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戦後日本住宅伝説 - 挑発する家・内省する家 八王子市夢美術館

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題名を見て惹かれたのは、戦後の日本における一般的な住居の変遷 (日本家屋から昔懐かしい団地に移行するなど) を連想したからであるが、実際に足を運んでみると、16人の建築家が設計した住居を紹介するという、純粋に現代建築に関する内容であった。よく見ると、この 16人の建築家の名前は上のポスターにも出ているし、写真も掲載されている。いつもながら早とちり、ああ勘違いという奴だ。

まあよい。建築ももちろん私の興味の対象。この小規模な美術館にふさわしい内容を充分楽しんだ。ここで紹介されている丹下健三から安藤忠雄まで、様々なタイプの建築家が設計した住居は、多くが自身または家族のためのものである。まあ実際、建築家たるもの、前衛的な作品を世に問うていながら、住んでいるのがライオンズマンションですとなると、ちぃとばかり具合が悪い。もちろん、コンクリート打ちっぱなしで格好いいけど寒かろうが、バリアフリーを一切無視した細かな階段が多い作りであろうが、外から土足で入り込めようが、建築家たるもの、涼しい顔で、「究極の個人空間において、外部社会におけるパラダイムシフトとの接点を維持しつつも、同時に移り行く四季おりおりの季節感を充分に感じることができるような、いわば癒しの温度を持った住むための機械としての住居」を追求せねばならない。

上記の引用は、誰の言葉でもない。今私が書きながら、適当にでっち上げたものだ (もっとも、「住むための機械」という言葉は、皆さんご存知の通りのコルビジェの有名な言葉だ)。でも、なんだかちょっと、もっともらしいでしょう? いつも不思議に思うのだが、建築家が建築を語る際に使う言葉は、なぜか大変に観念的なものが多い。これはなかなか難しいところがあって、例えば夢窓疎石とか小堀遠州とか、昔の作庭家であれば、何も言辞を弄さずとも、鑑賞する武士や貴族などが、「結構な庭じゃのう」と言えばそれで済んでしまい、一般庶民には無縁な世界であったところ、今日では多くの建築の公共性の観点からも、建築家が何か言わされてしまうという事情があるのだろう。特にコンペで作品を説明するときに、「えー、何も考えずに設計してみました。皆さん楽しんで下さい」というわけにはいきませんからね。理系に分類される極めて実務的分野でありながら、本来は充分に文系的感覚を必要とされる建築家という職業、なかなかに大変だ。あの安藤忠雄ですら、今回の新国立競技場騒ぎを巡っては、世論は厳しいものになってしまっているわけで、本当に因果な商売である。

ともあれ、今回の展覧会、大変にユニークな住居が 16点紹介されていて、興味深いものではあった。建築家自身の語る設計コンセプトや当時の逸話についての映像、設計図、関連資料や写真などが展示されていた。展示物は撮影禁止であったが、それぞれの家の内部を大きな布に印刷した写真が展示されていて、それなら撮影 OK とのことであったので、尊敬する磯崎新の「新宿ホワイトハウス」(1957年) をパチリ。
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しかしそれにしても、上記の繰り返しになるが、芸術の一分野としての建築には、絵画や音楽にない公共性という問題が宿命的について回る。今回の展覧会でも紹介されている黒川紀章の「中銀カプセルタワービル」など、以前銀座から新橋に向かって歩いているときに偶然発見して、そこにある説明書きにワクワクした経験があるが、実際にはワクワク感は通りすがりの人たちの勝手な思いであって、保存や活用を巡っては大きな問題になっているようだ。以前 NHK の番組で、ここに住んでいる若い建築家がインタビューに答えて、「不便だがいろいろヒントがある」というようなことを語っていたが、でも一般の人は違うだろう。こんな一等地にこんな不便なものがあってもどうしようもないという事情はよく分かる。かといってどこかにそのまま移転というわけにはいかない。いかに建築史上に残る名作と言えども、実用との兼ね合いを果たさなければ、いずれは消えて行く運命にあるということだろうか。ウィキペディアご参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%8A%80%E3%82%AB%E3%83%97%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%AB

ただ今回の展覧会、図録は既に売り切れということで、なかなかの集客力であるようだ。熱心に見学する若い人の姿も多く見られた。「お、建築学科の若者ですか。芸術性と実用性の両立、がんばって下さいね。修辞を弄するのも必要だろうけど、一般の人たちにも分かってもらわないとね」と肩を叩きたくなるのをぐっと我慢して、梅雨明け初日の陽光がそろそろ収まりつつある夕刻の八王子の街に出たものである。ビールを飲むのに公共性は関係ないから、なんともお気楽な立場ではあったものだ。

by yokohama7474 | 2015-07-21 09:20 | 美術・旅行 | Comments(0)

レオナルド・ダ・ヴィンチと「アンギアーリの戦い」展 東京富士美術館

フィレンツェを訪れたことは恥ずかしながら 1回しかないのだが、できればこれからの人生で何度も訪れたい街だ。何の誇張でもなく、街全体がそのまま美術館。人はシニョーリア広場に立って、未だにこの街の市庁舎として機能しているパラッツォ・ヴェッキオ (ヴェッキオ宮殿) を見上げるとき、そこに威風堂々と立つダヴィデ像が摸刻と知りながらも、ルネサンスの遺産が今に生きていることに、心震えるものである。さて、この宮殿の中に以前、もはや伝説となっている 2つの壁画があった。私も現地訪問時にそのことを知り、失われたその壁画のダイナミズムに思いを致したものである。その壁画とは、レオナルド・ダ・ヴィンチの手になる「アンギアーリの戦い」と、ミケランジェロによる「カスチーナの戦い」だ。今回の展覧会は、その謎に迫ろうというもの。東京、八王子市にある東京富士美術館での開催だ。
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パラッツォ・ヴェッキオの中の、500人広間。現在の様子は以下の通り。ルネサンスの画家の伝記を残したことで知られるジョルジョ・ヴァザーリの手による大壁画があるが、かつてはこのどこかに、2大巨匠の壁画があったわけだ。最近のイタリア政府の発表では、レオナルドの「アンギアーリの戦い」」(1440年に起こったフィレンツェ軍とミラノ軍の歴史的な戦いを描く) は、現在の壁画の下に塗り込められているらしいとのこと。
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ダ・ヴィンチの天才ぶりには既にあらゆる言辞が呈されており、絵画に限っても、残された完成作の少なさと、どの作品でも一様に保たれている最高の水準によって際立っている。そのダ・ヴィンチの幻の壁画の手がかりを探すことになる今回の展示において、目玉は以下の絵画だ。
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これは、アンギアーリの戦いを題材とする壁画において中心的な場面をなす、「軍旗争奪」の板絵だ。作者不詳であるが、レオナルドの失われたオリジナルを彷彿とさせる作品だ。もともとナポリのドーリア・ダングリ・コレクションにあったことから、「タヴォラ・ドーリア」(タヴォラとは板絵の意味らしい) と呼ばれる。戦後行方不明になっていたらしいが、ドイツで発見。1992年に東京富士美術館の所有となり、2012年にはイタリア政府に寄贈されたということだ。従って今回の展覧会が、まずこの美術館で開かれることには大いに意味があるわけだ。これが都内の中心地での開催なら、押すな押すなの大混雑であったろが、八王子ということで、大変よい環境で鑑賞できた (因みに、今後は京都と仙台に巡回)。

