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ニキ・ド・サンファル展 国立新美術館

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先日亡くなった犬がまだ元気であった頃、我が家は何度か犬連れで那須へ旅行したものである。那須サファリパークで野生動物の車への接近にひぃひぃ言うのも楽しかったが (あ、犬はライオンに食われると危険なので、入り口で預けました 笑)、いろいろ美術館もあって、文化面でも充実した場所である。その那須高原にニキ美術館という美術館があるのは知っていて、ニキ・ド・サンファルの楽しげな作品の写真を見て、いつか行こうと思ってはいたのだが、結局果たせずにいるまま、2011年に閉館してしまったらしい。今、東京六本木の国立新美術館で12月14日まで開かれているニキの展覧会は、2014年にパリのグラン・パレで開かれた大回顧展の日本への巡回展であるが、那須にあったニキ美術館の旧収蔵品 (ニキと親交を持ち、彼女を日本に本格的に紹介した増田静江 (Yoko という愛称で呼ばれた) のコレクション) もかなりの割合を占めている。一体いかなる内容なのか。会場ではこんなキャラクターが宙に浮いて来場者を歓迎してくれる。
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ニキ・ド・サンファル (1930 - 2002) は、フランス人の父とアメリカ人の母の間にパリで生まれ、幼少の頃アメリカに移住した。代表作は、ナナと呼ばれるふくよかな女性像のシリーズで、これだけ見ればなんともかわいらしくポップで、見ている方もなんだか楽しい気分になってくる。
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その美貌を活かし、若い頃はモデルとして活躍したという。
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美術の専門教育は受けていないそうだが、20代前半から精神療法として絵を描き始めた。と、しらっと書いてしまったが、このようなオシャレで華やかな雰囲気の中に、精神を病む要素が一体どこにあったのだろうか。実は私ももともとそのあたりの知識はなく、ニキといえばナナという画一的なイメージを持っていたのであるが、先日 NHK の日曜美術館でこの展覧会の特集を見て、彼女が実父に性的迫害を受けたという事実を知った。そして実際にこの展覧会に足を運び、彼女の芸術の根源的な部分に、明らかに性的なオブセッション (強迫観念) があることを実感し、これまでの無知を恥じたのである。従って彼女の創作活動は、消えることのない憎しみと、悲惨な状況からの脱却という要素によって、女性という存在の社会との関わりをポジ、ネガ双方の点で呵責なく描き出し、そして浄化を求めてもだえ苦しむ自分の姿をさらけ出すということであったと知った。創作活動を始めてからの彼女の写真もいろいろあって、もちろん美人ではあるものの、そう思ってみれば、どこかに必ず影があるようにも見える。社会に向けて何か発信すべき言葉を見つけようとしているのだろうか。
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初期の作品は明らかにジャスパー・ジョーンズの模倣であったり、またジャクソン・ポロックばりの抽象表現主義もある。これらはあまり目にする機会のない貴重な作品だ。ところがジョーンズやポロックと違うところは、いかなる場合でも彼女の興味は人間に向いているということではないだろうか。
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そして一連の呪術的な作品群がある。これはその中でも強烈な印象を与える、1963年に制作された「赤い魔女」。その前、1962年に彼女は射撃絵画という活動を行っていたが、これは、絵の具を入れた容器や彫刻を並べてそれをライフルで撃ち、流れ出た絵の具が作品として残るというもので、冒頭に掲げたポスターの中でライフルを構える彼女の姿は、そのときの様子だ。この頃流行ったハプニングというパフォーマンスアートの一種と呼べる。一転してこの「赤い魔女」は、その毒々しく飛び散る色彩は射撃絵画の余韻を伺わせるものの、胸の中にいる聖母、股間に向けられた黒い手など、聖なるものと俗なるものの混在には、偶然性が入り込む余地がないと思わせる。なんとも痛々しい作品だ。
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そして 60年代半ばからナナのシリーズに入るわけだが、このような経緯を見てしまった鑑賞者には、このような微笑ましい姿に、ただ単にふくよかさだけを見ているわけにはいかない。これは、彼女の心の闇を浄化する地母神のような女神ではないのか。日本の土偶を思わせるところもある。
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展覧会に展示されているニキの作品の多くは、いわゆるアウトサイダーアート、あるいは最近よく使われる言葉では、アール・ブリュットに分類されるべきものだ。アール・ブリュットとは、「生の芸術」という意味であり、画家のジャン・デュビュッフェの命名によるものだ。スイスのローザンヌに、このアール・ブリュット専門の美術館があるが、もちろん私はそこを訪れたことがある (駐車場がなくて苦労した)。一口にアール・ブリュットと言っても様々だが、見る者を不安にさせるような奇妙な形態の対象物が執拗に描かれているケースが多く、鑑賞者は戸惑いながらもそこに表れた、アカデミズムとは無縁のむき出しの精神のシグナルに圧倒されるのが常である。例えばこれなどどうだろう。
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会場では 2箇所、写真撮影が許された場所がある。これはなかなか粋な計らいである。ひとつは、ニキが日本で見た仏像に影響を受けて作った「ブッダ」(1999)。この作品が展示されているコーナーには、様々な宗教的な主題の作品が並んでいるが、瞑想的であると同時にきらびやかなこの巨像の姿は、いかにもニキの作品であると実感する。またもうひとつは、出口手前にある「翼を広げたフクロウの椅子」(1999)。この椅子に座ると、カラフルなヴィジョンが広がるだろうか。
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さて、今回初めて知ったことには、ニキはイタリアのトスカーナ地方に20年以上の歳月をかけて、「タロット・ガーデン」という公園を作っている。これは、ガウディ設計によるバルセロナのグエール公園 (私は 2度訪れたことがある) に刺激を受けたものとのことだが、このタロット・ガーデンの写真を見ると、印象としてこれに近いものは、むしろ南仏ドローム県というところにある、シュヴァルの理想宮だと思う。このシュヴァルの理想宮にも私は実際足を運んだことがあって、たった一人の郵便配達夫が何十年と石を積み上げて作った世界でも類を見ない建築 (?) に言葉を失ったものだ。そちらの建造物には色はないが、このニキのタロット・ガーデンは色彩鮮やかで、その点はグエール公園を思わせるところも確かにある。なんでも、ポリシーによって世界のどのガイドブックにも載っていないそうだが、4月から10月までの間、わずかな時間だけ公開されているという。これは是非行ってみたいものだ。会場で売られていた日本版の写真集を早速購入。この不思議空間への憧れが広がる。
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そんなわけで、これまで一部の作品のイメージしか持ち合わせていなかったニキ・ド・サンファルの全貌に迫ることができるよい機会となった。心の闇を芸術というかたちに昇華して、誰にでもアピールすることに成功した彼女の生き方から学ぶところは多いと思う。彼女のような悲惨な目に遭ったことのない人であっても、彼女の創作を通して、前向きな姿勢で生きるヒントを得られるはず。できれば、那須にあった美術館のように、彼女の作品にまとめて触れられる施設があって欲しいものだ。

by yokohama7474 | 2015-11-23 17:54 | 美術・旅行 | Comments(0)

MOMAT コレクション 特集 : 藤田嗣治、全所蔵作品展示。 東京国立近代美術館

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エコール・ド・パリの一員として、1920年代のパリで活躍した藤田嗣治。だがその後半生は挫折と謎に満ちているのだ。今、「Foujita」という映画 (小栗康平監督、オダギリ・ジョー主演) も公開されており、世界に挑んでいった画家の姿を垣間見ることができる。この展覧会は、これまで並べて展示されたことのない藤田の 14点の戦争画をはじめ、東京国立近代美術館の所蔵する藤田の作品 25点すべてが勢ぞろいする貴重な機会だ (12月13日まで)。因みに、タイトルにある MOMAT とは、東京国立近代美術館のこと。ニューヨークにある有名な近代美術館、MOMA に、Tokyo の T がついたものと覚えればよい。

この展覧会、いかにも藤田らしい乳白色の裸婦や、組んずほぐれつする猫の絵もあるが、まず目を引くのが、藤田がパリで頭角を現す前夜、1918年の作品、「パリ風景」だ。
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この薄暗い感じは、後年の藤田にはないもので、異国の地で成功を望みつつも不安にさいなまれている画家の内面をよく表しているものと思う。

