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ベルギー旅行 その 4 アントワープ、ワーテルロー

首都ブリュッセルを拠点としてのベルギー、フランデレン地方の旅。11月 1日 (水) は、アントワープ (オランダ語ではアントウェルペン) に行くことにした。この街は日本人には大変有名で、その理由は「フランダースの犬」である。少年ネロと愛犬パトラッシュが最後にこの地の教会で、ルーベンスの描いた祭壇画の前で息絶えるというこのお話は、実は現地では全く知られていないのだと聞いたことがある。私の場合、幼少期に見たテレビアニメはもっぱら怪獣や妖怪が出てくるものであって、残念ながら「フランダースの犬」には全く思い入れがないのだが、ともあれ、巨匠ルーベンスが生涯を過ごした街であり、15世紀後半からブリュージュを凌ぐ世界最高の商業都市に発展したこの街に対しては、もちろん大きな興味を抱いているので、この日、車をハイヤーしてブリュッセルからアントワープに向かった。だが、ちょっと気になる情報があって、ハイヤーの運転手 (イラン出身で、名前を訊いたら答えは「マイケル・ジャクソン」だと!!) が「今日はお休みだから」と言っていたのである。何の休みか訊くと、「ハロウィン」だと。いやいや、ハロウィンと言えば 11月 1日ではなく 10月31日と相場が決まっているし、そもそも今回滞在したベルギーの街中で、ハロウィンの装飾は時々見かけはするものの、それほど目立たない。だから、「運転手の言っていることは本当に訳が分からん。まぁ、イランから出てきて、ヨーロッパのことがよく分かっていないのだろう。もしかしたら、マイケル・ジャクソンが誰かも知らずに自称しているのかも」・・・と思っていたのだ。そして到着したアントワープでまず対面したのは、この壮麗な市庁舎。1561年から 65年にかけて建造されたもの。この市庁舎が立っているのはグローテマルクトという広場で、それはブリュッセルのグラン・プラスほどではないにせよ、やはり古い建物が立ち並ぶ美しい場所。
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この市庁舎の前には面白い彫刻がある。何やら青年が足元に巨人を横たえ、その巨人のものとおぼしき片手を投げようとしている。
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これはブラボー (Brabo) という名前の古代ローマの兵士。この街を流れるスヘルテ川で猛威を振るっていた巨人を倒し、その手 (Ant) を切り取って川に投げた (Werpen) ことからこの街の地名ができたという伝説を表したもの。因みにブラボーという名前自体は、ブラバント (現在のベルギーとオランダにまたがる地域の名称で、その領主がブラバント伯) の語源になっているらしい。この日はご覧の通り天気もよく、兵士ブラボーも心なしか元気そうに見えるではないか (笑)。
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まだ朝のせいか、人の姿はほとんど見られない。運転手が祝日と言っていたが、あてになるものでもないし、さぁ、今日もバリバリ観光に精を出すぞ!! と気合を入れる私たち一行を励ますかのように、青い空に飛行機雲が一直線に現れて、気持ちがよい。
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市庁舎からほど近い場所にあるノートルダム大聖堂をまず訪問。これが例の、「フランダースの犬」のラストシーンの舞台。1352年から 170年の歳月をかけて建造された、ベルギー最大の教会である。
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その前の道路では工事が行われていたのだが、あっ、これはもしかして、ネロとパトラッシュ??? パトラッシュはまるで大トカゲみたいだし、ネロもちょっとイメージ違うけどなぁ。それから、石畳を毛布のようにかぶっているが、何か布団で寝ているようにも見える。まさか日本人向けに、「ネロ」と「寝ろ」をかけているわけでもないだろうが (笑)。このブログを始めて間もない頃に記事を書いた映画「天才バカヴォン 蘇るフランダースの犬」を思い出してしまいました。
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さて、ここまでは快調だったのであるが、どういうわけかこの教会は閉まっていて、中に入ることができない。むむ、万一イラン人 (こだわるなぁ) 運転手の言うことが正しくて今日が祝日だとしても、教会が開いていないとは、あまり考えられない。日曜ならミサがあるが、どうもそういうことではなさそうだ。実はここでおもむろに「地球の歩き方」を開いてみたところ、なんたること、観光地の定休日の欄に、軒並み「11/1」とある。ためしにほかの都市を調べてもそんなことはなく、このアントワープだけなのだ。そこで、何かこの街独特の聖人のお祭りかと思ってスマホで調べてみると、あ、やはりベルギー全体がこの日は祝日で、「万聖節」とある。これはハロウィンのことではないか!! やはり運転手は正しかった!! もしこの日、残るもうひとつの目的地であるゲントに行っていれば、観光地は開いていたのかもしれないが、いずれにせよアントワープに来てしまった以上、時既に遅し。加えて、実はこのアントワープ観光の目玉のひとつである王立美術館も、現在改修中で長期に亘る閉鎖期間中であることが判明。私たちは完全にこの街から締め出されてしまった格好だ。それでも、ルーベンスの旧居と、彼の家族が礼拝堂を持ち、彼自身そこに埋葬されている聖ヤコブ教会には行ってみた。いずれも残念ながら中には入れなかったのであるが、このように一応写真だけは撮ることができた。
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この街にはほかにも面白そうな美術館がいくつもあるが、当然いずれも閉館している。さあ、ではどうする。実は私のもともとのプランでは、この日午後までアントワープで観光し、そのあと、東に多分 30kmくらい行ったところにあるトンヘルロー (Tongerlo、この地の名前を冠したビールが有名だそうな) という場所に出掛けることとしていた。ここはあまり知られていないと思うが、ダ・ヴィンチの弟子が、師匠の「最後の晩餐」を忠実に模写していて、師が使った革新的な技術を使っていないから色は未だにきれいだし、それに、オリジナルでは既に失われてしまっている中央の足元の部分 (今では扉がそこにある) が残っているのである。これは是非見てみたい。だが、この日の様々な出来事の流れで嫌な予感がした私は、「ダ・ヴィンチ美術館」という名前のついたそのトンヘルローの修道院に電話してみた。

私「あ、『ダ・ヴィンチ美術館』ですか?」
相手 (一瞬間があって) 「ええっと、違いますよ。何かご用?」
私「ええ、そちらでダ・ヴィンチを拝見したくて。今日は開いていますか」
相手「ああ、ダ・ヴィンチね。今日は休みだし、来年 9月 (と言ったと思う) まで休みです」
私「・・・」

なんだか要領を得ない電話であったが、いずれにせよそこまで言っても無駄足であることは明らか。スパっと諦めることとした。ちなみにこのトンヘルローの「最後の晩餐」、借りてきた画像でご紹介しておこう。
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それにしても、ブリュージュではちゃんと月曜の美術館休館を見越してきっちりと効率的な予定を組むことができたのに、ここアントワープでは思わぬ落とし穴にはまってしまった。だが、めげてはいけない。こんな日でも素晴らしい文化遺産を見ることができる場所があるのだ。それは、コーヘルス・オジレイ通り。
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実はこの通りには 20世紀初頭、富裕層が競い合って様々なお屋敷を建てた。ちょっと前の時代のアールヌーヴォーや、当時最先端のアールデコ、また疑似ルネサンスや疑似古典派など、その様子はまさに百花繚乱。片側 1車線ずつの道路を挟んで、数百m に亘ってそれらが立ち並んでいるのである。閑静な住宅街なので車はほとんど通らないし、建築観察には恰好の環境だ。今でも人が住んでいるので、あまりキョロキョロするのは失礼と思いつつも、すみません、キョロキョロしまくり、写真も撮りまくりました。これらがいずれも個人の邸宅とは信じられないくらいのお屋敷群である。
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建築に興味のある方は、アントワープでは是非ここを訪れて頂きたい。あ、それから、こんなお屋敷街の端っこには、建物は立派ながら、1階に日本でもおなじみのドミノ・ピザが入っているのを見て、その庶民性にちょっとほっとするのも、一興かと (笑)。富豪の子孫たちも、相続税や、欧州危機その他社会環境の変化に応じて、意外と慎ましい生活だったりして・・・。どんなシチュエーションでも、常にこういう面白いものを探す感性は、大事にしたいものである。それによって物事を画一的、硬直的な見方をすることから少しでも逃れることができる・・・かもしれない?
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さて、そんなアントワープには再会を期して移動することとした。実は私には腹案があったのだ。しかもこの場合の腹案は、政治家のブラフではなく、純粋に歴史的興味からくる具体的なプラン B である。新たな目的地の名は、ワーテルロー。そう、ナポレオンが、一度幽閉されたエルバ島から脱出してフランスに返り咲いたものの、この地でウェリントン公爵率いる英国軍らに敗北を喫し、いわゆる百日天下に幕が下ろされた、その古戦場跡である。場所はブリュッセルの南 10kmほどであるので、どのみち夕刻にはブリュッセルに帰ることを思うと、ちょうどよい目的地である。イランのマイケル・ジャクソンが運転するメルセデスで高速をぶっ飛ばし、このような場所に辿り着いた。
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ワーテルローの戦いが行われたのは、1815年 6月18日。現地に行ってみて判ったのは、ちょうど 2015年が戦後 200年の記念の年であったので、それに合わせてきれいなミュージアムを作り、映像のアトラクションも新たにできたようである。この戦いの様子がよく分かる工夫がなされている。上の写真は人工の丘で、1826年に造られたもの。ライオン像がフランスの方角を向いて睨みをきかせている。最近できたミュージアムはこんなところだ。
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また、これはかなり古くからあるとおぼしきパノラマ館があって、壁画と人形によって戦場の様子をリアルに体感できるのである。私は 3D 映像よりも、こちらのアナログな手作り感の方が好きだ。
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パノラマ館の裏からは、先刻見たライオンの丘に登ることができる。この丘は高さ 40.5m。階段は 226段もあり、角度もかなりのものなので、なかなかきつい。だがここに登ることで、古戦場のイメージは一層沸くし、台座だけで 4.5m もあるライオン像の巨大さも実感できる。
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このモニュメントからそれぞれ南北に数 km 離れたところに、ナポレオン、ウェリントン双方の指令所が博物館として残されている。時間の関係で、ナポレオン最後の指令所の方だけ見に行くこととした。それは普通の農場の粗末な建物なのであるが、1815年 6月17日から翌 18日にかけて、歴史はここで大きく動いたのである。
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このように、少々予定外の行動を余儀なくされたものの、ワーテルローは行ってみる価値のある場所であることが分かったのは収穫であった。ここでは掲載しなかったが、この古戦場周辺にはあちこちに様々な石碑が立っており、あの日ここで勇敢に戦い命を落とした人たちへの追憶が、かたちを取って表されている。国同士が接している緊張感のもと、古来争いを続けてきたヨーロッパでは、対立と融和が何度も何度も起こってきたわけで、そうであるからこそ、国を守る意義もさることながら、現在では平和の尊さが身をもって人々に実感されているものであろう。

さて、川沿いのラプソディ新春スペシャル、残す記事はひとつとなりました。ラストスパートと行きましょう。

by yokohama7474 | 2018-01-01 17:29 | 美術・旅行 | Comments(0)  