それにしてもこの絵、なんという迫力であろうか。レオナルドの現存絵画には、このような息を呑む迫力を持ったものはない。なんでもオリジナルの壁面は、特殊技法を使ったゆえに、制作途中で絵の具が溶けてしまい、完成しなかったが、数十年はそのまま残されていたという。この軍旗争奪のシーンは、実はこの板絵以外にも模写がいくつかあって、今回の展覧会でも並べられている。だが、この板絵には、ほかと違う不思議な迫力があるとしか言いようがない。一度見たら忘れられないものだ。実は今回の展覧会を機に、東京藝術大学が立体模型を作成した。以下のようなものであるが、これは確かに複雑極まりない。もし仮に現実にこのような形態がありうるとしたら、ものすごい力と力がぶつかり合って、ある一瞬に静止する時にのみ、奇跡のように立ち現れるものだろう。肉眼で捉えることは無理であろうし、連続性があってはじめて成り立つ、完全なる 3次元の造形だ。永遠に凝固した一瞬だ。あー、フィギュアにして売り出してくれないかなぁ。ちょっと高くても絶対買って、毎日飽きもせず眺めたい。
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さて、一方のミケランジェロである。こちらの題材は、1364年のフィレンツェ対ピサの戦い、「カッシナの戦い」の最中にアルノ川で水浴びをしていたフィレンツェ軍が敵襲の報を受けて戦闘準備に入る場面だ。彼の得意とする筋肉隆々たる群像であったが、完成に至る前に彼はローマに呼ばれてしまい (1505年)、その後メディチ家の追放によって、壁に下絵が描かれたままで放置されたとのこと。今回展示されているのは、オリジナルの下絵に基づいて 1542年に作成した油彩画として残存する唯一の例で、アリストーティレ・ダ・ザンガッロという画家の手になるもの (但し、大きさはオリジナルの数分の一であろう)。
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うーん、これまた、いかにもミケランジェロらしい、力強さと、これでもかという多様なポーズにしびれる作品だ。これもやはり、一度見たら忘れないヴィジュアルイメージである。

人間性の謳歌を特徴とするルネサンス芸術であるが、この時代、イタリアという国はなく、同じ言語、同じ宗教を共有するイタリア人たちは、時に争い、時に同盟関係を結んで、大変な緊張関係にあったわけである。カトリックの威厳も宗教改革によって根底から揺らいでいたことを思うと、貴族、王族を含む当時の人々は、日々、誠に不安定な思いで生活していたことであろう。この時代、マキャヴェリは「君主論」を著したが、理想の君主に見立てたのは、チェーザレ・ボルジアであった。実はレオナルドも、一時期チェーザレ・ボルジアに軍事顧問としての売り込みをかけ、マキャヴェリと行動をともにするようなこともあったらしい。もっとも彼は晩年フランス国王フランソワ 1世の庇護を受け、彼のもとで亡くなるわけであり、最後まで手元に置いていたのが「モナ・リザ」であったことを思うと、激しい争いに同道するという経験に疲弊していたのであろうか。一方のミケランジェロは、政治的な活動にも身を投じた、もう少し闘争的な人間であったと思う。これら対照的な巨匠が、ここに一対の壁画を残しておいてくれれば、人類の大きな遺産となったであろうに。歴史とはままならぬものである。ただ、失われたからこそ、永遠に人々の思いを掻き立てるロマンがあるわけで、残された断片から想像力の翼を広げることができるのも、後生の人間の特権と言えるだろう。

by yokohama7474 | 2015-07-21 01:22 | 美術・旅行 | Comments(0)

ヘレン・シャルフベック - 魂のまなざし 東京藝術大学大学美術館

フィンランドの女流画家、ヘレン・シャルフベック (1862 - 1946) の、日本初の回顧展である。東京藝術大学の付属美術館では、通常古美術や日本の作品が展示されることが多いのであるが、今回は珍しくも欧州の画家である。
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いろんな展覧会に行けば行くほど自分の無知と向き合うことになるのだが、それでも、これまで未知であった画家についてのなんらかのイメージを持つに至ると、少なくとも無限の無知の少しの部分が既知になるわけで、それはなんとも素晴らしいことだ。いろんな巡り合わせの中での経験と知識の蓄積が、自分の人生を豊かにしてくれることは間違いない。今回はそんなことを改めて思わせる、心に残る展覧会であった。

シャルフベックの人生は淡々としたもので、世界の歴史と切り結ぶ勇敢な行為もなければ、美術界を震撼させた新表現の開発もない。フィンランドという、長らく帝政ロシアの支配下にあった欧州の最果ての国のひとつにおいて、結婚もせずに母親と暮らした女性。容貌からは、理智の光を目に湛えながらも、大変おとなしい性格の女性というイメージが浮かんでくる。ただ、会場で解説を読んでいるうちに、いろいろな画家からの影響を受けたのみならず、生前から国際的に認められた画家でもあったことが分かってくる。以下のポスターで使用されている作品は、「回復期」と題された 1888年の作品。彼女はこのときわずか 26歳であるが、この作品がパリのサロンに出展されると、フィンランド芸術協会が買い取りを決め、翌年のパリ万博での銅メダル取得によって、彼女は国際的な名声を得たとのこと。
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面白いことには、この穏やかで微笑ましい、例えば米国のノーマン・ロックウェルすら思わせる作品が、実は失恋の大きな痛手 (フランス滞在時に英国人芸術家と婚約したにも関わらず、それが破棄された事件) から回復して行く自分を描いたとされているらしい。この画面から、そのような悲壮感を伺うことは難しい。ということは、大変に意志の強い人であり、また自分をある程度客観的に見ることができる人であったのではないだろうか。

シャルフベックは、3歳のときに階段から落ちて左腰に怪我を負い、一生杖を手放せない人であったとのこと。そのようなハンディキャップはしばしば人に一見内向的、だが実は意志の強い性格をもたらすものである。女流画家で、やはり事故でハンディキャップを負い、それを創作活動の原動力にした人として、すぐに思い出すのがフリーダ・カーロであるが、彼女が激しさを剥き出しにした闘争の人生を送ったのに対して、シャルフベックの穏やかさは全く対照的である。メキシコとフィンランドの風土の違いもあろう。だがそれ以上に、画家としてのメンタリティの違いであると思う。

さてこのシャルフベック、作風の変遷を辿ると面白い。初期の頃の作風は、私にはやはり、ロシアの 19世紀の絵画にいちばん似ていると思われる。例えばこの、「雪の中の負傷兵」という作品。今にもチャイコフスキーの「エフゲニ・オネーギン」の「レンスキーのアリア」が聴こえてきそうではないか。ご存じない向きは、往年の名テノール、ニコライ・ゲッダの歌う映像をどうぞ。
http://video.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%A2
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しかしその後シャルフベックの作風は、控えめながらもあれこれと変わって行く。一目見て分かる、ゴーギャン風、ホイッスラー風、ルオー風、シャヴァンヌ風、ルドン風、セザンヌ風・・・。だが、最も重要なことは、いかなるスタイルを取っても彼女の本質は変わらないことだ。この展覧会の副題にある、魂のまなざし、いささか大げさに響くかもしれないが、この言葉は本当によくこの画家の本質を見抜いているものだと思う。彼女の生きた時代 (因みに、フィンランド最大の芸術家で国民的作曲家シベリウスは 1865年生まれなので、彼女と同世代だ) は、帝政ロシアからの独立や世界大戦のあった時代。世界が火花を散らし、殺し合っていた頃、彼女は常に変わらぬ視線で人や風景を眺め、その無垢な視線に映るものを描いたのだ。本展覧会の会場を歩いていてそのことに気づくと、なんとも心に深いものが沸いてくる。声高に叫ばずとも、ひとつのメッセージを世界に発し続けた画家の姿が、ここにある。

