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熱海 その 1 旧日向別邸、創作の家

前回の MOA 美術館での「山中常盤物語絵巻」の記事に続き、熱海の文化スポットを幾つかご紹介したい。熱海を、温泉と貫一・お宮 (って、若い人は知らないか 笑) だけの街と侮ってはいけない。1500年の歴史を持ち、鎌倉時代には源頼朝ゆかりの地となり、江戸時代には徳川家康お気に入りの湯となり、そして明治以降は財界人は別荘を持ち、あまたの文人墨客がこの地で創作し、またお互いに交流を持った。そのように歴史の蓄積のある街であるから、今でも実は多くの文化的スポットを抱える見応え充分の場所なのである。私も若い頃は仲間の不良連中と、何度も熱海や伊東に遊びに行ったものだが、正直当時の熱海は、ちょっと寂れたかなぁという感じがあった。それに比べると今回実感した賑やかさは、ちょうど 3連休の中日ということもあって、それはそれは大したもの。これからご紹介する文化遺産には、近年になって整備されたもの、あるいは今現在整備中のものもあり、これからまだまだ熱海の歴史的意義にスポットが当たって行くものと思うので、このような記事が文化に関心を持つ方々のなんらかの参考になればよいと思います。

何はともあれ、まずこれだ。
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これは熱海駅のまん前、ロータリーに面した場所にある足湯。その名も「家康の湯」と名付けられている。家康は熱海の「大湯」という温泉 (現存する) の湯を愛し、わざわざ江戸まで運ばせたといい、1604年に家康がこの地を訪れてから 400年を記念してこの駅前の足湯が作られたらしい。実はこの家康の湯の横には、大湯を模した間欠泉が設けられ (ということは、実は帰ってきてから調べて分かった。上の写真の向きからだと左側に間欠泉があったらしいが、見逃してしまった・・・)、そこから流れる湯に足を入れることができて、大人気スポットになっている。すぐ横にはタオルの自動販売機もあり、いかにも気が利いている。なので、熱海に列車でお出かけになる女性の方、決してストッキングを履いていかないように、との家人からのアドバイスであります (笑)。
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さて、それでは熱海駅から徒歩で行ける大変貴重な場所をご紹介しよう。それは重要文化財、旧日向別邸 (きゅうひゅうがべってい)。熱海駅前のロータリーを抜けて、突き当りを左に進み、右手に東横インを見て、その先の春日町という交差点に着いたら、右手にある細くて急な坂道を登って行く。ウェブサイトの表示では徒歩 7分だが、春日町からの上り坂はかなりの急勾配。歩いて行く人は、時間と体力の余裕を見ておく必要がある。この看板が見えたら、左手の石段を下り、右手に見えるのが旧日向別邸だ。
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なぜに時間的なことを気にすべきかというと、上の看板に記載がある通り、この場所は完全予約制。土・日・祝日の一日数回のみ、事前予約をした人たちだけが入れるのである。いやいや、大人気の観光スポットならともかく、この場所はそれほど人気殺到というわけではなかろう。予約しなくても大丈夫では、と思う方もおられよう。だが現地の入り口にはこのような表示が。
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実際私たちは、熱海駅から徒歩で現地に向かい、細い坂道を上るとは知らずに海の方まで一度出てしまうという方向音痴ぶりを夫婦で発揮していたため、予約時刻ちょうどに到着すると、その時刻に予約した他の人たち 10名はすべて到着済で、少々恐縮してしまったのである。日本人は時間厳守なのである。さてそれでは、これは一体いかなる場所か。上の看板にはっきりと書いてあるのだが、ドイツの名建築家、ブルーノ・タウト (1880 - 1938) が設計した建造物なのである。タウトについては私もこのブログの過去の記事で触れているので、もしご存じない方がおられれば、以下をご参照。

http://culturemk.exblog.jp/24559203/

http://culturemk.exblog.jp/23671987/

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タウトはドイツでいわゆる表現主義の建築や集合住宅などを手掛けて活躍していたが (そのうちの幾つかは現在世界遺産に登録されている)、共産党寄りの思想の持ち主で、実際にソ連で活動していたこともあったため、1933年に反共産主義のナチスが政権を取ると、迫害を逃れて日本に亡命。高崎に居を構え、わずか 3年とはいえ、桂離宮をはじめとする日本の建築を研究し、弟子も育てたのである。それゆえ彼の名前は日本でも半ば神格化されていると言えるほど知られているのであるが、実は彼が実際に設計した建造物は、少なくとも現存するものはこの旧日向別邸のみなのである。それゆえこの建造物は極めて貴重で、重要文化財に指定されている。だがその指定は 2006年のこと。つい最近なのである。現在でも未だ、充分観光地として整備されているとは言えず、私が現地を訪れた日には、「この施設の案内 DVD がちょうど昨日完成して、今日初めてお見せするんです。でもナレーションも音楽もないんですけど」と、熱海市の職員の方であろうかまたはボランティアの方であろうか、現地の案内の男性が笑って説明して下さった。

