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京都 大徳寺 本坊、興臨院、黄梅院、総見院

京都というところは、もちろんいつ行っても歴史を実感できる素晴らしい場所なのであるが、顕著な難点は、盆地であるために夏は暑く冬は寒いことだ。それゆえ、春と秋に多くの人々がこの街を訪れる。特に秋には、京都に数多くある紅葉の名所はどこも大賑わいだが、寺社の特別公開もあちこちで行われる。もちろん、冬に観光客を呼ぼうという試みである「京の冬の旅」にも面白い企画があるが、やはりなんと言っても秋がよい。というわけで、この秋、タイトなスケジュールながら 2度京都を日帰りで訪れている私である (もちろん近年の「秋」とはいつからかという議論はあって、気温から言えば、9月は完全に夏に含まれるような感覚になってしまっているのだが)。前回の記事でご紹介した近代美術館における絹谷幸二展を見たあと、東山エリアの近代美術館からほど近くに位置し、これまで特別公開時に行ったことのない聖護院 (しょうごいん。生八つ橋で有名だが、それはこの寺の近くの店で作られている) に行ったのだが、あいにくこの日は、特別公開期間中であっても寺の法要の都合か何かで、境内には入れたものの、堂内や庭園の拝観ができないとのことであった。残念だが致し方ない。残りの時間を計算に入れながら、代わりにどこに行こうかと思案して決めたのは、北山、紫野にある名刹、有名な大徳寺である。これがその大徳寺の正門である山門。「金毛閣」の額がかかっているが、千利休がここに自らの肖像を安置し、秀吉の逆鱗に触れて切腹を命じられたという史上有名な事件の発端になった場所である。
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日本の禅寺として有数の規模と歴史を誇るこの大徳寺の名前を知らない人は、あまりいないであろう。また、もしこの寺にイメージがなくとも、あの一休禅師が再興した寺であると言えば、へぇそうなのかと思う人がほとんどであろうと思う。あの有名な一休さんがいて、千利休だの秀吉だのという人たちが関わった大きな寺院であるから、例の京都五山という、禅寺 (より正確には臨済宗の寺のみで、禅のもう一派である曹洞宗は、五山制度の対象ではない) の格式を決めた制度においては、きっと一位を争うほどのステイタスがあるはず、と考えるのが人情というもの。だが驚くなかれ、大徳寺ほどの寺が、実は京都五山には入っていないのである!! ここで確認しておくと、京都五山とは、南禅寺、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺。このうち 5位の万寿寺は、4位の東福寺の塔頭 (たっちゅう。大寺院の子院のこと) である。大寺院が沢山ある京都にあっても、禅寺として代表的な存在であるこの大徳寺と、それから妙心寺の名前が、五山のリストから落ちているわけだ。これには明確な理由があって、京都五山制度を整備した室町幕府と関係の悪かったところは、五山には入っていないということなのである。五山制度自体は中国から取り入れられ、鎌倉時代から既に日本にあったが (鎌倉五山というものもある)、その後室町時代になってから整備された。この大徳寺は後醍醐天皇の厚い庇護を受けたということで、室町幕府の意向によって五山から外されたということらしい。21世紀の現在、寺の格式は、実際にその場に身を置いて感じるという自由を我々は享受しているが、人間のやっていることであるから、長い歴史の中にはそのような確執もあったということである。

ともあれこの大徳寺、寺の資料に掲載されている境内の地図で数えていると、本坊以外に 24の塔頭寺院がある。だが、普段一般公開しているのは、大仙院 (歴史の教科書にも出て来る庭が有名) を含む 4つの塔頭のみで、ほとんどが非公開なのである。だが秋の時期には特別公開がある。今年は本坊以下、3つの塔頭が特別公開された。
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以下、ざっとご紹介するが、本坊やぞれぞれの塔頭では、門を入ると庭ですら写真撮影禁止とのことだったので、その回りの写真しかない。従い、一部はほかから拝借してここに掲載することをお許し頂きたい。さて、まずは本坊である。ここではなんと言っても、国宝の方丈に入ることができ、やはり国宝の唐門を拝観できるのが嬉しい。方丈の襖絵 80余面は狩野探幽筆の重要文化財、前庭は小堀遠州の作庭とされ、特別名勝である。特に唐門は、秀吉の聚楽第の遺構と言われ、華やかな彫刻の数々が見られる。日光東照宮の原型となったと言われているらしい。
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その後、法堂 (はっとう) で鳴き龍を体験できるのも楽しい。この天井画の下で手を打つと、本当に龍が鳴いておりましたよ。
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また本坊においては、豊臣秀吉とその母の肖像画を見ることができた。実は、特別公開期間の前半には、近年狩野永徳の筆と認定された織田信長画像が展示されていたそうで、これも興味深いものであったが、またの機会を狙いたい。秀吉と大徳寺の関係は、例の千利休事件以外にも面白い話があるので、後述。次に塔頭の興臨院に移ろう。この寺は能登の守護、畠山義総によって 1520年代に創建され、後に前田利家によって再興されている。表門、本堂、唐門が重要文化財に指定されている。落ち着いた雰囲気のよい寺である。
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次は黄梅院。この寺は、1562年に織田信長が父、信秀の菩提を弔うために創建した庵がその始まり。その後、信長の死後に秀吉によって改築されている。ここでも唐門や本堂が重要文化財に指定されている。以下は私が撮った写真で、それは 1ヶ月以上前のことなので、きっと今頃はきれいに紅葉しているのではないだろうか。
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そして、今回の中で最も興味深かったのは、総見院である。ここはなんと、本能寺の変で信長が亡くなった後、その菩提を弔うため、一周忌に際して 1583年に秀吉が創建したという寺なのである。以前、安土城址の記事の中で、同地にある総見寺 (結局訪問できなかったが) について触れたと記憶するが、やはりこの名称は信長に因むもの。実はもうひとつ、やはりこれも信長ゆかりの愛知県清須市にも、総見院という寺があるようだ。「総見院」は信長の戒名の一部にも使われている。
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この寺で興味深いのはなんと言っても、創建時に秀吉の命によって作成された、等身大の織田信長坐像である。これももちろん借用してきた写真だが、この像の雰囲気がお分かり頂けよう。繰り返しだが、信長の一周忌に秀吉が作らせた像ということは、実際の信長の容貌を伝えているものではないだろうか。
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この寺にはまた、織田一族の墓碑がある。真ん中の五輪塔が信長のものだ。
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実は秀吉はこの総見院を創建した際に、一大パフォーマンスを行っている。それは、信長の葬儀である。本能寺の焼け跡からは信長の遺体は発見されなかったのであるが、ポスト信長の勢力争いを有利に運んだ秀吉は、信長ゆかりのこの大徳寺 (その塔頭のひとつ、上で触れた黄梅院は信長自身が父を弔うために創設している) において、大々的に信長の葬儀を行った。その際、上記の現存する信長像に加えてもう 1体、香木をもって信長像を刻み、それを遺体の代わりに荼毘に付したという。そのとき、京都中にこの香木の香りが漂ったという。これは秀吉という人の天才を示すよい例ではないか。つまり、人間の中でも非常に敏感な感覚である嗅覚を刺激することで、信長の葬儀が行われていること、それを取り仕切っているのが秀吉であることを、都の人々に認識させるという作戦だったのであろう。ここで私が (どの本にも書いていないが勝手に) 思うことが二つ。まずひとつは、このような嗅覚の活用は、あらゆる感覚を研ぎ澄まさせる茶の湯と関係があるのではないかということ。きっと秀吉には動物的な感覚が備わっていて、本能的に嗅覚の活用を思い立ったが、実は同時代に、総合的に人間の感覚を研ぎ澄ますことに長けた千利休という名人がいて、秀吉はそのことに恐怖を抱いたため、利休を死に至らしめたのではないか。ふたつめは、信長から秀吉に至る、当時の新勢力による地位の誇示が、京都五山ではなくこの大徳寺で行われたことの背景は、既に滅びたりとはいえ旧秩序であった室町幕府から距離を取りたいという意向であったのではないか。そう思うと、様々な歴史の曲折が、この寺には未だに影を落としているようにも思われる。そうそう、歴史の曲折と言えば、以前彦根を訪問した際の記事に書いた石田三成の菩提寺であるが、それはやはりここ大徳寺の塔頭、三弦院なのである。たまたま今回、前を通りかかったときの写真がこれだ。「拝観謝絶」の札も厳めしい。室町幕府と距離を置いた大徳寺は、関ヶ原で家康に敗れた三成の菩提が祀られていることから、実は江戸幕府とも疎遠であったのであろうか。
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拝観謝絶といえばもうひとつの塔頭、龍光院を思い出す。数々の国宝・重要文化財を所蔵しながらも、頑なにその扉を閉ざしているこの寺には、日本に 3つしかない国宝茶室のひとつ、蜜庵が存在するが非公開。そして、これも日本に 3つしかない国宝曜変天目茶碗のうちの 1つを所蔵しているのである。ちなみに後者は、あっと驚く特別公開が先般あったのだが、私としては一生の不覚、それを見逃してしまった。そのことについてはまた追って記事を書くこととしよう。

このように大徳寺には、一筋縄では行かない奥深い歴史が息づいているのである。上記でご紹介した特別公開のうち、大徳寺本体の方丈は既に終了しているが、塔頭 3軒は未だ継続中であるので、ご興味おありの方は、是非お出かけになってみてはいかが。

by yokohama7474 | 2017-11-23 22:36 | 美術・旅行 | Comments(2)

絹谷幸二 色彩とイメージの旅 京都国立近代美術館

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絹谷幸二 (きぬたに こうじ) は 1943年生まれ、今年 74歳の洋画家である。この画家の名前が一般にどのくらいポピュラーなものであるのか分からないが、多分その作品を見たら、「あぁ、あの」と思う人は多いのではないか。かく言う私は、彼の作品との出会いは今から 30年ほど前の学生時代に遡る。確か、ほかの人から譲ってもらった 1970年代のレコード芸術に、彼のイラストが毎月載っていたのだったと思う。実は、実家に帰ればその雑誌を確認することはできるのだが、今この瞬間はそれが叶わないので、飽くまでも「確かそうだった」ということでご勘弁願いたい。もしクラシックファンの方が絹谷作品のイメージを持ちたいと思えば、池袋の東京芸術劇場に行ってみるとよい。入り口前に何か所か、天井にクーポル状に凹んだところがあり、そこに描かれているのが絹谷の作品である。そんなわけで、30年来の絹谷ファンとしては、彼の個展が京都で開かれているのを知って、黙っていられようわけもない。10/15 (日) までであったこの展覧会、終了前日に京都、岡崎公園の京都国立近代美術館まで見に行ったのである。尚、この美術館には最近、もう一度足を運んでいて、それはこの美術館で現在開催中の展覧会をどうしても見たかったからなのであるが、そのついでに (?) 京都国立博物館で開かれている国宝展にも出向いたので、時間ができたら追ってそちらもアップすることとしたい。尚この絹谷幸二展は残念ながら東京への巡回はないが、12/8 (土) から来年 1/27 (日) まで、北海道立近代美術館でも開催される。

