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東京 大田区 池上本門寺 松濤園特別公開ほか

東京都大田区。羽田空港もあれば職人さんが働く蒲田の工場もあるかと思うと田園調布もあり、幾多の文士たちが暮らした馬込もある、まだら模様の不思議な場所だ。そんな大田区の中にはあれこれパワースポットがあるが、中でも指折りの場所が、池上本門寺だ。この寺は、鎌倉時代の超カリスマ、日蓮上人が、暮らしていた身延山から下山し、常盤国に湯治に向かう途中に立ち寄り、その地で死を迎えた場所なのである。都内有数の霊験あらたかな寺院として知られる。この本門寺には、通常は公開していない素晴らしい庭園があるのだ。その名は松濤園。毎年 9月に数日だけ公開される。今年は 9/10 (木) から 9/14 (月) の 5日間。そのうち激しい台風に見舞われた日が 2日あるので、実質的には貴重な 3日間の一般公開だ。
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この庭園は、本門寺の旧本坊の庭園として、あの名高い武士であり作庭家でもあった小堀 遠州 (1579 - 1647) が設計した四千坪の敷地を持つ回遊式庭園である。起伏のある地形を活用し、あたかも深山幽谷のような雰囲気を作り出している。実は我が家は、2009年に海外から帰国した際、池上地区に居を構え、この松濤園の存在を知ったのである。しかしながら、それ以来、転居を経て、今日までこの庭園の一般公開を見ることが叶わなかった。いや、何か特別な事情があるわけではなく、ただ単に毎年ぼぅっとしているうちにいつの間にか公開期間が終わってしまっていただけだ (笑)。そんなわけで、今年は気合を入れてでかけて行ったのである。

朝10時から公開ということであったが、「長蛇の列になるらしい」という家人の情報により、9時半には現地に到着、あたかも大量破壊兵器を求めてイラクに入るアメリカ軍のように、ズンズンと足を踏み鳴らして受付に向かった。あ、あれ? 誰もいないじゃないの。ちょっと早すぎたか、係の人と坊さんが談笑している。油断すまじと、あたりを睥睨する鷹のように競合相手を確認すると、おっと、シニア世代の方々が三々五々集まってくるではないか。先を越されてなるものかと警戒していると、なぜだかサティ作曲のジムノペディ第 1番のオーケストラ版 (当然ドビュッシーの編曲だ) が BGM として流れ始める。この緊張した雰囲気には不似合いだ。と、気が付くと椅子に座ったままついウトウトしてしまっている。おっといかんいかん、ちゃんと目を開いていなければ。と自分を鼓舞するうちに10時きっかりになり、坊さんが挨拶している。これから受付を開始するが、各グループの代表一名が住所氏名を記入せよとのこと。よし、いざ出陣。・・・と、私が腰を上げたその瞬間、一陣の風のように隣を何者かが通り過ぎる。すわ、何やつ、と思うと、これはしたり、わが家人ではないか。私が立ち上がった瞬間には既に受付の机に到達しており、驚いてしまった。もしかして周りのシニアの方々を蹴飛ばしての狼藉ではないかと心配したが、どうやらそういうことではなかったらしい。早っ。

さて、念願叶って松濤園に入ると、なんと素晴らしい。天気がよく、深い緑が目に眩しい。池の真ん中には、作り物と紛うばかりのトキが 1羽留まっていて、「早く写真を撮りなさいよ」と言っているかのようだ。
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もみじが多く、秋の景色もさぞやと思われる。また、小高い丘を登って行くと、そこには豪快な石組が。
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この庭園の中には、松月亭なるあずまやと、浄庵、鈍庵、根庵といった茶室が点在している。そのうち松月亭では、精進アイスなるものが食べられるという。通常の抹茶やいちごや小倉以外に、豆腐やほうじ茶やしょうが等々の種類がある。とりあえず、抹茶と豆腐を選択。ししおどしが風流な音を立てる中、なかなか美味な味わいでしたよ。
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なぜこれが精進アイスと名付けられているかというと、牛乳ではなく豆乳を使っているからだという。なるほど、動物性タンパク質ではなく、植物性だ。・・・だが、帰宅して気づいたことには、そもそも通常のアイスで牛乳を使っていても、それは絞った乳であって、殺生はしていない。なので、「精進」と名乗るのは少々大げさではないか。ま、うまかったからどうでもよいのだが (笑)。

実はこの松濤園、ひとつの歴史的事件の舞台となっている。時は慶応 4年 (1868年) 3月12日、新政府軍が江戸の街に総攻撃をかける一歩手前で、幕府方の代表であった勝 海舟が、当時政府軍の本陣が置かれていたこの池上本門寺に、総大将である西郷 隆盛を訪問した。世に言う江戸無血開城に向けた勝・西郷会談である。勝と西郷は、翌 3月13日には高輪の薩摩下屋敷で、14日には田町蔵屋敷で会談を重ね、遂に江戸の街を焦土と化すことなく、時代の転換を成し遂げたわけである。その一連の会話の最初のものが、ここ松濤園のあずまやにて行われたわけで、大変重要な場所だ。残念ながら当時の建物はすべて戦災で焼失しており、今となってはこのような碑が立つのみ。だが、歴史の重みは充分に感じることができる。
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また、そのそばに、明治初期の日本画家、橋本 雅邦 (1835 - 1908) の筆塚がある。橋本は日蓮宗の宗徒であったらしい。
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このように松濤園は、歴史の息吹溢れる名園であるのだ。年に数日しか公開しないのがもったいない。数年越しの念願叶って大満足。

さて、せっかく久しぶりに本門寺に来たので、境内を散策してみよう。重要文化財の五重塔。1608年の造営で、戦争を生き残った貴重な建物だ。きっとそうだと思って調べてみると、やはり東京で現存する最古の建物だ!! 朱色も眩しく、しゅっと立った姿が美しい。
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そしてこの五重塔の周りは墓地になっているのだが、明らかに江戸時代のものと分かる墓が沢山ある。前田 利家の側室とか、加藤 清正の正室とか、あとは、区切られた一区画に並ぶ松平家の立派な墓の数々が目に付く。この墓地で一般に有名な墓は 3つある。まず、幸田 露伴夫妻。
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それから、力道山。この石碑の揮毫は、あの児玉 誉士夫であり、彫像の発起人は、梶原 一騎、初代タイガーマスク、それから北野 武ほか。
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そして、江戸時代初期の画家、幕府の御用絵師の狩野 探幽。瓢箪形にはどういう意味があるのだろうか。
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とこのように見てくると、およそ共通点のないお 3方だが (笑)、時代とジャンルを超えて、きっとあの世で酒を酌み交わしているのではないか。

さて、もうひとつ、本門寺の重要文化財をご紹介しよう。多宝塔。日蓮の遺体を荼毘に付した場所を記念するため、1828年に建てられたもの。数年前に解体修理され、鮮やかな色彩が甦るとともに、重要文化財の指定を受けた。実はそのとき、修理の現場に入れてもらって、間近で補修作業を見たことがある。なんとも鮮やかで立派な建物だ。建物自体が蓮弁の上に乗っているのも珍しい。
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さて、結構高低差のある境内を歩き回り、少し空腹を覚えた。そこで、駐車場の隣にある食堂で昼食を取ることに。写真は、本門寺そば 1,200円。いろいろ盛りだくさんの具が入ってこのお値段は嬉しい。
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さらに、屋外で焼いている、ぬれ煎餅。うーん、なんとも香ばしい。ただ、気を付けないとタレがポタポタ垂れてしまう。あ、垂れるからタレっていうのか (笑)。
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実は大田区には、ほかにも見どころが沢山ある。また機会あればいろいろとご紹介することとしたい。都内在住の方には、安・近・短の旅としてお奨めです。因みに東急池上線は、たったの 3両編成の、まるで田舎のローカル線で、沿線の商店街も、見事に昭和な雰囲気。これが都内に存在するとは、おそるべし、大田区。
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by yokohama7474 | 2015-09-13 01:14 | 美術・旅行 | Comments(0)

