カテゴリ:美術・旅行( 160 )

北川 民次 (1894 - 1989) のファンである。北川は 1914年に米国に渡ってアート・ステューデンツ・リーグに学び、1921年にメキシコに渡った。1936年に帰国してからは愛知県瀬戸市に居を構え、二科会の会長も務めた日本洋画界の重鎮である。私の場合、彼のメキシコ時代の作品が、かの地の巨匠たち、すなわち、リベラ、シケイロス、オロスコなどの影響を如実に示す力強い作風であるので、もともとこれらメキシコ絵画に大いなる興味を持った高校時代から、北川にも大変な共感を覚えたものだ。今年は彼の生誕 120年。ゆかりの瀬戸市でそれを記念して、110点もの作品が展示されているというので、出かけてみた。私はまた、日本の地方美術館というものが好きで、ガラーンとした中に郷土ゆかりの有名無名の作家の作品が人待ち顔をして並んでいるという雰囲気に、なんとも Intimate な感情を抱いてしまうのだ。
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今回は、この瀬戸市美術館 (北川のアトリエもここに移築されているという) と瀬戸信用金庫の所蔵品の展示であるということ。最も古い作品は 1930年代まで遡るが、ほとんどが 1950年代以降のものだ。それらの中には、地元の風景を描いたリトグラフや壁画などが含まれる。これは、「瀬戸の母子像」という作品。
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また、これは焼き物のまち瀬戸市という土地柄を表す、「陶工たち」という作品。
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彼の造形は、力強い描線によって働く人たちや静物を大きく描くことで、常に生命力の横溢する画面を創り出す。レジェやピカソの影響と、壁画で有名なメキシコの巨匠たちからの影響のミックスと考えれば分かりやすい。その意味で、瀬戸という土地に根を据えて長い人生を送ったこの画家の創作人生を垣間見るには充分な展覧会だ。

だが。だがである。私がこれまでいろいろな美術館や本で見てきて、心から共感している北川 民次の絵画は、残念ながらこの程度のものではない。やはり若い時代、メキシコで描いたものが彼の創作活動の頂点であったと思う。例えば、国立近代美術館の所蔵する 1931年の作品、「ランチェロの唄」はどうだ。
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あるいは、名古屋市美術館所蔵の「トラルパム霊園のお祭り」。1930年の作だ。
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うーん。一見して違いは明らかだ。ただならぬ雰囲気を放つ作品たちだ。残念ながら今回の展覧会では、このレヴェルの作品に巡り合うことはできなかった。まあ、地元密着の美術館の企画として、そのローカル性を楽しむべきだと割り切ればよいのであろう。

さて、その後名古屋市内への移動の途中、長久手古戦場に寄ってみた。歴史上、小牧・長久手の戦いと呼ばれていて、小牧と長久手はすぐ隣接しているのかと思いきや、なんのなんの、この 2つの場所は、直線距離でも多分 30km はあるのではあるまいか。小牧は名古屋の北、長久手は東である。この戦いは、要するに本能寺の変で信長が討たれたあと、清州会議を経て、その後秀吉が天下を取るまでの間の戦いのひとつで、徳川家康・織田信雄連合軍と相対したもの。秀吉は家康に一目置いていたらしいが、この戦いでも徳川・織田を尾張に封じ込めようとしたところ、思いのほか苦戦を強いられ、和議に持ち込んだという経緯がある。ここ長久手では、1584年、徳川軍が豊臣軍に大勝利を収め、秀吉の甥である秀次 (後年、秀頼誕生後、高野山で蟄居の後秀吉から切腹を命じられる、かの仁だ) は敗走したとのこと。そう、日本の覇権を巡る英傑たちの戦い。この長久手には、そのような歴史の重みを感じさせる何かがあるはずだ。炎天下の木洩れ日に、石碑が重々しい。
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古戦場自体は公園になっていて、当時の戦場を縮小して、実際の山を築山で表している。なかなかに面白い試みだ。
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さて、資料館があることを発見。ちょっと覗いてみよう。うーん、随分と古い建物で、昭和も 40年代くらいのものではないのか。と、入口に年期の入った案内図が。
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な、なにー。「長久手古戦場いこいの広場」・・・??? 英傑たちの命を賭けた戦いの場で、あ、あろうことか、「いこい」を感じてしまってよいものだろうか。うーん。ともあれ、資料館の中に入ってみると、なにやらジオラマが。
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戦い当日の兵の動きを解説する、いかにも昭和な雰囲気の男性ナレーターの声が。BGM は、まあいろんなところで聴く羽目になっているが、チャイコフスキーの悲愴交響曲の第 1楽章と第 3楽章です。「年代から考えて、カラヤンの EMI 盤かな」などと、根拠のない推測を独りごちる。その他、甲冑とかほら貝とか采配とかが展示されていたが、何も当日使用されたというものではなく、あくまでイメージ上の演出であった模様。

どうもここは、かつての激戦を思わせるようなものは何もないので (まあ考えてみればそれは無理な話でもある。話に聞く関ヶ原のキッチュな武将人形でも置かない限り)、開き直って、いこいの場所としての再利用が企図されたということか。若干複雑な気持ちを抱いて園内をなおも歩いていると、こんな看板が。
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あー。火縄銃は危ないからダメということですな。了解しました。歴史に思いを馳せるのは、また別の場所でのことと致します。


by yokohama7474 | 2015-07-23 00:58 | 美術・旅行 | Comments(0)

前にご紹介した八王子市の 2つの美術館を訪れるついでに、高幡不動と八王子城址を訪れたので、まとめてご紹介する。

まずは、日野市の高幡不動尊。このあたりは昔親戚が住んでいたので、子供の頃何度か訪れたことがあるのだが、その頃既に仏像に深い興味を持つ妙なガキであった私も、まさかここに素晴らしい仏像があるとはつゆ知らず、今回に至るまで、この寺に一度も足を運んだことがないという恥ずかしい事態に陥ってしまった。平安時代後期、11世紀末頃の作とされる、堂々たる丈六 (立てば 1丈 6尺 = 4.85m あるとされる仏像のサイズ) の不動三尊像。国指定の重要文化財。関東地方にこれだけ古くて巨大な仏像が存在していること自体、奇跡に近い。その雄姿をご覧頂こう。
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この不動様、像高 285.7cm、火炎光背まで入れると 419.8cm というからすごい。なんという力強さ。天災・火災の多いこの国で、また多くの戦乱を越えて、1,000年近くこのような像が失われずに伝えられてきたとはただごとではなく、地元の人たちや、場合によっては権力者の篤い信仰あってのことであろう。なんでも江戸時代に 9将軍家重が江戸でこのお不動さんを拝みたいと言って、実際に江戸で出開帳を行ったことがあり、それによってかなり損傷を受けてしまったとの説明を寺で受けた。ただ、いろいろ調べてみると、記録は限られているものの、その出開帳自体は非常な成功であったとのこと。いわば、お寺の名声のためにお不動さん自身乗り出したということなのでしょう。両脇侍のセイタカ、コンガラ両童子は、いかにも地方作りで素朴である。この三尊像、最近修復を受けているが、もう何年前になるだろうか、東京国立博物館で修復後のこの三尊像にお目にかかったことは何度かあった。その際、「ええっ、あの高幡不動にこんな素晴らしい仏像が・・・」と思ったものである。また、この仏像の素晴らしいところは、堂内に入って間近に拝観できることだ。若いお坊さんがその場で歴史を説明してくれたが、本来なら秘仏として奥深く鎮座して頂くこともできるところ、庶民を救う不動明王の本懐や、歴史の荒波を乗り越えてきた様々なご縁に報いるためにも、間近で拝見できるようにしたとのこと。本当にありがたいことだ。