さて、今や日本の洋画壇の重鎮である絹谷は、こんな人。
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既に文化功労者であり、東京藝術大学の名誉教授である彼は、1966年、卒業制作で早くも画壇の注目を浴びたという経歴を持つ。もちろん、若い頃に評価されたからと言って、その評価がそのまま何十年も続くわけもなく、その後の画業における彼の様々な工夫や努力や試行錯誤が、彼の今日を作り上げたことは明らかだ。この展覧会では、そのような彼の軌跡を辿ることができて大変興味深かった。これが若き日の絹谷。
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展覧会は、絹谷が藝大を卒業する頃の作品から始まっていた。これは 1966年の「自画像」。才気走った印象はあまり受けず、むしろ、これから画家としての制作活動に乗り出して行こうという真摯な意欲が見える。
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これが、上でも触れた、卒業制作の「蒼の間隙」(1966年)。この作品が大橋賞という賞を受賞し、絹谷は世に出ることになったのである。ここには、後年の絹谷の、明るき色使いによる輻輳したイメージの萌芽もあるが、足をむき出しにした女性とおぼしき人物に、少し怪しいエロティシズムも感じられるように思う。寒色系の色彩によって過度な Emotion を周到に排除している点が、ひとつのスタイルとして興味深い。
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これはその 3年後、1969年の「蒼の風跡」。題名からも題材からも、上の作品からのシリーズ性は明らかだ。一度見たらなかなか忘れることのない作品であると思う。
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さて絹谷は、1971年にイタリアに留学、フレスコ画を学び、これが彼の画業の方向性を決めることになる。因みに、この「フレスコ画」(主として壁画に使われた手法で、壁に塗った漆喰が乾かないうちに顔料を使って描く画法による作品) という言葉は一般にもなじみがあるが、絹谷自身は、イタリア語の表現に従い、「アフレスコ」と呼んでいるらしい。これは、西洋絵画の発祥ともいわれるジョットによるスクロヴェーニ礼拝堂の壁画の一場面を絹谷が模写したもの。私は幸いなことに、イタリアのパトヴァにあるこの礼拝堂現地を一度訪問したことがあって、この壁画の驚天動地の素晴らしさを肌で実感した経験を持つが、ここでの絹谷の筆致は、やはりそのような感動とともに、西洋近代絵画の祖というべきジョットへの深い尊敬の念がまざまざと感じられる。
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こちらは、やはり留学中に描いたピエロ・デラ・フランチェスカの模写 (1973年頃)。ピエロ・デラ・フランチェスカといえば有元利夫であるが、これから発展する絹谷のスタイルにおいては、絵画のモチーフ自体は有元とはかなり違っている。だがこれは、絹谷の確かな技術を思わせる作品である。
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絹谷作品には時折シュールな雰囲気が混じるのであるが、この「りんごのある風景」(1972年) はその典型例であろう。シュールではあっても、むやみに難解なものではなく、イメージを素直に楽しめる作品である。
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この「夢・ヴェネツィア (カーレ・デッラ・マンドラ)」(1978年) には、いよいよ絹谷らしい構図の輻輳ぶりが出て来たと見えるが、今でも人々の感心を引く、「かわいい」作品ではないだろうか。
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これは「アンセルモ氏の肖像」(1973年)。この作品によって絹谷は、日本における具象絵画の登竜門である安井賞を受賞する。色彩がグチャグチャと、また電気のようにビリビリと混じり合うのはまさに絹谷スタイルだが、一度見たら忘れない独自のスタイルである。尚、会場ではこの安井賞の名称の由来となっている、日本洋画壇の巨匠、安井曾太郎の代表的な作品が何点か並んでいたが、それはちょっと余計なような気もした。
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スケッチ類も沢山展示されていて、彼らしくカラフルで楽しいが、明らかに 2本の色鉛筆を同時に使って平行する曲線を描いているあたりも、独特の喜遊感がある。
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だがなんといっても、大きな作品で絹谷の個性が炸裂する。これは「アンジェラと蒼い空 I」(1976年)。社会的なメッセージ性の有無よりも、まずはその色彩で目を引くという点に、この画家の真骨頂があると思う。
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「フランチェスカとゾッティ氏の肖像」(1987年)。シュールでもあり、言葉が文字としてまた楽譜として踊っている。
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「銀嶺の女神」(1997年)。長野冬季オリンピックの公式ホスターの原画である。これも典型的な絹谷作品であり、オリンピックという華やかな舞台に相応しい。
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だが絹谷の作品は、ただ明るいだけではなく、時に内省的、時に社会的である。この 2点は、「自画像・夢」(2005年) と「漆黒の自画像」(2006年)。色合いが違い、モチーフも異なるが、いずれも空即是色 (もちろん般若心経の言葉である) という仏教の言葉を記載しながら、画家自身の家族を描いたり、内面のデーモンを描いたりしているわけである。
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これは「イエス・オア・ノー」(1991年)。明らかに戦乱に対する政治性をもったメッセージであろうが、そのメッセージ性は、決して作品を重くするものではない。
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彼の近年の大掛かりな作品は、仏教的素材や日本神話を扱っているものが多く、その表現力は大変なもの。やはりこのような時代、画家の個性を貫いて行くのはなかなか大変なことだろうと思うのであるが。これは展覧会のポスターにもなっている「喝破」(2015年)。文字通り炸裂する色彩が強烈だ。せっかくなので、部分アップも掲載する。
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ところでこの展覧会場に掲示されている解説で、この仏像のことを「阿修羅」と何度も書いてあったが、これは断じて阿修羅ではない。解説を書いているのは学芸員であろうから、そんなことはもちろん分かった上でのことであろうか。もちろんこの仏像は、五大明王のひとつ、降三世明王 (ごうざんぜみょうおう) である。京都の東寺講堂にある代表例はこちら。但し、絹谷の作品では、足の角度と本数が違う。足が両側 3本ずつというのは、同じ五大明王の中の大威徳明王 (だいいとくみょうおう) の特徴である。大威徳明王は水牛に乗っているので、彫刻でも 6本足が可能だが、さすがに立像で 6本足は技術的に困難であり、絹谷作品は、絵画であることのメリットを生かした造形になっているわけだ。
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一方でこの作品などは、石仏の口から漂い出る文字が、ちょっととぼけているような、不気味なような、不思議な感覚である。「羅漢唄う」(1980年)。
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これも力強い作品で、「不動明王・阿吽」(2011年)。不動明王の眷属は、制多迦 (せいたか) 童子と矜羯羅 (こんがら) 童子だが、この 2人は通常阿吽 (一方は口を開け、他方は閉じていること) にはなっていない。ここでは、後ろの左右に描かれている獅子と龍が阿吽をなしている。ところでこの龍など、なかなかユーモラスで、村上隆の描く龍とも共通点がある。
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仏像シリーズで言うと、これは「金剛蔵王権現像」(2011年)。絹谷の描く仏像には、モデルがはっきりするものと、典型的な図像を転用しているものがあるが、これは明らかに前者。吉野の金峯山寺蔵王堂のご本尊、蔵王権現 (ざおうごんげん) の三体像である。秘仏なので、ある時期まではなかなか見る機会はなかったが、最近は時折公開している。私も二度、実際にこの巨像の実物を前に、圧倒された経験がある。
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これは「大和国原」(1997年)。絹谷の風景画には、その一見して感じられる情報量の多さに関わらず、意外とシンプルな持ち味があると思う。その点、例えば富岡鉄斎と共通点があると言ったら、間違っているだろうか。
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さてこの展覧会では、最後のコーナーは撮影自由であったので、以下は私の現地での撮影になるもの。できる限り絹谷ワールドの面白さをシェアさせて頂きたい。これは滋賀県湖北地方にある渡岸寺 (どうがんじ) の有名な国宝十一面観音像を描いた、その名も「渡岸寺十一面観音」(2009年)。この仏像は日本の仏像の中でも有数の美しい作品で、私はこれまでに現地を三度訪ねたことがあるが、そろそろまた行かないといけないなぁ。
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上でも見たように、絹谷の描く龍は、村上隆ばりのユーモラスなものであるが、これは京都を舞台にした最新の龍のシリーズから、「光輝龍王二条城」と「樹上双龍伏見稲荷」(ともに 2017年)。
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これもすごい迫力で、オマージュ「平時物語絵巻」。会場ではこの作品をモチーフとした映像作家とのコラボレーション作品も上映されていて、なかなか楽しかった。いやしかし、この渦巻く炎の迫力には圧倒される。
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やはり最新作で、「富嶽旭日風神雷神」(2017年)。これ、外人が喜びそうな構図ではあるものの、日本人が見ても面白いと思うこと請け合いだ。この風神像と雷神像は、当然、京都の三十三間堂のものがモデルになっている。
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それから、会場の最後に展示してあったのは、大変興味深い作品で、「生命 (いのち) 輝く」というもの (2017年)。これは、娘である絹谷香菜子との共作である。絹谷香菜子は、水墨画で動物などを描く日本画家。なるほどこれは、独特の個性を持った父と娘の貴重な共同作業なのである。
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このように、私としては初めて見る絹谷幸二展で、彼の画業の出発点から修業時代を経て、独自のスタイルを確立し、そしてさらに自由に展開して行くさまをじっくり鑑賞することができ、また最後には、今後何度実現するか分からない娘とのコラボレーションを見ることができて、大変楽しかった。また回顧展を見たいものである。会場を後にしようとして振り返り、最後に撮影したのがこの巨大な彫刻である。まさに色彩とイメージの旅、堪能しました。また 1ヶ月ほど後にこの場所に戻ってくるとは、そのときは考えなかったが、そのことはまた追って。
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by yokohama7474 | 2017-11-23 01:00 | 美術・旅行 | Comments(0)

月岡芳年 月百姿 太田記念美術館

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月岡芳年 (1839 - 1892) は、歌川国芳の弟子であり、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師。私はこの画家を昔から大好きなのだが、それは (悪趣味と言われることを承知で申し上げると)、「血まみれ芳年」の異名を取った彼の残酷画によってなのである。そもそもそれは、今では海外でも名の知れた師の国芳についてもろくに知らない頃、つまりは 30年前の学生時代に、「英名二十八衆句」という作品集 (落合芳幾との合作) を知ったことがきっかけであった。この「英名二十八衆句」、あの手この手の殺しの場面ばかり 28シーンを集めた、極めて強烈なもの。芥川龍之介は自殺当日この作品を眺めていたとか、江戸川乱歩はこの作品から多くのヒントを得たとか、三島由紀夫が自決前にこの作品の一揃いを入手しようと奔走したとか、これらの作家をこよなく愛する私のような人間にとっては、まさに無関心ではいられないエピソードが目白押しだ。だが実は、この作品集を知ったのは、その当時発表された「新英名二十八衆句」という作品集によってであった。こちらは、当時私がよく読んでいた、かなりドロドロ系で時には究極的に下品だが、極めてアーティスティックな内容のマンガを描いていた、花輪和一と丸尾末広の合作になるもの。この新旧の「英名二十八衆句」を一冊に収めた本がリブロポートから出版され、原画展も開催されたので、私はそこで花輪と丸尾のサイン入りの本画集 (新旧「英名二十八衆句」をすべて掲載したもの) を購入し、今も手元にある。そのサインや、掲載されている作品の写真を掲載しようかと思ったが、漫画家たちのサインはこの記事に関係ないし、作品の画像はちょっと刺激が強すぎるので、ここでは文字での紹介にとどめておこう。因みに、花輪も丸尾も、それはそれはもうエグい過激な絵を描く人なのだが、実はあの「ちびまる子ちゃん」に出て来る花輪君と丸尾君は、この 2人に因んだ名前なのである。ほのぼの系に見えるあの「ちびまる子ちゃん」に、そのような設定が潜んでいようとは、気づかない人が多いのではないか。というわけで、グロテスクを受容できる文化ファンの方で、もしこの 2人の漫画家をよく知らない方がおられれば、ちょっと作品をご覧になることをお薦めする。但し、しつこいようだが相当にエグい内容なので、「悪趣味ではないか」との非難はお受けできません。悪しからず (笑)。せめてここでは、その新旧「英名二十八衆句」の画集の表紙だけ、控えめに載せておこう。今では絶版のようだが、中古ならアマゾンでも容易に手に入る。
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さて、芳年のこの展覧会に話題を戻そう。これは、9月に東京・原宿の太田記念美術館で開かれていたもの。たまたま近くを通ったときにその展覧会を知り、これは是非見たいと思って覗いたものである。実はこの美術館では、この展覧会に先立って、同じ芳年による妖怪を題材とした浮世絵展も開かれていたようで、そちらを見逃したことを深く後悔して、図録だけは 2冊とも購入したのである。

