カテゴリ:美術・旅行( 160 )

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何やら、最近ますます大変な混雑になっていると耳にする展覧会。既に 4月から始まっていて、まる 3ヶ月以上の会期の、既に終盤に入っている。私がこの展覧会に出かけたのは、既に 2週間ほど前。そのときにもかなりの混雑であった。これは何の展覧会かというと、上のポスターにある通りの「バベルの塔」の展覧会だ。太古の昔、人間があまりに高い塔を建てたので神の逆鱗に触れ、同じ言葉を話していた人々に別々の言葉を喋るようにして、人間社会を分断したという聖書にある逸話。ネーデルラント (というと今のオランダだが、彼が没したのは現在のベルギー、ブリュッセルである) の画家ピーテル・ブリューゲル (1525/1530 - 1569) の描いた有名な作品が本展の目玉になっている。だが、この展覧会のタイトルをよく見てみよう。頭に「ボイマンス美術館蔵」とあり、後ろの方には、「16世紀ネーデルラントの至宝 - ボスを超えて -」とある。実はこれらの要素が非常に重要なのであって、私としては、この素晴らしい展覧会を、ただ一点「バベルの塔」だけに集約したこの宣伝方法には疑問を禁じ得ない。この展覧会の価値はそれだけで測るにはもったいないのである。以下、何がそれほど素晴らしかったのか見て行くこととしよう。

まずこの展覧会の展示品がひとつの美術館から来ていることに注目しよう。その美術館名は (上のポスターでは短く省略されているが)、ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館。
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この美術館はオランダのロッテルダムにあり、私も一度だけだが現地を訪れたことがある。ご当地ものであるネーデルラント、フランドル絵画だけではなく、20世紀の主要な画家の作品も多く所蔵する素晴らしい美術館である。長い館名は、この美術館のコレクションの基礎を作った 2人の収集家に因んでいるが、一人はフランス・ボイマンス (1767 - 1847)、もう一人はダニエル・ヘオルフ・ファン・ベーニンゲン (1877 - 1955)。美術館の開館は 1849年と、驚くほど早い。オランダの文化度の高さを具現するような美術館なのである。展覧会はまず彫刻作品で始まる。これは 1480年頃の作品で、4大ラテン教父、つまり聖アウグスティヌス、聖アンブロジウス、聖ヒエロニムス、聖グレゴリウスである。作者はアルント・ファン・ズヴォレという彫刻家とされている。高さ 74cm ほどの小ぶりなものであるが、その佇まいの清冽さが印象的であり、衣の繊細な処理も、日本の古い木彫を見慣れた私としても、非常に優れた出来であると思う。
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これはまた見事な祭壇彫刻。1500年頃の作とされている「十字架を担うキリスト、磔刑、十字架降下、埋葬のある三連祭壇画」。作者不詳である。この手の木彫りはドイツにも驚くほが見事な作品が多くあるが、地理的に近く、同じプロテスタント地域であるネーデルラントにおいても同様であるようだ。
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このような木彫作品の素晴らしさもさることながら、このネーデルラント / フランドル芸術の特色は、宗教画であっても仮借ない人間の姿が表されていることではないだろうか。例えばこれは、ヤン・プロフォースト (1465頃 - 1529) という画家の手になる「アレクサンドリアの聖カタリナの論争」(1520年頃)。ここに表現されている人体は決して写実的ではなく、それは画家の技術の欠如にもよるのかもしれないが、ただここにはなんとも言えない奇妙な生々しさがある。真ん中右でピンクの衣装を着ている聖カタリナの指の動きの繊細なことは驚くべきだし、その右側に見える正面を向いた少女は天使の化身らしいが、その場違いな落ち着いた表情はどうだろう。その右側にいる人物は真横を向いていて不気味なら、奥の方に見えるのは架空の建築群なのである。
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これも同じ聖カタリナの肖像なのであるが、1500年頃の作で、作者は判明しておらず、「枝葉の刺繍の画家」と呼ばれているらしい。華やかなイタリア・ルネサンスとは全く異なる静謐さを持つこの絵に、遥か後年のベルギーでのシュールレアリズムの萌芽を見るような気がするというと、話を面白くしすぎであろうか。
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同じ祭壇画から、こちらは「聖バルバラ」。うーん、これも大変に美しい。
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さてこれは、ルカス・ファン・レイデン (1489/94 - 1533) 周辺の画家の手になるとされる「女性の肖像」(1520年頃)。ここにも美化されていない人間の姿が表れていて、素晴らしい。
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これは少し時代が遡り、1480年頃の作者不詳の「風景の中の聖母子」と、その裏に描かれた「本と水差し、水盤のある静物画」。この聖母子は、解剖学的には正確ではないようだが、その平穏な雰囲気には何かほっとするものがある。一方で、ネーデルラントでその後伝統が作られて行く静物画であるが、これはトロンプルイユ (だまし絵) 的な表現だが、白いタオルや真鍮の洗面器と水差しは、受胎告知を象徴するという。むむ、ここでも遥か後年、ベルギーで発展した象徴主義 (サンボリズム) につながるものを見てしまいたくなるではないか。
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ここで初めて知った名の画家と対面する。ハンス・メムリンク (1433頃 - 1494)。「風景の中の二頭の馬」(1490年頃) という作品で、家庭用祭壇画の一部であるらしい。ここでは二頭の馬だけでなく猿も登場して、何か寓意があるらしいが、だがこの破綻のない風景と動物の組み合わせに、高度な洗練を感じるのである。
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これも名の知れた画家の作品。ヨアヒム・パティニール (1480頃 - 1524) の「牧草を食べるロバのいる風景」(1520年頃) である。パティニールについては随分以前、2015年 9月26日の記事で「世界初の風景画家」とご紹介した。だが彼の風景画は、ただ風景だけを描いたものではなく、宗教画の一部なのである。この作品も聖母子の「エジプト逃避途上の休息」を描いた作品の一部であるらしい。だがなんとも気持ちが安らぐ風景ではないか。
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かと思うとこれは、その同じパティニール周辺の画家の手になるとされる「ロトと娘たち」(1520年頃)。これは打って変わって人の心を不安にさせる光景である。私の見るところ、この平穏さと不気味さの交錯が、パティニールより一世代前かと言われるボスや、その影響を強く受けたブリューゲルの作品にも通底していて、ネーデルラント絵画の特異な持ち味を充分に感じさせるのである。
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というわけで、ついに登場するのが、ヒエロニムス・ボス (1450頃 - 1516) である。世界最初の奇想の画家と言ってもよいだろう。後世 (1610年頃) に描かれた、版画による彼の肖像画はこれである。頭の後ろに何やら奇怪な生き物たちが描かれているが、これぞボスからブリューゲルに受け継がれた奇想の数々。
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そして私はここで声高に叫ぼう。この展覧会は何もブリューゲルの「バベルの塔」だけが売りではないはずだ。なぜならここには、世界にも 30点ほどしかないボスの真筆作品のうちのなんと 2点が出品されているからである!! こんな貴重な機会はそうそうあるものではない。未だご覧になっていない方は、とにかく悪いことは言わないから、これらの作品と対面するために上野に馳せ参じるべきである。まずこれは、「放浪者 (行商人)」(1500年頃)。ここにはボスの真骨頂である奇想はない。だが、旅籠か娼家とおぼしき左後ろの建物から去って行くみすぼらしい男の振り返るところ、豚が飼料をむさぼり、男が女を口説き、また別の男は放尿している。そのような猥雑な風景を振り返る中央の男の表情は、名残惜しいようにも見えるし、軽蔑しているようにも見える。ローマ・カトリックの感性ではこのような人物は決して描かれないであろう (ルターの宗教改革は 1517年だが、それ以前に既に、ローマ・カトリックのものとは違う物の見方による表現があったということだろう)。
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今回出展されているもう一点のボスの作品は、「聖クリストフォロス」(1500年頃)。川を渡る際に背負った赤子が実はキリストで、世界の創造を背負った重さになるという逸話である。このテーマ自体は珍しいものではないものの、左の岸では熊の死骸が吊るされ、右の岸では樹木に不思議な住居が突き刺さっている。控えめとはいえ、まぎれもないボスの指向がはっきりと表れている。
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この展覧会にはまた、ボスの作り出したイメージによる後世の版画も沢山展示されていて、興味が尽きない。以下「樹木人間」、「様々な幻想的な者たち」、「ムール貝」、「二人の盲人のたとえ話」。この画家のブラックなイメージを堪能されたい。
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そしてこの展覧会の主役、ピーター・ブリューゲル (1525/1530 - 1569) である。その子孫たちも画家として実績を残したが、やはり元祖としての地位は揺るぎない。これは死後、1572年の版画による肖像。生年不詳とは言え、40代半ばまでには没していたようであるが、その髭から、大変な老人に見えてしまう。
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日本ではこれまでもブリューゲルとその周辺の画家の展覧会は何度も開かれていて、その中には 1993年に今回と同じ「バベルの塔」が来日したセゾン美術館での展覧会もあるが、あろうことか手元にその図録がなく、もしかしたらその時は見逃したのかもしれない。だが、1989年ブリヂストン美術館での「ピーテル・ブリューゲル全版画」展、1990年国立西洋美術館での「ブリューゲルとネーデルラント風景画」展、1995年東武美術館での「ブリューゲルの世界」展、2010年 Bunkamura ザ・ミュージアムでの「ブリューゲル版画の世界」展の図録は手元にある。中でも最初に挙げた展覧会では、ブリューゲルの全版画を見ているはずだから、今回展示されている版画の数々も、きっと見ているはず。だが、もうこれらは何度見ても飽きることがなく、そのめくるめく奇想には、人間の脳髄を直接刺激するものがあるのである。以下「聖アントニウスの誘惑」、「七つの大罪」から「大食」、「忍耐」、「最後の審判」。
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一方、ブリューゲルの版画においては、正確な細密描写や、夥しい数の人間たちの密集も特徴になっている。以下は「ガレー船を従えた沖合の 3本マストの軍艦」と「農民の婚礼の踊り」。これらを描く技術は、大作「バベルの塔」にそのまま活きていることであろう。
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その「バベルの塔」(1568年頃) は、展覧会場では特別扱いであり、広い空間に一点だけ、恭しく展示されている。
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今回、芸術新潮や NHK の「日曜美術館」でも、漫画家の大友克洋 (私も深く尊敬している) がこの塔の内部を独自に再現するような試みを披露しており、それはそれで面白いのだが、やはりこの作品自体をじっくり見るべきではないだろうか。ブリューゲルの「バベルの塔」と言えば、この 5年ほど前の作品もあり、ウィーン美術史美術館の所蔵になっているが、こちらのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館所蔵のものはさらに遠近法が強調され、異様さが増している。幻想的でありながら細部の凄まじいリアリティを見ると、ほかのどのブリューゲル作品とも異なる SF 性を感じることができ、一体この人のヴィジョンはどうなっていたのかと、空恐ろしくなるばかりである。このように、絵の中では多くの人たちが塔の建設に携わり、各種機械も設置されているのである。
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このように、もちろん「バベルの塔」の素晴らしさを実感することも重要であると同時に、それ以外に展示されている作品たちの質の高さも、充分に楽しみたい展覧会であり、それゆえ私は、一点豪華主義であるかのようなこの展覧会の宣伝方法には納得できないのである。ともあれ、現地でこれらの作品を目にすると、宣伝がどうのこうのということを忘れてしまうことも事実。素晴らしい内容なのである。さて最後に、私の個人的な思い入れに触れて、この記事を終えることとしよう。実は私にとってボスとブリューゲルの作品集は、私が初めて買った西洋絵画の画集であったのである。最初の画集がマネやモネやゴッホやルノワールではなかった点、私の指向する美術の傾向が明確に表れているのである・・・。今も書庫にあってすぐに手元に出てくるその画集は、集英社の世界美術全集の第 18巻。1978年の発行だから、40年近く前の本で、当時私は中学 1年生だ。あ、なんと表紙には、今回の展覧会に出品されている「放浪者」が採用されているではないか。
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今でもページを開くと、異様な図像の数々と首っ引きで詳細な解説を一生懸命読んだことを思い出すが、この本の主要な執筆者は、驚くべきことに今に至るも日本の誇るボスとブリューゲルの世界的権威である美術史家の森洋子なのである。上のカバーにある通り、1,450円という値段は 40年前のものであっても (笑)、内容は今でも豊かな啓示に満ちたもの。本当に日本においては、西洋絵画を学ぶ文化的土壌はずっと存在しているのであって、いながらにして実物を目にできることと併せて、文化の使途たちはその幸福に感謝を捧げるべきだろう。その思いをもって、会場の混雑を乗り切るべし!! 会期はあと一週間である。

by yokohama7474 | 2017-06-25 01:22 | 美術・旅行 | Comments(4)

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このブログで何度か謝罪して来たことであるが、記事でご紹介する美術展のうちかなりの部分が、既に終了してしまったものなのである。中には東京以外の都市に巡回する展覧会もあるが、そうでないものについては、私が記事にする内容を、実際の展覧会で実物を前に吟味して頂く機会がないということになる。最近特にそのことを考えるようになり、今後はなるべく、充分な残り期間のある展覧会をご紹介したいのであるが、とりあえずの謝罪として申し上げておきたいのは、この茶の湯展と、異常なほどの人出で賑わったミュシャ展 (近日中にアップ予定・・・ならよいのだが 笑) だけは、もはや見る術のない展覧会のご紹介として何卒ご容赦頂きたい。だが、この世に芸術作品のある限り、ここで、あるいはミュシャ展の記事でご紹介するそれらの芸術作品にまた巡り合う可能性はあるわけで、一期一会を期待して生きて行くことはまた、大いに意義のあることである。

