カテゴリ:美術・旅行( 160 )

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この展覧会は、日本人が大好きなパリのオルセー美術館から大挙して作品がやってくるという展覧会。最初にお断りしておくが、2月初旬から開かれているこの展覧会に私が足を運んだのは、ゴールデンウィーク中、より正確には、クラシック音楽の祭典、ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの期間中、コンサートとコンサートの間という限られた時間であった。そして気が付くと期間は今週末の日曜日までで、しかも地方巡回はない。実は私の手元には、まだまだほかにも記事のネタはあるのだが、ここでこの展覧会をご紹介しようと思ったのは、たまたまこの記事をご覧になった方に、なかなかに貴重なこの展覧会に足を運べる可能性を少しでも多く持って頂きたいと願うからである。上のポスターにある通り、ここで紹介されるナビ派の展覧会は、日本にとっては「はじめまして」であるらしい。えっ、そうなのか。ゴーギャンの影響を受けたナビ派については、私が過去に日本で見たいくつかの展覧会で目にしているので、既におなじみではないのか。実はここでひとつ個人的に告白をすると、私が多感な青春期に広範な西洋美術に触れることとなったきっかけは、中学生のときに定期購読していた「週刊 朝日百科 世界の美術」のシリーズであったのだ。この全 140冊のシリーズはしっかりバインドされて未だに私の書庫に並んでおり、いつでも手に取ってみることができる。今試みにその一冊をここに持って来てみる。発行は昭和 54年 (= 1979年) 4月26日、価格は 400円だ!!
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ここには、シャガールと並んで、ボナール、ヴィヤール (ヴュイヤール)、そしてナビ派とある。この頃からちゃんとナビ派は美術のひとつのスタイルと認識されていて、私にとってはなじみのある名前であったのだ。だが、書庫に並んだ過去の展覧会の図録を調べても、確かにナビ派を冠したものは見当たらない。ゴーギャンの影響下という意味では、ポン=タヴェン (またはポン=タヴァン) 派の展覧会は開催されているが、ナビ派は本当にこれが初めてのようだ。その意味では三菱一号館美術館、いいところに目をつけたものだ。そしてまた面白いのは、この展覧会の出品作はすべてあのパリのオルセー美術館から来ている。入り口近くに掲げられている挨拶の言葉の中に、オルセー美術館長のものがあって、そこにはなんと、「オルセーは印象派で有名ですが、私は印象派以外の美術の紹介に力を入れていて、そのひとつがナビ派です」などいう趣旨のことが書いてある!! この方、ギ・コジュヴァルという人で、ナビ派の専門家であるらしい。なるほど、日本人が印象派を大好きであることを知りながら、それとは違った分野の作品を 80点あまり (描いた画家は 13人) も日本に持ってきて展覧会を開くとは、実に侮りがたい。そして、明るく爽やかな印象主義 (Impressionism) よりも、暗い情念を持った表現主義 (Expressionism) や象徴主義により心惹かれる私としては、これはやはり必見の展覧会であったのだ。

そもそもナビ派とは何か。ナビとはヘブライ語で預言者のこと。新たな美の預言者たろうとして 19世紀末に起こった若い画家たちの一派で、ゴーギャンの影響を受けて、平面的で装飾的な作品を描いた。と書いてもなんのことやら分からないので、いくつか作品を見てみよう。まず、ナビ派が規範としたゴーギャン (1848 - 1903) の「『黄色いキリスト』のある自画像」(1890 - 91年)。有名な作品である。
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ゴーギャンが最初にタヒチに出向く前の作品で、画面がいくつかの空間に分けられてベタッと色が塗られている。印象派のように輪郭がぼやけてはおらず、斜めを向いて決意に満ちた自分の顔と、後ろに置かれた二点の自作 (「黄色いキリスト」と「グロテスクな頭の形をした自画像の壺」) との対比に、緊張関係が感じられる。キリストの絵は静謐でどこか牧歌的ですらあり、壺の絵は不気味な感じであって、自画像と合わせて赤・青・黄の三原色をなしている。あえて平面的に描いた画面に秘められた数々のドラマ。これこそがナビ派につながるものであると認識した。これは、エミール・ベルナール (1868 - 1941) の「炻器瓶 (せっきびん) とりんご」。1887年の作。もちろんセザンヌの影響はあるであろうが、屋外の風景を主観的な印象によって美しく描くのではなく、室内で物言わぬ静物を輪郭線を使ってしっかり描くという感性から、奇妙な神秘感が醸成されているから不思議だ。
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これはポール・セリュジエ (1864 - 1927) の 1893年の作品、「にわか雨」。これは屋外の風景だが、極めて線的であり平面的だ。そして私たち日本人は、ここには浮世絵の影響があることを決して見誤ることはないだろう。形態は単純だが、ここでも何か詩的なものを感じるのが、やはり不思議に思われるのである。
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次の作品はナビ派結成のきっかけとなった記念すべきもの。同じセリュジエの「タリスマン (護符)、愛の森を流れるアヴェン川」(1888年作)。うーん、愛の森が何物か知らないが、ここに描かれているのは風景であるはずなのに、色彩の並置だけになっている。これはほとんど抽象画と言ってもよいのではないか。私は時折絵画作品を見て、色彩と形態の境界が分からなくなって陶然とすることがあるが (そのような作品を描いた画家のひとりとして、ナビ派とは離れるが、ニコラ・ド・スタールの名を挙げておこう)、これなどはまさにそうだ。セリュジエはゴーギャンの助言を得てこの作品を仕上げ、ナビ派の画家たちから「護符」と呼ばれるようになったとのこと。美しい。
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さてここで、ナビ派の代表的な画家のひとりが登場する。モーリス・ドニ (1870 - 1943) である。1890年作の「テラスの陽光」。上のセリュジエの作品に強く同調していると思われる。このドニは、「絵画が、軍馬や裸婦や何らかの逸話である前に、本質的に、一定の秩序の下に集められた色彩で覆われた平坦な表面である」という言葉を残しているらしい。まさにこの作品ではそれを実践しているわけだ。
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これはケル=クサヴィエ・ルーセル (1867 - 1944) の「テラス」(1892年頃作)。一見印象主義風の平穏な風景にも見えるが、やはり平面性は独特のものだし、例えば細い木の枝が二本同じ方向を向いているのが不気味だし、右端の女性は亡霊のようではないか。鑑賞者のイマジネーションは秘めたドラマを導き出す。
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これは、アリスティード・マイヨール (1861 - 1944) の「女性の横顔」(1896年頃作)。あれ、マイヨールといえば彫刻家ではないのか。そう、ロダンやブールデルと並ぶ近代を代表するあの彫刻家は、本格的に彫刻を始めたのは 40歳を過ぎてかららしい。これは少し乾いた感性であり、新印象派風の点描も見られるが、横顔の女性の物言いたそうな顔にはやはり、ひそかなドラマ性がありはしないだろうか。ただ、その前に立つと非常に静謐な気持ちになる佳品である。
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これは、エドゥアール・ヴュイヤール (1868 - 1940) の 1940年頃のパステル画、「森の中の二人の女性」。こうなると象徴主義的ですらあって、この二人の女性のただならぬ様子 (?) には、近寄りがたいものすらある。だが色遣いは大変きれいだ。
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ここでナビ派のもうひとりの代表的画家をご紹介する。ピエール・ボナール (1867 - 1947)。1891年作の「親密さ」。義弟で作曲家のクロード・テラスという人物を描いているそうだが、壁のアラベスク模様と人物のパイプから昇る煙が一体となっている不思議な光景であり、最前部には絵を描く画家自身のものと思われる手がデカデカと描かれている (当然浮世絵の影響だろう)。このような室内の日常風景や静物を描くスタイルをアンティミスムと呼ぶらしく、ナビ派にはこの種の作品が多い。
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さあここで、ナビ派という範疇に入れてしまってよいものか否か分からない、私のお気に入りの画家が登場する。フェリックス・ヴァロットン (1865 - 1925) である。この三菱一号館美術館で 2014年に開かれたヴァロットン展は私にとっては素晴らしい衝撃であったのだが、実はそれに先だつ 20年前、1994年にブリヂストン美術館で開かれた「ヴァロットンの木版画」展を見たことが、私がこの画家に開眼するきっかけであったのだ。今回何点もの彼の作品と再会することで、その神秘性に改めて打たれたのである。これは 1898年の「化粧台の前のミシア」。この絵のモデル、ミシア・ゴドフスカは、ナビ派の画家たちが参加した芸術雑誌「ラ・ルヴュ・ブランシュ」を創刊したタデ・ナタンソンという人の妻であるらしい。ヴァロットンとナビ派のつながりは、やはりあったわけだ。
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やはりヴァロットンの「髪を整える女性」(1900年作)。これはもう、米国のエドワード・ホッパーを思わせるではないか!! 鳥肌立ちますな。
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そして、私がヴァロットンに開眼したジャンルである木版画の作品も掲げておこう。「アンティミテ」というシリーズの中の「外出の身支度」(1897年作)。皮肉っぽく描かれているのは、時代を超えた夫婦の間のすれ違いか???
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ここでまたドニの作品を見たい。1889年の「18歳の画家の肖像」。自画像である。18歳にしては髭などはやして、生意気である (笑)。世界が世紀末に向かう中、未来に希望を抱いていた芸術家の肖像なのだ。色調はクリアである。
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そしてヴュイヤールを 2点。ナビ派の画家たちはお互いに仲がよかったらしいが、この「読書する男」(1890年作) は、上に作品を掲載した友人のケル=クサヴィエ・ルーセルの肖像である。色彩は明るいが、人の内面を映し出すような落ち着きと神秘性がある。
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これもヴュイヤールの「八角形の自画像」(1890年作)。これもいかにもナビ派らしく、単純な色遣いでありながら心に残る構図だ。
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すみません、ここでまた 2点、ヴァロットン。1897年の自画像と、1899年の「アレクサンドル・ナタンソンの肖像」。自画像は意外にも、顔も端正なら描き方も丁寧だ。また、アレクサンドル・ナタンソンは、上で名前の出た兄弟のタデ・ナタンソンとともに、ナビ派が集った芸術雑誌を創刊した人。ヴァロットンの高い筆力が窺われる。
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これはドニの 1891年の作品、「婚約者マルト」。ドニはこの婚約者を何度も描いているらしいが、このパステル画にも愛情が感じられる。それにしても、ナビ派の人たちはお互いや、それぞれの家族を大事にしあっている感じがする。彼らが師と仰いだゴーギャンのワイルドさは、どうやら模範にはしなかったようである (笑)。
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ドニをもう 1点。1897年作の「メルニオ一家」。これも平和な光景。だが、ルノワールのような甘さはなく、現実か夢か判然としない雰囲気である点、私には好ましいと思われるのである。
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だがドニの心の中には、劇的なものへのひそかな志向もあったのではないかと、この 1890年の「磔刑像への奉納」を見ると思われてくる。ドロドロしたものを表面に持ってくるのはなく、精神の均衡は保たれているのだが、ここから象徴主義までの距離は、意外と近いのではないか。
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ヴュイヤールにも近い感性があるが、また独特だ。1891年の「ベッドにて」。水平の線がいくつか画面を横切っていて、上部は直線だが下部は曲線。右端には垂直方向の線がぎゅぎゅっと詰まっている。そして、壁に見える T の字は、実は十字架なのである。静謐な宗教性と無意識の世界が織りなす夢の世界は、シュールまであと一歩である。
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またドニに戻って、1893年の「ミューズたち」。平面的だが装飾的という典型的な例だが、ここに漂う倦怠感は、ムンクあたりに近くなってはいないだろうか。
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ナビ派にも、もうちょっと危ない方向に走った画家がいた。ポール・ランソン (1861 - 1909)。これは 1906年頃の「水浴」。平面性と装飾性は、はい、ありますね。でもこの緑の渦を巻く水や、謎のオリエンタルなライオンの彫像、そして手前の毒々しい赤い花など、ドニやヴュイヤールとは明らかに違う、一歩進んだ (?) 積極表現。あまり自宅には飾りたくないなぁ (笑)。
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これなども多大に呪術性を含んだ作品である。ジョルジュ・ラコンブ (1868 - 1916) の 1895年の彫刻作品「イシス」。もちろんエジプトの女神の名前である。血の乳を流す女神は、一体何を伝えようとしているのか。その表情はうつろで、民に語り掛ける様子はない。
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ここで見た通り、この展覧会は、既によく知られた印象派とは違う世界、そしてまた退廃性あふれる世紀末美術としては若干異色な世界に触れることができる。ナビ派の画家たちは 1860年代から 1870年代生まれ。音楽の世界ではマーラーやリヒャルト・シュトラウス、ドビュッシー、またシベリウスといった人たちと同世代だ。欧州各国の帝国主義の膨張から世界大戦に向かって行く時代の中で、新しい表現を模索した芸術家たち。印象派だけが近代フランス絵画ではないということを知るには、大変重要な展覧会である。残り期間はあとわずか。未だ行かれていない方には、是非お薦めしておこう。

ところで、冒頭近くで掲げた 1979年の「週刊 朝日百科 世界の美術」では、なぜナビ派とシャガールを一緒に扱ったのだろう。シャガールはユダヤ系ベラルーシ人で、もちろんナビ派よりもさらに大きな流れである (だが画家それぞれの個性はより際立っていた) エコール・ド・パリの画家だし、生年も 1887年で、ナビ派とは違違う世代。そして何より、絵画のタイプがかなり違うと思うが・・・。まあ、40年近く経ってから文句を言う筋合いのものでもないので、1冊で様々な美術を楽しめる号であったと割り切るとしよう (笑)。

by yokohama7474 | 2017-05-17 23:14 | 美術・旅行 | Comments(0)

