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山形旅行 その 2 羽黒山、本明寺、注連寺、大日坊、酒田市 (土門拳記念館、本間家旧本邸、海向寺)

さて、前回の記事に続く山形旅行記の 2日目。この日はいよいよ念願の出羽三山詣での日である。出羽三山とは一体何か。もちろん、月山 (がっさん)、羽黒山、湯殿山のこと。一般的にはほら貝を吹いて山野を駆け巡る山伏のイメージで知られる、修験道 (しゅげんどう) の聖地である。これは、羽黒山の入り口に立っている石碑。
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ただこの出羽三山、知れば知るほどに謎の多い地域である。例えば、三山という名称とは裏腹に、この中で実際に山であるのは、月山 (1,984m) のみであるらしい。羽黒山 (414m) はその北端の一角であり、また湯殿山は、月山の南端に位置する渓谷なのである。これが山形県のホームページに記載されている出羽三山の位置関係。確かに、この三山が近い地域に連なった地形になっていることが分かる。
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私は以前ふと疑問に思ったことがある。それは、この地域 (山形県というよりは秋田県というべきなのか ? 実際には県境である) の代表的な山は、鳥海山ではないのかということだ。その標高は 2,236m。月山を凌ぐ高さなのである。上の地図の通り、地理的には出羽山地の北側に存在しており、この山こそ出羽三山のひとつにふさわしいのでは? と思ったのである。実は今回、後で述べる大日坊を訪問した際に、この疑問へのヒントを得ることが出来た。寺の方の説明によると、もともと江戸時代に出羽三山というと、この鳥海山、月山、そしてもうひとつは葉山 (はやま) という標高 1,462m の山 (月山の東側に位置する) を指したという。なので、実は現在我々の知る出羽三山とは、近代以降に定着したものであるらしい。それから、日本の近代の宗教政策と言えば、神仏分離であり廃仏毀釈である。このあたりの事情は、なかなか資料がなくて現代の我々には知りえない様々な壮絶なドラマというか、仏教の危機があったらしい。この出羽三山では今でも強く神仏混淆の雰囲気があるが、それに加えて、天台系と真言系の対立もあったようだ。言うまでもなく天台系は、天海僧正以降、江戸幕府に極めて近い。その一方で真言宗は、天台宗と同じ密教系でありながら、高野山の奥の院で開祖空海が未だに生きているという強い信仰によって、この庄内地方に即身成仏の習慣を作り出した。そう、一口に出羽三山の即身仏と言うが、実際に即身仏を輩出したのは、天台宗の月山、羽黒山ではなく、真言宗の湯殿山系の寺院のみであることに注目しよう。私自身、このあたりの事情については勉強不足であるが、最近、「出羽三山の神仏分離」という本も購入したことだし、これからいろいろ調べて行けば、面白い発見があるものと考えている。また、最近読み終えた「仏像ミステリー」という本は、いずれこのブログでもご紹介するが、平易ながら大変面白く、この出羽三山を巡る現実的で人間的な確執について、最後の章で語っているので大変参考になる。

ともあれ、山形旅行 2日目、まず向かった先は羽黒山であった。ここには何といっても素晴らしい国宝建造物と対面しなくては。登山道の入り口近くにある駐車場に車を停め、随身門をくぐると、山道を登るのかと思いきや、そこから下って行くのである。途中、古い社が左右に並んでいる場所を通るが、これがまたなんとも神秘的。
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ほどなく見えて来るのは、滝と、その前に立つ祠である。羽黒山に詣でる行者たちが禊をした (する?) 場所らしい。本当に神秘的な場所だ。
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さあ、お目当ての建物はもうすぐなのであるが、その前に見えるのは、天然記念物の「爺杉」(じじすぎ)。鬱蒼たる森には杉の木が立ち並ぶが、それにしてもこれは明らかに特別な木だ。樹齢は 1,000年を超えるらしく、近くに婆杉もあったが、近年暴風で倒れてしまったらしい。近年って言っても 1902年のことなのですがね (笑)。
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まさに神韻縹渺たるこの杉の佇まいに打たれてその場に佇んでいると、あ、あれ、その右手奥に、これまた堂々たる巨木が見える。だがこの古木は、上に伸びながらも、何やら水平方向の直線を何本か持っている。爺杉と同じく、どう見ても森の地面からすっくと立っているのだが、なんというべきか、そこには何か、爺杉と競い合うような垂直への強い意志が感じられないだろうか。森厳たるその佇まいには、実にただならぬ雰囲気があって、空恐ろしくなるくらいである。
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そう、これこそが、私が今回の旅で即身成仏と並んで対面を心待ちにしてきた、羽黒山の国宝五重塔だ。樹齢 1,000年の杉の木と競い合うように、人智が成し遂げたこの成果は、素のままの木の色を纏って、鬱蒼たる森の中に立っているのである。ここに来れば誰しもが、しばし立ち去りがたい思いに駆られるであろう。このような奇跡的な建造物を眼前にして感じた思いを、日常生活でも折に触れ思い出すことができれば、いかなる困難にも立ち向かえるような気がするのだ。
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来た道を戻り、駐車場に着いたが、その正面にある「いでは文化記念館」に興味を惹かれて入ってみた。「いでは」とは恐らく「出羽」のことであろう、内部には出羽三山の信仰についての様々な資料が展示されている。実際、この羽黒山には数多くの古そうな巡礼者向け宿坊が存在していて、修験道の信仰が未だに現在進行形のものであることが分かる。さて以下のポスターも、異形のものとか摩訶不思議なものに多大な興味を抱く私にとっては大変面白いものだが、タイトルの左隣に見える妖怪のような人物は誰だろう。
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実はこれ、飛鳥時代、崇峻天皇の第三皇子である蜂子皇子 (はちこのおうじ) である。父崇峻天皇が 592年に蘇我馬子によって暗殺されたので、聖徳太子によって匿われ、船に乗って都を脱出、出羽の国に辿り着いたという。そして彼は出羽三山を開いたのである。注目すべきはその特異な容姿である。
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この異形の顔は、多くの人々の悩みを聞いていることでそのようになったと言われているらしい。うーん、面白い。卑しくも天皇の血を引く高貴なる皇子をこのように描くには、きっと何か理由があったに違いない。この蜂子皇子の墓が、驚くべきことに羽黒山の山頂付近に残っている。皇族の墓なので、古墳と同じく、宮内庁の管轄となっているのである。この土の下で一体何を思う、蜂子皇子。
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誠に古い時代の物語がここで展開しているのであるが、前掲の「仏像ミステリー」という本には、大変興味深い説が載っている。それは、この蜂子皇子による出羽三山開創は、江戸時代の創作であろうというものだ。その創作を行った人の名は天宥 (てんゆう)。それまで真言宗系であった出羽三山を天台宗に宗旨替えし、それによって幕府の庇護を勝ち得ようとした僧である。この天宥が、彼以前の歴史書には出てこなかったこの蜂子皇子を開祖として祀り上げたのは、天皇家による権威づけが目的であったらしい。つまり、この皇子は実在していなかったということだ。歴史には必ずそれを作り出そうとする人間の意図が働くもの。この出羽三山の峻厳な自然を前にしても、人間たちの営みはどこまでも人間的なのである。羽黒山の山頂の鳥居の朱は、そんなこと知らぬげに鮮やかだ。
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この羽黒山山頂には、2つの重要文化財建造物がある。ひとつは鐘楼。このように檜皮葺である点が変わっているが、いかにも山岳信仰の雰囲気があって面白い。
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もうひとつは、これも非常に珍しい巨大神社建築で、三神合祭殿。ここに詣でれば、三山すべて回ったのと同じご利益があるという。まあ実際は、そんな楽をしようとしてはいけないのでしょうがね (笑)。この巨大建築、この地域ではほかでも目にしたように、邪鬼が柱を支えていて面白い。
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さてそれから私たちは、湯殿山系の即身成仏を見たいと思って車を走らせた。おめあては後述の注連寺と大日坊であったのだが、その途中にたまたまもうひとつ、即身成仏を祀るお寺の前を通りかかり、立ち寄ることにした。つまり、最初から庄内地方の全 6体の即身仏を拝観しようという意図はなく、本来なら飛ばしてしまったかもしれないこの場所の前を通りかかるとは、これも何かのお導きかと思ったのである。お寺の名前は本明寺で、祀られているのは本明海上人。
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実はお寺で伺って驚いたことには、この本明海上人は、庄内地区の 6体の即身成仏の中で最も古く、江戸初期、1683年の入定 (にゅうじょう) である。ということは、この地区で後に即身成仏を目指した僧たちの深い尊敬を集めた仏さまであったわけだ。境内にはその入定跡も残っており、大きな石碑が立っている。壮絶なる思いを今に伝える場所である。
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そして次に向かった先は、注連寺。ここは、作家森敦が芥川賞受賞作「月山」を執筆した場所であり、また、弘法大師ゆかりの七五三掛 (しめかけ) 桜という、最初は白く、そしてピンクに色が変わって行く珍しい桜がある。
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また本堂の中には現代アートの天井画がいくつもあって興味深いが、なんと言ってもこの寺の主役は、即身成仏、鉄門海上人であろう。
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この方は庄内地方の即身仏でも最も有名な人ではないだろうか。1768年の生まれ。もともとは川で働く労働者であったが、武士とトラブルになって相手を殺してしまい、注連寺に駆け込んで出家したと言われている。出家してのちは様々な社会事業を行い、その事績をたたえる石碑は、東北地方各地で実に 194基も見つかっているという。また、雨乞いのために左目をくり抜いたり、昔のなじみの遊女が寺を訪れたとき、修行にかける自分の気持ちを表すために自らの睾丸を切り落としたなど、凄まじいエピソードが残る。まさかと思いたくなるが、学術調査によって、実際に生前に左目を摘出していたことや、遺体に睾丸がないことも判明しており (因みに彼の睾丸のミイラとおぼしきものが、前回の記事でご紹介した鶴岡の南岳寺に残っているという。手元にその白黒写真もあるが、掲載はやめておこう 笑)。また、地元の漁師たちは、今でもテツモンカイと称するタコ採りの道具を使っていると、以前テレビで紹介していた。そのような鉄門海上人、実は即身成仏修行の途中、1829年に 62歳で亡くなってしまい、死後に人々の手によってミイラ化されたとも言われている。それだけ彼の活動が、人々から深く尊敬されていたということだろう。だがここで私は思うのだ。極限的に厳しい修行を生き延びないと即身仏にはなれない。普通なら栄養失調で死んでしまうような食生活を続けながら、でも死んでは全く意味がないわけで、なんとか生き続けなくてはならない。つまりは、死ぬために必死になって生きるという、なんとも想像を絶するパラドックスの中で彼らの修行は行われたわけだ。私には想像できないが、強い信仰心と、実は上記のような天台系との対立の中にあった真言系の僧侶たちの激しい闘争心が、そのような特殊な習俗を生み出したということか。

そして次に訪れたのは、大日坊。
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ここに祀られているのは真如海上人。なかなかに堂々たる存在感だ。実はこの寺にはほかにも 2体の即身仏があったが、残念ながら焼けてしまったそうである。
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さてここで、最後の目的地である酒田市の海向寺に向かったのであるが、もちろん酒田は、北前船で大成功を収めた豪商本間家 (「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われた、あの本間である) の本拠地であり、また、私の尊敬する写真家土門拳の出身地でもある。なので、いくつか写真をご紹介する。まずこれが土門拳記念館。あのニューヨークの MOMA で知られる (しばらく前に日経新聞で「私の履歴書」を書いていた) 建築家、谷口吉生の設計で、とても美しい。土門拳は古寺の写真も素晴らしいが、人物のポートレートとか、戦後の子供たちの風景を切り取った写真にも、素晴らしいものが多い。
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そう言えば、この土門拳記念館のある公園の一角に、南洲神社なるものがある。南洲とは西郷南洲、つまりは西郷隆盛のことであるが、なぜに西郷を祀る神社が酒田にあるかというと、戊辰戦争の際に朝敵となってしまった庄内藩に戦後処理のために派遣されたのが西郷で、その人間味あふれる寛大な統治に、庄内の人たちは西郷を深く尊敬したという。そのような縁で、西南戦争でも旧庄内藩から派遣された兵士が亡くなっているし、戦後の西郷の名誉回復に庄内の人たちが奔走したという事情もあったようである。銅像で西郷と話し合っているのは、庄内藩士、菅 実秀 (すげ さねひで)。
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本間家の旧本邸は、時間がないながら、なんとか覗くことができた。本間美術館や、旧鐙屋、山居倉庫なども面白そうであったが、今回は時間切れ。いつか雪辱を果たしたい。これが本間のお屋敷。
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そして今回最後の目的地、海向寺へ。ここには、コンクリート作りの収蔵庫内に、2体の即身仏がおわします。本堂の軒下には、先の羽黒山の三神合祭神と同様、邪鬼が柱を支えていてユニークだ。
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ここに並んでおられるのは、忠海上人 (1755年入定) と、円明海上人 (1822年入定)。空調のよくきいた静かな収蔵庫でのおふたりとの無言の対面に、ほかの寺にはない緊張を感じることとなった。
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なお、上でご紹介した注連寺の鉄門海上人の使用した鐘がこの寺に展示されていた。少し叩いてみると、カーンと乾いた音がした。
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今回対面することのできた 6体の即身仏、お姿や色やかすかな表情にもそれぞれ違いがあることが分かった。色については、これまでに保存の目的で手や顔に防腐剤を塗ったり、また目の回りだけ色をつけるということもあったため、個々の即身仏で違いが出てしまったという。また時代的にも、最も古い本明海上人が 1683年の入定、最も新しい鉄龍海上人が 1878 - 80年の入定と、約 200年の幅があるわけで、東北地方における即身成仏の習慣が根強く継続したことが分かる。生前は荒くれ者であった人もおられるが、壮絶な修行の末、現在では仏さまとして祀られていることは、人々に勇気を与えると言えるであろう。実はそれぞれのお寺でお聞きしたことには、どの仏さまも 12年に一度、丑 (うし) 年に衣を新調して着せ替えるらしい (但し、大日坊のサイトには、6年に一度で、丑年と未 (ひつじ) 年とあるが)。その際に古い着物は裁断してお守りの中に入れ、一般の人に販売する。そのようなことも、即身仏という存在が未だに地元の人々の心の支えになっていることが分かるのである。海向寺の境内に住んでいるこのノラネコ (いい毛並みのようだが) を見ても、生きとし生けるものへの愛着を感じてしまう私であった。それにしてもこのネコちゃん、もうちょっと人間になついてもよいのでは ? (笑)
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さて、海向寺を辞そうとして車を発進すると、実に素晴らしいナイス・サプライズに遭遇した。あの滝田洋二郎監督、本木雅弘主演の映画「おくりびと」のロケ地のひとつが、なんと海向寺の真ん前であったのである!!
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「小幡」という、既に使われていない割烹の建物だが、確かに見覚えがある。
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そうそう、冒頭の方で、主人公が新たな勤め先を探すという、こんなシーンがありました。
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私はこの映画が好きなので、ロケ地にたまたま巡り合えて、単純にハッピーだったのであるが、調べてみるとこの映画、酒田や鶴岡の各地でロケを行ったようである。生と死がすぐ近くで隣り合い語らいあう即身成仏の土地、庄内地方において、このような生と死にまつわる映画が撮影されたとは、なんとも感慨深い。かつてこの地を走り回った現在の仏さまたちも、この映画の撮影を温かく見守ったことであろう。

前回の記事の冒頭で、今回の旅行をクラゲ・アンド・ミイラの旅などと軽口叩いてしまったが、実際問題、その対照は興味深い。つまり、生命の維持を全く他人任せとして水中をフワフワ漂うクラゲと、この上ない激しい意志で生をつなぎ、そして自ら死まで決してしまう即身成仏。これほど極端な対照はない。我々の人生においては、そのどちらの極端な事態も、通常は発生しないのであるが、そのような対照に心を留めることで、普段見失いがちなことに気づくことができるかもしれない。なので、山形でクラゲ・アンド・ミイラの旅、大いにお薦めしたいと思います!! 最後に、加茂水族館自慢の、直径 5m の大クラゲ水槽の写真をアップするので、瞑想にご活用下さい。
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by yokohama7474 | 2017-08-14 01:04 | 美術・旅行 | Comments(0)

山形旅行 その 1 善寶寺、鶴岡市立加茂水族館、鶴岡市内、南岳寺

幼少の頃からの寺好きとして、東北から九州まで、貴重な文化財のあるお寺の訪問にはかなりの情熱を傾けて来た私であるが、それでもまだまだ訪れたことのない寺社は、全国に沢山ある。このブログでも、関東、近畿のみならず中部地方や中国地方や九州の寺社を記事にしてきたが、東北の旅行記は未だ書いたことがない。そんなこともあって、先般 (7月後半)、東北地方で私がこれまで訪れたくて果たせなかった場所に赴いた。その場所は、出羽三山。日本固有の山岳宗教である修験道と、仏教の一派である密教との融合が見られる独特の土地で、何と言っても、極めて厳しい修行を経て自らの身体をミイラとして後世に残す、いわゆる即身成仏という習俗に、以前から大いに興味があったもの。現在私の手元には、この出羽三山の即身成仏を中心とする日本のミイラについての本が三冊あり、それ以外に学生時代に図書館で借りて読んだ本もあった。出羽三山は現在の山形県であるが、日本海に近い場所。山形新幹線で山形市に到着すると、有名な山寺 (立石寺) などもあるが、それでは 出羽三山までの移動に結構時間がかかる。そこで思いついたのが、羽田から飛行機で庄内空港に飛ぶという方法。これであれば、出羽三山に加えて鶴岡市内、酒田市内も観光して、まるまる 2日の旅程を組むことができる。と、そこに家人の意外な希望があった。なんでも、庄内空港からほど近い加茂という場所に、クラゲで有名な水族館があって、是非見てみたいという。しかも、家人のみならず義母までがその案の提唱者であるという。よし、そういうことなら話は早い。クラゲ・アンド・ミイラの旅。いざ行かん、山形!!