この芳年、没年は明治 25年と、明治も中頃なのであるが、私の知る限り、彼の創作はもっぱら版画の浮世絵であって、肉筆画があるとは聞いたことがない。近代明治の世に活躍した浮世絵師といえば、これも私が大好きな小林清親などもいるが、彼の場合には抒情的な都市風景が中心であるところ、芳年は劇画調のドラマティックなもの、おどろおどろしいもの、怪しい雰囲気のものが多い点、大いに個性が異なっている。大病を患ってそこから復活したゆえ、「大蘇芳年」と自称した。これは門人の手になるいわゆる死絵、つまりは死後に追悼のために出版された肖像画。
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今回展示されていた「月百姿」は、芳年最晩年、1885年から死の年である 1892年にかけて制作されたもので、その題名の通り、月を題材にした百点のシリーズである。ここではそのうちのほんの一部しかご紹介できないが、常に月の怪しさ、懐かしさ、神々しさを絡めながら、様々な構図とテーマを使ったこの作品集は、まさに芳年ワールドそのもの。私は圧倒されながら館内で作品を見ながら歩を進めたが、段々に、なんとも形容しようのない、腹の底からの感動に襲われた (こういうのを内臓感覚というのだろうか?)。この驚くべき多様性、この細かい気配り、この高い技術、この豊かな想像力、この激しいドラマトゥルギー。これぞ絵画芸術の醍醐味である。図録から撮影した写真ではどの程度そのリアリティが伝わるか判らぬが、ともかく一部をご紹介しよう。1ヶ月弱の短期間しか展示されなかったこの展覧会を実際に見ることができた私は、大変にラッキーであった。

会場は 4つのコーナーに分かれており、それは 1. 麗しき女性たち、2. 妖怪・幽霊・神仏、3. 勇ましき男性たち、4. 風雅・郷愁・悲哀。まず最初の「麗しき女性たち」から「月宮迎 竹とり」。文字通りかぐや姫であるが、翁はその背中だけを見せており、悲しみや驚きの表情を描くことなく、その姿勢や指の開きで感情を表現している点、実に秀逸だ。
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これは「石山月」。紫式部が「源氏物語」を執筆した場所と伝えられ、現在でも月の名所として知られる滋賀県の石山寺 (以前このブログでも記事を書いた) の抒情的な光景。登場人物の前を無遠慮に通る柱が、いかにも浮世絵である。西洋にはないこの大胆な構図が、ゴッホらヨーロッパの画家たちに影響を与えたことは、よく知られている。
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これは「月のものぐるひ 文ひろげ」。天正年間、京都に出没した、一人で嘆き悲しみながら手紙を声高に読み上げる千代という女性を描いている。これは五条橋での姿だが、本来のテーマである月そのものが描かれていないにもかかわらず、ハラハラと舞い上がる長い手紙は、狂気を引き起こす月に向かって昇って行くようだ。
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これは、「明月や畳の上に松の影 其角」。芭蕉の門人、宝井其角の俳句を絵画化したもの。ここでも月は描かれていないが、畳の上に松の影を映し出しているのが、秋の月なのであろう。明治の作品ということが信じられないような古風な表現でありながら、なんとも心憎い演出だ。
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「廓の月」。吉原のメインストリートには、春になると一時的に桜が植えられたらしいが、その桜がハラハラと散る中を、花魁が歩いている。さりげなさも纏いながら、日本人の心に懐かしさを呼び覚ます風景である。
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次からは、「妖怪・幽霊・神仏」。芳年得意の分野である。これは、「孤家月」。浅草の浅茅ヶ原の鬼婆である。画面上部を斜めに横切っているのは、寝込んだ旅人の上に落とすべく吊るされている石につながっているのだろう。
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「朱雀門の月 博雅三位 (はくがのさんみ)」。源博雅 (ひろまさ) は笛の名手であったが、夜、朱雀門で笛を吹いていると、同じように笛を吹く見知らぬ人物に出会った。その後何度も、お互い口をきくこともなくこのように向かい合った笛の名人は、実は門に住む鬼であったという話。夢か誠か、月が映し出す幻想的な場面。
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「大物海上月 弁慶」。大物浦 (おおものうら) から船出をした義経主従の前に現れた平家の亡霊である。私も能の「船弁慶」を見たことがあるが、それと同じ題材である。生き物のような波が、夜の海をうねっているという表現の斬新さはどうだろう。
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一転してこれは「南海月」。白衣観音を描いている。題名にある「南海」とは、南方にあるという観音の補陀落浄土を表すものだろう。古典的な白衣観音の描き方とは異なり、鋭い線による近代性を感じさせる。
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これは「破窓月」。もちろん、禅宗の祖である達磨を描いている。達磨が悟りを求めて長い年月座禅をするうち、建物の壁は崩れ落ち、そこから満月が覗いている。月のせいだろうか、題材の割には、厳しさよりは何か和やかな落ち着きを感じるように思う。
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次からは「勇ましき男性たち」のコーナー。まずこれは、「賊巣の月 小碓皇子 (おうすのみこ)」。題名の小碓皇子とは、ヤマトタケルのこと。九州の熊襲の宴会に女装して忍び込んだヤマトタケルが、まさに熊襲に攻撃を仕掛けんと、中の様子を伺っているところである。確かに髪は異様に長いし、着物も女性もののようだ。ヤマトタケルの猛々しいイメージとのギャップを、僅かに覗いた月が演出している。
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これは「五條橋の月」。言わずと知れた牛若丸である。宙にひらりと舞い、弁慶に向かってハッシと扇を投げたところであるが、あ、これも女装ではないか。倒錯を彩る月の光ということか (笑)。
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これは「稲葉山の月」。1567年、美濃の斎藤龍興を、織田信長が攻めあぐねていたが、木下藤吉郎が少人数の家臣たちとともに、稲葉山城の裏側から奇襲をかけた。これは、巨大な瓢箪を担いで懸命に岩を登る、蜂須賀又十郎 (小六の弟)。異様に大きい月が、静けさと緊張感をもたらしている。
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これは「山城 小栗栖月」。本能寺の変のあと、山崎の戦いで秀吉に敗れて落ち延びた明智光秀が、小栗栖 (おぐるす) という場所で農民の竹槍で殺害される場面。月が照らし出す馬上の光秀を見つけ、ありえないくらいに (笑) 体をひねって待ち構える農民の姿である。槍を握る手の震えや汗まで感じられるような緊張感だ。
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残りは「風雅・郷愁・悲哀」のコーナーから。これは「あまの原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」。言うまでもなく、遣唐使として唐に渡り、かの地で没した阿倍仲麻呂の歌である。故郷でも見ることのできる、朧な満月が郷愁をそそっているのだろうが、右の仲麻呂と、左にいる王維かと思われる人物の間に、細い柱が通っているのが暗示的だ。
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「足柄山月 義光」。平安時代後期の武将、源義光は、後三年の役の助太刀のために奥州に向かう途中、笙の師匠の息子に対し、足柄山で笙の秘曲を伝授したという話。教えを受ける少年を描かず、代わりに対角線をなす木を大胆に配置している。月は見えていないが、地面が暗いのは夜ということなのであろうか。
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最後に異色の作品を。「月夜釜 小鮒 (こふな) の源吾 嶋矢伴蔵 (しまや ばんぞう)」。石川五右衛門の子分たちが豆腐屋の巨釜を盗み出す場面であるらしい。だがそれにしても、この戯画調のタッチはどうだろう。寄らば斬るぞといわんばかりの緊張感のある構図とは全く異なる、これも芳年の持っているセンスなのであろう。凸凹コンビについ笑みが漏れてしまう。
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このように、ごく一部のみのご紹介しかできないが、私が当日味わった感動を少しでも分かち合えれば幸いである。冒頭では、芳年の無惨絵に焦点を当ててしまったが、ある場合には繊細に、ある場合には大胆に、ある場合には不気味に、ある場合にはユーモラスに、様々に筆致を使い分ける彼の素晴らしい作品群から、ただ単に血みどろの絵だけを描いた人ではなく、本当に類稀なる芸術家であったことがお分かり頂けよう。・・・でも、最後の〆に、ちょっとご披露しようかな。「英名二十八衆句」から、とっておきの血みどろの一枚を。そう、「直助権兵衛」である。「東海道四谷怪談」のシーンであるが、おぉなんということ、男がもうひとりの男の顔の皮を剥いでいる!! 衝撃的な場面だが、ここで「イテテ、イテテ」と呟いてみよう。この残酷なシーンの裏にあるユーモラスな要素が、少しは感じられようというものではないか。・・・でも実際、極限的に痛いと思います、これ (笑)。
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by yokohama7474 | 2017-11-15 23:50 | 美術・旅行 | Comments(0)

ヨコハマトリエンナーレ 2017 島と星座とガラパゴス 横浜美術館ほか

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2001年に最初に開かれて以来、3年に一度開かれている現代美術の祭典、横浜トリエンナーレが、今年その 6回目を迎えた。と、物事をまず疑ってかかる癖のある私は、のっけからここでひっかかる。3年に一度の開催なら、6回目は 2016年になるのではないか。そして調べてみて判明したことには、第 2回は 2005年で、初回からは 4年後だったわけだ。その後は予定通り 3年に一度の開催となり、2008年、2011年、2014年、そして今回 2017年である。初回の 2001年は、物珍しさも手伝って足を運んだ記憶が明確にある。それ以降も、少なくとも一度は行ったことがあるはずだが、書庫を調べてみると、図録は 2001年の初回のものしかない。因みに 2001年開催時には、イヴェント名は「横浜トリエンナーレ」と、漢字表記の地名になっているが、今回は「ヨコハマ」とカタカナになっている。どこかで方針変更があったのだろうか。なお、ここで常識的なおさらいであるが、世界のいくつかの場所で開かれる現代美術展で、2年に一回の開催のものをビエンナーレ、3年に一回の開催のものをトリエンナーレと呼ぶ。昨今のアート作品においては、非常に大掛かりなものや映像を駆使したものなど、様々に奇抜な作品もあり、海外から日本に運搬して展示するだけでも、それはそれは大変な手間とコストがかかるであろう。なので、横浜の地でトリエンナーレが継続開催されていることだけでも大きな意義があり、横浜市をはじめとする主催者の皆さんやスポンサー各社には、改めて敬意を表したい。

私は美術と名の付くものなら、古代文明の所産から現代アートまで、古今東西なんでも興味のある方であるが、実はひとつの素朴な理念がある。それは、アーティストたるもの、真のプロフェッショナルたれということだ。近世以降のヨーロッパ絵画であれ、近代の日本画であれ、画家はそもそも職人性に立脚したプロフェッショナリズムを素質として要求される職業。ピカソはいかにヘタクソに見える絵を描いても、その本来の超絶的なデッサン力があればこそ、あの方法が許されたということは、既に歴史的事実として、多くの人々が知っている。実は私の長年に亘る現代アートへの疑問には、その意識が根底にあって、もちろん人並みに現代アートに興味はあれど、本当に心揺さぶられる作品に出会う機会は、さほど多いとは思っていない。私がクラシック音楽や伝統芸能を尊敬し愛するのは、演じたり奏したりする人たちの、不断の鍛錬に裏打ちされた真のプロフェッショナリズムに第一の理由があると言ってもよいのだが、現代アートの場合、さてそこはいかがであろうか。人類が有史以来、いや、先史時代から行ってきた芸術活動の未来を考えるためにも、このような現代アートの祭典には、足を運ぶ意味があろう。