このブログではしばしば、東京都内または近県で気軽に行ける、いわゆる安・近・短の旅による歴史探訪の例を提示しているが、これもそのひとつ。人々があちらこちらに移動するゴールデンウィークの初日、4/29 (土) に私と家人が出かけた歴史探訪をご紹介する。我が家ではかなり通例になっているパターンなのであるが、自宅から新横浜まで車で行き、駐車場に車を停めて、新幹線に乗る。現地でレンタカーを借りてガッツリ観光したあと、また新幹線で帰ってきて、自宅までスイスイ自家用車という方法である。これによって、東名高速または中央高速の渋滞を避けることができ、誠に快適なのである。この方法の唯一の難点は、帰りの新幹線でビールをプハーッと飲むわけにはいかない点にあるものの、その点のみ割り切ってしまえば、大変に効率的な日帰り旅行なのだ。今回は、午後に静岡駅前のホールで行われた演劇(5月 1日付の記事でご紹介済み) を見ることをメインにしながら、その前後の静岡観光も楽しみで仕方がなかったのである。そうそう、この方法のよい点のひとつには、こだま号に乗るチャンスがあること。寄り道大好き人間としては、小田原や熱海や三島に停車して、通過するのぞみを待つのも楽しい。特に三島駅からは、きれいな富士山を望むことができ、この日は天気がよかったせいもあって、気分は上々だ。これは車窓からの富士山。
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さて今回の観光の目玉は、なんといっても久能山東照宮。もちろん、静岡を晩年の居住地とした徳川家康が祀られている場所である。恥ずかしながら私は今回訪れるまで、久能山でいちご狩りをしたことはあっても、山頂にあるこの神社に詣でたことはなかったのである。その本殿が、2010年に重要文化財から国宝に格上げになったことは知ってはいたものの、これまで訪れる機会がなかった。これは気合を入れて臨みたい。久能山の山頂に位置する東照宮を訪れるには、海側から 1159段の石段をエッチラオッチラ登るか、さもなくば隣の山から日本平ロープウェイで谷を越えて行くしかない。今回私たちが選んだのは後者のアプローチ。ロープウェイに乗ろうとすると、そこにはこのような地図が。
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家康は江戸という都市を造営するにあたっても、風水を重視したと言われている。上の地図を見ると、自分が生まれた岡崎や、都であった京都と、霊峰富士の位置関係の中にこの久能山を置いていることがはっきり分かる。そこに江戸、日光、そして日光東照宮の最初の建物を移築した群馬県太田市の世良田東照宮 (私は未だ訪れたことがないので、いつか訪問してこのブログでご紹介することをここに宣言する) が加わって、「聖なる三本のライン」を構成しているらしい。家康は、百万都市江戸を中心とした統治システムを作り上げ、世界にも類を見ない、260年間に亘る平和の礎を築き上げた人。その彼が死後もその霊力を発揮し続けているとするなら、それはこの久能山からに違いない。これが日本平と久能山を結ぶロープウェイ。久能山の向こうには海が見え、その麓の温室ではいちごが栽培されている。
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このアプローチ方法であれば、山道を登る必要はなく、ロープウェイを降りたところが既に神社の境内の入り口になっているのである。見えてきたのは、重要文化財の楼門。1617年の建立。
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この門をくぐった裏手に、家康の手形なるものがある。38歳で身長 155cm、体重 60kg。当時の人は小柄であったとはいえ、やはり随分小柄で、そしてぽっちゃり型であったということか。家康が神格化されているこの場所で、彼の「人間」としての痕跡に触れられるとは、なんとも興味深い。
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少し進むと、石の鳥居があって、また、今は存在しない五重塔の礎石がある。神社に五重塔とは、もちろん神仏混淆の証拠である。
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そして見えてきたのが、国宝の本殿・拝殿に至る唐門である。
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そのエリアには、向かって右側から入るのであるが、その途中に、春なのに赤く色づく木があったり、重要文化財の日枝神社がある。この日枝神社、神仏混淆時代は薬師堂であった由。楼門と同じ 1617年の建立。
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そしていよいよ、国宝の拝殿が目の前に現れる。実はこの神社の主要建造物は、徳川秀忠によって 1年 7ヶ月という短期間で建てられたもの。日光東照宮に先立つこと 19年で、豪華さにおいては日光に譲るのは致し方ないが、この荘厳な美は実に素晴らしく、桃山の美学の延長上にあるが、日本の長い建築史の中でも、この時代にのみ見られる豪奢な様式であると言えるだろう。細部を見ていると本当に時間を忘れるのである。実はこの拝殿で結婚式を挙げられるらしく、私が行った日もその準備が行われていた。国宝建造物の中での結婚式とは、なんという贅沢だろう!!
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建物左右の唐獅子は、阿吽になっている。
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さて、この拝殿に向かって左手を進んで行くと、そこには家康の墓所がある。1616年、駿府城で亡くなった家康の遺骸は、遺言によってこの久能山に葬られた。もちろん後年、改めて日光に改葬されているが、この日ロープウェイの中で聞いた説明によると、日光には魂だけ移し、実際の遺骸は今でもここに眠っているという。墓所自体は、大きさは立派だが、石造りの簡素なもの。
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この石塔の周りを一周できるようになっているが、面白いのは、向かって右奥に、家康の愛馬の墓があること。家康よりも後に亡くなった馬であろうが、既にその頃には平和な時代が到来していたことを思わせるではないか。
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帰りがけに久能山東照宮博物館に立ち寄ってみたが、ここには徳川将軍十五代ゆかりの品々が多く保管・展示されている。特に家康に関しては、実際に使用していた眼鏡や鉛筆 (!) などが非常に興味深いし、彼が初めて戦で勝利を収めた際に着用していたと伝わる重要文化財の甲冑が展示されている。時に家康 19歳、未だ松平元康と名乗っていた頃で、織田信長方の丸根砦という場所を守っていた佐久間盛重軍に勝利したとのこと。この甲冑は金陀美 (きんだみ) 具足と呼ばれている。
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このように久能山東照宮は、家康という人の人柄まで未だに活き活きと感じられる場所であり、歴史好きなら一度は行くべき場所であると思うのである。さて、それからまたロープウェイで日本平に戻り、向かった先は遥か古代の遺跡。古くから有名な弥生時代 (1世紀頃) の集落の跡、登呂遺跡である。戦時中の 1943年に軍事施設建設の際に発見された遺跡であるが、幸いなことに一帯が公園として整備されており、最近でも 1999年から 5年間、再発掘調査が行われている。駐車場から歩いて行くと、徐々にこのような光景が目に入ってきて、何やらワクワクするのである。
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多くの建物が修復されているが、もちろん記録のない時代のもの。建物跡の基礎の形状に基づき、多分に想像力で補って再現されたものであろう。いくつかの住居では中に入ることができ、弥生人になったようなリアルな感覚が味わえる。もちろん住居だけでなく、倉庫もある。
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遥かな古代、家族は身を寄せ合って生きており、家の中は、邪悪なものから守ることができる安全な場所であったはずだ。夜は、果てしなく暗く、すべての生き物がなりを潜める時間帯。毎日毎日、太陽はその姿を隠し、また甦る。そして稲作をするには、昨日と今日、今日と明日が違った日であるという認識を持つ必要があり、いつ何をすべきか、常に考えて集団で行動する。それが人々の日常であったことだろう。この日は原始的な道具を使って火を起こす実演もやっており、大変面白く見学した。
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実はここで、思わぬ発見があった。日本を代表する染色工芸家で人間国宝でもあった芹沢銈介 (せりざわ けいすけ、1895 - 1984) の美術館及び旧居が、登呂遺跡に隣接した場所にあるのだ。私は芹沢についてさほど詳しく知るものではないが、それでも過去に何度か、なんとも郷愁をそそる作品、特に本の装丁などを見て感動したことがある。柳宗悦らが主導した民芸運動の中で創作活動を行った。作品のイメージとして、例えばこのようないろは歌の風呂敷などいかがであろうか。素朴でいて洗練された、なんとも不思議な世界を作り出していると思う。
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美術館も大変きれいに整備されていて、気持ちよいことこの上ない。
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このときには沖縄をテーマにした展覧会を開催中で、芹沢自身の作品のほかに、彼が収集していた沖縄の民芸品も多く展示されていた。なんとも気持ちが落ち着いてよい。そして、その裏にある芹沢の旧居。実はこれ、もともと宮城県にあった板倉であったものを気に入って東京・蒲田の自宅に移築。随所に手を加えて仕事場にしたとのこと。彼自身、「ぼくの家は、農夫のように平凡で、農夫のように健康です」という言葉を残している。現在、故郷静岡の地でこのように大切に保管されていることを知ると、本人も喜ぶであろう。春の風が気持ちよく吹き通って、清々しい精神が未だにそこに残っているようだ。
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この部屋でくつろぐ芹沢の写真が何枚か残っている。上のモノクロ写真は 1973年、下のカラー写真は 1976年のもの。創作の現場の緊張感はもちろん感じるものの、何より、この空間の主としての芹沢の自然な存在感が際立っている。こういうジイさんになれるとカッコいいだろうなぁ (笑)。
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さて、それから私たちが向かったのは、これまた驚きの隠れた歴史スポットなのである。それは、静岡浅間神社。何がすごいといって、この神社の建造物 26棟が、重要文化財に指定されているのである!! 「東海の日光」の異名もあるという。実際、私も行ってみて驚いたので、ここでご紹介しよう。まずこの神社、神部 (かんべ) 神社、浅間 (あさま) 神社と、大歳御祖 (おおとしみおや) 神社の三社を総称して、静岡浅間 (しずおかせんげん) 神社と呼んでいるとのこと。重要文化財に指定されているのはすべて江戸時代の建物だ。
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重要文化財の総門を抜けると、そこにはやはり重要文化財の楼門が。
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そして驚いたのはこの建物だ。やはり重要文化財の大拝殿 (おおはいでん)。切妻造りの建物に、入母屋造りの楼閣が嵌まったような形態で、大変巨大なもの。なにか竜宮城か、宮崎アニメにでも出てきそうな、ノスタルジックでいて畏怖すべき建物と言えないだろうか。
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あまり時間がなくて、残念ながら境内全域を見て回れなかったのだが、修復中の少彦名 (すくなひこな) 神社は、かかっているカバーの写真からその姿を偲ぼう。これも重要文化財。
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こちらは本物を見ることができた驚愕の美建築、八千戈 (やちほこ) 神社。東海の日光という異名もむべなるかなである。当然これも重要文化財。
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実はこの後、静岡音楽館 AOI において「1940 リヒャルト・シュトラウスの家」を観劇。見終わったあと、まだ新幹線に乗るまでに時間があったので、予定通り、駅から近い駿府城跡に出かけることにした。駅近辺からブラブラ歩いて行ったのだが、以前の記事にも書いた通り、なんとも落ち着いた佇まいの街で、さすが東照宮のお膝元と感心したことである。これが駿府城の石垣。この内側にも学校があったり、何やら公的機関の建物があったりして、江戸時代初期の街の中心地は、今でもその地位を自然なかたちで保っているのである。
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実は駿府城の天守閣は江戸時代初期に焼失してしまい、結局再建されなかった。それは、既に平和の時代が到来していたからで、その意味では、日本最大の城であった江戸城も同じようなことになっている。但し、この駿府城、家康のあとは結局その子孫は将軍として江戸城に入ったのだから、誰が城主であったのかと思うと、二代の城主を頂いたあとは結局城主なしで、天領として「駿河城代」なるポストが置かれたのみであったらしい。ここには実際のところ、古い建物は何も残っておらず、近年の復元による櫓や門があるのみだが、それでも公園として大変気持ちよく整備されていて、市民の憩いの場になっているようだ。
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今、天守閣跡近辺で大規模な発掘調査が進行中。明治時代に軍の設備を作るために埋められた堀を発掘すると、100数十年ぶりに石垣が姿を現したのである。
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この駿府城、これからどこまで発掘調査及び復元が続くのか知らないが、歴史の息吹がより一層感じられる場所になって行くのだと思うと、楽しみである。さて、城の近辺のそぞろ歩きも楽しいのだが、特に目を引く建物が向かい合って立っている。ひとつは静岡県庁。1937年完成というレトロな建物。もちろん、この写真で後ろに見える近代的なビルも県庁別館なのだが、この歴史的な建物も未だ現役として機能しているようだ。
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道路を隔てた向かい側にあるのが、静岡市役所。こちらはドーム型の頂部を持っていて、県庁よりも軽やかな建物だ。1934年完成。こちらは正面ドアが開いていて、中を少し見ることができたが、ステンドグラスが美しい!! これまた現役の建物なのである。
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この市役所の前に、興味深い説明版を発見。それは家康が行った灌漑工事に関するもの。私は従来より江戸の発展には大変興味があって、何冊か本も読んでいるが、秀吉によって、だだっ広くて何もなく、川は頻繁に氾濫する関東平野に放り出された家康が、治水によって街の機能の基礎を作り、その後長く続いた江戸の発展を可能にした点、勉強すればするほどに、ウーンと唸ってしまうほど感心するのである。そしてここ駿府でも、やはり灌漑工事を行って街作りをしていたわけである。神君、恐るべしである。
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このように静岡では、人間としての家康の足跡、神としての家康の威厳とともに、弥生時代の人々の暮らしから、華やかな神社建築、そして昭和の染物デザインまで、様々な文化的な要素に触れることができるのである。今回は美術館を訪問することはできなかったが、その所蔵品にも実は興味を持っている。新幹線を有効活用しての東京からの日帰り旅行の行き先として、これほど充実した街もちょっと少ないと思うので、ここで文化人の皆さまにはお薦めしておきましょう。

by yokohama7474 | 2017-05-13 01:07 | 美術・旅行 | Comments(0)

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高校生の頃世界史を習っていて、驚嘆したことがある。それは、古代ギリシャ時代の文化人において、思想家や劇作家の名前と並んで、彫刻家の名前も現在に伝わっているということであった。その彫刻家の名は、フェイディアス。パルテノン神殿の総監督として、巨大なパレス・アテナ像を作ったとされているが、それがどのくらい昔の話かというと、紀元前 400年代なのである!! 日本で言えば未だ縄文時代の末期。およそ考えられないほどの彼我の差がギリシャと日本の間にあったわけであるが、そんな時代に個人の名前が認識されていること自体が想像を超えている。翻って我が国では、古代の文化人の個人名が残っている例は、一体どのくらいあることだろうか。最も早い例は恐らく、飛鳥時代の鞍作止利 (くらつくりのとり) ではないだろうか。それは 7世紀のことだ。日本の仏像彫刻は、まさに先日、大阪市立美術館で開かれている「木 × 仏像」展で概観した通り、それ以降 1000年に亘って連綿と続いたのであるが、その中で作者が知られている例がどのくらいあるであろう。しかるにここに、一般の人たちでも知っているであろう名前の仏師が 3人いる。ひとりは、定朝 (じょうちょう)。言わずと知れた、平等院の阿弥陀如来の作者である。だが、彼の作品と確実視されるものは、その平等院阿弥陀如来坐像しかなく、一般的な知名度は、さほど高くないかもしれない。残る 2人の仏師の知名度に比べれば。その 2人とは、運慶と快慶である。古代ギリシャのフェイディアスに遅れること実に 1700年ほど。日本にも個人の名で知られる彫刻家が現れたのである。さてその 2人、いずれも有名な名前であろうが、どちらかといえば運慶の方がより有名であろうか。夏目漱石も、「夢十夜」の中で運慶を登場させている。あるいは、大変ユニークな美術史家として私の尊敬する田中英道も、運慶こそ本物の芸術家であって、快慶の作品には精神性が不足しているということを書いていた。だが、快慶もやはり不世出の偉大な芸術家であることは確かなことである。私の勝手な印象ではあるが、運慶と快慶のどちらが偉大であるかの議論は、例えばミケランジェロとラファエロを比べるようなものではないだろうか。知れば知るほどに双方の偉大さが理解できるというものであろう。その意味では、今年はすごい年なのである。それは、その運慶と快慶、それぞれの展覧会が開かれるからだ。秋に東京で開かれる運慶展に先立ち、今奈良で快慶展が開かれている。奈良以外の巡回はない。ゆえに、日本の美術に興味のある人なら、いやそうでなくとも、これは必見の展覧会であるのだ。すみません、前置きからして既に長い (笑)。