というわけで、朝 7時前に羽田を経ち、1時間後には庄内空港に降り立った。そしてまず向かった先は、空港からほど遠からぬ善寶寺 (ぜんぽうじ) というお寺。朝早いこともあり、人影もまばらで、木々の上に見える夏の朝の青空が気持ちよい。
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この善寶寺の歴史は古く、9世紀から10世紀にかけて活躍した妙達上人という僧が開いたとされる。妙達上人のもとに龍神が現れ、法華経の功徳を受けたいと希望したため、妙達が法華経を唱えると、今もこの寺に残る「貝喰 (かいばみ) の池」に身を沈めたという。それゆえこの寺は龍神信仰が盛んで、近世から現代に至るまで、漁業関係者に篤く敬われているらしい。境内入り口の向かって左手には均整の取れた五重塔が立っている。
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明治時代の建物で、国の登録有形文化財である。実はこの寺の主要な建物はすべて 2年前に登録有形文化財となっているのである。これから概観するが、この寺の堂塔の佇まいは実に素晴らしく、気持ちが清らかになるような気がする。尚、私自身もあまり明確に理解していなかったが、「登録有形文化財」制度は 2006年から発足しており、従来の国宝や重要文化財のような「指定」ではなく「登録」という制度を持ち、貴重な文化遺産としての保存を目的としている。文化財保護の観点がより明確にされた制度であろう。以下、総門、山門、五百羅漢堂。これらはすべて江戸時代のものである。
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上から見るとこんな感じで、そのバランスのよい配置の素晴らしさを実感できる。
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五百羅漢堂の中には、正面の釈迦三尊像と十大弟子像、そして左右に夥しい羅漢さんたちがおられる、大変賑やかな場所。肩を組んで何やら親し気に話しかけている羅漢さんと、それをウンウンと聞いている羅漢さん。その会話を想像してみるのも楽しい。
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これは実質的に本堂に当たる龍王殿。波のうねりを表現している独特な作りであるが、その華麗な装飾や狛犬を見ると、これはやはり仏堂というよりは神殿である。内部を拝観できるが、ご尊隊である龍王像は非公開。昨年は開基妙達上人生誕 1150年で特別公開されたようだが、その機会を逃してしまい、残念。
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さてこの寺では、ほかに意外な存在との出会いがあるのだ。これである。
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1990年に写真週刊誌「フライデー」が紹介して、日本中で大ブームになった、あの人面魚である。この人面魚、この善寶寺で撮影されたものであることは事前の情報で知っており、一説には今でも健在ということ (鯉の寿命は 30年くらいはあるとのことだし) で、この種の超常現象 (?) に深い興味を持つ私としては、是非是非見たいと思ったのである。実際、古い歴史を持つ寺のこと、そのような俗っぽいブームには目もくれないのかと危惧したのだが、なんのことはない、境内の何か所かにこのような案内板が。
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おっと、ここに来れば 27年前のブームも未だに盛んであるかに誤解するような親切な案内ぶりではないか。だが、ここで気になることがひとつある。それは、私が上でご紹介したこの寺の歴史の中で、龍神が身を潜めた場所を、「貝喰 (かいばみ) の池」と書いた。そう、上の写真で明らかな通り、それこそ人面魚が出現した場所なのだ。ということは、この魚は龍神の遣いなのであろうか??? ともあれ、現地に向かってみよう。一応善寶寺の奥の院に向かう途中の場所のようではあるが、深い山の中というわけではないので容易に辿り着くことができる。寺の前を通る道路を少し右側 (寺に向かって) に進み、すぐに左の細い道に入って行けば、池の近くまで車で行くことができる。車椅子でも通れるように整備された石段を進むと、あ、見えてきました。そこそこ大きい池で、水面が沈んだ緑色であり、そう思って見るせいか、なんとも神秘的な佇まい。
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奥の方には祠というか、それなりに立派な、龍神を祀る神殿があり、そこで売っている鯉のエサを池に放つと、鯉だけではなく鯰や亀までが集まってきて、壮絶な食べ物の奪い合いを展開する。
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そして、そのような魚たちの騒動や、あるいは静かな水面を睨みながらカメラを構えた私の前に、何度かそれらしい鯉が現れ、シャッターチャンスを与えてくれた。以下は実際に私がその場で撮った写真である。どうだろう、人面魚と言えるだろうか。
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祠の管理をされている地元の人たちと喋ったところ、いわゆる人面魚と認定されうる鯉は 5 - 6匹いて、27年前に有名になった鯉も、やはり未だ生きているはずという。私がここで感じたことには、人面魚と言っても何も不思議な存在ではなく、ただ単に額の模様が人の顔のように見えるというだけであって、たまたまそうであったとしても、彼または彼女の生存競争における優位性には直接結びつかない (笑)。だがその一方で、なぜに龍神伝説のあるこの池でこのような騒動が起こったのか、少し分かったような気がした。人は謂れのある場所には神秘を見ようとするのだ。だから、都会に住む我々はあの騒動を、ただ単に人の顔をした鯉が現れたということで不思議なことだと思っていたが、もし龍神を信じる人たちが見れば、なんとも有り難い存在なのである。そのことにはたと気づいたのは、その貝喰の池のほとりの祠で見つけた、このような奉納品である。
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蛇紋石とあるが、要するに、蛇のような形が自然に浮き出た石である。この祠だけでなく、善寶寺の本殿にもいくつか展示されていた。これも物理的には、周囲とは色の違う物質が入り込んだ岩石であり、怪異な現象ではないように思うが、でも人はこのような不思議な模様に、何か聖なるものの存在を見たいと願うがゆえに、特別な崇敬の念を抱くのであろう。人面魚もまた、この蛇紋石と似たような面はありはしないか。もちろん、人面魚騒動のきっかけが何であったのか、私には知る由もないが、もしかすると、この土地に神聖なものを見出す地元の人の思いが、どこかで関係していたのかもしれない、などと想像してみる。ただ単に、人面魚がいるとかいないとかいうことで騒ぐのではなく、その土地の持つ歴史と、人々が連綿とつないできた思いの強さに、何か大切なものを実感してみるのも一興かと思う。

朝から人面魚を目撃して、幸先のよいスタートを切った我々は、次なる目的地、鶴岡市立加茂水族館に向かった。ここは私もテレビで何度か見たことがある。集客に苦労していた小さな水族館が、クラゲの展示に力を入れ、今では展示しているクラゲの種類は実に世界一であり、大成功して話題になっている場所。
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私は水族館や動物園もかなり好きな方なので、ここで様々なクラゲを見て、大変感動したし、実に面白かった!! たまたま通りかかった館長さんが説明してくれたことには、クラゲは自力で泳ぐことはせず、水中を浮遊して、たまたまありついたエサによって生命をつないで行くらしい。よって、様々な水槽に入っているクラゲは、人がその中で動力を使って水を循環させているためにエサをとらえることができ、もし水の循環をやめてしまうと、水槽の底に折り重なって沈んでしまうのだそうだ (実際に停電でそのようなことも起こったらしい)。うーむ、究極の他人任せの生き方である。参考になるような、ならないような (笑)。この水族館では写真を撮り放題なので、数々のクラゲの美しい写真をものにすることができる。これらは私がスマホで撮ったもので、あまりにきれいなので、待ち受け画面に設定しようかと思ったが、人生ことごとく他人任せな人間だと思われたくなくて、未だにそうはしていない。でも、きれいだなぁ。
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様々なクラゲが展示されているのもさることながら、日に何度か、飼育員 (というのでしょうね、やっぱり) がいくつかの種類のクラゲを例にとって、どのように食物を取ってどのように成長していくかを実演 (顕微鏡映像を含めて) で説明してくれるのが大変面白い。私が見たときには、うら若い女性の飼育員が、時折、ニコニコしながら若干ブラックな表現 (つまりその、クラゲのあまりに他人任せの生き方とか、あるクラゲには種が違うクラゲを食糧として与えるが、それは決して残酷なことではないとか) を交えて説明していたのが、大変によかった。ブラックと言えば、この水族館のレストランの名物は、クラゲラーメン。さんざんその姿の透明な美しさを愛でたのち、最後はおいしく頂くというのも、油断できない人生のアップダウンを象徴しているようで、なかなかに教訓的である。
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それから我々は、鶴岡市内へ向かった。庄内藩の城下町であり、かなり文化的な雰囲気をたたえた街であるようで、歴史的建造物も数多い。最初に訪れたのは致道博物館。もともと鶴ヶ岡城の三の丸にあたり、現在では歴史的建造物を移築、保存するとともに、地元の歴史にまつわる資料を展示している。4つの歴史的建造物のうち実に 3つは重要文化財で (但しそのうちのひとつ旧鶴岡警察署庁舎は現在改修中で、見ることはできないが)、藩主酒井氏の庭園は国の名勝に指定されているという、見どころ満載の素晴らしい場所である。
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これはその重要文化財の旧西田川郡役所。1881年築造で、明治天皇の東北巡幸の際には鶴岡における行在所になった場所であるとのこと。立派な建物だ。
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これは旧庄内藩主御隠殿。この奥に名勝の庭園がある。炎暑の日ではあったが、うちわを片手にこのような緑を目にすることで、本当に気持ちが清々しくなる。
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こちらは重要文化財の、田麦俣 (たむぎまた) の民家。2階と 3階を養蚕に使用していたので、屋根が広くて、まるで兜のような独特な形をしている。
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次に訪れた場所も重要文化財の建造物。幕末から明治期にかけて、庄内地方では酒田の本間家に次ぐ大地主であった風間家の旧居である。旧風間家住宅「丙申堂」(へいしんどう) と呼ばれている。いや実に立派なお屋敷であり、ガイドの方が丁寧に説明して下さる。中でも、屋根の上に実に 4万個もの石を乗せてある点、全国有数である由。尚、時代小説家、藤沢周平はここ鶴岡の出身で (この街に記念館もあるが、今回は時間がなくてパス)、彼の原作になる映画「蝉しぐれ」のロケはここで行われたらしい。雰囲気あります。
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そしてその裏手の方に、風間家の旧別邸もあり、そちらは「無量光苑釈迦堂」と名付けられている。こちらは国の登録有形文化財。その名前からてっきり寺院かと思いきや、もともと来賓の接待や関係者の集会場所として使われた場所で、石造の釈迦如来像を安置していることから、九代目当主がこのように命名したとのこと。庭に面して二面が開け放たれる構造になっていて、なんとも気持ちがよい。
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さて、鶴岡おそるべし、まだほかにも重要文化財建造物があるのである。しかも今度はまた全く趣向の違うもの。これである。
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1903年に完成した、鶴岡カトリック教会天主堂である。パピノ神父というフランス人の設計とされており、瀟洒な外見でありながら、内部はまさに厳粛な信仰の空間である。炎天下から足を踏み入れた瞬間、心に涼やかな風が通ったような気がしたものだ。明治の頃にこのような立派な教会ができるほど、この鶴岡には文化的な土壌があったということだろう。
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そして、確か向かって左の祭壇であったろうか、思わぬ彫刻を発見して私は「あっ」と声を上げた。これはまがうことなき「黒いマリア」である。スペインやフランスにしか存在しておらず、キリスト教以前の地母神との融合ではないかという説もあるこのようなマリア像について私は興味があり、随分以前に芸術新潮誌で特集したものも読んだし、「ダ・ヴィンチ・コード」系の陰謀論との関連で書かれた本を読んだこともある。そんな、ヨーロッパの深部と関連するマリア像が、なぜ日本にあるのだろう。実はこの教会の落成記念に、フランス、ノルマンディーのデリヴランド修道院というところから贈られたものだという。やはり鶴岡、おそるべしである。
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さて、それから私たちは、先に即身成仏を見てしまおうと、鶴岡市内にある南岳寺というお寺に詣でたのであるが、それは後回しにして、もう少し一般的な鶴岡の名所を先にご紹介する。これは、車窓からしか見ることができなかったが、鶴岡公園にある大宝館という建物で、大正天皇即位を記念して建てられたもの。内部は高山樗牛ら、郷土ゆかりの人物たちを紹介しているらしい。
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そして、藩校の致道館。1816年から 1873年まで使われ、表門、孔子を祀る聖廟、講堂等々が残る、国の史跡である。現存する藩校は全国的にも十指に満たないようだが、ここは本当によく残っていて、往時の雰囲気がよく分かり、貴重である。
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面白いのはこの額である。堂々とした字で、一見、墨痕鮮やかな字の部分が浮き出ているように思われるが、間近で下から見ると、くぼんでいるのである。
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さて最後に、この日お目にかかることができた即身成仏をご紹介する。鶴岡市内にある南岳寺というところにおられる、鉄竜海上人である。これが南岳寺。正面に見えるお堂の地下に安置されている。
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即身成仏については、また次の記事で背景や私自身の思いを記したいと思っているが、いわゆるミイラ状として残された人体であり、いずれも「上人」という極めて高い尊称を持って、仏としてあがめられている。それもそのはず、即身仏になるためには、究極の厳しい修行が必要とされるのである。つまり、何年もかけて徐々に五穀絶ち、十穀絶ちと食物を制限して行き、木の皮を食べて生き延び、最後は土中に入る。鐘を叩いている音が土中から聞こえている間は生存が確認されているが、それが聞こえなくなると、いよいよ生命が絶えたということになり、それから 3年ほど経ってから、人々が遺骸を土中から出すというもの。まさに壮絶、究極の荒行である。これは日本にしかない信仰のかたちであって、昭和 30年代に調査がなされるまでは、ほとんど知られていなかったらしい。日本に現存する即身仏は 16体とも 17体とも言われているが、そのうち実に 6体が、この庄内地方に存在する。私は今回の旅で幸いなことにその 6体すべてと対面することができた。また、今回訪れた 5ヶ寺においては、それぞれにお寺の方による説明があったが、それらを総合することで、自分の想像していた即身成仏のイメージ通りの点もあれば、そうでない点もあった。それはまた次の記事に譲るとして、最初にお目にかかったこの鉄竜海上人は、実は庄内地方で最も遅い時期のもの。実は既に明治に入ってから本懐を遂げて即身仏になられたわけだが、明治の世の法律ではこれは許されていなかったため、過去帳を明治元年と書き換えて処理したとのこと。この南岳寺の住職であり、また、先達である鉄門海上人 (翌日訪れた湯殿山注連寺にその即身仏が現存する) の意を汲んで、ちょうど今クラゲの水族館の建っている加茂の港で水揚げされた魚介類を鶴岡の街に運ぶために、山を拓いて道を作ったりしたという。つまり、即身仏となった僧たちは、数々の社会事業に取り組み、生前から深い尊敬を集めていた人たちが多いようである。私は初めて対面したこの鉄竜海上人のお姿に、当然ながら強い衝撃を受けた。これが鉄竜海上人の写真。本から撮影しているので、テカリがあるものの、その壮絶なお姿は想像して頂けるものと思う。
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その日の夜、湯野浜温泉の快適な宿に泊まり、ちょうど夕食時に沈み行く夕日を眺めながら、その日を反芻した。凄まじい荒行をした僧たちも、同じような夕日を何度も眺めたことであろう。人々の生活を見守って来たこの夕日を見ながら、平和な現代に生きる私は、申し訳なくもちょっと贅沢な食事を堪能し、生きている幸せを実感した。そしてアルコールは進み、一日の疲れによって私は、食後すぐに眠りの世界に落ちて行ったのであった。「明日はいよいよ出羽三山だ・・・」と呟きながら・・・。
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by yokohama7474 | 2017-08-13 01:56 | 美術・旅行 | Comments(0)