今回のトリエンナーレは、8/4 (金) から 11/5 (日) までの約 3ヶ月間に亘って開かれ、そのメイン会場は横浜美術館。それ以外にも、横浜赤レンガ倉庫や開港記念会館を使って展示が行われた。私が現地に足を運んだのは、ちょうど横浜みなとみらいホールでチェコ・フィルの演奏会があった日で、その前後に横浜美術館と赤レンガ倉庫を回ってみた。興味深かったのは、会場のどこでも写真撮影が可能であったこと。過去の文化遺産としての美術であれば、作品は写真撮影が禁止されることが多く、その根底には、美は唯一無二のものであって、複製は卑しいものという発想があるように思う。それに対し、現代のネット社会においては、どのみち情報も映像も評価も、瞬時にして世界中に拡散するわけで、そういうことなら最初から複製を禁止するよりも、積極的に拡散させる方向に持って行った方がよい。それは開かれたアートにつながる発想であり、大変結構ではないだろうか。ということで、この記事の写真は、すべて私がスマホで撮影したものである。メイン会場の入り口にはいきなりこんな装飾が。
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これは、中国の艾 未未 (アイ・ウェイウェイ) という人の作品で、壁面に掛かったゴムボートは「Reframe」、入り口左右の柱に見えるのは夥しい数の救命胴衣で、これは「安全な通行」という作品。いずれも難民問題に関係しており、後者は、実際にギリシャのレスボス島に漂着した難民たちが着用したもの。また、建物手前に並んでいるのはマレー系のシュシ・スライマンの「サンガ・ペタラ (9層) の神話」。東南アジア的な雰囲気だ。
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会場に入った誰もの目を驚かせるのは、インドネシアのジョコ・アヴィアントの「善と悪の境界はひどく縮れている」。竹を使った全長 13mの作品で、これは日本語では縮れているというよりも、捻じれているというべきではないか (笑)。
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実は、ここから先はさほど多くの写真を撮ったわけでもなく、逐一作品についての感想を述べるつもりはない。少し戻って、今回の展覧会のテーマを考えてみよう。キャッチフレーズは、「島と星座とガラパゴス」。「接続」と「孤立」をテーマに、世界のいまを考える催しであるとのこと。いわく、世界はグローバル化が進む一方で、紛争や難民・移民の問題、英国の EU 離脱、ポピュリズムの台頭などで大きく揺れている。この相反する価値観が複雑に絡み合う世界の状況を踏まえ、接続や孤立、想像力や創造力、独自性や多様性を示す「島」「星座」「ガラパゴス」というキーワードを手掛かりに、人間の勇気と想像力や創造力がどのような可能性を拓くかについて、開港の地・横浜から発信する、という趣旨である。上記の 3作品を見ただけでも、そのようなテーマについて考えるヒントは得られただろう。だが、ここで私はよくよく考えてみた。世界の諸相を知るためにはいかなる手段があって、日々その世界で生を営んでいる我々は、アートからどのように勇気をもらえるだろう。ひとつ気になるのは、展示されたアート作品には、「これこれの素材を使っています」「これは一見すると○○だけど、本当は△△です」「作者はこれこれこういう人です」という説明なしには理解不能のものも多い。これは何もこのイヴェントに限ったことではなく、現代アートにはその種のものが多いことは事実であると思う。だが、例えば難民のボートや救命胴衣を、アートとして見る必要は、本当にあるのだろうか。現実の厳しさや恐ろしさを人々に伝えるために、そのようなモノをかき集めることが、アーティストの想像力と創造力を発揮することになるのだろうか。端的に言えば私の疑問はそこである。その一方で、奇妙にとぼけた味わいの作品も多く、その場合には、厳しく恐ろしい現実世界を皮肉っているとも思われる。もう笑うしかない諦念ということだ。それはそれで面白いものもある。でも、それで我々が勇気づけられ、明日に向かって頑張って生きて行こうと思えるだろうか? もちろんここには、そもそもアートの定義とか、人それぞれにアートに求めるものの違いは関係してこよう。だが、どの人も目の前の現実に対処して生きていて、それぞれに世界とつながっている。本来人間の生活を豊かにするためのアートが、現代社会の真実を突きつけることがあってもよいが、多少抽象的でもよい、不断の鍛錬によるプロフェッショナルなものを見せてくれないと、やはり説得力を持たないのではないだろうか。私はここでそれほど大げさな芸術論を展開する意図はないが、そもそもの素朴な疑問として、現代においてアートはいかにあるべきか、その問題については、強い関心を持たないわけにはいかないのである。

熱くなるのはこのくらいにして、あといくつか作品を紹介しよう。これは、ザ・プロペラ・グループ (トゥアン・アンドリュー・グエンという米国とヴェトナムの 3人組) による作品。描かれているのはレーニンか? だが、髪がある (笑)。もしかして、レオナルド・ディ・カプリオか? そう、これはディ・カプリオが過去の作品で扮した役に扮するレーニンだそうだ。この二人、実はちょっと顔が似ている、と笑ってしまうが、ここには共産主義と資本主義のイデオロギー対決を読み取らねばならないのか?!
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これはマウリツィオ・カテランの「スペルミニ」と「無題」。
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この多くの顔と、首を吊っているように見える人物は、同じ人物のようであり、どうやらそれは、アーティスト自身の肖像であるようだ。これらは別々の作品であり、展示も、ちょっと距離を隔てた表と裏であり、その関連性は定かではない。だが、これらを見る誰もが、ドキッとすることは確かであろう。そうすると問題は、そのドキッと感が、アート作品によって示される必要があるか否かということではないだろうか。例えば高校の学園祭で同じようなアイデアを抱いた高校生がいて、遊び心で同じような作品を作ることは、ありそうなことではないか。そうすると、アート活動でメシを食っているアーティストの存在意義は、一体どこにあるのだろうか。似たような例は沢山あって、これはブルームバーグとチャナリンというコンビによる「ロンドン自爆テロ犯 (L-R)」。題名の通り、ロンドンで発生した自爆テロ犯をとらえた防犯カメラの映像を分析して、写真と立方体のオブジェに変換したもの。カラフルで、なんの先入観もなしに見れば美しいが、では、テロ犯人云々の情報は、一体いかなる意味があるのだろうか。テロへの嫌悪感やつらい思いは、何もアートの力を借りずとも、ニュースを見るだけで充分ではないだろうか。
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また、現代アートの特徴のひとつとして、映像を作品とする例が多い。だが私に言わせれば、美術とは空間表現であり、映像につきあう鑑賞者にその時間の消費を強いるのはいかがなものであろうか。時間を構成要素とする文化分野には、音楽と映画がある。これらの分野だけで、我々には尽きせぬ豊穣の泉が与えられている。そこに美術家がいかなる新たな価値を付与できるかこそが、大きな課題であろう。これはワエル・シャウスキーによる「十字軍芝居 聖地カルバラーの秘密」。これを見て「可愛いー」と呟くのは簡単だが、このパペット芝居はでは、ブラザーズクエイの映画に太刀打ちできるだろうか。
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もちろん、アーティストにとっての手段としての映像が、独自の価値を持つケースもある。私が面白いと思ったのは、まず照沼敦朗の「ミエテルノゾムとミエナイノゾミ」。これは映画にはならないだろうし、表現力としては強烈なものがある。
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それから、私が信奉するタイプの、プロフェッショナルな技術を持つアーティストの存在も、もちろんある。これは、木下晋の「生命 (いのち) の賛歌 In Praise of Life」。シンプルだが巨大な作品で、これが難病を患う人の手の写生であることを知らずとも、何やら心を打たれるのである。アイデアだけではなく、技術が重要であることの一例であろう。
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それから、小西紀行による「孤独の集団」という一連の作品。ここで連想されるのはフランシス・ベーコンであるかロベルト・マッタであるか河原温であるか。生々しい生と死の混淆に感動を覚える。NHK の「日曜美術館」で、このトリエンナーレのレポーターを務めた壇蜜が眩暈を覚えていたのも、この作品群の前であった。鋭い感受性を持つ女優さんであると思う。
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さて、ここでご紹介した作品は展示物のごく一部であり、それぞれについての私の評価は極めて個人的なものである。実際、アートを見に来る人たちが覚える感情は千差万別で、それこそがアートの面白みである。つまり私は私なりに、感じるところを上で書いてみたに過ぎない。芸術作品は時代によって淘汰されるべきもの。上述の通り、正直なところ私は、現代アートの意義について多々疑問を持つことが多く、そうであるからこそ、自分なりに優れたアーティストの作品を発見したいと切望しているのである。既に評価の固まった芸術の鑑賞だけではつまらない。素晴らしい才能を持ったアーティストが、血のにじむような努力をして初めて辿り着く水準の芸術作品であれば、ほかの誰かがどのように評価しようが関係なく、私個人の思いで支持したいと、いつも思っているのである。その意味で、いろいろ文句を言いながらも、このトリエンナーレのようなイヴェントには、極力足を運びたいと思うのである。

by yokohama7474 | 2017-11-15 00:17 | 美術・旅行 | Comments(0)

東京・青山 岡本太郎記念館

ある 9月の週末、車で家人とともに都内を移動していて、あることに気づいた。港区南青山、根津美術館の近くに、岡本太郎記念館なるものがある。あれれ、岡本太郎の名を冠した美術館は、私の住んでいる東京都大田区からは多摩川を渡った反対側である神奈川県川崎市にあるはず。一体こんな高級な場所に、なぜにまた違った施設があるのだろうか。そう思って訪れることとした。そして私は、大いに自分の無知を恥じることになったのである。ちょうどかなりの広さのタイムパーキングが目の前にあるこのような施設が、岡本太郎記念館である。
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敷地内に足を踏み入れてすぐに判明するのは、ここが岡本太郎の元住居兼アトリエであるということだ。それは知らなかった。本人が住んでいた当時の雰囲気そのままに、太郎の彫刻作品がところ狭しと並んでいて面白い。
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画家・彫刻家である岡本太郎 (1911 - 1996) を知らない人はほとんどいないであろうが、若い世代の人などは、大阪万博とか、テレビの CM で「芸術は、バクハツだ!!」などとやっていた彼のことに、あまりイメージがないかもしれない。まぁ、現代では YouTube のような便利なメディアで、彼の生前の姿にも簡単に接することができるわけだが、やはりこの人が生きて動いていた時代の持っていた雰囲気は、なかなか肌身で感じることは難しいだろう。彼は漫画家岡本一平、作家岡本かの子の間に生まれ、この両親との関係なども過去にドラマや小説になっているが、若い頃、1930年代をパリで過ごし、様々な芸術上の刺激を受けたことが、彼の芸術の大きなバックボーンになっている。だが、やはり我々にとっては、本場パリ云々という能書きや、日本美術史上における彼の位置づけなどよりも、この人の持つ素朴で土俗的な力強さこそを身近に感じるべきだろうし、大阪の万博記念公園に未だに残る太陽の塔や、各地の美術館、あるいは壁画や街中の作品 (例えば、渋谷のマークシティとか、ミューザ川崎シンフォニーホールとか、それから数寄屋橋にある時計台とか) で彼の作品に触れることで、常に何かの刺激を受けることができる。著作も多く、私も過去にその何冊かを読んだが、作品と同様に熱いものであり、まぁ、時にはちょっと暑苦しいときがないとは言わないが (笑)、周りの目を気にせずに強烈なパワーを発揮し続けた芸術家の魂に思いを馳せることには、意味があるだろう。特に、こう何もかもが便利になった時代、街にあって、「あっ、なんだこれは」と思わせる異物が目に入ることで、当たり前の日常に、何か新鮮なものが入ってくることは、意外と大事なのではないだろうか。
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調べてみるとこの岡本太郎記念館のある場所は、戦前から岡本一平・かの子が暮らした場所であり、一家がヨーロッパに旅立ったのもこの場所からであった。旧宅は戦災で焼けてしまったが、現在の建物は、あのル・コルビュジェの弟子であった坂倉準三 (岡本の友人であったらしい) の設計によるもので、岡本はここに 1954年から亡くなるまで住んだもの。中に一歩足を踏み入れると、そこはまさに太郎ワールドだ。
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応接室やアトリエは、生前のままに残されているようで、等身大の人形にギョッとしたり、アトリエに未だに残る制作途中の作品の数々に、太郎の存在をひしひしと感じることができる。もしかしたら、部屋の隅からノソノソ本人が出てきて、制作を再開するのではないかと思われるほど生々しい、激闘の空間だ。
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この記念館では、テーマを変えてなんらかの特別展示を行っているようで、私が訪れたときには、東北で彼が撮影した写真の数々が展示されていた。いかにも太郎らしい力強さに、日常意識しない日本人の潜在力が喚起される。
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そして、帰りがけに庭に出て、ふと視線を感じて (?) 上を見上げると、あ、なんだなんだ、太陽の塔がベランダから体を乗り出しているじゃないの!! (笑)
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私は大阪の生まれで、弱冠 5歳にして大阪万博に何度か出かけたことが、ある意味で世界の様々な事象との遭遇のきっかけになったような人間である。様々な意味で大阪万博こそが自分の中の原点という意識が常にある。なので、あの太陽の塔がこんな風にベランダから乗り出しているのを見ると、とても冷静でいることができず、思わずその場にあるガチャガチャで、太陽の塔グッズを買ってしまいました。これ、「コップのフチ子」風にグラスにひっかけるもので、何の役にも立たないのだが (笑)、なんとも楽しいではないですか。世界の様々な事象との遭遇は、ここにこそその本質がある・・・わけはないか。
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そんなわけで、岡本太郎を知っている人も知らない人も、一度出かけてみる価値のある場所だと思います。

by yokohama7474 | 2017-11-09 09:39 | 美術・旅行 | Comments(0)