藤田美術館の至宝 国宝 曜変天目茶碗と日本の美 サントリー美術館

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六本木の東京ミッドタウンにあるサントリー美術館で開催中のこの展覧会のユニークな点は、あるひとつの美術館の所蔵品ばかりからなる展示が、ほかの美術館でなされていることである。海外の美術館の場合、例えば建物が修復されている間にこのような「引っ越し興行」が日本で行われるケースはあるものの、国内同士でのこのような展覧会は珍しい。副題に、「名品ずらり。めっちゃええやん!」とある。えぇー、翻訳しますと、「めっちゃええやん」とは関西の方言で、「大変よいではないですか」の意味です。あ、翻訳必要ないか (笑)。では、次のポイントは、なぜここで関西弁が使われているかということだが、答えは簡単。今回展覧されている美術品はすべて、大阪にある藤田美術館から来ているからだ。
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ご存じの方も多いと思うが、この藤田美術館、藤田財閥の創設者、藤田 傳三郎 (1841 - 1912) のコレクションを中心として 1954年に開館した、東洋美術専門の美術館である。藤田財閥と言っても今となってはあまりイメージがなく、わずかに藤田観光だけが一般的に知名度があるくらいだが、明治初期から建設・土木、鉱山、電鉄、電力開発、金融、紡績等をてがけた関西有数の企業グループである。現在、藤田の大阪本邸 (藤田美術館の正面) は結婚式場の太閤園、東京別邸は椿山荘、箱根別邸は箱根小涌園、京都別邸はホテルフジタ京都になっていると言えば、その往年の規模について少しはイメージが沸こうというものだ。そしてこの美術館、なによりもそのコレクションの質の高さでつとに名高い。なにしろ、国宝 9点、重要文化財 51点を含む数千点を所有していて、個人のコレクションとしては日本有数だ。そして何より名高いのは、曜変天目茶碗!!
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曜変天目茶碗について知識のない人でも、この尋常ならぬ鮮やかで深い青に魅せられない人はいないだろう。まさに宇宙を写し出しているような究極の美がここにある。曜変とは、見る角度によって色彩が様々に変わることをいい、天目茶碗というのは、鉄分を含んだ釉薬を使った中国伝来の茶碗のこと。世の中に天目茶碗は数々あれど、「曜変」と称されるものは、世界にたった 3点しかない (この藤田美術館と、静嘉堂美術館、そして大徳寺龍光院の所蔵)。正確にはもう 1つ、曜変天目と呼んでもよいか否か議論があるものがあるが、写真で見る限り、その茶碗 (MIHO Museum 所蔵) は美しい光沢はあるものの、少し渋めの色をしている。議論の余地なく曜変と呼ばれているものはすべて国宝、議論のあるものは重要文化財に指定されている。

私はこれまで藤田美術館には、3度か 4度訪れており、そこで過去にこの曜変天目茶碗を確か 2度見ている。つい昨年の秋、創立 60周年記念で展示されたときにも見たばかりだ。それでも、今回東京で見ることができるとなると、当然足を運ばすにはいられない。申し遅れたが、この藤田美術館、年に春と秋の限られた期間しか開館しておらず、その時々で膨大な所蔵品の一部が公開されるというシステムだ。因みに、もうひとつの曜変天目茶碗を所蔵する静嘉堂美術館 (三菱のコレクション) も同様の形態を取っており、私はそこでも曜変天目を見たことがある。唯一、大徳寺龍光院だけが (ここはこの茶碗以外にも国宝建造物が幾つかあるのだが) 拝観拒絶の寺となっており、私の知る限り、門戸を開いたことはないようだ。

さて、この藤田美術館、数々の名品を所蔵しているにもかかわらず、なんとも残念なことがある。それは展示施設だ。このあたりは戦争の被害も大きく、藤田の屋敷の中で焼け残った蔵を展示場にしているという。中に入ってみると、そこは明らかに蔵そのもので、開館から 60年を経て、木製の展示ケースは古びてガラスもくたびれた感じであり、照明も、気の利かない昔の蛍光灯だ。格子のはまった窓は開け放たれ、そこを自然の風が通って、空調はあるのかないのか分からない。外の天気がよければ薄暗いというほどではないにせよ、最新の美術館の凝った展示方法や LED 照明に比べると、正直言ってなんとも残念な展示空間であることは否めない。図録に載っている藤田美術館の内部の様子は以下の通り。
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それゆえ、今回のような初の「出張展示」には大きな意義があろう (尚、東京展のあとは、10月6日から11月23日まで、福岡市美術館に巡回)。なにせ、日本有数のイケてるビル、東京ミッドタウンにある、最新設備を備えた美術館である。実際、この曜変天目をはじめ、数々の名品の、活き活きと輝いて見えたこと。展示方法はまさに美術品の真価に関わる問題だ。例えば曜変天目茶碗は、すだれ状のもので他から隔てられた暗い空間に、鮮やかな照明によって浮かび上がるように展示されていた。観客はその場所に足を踏み入れる瞬間、ワクワクした期待を抱き、超一級の美術品との対峙にふさわしい環境に浸ることができるのだ。これは誠に貴重な機会であると言わねばならない。

会場では多くの国宝・重要文化財を見たが、今図録で数えてみると、この美術館の所蔵する国宝 9点はすべて展示されている!! 重要文化財は 30点だ。まさに藤田美術館の名品勢揃い。これは東洋美術ファンには必見の展覧会といえよう。ほかの展示品をいくつかご紹介する。鎌倉時代の名仏師、快慶作の地蔵菩薩立像。快慶には同様の美麗な地蔵や阿弥陀が多くあるが、いかにも快慶らしい端正な作りである。重要文化財。この像も、ガラスケースには入っているものの、照明にくっきりと浮かび上がり、前から横から後ろから、じっくりと鑑賞することができて嬉しい。
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これは、室町時代の春日厨子。藤原氏の氏神である奈良、春日大社の情景を描いた春日曼荼羅を立体表現したもの。今でも奈良のシンボルである鹿が、神の使いとして鏡を頭に乗せる、ユニークな造形。
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工芸品の国宝から、仏功徳蒔絵経箱 (ぶつくどくまきえきょうばこ)。平安時代、11世紀のもので、木製、漆塗の蒔絵である。お経を収める箱であるが、極めて薄手の木でできているにもかかわらず、法華経に取材した絵がよく残っている。こういうものを見ると日本人の器用さと、また、尊いものを守ろうという思いを実感することができる。
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国宝、紫式部日記絵詞。同時代のものではなく、鎌倉時代に描かれたものだが、優雅な王朝文化を美しく描いている。
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そうそう。先日、幽霊画についての記事で、応挙のオーキョドックス、いや、オーソドックスな幽霊画を紹介し、私としては、応挙よりも弟子の長澤 蘆雪 (1754 - 1799) の方が好みであると書いたばかりだが、なんとなんと、それを企画者が知っていたかのように、この展覧会に面白い作品が。これはその蘆雪が描いた三幅画であるが、真ん中がまさに応挙スタイルの幽霊、左が狐の妖怪、白蔵主 (はくぞうす)、右がどくろと戯れる子犬である。これ、よく見ると、いずれも絵から抜け出てきたように描いた、いわゆるだまし絵の一種だ。ここにあふれるユーモアの感覚、どうですか。幽霊のみならず、右側の犬も応挙風だが、その発想たるや、全く独自のユーモアを持っており、あたかも蘆雪が、師匠をからかっているような雰囲気ではないか。
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と、美しいものや珍しいもの、貴重なもの、いろいろあって、確かに「めっちゃええやん!」と叫びたくなる展覧会である。茶道具なども沢山展示されていたが、最後にひとつ、面白いものをご紹介しよう。これは、中国、明から清の時代 (17世紀) のものと思われる、交趾大亀香合 (こうちおおがめこうごう) である。香合とは、茶道具の一種で、香を入れるもの。
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交趾とはヴェトナム北部のこと。愛嬌のある亀の形をしているが、盆が付属しており、その裏に千利休の花押がある。この香合は幕末の番付で東の大関として載り、高い人気があった。藤田傅三郎は長い間この香炉に憧れを抱き、明治 45年、亡くなる直前に念願叶ってこれを入手したという。これが番付。右側最上段右端に、「交趾大亀」とあるのが見える。
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藤田のコレクションには、ただ金にあかせて買い漁ったということではない、美術品への愛情が見えるような気がする。明治の近代化の過程で、廃仏毀釈や旧家の没落などが起こり、多くの名品が海外に流出したが、藤田はそれを憂えて、国内にまとまった規模で美術品が留まるよう、コレクションを決意したとも伝わっている。もちろん、金がなくてはできないことではあるし、金のある人がその金をどう使おうと自由だが、やはり自国の文化を守るという姿勢があったからこそ、後世の人々の心を動かすようなめっちゃええコレクションが形成されたということであろう。価値観も多様化し、このようなことは今後なかなか起きないだろうし、現代の億万長者はまた別の文化貢献の形態があるとも思うが、この藤田の名を冠したコレクションが、末永くその価値にふさわしい扱いを受けるよう、願ってやまない。

by yokohama7474 | 2015-09-12 00:24 | 美術・旅行 | Comments(0)

クレオパトラとエジプトの王妃展 東京国立博物館

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日本でエジプトの展覧会を開くと、魔法のように人が集まるという。確かに、物心ついて、中学生のときに東京国立博物館で見た大エジプト展は、大変な混雑ぶりと、金色の分厚いハードカバーの図録だけ覚えていて、中身はさっぱり覚えておりません (笑)。その後も何度かその種の展覧会に足を運んだが、古代エジプトの神髄が、あの巨大建築にある以上、所詮は外国に持って来られるだけの内容で、血沸き肉躍るという内容にはなかなかなりようがなく、それならば大英博物館のエジプトコーナーをふらついた方がましかもしれない。

大変残念ながら、50 にもなって、未だエジプトに行ったことがない。いや、正確には、カイロに出張で訪れたことは 1度だけあって、午前 2時頃に到着し、同じ日の午前 11時頃には面談を済ませて同地を離れるという強行スケジュールであったため、文字通り空港とホテルの往復だけだった。覚えているのは、せっかく両替したエジプト・ポンドを空港の免税店で使おうと思ったら、「ここではそんなマイナーな通貨は使えない」と断られたことだ。おいおい、空港が国際的な企業の経営になるのは分かるけど、現地通貨くらい使わせて下さいよ・・・(笑)。