さて、快慶とは一体どのような人であったのか。実は、生まれた年も亡くなった年も定かではない。運慶同様、名前に慶の字のつく、いわゆる慶派と呼ばれる奈良仏師の系列に属する人であることは明らかだが、その運慶との関係も定かではなく、その父である康慶の弟子であるという見方があるが、確たることは分からない。だがその一方で、彼の作ということがはっきりしている作品は数多く、その創作活動とその背景となっている浄土信仰は、かなり明らかになってきている。ともあれこの展覧会では、恐らく空前絶後の規模で集められた快慶の作品の数々を、虚心坦懐に見てみたい。会場ではまず、とびっきりの秀作が訪問者を出迎えてくれる。何の予備知識もない人が見ても、これは美麗な仏像と感じるであろう。
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京都、醍醐寺三法院の本尊、重要文化財の弥勒菩薩坐像である。1192年の作と判明している。ちょうど鎌倉幕府が開かれた年であるが、この像はその年に亡くなった後白河法皇追善のために制作されたという。私はこの仏像を三法院で何度も見ているが、現地では近くにまで寄ることができないので、隔靴掻痒の感をいつも抱いていたところ、この展覧会では間近で拝むことができ、まず感動第一弾である。そして、これが現在、快慶作と判明する最初の仏像。1189年の作で、もともと興福寺に伝来したが、現在ではボストン美術館の所蔵となっている弥勒菩薩立像。宗風の高い髻や、衣の表現の洒落た点などに、天才の片鱗は見えるものの、多分この金箔は近世のものであろう。日本人の感性では、このような立派な金の塗布は、返ってありがたみがないのである。
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こちらは、京都、舞鶴の松尾寺の重要文化財、阿弥陀如来坐像。少し切れ味を欠く面もあるが、若々しい表現が好もしい。
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この頃快慶は、丹後地方でいくつかの作品を残しており、その理由は恐らく、当時丹後国は、鳥羽天皇の皇女、八条院の収入源とされた地域であったことらしい。八条院はあとでご紹介する東大寺の僧形八幡神像の結縁者のひとりであり、快慶はこのような有力者の後ろ盾を持っていたのではないかと推測されている。これは、同じ丹後地方にある金剛院の需要文化財、執金剛神と深沙大将。前者は東大寺三月堂の有名な天平時代の作品のミニチュア版のように見えるし、後者も規範となる図像があるらしい。この 2体の組み合わせは、別の寺にもあって、もちろんこの展覧会の後の方に出てくるのである。
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これは 2009年に快慶作と判明した、京都、泉涌寺の塔頭である悲田院の阿弥陀如来坐像。宝冠を頂き、両肩に衣をかける、いわゆる通肩と呼ばれる形式は、上記の醍醐寺三法院の弥勒菩薩と共通する。
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実はこれと似た像がほかにもあって、それは広島の耕三寺が所蔵する重要文化財、阿弥陀如来坐像。これは 1201年作と判明している。因みにこの仏像、私が先に訪問してこのブログで記事も書いた、熱海の伊豆山神社の旧蔵であって、同神社には今でもこの像と対になる阿弥陀如来像が伝来する。
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さて、快慶の代表作のひとつが、兵庫県小野市の浄土寺浄土堂の巨大な阿弥陀三尊であることはよく知られており、私も現地を訪れて記事を書いた (昨年 5月 8日付)。その記事でも触れているが、俊乗坊重源という僧の浄土信仰に深く共感していたらしい。この重源は、平重衡の焼き討ちにあった東大寺の再興に力を尽くした人で、興福寺を含むこのときの再興事業においては慶派が中心となっており、今日でも我々に感銘を与える鎌倉彫刻の数々はこの時に制作されたものである。これはその浄土寺にある重要文化財、重源上人坐像であるが、明らかに東大寺にある重源像に倣って作られている。だがこれは (一見して明らかだが) 快慶の作ではない。
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浄土寺には、まだまだ興味深い快慶作の彫刻があって、これは重要文化財の阿弥陀如来立像。226cm の巨像であるが、上半身裸なのは、ここに布製の法衣を着せて、来迎会 (らいごうえ) という祭事において、台車に乗せて練り歩いたからであると言われている。
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その来迎会では、僧侶が菩薩の仮面をかぶって行列したらしく、浄土寺にはそのような面が 25個も現存して、重要文化財に指定されている。同じような表情でもよく見ると異なっているのが面白い。
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これも快慶の代表作のひとつ。高野山金剛峯寺の重要文化財、孔雀明王。この明王の絵画は時々みかけるが、彫刻とは珍しいし、このいかにも密教的な仏をこれほど美麗に掘り出した快慶の手腕には、実に驚くばかり。
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ここから 4体は、同じ高野山金剛峯寺の重要文化財。まず、四天王のうちの広目天と多聞天。仏像好きの方ならすぐにお分かりの通り、これは東大寺大仏殿の四天王の様式なのである (以前、「木×仏像」展の記事では、新薬師寺所蔵の 4体をご紹介した)。鎌倉時代に再興された東大寺大仏殿の四天王像は現存しないが、持国天・増長天が運慶と康慶、広目天が快慶、多聞天が定覚であったらしく、「明月記」の記載によると、実際の巨像の制作前に 1/10 のサイズで試作したとのことであり、実はこれらの像がそれに当たるのではないかという説もあるらしい。歴史のロマンである。
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そして、これらが執金剛神と深沙大将。上記金剛院のペアとは全く異なる姿だが、近年の調査で快慶作と判明し、しかも、金剛院像と近い時期の制作とされているそうだ。そう思うとこの快慶という仏師の懐の深さを実感することができる。私としては、この金剛峯寺像の方が、金剛院像よりも誇張が効いていて、より興味深く感じられる。
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これは像高 3m近い、いわゆる丈六の如来坐像。三重の新大仏寺の本尊で、重要文化財。快慶作として残っているのは顔だけであるらしいが、実に堂々たるお姿だ。この新大仏寺には一度出かけてみたいと思っていたが、この展覧会でご本尊とご対面でき、大変有り難かった。
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次は、東大寺において重源を祀る俊乗堂に安置されている快慶作の 2体の仏像、ともに重要文化財の阿弥陀如来立像と地蔵菩薩立像。このお堂は年に 2日間だけしか一般公開されないが、私は過去に確か二度、その機会に同地を訪れて、重源像及びこれら 2体とご対面している。まあとにかく美麗な仏像で、もう惚れ惚れするしかない。かつて俊乗堂でこの阿弥陀様を拝した際、案内してくれた寺の男性が自慢げに、「この仏像、あんまりきれいやからアメリカにも行ってまんねん。それから、言い伝えで、勝手に歩きよるゆうて、足に釘打ってまんねん」と話してくれ、重要文化財の仏像の、本当に釘が打ってある足をゴシゴシと手で撫でたものである (笑)。調べてみるとその言い伝えは親鸞に関するもの。さすが、一流の仏像は伝説の登場人物も豪華でんねん。
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そしてこれは、快慶の代表作のひとつ、国宝に指定されている、東大寺の「僧形八幡神 (そうぎょうはちまんしん) 坐像」。1201年の作。彩色の妙もあるのかもしれないが、この生けるがごとき表情に打たれない人はいないだろう。奇跡の鎌倉彫刻だ。
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今回初めて知ったことには、この彫刻にはもとになった絵画がいくつかあるらしい。これは京都の神護寺所蔵のもの。なんでも、もともとは弘法大師筆と言われる肖像画の写しであり、重源は、東大寺八幡宮の再興にあたり、この絵を所望したが果たせず、それに怒って密かに快慶に彫像を作られたとも言われている。うーん、後世に名を轟かせる高僧とはいえ、やることが人間くさくて面白い (笑)。
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東大寺と言えば、これも今回の展覧会で知って驚いたことには、今回実物は展示されていなかったが、このように立派で有名な東大寺の額に、快慶の彫刻が含まれているのだ。これは、東大寺の正式名称である「金光明四天王護国之寺 (こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」という文字を表した額で、聖武天皇の筆によるものと伝える。重要文化財である。だがこの奈良時代巨大な額に付属する小像の一部が、最近の研究によって快慶作と認定されているのである。尚、快慶作以外はの彫刻は奈良時代のオリジナルであるらしい。
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例えば以下は、梵天像。なるほど言われてみれば快慶の作のように見える、実に見事な作である。東大寺という日本きっての名刹に脈々と息づく作仏の伝統に、快慶のような天才が連なっていることは、後世の我々から見ても、実に幸運なことであろう。
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さて、快慶の生涯についてはほとんど知られていないと冒頭に書いたが、その一方で、重源との近い関係からも、深い阿弥陀信仰を持っていた人であることは明らかである。そのひとつの証拠が、彼が制作した様々な仏像の胎内銘などに見られる、「安阿弥仏」の称号である。ここから先は、快慶の阿弥陀信仰がそのまま素晴らしい彫刻に昇華した例を見て行きたいと思う。まずこれは、京都の遣迎院 (けんごういん) の阿弥陀如来立像。1194年頃の初期の作で、重要文化財。いやそれにしても、なんと美しい!!
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これは奈良の西方寺所蔵の重要文化財、阿弥陀如来立像。現代になって造立された牛久の大仏などは、この様式を手本にしているように思われる。もっとも、あちらは台座を含めた像高、実に 120m。こちらはたったの 98.5cm。でも真面目な話、快慶なくしては牛久大仏はなかっただろう。
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実はこれまでが快慶のいわゆる安阿弥様仏像の第 1段階。次にお見せするのが第 2段階である。大阪、大圓寺の阿弥陀如来立像。
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そしてこれは第 3段階、現在浄土宗が所有する重要文化財、阿弥陀如来立像。もともとは甲賀の玉桂寺というところに伝わったらしい。1212年の造立と判明しているが、それは胎内から発見された夥しい数の結縁 (けちえん) 文書によるものらしい。
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そう、その多くの結願者の中に、安阿弥陀快慶の名前が!!
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ここで見てきた 3段階は、実は私も今回初めて知ったのだが、衣の細部によって違いがある。以下、右から順に第 1、第 2、第 3段階なのである。向かって左側の衣の出方あるいは差し込み方に注意。
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そしてこの展覧会の最後に展示されている仏像は、大変興味深い。それは京都、極楽寺の重要文化財、阿弥陀如来立像。実はこの仏像、快慶の作ではなく、その弟子、行快による、1227年の作。うーん、確かに快慶の作にしては美麗さに若干不足するのではないか。
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ではこの仏像、何が興味深いかというと、胎内から発見された文書の中から、「過去法眼快慶」という表記が見つかったからだ。法眼 (ほうげん) とは僧侶の位で、快慶がこの位に叙せられていたことは多くの記録から明らかであるが、ここでは「過去」、つまり物故者として名前が載せられているのである。つまりこの仏像は、生前に快慶が発願したが完成せずに逝ってしまったか、または快慶の没後追善供養のために作られたか、いずれかであると見られている。
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この展覧会で見えてきた快慶像は、有力者と近い関係を持ちながら、重源の薫陶を得て熱心な念仏信仰者であった真摯な芸術家である。そのひたすら美麗な造形の裏に、いかなる人間的な苦労があったのか。もちろんそれを想像力なしに辿ることはできないが、既に没後 800年近く経っていながらも人々に訴えかける作品の数々に接することで、自然と見る人それぞれに想像力の翼を広げられるというものである。まさに、何の誇張もなく、彼こそは日本美術史において世界水準でも我々日本人が誇りうる天才であったことを再確認した。古代ギリシャのフェイディアスと競い合っても、決して負けることはないだろう。これだけの数の快慶作品が一堂に会するとは、もうそうそうない機会であるので、ここでも私は、文化に興味のある方々に対し、是非是非 6/4 (日) までに奈良に足を運ぶべし、と訴えたい。会場である奈良国立博物館のお隣の興福寺でも、国宝館の耐震工事期間でもあり、素晴らしい展示が様々なされていることでもあるし。うーん、これが日本美術の神髄でなくて何であろうか。
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さて、まだまだ記事にすべき話題はあるのであるが、明日から出張なので、次回の更新は今週末になる予定です。

by yokohama7474 | 2017-05-08 23:41 | 美術・旅行 | Comments(0)