さて、戦争画である。藤田は戦争に従軍してまで戦争のリアリティを感得した稀有な画家だ。一連の戦争画を描いたことによって、戦後は国内で白い目で見られることが多くなり、どうやらその息苦しさを逃れるためにフランスに渡り、帰化したものであろうか。ではその 14点の戦争画を、一部であったりピンボケであったりするものの、私が図録から撮った写真で制作順にご覧頂こう。これは「南昌飛行場の焼打」 (1938 - 39) という作品の部分。
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この明るく繊細な筆致はまぎれもなく藤田のもの。白昼夢のような戦争の一場面を切り取った作品だ。そして次が「武漢進撃」(1938 - 40)。
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この河の様子は、華やかな感じはないものの、あの藤田の乳白色ではないか。空の様子も非常に美的にとらえられている。次は、「哈爾哈 (はるは) 河畔之戦闘」(1941)。それまで日本は日中戦争を戦っていたわけであるが、この年の 12月、とりかえしのつかない太平洋戦争に突入して行くのだ。
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戦争を描いているにもかかわらず、ここでも藤田の絵は繊細さを失っていない。本当の意味での殺し合いの恐怖は、ここからは感じられない。そして次の絵から、その色彩ががらっと変わるのである。「十二月八日の真珠湾」(1942)。
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その名の通り、日本軍の真珠湾奇襲によってアメリカの基地が打撃を受ける様子を描いている。まだこれから迫りくる悲惨さを知らない画家は、俯瞰図によって日本の勝利をキャンバスに残した。だが、ここに見る色彩の抑え具合はいかがであろうか。あたかも、1918年の陰鬱なパリの風景に戻ったようではないか。これから画家は、日本軍が陥って行く泥沼とともに、暗い色調に沈んで行く。これは「シンガポール最後の日 (ブキ・テマ高地)」(1942)。
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ちょっと見えにくいが、シンガポールを攻略する日本軍だ。地べたに這いつくばるその姿は、決して英雄的なものではない。まさに戦場の悲惨なリアリティを描いている。次は、「ソロモン海域に於ける米兵の末路」(1943)。局地戦でかろうじて生き残った米兵であろうか。はしけに乗って漂流しているが、その姿には絶望感が漂い、それを嘲笑うような鮫の背びれが海上に浮かんでいる。
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ヨーロッパには、舟に乗った人たちの絵がいくつもある。まず思い当たるのは、ドラクロワの「ダンテの小舟」だ。また、それに先立つ、海難事故を描いた初めての絵画、ジェリコーの「メデューズ号の筏」だ。藤田の頭の中に、ヨーロッパの伝統から新たな戦争画を描くという発想が生まれているのが分かる。次は、彼の戦争画の最高傑作とされる、「アッツ島の玉砕」(1943) だ。
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この波打つ肉弾戦の真に迫る描写は、なんと凄まじいことか。ここには戦争の英雄もいなければ、自国軍隊の圧倒的勝利という美化された風景もない。空も地面も海も兵士の服も顔も、同じ茶色に染められている。かつて乳白色でパリを唸らせた藤田が、なにやら鬼気迫る迫力で描き出した戦争の真実だ。この島での玉砕は、日本国民を鼓舞する目的で報道されたとのことだが、この藤田の絵を見て勇気を奮い起こした人がいただろうか。私が当時生きていたなら、とにかく戦争にだけは行きたくないと思ったことだろう。これから同じような色調の絵が続く。「○○部隊の死闘 - ニューギニア戦線」(1943)、「血戦ガダルカナル」(1944)、「神兵の救出到る」(1944)、「大柿部隊の奮戦」(1944)、「ブキテマの夜戦」(1944)。
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ここでは、藤田のどのような心境が読み取れるだろうか。恐らくは、戦争画というヨーロッパでは古来確立した絵画の分野で、日本人としてそれまでになかった悲惨な戦争の真実を赤裸々に描くことで、愚かさと尊さの二面性を持つ人間の営みを記録しようという意欲ではないだろうか。あたかも芥川龍之介の「地獄変」のような鬼気迫る芸術家の姿を思い浮かべても不適ではあるまい。そして終戦の年に描かれた最後の 2枚。「サイパン島同胞臣節を全うす」(1945)、そして「薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す」(1945)だ。
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これが藤田の戦争画のすべて。この記事の冒頭に掲げた写真の通り、藤田作品に限らないこれら戦争画は、ある種の忌まわしい記憶として、この東京国立近代美術館の倉庫に眠り続けている。だが、これらの絵を見て、戦意高揚の御用絵画と思う人はほとんどいないのではないか。戦争という題材を使って藤田は、自らの新しい世界を創ろうとしたことが読み取れるし、そのリアリティには、本能的に人を恐れさせるものがあると思う。これはヨーロッパの戦争画にもまず見られない、藤田独特の世界であると思うのだ。

第二次大戦が終結してから既に 70年だというのに、東アジア地域では未だにその歴史が陰を落としている。今こそ我々は、せめて芸術の分野で第一級の才能がいかなる活動を行ったか、じっくりと見るべきであろう。過去を消すことはできない。だが一方で、消すことのできない過去があるからこそ、未来に思いを馳せることができる。藤田嗣治がいかなる思いを抱いて日本と向き合ったか、ここで詳細を述べることはしないが、何より彼の作品が様々なことを雄弁に物語っている。一人でも多くの方に、この藤田のメッセージを感得して頂きたい。

by yokohama7474 | 2015-11-22 23:41 | 美術・旅行 | Comments(2)

宮川香山 眞葛ミュージアム

7月25日の記事で、名古屋のヤマザキマザック美術館で開催されていた宮川 香山 (1842 - 1916) の超絶的な焼き物をご紹介したが、彼の作品を集めた美術館、宮川香山眞葛 (まくず) ミュージアムに出掛けてみた。この美術館が建っているのは、横浜駅からさほど遠からぬ、横浜ポートサイド地区。過去 10年くらいの間に再開発されたエリアで、このようなモダンなタワーマンションが林立している。目指す美術館はその一角にさりげなく佇んでいる。
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まずはひとつ、香山の作品を見て頂こう。
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焼き物の壺なのであるが、そこから鳥が飛び出している。この感覚、ほかの日本の焼き物にあるだろうか。寡聞にして私は、少なくとも江戸時代にこれに類する焼き物が多く焼かれたという印象はない。ということは、明治期になんらかの理由によってこのような造形が頻繁になされたのであろうか。これまでにいくつかの記事でご紹介した明治時代の工芸品の凄まじい職人芸には、何か原動力があったはずだ。

日本人はもともと、自分たちの持っている実力について客観的な評価を下すことを得意としていないように思う。しばらく前に「日本辺境論」という本を読んだことがあるが、日本人はその長い歴史の中で、他国を牽引するような発想を持たずに、何かほかの中心的な存在から離れたところにいるという感覚で暮らしてきたという趣旨の本で、大変興味深かった。外圧を受けると恐れおののき、外国から見ても恥ずかしくないものを作ろうとする、そのようなメンタリティーが日本人には宿っているような気がする。日本の芸術もしかり。浮世絵の価値が海外で認められると分かると、それまで国内では見向きもされなかった浮世絵が、世界の芸術になる。黒澤明がヴェネツィアで賞を取ると、突然世界のクロサワになる。長らく海外で活躍していた小澤征爾がウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任すると、あるいは、大江健三郎がノーベル賞を取ると、慌てて文化勲章を授与する (あ、大江健三郎は拒否したのでしたね)。なんとも可笑しい限り。自分たちのやっていることを自分たち自身で評価できない、憐れな日本人。

明治時代は確かに、日本が海外に目を開き、がむしゃらに先進文明に追いつこうとした時代。そんな頃、欧米で数年おきに万国博覧会が開かれ、日本政府も国の威信をかけて美術・工芸品を出品した。その流れがあるのか否か、同時代の素晴らしい工芸品の数々が輸出用に作られ、国外で評価を高めることとなった。この宮川香山は、そのような時代に活躍し、空前絶後の作品を数々作った人だ。もともと京都の生まれで、若い頃は絵を描いていた。池大雅の弟子の息子に学んだとのことで、このような文人画を描いているが、題材は中国の陶磁器窯だ。若い頃から窯に興味があったものであろうか。
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そして、早くも明治 3年 (1870年)、横浜に輸出用の陶磁器を作るために眞葛窯 (まくずがま) を開いた。これは香山の生まれた京都の眞葛ヶ原に因んだものだろう。彼の作品を集めた美術館が横浜にあるのは、それゆえだと思われる。これは当時の窯の様子を描いたもの。古いですねー。
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当時、香山の作品は、欧米で大層もてはやされたらしい。この美術館が所有する、その華麗な作品の数々を見てみることとしよう。嬉しいことに、ここでは写真撮影が自由となっている。
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見れば見るほどに素晴らしい。だが、このような手法、高浮彫 (たかうきぼり) は、手間に比して経済性はよくなかったのであろう。香山は途中で作風を一変し、釉薬を研究し、清朝の磁器に倣った作品を作るようになった。この美術館には、そのような時代の作品もあれこれ並べられている。
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しかし、香山の遺作というのがこれだ。ここでは質素ながらも一匹の蟹が高浮彫として表されている。制作コストや作品の売れ行きという実務上の課題も多々あったであろうが、やはり香山が目指したのは、ただの焼き物ではなく、そこに命の息吹が存在する高浮彫であったのだと思う。
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このような作品は、フランス世紀末、アールヌーヴォーを代表する工芸家、エミール・ガレに直接影響を与えたのであろう。ガレが模倣したジャポニズムは、江戸時代の美術ではなく、最近まで忘れられていた宮川香山のような同時代の日本の芸術家によるものではなかったか。以下にガレの作品を二つ掲げておく。
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調べてみると、ガレは 1846年生まれ。香山のわずか 4歳年下。完全に同世代である。そのように思うと痛快ではないか。ヨーロッパの先端美術の霊感の源泉が、同時代の日本美術であったとは。日本がこれから成熟国家として存在感を示すには、まずは自分たちの文化的な伝統に気づくことではないか。このような美術館の開館により、我々日本人自身が、自らの文化に目を啓かされることになっている。ほんの小さな美術館ではあるが、リゾート地のガレの美術館に行かれるのであれば、是非横浜のこの美術館にも足をお運び頂きたいと願う次第である。その感覚があれば、「世界のナントカ」と言った表現はなくなって行くはずで、日本が文化国家として胸を張るためには、そのような風潮を醸成する必要があるだろう。頑張れ、ニッポン!! (あーあ。このような掛け声が辺境だっつぅの)。