奈良美智展 for better or worse 豊田市美術館

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先にお断りしておくが、この記事は、既に終了してしまった展覧会に関するものである。ほかにも記事にしたくて未だできていない文化イヴェントが数々あるのだが、これは 8月に行ったものであり、さすがに 3ヶ月近く経ってしまっているので、これ以上時間が経過して印象が薄れると困るので、今ここで記事にしてしまおう。これは、多分知らない人はほとんどないと思われる (あるいは、もし名前は知らなくとも作品は誰でも見たことがあるでだろう)、現代日本を代表するアーティスト、奈良美智 (なら よしとも) の個展である。東京での開催ではなく、愛知県の豊田市だけで、7/15 から 9/24 まで開催されたものである。豊田市美術館は、あのトヨタのお膝元、豊田市 (名古屋市の東側、但し隣接はしていない) にあって、設計は現代日本を代表する建築家、あの MOMA の設計で知られる谷口吉生 (よしお)。建築に興味のある人にはよく知られていると思うが、私もこの美術館の評判は以前から聞いていて、今回が 2度目の訪問。
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実はこの場所、もともと七州城と呼ばれた城のあったところで、このように再建された櫓がある。七州の名前は、この場所から 7つの国を眺望することができたことによるらしい。内藤氏 2万石の城で、1785年に完成。明治に入って壊されたが、この櫓は 1978年に再建されたもの。
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ここから美術館に歩いて行く景色はこんな感じでした。奈良美智展の看板が段々近くなってくるのが、お分かり頂けよう。
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さて、奈良は 1959年生まれの 57歳。既に独自の作風で世界にも知られた存在だが、まだまだこれから面白いことをやってくれそうだと思う。様々なメディアを誰でも簡単に操れる時代に、一目見てそれと分かる独自性をもったアート活動を継続していることだけでも、尊敬に値する。そしてそれ以上に、その独自性に接した鑑賞者がほとんど皆、「うわぁ-、可愛い!!」と声を上げるなど、稀有のことであろう (笑)。奈良さんはこんな人。
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今回、全国でも豊田だけで彼の個展が開かれたのは意味があって、彼は以前、豊田の隣町、長久手 (古戦場で知られており、このブログでも 2年近く前にご紹介した) に住んでいたからだ。調べてみるとその理由は単純で、彼は 1981年に (武蔵野美術大学を 1年で中退した後) 愛知県立芸術大学に入学しているからだ。この大学は長久手にあり、奈良本人によると、彼は学部の 4年間、大学の門の脇に立つ小屋に住んでいたそうだ。どうやらそれは誇張ではなく、農家である大家が趣味で建てたもの。夏は暑く冬は寒く、掘立小屋のような共同トイレと風呂は外にあったとのこと。そんな彼が、今や現代の先端を行くアーティストとして古巣に帰ってきて、過去 30年に亘る作品の数々を展示したのがこの展覧会だ。

美術館に入り、展示会場に向かう壁には、様々な文化人の名前が貼りつけられていて、電光表示で何やら言葉が流れている。
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奈良いわく、今回は自分の世界観を作り上げたいろいろな事象を並べることから始めようとしたとのこと。そして会場にところ狭しと並んでいたのは、奈良の部屋を再現したという、夥しい数の人形やレコードや書物。なるほど、彼の原点がよく分かりますね。昭和な雰囲気が、名古屋にもふさわしい (笑)。書物は、スタインベックにヘンリー・ミラーに三島由紀夫ですか。ところでここから先の映像は、会場風景を含む写真満載の展覧会図録から撮影させて頂いたもの。
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今回冒頭のポスターに掲載されている作品 2点は今年の新作で、それぞれ「Midnight Truth」、「Midnight Surprise」と題されている。これはアトリエであろうか、正面の壁の中央と右隣にかかった大小の作品がそれだ。
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会場での展示はかなりゆったりとしたもので、まさに奈良ワールドを形作る少女 (や少年?) の肖像が沢山あった。会場の雰囲気はこんな感じ。順に、1991年、1995年、1997年、2001/04 年の作品。
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最後のものは、積み重なった頭たちの目から涙のような水が流れていて、大変抒情的。これを含めて大半は、「うわぁー、可愛い!!」と言いたくなるものだ。だが、奈良アートはただそれだけではない。これを見よ。1994年の「Dead Flower」という作品。
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なんと、裸電球の下。刃物を持ってにやつく女の子なのである。しかも、背中には下品な四文字言葉が!! だが私はここに退廃的なものを微塵も感じない。それは、大上段に構えることなく期せずして (というと語弊があるだろうが、実際本人の思いはそうではないか) 世界的名声を博して行く自らに対する、屈折した思いを表しているのではないだろうか。もしそうであれば、それは極めて自然な感情だ。会場には数々のスケッチや、いかにも白い色を恣意的に塗りたくった板の上に書かれた様々な思いを見ることができて、アーティストの内面に触れることができる。だがそれは、世界苦を孕むものではなく、また居丈高なものではない。ひとつひとつを論評する意味はあまりなく、普通の人間としての芸術家の内面に触れればよいのではないだろうか。
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会場にはインスタレーションや巨大彫刻もいくつかあったが、それは写真では雰囲気が分かりにくいので、ここではパスしよう。この 2012年の「夜まで待てない Can't Wait 'till the Night Comes」は奈良の典型的な作品だが、この少女の瞳には独特の力がありはしないか。
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それゆえか否か分からないが、彼は時折、この 2007年の「Sprout the Ambassador」のように、片目に眼帯をつけてしまう。
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これは私の勝手な解釈だが、奈良は数々のキッチュな肖像画を描いてきて、時折その少女らの顔に、完全ではないものを見出したいという思いがあるのではないだろうか。ぱっちり開けた目で見る世界と、片目を閉じて見る世界は、一体どちらがよりよい世界なのだろう。For better or worse、答えはそう単純ではないのだと思う。

図録の解説を読んでいると、奈良の部屋を再現した展示の一角に、英語の紙片が置いてあったらしい。私は気づかなかったが、それは以下の通り。

 Even if it isn't love or affection,
 I have a single strong power
 that will never be defeated.

お、なんだこれ、THE BLUE HEARTS の「リンダリンダ」じゃないか!! まぁ、この訳が英語として詩的であるか否かは別として、この歌の長年の愛唱者として (笑)、私は言いましょう。写真には写らないドブネズミの美しさ、それが見えてくれば世界はきっと better になると思う。この文化ブログも、そんな思いでやっております。

by yokohama7474 | 2017-11-09 01:21 | 美術・旅行 | Comments(0)

茨城県桜川市 妙法寺 (舜義上人即身仏)、小山寺 (富山観音)、月山寺、雨引観音

これから私がご紹介するのは、茨城県桜川市にある古寺の数々である。桜川市をご存じであろうか。実のところ、私もその存在を知らなかった。つい先月、この地を実際に訪れるまでは。だが、行ってみて判ったことには、なんとも古い歴史と貴重な文化遺産を持つ土地であり、高速道路も近くを通っていて (常磐自動車道と北関東自動車道)、車で訪れるには大変便利。位置は以下の地図の赤丸の場所だが、水戸の西側、北は栃木県と接しており、南の方は筑波山である。
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もともと私がこの地域に興味を持ったのはほかでもない、今年の 7月に山形県で 6体の即身成仏を拝観したことがきっかけである。その旅行記はこのブログの過去の記事をご参照頂きたいが、同地訪問に際し、久しぶりに日本のミイラの本を書棚から引っ張り出してきて読んでいたところ、なんと、関東地方にも即身仏があるという。しかも江戸時代初期の古いもので、所在地は「茨城県西茨城郡岩瀬町」とあった。調べてみて、その場所は 2005年に 3町村が合併して、現在では桜川市という地名になっていることが分かった。茨城県といえば、ちょうど水戸室内管弦楽団の演奏会に出掛ける予定がある。そのついでにちょっと寄ってみるか・・・と思い立ったもの。私が地方に出掛ける時の歴史探訪には、山川出版の県別の歴史散歩という本が欠かせないが、今回も「茨城県の歴史散歩」を片手に、即身成仏のある妙法寺を含めて 4ヶ所の古寺を周ることとした。この日は金曜日と平日であるのに加え、あいにくの雨であり、私が家人とともに訪れた場所はいずれも閑散として人影のない状態ではあったが、それだけに心に残る、深い情緒を感じることができる小旅行となった。

まず最初が、その即身仏、舜義上人のおわします、妙法寺だ。寺でありながらこのように狛犬もいて、昔ながらの神仏習合を感じさせるが、宗派は天台宗である。
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事前に電話で拝観をお願いしてあり、お堂を開けて頂いて内部を拝観した。即身仏は本堂に入って向かって右手の回廊に安置されており、ガラス入りの厨子に入って、きれいな衣を身に着けておられる。ちょうど山形で拝観した即身成仏では、6年か 12年に一度、衣を換えているとのことだったので、こちらもそうかと思ってお訊きしてみると、そのような習慣はなく、現在の衣は昭和 30年代のものという。つまりこの寺の即身仏は、真言宗の湯殿山系のものとは全く違った経緯によって伝えられ、守られてきたということだ。この舜義上人のお姿は、その場で写真撮影ができないので、古い書物 (松本昭著「日本のミイラ仏」) から引用させて頂く。これは恐らく学術調査のときに撮影されたものであろう。
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このように、前かがみとなって口をカッと開けておられるので、正直なところ、少し怖いようにも見えるが (上記の書物では「まさに死の形相そのもの」と表現されている)、伝わっている上人のお人柄や、即身成仏となった経緯などを知ると、執念をもってこのようなお姿で現世に留まった上人の尊い志を理解することができる。但し、舜義上人に関する資料は非常に限られているらしく、手元にある数冊の本の中にも多少の異同があるが、ここでは上記の写真を借用した「日本のミイラ仏」に基づいて説明しよう。その本によると、この妙法寺に伝わる一巻の書が記しているところでは、上人は相模国三浦郡の出身で、同地の城主である三浦氏の一族として 1608年に生まれた。出家して鎌倉の名刹である宝戒寺の住職となり、時の天皇 (後西院天皇) から大僧都の宣下を賜る。69歳のときに弟子が住職をしていたこの妙法寺に隠居し、1686年に 78歳で没した。遺体は七日間の法要の後、石造阿弥陀仏の胎内に納めたという。それから時を経た 84年後の 1773年、当時の住職の夢枕に立った舜義上人が、「再びこの世に出て衆生を救済しよう」と告げたため、人々は石仏を開けて、ミイラ化した上人を取り出したのだという。お寺でもそのような話を聞いて、その石造阿弥陀仏なるものが今に至るも現存していることを知った。上に掲げた最初の門から本堂に至る途中にもうひとつの門があるが、その脇に、知らなければ素通りしてしまいそうな阿弥陀の石仏がある。
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実はこの石仏こそが、その中で舜義上人が即身成仏と化した石棺なのである。よく見ると阿弥陀仏の胸のところには上人の名前が刻まれており、その横には、そこが上人入定の場であることを示す石碑が立っている。
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見たところ、とても人ひとり入るスペースはないと思われるが、「日本のミイラ仏」に医師の所見として書いてあるところによると、このような狭い中に押し込められた際に、上人の首の骨が折れてしまい、上記のような前かがみで口を開いた姿勢になってしまったものだという。うーん。同書に掲載されている石棺阿弥陀仏の胎内の写真を見ると、やはりいかにも狭い。
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それにしても、江戸時代の初期に、自らのからだを未来に残して衆生を救済しようとしたこの舜義上人の決意たるや、凄まじいものがある。現存する日本のミイラとしては、その位置づけが特殊な奥州藤原氏のものを除けば、4つ目に古いものである (ちなみにそのうちの 1体は、既に見た山形の本明寺に残る本明海上人のもので、それ以外は、新潟と福島に存在する)。だが、ここで改めて注意したいのは、この舜義上人の即身仏は、関東に現存する唯一のものなのである。東北の寒冷地域ではなく、普通なら遺体が腐ってしまうような場所で、あえて地上で、この石仏の中でその身体を保持しようとした舜義上人、一体どのような破天荒な人であったのか。お寺の説明では、本当に民のことを考える人格者であり、その遺体は「きれいに残っている」とのこと。この言葉に私は感動した。このような後世の人たちの篤い信仰があってこそ、300年以上の長きに亘って人々を勇気づけているのだと思う。だがそれにしても、山形の湯殿山系のものとは全く異なるこの即身成仏、そのルーツはどこにあるのだろうか。これからも私は、日本に現存する即身成仏を訪ねる旅を続けたいと思う。それは、日本人の重要な一面を知る旅になることだろう。