古代にあれだけの文明を築いたエジプトも、ここ長らく政治的には安定せず、一時期までは本当に観光客の安全も確保されにくい状況だったはず。最近はどうなのだろうか。スフィンクスが世界 3大ガッカリのひとつだとしても、やはり実際に見てからガッカリしたいものだ。
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無駄口はそのくらいにして、この展覧会についての記述に入ろう。題名が示す通り、クレオパトラをはじめとする古代エジプトの王妃または女王にスポットを当てた、若干毛色の変わった展覧会である。NHK BS で特集番組を組んでいたこともあってか、場内はかなりの混雑であった。古代エジプト学は最近でも進歩を続けているようで、最新の発見が様々なことを明らかにしているらしい。また、日本の調査団もかなり活躍している模様だ。この展覧会のひとつの主眼は、ほかの古代文明と異なりエジプトでは、王妃や女王がかなりの権限を持っていたことを示すことにある。

新王国時代、第 18王朝のハトシェプスト女王 (在位 B.C.1479頃 - B.C.1458頃) は、実際にファラオとして君臨した。父はトトメス 1世、夫はトトメス 2世。義理の息子トトメス 3世を差し置いて王座につき、その後トトメス 3世に追いやられたと見られている。注意を引くのは、彼女が男装していたということだ。今回の展覧会には来ていないが、こんな、体を褐色に塗ってひげをはやした彫像が残っている。
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また、この有名なハトシェプスト葬祭殿を築いたことでも知られる。あ、同様に今回の展覧会には来ていません (当たり前だって 笑)。
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また、ティイという王妃がいる。彼女はあのツタンカーメンの祖母にあたり、アメンホテプ 3世 (在位 B.C.1386年? - 1349年?) の妃だ。息子のアメンポテプ 4世が宗教改革を起こし、太陽神アテンを崇める世界初の一神教を信奉し、それまでのテーベからアマルナに首都を遷都した。つまりこのティイの生きた時代は、大きな動きが起こっていたわけである。興味深いのは、このミイラの DNA 鑑定で、息子アメンホテプ 4世及び、孫であるツタンカーメンとの比較の結果、ティイに間違いないという結果が最近出ているとのこと。髪もあれば、未だに 3,500年前の表情が残っている点、実に驚異的だ。あ、すみません。このミイラも、展覧会には出品されていません。私が謝ることではないのだが。
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そして最後はクレオパトラだ。パスカルの「パンセ」で、「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら世界の歴史は変わっていた」と書かれているのは有名な話。だが、今回出展されているこの彫刻はどうだ。鼻の先が欠けているではないか!! これなら、世界の歴史を変える心配はないから、安心して見ていられる (笑)。どうせ適当にクレオパトラと称されているだけと思った方。心しなさい。制作年代はクレオパトラの治世と見られており、所蔵しているのはあのヴァチカン美術館なのですぞ。その信憑性を疑うとは、恐れ多い。
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NHK の番組によると、最近の研究、例えば同時代のコインの肖像などからクレオパトラが絶世の美女であったとは限らないという説が有力になっているらしい。彼女がローマの有力者を次々虜にしたのは、美貌よりもむしろ、その知性や語学力、またコミュニケーション能力によるものであったと考えられているとのこと。まあそれはきっとそうなのでしょうが、一応古代のロマンというものもありますからね。真実が分かるのが必ずしもよいとは限らないという考えも、一部はあってもよいのでは、と思ってしまう。尚、クレオパトラの君臨したアレクサンドリアの宮殿は、大昔の地震で海の底に沈んでしまったらしく、最近盛んに発掘されているし、数年間にパシフィコ横浜で、「海のエジプト展」という展覧会もあった。一応足を運んだが、ありえないくらいの大混雑で、最初から最後までイライラし通しであったことしか覚えていない。このような映像には心躍るものを感じるのだが。あ、これも今回の出品作ではありません。
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ところでお気づきになっただろうか。この記事、肝心の展覧会に飾られている作品をほとんど紹介していない。というのも、残念ながらワクワクドキドキできる展示品が、あまり多くないからだ。もちろん、ひとつひとつの展示品の中には、じっくり見れば興味尽きないものもいろいろある。だが、歴史のダイナミズムを感じるには、やはり現地の雰囲気を知りたいし、まさにこれはすごいというレヴェルのものをもっともっと見たいと思う。それってないものねだりなのだろうか・・・。

ところで、上野で美術館めぐりをするときに困るのは、昼食の場所なのである。各美術館にそれなりに食事できるところはあるものの、昼時は混雑して大変なのだ。そういう人に朗報だ。東京国立博物館の敷地内に、このような屋台 (?) 発見。そんなに混んでいないし、たこ焼きは結構いけましたぞ。これで上野の美術館めぐりも怖くない!!
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by yokohama7474 | 2015-09-05 23:31 | 美術・旅行 | Comments(0)

伝説の洋画家たち 二科100年展 東京都美術館

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二科会は昨年設立 100年を迎え、それを記念したこの展覧会が、東京、大阪、久留米で開催されることとなった。二科会の主催する二科展は、現在でも日展と並んで一般にも名前の知られた公募美術展であり、よく芸能人の作品が入選したとかで話題になっている。私自身は、何展がどうのということはあまり興味がなく、古い作品であれ新しい作品であれ、自分が面白いか否かという点でしか見ないのでお気楽なものだが、人のいるところ流派があり派閥があり対立があるわけで、政治家はもとより、医者だろうが弁護士だろうが学者だろうが、はたまた芸術家であっても多かれ少なかれ、少なくとも日本ではそのような集団との関わり方が常に問題になるということになっているようだ。

ともあれ、上のポスターに名前が並んでいるような画家たちは、二科会の会員であったか否かは (よしんば会長であったとしても)、今となってはあまり重要なことではなく、その作品を坦懐に見ることだけが唯一のアプローチの方法と言うしかないだろう。少なくともここで言えることは、まさにポスターの謳い文句は誇張でもなんでもなく、伝説的な画家たちの名前がズラリと並んでいて、少なくとも日本の洋画史を辿る上では、二科会について知識があろうがなかろうが、なんとも楽しい展覧会だ。過去 100年の出品作から、96人、132作品が展示されている。ざっと数えてみたところ、96人のうち、私の知っている名前はせいぜい 40人ほどであろうか。その意味では、新たな画家との出会いの場にもなったと言える。

以前、岸田 劉生 (本展でも彫刻を含めて 3作が出品されている) のでろり論について、日本画側からその類似性を考えたが、日本の初期の洋画には、どうしてもその、でろり感がついて回るように思う。今回も会場を歩きながらそのようなことを思っていたが、ふと目に飛び込んで来た作品の色彩の軽やかさにハッとしたのだ。
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これは、カジミエシュ・ジェレニェフスキというポーランド人画家 (1888 - 1931) の、「春」という作品。1920年の作で、東京藝術大学の所蔵となっている。実は二科展には早くから外国人の出品も時折あり、ピカソやマティスという大家の作品も出品された例がある。もっともそれらは、これら大家と知遇を得た二科会の会員が依頼して作品を送ってもらったという経緯によるものであり、彼らがわざわざ日本にやってきて出品したわけではない。それに引き替え、このジェレニェフスキは、1918年に来日し、有島 生馬、石井 柏亭らの勧誘により、1924年に二科会の会友に、1931年には会員となっている。もっとも、会員になった年は、彼が死去 (ナポリでの客死) した年なので、たまたま会員になった後に死去したのか、死去したから会員にされたのか、判然としない。ともあれ、今となっては無名なこの画家の持っている色彩の自然な明るさは、やはり日本の空気の中ではなかなか生まれて来ないものだと思うが、いかがだろうか。