まあ能書きはこのくらいにして、展示作品の紹介に移りたいが、さらに言い訳めいた言説を弄するなら、ここで夥しい数 = 250点以上が展示されていた茶器とその関連の作品について、私ごときが何を語れるわけでもないし、とりわけこの分野は、分かる人には分かる、分からぬ人には永遠に分からぬというものであろうから、ここでは出品作のごく一部をご紹介しながら、言葉の無力をご一緒に実感したい (笑)。さて、そんなことで、展覧会は室町時代、足利将軍の茶室を彩った、舶来品、いわゆる「唐物」の茶器や美術品の綺羅星のごとき展示から始まる。しょっぱなに登場するのはこれだ。
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言わずと知れた曜変天目茶碗。静嘉堂の三菱コレクションのひとつである。この展覧会では展示替えもあって、この作品の展示は一定期間のみであったが、それにしてもこの茶碗は、誰が見ても分かる王者の風格である。世界でもたった 3つ、すべて日本に伝来する曜変天目茶碗は、その 3つとも国宝である。但しそのうちひとつ、大徳寺龍光院のものは普通に見られる機会はほとんど皆無。また、最近「開運! なんでも鑑定団」で「発見」された新たな曜変天目との触れ込みの茶碗は、私もテレビで見たが、正直なところ、国宝のそれらとは似ても似つかぬもの。その意味でも、この静嘉堂美術館のものと藤田美術館のものは、このブログではいずれも過去に採り上げているが、主としてそれらを所蔵する美術館ではそれなりに目にする機会がある点、ありがたい。昨年の今頃、2016年 6月11日に書いた静嘉堂美術館での記事では、このような素晴らしい茶碗の展示方法に苦言を呈したが、その意味では、今回の展覧会は最先端を行っていて素晴らしい。何度見ても飽きることのない絶対的な美を味わうには最高の環境であった。そして、名刺代わりの一発のもうひとつは、これだ。
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大阪の東洋陶磁美術館所蔵の、ということはこちらは住友コレクション(正しくは安宅コレクションだが)の、油滴天目茶碗。やはり国宝なのである。上記の曜変天目と同じく南宋時代、12 - 13世紀の作と思われる。油が水をはじくようなこの模様は、見るものを神秘的な感覚に誘う。さてこのような逸品で始まるこの展覧会の最初のコーナーは、上述の通り、足利将軍家の所蔵品。足利将軍家が称揚することで、絵画におけるその後の日本美の一典型とみなされた中国人画家がいる。牧谿 (もっけい、生没年不詳) である。私の知る限り、近年この画家の展覧会が日本で開かれたのは、1996年の五島美術館でのものが唯一で、そのときには会場で図録が売り切れで増刷待ちであったことを、昨日のことのように覚えている。それだけ牧谿の実物に接するのは貴重な機会なのであるが、ここでは、真作か否か判明しないものも含めて、8点の牧谿が展示されていた。これは有名な、大徳寺の「観音猿鶴図」の中の猿。もちろん国宝である。
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これは京都国立博物館が所有する、伝牧谿作の「布袋図」。この飄々とした表現は、典型的な牧谿の作風のイメージとは異なるが、だがその筆致は、上記の猿図と共通するところがあるように思われる。
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その牧谿と並び称される、同じ 13世紀、南宋時代の中国の画家がいる。その名は玉澗 (ぎょくかん)。彼も日本で多大な尊敬を集めた画家だが、多分このような自由な筆さばきはそれ以前には日本には存在せず、足利将軍家の美意識がこのような絵画作品を日本に流布させたものであろうか。その後の水墨画のパターンに鑑みて、それほど特殊には思われないが、これが典型的な日本の水墨画のルーツになっているのだろう。これは (牧谿にも同名の作品があるが) 「遠浦帰帆図」(えんぽきはんず) の一部。京都国立博物館所蔵の重要文化財である。うーん、最小限の表現に詩的な感覚が満載だ。
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次は東京国立博物館所蔵の国宝。李迪 (りてき) の手になる「紅白芙蓉図」である。これも南宋時代、1197年の作である。つまりは描かれてから既に 820年を経過しているということだ。活けるがごとき花の様子が生々しい。
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これは徽宗 (きそう) 作と伝えられる五島美術館所蔵の「鴨図」。徽宗 (1082 - 1135) は宋の皇帝であり、芸術を篤く庇護するとともに自ら絵筆を取った人。真筆ではないという説が有力だが、写実的でありながらも、どこか精神的高潔さを感じさせる作品ではないだろうか。
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これは足利氏ゆかりの栃木、鑁阿寺 (ばんなじ) に伝わる重要文化財の「青磁浮牡丹文花瓶 (せいじうきぼたんもんかへい)」(13~14世紀)。青磁の花瓶と香炉である。香炉は足利尊氏、花瓶は足利義満からの寄進であるという。この青磁というものは、日本人好みのわび・さびの感覚とはちょっと違うが、この独特のツヤのある緑色には、なんとも落ち着くのである。
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そしてこれはなんと、国宝の「青磁下蕪花入 (せいじしもかぶらはないれ)」(13世紀)。アルカンシエール美術財団というところが所蔵している。うーん、まるでモランディの絵画を見ているような静謐さ。実はこれは実業家、原六郎 (1842 - 1933) のコレクションであり、品川にある原美術館は現代美術専門だと思っていたら、実は彼の屋敷跡なのであった。この財団は原家のコレクションを管理する団体であるとのこと。
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これは東京国立博物館所蔵になる、重要文化財の「青磁輪花茶碗 銘 馬蝗絆(せいじりんかわん めい ばこうはん)」(12~13世紀)。「平家物語」の中に、平重盛が中国の高僧から贈られたものと記されており、後に将軍足利義政が所有していたときに、ひびが入ったので中国に送って代わりの品を求めたところ、当時の明王朝ではこれに優るものはできないとして、かすがいを打って送り返して来たと言われる。そのかすがいをイナゴに見立てて、「馬蝗絆」と呼ばれているとのこと。だが、この茶碗が重盛の時代に遡るとは考えられていないとのこと。それに、中国に送ったらこのようにして返してきたというのも、どうも信憑性があるとは思われないが、大胆に修理したものをまた新たな景色として取り入れて伝説を作ることで、茶碗の価値を高めていると考えると面白い。
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これも東京国立博物館所蔵の重要文化財、「柿釉金彩蝶牡丹文碗 (かきゆうきんさいちょうぼたんもんわん)」(11~13世紀)。この渋い色合いは、上で見て来た青磁とは全く異なるもの。これは中国製だが高麗の墓から出土したものらしい。この碗の薄さはまた独特の鋭さを持ち、なんとも言えない枯れた味わいがある。考えてみれば、800年とか 900年前の焼き物がこれだけ多く、割れずに保存されている日本という国は本当にすごい。価値を認めたものには最大限の注意を払って大事にするわけで、それによって守られた対象にも、星霜を経て自然と品格が出てくるということであろうか。
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これは大阪市立東洋陶磁美術館所蔵の重要文化財、「木葉天目 (このはてんもく)」(12~13世紀)。加賀前田家に伝来したもので、実際の木葉を置いて焼き上げたものと言われているらしい。この美的センスには黙るしかないだろう。もしこのような仕上がりを想定して焼かれたものなら、そのセンスには脱帽しかない。
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これは常盤山文庫の所蔵になる、「犀皮水中 (さいひすいちゅう)」(13世紀)。中国 (南宋) 製で、犀皮と名付けられているが、サイの皮ではなく金属の上に漆で模様をつけたもの。これはペルシャから来た形であろうか。色合いは渋いものの、わび・さびとは違ったバタくささ (?) があって、見ていて飽きないのである。
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展覧会には「描かれた茶の湯」というコーナーがあって、いくつかの絵巻物が展示されているが、これは文化庁所蔵になる室町時代の「酒飯論」。酒好き、飯好き、両方好きの諸派 (?) の様子を描いているという面白い絵巻物。当時の日本人の生活を想像できる、ちょっとほかにない作品だ。でも、メシ食ったり酒飲んだりしている様子を描くのを、王朝絵巻のように雲で包む必要はないように思うが (笑)。
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さて、展覧会はその後、「侘茶の誕生」というコーナーに入る。ここにも名品の数々が並んでいて圧巻であったが、これは文化庁所蔵の重要文化財「灰被天目 銘 虹 (はいかつぎてんもく めい にじ)」(14~15世紀)。私は美しく展示されたこの茶碗を、ガラスケースに張り付くようにして見て、手に取ってみたらどんなに心地よいかを想像してみた。だがこれはもともと足利義政の所有になるもので、近代には益田鈍翁の所有であったものとのこと。私ごときが親しく手に取ることなど、夢のまた夢なのだが、それにしてもそのような親しみを感じさせる独特の雰囲気を感じる。
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そしてこのあたりから小さな展示品が増えてくる。侘茶の時代に入り、茶の湯の普及と特定の特権的な名前による権威づけがどんどん進んで行く。戦乱の世にあって茶の湯とは、武士も刀を抜いて行う儀式であるがゆえに、ある異常な緊張状態の中で、時に人の命まで左右するような重みを持つ文化に発展して行ったものと解釈した。これは徳川記念財団の所蔵する重要文化財「唐物肩衝茶入 銘 初花 (からものかたつきちゃいれ めい はつはな) (13~14世紀)。高さわずか 8.8m の、茶を入れる小さな容器であるが、驚くなかれ、信長 、秀吉、家康の手を渡って来た逸品なのである。実は天下の三肩衝 (「かたつき」とは形の名称) と称される茶入があり、この「初花」以外には、「新田」と「楢柴」である。このうち「新田」は、今回は出展されていなかったようであり、もうひとつの「楢柴」は、実は既に現存しない。映画版の「タイムスクープハンター」をご覧になった方は、そこに登場する商人・茶人の今井宗室が、命に代えても守ろうとする小さな茶入があったのを覚えておられようが、それがほかならぬ楢柴であった。茶入とは、人の命よりも大事なものであるのか・・・。今日この茶入をどんなに眺めても、そのような壮絶な歴史を思い起こすのは困難だ。
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展覧会はそれから、高校の教科書にも出てくる村田珠光 (むらた じゅこう 1422/23 - 1502) や武野紹鷗 (たけの じょうおう 1502 - 1555) という人たちに関連する出品物が続く。これは武野紹鷗自作の竹茶杓である。
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16世紀前半より、珠光の流れを継ぐ茶の湯者の間で、侘茶の流行とともに、茶室の中には唐絵だけでなく禅林墨跡が掲げられることになる。これは東京国立博物館所蔵の国宝「無相居士宛 尺牘 (むそうこじあて せきそく)」。12世紀のもので、筆者は南宋の僧、大慧宗杲 (だいえそうこう 1089 - 1163)。かなり硬派な感じである。
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これは高麗茶碗で、京都大徳寺の孤蓬庵所蔵の国宝「大井戸茶碗 喜左衛門井戸」(16世紀)。唐物ではなく、朝鮮半島の日用雑器を茶器として使用したものを井戸茶碗と言うらしく、これはその最高峰と言われるもの。少し大振りであり、雄大なスケールを感じると言ってよいと思う。
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そしてもちろん、茶の湯の大成者であり歴史上その名を知られる千利休 (1522 - 1591) ゆかりの品々が並ぶ。まずこれは、大阪の正木美術館所蔵の重要文化財「千利休像」。1583年、利休の生前の姿を描いた唯一の遺品であり、作者は長谷川等伯と伝わっているが、その点の確証はないようだ。自信に満ちた表情のように見えるがいかがであろうか。
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利休ゆかりの茶入、茶壷、花入などが並んでいるが、私の目を引いたのは、この「耳付籠花入 (みみつきかごはないれ)」(16世紀)。なんの変哲もない籠であっても、利休が所持したというその事実だけで価値が出てくるのが面白い。本来は魚籠であったものを利休が花入れとしたと言われる。そう思ってみると、それぞれの編み目も趣き深く思われてきて面白い。利休は、いわばミダス王のように、なんでもないものに手を触れて貴重なものに変えてしまった。
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利休の時代の代表的な陶芸家、樂焼の創始者、初代長次郎 (? - 1589) の「黒樂茶碗 銘 ムキ栗」(16世紀)。これはなんと、口の部分が四角形になっているという変わり種。樂焼は現代にまで続く焼き物であるが、破天荒一歩手前のこの想像力には脱帽する。LED を利用した会場の展示方法によって、昔の鑑賞法ではありえないほど、繊細で美しい茶碗の姿を堪能することができた。
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さて、古田織部 (1543 - 1615) になってくると、こちらは本当に破天荒な表現力でよく知られるが、これは、その織部の影響と考えられる「伊賀耳付水差 銘 破袋 (いがみみつきみずさし めい やぶれぶくろ)。この、現代陶芸のような自由な発想には本当に驚かされる。
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これは、三井記念美術館所蔵の国宝「志野茶碗 銘 卯花墻 (しのちゃわん めい うのはながき)。白っぽく大振りで、白い釉と左右の茶色い線が独特の風情を作っている。日本で作られた茶碗の国宝は、これともう 1点、本阿弥光悦の白楽茶碗 銘 不二山 (展覧会には出品されておらず) の 2点しかないそうだ。
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そしてこれは、文化庁所蔵の重要文化財、野々村仁清 (生没年不詳) の「色絵若松図茶壷 (いろえわかまつずちゃつぼ)」(17世紀)。仁清らしい華やかな色彩と上部の黒い釉との対照が美しい。そして、ここまで辿ってきた茶の湯を巡る美意識も、いよいよ泰平の江戸時代の空気を反映して来ているように思われる。
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冒頭に述べた通り、膨大な出品物の一部しかご紹介できなかったが、やはり茶の湯が日本人の美意識に与えた決定的な影響を様々に実感できる貴重な展覧会であった。鑑賞者の感性への刺激と、そしてそのモノの持つ謂れの双方がないと、高い評価がつかない分野ではあるが、現代に生きる我々は、それが国宝であろうが文化財指定がなかろうが、自由な視点で気に入った茶碗などをめでる特権を持っている。その特権を使える機会を、また持ちたいものだと思う。

by yokohama7474 | 2017-06-10 03:04 | 美術・旅行 | Comments(0)

