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愛知県犬山市 犬山城、如庵

10月も半ばに至り、さすがに秋の空気になってきたが、今年は (も?) 奇妙な夏であった。東京では 7月に酷暑が来て、8月はどうなることかと思うと、雨天続き。時にその雨は、傘を支えるのもやっとという激しいものになり、各地で豪雨が相次いだ。これからいくつかの記事で、そんな夏に私が出かけた場所を、遅ればせながらご紹介して行きたい。それは実は名古屋近辺なのであるが、この地域には、知れば知るほどに深い歴史の痕跡がある。もしかすると名古屋地区在住の方でも、「へぇ、そんな歴史があるんだ」という感想を持たれる場合もあるかもしれない。川沿いのラプソディ流、名古屋の歩き方。ご参考として頂ければ、そんなにありがたいことはありません。

まず、ひとつの写真をお目にかけよう。
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これは、愛知県北部、犬山市にある犬山城である。日本に残る 5つの国宝天守閣のひとつであり、小ぶりながらも大変に美しい城である。未だ戦乱の世が完全に安定していない時代、関ヶ原の翌年の 1601年に建てられたとされる古い城だ。だが、この写真、屋根についている一対のしゃちほこのうち向かって左側が欠けているように見えないか。別の角度からの写真がこれである。ちょうど上の写真の裏なので、左右は逆になっているが、やはり片方が欠けている。
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これにはわけがあって、実は今年の 7月12日の落雷によって、片方のしゃちほこが破損してしまったのだ。天守閣内にそのしゃちほこが展示されていた。
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先般の熊本地震による熊本城の被害などは最近での大規模な文化財の損傷であるが、もともと天災の多いこの国で、燃えやすい木造建造物を守り、後世に伝えて行くことはいかに困難かということを改めて思い知る。その一方で、しゃちほこの片方が破損しただけではこの国宝建造物の持つ価値は全く減じることはない。そのように、文化財の持つ生命力ということも、よく認識しておく必要があるだろう。

さてこのブログでは過去に、国宝 5天守閣のうち既に 3つ、つまり、姫路城、松本城、彦根城をご紹介したので、この犬山城で 4つめ。残るひとつは松江城で、ここは私も国宝に格上げされる前ににしか訪れたことはなく、随分ご無沙汰だが、またそのうち現地を訪れて、記事を書く機会を求めたい。犬山城の場合、私にとっては今回が既に 4度目の訪問であったが、何度行っても興味深い場所なのである。 このような入り口から風情のある坂道を少し登って行くことになる。
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門を入ったすぐの場所が、恰好の撮影スポットになっている。本当に美しい姿をしている。
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入り口や、中の階段などは相当に急角度であり、かなりワイルドな感じである。
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考えてみれば、400年前にできた城郭建築が、後世の補修は当然あるものの、今でも現存していて、しかも人々がその中に入ることができるということは、なかなかに大変なことである。城としての機能を失った明治期以降は、古い城廓建築を維持するだけでもそれはそれは大変なことであり、各地の城の中には、明治期に壊されてしまったものも多い。日本人は情緒的である割には、ある意味で変わり身が早く、建物のスクラップ・アンド・ビルドは、かなり大胆に行う方ではないか。それは、西洋のような石造りではなく、木造であるということも一因であろうが、日本人のメンタリティの何かと関係しているようにも思う。ところがこの城の場合、もともとの建造は織田信康 (信長の叔父) によるものだが、その後、1617年 (今からちょうど 400年前だ!!) に、尾張徳川家の家老であった成瀬正成が城主となり、その成瀬家が明治維新まで城主であり続けた。それゆえこの犬山城は、つい最近まで、国宝建造物として唯一、成瀬さんという個人所有のものであったのである (現在では財団の所有)。天守閣の最上階には、歴代城主の肖像が掲げられている。ネクタイを締め、ウィスキーグラスなど傾けている城主さんとは、なんとも面白いではないか。
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尚この最上階には赤い絨毯が敷いてあって、私は後で本で知ったのだが、これは第 7代城主、成瀬正壽 (まさなが、1782 - 1838) がオランダ商館長と親しかったことから、その頃に敷かれたものであるらしい。へぇー、私はてっきり、昭和のものかと思いましたよ。
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それにしてもこの城、その佇まい自体は、本当に武士の時代に思いを馳せることのできる場所だ。ほら、このように畳に自然光が入ると、すっと扉を開けて侍が出てきそうな感じすらするではないか。
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未だ実戦を想定していた頃の建造なので、ある階の床は、このように板と板の間に、わざと隙間を設けてある。下の階に忍び込む者をここからチェックできるのである。ただ、その時城はかなり危機に瀕しているであろうが (笑)。
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犬山城が建っているのは、木曽川のほとりの丘の上である。城の背後は天然の要害地となっているわけである。
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今回破損したしゃちほこが、いつどのように修復されるのか分からないが、この強い生命力を持つ建物の長い歴史の中では、ごくちょっとしたトラブルでしかない、と考えたいものだ。

さて、近隣の神社や犬山の街自体も大変に情緒があり、商店街を覗いたり、その中に保存されている歴史的建造物や、犬山祭りの山車やからくり人形の展示なども興味が尽きないのだが、今回は時間の関係でパス。ただ、城から歩いて数分のところにある場所だけは、絶対に外してはならない。このような名前の場所である。名鉄犬山ホテルの敷地内にある、有楽苑 (うらくえん)。
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この有楽苑は、よく手入れの行き届いた日本庭園なのであるが、そこでの見どころはなんと言っても、上の写真にある通り、如庵 (じょあん) という茶室である。犬山城天守閣が、日本に 5つしかない国宝天守閣のひとつなら、この如庵は、日本に 3つしかない国宝茶室のひとつなのである。因みにほかの 2つとは、京都、山崎の妙喜庵にある待庵と、大徳寺の塔頭である龍光院にある密庵。実は、待庵は日本史の教科書にも出て来たが、事前予約制での公開で、私は見たことがない。密庵に至っては、全く公開をすることがなく、この寺の所蔵するやはり国宝の曜変天目茶碗と同様、幻の国宝なのである。従い、この如庵を犬山で見ることができることは、非常に貴重なことなのだ。これが有楽苑の門。
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如庵は、織田信長の弟で、大名であり茶人でもあった織田有楽斎が作った茶室。もともとは京都の建仁寺の塔頭に建てられたが、明治になって京都の中で移転されたのち、その後東京の三井家本邸に移築。昭和に入ってから一度大磯に移ったあと、1972年に名古屋鉄道 (名鉄) によって現在の地に引き取られた。織田家ゆかりの名古屋近郊で、ようやく忙しい移転生活を終え、その凛とした姿を人々に見せていることは、実に感慨深いものだ。中に入ることはできないが、解説もあり、自由に写真も撮ることができて、有り難い限りである。私は以前、外人のグループをここに連れて来たことがあるが、皆大変に興味深そうに内部を覗き込んでいた。
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実はこの有楽苑には、ほかにも興味深い建築がいくつもある。この如庵に隣接しているのは、重要文化財の旧正伝院書院。これは有楽斎の隠居所であり、中には長谷川等伯や狩野山雪などの襖絵が残されているという。内部は非公開だが、床下からこのように内部を覗くことができる。暑い日だったので、開け放した襖によって風が通り、置いてある団扇を扇いで涼を取ると、日本人でよかった、と思ったものだ。
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それから、有楽斎が大坂の天満に作ったという元庵という茶室を、古図に基いて復元してある。これは如庵と違って大きな建物で、商都大坂の賑わいを思わせるものだ。
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このように、有楽斎ゆかりの建物が気品ある佇まいを見せるこの有楽苑、観光客がそれほど多く訪れるようには見えないが、少なくとも犬山城を訪れる人たちには、是非是非見て欲しいところである。それにしても、名鉄がこのような文化的な事業に力を入れているということは素晴らしいことだ。そしてそのことは、次なる目的地にてさらに圧倒的に迫って来ることとなるのである。犬山地域の探訪は、続きます。

by yokohama7474 | 2017-10-15 01:23 | 美術・旅行 | Comments(0)

池田学展 日本橋高島屋 8階ホール

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過去に様々な芸術が作り出された今日において、アーティストは一体いかなる芸術を創り出すことが可能なのであろうか。もちろん、いかなる芸術分野であれ、過去の巨匠たちの作品を鑑賞していることほど安心なことはない。だがその一方で、現在実際に生きて活動しているアーティストたちの活動を知ることには、実に大きな意味がある。つまりそれは、自分が暮らしている現代という時代における生きた芸術のあり方を知ることであり、それなくしては、芸術が今後も発展して同時代の人々に感動を与えるということを信じられるだろうか。このブログでは決して、現代の最先端の芸術ばかりを紹介しているわけではなく、中には、既に名声を成した音楽家の活動を興味の中心としてご覧頂いている場合もあろうかということは認識している。だが、あえてここで、現代における素晴らしいアーティストをご紹介することで、文化ブログを自称する責務の一端を果たしたいと思う。1973年生まれのペン画家、池田学である。この展覧会は、東京藝術大学デザイン科を卒業してから 20年の彼の画業を辿るものであるが、既に生地である佐賀の県立美術館で 2ヶ月、その後金沢 21世紀美術館で 3ヶ月の期間を経て、東京ではどのくらいの期間見ることができるかと言えば、なんと、たったの 1週間半なのである!! これは一体どういうことなのか、私には皆目分からない。実際、今年 4月の美術手帖での特集によって彼の作品に明確なイメージを得ることができた私は、なんとか佐賀か金沢まで、この展覧会を見に行きたいと考えたのであるが、それは果たせず、今回の東京への巡回を待つこととなったのである。見る人誰もを圧倒し、理屈抜きで作品の力を伝えることのできるこのペン画家の全貌に触れるには、10月 9日 (月・祝) までという、この短い期間の展覧会は、まさに絶好のチャンスなのである。美術館での開催でない分、作品の鑑賞環境は万全ではないかもしれない。だが、それでも私は言おう。現代の、そして未来の絵画表現について興味のある人には、これは必見の展覧会なのである。これが美術手帖 4月号の表紙。
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さて、上で何度かペン画ペン画と書いてきたが、この池田学という画家が制作しているのはすべて、筆先わずか 1mmにも満たないペンによる作品。それなのにこの展覧会には、上下左右、各数 m という大作が幾つもある。そこには無限の細部に至るまで、様々な形態の人物や事物が複雑極まりない構図を織りなしていて、およそクラクラするような迫力で見る者誰をも圧倒するのである。彼がその作風を決定させることとなった藝大の卒業制作、「巌ノ王」(1998年作)。縦 195cm、横 100cm の作品である。
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私がここでこの作品の細部のアップの写真を載せたからと言って、実物をご覧になっていない方々にどのくらい伝わるものか分からない。だが、虚しいことかもしれないと思いつつ、以下をお目にかける。何か異常な執念すら感じる、巨大な作品の細部である。
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そして 2000年、タイを旅した彼が目にした風景、つまりは人為の産物である仏教遺跡と、それを飲み込む自然の力に霊感を得て描かれたのがこの作品、「ブッダ」である。これが池田が初めて色彩を使用した作品になった。仏教遺跡にはちょっとうるさい私が断言するが、これは実際の風景ではなく、架空のものである。だが、この凄まじいリアリティは一体なんだろう。本能的な畏怖すら感じてしまう。
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この展覧会には池田の作品 120点ほどが展示されているのだが、その中には空想的な大作も幾つかあれば、ひたすら写実的な動物の絵も沢山ある。どの作品も、まさに舌を巻くような超絶技巧を駆使して描かれていて、まさに圧倒的である。繰り返しだが、見る者皆、感嘆の声を上げて眺め入る。これぞ究極のプロの技であり、私の意見では、現代アートが忘れつつあるものなのである。だから私は、いやしくも美術に興味のある人なら、この展覧会を見ないと絶対後悔すると確信しているのである。圧巻の巨大作品のうち、これは「予兆」。2008年の作品で、あらゆるものが大きな波に飲み込まれて行く。もちろん、その 3年後にあらゆるものを飲み込んだ巨大津波が日本を襲ったという事実に、作者自身が呆然としたという。あたかもダリが、「茹でた隠元豆のある柔らかい構造」で、スペイン内乱を予感したことを思い起こさせるではないか。
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細部を見て行くときりがないが、これは右下部分のアップ。橋が、列車が、街が、渦に飲み込まれて行く。自然災害ではなくとも、このような感覚が我々の日常に現れることもあるのではないか。ある種のデジャヴと言ってもよい、強い眩暈を感じる。
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そしてこれが、2006年の作品、「興亡史」。
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何やら巨大な城が崩れ落ちるような状態になっているが、この凄まじいカオスをつぶさに見て行くと、きっと何時間でもこの絵の前で過ごせるであろう。例えばこれが画面中央あたりであるが、城の瓦屋根の下から、千手観音の手のようなものが何本か突き出ているのだが、よく見るとそのうちの 1本は、掌の部分がちぎれて下に落ちている。ここでの千手観音の手は、実際の仏のものではなく、人間が作った仏像の手であることが分かる (イメージとしては、唐招提寺の千手観音を思い浮かべられたい)。このことから、池田学という画家が描きたいと思っている幻想の情景は、ただスケールの大きい大自然ではなく、かと言って人間の英知を結集した巨大建造物でもなく、その組み合わせの中から湧き上がってくる、なんとも言えない崩壊感覚、あるいは終末感というものの象徴であろうと思われるのである。ここで我々は、巨大な掌の彫刻が数十 m 落下した際に起こる轟音を想像してみよう。だがそれとても、ここで描かれた様々な興亡の歴史の中では、ただちょっとした騒音にしか過ぎないという、この絶望感。
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実は池田は 2005年から現在まで、東京動物園協会の会誌「どうぶつと動物園」の挿絵を手掛けている。コヨーテ、トラ、そして、あらら!! ご本人のツイッターには、愛犬の写真までアップされている。ちょっとご機嫌斜めかな (笑)。いずれにせよ、この凄まじい描写力に感嘆しようではないか。