但し、シャルフベックに全く社交性がなかったかと言えば、決してそうではなかったようだ。若い頃にはフランスのポン・タヴァンにいたという。これは、ゴーギャンを中心とする芸術活動が行われた場所。また、英国コーンウォール半島のセント・アイヴズにもいたらしい。ここはヴァージニア・ウルフが幼少期を過ごした場所であり、後年はバーナード・リーチや濱田庄司が移り住んだ芸術家村だ。シャルフベックは、そのような芸術家が集まる場所で貪欲に様々な表現を吸収したであろうし、また、後年フィンランドの片田舎に閉じこもった頃にも、パリから最先端の芸術雑誌を取り寄せて研究していたらしい。一見穏やかな作風の裏に、常にたゆまぬ努力があったということだろう。

最後に、この画家のもうひとつの側面に触れておこう。さて、以下の絵は誰の手になるものか。
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そんなの簡単だ、上がヴェラスケスで下がホルバインだろうって? 実はこの 2点とも、シャルフベックが 1894年にウィーンに滞在した際に模写したもの。なんと達者ではないか。この技術の素地があるから、いろんなスタイルを試してみることができたのだろう。ところで調べてみると、ウィーンの美術史美術館は、この 3年前、1891年に一般公開したばかりだ。クリムトを中心としてウィーン分離派が設立されるのは、これより 3年後、1897年のこと。また、うたかたの恋で有名なオーストリア皇太子のマイヤーリンクでの情死は、5年前の 1898年だ。そんな風雲急を告げるウィーンの政治・文化情勢の中にシャルフベックを置いてみるのも、なかなかに楽しい。その魂のまなざしは、混沌とした大ハプスブルクの首都で、一体何を見ていたものであろか。

by yokohama7474 | 2015-07-20 23:50 | 美術・旅行 | Comments(0)

ボルドー展 - 美と陶酔の都へ - 国立西洋美術館

西洋の都市の中で、フィレンツェとかヴェネツィアとか、渋い例ではシエナなどという都市を特集した展覧会は、かつて日本で開かれているが、それらイタリアの諸都市以外に、どこが対象になりうるだろうか。もちろん、ウィーンとかパリとかロンドンなら、いろんな切り口で紹介できよう。でも、ボルドーを紹介するという今回の企画は、おっとそれがあったかと思わせるような意外性があって面白い。というのも、ワインに関する展示以外に何があるのか? と思ってしまうからだ。そういう人たちには、このポスターにおけるドラクロワの絵画をご覧頂こう。この荒れ狂うけものの強烈な印象に、興味を惹かれることであろう。よくワインに、「けものの匂い」という形容があるが、そう。ボルドーとけものの関係やいかに。
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さて、展覧会は、25,000年前の原始的な彫刻から始まる。これは、「角を持つヴィーナス」と名付けられている。
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ボルドーの属するアキテーヌ地方は、フランス南西部に位置し、スペインと隣接している。すぐ西側は大西洋に面しており、そこに注ぐジロンド川 (世界史で、フランス革命の主要な党派にジロンド派というのがあると習いましたね)、さらにはその上流ガロンヌ川が、ボルドーにワイン栽培に必要な水分と土壌を与えたわけであるが、どうやらその遥か以前に人類は、この地域の洞窟のあちこちに暮らし、生きた記録を残したようだ。スペインのアルタミラ洞窟と並んで壁画で有名なラスコー洞窟も、同じアキテーヌ地方に位置している。まあそれにしても、この造形の発想の豊かなこと。人間はなぜ、自分たちの似姿や狩りの様子を描いたのだろう。繰り返される日々の中で、動物にはない自覚を持って、何かを「記録」しようとした、その意志こそが、ただの無機物に「歴史」を刻んだわけである。何やら胸がドキドキする話ではないか。

さて、古代ローマによるガリア征服後、この地は地中海と大西洋を結ぶ中継地として発展したらしい。そして、早くからワイン生産がなされ、なんと、1世紀 (!!) からボルドーはワインの一大生産地として知られていたという。恐れ入りました。また、中世以降は、聖地サンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼の経由地としても栄えたらしい。

世界史上、経済でも文化でもよい。ボルドー出身の著名人には誰がいるか。恥ずかしながら、私自身はこの問いには答えられなかった。だが、3M といって、モンテーニュ、モンテスキュー、モーリヤックが 3大ボルドー出身者であるそうな。ほかにも、画家ではドラクロワ、ルドン、マルケがボルドー出身。また、ゴヤも、晩年にスペインから亡命してこの地に住んでいたらしい。ワインを産する土地には、やはり豊かな文化の水脈があるのだろう。

ポスターになっているドラクロワの「ライオン狩り」は、実は、よく構図の分からない絵だ。全体像はこんな感じ。
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真ん中の馬が切れているのがお分かりになるだろうか。実はこの絵、1855年に完成したものの、1870年に火災に遭ってしまい、上部を失ってしまった。だが、名作には当時から人々にインスピレーションを与える力があるものらしく (この点、追って記事をアップ予定の、ダ・ヴィンチの「アンギアーリの戦い」にも共通する)、幸いにも、模写が残っている。これを見ると、ライオン狩り全体の構図がよく分かり、円熟期のドラクロワらしい、動きと色彩に満ちた素晴らしい作品であったことが分かるのだ。
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そして、これを描いた画家の名前は、オディロン・ルドン。世紀末象徴主義を代表する、あのルドンだ。ルドンのイメージはロマン主義者のドラクロワとは随分と異なるが、この作品、完全に原作の動きの特徴がとらえられているにもかかわらず、独特の幻想的な色彩感は、まぎれもないルドンなのである。後世の人間は、様々な画家をつい○○派という整理をして単純に分類してしまいがちだが、画家それぞれの個性は、別に○○派に合わせて絵画に表れているのではない。それぞれの見た世界をそれぞれの方法で再構築しているわけで、このルドンによるドラクロワの模写は、全く個性の異なる 2人の天才が、期せずして違う方法で世界の見方を教えてくれるという稀有な例ではあるまいか。

