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千葉県 成田山 新勝寺

前回の記事の最後に、いずれまた千葉の歴史的な場所を訪れて記事を書くと宣言した私。そしてまたまた、千葉県の歴史的な場所についての記事なのである。おっと随分手回しがよいじゃないの、と思われる方もおられよう。だが実際のところ、私が今回ご紹介する成田山新勝寺は、最近訪れたのではあるが、その理由たるやなんともいい加減なもの。川沿いのラプソディとしては、偶然のトラブルすらも最大限活用して文化探訪をする心がけが大変に大事なのであって、それをここで申し上げておく意味はあると、勝手に自分に言い聞かせているが、何をグチャグチャ言っているかというと、こういうわけだ。ある金曜日、出張先の空港の免税店で購入したちょっとよいワイン 2本を手にして、成田空港に到着した。ところが、自宅方面に向かう成田エクスプレスは当分ない。ちょっと小腹も減ったし、コーヒーショップで時間をつぶすかと思い、そのようにしたのである。さて、45分後、成田エクスプレス車中でくつろぐ私の姿があった。その横にはいつもの出張用のカバン・・・だけで、免税店で買ったはずのワインは影も形もないではないか (笑)。車中でそのことに気づいた私は一瞬天を仰ぎ、人生来し方行く末への思いを走馬燈のように頭の中で駆け巡らせ (大げさや奴だな全く)、ワイン紛失場所の可能性及び、取るべき行動の選択肢を瞬時にして頭の中に列挙、その選択肢の各々につき 0.数秒で評価をくだし、このようにした。1. 成田空港のコーヒーショップに電話をして、ワインを確保してもらう。2. 明日 (土曜日)、車を飛ばしてワインを取りに行く。3. そのついでに、成田近辺での歴史探訪をする。・・・そんなわけで、以前から一度行ってみたかった成田山新勝寺に、突然行くことになったのである。もちろんその日、土曜日の午後には都内でコンサートの予定があり (しかもハシゴ)、その翌日の日曜日には、既に記事にした海北友松展を見るための京都弾丸往復、及びまたしても都内でのコンサートがあったので、かなり忙しい文化的な週末になったのである。まぁ、単なる不注意で、不必要に自分を忙しくしているということなのであるが (笑)。

さて、長くて無駄な前置きはこのくらいにして、本題に入ろう。この成田山新勝寺は、言うまでもなく日本有数の名刹で、毎年の初詣ランキングで常に上位に入る、大変ポピュラーなお寺である (神社でなく仏閣としては、初詣客日本一との統計もある)。だが、なかなか実際にここに出かける機会はなく、これまでは成田エクスプレスの車窓から巨大な多宝塔を眺めるくらいであった。しかし、侮ってはいけない。この寺はもともと、平将門の乱の調伏のために不動明王に祈願したことが起源という古い歴史を持ち、前の記事でご紹介した中山法華経寺に劣らぬくらい沢山の重要文化財建造物があるのだ。まずは、見よこの立派な総門を。お寺であるにもかかわらず、ここには狛犬もいて、日本の民間信仰において神仏混淆はごく自然なものであることが改めて分かる。
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これが新勝寺の伽藍図。この日はあいにくの雨模様であったが、数々の文化財建築を見て回るのが楽しみだ。
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総門から入ると次に見えてくるのは、重要文化財の仁王門である。1830年建立。左右に立つ石灯篭も、かなり古い時代に寄進されたものと見える。
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そしてここにも、仁王様と明らかな神社建築が、仲良く同居している。
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ここから本堂に登る石段の左右にも、華やかな狛犬がいる。溶岩のような岩 (この地に火山があるとは思えないので、もともとある岩ではなく、山岳信仰の雰囲気を出すためにしつらえたものであろうか) の上に、いくつもの石碑が立っていて、積年の信仰の深さを思わせるのである。
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そしてこれが本堂。もちろん、初詣で人々が殺到する巨大な堂がこれだ。節分のときには力士が豆まきをしたりもする。この建物自体は古いものではないが、重要文化財の本尊不動明王と二童子像を安置する。ただ、ご本尊のお姿を間近で拝観することはできなくて残念だ。
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そして、あっと目を引くのは、やはり重要文化財の三重塔である。1712年の建立。
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この三重塔、この全体の写真では、光の加減もあって分かりづらいが、この塔にはきらびやかな装飾が施されていて、ちょっとびっくりするくらいなのだ。
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このところ、久能山東照宮をはじめとするこの種の装飾的な江戸建築に触れる機会が多い。そこで、こんな本を買いましたよ。美意識も時代によって移り変わるもの。わび・さびだけが日本美でないということに気づき始めた我々には、この成田山のような手軽に訪れることができる場所で、江戸のバロック文化を堪能する特権を持っているのである。
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さて、この三重塔の近辺には、やはり装飾的な鐘楼と一切経堂が立っている。いずれも 18世紀初頭のもので、江戸のバロック空間をなしている。
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さてこの成田山新勝寺は、来年開基 1080年とのことで、種々の伽藍整備事業を行っている。境内の休憩所には、それに関係するパネル展示があるが、例えばこれは、少し離れた場所にある薬師堂について。これについては後で触れるが、内部に入ることができないこの堂について知ることのできる貴重な情報。本尊の写真や内部の装飾の修復については、なかなかほかに情報がないのである。やはり、休憩時にもちゃんと捨て目を効かせていれば、得られる情報量を増やすことができるのだ。よって、人生寄り道が大事なのだ (強引)。
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さて、新勝寺にはほかにも重要文化財の建造物が目白押しだ。これは釈迦堂。1858年建立で、以前の本堂である。実は、このブログで時々言及している NHK の「ブラタモリ」は私の大好きな番組だが、先日この新勝寺を採り上げた際に説明していたことには、このお寺には、現在の本堂、前の本堂、前の前の本堂、そして前の前の前の本堂までが現存しているのである。4代もの歴代本堂が現存しているお寺は、日本中でもここだけだろう。
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次に見ることのできる重要文化財は、この寺特有のユニークなもの。額堂 (がくどう) と言って、1861年の建立。多くの信者から寄進される額や絵馬をかけるための建物。柱で建物を支える構造となっているので、最近補強されたとのこと。うーん、ひとつひとつの額や絵馬に、様々な物語があるのだろうと思うと、見ていて飽きることがない。これでも、多くの古い額や絵馬は別のところに移されて保存されているとのこと。
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そしてここに、成田山を有名にした江戸時代のスーパースターの姿がある。7代目市川團十郎 (1791 - 1859)。彼の家系の屋号「成田屋」は、歌舞伎の屋号で最も古いものらしく、もちろん先に亡くなった第 12代團十郎やその息子の海老蔵らの屋号として、今でもポピュラーである。もともとは初代團十郎の父がこのあたりの出身で、成田山の不動明王を信仰していたことによるものらしい。とりわけこの 7代目は、不動明王を舞台に登場させるなどして、成田山の人気と歌舞伎の人気の双方を高めたらしい。つまり、成田山新勝寺の今日の隆盛は、この人の貢献大だということだろう。彼はこれと同様のもうひとつの額堂 (そちらは昭和 40年に焼失) を、私財を寄進してこの新勝寺に建立したとのことで、今残るこの額堂に、その彫像が祀られているわけである。
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そうしてもうひとつの重要文化財、これは前の前の本堂である光明堂。1701年の建立である。これも素晴らしい装飾を持つお堂だ。上で見た第 7代團十郎の生没年から判断すると、彼が生きている時代に本堂はこの現在の光明堂から現在の釈迦堂へと変わったのである。
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さらに境内を奥に進むと、新しい建物が見える。未だ完成していないようだが、装飾を廃した素木の建築が清々しい。これは医王殿という建物で、来年の開基 1080年記念として、今年11月に落慶するらしい。
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その横にある巨大な建物が、JR の車窓からも見える多宝塔で、平和の大塔と名付けられている。これは新しい建物だが、境内の最奥部、そして最も高い場所にあって、その堂々たる佇まいは古刹新勝寺にふさわしい。
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そして、そこから見下ろす風景が面白い。えっ、ここはヴェルサイユ宮殿ですか??? いえいえこれは、成田山公園と名付けられた境内の一部。本当にフランス式庭園と見まがうばかりだ。この広大な公園を維持・管理するのは大変なことだが、多くの人々の信仰に支えられているこの寺は、このように訪れる人を癒す環境を保っているので、また多くの人たちがここに還ってくるのであろう。
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さて、ここからまた門まで下って行き、最後の目的地に向かうこととした。門を出て右 (JR 成田駅方向) に進む。このように風情ある成田山の門前通り。古い旅館も多くて興味深い。楼閣のある建物は大野屋旅館。1935年の建造であるが、現在は料理屋だけで旅館は営んでいないという。
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そして、数百メートルで目的地に到着。これは、休憩所に内部の写真が貼られていた、薬師堂。1655年の建立で、初代團十郎らが参拝していた頃の成田山の本堂なのである。
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つまりこの寺の本堂は、今の名称で言うと、薬師堂 → 光明堂 → 釈迦堂 → 現在の本堂という順番で推移し、順々にサイズが大きくなっていることから、江戸時代初期から現在に至るまで、寺がどんどん発達して来たことが分かる。古来の不動明王信仰が、庶民の娯楽である歌舞伎と結びつき、大きく発展したという興味深い例である。

どうです。成田山新勝寺、誠に侮りがたし、でしょう。私としては、ちょっとしたトラブルを活用し、「転んでもタダでは起きない」という人生の座右の銘の意義を再確認した次第。私が旅行をするときのバイブルである各県の「歴史散歩」(出版はもちろん、あの山川出版社だ) の千葉県版を見ていると、ほかにも古い歴史を持つ場所が、千葉にはいろいろある。寺だけではなく、古くは貝塚、古墳から、江戸時代の民家や近代建築まで、見どころ満載の千葉。また出かけて行ってレポートします。但し、今度はきっちり事前に計画してからにしたい (笑)。

by yokohama7474 | 2017-06-03 19:12 | 美術・旅行 | Comments(0)

千葉県 市川市 その 2 手児奈霊堂、西洋館倶楽部、中山法華経寺、東山魁夷記念館

さて、前の記事では永井荷風の足取りを中心に市川を探訪したが、この日の残りは、さらに時間を遡ることとした。先の記事でも書いた通り、実はこの市川は非常に古い歴史を持っていて、そのひとつの例が、下総国分寺・国分尼寺跡である。国分寺・国分尼寺とは言うまでもなく、聖武天皇の命によって全国に建てられた寺。奈良時代、8世紀の話である。全国の国分寺で当初の建物が現存しているのは皆無 (国分寺の総本山である東大寺の一部建物は除く) であるが、それでも各地を歩いて国分寺やその跡に遭遇すると、遠い歴史を実感することができるのだ。実は今回の市川旅行では、残念ながら国分寺・国分尼寺跡を訪れることはできなかった。市川市には考古博物館と歴史博物館の 2つがあって、市内の遺跡について学ぶことができるようなので、また次回、併せて訪れてみたい。

さて、市川の歴史がいかに古いかという、もうひとつの例を挙げよう。それは、なんと万葉集に「真間の手児奈 (ままのてこな)」という女性が描かれていることだ。私も今回初めて知ったのであるが、手児奈という美しい女性が、多くの男性に求婚されたが、誰のものになることもなく、真間 (今も残るこの場所の地名である) の入り江に身を投げて命を絶ったという物語。東国で歌われた「東歌」の中で題材になっているだけでなく、山部赤人ら都の歌人もわざわざ真間を訪れて、手児奈に捧げる歌を詠んでいるという。市川にはこの手児奈の墓所と伝わる場所に、彼女を祀る、いわゆる手児奈霊堂というお堂がある。それほど古いものではないだろうが、現在では安産・子育てにご利益があるとして、結構な信仰を集めているのである。遥か 1200年も前の伝承をこのようなかたちで信仰にしてしまう日本人の感性は、なかなか捨てたものではない。
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そして、山部赤人の歌碑も立っていて、歴史に思いを馳せる雰囲気は満点だ。葛飾という地名も真間という地名も、ここに既に現れている。
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そういえば、前の記事の主人公である永井荷風もここを訪れている。市川市が編纂した小冊子「昭和の市川に暮らした作家」から。
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さてこの真間のあたりには、また違った貴重な文化遺産が存在している。この建物だ。
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1927年に株の仲買人、渡辺善十郎によって建てられた大正ロマン溢れる洋館で、上述の通り、国の登録文化財になっている。但しこの建物、今でも渡辺さんという方が管理されているようで、内部を一般公開しているわけではない。コンサートなどに使われる機会に内部に入ってみたいものだ。ホームページを見ると、この建物の歴史や、今後のコンサートの予定を知ることができる。

そして、京成線の市川真間駅の線路ぎわをたまたま通りかかり、ホーム横の地面に面白いもの発見。
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これは、1836年に出版された「江戸名所図会」にも掲載されている、鏡石。もともとはここではなく川にかかる橋の袂にあったものだが、いつの頃かこの場所に移されたようだ。夫婦岩の女性の方ではないかという説もあるようで、窪みに溜まった水に顔を写すことができるので、鏡石と呼ばれているとのこと。ちょっと謎めいているし、線路ぎわを通らないと絶対に気づくことがない。これも何かのご縁かと、手を合わせておきました。
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さて、その後向かった先は、市川市で最も歴史的に有名なお寺である。その名は中山法華経寺。日蓮宗の聖地のひとつである。私はこの寺に国宝の書や数々の重要文化財の建物があることは知っており、何度も電車でその横を通ったことはあるが、実際に出かけたことはない。この機会に是非行ってみようと思い立ったのである。これが参道の入り口。さすが名刹、左右には多くの店が並んでいて賑やかだ。この門は黒門と呼ばれ、市川市の指定文化財である。江戸時代初期のものと見られており、高麗門と呼ばれる形式で、門扉のない吹き通しの門。
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そして堂々たる山門が見えてくる。「正中山」という扁額は、本阿弥光悦の書によるもの。尚この寺には、この後出てくる祖師堂、法華堂にかかっている扁額も、光悦によるものだ。
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門に向かって右側には巨大な日蓮の彫像 (電信柱にも負けません!!) があり、門の前には日蓮宗のお題目「南無妙法蓮華経」の碑が。
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境内は広大だが、まず目を引くのは、この朱塗りの五重塔であろう。国指定の重要文化財。
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私は以前、大田区の池上本門寺 (日蓮が死去した場所で、やはり日蓮宗の聖地のひとつ) の近くに住んでいたことがあったし、本門寺もこのブログで以前採り上げているが、この中山法華経寺の塔は、一見して姿といい色といい、その本門寺の塔 (やはり重要文化財) とそっくりではないか。調べてみると、基壇を含めた総高はともに約 31m と、ほぼ同じ。建立年代はこちらが 1622年、あちらが 1608年。やはり近い。これは非常に興味深い比較である。