ところが、実は日本の画家にも、ヨーロッパ人に負けない明るい色彩の持ち主がいた!! 坂本 繁二郎 (1882 - 1969) だ。本展では 4点が出展されている。有名な馬の絵も 1点あるが、ここでは牛の絵 (「海岸の牛」1914年 --- 100年以上前だ!) と、女性の肖像画 (「帽子を持てる女」1923年) を紹介しよう。ところでこの画家、作品の繊細さと、同郷同年生まれで名前の漢字も一文字共通している、青木 繁からの連想で、なんとなく早死にしたのかと思ってしまうが、85歳の天寿を全うしている。晩年の作品はよく知らないが、少なくともこれら若い頃の作品を見る限り、日本人離れした (嫌いな言葉だ・・・どの民族が描いたかなど関係なく、絵画として優れているという意味で、この言葉を使おう) 才能であると思う。
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日本人離れという意味では、佐伯 祐三 (1898 - 1928、よく知られているようにパリで客死) などもやはりそのように評価できるだろう。また、長谷川 利行 (1891 - 1940、最後は三河島の路上でのたれ死に) の感性も、アカデミズムとは無縁の生命力を持つ。このような画家たちも出展した二科会という公募展の広がりを実感することができる。以下、佐伯の「新聞屋」(1927) と、長谷川の「酒売り場」(同じく 1927)。
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また、画家の広がりという点で、これまた意外な 2人を紹介しておこう。このブログによくコメントをくれる旧友、杜の都さんに敬意を表して、藤田 嗣治の異色作、「町芸人」(1932、平野政吉美術財団蔵・・・戦争画に取り組む以前に既に繊細さをかなぐり捨てた作風に、一般的に流布した藤田のイメージとは異なるものを読み取ろう) と、杜の都さんがコメントで触れていた、松本 竣介の「画家の像」(1941、宮城県立美術館像・・・名古屋で見た「立てる像」と似ている面もありながら、色使いが違い、またこちらは家族と一緒である点に何か意味がありそうだ)。
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また、今回初めて知った画家もいろいろあったが、1点選ぶならこれだ。吉井 淳二 (1904 - 2004) の「舟をつくる」(1968)。鹿児島の画家で、この作品も名門ラ・サール学園の所蔵である。1989年に文化勲章を受けているので、今まで知らなかった私が無知なのだろう。この作品、あたかも天平彫刻のような確信に満ちたモデリングで、誇張することなく生命の力を巧まずして表現していて、素晴らしい。
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さて、最後にやはり、「お、こんなところで」と思わせてくれた、大御所の絵に触れておこう。ほかならぬ安井 曾太郎 (1888 - 1955) だ。「玉蟲先生像」(1934)。英文学者、玉蟲 一郎一 (たまむし いちろういち・・・なんという個性的な名前!!) の肖像である。なんだかほっとしますね。大御所が安泰でいて初めて、若手が暴れる素地ができるのだと、改めて思った次第。
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by yokohama7474 | 2015-09-05 12:03 | 美術・旅行 | Comments(4)

うらめしや~、冥途のみやげ展 東京藝術大学大学美術館 / 谷中全生庵 幽霊画コレクション

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酷暑の季節から一変して、鬱陶しい雨が続いて肌寒いかと思うと、気まぐれのように日差しが少し戻り、そしてまた雨へと移る最近の気候には、本当に気が滅入る。まあ既に 9月なので、炎暑の夏は過ぎているわけだが、何やらひんやりする怪談噺やホラー映画等、もう少し楽しみたかったような気がする。そんなわけで、この展覧会には早く出かけないといかんと思いつつ、ぎりぎり 8月の終わりの肌寒い日 (笑) に行くことになったので、ちょっと残念なことになってしまったが、やむなしとしよう。

題名で明らかな通り、これは幽霊画の展覧会である。既に多くの方がご存じであろう、初代三遊亭圓朝 (1839 - 1900) が収集した幽霊画コレクションが東京・谷中の全生庵というお寺に所蔵されていて、これはその圓朝コレクションを中心とした展覧会である。もともとは 2011年の夏に開催予定であったところ、東日本大震災の発生によって延期となり、ようやく今年開催の運びとなったものだという。さしもの幽霊たちも、現実に起こった悲惨な大規模天災の前に、出番を差し控える必要があったわけである。幽霊が人を怖がらせるには、人間の側にもある一定の平安がないといけないのだろう。

さて、初代三遊亭圓朝は、幕末から明治にかけて活躍した落語家であるが、ちょうど彼の活躍した時代は、社会の急激な変化の中で、人々の価値観も大きな変化を余儀なくされた頃。言文一致運動で知られる二葉亭四迷が「浮草」を書く際に、圓朝の落語を参照にしたというから、まさに現代の日本語の基礎を作った人ということになる。もっとも、その圓朝が昨今の若者の日本語を聞いても、同じ言葉とは分からないかもしれないが (笑)。これは、鏑木 清方描くところの圓朝像 (国立近代美術館所蔵)。重要文化財指定で、今回の展覧会の図録に載っているが、私が行ったときには展示されていなかった。明治のプロフェッショナルの頑固さと品格をうまく表現した素晴らしい作品ではないか。今回の展覧会には、圓朝愛用の湯呑やパイプ、湯タンポ等も展示されており、かつて生きた名人の息吹を感じることができて興味深い。
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圓朝は人情噺と怪談噺を得意にしており、この幽霊画コレクションは、後者の百物語に因んで百幅の幽霊画を収集し始めたものとかつては言われていたらしい。ところが、実際にコレクションとして残っている 50作品の中には、圓朝の死後加えられたものもあることが近年になって分かってきたとのこと。私が行ったこの日には、確か 24作品が展示されていた。幽霊画と言えば、足のない白装束のイメージがあり、それを最初に描いたのが円山 応挙であるというのが定説である。このパターンの絵が、圓朝コレクションにもある。
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私には応挙はどうも、優等生的な作品が多いイメージがあり、あまり好きな方ではないのだが (弟子の蘆雪の方が好みだ)、正直、幽霊画においても、これはあまりインパクトのある方ではない。圓朝コレクションには、本当に怖い絵が幾つかある。例えばこれなどどうだろう。伊藤 晴雨の「怪談乳房榎図」。凄まじい怨念が張りつめている。伊藤 晴雨は、いわゆる「責め絵」で知られる (いや、一般の人は知らないだろうが 笑) 画家で、随分以前に芸術新潮で特集していたのを興味深く読んだものだ。凄惨なのだが、どこかに人間味があるように思われる。分からない人もおいでかもしれないが・・・。
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あるいは、圓朝関連の本の表紙になっている、この「夫婦幽霊図」はどうだ。作者不詳だそうだが、お願いだからそんな目で見ないでよと言いたくなる怨念が描かれている。
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この展覧会では、この圓朝コレクションだけではなく、浮世絵に描かれた幽霊や、その他の幽霊画 (これには、落合芳幾や河鍋暁斎や月岡芳年のこわーい作品も含まれる) がまだまだ展示されており、見ているうちに段々寒ーくなってくる (クソっ、炎暑だったらなぁ・・・)。暁斎の幽霊画二点。おーこわ。センス抜群ですな。
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そんな中、珍しい展示物がある。これだ。
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このグロテスクな面は、落語家二代目 柳亭 左龍 (1859 - 1914) が「四谷怪談」上演時に実際に使用したものである由。この落語家はよほどお客を驚かす名人であったのか、恐ろしい場面で、この仮面をかぶった弟子を客席に出したらしい。これはビックリでしょう。高座の語り口にビクビクしていると、突然こんな顔のお化けが客席を徘徊すると、それは怖かったはず。客席からのヒーヒーいう悲鳴が聞こえるようだ。よく見るとあまり精巧にできていないのも、返って味わい深い。これらはいわば舞台の小道具で、使い捨てに近いものなので、よくぞまあ現在まで残ったものだ。早稲田演劇博物館の所蔵。

さて、美術館を出ようとすると、この圓朝ゆかりの寺、全生庵で幽霊画展が開かれているとの案内が。ここ芸大から谷中は目と鼻の先。随分以前に一度行ったことはあるが、久しぶりに行ってみるとするか。炎暑ではないことを残念だなどと言っていたものの、今となってはこの薄曇りが幸いして、歩いても行けるではないか。これぞ超自然の存在のお導きというものか。

さて全生庵に着いてみると、お、やってるやってる。幽霊画展。
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中に入って数えてみると、そこには 26点が。ということは、先に見た 24点と併せて、全 50点を鑑賞したこととなる。まあ縁起物ですからね、よかったよかった。邪悪な霊の絵を見ることが、逆に邪悪なものを祓ってくれるのではないか、と勝手な納得をし、全 50点を収めた画集を購入。今後落ち込んだらそれでも見て気勢を上げることにしよう。

本堂の裏には墓地が広がり、巨大な観音像が立っている。8月のギラギラした日差しが・・・映っていませんが、まあ、雨が降っているわけではなく、過ごしやすい天気ではありました。
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これが圓朝の墓。さほど大きくないが、先の肖像画を思わせる、きっちりした佇まいだ。
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そしてこの寺にはもうひとつ、偉人の墓所がある。幕末の三舟のひとり、山岡 鉄舟だ。と言いながら何をした人やら、恥ずかしながらあまり知らないので調べてみると、幕臣で、江戸無血開城の前に、駿府で西郷 隆盛と単独会見するなどの貢献があったらしい。維新後は静岡県や茨城県で要職にあり (前者においては清水 次郎長と懇意だったらしい)、また、明治天皇に侍従として仕えたとのこと。実はこの全生庵は、維新に殉じた人たちの菩提を弔うため、この鉄舟が建立したものである由。なるほど、寺にとっては開祖に当たるわけだ。通りでこのような立派な墓が残っているわけだ。
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幕末・明治の動乱で人心は疲弊したであろうが、近代に至って時が経つにつれ、都会は賑やかになって闇が減り、日常生活においても合理的な考え方が発展して行っただろう。その一方で、科学や近代文明では説明できない不思議な現象への興味や畏れが根強くあったことから、怪談噺や幽霊画が人気を博したものであろうか。それは、人間の営みがかたちを変えながらも、実は心理的要因には不変のものがあったということであろう。墓の下の圓朝は、自分のコレクションの幽霊画を見て怖がっている現代の人々に、「もっと怖がれ。それが人間であることの証だぞ」と諭しているのかもしれない。


by yokohama7474 | 2015-09-05 01:36 | 美術・旅行 | Comments(0)