生誕 140年 吉田博展 東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館

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海外で高い評価を得た画家、吉田博 (1876 - 1950) の版画を集めた展覧会についての記事を、今年の 3月 8日に書いた。その記事の中で私は、吉田の抒情的な版画の持つ素晴らしい表現力と筋金入りの美しさに賛辞の言葉を捧げたのであった。

http://culturemk.exblog.jp/25349917/

また私は記事の中で、それ以前より全国を巡回中のこの吉田の本格的な回顧展が、東京では 7月から 8月にかけて、新宿の東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館で開かれるので、それに行ってみようと宣言した。この記事はそれに基づき、以前見た版画展とは違う大きなスケールで開催された吉田の回顧展について、少し語ってみようと思う。以前の記事で書いた吉田の伝記的な事柄は基本的に省略するつもりなので、ご興味おありの方は、是非 3月 8日の記事をお読み頂きたい。これが 23歳の頃、渡米後の吉田の肖像写真。
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福岡の久留米に生まれた吉田は、豊かな自然に恵まれた土地で育ち、山野を歩き回って絵を描くという少年期を送った。展覧会は 10代の頃のスケッチや水彩画から始まる。以下は 1893年、16歳のときの「驢馬」と「画材と鉢」。彼はこの翌年には東京に出て不同舎という画塾に入門するのだが、既にして驢馬の毛の繊細さや、水の入った鉢の自然な佇まいを表現できる技術を持っていたことが分かる。
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東京に出た 1894年、上野の東照宮を描いたスケッチ。やはり彼には風景画家としての卓越した技量が修業時代から備わっていたことが明白である。
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その頃の水彩画があれこれ展示されていて興味深い。とても 20歳前後の若者の作品とは思われないほどの完成度である。これは「鶏頭のある風景」(1894 - 99年頃作)。
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これも同じ頃の作、「つるべ井戸」。井戸の回りに咲いた花の存在感が感じられる。
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これは 1899年頃、ということは渡米前後に描いた水彩画「東照宮、日光」。外国人に好まれる観光地であることから題材に選ばれたのであろうか。自分の技量を世界に示そうという大胆な目標を持っていたということであり、若者のそのような清新の気風は、実に清々しいものだ。
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この展覧会に展示されている最も早い時期の油彩画がこれである。1898年、明治美術会 10周年記念展覧会に出品された「雲叡深秋」。クールベを思わせる写実のわざであるが、ただ、画面の中から沸き立つドラマ性や神秘性はなく、風景としての迫真の写実をひたすら追い求めたということか。実際、この展覧会を見て行くうちに私の中には、吉田博という画家の目指したところについて、ある思いが募って行った。それについては後で述べるが、思い返してみればこの油彩画の第一印象が、その後の鑑賞について回ったものと思う。
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吉田の渡米のいきさつ等は以前に記事に書いたので割愛するとして、彼が米国で展示した日本の風景を描いた水彩画は絶賛を博し、1901年に一旦帰国した吉田は、1905年に再度渡米、今回はヨーロッパにまで足を延ばした。私が興味を持ったのは、かの地で彼がいかなる油彩画を描いたのかということであった。例えばこの「グロスター」は、1904年に米国ボストン近郊の風景を描いたもの。なるほど、陽光の違いか空気の違いか、日本的要素をあまり感じさせない光の表現で、好ましいと思う。
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これは 1906年の「ウィンザー橋」。言わずと知れた王家の居城ウィンザー城のある街である。これは水彩だが、雨が多い英国の空気をよくとらえていると思うし、抒情もある。
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これも 1906年の油彩「ヴェニスの運河」。実はこの作品、夏目漱石の「三四郎」の中で言及されているらしい。三四郎と美穪子が、「長い間外国を旅行して歩いた兄妹の画」を見る (当時吉田博は、義妹でのちに結婚する、やはり絵を描くふじをという女性と 2人で欧米を旅していた) 場面で、美穪子が「ヴェニスでしょう」と呟くシーンである。漱石の美術好きはよく知られているが、英国にあっても日本にあっても、権威のあるものよりも新しい芸術に興味を示した点が興味深い。明治の世に、ヴェニスの風景を見てヴェニスと分かるとは、相当な教養あるヒロインである。今年は漱石生誕 150年 (ということは、大政奉還の年に生まれたわけだ)。久しぶりに彼の作品でも読み返したいなぁと思い、書棚に並ぶちくま文庫の全 10巻の漱石全集を眺める私であった。
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帰国後の博は、黒田清輝を中心に結成された白馬会に対抗する太平洋画会のメンバーとして活躍する。これはそんな頃、1910年の作品で、「渓流」。これも上記の「雲叡深秋」と同じく川の流れを描いているが、より一層力強くまた鮮やかになっているように思われる。
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さて、吉田は既に若年期を過ぎて中年に至り、画家としての真価を問われる時代に入ってくる。そのような時代、彼が描き続けたのは、自然であった。これは大正年間の「穂高山」。私が以前松本で初めて出会った吉田の作品はこれであったと思う。
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またこれは大正 8年 (1919年) の「野営」の 第 2作と第 3作。
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ここには見事な自然が描かれている。だが、絵画の本質が、ただ目に見えるものを写すだけでないとすればどうであろう (私自身もその解は持ち合わせていないのであるが)。吉田が敵視した 10歳年上の黒田清輝の作品については、以前も記事として採り上げたが、さて、吉田の 40代の作品と、黒田の 40代の作品を比べてみて、鑑賞者はどのように思うであろうか。1910年代から 20年代に入ると、当時の美術の最先端地域であったパリでは、ありとあらゆる前衛がニョキニョキと現れてきている。もちろん、それが一概によいと言う気はないのだが、少なくとも私が抱くのは、せっかく明治初期の日本から飛び出して欧米を見た画家が、円熟期に差し掛かる頃に、このような絵を描いていてっよかったのだろうかという疑問である。ある意味で象徴的とも言おうか、日本人の洋画家の例に漏れず、吉田も日本画の作風で作品をものしている。これは恐らく大正期の作と思われる「雪景」。この絵が文句なしに美しい。だがその近代性はこの種の絵画作品において充分な説得力を持っているだろうか。
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ここで独断と偏見に満ちた、だが私がこの画家の作品を一定数見て思った感想を述べると、やはり吉田の才能が最大限発揮されたのは、風景を描いた版画であったのだと思う。例えばこの 1924年の油彩画「グランドキャニオン」は素晴らしく美しいのであるが、吉田はほぼ同じ構図の木版画を制作している。そしてそれこそが、恐らくは吉田の天職であったのだろう。
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以下同様に、吉田の版画を見ているかのように美しい (!) 油彩画の数々。1924 - 25年の「ヨセミテ公園」と、1925年の「モンブラン」。
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繰り返しだが、これらの風景を実に美しく描いたのが吉田の素晴らしい才能であって、それゆえに彼は、(逆説的ではあるが) 世界に冠たる油彩画家になることはなかった。それがよかったのか悪かったのか、私には分からない。だが例えばこの 1929年の「神樂坂通 雨後の夜」は、その日本的情緒が素晴らしく、このような作品を残しただけでも吉田は、木版画の世界では歴史に残る画家であって、その才能は、小林清親や川瀬巴水に匹敵するとは確実に言えるであろう。
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私には一流の芸術家の心中は分からない。だが、ある程度の想像力を持って推測することはできる。とびきりの才能を持っていた吉田は、その才能を持つがゆえに、自らの創作活動をどこに見出すかを自分で決める思いは強かったろう。そして彼は、日中戦争の頃から志願して戦地に赴き、従軍画家として様々な作品をものしたのである。これは、撮影場所と時期は不明ながら、戦地における吉田。その表情には決死のものは見受けられず、むしろ笑みを浮かべているように見える。
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後世の我々が、偉大なる芸術家であった吉田の行動を、70年以上経過した今、あれこれ言う意味があるのか否か分からない。だが、この展覧会で初めて接することとなった戦時中の吉田の創作活動は、本人の意図はともかく、戦争の情景をヴィヴィッドに描いたものとして、ある意味での絶望感を見る者にもたらすと言ってもよいと思う。これは従軍時代の写生帖から。
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今回私がショックをもって眺めた作品はこれだ。1941年、太平洋戦争に突入する頃の「急降下爆撃」。それまでの画家が見たことのない近代戦における新たな視覚である。非凡な風景版画家たる吉田が、この光景をどのように発見したのか、大変興味がある。少なくともこの迫力は大変なものであり、画家の中でこのような刺激的な視覚が、日常生活とどのように結びついていたのであろうか。
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これは、日本の配色濃厚となっていたであろう 1944年の作品で、「溶鉱炉」。ここにはもはや、大自然の雄大さはなく、人間の営みを称賛する姿勢のみが見受けられるのである。
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繰り返しだが、風景画家、木版画家としての吉田博の才能は素晴らしい。だが私がこの展覧会から学んだことは、いかに素晴らしい芸術家でも、その創作範囲においては向き不向きがあること。そして恐らくは芸術家自身、創作活動の中でそのようなことに気づくだろうということだ。軽々と国境を超えるコミュニケーションツールが当たり前となり、あらゆるイメージが世界中を瞬時にして飛び交う現代、恐らく吉田が持ったであろう誇りと限界の意識に、少しでも迫りたいと思う。その点においては有意義な展覧会であるとは言えるであろう。

by yokohama7474 | 2017-08-09 23:22 | 美術・旅行 | Comments(0)

没後 40年 幻の画家 不染鉄 東京ステーションギャラリー

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先般このブログでもご紹介した、アール・ブリュットの画家アドルフ・ヴェルフリの展覧会を見に東京ステーションギャラリーを訪れた際、何やら異様な絵画をあしらったチラシが目に入った。それは上に掲げたもので、富士山とその麓を海まで俯瞰で描いたものであるが、写実的とはとても言い難く、だがその一方で描写はかなり細かい。一見して「異様」と感じたのは、このような密集感と富士という雄大な山とのアンバランスであったようだ。「不染鉄」とあるのはどうやら画家の名前らしいが、聞いたことがない。未知の画家の展覧会となると、私は血が騒ぐのである。なにか通常と違った感覚をそこで得ることができるのではないか。そう思って、会期が始まってまだ間もない頃にこの展覧会を訪れた。