さて、この高幡不動はほかにもいろいろ見どころがある。立派な五重塔 (古いものではないが) や鳴龍 (日光や京都のいくつかの寺にある、龍の天井画の下で手を叩くと龍の鳴き声のような反響が聞こえる仕掛け) があり、さらには新撰組副長、土方歳三の菩提寺であるそうな。
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日野は新撰組ゆかりの土地とのことで、車で市内に入ったときに、「ようこそ新撰組のふるさとへ」という表記が目に入ったものだ。新撰組関係の記念館等もいくつかあるようなので、また改めて訪れてみたい。

さて、その後訪れた八王子城址は、未だ観光地として整備されているわけでは決してない場所だ。ただ、歴史的には重要な場所である。というのも、これは小田原の北条氏が築いた山城であり、1590年にこの城が陥落したことが秀吉の小田原征伐の決め手となったからだ。すなわち、ここで無念にも散って行った人たちが、結果的に天下統一の礎になったとも言えるわけである。この城を攻めたのは前田利家と上杉景勝。そのとき未だ城は未完成だったと考えられているらしい。山城としては関東屈指の規模を誇り、城下町にあたる根小屋地区、城主北条氏照の館のあった居館地区、戦闘時に要塞となる要害地区等に分かれるが、落城してからそのまま再興されることなく、江戸時代は幕府の管理下にあり、そのまま近代を迎えたらしい。すなわち、かつてここに暮らし、戦った人たちの痕跡は跡形もなく消え失せたあと、全く放置されていたわけだ。未だ発掘が行われていないところもあるらしい。ようやく近年になって、少しずつ整備が進められているものの、本当に、昼なお暗い、鬱蒼とした山の中なのである。訪問者はまず、新しいガイダンス施設に立ち寄ることになる。時間帯が遅くなければ、ボランティアの説明者をお願いすることができる。
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さて、それから山道に入るが、居館地区に至るまでは比較的なだらかだ。一部、橋が架けられている。
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そして居館地区は、発掘された石垣や復元された門、そして、いくつかの建物の址からなっている。
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そして、この御主殿跡からは、数多くの焼き物の破片が出土しているという。中国伝来の焼き物が主とのことで、戦国時代とはいえ、それなりに文化的な生活が偲ばれる。
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まあこのあたりはまだ明るい平地なのでよいのであるが、実は、そのすぐ横に川が流れていて、そこは全く鬱蒼とした森の中で、光は差さず、真夏でもひんやりするような場所なのだ。特に、御主殿の滝という滝は、それほど高低差があるわけでもないのだが、落城時に御主殿にいた武将や婦女子が次々と身を投げたところらしく、川の水は三日三晩赤く染まったという。恐らく江戸時代のものかと思われる慰霊の石碑が立っている。
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そして、本丸があったという山の中に分け入ろうとすると、少し躊躇してしまう。とにかく、段は一応あるものの、ほとんど手つかずの山の中なのだ。神域となっているらしく、いくつか鳥居がある。これ、昔読んだ水木しげるの妖怪漫画の世界ではないですか。そのまま神隠しに遭ってしまいそうだ。そして、石鳥居の裏に記載された建立年は、明治 45年。すなわち大正元年。1912年だ。
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実はこの場所、ネット検索すると、都内有数のパワースポットあるいは心霊スポットという評価がされている様子。凄絶な落城と、その後放置されてきた歴史、そしてこの鬱蒼とした雰囲気には、確かにただならぬものがある。しかしながら、それは裏を返せば、日本人の歴史のひとつの舞台として、訪れる人になんらかの思いを抱かせる場所であり続けているということだ。歴史を学び、ここに来て過去に思いを馳せることで、何か発見があるはずだ。・・・私と家人の場合も、ひとつの経験をした。この城址を流れる川のほとりを歩いていると、苦しそうなうめき声や鬨の声などが川のせせらぎに混じるというネット情報があって、「まさかそんなことあるわけないよね」と言っていると、確かに川の音以外に、ブンブン低い音が混じって聞こえるではないか!! 一瞬ゾッとしたが、・・・それは飛行機の飛ぶ音でした。ま、人間の心理とは、そういう場所で想定しない音を聴くと、想像力で勝手に超常現象と思い込んでしまうのですね。人の無念さに思いを致すのは結構だが、それを心霊現象に結び付けるのは、いささか短絡的ではないでしょうかね。

by yokohama7474 | 2015-07-22 23:15 | 美術・旅行 | Comments(0)

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題名を見て惹かれたのは、戦後の日本における一般的な住居の変遷 (日本家屋から昔懐かしい団地に移行するなど) を連想したからであるが、実際に足を運んでみると、16人の建築家が設計した住居を紹介するという、純粋に現代建築に関する内容であった。よく見ると、この 16人の建築家の名前は上のポスターにも出ているし、写真も掲載されている。いつもながら早とちり、ああ勘違いという奴だ。

まあよい。建築ももちろん私の興味の対象。この小規模な美術館にふさわしい内容を充分楽しんだ。ここで紹介されている丹下健三から安藤忠雄まで、様々なタイプの建築家が設計した住居は、多くが自身または家族のためのものである。まあ実際、建築家たるもの、前衛的な作品を世に問うていながら、住んでいるのがライオンズマンションですとなると、ちぃとばかり具合が悪い。もちろん、コンクリート打ちっぱなしで格好いいけど寒かろうが、バリアフリーを一切無視した細かな階段が多い作りであろうが、外から土足で入り込めようが、建築家たるもの、涼しい顔で、「究極の個人空間において、外部社会におけるパラダイムシフトとの接点を維持しつつも、同時に移り行く四季おりおりの季節感を充分に感じることができるような、いわば癒しの温度を持った住むための機械としての住居」を追求せねばならない。