ベルギー旅行 その 3 ブリュッセル

ブリュージュから首都ブリュッセルに移動。2017年10月31日 (火) は、そのブリュッセル観光に費やすこととした。私はそれ以前この街は 3回訪れていたが、まだまだ見ていないところが沢山ある。だが何はともあれ、この街に来て最初に足を運ぶべきなのは、街いちばんの広場であるグラン・プラスである。いや、この街でいちばんどころではない。数あるヨーロッパの広場の中でも、その壮麗な美しさにおいて、並ぶものはないだろう。こればっかりはその場に身を置いてみないと本当には分からないであろうが、周りの建物をぐるりと見回したり、それぞれの建物の細部をまじまじと眺めたり、いくらいても飽きないくらいなのである。
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このグラン・プラスに面した「星の家」という建物の側面に、セルクラースという人物の像がある。14世紀にこの地を統治していたのはブラバン公であるが、フランドル伯がそれを羨んで王位を継承しようとした際に、この星の家に片手でよじ登り、かかっていたフランドル伯の旗をブラバン公の旗に取り換えたことで、市民の英雄となったが、その後暗殺されたという。この像に触れると幸福になれるという伝承があり、像の右手や左足はツルツルになっている。
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さて、この日の観光は、世界のいろんなところにある、赤い色をした Hop On Hop Off の観光バスに乗ることにした。ブリュッセルは規模の大きな街なので、北回りと南回りの 2つの路線があり、一度チケットを買えば、その途中の停留所で降りたり乗ったりは自由にできるし、両方の路線に乗ることも可能なのである。今回はたまたまバスの出発地点が近かった北回りに乗ることとした。市街地から運河に沿って北上すると、ラーケン王宮が見えてきた。今でも国王の居住地であるらしい。
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そして、このような奇妙な銀色の建造物が見えてきたので、そこで一度降りてみることとした。
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これはアトミウムというモニュメントで、1958年の万国博のために作られたものであるらしい。ということは、できてから既に 60年近く経過していることとなる。当時は冷戦時代とはいえ、未来を未来として信じることのできた時代。何かノルタルジックなものを思わせるではないか。どうやら、この金属の球形の中に入って移動できるようだ。
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中に入ってみようと思ったのだが、ちょうどベルギーの生んだシュールの巨匠、ルネ・マグリットの展覧会もここで開かれていたらしく、チケット購入にはかなりの列ができていたので、残念ながら諦めることとした。またの機会としたい。そしてもう一度バスに乗ったのだが、その観光バスのコース案内を見ると、次の停留所に「マグリット美術館」とあるではないか。手元の日本語のガイドブックには載っていないが、面白そうなので降りてみることにした。少し迷ったものの、ありましたありました。どうやらこれが、マグリットのアトリエ兼住居であるらしい。3階建てではあるが、普通の住宅街の一角だし、敷地はさほど広くない。なんと、表札までそのままだ。
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ところが残念なことに、この日は定休日で、中に入ることはできなかった。これもまたの機会に持ち越しとなってしまった。ところでベルギーの人たちは親切で、道に迷っている人がいると、積極的に声をかける国民性であるとか。実際にこの日も、地元の人とおぼしい中年女性が親切に、片言の英語で、ここが休みでも、街中の王宮の近くに行けばマグリットの作品を見ることができると言ってくれた。もちろん、王立美術館のひとつがマグリット美術館であることは知っているが、丁重に礼を述べておいた。そして、いかにも庶民的な小さなスーパーのような店の壁に、こんなポスターを発見。
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おぉこれは、その日の夜、ブリュッセルの誇るオペラ・ハウスであるモネ劇場で鑑賞することになっている、モーツァルトの歌劇「ルーチョ・シッラ」のポスターではないか。こんな中級住宅地にオペラのポスターとは、さすがブリュッセルは文化度が高い。さてその後またバスに乗って中心地に戻ることとしたが、車窓から見えたこの巨大な建物は、コーケルベルグ聖堂。独立 50周年を記念して 1880年に時の国王レオポルド 2世によって建てられたもの。その正面にはエリーザベト公園が広がっているが、このエリーザベトは、音楽ファンなら誰でも知っている、この街で開かれる名門コンクール、エリーザベト王妃国際コンクールの名前の由来となっている、あのエリーザベト王妃 (レオポルド 2世の甥にあたるアルベール 1世の妃) だろうか。
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さてそれから、中央駅付近でバスを降りて、広大な王立美術館に向かうこととした。入り口には日本語表記も。ちょっと古びていますが (笑)。
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腹が減っては戦はできぬということで、この美術館のカフェテリアでランチを取ったが、こういうマグリットに因んだ遊び心が嬉しいではないか。
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この王立美術館は、古典美術館、世紀末美術館、マグリット美術館と 3つに分かれている。古典美術館にはフランドルやオランダ、ドイツの絵画が陳列されていて興味深い。中でもブリューゲルは充実している。これは「反逆天使の追放」(1562年作)。
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この「イカロスの墜落」は私の好きな絵で、以前はブリューゲルの真作とされていたはずだが、現在ではほかの画家によるコピーであるという説が定着しているようだ。
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それから、これは確か最近ブリューゲルの真作と認定された作品で、「聖マルティンのワイン祭り」のはず。これってここにあるんだっけ・・・と疑問に思ってあとで調べてみると、ここではなくプラド美術館であるはず。とすると、同じ構図のほかの画家による模写ということだろうか。
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世紀末美術館は以前見たことがあるが、今回は時間がなくてパス。午前中の出来事もあったので、ここはやはりマグリット美術館を優先しよう。建物は古いが、中は非常に新しい。以前はこんなにきれいではなかったように記憶するので、最近リノベーションしたのであろうか。館内にかかっている巨大なマグリットの写真が印象的で、またトイレも、遊び心に溢れている。
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私はマグリットの作品は基本的に好きだが、ひとつの難点は、そのヴィジュアルイメージに重きを置いた作品たちには、オリジナルに対面したときの感動があまりないことだと思っている。その点このマグリット美術館はそこを逆手に取って、暗い館内にマグリットの作品のあれこれがくっきりとライトを浴びて浮かび上がることで、あえていえばそのポスター性のようなものを強調する結果になっていた。いかにもマグリットらしい展示方法だと思ったものだ。

さて、その日は一旦ホテルに戻ってから、モネ劇場まで徒歩で出掛けることとした。その道すがら、1847年に完成したアーケード、ギャルリー・サン・チュベールを通る。これはなかなか楽しい。
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これが王立モネ劇場。ヨーロッパの名門歌劇場のひとつであり、かつて大野和士が音楽監督を務めたことでも知られる。因みに劇場名の「モネ」とは、あの有名な画家とは何の関係もなく、フランス語でお金のこと。昔ここに造幣局があったことによるらしい。「お金劇場」とは、何やらあまり芸術的でない名前だが (笑)、オケのクオリティはなかなかのものだし、高いステイタスを誇るオペラハウスである。外見はギリシャ神殿風、中に入るとカラフルでモダンな装飾もあるが、劇場内はまた伝統的なオペラハウスの豪華さを持っている。この国にふさわしい多重構造ですなぁ (笑)。この日ここで見たモーツァルトの「ルーチョ・シッラ」のレポートは現地で書いたが、今思い出すと、なかなかに大胆な演出で面白いものであった。
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休憩時間にロビーに出ると、無料でもらえるのど飴が大量に置いてある。リコリスだろうか。実はこれ、私には見覚えがあって、ニューヨークのカーネギーホールに置いてあるものと全く同じなのだ。これだけ大量にのど飴を置いてあるのだから、無用な咳をしないようにという、劇場側の皮肉な配慮である。
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また、階段の横には過去にこの劇場に関係した芸術家たちのポートレートが並んでいるが、そこに作曲家の細川俊夫を発見。細川のオペラとしては、2004年と2011年に「斑女」がここモネ劇場で上演されており、2011年にはまた「松風」がここで世界初演されている。細川にとっては縁の深い歌劇場なのである。またこの「松風」は、来月、新国立劇場で日本初演される予定であり、大変に楽しみである。
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また別の日に、このブリュッセルでおいしいシーフードを食べに出掛けたときの写真をいくつかお目にかけよう。モネ劇場の少し西側に聖カトリーヌ教会という教会があり、その近辺がシーフードレストランの集まっている地域であるが、そこで食事を済ませて帰る途中にはこんな建物が。
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これもモネ劇場と同じくギリシャ神殿風の建物だが、これは証券取引所。もともと 1801年にナポレオンの命によって作られた由緒正しい場所であるが、現在では証券取引所の機能は別の場所に移転し、ここは使われていない。残念ながらこの建物、明らかに保守が充分にされておらず、細部がかなり傷んでいる。長く続いたヨーロッパ不況も影響しているのだろうか。また、ブリュッセルはもともとそれほど治安のよい街ではなく、このように人がたむろっている場所では、夜間は身の危険には充分注意する必要があるので、これから行かれる方は、充分お気をつけ下さい。ただ、海外で普通に気を付けるべきことさえしていれば大丈夫。ここからグラン・プラスの方に歩いて行くと、土産物屋もあって、ブラブラ見て歩くのも楽しい。あ、ブリュッセル名物、小便小僧と並んで売っているのは、私が今回外見だけは見ることのできた、アトミウムではないか。そんなに人々に親しまれている建造物だったのだ。
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さて、この記事の冒頭に朝の写真を掲載したグラン・プラスの、夜の写真をお見せしよう。前回の記事でご紹介したブリュージュのマルクト広場の夜景もよかったが、いやこれは、さらに素晴らしい。実はこのグラン・プラスに面した建物にヴィクトル・ユーゴーが暮らしていたことがあって、プレートが掲げられている。そういえば彼はこのグラン・プラスのことを、「世界で最も美しい広場」と絶賛したと聞いたことがある。こんなところに住んだら、それはもう世界が違って見えることだろう。ただ美しいというだけでなく、歴史というものがそこに折り重なった荘厳さを感じさせる場所なのである。
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そうそう、上で土産物屋の写真を掲載してから気づいたのだが、この街で最も有名な存在である小便小僧についてもご紹介しておかねばならない。この少年が誰で、一体何をしたから彫刻になっているのかについては諸説あるようだが (小便を導火線にかけて火事を未然に防いだ説等)、1619年から、既に 400年近く彼はここで小便をし続けている (笑)。この発想はバロックらしいというべきか、なかなか意表をついていて面白い。世界中から衣装を贈られるので、その衣装の博物館まであるほどだ。
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そんなわけで、首都ブリュッセルのよく知られた顔と知られざる顔に触れることができ、大変面白かった。この街にはほかにもいろいろ有名無名の見どころがあって、例えば、あのオードリー・ヘップバーンの生家もこの街に存在している。またいつの日にか再訪せねば。治安にはくれぐれも気を付けながらということは言うまでもないが。

by yokohama7474 | 2018-01-01 17:28 | 美術・旅行 | Comments(0)  

ベルギー旅行 その 2 ブリュージュ (2)

前回の記事の翌日、2017年10月30日 (月) のこと。ブリュージュの観光 2日目である。国内、海外を問わず、観光でどこかを訪れた際には、どこに優先順位を置いてどの順番で観光地を回るかについては、事前の計画と、それから現場での状況判断で、臨機応変かつ貪欲に決めて行動するというのが私のポリシーであるが、今回もある考えがあった。というのも、多くの観光地において、月曜日は美術館が定休日であることが多い。なので、ブリュージュでの美術館探訪は前日の日曜に行い、月曜はその他の観光地、あるいは月曜でも開いているところを選択するという作戦であったのだ。前日の夜も通ったマルクト広場にまた帰ってくると、あいにく曇りに時々雨が混じる空模様ではあるが、それでも朝の空気がすがすがしい。
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歩いて行くとこんなお店が。各国の言葉で「チョコレート」と書いてあるが、誰か正しい日本語表記を教えてあげて!! でもさすがベルギー、チョコレート屋さんは多かったですよ。
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そして辿り着いたのはこの場所。川のほとりである。そう、何をしようとしているかというと、ブリュージュ名物、運河のクルージングである。幸い青空が見えてきた。晩秋の寒さの中、半袖でサングラスをかけたチョイワルな感じの船長が、英・仏・蘭の 3ヶ国語で説明をしながらのクルージングで、言葉がどこで切り替わったかもよく分からないから説明を聞き取りにくいが、ともあれこれぞブリュージュ情緒。空の飛行機雲も鮮やかだし、非常に低い橋の下を通過するときにも、イヴェント感満載だ。乗っている間にも空模様が変わって行く。
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この運河クルーズ、道を歩いているだけでは分からない街の情緒が分かるので、今後ブリュージュにおでかけになる方には、是非お薦めしておこう。しかも、午後になると結構混んでくるので、朝のうちに済ませておく方がよいので、ご参考まで。さてそれとは対照的に、これはお薦めしないなぁという場所もある。それは、マルクト広場に面した例の巨大な鐘楼の建物の 1階にある、この施設だ。
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これは、シュールレアリスムの巨匠、今は亡きサルヴァドール・ダリの美術館。私はダリを 20世紀最高の画家のひとりであり、シュールの画家の中で最も才能のあった人だと思っていて、その作品を深く愛するものであるが、その一方で、いわゆるダリ的なイメージの大量生産と、そこに見える商業主義には、どうにも好きになれないところがある。もちろん、そのエキセントリックな言動で奥さんとともに芸術を商品にしたこと自体は、別に悪いことだとは思わないが、例えばこの場所で見られる、いわゆるダリ的なイメージの安売りはいかがなものか。ちょっとお土産にダリの版画でも買おうかなという方は無理に止めないが、芸術を愛する人なら、ブリュージュの中でこの場所以外に訪れるべき場所はいくらでもあるはずだ。