その妙法寺を辞して私が向かったのは、富谷 (とみや) 観音の異名で知られる小山寺 (おやまじ)。その開基は実に、奈良時代の行基にまで遡るとされているらしい、大変な古刹である。ここでの見どころはなんと言っても、重要文化財に指定されている三重塔。1465年、室町時代の造立というから、関東でも指折りの古い建築であろう。訪れる人はおろか、寺の人の姿すら見当たらない境内で雨に煙るその姿は、実に神々しいものであった。
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次に向かったお寺は、その名も月山寺 (がっさんじ)。この近くには駅名になっている羽黒という地名もあり、いやでも出羽三山を思い起こさせるのであるが、その関係は充分に辿ることができなかった。今後の歴史探訪の課題にしたいものである。この月山寺は、このような整備された境内を持つ立派なお寺であることに驚かされる。
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この寺には様々な文化財が伝来しており、境内にある美術館で対面することができる。
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この美術館で私の目を大いに引いたのは、この仏像群だ。
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この、極めて素朴でありながら一種異様なまでの迫力を漲らせた仏像は、五大力菩薩像。桜川市内の吉祥院という寺に伝来したもので、その制作は胎内の墨書から、平安時代末期、1178年頃にまで遡るというから恐れ入る。五大力菩薩の彫像は全国的にも例が少なく、平安時代のものが揃って残っているのはここだけだという。その性質には鎮護国家の色合いが強く、平将門伝説に彩られた筑波のこの土地において、既に当時 200年以上前に成敗された朝敵将門の怨念を調伏するための造像である可能性があるようだ。いやしかし、それにしてもこんなに古くてかつ素朴な仏像は、ほかにちょっと例がないのではないか。つまり、平安時代の仏像として現存するものは、奈良・京都という上代の日本の中心地に存在するものがほとんどであり、まさかこんな関東の奥地でそれほど古い仏像が残っていようとは、幼時からの仏像マニアの私も知りませんでしたよ。倒れないように紐で留めてあるのが痛々しいが、900年以上を経て現代に伝えられた仏たちの強い生命力に打たれるのである。田舎作りではあるが、その彫り跡は鋭い。
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次に向かった先は、雨引 (あまびき) 観音。ここも創建は奈良時代と伝わる、大変な古刹なのである。聖武天皇と光明皇后が安産祈願したという話は本当かどうか知る由もないが、現在でも安産・子育てに霊験あらたかな寺として知られているらしい。
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境内に至る石段を登って行くと、なんと驚くべきことに、このような看板に出くわすことになる。えぇーっ、孔雀を境内に放し飼い???
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にわかには信じがたい思いで境内に到達し、数々の県指定文化財の建造物を見る。本堂は明暦年間、17世紀半ばのもので、鮮やかな透かし彫りが見事。もう少し時を経れば、国指定の重要文化財になることは間違いないだろう。多宝塔も実に堂々たるものだが、こちらは 200年ほど後の、19世紀半ばのもの。
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そうして私は目撃した。なんということ、確かに孔雀が数羽、本堂の軒下近辺にたむろっているのである!! こんな光景を見ることは滅多にないのではなかろうか。
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と思っていると、実はこの寺には孔雀だけではなく、鶏やアヒルや鴨など、様々な鳥類が境内で自由を享受しているのである。特に一羽の鶏は、堂の入り口に張られたテントの上にじっと鎮座して、あたかもあたりを睥睨しているかのようだ (笑)。
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本堂の中では時あたかも、奥さんが妊娠しているとおぼしい若者夫婦が祈祷を受けていた。このような関東の奥地で、未だ篤い信仰を集める古寺が存在することを知って、感動を禁じえようか。日本の古寺の情緒を知るには、何も奈良や京都だけではない。実は関東地方にも、汲めどもつきぬ歴史の蓄積が存在しているのである。また、今回ご紹介できなかった古寺が、この地域にほかにもいくつも存在するのである。もっとも私はこの後、水戸でコンサートを聴くまでの間、今度は海沿いまで足を延ばして、大洗水族館を楽しんだ。これは家人との交渉の産物であったのだが (今年の 7月以来我が家ではおなじみの、即身仏 vs 水族館)、まあ確かにこのようにのんびり泳ぐマンボウを見ていると、心がゆったりしましたわい。茨城県、恐るべし。
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by yokohama7474 | 2017-11-07 01:10 | 美術・旅行 | Comments(0)

名古屋 その 2 愛知県庁、名古屋市役所、名古屋市政資料館、中村公園

前回は、戦国時代から江戸時代までの名古屋に思いを馳せたが、この記事では時代を下り、近代の遺構という観点から、名古屋を見てみたい。そもそも名古屋という街、歩いているとレトロな感覚を覚えることが多い。この場合のレトロとは、大抵の場合には昭和というイメージなのであるが、中には明治・大正の雰囲気をたたえる巨大建築もあって、これほど建築を見るそぞろ歩きが面白い街も、そうはないと思う。この夏には、豊田市美術館で開催されていた奈良美智展にも足を運び (その記事は、9月上旬に送れられてくる予定であった同展の図録作成が遅れていることから、未だ書けていないが)、そのときに美術館のショップで購入したこのような本が大変面白い。歴史的に貴重な近代建築から、最新の凝ったデザインのレストランまで網羅していて、建築好き、街歩き好きには必携の書物である。
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さて、何も建築に興味のある人でなくとも、名古屋城近辺に出掛ける人たち、あるいは高速に乗って名古屋の北の方に向かう人たちには、二つ並んだ大建築を見て、「お、あれはなんだ」と思うに違いない。それは、愛知県庁と名古屋市役所なのである。まず前者はこのような建物。
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この堅牢な作りは「帝冠様式」と呼ばれているらしく、1930年代、つまり日本が大日本帝国と自称していた頃に作られた和洋折衷様式の建物。ほかにも、このブログで以前紹介した静岡県庁とか、あるいは神奈川県庁、あるいは東京なら九段会館 (旧軍人会館)、それから東京国立博物館の本館などがある。だが、この名古屋においては、県庁と市役所という 2つの帝冠様式の建築が並んでいるわけで、これはほかに例のないことではないだろうか。この県庁舎は 1938年の竣工で、設計者は西村好時と渡辺仁 (後者はまた、東京国立博物館の設計者としても知られ、以前このブログでも、熱海の旧日向邸の記事で名前を言及したことがある。そして、この県庁から隣の市役所を望むとこのような感じ。
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市役所の方は 1933年竣工。設計は平林金吾である。ちょっと光の加減できれいな写真が撮れなかったが、中央の時計台は四面に時計を掲げている。やはり堂々たるものだ。
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これらの公共建築はいずれも現役であり、内部のツアーなどはなさそうであるが、ともに重要文化財。大都市名古屋の近代の歴史を刻んできた貴重な建造物であるのだ。仰ぎ見るとその存在感に圧倒されること請け合いだ。だが、驚くべきことに名古屋には、これらに先立つ 1922年に竣工したレンガ作りの公共建築で、やはり重要文化財に指定されているものがあり、そちらの方は内部の見学が可能なのである。その建物はもともと裁判所で、正式名称を「旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎」というが、長くて覚えられない (笑)。現在では名古屋市市政資料館として一般に公開されていて、観光の対象としてはあまり知られていないかもしれないが、驚くほど壮麗な建物で、一度は見ておいた方がよい。
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この建物の内部を夢中になってほっつき歩きながら私は、ひとつの思いを抱いていた。それは、以前の記事でご紹介した明治村についてである。あの場所には貴重な近代建築が沢山移築・保存されているのだが、それでもこの名古屋市市政資料館のように、建物がまるまる残っている例に遭遇すると、明治村にある建物たちは、飽くまで断片に過ぎないのだなぁと実感する。もちろん小さい建築はそのまま保存されているし、大きい建築の断片であってもその価値は大きいのであるが、やはりこの建物、存在感が圧倒的だ。そのひとつの例として挙げたいのが地下の空間である。この裁判所は、上の写真のような大理石をふんだんに使った立派な作りである一方で、地下は寒々とした留置場になっているのである!! これぞ建物の機能がリアルに残っているということであり、一部の移築では再現できない、この建物の刻んできた歴史なのである。
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歴史に興味のある方、文化に関心のある方は、是非この場所に足を運ばれることをお薦めする。なお、これだけの建物であるから、映画やテレビドラマのロケ地になっているようで、館内には、阿部サダヲ主演の「謝罪の王様」の撮影で使われた旨の説明がある。いや、別にここで撮影したことを謝る必要はないですよ (笑)。
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このように名古屋の公共建築のスケールの大きさに圧倒され、栄や錦三で飲んでいるだけでは見えない名古屋の奥深さに打たれるのであるが、また別のときに車で名古屋市内を走っていて、小ぶりながらいかにも風格ある古い建物が反対車線側に見えたので、少しスピードを落として運転しながら、反射的に写真に収めたのがこれだ。
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上記の「あいち建築ガイド」で調べると、これは愛知県庁大津橋分室。1933年の竣工だから、県庁本館よりも古いわけである。うーむ、何気ない顔をして建っているのに、大変貴重な建築なのである。名古屋おそるべし。

さて、最後に少し、やはり観光名所としてはあまり知られていない名古屋の隠れた名所をご紹介しよう。こんな場所である。
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これは、名古屋市中村区にある、その名も中村公園。ご覧のように趣きのある日本庭園が整備されている。この場所は、明治 18年 (1885年) に創設された豊国神社 (つまり、豊臣秀吉を祀る神社) を中心としている。秀吉が生まれたのが、このあたりだっただろうというわけだ。
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またここには、加藤清正 (秀吉の遠い親戚であったという) が出陣の際に祈祷したとされる (ということは、豊国神社より古い???) 八幡社があったり、明治期に作られた木造の迎賓館 (現在では中村公園記念館) があったりして、歴史的な雰囲気は満点だ。
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それからこの場所には、秀吉と清正に関する資料を展示する「清正秀吉資料館」が図書館の建物内にある。ごく小さい場所であるが、戦国時代の歴史についての説明のほか、秀吉が使用していたと伝わる采配などが展示されていて興味深い。
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それから、こんな彫像が。てっきり秀吉かと思いきや、これは江戸歌舞伎の開祖と言われる歌舞伎役者、初代中村勘三郎 (1598 - 1658)。彼もここが生誕地であるらしい。というよりも、「中村」公園だから、彼の名前はこの地名に因んでいるのか、あるいは地名が彼に因んでいるのか。いずれにせよ、やはり土地の持つ歴史的な記憶を、想像力の助けを借りて楽しむことができる場所なのである。
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さて、名古屋ではほかにも、数多くの寺を回っている。いつになるか分からないが、できれば来週あたりにでもそれを記事にまとめることで、文化的興味に基づく名古屋散策ガイドのラストとしたい。

by yokohama7474 | 2017-10-26 17:09 | 美術・旅行 | Comments(0)