上記の引用は、誰の言葉でもない。今私が書きながら、適当にでっち上げたものだ (もっとも、「住むための機械」という言葉は、皆さんご存知の通りのコルビジェの有名な言葉だ)。でも、なんだかちょっと、もっともらしいでしょう? いつも不思議に思うのだが、建築家が建築を語る際に使う言葉は、なぜか大変に観念的なものが多い。これはなかなか難しいところがあって、例えば夢窓疎石とか小堀遠州とか、昔の作庭家であれば、何も言辞を弄さずとも、鑑賞する武士や貴族などが、「結構な庭じゃのう」と言えばそれで済んでしまい、一般庶民には無縁な世界であったところ、今日では多くの建築の公共性の観点からも、建築家が何か言わされてしまうという事情があるのだろう。特にコンペで作品を説明するときに、「えー、何も考えずに設計してみました。皆さん楽しんで下さい」というわけにはいきませんからね。理系に分類される極めて実務的分野でありながら、本来は充分に文系的感覚を必要とされる建築家という職業、なかなかに大変だ。あの安藤忠雄ですら、今回の新国立競技場騒ぎを巡っては、世論は厳しいものになってしまっているわけで、本当に因果な商売である。

ともあれ、今回の展覧会、大変にユニークな住居が 16点紹介されていて、興味深いものではあった。建築家自身の語る設計コンセプトや当時の逸話についての映像、設計図、関連資料や写真などが展示されていた。展示物は撮影禁止であったが、それぞれの家の内部を大きな布に印刷した写真が展示されていて、それなら撮影 OK とのことであったので、尊敬する磯崎新の「新宿ホワイトハウス」(1957年) をパチリ。
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しかしそれにしても、上記の繰り返しになるが、芸術の一分野としての建築には、絵画や音楽にない公共性という問題が宿命的について回る。今回の展覧会でも紹介されている黒川紀章の「中銀カプセルタワービル」など、以前銀座から新橋に向かって歩いているときに偶然発見して、そこにある説明書きにワクワクした経験があるが、実際にはワクワク感は通りすがりの人たちの勝手な思いであって、保存や活用を巡っては大きな問題になっているようだ。以前 NHK の番組で、ここに住んでいる若い建築家がインタビューに答えて、「不便だがいろいろヒントがある」というようなことを語っていたが、でも一般の人は違うだろう。こんな一等地にこんな不便なものがあってもどうしようもないという事情はよく分かる。かといってどこかにそのまま移転というわけにはいかない。いかに建築史上に残る名作と言えども、実用との兼ね合いを果たさなければ、いずれは消えて行く運命にあるということだろうか。ウィキペディアご参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%8A%80%E3%82%AB%E3%83%97%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%AB

ただ今回の展覧会、図録は既に売り切れということで、なかなかの集客力であるようだ。熱心に見学する若い人の姿も多く見られた。「お、建築学科の若者ですか。芸術性と実用性の両立、がんばって下さいね。修辞を弄するのも必要だろうけど、一般の人たちにも分かってもらわないとね」と肩を叩きたくなるのをぐっと我慢して、梅雨明け初日の陽光がそろそろ収まりつつある夕刻の八王子の街に出たものである。ビールを飲むのに公共性は関係ないから、なんともお気楽な立場ではあったものだ。

by yokohama7474 | 2015-07-21 09:20 | 美術・旅行 | Comments(0)

フィレンツェを訪れたことは恥ずかしながら 1回しかないのだが、できればこれからの人生で何度も訪れたい街だ。何の誇張でもなく、街全体がそのまま美術館。人はシニョーリア広場に立って、未だにこの街の市庁舎として機能しているパラッツォ・ヴェッキオ (ヴェッキオ宮殿) を見上げるとき、そこに威風堂々と立つダヴィデ像が摸刻と知りながらも、ルネサンスの遺産が今に生きていることに、心震えるものである。さて、この宮殿の中に以前、もはや伝説となっている 2つの壁画があった。私も現地訪問時にそのことを知り、失われたその壁画のダイナミズムに思いを致したものである。その壁画とは、レオナルド・ダ・ヴィンチの手になる「アンギアーリの戦い」と、ミケランジェロによる「カスチーナの戦い」だ。今回の展覧会は、その謎に迫ろうというもの。東京、八王子市にある東京富士美術館での開催だ。
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パラッツォ・ヴェッキオの中の、500人広間。現在の様子は以下の通り。ルネサンスの画家の伝記を残したことで知られるジョルジョ・ヴァザーリの手による大壁画があるが、かつてはこのどこかに、2大巨匠の壁画があったわけだ。最近のイタリア政府の発表では、レオナルドの「アンギアーリの戦い」」(1440年に起こったフィレンツェ軍とミラノ軍の歴史的な戦いを描く) は、現在の壁画の下に塗り込められているらしいとのこと。
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ダ・ヴィンチの天才ぶりには既にあらゆる言辞が呈されており、絵画に限っても、残された完成作の少なさと、どの作品でも一様に保たれている最高の水準によって際立っている。そのダ・ヴィンチの幻の壁画の手がかりを探すことになる今回の展示において、目玉は以下の絵画だ。
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これは、アンギアーリの戦いを題材とする壁画において中心的な場面をなす、「軍旗争奪」の板絵だ。作者不詳であるが、レオナルドの失われたオリジナルを彷彿とさせる作品だ。もともとナポリのドーリア・ダングリ・コレクションにあったことから、「タヴォラ・ドーリア」(タヴォラとは板絵の意味らしい) と呼ばれる。戦後行方不明になっていたらしいが、ドイツで発見。1992年に東京富士美術館の所有となり、2012年にはイタリア政府に寄贈されたということだ。従って今回の展覧会が、まずこの美術館で開かれることには大いに意味があるわけだ。これが都内の中心地での開催なら、押すな押すなの大混雑であったろが、八王子ということで、大変よい環境で鑑賞できた (因みに、今後は京都と仙台に巡回)。

それにしてもこの絵、なんという迫力であろうか。レオナルドの現存絵画には、このような息を呑む迫力を持ったものはない。なんでもオリジナルの壁面は、特殊技法を使ったゆえに、制作途中で絵の具が溶けてしまい、完成しなかったが、数十年はそのまま残されていたという。この軍旗争奪のシーンは、実はこの板絵以外にも模写がいくつかあって、今回の展覧会でも並べられている。だが、この板絵には、ほかと違う不思議な迫力があるとしか言いようがない。一度見たら忘れられないものだ。実は今回の展覧会を機に、東京藝術大学が立体模型を作成した。以下のようなものであるが、これは確かに複雑極まりない。もし仮に現実にこのような形態がありうるとしたら、ものすごい力と力がぶつかり合って、ある一瞬に静止する時にのみ、奇跡のように立ち現れるものだろう。肉眼で捉えることは無理であろうし、連続性があってはじめて成り立つ、完全なる 3次元の造形だ。永遠に凝固した一瞬だ。あー、フィギュアにして売り出してくれないかなぁ。ちょっと高くても絶対買って、毎日飽きもせず眺めたい。
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さて、一方のミケランジェロである。こちらの題材は、1364年のフィレンツェ対ピサの戦い、「カッシナの戦い」の最中にアルノ川で水浴びをしていたフィレンツェ軍が敵襲の報を受けて戦闘準備に入る場面だ。彼の得意とする筋肉隆々たる群像であったが、完成に至る前に彼はローマに呼ばれてしまい (1505年)、その後メディチ家の追放によって、壁に下絵が描かれたままで放置されたとのこと。今回展示されているのは、オリジナルの下絵に基づいて 1542年に作成した油彩画として残存する唯一の例で、アリストーティレ・ダ・ザンガッロという画家の手になるもの (但し、大きさはオリジナルの数分の一であろう)。
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うーん、これまた、いかにもミケランジェロらしい、力強さと、これでもかという多様なポーズにしびれる作品だ。これもやはり、一度見たら忘れないヴィジュアルイメージである。