さて、気を取り直して観光を続けることとしよう。このマルクト広場からは街を 50分で一周するミニバスでのツアーに乗ることができる。このような天井もガラス貼りのバスで、録音による説明言語には、嬉しいことに日本語もあるのである。それにしてもこのブリュージュには、こんなに多くの国々から観光客が集まってくるのである。
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ブリュージュは道が狭いので、このような小型のバスがちょうどよい。ガイドブックには載っていない街の様々な顔を知ることができて興味深い。これは、フランドル絵画の巨匠、ヤン・ファン・エイクの肖像。また、写真はないのだが、興味深い建物の横を通った。それは貴族商人ヴァン・デル・ビュルスの館。ここブリュージュが商業で発展した際、ここでの取引方法がその後ヨーロッパの商業のやり方になっていったのだが、現在でもヨーロッパ圏で証券取引所を指す Bourse という言葉があり、それはそのヴァン・デル・ビュルスに因んだものなのである。このブリュージュの街が、当時世界の最先端であったことがよく分かる逸話である。
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観光バスに乗り終え、またマルクト広場に戻ってきた我々は、その近辺の歴史的な場所を見て回ることとした。まずは、世界でも極めて珍しいキリストの聖遺物収めるこの教会。
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ここは聖血礼拝堂といって、キリストの血が沁みたという布を所蔵している。これは 12世紀に十字軍に参加したフランドル伯がコンスタンチノープルから持ち帰ったものとされ、今ではガラスの容器に入れられ、1日の限られた時間にのみ、一般公開される。15 - 16世紀に建てられた礼拝堂は建物の 2階にあり、訪問者は石段を登って行くのだが、これがその石段の横に貼ってあった聖遺物の写真と、その公開時間。
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礼拝堂自体、このように神々しい場所であるのだが、聖遺物は、この本陣に向かって右側のスペースで公開される。その部分は撮影禁止なので写真はないが、列をなして司教の前に並び、ひとりずつ間近に接することができる。そのあとは、いくばくかの寄進をすることが求められている。
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礼拝堂にはちょっとした資料室があるが、そこには携帯用とおぼしき豪華な箱が展示されている。この街では毎年、キリスト昇天祭の日に聖血の行列というお祭りが開かれ、その場で流れていた映像によると、この容器の中に聖遺物を入れて、いわば神輿のように街を練り歩くようである。
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またこの建物の 1階は、12世紀に聖遺物を持ち帰ったフランドル伯ティエリーが建造したオリジナルの礼拝堂になっていて、その当時の彫刻が壁に残っている。いかにも素朴な中世のイメージそのままである。
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この聖血礼拝堂に隣接して市庁舎が立っている。1376年から 1420年にかけて建造されたもので、ベルギーの市庁舎で最古のもののひとつ。
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龍の姿をした手すりのある階段を登って行くと、素晴らしい内装を持つホールに辿り着く。見事な建築なので、飽きることなく眺めてしまうが、19世紀末に描かれた壁画には、フランドル地方で偉大な業績を残した人物像や、歴史の一場面が描かれている。以下の写真は、ヤン・ファン・エイクとハンス・メムリンク。
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見事な市庁舎をあとにして向かった先は、古い建物の中に作られた、ヒストリウムというアトラクション。ここでは 15世紀の黄金時代のブリュージュにタイムスリップしたような感覚が味わえる。ヤン・ファン・エイクの弟子という架空の若者を主人公とした映画を見ながら、いくつもの部屋を歩いて行く。イヤホンガイドには日本語もあるのだが、肝心の映画は英語のセリフだけで、日本語の吹き替えや字幕はないのでご用心。でも、まあまあ楽しめる場所である。
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さて、うまく月曜休館の美術館を避けて思惑通り観光をこなしたあと、ブリュージュ観光の仕上げにどうしても行きたい場所に出掛けることにした。それは、ベギン会修道院。ベギン会とは、13世紀に起源を持つ女性の互助会のような組織で、完全な修道院ではなく、半聖半俗であったらしい。フランドル地方には 13のベギン会の遺構 (ベギンホフ) が残り、すべて世界遺産に認定されている。但し、ベギン会自体は既に衰退し、このブリュージュのベギンホフには現在、ベネディクト派の修道女たちが共同生活をしている。中世そのままの雰囲気で、聖なる静謐が漂う特別な場所であった。
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ブリュージュはこのように、深い歴史的な佇まいを留める素晴らしい場所なのである。実はこの街、15世紀には毛織物産業で発展し、ヨーロッパでも当時最大の商業都市として、多くの国や都市と交易を行ったのだが、15世紀後半には北海とこの街を結ぶ川に土砂が堆積し、船の航行が困難になったため、商業の中心はアントワープに移ってしまったらしい。だがその急な衰退が幸いして、中世の街がそのまま変わることなく現在にまで残ることになったという事情らしい。なるほど、数奇な運命である。この街にはまた是非戻ってみたいと、誰しもが思うような街なのである。

by yokohama7474 | 2018-01-01 17:26 | 美術・旅行 | Comments(0)  

ベルギー旅行 その 1 ブリュージュ (1)

今回休暇を取った際に、会社の同僚から、どこに旅行するのかと訊かれた。主としてベルギーだと説明すると、彼がニヤっと笑って言うことには、「え? ベルギーですか。ベルギーってあれでしょ? フランスの属国みたいな場所と、オランダに入れてもらえなかった場所が集まってできた国でしょ?」と。それに対して私は 0.5秒黙ったのち、「いいえ、全っ然、違います。ヨーロッパのかつての中心地として、大変重要な場所ですよ」と強く答えたところ、その私の決然たる態度に、その人のニヤニヤ顔は凍りついていたものだ (笑)。いや実際、日本人のベルギーに対する理解の低さには、ホトホト呆れるのである。またある場合には、「あ、ビールが有名ですよね。あと、ワッフルとチョコレートも」というコメントがあったり、「あの、以前サッカーワールドカップで日本と対戦した『赤い悪魔』ですね」というコメントがあったりして、いつもながらの文化の徹底探訪を目的としての旅に向けた準備をしていた私を、大いに嘆かせたのである。いや、私とても正直なところ、以前このブログでご紹介した Bunkamura ザ・ミュージアムでの「ベルギー奇想の系譜」展で展示されていたようなフランドル絵画以上に、さほどこの国について知っているわけでもなかった。そこで、現地に赴く前に、以下のような本を読んで勉強した。

 物語ベルギーの歴史 ヨーロッパの十字路 松尾秀哉著 (中公新書)
 ブリュージュ フランドルの輝ける宝石 河原温著 (中公新書)
 ベルギーを知るための 52章 小川秀樹編著 (明石書店)
 図説 ベルギー 美術と歴史の旅 森洋子編著 (河出書房新社 ふくろうの本)
 魅惑のベルギー美術 冨田章監修 / 姫路市立美術館編 (神戸新聞総合出版センター)

この国の歴史は複雑であって、私も充分に理解できたわけではないのだが、ひとつ重要なことは、ちょうどヨーロッパの中央、英・独・仏の間にあるこの地域は、まさにヨーロッパの十字路としての役割を持ち、ローマ帝国のあとヨーロッパの広範な地域を治めたフランク王国のシャルルマーニュ、つまりカール大帝 (742 - 814) は現在のベルギーの生まれであり、首都を、現在のベルギー国境にほど近いドイツのアーヘンに置いたという。その頃からこの地域は商業が活発となるが、フランク王国の分裂によって、東フランク王国 (領土は今のドイツに近い) と西フランク王国 (今のフランスに近い) の間で、複雑な経緯を辿ることとなる。だが、12-13 世紀頃、フランドル伯の統治下で、英国から羊毛を輸入して毛織物を生産することで発展し、まずブリュージュが、北海経由で物資を運搬することによって全盛を極めることとなった。その後はハプスブルクの支配下に入り、独立はようやく 1830年に達成された。アフリカではコンゴを植民地とし、大虐殺を引き起こしたという負の歴史もあるらしい (映画「地獄の黙示録」の原作であるジョセフ・コンラッドの「闇の奥」はその頃のコンゴを舞台としているらしく、一度読んでみたい)。

ともあれ、もちろん広く知られていることだが、ベルギーの首都ブリュッセルはまた EU の首都でもあり、この国は現代ヨーロッパにおいて、非常に重要な位置を占めているのである。それは、英国 (今度抜けてしまうが・・・)、フランス、ドイツという大国を EU の中心にすることへの警戒心がそれぞれの国にあるところ、中世はまさに文明の十字路として発展したが、今では複数の言語地域を持つ小国として独自の存在感を持つベルギーは、大国間のある種の緩衝材としての役割に鑑みても、EU の首都は適役なのである。文化的にも豊かで、もちろん、ルネサンス期のフランドル絵画以降、クノップフ、アンソールという世紀末象徴主義や、マグリット、デルヴォーというシュールレアリスムの分野において、美術史に残る画家を輩出している。文学では、「青い鳥」で知られる象徴派詩人メーテルリンクがベルギー人だし、あるいは、これは架空の人物だが、英国のミステリーの女王アガサ・クリスティの作り出した名探偵エルキュール・ポアロはベルギー人という設定。音楽の分野では、例えば作曲家セザール・フランクは、フランス人ではなく実はベルギー人である。あるいは、ええっと、指揮者でもいましたね。と考えて、私が「あ、そうだ。クリュイタンス」と呟くと、それを聞きとがめた家人が、「そうよ、早く処分してよ」と予想外の反応である。何かと思うと、「あの、古い箪笥のことでしょ」とのこと。あぁ、確かに、増え続ける所有物の効率的な収納のために、古い箪笥を処分しようとしていたことは事実だが、あのフランス音楽の大巨匠で、ベルリン・フィルとのベートーヴェン録音でも歴史に名を留めているアンドレ・「クリュイタンス」の名を、よりによって「古い箪笥」と聞き間違えるとは、なんと失敬な。ま、それだけベルギーという国への日本における一般的なイメージが限られているということだろう。今回私は、パリからブリュッセルに移動し、そこからさらに移動してブリュージュに 1泊、そしてブリュッセルに 3泊して、いくつかの街 (首都ブリュッセル以外は、いわゆるフランデレン地域 = オランダ語が話される地域のみだが) を訪ねる計画を立てた。いつものことで、あれこれのトラブルには見舞われたものの、なんとかそれらをいちいち解決し、トラブルを楽しむくらいの余裕をもって、ベルギー旅行を堪能した。そのうち、ブリュッセルのモネ劇場で鑑賞したモーツァルトの若き日のオペラ「ルーチョ・シッラ」については、既に現地からレポートを書いたが、たまたま滞在中の音楽イヴェントはこれだけであったので、夜はムール貝その他の料理を楽しんだのである。ベルギーのレストランは、どこに行っても本当においしく、しかも値段もパリやロンドンよりもかなりリーズナブルである。このブログはグルメブログではないので、そのパートはほとんど割愛するが、ミシュランの星つきレストランから街の食堂まで、あらゆるところで出会うことのできる食の楽しみも、この国のひとつの売りである。