by yokohama7474 | 2015-10-18 22:47 | 美術・旅行 | Comments(2)

京都 霊山護国神社、霊山歴史館、清水三年坂美術館、高台寺、圓徳院、赤山禅院、曼殊院、圓光寺

10月 3日の土曜日、京都に遊んだ。私にとっては、幼少の頃より足繁く通い、今でも毎年訪れる、庭のような場所・・・などとうそぶいているが、この街の懐はとてつもなく深い。行けども行けどもまだまだ知らないところが目白押し。1ヶ月くらい滞在して毎日ほっつき歩けば少しは「京都をよく知っています」とでも言えるようになるのだろうが、まだその機会は訪れず、やむなく、単発で訪れる度に、今まで行っていないところを含めるくらいが関の山だ。

今回のメインの目的は、追ってアップ予定の京都コンサートホールでのコンサート鑑賞。開始が 15時だから、あまり時間がない。駅前でレンタカーを借り、ものも言わずに走り出した (ひとりだから、ものを言っているとちょっと不気味だったかも)。

まず、東山の高台寺方面に向かう。かなり急な斜面を持つ山の上に、未だに訪れたことのない場所が。それは霊山 (りょうぜん) 護国神社。その隣の霊山観音には、確か中学生の頃行ったことがあるが、この神社は初めてだ。ここに、一般にもよく知られた墓がある。これである。
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歴史好きの方ならすぐお分かりであろう。ここ京都で凶刃に斃れた、坂本龍馬と中岡慎太郎の墓である。この神社、明治維新が成った直後の 1868年 (明治元年だが、この神社の設立の時点では未だ慶応 4年だった)、明治天皇の命で、維新目前で命を散らした志士たちを祀るために建てられたもの。山口、高知、福井、鳥取、熊本等の人たちが葬られている。そんな中、この龍馬と慎太郎の墓は、墓地エリアの入り口に近いところにあって、京都を見渡すことのできる眺望のよい場所で、明らかに特別扱いだ。明治維新の評価は最近ではいろいろあって、中でも圧倒的な人気を誇る坂本龍馬が、果たして一般に流布しているイメージのようなカッコいい人であったのか否かは分からず、司馬遼太郎が作り上げた偶像に過ぎないという説もあるようだ。そうすると、この墓の特別扱いも昭和に至ってのものか? その点はよく分からぬが、ま、歴史の浪漫を感じるにはそのような現実的な詮索をしない時間があってもよいだろう。少し坂を上ったところにある、維新ミュージアム 霊山歴史館には、いろいろと興味深い明治維新関連の展示があり、その中には、実際に龍馬を斬ったと伝わる短い刀もある。さて、歴史の真実やいかに。

次に向かったのは、今回最も行きたかった場所、京都三年坂美術館だ。きっかけは去年、三井記念美術館で見た、この展覧会。
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以前このブログでも、今年見た同様の展覧会をご紹介したし、数年前にも東京国立博物館で、明治時代に日本が欧米の万国博覧会に出品した美術工芸品を集めた展覧会を見て、その展示物の精緻さや豪快さに、まさに驚天動地の経験をしたことがあった。上記の三井記念美術館での展示物は、最近京都にできた三年坂美術館の所有物であることから、今回の目的地として真っ先にピックアップしたのだ。三年坂といえば、京都有数の観光地、清水寺に上って行く坂道だ。大変賑やかで、はて、こんなところにそんな渋い美術館があるのかと思ってキョロキョロしていると、あ、ありましたありました。こんな、和菓子屋や漬物屋かと見紛うような門構え (笑)。
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中に入っても展示スペースは決して広くはないが、そこに展示されている明治工芸の超絶技術!! 見ていて飽きないし、また、身動きもせずに作品に見入っている人もいて、なにやらそこは、職人のこだわりが空気中を漂うような、濃密な空間だ。作家の名前としてひとり挙げておくと、安藤 緑山 (あんどう ろくざん)。その生涯は詳しいことが分かっておらず、極めてリアルな象牙彫刻の数々を残したが、記録がないためその製法は長らく謎とされてきた。近年の研究で少しずつ解明が進んでいるらしいが、同じものを作るのは至難の業だろう。例えばこの筍と梅。象牙と信じられる人がどのくらいいるだろうか。
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さて、その後は、きっと混んでいるであろう清水寺には向かわず、高台寺へ。ここは秀吉の菩提を弔うため、正室の北政所ねねが創建した寺である。家康からの寄進もあり、一時は広大な伽藍を誇った。その後度々火災に見舞われたとはいえ、数々の秀吉ゆかりの重要文化財建造物が残っている。
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史跡・名勝に指定されている庭園は、小堀遠州作。
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また、千利休の意匠による傘亭・時雨亭も非常にユニーク。傘亭は、外見は茶屋風の檜皮葺の建物で、大きくは見えないが、中を覗くと、傘の骨を張ったような構造になっており、なんとも洒脱である。
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境内を回っての帰り道、ふと横を見ると、霊山観音が。なんだかシュールな感じ。
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高台寺に付属する掌 (しょう) 美術館を見て、その隣の圓徳院へ。ここは北政所が、秀吉との思い出深い伏見城の御殿とその前庭を移築して移り住んだ場所で、彼女はここで 77歳で没したという。この日は大変天気がよく、木洩れ日も情緒がある。
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この庭が伏見城からの移築になるもので、大きな石が多く、桃山時代らしい豪快な作り。お寺の人の解説によると、それらの石は秀吉が全国の大名から寄進させたもので、裏には寄進した大名の紋が刻まれている由。もともと池泉回遊式であったものを枯山水に作り替えている。
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高台寺の近くに、日本画家 竹内栖鳳 (猫の絵で有名) の旧居を発見。今はイタリア料理店になっているらしく、結婚式でもあったのか、貸切で入れなかったものの、この門構えに痺れましたよ。
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さて、コンサートまで残りわずかだ。そろそろ北上した方がいい。適当な寺に立ち寄るのでもいいのではないか? だが、生まれつき観光に関しては貪欲な私は、地図を眺めつつ、これまで行ったことがなく、以前から行きたかった寺を発見、車を転がすことにした。このお寺だ。
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大明神とあるが、一般的には赤山 (せきざん) 禅院と呼ばれている。京の都の鬼門、つまり東北の方角を守るために、慈覚大師円仁の命を受けて 888年に創建された。京都でも有数のパワースポットとして知られる。京都は風水思想に基づいて設計されたことはよく知られているが、ここはそのひとつの表れ。実は観光の対象となるものは何もないが、なんともいえない神秘的な雰囲気のあるところだ。大体、天台宗の寺のくせに「禅院」として知られていたり、「大明神」と名乗ったりする。かつ、境内には七福神もあるのだ。うーむ、このごった煮感には、整備された宗教よりはアニミズムの匂いがする。この寺を象徴するのが、拝殿上にある猿の彫刻だ。猿、つまり申は西南西の方角で、鬼門の逆であることから、邪気を封じる力があると信じられている。なんでも、昔暴れて人々を困らせたので、金網の中に入れられたという。
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さて、少し南下して、次は曼殊院門跡 (まんしゅいんもんぜき) へ。ここは数ある京都の紅葉の名所のひとつでもあり、国宝、黄不動画像でも知られる。私も何度も来たことがある。もちろん紅葉はまだ影も形もないが、京都らしい情緒はいつでも味わうことができる。
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私が心から尊敬する谷崎潤一郎が寄贈した鐘というのもある。
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それから、ここでも今回、思わぬ収穫が。京都三名席のひとつ、重要文化財 八窓 (はっそう) の茶室の中に入れるというのだ。特別拝観料 1,000円は決して高くない。私ひとりのために若い坊さんがついてくれ、中で一通り解説をしてくれた。なんとも贅沢な時間。八窓というだけあって、天井にあるものを含めて八つの窓があり、外からの光の反射の繊細なこと。江戸時代初期に建てられたようだが、詳しいことは分かっていないらしい。それにしても、このような極限的に質素な美的空間で茶の湯を立てた人たちは、戦乱の日常を忘れて感性を磨いたことだろう。
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さて、いよいよ時間がなくなって来た。近隣でもうひとつどこかに行くから、やはり詩仙堂だろう。これまた風流を極めた場所だ。だがしかし、ナビに従って細い路地を進む私の目に、知らない寺院の名前が・・・。圓光寺。よし、こっちにしよう!
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この説明板にある通り、家康の開基による寺院だが、足利学校から禅師を招いた学校であったようだ。そういえば門構えも学校のようで、身の引き締まる思い (あ、それは学生時代勉強しなかったから緊張しているだけなのかも?)。
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奔龍庭という、まさに龍が天空を駆けるような豪快な現代的庭園もある。
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またこれは、十牛之庭。こちらは近世初期のものらしい。
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毛氈の赤の反射も、木洩れ日も、すべてが美しく、静けさが日常の垢を洗い落としてくれる。
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さて、コンサート前の京都観光はここまで。行く度に新しい発見のある京都で、今回も発見がてんこもりだ。