人間性の謳歌を特徴とするルネサンス芸術であるが、この時代、イタリアという国はなく、同じ言語、同じ宗教を共有するイタリア人たちは、時に争い、時に同盟関係を結んで、大変な緊張関係にあったわけである。カトリックの威厳も宗教改革によって根底から揺らいでいたことを思うと、貴族、王族を含む当時の人々は、日々、誠に不安定な思いで生活していたことであろう。この時代、マキャヴェリは「君主論」を著したが、理想の君主に見立てたのは、チェーザレ・ボルジアであった。実はレオナルドも、一時期チェーザレ・ボルジアに軍事顧問としての売り込みをかけ、マキャヴェリと行動をともにするようなこともあったらしい。もっとも彼は晩年フランス国王フランソワ 1世の庇護を受け、彼のもとで亡くなるわけであり、最後まで手元に置いていたのが「モナ・リザ」であったことを思うと、激しい争いに同道するという経験に疲弊していたのであろうか。一方のミケランジェロは、政治的な活動にも身を投じた、もう少し闘争的な人間であったと思う。これら対照的な巨匠が、ここに一対の壁画を残しておいてくれれば、人類の大きな遺産となったであろうに。歴史とはままならぬものである。ただ、失われたからこそ、永遠に人々の思いを掻き立てるロマンがあるわけで、残された断片から想像力の翼を広げることができるのも、後生の人間の特権と言えるだろう。

by yokohama7474 | 2015-07-21 01:22 | 美術・旅行 | Comments(0)

フィンランドの女流画家、ヘレン・シャルフベック (1862 - 1946) の、日本初の回顧展である。東京藝術大学の付属美術館では、通常古美術や日本の作品が展示されることが多いのであるが、今回は珍しくも欧州の画家である。
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いろんな展覧会に行けば行くほど自分の無知と向き合うことになるのだが、それでも、これまで未知であった画家についてのなんらかのイメージを持つに至ると、少なくとも無限の無知の少しの部分が既知になるわけで、それはなんとも素晴らしいことだ。いろんな巡り合わせの中での経験と知識の蓄積が、自分の人生を豊かにしてくれることは間違いない。今回はそんなことを改めて思わせる、心に残る展覧会であった。

シャルフベックの人生は淡々としたもので、世界の歴史と切り結ぶ勇敢な行為もなければ、美術界を震撼させた新表現の開発もない。フィンランドという、長らく帝政ロシアの支配下にあった欧州の最果ての国のひとつにおいて、結婚もせずに母親と暮らした女性。容貌からは、理智の光を目に湛えながらも、大変おとなしい性格の女性というイメージが浮かんでくる。ただ、会場で解説を読んでいるうちに、いろいろな画家からの影響を受けたのみならず、生前から国際的に認められた画家でもあったことが分かってくる。以下のポスターで使用されている作品は、「回復期」と題された 1888年の作品。彼女はこのときわずか 26歳であるが、この作品がパリのサロンに出展されると、フィンランド芸術協会が買い取りを決め、翌年のパリ万博での銅メダル取得によって、彼女は国際的な名声を得たとのこと。
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面白いことには、この穏やかで微笑ましい、例えば米国のノーマン・ロックウェルすら思わせる作品が、実は失恋の大きな痛手 (フランス滞在時に英国人芸術家と婚約したにも関わらず、それが破棄された事件) から回復して行く自分を描いたとされているらしい。この画面から、そのような悲壮感を伺うことは難しい。ということは、大変に意志の強い人であり、また自分をある程度客観的に見ることができる人であったのではないだろうか。

シャルフベックは、3歳のときに階段から落ちて左腰に怪我を負い、一生杖を手放せない人であったとのこと。そのようなハンディキャップはしばしば人に一見内向的、だが実は意志の強い性格をもたらすものである。女流画家で、やはり事故でハンディキャップを負い、それを創作活動の原動力にした人として、すぐに思い出すのがフリーダ・カーロであるが、彼女が激しさを剥き出しにした闘争の人生を送ったのに対して、シャルフベックの穏やかさは全く対照的である。メキシコとフィンランドの風土の違いもあろう。だがそれ以上に、画家としてのメンタリティの違いであると思う。

さてこのシャルフベック、作風の変遷を辿ると面白い。初期の頃の作風は、私にはやはり、ロシアの 19世紀の絵画にいちばん似ていると思われる。例えばこの、「雪の中の負傷兵」という作品。今にもチャイコフスキーの「エフゲニ・オネーギン」の「レンスキーのアリア」が聴こえてきそうではないか。ご存じない向きは、往年の名テノール、ニコライ・ゲッダの歌う映像をどうぞ。
http://video.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%A2
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しかしその後シャルフベックの作風は、控えめながらもあれこれと変わって行く。一目見て分かる、ゴーギャン風、ホイッスラー風、ルオー風、シャヴァンヌ風、ルドン風、セザンヌ風・・・。だが、最も重要なことは、いかなるスタイルを取っても彼女の本質は変わらないことだ。この展覧会の副題にある、魂のまなざし、いささか大げさに響くかもしれないが、この言葉は本当によくこの画家の本質を見抜いているものだと思う。彼女の生きた時代 (因みに、フィンランド最大の芸術家で国民的作曲家シベリウスは 1865年生まれなので、彼女と同世代だ) は、帝政ロシアからの独立や世界大戦のあった時代。世界が火花を散らし、殺し合っていた頃、彼女は常に変わらぬ視線で人や風景を眺め、その無垢な視線に映るものを描いたのだ。本展覧会の会場を歩いていてそのことに気づくと、なんとも心に深いものが沸いてくる。声高に叫ばずとも、ひとつのメッセージを世界に発し続けた画家の姿が、ここにある。