名古屋 その 1 名古屋城、清洲城

この夏に訪れた先として、先に犬山市を採り上げたが、その前後で名古屋の歴史的な場所を集中的に訪れているので、今後数回の記事でご紹介して行きたいと思う。今回はまず、城を二つ採り上げることとしよう。だが、名古屋地区の古い城と言えば、以前の記事でもご紹介した犬山城のみ。それ以外に小牧山城もご紹介したが、それは博物館として昭和の世に建てられたもの。また、このブログを始める前に岡崎城も訪れたことがあるが、家康生誕の地として歴史的な価値が高いその城の天守閣も、昭和の時代の再建だ。そしてここでご紹介する二つの城の天守閣もまたしかり。だが、それぞれに大変興味深い歴史のある場所なので、当然ながらこの文化ブログの対象になるものである。

まず最初はもちろん、ここだ。尾張名古屋は城でもつ。特別史跡、名古屋城。
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現在の名古屋の中心地の北側なのであるが、関ヶ原の 10年後、徳川家康が諸大名に命じて建てさせたこの城こそ、当時の築城技術の粋であり、またその後の泰平の世を象徴するものであって、その城を中心とした街づくりの独創性には、さすが家康と唸らせるものがある。まぁ、名古屋の街自体は、実はほかの土地からそっくり移してきたものが中心になっているのであるが、その点はまたのちほど。この城では現在、発掘調査が行われており、また、あとで触れる通り、かなり壮大な再整備計画が立てられている。この地図の赤線部分が、現在調査中の部分。
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さて、堂々たる門の手前に、このような石碑が立っている。「恩賜」とはもちろん、皇室からの頂き物という意味であり、「元離宮」とあることからも、この城が以前、皇室の所有になったことが分かる。調べてみると、明治時代、陸軍卿の西郷従道がこの名古屋城と姫路城の保存を決定。1893年に宮内庁管轄として、名古屋離宮と称されたらしい。1930年に土地建物が名古屋市に下賜されたため、このような碑が建てられたようだ。裏面には確かに昭和 5年とある。名古屋城の知られざる歴史である。
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門を入ると何やらこのような木組みが見える。実はこれ、この名古屋城の巨大天守閣を木造で建て替えようという壮大な計画を示す、1/30 の模型である。名古屋の河村市長の号令のもと進められている計画であると理解するが、この規模の建物を木造で作るとなると大変なこと。500億円の費用をかけ、竹中工務店を起用して 2022年に竣工予定と発表されている。
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現在の天守閣の姿が木々の向こうに見える。堂々たる姿。この城にそれぞれ 3つある重要文化財の櫓と門を目にして、あるいはくぐって、天守閣に進んで行こう。これは、本丸西南隅櫓と、表二之門。
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さて、進んで行くと、天守閣に到達する前に、絶対に外せない見どころが現れる。それは、本丸御殿である。
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このあたりで種明かしをすると、家康が作ったこの貴重な城郭は、戦争中まで残っていた。天守閣もさることながら、この本丸御殿も、その際に炎上してしまった貴重な文化遺産なのである。1615年に完成し、1634年には徳川家光の上洛の際の際の寝所として増改築されたものらしく、二条城二の丸御殿 (国宝) と並ぶ城内御殿の双璧であったと評価されている。惜しくも戦火で灰塵に帰したが、現在ある建物は、名古屋市が 2002年から資金を集め、木造で再建を進めて、2013年に一部を一般公開にこぎつけたもの。2018年度には全体公開を予定しているらしい。これが、この御殿の中に展示されている、天守閣と御殿のありし日の姿の写真。
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だがひとつの救いは、狩野派の絵師たちの手になるこの御殿の襖絵は、すべて戦時中疎開されていたため戦火を免れ、現在は重要文化財に指定されている。その数は実に 1,049面に及ぶ。現在、復元なった御殿では色鮮やかな模写が展示されており、実物のうち何枚かは、天守閣の中で見ることができる。上の写真を見ると、この御殿には襖絵だけではなく、豪華な欄間彫刻も施されていたようだが、さすがにそこまでの復元はなされておらず、改めて失われてしまった文化財の価値の高さを思うのである。ともあれ、この御殿の中は清々しい木の香りがしており、江戸時代初期の新築時もさながらの雰囲気である。建物内の写真撮影も許されていて嬉しい。
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さあそして、いよいよ天守閣に到着である。1959年、鉄筋コンクリートによる再建であるが、その姿は往年のものを忠実に再現している。さすがに堂々たるものである。明治時代に姫路城と並ぶ名城として知られていたのも無理もない。もし戦火に遭わなければ、国宝・世界遺産間違いなしであったろう。金のしゃちほこも見えますなぁ。
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しかしながら、この天守閣、再建後半世紀以上を経て、どうやら耐震性に問題があるらしい。なるほどこれが再建が必要な理由であるのか。
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上記の通り、天守閣内には、重要文化財に指定されている御殿の襖絵のうちのいくつかが展示されていて、興味深い。上で見たような立派な虎の絵ではなく、これらは風俗図である。御殿の中でも部屋によって様々な画題が取り上げられているわけである。
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このように、戦争という人間の手による災禍によって失われてしまった文化遺産を偲びながらも、今でもそこに残る歴史的な佇まいを感じ、また未来に向けての新たな整備を前向きにとらえることは、なかなか貴重な体験ではないだろうか。

さて、ここでもうひとつ採り上げるのは、清洲城である。もちろん、映画にもなった「清洲会議」(本能寺の変後の織田氏の後継問題を話し合う会議で、秀吉が信長の孫である三法師 (のちの織田秀信) を担ぐ機略によって織田の家臣の中で有利な立場となった) の舞台である。私は以前から、新幹線に乗ると、名古屋と岐阜羽島の間の車窓からすぐ近くに見える小さな城がそれだろうと思っていたのだが、なかなか訪れるチャンスがなかったので、今回ようやく念願を果たしたわけである。尚、表記としては「清須城」という字も使われ、実際に城のあるのは清須市というところだが、現地を訪れると、川の中州に築かれた様子がよく分かるので、「清洲」の字を使うこととする。これは駐車場から見上げたところ。
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城の敷地から一旦出て、正面の門の外から城を見ると、大変に絵になる。あ、よく見ると私の手元にある「名古屋・三河」というガイドブックの表紙は、これと同じようなアングルの清洲城の写真である。なかなか絵になりますな。但し天守閣自体は古いものでもなく、その姿も、建っている位置も、当時のものとは異なっているようだ。1989年に清洲町施行 100周年を記念して建てられたもの。
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さてこの清洲城、若き日の織田信長が 1555年から 7年間まで居城としたことで知られる。その当時の清洲は、鎌倉街道と伊勢街道の合流地点として人・物の交通において非常に重要な場所であったらしい。天守閣の中には当時の賑わいを偲ばせるこんな展示があって、楽しい。
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実は、冒頭近くに述べた通り、徳川家康が作り上げた名古屋の街は、名古屋城築城の際、1612年から 1616年までの間に、この清洲の街をそっくりそのまま移転したものが始まりである。それは「清洲越し」と呼ばれているのであるが、地理的に日本の真ん中あたりに名古屋という大都市を作り上げた家康の天才ぶり (それは、巨大都市江戸の開発とは少し違ったものだ) は、そのような大胆極まりないプランにおいて発揮されたのだと知ることには、大いに意味がある。もちろん、清洲越しに伴ってここ清洲は完全に廃れてしまったわけであるが、歴史が大きく動いた戦国時代から江戸時代に移行する際の、三英傑のこの土地との関わりは、実に面白い。そう、面白いと言えば、この天守閣の内部には様々な映像や解説、模型などで当時の様子を様々な角度で知ることができて、大変面白い。ご家族での歴史の体験という点でも、訪れる価値のある場所だと思う。当時の大事件をスポーツ新聞の記事にしたててあるのも、いやいや大変な凝りようだ。
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そして、世に名高い清洲会議に集まった 4人の武将たち。
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この城は、五条川という川のほとりに建っていて、天守閣上層階からの眺めも、なかなかに清々しい。
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但し、昔の敷地内を現在では新幹線が通っている。そう、私がこれまでこの城を眺めたのは新幹線の車窓であることは既に述べたが、確かにこんな風に、すぐ近くを新幹線がビューンと通り過ぎて行く。
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激動の時代は既に過去のものとなってしまい、当時を偲ぶ遺跡は何も残っていないとはいえ、この土地が過去に辿った経緯を知ることで、遥かな歴史のロマンを感じることは充分にできるのである。

by yokohama7474 | 2017-10-26 02:18 | 美術・旅行 | Comments(0)