千葉県 成田山 新勝寺

前回の記事の最後に、いずれまた千葉の歴史的な場所を訪れて記事を書くと宣言した私。そしてまたまた、千葉県の歴史的な場所についての記事なのである。おっと随分手回しがよいじゃないの、と思われる方もおられよう。だが実際のところ、私が今回ご紹介する成田山新勝寺は、最近訪れたのではあるが、その理由たるやなんともいい加減なもの。川沿いのラプソディとしては、偶然のトラブルすらも最大限活用して文化探訪をする心がけが大変に大事なのであって、それをここで申し上げておく意味はあると、勝手に自分に言い聞かせているが、何をグチャグチャ言っているかというと、こういうわけだ。ある金曜日、出張先の空港の免税店で購入したちょっとよいワイン 2本を手にして、成田空港に到着した。ところが、自宅方面に向かう成田エクスプレスは当分ない。ちょっと小腹も減ったし、コーヒーショップで時間をつぶすかと思い、そのようにしたのである。さて、45分後、成田エクスプレス車中でくつろぐ私の姿があった。その横にはいつもの出張用のカバン・・・だけで、免税店で買ったはずのワインは影も形もないではないか (笑)。車中でそのことに気づいた私は一瞬天を仰ぎ、人生来し方行く末への思いを走馬燈のように頭の中で駆け巡らせ (大げさや奴だな全く)、ワイン紛失場所の可能性及び、取るべき行動の選択肢を瞬時にして頭の中に列挙、その選択肢の各々につき 0.数秒で評価をくだし、このようにした。1. 成田空港のコーヒーショップに電話をして、ワインを確保してもらう。2. 明日 (土曜日)、車を飛ばしてワインを取りに行く。3. そのついでに、成田近辺での歴史探訪をする。・・・そんなわけで、以前から一度行ってみたかった成田山新勝寺に、突然行くことになったのである。もちろんその日、土曜日の午後には都内でコンサートの予定があり (しかもハシゴ)、その翌日の日曜日には、既に記事にした海北友松展を見るための京都弾丸往復、及びまたしても都内でのコンサートがあったので、かなり忙しい文化的な週末になったのである。まぁ、単なる不注意で、不必要に自分を忙しくしているということなのであるが (笑)。

さて、長くて無駄な前置きはこのくらいにして、本題に入ろう。この成田山新勝寺は、言うまでもなく日本有数の名刹で、毎年の初詣ランキングで常に上位に入る、大変ポピュラーなお寺である (神社でなく仏閣としては、初詣客日本一との統計もある)。だが、なかなか実際にここに出かける機会はなく、これまでは成田エクスプレスの車窓から巨大な多宝塔を眺めるくらいであった。しかし、侮ってはいけない。この寺はもともと、平将門の乱の調伏のために不動明王に祈願したことが起源という古い歴史を持ち、前の記事でご紹介した中山法華経寺に劣らぬくらい沢山の重要文化財建造物があるのだ。まずは、見よこの立派な総門を。お寺であるにもかかわらず、ここには狛犬もいて、日本の民間信仰において神仏混淆はごく自然なものであることが改めて分かる。
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これが新勝寺の伽藍図。この日はあいにくの雨模様であったが、数々の文化財建築を見て回るのが楽しみだ。
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総門から入ると次に見えてくるのは、重要文化財の仁王門である。1830年建立。左右に立つ石灯篭も、かなり古い時代に寄進されたものと見える。
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そしてここにも、仁王様と明らかな神社建築が、仲良く同居している。
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ここから本堂に登る石段の左右にも、華やかな狛犬がいる。溶岩のような岩 (この地に火山があるとは思えないので、もともとある岩ではなく、山岳信仰の雰囲気を出すためにしつらえたものであろうか) の上に、いくつもの石碑が立っていて、積年の信仰の深さを思わせるのである。
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そしてこれが本堂。もちろん、初詣で人々が殺到する巨大な堂がこれだ。節分のときには力士が豆まきをしたりもする。この建物自体は古いものではないが、重要文化財の本尊不動明王と二童子像を安置する。ただ、ご本尊のお姿を間近で拝観することはできなくて残念だ。
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そして、あっと目を引くのは、やはり重要文化財の三重塔である。1712年の建立。
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この三重塔、この全体の写真では、光の加減もあって分かりづらいが、この塔にはきらびやかな装飾が施されていて、ちょっとびっくりするくらいなのだ。
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このところ、久能山東照宮をはじめとするこの種の装飾的な江戸建築に触れる機会が多い。そこで、こんな本を買いましたよ。美意識も時代によって移り変わるもの。わび・さびだけが日本美でないということに気づき始めた我々には、この成田山のような手軽に訪れることができる場所で、江戸のバロック文化を堪能する特権を持っているのである。
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さて、この三重塔の近辺には、やはり装飾的な鐘楼と一切経堂が立っている。いずれも 18世紀初頭のもので、江戸のバロック空間をなしている。
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さてこの成田山新勝寺は、来年開基 1080年とのことで、種々の伽藍整備事業を行っている。境内の休憩所には、それに関係するパネル展示があるが、例えばこれは、少し離れた場所にある薬師堂について。これについては後で触れるが、内部に入ることができないこの堂について知ることのできる貴重な情報。本尊の写真や内部の装飾の修復については、なかなかほかに情報がないのである。やはり、休憩時にもちゃんと捨て目を効かせていれば、得られる情報量を増やすことができるのだ。よって、人生寄り道が大事なのだ (強引)。
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さて、新勝寺にはほかにも重要文化財の建造物が目白押しだ。これは釈迦堂。1858年建立で、以前の本堂である。実は、このブログで時々言及している NHK の「ブラタモリ」は私の大好きな番組だが、先日この新勝寺を採り上げた際に説明していたことには、このお寺には、現在の本堂、前の本堂、前の前の本堂、そして前の前の前の本堂までが現存しているのである。4代もの歴代本堂が現存しているお寺は、日本中でもここだけだろう。
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次に見ることのできる重要文化財は、この寺特有のユニークなもの。額堂 (がくどう) と言って、1861年の建立。多くの信者から寄進される額や絵馬をかけるための建物。柱で建物を支える構造となっているので、最近補強されたとのこと。うーん、ひとつひとつの額や絵馬に、様々な物語があるのだろうと思うと、見ていて飽きることがない。これでも、多くの古い額や絵馬は別のところに移されて保存されているとのこと。
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そしてここに、成田山を有名にした江戸時代のスーパースターの姿がある。7代目市川團十郎 (1791 - 1859)。彼の家系の屋号「成田屋」は、歌舞伎の屋号で最も古いものらしく、もちろん先に亡くなった第 12代團十郎やその息子の海老蔵らの屋号として、今でもポピュラーである。もともとは初代團十郎の父がこのあたりの出身で、成田山の不動明王を信仰していたことによるものらしい。とりわけこの 7代目は、不動明王を舞台に登場させるなどして、成田山の人気と歌舞伎の人気の双方を高めたらしい。つまり、成田山新勝寺の今日の隆盛は、この人の貢献大だということだろう。彼はこれと同様のもうひとつの額堂 (そちらは昭和 40年に焼失) を、私財を寄進してこの新勝寺に建立したとのことで、今残るこの額堂に、その彫像が祀られているわけである。
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そうしてもうひとつの重要文化財、これは前の前の本堂である光明堂。1701年の建立である。これも素晴らしい装飾を持つお堂だ。上で見た第 7代團十郎の生没年から判断すると、彼が生きている時代に本堂はこの現在の光明堂から現在の釈迦堂へと変わったのである。
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さらに境内を奥に進むと、新しい建物が見える。未だ完成していないようだが、装飾を廃した素木の建築が清々しい。これは医王殿という建物で、来年の開基 1080年記念として、今年11月に落慶するらしい。
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その横にある巨大な建物が、JR の車窓からも見える多宝塔で、平和の大塔と名付けられている。これは新しい建物だが、境内の最奥部、そして最も高い場所にあって、その堂々たる佇まいは古刹新勝寺にふさわしい。
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そして、そこから見下ろす風景が面白い。えっ、ここはヴェルサイユ宮殿ですか??? いえいえこれは、成田山公園と名付けられた境内の一部。本当にフランス式庭園と見まがうばかりだ。この広大な公園を維持・管理するのは大変なことだが、多くの人々の信仰に支えられているこの寺は、このように訪れる人を癒す環境を保っているので、また多くの人たちがここに還ってくるのであろう。
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さて、ここからまた門まで下って行き、最後の目的地に向かうこととした。門を出て右 (JR 成田駅方向) に進む。このように風情ある成田山の門前通り。古い旅館も多くて興味深い。楼閣のある建物は大野屋旅館。1935年の建造であるが、現在は料理屋だけで旅館は営んでいないという。
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そして、数百メートルで目的地に到着。これは、休憩所に内部の写真が貼られていた、薬師堂。1655年の建立で、初代團十郎らが参拝していた頃の成田山の本堂なのである。
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つまりこの寺の本堂は、今の名称で言うと、薬師堂 → 光明堂 → 釈迦堂 → 現在の本堂という順番で推移し、順々にサイズが大きくなっていることから、江戸時代初期から現在に至るまで、寺がどんどん発達して来たことが分かる。古来の不動明王信仰が、庶民の娯楽である歌舞伎と結びつき、大きく発展したという興味深い例である。

どうです。成田山新勝寺、誠に侮りがたし、でしょう。私としては、ちょっとしたトラブルを活用し、「転んでもタダでは起きない」という人生の座右の銘の意義を再確認した次第。私が旅行をするときのバイブルである各県の「歴史散歩」(出版はもちろん、あの山川出版社だ) の千葉県版を見ていると、ほかにも古い歴史を持つ場所が、千葉にはいろいろある。寺だけではなく、古くは貝塚、古墳から、江戸時代の民家や近代建築まで、見どころ満載の千葉。また出かけて行ってレポートします。但し、今度はきっちり事前に計画してからにしたい (笑)。

by yokohama7474 | 2017-06-03 19:12 | 美術・旅行 | Comments(0)

さて、前の記事では永井荷風の足取りを中心に市川を探訪したが、この日の残りは、さらに時間を遡ることとした。先の記事でも書いた通り、実はこの市川は非常に古い歴史を持っていて、そのひとつの例が、下総国分寺・国分尼寺跡である。国分寺・国分尼寺とは言うまでもなく、聖武天皇の命によって全国に建てられた寺。奈良時代、8世紀の話である。全国の国分寺で当初の建物が現存しているのは皆無 (国分寺の総本山である東大寺の一部建物は除く) であるが、それでも各地を歩いて国分寺やその跡に遭遇すると、遠い歴史を実感することができるのだ。実は今回の市川旅行では、残念ながら国分寺・国分尼寺跡を訪れることはできなかった。市川市には考古博物館と歴史博物館の 2つがあって、市内の遺跡について学ぶことができるようなので、また次回、併せて訪れてみたい。

さて、市川の歴史がいかに古いかという、もうひとつの例を挙げよう。それは、なんと万葉集に「真間の手児奈 (ままのてこな)」という女性が描かれていることだ。私も今回初めて知ったのであるが、手児奈という美しい女性が、多くの男性に求婚されたが、誰のものになることもなく、真間 (今も残るこの場所の地名である) の入り江に身を投げて命を絶ったという物語。東国で歌われた「東歌」の中で題材になっているだけでなく、山部赤人ら都の歌人もわざわざ真間を訪れて、手児奈に捧げる歌を詠んでいるという。市川にはこの手児奈の墓所と伝わる場所に、彼女を祀る、いわゆる手児奈霊堂というお堂がある。それほど古いものではないだろうが、現在では安産・子育てにご利益があるとして、結構な信仰を集めているのである。遥か 1200年も前の伝承をこのようなかたちで信仰にしてしまう日本人の感性は、なかなか捨てたものではない。
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そして、山部赤人の歌碑も立っていて、歴史に思いを馳せる雰囲気は満点だ。葛飾という地名も真間という地名も、ここに既に現れている。
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そういえば、前の記事の主人公である永井荷風もここを訪れている。市川市が編纂した小冊子「昭和の市川に暮らした作家」から。
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さてこの真間のあたりには、また違った貴重な文化遺産が存在している。この建物だ。
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1927年に株の仲買人、渡辺善十郎によって建てられた大正ロマン溢れる洋館で、上述の通り、国の登録文化財になっている。但しこの建物、今でも渡辺さんという方が管理されているようで、内部を一般公開しているわけではない。コンサートなどに使われる機会に内部に入ってみたいものだ。ホームページを見ると、この建物の歴史や、今後のコンサートの予定を知ることができる。

そして、京成線の市川真間駅の線路ぎわをたまたま通りかかり、ホーム横の地面に面白いもの発見。
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これは、1836年に出版された「江戸名所図会」にも掲載されている、鏡石。もともとはここではなく川にかかる橋の袂にあったものだが、いつの頃かこの場所に移されたようだ。夫婦岩の女性の方ではないかという説もあるようで、窪みに溜まった水に顔を写すことができるので、鏡石と呼ばれているとのこと。ちょっと謎めいているし、線路ぎわを通らないと絶対に気づくことがない。これも何かのご縁かと、手を合わせておきました。
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さて、その後向かった先は、市川市で最も歴史的に有名なお寺である。その名は中山法華経寺。日蓮宗の聖地のひとつである。私はこの寺に国宝の書や数々の重要文化財の建物があることは知っており、何度も電車でその横を通ったことはあるが、実際に出かけたことはない。この機会に是非行ってみようと思い立ったのである。これが参道の入り口。さすが名刹、左右には多くの店が並んでいて賑やかだ。この門は黒門と呼ばれ、市川市の指定文化財である。江戸時代初期のものと見られており、高麗門と呼ばれる形式で、門扉のない吹き通しの門。
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そして堂々たる山門が見えてくる。「正中山」という扁額は、本阿弥光悦の書によるもの。尚この寺には、この後出てくる祖師堂、法華堂にかかっている扁額も、光悦によるものだ。
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門に向かって右側には巨大な日蓮の彫像 (電信柱にも負けません!!) があり、門の前には日蓮宗のお題目「南無妙法蓮華経」の碑が。
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境内は広大だが、まず目を引くのは、この朱塗りの五重塔であろう。国指定の重要文化財。
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私は以前、大田区の池上本門寺 (日蓮が死去した場所で、やはり日蓮宗の聖地のひとつ) の近くに住んでいたことがあったし、本門寺もこのブログで以前採り上げているが、この中山法華経寺の塔は、一見して姿といい色といい、その本門寺の塔 (やはり重要文化財) とそっくりではないか。調べてみると、基壇を含めた総高はともに約 31m と、ほぼ同じ。建立年代はこちらが 1622年、あちらが 1608年。やはり近い。これは非常に興味深い比較である。