展覧会ではその他、昔日のボルドーの繁栄の様子を伺うことのできる遺品があれこれ展示されていて、興味が尽きなかった。以前インドに旅行に行った際に食事で同席した初老の女性がボルドー出身と聞き、「じゃあ、子供の頃からワイン飲んで育ったんですね」と軽口 (私の悪い癖です・・・) を叩いたところ、真面目な顔で否定されたことを思い出すが、ボルドーでワイン生産が盛んであるのには、古来より脈々と流れる文化的な背景があればこそということを今回実感した。私自身は一度出張でボルドーに行ったことがあって、滞在が週末を越えたので、ワイン畑ごと世界遺産になっているサンテ・ミリオンなど訪ねて大変楽しかったが、実は、そのように構えなくても、平日のランチの際、とある世界的企業の系列の工場の社員食堂にて、蛇口のついた横倒し状態の樽からほぼ全員がワインをグラスに注いでいるのを見て、彼らの日常生活の豊かさを思い知ったものだ。もちろん彼らは、午後も普通に働くのだ。オイオイ大丈夫かと言ってはいけない。それがフランスなのだ。ましてや場所がボルドーだ。ワイン飲まないわけにいかんでしょう。私自身、ワインについて体系的に勉強したわけではなく、けものの匂いとボルドーの関係を明確には説明できないが (笑)、まあともかく、太古の昔から人間とともにあり、文化の発展にも寄与し、また、ただ単に酩酊によるよい気分と仕事の効率(?)を人々にもたらしてきたワインを、とにかく楽しもうではありませんか。というわけで、我が家の安物のワインセラーから引っ張り出した高級ボルドー、これから飲みますよ。
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by yokohama7474 | 2015-07-20 00:42 | 美術・旅行 | Comments(0)

エリック・サティとその時代展 Bunkamura ザ・ミュージアム

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芸術愛好家の端くれとして時折残念に思う瞬間がある。それは、音楽好きが音楽だけを好み、美術好きが美術だけ、文学好きが文学だけ、映画好きが映画だけ、演劇好きが演劇だけを好むのを目の当たりにする瞬間である。ちょっと考えてみよう。シェークスピアを知らずしてベルリオーズやチャイコフスキーをとことん楽しめるか。マーラーを聴くのにクリムトを知らないと、いかに狭い範囲での楽しみしかないか。フリードリヒの絵画への知識なく、タルコフスキーのメッセージを感受できるか。あらゆる時代において様々な芸術家が、表現行為における越境によって自己の能力を高めたわけで、鑑賞者としてもその轍を少しでも辿ることができれば、次から次へと未知の楽しみに出会うことができる。サティの活躍した時代、1910 - 1920 年代は、そのような観点から、尽きせぬ楽しみザックザクの時代である。それは歴史上でも最も芸術分野間の垣根が低かったと思われる時代であったからだ。

この展覧会の名前には、「エリック・サティ」の前に「異端の作曲家」という肩書がついており、それは我々の持っている知識の範囲において正しいとも言えるわけだが、では同時代においてサティが全くの無理解にさらされていたかというと、決してそうではなかったようなのだ。例えば以下の絵だ。
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これらは 1892年に描かれたもの。左が「以前」、右が「以後」と名付けられていて、前者が当時カルト的人気を博したペラダン率いる薔薇十字団のメンバーとしての姿、後者は軍隊に所属したときの姿だ。秘密結社のメンバー (私的存在) としての肖像と、国に命を捧げる軍隊組織の一員 (公的存在) としての肖像と、これほどに対照的な姿はあるまい。そして、この時サティは何歳であったか。驚くなかれ、26歳なのだ!! ひえーっ、その年でこのオッサンくささ。また、あの「異端の作曲家」「アルクイユの隠者」が、軍隊に所属していたことがあったとは。これらの肖像画はマルスラン・デブーダンという画家の作品で、公に展示されたものだという。26歳の若者 (カフェ「シェ・ノワール」のピアニストだった) のこのような肖像画のペアが残されているということは、サティが全く無名で世間の無理解に苦しんでいたわけではないことを示すのではないだろうか。

そしてその翌年、サティは運命的な出会いを経験する。以前このブログでもご紹介した、ユトリロの母、シュザンヌ・ヴァラドンである。最近の研究で、サティが終生ヴァラドンに激しい恋心を抱き続けたことが明らかになっているが、出会いの年、1893年にサティ自身が五線譜にインクで描いたヴァラドンの肖像が展示されている。
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このイラストには、とても運命的出会いという一大事件を感じることはできない。対象への軽い思慕と、その思いを抱く自分を茶化す感覚が感じられる。それは、大変にサティ的な、屈折した感情と言えるであろう。人生の一大事を劇的に音楽で描くことを終生しなかった音楽家。しかし、彼の心の中には、いとしいと思うものへの強い執着があったのであろうと思う。

冒頭述べた通り、サティの活躍した時代には、様々な芸術家がそれぞれの領域を超えて互いに刺激を与え合った。例えば、バレエ「パラード」。1917年に初演された、ディアギレフ率いるロシア・バレエ団の演目。台本ジャン・コクトー。美術パブロ・ピカソ。そして音楽エリック・サティ。レオニード・マシーンの振り付け及び出演、指揮はエルネスト・アンセルメであった。初演のプログラムにはアポリネールが寄稿し、この演目を「シュールレアリスム的」と評した。なんともきら星のような才能が集まった舞台ではないか。以下はピカソによる舞台の幕。
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ところが、この曲を聴いたことがある方はご存知の通り、最高の芸術家が集うにふさわしい、魂の感動を引き起こす音楽かと言えば、全くそうではない。誠にすっとぼけた音楽で、ドタバタと反復される安っぽい旋律や、騒々しいサイレンやタイプライターの音が全くナンセンスな雰囲気を醸し出す。そう。それがモダニズムなのだ。発展する近代都市文明の中で人々が求めたものは、閉鎖された空間での絵空事の情緒的な演劇性ではなく、ひたすら軽く、立ち止まることのないエンターテインメントであったのだ。

と書いているうちにも、サティのあれこれの音楽が頭の中を去来する。彼の音楽に情緒的な要素がないというのは本当だろうか。いや、実際にはサティほど、自らの情緒や情熱という要素を覆い隠した芸術家はそう多くないであろう。そうでなくて、あの誰もが知るジムノペディ第 1番や、梨の形をした 3つの小品などの美しい作品を書くことができただろうか。彼の書いた「家具の音楽」は、コンセプトは BGM の先駆けで、音楽が流れていることを意識されないことを目的としていて、ギャラリーで演奏された際に耳を傾けた聴衆に、「聴くな、聴くな」と喚いたという逸話がある。あるいは、同じ旋律を 840回繰り返す「ヴェクサシオン」は、いわば究極のミニマルミュージック。これらが表すものは、繊細で抒情性あふれる内面に他人が入ってくるのを拒む反骨精神や諧謔性ではないだろか。上記のシュザンヌ・ヴァラドンのカリカチュアも、その意味で極めてサティ的だ。

そう思うと、この偏屈者がなんともいとしくなってくる。ふと見ると、トレードマークの、あの山高帽にステッキが展示されている。どうですかこれ。
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スイスのルツェルンでワーグナーの緑色のベレー帽を見たときも、「あー本物だ」と感動したものだが、これ、本物のサティの帽子とステッキですよ。どうしますかこれ。