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池田はまた海外でも高い評価を得ていて、米国ウィスコンシン州のマディソンという都市にあるチェゼン美術館というところのアーティスト・イン・レジデンス (いわば座付きのアーティスト) を務めたこともある。この展覧会ではそんな池田の制作風景の写真が展示されていたり、多分このチェゼン美術館が作成したのかと思われる 13分間のインタビュー (日本語で喋っていて英語字幕が出る) も流れていて興味が尽きない。ご本人いわく、自分の作品はよく宮崎駿のアニメを思わせると言われるが (確かに、「ハウルの動く城」「千と千尋の神隠し」、あるいは「風の谷のナウシカ」あたりを思わせることは事実)、彼の世代では宮崎アニメは自然に自分の中に取り込んでいるので、それは当然であること。また、ペンで描いているので、どう頑張っても一日に描けるのは 10cm 四方程度。大作になると、それでも以前は半年くらいで仕上げていたが、今では 1年半、2年を要し、今 (インタビュー当時) 取り組んでいる作品は既に 3年かかっているという。また、小さい作品は描く前に構図をきっちり考えてから取り掛かるが、大作になると細部を先に決めることなく描き始めるとの発言もあって、興味深い。今回の展覧会では、まさに 3年かけて昨年完成した「誕生」という作品がクライマックスに展示されていて、その制作に関する書物も出版されている。これがその「誕生」の前に立つ池田。
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そして、以下は私がその「誕生」をその場でスマホを使って撮影したもの。正直、どれをとっても実物の放つ異様な生命力を伝えてはいないので、是非皆様、会場に足を運んで、間近で鑑賞して頂きたい。これがすべて、たったひとりの人間のペンによって描かれていようとは、とても信じられないのである。
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興奮さめやらぬ私は、上でもご紹介した「興亡史」のポスターを購入、帰宅後早速、書斎の壁に貼ってあったカレンダーを外し、そのポスターを貼りつけた。これで、ブログを書くのに疲れたときには、様々な細部に見入って気分転換することができるというものだ。いや、むしろ細部の観察で疲れてしまうかな (笑)。
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そう言えば、上述の美術手帖を見ていて、面白い記事を発見。それは、現在活躍中の俳優、伊勢谷友介のコメントなのであるが、なんと彼は、藝大のデザイン科で池田学の 1学年上であったそうだ!! 伊勢谷が藝大卒とは、寡聞にして知らなかった。彼いわく、「僕は楽しめないアートは嫌いです。でも、学ちゃんの絵はワクワクできる。自分がその絵の前にいることに、価値があると信じられる」と。なるほど本当にそうだ。東京での会期は今週末の三連休まで。一人でも多くの方に、その絵の前にいることに価値があると信じられる時間を持って頂けるように、祈っています。

by yokohama7474 | 2017-10-03 00:11 | 美術・旅行 | Comments(2)

迎賓館赤坂離宮

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さてこれは、どこの国の宮殿であろうか。英国 ? フランス ? それとも米国だろうか。いやいや、答えは日本。近代の建築として唯一国宝に指定されている、迎賓館赤坂離宮である。1909 (明治 42) 年に東宮御所 (皇太子の住居) として建設されたものであるが、そこには近代日本の粋が集められ、その時代のアジアのどこにもない西洋風建造物でありながら、随所に日本ならではのデザインを活かしたものになっている。国宝指定は、建造後 100年を経た 2009年。日本で見ることのできる、ほかに例のない建築として、極めて貴重なのである。現在では事前応募制による一般公開もなされているが、これがなかなか当たらない。そこで、お盆シーズンのど真ん中である私の誕生日に、家人が旅行代理店のツアーをプレゼントしてくれた。おかげで貴重な体験をすることができたので、この記事でその一部をご紹介したいと思う。まず、現地に向かう前に、近くにある赤坂ニューオータニホテルの上層階にあるレストランでランチ。そこでは既にこのような景色が見えて、いやが往にも、これから始まる迎賓館赤坂離宮詣でに胸がときめく。奥に見える新宿副都心もなにするものぞ。
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ホテルからすぐ近くまで、なぜかタクシーに乗せられ、到着したのはこのような門の前。今年の夏は大気が不安定だったので、絵に描いたような黒雲が上にかかっているとはいえ、それもまた当日のハプニングの一環。願わくば太陽よ出ろ!! と祈りながら、バッキンガム宮殿なさがらの門を見上げていたのである。いやいや、ちゃんと菊のご紋があしらわれていて、バッキンガム宮殿でないことは一目瞭然だ。
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そして、美術ファンとしてはこの公開も気になるところであった。藤田嗣治の天井画の特別展示がなされていたのである。
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この建物は、現在でも国賓をお招きする迎賓館として機能している。ここに滞在を許される国賓ならずとも、昨今日本に興味を抱く外国人観光客が多くいるわけであるが、ここには、海外からやって来る人たちも感嘆するであろう、100年前の日本が既になしえたおもてなしを見ることができる。換言すると、100年前に達成されたこの水準に、現在の我々が達しているであろうかと思うことしきりである。まあそれだけ見る価値のあるものであることは間違いない。そもそもこの場所は、近隣の紀尾井町という地名から分かる通り、もともとは紀伊・尾張・井伊という名門藩 (御三家のうち 2つと、大老を多く出した家) の中屋敷が軒を連ねていた場所であり、現在の迎賓館のある場所は、もともと紀州藩の中屋敷跡である。設計の総指揮は、片山東熊 (1854 - 1917)。あの英国の建築家ジョサイア・コンドルの弟子であり、京都国立博物館、奈良国立博物館、そして東京国立博物館の表慶館 (この迎賓館赤坂離宮建設時の東宮、つまり皇太子 = 大正天皇の成婚を祝うために建てられた) で知られる建築家である。設計にあたっては、フランスのヴェルサイユ宮殿や英国のバッキンガム宮殿などが参照にされたとはいえ、日本も幕末に開国するまでに爛熟した独自の文化を持った国であったゆえ、この建物の設計においては、西洋文化の先進性を取り入れながらも、日本独自の伝統を随所に生かしている。さすがに国の威信をかけて設計されただけあって、これは本当にほかに並ぶもののない建物なのである。明治期の建築については、また近日中に記事を書くものと思うが、ここではとりあえず、私が見ることのできた迎賓館の粋のごく一部をご紹介したい。もちろん建物内は写真撮影禁止なので、内部の写真は借用して来たものであることをお断りしておく。なお、私が現地を訪れた日は、建物に向かって右手の東玄関からの入場であった。見ることができたのは、羽衣の間、彩鸞の間、そして花鳥の間と、それから中央階段と 2階の大ホールであった。それらの写真を以下、順に御覧に入れよう。写真で見るだけでも、ため息の出るような素晴らしい装飾であることがお分かり頂けると思う。これが 100年前の日本でいかにして可能になったのか、いろいろと考えることは多いと思う。
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そして、特別公開されていた藤田嗣治の天井画とは、取り外されていつかの部屋に分かれて展示されていたが、実は以前にも見たことのあるものがほとんどであった。というのも、このブログでも昨年の 12月 3日の記事でご紹介した、府中市美術館で開催された藤田展に出品されていた作品があったからだ。これらはもともと、銀座のコロンバンという洋菓子屋の壁画であったもので、1935年の作。この迎賓館に寄贈されたのはかなり後のようであるが、いやしくも皇室の迎賓館の天井画が、民間の洋菓子屋からの使いまわしを受け入れるとは、若干奇異な感じがするのだが・・・。ともあれ、名実ともに日本を代表する洋画家の作品であり、実物を見ることができる貴重な機会を有り難いと思うべきなのであろう。
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館内を一通り観覧して一旦外に出てから、名残惜しさに駆られて再入場し、再度一周して出て来ると、未だ雲が多いながらも、それなりに気持ちよい天気となっていた。建物の裏、北側に広がる前庭から見た堂々たる建物の様子と、豊かな水量の中に佇む、動物をかたどった彫刻をお目にかけよう。
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そしてまた建物の正面に帰ってきて、見上げるその意匠のユニークなこと。西洋に憧れつつも日本独自の伝統にも誇りを持っていた頃の日本人の豊かな発想には驚かされる。これぞ和魂洋才ということか。この言葉、最近では死語になってしまっているが、イオニア式の円柱と甲冑の武士の鮮烈な出会いから、考えるヒントはもらえそうだ。
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日本に残る近代建築数あれど、これほどの規模と高い水準を持つものはほかにはない。世界の中における日本をいろんなところで考えて行く必要のある現代の私たちにとって、このような美意識を時には体験することは、大変に意味のあることであろう。数年おきくらいには訪れたい場所である。

by yokohama7474 | 2017-10-01 00:54 | 美術・旅行 | Comments(2)

レオナルド × ミケランジェロ展 三菱一号館美術館

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東京、丸の内の三菱一号館美術館で開かれているこの展覧会、会期は 3ヶ月以上あったのだが、ふと気づくと今週末で終了してしまう (東京のあと岐阜市歴史博物館に巡回)。私が訪れてから随分と時間が経ってしまったが、どのような展覧会であったのか、振り返ってみようと思う。

西洋美術史上知らぬ者とてない、いや、西洋美術に興味がなくとも誰もが知る、レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロ・ブオナローティ、この 2人の巨匠の作品を展示しているということで、そもそもが展示スペースが狭いこの美術館が大混雑になることを恐れつつ、訪問することとした。案の定、最初に訪問した週末には、建物の外にまで人の列ができていた。そこで一計を案じ、政府が推し進める働き方改革のひとつであるプレミアム・フライデー、つまりは毎月の最終金曜日には早く会社を出ようという運動に従って、定時前に会社を退出して美術館を再訪したところ、すいている!! 私の場合はこのプレミアム・フライデーをいつも有効活用しているのであるが、今回も大変に大きな成果があった。東京における経済活動にささやかながら貢献するとともに、自らに文化的刺激を与えることができたのである!! なんとも模範的国民ではないか (笑)。

さて、最近の展覧会ではよく写真撮影 OK のコーナーがあって、入場前にロッカーに手荷物全部を預けると、後で後悔することがあるが、今回もしかり。一旦展覧会を出てから荷物を取り出し、スマホと半券を握りしめて会場に戻り、撮った写真がこれらである。
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この美しい大理石の彫刻は、展覧会の最後に展示されている、ローマ郊外のバッサーノ・ロマーノという都市にあるサン・ヴィンチェンツィオ修道院付属聖堂が所蔵する、ミケランジェロの「十字架を持つキリスト (ジュスティアーニのキリスト)」 の実物である。制作は 1514 - 1516年。ローマのサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会のために制作されたが、制作過程で顔に黒い傷が現れたため (確かに上の写真でも写っている) 途中で放棄された。ミネルヴァ教会には今日、ミケランジェロの手になる別の完成作が置かれているが、この未完成の像の方は、依頼主の貴族の子孫によって売りに出され、その後つい最近までは所在が明確でなかったところ、2000年になってから、この像がそのミケランジェロの未完成作を 17世紀の彫刻家が完成させたものであると認定されたという。尚、この像のニックネームにあるジュスティアーニとは、この像が安置される聖堂を建てた、聖職者兼美術収集家の名。実はこの像を完成させた 17世紀の彫刻家とは、当時そのジュスティアーニのもとにいた、若き日のあのバロックの天才ベルニーニであるという、ちょっと出来過ぎの説もあるという。ともあれ、静かな展示室でこのような素晴らしい彫刻と向かい合う時間は、本当に貴重なものである。