さて前置きが長くなったが、私たちがこのブリュージュを訪れたのは、2017年10月29日 (日)。早朝パリからの列車移動であったが、ちょうとサマータイムが終了して時計の針を 1時間戻す日で、慣れないことなので少し戸惑いもあったし、それ以外にも移動には若干のチャレンジもあったのだが、午後早い時刻には無事現地に到着。このブリュージュという街、こんな景色に象徴される。
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ブリュージュというのはフランス語であり、英語でブルージュ、現地のフラマン語 (= オランダ語) ではブルッヘと呼ばれるこの街は、歴史地区が世界遺産に認定されており、このような水路が多いので「北方のヴェネツィア」とも呼ばれる美しい街である。もっともヴェネツイアは本当に海の上に築かれた都市であるのに対し、ここブリュージュは、15kmほど離れた北海を通じて海運を発展させるために町中に運河が築かれたもの。ブルッヘという地名も「橋」に因むものであるという。私はそもそもベルギーでは、首都ブリュッセルは何度か訪れたことがあったものの、今回訪れたほかの街はいずれも初めてなのだが、とりわけこのブリュージュにはどうしても来たいと思っていた。それは音楽ファンとしては当然で、コルンゴルトのオペラ「死の都」、そしてその原作であるジョルジュ・ローデンバックの「死の都ブリュージュ」に負うところ大である。私は随分以前に、ちくま文庫から出ている「ローデンバック集成」でこの小説を読んだが、私のような世紀末象徴主義に耽溺する人間にとっては、身震いするほど素晴らしい本なのである。
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またもちろん、この街に育ったクノップフの「見捨てられた街」も大好きなのである。これは実はパステル画であるが、なんとも淋しい風景だ。これぞまさしくブリュージュの陰鬱でありながら耽美的なイメージにぴったりなのである。
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このクノップフの作品は、この街で活躍した画家ハンス・メムリンク (1430/1440 頃 - 1494) の名前に因むハンス・メムリンク広場を描いたものであるらしいが、本来なら台座の上に乗っているはずのメムリンクの肖像彫刻を描かないことで、あるべきものがそこにないというシュールな印象を呼び起こしている。残念ながら今回の旅行では、この場所には行かなかったが、ただ、最初に訪れたのはハンス・メムリンク美術館である。これはヨーロッパでも最古の病院であるらしい、12世紀に創立された聖ヨハネ施療院の一部を利用した施設。入り口の前にはまさにメムリンク風の聖母子の彫刻が置かれている。
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中にはメムリンクの作品だけでなく、ルネサンス時代にこのフランドル地方で作られた彫刻や絵画が並んでいて素晴らしい。
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だがやはり、単独で展示されていて多くの人々がその前に佇んでいるのは、メムリンクの「聖女カタリナの神秘の結婚」である。これはこの聖ヨハネ施療院の附属教会に飾られていた三連式の祭壇画である。もちろんこの施療院の依頼によって制作され、1479年に完成している。つまりは、制作されてから 550年近くの間、ここに存在している素晴らしい絵画作品なのである。聖カタリナは 4世紀初頭に殉教した聖女。ローマ皇帝の求愛を拒んだために車にくくりつけられて転がされるという拷問を受けたが、奇跡によって車輪は大破し、最後は斬首によって処刑されたという。見事な細密描写には舌を巻く。
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またここには、やはりメムリンクの手になる「聖女ウルスラの聖遺物箱」(1489年作) もあって、これもまた、大変な見ものである。ガラスが反射して残念であるが、これは、やはり殉教者である聖ウルスラの聖遺物を収める箱で、絵画・工芸のみならず、もはや建築でもあると言ってもよい逸品だ。
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また、この美術館では同時に現代アートも展示されていて、それも新鮮で面白い。
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メムリンク美術館のすぐ向かいには聖母教会がある。13 - 15世紀の建立。
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確かに古いが、一見何の変哲もない教会に見える。だがここには素晴らしい彫刻作品が安置されているのである。入り口近くにあるこの祭壇に、ガラスケースに入っているところを見ることができる。
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そう、ミケランジェロの「聖母子像」(1501 - 04年作)。そもそもミケランジェロの彫刻をイタリア以外で見ることは、ほとんどできない (ルーヴルに「瀕死の奴隷」という作品があるが、未完成である)。だがこの聖母子像は、ブリュージュの商人が 1506年に購入したもの。制作直後からここにおられるわけである。ミケランジェロ弱冠 29歳のときに完成しており、あのヴァチカンにある有名な「ピエタ」のあとに制作したもの。「ピエタ」ほど劇的ではなく、動きの少ない作品ではあるが、こうしてクローズアップで写真を撮ったり、まじまじと見つめていると、なんとも言えない静謐な空気が、心を引き締めさせるとともに、穏やかな気分にさせてくれるのである。やはり若き日の天才のみが創り得た、超絶的な逸品というべきだろう。
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私がこの聖母子像をどうしても見たいと思ったには理由がある。それは、このブログでも 2015年11月25日付の記事で採り上げたジョージ・クルーニーの映画「ミケランジェロ・プロジェクト」(原題 : The Monument Men) である。その映画の中で、この聖母子像をナチの魔手から守ろうとして命を落とす男が描かれているが、実話に基づく映画であるから、本当にそういうことがあったのであろう。このあと訪れたゲントのファン・アイク兄弟の手になる「ゲントの祭壇画」もそうであるが、ナチという災厄がヨーロッパを覆った困難な時代を経て一級の美術品が現代に伝えられたことに、我々は感謝しなくてはならない。この旅行のあと、「ナチ略奪美術品を救え」という、モニュメントメンに関する 500ページの大部なノン・フィクションを購入したが、未だ指一本触れられていない (笑)。心してよむ時間を設けねば。
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さてこの聖母教会、見どころはこの彫刻だけではない。ブルゴーニュ公国シャルル突進王 (1433 - 1477) とその娘マリー (1457 - 1482) の柩である。父は情熱と使命感で突っ走る王であり、フランス王との戦いの中で命を落とすが、その無私の突進ぶりが後世の人たちから慕われているようで、ホイジンガの「中世の秋」にも何度も名前が登場するという。娘はハプスブルクのマクシミリアン 1世に嫁ぎ、領民から慕われたが、落馬が原因で 25歳の若さで世を去った。
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これらの柩の足元の床は、ガラス貼りになっていて地下が見えるが、これは相当古いものだ。天使のような壁画も描かれているが、柩であろうか。この教会の起源は 9世紀に遡るというから、その頃のものかもしれない。
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聖母教会を出て、次なる目的地、グルーニング美術館に向かう途中で、元気なビーグル犬と遭遇。洋の東西を問わず、この犬種は全く!! でも、やんちゃなところが可愛いね。橋から見える風景はブリュージュならではの風情あるもの。
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そして見えてきたのがグルーニング美術館。ここには初期フランドル絵画から近現代までのベルギー絵画を鑑賞することができて、見ごたえ充分だ。
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最初の方の展示は、街の歴史に関連するもの。ブリュージュが都市として発展を始めた頃の地図や、人物画の背景に描かれた、当時から物資の運搬に使われていたクレーンが興味深い。
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これは地元の画家ペーター・プルビュスの「最後の審判」(1551年作)。ホラー映画ばりの描写が私好みである (笑)。
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これは恐るべき細密画の逸品で、誰もがその場に足を停めてじっくり見ることになるであろう、ヤン・ファン・エイクの「ファン・デル・パーレの聖母子」(1436年作)。フランドル絵画においては、このような細密描写は突然現れたらしい。単に細密なだけでなく、聖母子の威厳や、作品に名を残している寄進者であるファン・デル・パーレ (向かって右側に膝まづいている白い衣の人物) の人間的な表情といい、実に驚くべき傑作だ。実は、そのファン・デル・パーレの右側にいる聖ゲオルギウスの左腕の盾に、画家とおぼしき赤いターバンをかぶった人物像の反射が描かれているという。肉眼でもよく分からなかったので撮影していないが、ご興味のある方は、ネットで検索して頂くと、情報が出てきますよ。
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ヒエロニムス・ボスの「最後の審判」(1510年頃作)。ボスの真作を見るだけでも貴重な機会なのに、ガラスもなしに対面でき、写真まで撮影できる寛大さには、感謝である。ほらほら、ボスしていますよ!!
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これも非常に珍しい作品で、地元の画家ヘラルト・ダフィットによる「カンビュセスの裁判」(1498年作)。これはブリュージュ市庁舎の参事会に設置するために制作されたもの。ヘロドトスの「歴史」にある逸話で、ペルシャ王カンビュセス 2世の時代に腐敗した裁判官が処刑されるところを描いている。参事会において正しい裁きが行われるような戒めが込められているそうだが、それにしてもこの皮剥ぎの刑は、痛そうではないか。農耕民族である我々日本人には、なかなか理解できない感覚だ。
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さて、数々のベルギー絵画を堪能して外に出ると、既に日が陰っていた。でもこの空の色と、シルエットで浮かび上がった建物は、まるでマグリットのシュールな絵画のようではないか。ここベルギーの地を訪れて初めて、画家の持ち味は、彼または彼女が普段見ている光景から無意識のうちに影響を受けるのだなぁと実感した次第。
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夜になって食事に出かけた際、街でいちばん賑やかなマルクト広場をブラブラ歩いて、レストランを探した。13 - 15世紀に建てられた高さ 83mの鐘楼が美しい。
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さて、ここブリュージュではまだまだ見ていないところがある。翌日の探訪については次の記事で。

by yokohama7474 | 2018-01-01 17:25 | 美術・旅行 | Comments(2)  

フランス モン・サン=ミシェル

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皆様、あけましておめでとうございます。昨年の大みそか、あ、つまりはまだ昨日のことですが (笑)、川沿いのラプソディ新春特別企画として、ちょっとまとまった記事を一挙公開すると書きました。お約束通り、これから、この記事を含めて 6つの記事をアップすることとします。これは昨年 10月末から 11月にかけて、家族とともにヨーロッパを旅行した、その様子をレポートするもの。既に 2ヶ月が経過してしまったものの、文化芸術の観点から見て大変に充実した旅であり、同じ場所を既に訪れた方々にとっては思い出を反芻して頂けるだろうし、また、これから訪れる方々にもなんらかの参考になる可能性もあろうと思い、現地で撮影した写真を中心にご紹介することとする。

さて、フランス北西部、ノルマンディー地方にある修道院、モン・サン=ミシェルはもちろん世界遺産であり、日本人にもとびきり人気の観光地である。私も家人とともに一度、2009年に訪れてはいるものの、その時は未だ、島の周りに堆積した土砂を取り除く作業の途中であった。なので今回は、その作業が終わってから初めての訪問ということになり、大変に楽しみであった。本当は島の対岸あたりに宿を取って、ライトアップされた修道院を見てみたいと思ったが、その後の予定との関係でそれが果たせず、パリのシャルル・ドゴール空港の近くに宿泊し、そこから車をチャーターして日帰り往復することとした。パリとモン・サン=ミシェルの間は多分 300kmくらいあるはずだから、喩えて言うと、東京と名古屋の間を車で往復したようなもの。時間はそれなりに要したが、異国の旅は、車窓の風景を眺めているだけでも飽きないものだ (あ、それは行きだけで、帰りは寝ているので、飽きないもなにもないわけだが。笑)。2017年10月28日 (土) の早朝に出発。
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途中で一度休憩したが、天気もよく、サービスエリアにいる人たちも皆、楽しそうだ。リンゴの木が何本か立っていて、実がなっている。そういえば、日本人画家である田窪恭司がリンゴの絵を壁画として描いた小さな礼拝堂も、確かノルマンディーだったはず。
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流れ行く車窓の風景を見ていること数時間、あっ、遠くに霞んで見えてきた、モン・サン=ミシェル。
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以前訪れたときは TGV でレンヌまで行ってそこからバスに乗ったが、目的地に到着するときに誰しもが感動するのは、島の岩山の上に建っている修道院の美しい姿は、周りに全く何もない土地であるがゆえに、遠くからでも見えることである。きっと徒歩で現地に向かう巡礼の人たちも (今でもおられるようだが)、修道院の姿が見えては、道が曲がると隠れ、そして次に現れたときには近づいていることを発見して、心躍ったものであろう。そう、車の中からでも段々その姿が鮮明になってきた。
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以前はかなり近くまで車が入れたと記憶するが、今は駐車場はかなり手前にあって、すべての人は、そこから電気で動くバスに乗って修道院に向かう。環境保全のためにはやむを得ないことであろう。そして、バスの中からでも、どんどん近づく修道院に、あちこちから歓声が上がる。
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バスを降り、修道院の前に立つ。ここは、ちょうど江の島にあるような、海の上を通って島に続く橋なのであるが、振り返るとそれはそれで、何か神秘的な道に見えてくる。
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さあそして、振り返ろう。ガイドの方によると、この地方は天気の悪い日も多いらしく、これだけ気持ちよく青い空が広がることはそうは多くないとのこと。うーん、日ごろの心がけがよいせいだと、いつもながらの根拠のない楽天主義でこの場に立てる幸せ (笑)。
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近くに寄ってみると、本当に岩山の上に建っていることが分かる。最初にアーチ型の門を通り、中世そのままの石畳の坂道をエッチラオッチラ登って行くことになる。
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門を入ってすぐのところに、必ずガイドブックに掲載されている有名なオムレツ屋さんがある。前回はそこでランチを取ったが、フワフワオムレツはなかなか繊細でよいのだが、そのシンプルさの割には値段が張るので、今回はパス。但し、近くにあるレストランで、やはりオムレツを食べてしまいました (笑)。
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土曜日だったのでかなりの賑わいで、細い道はすれ違うだけでも大変だ。だが、左右の建物の中世そのままの様子は、いくら見ていても飽きることがないし、そもそも今っていつだっけ? とすら思えてくる。
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そして見えてきた修道院への石段。日本のお寺でもこういうところがあるが、聖なる土地に辿り着く前の試練のような坂道だ。今思い出してみると、特にその坂がきつかったという感覚はない。やはり、憧れの地を訪れる高揚感によるものだったのか。
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いよいよ修道院に辿り着き、料金を払って敷地内に入るが、そこでもまだ石段が延々と続いている。岩山の岩が剥き出しになっている箇所もあり、なかなかに峻厳である。
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下からも見上げた頭頂部の聖ミカエルの黄金の像が、少しは近くに見える。空には少し雲がかかってきたが、今度はそれを、普段の行いが悪いせいだとは考えず、まあ天候は変わるものだからね、などとまたしても楽観的な思いを抱きながら振り返ると、あっ、緑の上に一か所だけ雲の切れ目があって、そこだけ日が差しているではないか。このような風景を見ると、異教徒、というよりも無神論者の私も、自然と敬虔な気持ちになるのである。
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ここでモン・サン=ミシェルの歴史について簡単におさらいしておこう。その名称は、「モン」は「山」、「サン=ミシェル」は「大天使聖ミカエル」のこと。上の写真で見た黄金の聖ミカエルは、邪悪なものに対して剣をふるっているのである。もともとこの場所では、6世紀からキリスト教徒が隠遁生活を送っていた。8世紀初頭、アヴランシュという街の司教であったオベールという人の夢に聖ミカエルが現れ、この地の岩の上に教会を建てるよう命令した。ところがそのオベールはそのお告げを疑ったため、ついに聖ミカエルは指で彼の頭蓋骨に穴を開けたという (ちなみに、その穴の開いた頭蓋骨は今でもアヴランシュのサンジェルヴェ教会というところに現存するらしい)。こうしてこの地は大いに人々の信仰を集めたが、9世紀後半にはヴァイキングの侵入によって混乱がもたさられる。その後ノルマンディー公国の領地となると、教会堂は新たな繁栄を迎え、ベネディクト派修道会士が派遣されてきた。修道院の建築は 11-12世紀にロマネスク様式で始められ、その後曲折あったが、15世紀半ばには内陣が再建された。16世紀以降は宗教戦争のあおりを受けることとなり、そして 18世紀末のフランス革命の頃には、修道院としての機能を失ってしまう。ナポレオン時代には完全に刑務所として使われるようになったが、1836年に歴史遺産調査委員会のメンバーとしてこの地を訪問したヴィクトル・ユーゴーがその高い価値を認め、悲惨な状況からの解放を訴えた。その後 1863年にナポレオン 3世によって刑務所を廃止、その後歴史的価値の回復のために復興がなされたという。世界のどの場所の貴重な文化遺産も、全く平穏無事に守られてきたというわけではなく、そのほとんどが何度も危機に見舞われながら、心ある人たちによって守られ、復旧されてきたということを忘れてはならない。修道院の中には模型が 4つ並んでいる。順に、10世紀、11-12世紀、17-18世紀、20世紀である。岩山の上に徐々に建物が増えて行ったことがよく分かる。
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さて、このように建て増しと修復で複雑な構造になっているが、聖堂に入る前にはこのような露天の広場があり、現代彫刻が置いてある。これはフランスの女流彫刻家ジェルメーヌ・リシエ (Germaine Richier、1904 - 59) の作品。
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3kmほど離れたトンブレーヌ島も見える。現在では立ち入り禁止だが、12世紀にはここにも修道院が建てられたらしい。
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さて、聖堂内に入ると、このような見事な木製の天井が印象的だ。私はいつも、パリのシャルル・ド・ゴール空港のターミナル 2 にも同じような木を湾曲して嵌め込んである場所があることが気になっている。この建築から想を得たものだろうか。なお、聖堂の身廊部は 11-12世紀の古いもの。外光が神々しい。
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内陣にはルネサンス時代の浮彫がある。「地獄の辺境へ降りるキリスト」と「楽園を追われたアダムとイヴ」。イタリアのルネサンスほどの洗練はないが、それが返って、現在にまで生き延びた彫刻作品の尊さを思わせる。
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回廊は 13世紀のものだが、中庭は現在修復中。この回廊の意匠はイスラム風を思わせる。
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やはり 13世紀に建造された食堂も、非常に美しい。ここにも天井には木が張り詰められているが、面白いのはこの窓で、横を通るとさっと光が差すが、通り過ぎるとその部分の光が遮断され、次の窓の光が差すようになっている。つまり、移動につれて窓が次々と開いては閉じて行くような感覚にとらえられるのである。
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こんなレリーフの前を通ることとなるが、これはもちろん、オベールの頭蓋骨に穴を開ける聖ミカエル。いたたたた。ミカエルの顔が傷んでいるのが残念だ。
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その後もいくつかの部屋を通るが、これは貴賓室。巡礼者を迎え入れる部屋であり、壁に設置された暖炉では料理が作られて巡礼者たちに提供されたという。今でも火のあとが残っているのがリアルである。ここにもジェルメーヌ・リシエの彫刻が数点置いてある。
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この修道院には、かつて牢獄として使われたという過去があることは上に述べた通りだが、いかにもそのような雰囲気の場所がある。ここはもともと修道士たちの墓所であったところだが、1820年にこのような巨大な滑車が設置された。囚人がこの滑車を使って自分たちの食糧をここから引き上げていたという、苦役の場所である。もし引き上げるのに失敗すれば、自分たちが食事できなくなるわけで、それはそれは恐ろしい苦役であったわけだ。引き上げに使われたレールと鎖が、今でも壁面に残っている。
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これは聖ステファノ礼拝堂に残る 14世紀の壁画。この礼拝堂は死者のための礼拝堂であり、臨終の修道士がここに横たえられたという。壁画は、3人の死者が 3人の生きている若者に対して、死の準備をしておけと語る場面であるそうだ。
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その礼拝堂の横にあるこの石段も、いかにも古い。11世紀のものだそうである。聖と俗、生と死を結ぶ場所であるようにも思われる。
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ロマネスク様式の古い教会などを経て辿り着くのは、この騎士の間である。上で見た貴賓室同様、天井が高くてちょっとほっとするが、こちらはさらに力強い作りである。騎士の間の名称は、聖ミカエル騎士団に因むものであるが、実はその団体はここで会合を開いたことは一度もなく、この場所は修道士の仕事場 (写本作りなど) であったようだ。
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こうして、複雑な歴史がその建物に沁みついているような修道院の見学を終えた。祈りの場であり要塞であり牢獄であったこのモン・サン=ミシェル、訪れる人たちに様々な霊感を与える場所であり、また還ってきたくなる場所である。建物の外に出て階段を下りていると、カモメが一羽、塀の上に佇んでいた。まるでどこか別の世界からやってきたような不思議な雰囲気で、私が何枚も写真を撮る間、じっとしていた。もしかしたら、私の祖父が生まれ変わって様子を見に来たのだろうか、と思うくらい。ちょっと遠いか (笑)。こちらが階段を下りて角度が変わると段々シルエットになって行ったあたりも、なんとも神秘的であった。
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それから私の前にはさらに驚愕の光景が。ちょうど日が傾き始めようかという時刻で、水の引いた砂地の上に、修道院の影が差している。そしてちょうど、大天使ミカエル像の影のあたりを歩く一団がいる。もちろん、それを狙ってこの時刻にここを歩いていたわけではなく、偶然なのだと思うが、この人たちにはきっと大天使のご加護があることだろう。
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遠くに目を凝らすと、雲の切れ間から光が地上に降り注いでいる。昔の人たちも、このような景色を見て、神のご加護を信じたことだろう。
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帰り際、名残惜しくてもう一度振り返ってみる。来たときとは光の具合が違っているが、この地球上では時々刻々、太陽の光や風や、水の動きなどが様々に景色を変えているのだと実感されて感慨深い。そしてよく見ると壁面には、先刻上から見た、囚人の食糧引き上げのためのレールが見える。神の所業ならぬ人間の営みも、この場所にはしっかりとその痕跡を残していて、そうであるからこそ興味尽きない場所なのである。
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パリに帰着したのはかなり遅くなってしまったが、また翌日からの旅程に備えて、神のご加護でぐっすり眠ることができたのである。