上野公園 東照宮、清水観音堂、上野大仏、天海僧正毛髪塔、黒田記念館

上野公園。誰もが知る東京の名所だ。西郷さん、上野動物園・・・ええっと、それから???? 東京に住んでいる人でも、この場所の特殊性や見るべき場所を充分に知っている人はあまりいないと思う。先日、このエリアにある美術館を 3軒回ったので、追って記事をアップするが、その前にまず、上野公園について少し書いてみたい。その価値がある場所だからだ。

江戸幕府は風水を重んじて首都である江戸を設計した。その発想に基づくと、東北 (艮 = 丑寅 = うしとら) は鬼門の方角で、不吉であるため、何らかの守り神を置く必要があった。それゆえ、三代将軍家光の時代 (寛永年間) に、江戸城の鬼門の方角にあたるこの場所に、東叡山 寛永寺が設立された。寛永寺の江戸における格式は、増上寺と並んで極めて高く、その境内が現在の上野公園である。東叡山とは、東の比叡山ということ。比叡山は、言わずとしれた、伝教大師最澄が開いた天台宗の総本山で、寛永寺も天台宗なのである。なぜ天台宗なのか。それは、この寺を開いた僧、いや、江戸幕府の基礎を築くのに大きな貢献のあった僧、天海僧正が天台宗の僧侶であったからだ。
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この天海、1643年に 107歳で没したと言われているが、実際のところはその前半生は謎に包まれているらしい。それゆえ、ご存じの方も多いと思うが、あの本能寺の変で謀反により織田 信長を滅ぼした明智 光秀と同一人物であるという説も、かなり流布している。その前提は、本能寺の変の黒幕が家康であったということだ。それについてはいろいろ本も出ているし、ネットでも情報がいろいろあるので、ここでは省略する。ひとつ注意しなければならないのは、「天海」で検索すると、天海祐希が出て来てしまうことだ (笑)。

ともあれ、謎の僧、天海が開いた寛永寺は、幕末の動乱で焼失する。よく知られている通り、幕府側の彰義隊がここに立てこもり、明治新政府軍に壊滅させられた、いわゆる上野戦争だ。この戦争で討ち死にした彰義隊の若者たちは、政府に楯突いた逆賊であって、その死骸も長らく放置されていたという。今ではそのようなことを想像することも難しいが、上野の山の桜は、その死骸から養分を吸収して大きく育ったというふうに言われることもある。真偽のほどは定かではないものの、桜の花と死のイメージは日本人の感覚の中で不可分であるとも言える。梶井基次郎の「桜の樹の下には」が、その美学を端的に表している。

寛永寺境内が公園となったのは、上野戦争のわずか 5年後、1873年のこと。その後皇室の管理となり、1924年に東京市に払い下げられたため、正式名称は「上野恩賜公園」なのである。このような歴史を反映して、公園内には様々な歴史的建造物や遺跡が点在している。ただ、桜をはじめとして木々の緑が深く、見通しの悪いところが多いので、なかなかその全容がつかみにくいためだろう、そのような歴史的建造物が、その価値に比して、それほど知られていないのが残念だ。まず、是非お奨めしたいのが、上野東照宮だ。
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東照宮と言えば日光が有名だが、要するに家康を祀る神社はこの名前を持っているわけで、全国にはいろいろな東照宮がある。ここ上野東照宮に重要文化財の本殿があるのをご存じだろうか。恥ずかしながら、文化財マニアの私も数年前まで知らなかったので、あるとき行ってみたところ、修復中で見ることができなかった。最近修復が完了したと聞いていたため、今回、改めて行ってみることに。参道には全国の大名から寄進された大きな石灯篭がずらりと並んで壮観だ。
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ふと右を見上げると、これも重要文化財に指定されている五重塔が見える。今は上野動物園の域内に立っている。
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さて、いよいよ本殿に到着すると、なんともきらきらしい、素晴らしい建物ではないか!! 拝観料 500円を払って間近まで近づいてみる。内部は非公開であるものの、綺麗に修復された非常にカラフルな建物であり、彫刻もなかなかに凝っていて、しばし立ち去り難い印象を覚える。都心にこれだけの素晴らしい建物があることを、多くの人に知らしめたいものだ。
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もうひとつの重要文化財は清水観音堂だ。広重が浮世絵で描いた「月の松」が最近復元され、なかなかに見事な景色だ。
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それから、見逃してはならないのは、上野大仏だ。17世紀半ばに作られたが、度重なる災害によって、今や顔面のみとなってしまった。「これ以上落ちようがない」ということで、受験生が合格祈願に訪れるという。私も最初見たときには、ちょっと不気味な感じもしたが、今ではなんとも愛おしい思いを抱くようになった。現地には往年の全身のお姿の写真も展示されていて、何か心温まるものがある。
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さて、それ以外にもこまめに探せば面白い場所はいくつもあるが、是非ご紹介しておきたいのが、天海の遺髪を収めた石造の塔である。上野の森美術館の正面あたりにある。天海の波乱万丈の生涯を考えると、深い緑に囲まれたこの場所に、その霊力が未だに残っているような気がする。
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さて、美術館回りの前に、今年の 1月 2日にオープンしたばかりの、美術好きなら見逃せない場所をご紹介しよう。東京国立博物館の一部となっている (但し敷地は外で、東京芸大の方角に進んだ右側にある)、黒田記念館だ。この黒田とは、残念ながら (?) 黒田長政でも黒田官兵衛でもなく、明治を代表する洋画家で、「湖畔」や「読書」で知られる黒田清輝 (1866 - 1924) だ。この黒田記念館は、画家の遺言に基づき、美術の奨励事業に役立てるべく、1928年に建てられたもの。その組織は東京文化財研究所となり、近隣に移転したが、このレトロな黒田記念館は、岡田信一郎の設計になる貴重な建物として保存され、改修工事を経て、現在では黒田清輝の作品を展示している。この建築家、7月26日の記事でご紹介した通り、大阪、中之島の中央公会堂の基本的な設計をした人だ。調べてみると、既に取り壊された大阪高島屋や旧歌舞伎座、また、鳩山会館や、極め付けは重要文化財の明治生命ビルの設計者なのである。
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階段もこんなレトロな感じ。
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黒田清輝記念室は 2階にある。入口には、高村光太郎の手になる黒田の胸像があり、入ってみると、彼の作品と並んで、画家が使用したイーゼルなどが展示されている。
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展示されている作品はさほど多くないが、驚くほど美しい作品に出会うことができる。上の写真でも奥に見えている、「赤髪の少女」(1892) の存在感はどうだ!! 全く惚れ惚れとしてしまうほど美しい。西洋絵画でも、女性の後ろ姿を描いた作品は多いとは思えず、海外に門戸を開いた明治の日本の洋画家として西洋文明を貪欲に吸収するだけでなく、自らの個性を確立しようという姿勢が見える。原点は常に偉大なのだということを、改めて実感した。
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さて、黒田について調べてみると、なんと、福岡藩主黒田家の遠縁に当たるとのこと。なので、思い付きでその名を書いた長政や官兵衛の子孫筋にあたるわけで、しかも、貴族院議員にもなった立派な人らしい。大変お見それしました。画家というと、その多くは貧乏でハングリー精神に富み、激しい芸術活動の末にのたれ死ぬようなイメージがあるが、日本における西洋美術のごく初期にこれだけのレヴェルを達成した人が、そのような精神的なゆとりの中で生きていたと知って、その人生の充実ぶりを想像した。57歳で死去しているので、より長生きすれば、さらに新たな世界を創り出したのかもしれないが、それは言っても詮無いこと。せめて、このような新しく生まれ変わった施設で過去の芸術を堪能できることを喜ぼう。

by yokohama7474 | 2015-09-03 00:03 | 美術・旅行 | Comments(0)

松本 筑摩神社、若宮八幡社、弘法山古墳、松本市立考古学博物館、牛伏寺、牛伏川階段工、馬場家住宅、半地下工場跡、おまけ : 釈迦堂遺跡博物館

松本に来るたび、周囲をいろいろと観光して回っている。この場所は内陸であるにもかかわらず、古代から文明の栄えたところで、縄文時代の遺跡から古墳、古寺まで、興味深い場所が目白押しだ。