この彫刻のほかの展示品にはスケッチなどの小品がほとんどのであるが、もちろんそれは当然のこと。ダ・ヴィンチとミケランジェロのオリジナルの油彩画を持って来るようなことになると、この敷地面積の狭い美術館は人でごった返してしまうだろう。そうではなく、ひとつひとつの紙片に天才たちの息吹が生々しく感じられる距離で接することを楽しむことこそ、この展覧会の醍醐味である。あまりに混雑していては、その貴重な時間を持つことができなくなってしまう。ポスターにあしらわれている 2点を見てみよう。これは、ダ・ヴィンチの「少女の頭部 / 『岩窟の聖母』の天使のための習作」(1483 - 1485年頃)。「この世で最も美しい素描」とも言われているらしい。
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「岩窟の聖母」は、よく知られている通り、ルーヴル美術館にあるものとロンドンのナショナル・ギャラリーにあるものとの 2点が残されているが、このスケッチは前者のもののようである。よく見るとこの 2作において、画面向かって右側にいる天使の顔の角度が (それから、姿勢そのものも) 違っているからだ。以下、上がルーヴル、下がナショナル・ギャラリー (あ、もちろん、どちらもこの展覧会には出品されていません!!)。
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そしてこれは、ミケランジェロの「『レダと白鳥』の頭部のための習作」(1530年頃)。これも美しいが、どうやらモデルは男性で、ミケランジェロの弟子であるらしい。下にはまつ毛を長くしたところを描いていて、より女性らしく見える工夫をしているようだ。この「レダと白鳥」は既に失われてしまった作品であるが、ダ・ヴィンチの同名作と併せ、あとでまた触れることとしたい。
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これも貴重な作品で、ダ・ヴィンチの「天使のための習作」(1470年代)。師であるアンドレア・デル・ヴェロッキオの「キリストの洗礼」(ウフィツィ美術館蔵) の画面左側に、若き日のダ・ヴィンチが描いた天使のスケッチである。
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この天使のあまりの美しさが評判になって、師匠を顔色なからしめたとは有名な話。完成作 (もちろん本展には出品されていません) はこんな感じ。確かに美しい。
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以前、アルチンボルド展の記事でも少し触れたが、ダ・ヴィンチは恐ろしいまでの写実性を持った芸術家であったが、その写実性は、ただ美しいものだけを描くためにあるのではなく、人間心理の真相に迫るような表現にも駆使されている。これは「老人の頭部」(1510 - 1515年頃)。老人の人生がそこに透けて見えるような顔は、実にリアリティがあり、またその一方で、まるでエイリアンのような不気味な顔なのである。
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事物のリアリティを求めるダ・ヴィンチの模索のあとは、膨大な紙片に残されているが、これは「顔と目の比率の研究」(1489 - 1490年頃)。文字はもちろん、鏡文字 (鏡に映して通常の文字になる、つまりは裏返しの文字) で書かれている。
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ダ・ヴィンチに比べるとミケランジェロはより人間くさいところが魅力である。これは「『トンド・ドーニ』の聖母のための頭部習作」(1504年頃)。
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「トンド・ドーニ」とは、ウフィツィ美術館所蔵になる板絵の聖家族の肖像の愛称で、このような、一度見たら絶対忘れないユニークな構図の作品だ。あ、もちろんこれも展覧会には出品されていません!!
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ミケランジェロの素描をあと 2点。「システィーナ礼拝堂天井画『ハマンの懲罰』のための人物習作」(1511 - 1512年頃) と、「背を向けた男性裸体像」(1504 - 1505年)。お得意の筋肉表現は力強いが、常に人間性が感じられる。
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ミケランジェロの小さめの彫刻がいくつか展示されている。これはフレンツェのカーサ・ブオナローティ (日本語では「ミケランジェロの家」と呼ばれる) 所蔵の「河神」(1525年頃)。顔や腕、足の一部を欠くトルソであるが、これでも復元されたものであるという。完成作ではなく「三次元モデル」(大作用に試作するものであろう) であるらしいが、それでもいかにもミケランジェロらしさが見て取れる作品だ。
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これはダ・ヴィンチの「髭のある男性頭部」(1502年頃)。ローマの軍人・政治家であったチェーザレ・ボルジアの肖像かとも言われているが定かではない。ここでもやはりダ・ヴィンチの筆致は容赦なく人間の内面を抉り出している。
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さて、ダ・ヴィンチとミケランジェロはともに、「レダと白鳥」のテーマによる油彩画を作成したが、現在ではいずれも失われてしまっている。だがいずれも模写が多く作成されたことで、今日でもそのイメージを持つことができる。これは作者不詳の「レオナルド・ダ・ヴィンチに基づく『レダと白鳥』」(1505 - 1510年頃)。レダの謎めいた笑みがダ・ヴィンチ風だし、卵から生まれる天使たちの不気味さも面白い。ただ、白鳥はちょっと品がないようにも見える (笑)。
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こちらは、フランチェスコ・ブリーナという画家に帰属する「レダと白鳥 (失われたミケランジェロ作品に基づく)」(1575年頃)。メディチ家礼拝堂の「夜」を思わせる女性の人体表現であるが、健康的なエロスがある。
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両者とも、いわゆる美術のだけでなく、建造物の設計等の実用的な活動を行った。これはミケランジェロの「プラート門の要塞化のための計画案 / 人物習作」(1529 - 1530年頃)。人物像の上に建築プランを書いているようだ。でもその組み合わせが、不思議と彼の創作意欲を実感させるのである。
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こちらはダ・ヴィンチの「大鎌を装備した戦車の二つの案」(1485年頃)。彼は様々な武器や軍事用の機械を考案したが、これは大きな鎌を装備した戦車で、ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァに提案されたもの。まるで人形を使ったイメージのように手足を切られる敵の姿を描いている点、諧謔味もあるが、少し冷徹さも感じさせるように思う。
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最後に、両者の手稿をご紹介しよう。これはミケランジェロによるジョヴァンニ・フランチェスコ・ファトゥッチ宛の手紙 (1526年 6月17日)。宛先の人物はローマ駐在のフィレンツェ大聖堂の司祭で、ミケランジェロの友人でもあった。上でも言及したメディチ家礼拝堂のあるサン・ロレンツォ聖堂についての実務的な内容である。力強い作品の数々を残した人であるが、文字は意外と繊細で丁寧に見え、彼の人柄を想像することができる。
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こちらはダ・ヴィンチの「蛾が飛び回る炎を前にする人物像 / 詩文による解釈」(1483 - 1485年頃)。この写真では切れてしまっているが、左上に、座っている女性とその回りを飛んでいる蛾を描き、そこに詩が添えられている。空中を飛ぶ能力にうぬぼれて、蝋燭の光に飛び込んで羽根を燃やしてしまう蛾の愚かしさを歌っているらしい。驚くのは、実利的な記述のみならず、詩作まで鏡文字で書いてしまうことだ。万能の天才には、いかなる文章でも、他人に覗かれたくないという願望があったのだろうか。それとも彼らしく、何か実利的な理由でもあったのであろうか。
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このように、偉大なる 2つの個性に間近で向き合える、素晴らしい展覧会である。既に期日は残り少なく、次のプレミアム・フライデーには東京での展覧会は既に終了してしまっているが、秋の岐阜に出掛けて行くという選択肢もあり、それなら、より静かな環境で鑑賞できる。中部地区の方々はもとより、首都圏の方々も、一考の価値ありではないだろうか。

by yokohama7474 | 2017-09-21 12:02 | 美術・旅行 | Comments(0)

ベルギー奇想の系譜 ボスからマグリット、ヤン・ファーブルまで Bunkamura ザ・ミュージアム

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このブログでは、先の「バベルの塔」展をはじめとして何度か、ヒエロニムス・ボス (1450年頃 - 1516年) やピーテル・ブリューゲル (1525/30年頃 - 1569年) の作品に触れる機会があり、また、これら 15 - 16世紀のフランドル絵画に関する私自身の思い入れも既に述べている。今回の展覧会では、そのボス、ブリューゲルに始まり、世紀末から 20世紀の作品、そして現代アートに至るまで、現在のベルギーで制作された作品が並ぶ。ベルギーにおいては世紀末に象徴主義 (フランス語でサンボリズム) の活動が活発となったことはよく知られていて、日本でも何度も展覧会が開かれているし、私もそれらを大いに楽しんできた。またベルギーからは 20世紀に入ってシュールレアリスムの代表的な画家が何人も出ているし、現代アートに至るまで、その「奇想の系譜」は実に面白いのである。

