通り、江戸時代初期の画家、岩佐又兵衛 (1578 - 1650) は、奇想の絵師と呼ばれており、その特異な作風には鬼気迫る迫力があって、私にとっては常に多大なる興味の対象なのである。2月13日の記事で、出光美術館で開催された「岩佐又兵衛 源氏絵」展に関連し、そのあたりのことは述べておいたし、そこで私は、熱海の MOA 美術館で開かれる本展を是非見に行きたいと宣言した。そしてその宣言通り、先週この展覧会に足を運んだのである。車で出かけると渋滞に巻き込まれること必至と思ったので、熱海までは新幹線。非常に効率的な小旅行となった。今回は MOA 美術館以外にもいくつか大変興味深い場所を訪れており、それは別の記事にまとめるが、この又兵衛の代表作をじっくり観覧することのできる展覧会を、文化に興味をお持ちの方すべてにお薦めするため、まずはこれだけの記事を書くこととした。

熱海の MOA 美術館は、若い頃は自身画家を志したこともある宗教家、岡田茂吉のコレクションがもとになっていて、国宝 3点、重要文化財 66点という非常に素晴らしい内容の日本美術を持つ美術館である。MOA とは、Mokichi Okada Associates の略である由。熱海駅からさほど遠くないものの、急峻な岡の上にあるため、徒歩で行くには若干きつい。この度、改修を経てリニューアルオープンを果たしたが、私としても随分と久しぶりの訪問になる。
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建物の入り口から入り、いくつものエレベーターを乗り継いで上に上に昇って行くのであるが、人工の鮮やかな光から、自然の光の中に入っていく過程が、何やら別世界の神々しさを感じさせる演出になっている。
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そして昇り切ったところからは青い海が見え、ヘンリー・ムーアの彫刻が訪問者を出迎えてくれる。
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リニューアルに際しての館内の作りは、日本を代表する美術家の杉本博司が担当した。嬉しいことに、館内では撮影自由なので、その様子を何枚かの写真でご紹介する。杉本らしいモノトーンによって区切られた場所に、この美術館の目玉のひとつである国宝の仁清の壺も置いてあって、極め付けの名品との思わぬ出会いを演出する。
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さて、お目当ての重要文化財「山中常盤物語絵巻」であるが、今回は全 12巻の一挙公開。だが、さすがに全長 150m に及ぶすべての巻が端から端まで開かれているわけではなく、一部、見ることができない場面もある。とはいえ、このような贅沢な空間でこの極めて保存状態のよい特異な作品と相対する喜びは大きい。
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さて、撮影自由ということで、実際の絵巻物のいくつかのシーンも写真に収めたのであるが、すべての興味深いシーンを撮影するわけにもいかなかったので、以下では現地で撮った写真は使わず、以前から私の書庫に収まっている又兵衛の作品集 (この MOA 美術館の所蔵する又兵衛の全作品を掲載) から、興味深い場面を撮影して、義経が母の仇を取る物語を、一気に駆け抜けてみたい。このような本である。
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まず、15歳の牛若丸 (もちろん後の源義経) が、源氏再興のため、鞍馬山をひそかに抜け出して奥州に向かう。
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奥州で牛若は手厚くもてなされ、幸せな日々を送る。
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一方、都にいる義経の母、常盤御前は、わが子牛若の行方が分からず、心を痛めている。
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牛若が奥州にいると聞いた常盤は、すぐに会いに行くと言い出す。
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侍従ひとりだけを連れ、旅から旅へ。清水に姿を映してみると、痩せこけた自分が見える。このあたりの感覚は詩的である。
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そして美濃の国、山中に到着する。
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山中の宿には、屈強な六人の盗賊が住んでおり、常盤主従を襲い、小袖を奪おうと相談がまとまる。
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このように狼藉を働き、素早く門外に逃げ帰る盗賊たち。