もちろん松本のシンボルは、国宝松本城。素晴らしい。
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ただ、今回は少し違った松本をご紹介しよう。この街の奥深さを実感できるはず。では、重要文化財のオンパレード。最初は、筑摩 (つかま) 神社。本殿は 1439年の建立。松本市内最古の建物である。現在は修復中で残念ながら見られないが、深い森の中にあるこの神社の佇まいには、思わず衿を正したくなる。この本殿、いわゆる戦前の旧国宝で、戦後重要文化財になったわけであるが、最近の評価でいきなり重要文化財になった建築物よりも、ずっと以前からその歴史的評価が高いということだ。ちなみに拝殿も 1610年の建立で、県宝に指定されている。
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これが拝殿。
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本殿は修復中だが、旧国宝との碑が立っている。
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この狛犬は明治のものらしいが、苔むして威厳がある。
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と、歴史に思いを馳せていると、こんな張り紙が。おいおい、こんなところでドローンを飛ばしている奴は誰だ!! それとも、まだ誰も飛ばしていないけれど、予防策として貼ってあるだけか???いきなり現代に呼び戻される (笑)。
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さて、気を取り直して、そこから 500m ほど南に進もう。住宅街の中に、もうひとつの重要文化財がある。若宮八幡社本殿だ。ごく小さいものだが、桃山時代の貴重な建築で、1670年に松本城の鎮守社を当地に移築したものと言われている。
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さて、ここから幹線道路に出ると、何やらこんもりとした丘が見える。これこそ、古代の昔からこの地の聖なる場所であったところ、弘法山古墳だ。この名前はもちろん弘法大師に因んだものだろうから、この地にも弘法伝説があるものと見える。
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ここは桜の名所らしく、こんな道を通って行くことになる。桜の頃はさぞや見事だろう。
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おっと、行く手に小高い場所に続く階段が見えてきた。あの先に一体何があるのか。ワクワクする情景だ。
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そして、急にどぉーっと開ける視界。この場所は 1974年に発掘調査が行われ、全長 66m の前方後円墳であることが分かった。被葬者は不明であり、年代にも諸説あるが、ことによると、なんと 3世紀にまで遡る可能性あるとのこと。それにしてもこの展望、素晴らしい。
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実はここには前にも一度来ていて、その時は一点の曇りもない晴天だったので、本当に素晴らしい高揚感を覚えた。古代の王も、この丘から日本アルプスを見晴らしたものであろうか。ふと、この丘自体が人工のものであったらどうしようという妄想にとらわれる。まさかそんなことはないだろうが、それにしてもこの眺めは何か特別なものだ。この内陸部に君臨した王とは、一体どのような人物なのか。ここからほど近い松本市立考古学博物館には、この地域の縄文遺跡やほかの古墳からの出土品と並んで、この弘法山古墳からの出土品も展示されている。発掘調査当時の興奮を伝える新聞記事もある。「信濃の王者、何を秘める」なんて、ロマンがあるなぁ。なにやらワクワク感がずっと続いているのである。
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ところで、このような装身具や鑑が出土しているのに、遺骨はなかったそうだ。もしお宝目当てで盗掘したなら、遺骨には目もくれず、鏡やガラス玉こそ持って行くだろう。なぜに遺骨を持ち去ったのか、大変に興味がある。英雄の骨に神通力があるという伝承でもあったのだろうか。

さて、さらに山に入って行こう。古代からこの地で深い信仰を集めてきた、牛伏寺 (ごふくじ) だ。実に、聖徳太子の創建と伝わるが、このユニークな名前にはユニークな謂れがあるのだ。唐の玄宗皇帝が妻楊貴妃の菩提を弔うため、使いが大般若経を積んで善光寺に向かう途中、この地で牛が伏してしまったという。その際に寺は牛伏寺と名前を変えたとのこと。なんとスケールのデカいこと (笑)。鬱蒼とした山の中、オゾンを胸いっぱいに吸うと、何か神秘的なことが起こりそうな気がしてくるから不思議だ。
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境内も、なんとも言えない清々しさ。石段の下に 2頭の牛の像があり、皆が撫ぜるのであろう、テカテカしている。
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さてこの寺には、貴重な仏像が何体も伝わっている。重要文化財だけで 7体。宝物館で拝見するそのお姿は極めて古様で、平安時代まで遡るであろう。すなわちこの地は、縄文、弥生から古墳時代、さらにそれ以降も、人が生活して信仰を守り続けた、文化豊かな土地なのである。尚、本尊十一面観音 (重要文化財) は秘仏なのであるが、飾ってあった写真を見ると、奈良・法華寺の十一面観音との共通性が気になった。法華寺像の極度の洗練には劣るものの、なかなかの雄作である。確か 2年後に開扉と書いてあったはず。是非見にきたいものだ。
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本堂にあたるのだろうか、大悲閣は、堂々たる建物だが、しめ縄がしてあるあたり、神仏混淆の名残が見受けられる。実際、このような山の中では、自然に対する畏敬の念が生まれ、それは神とも仏ともつかないという感覚が、日本人にあるのである。掛けられた絵馬には、江戸時代のものも見受けられ、人々の信仰が脈々と続いていることが分かる。

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さて、牛伏寺を後にして、さらに少し山の中に行くと、これまた大変ユニークな重要文化財を見ることができる。その名は、「牛伏川 (ごふくがわ) 階段工」。
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これは一体何か。実は寺の横に牛伏川という川が流れていて、数百年前から頻繁に氾濫を起こしていたらしい。それを、フランスの技術を使って段々を作り、治水に成功したというのがこの設備なのだ。これは近代の産業遺産というだけでなく、見た目がなんとも美しいのだ。周りの自然と溶け込んで、四季折々の姿を見せるらしい。豊かで清らかなこの水、それをコントロールする人間の技、その調和が実に素晴らしく、しばし立ち去り難い感動を覚える。重要文化財指定もむべなるかな。
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現地に飾られている、完成当時 (1918年の写真)。うーん、感動的だ。人間ってすごい。
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尚、この牛伏寺川、少し下ったところでダムになっている。この階段工を見たあとでは、これも何やら美しく見える。
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さて、次は日本の民家で重要文化財指定を受けているところを訪ねよう。馬場家住宅。1851年に主屋が建てられ、1859年に付随する建造物が建てられた。馬場家は、もともと甲州の武田の家臣であったが、武田氏滅亡後、この地に移って来たらしい。大変立派な佇まいだ。
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おっと、このポスターは何だ。「武井咲ちゃんも来たよ!」と書いてある。あ、これは、理系ミステリー作家、森 博嗣の「すべては F になる」のドラマ化だ。この作家の小説は幾つか読んでいて、この原作もなかなか面白かったが、へー、こんなところでロケしたわけですな。せっかく歴史に思いを馳せているのに、ちょっと気が散るなぁ (笑)。
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さて、まだもうひと踏ん張り。私がバイブルと崇める山川出版社の県別「歴史散歩」には、このような記述がある。2箇所から抜粋しよう。

QUOTE

金華山の北斜面の地下に、アジア・太平洋戦争末期に名古屋航空機製作所 (現、三菱重工株式会社) が、零式戦闘機を製造するために疎開工場として建設を進めた地下工場跡が未完成のまま残っている。工事は 1945 (昭和 20) 年 4月から敗戦までの 5ヵ月にわたって行われ、強制連行された朝鮮人や日本人が多く動員された。
・・・・・・
弘法山から東へ約 300m くだると、県道松本塩尻線にでる。すぐに右に分かれて中山霊園につうじる道の右斜面一体は、金華山地下の地下工場の延長として建設された半地下工場跡があり、朝鮮人と中国兵捕虜が工事に動員された。

UNQUOTE

実は、以前にもこの 2つの場所を探しに来たことがあった。日本が戦争末期にいよいよ追いやられて切羽詰まった状態で、それでも戦闘機を建造して戦いを続けようという悲痛な思いで切り拓いた場所。しかも、朝鮮人・中国人を多く動員したという、いわば歴史の暗部である。似たような話は、同じ長野県でも松代市に現存する大本営 (天皇を含めた国家の中心機能を、ここの洞窟に移転しようとしたもの) にもあって、そこは一般公開されているので、私も行ったことがある。その点、この松本の戦争遺跡は、そのような管理にはどうやらなっていないらしい。車で、上述の後者の中山地区のそれらしいところを徐行してジロジロ探してみたが、木が深すぎて埒が明かない。こんな情景だ。
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今回も万策尽きたかと思って天を仰いだが、ふと思い立ち、スマホで「松本 半地下工場」と検索したところ、なんと、以下のような松本市のホームページに辿り着いた。
http://www.city.matsumoto.nagano.jp/kurasi/tiiki/jinken/heiwa/sennsouiseki.html

これによると、上記の記述の前者、金華山近くに、里山辺地区に軍事工場の記念碑が立っているという。運転しながらスマホをかざし、散々細い道に迷い込んで試行錯誤しながらも、苦労してついに見つけました。これです。
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この辺り、今は何の変哲もない郊外 (とはいえ、松本市街地から車で 10分か 15分程度) であるが、歴史を考える上で非常に重要な遺跡が、人知れず埋もれていることが分かった。そのような忌まわしい戦争遺跡を、隠蔽することなくホームページで公開している松本市は、さすがに文教都市である。今回の松本訪問では、古代のロマンから始まり、最後は戦争遺跡にまで辿り着いたが、松本で音楽を聴こうという人なら、せっかくの機会に是非このような寄り道をしてみることをお奨めする。人生、寄り道から学ぶことがいかに多いことか。様々な人の営みがあるからこそ、その土地土地の持ち味が生きて、訪れる人を幸せにしたり、思慮深くしたりするのである。ただ座って音楽を聴いているだけでは分からないことが、このような場所に足を実際に運ぶことで、鮮明に見えてくるように思う。