但し、シャルフベックに全く社交性がなかったかと言えば、決してそうではなかったようだ。若い頃にはフランスのポン・タヴァンにいたという。これは、ゴーギャンを中心とする芸術活動が行われた場所。また、英国コーンウォール半島のセント・アイヴズにもいたらしい。ここはヴァージニア・ウルフが幼少期を過ごした場所であり、後年はバーナード・リーチや濱田庄司が移り住んだ芸術家村だ。シャルフベックは、そのような芸術家が集まる場所で貪欲に様々な表現を吸収したであろうし、また、後年フィンランドの片田舎に閉じこもった頃にも、パリから最先端の芸術雑誌を取り寄せて研究していたらしい。一見穏やかな作風の裏に、常にたゆまぬ努力があったということだろう。

最後に、この画家のもうひとつの側面に触れておこう。さて、以下の絵は誰の手になるものか。
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そんなの簡単だ、上がヴェラスケスで下がホルバインだろうって? 実はこの 2点とも、シャルフベックが 1894年にウィーンに滞在した際に模写したもの。なんと達者ではないか。この技術の素地があるから、いろんなスタイルを試してみることができたのだろう。ところで調べてみると、ウィーンの美術史美術館は、この 3年前、1891年に一般公開したばかりだ。クリムトを中心としてウィーン分離派が設立されるのは、これより 3年後、1897年のこと。また、うたかたの恋で有名なオーストリア皇太子のマイヤーリンクでの情死は、5年前の 1898年だ。そんな風雲急を告げるウィーンの政治・文化情勢の中にシャルフベックを置いてみるのも、なかなかに楽しい。その魂のまなざしは、混沌とした大ハプスブルクの首都で、一体何を見ていたものであろか。

by yokohama7474 | 2015-07-20 23:50 | 美術・旅行 | Comments(0)

西洋の都市の中で、フィレンツェとかヴェネツィアとか、渋い例ではシエナなどという都市を特集した展覧会は、かつて日本で開かれているが、それらイタリアの諸都市以外に、どこが対象になりうるだろうか。もちろん、ウィーンとかパリとかロンドンなら、いろんな切り口で紹介できよう。でも、ボルドーを紹介するという今回の企画は、おっとそれがあったかと思わせるような意外性があって面白い。というのも、ワインに関する展示以外に何があるのか? と思ってしまうからだ。そういう人たちには、このポスターにおけるドラクロワの絵画をご覧頂こう。この荒れ狂うけものの強烈な印象に、興味を惹かれることであろう。よくワインに、「けものの匂い」という形容があるが、そう。ボルドーとけものの関係やいかに。
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さて、展覧会は、25,000年前の原始的な彫刻から始まる。これは、「角を持つヴィーナス」と名付けられている。
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ボルドーの属するアキテーヌ地方は、フランス南西部に位置し、スペインと隣接している。すぐ西側は大西洋に面しており、そこに注ぐジロンド川 (世界史で、フランス革命の主要な党派にジロンド派というのがあると習いましたね)、さらにはその上流ガロンヌ川が、ボルドーにワイン栽培に必要な水分と土壌を与えたわけであるが、どうやらその遥か以前に人類は、この地域の洞窟のあちこちに暮らし、生きた記録を残したようだ。スペインのアルタミラ洞窟と並んで壁画で有名なラスコー洞窟も、同じアキテーヌ地方に位置している。まあそれにしても、この造形の発想の豊かなこと。人間はなぜ、自分たちの似姿や狩りの様子を描いたのだろう。繰り返される日々の中で、動物にはない自覚を持って、何かを「記録」しようとした、その意志こそが、ただの無機物に「歴史」を刻んだわけである。何やら胸がドキドキする話ではないか。

さて、古代ローマによるガリア征服後、この地は地中海と大西洋を結ぶ中継地として発展したらしい。そして、早くからワイン生産がなされ、なんと、1世紀 (!!) からボルドーはワインの一大生産地として知られていたという。恐れ入りました。また、中世以降は、聖地サンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼の経由地としても栄えたらしい。

世界史上、経済でも文化でもよい。ボルドー出身の著名人には誰がいるか。恥ずかしながら、私自身はこの問いには答えられなかった。だが、3M といって、モンテーニュ、モンテスキュー、モーリヤックが 3大ボルドー出身者であるそうな。ほかにも、画家ではドラクロワ、ルドン、マルケがボルドー出身。また、ゴヤも、晩年にスペインから亡命してこの地に住んでいたらしい。ワインを産する土地には、やはり豊かな文化の水脈があるのだろう。

ポスターになっているドラクロワの「ライオン狩り」は、実は、よく構図の分からない絵だ。全体像はこんな感じ。
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真ん中の馬が切れているのがお分かりになるだろうか。実はこの絵、1855年に完成したものの、1870年に火災に遭ってしまい、上部を失ってしまった。だが、名作には当時から人々にインスピレーションを与える力があるものらしく (この点、追って記事をアップ予定の、ダ・ヴィンチの「アンギアーリの戦い」にも共通する)、幸いにも、模写が残っている。これを見ると、ライオン狩り全体の構図がよく分かり、円熟期のドラクロワらしい、動きと色彩に満ちた素晴らしい作品であったことが分かるのだ。
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そして、これを描いた画家の名前は、オディロン・ルドン。世紀末象徴主義を代表する、あのルドンだ。ルドンのイメージはロマン主義者のドラクロワとは随分と異なるが、この作品、完全に原作の動きの特徴がとらえられているにもかかわらず、独特の幻想的な色彩感は、まぎれもないルドンなのである。後世の人間は、様々な画家をつい○○派という整理をして単純に分類してしまいがちだが、画家それぞれの個性は、別に○○派に合わせて絵画に表れているのではない。それぞれの見た世界をそれぞれの方法で再構築しているわけで、このルドンによるドラクロワの模写は、全く個性の異なる 2人の天才が、期せずして違う方法で世界の見方を教えてくれるという稀有な例ではあるまいか。

展覧会ではその他、昔日のボルドーの繁栄の様子を伺うことのできる遺品があれこれ展示されていて、興味が尽きなかった。以前インドに旅行に行った際に食事で同席した初老の女性がボルドー出身と聞き、「じゃあ、子供の頃からワイン飲んで育ったんですね」と軽口 (私の悪い癖です・・・) を叩いたところ、真面目な顔で否定されたことを思い出すが、ボルドーでワイン生産が盛んであるのには、古来より脈々と流れる文化的な背景があればこそということを今回実感した。私自身は一度出張でボルドーに行ったことがあって、滞在が週末を越えたので、ワイン畑ごと世界遺産になっているサンテ・ミリオンなど訪ねて大変楽しかったが、実は、そのように構えなくても、平日のランチの際、とある世界的企業の系列の工場の社員食堂にて、蛇口のついた横倒し状態の樽からほぼ全員がワインをグラスに注いでいるのを見て、彼らの日常生活の豊かさを思い知ったものだ。もちろん彼らは、午後も普通に働くのだ。オイオイ大丈夫かと言ってはいけない。それがフランスなのだ。ましてや場所がボルドーだ。ワイン飲まないわけにいかんでしょう。私自身、ワインについて体系的に勉強したわけではなく、けものの匂いとボルドーの関係を明確には説明できないが (笑)、まあともかく、太古の昔から人間とともにあり、文化の発展にも寄与し、また、ただ単に酩酊によるよい気分と仕事の効率(?)を人々にもたらしてきたワインを、とにかく楽しもうではありませんか。というわけで、我が家の安物のワインセラーから引っ張り出した高級ボルドー、これから飲みますよ。
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by yokohama7474 | 2015-07-20 00:42 | 美術・旅行 | Comments(0)