その横には、露座の大仏が修復中である。重要文化財を目指しているとあるのでどのくらい古いのかと調べてみると、1719年の作。本体の大きさ 4.8m、台座の高さ 4.5mで、中山大仏と呼ばれているらしい。2019年には修理が終わるらしいので、また見に来たい。
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さて、ここから重要文化財建造物のオンパレード。まずは祖師堂だ。前述の通り、扁額は光悦の字によるもの。
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この建物のユニークさは、正面から見ているだけでは分からない。実はこの建物、全国で 2棟しかない、比翼入母屋造りという様式で建てられている。実はこの様式のもうひとつの建物とは、このブログでも 2015年11月 3日の記事でご紹介した、岡山の吉備津神社の国宝、本殿なのである。横から見るとはっきり分かる、そのユニークなかたち。また、裏手の建物群への橋が渡されている。
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ではその橋の先には何があるのか。まず、重要文化財、四足 (しそく) 門。曲線がなんとも優雅である。
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その前にあるのが、これも重要文化財、法華堂。この扁額も光悦だが、残念ながら角度の関係でよく見えない。
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さぁ、このような一連の素晴らしい建築群を見たあと、もうひとつ見るべき場所が残っている。この表示に従って行こう。回廊の途中が門、兼お堂になっており、そこに太鼓が据えられている。行事のときに、信徒に向けて何かの合図をするのであろうか。
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見えてきた建物、聖教殿は、極めてユニークなもの。私はこれをどこかで見たか読んだかした記憶が、なんとなくある。つまり一見して明らかな通り、これは伊東忠太の設計になるものであるからだ。
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建築家伊東忠太 (1867 - 1954) と言えば、代表作は築地本願寺。あちらは重要文化財である。その西洋と東洋が融和したような不思議な建築には、様々な動物たちが集う。こんな感じである。
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忠太らしく、本当に細部が楽しいわけであるが、1931年に建てられたこの建物の中には、極めて貴重なものが収められている。それは、「立正安国論」「歓心本尊抄」といった国宝をはじめとする、日蓮直筆の書の数々である。これらは年に 1回、11月 3日にのみ、「聖教殿お風入れ」と称する行事の際に扉を開いて公開される。

と、このように見どころ満載の法華経寺であるが、境内にしきりと目につく看板は、「東山魁夷記念館」だ。もちろん日本画家として絶大な人気を誇る東山魁夷が生前市川に住んでいて、記念館があることは知っていたが、法華経寺と近かったとか知らなかった。というわけで、既に閉館時刻の近づく中、エッチラオッチラ、その場所に向かった。結果的にはかなり距離があったので、一度寺の外に戻って車で行った方が早かったのであるが、ともあれ、まさに滑り込みセーフで観覧することができた。ご覧のようにヨーロッパ風の爽やかな建物で、いかにも東山の絵画にふさわしい。
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以前も書いたことだが、私は東山の作品には毒がなさすぎて、もうひとつ好きになれない点を否めないのであるが、家人からはそれを「心が汚れているからでしょ」と容赦ないコメントで鋭く非難されるわけであり、まぁそれはそうかもしれんね、などと独りごちながら、そそくさと館内を見学したものであった。せっかくなので、彼の作品のイメージをここで掲げておこう。あー、これ、高校のときの現代国語の教科書の表紙になっていた作品ですねぇ。確かに汚れた心の持ち主には、このような美は分からないかもしれないなぁ (笑)。
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そんなわけで、市川の文化の旅はここまで。まだいくつか訪れていない場所もあるし、足を船橋から千葉市、あるいはさらに房総半島まで延ばせば、歴史的な興味を覚える場所は千葉県には沢山あるのである。実は以前からずっと温めている千葉の旅の企画もあり、以前少し行ったところもあるのだが、いずれこのブログでまとめてご報告できればよいなと考えております。

by yokohama7474 | 2017-06-03 03:13 | 美術・旅行 | Comments(0)

千葉県 市川市 その 1 市川市文学ミュージアム、永井荷風旧居、白幡天神社、葛飾八幡宮、不知八幡森

恒例の、東京近郊、安・近・短の文化の旅シリーズである。今回採り上げるのは、千葉県市川市。東京の東側、江戸川を渡ったすぐに位置する街で、これはもう、ほとんど東京と言ってよい。異論のある方、ここはひとつ穏便に。そもそも、葛飾という地名があるが、それはどこを指すのであろうか。その質問にはもちろん、今の葛飾区、つまり東京都 23区内だろうと答えたくなる。だがしかし、東葛飾高校(トウカツ)という学校があるが、あれは千葉県の学校なのであって、東京都ではなく、どうも様子がおかしい。そこで調べてみると、葛飾という地名は、なんと奈良時代の正倉院文書にも登場する非常に古いもので、江戸時代に下総国の一部であった葛飾郡とは、現在の東京・千葉・茨城・埼玉にまたがる地域であったらしい。つまり、現在の感覚で東京だ千葉だというのがそもそもおかしいのであって、歴史を振り返ってみるときには、今の都道府県にとらわれてはいけないのである。実際に調べてみて分かったことには、現在の市川市には大変古い歴史があるのだ。ここでご紹介できるのはそのほんの一部だが、これまで市川市の歴史的真価をご存じなかった方には有意義な情報であろうと信じるので、是非お読み頂きたい。

そもそも私が以前から市川の歴史的な場所を歩きたいと思っていたには理由がある。それは、文豪永井荷風 (1879 - 1959) の終焉の地であるということだ。今年の 1月 8日の記事で、「荷風晩年と市川」という本をご紹介したが、実はそのときに私は、いつの日か市川方面を探訪して記事を書くと宣言した (http://culturemk.exblog.jp/25136000/)。今回の記事はその宣言に基づくものである。もっとも、この記事はこのブログの記事として最も不人気なもののひとつで (笑)、アクセス数が非常に少ない。大変に残念である。ワーグナー関係の記事とかユジャ・ワンのコンサートの記事にはひっきりなしにアクセスがあるので、いずれこれらの記事の題名だけ残して、中身は「荷風晩年と市川」にすり替えてやろうかしらん、などと考えている今日この頃 (もちろん冗談です)。

そんなわけで、GW の一日、安・近・短の旅である。最初に向かうことにしたのは、市川市文学ミュージアム。車で市川インターを下りて国道 14号線に向かう途中、右手にコルトン・プラザが見えるが、そのすぐ横、市川市生涯学習センターの中にある。このような、なかなかにしゃれた立派な建物である。
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あちこちで文化探訪の旅を続けてきている私には、経験則から来るひとつの思惑があった。今回市川では、荷風の旧居や彼のゆかりの地をまずは訪ねたいと思ったのだが、いかんせん整備された観光地ではないので、充分な情報がない。調べてみると大変詳しい記事を書いておられるブログなどもあり、それなりにイメージを持つことはできたものの、やはり情報量に限界はある。その点、その地に足を運べば、地元で発行している地図などあるに違いないと思ったのである。案の定、そこには「いちかわ 時の記憶」とか「昭和の市川に暮らした作家」などの発行物が販売されていて、街歩きには大変参考になったのである。
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この市川市文学ミュージアムには、荷風のみならず、市川ゆかりの文学者たちの遺品や原稿の数々が展示されている。展示スペースはごく限られたものであり、展示品は撮影禁止なので写真は掲載できないが、地元の誇りが感じられるこのような場所を、私は大好きなのである。因みに、作家としては荷風以外には、幸田露伴・文親子、井上ひさし、安岡章太郎、中野孝次、五木寛之、そして脚本家の水木洋子などがここ市川に暮らしたことがあるようだ。それから、NHK の朝ドラ「梅ちゃん先生」のオープニングで有名になった山本高樹による、荷風の家やその近所を再現した情緒あふれるジオラマが 2つ展示してあったが、残念ながらそれも撮影禁止。正直なところ、このジオラマの撮影を許可して頂ければ、もっと宣伝することができると思うのだが。仕方ないので、同じ山本によるジオラマを表紙にあしらったこのような雑誌の写真を掲げておく。
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さて、いよいよ事前に当たりをつけておいた荷風関連の場所の探訪である。当然最初に訪れたのは、京成八幡駅近くの「大黒家」。晩年の荷風が毎日ここでカツ丼を食べていたとは有名な話。
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だが、私が訪れたこの日は休業中。事情はよく分からないが、何かトラブルがあったようで、食べログも掲載留保になっている。早く再開してほしいものだと思う。
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ランチとしてこのカツ丼をあてにしていたのだが、やむなく近辺で、これも悪くない食事を取り、早速その近くにある荷風終焉の家を探すことにした。ネットで調べるといろいろ詳しい情報が出てくるが、観光地ではなく未だに人の住んでいる家なので、ここでは場所について明記することは避ける。大黒家からすぐ近くである。この塀は昔の写真で見るものと同じである。決して豪邸ではなく、晩年の質素な暮らしぶりが伺える。この場所から戦後の世の中を見ていた、あるいはそこから回避していた荷風に、思いを馳せる。
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それから歩き出した道は、その名も「荷風ノ散歩道」と名付けられている。先に訪れた文学ミュージアムでもらった地図を片手に、荷風が散歩したという道を歩く。荷風が通った歯医者や文房具屋などが今も営業を続けている。
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ネット情報や本の事前の情報に従い、荷風が通っていたという銭湯、菅野湯 (「すがの」とはこの地の名前) を探してみる。数年前のネット情報や、本のこの記事には、「今も健在」とある。
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ところが、東菅野 1-4 という番地と地図を頼りに探してみたのだが、そこには銭湯は既にない。もしかすると、このような駐車場あたりがその跡地になるのだろうか。
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気を取り直してまた歩き出し、辿り着いたのは、これはなくなるわけがない (笑)、白幡天神社。荷風はよくここの境内に佇んでいたという。源頼朝が 1180年、以仁王による令旨に応じて挙兵したが敗走し、安房の国で再起を期したが、その際この地で白い旗を揚げたのが、社名のいわれとも言われている。
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この神社には、この地にゆかりの 2人の文学者、つまり幸田露伴と永井荷風の石碑が立っている。
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ここで幸田露伴の名前が出たが、実はこの偉大な文学者はこの近隣で終焉を迎えている。1947年のその葬式は、荷風もこっそり見に出かけたらしい。きっと直接の交友関係はなかったのであろう。私は今回、地図とにらめっこしてその露伴終焉の家の場所を特定しようとしたが、今となっては既に跡形もない。露伴の家と言えば、「蝸牛庵(かぎゅうあん)」と名付けたものが、愛知県の明治村にあると記憶するが、調べてみるとそれは随分古い時代 (1897年から約 10年) のもの。だが露伴は転居しても自分の家のことを蝸牛 (カタツムリのこと) 庵と名付けたらしいので、この市川の終焉の家も同じ名前であったのだろう。また、その少し東側に一時期荷風の住んだ家があったらしい (終焉の家に移るまで。因みに荷風は市川で 4軒の家に移り住んだ)。こちらも、石碑も何もなく、場所の特定は不可能。ただ住所でこのあたりかと思って撮ったのがこの写真。細い道が微妙に曲がっているあたり、一筋縄では行かない荷風の好みを反映しているように思う。
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さて、それからやはり荷風がよく散歩したという葛飾八幡宮に向かおうとして、地図を片手に歩いていると、面白い場所を発見。あの切り絵の天才、山下清が暮らした障害者施設、旧八幡学園の跡地である。前の記事でアール・ブリュットの画家、アドルフ・ヴェルフリをご紹介したが、天才的としか言いようのない山下清の作品こそ、日本のアール・ブリュットなのではないか。施設自体は既に市内のほかの場所に移転し、今でも存続はしているようだが、山下のいた場所には、その痕跡すらない。
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そして、葛飾八幡宮である。そう、東京都葛飾区ではなく、千葉県市川市にある堂々たる葛飾八幡宮。神社の裏手の鳥居から境内に入ることを許して頂こう。だかその後正面にも回り、市川市指定の文化財である随神門からもお参りしたのである。
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この神社は、現在でも相当な規模であるが、その歴史も大変古く、平安時代、寛平年間 (889 - 898) に宇多天皇の勅願によって創建されたという。また、白幡天神社と同じく、ここにも源頼朝の伝説がある。このような石なのであるが、これは頼朝がこの神社で武運を祈った際に、彼の馬が残したひづめの跡であるという。それゆえ、「駒どめの石」と呼ばれているのである。
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面白いのは本殿の前に置かれた常夜灯である。荷風の日記「断腸亭日乗」の中に、この石灯篭の裏に「明和五年丙子 (ひのえね) の年号を見る」とあるらしいが、実際にはこのように「明和五戊子 (つちのえね) 年」である。因みに明和 5年とは、1768年。
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それから荷風は同じ記事に、この大きな絵馬についても言及している。これは神功皇后 (この神社の祭神) と武内宿禰による新羅出兵の図で、幕末のもの。荷風は、「大した画家の作品ではないようだが、最近このようなものを見ることが少ないので、昔の浅草観音堂を思い出して見入ってしまった」というようなことを書いている。
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またこの神社には、その歴史を感じさせる素晴らしい樹木がある。推定樹齢 1200年を超えると言われる天然記念物、通称「千本公孫樹 (イチョウ)」。根元に沢山の木が集まって幹をなしているように見えるのでその名があるという。つまりこの木は、この神社の歴史をつぶさに見てきたことになる。頼朝が挙げた雄たけびも聞いているわけである。
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さてこの葛飾八幡宮を出て京成の線路を横切り、国道 14号線を渡ったところに何やら不思議な場所がある。私は以前何度かこの場所を車で通っていて、いつも気になっていたのである。こんな場所だ。
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一部分だけ残された竹藪。これは不知八幡森 (しらずやわたのもり)。荷風はこれについて、やはり「断腸亭日乗」で少し触れているが、「竹林の中に石碑があるが、石垣に囲まれて見ることはできなかった」としている。この場所は車で前を通るだけで何か異様な雰囲気を感じるが、それもそのはず、江戸時代から長らく「入ったら出てくることのできない場所」と言われてきたのである。あの黄門様、水戸光圀が中に入って神の怒りに触れたという伝承もあるようだ。確かに、この鬱蒼とした竹藪は、一目見るだけでも禁忌の場所のイメージがある。ちょっと覗いてみると、一部の竹は枯れて茶色くなり、倒れているのだが、そのままになっている。
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現地に立っている説明板によると、もしかするとこれは、古い時代の八幡宮の「放生 (ほうじょう) 池」の跡ではないかとのこと。生きた魚を放つため、立ち入り禁止であったその池が、後に埋め立てられ、「入ってはいけない」との伝承のみ残ったという説だ。この森の中央の地面は四角形になっていて、その説は有力であるらしい。歴史があり、人々の往来が多いにも関わらず、歴史的な空白 (千葉県の名前の謂われになった千葉氏の支配の時代には、内紛でこのあたりは荒廃したという) ができたことで、なんとも神秘的な場所ができてしまったわけである。なるほど、歴史だけでもそうはならないし、ただ空白があるだけでもならないわけで、様々な要因が重なってこのような景観が生まれているということになる。