画家の名前は不染 鉄 (ふせん てつ)。1891年に東京、小石川の寺の息子として生まれ、本名は哲治 (てつじ)。日本画を習ったが、写生旅行先の伊豆大島や式根島で突然漁師になったかと思うと、現在の京都市立芸大に入学して首席で卒業、その後は帝展で入選を重ねるなどの実績を挙げたが、戦後は画壇を離れ、奈良に住んで気ままに絵を描いたという。1976年に亡くなってから昨年で 40年。これまで、1996年に奈良県立美術館で一度回顧展が開かれただけで、東京での展覧会は今回が初めてである。これが不染の肖像。上記の絵の一種異様な迫力からすると意外だが、飄々とした人柄のように見えるではないか。
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まず、ポスターに使われた彼の代表作、「山海図絵 (伊豆の追憶)」(1925年) から見てみよう。これが全体図。真ん中に聳えるのは紛れもない富士山だが、それより手前は茶色い土地、向こう側は白い土地である。これは一体どういうことなのか。
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手前の風景は、副題にもある通り、伊豆の方、つまりは太平洋側である。このように集落や岩や灯台などが細やかに描かれ、緑色をした海の波も丁寧に表現されている。そこには船もあり、人々の営みが感じられる。
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その一方、奥の風景は何かというと、これはなんと、しんしんと雪の降り積もる日本海側なのである。茅葺の家が静かに佇んでいて、ここには人々の暮らしは雪に閉ざされている。
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このように、富士を挟んで、実際にはありえない対照的な風景を俯瞰するという作品なのである。しかもその表現がかなり細密であるがゆえに、不思議なリアリティと詩情が画面を支配している。なるほど、ちょっとほかにはないような奇妙な作品である。展覧会ではこのような不染の作品の数々との新鮮な出会いを果たすことができる。初期の習作などは展示されておらず、大正期の完成作から始まる。20代の作とはいえ、不染の個性が最初から明確に感じられるものばかり。これは「暮色有情」。古い家並みを俯瞰で描いており、墨の濃淡だけで素晴らしい情緒を描き出している。私はこの家々を見て、なぜとも知れず懐かしい思いを感じたものだ。この静謐感が伝わるだろうか。
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これは一転して鮮やかな赤が印象的な「東京郊外秋景」(1917-18年頃作)。まさに錦秋という言葉がふさわしい紅葉を描いているが、だが上の作品と同様、静かな情緒が画面を支配していて、見ていて懐かしい思いにとらわれるのである。
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これは「林間」(1919年頃作)。やはり茅葺屋根の家がどこか懐かしい。そしてここにも見える細密性。
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これは「雪之家」(大正末期~昭和初期頃作)。既にこれまで見てきた何点かの抒情性を合わせたような印象であるが、面白いのは、同じ茅葺の家を描くにも、最初の作品とは違って、輪郭はくっきりと線で描かれている。それによって画面に硬質なものが付与されているが、その硬質さすら抒情性を醸し出していると思う。非常に優れた手腕である。
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展覧会に展示されている作品の中には、ただ風景を描いたのみならず、そこに不染自身が紀行文のようなものを書き加えている例が多く見られる。これは 1923年の「伊豆風景」。メルヘンタッチと言ってもよい作品であり、添えられた言葉も、例えば「二三日前に乗った汽車は今頃もあの道を走っているかもしれない」と、詩情あるものである。
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これは、不染がその後の作品でも繰り返し描くこととなる奈良・西ノ京の風景で、お寺好きには一目瞭然だが、奥の建物は唐招提寺の金堂である。1927年作の「都跡村之図」。やはり下の方に文章が書かれていて、唐招提寺の詩情を、ですます調の丁寧語で書き綴っている。このような作品を描いた彼の心の中には、一体どのような思いがあったのか。ただ厳しい画業の追求ということではなく、自分の足で歩き、目で見たものを、詩的に表現することで、人々に時の流れの儚さや人の営みの尊さを訴えたかったのか。つまり、画壇で成功しようという野心が感じられず、むしろ人々に訴えることに価値を見出しているように思われる。
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これも同じ西ノ京だが、遠景に描かれているのは、薬師寺東塔である。不染の抒情性を表現するには、この西ノ京の風景はうってつけであったのだろう。やはり詩情豊かな作品で、なんとも心が穏やかになるが、但し、前景の家の描き方にはかなり細密描写も使われていて、かなり細やかな神経がここで使われていることも感じ取ることができよう。
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さてここまでの不染の作品を見て気づく特徴のひとつに、風景の中に人物が全く描かれていないことである。独特の静謐さはそのようなナイーヴな感性からも来ているのだと勝手に納得していると、1927年の作、「思出之記」(海邊) という横長の作品には、家の内外で語り合ったり作業をする人たちが描かれているのを発見した。ただ、もともと彼の風景画には人間の存在が暗示されているし、これらの人物も、言ってみれば風景のひとつを構成しているのではないか。それもこれも、不染の感性のなせるわざだと思う。
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そう、不染の作品は独特の硬質でいて抒情的なタッチなのであるが、そこにはその土地で暮らす人々の人生を見つける目があり、またそれは常に自らの来し方行く末に戻って行く感覚なのである。絵の中に自らの感傷的な思いを書き込むことも、あのあたりと関係しているのではないか。そして彼は、さらに直接的に自分を語る「生い立ちの記」という作品 (1931年) も残しているのである。これは部分的な写真だが、書いてある文章の冒頭は、「東京のかた隅 小石川の或小さなお寺に生まれました 母はランプの下でしきりにはたををっていた事なぞ覚えております」というもの。
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彼の作品には時に毒々しい要素があるものの、その多くは抒情的かつ現代的だ。この「凍雪冬村之図」(昭和初期頃) は、浮世絵風に見えながらその感性はかなりモダンで鋭角的と言ってもよいのではないか。それでいて抒情的である点に、不染の揺るぎない個性がある。
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これは、巻物になっている横長の水墨作品で、1947年の「南都覧古」。例によって手書きの説明のついた部分。
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この作品もそうだが、やはり奈良の西ノ京を描いた作品群が紹介されている。この昭和中期頃の作とされる「奈良風景」には、唐招提寺と薬師寺があり得ない位置関係で描かれている。つまり彼は現実の風景を写実的に描くことには興味がなく、抒情を表現するために空間を自分の中で再構成するのであろう。これが理解できると、冒頭の「山海図絵 (伊豆の追憶)」の手法がその集大成であることに気づくのである。
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これから 3点、薬師寺東塔を描いた作品をお目にかける。最初の「奈良風景」(昭和中期頃) は、この塔と唐招提寺金堂に加えて、遠景に東大寺大仏殿も見えている。
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次の「薬師寺東塔の図」(1970年頃) は、私の心にズシンと衝撃を与えてくれた作品。朝日がなぜか二重となっているが、シュールなまでのリアリティがあって美しい。これはデザインとして完全に完成されており、事実不染は似たような構図で何枚もの作品を残している。
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ところがそれに先立つ 1965年頃のこの「薬師寺東塔之図」は、同じ塔を描いていて、やはり日の出は二重になっているものの、背景を丁寧に描いており、上代の例えば春日曼荼羅のような風景入りの仏画のような雰囲気がある。これも実に素晴らしい絵で、できれば複製を手元に飾っておきたいくらいである。
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展覧会ではこの後に上記の「山海絵図 (伊豆の追憶)」が展示されていて、その他いくつかの富士山の絵も見ることができる。これは昭和初期頃の「富嶽之図」。細部のタッチはいかにも不染であるが、富士の写実的な描き方に迫力があり、ちょっと意外な連想だが、片岡球子などを思い起こさせないだろうか。
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不染の創作活動がこのように様々な様相を呈していることは非常に面白いのだが、ほかの例を挙げると、この「南海之図」(1955年頃作) はどうだろう。縦長の掛け軸の画面の下 2/3 以上が暗く渦巻く海で、それを墨だけで表しているのである。
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さあそしてこれは、中世の仏画を思わせる「蓬莱山之図」(昭和中期頃作)。仙人の住むという蓬莱山を描いているわけであるが、円形に閉じ込めたこの聖なる山の様子は、見ているうちに仏画ではなくヨーロッパの写本のように見えてくるから不思議である。
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と思うとこの「海」(1975年頃) では、おなじみの茅葺屋根の家々が並ぶ前を、なぜか魚たちが泳いでいる幻想的な風景が描かれている。さて、これをもってパウル・クレー風と言ってしまいたくなるのは私だけだろうか。
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これは 1974年頃作の「潮騒」の一部。こうなってくると、現代若手画家として注目を集めている池田学のペン画のようだと言ってしまいたくなる。
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仏教のお堂を描いた対照的な作品も大変に興味深いのでご紹介する。まずこれは、昭和 40年代に描かれた「夢殿」。言うまでもなく法隆寺の有名な建物であるが、このしのつく雨の中の凛とした姿はどうだろう。
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そしてこれが、1971年の「静雨 (静光院)」。同じ雨模様でも、これは全く異なるタッチの幻想的な風景。静光院とは、架空の寺院らしいが、もし多少なりとも近いイメージの建物を探すとすると、新薬師寺の本堂ではないか。建物のかたちも近いし、内部も、本尊薬師如来を取り囲む眷属の十二神将たちを思わせる。展覧会の図録には、「仏たちを従えた阿弥陀如来が鎮座している」とあるが・・・。
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これは、1968年12月29日に制作された「古い自転車」。知人に贈呈したもののように思われるが、78歳の自分を揶揄するような内容の文章が書かれており、この古い自転車とは、彼自身のことなのかもしれない。
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また彼は、自分が生まれた小石川の光圓寺にある大いちょうを何度も描いている。これは昭和 40年代の作品。実はこのいちょう、樹齢千年を超えると言われているが、戦時中の爆撃で焼けてしまったらしい。だが今でも焼け残った部分から、逞しく枝葉を伸ばしているとのこと。そうするとこの絵は、不染のイメージの中にある大いちょうが黄金の葉を散らしているところということだろう。ここでも古い自分を自分になぞらえているのだろうか。
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彼がはがきに絵と文を入れて実際に投函したものが沢山展示されている。夜明け前に目覚め、自らの中に神と悪魔、ジキルとハイドを感じている不染。だがその自画像は飄々としていて、深刻な精神のバランスの危機は感じさせない。鋭敏な感性を持つ芸術家なら、むしろ当然のことであろう。もっとも、上で見てきたような多彩な作風に、彼自身、複数の人格を感じる瞬間があったとすれば、その内面を少し覗いてみたい気がする。
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このように、全く未知の画家の様々な面に触れることができて、大いに触発される展覧会である。これからは時々、この展覧会の図録を見ながら、郷愁の世界に浸ることもあるかもしれない。

by yokohama7474 | 2017-08-06 23:17 | 美術・旅行 | Comments(0)

ジャコメッティ展 国立新美術館

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20世紀を代表する彫刻家、スイス生まれでフランスで活躍したアルベルト・ジャコメッティ (1901 - 1966) の大規模な回顧展である。この彫刻家の作品はちょっとした美術館には大概展示されている、というとさすがに誇張かもしれないが、世界のあちこちの近現代美術館でお目にかかる彫刻家であり、その作品は一目見てすぐに分かる。そう、上のポスターにある通り、ひょろ長い人間の姿が特徴なのである。ほかに思い当たる 20世紀の彫刻家というと、ヘンリー・ムーアとかコンスタンティン・ブランクーシがいるが、それぞれに全く違う、それでいてすぐにその作家と分かる明確な個性を持っている。私が記憶する限り、東京ではジャコメッティの個展は近年にはなかったと思う。このひょろ長い人体は一体いかにして生まれてきたのかという秘密に迫る絶好の機会だ。私はもともとこのひょろ長い人体が好きで、小説家ジャン・ジュネが著した「アルベルト・ジャコメッティのアトリエ」という本を随分以前に読んだことがある。面白い本であったが、やはり芸術家を知るにはその作品に触れるのがいちばん。この貴重な機会を有効活用したい。
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展覧会は、初期の作品から始まる。これは 1919年の作品というから、ジャコメッティ 18歳。「ディエゴの肖像」である。描かれているのは、1歳年下の弟。ここでは新印象派のような色遣いが意外である。
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ジャコメッティは 1922年にパリに出て、あの有名な彫刻家、ブールデルに師事する。ブールデルとジャコメッティは、同じ彫刻家といっても全く違うタイプであるので、この経歴は大変に興味深い。もしかすると、ロダン - ブールデル的な彫刻への反発が、彼の作風を決定したのではないかと思われる。当時のパリは前衛真っ盛りで、ジャコメッティもすぐにキュビスムやシュールレアリズムに入って行くのである。これは 1926年の「キュビスム的コンポジション - 男」。未だ彼の個性は現れていないものの、まあこれほどブールデルの彫刻から遠い表現もないだろう (笑)。
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そして同じ頃 (1926-27年) に制作した「女 = スプーン」。上の男と比べると随分簡単な形象であるが (笑)、このあたりから自分のスタイルの模索が始まっていよう。ただ、この作品だけ見ると、ブランクーシを連想させるところもある。
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これはそれから 20年ほど経った 1947年の「鼻」であるが、既に確立した、なんともユニークな個性が見て取れる。彼の典型的な作風とは異なるものの、なるほど、人体の一部である顔をこのように認識するのか、と思うし、なぜか檻に閉じ込められた顔から、鼻だけが突き出していて、自由を主張しているようにも見える。
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ジャコメッティのシュールへの接近を示す例がある。1934年に出版されたアンドレ・ブルトン (言わずと知れた、シュルレアリスム宣言の作者である) の「水の空気」の挿絵。彼らしく彫塑的な造形であり、そのとぼけた味わいが面白い。
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さてジャコメッティは、1935年以降、モデルを使った彫刻制作に専念するのだが、「見えるものを見えるままに」表現しようと意図したところ、なんたることか、その彫刻はどうしても実物よりもはるかに小さいものになって行ったという。この逸話は大変面白い。ジャコメッティには人物がそのように見えていたのであろう。どうしても小さくなる人体を実物に似せるためには、ひょろ長いものにすることで身長を「回復」するしかなかったのでは。これは 1949年の「髪を束ねた女性立像」。高さは 23cm。
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だが彼の人物像にはさらに小さいものが沢山ある。これは 1946年頃の「小像 (男)」(6.6cm) と、1949年の「小像 (女)」(3.3cm)。ち、小さい (笑)。
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だがこの「縮小現象」を脱しようとしたジャコメッティは、1m という高さを自分に課すようになったという。我々はこれを聞いて思わず笑ってしまうのであるが、芸術家の心の中にある葛藤は笑いごとではないはず。なんとかその高さを実現すると今度は、人体の幅がどんどん細くなってしまった。なんとも苦しい試練に見舞われたものである (笑)。だがこれが偉大なる彫刻家ジャコメッティのスタイルになって行くのだ。これは 1948年の「髪を高く束ねた女」。高さは 117cm まで回復 (!) している。
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これ以降しばらくは女性の肖像制作がメインになったようであるが、この展覧会には彼のデッサンも数多く出品されている。これは 1961年の「裸婦立像 II」。なんだ、デッサンには顔も乳房もあるじゃないの (笑)。
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スタイルを確立してからのジャコメッティはまた、群像も作り始めた。これは 1948/49 年の「3人の男のグループ I (3人の歩く男たち I)」。街路をすれ違う人物たちであるが、ここには一種の都会性と、それから人間社会の抽象化が見られはしまいか。そうして、見ているうちに何か抒情的なものを感じてしまうのだから、不思議な彫刻である。
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そして群像は、こんな風にニョキニョキ地面から生えるようになって行く。1950年の「林間の空地、広場、9人の人物」。ジャコメッティ自身が語るには、この作品の中に、「前の春に描きたいと思っていた森の空地があるのに気がついた」とのことで、これだけ抽象化された作品にも、彼の記憶と結びついた要素があるらしい。やはり彼には、世界がこのように見えていたのだろう。
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展覧会の一角には、上のような抽象的な作品ではなく、実際のモデルをもとにした作品が展示されている。これは 1954年の「ディエゴの肖像」。そう、最初の方に少年時代の肖像画を掲げた、ジャコメッティの 1歳下の弟である。これはまた、存在感のある作風ではないか。
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その弟ディエゴはこんな人。なるほど、ジャコメッティが、ちゃんとモデルの個性をとらえた制作もできる人であることが分かるのである。
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ディエゴ以外にも実際のモデルを使った作品があれこれ展示されているが、この展覧会の出品作品の多くを所蔵するマーク財団の創始者、画商であったエメ・マークとその家族の肖像もある。上述の本を書いた作家のジャン・ジュネもモデルを務めているが、興味深いのはこの女性である。これは、1964/80 年 (一旦制作したものを後年手直ししたという意味か) の、「ディアーヌ・バタイユの肖像」。そう、「眼球譚」等で知られる、あの思想家ジョルジュ・バタイユの妻だ。これも、ちゃんとモデルの個性が表れた作品である。
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展示されている数々のデッサンは、上にも掲げた通り、彼の彫刻作品とは共通点もあるが、造形という点では大いに異なっている。これなど私は、フランシス・ベーコンかと思ってしまいましたよ。変容する人体を仮借なく毒々しく描いたベーコンは、そのメンタリティにおいてジェコメッティとはかなり異なると思うが、人体の見方という点では実は共通する要素があるのかと、新たな発見をした気分である。1964年の「男の胸像」。
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さて、ジェコメッティのモデルとしては、何といっても矢内原伊作 (1918 - 1989) が有名だ。彼は京都大学出身の哲学者で、その名は聖書に登場するイサクに由来するらしい (因みに父親は、東京大学総長を務めた矢内原忠雄)。矢内原はパリ留学中の 1955年にジャコメッティの知遇を得、大変な忍耐をもってジャコメッティのモデルを頻繁に務めたらしい。翌年パリを去る前には、帰国予定を延期してまで、実に 72日間連続してモデルを務めたという。そして 1957年以降 1961年まで、ほとんど毎年夏にパリを訪れ、モデルとなった。これは当時のデッサンで、「肘をつくヤナイハラ」。
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矢内原とジャコメッティはカフェでもよく会話を行ったらしく、そのような会話の間に手すさびとして描かれたデッサン、というかほとんど落書き (笑) のようなものが本展には沢山展示されている。
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この写真は、1957年、シャルトル大聖堂を訪れたときのジャコメッティと矢内原。
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さて、人体を中心に制作活動を行ったジャコメッティであるが、極めて印象的な動物の彫刻が 2点、出展されている。ともに 1951年の作品で、「犬」と「猫」。犬の方はモデルは不明だが、このやせ衰えてしっぽと頭を垂れた姿に自分を重ねていたという。一方の猫は、弟ディエゴの飼い猫がモデルであり、朝、この猫が自分のベッドにやって来るときにいつも顔だけが見えたので、彫刻も顔だけが実在感のあるものに仕上がったという。なるほど (笑)。
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彫刻のほかにいくつかの絵画作品も展示されているが、それらは通常の画家の仕上げとは異なり、未完成のように見える。この 1959年の作品「真向いの家」は、ちょっとベルナール・ビュッフェを思わせる硬質なもの。
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さてこの展覧会、最後の方のコーナーでは、巨大な彫刻が 3点展示されていて、そこで写真を撮ることが許されている。ここで我々はジャコメッティの作品と親しく会話することができ、その凝った照明や作品間の距離がなんとも心地よいのである。いずれも 1960年の作品で、「大きな頭部」(95cm)、「大きな女性立像 II」(276cm)、「歩く男 I」(183cm) である。よかったよかった、極小の作品しか作れない状態を克服して (笑)。以下は私が会場でスマホで撮影したもの。
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このように、ジャコメッティ芸術について広く深く知ることのできる貴重な機会なのである。最後に、上でご紹介したジャン・ジュネの「アルベルト・ジャコメッティのアトリエ」からの引用で、この記事を終えたいと思う。

QUOTE
美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(中略) ジャコメッティの芸術は、私には、どんな人にも、どんな物にさえあるこの秘密の傷を発見しようとしているように思われる。その傷が、それらの人や物を、光り輝かせるように。
UNQUOTE