タウトが設計したのは、アジア貿易で成功した日向利兵衛という実業家が熱海に持っていた別邸の、その地下の部分なのである。地上に建っている母屋自体も、このように一見何の変哲もない日本家屋に見えるが、設計は、銀座和光や横浜ニューグランドホテル、また東京国立博物館の原案を手掛けた渡辺仁。こちらは現在公開されていないが、将来的には補修の上公開する計画はあるようだ。
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現地で入手したチラシに、母屋と地下室の見取り図があるので掲げておく。タウトが設計した地下部分は、いちばん下に記されている部分。
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現地は写真撮影禁止なので、この施設を現在所有する熱海市のホームページからいくつか写真を借用する。まず、地上から階段を下りた場所がこれ。竹をうまく使って機能的にできている。
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この部屋は社交室になっていて、当時ダンスなどを楽しんだようだ。あまり広くはないが、和風のようでもあり、モダニズムの匂いもする、タウトらしい建築である。天井からやはり竹を接いだ長い棒が横に吊るされていて、そこに多くの電球が並ぶ。だが係の人によると、直列式なのであまり明るくはないようだ。
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真ん中の部屋は洋間と上段。敷地内に段差があるので、木の階段が設けられ、落ち着いたような敷居が高いような、一種独特の空間になっていて面白い。
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そしてその奥は日本間とやはり上段。空間構成は洋間と似ているが、天井が違うし、手前左のびっくりな位置に床の間まである。またこの部屋には天井に照明がなく、行灯を移動して使用したらしい。
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実はその奥にももうひとつ部屋があるのだが、これは用途不明の和室。ネットでも写真が見つからないので、こればかりは、是非現地でご体験頂きたい。実はこの建造物、日向家が手放したあと、自宅として使用した人が 2人いたが、どうも住居には向かないということで都度売却され、結局企業の保養所として 1952年から 50年ほど使用された。その間少しの改修はあったようだが、かなり原型をとどめたまま使用されたのは何よりであった。その後、東京の篤志家の婦人がこの建築の価値を認めて寄付をし、それによって 2004年に熱海市の所有となったとのこと。貴重な文化財を伝えて行くのは、その価値を認める人たちの思いと、その思いを実現するための資金。タウトが日本に残した唯一の建築、長く後世に伝えて行くのは我々の役目である。

次に向かった先は、創作の家と名付けられた場所。誰の創作かというと、洋画家の池田満寿夫 (1934 - 1994) と、そのパートナーでヴァイオリニストの佐藤陽子 (1949 - ) である。この 2人の芸術家がともに暮らした旧居が、当時そのままの状態で公開されていて大変興味深い。尚、池田が比較的若くして亡くなったことは知っていたが、死因は知らなかった。Wiki によると、地震が起こった際に犬に飛びつかれて昏倒し、急性心不全で亡くなったとショッキングなことが書いてあって驚く。調べてみるとほかの情報もあるようで、真実は分からないが、突然の死であったことは確かなようだ。このワンちゃんだろうか・・・。犬好きとしては何やら胸に来るものがある (涙)。
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この創作の家、熱海駅から MOA 美術館の方向に向かう途中にあり、やはり徒歩ではかなりきついが、歩けないほどではない。
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家の中は撮影禁止なので、詳細はご紹介できないが、上記のように急逝してしまった主の佇まいが今でもそこに残っていて、まるで芸術家夫婦に温かく迎え入れられたようだ。池田が使用していた古い音響機器などもそのままだし、洗面所やリビングの佇まいも、人間の生活の匂いがする。また、入り口近くに来訪者用の岩風呂 (もちろん温泉) とサウナがあって、池田の手作りのステンドグラスなどもあり、芸術家風のもてなしが微笑ましいし、一介の観光客でも、まるで歓待されているように感じるのである (笑)。また、佐藤が若い頃に斎藤秀雄の指揮で演奏したチャイコフスキーのコンチェルトの CD が地下の音楽室から流れていて、屋内が音楽に満たされている。主を失ったアトリエも、その BGM のもと、なんとも落ち着いた雰囲気で、大変気持ちよかった。佐藤は未だ現存だが、近くのマンションに居住しているという。きっと、死を看取った池田との大事な思い出が、この家には満ちているに違いない。観覧する方も、そのようなことを感じながら、芸術が生まれ来る瞬間に思いを馳せたいものである。