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ここでご紹介するのは、室町時代から桃山時代にかけて活動した画家の展覧会である。その名は「雪村」。この言葉でネット検索しようとすると、類推で「雪村いずみ」などと出て来てしまうので、確かに上のポスターにある通り、『「ゆきむら」ではく「せっそん」です』というコピーには意味があるのかもしれない。まあそれだけ、雪村という画家の一般的な知名度が低いということでもあろうし、中には、雪舟と間違えて展覧会に足を運ぶ人もいるかもしれない。一応私の場合は、2002年に渋谷の松濤美術館で大規模な雪村展を見ているので、画家についてのイメージはそれなりにある。雪舟のような天才性の画家というよりも、この展覧会の副題にあるような、奇想の画家であることも知っている。だが、それ以上に詳しいことを知るわけもなく、やはりこの展覧会には出かけてみたいと強く思ったのである。ちなみにこれが、2002年の展覧会の図録。そのときの副題は「戦国時代のスーパー・エキセントリック」。どう転んでも「堂々たる正統的画家」とは言ってもらえないのか (笑)。内容を見てみると、今回の展覧会の出展作と何割かは重複している。
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雪村周継 (せっそんしゅうけい = 出家名であろう) は生没年も定かではないようだが、1504年頃に生まれて 1589年頃に没したか、あるいは 1490年前後に生まれて 1577年頃に没したかという説がある。つまり、80余歳まで生きた、当時としては異例に長寿な人であったということだ。その現存作品は、もちろん諸説あるのは当然だが、150 - 200点ほどだと見られている。雪村が私淑した、まさに「堂々たる正統的画家」の代表である雪舟の場合は、没年がちょうど雪村の生年と近い (1506年頃?) が、真作はわずか 20点程度かと見られる。すなわち雪村は、室町期から戦国時代という戦乱期に活躍した画家としては、異例に多くの作品が現存していることになる。彼は茨城県の守護大名、佐竹氏の一族の長男として生まれたが、家督を継ぐことはなく、小田原、鎌倉、また福島県の三春などを拠点に画業を展開した。つまり都から遠く離れた東国で専ら「奇想」を追求した画家であり、また僧侶であった。貧しい人に絵を与えたりもしたらしく、それが現在まで多くの作品が残った理由のひとつであるようだ。私が本展に行ったときには未だ展示されていなかったが、これが重要文化財に指定されている雪村の自画像 (大和文華館所蔵)。確かに只者ではなさそうな面構えだ。
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最初にまとめて言ってしまうと、私の雪村に対する思いは若干複雑だ。昨今人気の「奇想」という言葉は、もともと辻 惟雄 (のぶお) が言い出した言葉であり、最近では異常な人気の若冲や、あるいはこれ以上の奇想はないという蕭白らについては、一般的な知名度は定着したように思われる一方、この雪村については、それらの画家ほどの強烈な奇想が感じられるのはごく一部の作品であろうと思う。なので、この展覧会の出展作のすべてにおいて驚愕の芸術が見出されるということはない。むしろ、「おっ、意外とまともじゃないか」という作品も多くある。だがよくよく見ると、彼の画業には一貫して何か人間的なものが通っており、それこそが彼の持ち味であったのではないだろうか。興味深いのは、専ら東国で活躍したこの画家の影響を、後述の通り、日本の中心たる京都で生まれ育った光琳のような人が大きく受けているという事実であり、後世につながる自由な画業を達成した画家という点で、雪村の存在意義を認識すべきような気がする。ではまず、茨城の正宗寺が所蔵する「滝見観音図」。
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これは、同じ茨城の弘願寺という寺にある作者不詳の同じ図柄の仏画を写したものであるらしいが、原図よりも観音の表情が柔和であり、また原画では畏れのあまりうつむいて祈っている童子を、観音を見上げて目を合わせる姿勢に変更している。このあたりに若き日の雪村が、既に自らの志向をはっきりと示していることが読み取れて面白い。以下、該当部分のアップで、原画と雪村作品を比べてみよう。上が原画、下が雪村である。
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これも上が原画、下が雪村。
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これも初期の「叭々鳥図」。この画題は水墨画ではポピュラーではあるが、二羽が同じ方向を向いていると、そちらに何かあるのかなと鑑賞者に思わせるではないか。描く手法には習熟が見られても、テーマの描き方にユニークなものがある画家であることが分かる。
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そして、この絵あたりには既にして「奇想」が明確に見られるのではないか。「瀟湘八景図帖」から。岩山や松がうねっているし、建物もいやに屋根が張っていて、見る者を不安にする要素がある。一見すると技術的に未熟のようにも思えるのだが、実はちゃんと描こうとすればできるのに、それをわざとしなかったように思えてくる。
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これは京都国立博物館蔵の「夏冬山水図」。重要文化財に指定されている。なんだ、ちゃんと描けば描けるではないかという印象 (笑)。立派な作品である。だがやはり、木々や岩々の存在感が異様ではある。
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これは「山水図」から。遠くから渡ってくる雁の群れに対して差し出されたような岩の上に、人が 3人描かれている。ひとりは子供であろうか。雪村の絵にいつも漂っている人間的なものが、この小さな画面からも感じられて面白い。
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そして雪村の代表作、やはり京都国立博物館所蔵の重要文化財、「琴高 (きんこう) 仙人・群仙図」。2002年の雪村展のポスターを飾った作品。これは、弟子たちに「龍の子を取ってくる」と言い置いて川に入った琴高仙人が、数日後に巨大な鯉に乗って川から現れたという、中国の伝説によるもの。三幅もので、中央に琴高を、左右に弟子たちを描いている。独特の誇張した墨の線の面白さもさることながら、どうだろう、大変人間的な雰囲気に心が優しくなるようではないだろうか。
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似たような作品として、この「列子御風図 (れっしぎょふうず)」が挙げられよう。列子は道教を極め、風に乗って中空を飛んだという。強く吹いている風と、ふわりという浮遊感が楽しい。
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これはメトロポリタン美術館が所蔵する「竹林七賢酔舞図」。竹林の七賢の絵はよく見るものの、普通は静かに清談をしているわけで、酔っぱらって、しかも踊っているというのはあまりないような気がするが・・・。なんだか、賢者たちも飲んで騒いでいるのだから、凡人の自分たちがしても一向に構わないと思いたくなる (笑)。
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次は「欠伸布袋・紅白梅図」。三幅の真ん中で布袋さんが大きく欠伸をしていて、その左右に紅白の梅が描かれている。1986年に至って、初出の雪村の作品として紹介されたとのこと。
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実は、この気楽な作品に啓示を受けて、日本美術史に残る名作が生まれたという説があるらしい。これである。
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言うまでもなく、京都に生まれた江戸時代の天才絵師、尾形光琳 (1658 - 1716) による、国宝「紅白梅図屏風」である。確かに布袋のポーズを流水に置き換え、左右の梅については、向かって右 (紅梅) は曲線的、向かって左 (白梅) は直線的と見ると、構図上の共通点はあるとも思われる。雪村のこの作品は江戸のさる大名屋敷に置かれていたことが確実であるらしく、光琳が江戸に下った際に目にした可能性はあるとのこと。これはなんとも面白いことで、雪村の影響力もさることながら、光琳という人の、見たものを変容させて自らの創造に活用するという抜群のセンスを感じることができる。尚、この展覧会では光琳が雪村から影響を受けて描いた作品も幾つか並べられていて、興味深い。以下、光琳の筆になる「馬上布袋図」と「琴高仙人図」。後者は、上に掲げた雪村のオリジナルと比較して、鯉の左右の向きも逆なら、表情や表現方法が違っており、ただの光琳の意図が雪村の模写ではなく、雪村のアイデアに倣って換骨奪胎することだったことが判る。
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これは雪村の「百馬図帖」。真後ろから馬を描いた画家はあまりいないと思うが、どのポーズも曲線が馬の姿を表していてユーモラス。
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因みに、本展に展示されている雪村の影響を受けた後世の画家たちの作品の中に、幕末から明治期に活動した狩野芳崖の「牧馬図」があるので比較してみよう。狩野派を継ぎ、あの壮麗な「悲母観音」を代表作とする芳崖の方が、やはり真面目かな ? (笑)
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そうなるとやはり、雪村らしい作品をあと幾つかご紹介せねばなるまい。まず、今回の展覧会のポスターになっている「呂洞賓 (りょどうひん) 図」。呂洞賓とは中国の仙人であり、ここでは自らも龍に乗りながらも天空の龍を睨み付け、さらに手元の水瓶の中から小さな龍を放つところ。せっかくなので、天空の龍と、水瓶から出てきた二匹の小さい龍のアップも掲載する。雪村の絵は細部が面白い。
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同じテーマで、違った構図の作品もあり、いずれも動的でユーモラス。決まりきった構図で繰り返し描くことはつまらないと思ったのではないだろうか。
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ユーモラスな雪村作品をあと 2つ。「布袋童子図」と「李白観瀑図」。それから、水の表現がユニークな「猿猴図」。これらは決して最上の芸術作品というわけではないかもしれないが、恐らくリラックスして描いているであろう、その画家の心持ちが、見る人を幸せな気分にしてくれる。
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その一方、雪舟ばりの見事な山水画もある。メトロポリタン美術館蔵のこれなど、素晴らしいではないか。
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これは京都国立博物館所蔵の「雪景山水図」。人の姿が細かく描かれていて、そこには人間的な気配が漂う。
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一方で、これは雪村作品としては若干異色ではないだろうか。茨城の笠間稲荷美術館所蔵になる「金山寺図屏風」の細部である。金山寺とは中国の禅寺であるが、ここでは立て込んだ伽藍に、奇妙なリアリティと、何かシュールなまでのいびつな空間構成を感じる。雪村の心の中の架空の世界を写生したという印象。
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もちろん雪村は金山寺現地に行った経験などありはしないが、日本人画家で実際に現地に行った人がいる。それはほかでもない、雪舟だ。「金山図・阿育王 (あしょかおう) 山図」という二幅を描いたらしく、雪舟を深く尊敬していた雪村によるこの作品も、これは二幅のうちの一幅で、失われたもう一幅には阿育王山図が描かれていた可能性もあるとのこと。そこで気になって、その雪舟作品が現存しているか否か調べてみたが、どうやら現存はしていないようだ。ただ、広島の佛通寺に残る狩野安信 (探幽の弟) 筆の同名作品の原画が雪舟作であったとされているようだ。佛通寺については、以前「禅 心をかたちに」展の記事で、2体の頂相彫刻をご紹介した。一度訪ねたい古刹である。また、せっかくなので、中国の金山寺についても少し調べてみた。日本で有名な金山寺味噌は、ここから空海が伝えたという説があるらしい。古い寺なのである。江蘇省の鎮江というところにあるらしく、仏像好きの心を揺さぶる、このような巨大な仏さまが祀られているという。雪村ならずとも、行ったような気になってみたい、そんな由緒正しい寺院なのである。
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とまあ、最後はいつものように順調に脱線してしまったが、今回の展覧会を改めて思い出してみて、やはり雪村のユニークさを実感することができる。冒頭に書いた私自身の複雑な思いを再度自己分析してみると、雪村は「堂々たる正統的画家」ではないかもしれないし、時に奇想に惑わされるものの、何よりも彼の作品に表れた人間性と、緩いようでいて実は真摯な創作姿勢にこそ、打たれるのである。やはり、日本美術史上において、貴重な存在であることは間違いないだろう。本展の期日は 5/21 (日) まで。これを見逃すと雪村の作品をまとまって見る機会がいつになるか分からないので、文化に関心のある方々には、是非上野の藝大美術館にお運び頂くことを、お薦めしておこう。

by yokohama7474 | 2017-05-07 19:38 | 美術・旅行 | Comments(0)

大阪 四天王寺

前の記事で採り上げた通り、ある週末、大阪市立美術館で仏像の展覧会を見たのだが、その前に久しぶりに四天王寺に行ってみようと思い立った。言うまでもなく、天王寺という駅のいわれとなった寺であるが、その由来は大変に古い。西暦 593年、聖徳太子によって建立されたと伝えられる日本最初の仏教寺院のひとつ。蘇我馬子と組んで仏教導入に積極的であった太子が、反仏教派であった物部守屋との戦いにおいて、自ら四天王像を刻み、勝利させてくれたら寺を造ってお祀りしますと念じたところ、戦いに勝利し、そうして建立されたのが四天王を祀るこの寺であると伝わっている。だが、例えば法隆寺とは異なり、その長い歴史の中で堂塔はことごとく灰燼に帰し、現在の伽藍は昭和の時代のもので、鉄筋コンクリート製。その点、幼少の頃から寺回りに情熱を傾ける妙なガキだった私としても、この寺に対する思いは複雑で、古いものこそを見たいという思いが強かった若い頃には、必ずしも頻繁に訪れたい場所ではなかったというのが正直なところだ。だが、私も既に苦み走った 50代。歴史の見方や場所の持っている特性、それを生み出す人間の様々な思いというものに少しは理解が及ぶようになり、必ずしも古い建物が残っていない場合でも、文化的な何かを感じることができることがあると、今は知っている。だから、何かに突き動かされるようにして、久しぶりの四天王寺訪問となった。天王寺駅からは歩いて 10分少々だが、参道にはこのような鮮やかな表示が。
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やがて辿り着いた四天王寺には、重要文化財に指定されている江戸時代の石鳥居が立っていて意表をつくが、そこには堂々と「大日本仏教最初四天王寺」という石碑もあって、ここが本当に、日本に仏教がもたらされた頃から連綿と続いている場所であることを実感するのである。神仏混淆は日本人の自然な信仰のかたちであり、現在でも鳥居が立っていることから、このお寺が多くの人たちの信仰を長くに亘って集めてきたことが分かろうというものだ。
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本来寺院というものは南側が正面で、そちらから入るのが正式なのであるが (従ってメインの入り口は南大門なのであるが)、まぁどうしても人や交通の流れというものがあり、ここでは西側から入ることをお許し頂こう。西門は松下幸之助の寄進になるもので、中には仁王像はなく、壁画が描かれている。このあたりも、若い頃は新しいものに文化財的価値はないと紋切型で考えていた私にとって、今見ると新たな思いを抱く点なのだ。連綿と続いてきた四天王寺の信仰を、大阪出身の成功した財界人が支えたことは、将来また違った価値を生むことだろう。西という方角は極楽浄土のある方角であり、この西門は、浄土に続く門として信仰されてきたのである。
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そして見えてきた伽藍。空が青くて気持ちいいですなぁ。
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よく高校の日本史で、○○寺式伽藍という図が載っていて、その中で四天王寺式は、門、塔、金堂、講堂が南北に一直線に並ぶものであると習った。実際のところ、そんなことを知っていようがいまいが、日常生活には関係ないのであるが (笑)、日本の寺院に興味のある向きには、もともと釈迦の骨を祀る役割を担った塔の重要度よりも、仏事を執り行う中心的な場所である金堂の重要度が増して行ったことは覚えておいた方がよい。但し、○○寺式と言って古代の寺の名前をつけられていても、現存する古代の伽藍は法隆寺だけだし、あとは薬師寺がかろうじて、東塔以外の建物の再建によって伽藍の様相を維持しているくらいだ。その点、すべて再建であるが、ここ四天王寺では、古代の伽藍が維持されているのだ。それこそ、連綿と続く信仰の力でなくて何であろう。これが現在の四天王寺の境内図だが、下の方に主要建物が南北一直線に並んでいるのが分かる。因みに上の写真は、上述の通り西からのアプローチによるもので、右に五重塔、左に金堂という配置になる。
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ところが残念なことに、現在金堂は改修中。なんでも、2022年の聖徳太子没後 1400年に向けて耐震工事中とのこと。尊い法灯を未来につないで行くため、必要なことであるので、ここは残念などとは言わず、またの機会を楽しみにしよう。
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この金堂の本尊は、巨大な救世観音 (ぐぜかんのん) 半跏像であるが、今回は拝観できず、やはり正直なところ(笑)残念だ。飛鳥仏に似せて作られているが、今回調べて分かったことには、昭和の大彫刻家、平櫛田中 (ひらぐし でんちゅう、1872 - 1979) の指導によって作られたらしい。そして壁画は著名な日本画家、中村岳陵 (1890 - 1969) の手になるもの。建物自体は鉄筋コンクリートであっても、永続性を考えればそのような現在の工法には意味があるし、仏像や壁画は、再建された当時の代表的な芸術家たちが動員されているという点、子供の頃には分からなかった価値なのである。またの再会の機会を期して、次は五重塔へ。この塔は靴を脱いでらせん階段を上層まで登っていけるが、展望台としての機能はない。だがせっかくなので、窓ガラス越しに、自分が歩いてきた西門を見下ろす光景を写真に収めた。
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日本の社寺建築は、戦乱や災害によって多くが失われ、再建されたりされなかったりという歴史を繰り返してきたが、この塔は創建以来実に 8代目。経済に貼ってある表記がなかなか貴重なので、以下にご紹介する。ここからはっきりと分かるのは、この寺の由緒正しい歴史が、歴代の権力者にも敬われ、また一般庶民からも慕われていたということである。そのような寺はなかなかないだろう。
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そして、回廊に面白いもの発見。回廊の天井が反射して分かりにくいが、下の説明板にある通り、これは創建当初のものかと思われる排水溝である。驚くべきことに、この寺の中心伽藍の位置は、1400年間変わっていないということになる!! 聖なる場所は、いかなる時代の変転があろうと、聖なる場所であり続けるのである。
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寺の正面に当たる南側に回ってみると、中門の仁王像も現在修復中。この仁王像も、現代日本を代表する仏師である松久宗林、朋林父子によるもの。ここでも再建時の最高の芸術家が動員されていたのである。
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中門の前に面白いもの発見。これだ。
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これは熊野権現礼拝石。熊野詣では現在でも人気だが、中世から盛んであり、京の宇治から船で淀川を下り、天満で上陸してからこの四天王寺、住吉大社というルートが熊野街道として利用された。人々はここで道中の無事を祈ったという。なるほどこの寺は、聖徳太子信仰、極楽浄土信仰に熊野信仰まで加わった、なんとも多重的な性格を持っていたことになる。そして私が次に向かった場所は、開祖聖徳太子を祀るエリア。まずは聖霊院 (しょうりょういん)。古い建築ではないが、ここは中心伽藍と異なり、鉄筋コンクリートではなく昔ながらの木造なのである。連綿と続いてきた太子信仰が息づいている、なんとも敬虔な気持ちになる場所だ。
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その奥には法隆寺の夢殿を思わせる建物があって、奥殿と名付けられている。堂そのものは夢殿のような八角円堂ではなく、完全な円形をしているが、これもよい雰囲気だ。
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その奥にある絵堂というお堂は、通常は毎月 22日にしか開けないが、ちょうど今特別開扉中である (あっ、期限は今日、4月30日までだ!!) 内部には、これも署名な画家、杉本健吉 (1905 - 2004) の手になる聖徳太子の生涯を描いた壁画がある。私のもらって来たチラシの写真を掲載しておく。狭い空間だが、杉本の自由な筆致がなかなかに詩的である。
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ここ四天王寺には江戸時代に七不思議というものがあったらしく、そのひとつは、境内にかかっていたこの小さな石造りの橋を渡ると安産になるというもの。この石、今は宝物館 (残念ながら今回は入館する時間なし) の前に置かれているが、これは実は古墳の石棺なのである。この近辺には茶臼山古墳 (昨年の大河ドラマで脚光を浴びた真田幸村が、大坂夏の陣において本陣を置いた場所) というものもあるし、四天王寺の山号 (寺院を山に見立て、必ずどの寺にも○○山という山号をつける) である荒陵山という言葉は、この寺が、もともとあった古墳を壊してできたのだと解釈する説もあるようである。なるほど、新たな聖なる場所を作るために、もともとあった聖なる場所を使用したということか。例えばパリでも同様な例があり、街の発祥である現在の聖ノートルダム寺院の場所は、キリスト教以前に存在した宗教の聖地であったそうだ。人間の聖なるものへの思いには、万国共通のものがあるということか。
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帰る前にもう一度是非立ち寄ってみたかった場所がある。それは、重要文化財に指定されている石舞台。この場所は、聖徳太子の命日である 4月22日に、太子の霊を慰めるために行われる聖霊会 (しょうりょうえ) という有名な行事の舞台となる場所。私が訪れたのは 4月23日であったので、ちょうど会の翌日ということになり、舞台上には何やらブルーシートにくるまれたものが未だ置かれている。惜しいことをした。いつかは見てみたいものである。ところで私はこの池にいる亀たちを見ると、いつも何やらほっとするのである。
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せっかくなので、重要無形民俗文化財に指定されている聖霊会の写真を拝借しよう。悠久の時を超えた深い神秘性を感じることができる。
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神秘性と言えば、日本の歴史において聖徳太子ほど神秘的で謎めいた人物もいないであろう。最近では、日本に仏教を導入し、遣隋使や十七条憲法や冠位十二階という画期的な業績をたった一人の人間が挙げたということは考えにくいとして、複数の人間の業績を合わせて単一の人格にしたのだろうという説も有力になってきていると聞く。学会における定説が今どうなっているか知らないが、最近の日本史の教科書から太子の名前が消えたという話も聞いたことがある (確認していないので本当か否か知らないが)。私自身、古代史には大変興味があっていろんな本を読んでいるが、聖徳太子に関するものは、もちろん梅原猛の「隠された十字架」に始まり、今、書棚を眺めながら題名だけ挙げると、「<聖徳太子>の誕生」「聖徳太子の正体」「聖徳太子は蘇我入鹿である」「聖徳太子はいなかった」「聖徳太子虚構説を排す」といった具合。また、太子が未来記という予言の書を著したという説に関する本では、「聖徳太子 四天王寺の暗号」というものも面白く読んだ。ここで様々な説に深入りするのはやめるが、人間の歴史に思いを馳せるとき、勝者による歴史記述は、敗者を貶め勝者自身を正当化するものであり、いついかなる時代にも、権力者は自己の正当化に忙しい。その一方で、純粋な信仰心や神秘的なものに対する畏敬の念 (ある場合には恐怖) は、庶民から社会の上層部まで、なんらかのかたちで存在していることも事実。従い、今でもこの四天王寺のような古い歴史のある場所では、積み重なってきた人々の思いが未だに何かを感じさせるのであろう。聖徳太子が実在の人物であろうとなかろうと、文化に興味のある人であれば、この寺の歴史から感性が刺激されることにはなんの疑いも持つ必要はない。それこそが大事なことなのだろうと思う。