・・・あ、発見といえば、ほかにもありました。高台寺から清水寺界隈で、やけに和服の人を多く見かけ、中には季節外れの涼しげな浴衣の人もいるではないか。ほーっ、そういう趣味の人って結構いるんだねぇと思っていると、その方々は皆さん、我が国のお隣の大国からおいでの方々だったのだ。そういえばちょうど国慶節。日本への観光客が増えていると聞いてはいたが、なるほどそうだなと納得した次第。日本滞在を楽しんでもらえるなら、こんなに素晴らしいことはない。とそこに、向こうから芸妓さんが歩いてくるではないか。おー、これは京都らしい、と思ってカメラを向けたのだが、むむむ、なにやら指南をしている人が。なんだろうと思って見れいると、芸妓さんたちの口からは、はんなりした京言葉ではなく、お隣の大国の言葉が!! なんと、これも観光のサービスのひとつであるらしい。これ、メイクにも着付けにも相当時間がかかると思うが、それでも体験したいという異国の女性たちが多いということでしょうね。遠いとこ、よぉおこしやす。
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まこと、京都は訪れる度に発見のある街だ。


by yokohama7474 | 2015-10-14 00:12 | 美術・旅行 | Comments(0)

唐画 (からえ) もん - 知られざる大坂の異才 武禅に閬苑、若冲も 千葉市美術館

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千葉市美術館は、日本美術専門美術館である。開館記念展の大歌麿展の衝撃は未だに新鮮だが、早いもので、もう開館 20年だという。なんとまぁ。もちろん、開館展以外にもこれまで何度もここに足を運び、貴重な展覧会を見てきた。ここでの展覧会の多くには、その価値があるからである。そして今般開催中の展覧会は、題して、「唐画 (からえ) もん - 武禅に閬苑、若冲も」となっている。副題として、「知られざる大坂の異才」とあり、ポスターには、蛙が「大坂から、めっちゃすごいん来たで!」と言っている吹き出しがある。・・・。ううーん、のっけから恐縮ながら、もう少しうまい宣伝ができなかったものか。「からえもん」という言葉はもともとあるわけではなく、この展覧会のために作られたようだ。この言葉を歴史に定着させようという意図からだろうか、それとも、まさかとは思うが、「ドラえもん」「ほりえもん」からの連想か??? いずれにせよ、別に柔らかくする必要はないように思う。「知られざる大坂 唐画の鬼才たち~ めっちゃええもん来てるやん」とかなんとかでどうしていけなかったのか。率直なところ、私自身、この題名の不必要な柔らかさによって、今回は見に行くのをやめようかと思った。なので、本当に危ないところであった。こんな面白い展覧会を見逃しそうだったわけだから。

大阪ではなく大坂と記述するだけで、既に江戸時代を扱っていることは明白だ。では、その大坂のどのような画家の作品が集められているのか。墨江 武禅 (すみのえ ぶぜん 1734 - 1806) と、林 閬苑 (はやし ろうえん 生没年不詳、1770 - 1780 頃活動) が中心だ。江戸時代中期の大阪で、狩野派が大勢を占める中、中国に由来する画題や表現を使った唐画師 (からえし) が活躍したらしく、この 2人がその代表として選ばれたもの。彼らの名前は私も聞いたことがなかったし、一般的には全くの無名であろう。それがゆえに、「からえもん」などという奇妙な造語を作るのでなく、内容が分かる展覧会名にすべきであったと思うものだ。

メインの 2名の作品。ほとんどが個人蔵である。ということは、美術館が購入するような Name Value がないということであろうか。ただ、師匠や同門筋の作品も揃えて見てみると、誠に見応え充分で興味は尽きない。例えばこの、武禅の「夏季美人図」を見てみよう。この女性、舞台の書き割りの中にいるのか? いや、そうではあるまい。画家はどうしても、背景とそこからそよそよ吹き入ってくる夏の風を描きたかったのではないか。
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武禅は山水図もいろいろ描いていて、水墨画もあるが、このような蕪村風の緻密で繊細な作品もある。「青緑山水渓流游回図」。大変きれいな絵である。
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また興味深いのは、光の描き方についてのあれこれの実験的な手法を試みていることだ。この「山家夕景図」では、塗残しの部分が雨を表し、傘を差した人物の持つ行燈には灯がともっている。
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面白いことに、洋風の絵も描いている。「花鳥図」。洋画の手本があったという説もあるらしい。
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さらに、この武禅という画家、当時流行った「点景盤」の作者としても第一人者であったらしい。点景盤とは、盆栽のように鉢の中にミニチュアの山水を模した石や植物を作り込むこと。武禅の名前は、この点景盤作者として当時の番付の筆頭に位置づけられている。このような画帖に様々なパターンを自ら記している。
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これらを見るだけで、江戸時代中期の大阪の多様性ある文化を偲ぶことができる。これまで一般に名が知られていない理由をもう少し知りたいものだ。

さて、もう 1人の林 閬苑は、一層個性的だ。生没年不詳ながら、40歳にもならずに死去したとのこと。生涯はよく分からないらしいが、人知れず今日まで伝来した作品の大胆さを見ると、一部の町人に熱狂的に支持されたようなことがあったのだろうか。まず、これは「奇岩図」。こんな描きかけのような作品に落款を付してある大胆さ。アヴァンギャルドだ。
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これも滅法面白い。「漁夫図」と題されているが、一気に描かれたとおぼしい斜めの二本の線は橋である。なんとスタイリッシュなこと。
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これは戯画調の「蹴鞠図」。蹴鞠をしていて、どうやらやんごとなき人が顔面で鞠をキャッチしたらしい。200年以上前に描かれた、今日のマンガにも通じるセンスに脱帽だ。
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もちろん閬苑は、まともな作品もあれこれ残している。だが、ともするとどこかにいたずら気が表れるのだ。これは、1780年の「睡起未顔粧之図」。中国絵画風に丸窓の向こうの情景を描いているが、題名の通り、寝起きで未だ化粧をしていない女性たちの姿だ。
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このように見てくると、江戸とも京とも違う、大阪ならではの感覚がはっきりあるように思う。ただ単に美麗な風景を描くだけでは飽き足らず、何かちょっとひねったことをしないではいられない浪速魂。いやはや、これまで知られていなかったのがもったいない。繰り返しだが、唐画だからどうということではなく、未だよく知られていない大阪の画家たちの作品を一堂に集めた貴重な展覧会であるという点を強調できなかったものか。尚、この千葉市美術館の展覧では、同館所蔵の若冲等々も加え、非常に充実した内容となっていた。千葉で 10月18日まで開かれた後、大阪歴史博物館で 10月31日から 12月13日まで開催される。

