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ドイツ、ニュルンベルク その 2 : ドク・ツェントルム、ナチス党大会跡

さて、ニュルンベルクでどうしても訪れたいと思った場所、それはナチに関係する場所だ。ワーグナーとのつながりによる興味からも、正しい歴史認識のためにも、是非見ておきたい。ガイドブックを見ると、あの党大会の開かれた場所には、ドク・ツェントルムなる施設があるらしい。街の東南の方角だ。また、戦後のニュルンベルク裁判が行われた場所の見学もどうやらできるらしく、それは街の北西。さて、どちらに行くか選択をしなければ。暑さと疲れで朦朧としながらも、やはり党大会跡を優先しようと思い立つ。このような光景の舞台だ。
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ナチは、政権奪取前から党大会を何度か開いていて、ここニュルンベルクでも1927年に開かれている。その後1933年に政権奪取してからは、この地を「帝国党大会の都市」とすることを決め、その後 1938年まで毎年開かれたとのこと。その理由は、南北で見れば国のほぼ中間にあることや、既に見た通り、神聖ローマ帝国の主要都市として中世から繁栄した街であったこと、それから、ワーグナーの愛国的オペラの舞台になっていることも好都合であったのだろう。それにしても、すごい規模の集会だ。世の中には、ナチがクーデターで非合法的に政権を取ったと思っている人もいるかもしれないが、そうではない。初期の段階では手段を選ばすに活動したとはいえ、最終的にはドイツ国民の熱狂的な支持を受けて、合法的に政権を手に入れたのだ。思えばワーグナーも、もともとはドレスデン蜂起などで指名手配された、いわば国の不満分子であったわけで、それがバイエルン国王の庇護のもと (しかも、一度追放されてもまた戻って来て)、音楽界の巨匠に成り上がったことは、尋常なことではない。ワーグナーとヒトラーを短絡的に結びつけたくはないが、他の欧州主要国に比べれば新興国であったドイツでは、19世紀でも 20世紀でも、様々な要因によって、何か熱狂的なものが求められていたとは言えるであろう。

能書きはともかく、現地に到着してみると、このような表示が。日本語のガイドブックにも、「ドク・ツェントルム」と書いてあって、バック・トゥー・ザ・フューチャー (古いな) ではあるまいし、どういう意味かと思いきや、「ドク」とは Dokumentation、英語でいう Documentation だ。ツェントルムはセンターだろうから、ドキュメンテーション・センター、すなわちナチ勃興とナチズムについての証拠書類を集めた場所という意味なのだろう。この直截性がなんともすごい。「安らぎ」とか「繰り返さない決意」という情緒を含んだ言葉を選ばない点、ドイツのナチズムとの厳しい対峙姿勢が見て取れる。
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中に入ると、以下のような入り口に始まり、ナチの結成以来の歴史に関する詳しい展示が、様々な写真とともになされている。
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ところで、上の写真でも、何やら煉瓦のような構造体が見える。この建物は一体何なのだろうか。ずっと進んで行くと、屋外に続くガラス張りのテラスがあり、そこから見える光景はこんな感じだ。
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なんとも大規模な馬蹄形の建造物だ。実はこれ、未完成に終わった、ナチの大会議場なのである。この後地面に降りて、そこで見かけた説明版に、完成予想図がある。反射していて少し見づらいが、こんなものである。屋根もついて 50,000人を収容する巨大な施設になるはずだった。
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さらに言うと、このあたり一帯が、まさにナチの威容と権威を表す巨大施設の集合体となる予定であった。以下の写真で、左手前がこの大会議場 (黄色は実際には完成しなかったことを意味するので、屋根の部分だけが黄色だ)。その左奥に見えるグラウンド様の場所 (色がついていないということは、当時完成していたことを意味する) は、上記の大集会が開かれた Zeppelin Field だ。そして湖を突っ切って伸びる大通りが続く先は、結局は完成しなかった、巨大な March Field (軍事パレード用の土地) である。結局そこは計画で終わったので、全体が黄色く塗られている。
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この場所は 19世紀から、ニュルンベルクの人たちの憩いの場所であったらしい。このようなのどかな風景だった。
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この湖は今もあって、豊かな水を湛えている。係の人に尋ねると、例の Zeppelin Field までは湖沿いに歩いて行くことができ、その後湖を一周して大通りを通ってドク・ツェントルムに帰って来ることができるという。そこで、例の重い図録をコインロッカーにぶち込んで、炎天下の中、歩いてみる一大決心をしたのである。・・・だが、歩き出してすぐに後悔した。湖はかなり大きく、一周 3kmくらいはあるだろう。既にヘトヘトのこの体、果たして生還できるだろうか。いや、ここで斃れるわけにはいかない。歴史の真実をこの目で見なければ。というわけで、いささか大げさに自分を励まし、その割にはこまめに水を飲み、木陰と見ればいそいそとそこを通って、歩き出した。湖の反対側から見た大会議場。
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まず目指すのは、Zeppelin Field。
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あ、見えてきました。完全に廃墟と化して、雑草が生えている。正面の部分 (いちばん上の写真で、ハーケンクロイツが並んでいる列柱の真ん中にある、恐らくは要人席か) と左右の座席が残されているが、"Enter at your own risk" などと、つれない看板がある。特に維持保存処理をしているわけではなく、崩れても責任持たんぞということだろう。この場所の前は道路になっているが、通行止めだ。いわば昔のスタジアムの忌まわしさを断ち切るように、場所そのものが分断されている。
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それにしても、自分が今歴史の舞台にいることを、ダラダラ流れる汗とともに実感する。いや、でもこれは何百年も前の話ではない。たかだが 70年や 80年前の話だ。ただその頂点と崩壊が極端であったため、「つわものどもが夢のあと」という感覚を、痛切に感じることができる。残された正面の建造物は、上の方が崩れていて、よく見ると銃弾のあとのようにも見える。
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また、ヒトラーが立ったであろう、正面中心のバルコニーに立ってみる。ずっと向うに、反対側の客席が見える (最初から 2番目の写真で、ハーケンクロイツの幟が立っているところ)。炎暑にゆらゆら揺らめく映像が、「ハイル!! ハイル!!」という幻聴を呼び起こす。今は限りなく静かな場所だ。本当に何万もの人々が、ここで熱狂に身を委ねていたのだろうか。
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ただよく見ると、いや、よく見ずとも一見して明らかなのだが、この場所、今でもグラウンドとして使われているようだ。確かに、これだけの規模の敷地を無意味に放置するのはもったいない。過去は過去として、現代の人々が有効活用できる方がよい。但し、今残っている建造物自体も、全く手を加えなければいずれ朽ち果てるであろう。歴史を実際に体感できる場所として、できれば保存してほしいと思う。忌まわしさに目を背けることなく対峙しているドイツ人のこと、いずれそのようにするのではないだろうか。

そして、湖の横を通って、大通りへと出た。果てしない一直線だ。左を見る。
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そして右を見る。
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軍靴の音は聞こえない。人っ子ひとりいない。この虚しさはどうだ。まるでキリコの描くシュールな昼下がりという感じではないか。

それからドク・ツェントルムに戻る途中、面白いものを発見。ニュルンベルク交響楽団のオフィスだ。恐らくはナチの遺構である大会議場の一部を練習場として活用しているのではないか。いや、この入り口の雰囲気は、ただの練習場とかオフィスだけでなく、コンサートも開いているのかもしれない。ユニークな試みではあるが、大変有意義なことなのではないか。
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さて、なんとかドク・ツェントルムに生還することができた。あとは、ニュルンベルク裁判が開かれた法廷まで出かけるかどうかだ。時刻は既に 16時45分。多分もう無理だろう。またの機会にしよう、と決心し、重い図録を再び手に取って、ニュルンベルク駅に引き返した。