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その盗賊たちに対して常盤は、肌を隠す小袖を返すか、さもなくば命を奪って行けと言い放つ。
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怒ったひとりが、常盤を刺し殺す。この絵巻物で最初の残虐シーンであるが、この盗賊の不気味な笑みと、常盤の髪をつかむ腕の生々しさ、そしてどす黒く変色する常盤の肌の色が、なんとも強烈だ。
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宿の主人夫婦が瀕死の常盤を介抱し、その身分を知ると同時に、牛若への形見の品々を預かる。ここでは 3連続シーンを掲載するが、大変面白いのは、宿の主人夫婦にも見向きもされない、床下の侍従の死体である。最初は瀕死の重傷で生きていたのであろうが、縁側に残っていた左足が、時間の経過とともに、徐々に力なく落ちて行って息絶える。なんとも不気味なリアリティではないか。こんなセンスを持った江戸初期の画家は、又兵衛しかいないだろう。
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その頃牛若は、母が夢に現れるのが気になり、奥州を抜け出して都に向かう。
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そして、常盤が襲われたちょうどその夜は、山中の手前わずか三里の宿に泊まるが、残念ながら母の虐殺を知らずに旅を続ける。そして山中のはずれで、真新しい貴人の墓を見つけていぶかる。
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牛若は、奇しくも母が襲われた宿に泊まることとなるが、その夜、母の亡霊が夢枕に現れ、盗賊に襲われた無念を語る。
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前日の悲劇を知った牛若は、盗賊どもへの復讐を誓い、一計を案じる。宿を小袖や金銀の太刀で飾り立て、盗賊をおびき寄せようというのである。宿の主人は協力を約束する。
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そして牛若は宿場に出て、大名の宿はどこかと尋ねて回る。また一方、身分の卑しいものに変装し、宿に大名が到着すると触れ回る。
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盗賊たちは、昨夜襲った宿にまたもや大名が泊まると聞きつけ、早速襲撃する。
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するとそこには、少年 (もちろん牛若) がひれ伏している。お宝はどこだと迫る盗賊たちに、あっちあっちと怯えながら指差す少年。
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それっとばかり奥に駆け込む盗賊のしんがりを、背後から見事に切り刻む牛若。見よこのスプラッター表現!!
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そしてこれから、牛若の快刀乱麻の復讐が始まるのであるが、さすが屈強な盗賊たちも、鞍馬山の天狗のもとで修業した牛若の前にはひとたまりもない。この血しぶきの中、最初に斬られた輩の死体がずっと転がっているのが面白い。ちょうど常盤の侍従の死体が時間の経過とともに繰り返し描かれていたのと対をなすようである。いやそれにしても、繰り返し死体を描かない方法もあったと思うが、ここには又兵衛の強いこだわりが感じられる。というのも、場面によって位置が違っているからだ。違う戦闘場面でも、必ずこの死体を入れたいと思ったのであろう (笑)。又兵衛のこの仮借ない描写に、当時絵巻物を見た人はどのように感じたであろうか。牛若復讐の快哉を叫ぶとともに、その描写のリアリティに背筋が寒くなったのではないか。
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この絵巻物のユニークさは、悪党成敗でめでたしめでたしと終わるのでなく、その後の処理まで克明に描いていることだ。宿の者たちは、盗賊どものバラバラになった死体を、菰袋に入れて、川に捨てに行くのである。画面中、たいまつを掲げているのは、これが夜のシーンであることを表しているのであろう。
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仇討ちを果たした牛若は奥州へ帰り、三年三ヶ月後、十万余騎を率いて都に上る。
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その途次、山中の宿に泊まる。常盤の御前で法要を営み、そして宿の主人にも所領安堵を行い、その恩に報いた。