by yokohama7474 | 2018-01-01 17:24 | 美術・旅行 | Comments(0)  

安藤忠雄展 挑戦 国立新美術館

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以前も少し触れたが、私が現在宿題として抱えている、つまりはこれから書こうとしている、美術に関する記事はすべて、既に期間が終了してしまったものばかり。私の周りでも、このブログによって面白そうな展覧会を知ったという声が時々あるので、そういう方々を失望させないためにも、開催期間中に記事にする責務が少しはあるのであろうが、それを果たせていないことには内心忸怩たるものがある。2017年も暮れていくわけで、また来年の目標を考えるべき時期に来ているのであるが、さしずめ私の場合は、来年は極力開催期間中に美術展の記事を書くというものになろう。

そんなわけで、六本木の国立新美術館で開かれた、日本を代表する建築家、安藤忠雄 (1941年生まれ) の展覧会である。安藤の名前は一般的にも広く知られているであろうし、東京オリンピックの新国立競技場のコンペに関する騒動でその名を知った人もおられよう。私はその件については詳しく了解しておらず、またあまり知りたいとも思わないので、ここでは純粋に安藤の建築についての私の思いと、この展覧会の感想を徒然に語ることとしよう。
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私は建築に関して大変詳しいというわけではないし、専門知識は皆無であるが、若い頃から建築への興味はある。そして安藤は、既に私の学生時代、今を去ること 30年ほど前から著名な建築家であったので、当時から彼の展覧会や、書物に掲載された彼の設計作品の数々を見て、その活動を強い興味を持って注目して来た。強い大阪弁のアクセントと、建築という超専門的な分野を手掛けながら、独学でそれを学び、若き日にはプロボクサーですらあったという異色の経歴にも、ほかの建築家にない明確な個性を感じたものである。初期の代表作である住吉の長屋とか、六甲の集合住宅の写真を見て、「このコンクリート打ちっぱなしは大変洗練されているけど、家の中の移動で雨に濡れるとか、崖にへばりついたマンションを階段で昇って行くとか、住んでいる人は不便だろうなぁ」と思っていた。その思いは今でも残っているのだが、それにしても今回資料が展示されている夥しい数の彼の設計作品を見て、個人建築から公共建築、大規模な集合住宅や宗教施設や美術館、果ては都市開発まで、その広範かつ貪欲な仕事ぶりの凄まじさに圧倒される。つまりは、彼の設計には日常的に不便があるだろうというのは私の余計な誤解か、あるいは、実際に不便があっても、それを超える何らかの高い価値を依頼主たちが感じているから、これだけの実績を残しているのであろう。若い頃、私の知り合いにも東京大学建築学科の学生が何人かいて、彼らは皆、安藤への尊敬を口にしていたものだが、安藤は権威ある官学とは全く遠い存在で、大学には行かず独学で世界的地位に上り詰めた人。そんな安藤が、現在ではその東京大学の特別栄誉教授という役職にあることは、何やら痛快なことであると言えるだろう。今回の展覧会では、彼のオフィスの一部が再現されていて、その天井まで届く夥しい数の書物に圧倒されるが、これが図録に掲載されているオフィスの安藤の若い頃の写真。
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安藤の実質的なデビュー作と言われる「住吉の長屋」 (1975 - 76年) は、わずか 20坪の土地に建つ長屋のうちの 1軒をコンクリートハウスに建て替えたもの。これはほかから借用してきた写真だが、向かって左側は、昔の写真では木造の長屋だが、今ではマンションになっているようだ。上で書いた通り、家の中の一部に天井がなく、部屋の間を移動するときには外気にさらされる。無機的なコンクリートの中で、常に季節感や時間の感覚を持つことになるこの逆説。
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これが「六甲の集合住宅」。第 I 期が 1978 - 83年。第 II 期が 1985 - 93年。第 III 期が 1992 - 99年。60度の傾斜を持った神戸・六甲山の斜面に作られている。この規模は壮大なもので、阪神淡路大震災を挟んで設計されていることを含め、将来的には安藤を語るには必須の建築になるのではないだろうか。
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さて、ここから彼の作品を延々紹介して行くつもりは私にはなく、ほんの幾つか、私がこの展覧会で初めて知ったものを含めて、安藤の個性が明確に出ているものをピックアップする。これは彼の米国での最初の仕事、1992 - 97年の「シカゴの住宅」。まるで美術館のようで、生活感を感じさせないが、こんなところに住んでいる人の文化度の高さはいかばかりか。雨が降るとこの場所にはピシャピシャ雨音が響いて、晴天のときとは全く違う雰囲気となるだろう。
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これは 2013年から現在でも進行中のプロジェクト、「マンハッタンのペントハウス III」。その名の通り、マンハッタンにある 1920年代築の古い高層ビルの屋上に、住居とペントハウスからなるゲストハウスを作ろうというもの。鉄・ガラス・コンクリートという現代の無機物が、古いビルに突き刺さるこの刺激。
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これも米国での仕事で、2001年から 2014年までを要した、クラーク美術館というところの「クラーク・センター」である。1955年に建てられた美術館本館 (写真右側) に、風景と一体化する平べったい新館を建て、展示室のほとんどは地下空間に展開して、新旧両館の間には水がたたえられている。このクラーク美術館はマサチューセッツ州のウィリアムズタウンというところにあり、私もかつて、ニューヨークから車で訪れてその素晴らしい近代絵画のコレクションを鑑賞したことがあるが、建物は古くて薄暗い印象であった。このようなモダンな建物ができたと聞くと、是非また行ってみたいものだと思う。
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ここからまたいくつか、日本の作品に戻りたい。これは北海道の勇払 (ゆふつ) というところにある「水の教会」(1985 - 88年)。あとでご紹介する「光の教会」、それから「風の教会」とともに、安藤が 1980年代に手掛けた一連の教会のひとつである。広大な北海道で、このような瞑想的な場所を訪れ、ブログを忘れてゆっくりしてみたい (笑)。
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次も、安藤が追求し続けているテーマである水と人の共生を感じさせる「本福寺水御堂」(1989 - 91年)。これをただの水たまりと思ってはいけない (笑)。淡路島の北東部にある小高い丘の上に建つ寺院建築で、この蓮池の下がお堂になっていて、そこに本尊がおわします。つまり、人は真ん中の通路を通って水に囲まれた場所に入り (コンクリートで隔てられているので、水は見えないわけだが)、そこで仏と対面するわけである。安藤らしい大胆な発想ではないか。一度訪れてみたいと以前から思っているのである。
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寺院で言うと、最近も面白い作品がある。札幌にある「真駒内滝野霊園 頭大仏」(2012 - 15年)。ラベンダーが咲く丘の上に巨大仏の頭部が!! 実はこれ、15年前からこの地に存在する石の大仏を覆うように、人工の丘が作られたもの。これも行ってみたいなぁ。
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美術館や公共建築を見てみよう。この異常な数の本によってできたそそり立つ壁はなんだろう。そう、これは大阪の東大阪市にある司馬遼太郎記念館 (1998 - 2001年)。稀代の歴史作家の蔵書 2万冊からなる、いわば「知の壁」である。ここも以前から行ってみたいと思いながら未だに果たせない場所だが、とにかく個人の蔵書としてはスケールが桁違いである。そのスケールを目で見て肌で実感することで、訪問者の誰もが圧倒されることだろう。
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次は大阪、天保山のサントリー・ミュージアム (1989 - 1994年)。ここは、近くの水族館である海遊館と併せて、現地を訪れたことがある。ただ、恥ずかしながら知らなかったのだが、サントリーはとっくにこの美術館の経営権を手放しており、今は大阪市が運営する「大阪文化館・天保山」という名前であるらしい。
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東京の公共建築を 2つ。ひとつは表参道ヒルズ (1996 - 2006年)。以前の同潤会青山アパートの跡地なのである。そういえば、この建物の前は何度も通りかかっているが、中を歩いたことはないなぁ。
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そしてこちらは、普段の生活で何度も何度も利用している、東急東横線渋谷駅 (2005 - 2008年) である。この写真は模型であるが、以前と違って地下深くに降りて行かなくてはならないので、電車に乗るときにはちょっと焦ってしまうのだが、この卵型のドームが、その焦った気持ちをわずかながら癒してくれる。まぁ、本当にわずかですけどね (笑)。なんだか安藤忠雄の真似っこみたいだなぁと思っていたら、ご本人の作品でしたか。不勉強で恥ずかしいことである。
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展覧会の会場には、安藤が手掛けた作品の写真や模型、設計図などが、所せましと沢山展示されていたが、写真撮影は禁止。だが、2ヶ所では撮影が許されていた。まずひとつは、瀬戸内海に浮かぶ小島、香川県の直島の一連のプロジェクト (1988 - 2004年) についての大規模な展示。瀬戸内海の映像が多面スクリーンに投影され、その前に島の大きな模型が置かれていて、建物の模型がある。人の身長と比べてみると、模型のサイズもお分かり頂けよう。
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それから、撮影が許されたもうひとつの場所は、大阪府茨木市にある「光の教会」(1987 - 89年) を実物大で再現した構造物である。この教会は、打ちっぱなしコンクリートの壁面に十字形のスリットが入っていて、外からの光が、非常に美しく十字架の形を壁面に描き出すというもの。私が訪れたのはちょうど日が暮れてすぐの時間帯であり、内部は既に暗い一方で、外からのライトが実に効果的であり、誰しもが敬虔な思いを抱く雰囲気であった。またこの建物はただ長方形なのではなく、斜めに突き刺さるような壁があって、十字形スリットのある面の横にもうひとつ空間ができており、そこからも光が入るようになっている。非対称の美学である。
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この展示、本物のコンクリートを使っていて、あたかも現地の建築のそのままの再現であるかのようだが、コンクリートをコンコンと叩いてみると、どうやら中はがらんどう。つまりは、中身のないコンクリートの箱を積み重ねて造形してあるようなものだろうか。当然、建築としての強度はないだろうが、ある種のインスタレーションのようなものとして、大変にうまく考えられている。これが、外から見た十字形の壁面。薄暗い中、外からライトが当てられていたことがよくお分かり頂けよう。
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この光の教会も現地を訪れたことはなく、一度行ってみたいなぁと以前から思っているのであるが、今調べてみると、事前予約制になっていて、今受け付けている 2月までの枠 (指定された土曜または日曜) は、既にすべて一杯である。観光施設ではなく、実際に使われている信仰の場所であるから、公開が限定的であるのはやむを得ない。この教会のある茨木市は、かつてキリシタン大名高山右近が治めていた地。今でも敬虔な信仰の伝統が息づいているのであろうか。日本のキリシタン信仰にも深い興味を抱く私としては、ますますいつか訪れるべき場所であると思われるのである。だが、まずはこの光の教会、今回疑似体験できたことは何より有難いことであった。