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芸術愛好家の端くれとして時折残念に思う瞬間がある。それは、音楽好きが音楽だけを好み、美術好きが美術だけ、文学好きが文学だけ、映画好きが映画だけ、演劇好きが演劇だけを好むのを目の当たりにする瞬間である。ちょっと考えてみよう。シェークスピアを知らずしてベルリオーズやチャイコフスキーをとことん楽しめるか。マーラーを聴くのにクリムトを知らないと、いかに狭い範囲での楽しみしかないか。フリードリヒの絵画への知識なく、タルコフスキーのメッセージを感受できるか。あらゆる時代において様々な芸術家が、表現行為における越境によって自己の能力を高めたわけで、鑑賞者としてもその轍を少しでも辿ることができれば、次から次へと未知の楽しみに出会うことができる。サティの活躍した時代、1910 - 1920 年代は、そのような観点から、尽きせぬ楽しみザックザクの時代である。それは歴史上でも最も芸術分野間の垣根が低かったと思われる時代であったからだ。

この展覧会の名前には、「エリック・サティ」の前に「異端の作曲家」という肩書がついており、それは我々の持っている知識の範囲において正しいとも言えるわけだが、では同時代においてサティが全くの無理解にさらされていたかというと、決してそうではなかったようなのだ。例えば以下の絵だ。
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これらは 1892年に描かれたもの。左が「以前」、右が「以後」と名付けられていて、前者が当時カルト的人気を博したペラダン率いる薔薇十字団のメンバーとしての姿、後者は軍隊に所属したときの姿だ。秘密結社のメンバー (私的存在) としての肖像と、国に命を捧げる軍隊組織の一員 (公的存在) としての肖像と、これほどに対照的な姿はあるまい。そして、この時サティは何歳であったか。驚くなかれ、26歳なのだ!! ひえーっ、その年でこのオッサンくささ。また、あの「異端の作曲家」「アルクイユの隠者」が、軍隊に所属していたことがあったとは。これらの肖像画はマルスラン・デブーダンという画家の作品で、公に展示されたものだという。26歳の若者 (カフェ「シェ・ノワール」のピアニストだった) のこのような肖像画のペアが残されているということは、サティが全く無名で世間の無理解に苦しんでいたわけではないことを示すのではないだろうか。

そしてその翌年、サティは運命的な出会いを経験する。以前このブログでもご紹介した、ユトリロの母、シュザンヌ・ヴァラドンである。最近の研究で、サティが終生ヴァラドンに激しい恋心を抱き続けたことが明らかになっているが、出会いの年、1893年にサティ自身が五線譜にインクで描いたヴァラドンの肖像が展示されている。
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このイラストには、とても運命的出会いという一大事件を感じることはできない。対象への軽い思慕と、その思いを抱く自分を茶化す感覚が感じられる。それは、大変にサティ的な、屈折した感情と言えるであろう。人生の一大事を劇的に音楽で描くことを終生しなかった音楽家。しかし、彼の心の中には、いとしいと思うものへの強い執着があったのであろうと思う。

冒頭述べた通り、サティの活躍した時代には、様々な芸術家がそれぞれの領域を超えて互いに刺激を与え合った。例えば、バレエ「パラード」。1917年に初演された、ディアギレフ率いるロシア・バレエ団の演目。台本ジャン・コクトー。美術パブロ・ピカソ。そして音楽エリック・サティ。レオニード・マシーンの振り付け及び出演、指揮はエルネスト・アンセルメであった。初演のプログラムにはアポリネールが寄稿し、この演目を「シュールレアリスム的」と評した。なんともきら星のような才能が集まった舞台ではないか。以下はピカソによる舞台の幕。
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ところが、この曲を聴いたことがある方はご存知の通り、最高の芸術家が集うにふさわしい、魂の感動を引き起こす音楽かと言えば、全くそうではない。誠にすっとぼけた音楽で、ドタバタと反復される安っぽい旋律や、騒々しいサイレンやタイプライターの音が全くナンセンスな雰囲気を醸し出す。そう。それがモダニズムなのだ。発展する近代都市文明の中で人々が求めたものは、閉鎖された空間での絵空事の情緒的な演劇性ではなく、ひたすら軽く、立ち止まることのないエンターテインメントであったのだ。

と書いているうちにも、サティのあれこれの音楽が頭の中を去来する。彼の音楽に情緒的な要素がないというのは本当だろうか。いや、実際にはサティほど、自らの情緒や情熱という要素を覆い隠した芸術家はそう多くないであろう。そうでなくて、あの誰もが知るジムノペディ第 1番や、梨の形をした 3つの小品などの美しい作品を書くことができただろうか。彼の書いた「家具の音楽」は、コンセプトは BGM の先駆けで、音楽が流れていることを意識されないことを目的としていて、ギャラリーで演奏された際に耳を傾けた聴衆に、「聴くな、聴くな」と喚いたという逸話がある。あるいは、同じ旋律を 840回繰り返す「ヴェクサシオン」は、いわば究極のミニマルミュージック。これらが表すものは、繊細で抒情性あふれる内面に他人が入ってくるのを拒む反骨精神や諧謔性ではないだろか。上記のシュザンヌ・ヴァラドンのカリカチュアも、その意味で極めてサティ的だ。

そう思うと、この偏屈者がなんともいとしくなってくる。ふと見ると、トレードマークの、あの山高帽にステッキが展示されている。どうですかこれ。
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スイスのルツェルンでワーグナーの緑色のベレー帽を見たときも、「あー本物だ」と感動したものだが、これ、本物のサティの帽子とステッキですよ。どうしますかこれ。

偏屈者であったことは間違いないが、それでも、同時代において注目され、様々な信奉者 (モダニズムを彩る六人組のみならず、4歳年上のドビュッシーも含む) から尊敬され、慕われたサティ。陳腐な作品を量産しながらも、時に決して古びることのない奇跡のような音楽を書いたサティ。その軽さの裏にある切実な思いに、何やらじんと来るものがある。このコクトー描くカリカチュアの本物を見て抑えきれない感動を覚える私は、偏屈であることの意味を考え、その偏屈さに見出される命の灯を考え、思いはあれこれ巡るのであった。
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by yokohama7474 | 2015-07-15 01:13 | 美術・旅行 | Comments(0)