その横には、露座の大仏が修復中である。重要文化財を目指しているとあるのでどのくらい古いのかと調べてみると、1719年の作。本体の大きさ 4.8m、台座の高さ 4.5mで、中山大仏と呼ばれているらしい。2019年には修理が終わるらしいので、また見に来たい。
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さて、ここから重要文化財建造物のオンパレード。まずは祖師堂だ。前述の通り、扁額は光悦の字によるもの。
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この建物のユニークさは、正面から見ているだけでは分からない。実はこの建物、全国で 2棟しかない、比翼入母屋造りという様式で建てられている。実はこの様式のもうひとつの建物とは、このブログでも 2015年11月 3日の記事でご紹介した、岡山の吉備津神社の国宝、本殿なのである。横から見るとはっきり分かる、そのユニークなかたち。また、裏手の建物群への橋が渡されている。
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ではその橋の先には何があるのか。まず、重要文化財、四足 (しそく) 門。曲線がなんとも優雅である。
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その前にあるのが、これも重要文化財、法華堂。この扁額も光悦だが、残念ながら角度の関係でよく見えない。
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さぁ、このような一連の素晴らしい建築群を見たあと、もうひとつ見るべき場所が残っている。この表示に従って行こう。回廊の途中が門、兼お堂になっており、そこに太鼓が据えられている。行事のときに、信徒に向けて何かの合図をするのであろうか。
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見えてきた建物、聖教殿は、極めてユニークなもの。私はこれをどこかで見たか読んだかした記憶が、なんとなくある。つまり一見して明らかな通り、これは伊東忠太の設計になるものであるからだ。
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建築家伊東忠太 (1867 - 1954) と言えば、代表作は築地本願寺。あちらは重要文化財である。その西洋と東洋が融和したような不思議な建築には、様々な動物たちが集う。こんな感じである。
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忠太らしく、本当に細部が楽しいわけであるが、1931年に建てられたこの建物の中には、極めて貴重なものが収められている。それは、「立正安国論」「歓心本尊抄」といった国宝をはじめとする、日蓮直筆の書の数々である。これらは年に 1回、11月 3日にのみ、「聖教殿お風入れ」と称する行事の際に扉を開いて公開される。

と、このように見どころ満載の法華経寺であるが、境内にしきりと目につく看板は、「東山魁夷記念館」だ。もちろん日本画家として絶大な人気を誇る東山魁夷が生前市川に住んでいて、記念館があることは知っていたが、法華経寺と近かったとか知らなかった。というわけで、既に閉館時刻の近づく中、エッチラオッチラ、その場所に向かった。結果的にはかなり距離があったので、一度寺の外に戻って車で行った方が早かったのであるが、ともあれ、まさに滑り込みセーフで観覧することができた。ご覧のようにヨーロッパ風の爽やかな建物で、いかにも東山の絵画にふさわしい。
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以前も書いたことだが、私は東山の作品には毒がなさすぎて、もうひとつ好きになれない点を否めないのであるが、家人からはそれを「心が汚れているからでしょ」と容赦ないコメントで鋭く非難されるわけであり、まぁそれはそうかもしれんね、などと独りごちながら、そそくさと館内を見学したものであった。せっかくなので、彼の作品のイメージをここで掲げておこう。あー、これ、高校のときの現代国語の教科書の表紙になっていた作品ですねぇ。確かに汚れた心の持ち主には、このような美は分からないかもしれないなぁ (笑)。
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そんなわけで、市川の文化の旅はここまで。まだいくつか訪れていない場所もあるし、足を船橋から千葉市、あるいはさらに房総半島まで延ばせば、歴史的な興味を覚える場所は千葉県には沢山あるのである。実は以前からずっと温めている千葉の旅の企画もあり、以前少し行ったところもあるのだが、いずれこのブログでまとめてご報告できればよいなと考えております。

by yokohama7474 | 2017-06-03 03:13 | 美術・旅行 | Comments(0)

恒例の、東京近郊、安・近・短の文化の旅シリーズである。今回採り上げるのは、千葉県市川市。東京の東側、江戸川を渡ったすぐに位置する街で、これはもう、ほとんど東京と言ってよい。異論のある方、ここはひとつ穏便に。そもそも、葛飾という地名があるが、それはどこを指すのであろうか。その質問にはもちろん、今の葛飾区、つまり東京都 23区内だろうと答えたくなる。だがしかし、東葛飾高校(トウカツ)という学校があるが、あれは千葉県の学校なのであって、東京都ではなく、どうも様子がおかしい。そこで調べてみると、葛飾という地名は、なんと奈良時代の正倉院文書にも登場する非常に古いもので、江戸時代に下総国の一部であった葛飾郡とは、現在の東京・千葉・茨城・埼玉にまたがる地域であったらしい。つまり、現在の感覚で東京だ千葉だというのがそもそもおかしいのであって、歴史を振り返ってみるときには、今の都道府県にとらわれてはいけないのである。実際に調べてみて分かったことには、現在の市川市には大変古い歴史があるのだ。ここでご紹介できるのはそのほんの一部だが、これまで市川市の歴史的真価をご存じなかった方には有意義な情報であろうと信じるので、是非お読み頂きたい。

そもそも私が以前から市川の歴史的な場所を歩きたいと思っていたには理由がある。それは、文豪永井荷風 (1879 - 1959) の終焉の地であるということだ。今年の 1月 8日の記事で、「荷風晩年と市川」という本をご紹介したが、実はそのときに私は、いつの日か市川方面を探訪して記事を書くと宣言した (http://culturemk.exblog.jp/25136000/)。今回の記事はその宣言に基づくものである。もっとも、この記事はこのブログの記事として最も不人気なもののひとつで (笑)、アクセス数が非常に少ない。大変に残念である。ワーグナー関係の記事とかユジャ・ワンのコンサートの記事にはひっきりなしにアクセスがあるので、いずれこれらの記事の題名だけ残して、中身は「荷風晩年と市川」にすり替えてやろうかしらん、などと考えている今日この頃 (もちろん冗談です)。

そんなわけで、GW の一日、安・近・短の旅である。最初に向かうことにしたのは、市川市文学ミュージアム。車で市川インターを下りて国道 14号線に向かう途中、右手にコルトン・プラザが見えるが、そのすぐ横、市川市生涯学習センターの中にある。このような、なかなかにしゃれた立派な建物である。
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あちこちで文化探訪の旅を続けてきている私には、経験則から来るひとつの思惑があった。今回市川では、荷風の旧居や彼のゆかりの地をまずは訪ねたいと思ったのだが、いかんせん整備された観光地ではないので、充分な情報がない。調べてみると大変詳しい記事を書いておられるブログなどもあり、それなりにイメージを持つことはできたものの、やはり情報量に限界はある。その点、その地に足を運べば、地元で発行している地図などあるに違いないと思ったのである。案の定、そこには「いちかわ 時の記憶」とか「昭和の市川に暮らした作家」などの発行物が販売されていて、街歩きには大変参考になったのである。
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この市川市文学ミュージアムには、荷風のみならず、市川ゆかりの文学者たちの遺品や原稿の数々が展示されている。展示スペースはごく限られたものであり、展示品は撮影禁止なので写真は掲載できないが、地元の誇りが感じられるこのような場所を、私は大好きなのである。因みに、作家としては荷風以外には、幸田露伴・文親子、井上ひさし、安岡章太郎、中野孝次、五木寛之、そして脚本家の水木洋子などがここ市川に暮らしたことがあるようだ。それから、NHK の朝ドラ「梅ちゃん先生」のオープニングで有名になった山本高樹による、荷風の家やその近所を再現した情緒あふれるジオラマが 2つ展示してあったが、残念ながらそれも撮影禁止。正直なところ、このジオラマの撮影を許可して頂ければ、もっと宣伝することができると思うのだが。仕方ないので、同じ山本によるジオラマを表紙にあしらったこのような雑誌の写真を掲げておく。
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さて、いよいよ事前に当たりをつけておいた荷風関連の場所の探訪である。当然最初に訪れたのは、京成八幡駅近くの「大黒家」。晩年の荷風が毎日ここでカツ丼を食べていたとは有名な話。
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だが、私が訪れたこの日は休業中。事情はよく分からないが、何かトラブルがあったようで、食べログも掲載留保になっている。早く再開してほしいものだと思う。
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ランチとしてこのカツ丼をあてにしていたのだが、やむなく近辺で、これも悪くない食事を取り、早速その近くにある荷風終焉の家を探すことにした。ネットで調べるといろいろ詳しい情報が出てくるが、観光地ではなく未だに人の住んでいる家なので、ここでは場所について明記することは避ける。大黒家からすぐ近くである。この塀は昔の写真で見るものと同じである。決して豪邸ではなく、晩年の質素な暮らしぶりが伺える。この場所から戦後の世の中を見ていた、あるいはそこから回避していた荷風に、思いを馳せる。
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それから歩き出した道は、その名も「荷風ノ散歩道」と名付けられている。先に訪れた文学ミュージアムでもらった地図を片手に、荷風が散歩したという道を歩く。荷風が通った歯医者や文房具屋などが今も営業を続けている。
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ネット情報や本の事前の情報に従い、荷風が通っていたという銭湯、菅野湯 (「すがの」とはこの地の名前) を探してみる。数年前のネット情報や、本のこの記事には、「今も健在」とある。
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ところが、東菅野 1-4 という番地と地図を頼りに探してみたのだが、そこには銭湯は既にない。もしかすると、このような駐車場あたりがその跡地になるのだろうか。
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気を取り直してまた歩き出し、辿り着いたのは、これはなくなるわけがない (笑)、白幡天神社。荷風はよくここの境内に佇んでいたという。源頼朝が 1180年、以仁王による令旨に応じて挙兵したが敗走し、安房の国で再起を期したが、その際この地で白い旗を揚げたのが、社名のいわれとも言われている。
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この神社には、この地にゆかりの 2人の文学者、つまり幸田露伴と永井荷風の石碑が立っている。
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ここで幸田露伴の名前が出たが、実はこの偉大な文学者はこの近隣で終焉を迎えている。1947年のその葬式は、荷風もこっそり見に出かけたらしい。きっと直接の交友関係はなかったのであろう。私は今回、地図とにらめっこしてその露伴終焉の家の場所を特定しようとしたが、今となっては既に跡形もない。露伴の家と言えば、「蝸牛庵(かぎゅうあん)」と名付けたものが、愛知県の明治村にあると記憶するが、調べてみるとそれは随分古い時代 (1897年から約 10年) のもの。だが露伴は転居しても自分の家のことを蝸牛 (カタツムリのこと) 庵と名付けたらしいので、この市川の終焉の家も同じ名前であったのだろう。また、その少し東側に一時期荷風の住んだ家があったらしい (終焉の家に移るまで。因みに荷風は市川で 4軒の家に移り住んだ)。こちらも、石碑も何もなく、場所の特定は不可能。ただ住所でこのあたりかと思って撮ったのがこの写真。細い道が微妙に曲がっているあたり、一筋縄では行かない荷風の好みを反映しているように思う。
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さて、それからやはり荷風がよく散歩したという葛飾八幡宮に向かおうとして、地図を片手に歩いていると、面白い場所を発見。あの切り絵の天才、山下清が暮らした障害者施設、旧八幡学園の跡地である。前の記事でアール・ブリュットの画家、アドルフ・ヴェルフリをご紹介したが、天才的としか言いようのない山下清の作品こそ、日本のアール・ブリュットなのではないか。施設自体は既に市内のほかの場所に移転し、今でも存続はしているようだが、山下のいた場所には、その痕跡すらない。
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そして、葛飾八幡宮である。そう、東京都葛飾区ではなく、千葉県市川市にある堂々たる葛飾八幡宮。神社の裏手の鳥居から境内に入ることを許して頂こう。だかその後正面にも回り、市川市指定の文化財である随神門からもお参りしたのである。
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この神社は、現在でも相当な規模であるが、その歴史も大変古く、平安時代、寛平年間 (889 - 898) に宇多天皇の勅願によって創建されたという。また、白幡天神社と同じく、ここにも源頼朝の伝説がある。このような石なのであるが、これは頼朝がこの神社で武運を祈った際に、彼の馬が残したひづめの跡であるという。それゆえ、「駒どめの石」と呼ばれているのである。
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面白いのは本殿の前に置かれた常夜灯である。荷風の日記「断腸亭日乗」の中に、この石灯篭の裏に「明和五年丙子 (ひのえね) の年号を見る」とあるらしいが、実際にはこのように「明和五戊子 (つちのえね) 年」である。因みに明和 5年とは、1768年。
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それから荷風は同じ記事に、この大きな絵馬についても言及している。これは神功皇后 (この神社の祭神) と武内宿禰による新羅出兵の図で、幕末のもの。荷風は、「大した画家の作品ではないようだが、最近このようなものを見ることが少ないので、昔の浅草観音堂を思い出して見入ってしまった」というようなことを書いている。
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またこの神社には、その歴史を感じさせる素晴らしい樹木がある。推定樹齢 1200年を超えると言われる天然記念物、通称「千本公孫樹 (イチョウ)」。根元に沢山の木が集まって幹をなしているように見えるのでその名があるという。つまりこの木は、この神社の歴史をつぶさに見てきたことになる。頼朝が挙げた雄たけびも聞いているわけである。
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さてこの葛飾八幡宮を出て京成の線路を横切り、国道 14号線を渡ったところに何やら不思議な場所がある。私は以前何度かこの場所を車で通っていて、いつも気になっていたのである。こんな場所だ。
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一部分だけ残された竹藪。これは不知八幡森 (しらずやわたのもり)。荷風はこれについて、やはり「断腸亭日乗」で少し触れているが、「竹林の中に石碑があるが、石垣に囲まれて見ることはできなかった」としている。この場所は車で前を通るだけで何か異様な雰囲気を感じるが、それもそのはず、江戸時代から長らく「入ったら出てくることのできない場所」と言われてきたのである。あの黄門様、水戸光圀が中に入って神の怒りに触れたという伝承もあるようだ。確かに、この鬱蒼とした竹藪は、一目見るだけでも禁忌の場所のイメージがある。ちょっと覗いてみると、一部の竹は枯れて茶色くなり、倒れているのだが、そのままになっている。
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現地に立っている説明板によると、もしかするとこれは、古い時代の八幡宮の「放生 (ほうじょう) 池」の跡ではないかとのこと。生きた魚を放つため、立ち入り禁止であったその池が、後に埋め立てられ、「入ってはいけない」との伝承のみ残ったという説だ。この森の中央の地面は四角形になっていて、その説は有力であるらしい。歴史があり、人々の往来が多いにも関わらず、歴史的な空白 (千葉県の名前の謂われになった千葉氏の支配の時代には、内紛でこのあたりは荒廃したという) ができたことで、なんとも神秘的な場所ができてしまったわけである。なるほど、歴史だけでもそうはならないし、ただ空白があるだけでもならないわけで、様々な要因が重なってこのような景観が生まれているということになる。