ジャコメッティ作品の多くには、特に悲惨なイメージはないのであるが、ジュネの言う通り、人の多様性を認めながら、見る人の孤独 (= 傷) に語り掛ける、そんな作品の数々であるとは言えるだろう。そのような語り掛けに共感する人が多いからこそ、彼は 20世紀最大の彫刻家と評されるのだと思う。よく判りました。

by yokohama7474 | 2017-08-06 01:40 | 美術・旅行 | Comments(0)

大阪 中之島界隈 適塾、大阪市立東洋陶磁美術館 (ヘレンド展)

大阪、中之島のフェスティバルホールでバーンスタインのミサを聴いた日、つまりは 7月15日 (土) のことになるが、演奏会の前に久しぶりに訪れておきたい場所があった。それは、緒方洪庵の私塾である「適塾」(てきじゅく)。中之島からもほど近い場所にあり、戦時中の激しい爆撃を奇跡的に逃れて今に残る江戸時代の町屋建築として、非常に貴重であり、国の史跡・重要文化財に指定されている。本当にビジネス街にそこだけ異空間のように残っているのであるが、以前あった隣のビルを撤去したらしく、現在はその場所が公園となっていて、洪庵の彫像も置かれている。この日はまさにうだるような暑さであったが、なぜか暑い日に日本家屋を訪れると、懐かしいような思いを抱くことが多い。この日もそんなタイムトリップを楽しむことができた。
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さて、現代の我々は緒方洪庵 (1810 - 1863) のことをどのくらい知っているであろうか。高校の日本史の教科書にも必ず出てくる名前であるゆえ、その名を知らない日本人はあまりいないであろう。だが、何をした人であるかについて具体的に語れる人はさほど多くないはず。かく言う私も、以前この適塾に来たことがあるから、彼が蘭学者であり、この私塾で福沢諭吉や大村益次郎をはじめとする、日本の近代化に大きな貢献のあった人々を育てたということくらいは知っているが、さほど威張れるような状況ではない。そこで簡単に彼の人生を紹介すると、生まれは今の岡山県、武士の家である。1825年、元服後に父とともに大坂に移り、翌年、佐伯という姓を緒方に変える。その後江戸や長崎で蘭学を学んだ後、1838年に大坂に帰り、適塾を開く。つまり、彼が洪庵「先生」としての活動を始めたのは 28歳という若年であったことになる。その年に結婚もし、6男 7女を設けることとなる。評判が上がってもとの場所が手狭になったため、1845年に商家を購入して適塾を移転。これが今に残る建物である。その後佐賀藩から種痘を得て、除痘館という施設で天然痘の治療事業を始めた。実は彼自身、8歳のときに天然痘にかかったことがあるというから、その病気に恐ろしさを知っていたということであろうか。洪庵の医学界への貢献としてはもうひとつ、コレラ対策もあるという。1862年、幕府の要請により江戸に移るが、翌年、突然喀血して死去したという。生まれつき体は丈夫ではなかったようなので、過労という事情でもあったのだろうか。
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この洪庵の医学事業は子孫に受け継がれ、現在の大阪大学医学部のもととなった。従って、この適塾は現在、大阪大学の管理となっているようだ。幕末にこの世を去った偉大なる先達の意思が 150年に亘って継続されているとは、なんとも素晴らしいことではないか。この適塾の内部は、資料は撮影禁止だが、建物は撮影が許されている。もともと商家であり、入り口は狭いが奥行が深い。江戸時代そのままの佇まいがなんとも心地よい。
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興味深いのは 2階の奥にある塾生たちの暮らした大部屋である。適塾は塾生同士が切磋琢磨する環境が整っていて、お互いに教えあったり徹夜で議論したり、たまには騒いだりしたようである。こんな急な階段で階下とつながっており、真ん中に柱が一本立っている。
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この柱、よく見ると刀傷があり、壮年の塾生たちの血気さかんな様子がよく分かる。ここで若き福沢諭吉や大村益次郎、橋本佐内、大鳥圭介らが、日本の未来について熱心に語り合った様子を想像するのも楽しい。
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このように大変に貴重な場所なので、大阪に行かれる場合にはちょっと立ち寄ってみる価値はあると思う。そして、この適塾の隣にも、なんともうひとつ重要文化財の建物があるのである!! それは愛珠 (あいじゅ) 幼稚園。明治初期、1880年に建てられているが、驚くなかれ、未だに現役の幼稚園として機能しているのである!! 現在は建物の修復作業中であるようだが、それを機会に文化財として保存ということではなく、幼稚園であり続けるようである。歴史あるこの建物の威厳を見ると、これは実に信じがたいことだ。こんなところで学ぶ園児は一体どんな幼少期を過ごすのであろうか。それからここは、江戸時代の銅座の跡であるらしく、その石碑も立っている。
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そして、気が付くとこの幼稚園の道を挟んだ反対側のビルの入り口近くに、上記の除痘館という天然痘治療施設の跡があって、このような碑が立っている。またこのビルにはあらゆる科の医院が入っていて、緒方洪庵の意思を継ぐ活動が現代にまで継続していることが分かるのである。
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さて、そこから中之島の方へ向かうと、洋風の古い建物が見えて来る。以前、ここで行われたテレマン室内管弦楽団のコンサートをご紹介したこともあるが、これは重要文化財の大阪市中央公会堂。
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中之島地区にはほかにも、やはり重要文化財の大阪府立中之島図書館や、辰野金吾設計の日本銀行大阪支店など、歴史的な建造物が立ち並んでいて壮観だ。本当はそれらをすべて写真に収めてここで紹介したかったのであるが、なにせ炎暑である。熱中症で倒れる前にその案はあきらめました (笑)。そして目指す次なる目的地へ。その目的地、大阪市立東洋陶磁美術館は、このような建物である。
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広く知られていることに、この美術館には国宝 2点、重要文化財 13点を含む 4,000点に及ぶ東洋の陶磁器、つまりは陶器と磁器、もっと平たく言うと「焼き物」が収蔵されている。以前日本に存在した総合商社のひとつ、安宅産業の創業家によって収集された世界有数の陶磁器コレクションである。安宅産業自体は 1977年に伊藤忠商事に吸収合併されて消滅したが、このコレクションは住友銀行等の銀行団に引き継がれ、そして 1980年、コレクションの散逸を避けるため、当時の住友銀行頭取の磯田一郎によって、大阪市への寄贈が決定された。美術館の開館は 1982年。その後 1998年には新館の増設と本館の改修がなされた。私が前回この美術館を訪れたのは、その改修前なので、今回は久しぶりに安宅コレクションの真価に触れることになった。また私が訪れたときには、3ヶ月以上に亘る展覧会、「ヘレンド展」が開かれていた。ヘレンドはハンガリーの窯であり、19世紀半ばから現在に至るこの窯の様々な作品が展示されていて興味深かった。そもそも陶磁器は東洋のもの。西洋人がそれを真似ようと試行錯誤したという事実は、なかなかに面白い。だから私は、このヘレンド展を見たあとに、この美術館の平常展示で東洋の、つまりは中国・韓国・日本の陶磁器を見て、そのどちらに軍配を上げるかは自ずから明らかであると思ったものだ。陶磁器の美は、言葉で説明するのはかなり難しく、実物を前にじっくり見るしかない。この美術館の至宝である国宝の 2点をお目にかけよう。つまり、油滴天目茶碗と、青磁器「飛青磁 花生 (とびせいじ はないけ)」である。前者は既に以前、「茶の湯」展でご紹介したが、まあその姿の凛々しく美しいこと。
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前述の通り、今回はこの美術館改修後初めての訪問だったのであるが、ひとつ気づいたことには、平常展示の名品は、その上の天井がガラスになっていて自然光が入るようになっている。これはひとつの見識ではあるが、多分改修時には未だ充分に開発されていなかった LED というものが現代にはある。率直なところ、上からの自然光 (曇りや雨の日には全く光が差さない) よりも、周囲を暗くして LED ライトを当てる方が、名品の持つ力が発揮されるように思う。その点が少し残念であった。ところで今回のヘレンド展の出口で売っていたヘレンドのコーヒーカップ、その柄には記憶があった。家人が一時期集めていたカップでこういうものがあったはず。帰宅して確認したところ、ありましたありました。我が家の食器棚に並ぶヘレンドたち。もともと軽めのカラフルな色合いが気に入っていたが、これを機会にもっとお近づきになりたいと思いましたよ (笑)。
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このように中之島地区は素晴らしい文化に満ちた場所なのである。江戸時代、天下の台所として発展した大坂は、その名が大阪となったあとも繁栄し、戦前までは東京を凌ぐ経済規模を誇ったという。その遺産の一端に触れることのできるこの地区を、もう少しマイルドな気候のときにほっつき歩きたい。と、ここで思い出したことには、随分以前に、誰もが知る建築家、安藤忠雄がこの地区の再開発計画を作っていた。それはなんらかの理由で (バブル崩壊?) 実現しなかったようであるが、ふと思いついて書棚からそのプロジェクトに関連する本を取り出して来た。それは、SD (Space Design の意) という建築専門雑誌の 1989年 9月号。当時、大阪駅近くのナビオ阪急で開かれた「安藤忠雄建築展 中之島 2001」という展覧会で購入したものだ。なるほど、2001 ということは、21世紀の中之島を創造しようというプロジェクトであったのだろう。上でもご紹介した中央公会堂の内部に大きな卵型のホールを設置しようという斬新なアイデアである。この雑誌には安藤の直筆サイン (彼の初期の代表作のひとつ、大阪の茨木市にある光の教会の十字架をかたどったもの) があるので、お目にかける。
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安藤に関しては、今年の秋に回顧展が予定されているので、その際にまた大いに語ることになろう。大阪の人による大阪の改造、実現すれば興味尽きないものとなったであろう。ともあれ、この中之島地区の面白さは現状でも充分なもの。文化を愛する方々には、是非足を運んで頂きたい。

by yokohama7474 | 2017-08-05 23:13 | 美術・旅行 | Comments(0)

椿貞雄 千葉市美術館

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千葉市美術館は、その日本美術の企画の卓越ぶりにおいてよく知られているが、地方の公立美術館の使命のひとつは、その土地に住んだ画家の作品を展示して再評価を促すことであり、その意味でこの美術館も例外ではない。生まれは山形県米沢市であるが、人生の後半を船橋市で過ごした、この椿貞雄 (1896 - 1957) という画家の没後 60周年を記念して彼の画業を紹介するこの展覧会は、この美術館ならではの企画であり、泰西名画に飽き足らない趣味の方には、足を運んでみて損はないと申し上げておこう。会期は 7/30 (日) までであり、もちろん他の都市への巡回はない。

この画家については、私も全く知識がなかったが、上のチラシに「師・劉生、そして家族とともに」とあることから、岸田劉生 (1891 - 1929) の弟子であるようだ。そういえば自画像とおぼしきこの青年像は劉生風の厚塗りであり、日本的な洋画を描いた人なのかと思われる。だが、チラシを手に取った私の目に入ったのはこのような作品。
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これは東京国立近代美術館の所蔵になる「髪すき図」(1931年作) であるが、この奇妙にシュールなエロティシズムは、私をして即座にあの謎めいたスイスの巨匠、バルチュスを思わせたのである。例えば、バルチュスによるこの「赤い机と日本の女」(1967 - 76年作)。この作品は節子夫人をモデルにしているので日本的であるのは当然であるが、もしこの椿貞雄なる画家に、バルチュスに通じるような怪しい感性があるとするなら、是非見てみたい。椿貞雄、果たして船橋のバルチュスと呼ぶべき画家であったのか。
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さて、答えを急いでしまってはよくないかもしれないが、でもやっぱりはっきりさせておいた方がよいと思うので書いてしまうと、椿はバルチュスとは全く異なる画家でした (笑)。それでも、以下は言えるのではないか。つまり、岸田劉生から高く評価され、師と近しく交流を持った彼は、その作風も師に追随するものでありながら、実は全く違うテンペラメントも潜在させていた。つまり、もし違った経歴を歩んだなら、もしかするとバルチュス的感性に近づいた可能性もあるかもしれないと思うのである。以下、その作品を辿って行こう。