熱海文化の旅、次回に続きます。

by yokohama7474 | 2017-03-28 01:18 | 美術・旅行 | Comments(0)

奇想の絵師 岩佐又兵衛 山中常盤物語絵巻 MOA 美術館

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この展覧会のタイトルにある通り、江戸時代初期の画家、岩佐又兵衛 (1578 - 1650) は、奇想の絵師と呼ばれており、その特異な作風には鬼気迫る迫力があって、私にとっては常に多大なる興味の対象なのである。2月13日の記事で、出光美術館で開催された「岩佐又兵衛 源氏絵」展に関連し、そのあたりのことは述べておいたし、そこで私は、熱海の MOA 美術館で開かれる本展を是非見に行きたいと宣言した。そしてその宣言通り、先週この展覧会に足を運んだのである。車で出かけると渋滞に巻き込まれること必至と思ったので、熱海までは新幹線。非常に効率的な小旅行となった。今回は MOA 美術館以外にもいくつか大変興味深い場所を訪れており、それは別の記事にまとめるが、この又兵衛の代表作をじっくり観覧することのできる展覧会を、文化に興味をお持ちの方すべてにお薦めするため、まずはこれだけの記事を書くこととした。

熱海の MOA 美術館は、若い頃は自身画家を志したこともある宗教家、岡田茂吉のコレクションがもとになっていて、国宝 3点、重要文化財 66点という非常に素晴らしい内容の日本美術を持つ美術館である。MOA とは、Mokichi Okada Associates の略である由。熱海駅からさほど遠くないものの、急峻な岡の上にあるため、徒歩で行くには若干きつい。この度、改修を経てリニューアルオープンを果たしたが、私としても随分と久しぶりの訪問になる。
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建物の入り口から入り、いくつものエレベーターを乗り継いで上に上に昇って行くのであるが、人工の鮮やかな光から、自然の光の中に入っていく過程が、何やら別世界の神々しさを感じさせる演出になっている。
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そして昇り切ったところからは青い海が見え、ヘンリー・ムーアの彫刻が訪問者を出迎えてくれる。
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リニューアルに際しての館内の作りは、日本を代表する美術家の杉本博司が担当した。嬉しいことに、館内では撮影自由なので、その様子を何枚かの写真でご紹介する。杉本らしいモノトーンによって区切られた場所に、この美術館の目玉のひとつである国宝の仁清の壺も置いてあって、極め付けの名品との思わぬ出会いを演出する。
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さて、お目当ての重要文化財「山中常盤物語絵巻」であるが、今回は全 12巻の一挙公開。だが、さすがに全長 150m に及ぶすべての巻が端から端まで開かれているわけではなく、一部、見ることができない場面もある。とはいえ、このような贅沢な空間でこの極めて保存状態のよい特異な作品と相対する喜びは大きい。
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さて、撮影自由ということで、実際の絵巻物のいくつかのシーンも写真に収めたのであるが、すべての興味深いシーンを撮影するわけにもいかなかったので、以下では現地で撮った写真は使わず、以前から私の書庫に収まっている又兵衛の作品集 (この MOA 美術館の所蔵する又兵衛の全作品を掲載) から、興味深い場面を撮影して、義経が母の仇を取る物語を、一気に駆け抜けてみたい。このような本である。
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まず、15歳の牛若丸 (もちろん後の源義経) が、源氏再興のため、鞍馬山をひそかに抜け出して奥州に向かう。
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奥州で牛若は手厚くもてなされ、幸せな日々を送る。
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一方、都にいる義経の母、常盤御前は、わが子牛若の行方が分からず、心を痛めている。
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牛若が奥州にいると聞いた常盤は、すぐに会いに行くと言い出す。
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侍従ひとりだけを連れ、旅から旅へ。清水に姿を映してみると、痩せこけた自分が見える。このあたりの感覚は詩的である。
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そして美濃の国、山中に到着する。
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山中の宿には、屈強な六人の盗賊が住んでおり、常盤主従を襲い、小袖を奪おうと相談がまとまる。
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このように狼藉を働き、素早く門外に逃げ帰る盗賊たち。
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その盗賊たちに対して常盤は、肌を隠す小袖を返すか、さもなくば命を奪って行けと言い放つ。