では、作品を見て行くこととしよう。まずは、本展のポスターにも使われている「トゥヌグダルスの幻視」という作品。マドリードのラサロ・ガルディアーノ財団の所有になるもので、近年の研究により、ボスの生前 (1490 - 1500年頃) に、彼の工房で制作されたことはほぼ間違いないと認定されるようになった。
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もちろん、ボス本人の作品に比べると、その筆致は少し鈍いことは明らかなので、工房の作とするのが妥当なのだろうが、まあそれにしても、細部までぎっしりと描き込まれたこの奇想は、紛れもないボス的世界。題名の「トゥヌグダルスの幻視」とは、アイルランドの修道士マルクスが 12世紀半ばに記した異界巡りの説話であるらしい。ボスの時代のネーデルラントではこの説話が出版されて人気を博していたらしい。主人公トゥヌグダルスは画面の手前左下でまどろむ人物。彼の見る幻視は、七つの大罪を表している。いやでも目に入ってくる中央奥の大きな頭部は、それ自体罪の象徴であるらしい。ここでは黒いネズミ (邪淫の象徴) が空っぽの眼窩に入り込もうとしていて、知覚から入り込む誘惑を表しているという。この頭部の鼻からはコインが噴き出ていて、その下の桶の中で何やら緑色の液体に浸かっている修道女と修道士の上に降り注いでいる。また、画面右では「激怒」と「大食」が描かれているが、怪物に酒を飲まされたり刺されたり、あるいは首を切られたりという残虐なシーンが見られる。罪を戒めるという趣旨なのであろうが、ただの教科書的な描写では全くない、異常なまでの強烈なヴィジョンである。
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これもボスの生前にその追随者によって描かれたとされる「聖クリストフォロス」(1508年)。河で人々を背負って向こう岸に連れて行くことを生業にしていたクリストフォロスがあるとき幼児を背負って河を歩いていたところ、その幼児がどんどん重くなって行った。ようやく反対側に辿り着いたときに幼児は、自分がキリストであることと、クリストフォロスが背負ったのは神の創造した全世界であることを告げたという物語。その題材は珍しいものではないが、これでもかとばかりに異形の者たちが描かれているのは大きな特徴である。このようなイメージが当時のフランドルで流行した理由は何なのであろうか。フランスやスペインでは、このようなイメージは想像できない。
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これも同じ題材、「聖クリストフォロス」で、ヤン・マンデイン (1500年頃 - 1559年) なる画家の作品。上の作品と共通するイメージが使われているが、完全に流用しているわけではなくて、独自性もある。16世紀を通じて、ボス風の奇想がいかに人気を博していたかの証拠であろう。
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展覧会には版画も多く展示されていて、ボス風の奇想のものもあるが、これは一見すると少し趣向の異なるもの。ボスと同時代の画家アラールト・デュハメール (1450年頃 - 1506年) による「包囲された象」。もちろん象はヨーロッパには生息していないので、これはアジアかアフリカから連れて来られたものであろうが、スペインのフェリペ 2世から、叔父の神聖ローマ皇帝フェルディナント 1世 (おぉっ、アルチンボルドが最初に仕えた皇帝だ) に贈られたエマニュエルという象が 1563年にアントワープでパレードを行った記録があり、これはその当時発行されたものだという。画家の死後であるので、この版画がそのエマニュエルを描いたものではないようだが、珍奇で巨大な動物に群がる人々がユーモラス。だがよく見ると、象の上に乗っている奇妙な建物 (?) などは、ボスの作品を思わせ、実はこの作品自体、ボスの初期作品の模倣である可能性も指摘されているらしい。
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それから、何度見ても面白いブリューゲルの版画。ブリューゲルの場合は奇想だけに依拠してはおらず、夥しい人数を登場させて当時の風俗を描くような作品も多いが、やはりボスの作り出した異常なヴィジョンへの需要に応えて、ボスとは似て非なる幻想世界を創造した。以下、「冥府へ下るキリスト」(1558年頃)、「七つの大罪」から「激怒」(1558年)、「七つの徳目」から「希望」(1559 - 1560年)。
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そして、奇想の系譜には普通入らない大画家の作品が展示されている。それはペーテル・パウル・ルーベンス (1577年 - 1640年)。言うまでもなくバロックを代表する画家であり、ヨーロッパの美術館ではどこに行っても、彼とその工房が生み出した作品の数々に出会うことになると言っても過言ではない。この展覧会では、何点かの版画が展示されているが、これは「反逆天使と戦う大天使聖ミカエル」(1621年)。いかにもルーベンスらしい力感に満ちた作品だが、多くの異形の者どもの表現には、フランドル絵画の伝統が影響している点もあるのだろうか。
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そして展示作品は 19世紀へ。上にも書いた通り、ベルギー象徴派は退廃的ではあるが日本でも人気で、私も大好きなのであるが、奇想という流れでこれらの絵画を読み解くのも面白い。まず、フェリシアン・ロップス (1833年 - 1898年)。この画家の名前を知ったのは多分、澁澤龍彦の著作であったと思うが (今手元に彼の「幻想の彼方へ」を取り出してきてパラパラ見てみると、あとで触れるシュールの巨匠デルヴォーについての文章で、ロップスにも言及があった)、いやなんとも退嬰的で個性的、ある場合には異常なほどの冒涜的な作品を残した人である。これは「舞踏会の死神」(1865年 - 1875年頃)。死神が着ているのは日本の着物のようにも見えるが、どうやらキリスト教の司祭が着るガウンであるらしい。なんという冒涜。
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実はロップスは、1864年にブリュッセルを訪れたフランス象徴主義の詩人ボードレールと交流し、その影響を受けたという。上の作品もボードレールの代表作「悪の華」に基づくものであるらしい。なるほどそう言えば、ボードレールの退廃と共通点がある。このロップスの作品、とてもこの文化ブログではご紹介できないような冒涜的な作品が数々展示されているが、勇気を奮い起こして (笑) ひとつご紹介しよう。1878年作の「聖アントニウスの誘惑」。こちらはギュスターヴ・フローベールの「聖アントワーヌの誘惑」(1874年) に影響されたものかとされているらしい。聖アントニウスは、キリストは十字架から落とされ、代わりにそこには豊満な肉体をさらす娼婦が現れるという幻想を見ている。おぞましいほど冒涜的だ。
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ロップスの作品としては比較的有名なのがこの作品だろう。1896年の「娼婦政治家」。目隠しをして豚に先導される裸体の娼婦の姿に、当時の政治家への皮肉が込められているらしい。
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さて、ベルギー世紀末象徴主義といえば、忘れてはならないのがフェルナン・クノップフ (1858年 - 1921年) である。その神秘的で淡いトーンの作品には、退廃的要素とともに、甘美なものが常につきまとう。描かれた人物は多くの場合両性具有的であり、世紀末特有のファム・ファタルのイメージであるケースも多い。そしてよく知られているのは、妹に対して異常なまでの深い愛情を抱いていたことで、作品のモデルもその妹、マルグリットがほとんどであるようだ。これは 1900年頃の、鉛筆とパステルによる「顔を覆うマルグリット」。それから、鉛筆と色チョークによる「女性習作」。クノップフらしい作品たちだ。
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クノップフが幼時に暮らしたブリュージュはまた、ジョルジュ・ローデンバック (1855年 - 1898年) の傑作小説「死都ブリュージュ」(1892年) でもよく知られているが、クノップフは若い頃ローデンバックと交流があったらしい。これは 1904年頃の「ブリュージュにて、聖ヨハネ施療院」。いかにもブリュージュのイメージにふさわしいではないか。うーむ、ブリュージュ、行ってみたい!!
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クノップフの作品の多くは怪しさに満ちているが、そのことによって彼の洗練されたセンスを過小評価してはいけない。これは 1894年の「巫女 (シビュラ)」。彫刻作品の色彩写真であろうが、古代の雰囲気とその時代の空気を併せ持つ、大変に洗練された表現であると思う。
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さて次はジャン・デルヴィル (1867年 - 1953年) である。以前も彼の名前に、ミュシャ展についての記事の中で触れたが、ベルギー象徴派の流れでは彼の作品に触れる機会はあっても、単独での回顧展は、私の知る限り日本で開かれたことはないのではないか。一度まとめてその作品を鑑賞したい画家である。この展覧会には 4点が出品されていて、貴重な機会となっている。これは 1888年の黒チョークによる作品、「ステュムパーリデスの鳥」。ギリシャ神話に登場する、翼の先が青銅でできていて集団で生活する怪鳥である。
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これは「赤死病の仮面」(1890年頃)。もちろん、エドガー・アラン・ポーの作品に基づくもので、これぞ世紀末という雰囲気。
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こちらは明るい色調が印象的な「レテ河の水を飲むダンテ」(1919年)。姫路市立美術館の所蔵品である。このような作品を見ると、やはりこのデルヴィルという画家の辿った軌跡を知りたくなる。岩崎美術社の夢人館というシリーズで画集が出ていたが、今でも手に入るのだろうか。
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さて、今回初めて知った素晴らしい画家が 2人いるのでご紹介する。まず、ウィリアム・ドグーヴ・ド・ヌンク (1867年 - 1935年)。やはり象徴主義の画家であり、その活動の中心人物たちと交流を持った人らしい。この「運河」(1894年) は、横長の作品であるのだが、なかなか図録から全体を写真に収めるのが難しく、これはその一部。人の姿が見えない運河の風景の中に静謐な神秘感が漂っていて素晴らしい。
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次に、ヴァレリウス・ド・サードレール (1867年 - 1941年)。この「フランドルの雪」(1928年作、アントワープ王立美術館蔵) は不思議な作品だ。雪景色ということもあり、ここでも静謐さが支配する。見ていると吸い込まれそうな気もしてくるような、なんとも神秘的な作品だが、その雪の様子は、例えばブリューゲルの「雪中の狩人」を思わせる要素もある。フランドルの過去の作品へのオマージュを感じられる作品だと思う。
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次にご紹介するレオン・スピリアールト (1881年 - 1946年) は、名前には聞き覚えが確かにあるが、いつどこで彼の作品を見たのか思い出せない。どこかの小規模な展覧会か、かつて何度か見たベルギー象徴派の展覧会のいずれかにおいてであったろうか。この「堤防と砂浜」(1908 - 1909年作) は、墨と水彩によるもの。ここで描かれている光は灯台のものであるらしいが、画面から漂うその孤独感は、鑑賞者をして絵の前で黙らしめるようなものである。
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さてここからは、ベルギーの画家と言えば誰もが知る 3人に触れよう。まずはジェームズ・アンソール (1860年 - 1949年)。仮面の画家の異名を取る彼の作品には、鮮やかな色合いとは対照的なシニカルさが常にあり、ときにそれは背筋も凍るほとである。この「ゴルゴダの丘」(1886年) を見ると、キリストの十字架 (通常は "INRI"、つまり、「ナザレのイエス、ユダヤの王」の意味の言葉が掲げられる箇所) に、"Ensore"、つまりアンソールという自分の名前を入れている。彼を突く槍には "Fetis" と見えるが、これは当時の美術評論家の名であるらしい。自らをキリストになぞらえるとは、おこがましいにもほどがあるが (笑)、ベルギーにはこのような冒涜的な発想が生まれる素地があったということだろうか。
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アンソールをもう 1枚。1933年の「オルガンに向かうアンソール」。実はこの絵の奥に描かれているのは、1888年の作品「1889年のキリストのブリュッセル入城」で、その前でオルガンを弾くアンソール自身の姿が題材となっている。いかにもアンソールらしい色彩と題材のギャップはあるが、両大戦間の作品になると、世紀末の頃の作品に比べると、毒は減ってきているかもしれない。
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そしてあとの 2人は、シュールレアリスムを代表するポール・デルヴォー (1897年 - 1994年) と、ルネ・マグリット (1898年 - 1967年)。ともによく知られた画家であるし、後者に関しては日本での大規模な回顧展の記事を書いたこともあるので、ここでは詳細は割愛する。デルヴォーの「海は近い」(1965年) と、マグリットの「虚ろな目」(1927年または 1928年)。これまで見てきた作品によっても、ベルギー絵画にはシュールの萌芽になる感性がもともとあることが分かって、実に興味深い。
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もちろん、歴史的な作品ばかりでなく、ベルギーの現代アート作品もいくつか展示されているので、ご紹介したい。まずこれは、レオ・コーペルス (1947年 - ) の「ティンパニー」(2006年 - 2010年)。骸骨が逆さづりになり、上下に動いてティンパニを叩く仕掛け (会場では作品は静止しており、動いているヴィデオ映像が流れている)。ここには「メメント・モリ」(死を想え) の精神があると思われる。
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これは、ミヒャエル・ボレマンス (1963年 - ) の「Automat (3)」(2008年)。細部は写実的なのに、向こうを向いたこの女性は、足のない状態で床の上に浮かんでいるように見える。後ろで結んだ手や、血痕かと見えるいくつかの衣類のしみも、不気味なことこの上ない。
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これは会場入り口で訪問客を出迎えている、ヤン・ファーブル (1958年 - ) の「フランダースの戦士 (絶望の戦士)」(1996年)。彼のパフォーマンスは、私が学生の頃に日本に紹介されて話題になった。あの「ファーブル昆虫記」のアンリ・ファーブルの曾孫であるらしいが、このように意識的に虫を使った作品が多い。ここで貼りつけられているのは、夥しい数のカブトムシである。
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最後は、トマス・ルルイ (1981年 - ) のユニークな作品、「生き残るには脳が足らない」(2009年)。ギリシャ彫刻のような胴体に、巨大な頭部が乗っていて、その頭部は哲学者ふうの顔立ちであるものの、だらしなく口からヨダレを垂らしている。確かにこの人、脳が足りないようだ (笑)。
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このように、500年に亘るベルギー美術を概観する、非常に充実した展覧会である。ベルギーという複雑な土地で表現された人間の心理の諸相には、実に奥深いものがあると思うので、9/24 (日) までの会期に足を運ぶ価値は充分にあるだろう。お、そうだ。足と言えば、会場で販売していたこんなフィギュアを買ってしまいました。言うまでもなくこれは、マグリットの代表作「赤いモデル」の立体化である。何がどう赤いのか分からないこの作品であるが、立体であるがゆえに、自分で好きな向きに置いて楽しむことができるのだ。これは必携とまでは言えないが、イマジネーションが広がって楽しいのである。あ、後ろに見えるのは、エジプトのファラオを象った我が家のフィギュアの一部で、マグリットとは関係ありません (笑)。
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by yokohama7474 | 2017-09-18 00:31 | 美術・旅行 | Comments(0)

アルチンボルド展 国立西洋美術館

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ジュゼッペ・アルチンボルド (1526 - 1593) という画家の名前は知らずとも、上のポスターに掲げたような奇妙なイメージの絵を見たことのない人はいないだろう。花や果物や、魚や動物や木や火によって形作られた人の肖像。一目見たら絶対に忘れることのできない奇抜な作品の数々である。そんな作品を残したイタリア人画家、アルチンボルドの展覧会が、6月から東京上野の国立西洋美術館で開かれている。約 3ヶ月に亘る会期はあと 2週間ほどで終了し、地方巡回はない。私も、まさかアルチンボルドの展覧会が日本で開かれるとは驚きであったが、実際に足を運んでみて、その予想以上の充実ぶりにまた驚いた。今後はいつ開かれるかは分からない貴重な機会であるので、展覧会の概要を見て行こう。まずこれが、アルチンボルドの「紙の自画像 (紙の男)」。25年間に亘るハプスブルク宮廷での生活を終えて、故郷ジェノヴァに還ってきた画家の自画像だ。題名の通り、よく見ると紙で構成された半身像であり、襟元には「1587」、額には「61」とあって、つまり 1587年に 61歳のときの自画像を描いたと考えられている。彼が宮廷で描いた奇抜な油絵の数々に比べると控えめではあるが、その精神は同じであり、しかもこのデッサン力は大したものである。つまりアルチンボルドの作品は、ユーモア感覚と画家としての技量が揃っていないとできないものであることが分かる。
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アルチンボルドのだまし絵は、その仕上がりが極めて特殊であるゆえ、何か西洋美術史における突然変異のように見えるかもしれないが、展覧会では彼の絵の背景が理解できるような展示物に触れることができる。アルチンボルドが活躍した 16世紀後半は、ルネサンスも盛期を過ぎ、地域によってはマニエリスムと呼ばれるスタイルに移っていたが、画家が修業する上で、自然観察に関する科学的態度は欠かせない要素になっていた。そのような精神なしにはアルチンボルドの作品は考えられない。その一方で、人間に対する観察と、それに基づく諧謔味を伴う誇張という点も、絵画表現において重要になってきていたが、ルネサンスの時代、自然観察と人間観察の双方において大変な高みに達した画家がいる。いうまでもなく、レオナルド・ダ・ヴィンチだ。彼は数多くのペン画やデッサン、また鏡文字を使用した文章を残したが、例えばこの「鼻のつぶれた禿頭の太った男の肖像」(1485 - 90年) は、写実的でありながら諧謔味もある。このような精神は、アルチンボルドの作品と通底するように思われる。
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アルチンボルドの作り出した奇抜なイメージが同時代、そして後世の人々にも支持された理由のひとつは、そこに人間の何か根源的な興味を惹く要素があるということだろうし、天下のハプスブルク王朝において作られた絵画イメージであることも、人々にお墨付きを与えたものであろうか。例えばこれらは、アルチンボルドの死後何十年も経過した、1630 - 50年頃の作といわれる「四季の寓意」のエッチングである。うーん、本物からは随分と安っぽくなっているが、人々は奇抜なイメージを楽しんだのだろう。
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展覧会ではここらで、本物のアルチンボルド作品の名刺代わりの一発とばかりに展示されているのがこれだ。ワシントンのナショナル・ギャラリー所蔵の「四季」(1590年頃)。上の版画のような、ただのイメージだけの追随と比べると、自然物だけを使って、存在感のあるリアルな老婆の姿を描き出したアルチンボルドの手腕の冴えは、明らかだ。
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このアルチンボルドが宮廷の肖像画家としてウィーンに移住したのは 1562年、36歳頃のことだ。以来、フェルディナント 1世、マクシミリアン 2世、ルドルフ 2世という 3代の皇帝に仕えることとなる。展覧会にはこれら皇帝とその家族の肖像画がいくつか並んでいるが、これはアルチンボルドの作であろうとされるマクシミリアン 2世の皇女、アンナの肖像 (1563年頃)。この人は叔父にあたるスペインのフェリペ 2世に嫁いでいるらしい。アルチンボルドが「まっとうな」肖像画家としてもなかなかの手腕であったことが分かる。
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また彼は、宮廷での馬上試合の装飾をデザインしている。これらは 1585年、ルドルフ 2世に献じられた馬上試合用のもの。「槍を持つ女」と「龍の仮面をかぶった男」である。このデザイン、ただの義務でやっているのではなく、画家自身が楽しんでいるようには見えないだろうか。
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展覧会には当時ハプスブルク宮廷に献呈された杯などの工芸品が並んでおり、そしてメインのコーナーでは、アルチンボルドの代表作「四季」と「四大元素」の 2つの 4連作が勢ぞろいしている。これらは額縁がシンプルなものから豪華なものまでいろいろあり、所有者もバラバラであることに気づかされる。以下のような具合だ。
「四季」の「春」はマドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミー美術館、「夏」と「秋」はデンヴァー美術館、「冬」はウィーン美術史美術館。「四大元素」の「大気」と「火」はスイスの個人、「大地」はリヒテンシュタイン侯爵家、「水」はウィーン美術史美術館。これらが勢ぞろいするのは極めて貴重な機会であり、今後またあるのか否か分からないほどだ。以下、一気に画像を掲載する。どれを取っても、ずっと見ていても飽きない作品たちで、私は会場をグルグルと何度も回ってしまいました。
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これらの絵がなぜ面白いかと言えば、様々な構成要素がリアルでついつい見入ってしまうことに加え、全体として、描かれた人物の個性までも伝わってくるように思われるからだ。そしてこれら 2つのシリーズ、こうして並べてみると、右向きと左向きが交互になっていることが分かるが、テーマとして、「春」は暑くて湿っている「大気」と、「夏」は暑くて乾燥している「火」と、「秋」は冷たくて乾いている「大地」と、「冬」は冷たくて湿っている「水」と対応しているらしい。上の写真でいうと、1つめと 5つめ、2つめと 6つめ、3つめと 7つめ、4つめと 8つめということになり、これらをそのペアで左右に並べると、向かい合うこととなる。展覧会ではそのように展示されているのである。だがその面白さは、その場に身を置いてみないと分からない。未だ現地に行っていない方は、残る会期に慌てて上野に走る価値ありである。