ショップで売られていた図録には、なんというサービス精神であろう、1冊 1冊に安藤自筆のサイン入り。彼の代表的な作品の簡単なイラストも添えられている。私が購入したのは、直島を描いた、以下のようなもの。以前、大阪の中之島の記事 (2017年 8月 5日付) に、1989年に購入した建築雑誌に書かれた安藤のサインの写真を掲載し、それは光の教会であったが、今回の直島のイラストは、カラフルでなかなかよい。
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そんなわけでこの展覧会、安藤忠雄の底知れぬパワーと情熱を改めて思い知る貴重な機会となった。展覧会のサブタイトルにある通り、まさに挑戦に継ぐ挑戦で膨大な作品を世に問うてきた。既に 76歳で、何度も病魔に侵されながらも、不屈の精神力でこれだけの精力的な活動を続けてきたことは、まさに驚異である。これからも我々を驚かせるような作品を作り続けて行って欲しいものである。

by yokohama7474 | 2017-12-25 22:56 | 美術・旅行 | Comments(0)  

シルクロード特別企画展 素心伝心 クローン文化財 失われた刻の再生 東京藝術大学大学美術館

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我々の国が存在する地域は、極東と呼ばれるように、大陸の東の端にある。以前はこの呼び方がヨーロッパ中心という発想によるものという気がしてあまり好きではなかったが、近年は私の意識も変わってきた。実際に日本は東の果てであって、その東側には広大な太平洋が広がっているわけで、古来 (まあ、第二次大戦後まではと言ってしまいましょうか) 太平洋側から文明が伝播することはほとんどなかったわけである。つまりこれは何を意味するかというと、広大なユーラシア大陸の東の端にある島国は、西から伝播した文明の終着駅であったということ。以前何かの本で読んだのだが、この国にどこかから (西の方か北の方か南の方か、いずれの方角からでも) 移って来た人たちは、かなり根性のある人たちであったろうが、そのような根性のある人たちでも、さすがにここから先、果てしない太平洋を東に向かって船で乗り出すということはできなかったろうという評価も成り立つ (笑)。それにしても、アジアの文化とヨーロッパの文化は遠く隔たった異なるものと思いがちだが、この両地域は同じ大陸に属していて、古来から人とモノの交流が盛んであったわけで、実はそのルーツには共通するものがある。例えばキリスト教にしても、既に唐の時代の中国に景教なるもの (ネストリウス派) が伝来していたわけで、唐から社会システムをすべて学んだ日本に、その余波が全く到来しなかったと考える方が、むしろ不自然ではないか。よく日本人の祖先がユダヤ人であるという、いわゆる日ユ同祖論という異色の言説が面白おかしく取り上げられ、私もその手の本を沢山読んできた。もちろん、それ自体は荒唐無稽な考えであるにせよ、人がそういったことに興味を抱くには理由があって、それはまさに、アジアとヨーロッパは同じ大陸に属しているという事実が根底にあるのだと私は考えている。

さてこの展覧会は、そのような問題意識を持つ私にとっては大変に興味深いものであった。9月から 10月にかけてのわずか 1ヶ月ほどの展覧会であったが、上野の東京藝術大学構内にある美術館で、古代の東西の交通路であるシルクロードの遺産、その中には既に失われてしまったものもあるが、それらを藝大で復元・コピーした「クローン文化財」の展覧会である。タイトルの「素心伝心」は、もちろん以心伝心から来ているのだろうが、その意味は図録にも明記がなく、今一つ分かりづらいし、正直なところ、そんなものよりも単に「クローン文化財」とした方がインパクトがあったのではないかと思われるほどだが、タイトルの英訳は "SOSin DENSin" とあり、後半の意味は不明だが、前半では SOS、つまり危機にさらされている文化財を指しているのかと思われる。ここでクローンの対象となっている遺跡は以下の 7ヶ所だ。展示によっては効果音や音楽が流れていたり、あるいは香が焚かれたような匂いがしていたり、体感型の展覧会であったのである。
 法隆寺金堂壁画・釈迦三尊像 (日本)
 高句麗古墳群 江西大墓 (北朝鮮)
 敦煌莫高窟第 57窟 (中国) 
 キジル石窟航海者窟壁画 (中国・新疆ウイグル自治区)
 ペンジケント遺跡 発掘区 VI 広間 1 (タジキスタン)
 バーミャン東大仏 天井壁画 (アフガニスタン)
 バガン遺跡壁画 (ミャンマー)
 
最初の法隆寺の壁画は、よく知られている通り、戦後期の模写作業の際に夜間出火したために全焼してしまったものであるが、残された写真をもとにその後復元された。だが実際に法隆寺を訪れても、中は真っ暗で復元壁画を見ることはできない。その点この展覧会では、明るい中で素晴らしい壁画の数々を見ることができて興味深い。現地ではほとんどの場所で写真撮影 OK であった (奇妙なことに、シルクロードの写真家、並河萬里の作品は撮影禁止であった。写真の写真はダメだということ? 笑)、私は例によってスマホもロッカーに預けていたので、原則として図録からの撮影でご勘弁頂こう。
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実はこの法隆寺金堂壁画の復元は、同じ東京藝大の構内で以前も見たことがあったのだが、今回はそれに加えて、その本堂の本尊である釈迦三尊像のクローンも展示されている。この作品をよくご存じの方も、この像を前にして、クローンであることには気づくまい。
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今回展示されている数々のクローン文化財は、最新のデジタル技術と伝統的なアナログ技術の組み合わせによって作られたらしい。図録にはその方法が詳細に紹介されているが、実物を測量し、そこから得られた 3D データをもとにロウ型を作って、実際にブロンズを鋳造したとのことである。このクローン像で興味深いのは、法隆寺金堂では内陣に入れないために絶対に見ることのできない、光背部分 (後世のフェイクであるとも言われる造像の由来を記した銘を含め) を見ることができる点である。
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昨今何かと人騒がせな北朝鮮であるが、日本のキトラ古墳や高松塚古墳と共通点のある高句麗の古墳は、世界遺産に認定されている。ここで復元されている江西古墳の四神、つまり、玄武 (北)、青龍 (東)、朱雀 (南、2羽のうち 1羽)、白虎 (西) は、活き活きとした本当に素晴らしいもの。
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敦煌莫高窟は、未だ私が訪れたことのない、そしていつか必ず訪れなくてはならない場所のひとつ。今回復元された第 57窟はこんなところ。
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だが、現在この窟に残る仏像の姿や配置は後世のものであると考えられており、展覧会では独自に復元された造形となっている。このあたりは NHK の特集番組でも採り上げられていた。尚この写真だけは図録にないので、ほかから借用してきております。
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現在新疆ウイグル自治区に属するキジル石窟群もまた、憧れを掻き立てる場所である。ここには大変興味深い、航海と海の宝探しをテーマとした長い壁画が描かれている。いや、「いた」というべきか。つまりはその 2/3 程度は 20世紀初頭にドイツ探検隊によって切り取られ、そのうちの一部は戦時中のベルリンでの戦火によって失われてしまったからである。ここで描かれているのは釈迦の前世譚であるが、この大陸の中央で、海からは遥か遥か遠く離れた砂漠の土地に伝来した絵としては実に異色であり、 海のある地域からシルクロードを渡ってきた人たちは、海など見たこともない大多数の人々に対して、得意顔でこれらの絵の説明をしたものではないだろうか。海を描いていながら、どこか宇宙的な神秘の絵。
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次も中央アジアの遺品であるが、それはタジキスタンにあるペンジケント遺跡というところの壁画のクローンである。作ったのはイラン系のソグド人であると言われているらしい。何やら戦闘の場面のようであるが、描かれているテーマは不明であるという。見方によってはギリシャ風にも見えるし、中国風にも見える。これぞまさしく、アジアとヨーロッパを含むユーラシア大陸の古代の遺品であろう。
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アフガニスタンのバーミャンに存在した大小 2体の大仏こそ、この壮大なシルクロードにおける文字通り代表的な遺跡であった。私も子供の頃から、いつかは行ってみたいと夢見ていたが、2001年にタリバンによって粉々に破壊されてしまった。かたちあるものはいつかは滅びるとはいえ、21世紀に至ってこのような狂信的な行為によって破壊されてしまったことは人類史上の一大痛恨事である。日本は平山郁夫の呼びかけでこのバーミャンの保存に尽くしたが、その努力も水の泡と消えてしまった。だが今回藝大の復元プロジェクトによって甦ったのは、東側大仏の天井画である。これが在りし日の大仏と天井画。
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会場の一角の天井がこのように見る者に迫り、奥の壁にはバーミャンの風景の写真が嵌め込まれている。復元された天井画は太陽神。仏教遺跡にあって、ヨーロッパ的な佇まいの造形である。そして太陽神の上部、左右にいるのはほかならぬ風神と雷神である。まさに文明の十字路。狭量な原理主義の人たちには、古代の大らかな人間性を理解することができないのであろうか。残念なことではあるが、せめて我々は、このような機会に在りし日の貴重な文化遺産を思い出すことができることに感謝しなければならない。
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最後に掲げる写真は、ミャンマーのバガン遺跡の壁画のクローンだ。私は残念ながらミャンマーには行ったことがないのだが、このバガンには是非行ってみたい。カンボジアのアンコール・ワット、ジャワ島のボロブドゥールに並ぶ仏教 3大遺跡のひとつである。ただ、軍事政権が景観を損ねてしまったため、世界遺産には指定されていないようだ。もちろん、経済的、社会的に問題のある地域においてはどこも、文化遺産の保護にまで資金も意識も回らないという事情はあるのであろうが、残された先人の遺産がこのように楽しい踊りを踊っているのを見ると、やはりなんとしてもこのような遺産を守って行かなければならないという思いを強くするのである。
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展示規模はさほど大きくない展覧会であったが、その内容のユニークさと意義深さは、強く印象に残るものであった。このようなクローン文化財をせっかく制作したのであるから、どこかで恒常的に鑑賞できるようにしてもらうことはできないのであろうか。私としても、またこれらの疑似的な環境に身をおいて、広大なユーラシア大陸の悠久の歴史に思いを馳せてみたいのである。

by yokohama7474 | 2017-12-24 01:40 | 美術・旅行 | Comments(0)  

岡本神草の時代展 京都国立近代美術館

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今年も様々なジャンルの美術を堪能する 1年であったが、中でもこの展覧会は、ビビビと電流が流れるほど感動したものである。間違いなく今年の展覧会のベスト 3に入るものであろう。その展覧会とは、日本画家、岡本神草 (1894 - 1933) の回顧展である。
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こういう時代になると、全国の展覧会の情報はいくらでも手に入るのであるが、そうは言っても勤め人の身。東京とその近辺はともかく、地方で開催される展覧会まではなかなか注意が届かない。だが、よくしたもので、東京の美術館でも地方の展覧会のポスターやチラシを見ることができて、私がこの怪しい画家の展覧会が京都で開かれていることを知ったのは、東京の美術館であったのだ。これは多少無理してでも見に行かねば。そう思った。上記のチラシでも伺い知れるように、この画家がその 40年足らずの短い生涯の中でこの世界に残したものは、一度見たら忘れないほど強い情念の世界なのである。だが、実は私は、それまでこの画家を知らなかったわけでは決してない。それは、1999年に千葉市美術館で開かれた「甲斐庄楠音 (かいのしょう ただおと) と大正期の画家たち」という衝撃の展覧会を見ていたからだ。以前もこのブログで触れたことがあると記憶する。
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20世紀のどん詰まりに開かれたこの展覧会は、まさに日本美術の知られざる一面に初めて光を当てたものではなかったか。その後、日経新聞の日曜版で大正期の日本画壇が特集されたり、また最近では、東京美術から「あやしい美人画」という、まさにあやしい本も出ているのである。
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今久しぶりに「甲斐庄楠音と大正期の画家たち」展の図録を手元に持ってきてみると、今回の岡本神草展に展示されていた作品も多く掲載されている。つまり、この岡本神草展は、モダニズムの時代に日本に咲いたあだ花である特異な美人画について、もう一度私の濁った頭をクリアにするような展覧会であり、自分の中に本能的に残っている過去の衝撃の残滓にもう一度向かい合い、自分自身の文化生活や、時代による世界の動向にまで思いを馳せる機会になったのだ。京都まで弾丸往復をするだけの価値のある展覧会であり、既に期間は終了しているとはいえ、この文化ブログでご紹介することには大きな意義があると思う次第である。