椿は故郷の米沢で旧制中学時代に水彩画を描いており、当時東京で始まっていた岸田劉生らのフュウザン会のポスト印象派活動に憧れていた。1914年に彼は中学校を中退して上京。この作品はその際に初めて油絵具を入手して描いた「落日 (代々木附近)」。ゴッホ風のこのような作風が、椿の憧れたポスト印象派のイメージであったのだろう。
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だが椿は、その頃の劉生の作風が、むしろ北方ルネサンスの細密描写に向かっていることを知った。そして彼は劉生に手紙を送り、自作を携えて劉生の自宅を訪問した。その椿の手紙に対する劉生の返事 (1914年12月29日付) が本展に出展されている。「貴方の挙げられた様な人々と自分をならべられると恐縮します。しかし尊敬をもつて下さる事は嬉しく思ひます。私に解る事だけは御話致しませう。いつでもよい時に御出で下さい」とある。きっと椿は、尊敬する劉生に対して、西洋の大家たちの名前に言及しながら、是非お会いしたいと、熱烈なファンレターを送ったのであろう。年齢は 5歳しか違わないものの、既に中央画壇で気を吐いていた劉生に対する椿の憧れが偲ばれる。
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そのとき椿が劉生のもとに持参したのが、展覧会のポスターにもなっている「自画像」(1915年作) である。
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劉生はこれを見て、椿に展覧会への出展を薦め、その結果この作品は一等なしの二等を受賞。それに対して劉生は、前年に仕上げていた自画像に「椿君に贈る」という文字を英文で書き入れて椿に進呈した。これがその劉生の自画像。下の方にある "Send to Mr. S. Tsubaki" という文字は、確かに北方ルネサンス風である。昨年西洋美術館で開かれた「クラーナハ展」では (私も昨年 12月20日に記事にし、そこでは触れなかったが)、日本におけるクラナッハ受容史の一例として、これに似たスタイルの劉生の作品が展示されていたものだ。
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それ以来椿は劉生の傍らで画家修業に励み、師と同じ場所で写生をしたりするなどして、この大家の影響を大きく受けて行く。椿による北方ルネサンス風の文字の書き込みの例として、1915年作の「八重子像」を挙げよう。妹を描いたものだが、師の作風への私淑は明白である。
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また、その頃の劉生による椿の肖像も残っている。1915年作の「椿君之肖像」。いかつい顔つきである。椿自身の述懐によると、「僕が岸田さんへ手紙を出した時、何しろ椿貞雄なぞと言ふと馬鹿に、やさしい名なので、色白のやさ男で水彩か何かやつている中学生だと思つてゐたら、まるでその正反対で、びつくりしたさうだ」とのこと。だが、この深紅の背景に、上京して絵画修業に燃えている若者のたぎる心を頼もしく思う劉生の気持ちが表れているではないか。
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これなどは、劉生の有名な作品と同じ場所で描いていることは明白だ。「冬枯の道」(1916年作)。
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一方でこれなどは、ちょっとフォーヴの匂いすらする、なかなかの鋭いセンスではないか。「風景 (道)」(1915年)。未だ 20歳にもなっておらず、美術の専門教育も受けていない若者の作品であるとは信じられないほどだ。
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だが、彼の画業を見ているとやはり、師の影響をまずは全身で受け入れることにその基本があったと言えるように思う。これは 1918年作の「雪国の少女」であるが、その背景の濃い赤だけでなく、人物の内面に迫ろうという姿勢も師の劉生に倣っているように思う。
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これは 1920年の「芝川照吉像」。この芝川氏は劉生や青木繁のパトロンであった美術コレクターで、椿も劉生もこの人の肖像を何点も描いていて、この展覧会に出展されている (以下に一点ご紹介する)。因みに芝川家は大阪の実業家の家系で、その子孫 (本家・分家に分かれてはいるようだが) の方とは、私もたまたま面識があったりもするのだが、以前読んだ「大阪の近代建築と企業文化」という本にこの芝川家に関連する建築について詳しく書かれていて、面白かった。愛知の明治村にも、もともと西宮にあった武田五一設計による芝川又右衛門邸が移築・保存されている。
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さて、岸田劉生と言えば誰でも知っているのが、娘をモデルに描いた麗子像のシリーズであるが、椿もまたそれに近い作風の作品を多く残している。これは 1921年作の「童女像 (毛糸の肩掛をした菊子)」。菊子とは椿の妹の娘だが、なんとこれ、重要文化財に指定されている劉生の「麗子微笑」(東京国立博物館蔵) で使われた肩掛を借りて描いている!! 「麗子微笑」はこの展覧会には出品されていないが、参考としてここに写真を掲げよう。はぁー、確かに同じ肩掛だ。
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かと思うと、この菊子をモデルにした全く違う作風の作品もある。「洋装せる菊子立像」(1922年作)。この作品を見ていると、椿の中に芽生える師匠の作風からの脱皮を模索している姿を感じるのは、私だけであろうか。この奇妙な抒情は、既知の画家で強いて探せば、国吉康雄あたりに似てはいまいか。国吉は椿より 3歳上だから同世代だが、当時米国にいた国吉と椿との間に接点があったわけもないだろう。だが、実は芸術家として通じる面もあったのかもしれないと想像するのも楽しい。
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椿は白樺派の芸術家たちと交流を持ったようだが、これは白樺派を代表する作家、武者小路實篤の肖像 (1922年作)。武者小路と言えばお爺さんになってからの写真しか見たことがないような気がするが、当時 37歳。この絵にも「於新しき村」とある。彼が新しき村を開いたのは 1918年。未だ理想に燃えていた頃の肖像であろう。
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さて、日本の洋画家の場合、結構手すさびに日本の伝統的な手法の作品をものしているケースがある。この展覧会には、劉生、椿双方のそのような作品が幾つも展示されていて、油絵とはまた違った味わいがあって面白い。例えばこれは、岸田劉生による「芝川照吉大人肖像」(1922年作)。上で椿による油絵の肖像をご紹介したパトロンだが、ここでは何かくつろいだ感じで、いたずらっぽいとすら見える飄々とした表情を見せている。
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一方でこれは椿貞雄の「昼寝」(1928年作)。へちまの垂れる下で気持ちよさそうに女の子 (娘だろうか?) が昼寝をしている気楽な雰囲気の作品。随分油絵とは雰囲気が違うではないか。
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また、ほかにも興味深い例が紹介されている。江戸時代初期の肉筆浮世絵を、劉生と椿がそれぞれに翻案しているのである。オリジナルは寛政期 (1624 - 1644年)、作者不詳の「犬を連れた禿 (かむろ) 図」。
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その題材を劉生は「狗をひく童女」(1924年作) に、椿は「春夏秋冬図屏風」の「春」(1931年作) に転用している。劉生の場合は麗子をモデルとし、オリジナルの構図を換骨奪胎しているが、椿の場合は完全に画題を分割している。尚この椿の作品はパリで制作されたもの。
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椿は 1929年に船橋に移り住んだが、それは尋常高校の図画教員としてであったとのこと。どのような教師であったのだろうか。これは 1928年に描かれた「入江 (伊豆風景)」。ここでは空も海も建物も強い存在感をたたえていて、この画家が新しい道に入りつつあったことを感じられるような気がする。
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その翌年、1929年12月に、ついに恩師との別れがやってくる。満州からの帰途に立ち寄った山口県の徳山で客死したのである。38歳であった。既に大家ではあったが、あまりにも若い死だ。死因は胃潰瘍と尿毒症。彼は既に 10年以上前に結核の診断を受けていたが、それは誤診であったと言われ、転地療養していた鵠沼では元気だったそうだ。それだけに劉生の死は椿にとってショックであったろう。これは死後の劉生を椿が描いた「柩の中の劉生」。いかつい顔を涙でグシャグシャにしながら描いたであろう椿の姿を想像すると、なんとも胸が詰まるような哀しみを覚える。
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冒頭の方でご紹介した不思議な作品「髪すき図」は、この後、1931年の制作である。上で見た通り、5歳上の師匠に従って必死に絵画修業を続けて来た未だ 30代の画家にとっては、師を失ったあとに自らの方向性を模索する必然性があったのであろう。彼の本来持っている資質の中に、この「髪すき図」や、上記の国吉風の作品などに見られる強い表現力があったことを感じたものと思う。画家は 1932年に渡欧。パリを中心に、オランダ、スペイン、イタリアを訪れた。これは師の影響からの決別であったのであろうか。例えば 1932年のこの「アンドレ裸体」の豊かなモデリングは、これまでの椿の作品にはないものだ。もっとも、モデルの体格が日本人とは違うという要素は確実にあるだろうが (笑)。
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これは同じ年にパリで開いた個展の肉筆ポスター。油絵ではなく軽いタッチの水彩で、日本的な雰囲気を、エキゾチックにならない程度にうまく使っているではないか。パリ生活をエンジョイしたのかと思いきや、椿は早く日本に帰りたいとばかり考えていたらしい。
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欧州滞在はわずか 5ヶ月ほどであったが、帰国してからの彼の作風には、少し大らかな要素があるような気がしないでもない。これは 1934年作の「四季の図」という縦長の作品から上の方と下の方、つまり春のシーンと秋のシーン。重い油絵の世界を忘れたような、邪気のない絵である。
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展覧会には椿の静物画の変遷を辿るコーナーがあり、これがまた大変興味深い。また若い頃に還って、これは 1921年作の「静物 (りんご)」。劉生は、結核と診断された頃から室内での制作に切り替えたため、椿もそれに従って室内で静物画を描いたのだという。この作品は、写実性はそれなりにあるものの、上の作品を見たあとでは、なにやら重苦しく見える。
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同じ題材において、師弟の画風の違いを見てみよう。これは 1926年に劉生が描いた「冬瓜茄子図」。なんとも粋な雰囲気で、モノの実在感というよりは装飾的な印象すら受ける。劉生の意外な一面と言ってもよいかもしれない。
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椿は同じ題材を同じ頃から油彩で描いているが、劉生の死後も表現の模索は続き、1942年に制作した「冬瓜茄子図」では、このようになった。
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劉生との差は一目瞭然で、この作品では、モノの存在感が迫ってくる迫力がある。1949年の「冬瓜図」になると、さらにその存在感はただならぬものに成熟しているのである。描かれる対象ですらもはや、のうのうと安定して座ってはいられない (?) のである。
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もうひとつ、私が素晴らしいと思った椿の静物画はこれだ。1948年の「壺 (黒い壺に南天)」。1943年から 5年間を費やして描かれたものである。ここでついに壺はその存在感のあまりの強さから、ただならぬシュールなものと化している。例えばこれが世界の最後に見る風景であれば、人は安心するであろうか、不安に思うであろうか。ただの壺なのに、そんなことまで思わせるとはなんたること。

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そしてこれもやはり静物画であるが、1957年、絶筆となった「椿花図」。彼の苗字と同じ花を描いたのは何かの因縁であろうか。入院の朝、病院の車が迎えに来る前に一気に描いたものであるとのこと。未だ生きる意欲が衰えない切り花の姿であり、見る者に鮮烈な印象を与える作品である。
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椿の描いた富士山の作品を二つご紹介する。まずは 1940年の「赤富士図」。もちろん北斎の赤富士とは異なり、写実的な光景であるが、私が面白いと思うのは、中腹より下の木々の細かい描き方である。雄大な景色の中、実は木々の内には無数の生命が息づいているのだという印象を受ける。
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その観点でこちらを見ると、ここには生命の息づきからさらに進んで、具体的な生活の要素が描かれていることが分かる。そのスケール感といい、距離感を保ちながらも人間的な作風といい、これまでの椿作品とは随分違う。これは 1954年に描かれた「富士図 (二の宮)」。近いうちに不染鉄 (ふせん てつ) という知られざる画家の展覧会をご紹介するが、その不染の描く富士にも相通じるところのある、強い表現力のある作品なのである。
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さて、展覧会の最後のコーナーには、彼が描いた家族の肖像もあれこれ展示されている。これは 1931年作の「婦人像 (隆子像)」。妻の姿である。またまた冒頭近くの「髪すき図」に戻ると、その絵の中、右側で女性の髪をすいているのがこの人である。昔の日本家庭における献身的な妻というイメージであるが、画家の方もそれほど緊張して描いていないようにも思われる。決して写実的ではないが、画家の信頼が表れた肖像ではないだろうか。
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これが椿家の人たち。1935年の写真で、左端が椿、右端が妻、隆子である。幸せそうな家庭ではないか。奥さんも、むしろ肖像画よりも近代的な美人です (笑)。
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ところでこの写真の左から 2人目に利発そうな女の子が映っているが、彼女は次女の夏子。上の写真の 2年前、1933年の椿による夏子の肖像画はこれだ。おかっぱ頭が活発さを表している。
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この夏子さん、長じて染物のデザインに従事することとなる。師事したのは、あの人間国宝芹沢銈介だ。私も 5月13日の記事で、静岡の登呂遺跡の横にある彼の美術館及び旧居をご紹介したが、独特の抒情ある素晴らしい染物の数々を制作した人。その薫陶を受けた椿夏子が制作した屏風、「愛別離苦」がこれだ。この題名は仏教用語で人間界の八つの苦しみのうちのひとつで、肉親との生別、死別のこと。ここで夏子は、父貞雄の遺愛の焼き物をテーマとして採り上げ、恐らくは父との死別の悲しさを表現しているのであろう。
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本当はほかにもご紹介したい作品がいろいろあるが、上記だけでも、この画家の画業について一通りのイメージは持って頂けるものと思う。岸田劉生への私淑から始まり、その模倣を経て自らの独自な美意識を追い求め、また、日本的なものもうまく取り入れながら、風景や静物や人物を真摯に描き続けた画家であった。もし違った環境にいれば、それこそバルチュスのように、もっと退廃性を感じさせる作風になったかもしれないという可能性も感じさせるが、実際にはそうはならなかった。実生活で常に家族とともにあり、また、心の中に生き続ける師への尊崇の念が、生涯に亘って彼の画風を決めたものであろう。自らの創造意欲に忠実に生きた画家の姿に、芸術家としての誠意を見ることができる、そんな心に残る展覧会であった。

by yokohama7474 | 2017-07-19 01:01 | 美術・旅行 | Comments(0)

ミュシャ展 国立新美術館

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この展覧会は既に 1ヶ月以上前に終了したもの。東京、六本木の国立新美術館で開催され、残念ながらその後の地方巡回はない。その理由はひとえに、ここで展示された作品の貴重さということになろう。実際にこれは、日本の西洋美術受容史に残る画期的な催しであったのではないか。この国立新美術館は大変に広い美術館で、いくつもの展覧会を同時並行で開催しているのであるが、先にこのブログでもご紹介した草間彌生展の最中からこのミュシャ展は開催されていた。愚かな私は、そのミュシャ展がどれほどの内容であるのかを知らずに月日を過ごし、はたと気が付くと、ほぼ 3ヶ月の会期は終わりに近づいている。これはいかんと思って、会期中最後の日曜日に開館時刻 9:30 を目指して現地に向かった。ちょうど開館時刻に到着した私が目にしたものは、「待ち時間 80分」の表示である。昨年の若冲展ほどではないにせよ、これは大:変な大混雑である。その日は入場を断念した私は、その数日後、会社のフレックス制を利用して 17:30 頃に現地到着。やはり少し列があるものの、なんとか 30分は時間がある。ちょっと短いがやむを得ない。もちろん中に入っても大混雑であったのだが、とりあえず一通りは見ることができたのである。これはミュシャによるポスターの代表作のひとつ、「ヒヤシンス姫」。
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この展覧会では、世紀末のパリに出てその華麗なるポスターで一世を風靡したアルフォンス・ミュシャ (1860 - 1939) の数々の名作ポスターも展示されているものの、そもそもミュシャという名前はフランス語読みであり、彼の故郷チェコでは「ムハ」と発音する。この展覧会では、ミュシャというよりもむしろムハと呼ぶべき画家がその心血を注いで制作した巨大な 20枚の壁画が来日することとなった。私は生まれて初めてチェコの首都プラハを訪れた 2003年、ムハの、印刷されたポスターではない巨大な肉筆画を見た記憶が明確にあり、また、何かの本 (芸術新潮の特集かと思ったのだが、探してもどうしても出てこない) で、パリのミュシャからプラハのムハに戻ったこの画家の畢生の大作「スラヴ叙事詩」について読んだことがあるので、この超大作のシリーズを現地で見たとばかり勘違いしていた。だが、そうではなかった。この「スラヴ叙事詩」は、チェコ国内でも滅多に見ることができないもので、ましてやチェコ国外に出るのは今回が歴史上初めてのこと。東京の美術ファンはそのことに深い感謝を捧げるべきであろう。こんな素晴らしい作品群をいながらにして見ることができたのであるから。異常なほどの大混雑も、これなら理解できる。これは 1929年、69歳のミュシャの肖像写真。あの華麗なる数々のポスターのイメージとは異なる硬骨漢の雰囲気があるではないか。
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今回奇跡の来日を果たした「スラヴ叙事詩」は、故国に還ったミュシャが、チェコにとどまらないスラヴ民族の歴史における数々のシーンを描いたもの。米国の富豪による資金援助を得て、1910年から 1928年にかけて制作され、プラハ市に寄贈された。だが近年に至るまではチェコの中にある城に保管されており、交通の便が悪いために多くの人の目に触れることはなかったらしい。2012年以降はプラハ国立美術館の所蔵になっているので、恐らく現地で見ることが容易になったということだろうか。以下にこの 20作品を順番に見て行くが (作品につけられた番号は、制作年順にはなっていない)、ここには強い愛国心に突き動かされる偉大なる芸術家の姿が生々しく刻まれているのである。我々は音楽の分野で既に、チェコ人の強い愛国心をよく知っているが、この連作は絵画におけるそのような例として、未来永劫人々に感動を与え続けるものであろう。