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とまぁ、ストーリー自体は非常に単純なものであるが、これでもかと出てくる鮮血描写に、実に圧倒される思いである。それゆえに、このような機会にこの絵巻物の全容を見ておく価値があろうというもの。ご覧頂けるように、金なども随所に使い、非常に保存状態がよいのであるが、恐らくは越前藩主、松平忠直 (ただなお) が制作に関与しているであろうとのこと。異端の日本美術と言えようが、絵画の持つ異様な力に触れたい方には、熱海まで足を延ばして見に行くだけの意味はあると申し上げておく。

by yokohama7474 | 2017-03-27 01:01 | 美術・旅行 | Comments(0)

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江戸時代後期の画家、葛飾北斎 (1760 - 1849) は、言うまでもなく海外にまで広くその名を知られた巨人である。その彼が生まれたのは、現在の東京都墨田区亀沢と言われている。当時の名前で本所割下水。「割下水」とはその名の通り、通りを掘り割ってを通した下水路のことで、本所には北割下水と南割下水があったらしい。これが明治 41年頃の南割下水の写真。北斎の時代よりは 150年ほど下った頃のものだが、彼が幼時に見ていた風景の痕跡はあるのではないか。
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その南割下水は暗渠として地下に潜り、現在では「北斎通り」と改められている。両国に江戸東京博物館が建設された際にその名になったという。その通りは、その江戸東京博物館の正面から錦糸町方面に向かっており、新日本フィルハーモニー交響楽団の本拠地、すみだトリフォニーホールもその北斎通りに面しているが、同ホールから 1kmほどの距離の場所に昨年 11月 22日、新たな美術館がオープンした。その名もすみだ北斎美術館。かつて弘前藩津軽家の上屋敷があった場所が緑町公園になっていて、その一角にその美術館はある。
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北斎はその長い生涯に 93回も転居したと言われるが、その多くが現在の墨田区内ということもあり、まさに墨田区が生んだ巨匠であったのである。墨田区に北斎の美術館を作ろうという動きは既に 1989年からあり、実に 30年近くかけてようやく実現の運びとなった。開館記念展の第一弾、「北斎の帰還」展に足を運ぶことはできなかったが、現在開催中 (4月 2日まで) の開館記念展第二弾、「すみだ北斎美術館を支えるコレクター」展を見ることができた。この美術館の収蔵作品に含まれる二つの個人コレクション群、つまり、米国の北斎収集家ピーター・モースのコレクションと、浮世絵研究の第一人者であった楢﨑宗重のコレクションの一部を紹介する
企画である。この展覧会はこの 2つのコレクションから、北斎の作品以外にもあれこれの作品が展示されていて興味深い。何よりも、郷土の芸術家を称揚することは、その芸術家の根源にある何かを尊重することであり、大いに意義深い。この日は空も青く、展覧会の旗も誇らしげにはためく。ちなみにポスターの左側の絵は北斎の富嶽三十六景から「甲州石班沢 (こうしゅうかじかざわ)」だが、右側は北斎の顔でもコレクターの顔でもなく、高橋由一の作品で、三河田原藩主を描いた楢崎コレクションの 1枚。
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私が撮った写真だけではこの美術館の建築のユニークさが分かりにくいので、全体が分かる写真を借用して来よう。このように銀色に輝くメタリックな外見。
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あの世界的建築事務所 SANAA を西島立衛とともに運営する建築家、妹島和世 (せじま かずよ) の最新作である。真ん中の切れ目から人が出入りするようになっていて、外光が燦々と降り注ぐようにはなっていないが、これはもちろん、繊細な浮世絵や肉筆画の展示にとって強い光は禁物であることによるのだろうか。敷地面積はかなり狭いが、3階と 4階の 2フロアを効率的に使った展示が行われている。展示室内は暗くとも、ホワイエはこんな感じで明るく清潔である。もちろん東京スカイツリーも、斜めの格子越しとはいえ、よく見える。
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今回は展覧会の図録は作成されておらず、300円の小冊子が売られているだけなのでこの記事では展示品の紹介は行わないが、前期 (2/4 - 3/5) と後期 (3/6 - 4/2) をあわせて 131点の作品が展示される。モースのコレクションからの出品はすべて北斎であり、楢﨑のコレクションからは様々な作品が展示されることになる。簡単にご紹介すると、ピーター・モース (1935 - 1993) は、大森貝塚を発見したあのエドワード・モースの子孫 (弟の曾孫) にあたる人で、その北斎コレクションは、欧米におけるものとしては最高・最大の内容とされている。総数 600点近くに上り、本人の死後、散逸を恐れた遺族から墨田区に譲られたもの。一方の楢﨑宗重 (1904 - 2001) は美術史家で、戦前より浮世絵研究に携わり、もともと趣味的な分野とされていた浮世絵を、美術史の中で学問的に位置づけることに尽力した人。北斎のみならず幅広く中国の古美術から近代絵画までを含む 480点は、墨田区に寄贈された。これらが、このすみだ北斎美術館のコレクションの根幹をなすこととなったわけである。