愛知県犬山市 博物館明治村

名古屋近郊の最大の観光名所と言えば、まずはやはり明治村ではないだろうか。新幹線に乗って名古屋駅付近に至ると、大きな看板で、「明治村へは名鉄で」という表示が見える。また、その名鉄に乗ってみると、季節折々の明治村の宣伝が見える。いわく建物のライトアップだの、お化け屋敷だの。実は私は、明治村は以前見たことがあるから、もう行かなくてもよいかと思っていた。いや、実際に比較的最近この明治村を見て回ったはず・・・と思って冷静になって考えてみると、あれは中学の修学旅行。満 15歳のときのことであるから、実に今を去ること 37年前。うぅーん、これは結構長い年月だ。その頃生まれた人たちは今、若手から中堅に入ろうという、社会人として大事な時期。それはかなり遠い昔と言ってよいであろう。てっきり行ったことがあると思った明治村、実際にはほとんど知らないに等しい場所なのである。そう、今年は大政奉還 150年の節目の年であるが、私が前回明治村を訪ねた頃は、未だ大政奉還後 113年であったわけだ。いやはや、それは随分と昔ではないか (笑)。私が今回家人とともにこの場所を訪れたのは、先の記事で採り上げた、犬山城と如庵に立ち寄ったあと。手元のガイドブックによると、この明治村を一巡するための所要時間は 3時間。上記の通り、夏の明治村は、お化け屋敷が臨時で作られたり、夜間はライトアップされるなど、家族や友人、カップルを呼ぶための様々な工夫がなされているが、私の場合には日が暮れる前に回りたい理由があったのだ。つまり私の野心は、この明治村にあるすべての建造物を、その説明板とともに写真に収めること。3時間で、頑張って回ろう。入場時に配られる「村内地図」によると、ここで見ることのできる明治の遺産は合計で 68。広大な敷地は、1丁目から 5丁目までに分かれている。
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さて、私が明治村を訪れた日は、今年の夏のひとつの典型的な気候で、大気が極めて不安定。ざあざあと激しく雨が降ったかと思うと急に日差しが出たりして、それはもう忙しいこと。その日私が明治村に到着したのは 11時頃。それから、昼食を取ったり、驟雨をやり過ごすための雨宿りのロスタイムもあったが、気がつけば実に 6時間後の 17時に至り、既にヘトヘト状態で観光継続を断念。頑張ってはみたものの、3丁目はまるまる見過ごしたのである。誰だよ、所要時間 3時間と言った奴は (笑)。おかげでデジカメの電池も尽きてしまい、最後の方には雨の中、スマホで撮影する始末。そして私は執念を持って数日後この地を再訪し、3丁目を回って、ようやく念願通りすべての建造物 (改修中のものを除く) を写真に収めたのである。この明治村の 68の施設のうち、重要文化財が 12。以下、とてもすべてを紹介しきれないものの、それら重要文化財建造物を中心として、主要なものを見て行こう。一言でまとめるとするなら、ここはさながら明治建築のジュラシック・パーク。既に失われてしまった時間が、ここに来れば未だに息づいていることに気づく。これだけの規模でそのような感覚を味わえる場所が、ほかにあるだろうか。実は岐阜県には、大正村とか昭和村もあるらしいが、なんのなんの、この明治村こそ、ほかに類のないタイムトリップができる場所である。ではまず、この場所の立地から見て行こう。実は明治村に隣接している入鹿池 (いるかいけ) は、もともと人が住んでいた村に水を貯めた人造湖。そのほとりには古墳も存在し、この場所が古代から特別な場所であったことが分かる。
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さてこの入鹿池、いつ頃できたものであろうか。明治村の隣だから明治時代? それとも、昭和になってからであろうか。とんでもない。江戸時代初期、1633年の完成なのである!! これは驚きだ。2015年には世界灌漑施設遺産にも認定された。そして、明治村のバスで聞いた説明によると、もともとこの土地に明治時代の建築を移築することとしたのは、もし火災が発生してもすぐ隣のこの池から水を汲み上げて消火できるからだという。実に素晴らしい発想である。この明治村、開村したのは昭和 40年、つまり 1965年。何を隠そう、私が生まれた年なのである!! 開村間もない頃の地図が展示されている場所があって、これがその写真。おぉ、これは今の 3丁目ではないか。
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私がここに到着して車を停めたのは、北側、5丁目の裏手。そこから村内に入ると、すぐに見えるのがこれだ。
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そう、本物の SL が村内を走っているのである。東京駅を名古屋駅を結ぶ SL の旅は、この上なく楽しい。「東京駅」の時刻表はこんな感じで、それほど頻繁に往復しているわけではない。
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私は全く鉄道ファンではないのであるが、ここで SL を見ると、子供のように「うわぁー」という声を上げてしまう (笑)。この蒸気機関車は、実際に日本最初の鉄道区間である新橋 - 横浜間で使われていたものらしい。1874年に英国から輸入されたものであると聞いて驚く。駅構内に入ってきた汽車の先頭車両だけが切り離され、先の方で U ターンして、また客車に連結されて、反対方向に走る準備がなされる。その間に蒸気をポォーッと吐くあたり、鉄道ファンならずとも萌えてしまうのである。乗っている時間はほんの数分であるが、高台を走るため、村内の様々な建物を車窓から見ることができる。
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さて、SL で名古屋駅についたら、そこで京都市電に乗り換えることができる。日本初の電車は、1895年に開業した京都の市電。今明治村で走っている車両は、1910年から 11年にかけて製造されたもの。うーむ、100年以上を経て未だ現役とは、恐るべし。世界にどのくらい、100年前の電車が動いている場所があるだろうか。
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そうして私たちは、市電「京都七条」駅から歩き始めたのであるが、腹が減っては戦はできぬ。近くにある、めん処なごや庵というところに入ってきしめんを昼食とすることにした。だが、折悪しく非常に激しい雨となり、しばらくは傘を両手に抱えての散策となった。まずは 2丁目、そして 1丁目という順番で回ったのであるが、最初に見たのはこの京都七条巡査派出所 (1912年)。強い雨足がご覧頂けよう。
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そして、重要文化財の札幌電話交換局 (1898年)。内部には電話の歴史についての展示がある。
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これも重要文化財の東松家住宅 (1901年頃)。明治という時代は、近代化が進むとともに、江戸時代以来の伝統も充分に保たれていたことが分かる。何かノスタルジックな気分を禁じ得ない。
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さて、第四高等学校物理化学教室という建物の中に、興味深い展示がある。実は上に掲げた開村当時の地図もそうなのであるが、それに先立ち、入り口を入ってすぐのところにこんな表示がある。
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なるほど、谷口吉郎 (1904 - 1979) の名は聞いたことがある。調べてみると、帝国劇場や出光美術館、東京国立近代美術館や、あるいは迎賓館の和風別館なども手掛けている。またこの名前からピンとくる通り、ニューヨークの MOMA でその名を馳せた現代を代表する建築家 (比較的最近、日経新聞に「私の履歴書」を連載していた) 谷口吉生は、彼の息子である。そして、もう一人の明治村の生みの親は、当時の名鉄の社長、土川元夫なのである。これはその二人のレリーフ。
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ここで気づくことには、この明治村は、どうやら名鉄が中心になって作り上げたものであるということだ。以下に見て行く通り、ここに移築された歴史的建造物の価値は計り知れないし、そのために要した費用は、まさに天文学的なものであろう。前回の記事で、織田有楽斎が作った茶室、国宝の如庵が犬山名鉄ホテルの敷地に存在していることに触れたが、名鉄の行ってきた文化事業はそれにとどまらず、この壮大な建築ジュラシック・パーク、明治村もそうなのである。これは実に素晴らしいことであると実感する。

さて、先を急ごう。次の重要文化財はこれ、東山梨郡役所 (1885年) である。地方行政を司る建物であるゆえ、規模は小さいが、なんとも瀟洒な建物である。現在、明治村の村役場はこの建物に置かれている。
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そこから 1丁目に移動して目にするのは、やはり地方行政を司った建物であるが、今度は県の建物である。重要文化財の三重県庁 (1879年)。なるほど、郡役所よりもスケールが大きく、コロニアル調の立派な建物なのである。
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そして、その向かい側にある鉄道局新橋工場で、非常に興味深いものを見ることができる。1910年に作られた、明治天皇御料車である。内部もガラス越しに見ることができ、当時の人々にとっては神であった明治天皇の存在を身近に感じることができるのだ。こんな場所、ほかにあるだろうか。
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さて、ここで 1丁目の正面に来た。来訪者たちを迎えるのは、第八高等学校正門 (1909年) である。
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この大変小さな建造物は、赤坂離宮正門硝舎 (1908年) である。ちょうどこのあと私たちが訪れることとなり、既に記事も書いた、あの迎賓館赤坂離宮の前に実際に立っていたもの。当時の写真も展示されている。
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このあたりで既に歩き疲れて朦朧として来た。坂の上では、先刻まで降っていた雨が、太陽の熱によって地面から蒸発する様子を見ることができる。これは珍しい光景だ。
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この 1丁目にはあと 2つの重要文化財がある。聖ヨハネ教会堂 (1907年) と、西郷従道邸 (1877年頃) である。いずれも素晴らしい建物であるが、前者は明治におけるキリスト教の教会として、風格があってこの上なく立派。後者は、当時の政府要人の西洋風邸宅としては、さすがのものである。
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明治村のすごいところは、あらゆる分野の建物が揃っている点である。これは、森鴎外と夏目漱石が、10年の時をおいて住んだ家 (1887年頃)。もともと文京区千駄木にあったもので、漱石はここで「吾輩は猫である」を執筆している。いやー、よくぞ現代まで残ったものである。内部は漱石の書斎を再現している。
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さあ、足が棒になろうとも、まだまだ先に進まねばならない。4丁目である。ここは谷のようになっていて、歩くだけでも結構体力を消耗する。と思ったら、歩兵第六聯隊兵舎 (1873年) が、期間限定のお化け屋敷となっていた。最近よく名前を聞くお化け屋敷プロデューサーの五味弘文の手になるものだが、時間の関係でパス。この頃には青空が広がり、暑くなっていたが、そこここに浴衣姿の若者たちがいて、なかなかよい雰囲気だ。
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さてこれは大変規模の大きい重要文化財で、宇治山田郵便局舎 (1909年)。中では当時の郵便に関する資料があり、今でもここから葉書を送ることができる。
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小規模な日本家屋が 2軒並んでいる。本郷喜之床 (1910年頃) と、小泉八雲避暑の家 (1868年頃)。後者は駄菓子屋になっているが、その名称の通り、小泉八雲 (ラフカディオ・ハーン) が時折身を寄せた焼津の家。前者は、2階に何やら人の等身大の写真が見えるが、これは石川啄木。彼は実際にこの床屋の 2階に下宿していたという。
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これまた大変貴重な建物。芝居小屋の呉服座 (くれはざ、1892年) である。大阪の池田市にあったもので、重要文化財。驚くべきことに、今でも芝居を上演できるようだ。
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さて次が、私がこの明治村で大変感動した建物ベスト 3に挙げたい、聖ザビエル天主堂 (1890年)。京都にあったもので、巨大な聖堂そのものを移築して来ている。長崎の教会を巡ったときのことを思い出させる建築であり、その気になれば、今でもすぐそのままミサに使えるものなのである。
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かと思うと、非常にユニークな教会もある。大明寺聖パウロ教会堂 (1879年)。遠目には風呂屋か何かかと思うが、中は立派なキリスト教の聖堂になっているのだ。文化の伝播とその受容のあり方を思わせる貴重な遺構である。
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次も実に興味深い建物で、金沢監獄中央看守所・監房 (1907年)。当時の監獄の様子が生々しく分かるようになっている。
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この 5丁目の小高い丘の上に、階段状の、ちょっと不思議な建物がある。
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この廃墟のように見える建物は、川崎銀行本店 (1927年)。もともと日本橋に建っていた堂々たる建築であるが、今はこの明治村の地で一部だけが保存されている。そう、さすがにこれだけ巨大な建造物はすべて移築することは困難なので、このような形になったものらしい。当初の姿はこのようなもの。
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さて、5丁目の最も奥に、この明治村で最も有名な建造物がある。もちろん、フランク・ロイド・ライト設計になる帝国ホテル中央玄関だ。
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村内のバスに乗ると、主な建物についての説明を運転手から聞くことができて興味深いが、大変驚いたのは、この帝国ホテル玄関を移築するのに要した時間と費用である。なんと、17年、11億円だそうである!! 移築完了が 1976年だから、その当時の 11億円とは実に大変な額である。そうすると、ここにある様々な建造物の移築に要した労力とコストは、まさに天文学的な数字になるだろう。もちろん、名鉄だけですべてを賄うのは無理な話であり、国や地方自治体、あるいは企業の寄付等があって初めて可能になるものと思う。そう考えると、これだけの広大な敷地にこれだけの数の貴重な建築を保存していることの意味を、改めて思うのである。

さて、前述の通り、ここまでの所要時間はざっと 6時間。その日はそこで力尽きてしまったが、見ることのできなかった 3丁目は、後日訪れた。ここには 3つの重要文化財がある。まず、西園寺公望別邸「坐漁荘」(1920年)。大変気品のある、純日本風の建物である。
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それから、残る重要文化財は、品川燈台 (1870年) と、菅島燈台附属官舎 (1873年)。いずれも日本最古の灯台関連建造物である。
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幸田露伴住宅「蝸牛庵」(1868年頃)。古い日本家屋だが、文豪の生きた場所が残っていることは極めて貴重である。
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芝川又右衛門邸 (1911年)。その時代にしては非常にモダンな洋館である。以前の記事で触れたことがあるが、私はこの家の所有者の子孫筋にあたる方と面識があるので、個人的にも大変興味深い。
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ほかにも沢山の建造物があり、本当に興味の尽きない場所であるという以上に、近代の日本の歩みに思いを馳せることのできる場所なのである。最近、企業の不祥事が相次ぎ、この国は本当に大丈夫かと思うことしきりだが、そういう時こそ、過去 150年間我々日本人がいかなることを考え、また達成してきたかということを振り返ってみる価値があるように思う。村内を歩くのはなかなかに骨の折れることであり、上で触れた SL や市電に加え、このようなレトロなバスを有効活用すればよいと思います。文化に興味のある人には必見の場所なので、最近までの私のように、37年前に一度行っただけで分かった気になっていては、大変もったいないのです (笑)。
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by yokohama7474 | 2017-10-15 23:23 | 美術・旅行 | Comments(0)