さて、ここまでは永井荷風が過ごした街の様子であったが、それからまた、違った顔の市川探訪に続いて行くのである。

by yokohama7474 | 2017-06-03 01:13 | 美術・旅行 | Comments(0)

アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国 東京ステーションギャラリー

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これは、アドルフ・ヴェルフリという画家 (1864 - 1930) の回顧展。もちろん日本で初めて開催されるものである。だが私の知る限り、この画家の作品を見ることのできる展覧会が、かつて一度あった。今私の書庫からその展覧会の図録を持ってきてみると、おっと、その時のチラシまで挟まれている。これである。
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1993年に世田谷美術館で開かれた「パラレル・ヴィジョン」展。私は今でもこの展覧会を見た衝撃を忘れない。それは、私が人生で初めて接する大量のアール・ブリュット、その当時の言葉で言えばアウトサイダー・アートであったからだ。随分以前、このブログを始めた初期の頃に、パリでヘンリー・ダーガー展を見たことを書いたが、彼などはその後アール・ブリュットの代表選手のように言われ、日本でも写真集が出たし、展覧会も開かれたのである。もちろん、アール・ブリュットはヘンリー・ダーガーだけでなく、様々な作家がいるわけであるが、さしずめこのヴェルフリなどは、ダーガーと並ぶアール・ブリュットの代表選手と言えるのではないだろうか。さてそれでは、ここで何度も言及したアール・ブリュットとは何か。この言葉はもともとフランスの画家ジャン・デュビュッフェが提唱した概念で、「生の芸術」とでも訳せばよいだろうか、正規の美術教育を受けていない、多くはアマチュア画家による作品のこと。もともとのアウトサイダー・アートという言葉は、精神病を病んだ人や受刑者に対する差別的な響きがあるので、このアール・ブリュットという言葉に置き換えられたものであろう。私にとってこの分野は限りない興味を惹くものであり、南仏にある「シュヴァルの理想宮」も訪れたし、スイスのローザンヌにあるアール・ブリュット・コレクションも当然訪れたことがあるのである。因みに上記の「パラレル・ヴィジョン」展は実は日本オリジナルの企画ではなく、東京での開催の前に、ロサンゼルス、マドリード、バーゼルでも開かれている。つまりこの展覧会は、世界がいわゆるアウトサイダー・アートを発見するきっかけになったということだろう。

ではこのヴェルフリという画家、どのような人であったのか。スイスのドイツ語圏に 1864年に生まれたという点に注目しよう。もちろん我々は、同じ年にアルプス近辺で生まれた大芸術家を知っている。作曲家のリヒャルト・シュトラウスだ。なるほど、音楽で言えば後期ロマン派であり、ヨーロッパ先進諸国の間で台頭した帝国主義が、20世紀に入ってからの世界大戦に直結する、そんな時代の人なのである。彼の肖像写真を 2点。ピカソかとおぼしき風貌と、チロルの民族衣装 (?) の可愛らしさのギャップが既にしてブリュットなのだ (笑)。
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この展覧会の副題になっている通り、この人は 1908年以降、死去する 1930年までの間の生涯に 25,000ページに亘る作品を作り上げた。その写真がこれである。信じられますか。
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人間、神経回路が何かひとつに向かうと、尋常ではないエネルギーが生まれるものと見える。実はこのヴェルフリの前半生はかなり悲惨なのである。彼が絵を描き始めたのは 1899年、入院中の精神病院においてのことであった。だがその前に彼は少女に乱暴した咎で 2度も刑務所に入れられているのである。もちろん昔の話であるから、客観的事実は分かりようもない。もしかすると、精神に欠陥のある彼を犯人にすると都合がよかったという事情があっても、おかしくないかもしれない。もっともそのあたりの乱暴の事実は、本人の手記でも残されているようなのであるが・・・。ともあれヴェルフリが創作を始めた初期の作品がこれである。1904年の作で、「前掛けをした神の天使」。現存するヴェルフリの作品として最も古いもの。
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アール・ブリュットに典型的な、強迫観念を思わせる細密な描写。まさにモノクロの迷宮である。この流れで、1905年の「ウォルドルフ=アストリア・ホテル」の部分アップと「ニューヨークのホテル・ウィンザー」。きっと夢の中で見たニューヨークのホテルを、まるで神殿のようにイメージしたもののようである。後者のホテル・ウィンザーにはなじみがないが、前者のウォルドルフ=アストリアは、Park Avenue 沿いの、ニューヨーク有数の由緒あるホテルとして有名である。私は、そこの泊まったことはないものの、訪れたことは何度もある。因みに今は中国系資本です。
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さて、上述の通り、彼が 25,000 ページに亘る作品を作り始めたのは 1908年のこと。ここでは彼の仮想のヴィジョンには色がつくことになる。これは、「ゆりかごから墓場まで」という旅行記 (?) の中から、1910年に描かれた「デンマークの島 グリーンランドの南=端」。この旅行記は何かと言うと、主人公の少年ドゥフィ (アドルフの愛称) が、家族とともに世界を旅して、様々な危機を乗り越えて進歩を遂げて行く話。
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これも同じく「ゆりかごから墓場まで」の中から、1910年の「バント (帯) = ヴァント (壁) の中の聖ヴァンダナ = 大聖堂)。ここでは直線的な要素が勝っているが、真ん中の三角形のぎゅっと曲がったカーブは美しく描かれている。余白を恐れるように空間をびっしり埋め尽くした様々なイメージが、ヴェルフリの夢想した世界の諸相であったのだろう。ちょっと鳥肌立つようなものではないか。
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これはモノクロに戻るが、1911年の「アメリカ、カナダ合衆国のチンパンジー = 猿」。これまでにも出ていた楽譜のイメージが、かなり大きく出ている。十字架のイメージも見えて宗教的な要素もあるが、四隅に見える動物は牛だろうか。ちょっとシャガールを連想させる。
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これも共通点のある作品で、やはり 1911年の「グニッペ (折りたたみナイフ) の主題」の一部。ここでも司祭のような人物がおり、楽譜を首の回りに巻いている。
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これはちょっとエリザベス 1世を思わせるイメージではないだろうか。あとですね、犬が怪我などしたときに、こういうものを首に巻きますね (笑)。犬の写真はほかの方のブログから拝借しました。
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これも 1911年の作で、「機械工にして板金工 = 職人のアルブレヒト・キントラーの殺害、家族の = 父、強姦のせいで」。長い題名であり、正直意味が分からないが (笑)、ここにも宗教的、貴族的、音楽的な要素が満載である。彼自身が犯したとされる犯罪へのトラウマがあるのだろうか。
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ヴェルフリの目くるめくイメージはまさに夢に出てきそうなものであるが、空間を埋め尽くす感覚に加え、時に放射的なイメージも登場する。これはやはり 1911年の「エン湖での開戦、北アメリカ」。強烈である。
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見る者の勝手な想像では、これはモローの名作、サロメをテーマとした「出現」のパロディではないか。違うか (笑)。
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1911年の作品が続く。これは「ネゲルハル[黒人の響き]」と、「氷湖の = ハル[響き]」。もうクラクラする。願わくば、縦と横が間違えていませんように (笑)。
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上に掲げた作品の中には、何やらヴェルフリが鉛筆で手書きした文章や単語が見えるが、中には、延々と数字が並んでいるものもある。これは彼が 1912年から 1916年にかけて制作した「地理と代数の書」から。これは先の「ゆりかごから墓場まで」のような過去を振り返るものではなく、来るべき未来をテーマとしたもの。甥のルドルフに対し、自分の死後どうすれば「聖アドルフ巨大創造物」を作り出すことができるかを説いているらしい。そしてここでは、想像を絶する巨大な富 (自分で巨大な数の単位まで考え出している) が計算されるのである。稀有壮大なストーリーの果てに、アドルフ・ヴェルフリはついに「聖アドルフ II 世」を名乗ることとなる。
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聖アドルフの顕現はこのようになされる。1914年の「太平洋、ビスカヤ島の = 港での神聖なる聖アドルフの勝利」。なるほどここではパートカラーなのである。
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アール・ブリュットを代表するヘンリー・ダーガーの作品には、既存の写真等を使用したコラージュが多いのであるが、ヴェルフリも後年になると同様の手段を用いている。1915年の「ロング・アイランドの実験室」。ロング・アイランドとはニューヨーク、マンハッタンの東にあるあの地域のことであろう。もちろんヴェルフリがそこを訪れたという事実はないはずであり、何かの雑誌で見てインスピレーションを得たものであろう。
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これも 1915年の「全能なるガラスの = 響き」。ここでは、上の作品に見えているのと同じ、何やらナメクジのような横長の動物 (?) が登場している。
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ところでこの展覧会には、ヴェルフリがその膨大な作品群の中で使用した様々なヴィジュアルイメージを分類しているコーナーがある。いやはや、大変ご苦労様なことである。ここでは、上で見たナメクジのようなかたちもリストアップされている。
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ヴェルフリはその後も、「歌と舞曲の書」(1917 - 1922年) や「歌と行進のアルバム」(1924 - 1928年) などを制作している。このあたりになってくると、体力的な問題もあったのか、めくるめくイメージを紙の上いっぱいに展開するのではなく、コラージュが増えてくる。これは 1917年の「オイメスの死、事故」と、真ん中の写真のアップ。山での遭難事故を題材にしたものか。
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最後に、「葬送行進曲」と名付けられた最後の作品群 (1928 - 1930年) から、興味深い一点をご紹介しよう。これは上述の 1993年の「パラレル・ヴィジョン」展にも出品されていた、1929年のヴェルフリの作品だ。何やら多くの数字が手書きで書きつけられた横に、いわゆるモガのイラストが貼られている。
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この作品には題名がないようだが、下の方に貼りつけられているのはこれだ。
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そう、キャンベルのトマト・スープ。米国の会社キャンベルは実に 1869年設立で、世界で缶スープを販売していたので、ヴェルフリもスイスにいながら、同社のスープを飲んでいたことだろう。そしてキャンベル・スープと言えばやはりこれだろう。
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そう、もちろんアンディ・ウォーホルだ。私はここで、アール・ブリュットの作家たるアドルフ・ヴェルフリが、実は 20世紀米国のポップ・アートを代表するアンディ・ウォーホルに影響を与えていた!! という主張をするつもりはない。ただ、このような既成のイメージが面白いと思ったに違いないヴェルフリの脳髄のひらめきに感嘆するのである。ウォーホルは逆説的に美術の意味を問うためにキャンベル・スープを使ったが、ヴェルフリは、ただ面白いから使ったのである。この「ただ面白い」という感覚がいかに貴重なものであるか、私は再度認識するに至ったのだ。アール・ブリュットはこれからますます脚光を浴びることであろう。私としては、偉大なる芸術家には血のにじむような鍛錬をして欲しいと願う面は強いのであるが、このような圧倒的な美術を生み出す人間精神の潜在能力には驚嘆する。「通常の」アートとは異なる意義を深く認識させてくれる、これは貴重な展覧会なのである。

by yokohama7474 | 2017-06-02 00:43 | 美術・旅行 | Comments(0)