もうひとつ。千葉市美術館では、この展覧会と同時開催ということで、「田中一村と東山魁夷」という所蔵作品展が開かれている。およそイメージのかけ離れたこの 2人、たまたま千葉県人という点だけが共通かと思いきや、ともに 1926年に東京美術学校日本画科に入学した同期であったとのこと。ところが田中はすぐに退学、その後奄美大島で孤独・無名ながら独自性溢れる画風を確立。片や東山は国民的画家へと登りつめて行く。私自身がどちらを好きかはここでは書かないでおこう。だが、なかなかに面白い展覧会だ。
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さてさて、今回の展覧会とは直接関係ないものの、千葉には中世から近代に至る、興味深い建造物がいろいろあるのだ。またいつか改めてご紹介したいとは思うが、まずは手っ取り早く (?)、千葉市美術館の入っているビル (千葉市中央区役所も入っている) の 1階は、もともとの歴史的建造物を現代の建物で覆った構造になっている。建物の名は、旧川崎銀行千葉支店。1927年に竣工したネオ・ルネッサンス様式。今の建物は、「さや堂」と名付けられている。あいにく今日は貸切で撮影が行われていたが、普段は中に入ってレトロな気分に浸ることができる。
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侮りがたし、千葉。

by yokohama7474 | 2015-09-27 23:03 | 美術・旅行 | Comments(0)

オスカー・ニーマイヤー展 ブラジルの世界遺産をつくった男 東京都現代美術館

ブラジル。昔日本からも多くの人々が移民したとはいえ、物理的に地球の反対側である。どういうところなのかイメージのない人も多いに違いない。サンバの国。サッカーの国。新興国で、貧富の差が激しくて治安も悪く、三度のメシより大事かと思えるサッカーのワールドカップの開催への反対運動もあった国。そんなところに文化があるものだろうか。と思われる方。この国の得体の知れない底力を感じることのできる展覧会がこれだ。オスカー・ニーマイヤー、1907年に生まれ、2012年に実に 105歳の誕生日の直前に亡くなった世界的建築家の日本初の回顧展だ。
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私はブラジルには一度だけ出張で行ったことがある。サンパウロに 3泊ほどしたのだが、ビジネス面でのこの国の勢いや、個々人の能力の高さを肌で実感し、心底驚いた。若いビジネスマンでも、堂々たる英語で自分の理念を自分の言葉で語ることができ、のみならず、自らの属する組織の弱点までも客観的に説明できる。これは日本人的な「恥ずかしいことを避け」「会社の方針を全面に打ち立て」「英語を使うときにはあらかじめ書かれた原稿を読む」というビジネス習慣とは完全に別物だ。もちろん、ブラジルにも問題は多々あろう。だが、今後 10年 20年を見たとき、短期的な浮き沈みは当然あるにせよ、この国が発展して行くことは間違いなく、振り返って日本の現状を考えると暗い気分になるのであった。

ともあれ、この展覧会の副題にある、「ブラジルの世界遺産をつくった男」とはいかなる意味か。その前に質問。ブラジルの首都はどこか。そんなのサンパウロに決まっているでしょ。あ、リオかな? いやいや、リオはカーニバルなんてやっている能天気な街だから、やっぱりサンパウロ。・・・と答える人が多いのではないかと思うが、答えはブラジリア。実は、もともとの首都はリオ・デ・ジャネイロ。しかし、それは入植者であるポルトガル人の決めた首都だ。ブラジルが 1889年に独立した際、独自の首都を持とうという運動が起こり、2年後の 1891年に制定された憲法に、新首都を「ブラジリア」とすると謳われたのであった。ところがその後測量の見直しや資金難のため、首都移転は難航。ようやく 1955年に至って、ブラジル中央部に広がる標高 1,200m の乾燥した大草原地帯に首都を建設すると発表され、当のブラジル国民たちが驚愕したという。1956年に就任したクビチェック大統領が剛腕を振るい、公約通り 1960年に新首都ブラジリアへの遷都がなされた。この全く新たな人工の首都の建設に当たっては、ルシオ・コスタの総合プランに基づいて、弟子のオスカー・ニーマイヤーが個々の建物を設計した。そして、遷都後わずか 27年の 1987年に、世界遺産に登録されたのだ。これは世界広しと言えども、ちょっとほかに例のないことだろう。
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ブラジリアの街のかたちを上から見ると、こんなふうだ。何かに似ていないか。そう、航空機だ。そういえば、ブラジルにはエンブラエルという航空機メーカーがあるらしい。業界をよく知る知人によると、なかなかに立派な会社だそうだ。この国は、空を飛ぶことに何か執念を燃やす理由でもあるのだろうか。
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これが国会議事堂。お椀を上向きにしたり下向きにしたり、その大胆な曲線と、真ん中の直線とのコントラストが誠に鮮やかだ。
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そしてこれが大聖堂。ここでもその曲線の個性が際立っている。
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今回の展覧会では、図録が制作されていない代わりに、会場でほとんどの展示物の写真撮影が許されている。そこで、このブラジリアの数々の建物の設計がどのような過程でなされたかの一端を、展示物の写真から感じて頂きたい。
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見てきた通り、この建築家を特徴づけるのはなんといっても曲線なのだが、会場の入り口には、ニーマイヤーが愛用した曲線のチェアと写真の数々、また、いかにも彼らしい言葉を見ることができる。
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そして、自ら設計した自宅の模型も展示されている。プールサイドに突き出ている大きな岩は、もともとそこにあったものらしい。
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それから、冒頭のポスターに使われている強烈な印象の建物であるが、これはリオ郊外のニテロイ現代美術館。上から見るとオタマジャクシのようだが、実は切り立った崖の上に、海に面して建っている。会場に展示されていた模型と、横から見た写真は以下の通り。なんなのだこれは。まるでサンダーバードの基地のようではないか (笑)。
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この一度見たら絶対忘れない建築、ニーマイヤーという天才建築家の中で、どのように醸成されたアイデアなのであろうか。会場には素案が展示されている。
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な、なんじゃこりゃ。極めて単純だ。私でも描けるとは言わないが、本当に概略の素案だ。頭の中の閃きが、このように実際に公共性のある建築物になるとは、なんという素晴らしいことであろう。実はこの建築、1996年竣工。ということは、建築家 89歳のときの作ということだ!! 恐れ入りました。

さて今回の展覧会、実は特筆事項がもうひとつ。ニーマイヤーを尊敬する日本を代表する世界的建築家が、会場構成を行っているのだ。その名は SANAA (Sejima and Nishizawa and Associates)。妹島 和世 (せじま かずよ) と西沢 立衛 (にしざわ りゅうえ) のユニットだ。もともとこの東京都現代美術館は、現代美術を展示できるような広いスペースがあって気持ちのよい場所なのだが、今回はこの曲線の数々を観覧者が思い思いに楽しめるように工夫されている。極め付けは、会場出口近くに設置された、イビラブエラ公園 (サンパウロ。ニーマイヤーが 1954年に設計) という公園の巨大なジオラマを作り、観覧者は靴を脱いでその上を歩くことができるという趣向だ。
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建築は、芸術の一分野ではあっても、公共性があり、人によって実際に使われる存在だ。従って、建築家の独りよがりでは、いかなる建築も長年に亘って愛されたり評価されることはないであろう。その意味で、ニーマイヤーの足跡から、ブラジルという国のありようが伝わってくる気がする。わずか 5年で何もない場所にこのような壮大な近代都市を作り出したブラジル。彼らを突き動かすメンタリティはどこから来ているのか。ブラジル人が、半分裸の派手な格好で尻を振って踊っているだけと思っている方がおられたら、即刻その先入観を捨て、このようなシンプルな発想で世界に衝撃を与えた建築家がいたということを、よく考えてみて頂きたい。航空産業の発展も、この国ならではの要因がどこかにあるに違いない。

by yokohama7474 | 2015-09-26 23:16 | 美術・旅行 | Comments(2)

ウィーン美術史美術館蔵 風景画の誕生 Bunkamura ザ・ミュージアム

ウィーン美術史美術館。美術ファンなら誰しも一度は行ったことがあるだろう。栄光の大帝国、ハプスブルク家のコレクションだ。私も、1987年に最初に訪れて以来、5 - 6回ほどだろうか、足を運んでいる。全く同じ外見の自然史博物館と向い合せに建っていて、その中間に女帝マリア・テレジアの堂々たる銅像がある。ウィーンの数多い観光名所の中でも、特に有名な場所のひとつである。
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今般、渋谷の Bunkamura ザ・ミュージアムで開催されているのは、この美術館の持つ膨大なコレクションから、風景画をテーマとした展覧会だ。風景画と言っても、印象派のような近代の作品ではもちろんなく、16-17世紀のイタリア、オランダ、フランドル絵画を中心としたもので、宗教画の背景として風景を描いたものや、月々の暦とともに人の生活を描いたものが大半を占める。また、ロイスダールやカナレットら、いわゆる風景画家として知られている人たちの作品もある。