さて、私は長年に亘る澁澤龍彦のファンであるが、昭和の時代に、正統派ではない西洋絵画を多く日本に紹介した彼の随筆にはしばしば、ルドルフ 2世がプラハに芸術家や科学者を集めたことに言及していて、その中にアルチンボルドの名も出て来る (因みに来年 1月から 3月にかけて、Bunkamura ザ・ミュージアムにて「ルドルフ 2世 驚異の世界展」が開かれるので、今から楽しみだ)。珍奇なものを喜ぶ精神には、もちろん博物学的な観点以外に退廃的なものもあるだろうが、人間の好奇心はそのような珍奇なものに反応する。今回の展覧会でも、そのような宮廷の雰囲気を感じられる展示物がある。今日ではあまり健全ではないかもしれないが、歴史を知るには興味深い資料である。これは 1642年の「怪物誌」という書籍から、多毛人して当時知られていたゴンザレス家についての記述。また、1580年以降に描かれたとされる「エンリコ・ゴンザレス、多毛のペドロ・ゴンザレスの息子」という油彩画もある。
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現実に目に見える世界、当たり前の世界でないものへの興味という意味で、アルチンボルドが人気を博した時代の感性が理解できる。それはまた、このような作品にも見て取ることができよう。1662年以前の「擬人化された風景」で、マテウス・メリアン (父) という画家に基づく、ヴェンセスラウス・ホラーという画家の作品。風景が実は人の顔になっているというだまし絵的な要素は、遥か後年のシュルレアリスム的感性に通じる。
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さてアルチンボルドは、上のような動植物のような有機体による連作以外の単発でも、面白い作品をいろいろと残している。これは 1574年の「ソムリエ (ウェイター)」。大阪新美術館建設準備室の所蔵になるものだ。ほっほぅ、大阪府はこれまた貴重な作品を手にしたものだ。これは、二度漬け禁止、ではなかった、二度と手に入らない逸品ではないだろうか。
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それからこれは、スウェーデン王室に伝わる「司書」。実在したハプスブルク家の図書館長を描いたとされるが、その仕上がりが若干雑であるとして、アルチンボルドの真筆ではないという説もあるらしい。
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まあ確かに、アルチンボルドの真作とされる以下の作品に見ることができる、人間としての実在感は大したもの。1566年の「法律家」である。ストックホルム国立美術館の所蔵。法学の知識を備えた実在の行政官をモデルにしたと言われる。うーん、鳥と魚からなる行政官か (笑)。
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そして最後に、アルチンボルドの底知れない遊び心を思わせる 2点の作品をご紹介しよう。もったいぶっても仕方ないのでここで述べてしまうと、いずれも上下さかさまにすると全く違う図像が現れてくるというもの。「庭師 / 野菜」と「コック / 肉」だ。特に私が萌えたのは、後者における人の指である。こんな人間への親近感あふれる表現は、ほかのアルチンボルドの作品にはないのではないか。
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このように、誰にでも楽しめる作品の数々に触れる機会は大変に貴重なものなのである。さてここからは展覧会の展示とは異なる作品の紹介なのであるが、このようなアルチンボルドのだまし絵の感覚は、日本人の感性にもかなり合ったようだ。鎖国していたはずの江戸時代の日本では、有名な幕末の絵師、歌川国芳 (1798 - 1861) のこのような作品には鳥肌が立つ。「みかけはこわいがとんだいいひとだ」。
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そしてこれは若干毛色が違うものの、似たような感性による作品。「東海道五十三次」で知られる初代安藤広重 (1797 - 1858) の手になる影絵「かけぼし尽くし」。なんなんだこの楽しさは (笑)。
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やはり日本人の感覚には、このような光と影の遊戯が合う面があるようだ。そんなわけで、会場に売っていたアルチンボルドの「水」を象ったフィギュアを購入。このフィギュアのよいところは、原作では横からしか見えなかった人物の顔を、正面から見ることができること。まぁ、だからなんだと言われてしまえばそれまでだが、なんだか楽しいではないか (笑)。早速我が家のフィギュアコーナーに仲間入りである。
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by yokohama7474 | 2017-09-10 21:52 | 美術・旅行 | Comments(0)

没後 90年 萬 鉄五郎展 神奈川県立近代美術館葉山

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萬鐡五郎 (よろず てつごろう 1885 - 1927) の名は、日本の近代の美術に興味があれば必ず知っている名前であるが、一般的な知名度はどうであろう。実際、大正モダニズムを代表するような彼の作品は、その分野に関連する展覧会では必ず出品されているものではあるが、日本の洋画の中での位置はどうであろうか。だが、ここに彼の評価を端的に表すひとつの例がある。上のポスターの左端に掲載されている彼の作品、東京国立近代美術館所蔵の「裸体美人」(1912年) は、なんと国の重要文化財に指定されているのである。明治以降に描かれた日本の洋画の中で、重要文化財に指定された作品が一体何点あるのだろう。ふと思い立って、文化庁のサイトで、すべての重要文化財の絵画 1,838点をざっと調べてみた。ヴィジュアルなイメージなしに名称だけでざっと見ただけなので、間違っているかもしれないが、重要文化財の洋画の総数は 18。まあこの数字が間違っていたとしても、せいぜいが 20作品程度であることは間違いない。そして、日本の洋画家として欠くことのできない名前である梅原龍三郎と安井曾太郎の作品はそこには入っていないのだ。この 2人の巨匠画家たちの生年は 1888年だから、この記事の主人公である萬よりも 3歳下なだけなのである。もちろん、今後彼らの作品も重要文化財指定を受けることになるであろうが、現時点で見たときに、明治期の錚々たる洋画家たちの中で、フォーヴィスム風の荒々しい作風を持つ萬の作品がこれだけの高い評価を得ていることは、非常に興味深いと思うのである。因みにこの展覧会は、この記事を書いている 9/3 (日) に、私が見に行った会場である神奈川県立近代美術館 葉山での開催は終了し、この後は 9/16 (土) から 2ヶ月間、新潟県立近代美術館での開催となる。これが萬の肖像写真。
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そして、彼の生没年に注目しよう。彼は結核のために、満 41歳で亡くなっているのだ。だが、イメージとしては夭逝の天才という感じではなく、むしろ、かなりの数の作品を残した人という評価ができるのではないか。未だに全貌をよく知られているわけではない萬の画業を辿るには恰好の機会であり、私はこの展覧会を堪能した。展覧会はまず、萬が未だ画家を目指す少年であった頃の作品から始まる。これは、1898年、彼が 13歳の頃の図画帳。現在の岩手県花巻市の生まれであり、東北らしい、正確さを追求する忍耐を感じさせる画業の始まりだ。
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これはその 3年後、16歳の頃のもので、当時神田にあった速成文学会という画塾の通信教育。朱書きでの指導に真摯に向き合う少年の姿を伺い知ることができる。
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これは 1902年、17歳の頃の水彩画で、「中門 (八丁)」。何の変哲もないようでいて、扉の向こうの風景や、手前の地面に生えた赤い植物など、何か単なる描写を越えた画家の思想のようなものが感じられはしないか。
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これは 1905年、最初期の油彩画で、「静物 (コップと夏みかん)」。20歳の素直な感性が感じられる。
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萬は 1907年に東京美術学校 (現在の東京藝術大学) に入学し、黒田清輝らについて学ぶ。これは 1908年の「雪の風景」。故郷の風景であろうか。詩情あふれる作品であるが、通り一遍の雪景色ではない点、さすがである。
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これは 1909年の作品で、授業において描かれたのであろう、「裸婦」。この色遣いは、早くも後年のフォーヴ風の雰囲気を纏っているように思われる。
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萬は自画像を多く描いているが、これは 1911年、「点描風の自画像」。なるほどここでは、後期印象派風でもあり、一種表現主義的でもあるように思われる。萬は自画像を多く描いており、この後も何点かの自画像を見ることになるだろう。
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これも素晴らしい作品で、1911 - 12年の「落暉 (荷車ひきのいる風景)」。激しい西日 (題名の落暉 = らっき = とは日没のこと) は、ここでは幾千の光彩溢れる光線の束となって街に降り注ぐ。なぜかしら懐かしいこの風景。
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そして 1912年についに彼は生涯を通しての代表作を描く。上でも触れた、東京国立近代美術館の所蔵になる重要文化財、「裸体美人」である。1912年とは、明治の最後の年、明治 45年である。大正というモダニズムの時代に先駆けて、このような自由な感性を持ちえた萬は、本当に稀な人であると思う。これはほとんどフォーヴの世界。フォーヴィスムは、1905年にパリで開かれたサロン・ドートンヌの出品作から名付けられたもの。そのわずか 7年後、27歳の萬に、一体何が憑りついたのであろうか。この赤と緑の補色、空にポカリと浮かんだ雲、女性の腋毛など、実に強烈なのである。
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展覧会にはこの作品の下絵や習作が展示されている。この習作を見てみると、完成作よりもはるかにおとなしい。やはり制作の過程で何かデモーニッシュなものが彼に憑りついたのであろうか。
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ここで再び、萬の自画像の数々をご紹介しよう。まずは大原美術館所蔵の「雲のある自画像」(1912年作)。「裸婦美人」の雲はほぼ白であったが、ここでは緑と赤の、やはり補色関係で表されている。不思議な感覚の自画像だ。
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これもやはり「雲のある自画像」(1912 - 13年作)。これはまたちょっと危ない雰囲気をたたえた作品であり、目の下の隈は緑色である。
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そして今度は「赤い目の自画像」(1913年作)。これは目だけでなく全体が赤を基調とした作品で、短期間の間に自らをモデルにしてスタイルを模索する画家の魂が感じられよう。
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これは 1915年の「自画像」。今度はプリミティヴというかルオー風というか、また全然違った作風である。
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同じ 1915年の「目のない自画像」。うーん、ついに怪談の中の「むじな」になってしまったか (笑)。画家をこのように追い込んだものは一体何だったのか。世界における大規模な戦争か、それとも全くの内面的な要素であったのか。
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萬の目は浅草の繁華街にも向くこととなった。これは 1912 - 13年作の「軽業師」。ここで想像するのはやはりシャガールか。
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これも同時期、1912年の「飛び込み」。色と形態が躍動している。
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日本の洋画家によくある通り、萬も時に日本画を描いて、新たな境地を模索している。これは 1914年の「木小屋」。なかなかの情緒ではないか。
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これも斬新な表現だ。同じ 1914年の「怒涛の図」。砕け散る波が、あたかもモノトーンの点描画になっていて面白い。
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1915年に描かれた水墨による抽象画は非常にユニークだ。この「構図」など、どう見てもカンディンスキーの模倣である。
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彼が「裸体美人」を自らの最高傑作と思ったか否かは定かではない。というよりも、多分通過点くらいにしか思っていなかったろう。油絵の世界での試行錯誤はその頃も続いていた。これも 1914年の「男」。立派な筋肉であり、昔の実直な日本人を思わせるが、その体躯からは、どこかセザンヌを思わせるような、微妙な幾何学性が感じられると思う。
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萬の絵画表現は凄みを増して行くのだが、そこには何か、迷いも感じることができるように思う。この 1915年の「土沢風景 --- だんだん畑のある ---」は、曲がりくねった松が面白いが、画家の暗い心情を表した画面になっているのではないだろうか。
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1918年の「かなきり声の風景」を見ると、さらに画家の内面がさらけ出されたものになっていて、色遣いが毒々しい分、どこか痛々しい。
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これは 1918年の「薬罐と茶道具のある静物」。静物画でありながら対象物が動いているような表現であり、それであるがゆえに、キュビスム風に様々に異なる角度から見たモノに実在感を感じるのであろうか。
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キュビスムと言えば、これも萬の代表作のひとつと言えるであろう、1917年作の「もたれて立つ人」。上で見たのっぺらぼうの自画像とキュビスムの邂逅であるが、ここでは対象は明らかに女性である。代表作「裸体美人」からわずか 5年で、萬は遠いところにまで到着している。
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これは 1918年の「郊外風景」。対象物を大きくとらえ、大胆な色遣いで運動性まで感じさせる。
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さてこれは、1922年に描いた水墨画「砂丘」。鉄斎かとみまがうばかりの南画風表現ではないか。きっと萬という人は、強い生命力を持っていて、目に見える世界にも様々な種類があった人だったのだろう。
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これは 1923年の「少女 (校服のとみ子)」。ここでは明らかにマティス風の表現が試みられていて、しかもそれがかなりサマになっている。
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このように様々なスタイルを逍遥して精力的な活動を展開して来た萬であるが、1927年、41歳の若さで亡くなってしまう。結核であった。そんな彼が未完成として残した「裸婦 (宝珠をもつ人)」(1926 - 27年作)。和風のようでもあり洋風のようでもあり、不思議な雰囲気だが、ここでこの人物が宝珠を持っていることから、仏教的なイメージも醸し出されている。
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実は、萬が生まれた岩手県には、坂上田村麻呂以来の毘沙門天信仰が盛んで、いくつものユニークな古い毘沙門天像が残されている。この裸婦が宝珠を持つ姿勢は、花巻市の成島毘沙門堂の本尊との共通性が指摘されている。これは本当に迫力満点の重要文化財であり、私も 35年ほど前に一度見たきりであるが、また東北の仏像詣でに出掛けたいと思わせるに充分なものなのである。それにしても、萬が毘沙門天のイメージを使おうとしたのなら、その理由は何だったのであろうか。
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萬が他界した 41歳とは、画家としてまだまだこれからという年齢である。その短い様々なタイプの作品を数多く残したこの画家の画業を一言でまとめるわけにはいかないが、ある意味では、日本の洋画家としての利点とハンディキャップを両方意識していた画家だということはできるだろう。「裸体美人」に感じるモダニズムだけでない人だということを実感させる、大変に有意義な展覧会であった。

by yokohama7474 | 2017-09-03 23:28 | 美術・旅行 | Comments(2)