N・S・ハルシャ展 チャーミングな旅 森美術館

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東京・六本木ヒルズにある森美術館で開かれているこの展覧会は、1969年生まれのインドのアーティスト、N・S・ハルシャの、日本初の大規模な回顧展。上のポスターを見ると、何やらカラフルな沢山の人たちが描かれていて楽し気だし、「チャーミングな旅」という副題も気を引く。これがハルシャさん。
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彼は南インドの古都マイスールに生まれ、今もその地に住んでアート活動を展開しているらしい。この展覧会のタイトルにある「ジャーニー」とは、彼自身の人生の歩みだけではなく、インドの経済発展、伝統と現代の間の往来などの様々な「旅」が示唆されていると、主催者の説明にある。実際にこの展覧会に足を運んでみると、ポスターに見られる、ミニマルアートのような、またヒンドゥー教の様々な神の姿のような、にぎやかで鮮やかな作品だけでなく、ブラックユーモアをたたえたものや強烈な表現力で仮借ない社会の真実を抉り出したものなど様々で、近年国際的に注目されているというこのアーティストの全貌にかなり近づけるものとなっている。会場では写真撮影が自由なので、最初は大きな作品の細部など撮ろうかなと思ったのだが、結局、ごく最小限にとどめておいた。というのも、細部を見て行くと面白くてきりがなく、それを次々と写真に撮っても、どうにも埒が明かないというか、面白みが伝わりにくいと感じたからである。ここには、インドの人たちの暮らしぶりや、あるいはさらに広く人の生きざま、あるいは国や地方の政治・経済の変遷が、様々なかたちをとって表されており、ファンタジーと現実感がない交ぜとなった面白さがある。私も今回初めてその名を知ったアーティストであるが、様々なことを考えるヒントをもらえる新鮮な展覧会である。

まずこれは、1995年の「無題」。延々と描かれているのは象である。左右や上下に見えるのは、何か祭りの飾りででもあるかもしれないが、何やら金属的な錆びのようでもあり、花のようでもあって、一方の象たちが線だけで描かれた無色の存在なので、その対照が不思議な感覚を呼びさます。
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これは 1999 - 2001年の「私たちは来て、私たちは食べ、私たちは眠る」。題名の通り、様々な人々が左から右へ移動し、川を渡ってまた進んで行き、そして人々は食べ物を食べ、そして寝るという三連作。限りない時の流れの中で営まれる無数の人々の生きざま、死にざまを考えると、気が遠くなるような、心地よいような、そんな作品である。どうしても全体像を写すことができないので (できたとしても人の姿が小さすぎるので)、それぞれのパートの一部のアップと、そのまたアップをお目にかける。まずこれは「来る」場面。
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これは「食べる」場面。よく知られている通り、インドでは右手を使って食べる習慣がある。だが、右手で食べていることを除けば、これは全人類の姿でもある。つまり人間であれば食べない人はいないわけで、ここで描かれた営みは、単純ながら、人類誕生以降すべての人間によってずっと繰り返されてきた風景なのである。人の生そのものの風景と言ってもよい。
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そしてこれは「寝る」場面。食べることと同じく、寝ることも人間の生と同義なのであるが、ここでは意識がない分、ある種の神秘性が生まれてくるのである。でも、寝ている人の顔には、何か無垢なものが現れるのが面白い。この瞬間、人は幼児に還っているのだろうか。
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次は少し現実との接点を持った作品をご紹介しよう。2004年の「マクロ経済は日給 30ルピーか 60ルピーかで論争する」。たんぼで田植えをしている農民たちの間にスーツ姿の人々が登場する。1990年代に始まるインドの経済発展を風刺的に表現したものと言えようが、ユーモアをたたえた人の姿を含め、一見しただけではさほど政治的なメッセージには見えないところに、この作家の持ち味があるのであろうか。
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次の作品はもう少しブラックな要素が明確だ。2007年の「浄化する者たちの対話」。自らのからだを酷使するインドの密教の修行 (タントラ・ヨーガ) に勤しむ人たちと、土地を測量、開発する現実的な人たちとの対比。だがここでは、地面に巨大な骸骨が横たわっており、人の生の儚さを思わせる。
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これは 2008年の「ここに演説をしに来て」。これはもう延々と続く、椅子に腰かけた人々の肖像。ほかの人と同じポーズを取っている人はだれ一人としていない。ところどころに描かれた煙のようなものが不思議な幻想味を加えている。
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次はまた少しブラックな感覚が入った作品で、私は結構好きなのであるが、2006年の「溶けてゆくウィット」。ここで血を流しながら次々と崖の下に転がり落ちて行くピエロたちは、何を表しているのか。解釈は人それぞれにすればよいのであろう。
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会場には体感型の作品もある。これは 2010年/2017年の「空を見つめる人びと」。これは図録からの写真ではなく、私が現場で撮影したものを使おう。床に様々な人々の顔が描かれていて、天井がそれを映し出している。その床に人々は靴を脱いで横たわり、絵の中の人々との交歓を楽しむというもの。しんねりむっつりした現代アートが多い中、これはシンプルで人々が屈託なく楽しめ、何かを感じることができる作品として貴重であると思う。
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これも私が現場で撮影したもので、2007年/2017年の「ネイションズ」(国家)。所狭しと並べられたミシンには、国連加盟 193ヶ国の国旗を描いた布が置かれている。「インド」という国家を生み出したマハトマ・ガンジーの活動を象徴する糸車のイメージと、工業化のイメージから、ミシンが使われているらしい。国家という概念の危うさと、それぞれの国家を生み出すためには人間が活動する必要がある (ちょうどミシンを踏むように) ということが感じられるが、やはりここでも、あまり政治的なメッセージという押しつけがましさのない点がハルシャの優れたところではないだろうか。
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類似のモチーフを違う視点から描いた 2007年の「神がみの創造」。ハルシャの暮らす南インドではテキスタイル工場が沢山あり、何千人もの人たちが働いている。人間が何かにかたちを与えることができるなら、この作品の人物たちのように、神々を生み出そうとすることもできるのだろうか。だがこの人物たちは皆、まるで亡霊のようで、黒い布から神々が出現するのか否かは、これだけでは分からないのである。その意味するところを考えるよりも、まずは視覚的なイメージの面白さを楽しみたい。
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ハルシャの作品は実際、上で見てきたような細密なものが多いのだが、そうでないものもあって、何をこの記事でご紹介するかはかなり迷うところ。つまり細密作品を眺め始めると、ここもあそこも面白いとなってしまって収拾がつかないようなことになってしまう。よって上では、ごく限られたイメージだけのご紹介にとどまってしまった点は否めない。だが最後に二点、私が現場で撮影した写真によって、また毛色の違う作品をご紹介する。まず、2013年の「ふたたび生まれ、ふたたび死ぬ」。実に、縦 3.6m、横 24m の超大作であり、ここには細密な要素は何もなく、宇宙的なスケールに、ただただ圧倒される。とはいえ、ここでも太い線は、ねじれようと流れようと常に連続していて、まさにこの題名のごとく、連綿とつながる人々の生を連想させる。その意味では、やはりハルシャらしい作品であると言えるだろう。
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これは 2013年の「タマシャ」。猿たちが天を指さし、その長い尾が絡まっている。解釈はいろいろ可能であろう。例えば、高い理想を掲げていても利害がかみ合わない人たちを指しているとか。まぁ解釈はこの際どうでもよい。物言わぬ猿の哲学的な仕草と、異様に長い尾の不思議な感じだけでも、大変印象に残る。これは、猿の神ハヌマーンではなくて、ハルシャの新しいスタジオの建設中に雨どいに座って作業をじっと見ていた 1匹の猿から着想を得たものであるという。

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というわけで、N・S・ハルシャとともにチャーミングな旅に出てみたわけであるが、ここにご紹介できなかったタイプの作品もあれこれあるので、その旅はなかなか変化に富んだ興味深いものである。様々な要素がごった煮になったインドらしいアートと言えば言えるし、さらに普遍的に人間の生きざまを表現しているとも言えるであろう。大事なことは、アーティストのメッセージを自分なりに取り込んで楽しむことだと思う。誰かから与えられるのではなく積極的にアートを楽しみに行くタイプの鑑賞者にとっては、見どころの多い展覧会であると申し上げておこう。

by yokohama7474 | 2017-06-01 01:02 | 美術・旅行 | Comments(0)

東京都 青梅・奥多摩 その 2 鳩ノ巣渓谷、高尾山

GW 中のある日、私と家人は奥多摩の鳩ノ巣溪谷に一泊することとした。私にとっては、学生時代に一度仲間と泊まったことがある場所だが、ホテルは見違えるようにきれいになっているし、かなり急な流れの溪谷の水の清々しさは相変わらずだ。驚くべきことに、ここも東京都。都会の垢を落としに来るには最適の場所であると、お薦めしておこう。吊り橋の向うの巨大な岩の上に小さな祠が見える。これは水神様と呼ばれていて、この森に二羽の鳩が巣を作って仲睦まじく暮らしていたのが、鳩ノ巣溪谷の名前の由来だとか。
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その翌日向かうこととしたのは、八王子市にある高尾山だ。ミシュランのガイドで星がついたとのことで、最近では外国人の訪問も多く、非常にメジャーな観光地になっているが、ここは古くからの修験道の聖地。天狗が住むという、標高 599mの神秘の山である。実は奥多摩から高尾山に向かうには、途中で青梅市街を抜けることになる。この日はちょうど青梅大祭で山車の出る日であり、前日はカバーをかぶっていた山車の数々も、人々に引かれて繰り出している。これらは車の中から撮影したものだが、電線を通り抜けるのに一苦労だし、そのおかげでバスも発車できないし、ましてや一般の車の通行においてをや (笑)。だが、人々の祭りにかける意気込気が伝わって来るではないか。せっかくなので、午前中に高尾山を観光して、昼食を取ったあとに青梅に戻って来て、祭りを見たいと考えたのである。いやー、祭りってワクワクしますねぇ。
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さて、高尾山である。幼少の頃に親戚と出かけたことがあるような気もするが、記憶が定かではない。いずれにせよ、大人になってからは初めての訪問なのだ。なんとも楽しみなのである。ここにある寺院の名前は、高尾山薬王院。真言宗のお寺だ。先日の御嶽山もそうであったが、ここもケーブルカーで山頂に登って行く必要あるのであるが、ここのケーブルカーの駅は御嶽山よりも規模が大きい。
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なんでもここのケーブルカーの勾配は 31度18分で、日本一であるとか。それは大変に興味深いと思ったのだが、朝から既に遠足の子供たちや観光客で賑わっている。そのときふと見ると、ケーブルカー以外にリフトもある。もちろんリフトの場合は外気に触れるので、よりワイルドである。夫婦で意気投合し、リフトに乗ることにした。途中で二度ほどぐぐーっと勾配が上がる構造であり、これは楽しい。
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途中でこんな注意書きが。外人用に英語表記もあるが、うーん。"Don't Shaking" って、この英語、間違っていませんか? (笑) まぁ、言いたいことは通じるとは思うものの。
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頂上駅からお寺まで、ブラブラ歩いて 20分ほどであったろうか。お気楽な我が家は普段着での訪問であったが、麓から歩いて来る人たちはももちろん、ケーブルカーやリフトを利用する人たちも、登山の恰好をしている場合が多い。実際にここは立派な山なのである。寺からさらに登れば山頂に辿り着くが、今回は寺までということにして、歩き始めた。
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都心から 50kmくらいだと思うが、このように見晴るかすと、本当に関東平野はだだっ広いなという感じがする。
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参道の左右には様々な人から寄進された童子像が沢山立っていて、人々の往来を見守ってくれている。また、途中には、根がウネウネと湾曲していることからタコ杉と呼ばれる巨木があったり、天狗の腰かけ杉もあって、これだけ多くの観光客の集まる場所でありながら、古くからの霊場の神秘的な雰囲気を未だに充分に保っているのである。
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そういえば、先般 NHK の「ブラタモリ」で高尾山を採り上げた際、この地は針葉樹林と広葉樹林が隣り合っていて、森の明るさが違うと説明していた。あ、本当にここは、左側が針葉樹林、右側が広葉樹林になっている!!
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このような門を過ぎると、右側にはずらっと寄進者の名前が記された木の札が並んでいる。皆さんが寄進されているのは、杉の苗であるようだ。この高尾山の自然は、篤志家の方々によって守られているのだということが分かって興味深い。
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そしてズラリと並んだ寄進者の札の列の最後、最高額の寄進者の皆さんの札がこれだ。
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おおっと、京王電鉄とケーブルカー会社の次に来ているのは、あのサブちゃんではないか。八王子在住であったとは。実はそのことは、寺の境内に辿り着き、四天王門をくぐったすぐ左手で再確認できる。そこには彼の歌声が流れていて、何かと思うと、サブちゃんの手形に手を置くと、その名も「高尾山」という歌が流れ始めるという仕組み。古来より霊場というものは、このような世俗的要素との併存をしてきたもの。天狗も、演歌を唸って、あははと楽しそうに笑っているのではないだろうか。
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と思うと、ちょうどこの場所の向かいには、二体の天狗像が。この寺の敷地内のあちこちで出会うこととなる、大天狗 (鼻の長い方) と小天狗 (くちばしのある方) のコンビだ。この二体は常に阿吽にもなっている。いかにも高尾山の雰囲気満点だ。
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この高尾山は未だに古来の神仏混交の色を強く残していて、実はメインの建物として、本堂と本社の 2つのお堂があるのである。これが本堂。明治期のもので文化財指定はないが、さすが霊場薬王院の本堂。堂々たる佇まいであり、ここでも大天狗、小天狗の巨大な面が左右で絶大な存在感を誇っている。尚、この本堂内には、秘仏・本尊薬師如来の厨子を囲んで、異形の飯縄 (いづな) 大権現像などがずらりと並んでいて壮観なのであるが、祈祷を受けないと中に入れない。私はまた次回の楽しみとして取っておくことにした。
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そしてこちらが、本堂よりさらに上がった場所にある本社。つまりこれは神社の本殿である。江戸時代の建造物で、東京都の指定文化財。このお堂では飯縄権現が本尊、いやご神体として祀られているため、飯縄権現堂とも呼ばれている。華やかな装飾が美しく、細部を見ていると飽きないのである。そう言えば、先般訪れた久能山東照宮や静岡浅間神社もそうだったし、上野の東照宮もそうだが、江戸時代の装飾的な神社建築は、日光以外にも結構いろいろあるのだ。日本人の美意識には、わび・さび (東京国立博物館で開催中の「茶の湯」展で先日満喫したばかり) とは全く対照的な、このような要素もあることを、再認識する。
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さて、このように念願の高尾山薬王院詣でを済ませ、帰りはケーブルカーに乗ってみることとした。なるほど、日本一の急勾配、これもなかなか楽しい見どころである。
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さて、文化ブログとしての高尾山のご紹介はここまでなのであるが、この日ランチを取った場所が忘れられないので、ここでご紹介しておく。圏央道の高尾山インターからほど近いところにある、うかい鳥山という、いろり炭火焼レストラン。
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私がここを知ったのは、絶景を楽しむことができるレストランを紹介した本であったのだが、うかいと言えば、東京にいろいろな系列レストランがある。東京タワーのふもとにあるとうふ屋うかいは外人接待の定番だし、銀座のうかい亭では最高の鉄板焼きを食べることができる。その他にも多くのレストランを展開しているうかいであるが、その発祥の地がここ、うかい鳥山らしい。いやそれにしても、行ってみて驚いた。まず駐車場の横にはこのように巨大な合掌造りの建物があって壮観である。この中でも食事ができるようだ。
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総合受付を通って敷地内に入ると、多くの風情ある建物が点在し、それぞれ食事をしている人たちがいる。また広大な庭園の、凝っていること!! この維持には相当な労力と金銭を要するだろう。苔むした水車も動いているし、季節外れの紅葉も実に美しく、また奥まで進むと、様々な植物を栽培しているのだが、そこにはまた道祖神なども置いてあって、日本人の心に迫ってくるのである。
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今回は GW ということもあり、個室ではなく、大き目の部屋での相席での食事となったが、それでもスペースは充分で、これを「相席」と呼ぶ必要はないだろう (笑)。いやその風情のあること。なんでもこの建物、百五十年前に建てられた五箇山の合掌造りを移築してきたものらしい。席はこんな感じ。
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もちろん頂いた料理も大変結構だった。このブログは文化を対象にしているものであるからして、グルメブログとは一線を画し、食事のご紹介はしないので悪しからず。実際、車だったので私は (家人がどうであったかは触れないこととして 笑) ノンアルコールビールしか飲むことができなかったのだが、それでもなんとものんびりしてしまい、まるで酔っているかのような気分になってしまった。そんなことで、本当なら青梅大祭を見に行きたいと思っていたのだが、青梅駅近辺は車が通行止めになっているということでもあり、この小旅行には充分満足したので、今回は昼食後まっすぐ帰宅することとした。青梅の祭りもできればまたの機会に楽しみたいし、このうかい鳥山にも、また来てみたい。次回は電車で、思う存分アルコールを摂取することを、堅く心に誓ったのである!! ま、人生、そんな誓いもたまにはあってよいではないか。