偏屈者であったことは間違いないが、それでも、同時代において注目され、様々な信奉者 (モダニズムを彩る六人組のみならず、4歳年上のドビュッシーも含む) から尊敬され、慕われたサティ。陳腐な作品を量産しながらも、時に決して古びることのない奇跡のような音楽を書いたサティ。その軽さの裏にある切実な思いに、何やらじんと来るものがある。このコクトー描くカリカチュアの本物を見て抑えきれない感動を覚える私は、偏屈であることの意味を考え、その偏屈さに見出される命の灯を考え、思いはあれこれ巡るのであった。
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by yokohama7474 | 2015-07-15 01:13 | 美術・旅行 | Comments(0)

田能村竹田 出光美術館

田能村 竹田 (たのむら ちくでん) について私が知っていることは、時に遠近法を取り入れた文人画の大家だということくらいで、細やかな筆致の作品のイメージはそれなりにあるものの、まとめて作品を見る機会には恵まれなかった。今般、画家の没後 180年を記念して、出光美術館で18年ぶりという展覧会が開かれているので、出かけてみた。あとで知ったことには、出光美術館は 200点もの竹田の作品を所蔵しているらしい。今回の出展作は 50点程度だから、これでも 1/4 ということか。大したコレクションだ。
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竹田は、1777年 (安永6年)、今の大分県竹田市に生まれ、1835年 (天保6年) に大阪で亡くなっている。何せ名前が「竹田」だけに、生地の今の地名 (「たけだ」ではなく「たけた」と読むらしい) と関係があるのかと考えてしまうが、どうなのだろうか。藩医の息子だったが、藩の財政難で経済的には苦労したとのこと。作品を見ているとそのようなことはほとんど感じられず、中国、宋伝来の南画 = 文人画の伝統に則って、自然や、その一部であるかのように小さく描かれる文人の姿が、実に粋な印象である。実際に作品を見てみると、全体が大きな曲線を描いていて、写実的ではないものの、山や川の実在感を感じることができるが、細部を仔細に観察するのはなかなかに困難だ。今回、展示品の前のガラスに部分アップの画像が貼られていたため、全体像と細部を比べることができたのはよかった。例えば、出品作で唯一の重要文化財、梅花書屋図の全体像と、その中ほどより少し下の部分に描かれた建物と人物を見て頂こう。
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よく見るとなかなかに人間的である。その人間性を証明するかのように、交友関係も豊かで、頼山陽、浦上玉堂、青木木米、上田秋成ら、その時代を代表する文化人たちと交わったという (儒学者の大塩平八郎とも親交があったと説明文があって驚いたが、調べてみると、平八郎が乱を起こして自害したのは、竹田の没後 2年経ってからのことであった)。竹田の絵に添えられた、何やら難しそうに見える賛の中には、詩情あふれる漢詩もあるが、誰々さんがやってきてこんな話をしたとか、酒を飲んだとか、最近ご無沙汰だとかいうカジュアルな事柄が書いてあることも多く、何やら微笑ましい。今回は、親交のあった青木木米の京焼の幾つかが展示されており、また、竹田が木米を京都に尋ねた際に描いた自分と木米の肖像画もあって、なんともくつろいだ雰囲気があってよい。左が木米、右が竹田。
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「あー、ちょいとね、木米さん」
「なんどす、竹田はん」
「なんだか眠くなってきましたな」
「うむ。そらあかん。気つけに酒でも飲みますかいな」
「いやいや、まだ茶を飲み終わってないでしょ」
「お、せやったせやった。なら、もうちょいこのままで鶯でも聞いてまひょか」
(沈黙)
「ところであなたの名前は、『きごめ』さん?」
「ちゃうちゃう、『もくべい』や。そういうあんたは、『たけだ』さんやね」
「ええっと、そうじゃなくて、『ちくでん』なんで・・・」
(2人、あくび。鶯が一声鳴く)
・・・なんていう感じですかね。

また、竹田はいわゆるモノトーンに近い南画だけの画家ではないことが分かった。結構細かく動植物をスケッチしていており、カラフルなものもある。これらも中国画に範を取ったものであるようだ。
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江戸時代の画家にもいろいろいるが、その多くがユーモラスな個性を持っていることに改めて思い至る。この豊かな文化を大いに楽しみ、大いに誇りたい。そのためには、自由な感性で坦懐に絵を眺めることだ。観る側としても、作り手の自由な精神に少しでも近づきたいと、今回の展覧会でつくづく思ったことである。

by yokohama7474 | 2015-07-07 00:15 | 美術・旅行 | Comments(0)

速水御舟とその周辺 大正期日本画の俊英たち 世田谷美術館

重要文化財の代表作、「炎舞」で広く知られる速水 御舟 (はやみ ぎょしゅう)。わずか 40歳にして世を去った天才日本画家の展覧会を、世田谷美術館で見た。

広大な砧公園の一角にある世田谷美術館は、その良質な企画もさることながら、深い緑に抱かれた佇まいが、とても都内とは思えない。訪れるたびに気持ちがワクワクする美術館だ。
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速水御舟は 1895年に生まれ、1934年に死去した日本画家である。日本近代美術史上のビッグネームではあるものの、「炎舞」のイメージがあまりにも強く、画業の全体像を理解できる機会はあまり多くない。今回の展覧会の意義は、その御舟自身の画家としての表現力の幅の広さに加え、その周辺の、より知名度の低い画家たちとの間に、大きな影響を受けたり与えたりという関係があったことを理解することができるという点にあった。まず、今回の展覧会に出展されてはいないが、有名な「炎舞」を見ておこう。
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蛾の羽がチリチリ焼ける音が聞こえるようなこの絵から想像されるこの画家の持ち味は、「鋭敏な天才的感覚」「内省的」「人物画への無関心」「人間心理の闇への興味」というものであろうか。私は以前山種美術館でこの作品に触れた際、相対する人間をその場に縛り付けるような異様な迫力に言葉を失ったものである (尚、ちょうど今、山種美術館でこの作品が公開されている。http://www.yamatane-museum.jp/2015/07/hayami.html)。