これは 1作目、上のポスターでも使われている「原故郷のスラヴ民族」(1912年、610cm × 810cm)。この後もこのシリーズに頻繁に現れる、中空に浮かぶ人物と、まっすぐに鑑賞者を見据える人物が、ここで既に見られる。20世紀の民族自決主義に基づく希望と、世紀末的な退廃がないまぜになった、ちょっとほかにはない独特の世界である。現代に生きる我々は、このまっすぐな視線に耐えなければならない。
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これは 2作目、「ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭」(1912年、610cm × 810cm)。ここでも宙に浮かんだ人物が怖いほどだ。
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これは 3作目、「スラヴ式典礼の導入」(1912年、610cm × 810cm)。ここでも見事なほど、宙に浮かぶ人物たちと正面を向いている人物が神秘的である。
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4作目、「ブルガリア皇帝シメオン 1世」(1923年、405cm × 480cm)。この連作のテーマはスラヴ民族なので、チェコだけでなくブルガリアも題材になっているのである。
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5作目、「ボヘミア王プシェミスル・オタカル 2世」(1925年、405cm × 480cm)。
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6作目、「東ローマ皇帝として戴冠するセルビア皇帝ステファン・ドゥシャン」(1923年、405cm × 480cm)。これまでの中で最も淡い色調で、今日の目から見ると若干看板画風という感じもあるが、これだけの大作を破綻なくまとめる画家の手腕は否定しがたい。
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7作目、「クロムニェジーシュのヤン・ミリーチ」(1916年、620cm × 405cm)。連作の中では比較的小さい作品だが、やはり多くの人物を絶妙に配置している。
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8作目、「グルンヴァルトの戦いの後」(1924年、405cm × 610cm)。やはり淡いタッチでありながら、そこにはリアルな死が描かれているのである。
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9作目、「ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス師」(1916年、610cm × 810cm)。ヤン・フスは未だにチェコで深く尊敬される宗教改革者。フスは、左手中央で身を乗り出して説教している。右手手前では、ヴァーツラフ 4世王妃ソフィアの侍女が、思案しながら鑑賞者に訴えかけてくる。
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10作目、「クジーシュキでの集会」(1916年、620cm × 405cm)。これは少しパスカル・ダヴィッド・フリードリヒを思わせる神秘性だ。
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11作目、「ヴィートコフ山の戦いの後」(1923年、405cm × 480cm)。ここでも死屍累々の場所で神への祈りが捧げられる。
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12作目、「ヴォドニャヌイ近郊のペトル・ヘルチツキー」(1918年、405cm × 610cm)。これも戦場。スラヴ民族の歴史においては、多くの流血が起こっているという事実から目をそむけないようにという思いからであろうか、画家は悲惨さではなく戦後の平穏を描いているようにも思われる。
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13作目、「フス派の王、ポジェブラディとクンシュタートのイジー」(1923年、405cm × 480cm)。赤い衣の人物は教皇の使いであるが、その横柄な態度に怒ったチェコの国王が右端で椅子を蹴って立ち上がっている。だがミュシャの筆は、大きな窓から差す神々しい光が、人間同士の対立を和らげているような雰囲気を醸し出している。
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14作目、「ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛」(1914年、610cm × 810cm)。「スラヴ叙事詩」20作のうち、唯一戦闘場面を描いている。真ん中右寄りに見える黒い柱のようなものは火薬の煙で、これから大爆発が起こることを示している。
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15作目、「イヴァンチツェの兄弟団学校」(1914年、610cm × 810cm)。前景の老いた盲人に聖書を読んで聞かせる若者は、ミュシャ自身の若い頃がモデルになっているという。
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16作目、「ヤン・アーモス・コメンスキーのナールデンでの最後の日々」(1918年、405cm × 620cm)。荒涼とした淋しい作品である。
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17作目、「聖アトス山」(1926年、405cm × 480cm)。これはすごいヴィジョンである。まるで最近のハリウッド映画の SFX のような宇宙的な神秘性がある。
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第 18作、「スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い」(1926年、390cm × 590cm)。画面左手前の女性のモデルの写真が残っている。ミュシャはこの連作を制作するにあたって、プラハ近郊のズビロフ城の一部を借り、この大作に登場する人々の多くのモデルが近隣の村人であったようだが、この女性のモデルはミュシャの娘であるそうだ。実はこの作品、一部の人々の顔が描かれていない、未完成の作品なのである。それは、左側で愛国的な誓いを立てる男たちのポーズが、ナチスの敬礼を思わせたからだそうだ。複雑な時代背景を伺うことができる。
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第 19作、「ロシアの農奴制廃止」(1914年、610cm × 810cm)。チェコ人にとってロシアは憎むべき敵国かというイメージがあるが、この作品は米国人のパトロン、チャールズ・R・クレインの要請によって描かれたものらしい。
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そして第 20作、「スラヴ民族の賛歌」(1926年、480cm × 405cm)。これもまたハリウッド的な鮮烈なヴィジョンと呼んでもよいかもしれない。
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だが私がここで連想するのは、ベルギー象徴主義の画家、ジャン・デルヴィルの「サタンの宝」(1895年作) である。クラシックファンの方には、サイモン・ラトルがバーミンガム市交響楽団と録音したメシアンのトゥーランガリラ交響曲のジャケットに使われていたことを覚えておられよう。筆致はデルヴィルよりはかなり柔らかではあれ、やはりミュシャは世紀末の画家なのである。
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さて、会場にはこの「スラヴ叙事詩」以外にもポスター類や肉筆画を含む数々のミュシャの作品が展示されていて、まさにミュシャの全貌に迫る驚異的な内容であったのである。だが私が大変に感動し、また興奮したのは、「スラヴ叙事詩」の展示スペースの最後、第 15作から第 20作までが、撮影自由であったことだ。なんという素晴らしい体験であったことか!! 会場の熱気を伝えるために、私がそこで撮影した写真をお目にかけて、この展覧会のご紹介を終えたいと思う。
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by yokohama7474 | 2017-07-09 00:50 | 美術・旅行 | Comments(0)

ブリューゲル「バベルの塔」展 東京都美術館

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何やら、最近ますます大変な混雑になっていると耳にする展覧会。既に 4月から始まっていて、まる 3ヶ月以上の会期の、既に終盤に入っている。私がこの展覧会に出かけたのは、既に 2週間ほど前。そのときにもかなりの混雑であった。これは何の展覧会かというと、上のポスターにある通りの「バベルの塔」の展覧会だ。太古の昔、人間があまりに高い塔を建てたので神の逆鱗に触れ、同じ言葉を話していた人々に別々の言葉を喋るようにして、人間社会を分断したという聖書にある逸話。ネーデルラント (というと今のオランダだが、彼が没したのは現在のベルギー、ブリュッセルである) の画家ピーテル・ブリューゲル (1525/1530 - 1569) の描いた有名な作品が本展の目玉になっている。だが、この展覧会のタイトルをよく見てみよう。頭に「ボイマンス美術館蔵」とあり、後ろの方には、「16世紀ネーデルラントの至宝 - ボスを超えて -」とある。実はこれらの要素が非常に重要なのであって、私としては、この素晴らしい展覧会を、ただ一点「バベルの塔」だけに集約したこの宣伝方法には疑問を禁じ得ない。この展覧会の価値はそれだけで測るにはもったいないのである。以下、何がそれほど素晴らしかったのか見て行くこととしよう。

まずこの展覧会の展示品がひとつの美術館から来ていることに注目しよう。その美術館名は (上のポスターでは短く省略されているが)、ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館。
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この美術館はオランダのロッテルダムにあり、私も一度だけだが現地を訪れたことがある。ご当地ものであるネーデルラント、フランドル絵画だけではなく、20世紀の主要な画家の作品も多く所蔵する素晴らしい美術館である。長い館名は、この美術館のコレクションの基礎を作った 2人の収集家に因んでいるが、一人はフランス・ボイマンス (1767 - 1847)、もう一人はダニエル・ヘオルフ・ファン・ベーニンゲン (1877 - 1955)。美術館の開館は 1849年と、驚くほど早い。オランダの文化度の高さを具現するような美術館なのである。展覧会はまず彫刻作品で始まる。これは 1480年頃の作品で、4大ラテン教父、つまり聖アウグスティヌス、聖アンブロジウス、聖ヒエロニムス、聖グレゴリウスである。作者はアルント・ファン・ズヴォレという彫刻家とされている。高さ 74cm ほどの小ぶりなものであるが、その佇まいの清冽さが印象的であり、衣の繊細な処理も、日本の古い木彫を見慣れた私としても、非常に優れた出来であると思う。
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これはまた見事な祭壇彫刻。1500年頃の作とされている「十字架を担うキリスト、磔刑、十字架降下、埋葬のある三連祭壇画」。作者不詳である。この手の木彫りはドイツにも驚くほが見事な作品が多くあるが、地理的に近く、同じプロテスタント地域であるネーデルラントにおいても同様であるようだ。
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このような木彫作品の素晴らしさもさることながら、このネーデルラント / フランドル芸術の特色は、宗教画であっても仮借ない人間の姿が表されていることではないだろうか。例えばこれは、ヤン・プロフォースト (1465頃 - 1529) という画家の手になる「アレクサンドリアの聖カタリナの論争」(1520年頃)。ここに表現されている人体は決して写実的ではなく、それは画家の技術の欠如にもよるのかもしれないが、ただここにはなんとも言えない奇妙な生々しさがある。真ん中右でピンクの衣装を着ている聖カタリナの指の動きの繊細なことは驚くべきだし、その右側に見える正面を向いた少女は天使の化身らしいが、その場違いな落ち着いた表情はどうだろう。その右側にいる人物は真横を向いていて不気味なら、奥の方に見えるのは架空の建築群なのである。
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これも同じ聖カタリナの肖像なのであるが、1500年頃の作で、作者は判明しておらず、「枝葉の刺繍の画家」と呼ばれているらしい。華やかなイタリア・ルネサンスとは全く異なる静謐さを持つこの絵に、遥か後年のベルギーでのシュールレアリズムの萌芽を見るような気がするというと、話を面白くしすぎであろうか。
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同じ祭壇画から、こちらは「聖バルバラ」。うーん、これも大変に美しい。
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さてこれは、ルカス・ファン・レイデン (1489/94 - 1533) 周辺の画家の手になるとされる「女性の肖像」(1520年頃)。ここにも美化されていない人間の姿が表れていて、素晴らしい。
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これは少し時代が遡り、1480年頃の作者不詳の「風景の中の聖母子」と、その裏に描かれた「本と水差し、水盤のある静物画」。この聖母子は、解剖学的には正確ではないようだが、その平穏な雰囲気には何かほっとするものがある。一方で、ネーデルラントでその後伝統が作られて行く静物画であるが、これはトロンプルイユ (だまし絵) 的な表現だが、白いタオルや真鍮の洗面器と水差しは、受胎告知を象徴するという。むむ、ここでも遥か後年、ベルギーで発展した象徴主義 (サンボリズム) につながるものを見てしまいたくなるではないか。
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ここで初めて知った名の画家と対面する。ハンス・メムリンク (1433頃 - 1494)。「風景の中の二頭の馬」(1490年頃) という作品で、家庭用祭壇画の一部であるらしい。ここでは二頭の馬だけでなく猿も登場して、何か寓意があるらしいが、だがこの破綻のない風景と動物の組み合わせに、高度な洗練を感じるのである。
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これも名の知れた画家の作品。ヨアヒム・パティニール (1480頃 - 1524) の「牧草を食べるロバのいる風景」(1520年頃) である。パティニールについては随分以前、2015年 9月26日の記事で「世界初の風景画家」とご紹介した。だが彼の風景画は、ただ風景だけを描いたものではなく、宗教画の一部なのである。この作品も聖母子の「エジプト逃避途上の休息」を描いた作品の一部であるらしい。だがなんとも気持ちが安らぐ風景ではないか。
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かと思うとこれは、その同じパティニール周辺の画家の手になるとされる「ロトと娘たち」(1520年頃)。これは打って変わって人の心を不安にさせる光景である。私の見るところ、この平穏さと不気味さの交錯が、パティニールより一世代前かと言われるボスや、その影響を強く受けたブリューゲルの作品にも通底していて、ネーデルラント絵画の特異な持ち味を充分に感じさせるのである。
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というわけで、ついに登場するのが、ヒエロニムス・ボス (1450頃 - 1516) である。世界最初の奇想の画家と言ってもよいだろう。後世 (1610年頃) に描かれた、版画による彼の肖像画はこれである。頭の後ろに何やら奇怪な生き物たちが描かれているが、これぞボスからブリューゲルに受け継がれた奇想の数々。
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そして私はここで声高に叫ぼう。この展覧会は何もブリューゲルの「バベルの塔」だけが売りではないはずだ。なぜならここには、世界にも 30点ほどしかないボスの真筆作品のうちのなんと 2点が出品されているからである!! こんな貴重な機会はそうそうあるものではない。未だご覧になっていない方は、とにかく悪いことは言わないから、これらの作品と対面するために上野に馳せ参じるべきである。まずこれは、「放浪者 (行商人)」(1500年頃)。ここにはボスの真骨頂である奇想はない。だが、旅籠か娼家とおぼしき左後ろの建物から去って行くみすぼらしい男の振り返るところ、豚が飼料をむさぼり、男が女を口説き、また別の男は放尿している。そのような猥雑な風景を振り返る中央の男の表情は、名残惜しいようにも見えるし、軽蔑しているようにも見える。ローマ・カトリックの感性ではこのような人物は決して描かれないであろう (ルターの宗教改革は 1517年だが、それ以前に既に、ローマ・カトリックのものとは違う物の見方による表現があったということだろう)。
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今回出展されているもう一点のボスの作品は、「聖クリストフォロス」(1500年頃)。川を渡る際に背負った赤子が実はキリストで、世界の創造を背負った重さになるという逸話である。このテーマ自体は珍しいものではないものの、左の岸では熊の死骸が吊るされ、右の岸では樹木に不思議な住居が突き刺さっている。控えめとはいえ、まぎれもないボスの指向がはっきりと表れている。
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この展覧会にはまた、ボスの作り出したイメージによる後世の版画も沢山展示されていて、興味が尽きない。以下「樹木人間」、「様々な幻想的な者たち」、「ムール貝」、「二人の盲人のたとえ話」。この画家のブラックなイメージを堪能されたい。
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そしてこの展覧会の主役、ピーター・ブリューゲル (1525/1530 - 1569) である。その子孫たちも画家として実績を残したが、やはり元祖としての地位は揺るぎない。これは死後、1572年の版画による肖像。生年不詳とは言え、40代半ばまでには没していたようであるが、その髭から、大変な老人に見えてしまう。
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日本ではこれまでもブリューゲルとその周辺の画家の展覧会は何度も開かれていて、その中には 1993年に今回と同じ「バベルの塔」が来日したセゾン美術館での展覧会もあるが、あろうことか手元にその図録がなく、もしかしたらその時は見逃したのかもしれない。だが、1989年ブリヂストン美術館での「ピーテル・ブリューゲル全版画」展、1990年国立西洋美術館での「ブリューゲルとネーデルラント風景画」展、1995年東武美術館での「ブリューゲルの世界」展、2010年 Bunkamura ザ・ミュージアムでの「ブリューゲル版画の世界」展の図録は手元にある。中でも最初に挙げた展覧会では、ブリューゲルの全版画を見ているはずだから、今回展示されている版画の数々も、きっと見ているはず。だが、もうこれらは何度見ても飽きることがなく、そのめくるめく奇想には、人間の脳髄を直接刺激するものがあるのである。以下「聖アントニウスの誘惑」、「七つの大罪」から「大食」、「忍耐」、「最後の審判」。
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一方、ブリューゲルの版画においては、正確な細密描写や、夥しい数の人間たちの密集も特徴になっている。以下は「ガレー船を従えた沖合の 3本マストの軍艦」と「農民の婚礼の踊り」。これらを描く技術は、大作「バベルの塔」にそのまま活きていることであろう。
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その「バベルの塔」(1568年頃) は、展覧会場では特別扱いであり、広い空間に一点だけ、恭しく展示されている。
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今回、芸術新潮や NHK の「日曜美術館」でも、漫画家の大友克洋 (私も深く尊敬している) がこの塔の内部を独自に再現するような試みを披露しており、それはそれで面白いのだが、やはりこの作品自体をじっくり見るべきではないだろうか。ブリューゲルの「バベルの塔」と言えば、この 5年ほど前の作品もあり、ウィーン美術史美術館の所蔵になっているが、こちらのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館所蔵のものはさらに遠近法が強調され、異様さが増している。幻想的でありながら細部の凄まじいリアリティを見ると、ほかのどのブリューゲル作品とも異なる SF 性を感じることができ、一体この人のヴィジョンはどうなっていたのかと、空恐ろしくなるばかりである。このように、絵の中では多くの人たちが塔の建設に携わり、各種機械も設置されているのである。
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このように、もちろん「バベルの塔」の素晴らしさを実感することも重要であると同時に、それ以外に展示されている作品たちの質の高さも、充分に楽しみたい展覧会であり、それゆえ私は、一点豪華主義であるかのようなこの展覧会の宣伝方法には納得できないのである。ともあれ、現地でこれらの作品を目にすると、宣伝がどうのこうのということを忘れてしまうことも事実。素晴らしい内容なのである。さて最後に、私の個人的な思い入れに触れて、この記事を終えることとしよう。実は私にとってボスとブリューゲルの作品集は、私が初めて買った西洋絵画の画集であったのである。最初の画集がマネやモネやゴッホやルノワールではなかった点、私の指向する美術の傾向が明確に表れているのである・・・。今も書庫にあってすぐに手元に出てくるその画集は、集英社の世界美術全集の第 18巻。1978年の発行だから、40年近く前の本で、当時私は中学 1年生だ。あ、なんと表紙には、今回の展覧会に出品されている「放浪者」が採用されているではないか。
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今でもページを開くと、異様な図像の数々と首っ引きで詳細な解説を一生懸命読んだことを思い出すが、この本の主要な執筆者は、驚くべきことに今に至るも日本の誇るボスとブリューゲルの世界的権威である美術史家の森洋子なのである。上のカバーにある通り、1,450円という値段は 40年前のものであっても (笑)、内容は今でも豊かな啓示に満ちたもの。本当に日本においては、西洋絵画を学ぶ文化的土壌はずっと存在しているのであって、いながらにして実物を目にできることと併せて、文化の使途たちはその幸福に感謝を捧げるべきだろう。その思いをもって、会場の混雑を乗り切るべし!! 会期はあと一週間である。

by yokohama7474 | 2017-06-25 01:22 | 美術・旅行 | Comments(6)