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怒ったひとりが、常盤を刺し殺す。この絵巻物で最初の残虐シーンであるが、この盗賊の不気味な笑みと、常盤の髪をつかむ腕の生々しさ、そしてどす黒く変色する常盤の肌の色が、なんとも強烈だ。
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宿の主人夫婦が瀕死の常盤を介抱し、その身分を知ると同時に、牛若への形見の品々を預かる。ここでは 3連続シーンを掲載するが、大変面白いのは、宿の主人夫婦にも見向きもされない、床下の侍従の死体である。最初は瀕死の重傷で生きていたのであろうが、縁側に残っていた左足が、時間の経過とともに、徐々に力なく落ちて行って息絶える。なんとも不気味なリアリティではないか。こんなセンスを持った江戸初期の画家は、又兵衛しかいないだろう。
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その頃牛若は、母が夢に現れるのが気になり、奥州を抜け出して都に向かう。
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そして、常盤が襲われたちょうどその夜は、山中の手前わずか三里の宿に泊まるが、残念ながら母の虐殺を知らずに旅を続ける。そして山中のはずれで、真新しい貴人の墓を見つけていぶかる。
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牛若は、奇しくも母が襲われた宿に泊まることとなるが、その夜、母の亡霊が夢枕に現れ、盗賊に襲われた無念を語る。
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前日の悲劇を知った牛若は、盗賊どもへの復讐を誓い、一計を案じる。宿を小袖や金銀の太刀で飾り立て、盗賊をおびき寄せようというのである。宿の主人は協力を約束する。
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そして牛若は宿場に出て、大名の宿はどこかと尋ねて回る。また一方、身分の卑しいものに変装し、宿に大名が到着すると触れ回る。
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盗賊たちは、昨夜襲った宿にまたもや大名が泊まると聞きつけ、早速襲撃する。
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するとそこには、少年 (もちろん牛若) がひれ伏している。お宝はどこだと迫る盗賊たちに、あっちあっちと怯えながら指差す少年。
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それっとばかり奥に駆け込む盗賊のしんがりを、背後から見事に切り刻む牛若。見よこのスプラッター表現!!
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そしてこれから、牛若の快刀乱麻の復讐が始まるのであるが、さすが屈強な盗賊たちも、鞍馬山の天狗のもとで修業した牛若の前にはひとたまりもない。この血しぶきの中、最初に斬られた輩の死体がずっと転がっているのが面白い。ちょうど常盤の侍従の死体が時間の経過とともに繰り返し描かれていたのと対をなすようである。いやそれにしても、繰り返し死体を描かない方法もあったと思うが、ここには又兵衛の強いこだわりが感じられる。というのも、場面によって位置が違っているからだ。違う戦闘場面でも、必ずこの死体を入れたいと思ったのであろう (笑)。又兵衛のこの仮借ない描写に、当時絵巻物を見た人はどのように感じたであろうか。牛若復讐の快哉を叫ぶとともに、その描写のリアリティに背筋が寒くなったのではないか。
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この絵巻物のユニークさは、悪党成敗でめでたしめでたしと終わるのでなく、その後の処理まで克明に描いていることだ。宿の者たちは、盗賊どものバラバラになった死体を、菰袋に入れて、川に捨てに行くのである。画面中、たいまつを掲げているのは、これが夜のシーンであることを表しているのであろう。
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仇討ちを果たした牛若は奥州へ帰り、三年三ヶ月後、十万余騎を率いて都に上る。
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その途次、山中の宿に泊まる。常盤の御前で法要を営み、そして宿の主人にも所領安堵を行い、その恩に報いた。
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とまぁ、ストーリー自体は非常に単純なものであるが、これでもかと出てくる鮮血描写に、実に圧倒される思いである。それゆえに、このような機会にこの絵巻物の全容を見ておく価値があろうというもの。ご覧頂けるように、金なども随所に使い、非常に保存状態がよいのであるが、恐らくは越前藩主、松平忠直 (ただなお) が制作に関与しているであろうとのこと。異端の日本美術と言えようが、絵画の持つ異様な力に触れたい方には、熱海まで足を延ばして見に行くだけの意味はあると申し上げておく。

by yokohama7474 | 2017-03-27 01:01 | 美術・旅行 | Comments(0)