上記の感想のうちの幾つかは、今回の展覧会でも再確認された。例えば、会場の入り口近くに展示されていた、この「菊花図」はどうだろう。
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この花は、ただの花ではない。まるでそこに佇んでこちらの様子を伺っているかのような生々しい存在感があるのだ。岸田劉生が唱えた、有名な「でろり」とした感覚が、ここには間違いなくある。そう思って調べてみると、劉生が生きたのは 1891年から 1929年。生没年とも、御舟とほぼ重なるわけである。日本画家と洋画家の違いはあれど、美のとらえ方に共通したものがあったということだろう。ただ、それだけではなく、時代の雰囲気というものが関係しているとも思われる。1999年に千葉市美術館で開かれた「甲斐庄 楠音 (かいのしょう ただおと) と大正期の画家たち」という忘れられない展覧会があって、そこには、異色の日本画家、甲斐庄楠音とその周辺の画家の、まさにでろり感覚炸裂!!の作品が多く展示されていて、今でも思い出すと身震いするくらい、強烈な印象を受けたものだ。その展覧会の図録をひっぱり出してみて、今回の展覧会で取り上げられている画家の作品がなかったかどうか調べたが、残念ながら画家の重なりはなかった。それは、楠音が京都の人であって、御舟一派とは接点がなかったことによるものであろうか。ただ、調べてみてびっくり。この楠音は、生年が 1894年。やはり御舟と同世代だ。そうすると、やはり彼らの活躍した大正時代に、活躍の舞台が東京であれ京都であれ、芸術家が何か人の心の闇を表現したくなる空気があったということだろう。一般的にはモダニズムのイメージの強い大正期であるが、なかなか単純に割り切れない時代だったということだろう。ここでは参考までに、楠音の作品をひとつ挙げておく。岩井志麻子のデビュー作、「ぼっけえ、きょうてえ」の表紙に使われた、「横櫛」という作品である。本も怖かったが、この絵も本当に怖い。
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さて、話が横櫛ならぬ横道ばかりになってしまっているが、少なくとも御舟のひとつの特色は、このようなでろり感であることは確かである。しかし、どうだろう。楠音の強烈なでろり感に比較すると、御舟の作品のすっきりとスマートなこと。楠音の作品は、時代の特殊性を纏っているが、御舟の作品は、時代を超えた普遍性を持っている。今回の収穫のひとつは、御舟の周辺で、このような「普遍的なでろり感」を持った画家がほかにもいたということだ。まず、ライバルであった小茂田 青樹 (おもだ せいじゅ)。御舟と比較するとさすがに見劣りするものの、きっちりとした情緒あふれる日本画らしい作品もあれば、内からのでろり衝動を明確に表したものもあり、優れた画家である。ところが、奇しくもこの画家も 1891年生まれの 1933年没と、やはり御舟と同世代で若くして亡くなっている。何か因縁を感じてしまう。下の絵は、「ポンポンダリア」という作品。
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それから、これも日本美術史上のビッグネームである、今村 紫紅が御舟の兄弟子であるとは知らなかった。しかも、この画家も、わずか 35歳で世を去っており、本当に因縁を感じる。その他印象に残ったのは、御舟の弟子である高橋 周桑と、吉田 善彦。いずれも、「何かが宿る風景」の画家と言えるのではないか。ヨーロッパの絵画で言えば、カスパル・ダヴィッド・フリードリヒやセガンティーニとの共通点を見出すことができる。高橋描くこの桜の絵は、セガンティーニの「悪しき母親たち」の日本版でなくてなんであろう!!
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御舟とその周辺の画家に関し、その「でろり性」を中心に論じてきたが、忘れてはならないことは、御舟の芸風の広さである。長生きすれば、あらゆる面で日本画の可能性を切り拓いて行ったに違いない。下の絵は、イタリアで描いた「オルヴェートにて」という作品。どうですかこれ。清水登之さながらの、ユーモアとモダニズムと、優しい視線を感じます。
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見応えいっぱいの展覧会を出て、空腹である自分を発見。美術館の中にある「ジャルダン」というフランス料理店で昼食を取ることとした。この美術館には何十回も来ているのに、このレストラン (結構有名らしい) には初めて入る。砧公園でホットドッグを食らうよりはずっと高級で文化的だ。そして出てきたサラダには、なにやら黄色いニンジンや、周囲が紫のニンジンが。その名もずばり、キニンジンとムラサキニンジンという種類だとのこと。へー、変わってるなぁ。しゃれた食事を紹介するような今風のブログではないので、いささか不本意ではあるが、「こういうネタもあった方がいい」という家人のアドバイスに従い、サラダの写真を載せることにします。でろりのデトックスにどうぞ。
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by yokohama7474 | 2015-07-05 00:24 | 美術・旅行 | Comments(0)

着想のマエストロ 乾山見参! サントリー美術館

六本木の東京ミッドタウンにあるサントリー美術館で、尾形乾山を中心とした展覧会を見た。
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琳派は日本美術史において燦然と輝くブランド名であり、特に光琳、乾山の兄弟は、知らぬものとてない歴史上のビッグネームだ。しかしながら、例えば狩野派と比較すると、一般の人々のイメージが確立しているかというと、いかがであろうか。例えば光琳の紅白梅図屏風とか燕子花図とかなら、誰しも一度は見たことがあろう。だが、俵屋宗達は生没年とも不詳であるとか、そもそも宗達と光琳は活躍した時代が 100年くらい違うとか、あるいは琳派を継承した酒井抱一の活動はさらにそれより 100年あとで、しかも光琳・乾山の活躍した京都ではなく江戸の人だとか、そういったことを知っている一般人はどのくらいいることだろうか。実際、現在でもいろいろな新発見などがあり、歴史の真実はまだまだこれから明かされて行くわけである。

この展覧会は、琳派が誕生する前の状況を概観し、はるか20世紀にまで続く琳派の系譜を辿る中で、乾山の切り拓いた工芸品の新しい世界を展望するもので、見ごたえ充分だ。そもそも乾山は、兄光琳の輝かしい天才のイメージに比して、少し地味な存在と考えられている。この展覧会を見て、それはある意味で正しく、また別の意味では大きな誤解であることを思い知った。

そもそも焼き物に絵や書を入れるという発想は、どこから来たのであろうか。我々がイメージする織部や、あるいは仁清でも、そのようなものはないはず。光悦と宗達が書画のコラボレーションを始めたことが、やはり何かのインスピレーションを促したということか。焼き物となると、焼き上がりのイメージをつかんでデザインし、また、色が定着するように釉薬や絵の具に工夫を施す必要あるわけで、今我々が考えるよりも、生みの苦しみは大きかったものではないか。

それにしても、乾山の作品の、大らかな雰囲気はどうであろう。
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先日、NHK の日曜美術館でもこの展覧会を取り上げ、あれこれ解説していたが、その文学の素養や、ひねりを利かせた造形、遊び心など、乾山の発想の豊かさには、まさに感嘆のほかはない。ひとつひとつの展示品を見ていると、なんとも愉快な思いが満ちてくるのを感じる。

以前、「光琳乾山兄弟秘話」という本を読んだことがあって、乾山が 5歳年上の光琳を本当に慕っていたことを知った。今回、光琳は 59歳で亡くなっているのに対し、乾山は 81歳の長寿を全うしたことを知った。このあたりも、天才肌の兄とマイペースな弟という、芸術家としての兄弟の資質の差が人生に端的に表れているように思われる。ただ一方では、乾山が自らのブランド力を確立し、後世に琳派を継承して行く素地を作ったということであるようだ。その意味では、光琳だけでは琳派は成立せず、乾山あってこその琳派なのであると言えるのではないか。

さて、今回の展示を見ながら考えたのは、この時代においては、多くの工芸品が、美術として愛でるというよりも、皿や香炉として実用に供されていたという事実であった。そのような経緯が、これらのものに命を吹き込むのだろうか。実際、焼き物だけは、写真で見てもその魅力は伝わらない。じっくりと顔を近づけて見ることで、何かを語り始めてくれるように思う。よく小林秀雄が書いているような骨董への没入の雰囲気が、少しだけ分かるような気がしたものだ。もっとも、あの時代の文学者の破天荒さ = 真剣勝負には、なかなか現在の人間にはついて行けないものがあるが・・・。こういう便利で手軽な時代であるからこそ、たまには本物をこの目で見て、少しでも眼福とやらを味わいたいものだ。

by yokohama7474 | 2015-06-28 01:46 | 美術・旅行 | Comments(0)

マグリット展 国立新美術館

このブログの最初に、六本木の国立新美術館で開催されたルーヴル展を取り上げ、その際に、同じ美術館で開かれているマグリット展に言及したが、はっと気づくと、明日が最終日。まあしょうがない。でかけるとするか。