特別展 茶の湯 東京国立博物館

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このブログで何度か謝罪して来たことであるが、記事でご紹介する美術展のうちかなりの部分が、既に終了してしまったものなのである。中には東京以外の都市に巡回する展覧会もあるが、そうでないものについては、私が記事にする内容を、実際の展覧会で実物を前に吟味して頂く機会がないということになる。最近特にそのことを考えるようになり、今後はなるべく、充分な残り期間のある展覧会をご紹介したいのであるが、とりあえずの謝罪として申し上げておきたいのは、この茶の湯展と、異常なほどの人出で賑わったミュシャ展 (近日中にアップ予定・・・ならよいのだが 笑) だけは、もはや見る術のない展覧会のご紹介として何卒ご容赦頂きたい。だが、この世に芸術作品のある限り、ここで、あるいはミュシャ展の記事でご紹介するそれらの芸術作品にまた巡り合う可能性はあるわけで、一期一会を期待して生きて行くことはまた、大いに意義のあることである。

まあ能書きはこのくらいにして、展示作品の紹介に移りたいが、さらに言い訳めいた言説を弄するなら、ここで夥しい数 = 250点以上が展示されていた茶器とその関連の作品について、私ごときが何を語れるわけでもないし、とりわけこの分野は、分かる人には分かる、分からぬ人には永遠に分からぬというものであろうから、ここでは出品作のごく一部をご紹介しながら、言葉の無力をご一緒に実感したい (笑)。さて、そんなことで、展覧会は室町時代、足利将軍の茶室を彩った、舶来品、いわゆる「唐物」の茶器や美術品の綺羅星のごとき展示から始まる。しょっぱなに登場するのはこれだ。
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言わずと知れた曜変天目茶碗。静嘉堂の三菱コレクションのひとつである。この展覧会では展示替えもあって、この作品の展示は一定期間のみであったが、それにしてもこの茶碗は、誰が見ても分かる王者の風格である。世界でもたった 3つ、すべて日本に伝来する曜変天目茶碗は、その 3つとも国宝である。但しそのうちひとつ、大徳寺龍光院のものは普通に見られる機会はほとんど皆無。また、最近「開運! なんでも鑑定団」で「発見」された新たな曜変天目との触れ込みの茶碗は、私もテレビで見たが、正直なところ、国宝のそれらとは似ても似つかぬもの。その意味でも、この静嘉堂美術館のものと藤田美術館のものは、このブログではいずれも過去に採り上げているが、主としてそれらを所蔵する美術館ではそれなりに目にする機会がある点、ありがたい。昨年の今頃、2016年 6月11日に書いた静嘉堂美術館での記事では、このような素晴らしい茶碗の展示方法に苦言を呈したが、その意味では、今回の展覧会は最先端を行っていて素晴らしい。何度見ても飽きることのない絶対的な美を味わうには最高の環境であった。そして、名刺代わりの一発のもうひとつは、これだ。
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大阪の東洋陶磁美術館所蔵の、ということはこちらは住友コレクション(正しくは安宅コレクションだが)の、油滴天目茶碗。やはり国宝なのである。上記の曜変天目と同じく南宋時代、12 - 13世紀の作と思われる。油が水をはじくようなこの模様は、見るものを神秘的な感覚に誘う。さてこのような逸品で始まるこの展覧会の最初のコーナーは、上述の通り、足利将軍家の所蔵品。足利将軍家が称揚することで、絵画におけるその後の日本美の一典型とみなされた中国人画家がいる。牧谿 (もっけい、生没年不詳) である。私の知る限り、近年この画家の展覧会が日本で開かれたのは、1996年の五島美術館でのものが唯一で、そのときには会場で図録が売り切れで増刷待ちであったことを、昨日のことのように覚えている。それだけ牧谿の実物に接するのは貴重な機会なのであるが、ここでは、真作か否か判明しないものも含めて、8点の牧谿が展示されていた。これは有名な、大徳寺の「観音猿鶴図」の中の猿。もちろん国宝である。
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これは京都国立博物館が所有する、伝牧谿作の「布袋図」。この飄々とした表現は、典型的な牧谿の作風のイメージとは異なるが、だがその筆致は、上記の猿図と共通するところがあるように思われる。
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その牧谿と並び称される、同じ 13世紀、南宋時代の中国の画家がいる。その名は玉澗 (ぎょくかん)。彼も日本で多大な尊敬を集めた画家だが、多分このような自由な筆さばきはそれ以前には日本には存在せず、足利将軍家の美意識がこのような絵画作品を日本に流布させたものであろうか。その後の水墨画のパターンに鑑みて、それほど特殊には思われないが、これが典型的な日本の水墨画のルーツになっているのだろう。これは (牧谿にも同名の作品があるが) 「遠浦帰帆図」(えんぽきはんず) の一部。京都国立博物館所蔵の重要文化財である。うーん、最小限の表現に詩的な感覚が満載だ。
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次は東京国立博物館所蔵の国宝。李迪 (りてき) の手になる「紅白芙蓉図」である。これも南宋時代、1197年の作である。つまりは描かれてから既に 820年を経過しているということだ。活けるがごとき花の様子が生々しい。
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これは徽宗 (きそう) 作と伝えられる五島美術館所蔵の「鴨図」。徽宗 (1082 - 1135) は宋の皇帝であり、芸術を篤く庇護するとともに自ら絵筆を取った人。真筆ではないという説が有力だが、写実的でありながらも、どこか精神的高潔さを感じさせる作品ではないだろうか。
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これは足利氏ゆかりの栃木、鑁阿寺 (ばんなじ) に伝わる重要文化財の「青磁浮牡丹文花瓶 (せいじうきぼたんもんかへい)」(13~14世紀)。青磁の花瓶と香炉である。香炉は足利尊氏、花瓶は足利義満からの寄進であるという。この青磁というものは、日本人好みのわび・さびの感覚とはちょっと違うが、この独特のツヤのある緑色には、なんとも落ち着くのである。
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そしてこれはなんと、国宝の「青磁下蕪花入 (せいじしもかぶらはないれ)」(13世紀)。アルカンシエール美術財団というところが所蔵している。うーん、まるでモランディの絵画を見ているような静謐さ。実はこれは実業家、原六郎 (1842 - 1933) のコレクションであり、品川にある原美術館は現代美術専門だと思っていたら、実は彼の屋敷跡なのであった。この財団は原家のコレクションを管理する団体であるとのこと。
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これは東京国立博物館所蔵になる、重要文化財の「青磁輪花茶碗 銘 馬蝗絆(せいじりんかわん めい ばこうはん)」(12~13世紀)。「平家物語」の中に、平重盛が中国の高僧から贈られたものと記されており、後に将軍足利義政が所有していたときに、ひびが入ったので中国に送って代わりの品を求めたところ、当時の明王朝ではこれに優るものはできないとして、かすがいを打って送り返して来たと言われる。そのかすがいをイナゴに見立てて、「馬蝗絆」と呼ばれているとのこと。だが、この茶碗が重盛の時代に遡るとは考えられていないとのこと。それに、中国に送ったらこのようにして返してきたというのも、どうも信憑性があるとは思われないが、大胆に修理したものをまた新たな景色として取り入れて伝説を作ることで、茶碗の価値を高めていると考えると面白い。
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これも東京国立博物館所蔵の重要文化財、「柿釉金彩蝶牡丹文碗 (かきゆうきんさいちょうぼたんもんわん)」(11~13世紀)。この渋い色合いは、上で見て来た青磁とは全く異なるもの。これは中国製だが高麗の墓から出土したものらしい。この碗の薄さはまた独特の鋭さを持ち、なんとも言えない枯れた味わいがある。考えてみれば、800年とか 900年前の焼き物がこれだけ多く、割れずに保存されている日本という国は本当にすごい。価値を認めたものには最大限の注意を払って大事にするわけで、それによって守られた対象にも、星霜を経て自然と品格が出てくるということであろうか。
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これは大阪市立東洋陶磁美術館所蔵の重要文化財、「木葉天目 (このはてんもく)」(12~13世紀)。加賀前田家に伝来したもので、実際の木葉を置いて焼き上げたものと言われているらしい。この美的センスには黙るしかないだろう。もしこのような仕上がりを想定して焼かれたものなら、そのセンスには脱帽しかない。
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これは常盤山文庫の所蔵になる、「犀皮水中 (さいひすいちゅう)」(13世紀)。中国 (南宋) 製で、犀皮と名付けられているが、サイの皮ではなく金属の上に漆で模様をつけたもの。これはペルシャから来た形であろうか。色合いは渋いものの、わび・さびとは違ったバタくささ (?) があって、見ていて飽きないのである。
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展覧会には「描かれた茶の湯」というコーナーがあって、いくつかの絵巻物が展示されているが、これは文化庁所蔵になる室町時代の「酒飯論」。酒好き、飯好き、両方好きの諸派 (?) の様子を描いているという面白い絵巻物。当時の日本人の生活を想像できる、ちょっとほかにない作品だ。でも、メシ食ったり酒飲んだりしている様子を描くのを、王朝絵巻のように雲で包む必要はないように思うが (笑)。
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さて、展覧会はその後、「侘茶の誕生」というコーナーに入る。ここにも名品の数々が並んでいて圧巻であったが、これは文化庁所蔵の重要文化財「灰被天目 銘 虹 (はいかつぎてんもく めい にじ)」(14~15世紀)。私は美しく展示されたこの茶碗を、ガラスケースに張り付くようにして見て、手に取ってみたらどんなに心地よいかを想像してみた。だがこれはもともと足利義政の所有になるもので、近代には益田鈍翁の所有であったものとのこと。私ごときが親しく手に取ることなど、夢のまた夢なのだが、それにしてもそのような親しみを感じさせる独特の雰囲気を感じる。
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そしてこのあたりから小さな展示品が増えてくる。侘茶の時代に入り、茶の湯の普及と特定の特権的な名前による権威づけがどんどん進んで行く。戦乱の世にあって茶の湯とは、武士も刀を抜いて行う儀式であるがゆえに、ある異常な緊張状態の中で、時に人の命まで左右するような重みを持つ文化に発展して行ったものと解釈した。これは徳川記念財団の所蔵する重要文化財「唐物肩衝茶入 銘 初花 (からものかたつきちゃいれ めい はつはな) (13~14世紀)。高さわずか 8.8m の、茶を入れる小さな容器であるが、驚くなかれ、信長 、秀吉、家康の手を渡って来た逸品なのである。実は天下の三肩衝 (「かたつき」とは形の名称) と称される茶入があり、この「初花」以外には、「新田」と「楢柴」である。このうち「新田」は、今回は出展されていなかったようであり、もうひとつの「楢柴」は、実は既に現存しない。映画版の「タイムスクープハンター」をご覧になった方は、そこに登場する商人・茶人の今井宗室が、命に代えても守ろうとする小さな茶入があったのを覚えておられようが、それがほかならぬ楢柴であった。茶入とは、人の命よりも大事なものであるのか・・・。今日この茶入をどんなに眺めても、そのような壮絶な歴史を思い起こすのは困難だ。
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展覧会はそれから、高校の教科書にも出てくる村田珠光 (むらた じゅこう 1422/23 - 1502) や武野紹鷗 (たけの じょうおう 1502 - 1555) という人たちに関連する出品物が続く。これは武野紹鷗自作の竹茶杓である。
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16世紀前半より、珠光の流れを継ぐ茶の湯者の間で、侘茶の流行とともに、茶室の中には唐絵だけでなく禅林墨跡が掲げられることになる。これは東京国立博物館所蔵の国宝「無相居士宛 尺牘 (むそうこじあて せきそく)」。12世紀のもので、筆者は南宋の僧、大慧宗杲 (だいえそうこう 1089 - 1163)。かなり硬派な感じである。
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これは高麗茶碗で、京都大徳寺の孤蓬庵所蔵の国宝「大井戸茶碗 喜左衛門井戸」(16世紀)。唐物ではなく、朝鮮半島の日用雑器を茶器として使用したものを井戸茶碗と言うらしく、これはその最高峰と言われるもの。少し大振りであり、雄大なスケールを感じると言ってよいと思う。
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そしてもちろん、茶の湯の大成者であり歴史上その名を知られる千利休 (1522 - 1591) ゆかりの品々が並ぶ。まずこれは、大阪の正木美術館所蔵の重要文化財「千利休像」。1583年、利休の生前の姿を描いた唯一の遺品であり、作者は長谷川等伯と伝わっているが、その点の確証はないようだ。自信に満ちた表情のように見えるがいかがであろうか。
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利休ゆかりの茶入、茶壷、花入などが並んでいるが、私の目を引いたのは、この「耳付籠花入 (みみつきかごはないれ)」(16世紀)。なんの変哲もない籠であっても、利休が所持したというその事実だけで価値が出てくるのが面白い。本来は魚籠であったものを利休が花入れとしたと言われる。そう思ってみると、それぞれの編み目も趣き深く思われてきて面白い。利休は、いわばミダス王のように、なんでもないものに手を触れて貴重なものに変えてしまった。
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利休の時代の代表的な陶芸家、樂焼の創始者、初代長次郎 (? - 1589) の「黒樂茶碗 銘 ムキ栗」(16世紀)。これはなんと、口の部分が四角形になっているという変わり種。樂焼は現代にまで続く焼き物であるが、破天荒一歩手前のこの想像力には脱帽する。LED を利用した会場の展示方法によって、昔の鑑賞法ではありえないほど、繊細で美しい茶碗の姿を堪能することができた。
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さて、古田織部 (1543 - 1615) になってくると、こちらは本当に破天荒な表現力でよく知られるが、これは、その織部の影響と考えられる「伊賀耳付水差 銘 破袋 (いがみみつきみずさし めい やぶれぶくろ)。この、現代陶芸のような自由な発想には本当に驚かされる。
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これは、三井記念美術館所蔵の国宝「志野茶碗 銘 卯花墻 (しのちゃわん めい うのはながき)。白っぽく大振りで、白い釉と左右の茶色い線が独特の風情を作っている。日本で作られた茶碗の国宝は、これともう 1点、本阿弥光悦の白楽茶碗 銘 不二山 (展覧会には出品されておらず) の 2点しかないそうだ。
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そしてこれは、文化庁所蔵の重要文化財、野々村仁清 (生没年不詳) の「色絵若松図茶壷 (いろえわかまつずちゃつぼ)」(17世紀)。仁清らしい華やかな色彩と上部の黒い釉との対照が美しい。そして、ここまで辿ってきた茶の湯を巡る美意識も、いよいよ泰平の江戸時代の空気を反映して来ているように思われる。
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冒頭に述べた通り、膨大な出品物の一部しかご紹介できなかったが、やはり茶の湯が日本人の美意識に与えた決定的な影響を様々に実感できる貴重な展覧会であった。鑑賞者の感性への刺激と、そしてそのモノの持つ謂れの双方がないと、高い評価がつかない分野ではあるが、現代に生きる我々は、それが国宝であろうが文化財指定がなかろうが、自由な視点で気に入った茶碗などをめでる特権を持っている。その特権を使える機会を、また持ちたいものだと思う。

by yokohama7474 | 2017-06-10 03:04 | 美術・旅行 | Comments(0)