さて、岡本は神戸に生まれ、京都で絵を学んだ人。展覧会は、彼が早い頃から持ち合わせていた素晴らしい技巧を実感させる作品群に始まる。これは 1911年頃、つまりは画家が 17歳の頃に描いた「手毬と追羽根」。何枚かの紙を貼り合わせてあるようだが、対象を冷静に観察して画面上に再構成する技術の高さには脱帽する。
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これも同じ頃の「菊」の一部。ここに後年の怪しい女性像の萌芽を見るというと、ちょっと言い過ぎかもしれないが (笑)、でもこの菊、ただの植物ではなく、今にも何か語り出しそうではないか。
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これもその頃の修業時代の作品、「虫籠と花」。うーん。空の虫籠と切り取られた花を、別々ではなく同じ画面に入れることで、何やらただならぬ気配が生まれ、見る者の気持ちにさざ波を立てるのである。
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そう思うと、筆による数々の写生の中には、この画家の優しい視線を感じられるものもある。例えばこの 1914年の「お貞子ちゃん写生」。もちろん貞子ちゃんとはホラー映画の主人公ではなく (笑)、このワンちゃんの名前であろう。私が特に面白いと思うのは、左右に小さく書かれた、立ったり座ったりのポーズである。犬を飼ったことのある人なら、「あるある」と言いたくなるリアリティである。天才画家の筆のすさびであろう。
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この頃は未だ美人画を手掛けてはおらず、日本画の技法を追求しているようである。この作品は、1915 - 17年の「牡丹」。雨に煙る風景であろうか。何やら怪しい情緒はここにもあって、この牡丹の佇まいは、一度見たら忘れないようなもの。特に花の下の葉が黒々としていることなど、誰も制御できない花の生命力を感じさせる。
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だが、岡本の作品が面白いのは、このモダニズム華やかなりし大正時代のモボ・モガの姿を洒脱に描いている点にもある。この 2点は、1915年の「海十題」から。モガの連れている犬はやんちゃ盛りと見えて微笑ましく、また、木枯し紋次郎 (古いなぁ 笑) のような男が通り過ぎる海辺の街も、過去を懐かしむ風景というより、海の青さそのものが印象的なのだ。
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これも同じ頃の「アダムとイヴ」。図録から撮影しているので、間に縦線が入っているが、もちろんオリジナルにはその線はない。これもモダニズムの作品であり、ゴーギャンの切実さとは似て非なるものがある。
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大正モダニズムについては私も大変興味があり、よく弥生美術館などにも通ったものだが、ひとつの典型例はやはり、竹久夢二であろう。これも 1915年頃の作品「行灯の前の女」であるが、もちろん夢二とは持ち味の異なる部分もあるものの、大正という時代の雰囲気をよく感じさせる。
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さて、静物や犬や風景を経て、気がつくと我々は岡本の美人画に辿り着いていた。ここから先、我々は、岡本に残された 20年余りの時間に生み出された、唯一無二の作品群に遭遇する。これらはいずれも、1917年の「春雨のつまびき」という作品の習作である。ここで段階を経るごとに徐々に怪しさを増して行く、三味線をつまびく女性の姿は、当時弱冠 23歳という画家の年齢を思うと、背筋が寒くなるような、鬼気迫るもの。これぞ、岡本神草の個性の誕生である。
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そして遂に現れるのは、1918年の異形の作品、「口紅」である。これは現在の京都市立芸術大学の卒業制作で、現在でも同学が所蔵する。
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この作品は、数種類ある本展のチラシ / ポスターのひとつに使われていて、イメージは既に明確であったし、また私は、上記の「甲斐庄楠音と大正期の画家たち」展で一度対面しているはずだが、それでも私はこの絵の実物を前にして、しばし動けないような、深い感動を味わった。ちょっと顔のアップを見てみよう。これは幽霊画でもなければ貞子でもない。ここで行灯の光のもと、紅を差している舞妓は、そのプロフェッショナルな技をこれからどのように発揮しようとしているのか。無心に準備をするうちに、意識せずとも人間の内部から出て来たデーモンのかたちでなくてなんだろう。
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展覧会には、この作品に至るまでのスケッチや草稿が展示されていて、最初はマンガタッチで全身の姿から入り、そして姿勢と衣の流れに入って行ったことが分かるが、その顔はごく普通で、完成作のような情念渦巻くデモーニッシュな雰囲気には、まだまだ遠いものがある。実物で圧倒的であるのは、顔もさることながら、その着物の柄の手の込んだことであるが、それは実際に色をつける段になって、画家の脳裏に閃いたものであろうか。24歳にしてここまで達してしまうと、この先の人生はつらかったのではないかと思われるし、もしこの作品の真価を冷静に考えれば、重要文化財に指定されてもおかしくないと思うのである。
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この展覧会を見る限り、結局この「口紅」が岡本の画業の頂点であったように思われるが、ほかにも、彼が命を削って描いたと思われる作品がある。それは、冒頭に掲げたチラシに「覚悟の裁断」とある作品で、題名は「拳を打てる三人の舞妓」。まずはその草稿 (1919 - 21年) から見てみよう。
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これは文字通り三人の舞妓を描いたものであるが、画家の言葉によると、「満飾せる女性の美、その神秘さ、ある宗教的な感じ」を表現しようとしたものであるという。舞妓たちの指の表現で試行錯誤を重ね、1919年にはこのようなところにまで辿り着いたが、未完のままとなってしまう。確かにこれは、「口紅」を経た岡本の作品としては、少し大人しいように思われる。
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そして翌 1920年には、デモーニッシュな雰囲気が加えられ、ここまで仕上げることとなる。だが、展覧会に出すには全体にまで筆を入れる時間がなくなってしまい、中央の舞妓と左右の舞妓の顔の部分だけを切り取って出展したという。確かに中央の舞妓の両手の表情には鬼気迫るものがある。強い表現を求めて命がけの試行錯誤をする画家の壮絶な姿を伺い知ることができるのである。
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上記の通り、その後の岡本の創作は、つかみかけた何かを懸命に手繰り寄せようとする努力の連続ではなかったかと思う。これは 1922年の「仮面を持てる女」。左側に思い切って余白を取った構図であり、般若の面を持った女の表情はここでも怪しいが、ちょっとポスター風の平易さに堕しているように思われて残念だ。
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これは 1923年の「骨牌を持てる半裸女」。モデリングには洋画風のイメージもあり、岡本としては新機軸を目指したものかもしれないが、それほど胸がざわつく作品でもないと思う。
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一方で、昭和の世に入り、美人画を描く岡本の確かな腕は重宝されたことだろう。これは 1933年、つまり彼の死の年に描かれた「追羽根」。美しいが、デモーニッシュな雰囲気は払拭されている。
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このように、若くして逝った天才画家の苦悩を感じさせる展覧会であるが、展示されている夥しいスケッチブックを見ていると、若き日の彼の奔放な発想と確かな技術がまざまざと見て取れる。これらは 1913 - 14年のもの。彦根屏風風の禿あり、夢二風 (実際に「夢二」とあるので、もしかすると夢二作品の模写?) の可愛らしい童話あり、子供向けと思しき挿絵の練習あり、この画家が持っていた悪魔性と表裏一体のユーモアが感じられて興味深い。さらに命があったなら、と夢想しても詮無いこと。せめて今日我々が見ることのできる彼の作品群を堪能したい。
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さて、この展覧会には、岡本神草自身の作品以外に、周辺画家の作品もあれこれ展示されていて、興味は尽きない。中には、上で何度か言及した展覧会の主人公で、岡本のライヴァルでもあった同い年の甲斐庄楠音 (1894 - 1978) の作品もいくつかある。1999年の展覧会図録の表紙になっていた、あるいは岩井志麻子のデビュー作「ぼっけえ、きょうてえ」の表紙でもあった「横櫛」もよいが、私がここでご紹介したい甲斐庄の作品はこれだ。1915年の「露の乾ぬ間」。神社の本殿とおぼしき場所で、その細くて白いからだをくねらせて三味線を弾く盲目の若い女性。その表情が穏やかであるだけ、鬼気迫るものがあるのである。
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その他の画家の中から、特に 2人をご紹介したい。ひとりは、岡本神草の師匠である菊池契月 (1879 - 1955)。この画家の名前になんとなく覚えがある気もしたが、その作品の精緻さを目の当たりにして、ここでも金縛り状態だ。以下は 1925年の「春風払絃」と、1931年の「朱唇」。岡本や甲斐庄のような新たな芸術を目指したものではなく、江戸時代風の作風であるが、実物を前にすると見事の一語に尽きると呟かせるようなものなのである。
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もうひとりは、やはり菊池契月の弟子であった、当時としては珍しい女流画家、梶原緋佐子 (1896 - 1988) である。彼女の作品には、独特の抒情性があるとともに、なんとも人間的なリアリティを感じることができて、感動する。これは 1919年の「唄へる女」。全身とアップを見て頂きたい。格子戸の前で顔を紅潮させ、一体いかなる歌を歌っているのであろうか。
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ここでご紹介した作品群によって、私と同じようにこの展覧会の無類の面白さを感じて頂ければ有難いのだが、やはり実物を見るとさらに感動が高まるだろう。実際この展覧会の展示作品の多くは、今回の会場であった京都国立近代美術館の所蔵になるものであり、12月10日 (日) の会期終了に伴い、この素晴らしい展覧会を東京で見ることはできなくなってしまった・・・と思いきや、図録を見てみると、なんという幸運!! 来年の 5月30日 (水) から 7月 8日 (日) まで、千葉市美術館でも開催されるのである!! 千葉市美術館といえば、上記の甲斐庄楠音の展覧会がかつて開かれた場所であり、私はつい最近も、これもまた滅法面白かった大正・昭和の日本画家、北野恒富の展覧会を見に行ったばかり。江戸から近世にかけての日本の画家を専門とするこの美術館の企画は本当に素晴らしいのだが、私としては、「なんだよ、せっかく京都まで見に行ったのに、首都圏でも開かれるのかよ」と文句を言うつもりは毛頭なく、また半年すればここでご紹介した異形の作品群にまた会えると思うと、今から胸が高まるのを抑えることができないのである。

by yokohama7474 | 2017-12-22 00:32 | 美術・旅行 | Comments(2)  

特別展覧会 国宝 京都国立博物館

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国宝。この言葉の持つ輝かしくも重々しい響きはどうだろう。昨今の日本では、なんであれプロフェッショナルなものへの興味が増している気配があり、資格に対する指向の高まりや、究極の職人技への憧れを、必ずしも美術ファンでない人から感じることができる機会が増えてきたように思う。実際、私が仕事でおつきあいのある、ある定年間近の方などは、会食の席で「私の趣味は国宝なんです」と得意げに語るので、それはそれはということで、あれこれ話題を振ると、ただニコニコ笑っているだけであった。そして口を開いておっしゃることには、「あれですよね、いちばん沢山国宝を作った人は、空海なんですよね」とのこと。これは多分、空海自身の書はもちろん、彼が唐から請来した文物や、彼の指示によって造営された仏像群、さらには、彼が一時期住んだ寺に伝わる遺品等を含めて、「関与した」国宝が、他の誰よりも多いということなのであろう。だが、残念ながらその方は、そのあたりの理解が曖昧であったようで、空海が何をした人であるのかすら、若干理解が怪しいようにお見受けした。いや、誤解なきように。私はそのような人を非難したり軽蔑しているわけでは、断じてない。むしろ、国宝という、日本国政府がお墨付きを与えた最高の逸品、先の「運慶展」の記事で引用した通り、奈良国立博物館長を務めた斯界の権威、故・倉田文作先生がいみじくもおっしゃった、それだけ「高い価値を持つ」美術品が、あらゆる人々に与える影響がいかに大きいかを実感して、そのことに感動するのである。そんなわけで、今年の秋、京都国立博物館で開かれた国宝展も、素通りというわけには行かなかったのだ。
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わざわざそんな表現をするには意味があって、実は、この展覧会の終了一週間ほど前、11月下旬に京都を訪れたのは、別の展覧会がメインの目的であったのだ。私がどうしても見たかったその展覧会については、次回の記事で採り上げる予定であるが、せっかくそれに出掛けるなら、やはり国宝がずらりと揃うこの展覧会を無視するわけにはいかんだろう、という順番での動機づけであったのだ。東京国立博物館では 2014年に「日本国宝展」が開かれ、それはそれでまた大変な展覧会であったのだが、今回の京都での展覧会は、京博 (つまりは京都国立博物館だ) の創立 120周年を記念して開かれたもの。もちろんそれは特別な機会であったのだ。晩秋の京都は底冷えがして、東京を早朝に出て開館前に現地に到着した私も、博物館の敷地内で見上げる木の紅葉や、重要文化財の本館 (休館中であったが) の美しさに、気持ちが穏やかになったことは確かだが、でもやはり、長蛇の列に並んでの日陰は、大変に寒い!! 結局、入場まで 45分程度を要することとなった。
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さて、この国宝展、もちろん内容は大変に素晴らしいものではあったのだが、ここでは個々の展示品に深く立ち入ることはやめようと思う。それは、国宝のオンパレードには見る価値が大いにあることは論を俟たないものの、今回のような展示が果たしてよかったのか否か、少し思うところもあるからである。いくつか箇条書きにしてみよう。
・開催期間は 4期に分けられ、大規模な作品の入れ替えがある。これだけ多くの人が訪れる展覧会に、そうそう何度も足を運ぶことは、たとえ関西の人でも難しかっただろう。
・今回の展示は、近年できた平成知新館すべてを使っての開催であったが、本館が閉鎖中ということで、チケットチェックは博物館の敷地に入るところで既に行われ、長蛇の列を経て建物に入る時点では、もはやチケットを提示する必要すらなく、平成知新館の 3つのフロアをどの順番でどのように見てもよい、つまりは、建物全体を解放するスタイルであった。これはこれで、多くの人たちが順路に沿って建物の中でも長蛇の列をなすことは回避でき、会場内の混雑は分散したと言える。だがその一方で、様子を見ながらどんどん人を中に入れるものだから、どのコーナーにも凄まじい数の人々が集まって、とても美術を鑑賞できる環境ではなかった。ここはやはり、多少入場者を絞ってでも (= チケット売上収入を減らしてでも)、例えば時間帯ごとのネットによる予約制を一部設ける等の工夫が欲しかった。
・展示品はもちろん名品揃いではあるのだが、その多くは、所蔵する社寺や美術館に行けば対面できるもの。例えば東京国立博物館の絵画コーナーでは、周りに誰もいないがらんとした環境で雪舟の国宝作品を見ることができる機会も、それなりにあるのである。このような展覧会で名品が一堂に会している意味はあるものの、私見では、やはり一人の作家の作品の遍歴を辿るとか、同じ時代背景や文化的背景のもとで作られた作品を比較するとか、あるいはある芸術的な流派の変遷を見るとか、そのような内容の方が見ごたえがある。総花主義には良し悪しがあるのである。