また、北斎の画業を辿る定常展示のスペースも面白い。ここでは、4点の作品を覗いてフラッシュなしの写真撮影が可能。こんなふうに資料や北斎の作品が並んでいて興味深い。
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また、北斎晩年の住居が再現されていて、大変リアルである。北斎の人形は、筆を持つ手が動くようにできている。横にいるのは娘の応為 (おうい、またお栄、阿栄とも)。この応為については最近見直されていて、数年前に太田記念美術館で展示された「吉原格子先之図」の実物を見て私も驚嘆したし、杉浦日向子の漫画「百日紅」にも登場し、最近アニメ映画にもなった。晩年の北斎作品のかなりの部分は実は彼女が描いたという説すらあるようだが、ここではただのうらぶれた婆さんのようだ (父があまりにも高齢なので、実際応為本人も年齢的にはこの頃は婆さんだったわけだ)。
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このシーンは、「北斎仮宅之図」というこの版画に基づいて制作されたものであるようだ。なるほどリアルなわけである。
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北斎の偉大さについて書き始めるときりがないし、昨年 8月に長野県小布施市を訪れた際に記事も書いたので、この記事ではただ新しい美術館のご紹介をするに留めるが、前述の通り、その土地ゆかりの芸術家を称揚することは大変に意義深く、この美術館がこれから多くの人に愛されることを願ってやまない。売店でこのような飴のセットを購入 (中身は榮太樓飴の詰め合わせ)。まぁ、自分ではさすがにこんなアホなことはしないものの (笑)、願わくばどんなときもこのようなひょうきんさを持って、楽しく毎日を過ごしたいと思い、書斎のデスクにあるスピーカーの上に置くこととした。あっ、なぜか後ろには 1990年代のレコード芸術誌が山積みになっていますが・・・。
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by yokohama7474 | 2017-03-04 22:44 | 美術・旅行 | Comments(0)

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この展覧会は、1月中旬からほぼ 2ヶ月くらいの期間に亘って、上野の東京国立博物館で開催されているもの。上のポスターに「新春、上野の春日詣で」とある通り、奈良の由緒正しい神社である春日大社の秘宝の数々をかつてない規模で展覧しており、あたかも春日大社を詣でるかのようなご利益が期待される。既に初詣の期間は過ぎたとはいえ、歴史に興味のある人であればとにかくこれを見逃してはならない。というわけで、会期はあと残りわずか一週間になってしまったが、今のうちに記事を書いておく意味は大きいだろう。ではまず、このような風景を見てみよう。
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春日大社に集う鹿の皆さん。呑気に見えるがとんでもない。なぜなら彼らは神の使いであるからだ。
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おぉっと。ここで何やら神らしき人物が乗っている動物こそ、鹿なのである。実はこれ、件の春日大社が所有する、南北朝から室町期に描かれた「鹿島立神図」だ。真ん中の神に加え、右下には何やらこそこそ話をするかのような奇人、じゃなくて貴人たちの姿が。彼らも神なのである。
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さてここでひとつ明らかにしておこう。春日大社は言うまでもなく藤原氏の氏神。同じく藤原氏の氏寺である興福寺と、物理的にも歴史的にも極めて近い関係にある。いにしえの奈良の都に花開いた仏教文化と、それに密接に関連する神道文化は、一体どこから来たのか。そのひとつの答えは、なんとも面白いものなのだが、春日大社第一殿の祭神である武甕槌命 (たけみかづちのみこと) は、常陸の国鹿島より春日の地に降り立ったとの伝承がある。この鹿島は、鹿島アントラーズの鹿島であり、つまりは現在の茨城県である。え? 茨城県? 中世に平将門がその地で挙兵したことは知っているが、それよりはるか以前、関東が「東路の道の果てよりも、なお奥つ方」(更科日記) と呼ばれていた頃よりもさらにさらに以前、古い神がその地におわしたとは。我々の常識が間違っているのかも、と心の中の鐘がガンガン鳴るのを覚える。その違和感に優しく訴えかけてくるのがこのような図像である。奈良国立博物館所蔵の春日鹿曼荼羅。鎌倉時代の作。