ハードな一日であったが、バイロイトのホテルに戻ってきて調べてみると、ニュルンベルク裁判が開かれた法廷は一般公開しているものの、火曜日は休みとのこと。この日はたまたま火曜であったので、夕方から無理して出かけて行っても、無駄骨になるところであった。やはり、危険なほど暑い炎天下に歴史遺産めぐりをする者に、まああまり無理すんなやという、天の声であったのかもしれない。よーし、次回は絶対行くぞー。地元でこんなマニアックなガイドブックも手に入れたし、次回は万全です。
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by yokohama7474 | 2015-08-12 16:43 | 美術・旅行 | Comments(0)

ドイツ、ニュルンベルク その 1 : ゲルマン国立博物館、カイザーブルク、デューラーの家、フラウエン教会、聖ロレンツォ教会、聖セバルドゥス教会等

バイロイトからどこかに観光に出かけるとすると、ニュルンベルクとバンベルクが筆頭候補になるだろう。今日はオペラがないので、ニュルンベルクに出かけてみることにした。

ニュルンベルクと言えば、音楽好きならもちろん、ワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタジンガー」を思い出すであろうし、現代史の舞台としては、ナチの大規模な党大会と、戦後にナチが裁かれたニュルンベルク裁判といったところであろうか。そんなことから、中世の雰囲気とか職人の街というイメージと、ナチの暴力的イメージが交錯するのだが、ワーグナーのオペラがその双方に接点を持っている。つまり、本来は喜劇である「マイスタジンガー」には国粋的要素があり、ヒトラーの大のお気に入りでもあったことから、戦時中のドイツでは戦意高揚のために盛んに演奏されたわけで、そのことが今に至っても、この作品の演奏に複雑な要素を加えているわけだ。ともあれ、どんなところか行ってみましょう。

バイロイトからニュルンベルクは、通常なら列車で 1時間くらいで到着するようであるが、なんでも一部が不通になっているとかで、Pegnitz という駅でバスに乗り換え、1時間半くらいかかることとなった。とはいえ、朝のバイロイト駅は心地よい。駅から、丘の上の祝祭劇場が見えます。途中バス利用になるにも関わらず、ドイツ国鉄の時刻表では、1分単位で細かい到着時刻が設定されていて、「ほーさすがドイツ人。正確な運行をするんだねぇ」と思うと、始発のはずの列車の出発がいきなり 2分遅れて、まあやはりそんなもんでしょうと、ちょっと安心する (笑)。まあ、そのくらいの遅れは大勢に影響ないって。
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さて、ニュルンベルクに到着。駅から見える風景はこんな感じ。ほう、やはり中世そのままという感じですな。歩き出すと、城壁も見ることができます。
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普通の人はここから正面を入って、中世職人広場というところを通るらしいが、私はそれを見逃した。なぜなら、地図でオペラハウスの位置を見ると、駅の左側になっていたので、どんなところか見てやろうと思って、そちらを回ったからである。まっさか、「マイスタジンガー」専門の劇場ではないでしょうなぁ。あっはっは・・・と心の中で笑いながら辿り着いたのは、こんな建物だ。
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おお、これは明らかに 100年は経っている。素晴らしい建物だ。中に入って今シーズンの冊子を探すと、なんと、バレエや演劇も含めて紹介する 200ページくらいのもので、スタイリッシュな写真も沢山入っている。Marcus Bosch という指揮者が音楽監督らしい。ちょっと聴いてみたいと思った。ヨーロッパのちょっとした都市にはどこでもオペラハウスがあって、国際的知名度に関わらず、地元の人たちに充実した時間を与えているのだと思うと、やはりヨーロッパの文化における層の厚みを思う。

そして、次に訪れたゲルマン国立博物館が、その広さと展示物の多さに、これまたびっくり仰天。フラッシュを使わなければ写真 OK とのことだったので、たくさん撮影したが、例えば以下の地球儀は、1520年にバンベルクで作製されたもの。ドイツ人が大航海時代に世界を飛び回ったとは理解していないので (カトリックの反宗教改革がその原動力であったはずなので)、伝聞や書物による情報に基づいているのだろうが、やはりドイツ人侮りがたしですな。とはいえ、日本 (ちゃんと Zipang と書いてある) がこの、明太子みたいな形の土地であると言われると、ちょっと複雑だなぁ。ちなみに、左側には中国があるが、日本の回りは太平洋で、右側に見える大陸は、どうやら南米らしい。トホホ。
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ゲルマンと銘打っているだけあり、絵画もドイツ作品中心の堂々たるコレクションだ。もちろん同地出身のデューラーもいろいろあるが、私の大好きな画家たち、アルトドルファー、クラナッハ父子、ハンス・バルデュンク・グリーン等々、よだれものだ。
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また、もともとあった教会に隣接して博物館を建てたのであろう。その教会スペースにも、所狭しと宗教美術が。ドイツには素晴らしい木彫りの彫刻が多いが、ここでも圧倒的な存在感だ。
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うーん、広い室内を歩き回り、面白すぎてクラクラして来たのでそろそろ帰ろうかと思ったら、"Monster" という特別展が開かれているのを発見。このポスター、世紀末ミュンヘンの天才、フランツ・フォン・シュトゥックだ。これまた私にとってど真ん中の画家。
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詳細は省略するが、この展覧会はなかなかに貴重な妖怪変化の画像を集めたもので、妖怪・お化け・怪獣には目のない私としては、当然ながら図録の購入となる。それが厚さ 5cm は優にあろうかという大部な本で、重いのなんのって。でもしょうがない。その後この重い本を抱えて今日一日中、ニュルンベルク中をほっつき歩くという拷問を自らに課した私でありました・・・。

最初のうちはまだよかったのである。毎日 12時からパフォーマンスが始まるというフラウエン教会の仕掛け時計など無邪気に見入る。神聖ローマ皇帝カール 4世の周りを、7人の選帝侯がぐるぐる回る。
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そして昼食には、もちろんニュルンベルク名物のソーセージとビールに〆のエスプレッソ。ソーセージのこんがりと焼けるいい匂いにつられて入ったが、う、うまい!! 加えて、〆て17ユーロと、極めてリーゾナブル!!
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と、上機嫌になったのもつかのま。さて、それからが午後の試練だ。神聖ローマ皇帝の居城、カイザーブルク。12世紀から築かれ始め、15 - 16世紀に現在の形になったとされる、必見の歴史的場所だ。でも、坂道を延々と上らなくてはならない。うぉぉ、あそこまで行くのか。展覧会の図録は重く、気温は実に 35度だ。き、きつい・・・。
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ここでひるんでなるものか。ということで、気合を入れてむしろ大きめなストライドを取って、なんとか現地に辿り着き、このカイザーブルクの中世そのままの雰囲気を、結局は存分に楽しむことができた。二重構造のチャペル。
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深さ 50m の深い井戸。なんでも 14世紀からその存在が記録に見えるという信じられない遺構。30分おきにガイドの案内つきでしか入場できないが、水差しの水を井戸に注いで、数秒後にやっと水面に落ちるバシャッという音が聞こえる。また、ろうそくを入れた金属のトレイにカメラがついていて、水面ギリギリまで下ろし、その映像を見るというデモンストレーションもあり。
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そして最後は、塔である。エレベーターがあってくれという願いも空しく、木製の階段しかないことを知り、とにかく気合で頂上まで上ったのだ。もちろん、重い図録を持ったままだ。ここに上るとニュルンベルクが一望でき、また、戦時中爆撃で瓦礫と化した街の写真と現在の情景を比較できる。なんでもこの街は、戦時中に 90% の建物が破壊されたらしく、今見る中世そのままのように見える街並みは、実は根気強く復元されたものなのだ。戦争をしかけた国とはいえ、やはりすべての国民に悲劇が襲ったと思うと、なんとも痛々しい思いがする。
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カイザーブルクを後にし、水をガブガブ飲みながら、デューラーの家へ。内部はそれらしく復元されていて、当時から成功していたこの画家の存在感を感じることができる。1階にコインロッカーがあり、内部見学中は一旦、重い図録から解放される。
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それから、この街には素晴らしい教会が多い。ちょうど午後には光が堂内に差して来て、異教徒でも自然と敬虔な思いになるものだ。これらの教会も復元されたものであることを知り、なんとも痛ましい気持ちになるが、それだけに一層、この神々しさが心に沁みるのである。暑さと展覧会の図録の重さで、既に朦朧としていた私にとって、しばしの甦りの時間となった。心が洗われるとはまさにこのこと。
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もう一度街中を見てみる。なんとも風情のある中世の街並だ。これを復元した人たちの誇りが充分伝わって来る気がする。
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何本も水を飲んで歩き続けたが、既に足は棒、図録は (しつこいなぁ) 重い。でもダメだ。まだどうしても行かなくてはならない場所が・・・。ぜぃぜぃぜぃ。