と、様々なことを考えながら天王寺駅方向に歩いていると、大通り沿いにこんな小さな石碑を見つけた。
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なるほど、これも大阪の重要な歴史のひとつ。歩いていて歴史のかけらに遭遇することほど楽しいことはない。めっちゃおもろい、大阪の歴史。

by yokohama7474 | 2017-04-30 14:24 | 美術・旅行 | Comments(0)

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このブログで既に採り上げた、アラン・ギルバート指揮東京都交響楽団の大阪公演に出かけた週末、せっかくの機会なので大阪の別の場所を見ようと思った。いくつかの候補を頭の中で考え、結局選んだのは、天王寺公園内にある大阪市立美術館で開かれているこの展覧会だ。この美術館には随分長いこと行っていない。多分 30年以上だろう。うーん、確かにそれは長い (笑)。その間にこのエリアがきれいに再開発されたことも知っているが、なかなか出かけることができなかった。今回は、私としては必見の展覧会が開かれているということで、この歴史ある美術館 (1936年開館) に行くこととした。

この日は天気がよく、天王寺公園ではドッグランで犬を遊ばせる人もいれば、家族で芝生の上でくつろぐ人たちも。
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実はここに来る前にすぐ近く (だと思い込んでいたが意外と遠かった 笑) の四天王寺に行っており、そこから市立美術館まで歩くと、未だ 4月だというのに汗ばんでくる。だが、ようやく見えてきた、この立派な建物の威容。この美術館の前から階段の向こうを見晴るかすと、新世界名物、通天閣が見える。
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さて、現在この美術館で開かれているのは、日本の仏像彫刻の中でも木彫りの作品を集めた展覧会。まさに飛鳥時代から江戸時代の円空まで、1000年に亘る日本の木彫り仏が集合している。日本は森林が多く、建物にも木を使うし、歴史的に我々の日常生活には木が欠かせない。そんな環境で営まれてきた日本の仏教文化も、当然のことながら樹木と密接な関係がある。この展覧会を通してそのような感覚を再確認してみよう。最初に我々を出迎えてくれるのは、東京国立博物館所蔵の飛鳥時代の菩薩立像。いかにもこの時代の作品らしく、顔が大きく正面性のみ考慮された素朴な作品で、渡来仏の雰囲気満点だ。この時代には青銅製の作品が多く、木彫りは珍しい。どこの寺に伝来したものか興味があるが、明治以前の来歴は不明であるとのこと。
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これもやはり飛鳥時代の天王立像で、東京藝術大学の所蔵。これは確かに古く見える。法隆寺金堂や当麻寺の四天王像と共通するものがあると思うが、それにしても木彫りの小品がよくぞ今日まで伝えられたものだ。この像もやはり明治以前の来歴は不明である由。
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続いて、唐招提寺の有名な「講堂諸仏」(以前講堂に並べられていたことによる) から、重要文化財が 2点。薬師如来立像と伝獅子吼菩薩立像である。この堂々たるモデリングと、流れるような衣の表現は、奈良時代というよりも既に平安初期のスタイルであり、素晴らしい存在感だ。実は私は今、「仏像の樹種から考える古代一木彫像の謎」という本を読んでいるのだが、そこではこの唐招提寺講堂諸仏などを対象に、仏像に使われた木の種類を分析して、上代の仏像制作の謎に迫る試みがなされている。読み終えればまた記事にするので、お楽しみに。
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次も大変有名な仏像で、東大寺の弥勒如来坐像。この展覧会で唯一の国宝仏で、「試みの大仏」の異名で知られる。写真で見ると大きく見えるが、実際にはたったの 40cm 弱と小さな仏様である。東大寺の廬舎那仏、つまりは奈良の大仏という巨像を作る前に小さなサイズで作ったといういわれがあるが、多分、聖武天皇が作らせた最初の大仏よりも、この仏様の方があとの時代のものではなかろうか。その異国風の雰囲気はいわゆる貞観彫刻のイメージにふさわしい。その彫りの鋭く深いことは、いつ見ても感心する。
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お次は、件の四天王寺から。地理的にこの美術館から近い (しつこいようだが、歩くとそれほど近くない 笑) せいか、この展覧会にはこの寺から何体も興味深い仏像が出品されている。その中でもこれは有名なもので、重要文化財の阿弥陀三尊像。いずれも平安時代の作品ながら、その作風の違いから、もともとは一具のものではなかったのではないかと言われている。この脇侍の姿勢は、死者をお迎えに来たところであろうが、それにしてもなかなかの体のひねりぶりで、ユーモラスなほどだ。
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次も平安時代の重要文化財で、宮古薬師堂の薬師如来坐像。この仏像は、奈良の田原本町の小さなお堂に祀られている。私は現地に行ったことはないが、話には聞いていて、大変興味を持っている。今も地元の人たちの篤い信仰を受ける仏様であり、展覧会への出展は今回が初めてという貴重な機会なのである。
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この仏像も初めてお目にかかるものだが、なんとも可愛らしい。大阪の長圓寺の十一面観音立像。平安時代の作で、重要文化財である。一部が欠けている顔も、差し込んであるのではなく、明らかに本体と同じ木から彫り出されていて、お顔の優しさとは裏腹の、超絶的技術によって制作されている。
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次の仏像とは久々の再会。大阪貝塚市の孝恩寺の重要文化財、虚空蔵菩薩である。孝恩寺は国宝の本堂が釘無し堂という異名で知られている。大阪における文化財の宝庫だが、私はこれまでに一度しか訪れたことがない。この仏像 (当初は吉祥天として制作された可能性があるという) の存在感は大変なもので、久しぶりに現地を訪れたくなった。
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さて、会場のメインのスペースには、一体の大変珍しい仏像を囲んで、4体の地蔵菩薩立像が並んでいる。その珍しい仏像はこのあとにご紹介するとして、まずは 4体の中で私が最も興味を惹かれたお地蔵様だ。大阪、蓮花寺に伝わる平安時代の地蔵菩薩立像。頭の部分が痛々しく段になっているのは、木目が現れてきたということだろうか。いずれにせよ全身傷みが激しいのであるが、凄まじい執念でこの世にかたちを残しているといった雰囲気だ。このような仏像を見ると、仏が大地から生えた樹木から現れ、時の流れとともにいつかはまた大地に戻って行くのだという神秘性を感じる。応仁の乱の際は寺の池に沈められて難を逃れたという伝承もあるらしい。21世紀の我々は、あなたにお会いできて本当に嬉しいですよ!!
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そして、今回の展覧会の目玉である。冒頭に掲げたポスターにも使われている、京都、西往寺の重要文化財、宝誌和尚 (ほうしおしょう) 立像。まずはそのお姿を見て頂こう。
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な、なんということだ。お顔が真ん中から二つに裂けて、そこからもうひとつのお顔が覗いているではないか!!
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宝誌和尚とは、中国で 5世紀から 6世紀にかけて実在した人物で、梁の武帝が彼の姿を画家たちに描かせようとすると、宝誌が自分の指で顔を引き裂き、十一面観音がそこから現れて様々な表情をするので描けなかったという伝説によるものである。うーん、それにしてもこの造形は奇抜である。ここでは宝誌自身も、中から現出する観音も、非常に静謐な表情であって、なんとも神秘的だ。私は以前にもどこかの展覧会でこの像を見た記憶があるが、今回はガラスケースもなく周囲をぐるっと回って見ることができるのが嬉しい。そして、後ろに回って足元を見て気付いたことには (その部分の写真がないのが残念だが)、この仏像は明らかに一本の木から彫り出されている。つまり、裾の裏側は加工されておらず、本当に木の根っこのように見えるからだ。つまりこの像は、宝誌の肖像というよりは、自然の中から仏が現れてくるところを表現しているのではないだろうか。ひとつの証拠と考えられるのが、顔や手に明らかに残る鑿あとである。これはいわゆる鉈彫りと言われる手法で、定説では関東に分布している形態。だがこの作品は京都に存在しており、鉈彫りの分布範囲から外れる。私の理解するところでは、鉈彫りは東国武士の好みの荒々しい手法であると言われたり、単に未完成なのだろうと言われたり、あるいは、木の中から仏が現れるところを表しているのだという説もある。この最後の説は、これまでちょっと美化しすぎではないかと思わないでもなかったが、この像を見ると、果たしてそうかもしれないと思う。はっきりと残る鑿のあとをご覧下さい。
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ところで、私がこの仏像を知ったのは、全く意外な書物からであった。日本でも一時期は多くの崇拝者を持った思想家ロラン・バルト (1915 - 1980) が日本について語った書物、「表徴の帝国」(1970) の表紙だ。
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今、久しぶりに手元にその本を持ってきて開いている。この宝誌和尚像の写真の下には、このような文章がある。

QUOTE
表徴とは裂け目である。そのあいだから覗いているのは、ほかならぬもう一つの表徴の顔である。
UNQUOTE

この本、難解ではあるものの、相撲から歌舞伎から学生運動やパチンコに至るまで、日本について縦横に語っていて面白い。エクリチュールだかオートクチュールだか知らないが、あまり思想用語に惑わされずに読んでみるのも一興かと。