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ここで見えるのは、神の使いである鹿の上の虚空に漂う仏たちの姿。ここで私は再び考え込む。むむ? 神道と仏教の関係やいかに? 日本人のメンタリティの特性で、宗教的なものに関する寛容性がはっきりと見て取れる。すなわち、日本固有のアニミズムに基づく神道の神々は不可視であるが、大陸・半島由来の仏教の仏たちは具体的な姿を伴ったもの。この二つをうまく融合することこそ、日本人の特技なのである。だがそれにしても、神を表象する鹿の愛らしいこと。どこの本にもそんなことは書いていないと思うが、敬うべき存在に可愛らしさを見出す感性は、もしかするとこの国特有のゆるキャラにつながっているのかもしれない。以下は、細見美術館所蔵、南北朝時代作で重要文化財の春日神鹿御正体。
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そしてこれは、以前も藤田美術館の展覧会の記事でご紹介した、同美術館所蔵の春日厨子。室町時代の作であるが、鹿の困ったような表情が萌え~ですねぇ。
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彫刻だけでなく画像もある。これは春日大社所蔵、江戸時代の鹿図屏風。ここに見られる感性はかなりモダンなものだと思う。
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そしてこの展覧会では、「平安の正倉院」と題したコーナーがあって、古く平安時代に春日大社に奉納された貴重な文物が数多く展示されていて、なんとも興味深い。すべて国宝に指定されているこの貴重なお宝 (本宮御料古神宝類 = ほんぐうごりょうこしんぽうるい = と呼ばれている) を、これだけまとめて見る機会はそうそうあるものではなく、この展覧会が必見のものであると思う所以である。例えばこれは、琴を入れる箱。意匠としては何の変哲もないが、12世紀に作られた、言ってみればただのケースが完璧な状態で残っている例が、世界のほかのどこの国にあるだろうか。
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これは黒漆平文根古志形鏡台 (くろうるしひょうもんねこじがたきょうだい) と呼ばれるもの。やはり 12世紀の作で、折り畳み式。鏡台というからには、鏡をここに置くためのものであろう。完璧なシンメトリーに舌を巻く。もちろん国宝。
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奉納された武器の類も数多い。以下すべて 11~12世紀作の国宝で、弓、矢、鉾である。
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このようなシンプルなものではなく、見事に凝った作りの奉納品も数々展示されている。以下は紫檀螺鈿飾剣と、毛抜形太刀。12世紀に制作された国宝。
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これも同じく 12世紀の国宝で、蒔絵弓の図柄のアップ。うーん、美しい。
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神々を寿ぐため、当然古くから音楽や舞も奉納されたのであろう。やはり 12世紀に作られた国宝の笙。木製楽器としてこんなに古いものが完璧に残っている例が、ほかにあるだろうか。
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その他枚挙にいとまのない国宝群が展示されていて圧巻である。そして次のセクションは、「春日信仰をめぐる美的世界」。上にも述べた通り、日本人は外来のものと固有のものを結びつける天才で、神社も寺も一緒くた。これは根津美術館所蔵の重要文化財、春日宮曼荼羅。鎌倉時代の作で、春日大社の神殿のそれぞれの上に梵字が描かれている。本地仏と言って、右から不空羂索観音、薬師如来、地蔵菩薩、十一面観音。つまり、神様は、実は実はその正体は仏様であった!! というあっと驚く強引な理論 (笑)。
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これはまた違った趣向で、社殿を描かない春日野の風景の中にデカデカと「春日大明神」と書いてあって面白い。鎌倉時代の作で、奈良国立博物館所蔵。
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これはまたくっきり鮮やかに本地仏を描いたもの。鎌倉時代、重要文化財の春日宮曼荼羅で、奈良の南市町自治会の所有になる。ここで描かれた春日大社の社殿は 5つで、それぞれの本地仏が楽し気にかつ神々しく (?) 宙に浮かんでいる。
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まだまだありますよ、春日宮曼荼羅。この大和文華館所蔵のものでは、ついに仏様ご一行が雲に乗ってやって来ることになる。妙なる調べが聞こえるようだ。