地獄絵ワンダーランド 三井記念美術館

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夏には時々、妖怪や幽霊と言った怪奇なものを特集する展覧会が開かれており、私もこのブログにおいて、過去にそのような展覧会をいくつか取り上げてきている。これもそういったもののひとつ。既に夏の気配は去り、この展覧会の会期も明日までである。今年の夏はどうにもすっきりしない天候であったので、怖いものを見てひやりとしたいという気分にはあまりならない日も多かったが、ともあれ、日本人の死生観に直結する地獄のヴィジョンを様々に紹介する面白い展覧会であるので、ここでざっとご紹介してみたい。

地獄とはもちろん、生前に悪い行いをした者が墜ちるところであり、三途の川や閻魔大王などの死後の世界のイメージは、日本人の誰しもにとって親しいものであったろう。ただ、それは昭和に生まれた私のような世代の者にとっては当然そうであっても、今の若い人たちにとってはどうなのであろうか。以前のように仏教的な感覚が日常的に近いものであった時代は既になく、土地の古老から地獄の話を聞かされて震えあがるという経験は、ほとんどないのではないか。いや、実は私の世代であっても、少なくとも都会に育った人間には、そのような経験はほとんどなかったわけであるが、それでも、地獄に関して、ある恐怖心を持っていたことは確かである。私の場合は小学生のときに「地獄大図鑑」なるカラーの本を買ってきて読みふけり、学校の勉強そっちのけで、熱心に地獄の勉強をしていたものだ (笑)。いわゆる八大地獄なるものに、小学生にして既に通じていたのである。こんな本であった。このジャガーバックスのシリーズはまさに異形のもの、怪奇なものに関する私の原点で、ここでなんともキッチュな挿絵を描いていた石原豪人についても、長じてから知ることとなったが、まあその話は別の機会に譲ろう。
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そして私の妖怪への興味は、ひとりの漫画家によって強く掻きたてられられることとなった。言うまでもなく、水木しげるである。この展覧会もまた、その水木しげるの描いた地獄の様子の原画に始まる。これが閻魔大王。
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水木しげるは一般的にも人気があり、NHK の朝ドラで「ゲゲゲの女房」などというヒット作もあったので、既にかなり知られていることであろうが、鳥取の境港に育った彼が幼い日に、のんのんばあなるお手伝いのお婆さんが語ったお化けや地獄の世界が、彼のイマジネーションの源泉である。上の絵でも、左手前に、あたふたと逃げる水木少年とのんのんばあが描かれている。以下、地獄の情景をいくつか。八大地獄の中の第ニ、黒縄地獄。第五、大叫喚地獄。そして第八、阿鼻地獄。因みにこの第八は、展覧会の表示では「阿鼻叫喚地獄」とあったが、いやいや、上記の「地獄大図鑑」にはその呼び方ではなく、「阿鼻地獄」と記載されていたので、私としては飽くまでもそれにこだわりたい (笑)。
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そもそも日本人にこのような地獄や、その対照としての極楽のイメージが根付いたのは、鎌倉時代以降の庶民の信仰、浄土系の思想によるものである。高校の日本史の教科書にも必ず出て来る恵心僧都源信の手になる「往生要集」に、既に地獄のイメージが明確に述べられているらしい。だが日本人の場合、どういうわけか視覚の刺激を好むものであるらしく、地獄の様子の視覚化によって、そのイメージが人々の中に定着して行ったのであろう。水木しげるは妖怪画においても江戸時代の印刷物からのイメージを流用しているケースが多いが、例えば上の「阿鼻地獄」の奥で落下して来る人々のイメージは、例えばこの、1671年に発行された「和字絵入往生要集」、つまり、源信の「往生要集」の図解版に既に現れている。
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展覧会では、ここから始まる様々な地獄絵がこれでもかと並べられていて (期間中の展示替えがかなり多いのが難点だが)、なんとも興味深い。これは、滋賀県の新知恩院所蔵になる重要文化財の「六道絵」から「地獄道」、「阿修羅道」、「天道」。何が珍しいといって、これらは中国で描かれたものなのだ。南宋から元にかけての時代、つまりは 12 -13世紀の作品である。ご覧の通り非常に優れた筆致の作品であるが、日本のこの種の絵よりも格調が高いというか、タブローの色合いが濃く、物語性は希薄に思われる。
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やはり 12世紀頃に描かれ、現在では東京国立博物館や奈良国立博物館が所蔵する「地獄草紙」は国宝に指定されているが、この展覧会では残念ながら見ることはできない。だが、地獄草紙のひとつ、益田家本の明治時代の模写が展示されている。この炸裂する物語性と、それから強烈なスプラッター感覚は、上の中国画の格調の高さとはかなり違いますねぇ (笑)。「鳥獣戯画」によって世界最初のマンガを生んだ日本という国は、中国から文化を導入しても、やはり自分たちの好みに合わせてそれを変えてしまう習性を持っていたということか。
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そう、日本の地獄絵では、画家が楽しんでホラーシーンを描いているのがよく分かる。この展覧会の図録には、子供も読みやすいようにいろいろ工夫がされているが、以下の絵に添えられたこのセリフは、ある意味で日本の地獄絵の特徴をよくとらえていないだろうか。これは、聖衆来迎寺の「六道絵」(原本は鎌倉時代作の国宝で、私も一度夏の時期に実物を見たい作品だが、これは江戸時代の模写・・・あとで気づいたのが、この夏に奈良国立博物館で源信展をやっていて、そこに聖衆来迎寺の国宝「六道絵」がすべて出品されていたとのこと。残念ながら見逃した) のワンシーンである。亡者の切実な声に、私は声をあげて笑ってしまいました。
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さて、人間が死後裁きを受けるにあたっては、十王という怖い神様 (なんだろうか) にお世話になるわけだが、中でも閻魔大王の名はよく知られている。これは滋賀県、天台宗の名刹、三井寺 (園城寺) に伝わる重要文化財の「閻魔天曼荼羅」。威厳ありますなぁ。
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さて、極上の美術品としての地獄 / 六道絵から、庶民の信仰が広まるにつれ、造形方法も多様化して行った。この時代、つまり12世紀頃の日本の絵画を西洋と比べると、様々な点で日本が西洋にまさっていると言ってよいだろうが、中世から近世にかけての日本において、人々が集まって住むそれぞれの村落の中で、世代から世代へと伝承が広がって行く様は、何かある種の迫力があると言ってよい。これは江戸時代の「地獄十王経」から。このヘタウマ感覚というか、ただのヘタな (?) 絵画表現に、「民芸」を見た。
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そもそも日本人の想像力の懐の広さは、上で少し触れた「鳥獣戯画」に最も端的に表れていようが、その自由なユーモア精神は、数々の遺品に見ることができる。これは京都の清浄華院所蔵になる重要文化財、室町時代の「泣不動縁起」から、熱心な僧の献身ぶりに泣いた不動明王が、その僧の代わりに責め苦を受けるために冥界に出向くところ。いやいやお不動様、あなたは偉いんだから!! と言いたくなる感動のシーンである (笑)。なんとも珍しい作品だ。
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地獄や極楽という想像上の世界を表すという点において、日本人の持つ才能は大したものだ。これは江戸末期、1858年に松平乗全 (のりやす) によって描かれた「立山曼荼羅」。現在の富山県にある立山連峰は、古くからの聖地とされており、この絵のように、下の方には実際の立山のお堂の数々が描かれ、上の方には仏の世界が描かれた。ここには自然の中に神秘なるもの、崇拝すべきものを見出す日本的な感性がある。霊峰とされる山の中に極楽や地獄が存在しているとする思想のことを、「山中他界観」と言うらしい。
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さて、このような感性は民間信仰において独自のものを生み出す。これは江戸時代の「熊野観心十界曼荼羅」(日本民藝館所蔵)。熊野三山に所属する熊野比丘尼と呼ばれた女性宗教家が携帯していたもの。全体が独特で不思議な図像に満ちているが、その上部のアーチ型の部分には、生まれてから死ぬまでの人間の姿の推移が描かれており、その真ん中に「心」の文字が見て取れる。
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そう、この「心」こそが重要だ。生前の心がけが来世を決める最大の要因であることを表している。この江戸時代の「心字曼荼羅」では、寝ている女性から心が抜け出て、極楽と六道につながっている。そして女性の下には腐乱死体が描かれているが、これはもちろん、九相図 (くそうず) の一種。人間の生の儚さを道徳的に描いているのである。
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展覧会ではここから後には、ひたすら庶民にとっても地獄を表す造形の数々を見ることになる。これは、江戸時代に全国を行脚した木喰 (もくじき) 上人による十王坐像と葬頭河婆坐像の一部。素朴な造形であるが、近くでじっくり見ると、意外とその彫り口は鋭いのである。兵庫県の東光寺の所蔵。
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さてこれは、再び日本民藝館所蔵の「十王図」。これはどう見てもプロの絵師が描いたものではなく、明らかに庶民の手になるもの。まさに民芸であり、日本人のユーモアのセンスを表すものと言えるだろう。十王の中で唯一顔を赤く塗られているのが閻魔大王。この展覧会のポスターにも使われているのも納得の存在感である。また、地獄の獄卒たちも、私が幼少の頃に「地獄大図鑑」で見た石原豪人のグロテスクな挿絵とは似ても似つかない、愛らしく素朴な様子なのだ。
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このような地獄絵の民芸化は、私もこの展覧会を見るまではあまりイメージがなかったが、なるほど民間信仰とはこういうことかと実感する。これらは東京葛飾区の東覚寺所蔵になる「地蔵・十王図」から。この素朴さこそが、江戸時代の文化度を示している。
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まあそれにしてもこの展覧会、よくぞこれだけあらゆる地獄絵とその関連の作品を集めてきたなぁと感嘆するのであるが、江戸時代の読み物の中にも、直接地獄を描いたものでなくとも、面白いものが満載だ。これは、山東京伝の手になる「一百三升芋地獄」から「業の秤」。なんでもここで鬼が言っていることは、「サツマイモども、よくも人々を胸やけさせたな!!」ということであるそうだ (笑)。さすが寛政の改革のときにお縄頂戴になった京伝だけある。なんともブラックだ。
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日本古来の文化というと、いわゆる禅的なわび・さびという渋いイメージなのであるが、いやいやどうして、日本人のユーモアのセンスの秀逸なこと。上でもその例のいくつかを見て来たが、江戸最大の娯楽であった歌舞伎との関連でも、実に興味深い遺品がいろいろある。これは「死絵 八代目市川團十郎」。幕末に活躍した八代目市川團十郎 (1823 - 1854) の死後に作られたもの。二枚目をもって知られた團十郎が獄卒のもとに赴こうとして、多くの女性に引き留められ、獄卒も困ってしまうという場面。ここで群がり折り重なり、團十郎を行かせまいとしている女性たちは、老いも若きも、美形も醜女も、あるいはメスの犬や猫までもといった具合 (笑)。
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このように、中世から近世まで、そして現代にまで続く日本人の地獄・極楽感に触れることのできる、大変興味深い機会であった。そう、このような展覧会を見ることで、親から子へ、子から孫へ、この国独特の感性を語り継ぐことができるだろう。のんのんばあはもういなくとも、現代に生きる我々の力で、文化をつないで行くことはできると信じたい。

by yokohama7474 | 2017-09-02 23:30 | 美術・旅行 | Comments(0)

タイ 仏の国の輝き 東京国立博物館

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前項の記事でも書いた通り、私の文化体験の原点は仏像なのであるが、仏像仏像とうるさく唱えている割には、日本以外のアジア諸国の仏像や仏教遺跡を見に行った機会はさほど多くない。韓国の慶州とか、カンボジアのアンコールワット (これは仏教とヒンズー教が混在)、インドのアジャンターやエローラには行ったことがあるが、恥ずかしながら、インドネシアのボロブドゥールとか、中国の敦煌や雲崗、龍門、あるいはスリランカには行ったことがない。そしてタイについては、一度だけ出張でバンコクを訪れた際に黄金仏をかろうじて見ることができた程度。スコータイやアユタヤという仏教遺跡には是非とも行ってみたいのだが、未だに果たせていない。そんな私にとって、タイの最高レヴェルの仏像に対面できるこの機会は非常に貴重なものである。日タイ修好 130周年を記念する特別展で、既に九州国立博物館で開催された後、現在東京国立博物館で開催されているもの (8/27 (日) まで)。以下、この展覧会の印象を徒然に書いてみよう。