案・近・短の旅、あとまだいくつかネタはあるので、折をみてアップして行きます。またよろしくお願いします。

by yokohama7474 | 2017-05-29 00:20 | 美術・旅行 | Comments(2)

東京都 青梅・奥多摩 その 1 武蔵御嶽神社、塩船観音寺、青梅市街、日原鍾乳洞

このブログでは既におなじみの「安・近・短の旅」シリーズ。今回ご紹介するのは、私と家人が 1ヶ月ほど前に楽しんだ東京都内の小旅行。行き先は青梅と奥多摩なのであるが、さて、話をどこから始めようかと考えた。まずはこの言葉のご紹介からとしよう。「秘仏開扉」。子供の頃から仏像好きであった私にとってこの言葉は、魔法の呪文のようなもの。「開扉」とは、「かいひ」と読み、文字通り扉を開けて、普段は閉ざされた厨子の中におられる仏さまを明るみに出すことを指す。そして今回ご紹介したいのは、このような秘仏の開扉についてである。
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どうだろう。神秘的ではないか。この仏像は、青梅市の塩船観音寺のご本尊、千手観音像。鎌倉時代、1264年の作で、東京都指定文化財である。この仏像の開扉は年に 4回。正月 3ヶ日、1月16日、5月 1~3日、8月第 2日曜日。 東京に住んで 40年になる私も、未だかつてこの仏像を拝んだことがない。これは由々しきことである。しかもこのご本尊の左右には、千手観音の眷属である二十八部衆がすべて揃っているのである。もちろん、京都の三十三間堂という特殊な例を除けば、これは日本全国を見渡してもそうはないことだ。
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こんな仏像が東京都内にあるとは驚異的なこと。最近では仏像も多くの人の興味を惹くようになってきて、様々な書物が出ているが、東京近郊の仏像に関するお薦めの本は、なんと言ってもこれである。
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ここには本当に貴重な首都圏の古い仏像の数々が紹介されていて圧巻である。この塩船観音寺の仏像も、きれいなカラー写真で紹介されている。このような本を見て私は、今年の年明け早々、正月 3ヶ日にこの寺を訪れようと一旦は決心したのであるが、ちょっと寒くて億劫であった (笑)。そんなわけで、もっと温かい頃、つまりはゴールデン・ウィーク中の開扉期間に、念願の塩船観音寺詣でをすることとなった。多摩川下流の我が家からは、川を遡る旅。もちろん水路ではなく陸路を辿り (笑)、現地に到着したのは朝 9時頃であった。この仁王門は室町時代のもので、国指定の重要文化財である。
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ところが本堂に辿り着いて内部に入っても、内陣に入ることはできないばかりか、ご本尊の厨子は堅く閉ざされたまま。これはどうも勝手が違うと思い、堂内のお坊さんに訪ねてみると、開扉は午後、13時からとのこと。おっとこれは困った。だが、この寺の境内ではおりしも、つつじ祭りを開催中。このような美しい風景を見ることはできた。
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さて、そうは言っても、13時までここで過ごすわけにもいかず、このままでは時間がもったいない。だが慌てるなかれ。観光するときの私の中には常にプラン B がある。今回は、ほかに行くべき場所があり、そちらをサクッと訪ねてからまたここに帰ってくるという案に移行することとした。その、「ほかに行くべき場所」とは、これである。
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同じ青梅市にある武蔵御嶽神社 (むさしみたけじんじゃ)。ここは以前テレビで見たのを覚えていて、犬を尊い存在として敬うため、犬連れで詣でる人たちが多い神社である。この神社では十二年に一度、酉 (とり) 年だけ特別な行事が行われる (戌年ではないので要注意)。上のポスターにある通り、ご神体の蔵王権現 (ざおうごんげん) 像が開扉されるのだ。おぉー、ここでもカイヒなのである。これは行くしかない。実はこの特別開扉は期間限定で、5月いっぱいで終了 (なので、この記事をご覧の方、まだギリギリ間に合いますよ!!)。しかも建物の中に入ってその尊像に対面できるのは一日に数回、決められた時刻のみ。事前に調べていたところでは、次は 11時なのである。だが、同じ青梅市内で 9時に塩船観音寺にいて、11時に御嶽神社に行くなら、少し時間が余るのではないかと思い、途中でこのような場所に寄ることとした。
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そう、「宮本武蔵」などの歴史もので有名な作家、吉川英治の旧居が記念館になっているのである。だがこの日はあいにく月曜日。記念館は休館日なのであった。随分以前に一度訪れたことがあるとはいえ、なんとも悔しい思いをしたのである。実はこの近くにはもうひとつ、日本画家河合玉堂の記念館もあり、御嶽神社に行く前にこの 2つに寄って行けばちょうどよいかと思ったので、なおさら悔しい。これでは時間を持て余すではないか・・・。そう思った私が実は甘かったことがあとで証明されることとなった。その意味では、この日がたまたま月曜であったおかげで、御嶽神社のご神体を時間の無駄なく拝むことができたのは、何やら不思議なご縁であったと思う。つまり、この御嶽神社、車でスイスイと前まで行くことができない、つまりは私が想定したようにサクッと訪れることなどとてもできない場所なのである。「武蔵御嶽神社」と入力した車のナビに従って辿り着いたのはこの場所。ケーブルカーの駅であった。
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御嶽神社に行くにはこのケーブルカーに乗るしか手段はなく、しかも頂上で下車後、25分歩かなければならないという!! ケーブルカーから見る武蔵野の山々は緑が深く、しかも、あっ、やはり犬が乗れるようになっている。
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ケーブルカーを降りてから歩き始めると、そこには、この地に参拝する人たちのための昔ながらの宿が点在する。ここはいわゆる修験道 (しゅげんどう = 密教と結びついた日本古来の山岳信仰。山伏でおなじみ) の聖地。信仰のためにこの山を訪れる人たちの世話をする、いわゆる御師 (おし) のような制度が未だに存続しているのだろうか。21世紀にまで存続する山の神秘に心打たれる。
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11時の開扉時刻に間に合うには、ちょっと急がなければ。それを逃すと次は 13時なのだ。石段を踏みしめて歩を進め、ようやく神社が見えてきたときの感動は忘れない。最後の石段には鬼が顔を出している。
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ここは本当に聖なる場所であり、肺いっぱいに吸い込む空気から、普段の都会生活の垢を落とすことができる。見晴らしも最高だ。
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そして 5月でありながら、ここでは未だに桜が花をつけていた。修験道の総本山は吉野。もちろんそこは桜の名所である。修験道の神である蔵王権現は桜が大好きなのだ。
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そして本殿の横には何やら柱が立っていて、そこに布が縛りつけられている。これはご神体である蔵王権現を祀る本殿から引かれていて、この柱に触るとご神体から直接ご利益を頂くことができるわけである。
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さて、昇殿の時刻である 11時になんとか間に合った我々は、総勢 50名程度かと思われる人々と一緒に拝殿に入って行った。その中では撮影禁止と明確な指示はなかったものの、その厳かな雰囲気は、気軽にシャッターを切ることができないようなもの。よって内部の写真はないが、中では神主さんたちの祝詞があり、ご神体開扉の前には招魂のために「おおぉぉぉぉ~~」という唸りがあげられ、参拝する人たちみな、頭を下げて敬虔な気持ちになる。そして順番に並び、拝殿からは階段を経て見上げる位置にある本殿の前面に出されてきたご神体とご対面することが許される。本殿の前面までご神体を移動させるのは十二年に一度、酉年だけである由。ご神体の蔵王権現は、高さ 50cm ほどであろうか、かなり小さいもの。青銅製かと見られる素朴なお姿で、彫刻として最高の出来というわけではないにせよ、古来この由緒正しい神社に祀られてきた霊像であり、十二年に一度という機会に、とにかく有り難い儀式を経てようやく叶ったご対面である。それはそれは感動的なイヴェントとなった。

再び神社の境内に戻ると、そこには犬連れの参拝客の姿もあり、ペットお守りなども売っている。我が家の愛犬は 1年半ほど前に天国に旅立ってしまったが、何やら我々夫婦と一緒にこの神社に詣でているような気がして、命の尊さを改めて実感した。もっとも犬たちにはそんな感傷はないと思うが (笑)。
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また、この神社の宝物館には国宝の甲冑など、貴重な文化財が展示されていて興味深いが、出版物からの転載も許可しないという貼り紙があったので、ここでは画像でのご紹介は断念する。是非現地でご覧下さい。

さてそれからまた塩船観音寺に戻る途中、青梅駅周辺で道草を食った。我が家の場合、この道草を楽しむことが旅先では何より大事なのである (笑)。街のそこここに洋の東西を問わない古い映画のポスターをもとにした看板画がかかっており、なんともレトロである。昭和な博物館もいくつかあるが、やはり月曜で休館であった。猫による「東京物語」のパロディが楽しい。
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そして、住吉神社という神社には、カバーをかけられた山車のようなものが。実はこの翌日から青梅大祭なるものが開かれるのである。これまで知らなかったが、かなり由緒のある盛大なお祭りらしい。
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そんなことで、再び舞い戻った塩船観音堂。まずは薬師如来堂に詣でる。青梅市指定文化財だが、そのお姿はかなり古様で素朴。霊験あらたかな雰囲気満点である。
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そうしてようやく目にすることができた本尊、千手観音像。お堂の扉も開け放たれていたので、外からでもこのようにお姿を拝むことができる。なんと神秘的。冒頭の写真では、等身大か、あるいはそれ以上の大きさかと思われるが、実際の像高は 144cm。小ぶりな観音様である。私としては、長年の念願叶ってこの仏さまに対面できたことを、心から嬉しいと思ったのだ。そのような思いをたまに持つことで、決して平穏ばかりではない日常生活を乗り切っていけるのである。
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この日はこれから最後に、これも以前から興味があって行くことができなかった日原 (にっぱら) 鍾乳洞に行くことにした。ここは古くから修験道の修行の場として使われていて、その意味での神秘性を感じる場所。例えば秋芳洞や龍河洞のような自然の驚異を感じる美しい場所というよりは、自然に感嘆しそれを敬った人間たちの祈りが未だに残っているような、そんな場所なのである。以下、洞内で撮影した写真をご紹介する。
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洞内はかなり長い通路が設けられていて、アップダウンも相当に険しい。このような中を歩いていると、無性に外の光が恋しくなる。そんな思いをした後、洞窟から出た私の目に飛び込んできた渓流は、まごうことなき生命に溢れた場所であって、視覚だけでなく聴覚や嗅覚の点でも、地上に息づく生命を感じることができ、心からほっとしたことである。普段感じないような光や水や空気や生命の尊さを感じることとなったわけなのだ。これはあたかも、映画「ゼロ・グラビティ」で主役のサンドラ・ブロックが地球に帰還したシーンのようであった。日常当たり前だと思っていることの尊さを感じる機会は、実に貴重なのである。
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川の流れをじっと眺めていると、そこにある岩が、人間の顔のように見えてきた。なるほど人間はこういう感性が敏感になったときに幻影などを見て、様々な文化を創り出してきたのだろうかと思ったものである。
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この日は大気が不安定で、何度か雨に見舞われたのであるが、不思議なことに、激しい雨が降ったのは我々が車で移動しているときで、それぞれの目的地では全く傘の必要もなかったのである。また、上に書いた通り、月曜日であったために時間の有効活用ができたことも大変にありがたかった。私は何もそれを神秘的な現象と言うつもりはなく、たまたまなのであるが、それでもやはり、このような経験から感じることは多々ある。この日の日程を終え、宿に向かう途中には、既に西日となった日光が戻ってきて、山の向こうからこのような輝きを見せた。さらに、宿に着く頃には日は既に山の向こうに沈んでいたが、まるで明るさを惜しむような雲の様子に目を奪われた。このような風景に神秘性を感じるのが、人間の素直な感性であると思う。
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さてその日は奥多摩にて一泊。GW の安・近・短の旅は翌日に続くのである。

by yokohama7474 | 2017-05-28 08:21 | 美術・旅行 | Comments(0)