さて、番外編として、都内から松本までドライブする際に通る中央高速に沿った場所にある、山梨県の釈迦堂サービスエリアから歩いて行ける博物館を紹介しよう。このサービスエリアは、縄文時代の遺跡の上にできているらしく、その遺跡からの出土品、実に 5,599点 (これを「約 5,600点」としない実直さが好ましい 笑) が重要文化財に指定されていて、下りのサービスエリアから少し高台に上ると、博物館で出土品の実物を見ることができるのだ。土器だけでなく、夥しい数の土偶も出土している。中央高速の途中で古代に思いを馳せるというのも、なかなかオツなものだと思いますよ!!
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by yokohama7474 | 2015-08-31 01:23 | 美術・旅行 | Comments(0)

画家たちと戦争展 彼らはいかにして生きぬいたのか 名古屋市美術館

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このブログの初期に、板橋区立美術館で開かれた、画家と戦争にまつわる展覧会をご紹介したが、今名古屋で開かれている同様趣旨の展覧会を覗くことができた。ここでは、戦争の時代を生きた洋画家、日本画家、版画家 14名を取り上げ、その作品の変遷を展望することがテーマとされている。対象となっている画家は以下の通り。なかなかのバラエティだ。
 横山 大観
 藤田 嗣治
 恩地 孝四郎
 北川 民次
 岡 鹿之助
 福沢 一郎
 北脇 昇
 福田 豊四郎
 吉原 治良
 宮本 三郎
 吉岡 堅二
 山口 薫
 香月 泰男
 松本 竣介
と書いていて気づいたが、横山大観と恩地孝四郎は、展示されていなかった。期間中展示替えでもあったのか。それとも展示室を見逃してしまったのだろうか。

全体を見返して思うことには、戦争と自身の創作活動の間に深い関連のある画家とそうでない人がいるということだ。特に、いわゆる戦意発揚のために政府からの委嘱で戦争画に手を染めた画家の場合は、ほかの作品の評価がどうであろうと、戦争画の評価に引きずられているケースがあることに改めて気づかされた。東京国立近代美術館には 153点の戦争画が保管されていて (戦後米軍が接収して、同美術館に無期限貸与されているらしい)、その存在は以前から知られているものの、全貌についてはなかなか知る機会がない。いずれは全作品の展示を期待したいところだ (もちろん、近隣諸国には、その意義について充分説明できるはずだ)。今回の展覧会には、その一部が展示されており、また、写真展示も一部あった。

戦争との関わりという点で特殊な位置にいるのは、藤田 嗣治だ。その繊細な白で、エコール・ド・パリの一員として世界的な名声を博し、今でも絶大な人気を誇るその彼が、実は最も多くの戦争画を描いているのだ。今回展示されている「シンガポール最後の日」。
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ちょっと分かりづらいかもしれないが、この絵に限らず藤田の戦争画は、他の画家にないほど生々しく複雑な構図を取っている。あの瀟洒な雰囲気をかなぐり捨て、血をもって描いているという風情である。藤田はこの戦争画のおかげで戦後は大きな非難を浴び、逃げるようにフランスに帰って、かの国に帰化したのである。ただ、私は以前から思うのであるが、藤田の戦争画に、戦争賛美の要素をどのように見つけるのか、理解に苦しむ。これを見た人は、絶対にこんなところに行って命を捨てたくないと思うのではないだろうか。

一方、藤田の友人で、同じくフランスで活躍していたが、戦争を機に日本に帰ってきた画家がいる。岡 鹿之助。ただこの人の場合は、日本に帰国した以上の戦争との関わりを持たなかった。その静謐な画風は、見る人の心に沁み渡り、ノスタルジックな気分にさせる。私の大好きな「雪の発電所」が展示されていた。
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次に、福沢 一郎を取り上げよう。日本におけるシュールレアリズムの先駆者であり大家だ。1930年作の「よき料理人」の、このしゃれた味わいはどうだろう。
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このシュールレアリズムほど戦争から遠いものはなく、福沢も戦時中は転向を余儀なくされたらしい。だが、戦後すぐ、1946年作の「世相群像」を見ると、焼け跡に生きる人間たちの姿を呵責なく描いているものの、少し崩れたシュールというイメージで、この画家の逞しい精神を垣間見ることができる。
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最後にもうひとり、ナイーヴな作風がよく知られる、松本 竣介を取り上げよう。冒頭に掲げたこの展覧会のポスターになっている自画像、「立てる像」は 1942年、戦時中の作だ。このとき画家は 30歳。何か放心したような表情をしながらも、軽く左の拳を握りしめ、しっかりと両足で地面に立っている。戦局の悪化に不安を抱きながらも、生きて行く意志を静かに見せているのであろうか。彼は横浜の風景を何度も描いていて、以前、この「立てる像」などを所有する神奈川県立近代美術館で開かれた展覧会でその抒情性に打たれた作品に再会した。これも戦時中、1944年頃に描かれた、「Y 市の橋」。Y 市とは横浜市のことだ。静謐な風景であるのに、前のめりになっている男の姿が見る者を不安にさせる絵だ。戦後の 1948年、弱冠 36歳で世を去るこの画家の、ドッペルゲンガーのようにも見える。
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この展覧会に展示されていた作品は、作風は様々あれど、どれひとつとして本当の意味での戦意発揚という要素を前面には出していなかったと思う。日本の場合、マスコミは徹底的に時代に左右されて煽動役となったが、芸術家たちは決して戦争賛美の風潮にはなびかなかったということではないか。平和な時代の我々は、そのことの意味をよく考えてみる必要があるだろう。


by yokohama7474 | 2015-08-26 00:15 | 美術・旅行 | Comments(4)

ドイツ、バンベルク 大聖堂、新宮殿等

昨日、誕生日ということで痛飲したのだが、実質的には今回の旅行で出かけることができる最終日に当たったため、二日酔いをおして、頑張ってバンベルクに行って来た。バイロイトからだと、地図で見るとニュルンベルクよりも近そうだが、こちらの方が時間がかかったように思う。いずれにせよ、列車で所用 70分程度と、お手軽なエクスカーションだ。

今回は、バンベルク滞在が 3時間程度と短かったこともあり、街を見つくしたわけではないので、あまり無駄口を叩かずに、この世界遺産都市の風景や文化遺産の写真をお楽しみ頂きたいと思う。

このバンベルクという街、音楽愛好家にとってはもちろん、ドイツの素朴な味わいを残す名オーケストラ、バンベルク交響楽団でおなじみだ。もともとチェコからドイツに逃れた音楽家が結成したオーケストラだ。やはり土地柄として、チェコとの国境から近いということは、自然環境もチェコと似通ったところもあるのかもしれない。戦災に遭っていないらしく、中世の雰囲気を色濃く残した大変美しい街だ。歴史的には、領主司教と呼ばれる、いわゆる司教を君主とする制度を取り、実際にこの街には司教が君臨したが、街の基礎を築いたのは 11世紀初頭の神聖ローマ皇帝、ハインリヒ 2世だ。

駅から歩くこと 10分程度。レグニッツ川の豊かな流れに驚かされる。そこに立ち並ぶ家々。
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16世紀に建造された旧市庁舎が立っているが、なんと川の中州にあるのだ。これはちょっと見たことないですな。
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このあたりからあちこちに古い家が立ち並ぶ小道が伸びる。この家なんて、やはり 400-500年くらい経っていそうだけども、そこに雑貨屋さんが入っているのも、なんともオシャレ。
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石畳の道が少しずつ上りとなって、ついに大聖堂及び、新宮殿 (ノイエ・レジデンツ) の前に出る。
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まずは大聖堂に入ってみる。街の基礎を築いたハインリヒ 2世の時代には既に工事が始まっていたらしいが、その後火災などがあり、現在の建物は 13世紀の建造。ちょうどロマネスクからゴジックに移行する時代で、建築様式には両様式の混在が見られるという。
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この聖堂の中に、「バンベルクの騎士」と呼ばれる彫刻がある。13世紀初頭の作と言われているが、これだけの堂々たる作品であるにも関わらず、作者名も誰の像なのかも、未だ不明とのこと。いやー、凛々しいお姿です。
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そして目を引くのが、皇帝ハイリンヒ 2世とおの奥方の棺。亡くなった時代よりも後に作られた棺らしいが、生前の業績も側面に彫刻され、このお 2人がいかに人々に慕われていたかがよく分かる。
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ここの部分はロマネスク風の素朴な感じ。
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奥の方の向かって左側に、素晴らしい木彫りの彫刻がある。テーマはキリストの生誕で、1523年、ニュルンベルクの彫刻家、ファイト・シュトースの作品。先の記事でご紹介した、ニュルンベルクの聖ロレンツ教会にかかっている素晴らしいレリーフも彼の作品だった。調べてみると、ポーランドのクラクフの教会にも作品があって、それはゴシック期の祭壇彫刻としてヨーロッパ最大だとか。行ってみたいものです。
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また、次は隣で英語のガイドが説明しているのを聞きとがめて発見したちょっと珍しいもので、現地で購入したガイドブックにも載っていない。これです。
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これは、高い天井に描いてあるもので、どうみても悪魔のようだ。ほかにももうひとつあったが、そちらは光の加減でどうしても写真を写すことができなかった。これ、戯画のようにも見えるし、普通教会の天井に、こういう絵が描かないでしょう。なので、上から天井画を描くことを前提として、手すさびで絵師が描いた落書きではないのか。日本でも、唐招提寺に似たような例があるし、もしそうだとすると、中世の人々の生きた姿が、鮮やかに甦ってくる、なかなかに貴重な例だ。ガイドブックに載っていないこういう発見をすると、少し得をしたようで、嬉しくなる。