すみだ北斎美術館を支えるコレクター ピーター・モースと楢﨑宗重 二大コレクション すみだ北斎美術館

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江戸時代後期の画家、葛飾北斎 (1760 - 1849) は、言うまでもなく海外にまで広くその名を知られた巨人である。その彼が生まれたのは、現在の東京都墨田区亀沢と言われている。当時の名前で本所割下水。「割下水」とはその名の通り、通りを掘り割ってを通した下水路のことで、本所には北割下水と南割下水があったらしい。これが明治 41年頃の南割下水の写真。北斎の時代よりは 150年ほど下った頃のものだが、彼が幼時に見ていた風景の痕跡はあるのではないか。
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その南割下水は暗渠として地下に潜り、現在では「北斎通り」と改められている。両国に江戸東京博物館が建設された際にその名になったという。その通りは、その江戸東京博物館の正面から錦糸町方面に向かっており、新日本フィルハーモニー交響楽団の本拠地、すみだトリフォニーホールもその北斎通りに面しているが、同ホールから 1kmほどの距離の場所に昨年 11月 22日、新たな美術館がオープンした。その名もすみだ北斎美術館。かつて弘前藩津軽家の上屋敷があった場所が緑町公園になっていて、その一角にその美術館はある。
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北斎はその長い生涯に 93回も転居したと言われるが、その多くが現在の墨田区内ということもあり、まさに墨田区が生んだ巨匠であったのである。墨田区に北斎の美術館を作ろうという動きは既に 1989年からあり、実に 30年近くかけてようやく実現の運びとなった。開館記念展の第一弾、「北斎の帰還」展に足を運ぶことはできなかったが、現在開催中 (4月 2日まで) の開館記念展第二弾、「すみだ北斎美術館を支えるコレクター」展を見ることができた。この美術館の収蔵作品に含まれる二つの個人コレクション群、つまり、米国の北斎収集家ピーター・モースのコレクションと、浮世絵研究の第一人者であった楢﨑宗重のコレクションの一部を紹介する
企画である。この展覧会はこの 2つのコレクションから、北斎の作品以外にもあれこれの作品が展示されていて興味深い。何よりも、郷土の芸術家を称揚することは、その芸術家の根源にある何かを尊重することであり、大いに意義深い。この日は空も青く、展覧会の旗も誇らしげにはためく。ちなみにポスターの左側の絵は北斎の富嶽三十六景から「甲州石班沢 (こうしゅうかじかざわ)」だが、右側は北斎の顔でもコレクターの顔でもなく、高橋由一の作品で、三河田原藩主を描いた楢崎コレクションの 1枚。
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私が撮った写真だけではこの美術館の建築のユニークさが分かりにくいので、全体が分かる写真を借用して来よう。このように銀色に輝くメタリックな外見。
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あの世界的建築事務所 SANAA を西島立衛とともに運営する建築家、妹島和世 (せじま かずよ) の最新作である。真ん中の切れ目から人が出入りするようになっていて、外光が燦々と降り注ぐようにはなっていないが、これはもちろん、繊細な浮世絵や肉筆画の展示にとって強い光は禁物であることによるのだろうか。敷地面積はかなり狭いが、3階と 4階の 2フロアを効率的に使った展示が行われている。展示室内は暗くとも、ホワイエはこんな感じで明るく清潔である。もちろん東京スカイツリーも、斜めの格子越しとはいえ、よく見える。
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今回は展覧会の図録は作成されておらず、300円の小冊子が売られているだけなのでこの記事では展示品の紹介は行わないが、前期 (2/4 - 3/5) と後期 (3/6 - 4/2) をあわせて 131点の作品が展示される。モースのコレクションからの出品はすべて北斎であり、楢﨑のコレクションからは様々な作品が展示されることになる。簡単にご紹介すると、ピーター・モース (1935 - 1993) は、大森貝塚を発見したあのエドワード・モースの子孫 (弟の曾孫) にあたる人で、その北斎コレクションは、欧米におけるものとしては最高・最大の内容とされている。総数 600点近くに上り、本人の死後、散逸を恐れた遺族から墨田区に譲られたもの。一方の楢﨑宗重 (1904 - 2001) は美術史家で、戦前より浮世絵研究に携わり、もともと趣味的な分野とされていた浮世絵を、美術史の中で学問的に位置づけることに尽力した人。北斎のみならず幅広く中国の古美術から近代絵画までを含む 480点は、墨田区に寄贈された。これらが、このすみだ北斎美術館のコレクションの根幹をなすこととなったわけである。