さて、ここまでは永井荷風が過ごした街の様子であったが、それからまた、違った顔の市川探訪に続いて行くのである。

by yokohama7474 | 2017-06-03 01:13 | 美術・旅行 | Comments(0)

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これは、アドルフ・ヴェルフリという画家 (1864 - 1930) の回顧展。もちろん日本で初めて開催されるものである。だが私の知る限り、この画家の作品を見ることのできる展覧会が、かつて一度あった。今私の書庫からその展覧会の図録を持ってきてみると、おっと、その時のチラシまで挟まれている。これである。
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1993年に世田谷美術館で開かれた「パラレル・ヴィジョン」展。私は今でもこの展覧会を見た衝撃を忘れない。それは、私が人生で初めて接する大量のアール・ブリュット、その当時の言葉で言えばアウトサイダー・アートであったからだ。随分以前、このブログを始めた初期の頃に、パリでヘンリー・ダーガー展を見たことを書いたが、彼などはその後アール・ブリュットの代表選手のように言われ、日本でも写真集が出たし、展覧会も開かれたのである。もちろん、アール・ブリュットはヘンリー・ダーガーだけでなく、様々な作家がいるわけであるが、さしずめこのヴェルフリなどは、ダーガーと並ぶアール・ブリュットの代表選手と言えるのではないだろうか。さてそれでは、ここで何度も言及したアール・ブリュットとは何か。この言葉はもともとフランスの画家ジャン・デュビュッフェが提唱した概念で、「生の芸術」とでも訳せばよいだろうか、正規の美術教育を受けていない、多くはアマチュア画家による作品のこと。もともとのアウトサイダー・アートという言葉は、精神病を病んだ人や受刑者に対する差別的な響きがあるので、このアール・ブリュットという言葉に置き換えられたものであろう。私にとってこの分野は限りない興味を惹くものであり、南仏にある「シュヴァルの理想宮」も訪れたし、スイスのローザンヌにあるアール・ブリュット・コレクションも当然訪れたことがあるのである。因みに上記の「パラレル・ヴィジョン」展は実は日本オリジナルの企画ではなく、東京での開催の前に、ロサンゼルス、マドリード、バーゼルでも開かれている。つまりこの展覧会は、世界がいわゆるアウトサイダー・アートを発見するきっかけになったということだろう。

ではこのヴェルフリという画家、どのような人であったのか。スイスのドイツ語圏に 1864年に生まれたという点に注目しよう。もちろん我々は、同じ年にアルプス近辺で生まれた大芸術家を知っている。作曲家のリヒャルト・シュトラウスだ。なるほど、音楽で言えば後期ロマン派であり、ヨーロッパ先進諸国の間で台頭した帝国主義が、20世紀に入ってからの世界大戦に直結する、そんな時代の人なのである。彼の肖像写真を 2点。ピカソかとおぼしき風貌と、チロルの民族衣装 (?) の可愛らしさのギャップが既にしてブリュットなのだ (笑)。
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この展覧会の副題になっている通り、この人は 1908年以降、死去する 1930年までの間の生涯に 25,000ページに亘る作品を作り上げた。その写真がこれである。信じられますか。
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人間、神経回路が何かひとつに向かうと、尋常ではないエネルギーが生まれるものと見える。実はこのヴェルフリの前半生はかなり悲惨なのである。彼が絵を描き始めたのは 1899年、入院中の精神病院においてのことであった。だがその前に彼は少女に乱暴した咎で 2度も刑務所に入れられているのである。もちろん昔の話であるから、客観的事実は分かりようもない。もしかすると、精神に欠陥のある彼を犯人にすると都合がよかったという事情があっても、おかしくないかもしれない。もっともそのあたりの乱暴の事実は、本人の手記でも残されているようなのであるが・・・。ともあれヴェルフリが創作を始めた初期の作品がこれである。1904年の作で、「前掛けをした神の天使」。現存するヴェルフリの作品として最も古いもの。
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アール・ブリュットに典型的な、強迫観念を思わせる細密な描写。まさにモノクロの迷宮である。この流れで、1905年の「ウォルドルフ=アストリア・ホテル」の部分アップと「ニューヨークのホテル・ウィンザー」。きっと夢の中で見たニューヨークのホテルを、まるで神殿のようにイメージしたもののようである。後者のホテル・ウィンザーにはなじみがないが、前者のウォルドルフ=アストリアは、Park Avenue 沿いの、ニューヨーク有数の由緒あるホテルとして有名である。私は、そこの泊まったことはないものの、訪れたことは何度もある。因みに今は中国系資本です。
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さて、上述の通り、彼が 25,000 ページに亘る作品を作り始めたのは 1908年のこと。ここでは彼の仮想のヴィジョンには色がつくことになる。これは、「ゆりかごから墓場まで」という旅行記 (?) の中から、1910年に描かれた「デンマークの島 グリーンランドの南=端」。この旅行記は何かと言うと、主人公の少年ドゥフィ (アドルフの愛称) が、家族とともに世界を旅して、様々な危機を乗り越えて進歩を遂げて行く話。
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これも同じく「ゆりかごから墓場まで」の中から、1910年の「バント (帯) = ヴァント (壁) の中の聖ヴァンダナ = 大聖堂)。ここでは直線的な要素が勝っているが、真ん中の三角形のぎゅっと曲がったカーブは美しく描かれている。余白を恐れるように空間をびっしり埋め尽くした様々なイメージが、ヴェルフリの夢想した世界の諸相であったのだろう。ちょっと鳥肌立つようなものではないか。
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これはモノクロに戻るが、1911年の「アメリカ、カナダ合衆国のチンパンジー = 猿」。これまでにも出ていた楽譜のイメージが、かなり大きく出ている。十字架のイメージも見えて宗教的な要素もあるが、四隅に見える動物は牛だろうか。ちょっとシャガールを連想させる。
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これも共通点のある作品で、やはり 1911年の「グニッペ (折りたたみナイフ) の主題」の一部。ここでも司祭のような人物がおり、楽譜を首の回りに巻いている。
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これはちょっとエリザベス 1世を思わせるイメージではないだろうか。あとですね、犬が怪我などしたときに、こういうものを首に巻きますね (笑)。犬の写真はほかの方のブログから拝借しました。
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これも 1911年の作で、「機械工にして板金工 = 職人のアルブレヒト・キントラーの殺害、家族の = 父、強姦のせいで」。長い題名であり、正直意味が分からないが (笑)、ここにも宗教的、貴族的、音楽的な要素が満載である。彼自身が犯したとされる犯罪へのトラウマがあるのだろうか。
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ヴェルフリの目くるめくイメージはまさに夢に出てきそうなものであるが、空間を埋め尽くす感覚に加え、時に放射的なイメージも登場する。これはやはり 1911年の「エン湖での開戦、北アメリカ」。強烈である。
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見る者の勝手な想像では、これはモローの名作、サロメをテーマとした「出現」のパロディではないか。違うか (笑)。
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1911年の作品が続く。これは「ネゲルハル[黒人の響き]」と、「氷湖の = ハル[響き]」。もうクラクラする。願わくば、縦と横が間違えていませんように (笑)。
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上に掲げた作品の中には、何やらヴェルフリが鉛筆で手書きした文章や単語が見えるが、中には、延々と数字が並んでいるものもある。これは彼が 1912年から 1916年にかけて制作した「地理と代数の書」から。これは先の「ゆりかごから墓場まで」のような過去を振り返るものではなく、来るべき未来をテーマとしたもの。甥のルドルフに対し、自分の死後どうすれば「聖アドルフ巨大創造物」を作り出すことができるかを説いているらしい。そしてここでは、想像を絶する巨大な富 (自分で巨大な数の単位まで考え出している) が計算されるのである。稀有壮大なストーリーの果てに、アドルフ・ヴェルフリはついに「聖アドルフ II 世」を名乗ることとなる。
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聖アドルフの顕現はこのようになされる。1914年の「太平洋、ビスカヤ島の = 港での神聖なる聖アドルフの勝利」。なるほどここではパートカラーなのである。
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アール・ブリュットを代表するヘンリー・ダーガーの作品には、既存の写真等を使用したコラージュが多いのであるが、ヴェルフリも後年になると同様の手段を用いている。1915年の「ロング・アイランドの実験室」。ロング・アイランドとはニューヨーク、マンハッタンの東にあるあの地域のことであろう。もちろんヴェルフリがそこを訪れたという事実はないはずであり、何かの雑誌で見てインスピレーションを得たものであろう。
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これも 1915年の「全能なるガラスの = 響き」。ここでは、上の作品に見えているのと同じ、何やらナメクジのような横長の動物 (?) が登場している。
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ところでこの展覧会には、ヴェルフリがその膨大な作品群の中で使用した様々なヴィジュアルイメージを分類しているコーナーがある。いやはや、大変ご苦労様なことである。ここでは、上で見たナメクジのようなかたちもリストアップされている。
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ヴェルフリはその後も、「歌と舞曲の書」(1917 - 1922年) や「歌と行進のアルバム」(1924 - 1928年) などを制作している。このあたりになってくると、体力的な問題もあったのか、めくるめくイメージを紙の上いっぱいに展開するのではなく、コラージュが増えてくる。これは 1917年の「オイメスの死、事故」と、真ん中の写真のアップ。山での遭難事故を題材にしたものか。
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最後に、「葬送行進曲」と名付けられた最後の作品群 (1928 - 1930年) から、興味深い一点をご紹介しよう。これは上述の 1993年の「パラレル・ヴィジョン」展にも出品されていた、1929年のヴェルフリの作品だ。何やら多くの数字が手書きで書きつけられた横に、いわゆるモガのイラストが貼られている。
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この作品には題名がないようだが、下の方に貼りつけられているのはこれだ。
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そう、キャンベルのトマト・スープ。米国の会社キャンベルは実に 1869年設立で、世界で缶スープを販売していたので、ヴェルフリもスイスにいながら、同社のスープを飲んでいたことだろう。そしてキャンベル・スープと言えばやはりこれだろう。
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そう、もちろんアンディ・ウォーホルだ。私はここで、アール・ブリュットの作家たるアドルフ・ヴェルフリが、実は 20世紀米国のポップ・アートを代表するアンディ・ウォーホルに影響を与えていた!! という主張をするつもりはない。ただ、このような既成のイメージが面白いと思ったに違いないヴェルフリの脳髄のひらめきに感嘆するのである。ウォーホルは逆説的に美術の意味を問うためにキャンベル・スープを使ったが、ヴェルフリは、ただ面白いから使ったのである。この「ただ面白い」という感覚がいかに貴重なものであるか、私は再度認識するに至ったのだ。アール・ブリュットはこれからますます脚光を浴びることであろう。私としては、偉大なる芸術家には血のにじむような鍛錬をして欲しいと願う面は強いのであるが、このような圧倒的な美術を生み出す人間精神の潜在能力には驚嘆する。「通常の」アートとは異なる意義を深く認識させてくれる、これは貴重な展覧会なのである。

by yokohama7474 | 2017-06-02 00:43 | 美術・旅行 | Comments(0)