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神様は実は仏様だった!! という発想をさらにはっきりと示すのがこれだ。宝山寺所蔵、重要文化財の春日本迹曼荼羅。おぉっ!! ついにここでは、吹き出しで神様の正体が示される (笑)。目に見えるものを信じたい日本人の特性が表れているが、西洋でもモーゼとアロンの物語にある通り、人はやはり目に見えるものを信じたがるもの。
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さてこれは、奈良国立博物館所蔵、鎌倉時代の十一面観音。春日明神の本地仏として作られたと見られ、仏師善円の作になるもの。胎内の納入品から、1222年に制作されたことが分かっている。善円の代表作といえば、言わずとしれた (?) 西大寺の愛染明王だが、この十一面観音は彼の最初期の作品だけあって、愛染明王の完成度には達していない。だが、その素朴で若々しい表情は大変印象的だ。
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そしてこれは、上の十一面観音ともともと一具の、春日明神の本地仏のひとつとして作られたと見られる、東京国立博物館所蔵の文殊菩薩。これも美麗な仏像である。
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展覧会にはまた、春日大社を描いた様々な厨子が展示されていて興味深い。これは東京国立博物館所蔵のもので、1479年の制作。春日大社の神秘的な森と、扉の裏に描かれた愛染明王 (右) と不動明王 (左)。
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絵巻物も沢山展示されている。これは東京国立博物館所蔵になる江戸時代の春日権現験記絵の巻六から、地獄の場面。
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そして、春日大社に奉納された武具の数々も圧倒的だ。これは国宝の赤糸威大鎧 (あかいとおどしおおよろい)。13世紀、鎌倉時代の作。その保存状態のよさは驚異的で、まさにタイムカプセルに入って今日に伝えられたもののようだ。作者が見たら、「えっ、まだこんなに綺麗に残っているの?」と狂喜するであろう。
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こちらはやはり春日大社に現存する大鎧の一部であるが、惜しくも 1791年に火事に遭い、今では残欠のみ伝えられている。だがこれは春日大社の大鎧の中で最も古く、平安時代にまで遡る可能性があるという。驚きの古さである。
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これは籠手 (こて)。鎌倉時代の作で国宝。源義経のものであるという伝承があるらしい。そう思って見ると、美麗でありながら鬼気迫るものがある。
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奉納品の中には当然、舞楽面が多く存在する。実に平安時代の作であるこの納曽利 (なそり) は重要文化財。実によくできているのだが、こういうものを見ていると、日本人のフィギュア好きは、遥か古代から脈々と息づいているものだと実感される。
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さて、式年遷宮という言葉があって、つい先年の伊勢神宮の例でも分かる通り、二十年に一度、神社の本殿を移築するものである。これは技術の伝承のために必要なものであり、春日大社でも、768年に造営されて以来、定期的に遷宮が行われてきており、昨年 2016年のもので実に 60回目 (!) だという。まさに驚きの古い歴史なのであるが、これは平安時代の皇年代記という文書で、重要文化財。冒頭に「御遷宮」とはっきり読み取れる。
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遷宮の度に古いものが取り除かれるらしいが、この展覧会では過去に祀られていた獅子や狛犬が何組も展示されている。これは鎌倉時代の作。木彫りであり、未だに金箔が残っているということは、屋内に祀られていたものであろう。なんともユーモラスで可愛らしい。ちゃんと阿吽になっているのである。
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これら以外にも、まだまだ興味深い展示物が目白押しで、実に見ごたえのある展覧会だ。次にこのような展覧会が開かれるのはいつのことか分からない。従って、日本人のメンタリティや歴史に興味のある人には必見であると申し上げておこう。また、この展覧会では昨年の遷宮を記念したお守りも頂くことができ、霊験あらかたな春日の神の庇護を受けることができるのである。もともと関東の神が関西に移って行ったことを思うと、この展覧会が東京国立博物館でのみ開催されることには意味があると思う。関西で展開したディープな日本の歴史の源泉が、実は当時辺境の地であったはずの関東にあったことは、一体何を意味するのか。展覧会の図録の上にお守りを置いて、私はしばし感慨にふけるのである。