ヨアヒム・パティニール (1480 頃 - 1524) という画家をご存じだろうか。初期フランドル派の画家で、彼が風景画を最初に描いた画家だと言われているらしい。私は、まさにこの美術史美術館や、マドリッドのプラド美術館でも、大好きなボスの絵のそばにこの画家の作品が展示されていることから、その名前のみは知っていたのだが、最初の風景画家とは知らなかった。興味深いのは、あのドイツの巨匠アルブレヒト・デューラー (1471 - 1528) が、1520 - 1521年のネーデルランド旅行の途上でこのパティニールに会ったことを日記に記していて、「良き風景画家」と呼んでいること。デューラーはその際にパティニールの結婚式に列席し、のみならずこの画家の肖像画まで描いているほどの友情関係にあったようだ。そのパティニールの、「聖カタリナの車輪の奇跡」という作品が今回出展されているが、これはパティニールの初期の作品で、制作は 1515年以前、歴史上でもごく初期の風景画と認定されている。
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一見して明らかなように、この絵は、近代以降の作品に慣れた我々が「風景画」と聞いて想像するようなものとは全く異なり、その本質は宗教画である。聖カタリナはローマ時代の殉教者で、車輪のついた拷問器具によって処刑されようとした際に、神が天使を放ってその拷問器具を破壊したという。この絵の右真ん中あたり、燃えているのが拷問器具で、その左で手を合わせているのがカテリーナだ。それ以外にも殉教説話に関係するいくつのシーンが描かれているものの、この絵の大部分は、確かに風景を描いている。これをもって、本来の題材と風景の地位が逆転しているということになる。

考えてみれば、宗教画の場合、受胎告知であれ東方三博士の礼拝であれエジプトへの逃避であれ、あるいはヨハネとかヒエロニムスとかいう聖人を描くにしても、風景を描くことは必須である。「モナリザ」のような肖像画でも、後ろに風景が描かれている。しかしながら、ここで「風景画」と定義されている絵画は、恐らくはその後オランダを中心とするプロテスタント地域で宗教画を離れて世俗の風景が描かれるようになり、発展していったことをもって、その源流とみなしうるという点が特色なのではなかろうか。もちろん、本展にはイタリアやドイツの作品も出展されていて、一口に「風景画」とは言っても、結構な多様性を見ることができる。

これはイタリアのフランチェスコ・アルバーニ工房による「悔悛するマグダラのマリア」(1640年頃)。ここで見られるマグダラのマリアの心象風景のような険しい岩山は、画家の故郷ボローニャの風景がモデルであるらしい。この風景の荒々しさと対照的な天使たちの愛らしさが印象的で、この画家は17世紀当時、ヨーロッパ中で名声を博したという。
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これはドイツのヨハン・ハインリヒ・シェーンフェルトの「大洪水」(1634 - 1635年頃)。もちろんノアの箱舟が題材だが、その箱舟は画面の右端中央の奥に小さく描かれる、波間に漂う白い舟がそれだ。ここではその舟に向かう筏の周りに集う人々の絶望感が感じられる (前景左の方には、仰向けの死者も見える)。それから、中央奥に見える灰色のマントで自らを覆った人物が妙に気にかかる。同じドイツでも遥か後年、ロマン主義のカスパル・ダヴィッド・フリードリヒすら先取りするような神秘性のある作品だ。
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その他興味深いのは、毎月の情景を描いて、そこに各月の星座を入れる、月暦画と呼ばれるシリーズ。以下に掲げるのはレアンドロ・バッサーノというイタリアの画家の作品 (1580 - 1585年頃)。なんともヘタウマっちゅうかストレートにヘタクソっちゅうか (?)、独特の強いタッチだが、16世紀の人々の暮らしぶりが手に取るように分かるのが面白い。これは 1月。雪が舞い、焚火で足を温めている人たちがいる。星座はみずがめ座。
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これは 5月。バターやチーズを作っているところ。星座はふたご座。
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それから、上にも書いたように私はヒエロニムス・ボス (1450 頃 - 1516) が大好きで、その好みは中学生の頃にまで遡るのだが、その理由はひとえに、その異常なまでの幻想性だ。今回も、いわゆる普通の風景ではない異様な風景を描いた作品がいくつか出展されているのが嬉しい。ボス自身の作品はないものの、模倣者の作品が幾つかある。これは、「楽園図」。パーツパーツは見事にボス流。全体の構図から狂気じみたものが立ち昇って来ない点が、模倣者の限界か。でも、何やらだまし絵風に顔が浮かび上がるのではないかと、目を細めて見てしまったりするのが楽しい。
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さて、ボスとくれば、若干時代は下がるものの、並び称される大画家はブリューゲル (1525年頃? - 1569年) だ。ウィーン美術史美術館は世界最大のブリューゲルコレクションで知られるが、残念ながら今回、その子や孫の作品はいくつか来ているものの、大ピーター・ブリューゲルその人の作品はゼロ。これはなんとしても惜しい。なぜなら、最初に挙げたパティニールの作品のように、風景の中に本来のメインの情景が小さく描きこまれているタイプの作品として、恐らく最高のものが彼の手によって制作されているからだ。この絵である。あ、念のため、今回の展覧会には来ていないが、あまりに素晴らしいのでここでご紹介するものだ。
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ご存じの方も多いと思う。これは「イカロスの墜落のある風景」。例の、翼をつけて空を飛んだイカロスが、慢心のあまり太陽に近づきすぎて翼が溶け、海に墜落したという有名な逸話である。でも、イカロスは一体どこに? 右側、帆船の手前にごくごく小さく、水面でばたつく足が 1本半くらい見えているが、これがそうなのだ。手前に大きく描かれている牛車を押している男は、イカロス個人の悲劇とは全く関係しないところで、黙々と自分の仕事を続けている。いや、実は彼こそが、この悲劇を陰で目論んだ何者かであるのだろうか。そうであっても構わない。普通の昼下がり。のどかな海とゆったり流れる時間。イカロスを襲った悲劇を敢えて小さく描くことで、その悲劇性が強調されている。

さて、出展されていない絵について長々と書いたのは、正直なところ、この種の展覧会にはやはりこのような目玉作品が欲しいところであった。実際にウィーンに出掛けて行けば、今回の出展作に足を停めて見るなどということはほとんどないであろう。なので、風景画という独特の観点は評価できても、並んでいる作品の質という点では、大変残念な展覧会であったと言わざるを得ない。

まあ、それはそれでよいとしよう。やはりブリューゲルに出会うには、こちらがウィーンに出掛けて行くしかない。しゃーないなー。

by yokohama7474 | 2015-09-26 11:06 | 美術・旅行 | Comments(0)

蔡 國強 (ツァイ・グオチャン / さい こっきょう) 展 : 帰去来 横浜美術館

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上の写真を見て、おっと思わない人はあまりいないに違いない。展覧会のチラシを撮影したものなので、折り返し部分が少し光って見えにくいかもしれないが、狼が群れをなして空中を飛び、見えない何かにぶつかってすごすごと引き上げている。見えない何かとは、透明のガラスの壁。反対側からの様子はこんな感じだ。
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この言い知れない異様な迫力は一体なんだろう。1957年中国福建省に生まれ、現在ニューヨーク在住のアーティスト、蔡 國強の作品で、英語で "Head On"、日本語で「壁撞き」と題された作品だ。
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この人、火薬を使った作品を作る人だと言えば、お分かりになる方もおられるのではないだろうか。世界的な名声を博しているアーティストで、北京オリンピックの開会式と閉会式のヴィジュアルディレクターも務め、花火を使用してセレモニーを盛り上げた人だ。私も、この人の名前を見て 3秒後に、「ああ、あの花火の」と思い当たった次第で、別に熱狂的なファンではないが、会場の横浜美術館の雰囲気には結構合うのではないかと期待して出かけた。

美術館の建物に入ると、そのロビーに巨大な作品が展示されている。これだけなら入場料金を払う必要もなく見ることができ、お得だ (笑)。おまけに写真撮影も OK。
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これは「夜桜」と題された、今回の展覧会用に新たに制作された作品。実に縦 8m、横 24m という超大作だ。かがり火に浮かび上がる大輪の桜と、その枝の間から覗くミミズク。大変抒情的なテーマだが、同時に見る者に迫ってくる迫力も持ち合わせている。この独特の巨大なモノクロの押し花のような独特の模様は、いかに作成されたものであるか。展覧会の図録から関連個所を拾ってみよう。まず、スタッフ (横浜学生や市民たちらしい) とともに下絵を描く。
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そしてその上に火薬を撒き、火をつける!!
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つまり、この作品に相対する人々が目にするものは、炎を上げパチパチと音を立ててから静まった火薬の活動の痕跡であるのだ。力強い生命力と同時に、そこはかとない寂寥感を感じるのはどうしたことか。日本人にとっては、例えば線香花火を楽しんだあとのような感覚と言ってもよいだろう。まあ、線香花火は上の写真のようには派手に煙を出すことはないので、たとえを変えると、夏の華やかな花火大会を終えて暗い土手を帰路につくような感覚か。