さて、例によって話が脇にそれてしまったので、もとに戻そう。これも珍しい作品で、大阪、東光院の釈迦如来像。と書いて気付いたが、これは豊中市にある萩の寺ではないか!! 私は子供の頃何度か行ったことがある。こんな仏像があるとは知らなかったが、これは何かというと、京都清凉寺の霊像、釈迦如来の光背についていた化仏 (けぶつ) なのである。像高 8cmと非常に小さく、後世になって文独自の光背と文殊菩薩、普賢菩薩が添えられたということらしい。
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これもまたミクロの超絶技巧が見られる作。四天王寺が所蔵する重要文化財の千手観音・二天像箱仏で、像高さ僅か 12.4cm。携帯用なのであろうか。
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これは大阪、専修寺の阿弥陀如来坐像。重要文化財で、寺伝では運慶作という。私はその情報を興味深く聞いた。なぜならこの仏像が結んでいる印は説法印というのだが、運慶作であることが明らかな静岡県、願成就院の国宝阿弥陀如来 (そちらは指が折れてしまっているが) と同じであるからだ。顔の張り方なども共通点があり、運慶自身の作でなくとも、その周辺の仏師の手によるものではないか。
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展覧会にはまた、四天王像が数多く展示されているが、興味深いのはこの新薬師寺所蔵のもの。鎌倉時代の作で、いわゆる大仏殿様と呼ばれるスタイルである。つまり、鎌倉時代に東大寺大仏殿に祀られた巨大な四天王のポーズを踏襲しているのである。現在の大仏殿には、その後江戸時代に再興された際に作られた 2体 (広目天、多聞天) だけがあり、やはりこの新薬師寺像と似たポーズを取っている。尚、江戸時代の大仏再興に際しては、四天王の残り 2体は資金切れのため、首までしか完成していない。
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この展覧会、最後の方には江戸時代の放浪の僧、円空の作品が登場する。十一面観音立像。これは埼玉県蓮田市の神職家に伝わったもので、神仏混交の頃の修験道信仰との関係で、円空が作品を残したのではないかと考えられている。円空は明らかに、樹木の持つ霊性を取り入れた造仏活動を行った人であろう。
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これはなかなか見ることができない例で、大阪の延命寺所蔵になる、大元帥明王像の頭部。北川運長という仏師が、元禄14年 (1701年) に制作に着手したが、発願者であった浄厳 (じょうごん) という僧が没したため、未完成に終わった。大元帥明王は敵を降伏させる恐ろしい明王で、彫刻の例は非常に少ない (秋篠寺にあるが、年一回公開の秘仏であり、私も未だ拝観したことがない)。浄厳は将軍家綱の帰依を得て湯島に霊雲寺をいう寺を開いたそうだが、この明王を作ろうとした目的は何だったのだろうか。だがこの頭部、大元帥明王のイメージとは異なって穏やかな表情であって、あかたも木の中から慈悲の顔がのぞいているように見える。
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まだまだ興味深い仏像が多く展示されていて、例えばひとつの寺やひとつの宗派の仏像だけ、あるいは同時代の仏像だけを展示したケースよりも、この展覧会は多彩な内容になっている。だがその展示作品の共通点は木彫りであるということで、そのような視点は大変に新鮮だ。日本人の考える霊的なものと、樹木という素材の関係を様々に考えさせてくれる、興味深い展覧会である。さて、日本人のもうひとつの特性、いや、これは日本人に限らず人間全般について言えることかもしれないが、聖なる場所のすぐ横には常に俗なる空間があるということ。展覧会を見終えて美術館前の階段を下りると、そこは新世界と呼ばれる繁華街。その後のコンサートがなければ、危うく昼間からたこ焼きに串カツにビール!! と行ってしまうところでした (笑)。聖俗併せ呑む余裕は常に必要で、そのような多義性もまた、人間の本質であろう。・・・でもビール、飲みたかったなぁ!!
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by yokohama7474 | 2017-04-29 23:47 | 美術・旅行 | Comments(0)

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日本の現代アーティストとして世界に知られた名前として、草間彌生 (1929年生まれ、今年実に 88歳!!) はかなりの人が真っ先に挙げる名前ではないだろうか。そのド派手な色使いによる作品は、一目見れば彼女のものと分かるものが多く、いわゆるオブセッショナル・アート (オブセッションとは強迫観念のこと。但し最近はこのような分類はあまり聞かないような気もする) の代表的なアーティストである。幼時より幻聴や幻覚に悩まされていて、それらを絵画作品に昇華したと言われている。若くして単身でニューヨークに渡り、かの地で名を上げたという点も、人々の関心を引く理由になっている。私は彼女の作品に横溢する異様な生命力に以前から魅せられており、小説を読んだこともあるし、以前このブログでも、彼女の出身地である松本の市立美術館の展示をご紹介したこともある。そして現在、東京六本木の国立新美術館にて開催されている彼女の個展に足を運んだので、今回はそれをレポートする。

まず午後遅めの時刻に現地に到着すると、このような長蛇の列。つまり列が奥まで行って U ターンして続いているのである。だがこの美術館では、人気のアルフォンス・ミュシャの展覧会も開かれていて、窓口は展覧会ごとに分かれていない。従って、きっとこのほとんどの人たちはミュシャ展に行くのだろうから、会場内に入ればそれほど混雑はしていないだろう。その証拠に、チケット売り場の表記には、「入場のための待ち時間はありません」とある。では根気よく並ぶとするか。
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美術館の入り口近辺の樹木には、一見して草間の作と分かる赤い水玉模様が巻き付けられている。近づいてみるとやはり作品で、「木に登った水玉」(2017年)。サイズは可変とのことだから、その場所のどんな樹木も作品に変えることができるのである。屋外から既にクサマワールドだ。その後チケット売り場に近づいてほかの人々の様子を見ていると、ミュシャ展ではなく草間展のチケットを購入する人が予想外に多くて、ちょっと不安になる。これで本当に待たずに会場に入れるのだろうか。
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美術館内に入ってみると、人の列が見えたが、それは草間展のショップで会計を待つ人たちの列。20分待ちとある。おいおい、ショップで 20分待ちなら、展覧会場がそれより人が少ないわけはないだろう。どうなっているのか!! と思って会場に入って行ったところ、すぐにこのような光景が目に入った。
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かなり広いスペースの壁面に、所狭しと作品が並んでおり、人々は思い思いの場所で絵を見上げたり写真を撮ったりしている。そうなのだ、展覧会の最初にこの広大なスペースがあるがゆえに、ここで人々が拡散し、展覧会場自体の混雑が緩和されている。なかなか賢い。そして、このスペースでは写真撮影自由で、なんとも寛大なのである。ここで人々は、老いも若きも、皆アートと一体になって楽しんでいる。この作品群は、草間が 2009年から取り組んでいる連作「わが永遠の魂」(展覧会の副題にもなっている) で、総数 500点中 130点ほど並んでいて、すべて日本初公開とのこと。加えて床には、いくつものカラフルな植物の彫刻が置かれていて、「明日咲く花」「真夜中に咲く花」という題がついている。私も楽しくなり、何枚も写真を撮ってしまいました。
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さてその先はさすがに撮影禁止になっているのだが、草間の長い画業を辿る旅が始まる。展示されているうち最も早い頃の作品がこれだ。紙の表裏に書かれた、1939年の鉛筆画 (無題)。10歳の頃の作品ということになるが、既にして斑点が現れている!! これをもって画家草間彌生の萌芽と言ってよいものか否か分からないが、少なくとも彼女の生は、初期の頃からこのような感覚に満たされていたことを想像することはできる。
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これはその 10年後、1949年の「残夢」。これはどう見ても、当時日本でも盛んであったシュールレアリズムである。草間は当時、地元松本で制作しており、地元の公民館などで展覧会を開いていたようだが、今回初めて知ったことには、日本におけるシュールレアリズム紹介の第一人者で、私が深く尊敬する詩人、瀧口修造 (1903 - 1973) が当時から草間の作品を高く評価し、彼女の活動を後押ししたらしい。
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これは 1951年の「心」。上の「残夢」と同系統の赤を使いながら、その斑点には、より一層の草間らしさが表れている。
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1957年の草間の写真が残っている。ここで彼女が地面に散りばめている自身の作品は、まるで瀧口修造の制作したデカルコマニー (絵具を垂らした紙を二つ折りにして開いたときにできる偶然のかたちをアートとしたもの) のようではないか。ご参考までに、瀧口のデカルコマニー作品の写真も掲載しておこう。草間をシュールの文脈で読むことで、その潜在意識のパワーという点では新たな発見があるように思う。
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もちろん、草間の作品には強迫観念を思わせるもの以外の要素もあって、会場に展示してある作品群を見ていると、例えばカンディンスキー、例えばパウル・クレー、またある場合にはミロ風であったりする。この都会の雨 (1962年) は、モンドリアン風と言えるのではないか。
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以下、「地の底を燃える火」(1963年) と「無題」(1954年)。私が上で挙げた作家たちと比較して、どうであろうか。ひとつ言えるのは、草間ならではのファンタジーがここにはあると思う。
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草間がニューヨークに移ったのは 1958年。そこで彼女はキャンバス全面に網目を描く「ネットペインティング」で好評を得る。いわばミニマルアートの一種とも言えようが、これまでの画歴を辿ってきた目には、彼女の精神を圧迫している強迫観念が、一見穏やかな表現によって微妙なバランスの中で静謐な空間を作り上げているように見える。以下は巨大なキャンバスの一部に描かれた一部をアップにしたもの。「No. AB」(1959年) と「No. PZ」(1960年)。サメの革みたいにも見えますな (笑)。
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似たような発想だが、コラージュ作品がこの「Airmail Accumulation」(1961年)。うん、ポップな感じがニューヨークらしいではないか。
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これは、1962 - 63年頃のニューヨークのアトリアでの草間。その後彼女の代表的な作品群を形作る、ニョキニョキと突起 (一説には男根の象徴とも。・・・というか、ある場合には明らかにそれを表しているケースもあると思う) が床や家具を埋め尽くす造形が見られる。よく知っているイメージではあるが、それにしてもこれは強烈な造形で、しかもこんなにニョキニョキと沢山作るには根気がいるだろう。この人の創作は、一旦これとなると、とことんそれなのだ (笑)。オブセッション。
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これは 1963年の「無題 (イス)」。そもそもイスの機能が邪魔されているし、生理的に気持ち悪いと誰もが思うはずだが、妙に心に残るのはなぜだろう。
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彼女の制作態度は、概して現実社会を直接題材にした政治的なものではない。だが、長じるにつれ、恐らくは人間の生と死への関心からであろうか、時には戦争をテーマにした作品が見られるようになる。これは 1977年の、その名も「戦争」。斑点はいかにも草間風でありながら、ナチ関連の写真が使われていて、彼女の作品としては若干異色であろう。
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これは 1989年の「一億光年の星屑」の一部。このあたりからはひたすら派手な色使いとなって行くが、トレードマークの斑点に、まるでキース・ヘリング作品のようなポップなウネウネ感 (?) が面白く、老いてますます増して行く草間の生命力に圧倒される。
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これは 1992年の「黄樹」の一部。もうこれはキース・ヘリングではない。私が思い出すのは、やはりニューヨーク在住であった河原温であるが、ひとつ言えるのは、草間の場合はこの柄からカボチャを連想するということではないか。
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この黄樹のパターンをバックに、今年になって撮影された写真がこれだ。そういえば芸術新潮の 4月号では、天才アラーキーが撮影した草間の同様の写真が掲載されていた。
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会場にはいくつかインスタレーションも置かれている。これは展覧会場の外に設けられた「オブリタレーションルーム」。入り口でカラフルなシールを何枚か渡され、それを観客が思い思いの場所に貼って行くというもの。上の写真が、私が与えられたシールを左手に持って、右手のスマホで撮影したもの。下の写真は、そのシールを貼ったあとの写真。さて、どこに貼ったのでしょうか、って、分かるわけないですな (笑)。
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さあそして、会場内から窓を通して見えた巨大なカボチャ作品に対面だ。展覧会を見終った人は是非、そのまま正面出口からは帰らずに、美術館の裏側、乃木坂駅に向かって欲しい。屋外に出てすぐの右側に作品はある。この日は非常によい天気で、背景の東京ミッドタウンともども、巨大カボチャを大変に美しく撮影できた。
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80代後半に至っても未だに衰えることのない草間パワーに、心底元気をもらいました!!

by yokohama7474 | 2017-04-28 23:35 | 美術・旅行 | Comments(2)

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テオドール・シャセリオー (1819 - 1856)。見覚えのある名前であり、どこかの美術館で作品に触れているはずだが、明確には思い出せない。確か昔、大学で文学部の講義を選択して、フランスのロマン主義と新古典主義から印象派に至る流れを一通り学んだ際にも、その名が出て来たような気がする。このポスターに使われている女性の肖像画を見ると、描き方自体には古典的な要素を持ちながらも、どこかに憧憬をたたえたその女性の表情には、型通りの写実を超えた、どこかなじみがあるようなないような、不思議な感覚を覚える。いずれにせよ、一般にはほとんど知られていない、37歳で夭折したこの画家の初めての展覧会が、上野の西洋美術館で開催中である。なかなかに貴重な機会と思い、ちょっと覗いてみた。