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東京・六本木ヒルズにある森美術館で開かれているこの展覧会は、1969年生まれのインドのアーティスト、N・S・ハルシャの、日本初の大規模な回顧展。上のポスターを見ると、何やらカラフルな沢山の人たちが描かれていて楽し気だし、「チャーミングな旅」という副題も気を引く。これがハルシャさん。
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彼は南インドの古都マイスールに生まれ、今もその地に住んでアート活動を展開しているらしい。この展覧会のタイトルにある「ジャーニー」とは、彼自身の人生の歩みだけではなく、インドの経済発展、伝統と現代の間の往来などの様々な「旅」が示唆されていると、主催者の説明にある。実際にこの展覧会に足を運んでみると、ポスターに見られる、ミニマルアートのような、またヒンドゥー教の様々な神の姿のような、にぎやかで鮮やかな作品だけでなく、ブラックユーモアをたたえたものや強烈な表現力で仮借ない社会の真実を抉り出したものなど様々で、近年国際的に注目されているというこのアーティストの全貌にかなり近づけるものとなっている。会場では写真撮影が自由なので、最初は大きな作品の細部など撮ろうかなと思ったのだが、結局、ごく最小限にとどめておいた。というのも、細部を見て行くと面白くてきりがなく、それを次々と写真に撮っても、どうにも埒が明かないというか、面白みが伝わりにくいと感じたからである。ここには、インドの人たちの暮らしぶりや、あるいはさらに広く人の生きざま、あるいは国や地方の政治・経済の変遷が、様々なかたちをとって表されており、ファンタジーと現実感がない交ぜとなった面白さがある。私も今回初めてその名を知ったアーティストであるが、様々なことを考えるヒントをもらえる新鮮な展覧会である。

まずこれは、1995年の「無題」。延々と描かれているのは象である。左右や上下に見えるのは、何か祭りの飾りででもあるかもしれないが、何やら金属的な錆びのようでもあり、花のようでもあって、一方の象たちが線だけで描かれた無色の存在なので、その対照が不思議な感覚を呼びさます。
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これは 1999 - 2001年の「私たちは来て、私たちは食べ、私たちは眠る」。題名の通り、様々な人々が左から右へ移動し、川を渡ってまた進んで行き、そして人々は食べ物を食べ、そして寝るという三連作。限りない時の流れの中で営まれる無数の人々の生きざま、死にざまを考えると、気が遠くなるような、心地よいような、そんな作品である。どうしても全体像を写すことができないので (できたとしても人の姿が小さすぎるので)、それぞれのパートの一部のアップと、そのまたアップをお目にかける。まずこれは「来る」場面。
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これは「食べる」場面。よく知られている通り、インドでは右手を使って食べる習慣がある。だが、右手で食べていることを除けば、これは全人類の姿でもある。つまり人間であれば食べない人はいないわけで、ここで描かれた営みは、単純ながら、人類誕生以降すべての人間によってずっと繰り返されてきた風景なのである。人の生そのものの風景と言ってもよい。
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そしてこれは「寝る」場面。食べることと同じく、寝ることも人間の生と同義なのであるが、ここでは意識がない分、ある種の神秘性が生まれてくるのである。でも、寝ている人の顔には、何か無垢なものが現れるのが面白い。この瞬間、人は幼児に還っているのだろうか。
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次は少し現実との接点を持った作品をご紹介しよう。2004年の「マクロ経済は日給 30ルピーか 60ルピーかで論争する」。たんぼで田植えをしている農民たちの間にスーツ姿の人々が登場する。1990年代に始まるインドの経済発展を風刺的に表現したものと言えようが、ユーモアをたたえた人の姿を含め、一見しただけではさほど政治的なメッセージには見えないところに、この作家の持ち味があるのであろうか。
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次の作品はもう少しブラックな要素が明確だ。2007年の「浄化する者たちの対話」。自らのからだを酷使するインドの密教の修行 (タントラ・ヨーガ) に勤しむ人たちと、土地を測量、開発する現実的な人たちとの対比。だがここでは、地面に巨大な骸骨が横たわっており、人の生の儚さを思わせる。
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これは 2008年の「ここに演説をしに来て」。これはもう延々と続く、椅子に腰かけた人々の肖像。ほかの人と同じポーズを取っている人はだれ一人としていない。ところどころに描かれた煙のようなものが不思議な幻想味を加えている。
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次はまた少しブラックな感覚が入った作品で、私は結構好きなのであるが、2006年の「溶けてゆくウィット」。ここで血を流しながら次々と崖の下に転がり落ちて行くピエロたちは、何を表しているのか。解釈は人それぞれにすればよいのであろう。
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会場には体感型の作品もある。これは 2010年/2017年の「空を見つめる人びと」。これは図録からの写真ではなく、私が現場で撮影したものを使おう。床に様々な人々の顔が描かれていて、天井がそれを映し出している。その床に人々は靴を脱いで横たわり、絵の中の人々との交歓を楽しむというもの。しんねりむっつりした現代アートが多い中、これはシンプルで人々が屈託なく楽しめ、何かを感じることができる作品として貴重であると思う。
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これも私が現場で撮影したもので、2007年/2017年の「ネイションズ」(国家)。所狭しと並べられたミシンには、国連加盟 193ヶ国の国旗を描いた布が置かれている。「インド」という国家を生み出したマハトマ・ガンジーの活動を象徴する糸車のイメージと、工業化のイメージから、ミシンが使われているらしい。国家という概念の危うさと、それぞれの国家を生み出すためには人間が活動する必要がある (ちょうどミシンを踏むように) ということが感じられるが、やはりここでも、あまり政治的なメッセージという押しつけがましさのない点がハルシャの優れたところではないだろうか。
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類似のモチーフを違う視点から描いた 2007年の「神がみの創造」。ハルシャの暮らす南インドではテキスタイル工場が沢山あり、何千人もの人たちが働いている。人間が何かにかたちを与えることができるなら、この作品の人物たちのように、神々を生み出そうとすることもできるのだろうか。だがこの人物たちは皆、まるで亡霊のようで、黒い布から神々が出現するのか否かは、これだけでは分からないのである。その意味するところを考えるよりも、まずは視覚的なイメージの面白さを楽しみたい。
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ハルシャの作品は実際、上で見てきたような細密なものが多いのだが、そうでないものもあって、何をこの記事でご紹介するかはかなり迷うところ。つまり細密作品を眺め始めると、ここもあそこも面白いとなってしまって収拾がつかないようなことになってしまう。よって上では、ごく限られたイメージだけのご紹介にとどまってしまった点は否めない。だが最後に二点、私が現場で撮影した写真によって、また毛色の違う作品をご紹介する。まず、2013年の「ふたたび生まれ、ふたたび死ぬ」。実に、縦 3.6m、横 24m の超大作であり、ここには細密な要素は何もなく、宇宙的なスケールに、ただただ圧倒される。とはいえ、ここでも太い線は、ねじれようと流れようと常に連続していて、まさにこの題名のごとく、連綿とつながる人々の生を連想させる。その意味では、やはりハルシャらしい作品であると言えるだろう。
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これは 2013年の「タマシャ」。猿たちが天を指さし、その長い尾が絡まっている。解釈はいろいろ可能であろう。例えば、高い理想を掲げていても利害がかみ合わない人たちを指しているとか。まぁ解釈はこの際どうでもよい。物言わぬ猿の哲学的な仕草と、異様に長い尾の不思議な感じだけでも、大変印象に残る。これは、猿の神ハヌマーンではなくて、ハルシャの新しいスタジオの建設中に雨どいに座って作業をじっと見ていた 1匹の猿から着想を得たものであるという。

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というわけで、N・S・ハルシャとともにチャーミングな旅に出てみたわけであるが、ここにご紹介できなかったタイプの作品もあれこれあるので、その旅はなかなか変化に富んだ興味深いものである。様々な要素がごった煮になったインドらしいアートと言えば言えるし、さらに普遍的に人間の生きざまを表現しているとも言えるであろう。大事なことは、アーティストのメッセージを自分なりに取り込んで楽しむことだと思う。誰かから与えられるのではなく積極的にアートを楽しみに行くタイプの鑑賞者にとっては、見どころの多い展覧会であると申し上げておこう。

by yokohama7474 | 2017-06-01 01:02 | 美術・旅行 | Comments(0)

GW 中のある日、私と家人は奥多摩の鳩ノ巣溪谷に一泊することとした。私にとっては、学生時代に一度仲間と泊まったことがある場所だが、ホテルは見違えるようにきれいになっているし、かなり急な流れの溪谷の水の清々しさは相変わらずだ。驚くべきことに、ここも東京都。都会の垢を落としに来るには最適の場所であると、お薦めしておこう。吊り橋の向うの巨大な岩の上に小さな祠が見える。これは水神様と呼ばれていて、この森に二羽の鳩が巣を作って仲睦まじく暮らしていたのが、鳩ノ巣溪谷の名前の由来だとか。
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その翌日向かうこととしたのは、八王子市にある高尾山だ。ミシュランのガイドで星がついたとのことで、最近では外国人の訪問も多く、非常にメジャーな観光地になっているが、ここは古くからの修験道の聖地。天狗が住むという、標高 599mの神秘の山である。実は奥多摩から高尾山に向かうには、途中で青梅市街を抜けることになる。この日はちょうど青梅大祭で山車の出る日であり、前日はカバーをかぶっていた山車の数々も、人々に引かれて繰り出している。これらは車の中から撮影したものだが、電線を通り抜けるのに一苦労だし、そのおかげでバスも発車できないし、ましてや一般の車の通行においてをや (笑)。だが、人々の祭りにかける意気込気が伝わって来るではないか。せっかくなので、午前中に高尾山を観光して、昼食を取ったあとに青梅に戻って来て、祭りを見たいと考えたのである。いやー、祭りってワクワクしますねぇ。
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さて、高尾山である。幼少の頃に親戚と出かけたことがあるような気もするが、記憶が定かではない。いずれにせよ、大人になってからは初めての訪問なのだ。なんとも楽しみなのである。ここにある寺院の名前は、高尾山薬王院。真言宗のお寺だ。先日の御嶽山もそうであったが、ここもケーブルカーで山頂に登って行く必要あるのであるが、ここのケーブルカーの駅は御嶽山よりも規模が大きい。
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なんでもここのケーブルカーの勾配は 31度18分で、日本一であるとか。それは大変に興味深いと思ったのだが、朝から既に遠足の子供たちや観光客で賑わっている。そのときふと見ると、ケーブルカー以外にリフトもある。もちろんリフトの場合は外気に触れるので、よりワイルドである。夫婦で意気投合し、リフトに乗ることにした。途中で二度ほどぐぐーっと勾配が上がる構造であり、これは楽しい。
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途中でこんな注意書きが。外人用に英語表記もあるが、うーん。"Don't Shaking" って、この英語、間違っていませんか? (笑) まぁ、言いたいことは通じるとは思うものの。
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頂上駅からお寺まで、ブラブラ歩いて 20分ほどであったろうか。お気楽な我が家は普段着での訪問であったが、麓から歩いて来る人たちはももちろん、ケーブルカーやリフトを利用する人たちも、登山の恰好をしている場合が多い。実際にここは立派な山なのである。寺からさらに登れば山頂に辿り着くが、今回は寺までということにして、歩き始めた。
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都心から 50kmくらいだと思うが、このように見晴るかすと、本当に関東平野はだだっ広いなという感じがする。
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参道の左右には様々な人から寄進された童子像が沢山立っていて、人々の往来を見守ってくれている。また、途中には、根がウネウネと湾曲していることからタコ杉と呼ばれる巨木があったり、天狗の腰かけ杉もあって、これだけ多くの観光客の集まる場所でありながら、古くからの霊場の神秘的な雰囲気を未だに充分に保っているのである。
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そういえば、先般 NHK の「ブラタモリ」で高尾山を採り上げた際、この地は針葉樹林と広葉樹林が隣り合っていて、森の明るさが違うと説明していた。あ、本当にここは、左側が針葉樹林、右側が広葉樹林になっている!!
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このような門を過ぎると、右側にはずらっと寄進者の名前が記された木の札が並んでいる。皆さんが寄進されているのは、杉の苗であるようだ。この高尾山の自然は、篤志家の方々によって守られているのだということが分かって興味深い。
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そしてズラリと並んだ寄進者の札の列の最後、最高額の寄進者の皆さんの札がこれだ。
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おおっと、京王電鉄とケーブルカー会社の次に来ているのは、あのサブちゃんではないか。八王子在住であったとは。実はそのことは、寺の境内に辿り着き、四天王門をくぐったすぐ左手で再確認できる。そこには彼の歌声が流れていて、何かと思うと、サブちゃんの手形に手を置くと、その名も「高尾山」という歌が流れ始めるという仕組み。古来より霊場というものは、このような世俗的要素との併存をしてきたもの。天狗も、演歌を唸って、あははと楽しそうに笑っているのではないだろうか。
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と思うと、ちょうどこの場所の向かいには、二体の天狗像が。この寺の敷地内のあちこちで出会うこととなる、大天狗 (鼻の長い方) と小天狗 (くちばしのある方) のコンビだ。この二体は常に阿吽にもなっている。いかにも高尾山の雰囲気満点だ。
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この高尾山は未だに古来の神仏混交の色を強く残していて、実はメインの建物として、本堂と本社の 2つのお堂があるのである。これが本堂。明治期のもので文化財指定はないが、さすが霊場薬王院の本堂。堂々たる佇まいであり、ここでも大天狗、小天狗の巨大な面が左右で絶大な存在感を誇っている。尚、この本堂内には、秘仏・本尊薬師如来の厨子を囲んで、異形の飯縄 (いづな) 大権現像などがずらりと並んでいて壮観なのであるが、祈祷を受けないと中に入れない。私はまた次回の楽しみとして取っておくことにした。
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そしてこちらが、本堂よりさらに上がった場所にある本社。つまりこれは神社の本殿である。江戸時代の建造物で、東京都の指定文化財。このお堂では飯縄権現が本尊、いやご神体として祀られているため、飯縄権現堂とも呼ばれている。華やかな装飾が美しく、細部を見ていると飽きないのである。そう言えば、先般訪れた久能山東照宮や静岡浅間神社もそうだったし、上野の東照宮もそうだが、江戸時代の装飾的な神社建築は、日光以外にも結構いろいろあるのだ。日本人の美意識には、わび・さび (東京国立博物館で開催中の「茶の湯」展で先日満喫したばかり) とは全く対照的な、このような要素もあることを、再認識する。
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さて、このように念願の高尾山薬王院詣でを済ませ、帰りはケーブルカーに乗ってみることとした。なるほど、日本一の急勾配、これもなかなか楽しい見どころである。
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さて、文化ブログとしての高尾山のご紹介はここまでなのであるが、この日ランチを取った場所が忘れられないので、ここでご紹介しておく。圏央道の高尾山インターからほど近いところにある、うかい鳥山という、いろり炭火焼レストラン。
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私がここを知ったのは、絶景を楽しむことができるレストランを紹介した本であったのだが、うかいと言えば、東京にいろいろな系列レストランがある。東京タワーのふもとにあるとうふ屋うかいは外人接待の定番だし、銀座のうかい亭では最高の鉄板焼きを食べることができる。その他にも多くのレストランを展開しているうかいであるが、その発祥の地がここ、うかい鳥山らしい。いやそれにしても、行ってみて驚いた。まず駐車場の横にはこのように巨大な合掌造りの建物があって壮観である。この中でも食事ができるようだ。
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総合受付を通って敷地内に入ると、多くの風情ある建物が点在し、それぞれ食事をしている人たちがいる。また広大な庭園の、凝っていること!! この維持には相当な労力と金銭を要するだろう。苔むした水車も動いているし、季節外れの紅葉も実に美しく、また奥まで進むと、様々な植物を栽培しているのだが、そこにはまた道祖神なども置いてあって、日本人の心に迫ってくるのである。
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今回は GW ということもあり、個室ではなく、大き目の部屋での相席での食事となったが、それでもスペースは充分で、これを「相席」と呼ぶ必要はないだろう (笑)。いやその風情のあること。なんでもこの建物、百五十年前に建てられた五箇山の合掌造りを移築してきたものらしい。席はこんな感じ。
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もちろん頂いた料理も大変結構だった。このブログは文化を対象にしているものであるからして、グルメブログとは一線を画し、食事のご紹介はしないので悪しからず。実際、車だったので私は (家人がどうであったかは触れないこととして 笑) ノンアルコールビールしか飲むことができなかったのだが、それでもなんとものんびりしてしまい、まるで酔っているかのような気分になってしまった。そんなことで、本当なら青梅大祭を見に行きたいと思っていたのだが、青梅駅近辺は車が通行止めになっているということでもあり、この小旅行には充分満足したので、今回は昼食後まっすぐ帰宅することとした。青梅の祭りもできればまたの機会に楽しみたいし、このうかい鳥山にも、また来てみたい。次回は電車で、思う存分アルコールを摂取することを、堅く心に誓ったのである!! ま、人生、そんな誓いもたまにはあってよいではないか。