火薬を使った蔡のパレットは意外に多彩で、上記作品以外にも、なんと春画をモチーフにしたカラフルな新作「人生四季」や、天井からぶら下がった長い朝顔の化石のような「朝顔」が会場に展示されているほか、制作風景や過去のパフォーマンスの記録映像、作者のインタビュー (日本に 9年間暮らして創作活動を行ったことがあるので日本語を喋る)、等々に触れることができる。私がことのほか美しいと思ったのは、磁器タイルを素材とする「春夏秋冬」という作品。このモノクロームの色彩 (とあえて呼ぼう) も火薬が作りだしたもので、そこには「燃える」という時間の経過が確実にあるゆえ、その時間の経過自体が結晶化したようなイメージがある。うーん、しばしその前で佇んでしまうほど美しい。
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さて、このような流れにおいては、冒頭の狼群は、彼にしては異色の作品であるようにも思われる。2006年にベルリンでの展覧会用に制作されたものであるそうで、狼の数は 99匹、ドイツ銀行が所蔵している。狼たちが突き当たる見えないガラス壁は、ベルリンの壁を表しているらしく、その実際の高さ 3mと同じ高さで作られた由。壁の消失は冷戦時代の終結を印象付ける記念碑的イメージとなったものの、その後のドイツ統一の過程で、旧東西両国民の間の見えない壁の存在が様々に意識されるようになったという皮肉。この作品にはそのような政治的なメッセージがあったようではあるが、その後世界各地で展覧される度にガラス壁は毎度新調され、高さもまちまち。狼たちの配置も変わるらしい。ベルリンでの展示の写真があったので掲載させて頂こう。これはまた、火ではなくて水が勢いよく一直線に流れるような群れの様子ではないか。
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ところが、これも図録の解説によると、作者本人に確認したわけではないが、もしかするとこの作品の想像力の源泉となったかもしれない絵が日本にあるという。それは、あの奇想の画家、曽我 蕭白 (1730 - 1781) の「石橋 (しゃっきょうず)」だ。こちらは唐獅子だが、確かにワンサと群れて石橋をよじ登っている。蕭白らしい、破天荒な構図である。もし蔡がこの絵に発想を得たとすると、特にベルリンの壁と関連づけた社会的なメッセージと取らずとも、人間を含む生き物の習性と生命力を表現したということではないか。
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さてこの展覧会、「帰去来」という副題がついている。これは言うまでもなく、陶淵明の詩から採られたものであるが、中国から日本を経てニューヨークに渡り、国際的な地位を築いた画家が、今また日本を舞台に自然との調和という観点から制作するという姿勢の表れと解説されている。特に、日本では福島に滞在したこともあり、災害からの復興という思いも強くあるようだ。自然の力との共存という意味で、このアーティストのメッセージは力強く響く。

さて、この美術館は平常展示もなかなかに見応えがあるのだが、ちょうど蔡の展覧会と合せて 10月18日まで、「戦争と美術」、「岡倉天心と日本美術院の作家たち」、そして「ポール・ジャクレーと新版画」という 3つの館蔵コレクション展が開催されている。
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戦争画展示も、これまでこのブログで何度か触れてきたような内外の画家たちの作品がいろいろあって興味は尽きないが、それよりも、上の写真の右下をご覧頂こう。これがポール・ジャクレーだ。一般にはあまり知られていない名前かもしれないが、1896年生まれのフランス人で、4歳のときに来日して以来日本で育ち、版画家となった。私は 2003年でここ横浜美術館で開かれた彼の展覧会で、大変な衝撃を受けた。日本的要素はあるが、なんとも異様な版画の数々で、怪しい魅力満載だ。詳細は省くので、ご興味おありの方は、是非 10月18日までに横浜美術館で実物をご覧下さい。上のポスターに出ている作品はこれだ。怪しいでしょう???
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ジャクレーが出たところで、じゃ、くれで、いや、これで、失礼します。

by yokohama7474 | 2015-09-22 01:07 | 美術・旅行 | Comments(0)

村野藤吾の建築 目黒区美術館

この展覧会が開催されていることは知っていた。だが、なかなか都合がつかずに、半ば以上諦めていた。というより、既に意識の中からほとんど消えていた。ところが、世の中には不思議な巡り合いというものがある。ほんの 2日前、金曜日の夕方近くのこと。仕事で日本橋を訪れ、面談先のオフィスを探すのに若干手間取り、迷っているうち、なぜか気になる古いビルが目についた。そこでそのビルにいそいそと近づいて、そこに出ていた説明板を読んだのだ。そこには、「近三ビル」という建物名と、その設計者、村野 藤吾の名前があった。・・・おお、そういえば!! このビルのことは知らなかったが、村野が日本を代表する建築家であることくらいは知っていて、青天の霹靂のようにこの展覧会のことが脳裏をよぎった。ようやくこの展覧会を訪れることができた今日は、奇しくも東京での展覧会の最終日。まあ別に、村野の魂に導かれたなどという大げさなことを言うつもりはないが、街中でも常にアンテナを張り、捨て目を利かせることの重要度を思い知るとともに、ちょっとした情報収集、また、頭の隅に引っかかった記憶というものの組み合わせが、文化の諸相を味わうためには意義を持つのだということを再認識した。
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村野 藤吾 (むらの とうご、1891 - 1984)。その名前は、例えば丹下健三や黒川紀章や磯崎新や、はたまた安藤忠雄ほどの知名度はないかもしれないが、数多くの庁舎やホテル、デパート、オフィスビル等々を手掛けた、文字通り日本を代表する建築家である。
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長命であったこともあってか、彼の手がけた作品は数多く、この展覧会では、その一部について模型が展示されている。東京に現存する建物のうち、知名度の高いものの模型を 3つご紹介しよう。まずは、旧日本興業銀行本店、現在のみずほ銀行だ。写真の右端下部の曲線が大変有名である。
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それから、有楽町駅のすぐ横にある読売会館。もとそごうで、今はビックカメラになっている。ご存じの方も多いはず。
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これは日本生命ビル。以前このブログで、ロッシーニのオペラ「ランスへの旅」(おお! そう言えばまさに今日このあとすぐ、BS プレミアムで放送だ!! なんという偶然!!!) の記事で触れた、日生劇場を含む。
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村野の作品の中には、戦後の建築物として初めて (丹下健三設計の広島平和記念資料館と並んで) 重要文化財に指定された、1953年築の広島の世界平和記念聖堂も含まれる。私は行ったことがないが、写真で見る限り、ヨーロッパ的な造形感覚も感じさせながら、コンクリート打ちっぱなしのモダニズムも併せ持つ、興味深い建築だ。
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一方、私がたまたま発見した近三ビルであるが、正式名称は森五商店東京支店といい、1931年の竣工で、村野のごく初期の建築のうちのひとつ。このような、現在の目から見れば何の変哲もないように見えるビルであるが、逆に言うと、既に築 80年以上を経て、未だ街中に溶け込んでいる点にその先進性が感じられる。何より驚くべきなのは、あのドイツ人建築家ブルーノ・タウト (日本に何度も滞在し、桂離宮の簡潔さの美を大絶賛してその世界的な再評価を実現した人物) が、たまたま通りかかって (私と同じではないか!! 笑) このビルを褒めたということ。より正確には、「婦人の友」誌における「ブルーノ・タウト氏と東京を歩く」という企画の中で、このビルのことを「日本の伝統と現代的価値との驚くべき融合」と述べた由。うーむ、昔の女性雑誌の特集ってそんなに高級だったのか・・・。

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村野の年譜を調べてみると、1933年にはタウトの来日記念講演会で、「日本に於ける折衷主義の功禍」という講演をしているので、世のタウトブームも、彼の知名度向上には大いに貢献したのではないか。また、このビルは今も現役で、このようなサイトもあって興味深い。
http://www.sanko-e.co.jp/read/memory/kinsan

さて、あれこれの村野の作品群を見ていて思ったことがひとつ。我々の国には、1300年も前からの建造物が幾つも残っているものの、近世に至るまでは、社寺建築のみ現存しているわけで、それ以前の宮殿や民家は時代を乗り越えられなかった。もちろん、木造で建造物を作り、これだけ天災の多い国であるし、戦国時代もあったので、やむないことではあるものの、では将来に目を向けて、現代建築は何百年も残るのだろうかと考えたとき、建築自体の強度は古い木造建築よりは強いはずでも、オフィスビルや大規模ホテルなどが何百年残るとは思えない。村野の作品でも、例えば私が直接知っていた、そごう大阪店だとか、磯子の丘の上に建っていた横浜プリンスなどは、今はない。前者は老朽化によって、後者は再開発によるマンション建設によって、取り壊されてしまったわけだ。確かに、そのような規模の建築を、本来の実用目的から離れて文化財保存することは、現実的に考えて無理だろう。では、その一部のみを移築し、明治村よろしく昭和村とか平成村とか称して保存するような日が来るのであろうか。さらに視野を広げると、既に 100年以上の歴史を持つニューヨークのエンパイア・ステイト・ビル、クライスラー・ビル、ロックフェラー・センターなどは、この先一体どうなるのであろうか。私がここで心配してどうなるものでもないのだが、芸術の一分野としての建築の評価とは、「かつてこんな建物がありました」というかたちで継承されるのか、あるいは偉大な建築家たちの業績も風化して行ってしまうのだろうか。