また、北斎の画業を辿る定常展示のスペースも面白い。ここでは、4点の作品を覗いてフラッシュなしの写真撮影が可能。こんなふうに資料や北斎の作品が並んでいて興味深い。
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また、北斎晩年の住居が再現されていて、大変リアルである。北斎の人形は、筆を持つ手が動くようにできている。横にいるのは娘の応為 (おうい、またお栄、阿栄とも)。この応為については最近見直されていて、数年前に太田記念美術館で展示された「吉原格子先之図」の実物を見て私も驚嘆したし、杉浦日向子の漫画「百日紅」にも登場し、最近アニメ映画にもなった。晩年の北斎作品のかなりの部分は実は彼女が描いたという説すらあるようだが、ここではただのうらぶれた婆さんのようだ (父があまりにも高齢なので、実際応為本人も年齢的にはこの頃は婆さんだったわけだ)。
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このシーンは、「北斎仮宅之図」というこの版画に基づいて制作されたものであるようだ。なるほどリアルなわけである。
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北斎の偉大さについて書き始めるときりがないし、昨年 8月に長野県小布施市を訪れた際に記事も書いたので、この記事ではただ新しい美術館のご紹介をするに留めるが、前述の通り、その土地ゆかりの芸術家を称揚することは大変に意義深く、この美術館がこれから多くの人に愛されることを願ってやまない。売店でこのような飴のセットを購入 (中身は榮太樓飴の詰め合わせ)。まぁ、自分ではさすがにこんなアホなことはしないものの (笑)、願わくばどんなときもこのようなひょうきんさを持って、楽しく毎日を過ごしたいと思い、書斎のデスクにあるスピーカーの上に置くこととした。あっ、なぜか後ろには 1990年代のレコード芸術誌が山積みになっていますが・・・。
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by yokohama7474 | 2017-03-04 22:44 | 美術・旅行 | Comments(0)