特別展覧会 海北友松 京都国立博物館

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海北友松。この名前はどの程度一般に親しまれているものだろうか。そもそもなんと読むのか。「うみきたともまつ」??? いえいえ、これは「かいほうゆうしょう」と読み、桃山時代から江戸時代にかけて活躍した絵師 (1533 - 1615) なのだ。もしかすると、いや、もしかしなくても、狩野永徳 (1543 - 1590) や長谷川等伯 (1539 - 1610) といった同時代の画家よりも知名度は低いかもしれない。だが、私ははっきり覚えているが、高校の日本史の教科書にも、桃山時代の代表的な画家として友松の名前は出ていたし、京都の寺に出かけると彼の障壁画を見ることができるのである。しかし、彼の大規模な回顧展がこれまで開かれたかというと、その記憶はないし、永徳の「唐獅子図」とか等伯の「松林図」というような代表作があるかというと、ちょっと考えてしまう。それゆえ、今般京都国立博物館 (通称「京博」) で開催されたこの展覧会は、友松芸術の全貌に迫る極めて貴重なものであったのだ。・・・と、ここでお詫びなのであるが、今私が書いた通り、この展覧会は京博で開催「された」と過去形にする必要がある。なぜならこの展覧会は 5/21 (日) をもって閉幕し、地方巡回の予定はないからだ。これは京博の開館 120周年を記念する行事のひとつであり、まさに京都でのみ開催可能であったもの。しかも開催期間は約 1ヶ月のみと、なかなかに厳しい条件だ。ただ私はどうしてもこれに出かけたくて、カレンダーとにらめっこした挙句、ある日曜の早朝に新幹線に飛び乗って、東京 - 京都間を弾丸往復することに決めた。京博の開館時刻、9時30分に先立って現地到着して列に並び、展覧会鑑賞後には、ほかの寺社には一切立ち寄ることもなく東京にトンボ返り。そして 15時からの東京でのコンサートに駆け付けたのである。少々強行軍ではあったが、結果的にはその価値のある素晴らしい展覧会であったと思う。

まず、会場の京博に掲げられていた看板をご覧頂こう。上に掲載したポスターの図柄と同じ龍の絵であるが、右後ろには現在閉館中の本館 (重要文化財) がチラリと見えている。なお、今回の展覧会場は、新しい平成知新館。
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さてこの展覧会では、初公開や海外からの里帰りを含む海北友松の作品及び資料 70点以上が展示され、実に圧巻であった。最初に結論を言ってしまうと、この画家の格の高さは疑うところなく日本美術史上に燦然たるものであり、近代的な感性までを思わせる素晴らしい作品がこれだけ一堂に会する機会は本当に貴重であり、間違いなく歴史に残る展覧会であったものだと思うのである。ここではその価値のほんの一部しかご紹介できないが、現地に出かけることのできなかった方に、少しでもイメージを広げて頂ければ本望である。そう、この絵師、ただものではない!

海北友松は浅井家の家臣、海北家の五男 (一説には三男) として近江に生まれた。幼くして京都の東福寺に入り、禅僧として狩野派を学ぶが、後に還俗して海北家再興を目指すものの、その絵の腕が秀吉の目に止まり、画業に専念。その後は天皇・親王や京都の格式の高い禅寺の僧たち、そして朝鮮の儒者や明の使節からも支持され、82歳の長寿を全うした。彼の親友に斎藤利三という人がいて、明智光秀の家臣であったために本能寺の変のあと処刑されたが、友松がその遺体を回収して手厚く葬ったという (今、友松自身が京都の真如堂でこの利三の隣に眠っている)。この斎藤利三の娘が、三代将軍家光の乳母、春日局なのである。そのような縁で、友松の名前はその子孫を通じて江戸時代初期に顕彰されたのだという。この時代、いやどの時代でも、芸術家の活動には、様々な巡りあわせが影響する。幸いなことに、今日我々が友松の作品の数々を見ることができるのは、そのような巡りあわせも大いに関係しているに違いない。以下は、今回出品されていた、海北家に伝来する (ということは、今も子孫の方がおられる?) 友松夫妻の姿。友松の孫である海北友雪の手になるもので、重要文化財だ。友松の妻が着ている着物は春日局から拝領したものとのことだが、そのいわれは上記の通り。当然友松夫妻が生きていた頃には未だ春日局は権勢を握っていなかったので、この情景はフィクションということになるが、自分の祖父を顕彰したいという友雪の思いがそうさせたのであろうか。
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次は、会場で最初に展示されている作品、岡山県蓮台寺所蔵の「菊慈童図 (きくじどうず) 屏風」。1997年の展覧会で初めて世に紹介され、無款ながら、今日では現存する友松の最初期の作品とみなされているとのこと。木や岩の描き方は狩野派風ということなのだろうが、私はこの人物の砕けたポーズとアンニュイな (?) 表情が気に入った。その生々しいこと、既に独特の個性を感じさせるのである。
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かと思うと、この「山水図屏風」では人物は一切登場しない。松や岩の、緻密だが優等生的な表現に比して、中国風の瓦を床に敷き詰めた建物の佇まいは何やら寂しげであり、あえて言えばシュールにすら感じる。友松の内面に、このような風景を描きたいと思う何かがあったのだろうかと想像したくなってしまう。
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これは米国サンフランシスコ・アジア美術館が所蔵する「柏に猿図」。猿の絵といえば、中国人画家牧谿が模範ということになるのだろうが、この絵に漂う愉悦感はなかなか独特のもので、猿の絵といえども、誰かの猿真似で描けるものではないだろう。水の表現は様式的であっても流れのリアルさを出そうとしているし、花や木などの植物に見られる近代日本画のごとき感性は、やはり友松独特のものではないか。
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展覧会には、友松が京都の名刹、建仁寺の塔頭に描いた襖絵が並んでいる。保存状態があまりよくないものもあるが、この「琴棋書画 (きんきしょが) 図屏風」は面白い。雲洞院という塔頭に現存する重要文化財だ。この展覧会ではこの画題による作品がいくつも展示されていたが、いずれも描かれた人物の闊達さに見入ってしまう。水墨画の多い友松だが、ここでは適度な彩りが添えられている。
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次にやはり重要文化財、建仁寺本体の大方丈の障壁画からいくつかご紹介する。この障壁画は全部で実に 50面あり、描かれたのは 1599年と、江戸時代前夜。友松既に 60代のときの作品なのである。オリジナルは現在京博が保管しており、現地にはキャノンが制作した高精度の複製品を順次入れて行っているとのこと。今度建仁寺に行ったときに見てみたい。最初は「雲龍図」だが、図録から撮影している関係で、たわんだ形になってしまっているものの、それが返って迫力を増しているようにも思われる。作品自体にそもそも力が漲っているからだろう。
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この展覧会には龍が何匹もうねっていたが、やはりこの、ポスターになっている奴が私としては最も気に入った。上と同じ建仁寺大方丈の襖絵で、重要文化財。この角の硬質な感じはなんとも言えない迫力だし、黒雲からにゅっと飛び出る右手は、下からの照明に浮かび上がっており、さながら怪獣映画のワンシーンのようではないか。ある意味でこれもモダンな感覚と言えると思う。
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同じ建仁寺の障壁画から「花鳥図」。これは孔雀なのであろうが、サイズはかなりデカデカと描かれている割には、足は細くて、龍の迫力とは異質である。しかし躍動感は素晴らしい。
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引き続き建仁寺の障壁画をいくつかご紹介する。順に「山水図」、そして「琴棋書画図」から 2点。幽玄な味わいがあると思うと、鋭い線で濃く直角に描かれた垣根もあり、ほのかな人間味のある人物像もある。これ見よがしのところはないだけに、その画格の高さに感嘆するのである。
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この建仁寺大方丈の作品を仕上げてのち、友松の名声はうなぎのぼり。皇族、大名らからも依頼を受けるようになり、現存する友松の作品は、この 60代以降の晩年のものが大半を占めるという。これは MOA 美術館が所蔵する重要文化財の「楼閣山水図屏風」。現在の鳥取県、鹿野 (しかの) 城の主であった亀井茲矩 (かめい これのり) に贈呈されたもの。やはりじっと見ていると近代の日本画のように見えてくる、水辺の風景である。
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友松はまた禅画も多く手掛けているが、私の見るところ、それほど砕けた大胆さがあるわけではない。だが、京博が所有する「禅宗祖師図押絵貼屏風」のひとつ、達磨の図を見てみると、まるでお菓子の「ひよこ」みたいで可愛らしいではないか (笑)。ちなみに押絵貼屏風 (おしえばりびょうぶ) とは、屏風の一扇ごとに図を貼付したもので、つながった屏風絵と違って一枚一枚完結なので、多彩な画題に活用できた。
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友松の絵画は、必要以上の写実にこだわっているようにはあまり見えないが、動物の描き方には一種独特のリアリティがある。これは、MIHO MUSEUM 所蔵になる「野馬図屏風」。白い馬と黒い馬なのだろうが、白馬だけからだの輪郭線 (ひょいひょいと描いたように見える) を使っているのが面白い。
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こちらはまたユニークな、「牧牛図屏風」。ここに採り上げた 3頭はそれぞれに毛の描き方が異なっていて、特に右側の奴は非常に丁寧な描き方となっている。集団のボスだろうか。
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さて、この先は友松 70歳のときの、ある重要な出会い以降の作品である。友松芸術の最後の輝きは、実に特別なものになるのである。1602年、細川幽斎らの推挙によって友松は、八条宮智仁親王のもとに出入りするようになったのだ。この智仁親王の名前は、「ともひとしんのう」ではなく「としひとしんのう」と読むのだが、私は正直なところ、よくその読み方を忘れて困っているのである。というのもこの親王、日本文化史において極めて大きな貢献をした人で、その名を口にする必要がたまに生じるからだ。そう、桂離宮の造営だ。このブログでも桂離宮に関しては、京都についての書物やブルーノ・タウトの建築に関係して、何度か言及しているが、同時代に造営された日光東照宮との対照も鮮やかな、シンプルなデザインによる鮮烈な感性を感じさせる特別な場所である。そうすると、もしかして桂離宮にも友松の作品があるのかと思って調べたところ、同離宮の造営は 1620年からで、友松の死後。だが、この展覧会に並んだ友松晩年の作の数々を見ていると、親王の感性に友松の作品が影響しているのでは、と思われてくる。これまでの水墨画中心の世界から、70歳にして金碧の色彩の世界に足を踏み入れた友松だが、相変わらずその作品の格は非常に高い。これは滋賀県立琵琶湖文化館所蔵の「檜図屏風」。色彩もさることながら、この丁寧な葉の描き方も、友松としては特別に手が込んでいるのでは。
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これは御物の「浜松図屏風」。やまと絵風だが、波を様式化している一方、松の緑が活き活きとしていて、その対照が面白い。
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これも御物で、「網干図屏風」。実物を前に「うぅーん」と唸ってしまった逸品だ。本来生活感があるはずの干し網の曲線と、これまた様式的な鋭い芦の直線の組み合わせが、現実世界を超えたスタイリッシュな世界をそこに現出している。
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次は、京都の名刹妙心寺に残る友松晩年の傑作、重要文化財の見事な屏風絵、「花卉 (かき) 図屏風」である。老境に至ってなお、この異様な生命力のある作品を制作できた友松とは、大変な人であったことが分かる。これらを見ていると、遥か後世の速水御舟まで思い出されてくるではないか。
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展覧会はここで照明を落とした部屋に入り、そこには 5匹の龍が薄暗い中に浮かび上がっている。上の建仁寺障壁画でも見た通り、友松の龍は凄まじい迫力だが、かならずどこかにユーモラスな部分もある。北野天満宮所蔵の重要文化財、六曲一双の「雲龍図」はその好例であろう。
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さて展覧会はそれから、気楽な手すさびといった押絵貼屏風の作品が並んでいて、これらも大変微笑ましいのだが、最後の部屋に至って人々は、「ほぉ~」と感嘆の声を上げる。そこに展示されていたのは、米国ミズーリ州カンザスシティにあるネルソン・アトキンズ美術館所蔵の「月下渓流図屏風」である。1958年に同美術館の所有となってから約 60年、今回が初めての里帰りであった由。友松最晩年の作と認定されている。
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これは、静かな春の川の夜明けを描いているわけであるが、その柔らかなタッチは、幽玄境に遊ぶかのようである。かつ大変素晴らしいのは、ほとんどモノトーンの色調の中、地面に生える土筆や、木の枝だけが控えめに色を施されていること。現代の写真家が、モノクロで撮影して、例えば花だけに鮮やかな色をつけてスタイリッシュに仕上げるパターンと似ているが、光学的な細工がいくらでもできる現代と異なり、ただ目に見える実際の世界しか見ることができなかった江戸時代の画家が、一体いかなる感性でパートカラーという発想を考え付いたものか。この作品は、淡い色調で枯れた味わいであるだけに、細部に宿る友松の視覚の冒険に、何か空恐ろしくなるような気がした。

ここでご紹介できたのはごく一部の作品だけであり、しかもその一部分の写真を掲載しているケースが多いので、実物を前にしたときの感動をお伝えするには限度があると思う。だが、海北友松という優れた画家がいたということを、今改めてここで認識して頂けるようなことがあれば、私としては、無理して京都まで弾丸往復した甲斐があるというもの (笑)。日本の美術史は本当に豊かで奥深いものなのであります。

by yokohama7474 | 2017-05-27 01:32 | 美術・旅行 | Comments(4)