次回に続く。ちなみに、件の図録、こんな感じです。こんなの持って炎天下を歩き回るバカは、そうはいないと思う。
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by yokohama7474 | 2015-08-12 06:29 | 美術・旅行 | Comments(0)

ドイツ、バイロイト フランツ・リストの墓

世界のいろんなところで、墓探しをすることがままある。もちろん、芸術家の墓である。ニューヨーク在住時には、ブルックリンまで行って、何の手がかりもなしにバーンスタインの墓を苦労して見つけたし、スイスの田舎町ロシニエールでは、孤高の画家バルチュスの回顧展に出かけるついでに、カウベルののどかな響きの中、何の案内も出ていない彼の墓を自力で探り当てた。もちろん、ウィーンやパリといったお墓のメッカ (?) では、芸術家の墓探しにそれなりの時間をかけているのである。正直、祖先の墓に詣でるよりも、縁もゆかりもない異国人の墓に詣でる機会の方が多いかもしれず、祖先には全く申し開きようもないのだが、自分がこの世に生を受けたのもご先祖様のおかげという感謝の心を忘れないことに免じて、どうか許して下さい。

西洋人の墓の場合は土葬も多いわけで、英語で遺体を意味する "Remains" なんていう粋な (?) 言葉もあるくらいだ。この言葉、なんともよい響きではないですか。できれば座右の銘にしたいくらいだ (もちろんウソです)。キリスト教の教義に則って、最後の審判の日まで肉体の残留物を取っておくという発想は、なかなか日本人にはないものだが、かつてこの世で天才的能力を発揮した人の墓の前に立つとき、その人の肉体は朽ち果てて土に帰っているにもかかわらず、その人を記憶するモニュメントとしての墓が、要するに人間代々の心の中の残留物、Remains として、肉体にはない新たな価値を持っていることを感じられるから素晴らしいのだ。

先般の記事で、作曲家フランツ・リストの墓がバイロイトにあると聞いたことを書いた。そこで、炎暑の中ホテルから歩いて、その墓地に行ってみたのである。場所は、市街地から西側、Ramada Hotel 近くの Erlanger Strasse に面した、Stadtfriedhof (市立霊園ということか)。フランツ・リスト博物館のオバチャンのアドバイスに従い、メインの入口ではなく、墓地の教会のすぐ横にある小さな入口から入り、すぐ左手を見ると、写真で見覚えのあるチャペルが。
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中には、大変シンプルなリストの墓が。
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大変綺麗に保たれているので、定期的に掃除をする人がいるのであろう。周りを見ると、こんな感じ。バイロイトの街の人たちが、現世の苦しみから解放され、なんとも穏やかな眠りについておられる。今日は月曜日だが、墓参りに来ている地元の人たちもちらほら見かけた。
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気候の違いもあり、日本の墓はこんなにからっとしていない。たまにはヨーロッパで、違う人種の人たちの Remains に思いを馳せるのも、悪くない。

by yokohama7474 | 2015-08-11 06:33 | 美術・旅行 | Comments(0)

ドイツ、バイロイト ワーグナー旧居 (ヴァーンフリート荘)、フランツ・リスト博物館、ジャン・パウル博物館等

前回からの続き。

ふと目が覚める。うーん、ここはどこだ。目をこすってみる。何やら案内板が。
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ん、なになに。"eu" はドイツ語では「オイ」と発音するんだよね。ええっと・・・バイ、ロイ、ス、いや、ト???? バイロイトだって?! は? Wahnfried? ヴァーンフリートって、あのワーグナーの住んでいた家だよね? どこに? えっ、目の前???
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ええーっ、これって本物のヴァーンフリートではありませんか!! いやー、やっぱり人間、強く望めば叶うのですな。あれほど来たかったバイロイトのヴァーンフリートに、本当に来てしまいました。こうなればしょうがない。早速、中に入ってみよう。
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当たり前だが、これまで映画や、ここで撮影されたコンサートの映像で見たものと同じだ。これが、昔ワーグナーとその妻コジマ (リストの娘) が暮らし、それから代々受け継がれてきた、ワーグナーの聖地なのだ。佇まいそのものは質素と言ってもよい。このサロンには、古い蔵書もズラリとそのまま展示してあり、例えばベートヴェンの作品全集 (楽譜なのだろう) もある。ワーグナー自身が見ていたものかどうかは分からないが、とにかくここにあるということは、その可能性もあるわけで、なんともゾクゾクする。
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前回の記事で扱った本を読んで、ワーグナー自身及び、バイロイト音楽祭に関係するその子孫に関しては、膨大な量の史料が残っていることを知った。19世紀の作曲家で、ここまで情報量の多い人は、ほかにいるだろうかという気がする (いや、20世紀の作曲家でもここまで多い人はいないのでは?)。そして、ワーグナーの作品もさることながら、この街の歴史を少し知った上でこの建物に入ると、額縁に収まった巨匠作曲家ワーグナーでなく、人間ワーグナーの存在感というものを、ひしひしと感じるのだ。併設の資料館にも興味深い展示品が目白押しだが、例えば、ワーグナーとコジマの日常品も大切に保管され、展示されている。
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これらを着て、ものを書いたり喋ったりし、ここで人類史上まれに見る意義深い文化生活を送っていた人たちが、この旧居の庭に、今は 2人で眠っている。ちょうどシーズン中なので観光客は比較的多いし、いろんな国のワーグナー協会から花が贈られるらしいが、でもまあ、その激動の人生を思えば、ひっそりと眠っているという言葉がぴったりくるようだ。
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また、過去のバイロイト音楽祭についての資料もふんだんだ。音楽祭が 1876年に始まって以来約 140年。途中資金難や戦争による中断もあり、3年ごとに休演するのが恒例の時代もあったが、いずれにせよ大変長い歴史だ。その長い歴史の中で、音楽祭に登場したすべての指揮者の写真が飾ってあり、興味は尽きない。常連として何度も登場した人もいれば、たった 1回のみの人もいる (我が国唯一の出演指揮者、大植英次もそのひとり)。実際に数えてみたら、75人だ。へーこの人がと思う指揮者もあれば、当然いてもよさそうなのにいない指揮者もいる。一部分、写真を撮ってみた。先日読響との演奏会をご紹介したスキンヘッドの怪人指揮者、デニス・ラッセル・デイヴィスも出演している。中断の真ん中、カラヤンの下だ。意外に目が可愛いのです。
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このヴァーンフリート荘は、1874年に建てられており、建物前の胸像はルートヴィヒ 2世だが、それも建設当時からあったことが写真によって判明する。ほかに興味深い写真は、例えば以下のもの。1945年、戦争末期にバイロイトも連合国軍の爆撃を受け、2/3 くらい破損してしまったとのことで、その痛々しい情景 (無邪気にバク転している少女の存在が余計無常感をそそる) と、連合国軍兵士 (アメリカ人だろう) が、爆撃によるものとおぼしき埃の積もったピアノを困惑気味にチェックしている (?) ところ。こういう時代を超えて、音楽祭は継続して来たのだ。
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ところでバイロイトという街、どこにあるのか、場所を確認しておこう。南ドイツ、バイエルン州の北東、ほとんどチェコとの国境に近いところに位置している。
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ある本によると、この街は、「そのままボヘミアの森に続いている」。そこで私はハタと気づいたのだ。ナチスドイツが当時のチェコスロヴァキアから奪い取った土地、ズデーテン地方 (ドイツ語圏) は、もうこのバイロイトからは目と鼻の先だ。
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ヒトラーは 1920年代からバイロイトに入り浸っており、1930年代前半の、権力を掌握する際どい過程でも、このヴァーンフリートにしばしば突然現れ、深夜や明け方までワーグナー家の面々とくつろいで過ごしたという。すなわち、ここは早くから、現実離れをした神聖な芸術だけが語られ、用意され、演奏される場所では決してなく、人々が血を流し涙を流す、のっぴきならない現実の舞台のすぐ近くに存在していたということだ。戦後の非ナチ化は険しい道のりだったが、それから 70年経った今でも、戦争と文化が危険な一線を越えてしまった時代は、まだ過去のものにはなっていない。