実は私の中ではマグリットという画家への評価が既にできていて、それは、「わざわざ本物を見ずとも、画集で見ていれば充分」というものであった。それは、以前日本で開かれたこの画家の展覧会に出掛け、あれこれの作品を見て抱いた感想だった。ついこの間と思っていたその展覧会は・・・調べてみると、なんと 1988年!! えぇー、あれからもう 27年も経っているのか!! にわかには信じがたい。その後、2002年にも Bunkamura でマグリット展が開かれたようであるが、どうやらそのような整理のもとで、足を運ばなかったらしい。

そんなわけで、今回は半ば義務感に駆られて出掛けたわけであるが、現地にたどり着いて、まずチケット売り場の長蛇の列に驚愕。
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これは、チケット売り場から一本の列では足らず、折り返している情景だ。おそるべし。また、展覧会のグッズショップも押すな押すなの大混雑。私の長い美術館通いでも記憶のない、買い物客の列が売り場に収まらず、廊下にまではみ出しているという状況が現出していた。

さて、マグリットの何が、こんなにも人々の興味を惹くのであろうか。それは、もっぱら具象的なイメージを使いながら、意外なもののの組み合わせで、現実性と夢幻性を軽々と越境する点にあろうか。今回出展されている中では、「白紙委任状」「光の帝国 II」という作品が非常にポピュラーである。
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また、今回出展されておらずとも、最も有名なマグリットのイメージとして、あえて「大いなる戦い」を挙げておこう。
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手っ取り早く言ってしまおう。今回の展覧会は大変楽しく、また、本物のマグリットを堪能する大いなる戦い、もとい大いなる歓びに我を忘れたことを。

彼の生まれは1898年。生国のベルギーでは、例えばクノップフのような、これぞまさに象徴主義 (サンボリズム) という芸術が一世を風靡していた頃だ。それを思うと、両大戦間には彼は 20~30代という若い時期に当たることを理解できる。その頃彼は、未来派風の作品を描いたり、あるいはモダニズムを絵に描いたような雑誌のイラストを発表していた。これは、ある意味で意外なような、らしいような・・・。
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そこから試行錯誤を経て自らのスタイルを獲得していくわけであるが、例えば同じシュールレアリストでも、ダリなら天才的素描力が明確にあるわけだが、マグリットの場合、看板画さながらのベタ塗りで、苦労してデッサンを積み重ねている気配が全く感じられない。これが、私がもともと、マグリットの絵は写真を見ていれば充分と思った根拠であった。

ところが今回、幾つかの作品が、その絶妙な美で私の心を打ったのだ。例えば、晩年、1962年の作、「ヨーゼフ・ファン・デル・エルスト男爵と娘の肖像」はどうだろう。この空は見慣れた彼の空だが、近づいてみるとその表現の繊細なこと。また、人物像も、あたかも米国のスーパーリアリズムのように無機的でありながら、巧まずしてその人物の生を浮かび上がらせている。傑作と呼ぶべきだろう。
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あるいは、「ガラスの鍵」はどうだろう。さて、この大きな石は浮いているのか、あるいは奥の山の上に乗っているのか。
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この絵を見て私の横でカップルが、かけあい漫才さながら、「浮いてる」「乗ってる」「浮いてる」「乗ってる」と議論していたが、その議論はまさに作品の根幹にかかわるのだ。作者の言葉を聞いてみよう。

QUOTE
正確な思考は、「ガラスの鍵」という作品に、山の上に置かれた岩を見るように強いるのです。空中浮遊も、「不動の」雪崩も関係ありません。そう呼びたければ、空中浮遊がないというわけではありません。地球が、山の上の岩も含めて、地上にあるすべてのものとともに、空虚の中に浮かんでいると考えるならば。私の意図は、ひとつの岩のイメージを描くことにありました。ひとつの岩が、ある山の上に置かれている光景が、どこからともなく心に浮かんだのです。
UNQUOTE

このような言葉は、山の情景が「シュールなまでにリアル」に描かれていなければ説得力を持たない。その点、この作品はその要請をクリアしており、託された意味がどうであれ、文句なしに美しい。そういえば今回の展覧会には、作者の言葉があれこれ紹介されていて興味深かった。通常このようなシュールの作家は、あまり解題をしないものかと思うが、意外にもマグリットは饒舌だ。もっとも、だからと言って作者の饒舌を観客が充分理解できかと言えば、別問題なのであるが。さらに言えば、本当に「理解」が必要かということにもなるわけであるが。

さて、今回の展覧会での新たな発見は、生涯スタイルを一貫したかに見えるマグリットも、何度か特殊な作風に転じていることだ。明るく優しい画風の「ルノワールの時代」(1943-47)、マンガのような筆致の「雌牛 (ヴァージュ) の時代」(フォーヴ = 野獣のパロディ、1947-48) がそれだ。いずれも不評で短期で終わったようであるが、時期に鑑みて戦争に対する反応であったと思われる。以下、1946年の「不思議の国のアリス」と、1948年の「絵画の中身」。マグリットの作品とは、ちょっと信じられません。
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それからこの展覧会には、さらに珍しいものが展示されていた。マグリット自身が使用していたイーゼルだ。そこに架かっているのはなんと、未完成の作品だ。デッサンを見ることが極端に少ないこの画家の、線でまず作品を手探りする過程が生々しく見える、稀有な例ではないか。不気味なまでの静謐がそこに感じられよう。
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まあそんなわけで、私にとっては「マグリット再発見」となる展覧会で、会場の混雑も全く苦にはならなかった。今回、1988年の展覧会のカタログも再度見てみたが、実は上記の「不思議の国のアリス」も「絵画の中身」も、そのときに既に展示されていたことが判明。そのような作品のユニークさに気づいていなかった自分への不信にとらわれるとともに、このような機会が繰り返し訪れる東京という街の懐の深さにも、改めて思うところがあった。

by yokohama7474 | 2015-06-28 00:32 | 美術・旅行 | Comments(2)

パリにて ヘンリー・ダーガー展 (パリ市立近代美術館) / クリュニー美術館 / パンテオン / サン・シュルピス教会

パリに出張する機会があり、少し時間が余ったので、打ち合わせをすることにした。打ち合わせ相手は、「西洋文明」。いつもながらに手ごわい相手ではあるが、相手の手の内もそれなりに理解しており、いわば宿敵というところか。1990年に初めて訪れて以来、出張で観光で幾度となく訪れてきたこの街で、また新たな体験が増えることとなった。

最初に言ってしまうと、パリは文句なしに世界でいちばん美しい街。よく設計され、よく保存されている。もちろん、この街の歴史に思いを馳せるとき、そのような単純な賛辞は、文字通り浮ついたものになってしまうのであって、表通りの美しさと並んで、裏通りの汚さに、この街の真の生きる力を見る思いである。今回訪れたのは、もちろんルーヴルでもオルセーでもオランジュリーでもロダン美術館でもない。以下の 4ヶ所だ。

ヘンリー・ダーガー展 (パリ市立近代美術館 / Musée d'Art Moderne de la Ville de Paris )
クリュニー美術館
パンテオン
サン・シュルピス教会