オルセーのナビ派展 美の預言者たち --- ささやきとざわめき 三菱一号館美術館

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この展覧会は、日本人が大好きなパリのオルセー美術館から大挙して作品がやってくるという展覧会。最初にお断りしておくが、2月初旬から開かれているこの展覧会に私が足を運んだのは、ゴールデンウィーク中、より正確には、クラシック音楽の祭典、ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの期間中、コンサートとコンサートの間という限られた時間であった。そして気が付くと期間は今週末の日曜日までで、しかも地方巡回はない。実は私の手元には、まだまだほかにも記事のネタはあるのだが、ここでこの展覧会をご紹介しようと思ったのは、たまたまこの記事をご覧になった方に、なかなかに貴重なこの展覧会に足を運べる可能性を少しでも多く持って頂きたいと願うからである。上のポスターにある通り、ここで紹介されるナビ派の展覧会は、日本にとっては「はじめまして」であるらしい。えっ、そうなのか。ゴーギャンの影響を受けたナビ派については、私が過去に日本で見たいくつかの展覧会で目にしているので、既におなじみではないのか。実はここでひとつ個人的に告白をすると、私が多感な青春期に広範な西洋美術に触れることとなったきっかけは、中学生のときに定期購読していた「週刊 朝日百科 世界の美術」のシリーズであったのだ。この全 140冊のシリーズはしっかりバインドされて未だに私の書庫に並んでおり、いつでも手に取ってみることができる。今試みにその一冊をここに持って来てみる。発行は昭和 54年 (= 1979年) 4月26日、価格は 400円だ!!
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ここには、シャガールと並んで、ボナール、ヴィヤール (ヴュイヤール)、そしてナビ派とある。この頃からちゃんとナビ派は美術のひとつのスタイルと認識されていて、私にとってはなじみのある名前であったのだ。だが、書庫に並んだ過去の展覧会の図録を調べても、確かにナビ派を冠したものは見当たらない。ゴーギャンの影響下という意味では、ポン=タヴェン (またはポン=タヴァン) 派の展覧会は開催されているが、ナビ派は本当にこれが初めてのようだ。その意味では三菱一号館美術館、いいところに目をつけたものだ。そしてまた面白いのは、この展覧会の出品作はすべてあのパリのオルセー美術館から来ている。入り口近くに掲げられている挨拶の言葉の中に、オルセー美術館長のものがあって、そこにはなんと、「オルセーは印象派で有名ですが、私は印象派以外の美術の紹介に力を入れていて、そのひとつがナビ派です」などいう趣旨のことが書いてある!! この方、ギ・コジュヴァルという人で、ナビ派の専門家であるらしい。なるほど、日本人が印象派を大好きであることを知りながら、それとは違った分野の作品を 80点あまり (描いた画家は 13人) も日本に持ってきて展覧会を開くとは、実に侮りがたい。そして、明るく爽やかな印象主義 (Impressionism) よりも、暗い情念を持った表現主義 (Expressionism) や象徴主義により心惹かれる私としては、これはやはり必見の展覧会であったのだ。

そもそもナビ派とは何か。ナビとはヘブライ語で預言者のこと。新たな美の預言者たろうとして 19世紀末に起こった若い画家たちの一派で、ゴーギャンの影響を受けて、平面的で装飾的な作品を描いた。と書いてもなんのことやら分からないので、いくつか作品を見てみよう。まず、ナビ派が規範としたゴーギャン (1848 - 1903) の「『黄色いキリスト』のある自画像」(1890 - 91年)。有名な作品である。
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ゴーギャンが最初にタヒチに出向く前の作品で、画面がいくつかの空間に分けられてベタッと色が塗られている。印象派のように輪郭がぼやけてはおらず、斜めを向いて決意に満ちた自分の顔と、後ろに置かれた二点の自作 (「黄色いキリスト」と「グロテスクな頭の形をした自画像の壺」) との対比に、緊張関係が感じられる。キリストの絵は静謐でどこか牧歌的ですらあり、壺の絵は不気味な感じであって、自画像と合わせて赤・青・黄の三原色をなしている。あえて平面的に描いた画面に秘められた数々のドラマ。これこそがナビ派につながるものであると認識した。これは、エミール・ベルナール (1868 - 1941) の「炻器瓶 (せっきびん) とりんご」。1887年の作。もちろんセザンヌの影響はあるであろうが、屋外の風景を主観的な印象によって美しく描くのではなく、室内で物言わぬ静物を輪郭線を使ってしっかり描くという感性から、奇妙な神秘感が醸成されているから不思議だ。
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これはポール・セリュジエ (1864 - 1927) の 1893年の作品、「にわか雨」。これは屋外の風景だが、極めて線的であり平面的だ。そして私たち日本人は、ここには浮世絵の影響があることを決して見誤ることはないだろう。形態は単純だが、ここでも何か詩的なものを感じるのが、やはり不思議に思われるのである。
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次の作品はナビ派結成のきっかけとなった記念すべきもの。同じセリュジエの「タリスマン (護符)、愛の森を流れるアヴェン川」(1888年作)。うーん、愛の森が何物か知らないが、ここに描かれているのは風景であるはずなのに、色彩の並置だけになっている。これはほとんど抽象画と言ってもよいのではないか。私は時折絵画作品を見て、色彩と形態の境界が分からなくなって陶然とすることがあるが (そのような作品を描いた画家のひとりとして、ナビ派とは離れるが、ニコラ・ド・スタールの名を挙げておこう)、これなどはまさにそうだ。セリュジエはゴーギャンの助言を得てこの作品を仕上げ、ナビ派の画家たちから「護符」と呼ばれるようになったとのこと。美しい。
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さてここで、ナビ派の代表的な画家のひとりが登場する。モーリス・ドニ (1870 - 1943) である。1890年作の「テラスの陽光」。上のセリュジエの作品に強く同調していると思われる。このドニは、「絵画が、軍馬や裸婦や何らかの逸話である前に、本質的に、一定の秩序の下に集められた色彩で覆われた平坦な表面である」という言葉を残しているらしい。まさにこの作品ではそれを実践しているわけだ。
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これはケル=クサヴィエ・ルーセル (1867 - 1944) の「テラス」(1892年頃作)。一見印象主義風の平穏な風景にも見えるが、やはり平面性は独特のものだし、例えば細い木の枝が二本同じ方向を向いているのが不気味だし、右端の女性は亡霊のようではないか。鑑賞者のイマジネーションは秘めたドラマを導き出す。
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これは、アリスティード・マイヨール (1861 - 1944) の「女性の横顔」(1896年頃作)。あれ、マイヨールといえば彫刻家ではないのか。そう、ロダンやブールデルと並ぶ近代を代表するあの彫刻家は、本格的に彫刻を始めたのは 40歳を過ぎてかららしい。これは少し乾いた感性であり、新印象派風の点描も見られるが、横顔の女性の物言いたそうな顔にはやはり、ひそかなドラマ性がありはしないだろうか。ただ、その前に立つと非常に静謐な気持ちになる佳品である。
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これは、エドゥアール・ヴュイヤール (1868 - 1940) の 1940年頃のパステル画、「森の中の二人の女性」。こうなると象徴主義的ですらあって、この二人の女性のただならぬ様子 (?) には、近寄りがたいものすらある。だが色遣いは大変きれいだ。
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ここでナビ派のもうひとりの代表的画家をご紹介する。ピエール・ボナール (1867 - 1947)。1891年作の「親密さ」。義弟で作曲家のクロード・テラスという人物を描いているそうだが、壁のアラベスク模様と人物のパイプから昇る煙が一体となっている不思議な光景であり、最前部には絵を描く画家自身のものと思われる手がデカデカと描かれている (当然浮世絵の影響だろう)。このような室内の日常風景や静物を描くスタイルをアンティミスムと呼ぶらしく、ナビ派にはこの種の作品が多い。
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さあここで、ナビ派という範疇に入れてしまってよいものか否か分からない、私のお気に入りの画家が登場する。フェリックス・ヴァロットン (1865 - 1925) である。この三菱一号館美術館で 2014年に開かれたヴァロットン展は私にとっては素晴らしい衝撃であったのだが、実はそれに先だつ 20年前、1994年にブリヂストン美術館で開かれた「ヴァロットンの木版画」展を見たことが、私がこの画家に開眼するきっかけであったのだ。今回何点もの彼の作品と再会することで、その神秘性に改めて打たれたのである。これは 1898年の「化粧台の前のミシア」。この絵のモデル、ミシア・ゴドフスカは、ナビ派の画家たちが参加した芸術雑誌「ラ・ルヴュ・ブランシュ」を創刊したタデ・ナタンソンという人の妻であるらしい。ヴァロットンとナビ派のつながりは、やはりあったわけだ。
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やはりヴァロットンの「髪を整える女性」(1900年作)。これはもう、米国のエドワード・ホッパーを思わせるではないか!! 鳥肌立ちますな。
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そして、私がヴァロットンに開眼したジャンルである木版画の作品も掲げておこう。「アンティミテ」というシリーズの中の「外出の身支度」(1897年作)。皮肉っぽく描かれているのは、時代を超えた夫婦の間のすれ違いか???
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ここでまたドニの作品を見たい。1889年の「18歳の画家の肖像」。自画像である。18歳にしては髭などはやして、生意気である (笑)。世界が世紀末に向かう中、未来に希望を抱いていた芸術家の肖像なのだ。色調はクリアである。
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そしてヴュイヤールを 2点。ナビ派の画家たちはお互いに仲がよかったらしいが、この「読書する男」(1890年作) は、上に作品を掲載した友人のケル=クサヴィエ・ルーセルの肖像である。色彩は明るいが、人の内面を映し出すような落ち着きと神秘性がある。
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これもヴュイヤールの「八角形の自画像」(1890年作)。これもいかにもナビ派らしく、単純な色遣いでありながら心に残る構図だ。
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すみません、ここでまた 2点、ヴァロットン。1897年の自画像と、1899年の「アレクサンドル・ナタンソンの肖像」。自画像は意外にも、顔も端正なら描き方も丁寧だ。また、アレクサンドル・ナタンソンは、上で名前の出た兄弟のタデ・ナタンソンとともに、ナビ派が集った芸術雑誌を創刊した人。ヴァロットンの高い筆力が窺われる。
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これはドニの 1891年の作品、「婚約者マルト」。ドニはこの婚約者を何度も描いているらしいが、このパステル画にも愛情が感じられる。それにしても、ナビ派の人たちはお互いや、それぞれの家族を大事にしあっている感じがする。彼らが師と仰いだゴーギャンのワイルドさは、どうやら模範にはしなかったようである (笑)。
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ドニをもう 1点。1897年作の「メルニオ一家」。これも平和な光景。だが、ルノワールのような甘さはなく、現実か夢か判然としない雰囲気である点、私には好ましいと思われるのである。
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だがドニの心の中には、劇的なものへのひそかな志向もあったのではないかと、この 1890年の「磔刑像への奉納」を見ると思われてくる。ドロドロしたものを表面に持ってくるのはなく、精神の均衡は保たれているのだが、ここから象徴主義までの距離は、意外と近いのではないか。
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ヴュイヤールにも近い感性があるが、また独特だ。1891年の「ベッドにて」。水平の線がいくつか画面を横切っていて、上部は直線だが下部は曲線。右端には垂直方向の線がぎゅぎゅっと詰まっている。そして、壁に見える T の字は、実は十字架なのである。静謐な宗教性と無意識の世界が織りなす夢の世界は、シュールまであと一歩である。
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またドニに戻って、1893年の「ミューズたち」。平面的だが装飾的という典型的な例だが、ここに漂う倦怠感は、ムンクあたりに近くなってはいないだろうか。
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ナビ派にも、もうちょっと危ない方向に走った画家がいた。ポール・ランソン (1861 - 1909)。これは 1906年頃の「水浴」。平面性と装飾性は、はい、ありますね。でもこの緑の渦を巻く水や、謎のオリエンタルなライオンの彫像、そして手前の毒々しい赤い花など、ドニやヴュイヤールとは明らかに違う、一歩進んだ (?) 積極表現。あまり自宅には飾りたくないなぁ (笑)。
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これなども多大に呪術性を含んだ作品である。ジョルジュ・ラコンブ (1868 - 1916) の 1895年の彫刻作品「イシス」。もちろんエジプトの女神の名前である。血の乳を流す女神は、一体何を伝えようとしているのか。その表情はうつろで、民に語り掛ける様子はない。
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ここで見た通り、この展覧会は、既によく知られた印象派とは違う世界、そしてまた退廃性あふれる世紀末美術としては若干異色な世界に触れることができる。ナビ派の画家たちは 1860年代から 1870年代生まれ。音楽の世界ではマーラーやリヒャルト・シュトラウス、ドビュッシー、またシベリウスといった人たちと同世代だ。欧州各国の帝国主義の膨張から世界大戦に向かって行く時代の中で、新しい表現を模索した芸術家たち。印象派だけが近代フランス絵画ではないということを知るには、大変重要な展覧会である。残り期間はあとわずか。未だ行かれていない方には、是非お薦めしておこう。

ところで、冒頭近くで掲げた 1979年の「週刊 朝日百科 世界の美術」では、なぜナビ派とシャガールを一緒に扱ったのだろう。シャガールはユダヤ系ベラルーシ人で、もちろんナビ派よりもさらに大きな流れである (だが画家それぞれの個性はより際立っていた) エコール・ド・パリの画家だし、生年も 1887年で、ナビ派とは違違う世代。そして何より、絵画のタイプがかなり違うと思うが・・・。まあ、40年近く経ってから文句を言う筋合いのものでもないので、1冊で様々な美術を楽しめる号であったと割り切るとしよう (笑)。

by yokohama7474 | 2017-05-17 23:14 | 美術・旅行 | Comments(0)