まあ、重い話はさておき、街歩きを続けよう。実は、あまりガイドブックには紹介されていないようだが、このヴァーンフリート荘のすぐ隣に、もうひとりの大作曲家で、ワーグナーの妻コジマの父でもある、フランツ・リストが亡くなった家があり、彼の博物館になっている。この人、作曲家としては、ピアノ作品以外にはあまり傑作は多くないものの、ロマン主義の時代を彩った悪魔的なピアニストとしてだけでも、充分に歴史に名を刻んだであろう。若い頃から沢山肖像画が残っていることから、その選ばれた人生が偲ばれる。以下、10代の肖像画 (利発そう! ハンガリー生まれなので、名前の表記が、日本人のように姓・名の順になっている)、20代の肖像画 (めっちゃイケメン!!)、そしてデスマスク (おー、しわくちゃの爺さんだ!!!) をご覧頂き、どんな特別な人間も、時の流れからは自由でないことをお感じ下さい。
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この博物館の受付のオバチャンにいくつか質問していると、実はリストはこのバイロイトで亡くなったことが分かった。1876年、75歳のときで、折しも音楽祭開催中の夏季のことだったという。そして、遺言で、音楽とは関係のない静かで質素な環境に埋葬して欲しいと言ったらしく、バイロイトの市立霊園に葬られたそうな。見せられた墓の写真では、チャペルが付随しているようで、通常人に比べれば質素ではないかもしれないが、他の多くの一般人と一緒に眠っているあたり、選ばれた者ゆえの潔さを感じてしまう。バイロイト滞在中に墓所を訪れる予定。

さてさて、実はもうひとつ隠れた博物館が数軒先にある。それは、ジャン・パウル博物館。
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ジャン・パウル (1763 - 1825) と言っても、誰それ、と思う人がほとんどであろうし、私自身も著作を読んだことはない。でも、ひとつ名前を知っている書物がある。それは、「巨人」という作品 (邦訳も出ているが、かなり分厚い本だ)。クラシックファンの方はピンと来るだろう。あのマーラーが、交響曲第 1番「巨人」の霊感を得た書物だ。そのジャン・パウル、ここバイロイトでは深く尊敬されているらしい。別の場所に、こんな石碑もある。
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そして、私自身も最近知ったばかりの、とっておきの逸話をご紹介しよう。このジャン・パウルが、奇しくもワーグナーが生まれたその年、1813年に、よりにもよってこのバイロイトで、驚くべきことに以下のような文章をものしているのだ。

QUOTE
これまで太陽神アポロは、右手に詩の才能を、左手に音楽の才能を携えて、その才能を互いに遠く離れ離れに立っている人間に向かって、常にそれぞれ別々に投げ与えていたが、正真正銘のオペラの台本が書け、同時に台本に相応しい音楽を作曲できる人物の到来を、つい今この瞬間に至るも、我々は変わらず待ち焦がれているのだ。
UNQUOTE

これはまさにワーグナーのことではないか!! ワーグナーの生まれた年に、ワーグナーが生涯その芸術を永劫に刻むことになる土地で、こんなことを予言した人物がいたとは、誠に驚きである。

余談ながら、このジャン・パウル博物館は、イギリス出身の著述家、ヒューストン・ステュアート・チェンバレンが住んでいた邸宅であるらしい。このチェンバレン、ワーグナーのコジマとの間の二女であるエーファと結婚した、ワーグナー一家のメンバーであるが、著しい人種論者で、反ユダヤ思想という点で、ヒトラーにも相当影響を与えたらしい。例のヴィニフレート・ワーグナーの伝記にも何度も登場するが、ここにも歴史の重要な一コマが存在するのだ。もしチェンバレンがエーファと結婚せず、またヒトラーが若いゴロツキの頃からバイロイトを頻繁に訪れていなかったら・・・と考えても詮無いことではあるが。今は全く異なる文学者、ジャン・パウルを記念する博物館として、チェンバレンがここに生きたということすら忘れられようとしている。

このバイロイトという街、今ではこじんまりとした佇まいだが、かつてはブランデンブルク辺境伯の宮廷が置かれていて、フリードリヒ大王の姉が嫁いで来たという歴史もあって、バロックやロココの建物が残っている。その筆頭が、世界遺産、辺境伯オペラハウスで、大変豪華な内装で知られているが、現在は 2018年まで保存改修中。残念ながら、外見と、付設の博物館の展示品のイメージのみしか体験できなかった。
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また、街中を歩いていて、旧市庁舎の奥にある文化博物館で、私のお気に入り (という表現には語弊があるが、要するに常に気になるという意味) の画家、ゲオルゲ・グロッス (1893 - 1959) の作品展を発見。飛び上がって喜び、早速鑑賞。
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このグロッスは、1920年代、30年代に、戦争の恐ろしさと貧富の差、都市にあふれる社会の底辺の人々を、皮肉にも軽妙なタッチで描いた画家。最近はジョージ・グロスとアメリカ式に呼ばれることも多いようだが、彼自身が米国に帰化したか否かは関係ない。その創作の絶頂期の活躍場所と描いている情景がドイツである以上、絶対にゲオルゲ・グロッスであるべきだ。今回の展覧会も、まさにグロッスらしい、おぞましくも哀しいブラックユーモアにあふれた作品のオンパレード。このような、全く予期せぬ展覧会との出会いもまた、楽しい。

さてさて、バイロイトでまだ訪れるべき場所はあるものの、夜のオペラに備えて一旦宿に帰ることとした。目抜き通り、マクシミリアン通りは、戦後は車道になっていたたようだが、今では石畳に戻され、歩行者用の道。今日は日曜なので、店も大方閉まっており、なんとも穏やかな雰囲気。観光客でもっているはずの街にしては、土産物屋もあまり見かけないし (ワーグナー饅頭とかワーグナー煎餅なんてありそうだと思ったが、どうやらなさそうだ)、日曜だから休むというのも商売っ気ないなぁ・・・。まあそれも、昔戦争で大きな荒波に揉まれた街の、今は大人の表情ということか。
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街には、犬を連れた人々ものんびり歩いている。また、ヴァーンフリートのワーグナー博物館の展示品にも、往年の名テノール、ラウリッツ・メルヒオールが 1931年にバイロイトでタンホイザーとジークフリートを歌ったときの写真として、多くの猟犬と戯れている微笑ましいシーンが見られた。いつの時代も、犬は人をホッとさせるものですな。特にビーグル (笑)。
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ああそういえば、先にご紹介した本を読んだ記憶だが、この写真が撮られた 1931年とは、このバイロイト音楽祭で唯一、トスカニーニとフルトヴェングラーが両方指揮台に立った年ではなかったか。本には、こんなポスターが掲載されている。そういう演奏を聴けた人たちは、なんという至福を味わったことだろうか。
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by yokohama7474 | 2015-08-10 09:30 | 美術・旅行 | Comments(0)