シャセリオーは、カリブ海のイスパニョーラ島 (現在は2/3がドミニカ共和国に、1/3がハイチに所属) で、フランス人の父と現地生まれの入植者 (いわゆるクレオール) の母の間に生まれた。現代の、しかも極東の島国に住む我々にとってはこのあたりは感覚的にちょっと分かりにくいが、当時ヨーロッパ列強諸国はいずれも植民地を持ち、自国から遠く離れた中南米にも、多くのヨーロッパ人たちが進出していたわけである。ドミニカも、スペインとフランスが取り合いをしていたようであり、複雑な歴史を持つ。シャセリオーの父も、もともとはナポレオンが送った (そ、そうなんだ!!) イスパニョーラ島への遠征軍に参加して現地に住みついたらしく、その後パナマやコロンビア独立のために奔走し、投獄されたこともあるという、行動の人であった。シャセリオーが 2歳のときに一家はパリに移住する。そこで絵の勉強を始めたシャセリオーは、11歳のときに、当時新古典主義の大家であったドミニク・アングルの弟子となることを認められた。早熟の天才であったわけだ。これは、1835年、16歳のときの自画像。彼は決して美男ではなかったという記録があるようだが、ここで見る若い男性は、確かに美形ではないものの、神経質さを感じさせる一方で、何か自分の中に存在する芸術への思いを冷静に見つめているようである。なるほど、早熟の天才である。
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これは、「16世紀スペイン女性の肖像の模写」。制作年は 1834 - 50年頃となっているので、正確なところは分からないのであろう。これが誰の姿で、誰の作品の模写であろうと、垂れ下がった首飾りをぐっとつかんだ左手が異様に逞しく、見る者をどきっとさせる点において、極めてユニークな作品と言えるのではないだろうか。
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これは、1837-38年頃の「黒人男性像の習作」。これは、師であるアングルが「キリストの誘惑」という作品を描こうとして、そこに登場するサタンの習作を描くようにシャセリオーに指示が出たことによって制作されたもので、現在でもアングル美術館所蔵になる。私が面白いと思うのは、この白々しいまでに青い空だ。黒い肌で描かれた堕天使の背景としては、なかなかのセンスではないか。右下に描かれた、握ったり開いたりする手も、表情があって面白い。
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アングルからシャセリオーに出された指示も展示されているが、こちらの方は平板な表情になっているので、10代にしてシャセリオーが、師の指示を超えるような想像力に富んだ制作を行っていたことの証明になるのではないだろうか。
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これは「アクタイオンに驚くディアナ」(1840年)。未だ 20歳そこそこだが、世間ではアングルの後継者と目されていたところ、本人は師と袂を別つ決意をし始めていたらしい。そのせいか、この作品はこの年のサロンに落選し、酷評を受けたという。芸術家の歩む道のりは、もちろん本人の意志次第でありながらも、時として運命的な要素に左右される。早熟であったシャセリオーが選んだ道は、歴史的な評価という点では必ずしも最善の策ではなかったのかもしれないが、だがそれゆえに、150年以上を経ても人々に訴える力を持つのかもしれない。この作品を見て私が連想するのは、英国で活躍したスイス人画家、フュースリ (「夢魔」で有名) である。また、右の後ろの方で女性が 2人並んでいるところなど、シュールなまでの不思議な雰囲気である。極めてユニークではないか。
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これも同じ 1840年の「石碑にすがって泣く娘 (思い出)」。後ろの木が、女性の哀しみに同調するように身をよじっている。このタッチは、もうダリに近いとすら言えるようなシュールなものだと思うのは、私だけであろうか。
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彼はその後イタリアへ旅をし、帰国した 1841年、パリのサン・メリ聖堂の礼拝堂の注文を得る。これはその習作、水彩で描かれた「エジプトの聖マリアの生涯」(1841 - 43年)。英国のラファエロ前派を予感させるようなタッチではないか。
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当時ギリシャ神話はポピュラーな題材であったが、シャセリオーは、いわゆる文学性を伴う絵画表現に傾くことで、新古典主義からロマン主義に鞍替えしたとされる。私は以前から、この 2派が、当時区別されたようには明確な差があるとはとても思えず、画家のメンタリティには通底する部分があると思っているのだが、この 1845年に描かれた「アポロンとダフネ」を見ると、ロマン主義を超えてむしろ象徴主義に近づいていると思う。
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それを証明するかのように、展覧会には象徴主義の代表選手であるギュスタヴ・モロー (1826 - 98) の同じ主題の作品が展示されている。これは制作年は不詳とのことだが、モローは、7歳上のシャセリオーから大いなる影響を受けたという。
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シャセリオーの文学趣味のひとつの表れとして、シェイクスピアの「オセロ」の版画の連作が挙げられる。1844年の初版はごく少数しか刷られなかったが、ロマン主義の大家であるドラクロワはそれを所持していたという。これは、「もし私があなたより先に死んだら・・・」。言うまでもなく、デズデモナとその侍女であろう。
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そしてこれは、「気絶したマゼッパを見つけるコサックの娘」(1851年)。マゼッパと言えば、バイロンが詩にしており、また音楽の分野ではリストやチャイコフスキーが題材にしていて、典型的なロマン派のテーマである。主人公マゼッパは、有力者の妻と不倫を犯し、馬の背中に縛り付けられて荒野に放たれるというワイルドな物語である。ここには異国趣味も色濃く出ていて、それもロマン派の典型例なのである。
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さらに、文学的でロマン派的な作品の好例がある。「マクベスと3人の美女」(1855年)。言うまでもなくシェイクスピアに題材を採っている。いわゆる器用な作品という感じはあまりせず、文学に表れた人間的な要素をキャンバスに描き出すことが画家の意図であるように思われる。
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次は「泉のほとりで眠るニンフ」(1850年)。泉と言えば、師のアングルの作品が有名だが、ここで横たわる美女の描き方は、アングルのそれとは全く違う。挑発するようにあけっぴろげになっている脇の下に毛が描かれているという事柄だけでも、師の新古典主義とは大きく異なるシャセリオーの感性が分かろうというものだ。この作品のモデルは、当代一の美女と謳われた女優のアリス・オジーという人らしく、文豪のヴィクトル・ユゴーは彼女に入れ込んで、あろうことか、彼女を巡って息子と争ったという。全くフランス人は・・・(笑)。
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シャセリオーの画業はこのような神話を題材にした作品だけでなく、同時代の人々の肖像画にも見るべきものがある。これは「アレクシ・ド・トクヴィル」(1850年)。由緒ある貴族の家に生まれたこのトクヴィルは、政治家であり法学者であって、シャセリオーと家族ぐるみのつきあいをしていたという。若干神経質なようでいて、だが同時に意志の強そうな表情が印象に残る。
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余談だが、この展覧会の会場には、高山裕二という人が書いた「トクヴィルの憂鬱」という本を売っていて、面白そうなので買ってしまった。トクヴィルを例に取って、19世紀フランスロマン主義の青年論について語った本である。
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肖像画の名品をもう一点。展覧会のポスターにもなっている「カバリュス嬢の肖像」(1848年)。モデルとなったマリー=テレーズ・カバリュスは、名門の家に生まれ、当時のパリで最も美しい女性の一人に数えられたとのこと。当時 23歳。知的でありながら人間味あふれる肖像画ではないか。
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19世紀のフランスの画家にとってはオリエント世界はエキゾチズム溢れる場所であったが、ロマン主義の泰斗であるドラクロワがモロッコ旅行で色彩に目覚めたことはよく知られている。シャセリオーもアルジェリアに滞在して、かの地の光のもとで様々なスケッチを残している。これは「バブーシュ (室内履き) の 6つの習作」(1846年頃)。溢れる好奇心でスケッチしている画家の姿が目に浮かぶ。
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これも同じ頃の「床に座るアルジェのユダヤ人女性」。油彩画よりもなだらかなタッチで描かれた水彩画で、完全に色を塗り切らない点にゆとりが見られて面白い。
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さて、シャセリオーが手掛けた畢生の大作は、1842年に完成した会計検査院の壁画である。このような立派な建物であったらしい。
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シャセリオーが描いたのは総面積 270平米の壁大小 15面で、「戦争」「平和」を中心的テーマとしており、描かれた人物は 230人以上。当時のフランスにおいて、独力で描かれた壁画としては最大のものであったらしい。これが当時描かれた版画。
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だが残念なことに、この壁画は1871年のパリ・コミューンの騒乱 (普仏戦争敗北後に勃発した市民の蜂起) の際に建物ごと焼かれてしまい、今では断片がルーヴル美術館に残るのみらしい。これが焼かれてしまった壁画の様子。
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なんとももったいない話だが、歴史の歯車が大きく動いた時代。貴重な絵画の犠牲もやむないことであったのかもしれない。この展覧会では、スケッチや古い写真でその壁画を偲ぶことができる。これは「母親と老人の間に立つ『平和』」と、「戦支度を調えさせる『秩序』」。
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これは、焼かれた後に撮られた写真で、「力と秩序」。
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フランス 19世紀の壁画と言えば、もちろんピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ (1824 - 1898) が有名で、私も 2年前にパリの記事を書いた際に言及したが、そのピュヴィス・ド・シャヴァンヌは、5歳上のシャセリオーから大きな影響を受けたという。上記の通りの、モローへの影響と並んでピュヴィス・ド・シャヴァンヌへの影響こそが、シャセリオーの短い人生の軌跡を永遠のものにしているのではないだろうか。展覧会にはまた、彼が晩年に手掛けた、パリのサン = ロック教会というところの壁画の習作も展示されている。これは「インド人に洗礼を施す聖ザビエル」(1852 - 53年)。初期から変わらぬ鮮やかな青が印象的だ。
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そしてシャセリオーは、1856年、37歳の若さで亡くなってしまう。展覧会の図録を見ても、その死因については「正確な病名は知られていない」とある。もともと虚弱な体質であったらしい。死後の見舞客の署名には、モローやピュヴィス・ド・シャヴァンヌも含まれているという。いかなる天才も死は免れないが、150年以上経ってから、このように遠い日本の地で展覧会が開かれていることを知ると、本人もさぞや驚くであろう。短い人生でスタイルを変えて自己の芸術を探求したその姿から、時代の雰囲気を色濃く感じることができて、大変興味深い展覧会であった。

by yokohama7474 | 2017-04-22 01:31 | 美術・旅行 | Comments(6)

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河鍋 暁斎 (かわなべ きょうさい 1831 - 1889) については、このブログでも何度か言及してきたし、特に、2015年 8月 2日付の記事では、三菱一号館美術館で開かれた彼の展覧会を採り上げた。暁斎は幕末から明治にかけて活躍した絵師で、その流れるがごとき筆さばきで貪欲なまでに展開した制作活動は、実に自由闊達で迫力満点。どの作品を見ても飽きることがない。浮世絵と狩野派を習得し、時に西洋画の技法も取り入れるという、大変なエネルギーの持ち主であったようだ。その暁斎の展覧会が開かれてえいるのを知ったとき、「まぁ暁斎はもうよく知っているからな」と不遜にも思ってしまった私なのであるが、実際に足を運んでみてびっくり。この展覧会で展示されているのはすべて、英国人コレクター、イスラエル・ゴールドマンの所蔵になるもので、初公開の作品を多く含んでいるという。展覧会の副題に「世界が認めたその画力」とあるのはその意味であって、海外からの里帰り展覧会なのである。但し、正直なところ、私はこの「世界の」という形容詞が嫌いなのであって、その理由は、日本のものがもともと世界水準に劣っている、あるいは劣っていなくても充分に知られていないということが前提になっていて、いじけた島国根性 (?) を思わせるからである。これに対して、当のコレクター、ゴールドマン氏の発言に注目してみよう。彼は 2002年にやはり自身の暁斎コレクションを日本で展示した際に、「なぜ暁斎を集めるのですか?」と訊かれて、「暁斎は楽しいからですよ!」と答えたという。そうなのだ、画力が世界に認められたか否かは関係ない。暁斎は楽しい。その極めてシンプルな理由だけで、蒐集するにも鑑賞するにも、充分な理由になるではないか。文化を楽しむとは、そういうことなのだと私は思うのである。

ゴールドマン氏が暁斎作品の蒐集に目覚めるきっかけとなった作品が最初に展示されている。「象とたぬき」(1871年以前)。
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小さなタヌキに鼻を差し伸べる象のユーモラスな姿を、ささっと描いたもの。ゴールドマン氏は 35年ほど前、この作品をオークションで入手したが、翌日別のコレクターに譲ってしまい、それを後悔して、その後何年も懇願してまた買い戻したという。現在では彼の自宅の寝室に飾られているという。この象には紐がつけられていることから、1863年に行われた象の見世物興行の際にスケッチされたものと推測されているらしい。舶来の大きな動物と、土着の小さな動物の出会い。

実際、暁斎はなんでもできた人であるのだが、やはりこのような動物の姿をユーモラスに描いた作品が楽しい。これは「鯰の船に乗る猫」(1871 - 79年)。この髭のはえた鯰は、明治政府の役人を揶揄しているのだとか。
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同じ一連の作品から、「カマキリを捉える子犬」。ここにはあまり風刺的な毒は感じられず、ただ子犬の可愛らしい仕草が活写されているのであるが、ただ、やっていることには残虐性もあって、ただ可愛いだけではない点、やはり暁斎の個性であろう。
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暁斎はまた、鴉を多く描いた。絵師としての日々の習練の象徴であったらしく、海外にも多く輸出された。フランスの作家エドモン・ド・ゴンクールは、パリの町を自転車で走る人の姿を、「暁斎の掛物にある、飛び行く鴉のシルエット」のようだと評したとのこと。うーん、詩的な表現だ。以下、「枯木に鴉」と「柿の枝に鴉」。
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これは「月下猛虎図」。墨だけで描かれた白黒の中、目だけが黄色くて不気味である。芦雪の飄々とした味わいの虎とは違って、文明開化を経た時代のリアルな怖さを持っていると言えるのではないか。
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これは、「虎を送り出す兎」(1878 - 79年)。明らかに「鳥獣戯画」のスタイルを模したものであろう。暁斎の腕なら鳥羽僧正 (が「鳥獣戯画」の作者なら) に、決して負けてはいない。
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ユーモラスなだけではない暁斎の動物絵画は、このような面白い作品も含む。「月に手を伸ばす足長手長、手長猿と手長海老」。足の長い老人が手の長い老人を肩車しその先に手長猿が、またその先に手長海老がいて、月を取ろうとしているようである。かたちの面白さだけで、見ていて飽きない。まるでジャコメッティの彫刻のようではないか (笑)。
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このような暁斎の奇想の数々は、暁斎漫画なる出版物 (1881) における数々の図版にも存分に表れている。北斎漫画に匹敵するほど、多彩で勢いがあるのではないか。
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これは、「天竺渡来大評判 象の戯遊 (たわむれ)」(1863年)。この記事の最初に掲げた墨絵について述べた通り、この年に江戸の両国橋西詰で象の見世物興行があり、それを題材にしたもの。同様の図が何枚もあるが、本当にこれだけ多様な芸を象にさせたのであろうか。幕末の異様なエネルギーを思わせて、圧倒的だ。
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この作品など、ヨーロッパ人はどのように見るのであろうか。「五聖奏楽図」。五聖とは、磔になりながらも扇子と鈴を持っているキリストに加え、それぞれ楽器を持ったり手拍子と歌で盛り立てる、釈迦、孔子、老子、神武天皇。明治政府によるキリスト教の解禁は 1873年。この絵はその頃の様子を表したものであろうか。破天荒な発想だが、やはり「楽しい!」という感想を誰もが持つであろう。
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暁斎はまた、明治に入る頃から亡くなるまでほぼ毎日、絵日記を書いていたらしい。ただ彼はそれを手元に残さず、欲しがる人に譲ったため (ほ、欲しい!!・・・)、散逸してしまっているとのこと。ゴールドマン・コレクションには、あの有名な英国人建築家、ジョサイア・コンドル (最近ではコンダーとも。1852 - 1920) が暁斎に弟子入りして修業している頃のことが書かれているとのこと。このような落書き同然のものであるが、いかにも暁斎らしくて、やはりなんとも楽しい。現代でも、例えば山口晃のように抜群の技量を持つ画家が似たようなことをしているのが嬉しい。
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これは版画で、「蒙古賊船退治之図」(1863年)。以前も「ダブルインパクト」という興味深い展覧会についての記事でご紹介したことがある。元寇の際に、迎え撃つ日本側が、何やら爆発物で元軍を撃退している場面。この誇張された爆発の様子や大荒れの海に、やはり幕末の鬱積したエネルギーを感じることができる。
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これも暁斎らしい「鍾馗と鬼」(1882年)。よく見ると、振り上げた右手は少し小さいように見えるが、不思議と全体のバランスは大変よい。また、鬼のユーモラスなことも暁斎の持ち味だろう。
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暁斎の描いた魑魅魍魎たちの中に、幽霊も含まれる。このブログでは以前、幽霊画の展覧会もご紹介しているが、私にとっては、格調高い芸術的な絵と同等に、幽霊画はや妖怪画は強い興味のある分野であり、その分野における暁斎の存在感は揺るぎない。これは「幽霊に腰を抜かす男」。幽霊の姿は、そのゴワゴワの髪と、うっすらとした後ろ姿の輪郭だけで表されており、素晴らしい表現だと思う。これはもしかして、リアルな幽霊というものではなく、腰を抜かしている男の内面の恐怖心がかたちを持って現れているだけかもしれない。
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だがこちらの方は、リアルこの上ない幽霊だ。「幽霊図」(1868 - 70年)。おぉ、怖い。その痩せ方やほつれ毛、恨めしそうな目など、どれも本当に怖いが、右半分に行灯の光が当たって白く浮かび上がっているところがなおさら怖い。光が当たるということは、何らかの物質がそこに存在しているということであるからだ。物質的な存在であれば、何か危害を加えるかもしれないという、人間の根源的な恐怖に呼びかける。
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これは、展覧会のポスターにもなっている「地獄太夫と一休」。室町時代の遊女である地獄太夫が、一休の教えを受けて悟りを開いたという伝説をテーマにしたもの。太夫の着物は非常に手の込んだ描き方になっており、彼女の左横にいる三味線を弾く骸骨と、その頭の上で踊る一休、それに加えて踊り狂う多くの小骸骨たち。なんと不気味で謎めいて、でも楽しい、暁斎流であることか。
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これは、多くの妖怪たちが跋扈する「百鬼夜行図屏風」。暁斎にしては丁寧に描いている方だろう (笑)。明治期は大きな価値観の転換期であり、人々の間に戸惑いや不安もあったに違いなく、異形の存在である妖怪たちに、リアリティがあったのではないか。だがここでも、暁斎の描く妖怪たちは楽しそうで、決して怖くだけではない。その意味では、上で見た幽霊画とは少し性質を異にする。
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なんでもできてしまう暁斎は、仏教的な題材も扱っている。これは「龍頭観音」(1886年)。観音の衣の描き方などはさすがだが、どうしても龍の存在感に目が行ってしまうのは私だけか。
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このように、個人のコレクションとは信じられないほど多彩で質の高い作品群で、どんな人でも楽しめること請け合いだ。実はこの展覧会には、世界初公開となる暁斎の春画の数々も展示されていて興味深い。ネット上で春画の画像を公開するのは教育上よろしくないし (笑)、私自身は春画の芸術性自体にそれほど確信が持てずにいるので、ここでご紹介はしないが、ひとつ言えることは、暁斎の春画はどれも非常にユーモラスで、思わずくすっと笑ってしまう。それは、露わな人間性の発露がそこにあるから、ということは言えると思う。その一方、今回改めて気付いたことには、これだけの画家にして、未だ重要文化財指定の暁斎作品がないということだ (私の認識違いでなければ)。上の作品群にも制作年が定かでないものが多く、画鬼という異名を取っただけあり、まさに日々生きることすなわち描くこと、という人であっただけに、絶対的な代表作が少ないということだろうか。例えば上記の「地獄太夫と一休」など、もし日本にあれば重文指定後補になってもおかしくないように思うが、在外作品であるので、そうはならないわけである。暁斎については恐らくこれからますます再発見が進むと思われ、その楽しさを多くの人たちが味わえるよう (「世界が認めた画力」という押しつけ型の認識ではなく、人々が本当に楽しめるよう)、いずれかの作品の重文指定を待ちたいと思う。
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by yokohama7474 | 2017-04-08 12:57 | 美術・旅行 | Comments(0)