上記に加え、展示品の多くは、私にとっては既に何度も対面したことがあるおなじみのものでもあり、とても芋の子を洗うような環境でじっくり鑑賞するわけにはいかなかったと、正直に感想を記しておきたい。ただ、それでもこの展覧会を記事にしておきたかったのは意味がある。実は、この展覧会に出掛ける前に見た NHK の「日曜美術館」で、いくつか展示作品を紹介しているときに、気になることがあったからである。この番組、大変奇妙なことに、作品を紹介するときにその所有者への言及がなかった。たとえば、この平成知新館完成後ずっとここに鎮座ましましていて、今回も 4期通してそこにあった、大阪金剛寺の巨大仏を、寺の名前なしに、ただ「大日如来坐像」「不動明王坐像」としか紹介していなかったのだ。これは奇異であった。尚、これら金剛寺の諸仏は、修理後、つい最近国宝になったばかりと理解するが、三尊の残る 1体、降三世明王は現在、奈良国立博物館に展示されている。私も随分以前、この金剛寺に三尊を見に訪れたものだが、早く現地で三尊が揃わないものだろうか。これが、今回も京博に展示されていた、大日如来と不動明王。
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そしてその番組では、曜変天目茶碗が紹介されていたが、それも所有者の明示なく、ただ「曜変天目茶碗」とのことだった。このブログでも以前触れたし、これは常識の部類に入るのであろうが、曜変天目茶碗は (最近話題になった「開運! なんでも鑑定団」で扱われたものは、はい、ここでは対象にしません)、世界広しと言えども、たったの 3つしかなく、すべて日本に存在していて、すべて国宝なのである。そのうち 2つはそれなりに見る機会があり、ひとつは大阪の藤田美術館、もうひとつは東京の静嘉堂文庫美術館の所蔵。だが残るひとつは、全くの非公開、まさに門外不出のお宝で、所蔵するのは大徳寺龍光院。私はその「日曜美術館」の録画を、週末の朝ねぼけ眼で見ていたのだが、そこで不鮮明に映った曜変天目茶碗の模様に、なにやら胸騒ぎを覚えた。むむ、これは私が何度も見た藤田美術館や静嘉堂文庫のものとは、ちょっと違うように思う。そして録画を巻き戻し、そこに映った映像を静止画でよく見てみた。するとその写真は、図録から撮影したものであるらしく、よく見ると、「京都 龍光院」とあるではないか!!!! 驚愕して、京博のサイトでこの「国宝展」の展示品を調べても、龍光院の曜変天目茶碗には言及されていない。そしてネットでもう少し検索してはじめて、この展覧会の会期直前になって急遽、確か二週間だけだったか、この龍光院の曜変天目が出品されるという発表がなされたということであったのだ!!!! 実際、私が現地を訪れたときには既にその茶碗の展示期間は終了していたのだが、それでも私は、この茶碗が載っている展覧会の図録をなんとしてもゲットしたかった。購入してみると、確かに掲載されている。
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実は、私がほかの展覧会を目当てに京都にやって来て、大混雑を承知の上でこの「国宝展」に足を運んだのは、この龍光院の曜変天目が載っている図録を購入することが、ひとつの大きな目的であったのだ。正直言うと、この色つやを写真で見る限り、ほかの 2つの曜変天目よりも地味に見えるし、茶碗の中の写真は、非常に限定的な部分だけなのである。だが、これだけ貴重な機会に、実物は見逃したとはいえ (もう一生見る機会はない可能性が高いとはいえ)、せめて写真だけでも見ることができて、大変嬉しく思ったものである。そう思って、帰宅してから思い立って、週刊朝日百科の「日本の国宝」シリーズを調べてみると、ありましたありました。これは部分アップではなく、茶碗の中身全体が写っている。なるほど、もちろんきれいはきれいだが、ちょっと地味である。
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そんなわけで、この大展覧会に出品された綺羅星のごとき華麗なる美術品の数々の写真を期待された方には申し訳ないが、私の「国宝」展に関する記事はこれで終わりである。日本が誇る国宝の数々は、多くの書物で既に紹介されているので、ここで私が贅言を費やすまでもないでしょう。実際私は、「国宝」展の異常な混雑からそそくさと抜け出し、お目当ての展覧会場に向かうこととした。それについては、また次回。

by yokohama7474 | 2017-12-21 01:22 | 美術・旅行 | Comments(0)  

アンドリュー・ワイエス 生誕 100年記念展 丸沼芸術の森

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アンドリュー・ワイエス (1917 - 2009) は、恐らくは日本で最も高名な米国の画家であろう。もし彼の名前を知らない人でも、この絵には見覚えがあるのではないか。
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これは 1948年に描かれ、現在はニューヨーク近代美術館 (MOMA) が所蔵している彼の代表作、「クリスティーナの世界」である。今はどうか知らないが、私が高校生の頃には、教科書にも載っていた。地面に横たわった女性の後ろ姿が、褐色の野原の奥に見える建物に向かって延ばされているこの謎めいた作品には、なぜかしら郷愁めいたものを感じてしまい、一度見たら忘れない絵画作品である。題名のクリスティーナとはこの作品のモデルになっている女性の名前で、この場所は、ワイエス自身が別荘を持っていた米国メイン州のクッシングで、このクリスティーナは実際に足が悪かったのである。彼女の姓はオルソンで、彼女と、弟のアルヴァロが住んでいた家、つまりこの絵の右奥に見える建物は、オルソン・ハウスと呼ばれ、現在では歴史的建造物として保護されている。この絵に漂う独特の抒情は、その乾いたリアリズムによって強調されていて、いわゆる現代美術という範疇のイメージとは異なる、何か人間の根源的なものにストレートに響いてくるタイプの作品だ。ワイエスが使用した技法は主にテンペラ画、それに夥しい数の素描や水彩を残した。私が過去に見たこの画家の展覧会は、1990年に西武美術館で開かれた「ワイエス展 - ヘルガ」(ヘルガというモデルを使用した作品が中心) と、1995年に Bunkamura ザ・ミュージアムで開かれた「アンドリュー・ワイエス展」、それから、これは米国で、2006年にフィラデルフィア美術館 (映画好きの方には「ロッキー」でおなじみ) での "Andrew Wyeth : Memory & Magic" の合計 3回である。これらはいずれもワイエス生前の展覧会であり、特に最後のものは、画家が晩年暮らしていたフィラデルフィアでの開催ということで、独特の高揚感が会場に漂っていたものだ。書棚から引っ張り出してきたその展覧会の図録がこれだ。
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さて、そんな大画家であるワイエスの、特に上記オルソン・ハウスを描いた多くの水彩や素描が、日本にあるということをご存じだろうか。実は私もつい最近まで知らなかったのであるが、実は、埼玉県朝霞市に、その美術館はある。朝霞市といえば、自衛隊の基地があることは知っているが、行ったことはもちろんないし、そもそも埼玉のどのあたりなのかも分からない。だが、ある日 NHK の「日曜美術館」で特集を放送しているのを見て俄然興味を持ち、実際に現地に出掛けることとした。その場所は、美術館という表現にも少し違和感があって、正式名称は「丸沼芸術の森」という。このような、なんとも手作り感満載の場所なのである。
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実はこの場所、朝霞で倉庫業を営む須崎勝茂という人が 1985年に開いた、いわば芸術村のようなところで、若い芸術家たちのためにアトリエや陶芸用の窯があり、実はあの今をときめく村上隆も、ここで創作を続けているという。これが窯である。
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ここ丸沼芸術の森では、1996年に、上記の「クリスティーナの世界」の貴重な習作をはじめとするワイエスの素描な水彩画、いわゆる「オルソン・ハウス・シリーズ」を入手。以来、毎年ワイエス展を開催しているらしいが、特に今年はワイエス生誕 100年ということもあり、前期・後期に分かれた展覧会と、シンポジウムも開かれたのである。公立の美術館でもない一般のコレクターが営む活動という点で、これはなかなかに珍しいことであると思うが、所蔵する作品を死蔵するのではなく、若い芸術家の教材として使用したり、折に触れ一般公開するという点に大きな意義があろう。実際、私が出掛けたときには既に展覧会の図録は売り切れであったので、もう少し大部な、この丸山芸術の森が所蔵するオルソン・ハウス・シリーズの図録を購入。以下の写真はその図録から撮影したものである。

ワイエスの作品の特徴は、なんといってもそのリアリズムであるが、素晴らしいのは、ただ単に本物そっくりということだけではなく、常に漂う抒情である。これは「屋根窓」(1947年作)。オルソン・ハウスの窓のアップである。
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これは 1952年作で、「オルソンの家」という邦題になっているが、描かれているのは、要するにオルソン・ハウスである。ここでも淡い線と色彩が、人間のいない風景に人間的な要素を加えている。
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これは「カモメの案山子」(1954年作)。日本の田んぼに立っている案山子の雰囲気とは異なり、米国東海岸の乾いた空気まで感じさせてくれる。
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「オルソン家の納屋のツバメ」(1953年作)。窓から差し込む光が明るく、なぜかデジャヴュを感じてしまう。
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これは「青い計量器」の習作 (1959年作)。やはり、光の表現が絶妙である。
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「穀物袋」(1961年作)。珍しく人物が画面左側に立っているが、その顔は定かではなく、ただ穀物袋の存在感が見る者に迫ってくる。
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弟アルヴァロ・オルソンは 1967年暮れに 73歳で亡くなり、姉クリスティーナ・オルソンも、そのわずか 1ヶ月後の 1968年 1月に 74歳で亡くなるが、これはその年に描かれた「クリスティーナの墓」。米国郊外の広大な土地の中に、人間の生死が繰り返されるという無情感をひしひしと感じられるではないか。
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これは翌年、1969年の作品、「オルソン家の終焉」の習作。オルソン姉弟の死去をきっかけとして、この作品を最後に、ワイエスはこの場所を描かなくなったという。だが特にここにはドラマはなく、来る日も来るも変わらぬ野の中の一軒家が無機的に描かれているだけだ。だがそれだけに、人の暮らしの意味を悟らせてくれるような作品であると思う。
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展示会場には、オルソン・ハウスの模型とか、建物に実際に使われていた木の破片などが展示されていて興味深かった。このコレクションの持ち主である須崎勝茂は、生前のワイエスと交流があったらしい。図録には、須崎の代理としてワイエスゆかりの地を訪ねたという中村音代という人の文章が載っていて、そこには 2002年にワイエスその人と会った際の感激が記されている。当時 85歳のワイエスの近影がこれだ。
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まだまだここにご紹介できない様々なワイエス作品を所蔵する丸沼芸術の森。美術に興味のある人なら、覚えておきたい名前であるし、また次にワイエス展が開かれる際には、是非お薦めしておきたい場所である。米国の絵画作品としてのひとつの究極であるともいえるワイエスの高度な情緒の表現は、見れば見るほどに魅了されるのである。東京近郊には、まだまだ訪れるべき場所が沢山あることを思い知る、安・近・短の旅でした。

by yokohama7474 | 2017-12-20 00:50 | 美術・旅行 | Comments(0)