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by yokohama7474 | 2017-03-04 01:39 | 美術・旅行 | Comments(0)

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このブログでは何度も出光美術館で開かれた展覧会をご紹介して来た。小説や映画にもなった「海賊と呼ばれた男」出光佐三のコレクションがもとになったこの美術館の所蔵する日本美術は、実に素晴らしい (ほかにはルオーの作品群もある)。もちろん東京には、根津美術館や五島美術館、あるいは静嘉堂文庫、また現在改修中の大倉集古館といった個人のコレクションによる素晴らしい美術館が多々あるが、この出光美術館がほかと違うところは、館蔵品のレヴェルもさることながら、その企画力である。個別の展覧会のテーマにかける学芸員の熱意のなせるわざであろうか、どの展覧会も他の美術館からの出品を交えて、まさに百花繚乱、大変高いクオリティを毎回達成している。ここでご紹介するのは既に終了してしまった展覧会であり、残念ながら他都市の巡回はないのであるが、この美術館の持ち味を充分に表したものであるゆえ、その意義をここで記しておきたいと思うものである。

岩佐又兵衛 (1578 - 1650) をご存じであろうか。昨年 2016年は彼が京都から福井に居を移してから (恐らく) ちょうど 400年。福井県立美術館で大規模な彼の展覧会が開かれた。私はそれを知っていながら福井まで出かけることができずに悔しい思いをしていたので、東京で開かれたこの展覧会で、渇を癒すことになったのである。だが私の人生、それほど悲観したものでもない (笑)。日本美術の奇想の発見者である辻 惟雄 (のぶお) の監修になる大規模な岩佐又兵衛展を、2004年に千葉市美術館で見ているし、さらに遡れば 1995年に宮内庁三の丸尚蔵館で「小栗判官絵巻」、そして 2003年には熱海の MOA 美術館で「山中常盤物語絵巻」を見ている。のみならず、又兵衛の画集を 2冊持っているほか、このような面白い本を読んでいる。
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ことほどさように、岩佐又兵衛は私にとっては大変に重要な画家であるがゆえに、この出光美術館の展覧会には、ギリギリのタイミングであったとはいえ、出かけることとしたのである。この展覧会は、そのタイトルにもある通り、ただ岩佐又兵衛の作品を集めたものではなく、源氏物語を題材とした絵画作品を中心に集めていて、上記の通り、この美術館の学芸員の熱意を感じる内容なのである。展覧会はまず、やまと絵の手法による源氏物語の絵画作品から始まる。やまと絵と言えば土佐派。というわけで、土佐光吉 (1539 - 1613) の手になるこのようなうっとりするような源氏物語画帖 (重文、京都国立博物館藏) が目に入ってくる。
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それからさらに遡り、これは土佐光信 (1434? - 1525?) 作と伝わる、出光美術館自身の所蔵になる「源氏物語画帖」から。これもなんと美しい絵画であることか。
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これらの画帖では、源氏物語の様々な場面がダイジェスト的に描かれているし、あくまでも王朝貴族文化を懐かしむ作りとなっている。一方で岩佐又兵衛 (及び彼の工房) の源氏絵においては、物語の全体像をとらえるというよりは、個々の場面の情緒をより深く求めた作品が基本となっていて、より人間的な面に焦点が当てられている。その典型例が、展覧会のポスターにもなっている、これも出光美術館の所蔵品、重要美術品の「野々宮図」である。
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これは源氏物語第 10帖の「賢木」(さかき) によるもので、光源氏が六条御息所を嵯峨野の飲み屋、じゃないや (笑)、野宮に訪ねるところ。この源氏の面長な顔はどうだろう。私がイメージするところの又兵衛の作風そのものだ。まさに能に現れる亡霊のような源氏と、その後ろに寂しげに立つ素木の鳥居が、なんとも寒々とした雰囲気を醸し出している。実はこれは、金谷屏風と呼ばれる全十二図の屏風のひとつ。これは福井の商家、金屋家に伝わった屏風絵なのであるが、明治42年 (1909年) に展示された後、屏風から掛け軸に変えられ、様々な所有者の手に渡ったもの。現在所在不明のものもある。これはその屏風の片方の貴重な写真。この「野々宮図」は、右から三番目に見える。
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上にご紹介した本にある通り、この岩佐又兵衛は、浮世絵の元祖とも言われ、江戸時代には大変高名な画家であったものが、昭和初期に忘れられて行く。作品の散逸が起こってしまい、その名前も一般にはあまり知られなくなってしまったのは、そのような不運な背景があるのであろう。だが今や、又兵衛の作品のひとつ、洛中洛外図屏風 (舟木本) は国宝に指定されている。人々はこの画家の個性に魅入られつつあるようだ。そんな又兵衛の個性を、この展覧会に出されている源氏絵でもう少し見てみよう。これは、福井県立美術館所蔵の「和漢故事説話図 須磨」。静かに誦経する源氏の前で猛烈な雷雨が続いている場面。淡い色調でありながら、恐ろしい嵐を描く又兵衛の冴えた手腕に驚く。