案・近・短の旅、あとまだいくつかネタはあるので、折をみてアップして行きます。またよろしくお願いします。

by yokohama7474 | 2017-05-29 00:20 | 美術・旅行 | Comments(2)

このブログでは既におなじみの「安・近・短の旅」シリーズ。今回ご紹介するのは、私と家人が 1ヶ月ほど前に楽しんだ東京都内の小旅行。行き先は青梅と奥多摩なのであるが、さて、話をどこから始めようかと考えた。まずはこの言葉のご紹介からとしよう。「秘仏開扉」。子供の頃から仏像好きであった私にとってこの言葉は、魔法の呪文のようなもの。「開扉」とは、「かいひ」と読み、文字通り扉を開けて、普段は閉ざされた厨子の中におられる仏さまを明るみに出すことを指す。そして今回ご紹介したいのは、このような秘仏の開扉についてである。
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どうだろう。神秘的ではないか。この仏像は、青梅市の塩船観音寺のご本尊、千手観音像。鎌倉時代、1264年の作で、東京都指定文化財である。この仏像の開扉は年に 4回。正月 3ヶ日、1月16日、5月 1~3日、8月第 2日曜日。 東京に住んで 40年になる私も、未だかつてこの仏像を拝んだことがない。これは由々しきことである。しかもこのご本尊の左右には、千手観音の眷属である二十八部衆がすべて揃っているのである。もちろん、京都の三十三間堂という特殊な例を除けば、これは日本全国を見渡してもそうはないことだ。
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こんな仏像が東京都内にあるとは驚異的なこと。最近では仏像も多くの人の興味を惹くようになってきて、様々な書物が出ているが、東京近郊の仏像に関するお薦めの本は、なんと言ってもこれである。
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ここには本当に貴重な首都圏の古い仏像の数々が紹介されていて圧巻である。この塩船観音寺の仏像も、きれいなカラー写真で紹介されている。このような本を見て私は、今年の年明け早々、正月 3ヶ日にこの寺を訪れようと一旦は決心したのであるが、ちょっと寒くて億劫であった (笑)。そんなわけで、もっと温かい頃、つまりはゴールデン・ウィーク中の開扉期間に、念願の塩船観音寺詣でをすることとなった。多摩川下流の我が家からは、川を遡る旅。もちろん水路ではなく陸路を辿り (笑)、現地に到着したのは朝 9時頃であった。この仁王門は室町時代のもので、国指定の重要文化財である。
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ところが本堂に辿り着いて内部に入っても、内陣に入ることはできないばかりか、ご本尊の厨子は堅く閉ざされたまま。これはどうも勝手が違うと思い、堂内のお坊さんに訪ねてみると、開扉は午後、13時からとのこと。おっとこれは困った。だが、この寺の境内ではおりしも、つつじ祭りを開催中。このような美しい風景を見ることはできた。
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さて、そうは言っても、13時までここで過ごすわけにもいかず、このままでは時間がもったいない。だが慌てるなかれ。観光するときの私の中には常にプラン B がある。今回は、ほかに行くべき場所があり、そちらをサクッと訪ねてからまたここに帰ってくるという案に移行することとした。その、「ほかに行くべき場所」とは、これである。
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同じ青梅市にある武蔵御嶽神社 (むさしみたけじんじゃ)。ここは以前テレビで見たのを覚えていて、犬を尊い存在として敬うため、犬連れで詣でる人たちが多い神社である。この神社では十二年に一度、酉 (とり) 年だけ特別な行事が行われる (戌年ではないので要注意)。上のポスターにある通り、ご神体の蔵王権現 (ざおうごんげん) 像が開扉されるのだ。おぉー、ここでもカイヒなのである。これは行くしかない。実はこの特別開扉は期間限定で、5月いっぱいで終了 (なので、この記事をご覧の方、まだギリギリ間に合いますよ!!)。しかも建物の中に入ってその尊像に対面できるのは一日に数回、決められた時刻のみ。事前に調べていたところでは、次は 11時なのである。だが、同じ青梅市内で 9時に塩船観音寺にいて、11時に御嶽神社に行くなら、少し時間が余るのではないかと思い、途中でこのような場所に寄ることとした。
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そう、「宮本武蔵」などの歴史もので有名な作家、吉川英治の旧居が記念館になっているのである。だがこの日はあいにく月曜日。記念館は休館日なのであった。随分以前に一度訪れたことがあるとはいえ、なんとも悔しい思いをしたのである。実はこの近くにはもうひとつ、日本画家河合玉堂の記念館もあり、御嶽神社に行く前にこの 2つに寄って行けばちょうどよいかと思ったので、なおさら悔しい。これでは時間を持て余すではないか・・・。そう思った私が実は甘かったことがあとで証明されることとなった。その意味では、この日がたまたま月曜であったおかげで、御嶽神社のご神体を時間の無駄なく拝むことができたのは、何やら不思議なご縁であったと思う。つまり、この御嶽神社、車でスイスイと前まで行くことができない、つまりは私が想定したようにサクッと訪れることなどとてもできない場所なのである。「武蔵御嶽神社」と入力した車のナビに従って辿り着いたのはこの場所。ケーブルカーの駅であった。
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御嶽神社に行くにはこのケーブルカーに乗るしか手段はなく、しかも頂上で下車後、25分歩かなければならないという!! ケーブルカーから見る武蔵野の山々は緑が深く、しかも、あっ、やはり犬が乗れるようになっている。
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ケーブルカーを降りてから歩き始めると、そこには、この地に参拝する人たちのための昔ながらの宿が点在する。ここはいわゆる修験道 (しゅげんどう = 密教と結びついた日本古来の山岳信仰。山伏でおなじみ) の聖地。信仰のためにこの山を訪れる人たちの世話をする、いわゆる御師 (おし) のような制度が未だに存続しているのだろうか。21世紀にまで存続する山の神秘に心打たれる。
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11時の開扉時刻に間に合うには、ちょっと急がなければ。それを逃すと次は 13時なのだ。石段を踏みしめて歩を進め、ようやく神社が見えてきたときの感動は忘れない。最後の石段には鬼が顔を出している。
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ここは本当に聖なる場所であり、肺いっぱいに吸い込む空気から、普段の都会生活の垢を落とすことができる。見晴らしも最高だ。
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そして 5月でありながら、ここでは未だに桜が花をつけていた。修験道の総本山は吉野。もちろんそこは桜の名所である。修験道の神である蔵王権現は桜が大好きなのだ。
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そして本殿の横には何やら柱が立っていて、そこに布が縛りつけられている。これはご神体である蔵王権現を祀る本殿から引かれていて、この柱に触るとご神体から直接ご利益を頂くことができるわけである。
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さて、昇殿の時刻である 11時になんとか間に合った我々は、総勢 50名程度かと思われる人々と一緒に拝殿に入って行った。その中では撮影禁止と明確な指示はなかったものの、その厳かな雰囲気は、気軽にシャッターを切ることができないようなもの。よって内部の写真はないが、中では神主さんたちの祝詞があり、ご神体開扉の前には招魂のために「おおぉぉぉぉ~~」という唸りがあげられ、参拝する人たちみな、頭を下げて敬虔な気持ちになる。そして順番に並び、拝殿からは階段を経て見上げる位置にある本殿の前面に出されてきたご神体とご対面することが許される。本殿の前面までご神体を移動させるのは十二年に一度、酉年だけである由。ご神体の蔵王権現は、高さ 50cm ほどであろうか、かなり小さいもの。青銅製かと見られる素朴なお姿で、彫刻として最高の出来というわけではないにせよ、古来この由緒正しい神社に祀られてきた霊像であり、十二年に一度という機会に、とにかく有り難い儀式を経てようやく叶ったご対面である。それはそれは感動的なイヴェントとなった。

再び神社の境内に戻ると、そこには犬連れの参拝客の姿もあり、ペットお守りなども売っている。我が家の愛犬は 1年半ほど前に天国に旅立ってしまったが、何やら我々夫婦と一緒にこの神社に詣でているような気がして、命の尊さを改めて実感した。もっとも犬たちにはそんな感傷はないと思うが (笑)。
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また、この神社の宝物館には国宝の甲冑など、貴重な文化財が展示されていて興味深いが、出版物からの転載も許可しないという貼り紙があったので、ここでは画像でのご紹介は断念する。是非現地でご覧下さい。

さてそれからまた塩船観音寺に戻る途中、青梅駅周辺で道草を食った。我が家の場合、この道草を楽しむことが旅先では何より大事なのである (笑)。街のそこここに洋の東西を問わない古い映画のポスターをもとにした看板画がかかっており、なんともレトロである。昭和な博物館もいくつかあるが、やはり月曜で休館であった。猫による「東京物語」のパロディが楽しい。
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そして、住吉神社という神社には、カバーをかけられた山車のようなものが。実はこの翌日から青梅大祭なるものが開かれるのである。これまで知らなかったが、かなり由緒のある盛大なお祭りらしい。
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そんなことで、再び舞い戻った塩船観音堂。まずは薬師如来堂に詣でる。青梅市指定文化財だが、そのお姿はかなり古様で素朴。霊験あらたかな雰囲気満点である。
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そうしてようやく目にすることができた本尊、千手観音像。お堂の扉も開け放たれていたので、外からでもこのようにお姿を拝むことができる。なんと神秘的。冒頭の写真では、等身大か、あるいはそれ以上の大きさかと思われるが、実際の像高は 144cm。小ぶりな観音様である。私としては、長年の念願叶ってこの仏さまに対面できたことを、心から嬉しいと思ったのだ。そのような思いをたまに持つことで、決して平穏ばかりではない日常生活を乗り切っていけるのである。
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この日はこれから最後に、これも以前から興味があって行くことができなかった日原 (にっぱら) 鍾乳洞に行くことにした。ここは古くから修験道の修行の場として使われていて、その意味での神秘性を感じる場所。例えば秋芳洞や龍河洞のような自然の驚異を感じる美しい場所というよりは、自然に感嘆しそれを敬った人間たちの祈りが未だに残っているような、そんな場所なのである。以下、洞内で撮影した写真をご紹介する。
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洞内はかなり長い通路が設けられていて、アップダウンも相当に険しい。このような中を歩いていると、無性に外の光が恋しくなる。そんな思いをした後、洞窟から出た私の目に飛び込んできた渓流は、まごうことなき生命に溢れた場所であって、視覚だけでなく聴覚や嗅覚の点でも、地上に息づく生命を感じることができ、心からほっとしたことである。普段感じないような光や水や空気や生命の尊さを感じることとなったわけなのだ。これはあたかも、映画「ゼロ・グラビティ」で主役のサンドラ・ブロックが地球に帰還したシーンのようであった。日常当たり前だと思っていることの尊さを感じる機会は、実に貴重なのである。
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川の流れをじっと眺めていると、そこにある岩が、人間の顔のように見えてきた。なるほど人間はこういう感性が敏感になったときに幻影などを見て、様々な文化を創り出してきたのだろうかと思ったものである。
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この日は大気が不安定で、何度か雨に見舞われたのであるが、不思議なことに、激しい雨が降ったのは我々が車で移動しているときで、それぞれの目的地では全く傘の必要もなかったのである。また、上に書いた通り、月曜日であったために時間の有効活用ができたことも大変にありがたかった。私は何もそれを神秘的な現象と言うつもりはなく、たまたまなのであるが、それでもやはり、このような経験から感じることは多々ある。この日の日程を終え、宿に向かう途中には、既に西日となった日光が戻ってきて、山の向こうからこのような輝きを見せた。さらに、宿に着く頃には日は既に山の向こうに沈んでいたが、まるで明るさを惜しむような雲の様子に目を奪われた。このような風景に神秘性を感じるのが、人間の素直な感性であると思う。
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さてその日は奥多摩にて一泊。GW の安・近・短の旅は翌日に続くのである。

by yokohama7474 | 2017-05-28 08:21 | 美術・旅行 | Comments(0)