田能村竹田 出光美術館

田能村 竹田 (たのむら ちくでん) について私が知っていることは、時に遠近法を取り入れた文人画の大家だということくらいで、細やかな筆致の作品のイメージはそれなりにあるものの、まとめて作品を見る機会には恵まれなかった。今般、画家の没後 180年を記念して、出光美術館で18年ぶりという展覧会が開かれているので、出かけてみた。あとで知ったことには、出光美術館は 200点もの竹田の作品を所蔵しているらしい。今回の出展作は 50点程度だから、これでも 1/4 ということか。大したコレクションだ。
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竹田は、1777年 (安永6年)、今の大分県竹田市に生まれ、1835年 (天保6年) に大阪で亡くなっている。何せ名前が「竹田」だけに、生地の今の地名 (「たけだ」ではなく「たけた」と読むらしい) と関係があるのかと考えてしまうが、どうなのだろうか。藩医の息子だったが、藩の財政難で経済的には苦労したとのこと。作品を見ているとそのようなことはほとんど感じられず、中国、宋伝来の南画 = 文人画の伝統に則って、自然や、その一部であるかのように小さく描かれる文人の姿が、実に粋な印象である。実際に作品を見てみると、全体が大きな曲線を描いていて、写実的ではないものの、山や川の実在感を感じることができるが、細部を仔細に観察するのはなかなかに困難だ。今回、展示品の前のガラスに部分アップの画像が貼られていたため、全体像と細部を比べることができたのはよかった。例えば、出品作で唯一の重要文化財、梅花書屋図の全体像と、その中ほどより少し下の部分に描かれた建物と人物を見て頂こう。
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よく見るとなかなかに人間的である。その人間性を証明するかのように、交友関係も豊かで、頼山陽、浦上玉堂、青木木米、上田秋成ら、その時代を代表する文化人たちと交わったという (儒学者の大塩平八郎とも親交があったと説明文があって驚いたが、調べてみると、平八郎が乱を起こして自害したのは、竹田の没後 2年経ってからのことであった)。竹田の絵に添えられた、何やら難しそうに見える賛の中には、詩情あふれる漢詩もあるが、誰々さんがやってきてこんな話をしたとか、酒を飲んだとか、最近ご無沙汰だとかいうカジュアルな事柄が書いてあることも多く、何やら微笑ましい。今回は、親交のあった青木木米の京焼の幾つかが展示されており、また、竹田が木米を京都に尋ねた際に描いた自分と木米の肖像画もあって、なんともくつろいだ雰囲気があってよい。左が木米、右が竹田。
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「あー、ちょいとね、木米さん」
「なんどす、竹田はん」
「なんだか眠くなってきましたな」
「うむ。そらあかん。気つけに酒でも飲みますかいな」
「いやいや、まだ茶を飲み終わってないでしょ」
「お、せやったせやった。なら、もうちょいこのままで鶯でも聞いてまひょか」
(沈黙)
「ところであなたの名前は、『きごめ』さん?」
「ちゃうちゃう、『もくべい』や。そういうあんたは、『たけだ』さんやね」
「ええっと、そうじゃなくて、『ちくでん』なんで・・・」
(2人、あくび。鶯が一声鳴く)
・・・なんていう感じですかね。

また、竹田はいわゆるモノトーンに近い南画だけの画家ではないことが分かった。結構細かく動植物をスケッチしていており、カラフルなものもある。これらも中国画に範を取ったものであるようだ。
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江戸時代の画家にもいろいろいるが、その多くがユーモラスな個性を持っていることに改めて思い至る。この豊かな文化を大いに楽しみ、大いに誇りたい。そのためには、自由な感性で坦懐に絵を眺めることだ。観る側としても、作り手の自由な精神に少しでも近づきたいと、今回の展覧会でつくづく思ったことである。

by yokohama7474 | 2015-07-07 00:15 | 美術・旅行 | Comments(0)

重要文化財の代表作、「炎舞」で広く知られる速水 御舟 (はやみ ぎょしゅう)。わずか 40歳にして世を去った天才日本画家の展覧会を、世田谷美術館で見た。

広大な砧公園の一角にある世田谷美術館は、その良質な企画もさることながら、深い緑に抱かれた佇まいが、とても都内とは思えない。訪れるたびに気持ちがワクワクする美術館だ。
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速水御舟は 1895年に生まれ、1934年に死去した日本画家である。日本近代美術史上のビッグネームではあるものの、「炎舞」のイメージがあまりにも強く、画業の全体像を理解できる機会はあまり多くない。今回の展覧会の意義は、その御舟自身の画家としての表現力の幅の広さに加え、その周辺の、より知名度の低い画家たちとの間に、大きな影響を受けたり与えたりという関係があったことを理解することができるという点にあった。まず、今回の展覧会に出展されてはいないが、有名な「炎舞」を見ておこう。
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蛾の羽がチリチリ焼ける音が聞こえるようなこの絵から想像されるこの画家の持ち味は、「鋭敏な天才的感覚」「内省的」「人物画への無関心」「人間心理の闇への興味」というものであろうか。私は以前山種美術館でこの作品に触れた際、相対する人間をその場に縛り付けるような異様な迫力に言葉を失ったものである (尚、ちょうど今、山種美術館でこの作品が公開されている。http://www.yamatane-museum.jp/2015/07/hayami.html)。