まず会場に入ると、このような美しい仏さまが出迎えて下さる。展覧会のポスターにもなっている「ナーガ上の仏陀坐像」である。12世紀末から 13世紀の作とされていて、シュリーヴィジャヤ様式。シュリーヴィジャヤとは、7世紀からマラッカ海峡を支配して東西貿易で重要な地位を占めた海上交易国家である。この仏陀が乗っているのは大きな蛇であるが、よく見るとこの大蛇、ぐるぐるととぐろを巻いて仏陀の台座になっていると同時に、7つの鎌首をもたげて光背ともなっている。これは、瞑想する仏陀を龍神が風雨から守ったという説話によるもので、ここでは水と関係する蛇の神ナーガがその役を負っている。この造形の面白さは東南アジアならではである。
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会場はいくつかのコーナーに分かれているが、まずは「タイ前夜 古代の仏教世界」である。日本に住んでいると、我々の国以外のほとんどの場所では、様々な文化・文明が混じり合い、時に融和、時に対立して様々に変容していったというダイナミズムを忘れがちであるが、このような展覧会からそのようなことを学べる。これは 5世紀末から 6世紀前半の作とされる仏陀立像。マレー半島東側のウィエンサという場所での出土とのことだが、一見してこれはインド風である。実際にグプタ朝のものであり、インドに渡った修行僧や商人が持ち帰ったものと考えられている。
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これは 7世紀の仏陀立像。青銅製で高さ 20cmの小さなもの。やはりインドからの請来品であるようだ。このような、両肩を覆い (いわゆる「通肩」)、体の線を浮き出させる衣の着方は、日本の仏像にはない。小金銅仏ということなら、この時代には日本には既に大陸・半島から沢山入ってきており、多分日本でも作られたと思うのだが、この作品とは随分違った造形になっている。この時代にして既に、南アジア・東南アジアの美意識と東アジアの美意識が違って来ていることは興味深い。これは風土・気候にも関係しているのだろう。
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これは 7~8世紀、ドヴァーラヴァティ様式の仏陀立像。説法印 (これは日本にも入ってきた) を結んでいるお姿はなかなかに神々しい。指の表現など、非常に力強く表情豊かで、印象に残る。
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これも 7~8世紀、ドヴァーラヴァティ時代の法輪頂板。この上に法輪 (釈迦の教えを広めるための車輪状の法具) を載せたのであろう。ここで浮彫された容貌魁偉の怪物たちは、握った手の中の植物から唐草が勢いよく出ていて、生命力に満ちている。インドでヤクシャと言われる自然神に由来すると見られているらしい。
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ところで寺好きなら誰しも、これを見て連想するものがあるだろう。そう、奈良の薬師寺の本尊、薬師如来の台座に描かれた巻毛の鬼神たちである。よく日本がシルクロードの東の終点であることを示す好例と言われるその鬼神たちは、こういう姿をしている (もちろんこのタイ展には出品されていません)。これ、日本にあると信じられない人もおられようが、上古の文明のダイナミズムを感じることができるではないか。実際これも 7~8世紀の作であろうから、上のドヴァーラヴァティ時代のタイの作品と同時代の作なのである。
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これもまた 7~8世紀のドヴァーラヴァティ時代のもので、マカラ像装飾背障。マカラとは、インドの想像上の怪物。背障とは、玉座の背もたれのこと。つまりこれは玉座の背もたれの一部であるが、その先端にはマカラが大きく口を開け、そこから何か別の生き物が飛び出している。
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先端のアップがこちら。ちょっと分かりにくいかもしれないが、これは牛の角を持った獅子であるとのこと。両方の前足を上げているのがなんとも愛嬌があるが、全体としては異形の者たちの印象が強烈で、なかなかにワイルドだ。
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ドヴァーラヴァティ時代の作品が続くが、これはやはり 7~8世紀の舎衛城神変図 (しゃえじょうじんぺんず)。仏伝の中から、釈迦が異教徒の挑戦を受けてそれを神通力で撃退する場面。中央に聳えるのはマンゴーの木らしい。素朴だが力強い作品だ。
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これらもドヴァーラヴァティ時代のもので、ともに菩薩立像。壁面に嵌め込まれていたものであろうか。特に左のものは、からだを大きくひねっていて面白い。会場で間近に見ると、壁面から崩れ落ちたものが未だに強い生命力を保っている様子が伺われて、感動的だ。
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この地域には多くの民族がいて、様々な文化・文明が混淆したわけであるが、宗教の面においては仏教とヒンズー教は入り混じっており、東の果ての日本においてもその名残り (主として明王、天部の造形において) があるくらいだから、ましてやこの東南アジアにおいては大らかな混淆ぶりが面白い。これはそんな中でも大変に変わったヒンズー教の神像で、アルダナーリーシュヴァラ坐像。なんでも、男神シヴァとその妻の女神パールヴァティーが一体になった姿とか。右半身が男、左半身が女である。この写真では少し分かりづらいが、確かに左側にだけ胸のふくらみがあるという特殊な姿なのである。造像の時期については 6世紀から 9世紀まで諸説あるらしい。
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これは 8世紀の菩薩立像。タイ風というよりはカンボジア風に見えるが、この記事でこれまでご紹介した作品にはなかった多臂像であり、そのスラリとした長身はなかなかに美しい。腰ひもを結んでいるのが印象的 (これも日本にはない東南アジアテイストだ) だが、それ以外に一切衣をつけていないのが不思議な気がする。もしかして本物の衣類を着せたりしたのでは? と勝手に想像するのも楽しい。
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これは 12~13世紀の人物頭部。北部タイに存在したハリプンチャイ王国で作られた彫刻であるが、タイトルとして「人物」としているのは、神像・仏像の類ではなくて王族の肖像かもしれないということだろうか。明らかに微笑を浮かべたこの表情はなんとも清廉で、もしかすると民衆から慕われていた王の顔なのかもしれない。
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これもまたカンボジアのアンコール風の作品で、12世紀末~13世紀初期の観音菩薩立像。アンコール・トムのバイヨン寺院を建造したジャヤヴァルマン 7世の時代に、そのアンコール・トムで制作させてタイに運ばれたものと考えられているらしい。非常にがっしりしたモデリングであり、いわゆるタイの仏像のイメージとは異なっているが、クメール文明はそれだけ周囲に対する影響力があったということか。現在でもカンボジアとタイの国境周辺の遺跡の性質 (どちらの国に優位性があったか) を巡って、両国民の間で意見の相違があると聞いたことがあるが、文化的にはそれぞれの個性があり、それらが混じり合うことこそが面白いのである。
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さて、これは 15世紀の仏陀坐像。スコータイ時代のもので、これぞタイの仏像というイメージである。大らかで、堂々たる体躯。
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タイと言えば遊行仏 (ゆぎょうぶつ) である。仏陀が歩いて説法する場面を表したもの。これも 14~15世紀のスコータイ時代のもので、仏陀遊行像。独特のからだの曲線がなんとも面白い。
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これも遊行仏であるが、台座の銘文から1481年という制作年が判明するもので、ラーンナータイ様式。上の遊行仏よりも前のめりで、足元に視線を投げておられる。
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それもそのはず、この仏陀が歩を進める先には、彼以前に悟りを開いた先達たち (過去仏) の足跡が、仏足跡として刻まれているのだ。なんともユニークな造形ではないか。
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これはスコターイ時代、15世紀のハリハラ立像。仏教の像ではなく、ヒンズー教のもので、シヴァ神とヴィシュヌ神が合体した姿。何やら異様な迫力のある像で、吸い寄せられるように見入ってしまう。だが指先の柔らかさなどは、やはりタイ独特のものだと思う。
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これは 15世紀初頭、アユタヤー時代の金象。高さわずかに 15.5cmの小品だが、この造形は見事なもの。ミニチュアながら、背中には貴人の乗る輿が据え付けられている。
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これもアユタヤー時代、15世紀の金ぴかの仏陀坐像。ワット・マハータート遺跡の仏塔の地下から出土したものである。いかつい容貌の仏陀だが、いわゆる上座部仏教 (もともとは日本等に伝わった大乗仏教に対して小乗仏教と呼んだが、蔑称的なので最近ではこのように呼ばれる。簡単に言うと、大衆救済ではなく、出家による個人の悟りを中心とする仏教) のタイでは、慈悲の表情よりもこのような表情の方がふさわしいのだろうか。
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会場にはまた、タイと日本の古いつながりを示す資料も多く展示されている。江戸時代初期、日本ではシャムと呼ばれた当時のタイに移住した人物といえばこの人、山田長政だ。これは 19世紀に描かれたもので、所蔵するのは私も先般訪れてその建築の素晴らしさに驚愕した、静岡浅間神社。山田は静岡出身とされているらしい。
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長政が作った日本人町は、最盛期の人口 1,000~1,500人だったとされていて、商人のみならず浪人たちも多く移住してきたらしい。タイで国王の義勇兵としても日本人が働いたということだ。この 1918年の「カティナ (功徳衣) 法要図」には、なぎなたを持った剃髪の日本人義勇兵が描かれていて、大変興味深い。
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さて、会場の最後の方のコーナーでは、写真撮影が許されているので、私自身がその場で撮影した写真をご紹介する。バンコクのワット・スタットテープワラーラム仏堂というところの大きな扉の実物と、本尊の写真が展示されている。この寺院はラーマ 1世 (在位 1782 - 1809) の命によって着工され、1847年に完成したもの。本尊は 1366年にスコターイで制作された 8mの大仏で、1808年に水路バンコクへと運ばれた。今回展示されている大扉は高さ 5.8m、表面には様々な動植物の浮彫、裏面には壁画がほどこされた見事なものであるが、1959年に線香の香炉から火が出て損傷してしまったらしい。バンコク国立博物館で保管されていたが、経年劣化が進んだため、住友財団の支援を受けて、2013年から修理が始められ、九州国立博物館が協力したという。今回の展覧会では、修復なった扉を展示することで、日・タイの友好関係を深めようという趣旨であるらしい。素晴らしいことだ。
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このように、歴史的な変遷を含めてタイの彫刻・工芸の逸品の数々に触れられる貴重な機会である。日本の仏教美術との違いからも、様々なことを考えるヒントが得られるので、広い視野で古美術を見たいと思う人には必見の展覧会と言ってよいであろう。

by yokohama7474 | 2017-08-19 14:19 | 美術・旅行 | Comments(2)

山形旅行 その 2 羽黒山、本明寺、注連寺、大日坊、酒田市 (土門拳記念館、本間家旧本邸、海向寺)

さて、前回の記事に続く山形旅行記の 2日目。この日はいよいよ念願の出羽三山詣での日である。出羽三山とは一体何か。もちろん、月山 (がっさん)、羽黒山、湯殿山のこと。一般的にはほら貝を吹いて山野を駆け巡る山伏のイメージで知られる、修験道 (しゅげんどう) の聖地である。これは、羽黒山の入り口に立っている石碑。
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ただこの出羽三山、知れば知るほどに謎の多い地域である。例えば、三山という名称とは裏腹に、この中で実際に山であるのは、月山 (1,984m) のみであるらしい。羽黒山 (414m) はその北端の一角であり、また湯殿山は、月山の南端に位置する渓谷なのである。これが山形県のホームページに記載されている出羽三山の位置関係。確かに、この三山が近い地域に連なった地形になっていることが分かる。
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私は以前ふと疑問に思ったことがある。それは、この地域 (山形県というよりは秋田県というべきなのか ? 実際には県境である) の代表的な山は、鳥海山ではないのかということだ。その標高は 2,236m。月山を凌ぐ高さなのである。上の地図の通り、地理的には出羽山地の北側に存在しており、この山こそ出羽三山のひとつにふさわしいのでは? と思ったのである。実は今回、後で述べる大日坊を訪問した際に、この疑問へのヒントを得ることが出来た。寺の方の説明によると、もともと江戸時代に出羽三山というと、この鳥海山、月山、そしてもうひとつは葉山 (はやま) という標高 1,462m の山 (月山の東側に位置する) を指したという。なので、実は現在我々の知る出羽三山とは、近代以降に定着したものであるらしい。それから、日本の近代の宗教政策と言えば、神仏分離であり廃仏毀釈である。このあたりの事情は、なかなか資料がなくて現代の我々には知りえない様々な壮絶なドラマというか、仏教の危機があったらしい。この出羽三山では今でも強く神仏混淆の雰囲気があるが、それに加えて、天台系と真言系の対立もあったようだ。言うまでもなく天台系は、天海僧正以降、江戸幕府に極めて近い。その一方で真言宗は、天台宗と同じ密教系でありながら、高野山の奥の院で開祖空海が未だに生きているという強い信仰によって、この庄内地方に即身成仏の習慣を作り出した。そう、一口に出羽三山の即身仏と言うが、実際に即身仏を輩出したのは、天台宗の月山、羽黒山ではなく、真言宗の湯殿山系の寺院のみであることに注目しよう。私自身、このあたりの事情については勉強不足であるが、最近、「出羽三山の神仏分離」という本も購入したことだし、これからいろいろ調べて行けば、面白い発見があるものと考えている。また、最近読み終えた「仏像ミステリー」という本は、いずれこのブログでもご紹介するが、平易ながら大変面白く、この出羽三山を巡る現実的で人間的な確執について、最後の章で語っているので大変参考になる。