画鬼 暁斎 三菱一号館美術館

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幕末から明治にかけて活躍した絵師、河鍋 暁斎 (かわなべ きょうさい 1831 - 1889) の展覧会であるが、ひとつひねりがあって、近代日本で様々な洋風建築を設計した英国人建築家、ジョサイア・コンドル (1852 - 1920) との関係に焦点を当てている。それは、近代都市東京を彩った初期の建築である、オリジナルの三菱一号館の設計者がコンドルであって、この三菱一号館美術館は、それの忠実な復元であるという由緒によるものだ。なかなかに気が利いている。

暁斎は、随分以前から私の興味を惹いてやまない画家なのであるが、その理由は、まさにその狂気をはらんだかのような迫真の筆に圧倒されるからである。この展覧会でも使われている「画鬼」という称号 (?) は自らによるものであるらしく、まさに鬼気迫る創作態度は、画を描く鬼と呼ぶにふさわしい。本人の面構えも、以下のごとく、期待を裏切らないものだ。バクモンの太田がしなびたような顔 (?) だ。
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ともあれ、その筆致の凄まじいこと。今回の出品作の中では、例えばこの「文昌星之図」はどうだろう。自由闊達な筆遣いが大変な勢いを感じさせる。
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但し、この暁斎という画家、あまりに多くのジャンルで多くの作品を手掛けた、ある意味では濫造したがゆえに、いまひとつ全体像が見えにくいという評価になっていて、実際その通りであると思う。本人は狩野派としての自覚があったとのことだが、浮世絵や、今回ひっそりと (?) 展示されている春画を含めて、世間の要望があれこれあって、それに貪欲に応えて行った面もあるのかもしれない。考えてみれば、同時代の画家として、狩野芳崖 (1828年生まれ) や橋本雅邦 (1835年生まれ) がいるが、これらの画家たちには重要文化財指定の作品がある (代表作は、狩野芳崖の有名な「悲母観音」だ)。一方、暁斎よりも後の世代、日本美術院創設後の画家たち、横山大観 (1868年生まれ) や菱田春草 (1874年生まれ) にも重要文化財があれこれある。それに引き替え、暁斎はどうだろう。重要文化財指定など、あるのだろうか。調べてみたところ、実は暁斎にも重要文化財指定の作品がどうやら一点あるらしい。それは、「北海道人樹下午睡図」というもの。但しこれは、モデルが探検家、松浦武四郎ということで、北海道開拓史との関係での価値が評価されての指定であろうと思う。このような絵である (今回の展覧会には出展されません)。
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私の場合、1989年に太田記念美術館での暁斎展を見て大いに魅せられ、1994年には大英博物館でも、"Demon of Painting / The Art of Kawanabe Kyosai" という展覧会を見て、暁斎の大ファンになったのである。手元で大事にしている大英博物館での展覧会の図録は以下の通り。表紙になっているのは、劇場の緞帳として百鬼夜行を即興的に描いたものの一部。どうです、なんとも暁斎らしい勢いがあるではありませんか (今回の展覧会には出展されません)。
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あえて今回の出展作でないものの写真を掲載するには意味があって、上述の通り、今回の展覧会は、建築家コンドルとの関係がひとつの目玉になっているゆえ、本来の暁斎の天衣無縫な作風の作品は、それほど多くないからだ。もちろん、コンドルとの関係も興味津々。コンドルの代表作として今日に残るのは、神田のニコライ堂や旧岩崎邸だろうか。だが、本当の彼の代表作は、鹿鳴館であり、上野の帝国博物館であったはずだ。帝国博物館、今の東京国立博物館は、既に重要文化財だが、もともとは関東大震災の前にコンドルの壮大な建物が存在していた。
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また今回、東大が保存する鹿鳴館の階段を初めて見ることができた。おー、なんという浪漫。
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そして、なんとも気持ちが高まるのは、この英国人コンドルが、暁斎に弟子入りしたことだ。当時のあらゆる人が、先進国からの使者として崇めたであろうコンドル。そのコンドルが暁斎に弟子入りして絵が学んだことの意義を、今一度考えてみたい。西洋のものが万能であるわけではない。各地域、各場所に素晴らしい文化があり、それは、それぞれの土地の人たちが意識しないと分からないものなのかもしれない。暁斎に弟子入りしたコンドルの作品を見てみよう。これが西洋人の手になるものだと分かるだろうか。
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こうして見てくると、暁斎の狂気をはらんだ芸術は、実は世界的に価値のあるものであったことが分かる。権威主義とは無縁の生涯を送った暁斎。その生き様を、もう一度しっかり見直し、自分だけの暁斎を心の中で育みたい。

by yokohama7474 | 2015-08-02 21:11 | 美術・旅行 | Comments(0)

魔女の秘密展 名古屋市博物館

夏休みということもあり、家族連れで楽しめ、かつ少し納涼も期待できる展覧会ということだろうか、魔女についての展覧会が名古屋で開かれている。既に大阪、新潟を回り、このあとは浜松と広島を巡回する予定である。名古屋での会場は、名古屋市博物館。いささか古めかしいと言ってもよい建物だが、この展覧会の入り口はお化け屋敷風に設営され、さて一体何が見られるのかと、訪問者をワクワクさせる。
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魔女というと日本では、昔からアニメにもキャラクターがあり、最近は美魔女などという言葉もあって、人を魅了する魔法の使い手として、なにか可愛らしく不思議な存在というイメージであるが、この展覧会は一味違う。2009年にドイツ・プファルツ歴史博物館が企画開催した展覧会がベースになっているという。それを聞いて私は、この展覧会の性質になんとなく思い至った。主催者の方々を邪魔する意図は毛頭ないが、これは家族用の企画ではない。人類の歴史の暗黒面について考えさせられる、大変に重い内容の展覧会だ。

プファルツ地方は南ドイツ、ライン川沿い。シュパイヤーという街が中心。そう言えば随分以前に、このシュパイヤーの大聖堂でゲオルク・ショルティが珍しくシュトゥットガルト放送響を指揮したブルックナー 2番を NHK が放送していた。また、セルジュ・チェリビダッケがライン・プファルツ管弦楽団なるオケを指揮したバルトークの映像も手元にある。ドイツの中でも、この地域には一般に知られた観光地があるようには思えず、重苦しい音楽の似合う地域という勝手なイメージがある。ただ、どんな地域であるかは全く知識がなかったので、あれこれ思って調べてみると、なんと、魔女という言葉は南ドイツで生まれていて、なおかつ驚くべきことには、欧州では 15世紀半ばからの 300年間で実に 6万人 (!) が魔女として処刑されており、その半分以上がドイツ (当時の神聖ローマ帝国) の領域内で起こったということを知るに至った。宗教裁判といえば、反宗教改革としてカトリック圏、特にスペインで行われた火あぶり等を思い浮かべるが、なんのことはない、プロテスタントのお膝元であるドイツが最大の悲劇の舞台だったとは。自国で発生した残虐事件については、ナチスでもう手一杯かと思われたドイツが、独を、いや毒を食らわば皿までと企画したのがこの展覧会であろうか。ことほどさように、とてもとても家族で楽しく見られるような内容ではない。

展示品には様々な神秘的なものがある。最初は魔除けの処方箋やお守り、人形やメダルなどだ。これは、ランツフートという場所で発行された「飲むお守り」。この聖母像を一体ずつちぎって水で飲んだという。邪悪なるものを追い払いたいという人間の切なる願いを知ることができる。
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それから、錬金術についての展示がある。大規模なペストの流行や相次ぐ戦争で人心が動揺し、形容しがたい不安が欧州中を覆った時代についての展示がある。ここで鑑賞者は気づくのだ。生きることが困難であったからこそ生じた、人知を超えた不可思議な力への憧れと畏れ、またそれゆえにこそ生じた社会の中でのスケープゴートの必要性を。これこそが欧州が魔女を生み出した原動力とするならば、それは人間が万能ではなく弱い存在である以上、歴史の中でいついかなる時代にも生まれる狂気の産物こそが魔女なのだ。