上記の感想のうちの幾つかは、今回の展覧会でも再確認された。例えば、会場の入り口近くに展示されていた、この「菊花図」はどうだろう。
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この花は、ただの花ではない。まるでそこに佇んでこちらの様子を伺っているかのような生々しい存在感があるのだ。岸田劉生が唱えた、有名な「でろり」とした感覚が、ここには間違いなくある。そう思って調べてみると、劉生が生きたのは 1891年から 1929年。生没年とも、御舟とほぼ重なるわけである。日本画家と洋画家の違いはあれど、美のとらえ方に共通したものがあったということだろう。ただ、それだけではなく、時代の雰囲気というものが関係しているとも思われる。1999年に千葉市美術館で開かれた「甲斐庄 楠音 (かいのしょう ただおと) と大正期の画家たち」という忘れられない展覧会があって、そこには、異色の日本画家、甲斐庄楠音とその周辺の画家の、まさにでろり感覚炸裂!!の作品が多く展示されていて、今でも思い出すと身震いするくらい、強烈な印象を受けたものだ。その展覧会の図録をひっぱり出してみて、今回の展覧会で取り上げられている画家の作品がなかったかどうか調べたが、残念ながら画家の重なりはなかった。それは、楠音が京都の人であって、御舟一派とは接点がなかったことによるものであろうか。ただ、調べてみてびっくり。この楠音は、生年が 1894年。やはり御舟と同世代だ。そうすると、やはり彼らの活躍した大正時代に、活躍の舞台が東京であれ京都であれ、芸術家が何か人の心の闇を表現したくなる空気があったということだろう。一般的にはモダニズムのイメージの強い大正期であるが、なかなか単純に割り切れない時代だったということだろう。ここでは参考までに、楠音の作品をひとつ挙げておく。岩井志麻子のデビュー作、「ぼっけえ、きょうてえ」の表紙に使われた、「横櫛」という作品である。本も怖かったが、この絵も本当に怖い。
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さて、話が横櫛ならぬ横道ばかりになってしまっているが、少なくとも御舟のひとつの特色は、このようなでろり感であることは確かである。しかし、どうだろう。楠音の強烈なでろり感に比較すると、御舟の作品のすっきりとスマートなこと。楠音の作品は、時代の特殊性を纏っているが、御舟の作品は、時代を超えた普遍性を持っている。今回の収穫のひとつは、御舟の周辺で、このような「普遍的なでろり感」を持った画家がほかにもいたということだ。まず、ライバルであった小茂田 青樹 (おもだ せいじゅ)。御舟と比較するとさすがに見劣りするものの、きっちりとした情緒あふれる日本画らしい作品もあれば、内からのでろり衝動を明確に表したものもあり、優れた画家である。ところが、奇しくもこの画家も 1891年生まれの 1933年没と、やはり御舟と同世代で若くして亡くなっている。何か因縁を感じてしまう。下の絵は、「ポンポンダリア」という作品。
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それから、これも日本美術史上のビッグネームである、今村 紫紅が御舟の兄弟子であるとは知らなかった。しかも、この画家も、わずか 35歳で世を去っており、本当に因縁を感じる。その他印象に残ったのは、御舟の弟子である高橋 周桑と、吉田 善彦。いずれも、「何かが宿る風景」の画家と言えるのではないか。ヨーロッパの絵画で言えば、カスパル・ダヴィッド・フリードリヒやセガンティーニとの共通点を見出すことができる。高橋描くこの桜の絵は、セガンティーニの「悪しき母親たち」の日本版でなくてなんであろう!!
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御舟とその周辺の画家に関し、その「でろり性」を中心に論じてきたが、忘れてはならないことは、御舟の芸風の広さである。長生きすれば、あらゆる面で日本画の可能性を切り拓いて行ったに違いない。下の絵は、イタリアで描いた「オルヴェートにて」という作品。どうですかこれ。清水登之さながらの、ユーモアとモダニズムと、優しい視線を感じます。
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見応えいっぱいの展覧会を出て、空腹である自分を発見。美術館の中にある「ジャルダン」というフランス料理店で昼食を取ることとした。この美術館には何十回も来ているのに、このレストラン (結構有名らしい) には初めて入る。砧公園でホットドッグを食らうよりはずっと高級で文化的だ。そして出てきたサラダには、なにやら黄色いニンジンや、周囲が紫のニンジンが。その名もずばり、キニンジンとムラサキニンジンという種類だとのこと。へー、変わってるなぁ。しゃれた食事を紹介するような今風のブログではないので、いささか不本意ではあるが、「こういうネタもあった方がいい」という家人のアドバイスに従い、サラダの写真を載せることにします。でろりのデトックスにどうぞ。
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by yokohama7474 | 2015-07-05 00:24 | 美術・旅行 | Comments(0)

六本木の東京ミッドタウンにあるサントリー美術館で、尾形乾山を中心とした展覧会を見た。
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琳派は日本美術史において燦然と輝くブランド名であり、特に光琳、乾山の兄弟は、知らぬものとてない歴史上のビッグネームだ。しかしながら、例えば狩野派と比較すると、一般の人々のイメージが確立しているかというと、いかがであろうか。例えば光琳の紅白梅図屏風とか燕子花図とかなら、誰しも一度は見たことがあろう。だが、俵屋宗達は生没年とも不詳であるとか、そもそも宗達と光琳は活躍した時代が 100年くらい違うとか、あるいは琳派を継承した酒井抱一の活動はさらにそれより 100年あとで、しかも光琳・乾山の活躍した京都ではなく江戸の人だとか、そういったことを知っている一般人はどのくらいいることだろうか。実際、現在でもいろいろな新発見などがあり、歴史の真実はまだまだこれから明かされて行くわけである。

この展覧会は、琳派が誕生する前の状況を概観し、はるか20世紀にまで続く琳派の系譜を辿る中で、乾山の切り拓いた工芸品の新しい世界を展望するもので、見ごたえ充分だ。そもそも乾山は、兄光琳の輝かしい天才のイメージに比して、少し地味な存在と考えられている。この展覧会を見て、それはある意味で正しく、また別の意味では大きな誤解であることを思い知った。

そもそも焼き物に絵や書を入れるという発想は、どこから来たのであろうか。我々がイメージする織部や、あるいは仁清でも、そのようなものはないはず。光悦と宗達が書画のコラボレーションを始めたことが、やはり何かのインスピレーションを促したということか。焼き物となると、焼き上がりのイメージをつかんでデザインし、また、色が定着するように釉薬や絵の具に工夫を施す必要あるわけで、今我々が考えるよりも、生みの苦しみは大きかったものではないか。

それにしても、乾山の作品の、大らかな雰囲気はどうであろう。
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先日、NHK の日曜美術館でもこの展覧会を取り上げ、あれこれ解説していたが、その文学の素養や、ひねりを利かせた造形、遊び心など、乾山の発想の豊かさには、まさに感嘆のほかはない。ひとつひとつの展示品を見ていると、なんとも愉快な思いが満ちてくるのを感じる。

以前、「光琳乾山兄弟秘話」という本を読んだことがあって、乾山が 5歳年上の光琳を本当に慕っていたことを知った。今回、光琳は 59歳で亡くなっているのに対し、乾山は 81歳の長寿を全うしたことを知った。このあたりも、天才肌の兄とマイペースな弟という、芸術家としての兄弟の資質の差が人生に端的に表れているように思われる。ただ一方では、乾山が自らのブランド力を確立し、後世に琳派を継承して行く素地を作ったということであるようだ。その意味では、光琳だけでは琳派は成立せず、乾山あってこその琳派なのであると言えるのではないか。

さて、今回の展示を見ながら考えたのは、この時代においては、多くの工芸品が、美術として愛でるというよりも、皿や香炉として実用に供されていたという事実であった。そのような経緯が、これらのものに命を吹き込むのだろうか。実際、焼き物だけは、写真で見てもその魅力は伝わらない。じっくりと顔を近づけて見ることで、何かを語り始めてくれるように思う。よく小林秀雄が書いているような骨董への没入の雰囲気が、少しだけ分かるような気がしたものだ。もっとも、あの時代の文学者の破天荒さ = 真剣勝負には、なかなか現在の人間にはついて行けないものがあるが・・・。こういう便利で手軽な時代であるからこそ、たまには本物をこの目で見て、少しでも眼福とやらを味わいたいものだ。

by yokohama7474 | 2015-06-28 01:46 | 美術・旅行 | Comments(0)