さて、パリの美術館など、とっくに見尽くしてしまったと思っていた私であるが、実は、パリ市立近代美術館には未だ行ったことがなかった。今回は、街中で見かけたヘンリー・e0345320_23494300.jpgダーガー展のポスターが、行ってみたいと思った直接のきっかけであったが、行ってみるとこれが、1937年のパリ万博 (同地での 7回目の万博) の際に建てられた一連の建物のひとつ (エッフェル塔に対面する丘の上に立つシャイヨ宮もそうだ)。ギリシャ神話をイメージしたアールデコの建物で、時代の雰囲気をよく持っている。ただ、訪れる人もあまりいないのか、痛みや落書きなどの汚れが目立っている。惜しいことだ。

ヘンリー・ダーガーである。日本でも既に何度か展覧会も開かれており、本も出ているが、米国シカゴに住んでいた自閉症のオジサン (1892 - 1973)で、死後に発見された夥しい絵画 (長大なストーリーの挿絵) が、「非現実の王国にて」と名付けられ、アウトサイダーアートの代表例として知られている。私はもともとアウトサイダーアートには興味があり、日本でのヘンリー・ダーガー展にも足を運んでいるし、ローザンヌにあるアール・ブリュット美術館や、フランスのシュヴァルの理想宮にも行ったことがある。筋金入りのアウトサイダーアート好きだ。もちろん、そのようなレッテルとは関係なく、ヘンリー・ダーガーの閉ざされた精神の作り出した迷宮世界を楽しめばよい。本能的な恐怖とともに、どこか甘美で穏やかな気持ちを覚えるのは、どうしたわけだろうか。
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尚、この美術館に到着して気づいたことには、ラウル・デュフィの大作壁画が存在するのだ。やはり 1937年の万博のときに描かれた、「電気の精」があるのだ。昨年日本で開かれたデュフィ展には、その下絵がいくつか含まれていて、本物を見たいと思っていたので、ここで対面できて、狂気乱舞。高さ 10m、幅 60m という超大作で、人類の歴史の中で電気がいかに発見され、利用されるようになったかを示すべく、古今の科学者・思想家の肖像画が並び、最後にはオーケストラと合唱による壮大なオラトリオが電波に乗って世界に発信されるのであるが、面白いのは、中央に見えるのが、ジュピターらのギリシャ神話の神々が見守る近代の発電所なのだ。ここでは、デュフィ独特の鮮やかな筆致と色彩によって神話と科学が混然となり、見る者を圧倒する、というよりも、なんとも言い難い高揚感を与えるのだ。ここでしか見ることのできない、素晴らしい作品だ。ただそれにしても、ひとつ気になるのは、1937年時点でこれだけの高揚感が表現されている一方、当時既にドイツではヒットラーが政権の座につき、再軍備宣言もなされていたわけで、2年後には第二次世界大戦勃発、その翌年には早々にパリは陥落してしまうのだ。当時この壁画を見た人たちの本当の思いは、いかなるものであったのだろうか。
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この美術館にはほかにも、マチスの「ダンス」の大壁画もあり、また、ピカソやブラックやドローネーやレジェ、また、エコール・ド・パリの画家たちからダダ、シュール、フルクサスまで、バラエティに富んだ作品が目白押しで、見ごたえ充分だ。

その後、中世美術で知られるクリュニー美術館へ。3回目の訪問となるが、近年改修がなされていて、清潔でありながら、元修道院という神秘的雰囲気が満点である。写真は、トートルダム寺院のファサードに飾られていた彫刻群。また今回、ドイツの木彫りの宗教彫刻の特別展示があり、なんとも美しかった。
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この美術館の目玉はいわずとしれた、フランスの至宝と呼ばれる「美女と一角獣」の連作タペストリーだ。一昨年日本にも来て、よく鑑賞できる素晴らしい展示がなされたので、じっくり堪能したが、ここではさらに狭い空間で、ガラスの覆いもなく、まさに中世にタイムスリップだ。パリの美術館でよく見かけるように、小さな子供たちのグループが作品の前に車座になって先生の話を聴き、また質問に積極的に答えているのを見て、フランス人の文化度に改めて感嘆した次第。
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次に向かったのは、パンテオン。もともと教会だが、19世紀になって、フランスに貢献した人々の墓所となった。現在丸屋根の修理中で、なにやら戦時中の対独レジスタンスの活動家 4名の特集展示をやっていた。この 4名、墓所に棺が安置されているのを見たが、帰国して調べると、なんと、つい 1ヶ月ほど前、2015年 5月27日にパンテオンに移葬されたe0345320_01133980.jpgとのこと。しかも一人はシャルル・ドゴールの姪である由。戦後 70年を記念してのことだろうか。オランド大統領は式典で、「歴史は振り返るためにではなく前に進めるためにある」と演説したとか。戦争の整理がつかず混迷を深めるわがアジアの状況とは、なんという違いだろう。

また、このパンテオンでは、美術面では、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの壁画が見逃せない。この画家の展覧会も、去年だったか日本で開かれていて、その象徴派風の繊細な筆致が、世紀末美術をこよなく愛する私には涙ものだったのであるが、ここパンテオンでは、明らかに当時のアカデミズムを反映したほかの壁画とは全く異なり、詩情漂う素晴らしいものであった。


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さらに、私が初めてここに来た 25年前に驚愕したものに再会できた。それは地下の墓所にある、思想家ジャン・ジャック・ルソーの墓である。ご覧の通り、木の棺の側面に、彫刻で扉が作られており、そこから松明を持った手がにゅっと飛び出しているのである。これは、死後も世界の啓蒙 (Enlightenment) を続けるという意味であろうが、死後の穏やかな眠りを是とする日本人には、なんとも理解しがたい発想だ。











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ところで、このパンテオン、思想家や学者や軍人や作家は葬られているものの、画家も音楽家も見当たらないようだ。何か理由があるのだろうか。

さて、西洋文明との打ち合わせも、ここまで来るとかなり煮詰まってきて、もう足がガクガクだ。最後に、サン・シュルピス教会に詣でて、私のお気に入りである、ドラクロワの壁画「天使とヤコブの戦い」を見て終わりとした。絵は相変わらず迫力あるものであったが、少し痛みが出ているらしく、一部に布のようなものが貼ってある。また、保存のために寄付を募る看板が出ていて、教会の環境で美術品を保存する難しさを考えることとなった。

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また、この教会は一時、「ダ・ヴィンチ・コード」で有名になった。18世紀に堂内に建てられたというオベリスクの真ん中の線は、実際に子午線を刻んだ日時計だが、確かここに謎の鍵を握るものが埋められているという設定だった (今、手元にある本を開いて確認すると、キー・ストーンと呼ばれる板を、シラスという怪しげな修道僧がここの床から掘り出すという設定でした)。この小説が流行っている頃にこの教会に来たことがあるが、その頃には、「ここは異教徒の聖地であったことはなく、この日時計には何も埋まっていません」というような趣旨を記載したチラシが、日本語を含む数か国語で書かれて置いてあったのを覚えている。さすがに今回はそれはなく、ただひっそりと佇んでいるオベリスクでありました。
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ということで、パリでの業務は無事完了しました!!


by yokohama7474 | 2015-06-21 01:41 | 美術・旅行 | Comments(2)