そこに追い打ちをかける発見があった。ルネサンス 3大発明のひとつと言われる、印刷術だ。そういえば、この時代に生まれたグーテンベルクの印刷術。その発明はどこで生まれたか。ドイツではないか。ルターの宗教改革を支えた印刷術はまた、人々が求めるスケープゴートのイメージの流布に大きく貢献したわけだ。デューラーのような叡智に満ちた人物さえ、このような魔女のイメージ (1500 - 1503年) で、人々の恐怖心を煽ったのであろう。
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展覧会はまさにクライマックスで、拷問道具や魔女が着せられたシャツの複製、また死刑執行人のマスクなどが登場する。なんとも身震いする展示品だ。罪もない多くの人々が自白を強要され、無実を訴えながら処刑されていった。
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最後に執行された魔女の処刑は、1795年ポーランドでのことらしい。近代文明の発展とともに魔女狩りは姿を消したと言ってもよいわけだが、我々はその後の人類の歴史において、ナチスによるホロコーストはもとより、戦後ハリウッドでは赤狩りが、スターリン時代には粛清が、毛沢東時代の中国では文化大革命が起こったことを知っている。魔女狩りこそは人間の本性にひそむ、本当の魔であることに思い至るのである。

それにしても、さすがドイツの歴史博物館、自分たちの歴史のダークサイドを直視する勇気はすごい。現代の我々は、このような展覧会を見る機会によって、そのことを肝に銘じる必要がある。なので、名古屋のお父さんお母さん方、そこんとこ、よろしくお願いします。

by yokohama7474 | 2015-07-27 22:50 | 美術・旅行 | Comments(0)

Hiroshi Hara Wallpapers 建築家・原 広司による、2500年の空間的思考をたどる写経 梅田スカイビル

東京と比較して大阪は、意表を突く建築が多いと思う。なんちゅうかその、エライこっちゃーという感じの、トラブルを楽しむ難波気質がそこここに充溢している。実は私自身、生まれは大阪。この感覚は分からなくはない。ただ、その大阪でも、この建築には度肝を抜かれた。
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梅田スカイビル。ふたつの高層ビル (= タワー) を結ぶ中間に、何やら基地のようなエリアが。これは一体何事か。建築家 原 広司の設計により 1993年に完成したビルだ。地上 173m だから、高さでは東京スカイツリーには及びもつかないけれど、その姿のユニークなことは類を見ない。事実、英国を代表する新聞 The Times が 2008年に、世界を代表する建築 20選 (ほかにはパルテノン神殿やタージマハール、ローマのコロッセオなど!!) のひとつに選んだとのこと。設計者の原 広司は、もちろん日本を代表する建築家だが、一般によく知られているほかの代表作は、JR 京都駅だろう。今回、彼自身の代表作である梅田スカイビルで、建築家自身が書き写した古今の書物の一部が展示されている。
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うーむ、表示がほとんど英語なのは、何か意味があるのだろうか。そういえばこのビル、最近外人観光客がうなぎ上りだそうだ。
http://matome.naver.jp/odai/2138435364131654801

この展覧会では、建築家自身「写経」と称した、手書きの原稿が展示されている。古くはホメロス、ウパニシャッドから、アリストテレス、法華経、鴨長明から道元、はたまたダンテやデカルトを経て、最後は大江 健三郎 (この建築家の近しい友人らしい) に至る。面白いとは思ったが、私個人にとっては、他人の写経を見るよりも、自分で書物を読みたいと思い、早々にその場を離れて、このビルの売り物である空中庭園へ。上記の通りこのビルは、東西二つのタワーの真ん中を、空中でつなげている部分があるのだ。下から見るとこんな感じ。私にとっては今回が二度目の訪問。
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うおー、あの上までどうやって昇るのか。エレベーターで一挙に 35階へ。シースルーのエレベーターなので、高所恐怖症にとっては、なかなかにハードルが高い。35階から屋上の空中庭園につながる 40階までは、上の写真でも見える、空中を渡るエスカレーターに乗るのだ。おー、こわ。
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あー、もうチビリそう。ただ、頂上までたどり着くと、ちゃんと防護柵もあり、それほど危険な感じはない。通ってきた、また帰りには通るエスカレーターも、余裕で見下ろすことになる。
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大阪中を見渡しても、ニューヨークでエンパイア・ステイト・ビルから見るような絶景はない。ただ、アベノハルカスをはじめとする大阪のユニークな建築群を、その中でもとりわけユニークな場所から見る快感は、なかなかのものだ。もしまだこの景色をご覧になっていない方がおられたら、是非一度行かれることをお奨めする。おもろいでー。

by yokohama7474 | 2015-07-26 00:41 | 美術・旅行 | Comments(0)

ダブルインパクト 明治ニッポンの美 名古屋ボストン美術館 / 世界に挑んだ明治の美 宮川香山とアール・ヌーヴォー ヤマザキマザック美術館

今回は、名古屋で開かれている 2つの展覧会を同時にご紹介する。というのも、この 2つの展覧会、内容が重複しているからだ。

まずは、名古屋ボストン美術館の、「ダブルインパクト 明治ニッポンの美」から。
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これは、東京藝術大学と名古屋ボストン美術館の共同企画。明治の日本人が見た西洋美術と、明治に来日した西洋人が驚いた日本美術の展覧会だ。ここ数年、明治の日本の美術工芸についての素晴らしい展覧会が幾つか開かれてきた。今私の手元に図録がある限りでは、2004年 (えっ、もうそんな昔?) に東京国立博物館で開かれた「世紀の祭典 万国博覧会の美術」と、昨年三井記念美術館で開かれた「超絶技巧! 明治工芸の粋」が挙げられる。ともすれば西洋一辺倒になりがちな日本人の美意識であるが、近年になってようやく日本人が日本の美術の価値に気づき、誇りを持てるようになってきているということだろう。実際、この手の展覧会では、驚くような展示品と出会うことが多いのである。

名古屋ボストン美術館は、世界的な東洋美術コレクションを持つ米国ボストン美術館の分館で、年に何度も本館の所蔵品による展覧会を開催している。もちろん東洋美術だけではなく、西洋美術のコレクションも膨大なのだが、なんと言ってもこの美術館、近代日本の美術の父とも言うべき岡倉天心が中国・日本美術部長を務めていたという実績があり、それによってかけがえのないコレクションが出来上がったわけである。
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今回の展覧会で物珍しいものを挙げればきりがないが、まずはこちらから。河鍋暁斎の「蒙古賊船退治之図」。日本が開国寸前の 1863年 (文久 3年) の作品で、鎌倉時代の元寇になぞらえて、西洋からの黒船を一蹴する大和魂を描いているわけだ。うーん、それにしても、爆裂が敵船を吹っ飛ばして、まるでマンガの世界です。もしかして、旭日旗ってこれが起源ではないのかと思えるほどのインパクト。
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それから、これは高橋由一の「浴湯図」(1878年)。実はこれ、師匠にあたる英国人イラストレーターであるチャールズ・ワーグマンの作品の模写である由。日本の集団入浴を珍しがったワーグマンの描いた絵を、集団入浴に慣れた日本人である由一が模写するという入り組んだ関係はどうだろう。
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お次は江戸末期から大正時代にかけて活躍した浮世絵画家、揚州周延 (ようしゅう ちかのぶ) の「梅園唱歌図」(1887年)。この人、中国人かと思いきや、純然たる日本人である。先に取り上げた「江戸の悪」の展覧会でも多く作品が展示されていたし、また、高幡不動にも作品がいくつか展示されていた。明治期にはこのような西洋風の出で立ちをたくさん描いている。
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その他、明治期の洋画、日本画あれこれ展示されていて興味は尽きないが、大変面白いのは、ポスターにもなっているこの絵だ。小林永濯 (こばやし えいたく) の「菅原道真天拝山祈祷の図」。
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菅原道真が天の啓示を受けて、今まさに天神に生まれ変わろうかという場面。からだは背中から押されたようにつま先立ち。両腕は感電状態、杖は放され帽子は宙を舞う。さながら劇画のような表現であり、明治期の日本画壇においては極めて異色を放ったに違いない。