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海北友松。この名前はどの程度一般に親しまれているものだろうか。そもそもなんと読むのか。「うみきたともまつ」??? いえいえ、これは「かいほうゆうしょう」と読み、桃山時代から江戸時代にかけて活躍した絵師 (1533 - 1615) なのだ。もしかすると、いや、もしかしなくても、狩野永徳 (1543 - 1590) や長谷川等伯 (1539 - 1610) といった同時代の画家よりも知名度は低いかもしれない。だが、私ははっきり覚えているが、高校の日本史の教科書にも、桃山時代の代表的な画家として友松の名前は出ていたし、京都の寺に出かけると彼の障壁画を見ることができるのである。しかし、彼の大規模な回顧展がこれまで開かれたかというと、その記憶はないし、永徳の「唐獅子図」とか等伯の「松林図」というような代表作があるかというと、ちょっと考えてしまう。それゆえ、今般京都国立博物館 (通称「京博」) で開催されたこの展覧会は、友松芸術の全貌に迫る極めて貴重なものであったのだ。・・・と、ここでお詫びなのであるが、今私が書いた通り、この展覧会は京博で開催「された」と過去形にする必要がある。なぜならこの展覧会は 5/21 (日) をもって閉幕し、地方巡回の予定はないからだ。これは京博の開館 120周年を記念する行事のひとつであり、まさに京都でのみ開催可能であったもの。しかも開催期間は約 1ヶ月のみと、なかなかに厳しい条件だ。ただ私はどうしてもこれに出かけたくて、カレンダーとにらめっこした挙句、ある日曜の早朝に新幹線に飛び乗って、東京 - 京都間を弾丸往復することに決めた。京博の開館時刻、9時30分に先立って現地到着して列に並び、展覧会鑑賞後には、ほかの寺社には一切立ち寄ることもなく東京にトンボ返り。そして 15時からの東京でのコンサートに駆け付けたのである。少々強行軍ではあったが、結果的にはその価値のある素晴らしい展覧会であったと思う。

まず、会場の京博に掲げられていた看板をご覧頂こう。上に掲載したポスターの図柄と同じ龍の絵であるが、右後ろには現在閉館中の本館 (重要文化財) がチラリと見えている。なお、今回の展覧会場は、新しい平成知新館。
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さてこの展覧会では、初公開や海外からの里帰りを含む海北友松の作品及び資料 70点以上が展示され、実に圧巻であった。最初に結論を言ってしまうと、この画家の格の高さは疑うところなく日本美術史上に燦然たるものであり、近代的な感性までを思わせる素晴らしい作品がこれだけ一堂に会する機会は本当に貴重であり、間違いなく歴史に残る展覧会であったものだと思うのである。ここではその価値のほんの一部しかご紹介できないが、現地に出かけることのできなかった方に、少しでもイメージを広げて頂ければ本望である。そう、この絵師、ただものではない!

海北友松は浅井家の家臣、海北家の五男 (一説には三男) として近江に生まれた。幼くして京都の東福寺に入り、禅僧として狩野派を学ぶが、後に還俗して海北家再興を目指すものの、その絵の腕が秀吉の目に止まり、画業に専念。その後は天皇・親王や京都の格式の高い禅寺の僧たち、そして朝鮮の儒者や明の使節からも支持され、82歳の長寿を全うした。彼の親友に斎藤利三という人がいて、明智光秀の家臣であったために本能寺の変のあと処刑されたが、友松がその遺体を回収して手厚く葬ったという (今、友松自身が京都の真如堂でこの利三の隣に眠っている)。この斎藤利三の娘が、三代将軍家光の乳母、春日局なのである。そのような縁で、友松の名前はその子孫を通じて江戸時代初期に顕彰されたのだという。この時代、いやどの時代でも、芸術家の活動には、様々な巡りあわせが影響する。幸いなことに、今日我々が友松の作品の数々を見ることができるのは、そのような巡りあわせも大いに関係しているに違いない。以下は、今回出品されていた、海北家に伝来する (ということは、今も子孫の方がおられる?) 友松夫妻の姿。友松の孫である海北友雪の手になるもので、重要文化財だ。友松の妻が着ている着物は春日局から拝領したものとのことだが、そのいわれは上記の通り。当然友松夫妻が生きていた頃には未だ春日局は権勢を握っていなかったので、この情景はフィクションということになるが、自分の祖父を顕彰したいという友雪の思いがそうさせたのであろうか。
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次は、会場で最初に展示されている作品、岡山県蓮台寺所蔵の「菊慈童図 (きくじどうず) 屏風」。1997年の展覧会で初めて世に紹介され、無款ながら、今日では現存する友松の最初期の作品とみなされているとのこと。木や岩の描き方は狩野派風ということなのだろうが、私はこの人物の砕けたポーズとアンニュイな (?) 表情が気に入った。その生々しいこと、既に独特の個性を感じさせるのである。
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かと思うと、この「山水図屏風」では人物は一切登場しない。松や岩の、緻密だが優等生的な表現に比して、中国風の瓦を床に敷き詰めた建物の佇まいは何やら寂しげであり、あえて言えばシュールにすら感じる。友松の内面に、このような風景を描きたいと思う何かがあったのだろうかと想像したくなってしまう。
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これは米国サンフランシスコ・アジア美術館が所蔵する「柏に猿図」。猿の絵といえば、中国人画家牧谿が模範ということになるのだろうが、この絵に漂う愉悦感はなかなか独特のもので、猿の絵といえども、誰かの猿真似で描けるものではないだろう。水の表現は様式的であっても流れのリアルさを出そうとしているし、花や木などの植物に見られる近代日本画のごとき感性は、やはり友松独特のものではないか。
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展覧会には、友松が京都の名刹、建仁寺の塔頭に描いた襖絵が並んでいる。保存状態があまりよくないものもあるが、この「琴棋書画 (きんきしょが) 図屏風」は面白い。雲洞院という塔頭に現存する重要文化財だ。この展覧会ではこの画題による作品がいくつも展示されていたが、いずれも描かれた人物の闊達さに見入ってしまう。水墨画の多い友松だが、ここでは適度な彩りが添えられている。
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次にやはり重要文化財、建仁寺本体の大方丈の障壁画からいくつかご紹介する。この障壁画は全部で実に 50面あり、描かれたのは 1599年と、江戸時代前夜。友松既に 60代のときの作品なのである。オリジナルは現在京博が保管しており、現地にはキャノンが制作した高精度の複製品を順次入れて行っているとのこと。今度建仁寺に行ったときに見てみたい。最初は「雲龍図」だが、図録から撮影している関係で、たわんだ形になってしまっているものの、それが返って迫力を増しているようにも思われる。作品自体にそもそも力が漲っているからだろう。
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この展覧会には龍が何匹もうねっていたが、やはりこの、ポスターになっている奴が私としては最も気に入った。上と同じ建仁寺大方丈の襖絵で、重要文化財。この角の硬質な感じはなんとも言えない迫力だし、黒雲からにゅっと飛び出る右手は、下からの照明に浮かび上がっており、さながら怪獣映画のワンシーンのようではないか。ある意味でこれもモダンな感覚と言えると思う。
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同じ建仁寺の障壁画から「花鳥図」。これは孔雀なのであろうが、サイズはかなりデカデカと描かれている割には、足は細くて、龍の迫力とは異質である。しかし躍動感は素晴らしい。
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引き続き建仁寺の障壁画をいくつかご紹介する。順に「山水図」、そして「琴棋書画図」から 2点。幽玄な味わいがあると思うと、鋭い線で濃く直角に描かれた垣根もあり、ほのかな人間味のある人物像もある。これ見よがしのところはないだけに、その画格の高さに感嘆するのである。
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この建仁寺大方丈の作品を仕上げてのち、友松の名声はうなぎのぼり。皇族、大名らからも依頼を受けるようになり、現存する友松の作品は、この 60代以降の晩年のものが大半を占めるという。これは MOA 美術館が所蔵する重要文化財の「楼閣山水図屏風」。現在の鳥取県、鹿野 (しかの) 城の主であった亀井茲矩 (かめい これのり) に贈呈されたもの。やはりじっと見ていると近代の日本画のように見えてくる、水辺の風景である。
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友松はまた禅画も多く手掛けているが、私の見るところ、それほど砕けた大胆さがあるわけではない。だが、京博が所有する「禅宗祖師図押絵貼屏風」のひとつ、達磨の図を見てみると、まるでお菓子の「ひよこ」みたいで可愛らしいではないか (笑)。ちなみに押絵貼屏風 (おしえばりびょうぶ) とは、屏風の一扇ごとに図を貼付したもので、つながった屏風絵と違って一枚一枚完結なので、多彩な画題に活用できた。
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友松の絵画は、必要以上の写実にこだわっているようにはあまり見えないが、動物の描き方には一種独特のリアリティがある。これは、MIHO MUSEUM 所蔵になる「野馬図屏風」。白い馬と黒い馬なのだろうが、白馬だけからだの輪郭線 (ひょいひょいと描いたように見える) を使っているのが面白い。
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こちらはまたユニークな、「牧牛図屏風」。ここに採り上げた 3頭はそれぞれに毛の描き方が異なっていて、特に右側の奴は非常に丁寧な描き方となっている。集団のボスだろうか。
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さて、この先は友松 70歳のときの、ある重要な出会い以降の作品である。友松芸術の最後の輝きは、実に特別なものになるのである。1602年、細川幽斎らの推挙によって友松は、八条宮智仁親王のもとに出入りするようになったのだ。この智仁親王の名前は、「ともひとしんのう」ではなく「としひとしんのう」と読むのだが、私は正直なところ、よくその読み方を忘れて困っているのである。というのもこの親王、日本文化史において極めて大きな貢献をした人で、その名を口にする必要がたまに生じるからだ。そう、桂離宮の造営だ。このブログでも桂離宮に関しては、京都についての書物やブルーノ・タウトの建築に関係して、何度か言及しているが、同時代に造営された日光東照宮との対照も鮮やかな、シンプルなデザインによる鮮烈な感性を感じさせる特別な場所である。そうすると、もしかして桂離宮にも友松の作品があるのかと思って調べたところ、同離宮の造営は 1620年からで、友松の死後。だが、この展覧会に並んだ友松晩年の作の数々を見ていると、親王の感性に友松の作品が影響しているのでは、と思われてくる。これまでの水墨画中心の世界から、70歳にして金碧の色彩の世界に足を踏み入れた友松だが、相変わらずその作品の格は非常に高い。これは滋賀県立琵琶湖文化館所蔵の「檜図屏風」。色彩もさることながら、この丁寧な葉の描き方も、友松としては特別に手が込んでいるのでは。
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これは御物の「浜松図屏風」。やまと絵風だが、波を様式化している一方、松の緑が活き活きとしていて、その対照が面白い。
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これも御物で、「網干図屏風」。実物を前に「うぅーん」と唸ってしまった逸品だ。本来生活感があるはずの干し網の曲線と、これまた様式的な鋭い芦の直線の組み合わせが、現実世界を超えたスタイリッシュな世界をそこに現出している。
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次は、京都の名刹妙心寺に残る友松晩年の傑作、重要文化財の見事な屏風絵、「花卉 (かき) 図屏風」である。老境に至ってなお、この異様な生命力のある作品を制作できた友松とは、大変な人であったことが分かる。これらを見ていると、遥か後世の速水御舟まで思い出されてくるではないか。
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展覧会はここで照明を落とした部屋に入り、そこには 5匹の龍が薄暗い中に浮かび上がっている。上の建仁寺障壁画でも見た通り、友松の龍は凄まじい迫力だが、かならずどこかにユーモラスな部分もある。北野天満宮所蔵の重要文化財、六曲一双の「雲龍図」はその好例であろう。
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さて展覧会はそれから、気楽な手すさびといった押絵貼屏風の作品が並んでいて、これらも大変微笑ましいのだが、最後の部屋に至って人々は、「ほぉ~」と感嘆の声を上げる。そこに展示されていたのは、米国ミズーリ州カンザスシティにあるネルソン・アトキンズ美術館所蔵の「月下渓流図屏風」である。1958年に同美術館の所有となってから約 60年、今回が初めての里帰りであった由。友松最晩年の作と認定されている。
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これは、静かな春の川の夜明けを描いているわけであるが、その柔らかなタッチは、幽玄境に遊ぶかのようである。かつ大変素晴らしいのは、ほとんどモノトーンの色調の中、地面に生える土筆や、木の枝だけが控えめに色を施されていること。現代の写真家が、モノクロで撮影して、例えば花だけに鮮やかな色をつけてスタイリッシュに仕上げるパターンと似ているが、光学的な細工がいくらでもできる現代と異なり、ただ目に見える実際の世界しか見ることができなかった江戸時代の画家が、一体いかなる感性でパートカラーという発想を考え付いたものか。この作品は、淡い色調で枯れた味わいであるだけに、細部に宿る友松の視覚の冒険に、何か空恐ろしくなるような気がした。

ここでご紹介できたのはごく一部の作品だけであり、しかもその一部分の写真を掲載しているケースが多いので、実物を前にしたときの感動をお伝えするには限度があると思う。だが、海北友松という優れた画家がいたということを、今改めてここで認識して頂けるようなことがあれば、私としては、無理して京都まで弾丸往復した甲斐があるというもの (笑)。日本の美術史は本当に豊かで奥深いものなのであります。

by yokohama7474 | 2017-05-27 01:32 | 美術・旅行 | Comments(4)