ともあれ、山形旅行 2日目、まず向かった先は羽黒山であった。ここには何といっても素晴らしい国宝建造物と対面しなくては。登山道の入り口近くにある駐車場に車を停め、随身門をくぐると、山道を登るのかと思いきや、そこから下って行くのである。途中、古い社が左右に並んでいる場所を通るが、これがまたなんとも神秘的。
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ほどなく見えて来るのは、滝と、その前に立つ祠である。羽黒山に詣でる行者たちが禊をした (する?) 場所らしい。本当に神秘的な場所だ。
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さあ、お目当ての建物はもうすぐなのであるが、その前に見えるのは、天然記念物の「爺杉」(じじすぎ)。鬱蒼たる森には杉の木が立ち並ぶが、それにしてもこれは明らかに特別な木だ。樹齢は 1,000年を超えるらしく、近くに婆杉もあったが、近年暴風で倒れてしまったらしい。近年って言っても 1902年のことなのですがね (笑)。
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まさに神韻縹渺たるこの杉の佇まいに打たれてその場に佇んでいると、あ、あれ、その右手奥に、これまた堂々たる巨木が見える。だがこの古木は、上に伸びながらも、何やら水平方向の直線を何本か持っている。爺杉と同じく、どう見ても森の地面からすっくと立っているのだが、なんというべきか、そこには何か、爺杉と競い合うような垂直への強い意志が感じられないだろうか。森厳たるその佇まいには、実にただならぬ雰囲気があって、空恐ろしくなるくらいである。
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そう、これこそが、私が今回の旅で即身成仏と並んで対面を心待ちにしてきた、羽黒山の国宝五重塔だ。樹齢 1,000年の杉の木と競い合うように、人智が成し遂げたこの成果は、素のままの木の色を纏って、鬱蒼たる森の中に立っているのである。ここに来れば誰しもが、しばし立ち去りがたい思いに駆られるであろう。このような奇跡的な建造物を眼前にして感じた思いを、日常生活でも折に触れ思い出すことができれば、いかなる困難にも立ち向かえるような気がするのだ。
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来た道を戻り、駐車場に着いたが、その正面にある「いでは文化記念館」に興味を惹かれて入ってみた。「いでは」とは恐らく「出羽」のことであろう、内部には出羽三山の信仰についての様々な資料が展示されている。実際、この羽黒山には数多くの古そうな巡礼者向け宿坊が存在していて、修験道の信仰が未だに現在進行形のものであることが分かる。さて以下のポスターも、異形のものとか摩訶不思議なものに多大な興味を抱く私にとっては大変面白いものだが、タイトルの左隣に見える妖怪のような人物は誰だろう。
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実はこれ、飛鳥時代、崇峻天皇の第三皇子である蜂子皇子 (はちこのおうじ) である。父崇峻天皇が 592年に蘇我馬子によって暗殺されたので、聖徳太子によって匿われ、船に乗って都を脱出、出羽の国に辿り着いたという。そして彼は出羽三山を開いたのである。注目すべきはその特異な容姿である。
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この異形の顔は、多くの人々の悩みを聞いていることでそのようになったと言われているらしい。うーん、面白い。卑しくも天皇の血を引く高貴なる皇子をこのように描くには、きっと何か理由があったに違いない。この蜂子皇子の墓が、驚くべきことに羽黒山の山頂付近に残っている。皇族の墓なので、古墳と同じく、宮内庁の管轄となっているのである。この土の下で一体何を思う、蜂子皇子。
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誠に古い時代の物語がここで展開しているのであるが、前掲の「仏像ミステリー」という本には、大変興味深い説が載っている。それは、この蜂子皇子による出羽三山開創は、江戸時代の創作であろうというものだ。その創作を行った人の名は天宥 (てんゆう)。それまで真言宗系であった出羽三山を天台宗に宗旨替えし、それによって幕府の庇護を勝ち得ようとした僧である。この天宥が、彼以前の歴史書には出てこなかったこの蜂子皇子を開祖として祀り上げたのは、天皇家による権威づけが目的であったらしい。つまり、この皇子は実在していなかったということだ。歴史には必ずそれを作り出そうとする人間の意図が働くもの。この出羽三山の峻厳な自然を前にしても、人間たちの営みはどこまでも人間的なのである。羽黒山の山頂の鳥居の朱は、そんなこと知らぬげに鮮やかだ。
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この羽黒山山頂には、2つの重要文化財建造物がある。ひとつは鐘楼。このように檜皮葺である点が変わっているが、いかにも山岳信仰の雰囲気があって面白い。
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もうひとつは、これも非常に珍しい巨大神社建築で、三神合祭殿。ここに詣でれば、三山すべて回ったのと同じご利益があるという。まあ実際は、そんな楽をしようとしてはいけないのでしょうがね (笑)。この巨大建築、この地域ではほかでも目にしたように、邪鬼が柱を支えていて面白い。
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さてそれから私たちは、湯殿山系の即身成仏を見たいと思って車を走らせた。おめあては後述の注連寺と大日坊であったのだが、その途中にたまたまもうひとつ、即身成仏を祀るお寺の前を通りかかり、立ち寄ることにした。つまり、最初から庄内地方の全 6体の即身仏を拝観しようという意図はなく、本来なら飛ばしてしまったかもしれないこの場所の前を通りかかるとは、これも何かのお導きかと思ったのである。お寺の名前は本明寺で、祀られているのは本明海上人。
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実はお寺で伺って驚いたことには、この本明海上人は、庄内地区の 6体の即身成仏の中で最も古く、江戸初期、1683年の入定 (にゅうじょう) である。ということは、この地区で後に即身成仏を目指した僧たちの深い尊敬を集めた仏さまであったわけだ。境内にはその入定跡も残っており、大きな石碑が立っている。壮絶なる思いを今に伝える場所である。
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そして次に向かった先は、注連寺。ここは、作家森敦が芥川賞受賞作「月山」を執筆した場所であり、また、弘法大師ゆかりの七五三掛 (しめかけ) 桜という、最初は白く、そしてピンクに色が変わって行く珍しい桜がある。
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また本堂の中には現代アートの天井画がいくつもあって興味深いが、なんと言ってもこの寺の主役は、即身成仏、鉄門海上人であろう。
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この方は庄内地方の即身仏でも最も有名な人ではないだろうか。1768年の生まれ。もともとは川で働く労働者であったが、武士とトラブルになって相手を殺してしまい、注連寺に駆け込んで出家したと言われている。出家してのちは様々な社会事業を行い、その事績をたたえる石碑は、東北地方各地で実に 194基も見つかっているという。また、雨乞いのために左目をくり抜いたり、昔のなじみの遊女が寺を訪れたとき、修行にかける自分の気持ちを表すために自らの睾丸を切り落としたなど、凄まじいエピソードが残る。まさかと思いたくなるが、学術調査によって、実際に生前に左目を摘出していたことや、遺体に睾丸がないことも判明しており (因みに彼の睾丸のミイラとおぼしきものが、前回の記事でご紹介した鶴岡の南岳寺に残っているという。手元にその白黒写真もあるが、掲載はやめておこう 笑)。また、地元の漁師たちは、今でもテツモンカイと称するタコ採りの道具を使っていると、以前テレビで紹介していた。そのような鉄門海上人、実は即身成仏修行の途中、1829年に 62歳で亡くなってしまい、死後に人々の手によってミイラ化されたとも言われている。それだけ彼の活動が、人々から深く尊敬されていたということだろう。だがここで私は思うのだ。極限的に厳しい修行を生き延びないと即身仏にはなれない。普通なら栄養失調で死んでしまうような食生活を続けながら、でも死んでは全く意味がないわけで、なんとか生き続けなくてはならない。つまりは、死ぬために必死になって生きるという、なんとも想像を絶するパラドックスの中で彼らの修行は行われたわけだ。私には想像できないが、強い信仰心と、実は上記のような天台系との対立の中にあった真言系の僧侶たちの激しい闘争心が、そのような特殊な習俗を生み出したということか。

そして次に訪れたのは、大日坊。
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ここに祀られているのは真如海上人。なかなかに堂々たる存在感だ。実はこの寺にはほかにも 2体の即身仏があったが、残念ながら焼けてしまったそうである。
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さてここで、最後の目的地である酒田市の海向寺に向かったのであるが、もちろん酒田は、北前船で大成功を収めた豪商本間家 (「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われた、あの本間である) の本拠地であり、また、私の尊敬する写真家土門拳の出身地でもある。なので、いくつか写真をご紹介する。まずこれが土門拳記念館。あのニューヨークの MOMA で知られる (しばらく前に日経新聞で「私の履歴書」を書いていた) 建築家、谷口吉生の設計で、とても美しい。土門拳は古寺の写真も素晴らしいが、人物のポートレートとか、戦後の子供たちの風景を切り取った写真にも、素晴らしいものが多い。
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そう言えば、この土門拳記念館のある公園の一角に、南洲神社なるものがある。南洲とは西郷南洲、つまりは西郷隆盛のことであるが、なぜに西郷を祀る神社が酒田にあるかというと、戊辰戦争の際に朝敵となってしまった庄内藩に戦後処理のために派遣されたのが西郷で、その人間味あふれる寛大な統治に、庄内の人たちは西郷を深く尊敬したという。そのような縁で、西南戦争でも旧庄内藩から派遣された兵士が亡くなっているし、戦後の西郷の名誉回復に庄内の人たちが奔走したという事情もあったようである。銅像で西郷と話し合っているのは、庄内藩士、菅 実秀 (すげ さねひで)。
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本間家の旧本邸は、時間がないながら、なんとか覗くことができた。本間美術館や、旧鐙屋、山居倉庫なども面白そうであったが、今回は時間切れ。いつか雪辱を果たしたい。これが本間のお屋敷。
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そして今回最後の目的地、海向寺へ。ここには、コンクリート作りの収蔵庫内に、2体の即身仏がおわします。本堂の軒下には、先の羽黒山の三神合祭神と同様、邪鬼が柱を支えていてユニークだ。
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ここに並んでおられるのは、忠海上人 (1755年入定) と、円明海上人 (1822年入定)。空調のよくきいた静かな収蔵庫でのおふたりとの無言の対面に、ほかの寺にはない緊張を感じることとなった。
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なお、上でご紹介した注連寺の鉄門海上人の使用した鐘がこの寺に展示されていた。少し叩いてみると、カーンと乾いた音がした。
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今回対面することのできた 6体の即身仏、お姿や色やかすかな表情にもそれぞれ違いがあることが分かった。色については、これまでに保存の目的で手や顔に防腐剤を塗ったり、また目の回りだけ色をつけるということもあったため、個々の即身仏で違いが出てしまったという。また時代的にも、最も古い本明海上人が 1683年の入定、最も新しい鉄龍海上人が 1878 - 80年の入定と、約 200年の幅があるわけで、東北地方における即身成仏の習慣が根強く継続したことが分かる。生前は荒くれ者であった人もおられるが、壮絶な修行の末、現在では仏さまとして祀られていることは、人々に勇気を与えると言えるであろう。実はそれぞれのお寺でお聞きしたことには、どの仏さまも 12年に一度、丑 (うし) 年に衣を新調して着せ替えるらしい (但し、大日坊のサイトには、6年に一度で、丑年と未 (ひつじ) 年とあるが)。その際に古い着物は裁断してお守りの中に入れ、一般の人に販売する。そのようなことも、即身仏という存在が未だに地元の人々の心の支えになっていることが分かるのである。海向寺の境内に住んでいるこのノラネコ (いい毛並みのようだが) を見ても、生きとし生けるものへの愛着を感じてしまう私であった。それにしてもこのネコちゃん、もうちょっと人間になついてもよいのでは ? (笑)
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さて、海向寺を辞そうとして車を発進すると、実に素晴らしいナイス・サプライズに遭遇した。あの滝田洋二郎監督、本木雅弘主演の映画「おくりびと」のロケ地のひとつが、なんと海向寺の真ん前であったのである!!
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「小幡」という、既に使われていない割烹の建物だが、確かに見覚えがある。
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そうそう、冒頭の方で、主人公が新たな勤め先を探すという、こんなシーンがありました。
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私はこの映画が好きなので、ロケ地にたまたま巡り合えて、単純にハッピーだったのであるが、調べてみるとこの映画、酒田や鶴岡の各地でロケを行ったようである。生と死がすぐ近くで隣り合い語らいあう即身成仏の土地、庄内地方において、このような生と死にまつわる映画が撮影されたとは、なんとも感慨深い。かつてこの地を走り回った現在の仏さまたちも、この映画の撮影を温かく見守ったことであろう。

前回の記事の冒頭で、今回の旅行をクラゲ・アンド・ミイラの旅などと軽口叩いてしまったが、実際問題、その対照は興味深い。つまり、生命の維持を全く他人任せとして水中をフワフワ漂うクラゲと、この上ない激しい意志で生をつなぎ、そして自ら死まで決してしまう即身成仏。これほど極端な対照はない。我々の人生においては、そのどちらの極端な事態も、通常は発生しないのであるが、そのような対照に心を留めることで、普段見失いがちなことに気づくことができるかもしれない。なので、山形でクラゲ・アンド・ミイラの旅、大いにお薦めしたいと思います!! 最後に、加茂水族館自慢の、直径 5m の大クラゲ水槽の写真をアップするので、瞑想にご活用下さい。
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by yokohama7474 | 2017-08-14 01:04 | 美術・旅行 | Comments(0)