そして、これまたすごいのが、明治期の工芸である。いずれを取っても神品というにふさわしい。この鈴木長吉の「水晶置物」は、1877年に水晶だけがまず、第 2回内国勧業博覧会に出品され、ボストン美術館の依頼で、1902年に竜と波の置物が作られたとのこと。超絶的に美しい!!
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日本が開国による刺激を受け、海外で展示されることを目的として制作された品々には、実際、鬼気迫るものを感じる。その意味で、上記の展覧会に続けて、同じ名古屋のヤマザキマザック美術館で開かれている「世界に挑んだ明治の美 宮川香山とアール・ヌーヴォー」という展覧会を見ることができたのは大変に有意義であった。これは、世界的工作機械メーカーであるヤマザキマザックのコレクションを集めた美術館であり、同社本社ビルの中にあるが、なんというか、本当にヨーロッパの美術館そのままの雰囲気なのだ。それもそのはず、壁紙ひとつ取っても、確かハンガリーだかどこかの欧州の国からの取り寄せの特注品だ。通常展示はこんな雰囲気。名古屋地区の方には、是非一度この美術館を訪問されることをお奨めする。
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初代宮川 香山 (1842 - 1916) は、神業と賞賛された高浮彫で知られる工芸家。ま、無駄なことをグダグタ書くより、その作品をご覧頂きたい。最初のカニのついた鉢は、重要文化財だ。
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なんと素晴らしい。息を呑むとはまさにこのこと。いかにテクノロジーが進歩しても、このような究極の職人技には適わないだろう。願わくばこのような水準のモノ作りの技術を日本人が受け継いでいけますように。この展覧会では、宮川の作品のほかに、ラリックやガレの作品も展示されていて、それはそれで当然美しいのだが、既に世の中でよく知られている。真の驚きは、宮川の作品だ。実は今回、ラリックやガレはヤマザキマザック美術館の収蔵品であったが、宮川の作品の多くは、宮川香山真葛ミュージアムというところの所蔵である。この聞きなれない美術館、京都かどこかかと思って調べたら、なんとなんと、横浜駅近くではないか。それは知らなかった。今度行ってみることにしよう。

さてさて、最後にもう一度、ダブルインパクト展の展示物に戻ろう。今回私の目を引いたナンバーワンは、これだ!!
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この種の置物を自在置物という。江戸時代後期に高石重義という人が作ったもので、ボストン美術館の所蔵。体長 2mで、驚くなかれ、口や手足の関節が動くのみならず、胴体は円筒状のパーツをつなぎ合わせてできており、とぐろを巻くような複雑なポーズも自由自在。これ、すごすぎる。ゾクゾクする。というわけで、調べてみたところ、マリア書房という出版社から自在置物の写真集も出ているし、さらに!! 嬉しいことに海洋堂がこの竜のフィギュアを作っているのですぞ。というわけで、拙宅の混沌の塊のようなフィギュアコーナーに加わってもらうこととしました。2枚目、竜が嬉しそうにのけぞっているのがお分かりでしょうか。
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by yokohama7474 | 2015-07-25 01:18 | 美術・旅行 | Comments(2)

北川 民次展 瀬戸市美術館 / 長久手古戦場

北川 民次 (1894 - 1989) のファンである。北川は 1914年に米国に渡ってアート・ステューデンツ・リーグに学び、1921年にメキシコに渡った。1936年に帰国してからは愛知県瀬戸市に居を構え、二科会の会長も務めた日本洋画界の重鎮である。私の場合、彼のメキシコ時代の作品が、かの地の巨匠たち、すなわち、リベラ、シケイロス、オロスコなどの影響を如実に示す力強い作風であるので、もともとこれらメキシコ絵画に大いなる興味を持った高校時代から、北川にも大変な共感を覚えたものだ。今年は彼の生誕 120年。ゆかりの瀬戸市でそれを記念して、110点もの作品が展示されているというので、出かけてみた。私はまた、日本の地方美術館というものが好きで、ガラーンとした中に郷土ゆかりの有名無名の作家の作品が人待ち顔をして並んでいるという雰囲気に、なんとも Intimate な感情を抱いてしまうのだ。
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今回は、この瀬戸市美術館 (北川のアトリエもここに移築されているという) と瀬戸信用金庫の所蔵品の展示であるということ。最も古い作品は 1930年代まで遡るが、ほとんどが 1950年代以降のものだ。それらの中には、地元の風景を描いたリトグラフや壁画などが含まれる。これは、「瀬戸の母子像」という作品。
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また、これは焼き物のまち瀬戸市という土地柄を表す、「陶工たち」という作品。
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彼の造形は、力強い描線によって働く人たちや静物を大きく描くことで、常に生命力の横溢する画面を創り出す。レジェやピカソの影響と、壁画で有名なメキシコの巨匠たちからの影響のミックスと考えれば分かりやすい。その意味で、瀬戸という土地に根を据えて長い人生を送ったこの画家の創作人生を垣間見るには充分な展覧会だ。

だが。だがである。私がこれまでいろいろな美術館や本で見てきて、心から共感している北川 民次の絵画は、残念ながらこの程度のものではない。やはり若い時代、メキシコで描いたものが彼の創作活動の頂点であったと思う。例えば、国立近代美術館の所蔵する 1931年の作品、「ランチェロの唄」はどうだ。
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あるいは、名古屋市美術館所蔵の「トラルパム霊園のお祭り」。1930年の作だ。
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うーん。一見して違いは明らかだ。ただならぬ雰囲気を放つ作品たちだ。残念ながら今回の展覧会では、このレヴェルの作品に巡り合うことはできなかった。まあ、地元密着の美術館の企画として、そのローカル性を楽しむべきだと割り切ればよいのであろう。

さて、その後名古屋市内への移動の途中、長久手古戦場に寄ってみた。歴史上、小牧・長久手の戦いと呼ばれていて、小牧と長久手はすぐ隣接しているのかと思いきや、なんのなんの、この 2つの場所は、直線距離でも多分 30km はあるのではあるまいか。小牧は名古屋の北、長久手は東である。この戦いは、要するに本能寺の変で信長が討たれたあと、清州会議を経て、その後秀吉が天下を取るまでの間の戦いのひとつで、徳川家康・織田信雄連合軍と相対したもの。秀吉は家康に一目置いていたらしいが、この戦いでも徳川・織田を尾張に封じ込めようとしたところ、思いのほか苦戦を強いられ、和議に持ち込んだという経緯がある。ここ長久手では、1584年、徳川軍が豊臣軍に大勝利を収め、秀吉の甥である秀次 (後年、秀頼誕生後、高野山で蟄居の後秀吉から切腹を命じられる、かの仁だ) は敗走したとのこと。そう、日本の覇権を巡る英傑たちの戦い。この長久手には、そのような歴史の重みを感じさせる何かがあるはずだ。炎天下の木洩れ日に、石碑が重々しい。
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古戦場自体は公園になっていて、当時の戦場を縮小して、実際の山を築山で表している。なかなかに面白い試みだ。
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さて、資料館があることを発見。ちょっと覗いてみよう。うーん、随分と古い建物で、昭和も 40年代くらいのものではないのか。と、入口に年期の入った案内図が。
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な、なにー。「長久手古戦場いこいの広場」・・・??? 英傑たちの命を賭けた戦いの場で、あ、あろうことか、「いこい」を感じてしまってよいものだろうか。うーん。ともあれ、資料館の中に入ってみると、なにやらジオラマが。
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戦い当日の兵の動きを解説する、いかにも昭和な雰囲気の男性ナレーターの声が。BGM は、まあいろんなところで聴く羽目になっているが、チャイコフスキーの悲愴交響曲の第 1楽章と第 3楽章です。「年代から考えて、カラヤンの EMI 盤かな」などと、根拠のない推測を独りごちる。その他、甲冑とかほら貝とか采配とかが展示されていたが、何も当日使用されたというものではなく、あくまでイメージ上の演出であった模様。