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私は昭和 40年 (1965年) 生まれなので、日本の高度成長期の末期に少しかかる世代であり、たまたま幼少期に住んでいたのが大阪の北部であったため、幸いなことに、大阪万博には何度か足を運ぶことができた。当時弱冠 5歳ながら、その記憶は極めて鮮烈で、万博こそが自らの社会との関わりの原点であると認識している人間である。そんな私にとって、1970年代の日本のパロディ文化を扱ったこの展覧会は、実に興味深いもの。まず、展覧会に出向く前に、上記ポスターと同じ表紙をあしらった、雑誌「東京人」の特集号を読んで行った。特集名は、「これはパロディではない」・・・むむむ、なんと逆説的な。
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この「東京人」の特集では、横尾忠則 (1936 - ) のインタビューと赤瀬川原平 (1937 - 2014) についての記事が中心的であるが、この展覧会に実際に足を運んでみると、やはりこの 2人の活動紹介が、かなり重要な部分を占めている。会場では一部の作品を除いて写真撮影可能であるが、例によって私は携帯もすべてロッカーに預けてしまい、会場で写真を撮ることはできなかったので、いつものように図録から撮影した写真を中心に、この展覧会を振り返ってみたい。

まず 21世紀も 1/5 近く経過した現在の視点から、1970年代をいかに位置づけられるかを考えてみよう。テレビはあったが (白黒からカラーに移行)、携帯も WiFi も LINE も YouTube もなく、冷戦は未だ厳然として世界の規範を成しており、オイルショックが起こり、公害の被害が深刻であった時代。昭和も半ばを過ぎ、日本は高度経済成長から安定成長に移行。人々はそれぞれに充実感を味わいながら、未来を信じて頑張って生きていた頃 (もちろん個人差は多々あれども) と言えるのではないか。それゆえに、アートの面においても、社会への深刻な抵抗よりも、多かれ少なかれ遊び心をもった行動がメインになったのであろう。サブカルチャーという言葉が当時あったか否か分からないが、流行を追う若者たちは時として、社会の中で支配的な発想から外れ、奇抜なものを面白いと思う感性を持ったわけで、その感性を反映したのが、様々なパロディの登場であったと言えるだろう。この展覧会は、今で言えばサブカルチャーとまとめることができるようなアートやメディアの活動による時代の諸相を、数多くの作品や資料によって立体的に浮き彫りにしている。最初の方には 1960年代の作品が並んでいるが、これはどうだろう。
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Hi-Red Center による「第 5次ミキサー計画」のポスター (1963年、未完) である。ハイレッドセンターとは、高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之の 3人による、ハプニング系の活動を行うグループで、その名称は 3人の苗字の最初の一文字を英語に置き換えたものである。私はそれぞれのアーティストに思い入れがあるので、この 3人が元気に街中で暴れていた (?) 時代を目撃したかったなぁと強く思うのであるが、だがそれは叶わぬこと。せめてこのような、時代の雰囲気をたたえた遺品に、当時の活気を偲ぶのみである。ちなみにこのポスターでは、高松の紐、赤瀬川の紙幣、中西の洗濯バサミがトレードマークとして使われているが、中でも赤瀬川の紙幣、これは有名な千円札裁判 (1963 - 70年) から明らかなように、社会が価値があると信じているものへの抵抗、あるいは揶揄といった姿勢を示している。これぞまさにパロディ精神!! 千円札裁判とは、赤瀬川が千円札をモチーフに作品を発表したところ、それが有価証券偽造の罪に問われたという事件。冗談のような大真面目な事件で、昭和のアート史では有名だ。以下の作品、「大日本零円札」(1967年) はその裁判の過程で制作されている。千円札を使うと問題あるなら、零円札なら実在しないものだから描いてもよいだろうという、この開き直りはすごい。国家権力にしてみれば、いかにも可愛くない態度としか言いようがない。
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赤瀬川のこの反骨精神にはお手本がある。それはジャーナリストの宮武外骨 (1867 - 1955) だ。「滑稽新聞」等で国家権力を批判したため、度々投獄されている。赤瀬川はあるとき古書店でこの宮武の出版物を見つけて以来、彼に心酔するようになったという。1971年にはこのような宮武の写真を使った作品、「宮武外骨肖像と馬オジサンと泰平小僧」を制作している。
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吉村益信 (ますのぶ、1932 - 2011) は、60年代の日本のネオ・ダダ運動の提唱者であるが、赤瀬川に、自らが進学していた武蔵野美術大学を勧めたのは彼であったらしい。今回調べていて初めて知ったことには、この吉村のアトリエこそ、私が 2015年 7月21日の記事で写真をご紹介した、磯崎新設計の「新宿ホワイトハウス」なのだ!! 日本のアートが元気な頃へのノスタルジーを覚える。この展覧会には、その吉村の代表作「豚 ; Pig Lib」(1994年作と、制作年はちょっと反則? だが) が展示されている。意味をあれこれ考える前に、このシュールな雰囲気を楽しみたい。
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それから、やはりネオダダの中心人物のひとりであった篠原有司男 (うしお) の作品を経て、横尾忠則のコーナーがある。冒頭に掲げた白黒のポスターは彼の 1964年の作品で、「TOP で POP を!」と題されている。もちろん、ここでパロディのネタにされているのは、名デザイナーであり師でもあった亀倉雄策のこのポスター。
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もちろん、1964年の東京オリンピックのポスターであるが、横尾はランナーたちを、手前からピカソ、ルオー、ビュフェ、リキテンスタイン、スーラの画風で描いた。トップを切るのはポップアートを代表するリキテンシュタインの画風のランナーである。芸術におけるオリジナリティ信奉を皮肉ったものらしい。いかにも横尾らしい作品である。また、やはり横尾の手による名画のパロディが並んでいるので、ひとつご紹介すると、1967年の「アンリ・ルソー 『眠るジプシー』より」。
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ルソーの原画はこちら。つまり横尾は、砂漠のライオンがジプシー女を食べてしまったという設定に変えているのである。
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これは、鈴木慶則 (よしのり、1936 - 2010) の「非在のタブロー (マグリットによる)」(1967年)。
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シュールを代表する有名なマグリットの「大いなる戦い」という作品を半分描いて、残りの半分はキャンバスの裏側になっている。実はこのキャンバスの裏側も、画家が描いたもの。いかに神秘的なマグリットの作品も、絵画である以上は物質なのだというアンチテーゼなのであろうか。次は、漫画家でありイラストレーターであった立石紘一 (1941 - 98) の、「大農村」という 1966年の作品。
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上部の肖像画が毛沢東であり、どうやら核兵器を題材にした内容であることは誰でも分かるが、下の方にいるサングラスの男は誰だろう。タモリのようにも見えるが、制昨年を考えるとそれはあり得ない。実はこれ、以下の米国の雑誌の表紙のパロディなのである。
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その名も「MAD」という雑誌。1952年発刊で、今でも継続しているらしいが、死や性など、通常はタブーとされるネタを扱うブラックな露悪的雑誌とのこと。進駐軍払下げのこの雑誌が神田で売られているのを、この立石や、あとで登場するマッド・アマノが購入して影響を受けたらしい (因みにマッド・アマノのマッドは、この雑誌に因む名前であるとのこと)。尚、上に掲げた号は 1961年 1月号で、右にニクソン、左にケネディの顔が (こちらは逆さまで) 描かれている。調べてみると、民主党候補ケネディ vs 民主党候補ニクソンが争ったのは 1960年の大統領選。この選挙については Wiki もあって大変興味深い。もちろんケネディが勝つのだが、極めて僅差、しかも、今では歴史家の間で、マフィア絡みの選挙違反がケネディの勝利を助けたとされているらしい。このブラックな雑誌では、この選挙をどのように扱っていたのだろうか。この装丁はすなわち、投票・開票前に雑誌が出版され、勝った方を表紙にして読んでねということなのかも。

これは岡本信治郎 (1933 - ) の「星月夜」(1969年)。もちろんゴッホの名作のパロディである。
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あのゴッホの深くて重苦しい精神世界を、かるーく変貌させていて、可笑しい。もちろんゴッホは素晴らしいが、このような作品によって一度距離を置くことで、より一層ゴッホの偉大さが分かるというものではないか。

さて、実はこの展覧会、1970年代をテーマとしながら、上で見て来たのは、ほとんど 1960年代の作品ばかり。時代には流れというものがあるので、それを辿ることにこそ意味がある。教条的に 1970年代に固執しない点、一見識であると思う。そして次は、1970年の作、木村恒久 (1928 - 2008) の代表的なフォトモンタージュ、「焦土作戦」である。降り注ぐコカコーラの瓶は、戦後日本の急速なアメリカ化を揶揄しているのであろうか。
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同じ木村の、これは「都市はさわやかな朝をむかえる」(1975年)。ニューヨークとナイアガラの滝のミックスは、一度見たら忘れない。私も、多分中学生の頃にこの作品を見て、ずっと頭の中に残像が残っている口だ。パロディの無条件の楽しさを感じる。
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展覧会には増殖するメディアのパロディについての展示が数多くあり、ビックリハウスなど、様々な雑誌が並んでいる。ありましたありました、この雑誌。
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だが、特筆すべき面白さを感じたのはこれだ。
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これは、ぷろだくしょん我 S という前衛アーティスト集団による、「週刊週刊誌」という雑誌。1971年 5月12日号から 10月20日号まで、名古屋で実際に販売された。実はこれ、表紙以外すべて白紙の週刊誌なのである!! こんな宣伝がされたという。
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これはいわばハプニングと呼ばれる芸術行為の一例と言え、実に人を食った行為であるが (笑)、口コミで後半は毎号数百部の売り上げがあったという。・・・うーん、私なら買わないけどなぁ。遊び心を持った人たちが、当時の名古屋には多かったということか。

会場にはまた、様々なパロディ漫画の類もあって面白い。恥ずかしながら私は知らなかったのだが、長谷 (ながたに) 邦夫 (1937 - ) という漫画家は、このパロディ漫画の大家であったようだ。この 1969年の「ゲゲゲの星」は、その名の通り、ゲゲゲの鬼太郎と巨人の星の ミックス。驚くべし、双方の超人気マンガの同時代パロディなのである (笑)。子供の頃に読んだ漫画雑誌のページの端にはよく、「○○先生にお便りを出そう!」などと書いてあったが、このマンガの場合、「長谷邦夫先生をけなすお便りをだしてやろう!! あて先は東京都新宿区・・・」と、実際のプロダクションの住所が書いてある。すごい時代である。
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そして、こちらの方は私の守備範囲内なのだが、1968年に発表された、つげ義春の伝説的代表作「ねじ式」(いわゆる芸術漫画というのだろか、内容はかなり退廃的かつ夢幻的) のパロディ。まずは同じ長谷邦夫による「バカ式」。おなじみのバカボンのパパが出て来るが、この長谷は、赤塚不二夫のブレインであったらしい。このバカさ加減、実に楽しい。もう長らく私の書庫に収まっている、ハードカバーの筑摩書房版つげ義春全集全 8巻を引っ張り出してきて、オリジナルの「ねじ式」から、パロディのもととなった場面の写真を撮影したので、比較されたい。
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この「ねじ式」は短い漫画なので、パロディにしやすいのだろう。赤瀬川原平によるパロディ、「おざ式」(1973年) も展示されているので、その中のワンシーンと、そのオリジナルを掲載しておく。
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ここで口直しに (笑)、著名なイラストレーター、久里洋二 (1928 - ) による「ピカソ模写」(1980年) をご紹介しよう。ピカソの青の時代の代表作、「自画像」を、青ではなく赤で彩ったもの。さすがのセンスであると思う。
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次に、記憶にある懐かしいポスターを発見。いずれも 1976年の営団地下鉄のポスターで、「帰らざる傘」と「独占者」。説明不要の映画スターの肖像を使った (そうでなければ成り立たない)、大変よくできたもの。デザインしたのは河北秀也 (1947 - )。
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最後に、赤瀬川の千円札裁判とはまた異なる点で、パロディの本質を考えさせられる裁判になった有名な例をご紹介する。上で一度名前の出て来たグラフィックデザイナー、マッド・アマノ (1939 - ) によるこの作品。「週刊現代」に掲載され、1970年に「SOS」という単行本に掲載された。
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ところがこれは、著名な山岳写真家、白川義員 (よしかず、1935 - ) が撮影した写真がもとになっている。米国保険会社 AIU の 1970年のカレンダーに掲載された写真がこれだ。確かに、アマノ作品がこれに手を加えたものであることは、比べてみれば明白だ。裁判になったのも理解できる。
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この裁判は「パロディ裁判」と呼ばれ、足掛け 16年に及んだが、アマノ側の敗訴に終わったらしい。表現の自由とは何かという点において、考えるべき点が多々ある事例となったのである。

このように、1970年代の前後左右のパロディ文化を振り返ってみると、様々な文化の様相を見ることができる。人生において笑いは欠かせない要素。ここで展示された数々の作品や作家の姿勢から、そのことを学ぶことができるだろう。アートやサブカルチャーは時代を映す鏡でありながら、時を経た今となっても、あれこれ考えさせる要素があるのは、笑い自体の不変の価値によるものであろうと考える。そうしてこの展覧会は、私としても、人生の途次を折々に彩るべきギャグのセンスを磨かねば、と再認識する (?) よい機会となったのである。

by yokohama7474 | 2017-04-04 00:00 | 美術・旅行 | Comments(0)