静岡市 久能山東照宮、登呂遺跡、芹沢銈介美術館、静岡浅間神社、駿府城跡

このブログではしばしば、東京都内または近県で気軽に行ける、いわゆる安・近・短の旅による歴史探訪の例を提示しているが、これもそのひとつ。人々があちらこちらに移動するゴールデンウィークの初日、4/29 (土) に私と家人が出かけた歴史探訪をご紹介する。我が家ではかなり通例になっているパターンなのであるが、自宅から新横浜まで車で行き、駐車場に車を停めて、新幹線に乗る。現地でレンタカーを借りてガッツリ観光したあと、また新幹線で帰ってきて、自宅までスイスイ自家用車という方法である。これによって、東名高速または中央高速の渋滞を避けることができ、誠に快適なのである。この方法の唯一の難点は、帰りの新幹線でビールをプハーッと飲むわけにはいかない点にあるものの、その点のみ割り切ってしまえば、大変に効率的な日帰り旅行なのだ。今回は、午後に静岡駅前のホールで行われた演劇(5月 1日付の記事でご紹介済み) を見ることをメインにしながら、その前後の静岡観光も楽しみで仕方がなかったのである。そうそう、この方法のよい点のひとつには、こだま号に乗るチャンスがあること。寄り道大好き人間としては、小田原や熱海や三島に停車して、通過するのぞみを待つのも楽しい。特に三島駅からは、きれいな富士山を望むことができ、この日は天気がよかったせいもあって、気分は上々だ。これは車窓からの富士山。
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さて今回の観光の目玉は、なんといっても久能山東照宮。もちろん、静岡を晩年の居住地とした徳川家康が祀られている場所である。恥ずかしながら私は今回訪れるまで、久能山でいちご狩りをしたことはあっても、山頂にあるこの神社に詣でたことはなかったのである。その本殿が、2010年に重要文化財から国宝に格上げになったことは知ってはいたものの、これまで訪れる機会がなかった。これは気合を入れて臨みたい。久能山の山頂に位置する東照宮を訪れるには、海側から 1159段の石段をエッチラオッチラ登るか、さもなくば隣の山から日本平ロープウェイで谷を越えて行くしかない。今回私たちが選んだのは後者のアプローチ。ロープウェイに乗ろうとすると、そこにはこのような地図が。
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家康は江戸という都市を造営するにあたっても、風水を重視したと言われている。上の地図を見ると、自分が生まれた岡崎や、都であった京都と、霊峰富士の位置関係の中にこの久能山を置いていることがはっきり分かる。そこに江戸、日光、そして日光東照宮の最初の建物を移築した群馬県太田市の世良田東照宮 (私は未だ訪れたことがないので、いつか訪問してこのブログでご紹介することをここに宣言する) が加わって、「聖なる三本のライン」を構成しているらしい。家康は、百万都市江戸を中心とした統治システムを作り上げ、世界にも類を見ない、260年間に亘る平和の礎を築き上げた人。その彼が死後もその霊力を発揮し続けているとするなら、それはこの久能山からに違いない。これが日本平と久能山を結ぶロープウェイ。久能山の向こうには海が見え、その麓の温室ではいちごが栽培されている。
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このアプローチ方法であれば、山道を登る必要はなく、ロープウェイを降りたところが既に神社の境内の入り口になっているのである。見えてきたのは、重要文化財の楼門。1617年の建立。
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この門をくぐった裏手に、家康の手形なるものがある。38歳で身長 155cm、体重 60kg。当時の人は小柄であったとはいえ、やはり随分小柄で、そしてぽっちゃり型であったということか。家康が神格化されているこの場所で、彼の「人間」としての痕跡に触れられるとは、なんとも興味深い。
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少し進むと、石の鳥居があって、また、今は存在しない五重塔の礎石がある。神社に五重塔とは、もちろん神仏混淆の証拠である。
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そして見えてきたのが、国宝の本殿・拝殿に至る唐門である。
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そのエリアには、向かって右側から入るのであるが、その途中に、春なのに赤く色づく木があったり、重要文化財の日枝神社がある。この日枝神社、神仏混淆時代は薬師堂であった由。楼門と同じ 1617年の建立。
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そしていよいよ、国宝の拝殿が目の前に現れる。実はこの神社の主要建造物は、徳川秀忠によって 1年 7ヶ月という短期間で建てられたもの。日光東照宮に先立つこと 19年で、豪華さにおいては日光に譲るのは致し方ないが、この荘厳な美は実に素晴らしく、桃山の美学の延長上にあるが、日本の長い建築史の中でも、この時代にのみ見られる豪奢な様式であると言えるだろう。細部を見ていると本当に時間を忘れるのである。実はこの拝殿で結婚式を挙げられるらしく、私が行った日もその準備が行われていた。国宝建造物の中での結婚式とは、なんという贅沢だろう!!
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建物左右の唐獅子は、阿吽になっている。
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さて、この拝殿に向かって左手を進んで行くと、そこには家康の墓所がある。1616年、駿府城で亡くなった家康の遺骸は、遺言によってこの久能山に葬られた。もちろん後年、改めて日光に改葬されているが、この日ロープウェイの中で聞いた説明によると、日光には魂だけ移し、実際の遺骸は今でもここに眠っているという。墓所自体は、大きさは立派だが、石造りの簡素なもの。
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この石塔の周りを一周できるようになっているが、面白いのは、向かって右奥に、家康の愛馬の墓があること。家康よりも後に亡くなった馬であろうが、既にその頃には平和な時代が到来していたことを思わせるではないか。
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帰りがけに久能山東照宮博物館に立ち寄ってみたが、ここには徳川将軍十五代ゆかりの品々が多く保管・展示されている。特に家康に関しては、実際に使用していた眼鏡や鉛筆 (!) などが非常に興味深いし、彼が初めて戦で勝利を収めた際に着用していたと伝わる重要文化財の甲冑が展示されている。時に家康 19歳、未だ松平元康と名乗っていた頃で、織田信長方の丸根砦という場所を守っていた佐久間盛重軍に勝利したとのこと。この甲冑は金陀美 (きんだみ) 具足と呼ばれている。
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このように久能山東照宮は、家康という人の人柄まで未だに活き活きと感じられる場所であり、歴史好きなら一度は行くべき場所であると思うのである。さて、それからまたロープウェイで日本平に戻り、向かった先は遥か古代の遺跡。古くから有名な弥生時代 (1世紀頃) の集落の跡、登呂遺跡である。戦時中の 1943年に軍事施設建設の際に発見された遺跡であるが、幸いなことに一帯が公園として整備されており、最近でも 1999年から 5年間、再発掘調査が行われている。駐車場から歩いて行くと、徐々にこのような光景が目に入ってきて、何やらワクワクするのである。
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多くの建物が修復されているが、もちろん記録のない時代のもの。建物跡の基礎の形状に基づき、多分に想像力で補って再現されたものであろう。いくつかの住居では中に入ることができ、弥生人になったようなリアルな感覚が味わえる。もちろん住居だけでなく、倉庫もある。
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遥かな古代、家族は身を寄せ合って生きており、家の中は、邪悪なものから守ることができる安全な場所であったはずだ。夜は、果てしなく暗く、すべての生き物がなりを潜める時間帯。毎日毎日、太陽はその姿を隠し、また甦る。そして稲作をするには、昨日と今日、今日と明日が違った日であるという認識を持つ必要があり、いつ何をすべきか、常に考えて集団で行動する。それが人々の日常であったことだろう。この日は原始的な道具を使って火を起こす実演もやっており、大変面白く見学した。
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実はここで、思わぬ発見があった。日本を代表する染色工芸家で人間国宝でもあった芹沢銈介 (せりざわ けいすけ、1895 - 1984) の美術館及び旧居が、登呂遺跡に隣接した場所にあるのだ。私は芹沢についてさほど詳しく知るものではないが、それでも過去に何度か、なんとも郷愁をそそる作品、特に本の装丁などを見て感動したことがある。柳宗悦らが主導した民芸運動の中で創作活動を行った。作品のイメージとして、例えばこのようないろは歌の風呂敷などいかがであろうか。素朴でいて洗練された、なんとも不思議な世界を作り出していると思う。
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美術館も大変きれいに整備されていて、気持ちよいことこの上ない。
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このときには沖縄をテーマにした展覧会を開催中で、芹沢自身の作品のほかに、彼が収集していた沖縄の民芸品も多く展示されていた。なんとも気持ちが落ち着いてよい。そして、その裏にある芹沢の旧居。実はこれ、もともと宮城県にあった板倉であったものを気に入って東京・蒲田の自宅に移築。随所に手を加えて仕事場にしたとのこと。彼自身、「ぼくの家は、農夫のように平凡で、農夫のように健康です」という言葉を残している。現在、故郷静岡の地でこのように大切に保管されていることを知ると、本人も喜ぶであろう。春の風が気持ちよく吹き通って、清々しい精神が未だにそこに残っているようだ。
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この部屋でくつろぐ芹沢の写真が何枚か残っている。上のモノクロ写真は 1973年、下のカラー写真は 1976年のもの。創作の現場の緊張感はもちろん感じるものの、何より、この空間の主としての芹沢の自然な存在感が際立っている。こういうジイさんになれるとカッコいいだろうなぁ (笑)。
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さて、それから私たちが向かったのは、これまた驚きの隠れた歴史スポットなのである。それは、静岡浅間神社。何がすごいといって、この神社の建造物 26棟が、重要文化財に指定されているのである!! 「東海の日光」の異名もあるという。実際、私も行ってみて驚いたので、ここでご紹介しよう。まずこの神社、神部 (かんべ) 神社、浅間 (あさま) 神社と、大歳御祖 (おおとしみおや) 神社の三社を総称して、静岡浅間 (しずおかせんげん) 神社と呼んでいるとのこと。重要文化財に指定されているのはすべて江戸時代の建物だ。
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重要文化財の総門を抜けると、そこにはやはり重要文化財の楼門が。
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そして驚いたのはこの建物だ。やはり重要文化財の大拝殿 (おおはいでん)。切妻造りの建物に、入母屋造りの楼閣が嵌まったような形態で、大変巨大なもの。なにか竜宮城か、宮崎アニメにでも出てきそうな、ノスタルジックでいて畏怖すべき建物と言えないだろうか。
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あまり時間がなくて、残念ながら境内全域を見て回れなかったのだが、修復中の少彦名 (すくなひこな) 神社は、かかっているカバーの写真からその姿を偲ぼう。これも重要文化財。
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こちらは本物を見ることができた驚愕の美建築、八千戈 (やちほこ) 神社。東海の日光という異名もむべなるかなである。当然これも重要文化財。
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実はこの後、静岡音楽館 AOI において「1940 リヒャルト・シュトラウスの家」を観劇。見終わったあと、まだ新幹線に乗るまでに時間があったので、予定通り、駅から近い駿府城跡に出かけることにした。駅近辺からブラブラ歩いて行ったのだが、以前の記事にも書いた通り、なんとも落ち着いた佇まいの街で、さすが東照宮のお膝元と感心したことである。これが駿府城の石垣。この内側にも学校があったり、何やら公的機関の建物があったりして、江戸時代初期の街の中心地は、今でもその地位を自然なかたちで保っているのである。
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実は駿府城の天守閣は江戸時代初期に焼失してしまい、結局再建されなかった。それは、既に平和の時代が到来していたからで、その意味では、日本最大の城であった江戸城も同じようなことになっている。但し、この駿府城、家康のあとは結局その子孫は将軍として江戸城に入ったのだから、誰が城主であったのかと思うと、二代の城主を頂いたあとは結局城主なしで、天領として「駿河城代」なるポストが置かれたのみであったらしい。ここには実際のところ、古い建物は何も残っておらず、近年の復元による櫓や門があるのみだが、それでも公園として大変気持ちよく整備されていて、市民の憩いの場になっているようだ。
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今、天守閣跡近辺で大規模な発掘調査が進行中。明治時代に軍の設備を作るために埋められた堀を発掘すると、100数十年ぶりに石垣が姿を現したのである。
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この駿府城、これからどこまで発掘調査及び復元が続くのか知らないが、歴史の息吹がより一層感じられる場所になって行くのだと思うと、楽しみである。さて、城の近辺のそぞろ歩きも楽しいのだが、特に目を引く建物が向かい合って立っている。ひとつは静岡県庁。1937年完成というレトロな建物。もちろん、この写真で後ろに見える近代的なビルも県庁別館なのだが、この歴史的な建物も未だ現役として機能しているようだ。
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道路を隔てた向かい側にあるのが、静岡市役所。こちらはドーム型の頂部を持っていて、県庁よりも軽やかな建物だ。1934年完成。こちらは正面ドアが開いていて、中を少し見ることができたが、ステンドグラスが美しい!! これまた現役の建物なのである。
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この市役所の前に、興味深い説明版を発見。それは家康が行った灌漑工事に関するもの。私は従来より江戸の発展には大変興味があって、何冊か本も読んでいるが、秀吉によって、だだっ広くて何もなく、川は頻繁に氾濫する関東平野に放り出された家康が、治水によって街の機能の基礎を作り、その後長く続いた江戸の発展を可能にした点、勉強すればするほどに、ウーンと唸ってしまうほど感心するのである。そしてここ駿府でも、やはり灌漑工事を行って街作りをしていたわけである。神君、恐るべしである。
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このように静岡では、人間としての家康の足跡、神としての家康の威厳とともに、弥生時代の人々の暮らしから、華やかな神社建築、そして昭和の染物デザインまで、様々な文化的な要素に触れることができるのである。今回は美術館を訪問することはできなかったが、その所蔵品にも実は興味を持っている。新幹線を有効活用しての東京からの日帰り旅行の行き先として、これほど充実した街もちょっと少ないと思うので、ここで文化人の皆さまにはお薦めしておきましょう。

by yokohama7474 | 2017-05-13 01:07 | 美術・旅行 | Comments(0)