せめて近三ビルは、当分の間現役で頑張って欲しい。その説明板を見ることで、ある文化の一側面に気づく人間が、ほかにもいるであろうから。

by yokohama7474 | 2015-09-13 23:30 | 美術・旅行 | Comments(0)

東京 大田区 池上本門寺 松濤園特別公開ほか

東京都大田区。羽田空港もあれば職人さんが働く蒲田の工場もあるかと思うと田園調布もあり、幾多の文士たちが暮らした馬込もある、まだら模様の不思議な場所だ。そんな大田区の中にはあれこれパワースポットがあるが、中でも指折りの場所が、池上本門寺だ。この寺は、鎌倉時代の超カリスマ、日蓮上人が、暮らしていた身延山から下山し、常盤国に湯治に向かう途中に立ち寄り、その地で死を迎えた場所なのである。都内有数の霊験あらたかな寺院として知られる。この本門寺には、通常は公開していない素晴らしい庭園があるのだ。その名は松濤園。毎年 9月に数日だけ公開される。今年は 9/10 (木) から 9/14 (月) の 5日間。そのうち激しい台風に見舞われた日が 2日あるので、実質的には貴重な 3日間の一般公開だ。
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この庭園は、本門寺の旧本坊の庭園として、あの名高い武士であり作庭家でもあった小堀 遠州 (1579 - 1647) が設計した四千坪の敷地を持つ回遊式庭園である。起伏のある地形を活用し、あたかも深山幽谷のような雰囲気を作り出している。実は我が家は、2009年に海外から帰国した際、池上地区に居を構え、この松濤園の存在を知ったのである。しかしながら、それ以来、転居を経て、今日までこの庭園の一般公開を見ることが叶わなかった。いや、何か特別な事情があるわけではなく、ただ単に毎年ぼぅっとしているうちにいつの間にか公開期間が終わってしまっていただけだ (笑)。そんなわけで、今年は気合を入れてでかけて行ったのである。

朝10時から公開ということであったが、「長蛇の列になるらしい」という家人の情報により、9時半には現地に到着、あたかも大量破壊兵器を求めてイラクに入るアメリカ軍のように、ズンズンと足を踏み鳴らして受付に向かった。あ、あれ? 誰もいないじゃないの。ちょっと早すぎたか、係の人と坊さんが談笑している。油断すまじと、あたりを睥睨する鷹のように競合相手を確認すると、おっと、シニア世代の方々が三々五々集まってくるではないか。先を越されてなるものかと警戒していると、なぜだかサティ作曲のジムノペディ第 1番のオーケストラ版 (当然ドビュッシーの編曲だ) が BGM として流れ始める。この緊張した雰囲気には不似合いだ。と、気が付くと椅子に座ったままついウトウトしてしまっている。おっといかんいかん、ちゃんと目を開いていなければ。と自分を鼓舞するうちに10時きっかりになり、坊さんが挨拶している。これから受付を開始するが、各グループの代表一名が住所氏名を記入せよとのこと。よし、いざ出陣。・・・と、私が腰を上げたその瞬間、一陣の風のように隣を何者かが通り過ぎる。すわ、何やつ、と思うと、これはしたり、わが家人ではないか。私が立ち上がった瞬間には既に受付の机に到達しており、驚いてしまった。もしかして周りのシニアの方々を蹴飛ばしての狼藉ではないかと心配したが、どうやらそういうことではなかったらしい。早っ。

さて、念願叶って松濤園に入ると、なんと素晴らしい。天気がよく、深い緑が目に眩しい。池の真ん中には、作り物と紛うばかりのトキが 1羽留まっていて、「早く写真を撮りなさいよ」と言っているかのようだ。
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もみじが多く、秋の景色もさぞやと思われる。また、小高い丘を登って行くと、そこには豪快な石組が。
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この庭園の中には、松月亭なるあずまやと、浄庵、鈍庵、根庵といった茶室が点在している。そのうち松月亭では、精進アイスなるものが食べられるという。通常の抹茶やいちごや小倉以外に、豆腐やほうじ茶やしょうが等々の種類がある。とりあえず、抹茶と豆腐を選択。ししおどしが風流な音を立てる中、なかなか美味な味わいでしたよ。
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なぜこれが精進アイスと名付けられているかというと、牛乳ではなく豆乳を使っているからだという。なるほど、動物性タンパク質ではなく、植物性だ。・・・だが、帰宅して気づいたことには、そもそも通常のアイスで牛乳を使っていても、それは絞った乳であって、殺生はしていない。なので、「精進」と名乗るのは少々大げさではないか。ま、うまかったからどうでもよいのだが (笑)。

実はこの松濤園、ひとつの歴史的事件の舞台となっている。時は慶応 4年 (1868年) 3月12日、新政府軍が江戸の街に総攻撃をかける一歩手前で、幕府方の代表であった勝 海舟が、当時政府軍の本陣が置かれていたこの池上本門寺に、総大将である西郷 隆盛を訪問した。世に言う江戸無血開城に向けた勝・西郷会談である。勝と西郷は、翌 3月13日には高輪の薩摩下屋敷で、14日には田町蔵屋敷で会談を重ね、遂に江戸の街を焦土と化すことなく、時代の転換を成し遂げたわけである。その一連の会話の最初のものが、ここ松濤園のあずまやにて行われたわけで、大変重要な場所だ。残念ながら当時の建物はすべて戦災で焼失しており、今となってはこのような碑が立つのみ。だが、歴史の重みは充分に感じることができる。
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また、そのそばに、明治初期の日本画家、橋本 雅邦 (1835 - 1908) の筆塚がある。橋本は日蓮宗の宗徒であったらしい。
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このように松濤園は、歴史の息吹溢れる名園であるのだ。年に数日しか公開しないのがもったいない。数年越しの念願叶って大満足。

さて、せっかく久しぶりに本門寺に来たので、境内を散策してみよう。重要文化財の五重塔。1608年の造営で、戦争を生き残った貴重な建物だ。きっとそうだと思って調べてみると、やはり東京で現存する最古の建物だ!! 朱色も眩しく、しゅっと立った姿が美しい。
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そしてこの五重塔の周りは墓地になっているのだが、明らかに江戸時代のものと分かる墓が沢山ある。前田 利家の側室とか、加藤 清正の正室とか、あとは、区切られた一区画に並ぶ松平家の立派な墓の数々が目に付く。この墓地で一般に有名な墓は 3つある。まず、幸田 露伴夫妻。
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それから、力道山。この石碑の揮毫は、あの児玉 誉士夫であり、彫像の発起人は、梶原 一騎、初代タイガーマスク、それから北野 武ほか。
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そして、江戸時代初期の画家、幕府の御用絵師の狩野 探幽。瓢箪形にはどういう意味があるのだろうか。
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とこのように見てくると、およそ共通点のないお 3方だが (笑)、時代とジャンルを超えて、きっとあの世で酒を酌み交わしているのではないか。

さて、もうひとつ、本門寺の重要文化財をご紹介しよう。多宝塔。日蓮の遺体を荼毘に付した場所を記念するため、1828年に建てられたもの。数年前に解体修理され、鮮やかな色彩が甦るとともに、重要文化財の指定を受けた。実はそのとき、修理の現場に入れてもらって、間近で補修作業を見たことがある。なんとも鮮やかで立派な建物だ。建物自体が蓮弁の上に乗っているのも珍しい。
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さて、結構高低差のある境内を歩き回り、少し空腹を覚えた。そこで、駐車場の隣にある食堂で昼食を取ることに。写真は、本門寺そば 1,200円。いろいろ盛りだくさんの具が入ってこのお値段は嬉しい。
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さらに、屋外で焼いている、ぬれ煎餅。うーん、なんとも香ばしい。ただ、気を付けないとタレがポタポタ垂れてしまう。あ、垂れるからタレっていうのか (笑)。
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実は大田区には、ほかにも見どころが沢山ある。また機会あればいろいろとご紹介することとしたい。都内在住の方には、安・近・短の旅としてお奨めです。因みに東急池上線は、たったの 3両編成の、まるで田舎のローカル線で、沿線の商店街も、見事に昭和な雰囲気。これが都内に存在するとは、おそるべし、大田区。
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by yokohama7474 | 2015-09-13 01:14 | 美術・旅行 | Comments(0)