どうもここは、かつての激戦を思わせるようなものは何もないので (まあ考えてみればそれは無理な話でもある。話に聞く関ヶ原のキッチュな武将人形でも置かない限り)、開き直って、いこいの場所としての再利用が企図されたということか。若干複雑な気持ちを抱いて園内をなおも歩いていると、こんな看板が。
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あー。火縄銃は危ないからダメということですな。了解しました。歴史に思いを馳せるのは、また別の場所でのことと致します。


by yokohama7474 | 2015-07-23 00:58 | 美術・旅行 | Comments(0)

東京都 日野市、八王子市 高幡不動 / 八王子城址

前にご紹介した八王子市の 2つの美術館を訪れるついでに、高幡不動と八王子城址を訪れたので、まとめてご紹介する。

まずは、日野市の高幡不動尊。このあたりは昔親戚が住んでいたので、子供の頃何度か訪れたことがあるのだが、その頃既に仏像に深い興味を持つ妙なガキであった私も、まさかここに素晴らしい仏像があるとはつゆ知らず、今回に至るまで、この寺に一度も足を運んだことがないという恥ずかしい事態に陥ってしまった。平安時代後期、11世紀末頃の作とされる、堂々たる丈六 (立てば 1丈 6尺 = 4.85m あるとされる仏像のサイズ) の不動三尊像。国指定の重要文化財。関東地方にこれだけ古くて巨大な仏像が存在していること自体、奇跡に近い。その雄姿をご覧頂こう。
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この不動様、像高 285.7cm、火炎光背まで入れると 419.8cm というからすごい。なんという力強さ。天災・火災の多いこの国で、また多くの戦乱を越えて、1,000年近くこのような像が失われずに伝えられてきたとはただごとではなく、地元の人たちや、場合によっては権力者の篤い信仰あってのことであろう。なんでも江戸時代に 9将軍家重が江戸でこのお不動さんを拝みたいと言って、実際に江戸で出開帳を行ったことがあり、それによってかなり損傷を受けてしまったとの説明を寺で受けた。ただ、いろいろ調べてみると、記録は限られているものの、その出開帳自体は非常な成功であったとのこと。いわば、お寺の名声のためにお不動さん自身乗り出したということなのでしょう。両脇侍のセイタカ、コンガラ両童子は、いかにも地方作りで素朴である。この三尊像、最近修復を受けているが、もう何年前になるだろうか、東京国立博物館で修復後のこの三尊像にお目にかかったことは何度かあった。その際、「ええっ、あの高幡不動にこんな素晴らしい仏像が・・・」と思ったものである。また、この仏像の素晴らしいところは、堂内に入って間近に拝観できることだ。若いお坊さんがその場で歴史を説明してくれたが、本来なら秘仏として奥深く鎮座して頂くこともできるところ、庶民を救う不動明王の本懐や、歴史の荒波を乗り越えてきた様々なご縁に報いるためにも、間近で拝見できるようにしたとのこと。本当にありがたいことだ。

さて、この高幡不動はほかにもいろいろ見どころがある。立派な五重塔 (古いものではないが) や鳴龍 (日光や京都のいくつかの寺にある、龍の天井画の下で手を叩くと龍の鳴き声のような反響が聞こえる仕掛け) があり、さらには新撰組副長、土方歳三の菩提寺であるそうな。
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日野は新撰組ゆかりの土地とのことで、車で市内に入ったときに、「ようこそ新撰組のふるさとへ」という表記が目に入ったものだ。新撰組関係の記念館等もいくつかあるようなので、また改めて訪れてみたい。

さて、その後訪れた八王子城址は、未だ観光地として整備されているわけでは決してない場所だ。ただ、歴史的には重要な場所である。というのも、これは小田原の北条氏が築いた山城であり、1590年にこの城が陥落したことが秀吉の小田原征伐の決め手となったからだ。すなわち、ここで無念にも散って行った人たちが、結果的に天下統一の礎になったとも言えるわけである。この城を攻めたのは前田利家と上杉景勝。そのとき未だ城は未完成だったと考えられているらしい。山城としては関東屈指の規模を誇り、城下町にあたる根小屋地区、城主北条氏照の館のあった居館地区、戦闘時に要塞となる要害地区等に分かれるが、落城してからそのまま再興されることなく、江戸時代は幕府の管理下にあり、そのまま近代を迎えたらしい。すなわち、かつてここに暮らし、戦った人たちの痕跡は跡形もなく消え失せたあと、全く放置されていたわけだ。未だ発掘が行われていないところもあるらしい。ようやく近年になって、少しずつ整備が進められているものの、本当に、昼なお暗い、鬱蒼とした山の中なのである。訪問者はまず、新しいガイダンス施設に立ち寄ることになる。時間帯が遅くなければ、ボランティアの説明者をお願いすることができる。
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さて、それから山道に入るが、居館地区に至るまでは比較的なだらかだ。一部、橋が架けられている。
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そして居館地区は、発掘された石垣や復元された門、そして、いくつかの建物の址からなっている。
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そして、この御主殿跡からは、数多くの焼き物の破片が出土しているという。中国伝来の焼き物が主とのことで、戦国時代とはいえ、それなりに文化的な生活が偲ばれる。
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まあこのあたりはまだ明るい平地なのでよいのであるが、実は、そのすぐ横に川が流れていて、そこは全く鬱蒼とした森の中で、光は差さず、真夏でもひんやりするような場所なのだ。特に、御主殿の滝という滝は、それほど高低差があるわけでもないのだが、落城時に御主殿にいた武将や婦女子が次々と身を投げたところらしく、川の水は三日三晩赤く染まったという。恐らく江戸時代のものかと思われる慰霊の石碑が立っている。
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そして、本丸があったという山の中に分け入ろうとすると、少し躊躇してしまう。とにかく、段は一応あるものの、ほとんど手つかずの山の中なのだ。神域となっているらしく、いくつか鳥居がある。これ、昔読んだ水木しげるの妖怪漫画の世界ではないですか。そのまま神隠しに遭ってしまいそうだ。そして、石鳥居の裏に記載された建立年は、明治 45年。すなわち大正元年。1912年だ。
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実はこの場所、ネット検索すると、都内有数のパワースポットあるいは心霊スポットという評価がされている様子。凄絶な落城と、その後放置されてきた歴史、そしてこの鬱蒼とした雰囲気には、確かにただならぬものがある。しかしながら、それは裏を返せば、日本人の歴史のひとつの舞台として、訪れる人になんらかの思いを抱かせる場所であり続けているということだ。歴史を学び、ここに来て過去に思いを馳せることで、何か発見があるはずだ。・・・私と家人の場合も、ひとつの経験をした。この城址を流れる川のほとりを歩いていると、苦しそうなうめき声や鬨の声などが川のせせらぎに混じるというネット情報があって、「まさかそんなことあるわけないよね」と言っていると、確かに川の音以外に、ブンブン低い音が混じって聞こえるではないか!! 一瞬ゾッとしたが、・・・それは飛行機の飛ぶ音でした。ま、人間の心理とは、そういう場所で想定しない音を聴くと、想像力で勝手に超常現象と思い込んでしまうのですね。人の無念さに思いを致すのは結構だが、それを心霊現象に結び付けるのは、いささか短絡的ではないでしょうかね。

by yokohama7474 | 2015-07-22 23:15 | 美術・旅行 | Comments(2)