さて、次に大聖堂のすぐ前にある新宮殿を見てみよう。16世紀後半から造営されたもの。なかなか立派な建物だ。
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中もかなり広く、絵画のギャラリーは個々人で見るが、宮殿内はツアーに参加する。この手の宮殿のギャラリーは通常、あまりレヴェルが高くないので、ガランとした展示室をツカツカと歩いて行ったが、奥の部屋で足が停まった。なんとここにも、ハンス・バルデュンク・グリーンやクラナッハがあるではないか!! 素晴らしい!! これまた、お得な気分にさせてくれます。
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宮殿内のツアーで最初に通されるのが、皇帝の広間。絢爛たる色使いで、豪華に仕上げられている。ただ天井は充分高くないため、だまし絵 (トロンプルイユ) の手法で上階部分が描いてある。壁には主要な神聖ローマ皇帝の姿が描いてあるが、ここでも最初に描かれているのは、ハインリヒ 2世だ。
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さてその後も古い町並みをぶらぶらしながら、もう 1つ、どうしても行きたい場所があった。それは、E・T・A・ホフマン (イー・ティー・エーではなく、ドイツ語で、エ・テー・アーと正確に読みましょう。Ernst Theodor Amadeus のことらしい) の旧居である。E・T・A・ホフマンは、ドイツロマン主義の幻想作家として知られているが、実は結構多才な人で、ここバンベルクでは、劇場の指揮者として雇われたらしい (名前の A はアマデウス、つまりモーツァルトの名前から取っているわけだ)。ただ、今は博物館になっているその旧居は、なんとも小さなものだ。しかも、どうやら、15時から 17時までしか開館していない模様。えぇー、イタリアではあるまいし、ここはドイツなんだから、もっと働こうよー。因みに、この旧居のすぐ近くに、彼の名を冠した新しい劇場があった。ホフマンのバンベルク時代は、あまり恵まれていなかったようであるが、それでも後世の人たちがこうして彼を顕彰するというのは、素晴らしいことだ。だけど、もっと博物館、開けようよ (笑)。
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さて、このあたりで時間切れとなり、バイロイトに戻ったが、まだまだ街の雰囲気も味わいたいし、見たいところも沢山ある。できれば近い将来での再訪を期して、この素晴らしい街を離れたのでありました。


by yokohama7474 | 2015-08-15 10:12 | 美術・旅行 | Comments(0)

ドイツ、バイロイト エルミタージュ、新宮殿、フリーメーソン博物館

バイロイト滞在 4日目。現地で購入した英語のガイド小冊子を見て、行き先を決める。但し、昨日はオペラがなかったのでニュルンベルクで体力と気力の限界に挑戦したが、今日はそうはいかない。夜の「ジークフリート」に備えて、あまり無理はできない。ということで、街中から少し離れたエルミタージュと、街中でまだ行っていない新宮殿をメインとすることに決めた。

エルミタージュとは、サンクトペテルブルクの有名な美術館で知られる通り、庵とか隠れ家といった意味のある言葉。ここバイロイトにある同名の宮殿は、現地で購入した小冊子によると、18世紀初頭の辺境伯、ゲオルク・ウィルヘルムが 1715年に造営を始め、その後プロイセンの有名なフリードリヒ大王の姉、ウィルヘルミーネ (1709 - 1758) が当地のフリードリヒ辺境伯に嫁入りして、この宮殿を自由に使ってもよいとの許可を得て、大々的に造営したもの。バイロイト市街に新宮殿 (後述) が造営されると、それとの対比で旧宮殿とも呼ばれたらしい。これがウィルヘルミーネ妃。あんまりうまい絵ではないですが (笑)。
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因みにこのエルミタージュ、航空写真は以下の通り。かなり広大な土地だ。市街地からはバスで 15分ほど。
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この宮殿の造営は、まさにヴェルサイユ宮殿とほぼ同時期。ヨーロッパでは絶対王政の時代。美術では、ロココの時代だ。まあ、ドイツのヴェルサイユとまでは言わないまでも、ちょっと近いイメージあるでしょ。まあもちろん、豪華さにかけては勝負にはならないけれど・・・。
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また、この時代によくある、人工的に作られた廃墟やローマ式屋外劇場もある。
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さて、宮殿内はガイドツアーでのみの入場。所要時間は 45分で、私が訪れたときはドイツ語ツアーしかなかったが、まあやむない。
宮殿内にはいろいろ面白いところがあるが、極め付きは、これまたこの時代に流行ったグロッタ (人工的な洞窟) の中の仕掛け噴水だ。案内人が、まずはそのまま水を出すと、いかにも涼しげで、炎暑のことでもあるからお客は皆大喜び。その後、水の噴出口に被せ物をして、いろんな形を見せ、ときに水量を増してお客に水がかかるようにする。ザルツブルク近郊のヘルブルン宮殿を思い出した。
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宮殿内は、さほど豪華ではないが、いろいろ部屋があって、中でも面白いのは日本の間。こんな感じなのだが、ちょっと日光東照宮あたりを思わせると言えなくもないし、建物の描き方はそれなりに頑張っているが、題材はほぼ中国だ。もっとも、「太平洋に浮かぶ明太子形の国」と思われていたわけなので、しょうがないのでしょうが。
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帰りがけに、温室に付随する「太陽神殿」なる建物をまじまじと見る。てっぺんにアポロン像を冠しているが、これもグロッタ様の作り。なかなか面白い。

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さてそれから市内にとって返し、新宮殿へ。こちらもいろいろ部屋があるが、突飛なものは (ここでもやはり) グロッタくらいしかなく、まあ通常の宮殿という感じ。エルミタージュの方がユニークで見応えがあったなぁ。ここでは、ギャラリー、18世紀の食器の展示、2階の広間の写真を掲載しておきましょう。
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さて実は、この新宮殿は、むしろ建物を出てからの方が素晴らしい。背後一体に広がる広大な庭園 (Hofgarten) が、なんとも穏やかな気分になれる場所なのだ。この庭園、例のワーグナーの旧居、ヴァーンフリートのすぐ裏に展開していて、ワーグナーもよく散策を楽しみ、最後の作品「パルシファル」の構想を練ったとか。宮殿から庭園に続く門。夏の光があふれています。また、噴水彫刻もいい雰囲気です。
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さて、ここから、通常の日本のガイドブックには記載されていないだろう博物館に行きます。それは、フリーメーソン博物館。あの秘密結社のフリーメーソンだ。なぜこんなところにあるのか知らないが、ドイツで唯一のフリーメーソンについての博物館だそうだ。宮殿から Hofgarten に入り、ヴァーンフリートまでの距離の半分くらいの距離、向かって左手に存在している。こんな建物だ。
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入り口の上を見ると、おお、フリーメーソンの象徴、石工の記号が。
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なにか近づきがたい雰囲気。呼び鈴を押せと書いてあるので押してみたが、なかなか人が出てこない。しばらくしてあきらめよう (ちょっとほっとしながら 笑) とすると、音もなく扉がすっと開き、金髪碧眼の青年 (確かマントを着ていたかな?) が出て来て、何やらドイツ語で無愛想にボソボソ話しかけてくる。あぁ、違います違います。フリーメーソンが世界を裏で操る組織だなんて、そんな陰謀論、ちょっと面白いから少しかじっていますが、本気でそんなこと信じているわけないじゃないですか。だから勘弁して下さいよ、そんな青い目で冷たく見ないで下さいよ。本を何冊か、うーん、多分 10冊くらい、持っているだけで・・・。ひえー、寄らないでー!! と心の中で喚いていると、むこうも怪訝な顔をする。落ち着いてよーく聞いてみると、「ツヴァイ・オイロ」、つまり、「2ユーロです」と、入場料のことを言っていただけだったのだ。あぁ、冷や汗かいた。

展示品はユニークで、フリーメーソンの由来や、古い文書など。また、勲章がズラリ。なぜか大きな柱時計が For Sale となっていた。どこかに仕掛けがあって、コードを解読すると、世界が驚愕するような重要文書が出て来るのであろうか。でも、値段の表示がないけど、一体幾らなのよ。
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建物を出て帰ろうとすると、敷地内に何やら墓地のようなところが。うーん、この丸とか三角とか、まさかこの人たちの Remains もそういう形になっているんじゃないだろなぁ・・・。
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知られざるバイロイトの名所からの報告でした。

by yokohama7474 | 2015-08-13 07:48 | 美術・旅行 | Comments(0)