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これは、伝又兵衛筆になる「源氏物語 桐壺・貨狄 (かてき) 図屏風」から、竜頭鷁首 (りゅうとうげきしゅ。ちなみに私の使っている PC では「げきしゅ」でちゃんと正しい変換が出来る。優秀優秀) の舟が作られている場面。異形のものに対する又兵衛の興味を示す場面と思うがいかがであろうか。
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展覧会はここから一旦源氏絵を離れ、又兵衛の画業を辿る。これは「四季耕作図屏風」から。庶民の生活を描いてもその確かな手腕を見せる又兵衛。因みにこのあとにご紹介するのはすべて出光美術館の所蔵品。さすが、いっぱいお宝持っていますねぇ!! (笑)
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これは「瀟湘八景」(お、これも一発で漢字変換できた!!)。この題材は多くの画家が手掛けているが、又兵衛の描く松の木はまるで動物のようで、ここにも異形性への指向が見える。
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これは伝又兵衛筆「三十六歌仙・和漢故事説話図屏風」から。様々な主題が入り乱れた作品であるが、個別のシーンにクローズアップするのが又兵衛風感性なのであろう。
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「職人尽図巻」。ええっと、最初のものはどう見ても布袋である。七福神も職人のうちということか (笑)。それから、琵琶法師の助手 (?) が琵琶を背中にしょって倒れているのは、一体いかなる意味なのだろうか。それに仏師もドヤ顔だ。又兵衛晩年の作であるそうだが、何やら達観したユーモアを感じる。
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これは重要美術品の「在原業平図」。やはり面長の顔がいかにも又兵衛だが、立った業平像は珍しいらしい。
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これは重要美術品の「伊勢物語 くたかけ図」。日本画家下村観山の旧蔵品である。この絵が描いているのは、人柄も歌もあか抜けていない女性に愛想を尽かして出て行く男。なんと残酷なシーンであることか (笑)。これはまた、又兵衛ならではの決定的瞬間のクローズアップであろう。顔に袖を当てた男の「な、なんだよコイツ」という蔑みの表情と、「私何かまずいこと言った?」とでも言いたげな女のとぼけた表情の対比が可笑しく、また太刀持ちの童子 (?) が顔を見せないのにやけに凛々しいのも面白い。「ご主人様、さぁこんな女は放っておいて、とっとと行きましょう!!」と言いたげである。やはり残酷だ。
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これは「三十六歌仙図」から柿本人麿。オーソドックスとは言えようが、又兵衛の描く人物には、いつも何か飄々とした味わいがある。もっとも、彼が残虐な場面を描くときには、このような感性のまさに裏返しを見ることになるのだが。
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展覧会の最後にはまた、土佐派と又兵衛の源氏物語図屏風の比較があったが、全体像を見ることが重要であって、ここで細部を採り上げてもあまり意味がないので、省略する。上でご紹介した作品だけでも、この岩佐又兵衛という画家の特異な持ち味は充分出ていると思う。実に貴重な展覧会であった。

さて、この展覧会を見逃した方に朗報。熱海の MOA 美術館が、改修工事を経て 2月 5日にリニューアルオープンしていることは、前の吉田博展の記事で書いたが、ここで 3月17日 (金) から 4月25日 (火) まで、「奇想の絵師 岩佐又兵衛 山中常盤物語絵巻」展が開催される。これは源義経が母、常盤御前の仇を取る物語だが、全 12巻、70m を超える重要文化財の絵巻物を一挙公開するとのこと。上にも書いた通り、私は 2003年に一度見ているが、是非また見に行くこととしたい。この絵巻物はその血みどろのシーンが有名であるが、クライマックスは義経が悪漢をなぎ倒すこのようなシーン。これぞ又兵衛。男が女を振るシーン同様、実に残酷 (笑)。強い表現力を持つ芸術に惹かれる方には、絶対お薦めの展覧会である。
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by yokohama7474 | 2017-02-13 23:58 | 美術・旅行 | Comments(0)