特別展 春日大社 千年の至宝 東京国立博物館

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この展覧会は、1月中旬からほぼ 2ヶ月くらいの期間に亘って、上野の東京国立博物館で開催されているもの。上のポスターに「新春、上野の春日詣で」とある通り、奈良の由緒正しい神社である春日大社の秘宝の数々をかつてない規模で展覧しており、あたかも春日大社を詣でるかのようなご利益が期待される。既に初詣の期間は過ぎたとはいえ、歴史に興味のある人であればとにかくこれを見逃してはならない。というわけで、会期はあと残りわずか一週間になってしまったが、今のうちに記事を書いておく意味は大きいだろう。ではまず、このような風景を見てみよう。
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春日大社に集う鹿の皆さん。呑気に見えるがとんでもない。なぜなら彼らは神の使いであるからだ。
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おぉっと。ここで何やら神らしき人物が乗っている動物こそ、鹿なのである。実はこれ、件の春日大社が所有する、南北朝から室町期に描かれた「鹿島立神図」だ。真ん中の神に加え、右下には何やらこそこそ話をするかのような奇人、じゃなくて貴人たちの姿が。彼らも神なのである。
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さてここでひとつ明らかにしておこう。春日大社は言うまでもなく藤原氏の氏神。同じく藤原氏の氏寺である興福寺と、物理的にも歴史的にも極めて近い関係にある。いにしえの奈良の都に花開いた仏教文化と、それに密接に関連する神道文化は、一体どこから来たのか。そのひとつの答えは、なんとも面白いものなのだが、春日大社第一殿の祭神である武甕槌命 (たけみかづちのみこと) は、常陸の国鹿島より春日の地に降り立ったとの伝承がある。この鹿島は、鹿島アントラーズの鹿島であり、つまりは現在の茨城県である。え? 茨城県? 中世に平将門がその地で挙兵したことは知っているが、それよりはるか以前、関東が「東路の道の果てよりも、なお奥つ方」(更科日記) と呼ばれていた頃よりもさらにさらに以前、古い神がその地におわしたとは。我々の常識が間違っているのかも、と心の中の鐘がガンガン鳴るのを覚える。その違和感に優しく訴えかけてくるのがこのような図像である。奈良国立博物館所蔵の春日鹿曼荼羅。鎌倉時代の作。
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ここで見えるのは、神の使いである鹿の上の虚空に漂う仏たちの姿。ここで私は再び考え込む。むむ? 神道と仏教の関係やいかに? 日本人のメンタリティの特性で、宗教的なものに関する寛容性がはっきりと見て取れる。すなわち、日本固有のアニミズムに基づく神道の神々は不可視であるが、大陸・半島由来の仏教の仏たちは具体的な姿を伴ったもの。この二つをうまく融合することこそ、日本人の特技なのである。だがそれにしても、神を表象する鹿の愛らしいこと。どこの本にもそんなことは書いていないと思うが、敬うべき存在に可愛らしさを見出す感性は、もしかするとこの国特有のゆるキャラにつながっているのかもしれない。以下は、細見美術館所蔵、南北朝時代作で重要文化財の春日神鹿御正体。
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そしてこれは、以前も藤田美術館の展覧会の記事でご紹介した、同美術館所蔵の春日厨子。室町時代の作であるが、鹿の困ったような表情が萌え~ですねぇ。
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彫刻だけでなく画像もある。これは春日大社所蔵、江戸時代の鹿図屏風。ここに見られる感性はかなりモダンなものだと思う。
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そしてこの展覧会では、「平安の正倉院」と題したコーナーがあって、古く平安時代に春日大社に奉納された貴重な文物が数多く展示されていて、なんとも興味深い。すべて国宝に指定されているこの貴重なお宝 (本宮御料古神宝類 = ほんぐうごりょうこしんぽうるい = と呼ばれている) を、これだけまとめて見る機会はそうそうあるものではなく、この展覧会が必見のものであると思う所以である。例えばこれは、琴を入れる箱。意匠としては何の変哲もないが、12世紀に作られた、言ってみればただのケースが完璧な状態で残っている例が、世界のほかのどこの国にあるだろうか。
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これは黒漆平文根古志形鏡台 (くろうるしひょうもんねこじがたきょうだい) と呼ばれるもの。やはり 12世紀の作で、折り畳み式。鏡台というからには、鏡をここに置くためのものであろう。完璧なシンメトリーに舌を巻く。もちろん国宝。
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奉納された武器の類も数多い。以下すべて 11~12世紀作の国宝で、弓、矢、鉾である。
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このようなシンプルなものではなく、見事に凝った作りの奉納品も数々展示されている。以下は紫檀螺鈿飾剣と、毛抜形太刀。12世紀に制作された国宝。
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これも同じく 12世紀の国宝で、蒔絵弓の図柄のアップ。うーん、美しい。
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神々を寿ぐため、当然古くから音楽や舞も奉納されたのであろう。やはり 12世紀に作られた国宝の笙。木製楽器としてこんなに古いものが完璧に残っている例が、ほかにあるだろうか。
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その他枚挙にいとまのない国宝群が展示されていて圧巻である。そして次のセクションは、「春日信仰をめぐる美的世界」。上にも述べた通り、日本人は外来のものと固有のものを結びつける天才で、神社も寺も一緒くた。これは根津美術館所蔵の重要文化財、春日宮曼荼羅。鎌倉時代の作で、春日大社の神殿のそれぞれの上に梵字が描かれている。本地仏と言って、右から不空羂索観音、薬師如来、地蔵菩薩、十一面観音。つまり、神様は、実は実はその正体は仏様であった!! というあっと驚く強引な理論 (笑)。
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これはまた違った趣向で、社殿を描かない春日野の風景の中にデカデカと「春日大明神」と書いてあって面白い。鎌倉時代の作で、奈良国立博物館所蔵。
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これはまたくっきり鮮やかに本地仏を描いたもの。鎌倉時代、重要文化財の春日宮曼荼羅で、奈良の南市町自治会の所有になる。ここで描かれた春日大社の社殿は 5つで、それぞれの本地仏が楽し気にかつ神々しく (?) 宙に浮かんでいる。
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まだまだありますよ、春日宮曼荼羅。この大和文華館所蔵のものでは、ついに仏様ご一行が雲に乗ってやって来ることになる。妙なる調べが聞こえるようだ。
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神様は実は仏様だった!! という発想をさらにはっきりと示すのがこれだ。宝山寺所蔵、重要文化財の春日本迹曼荼羅。おぉっ!! ついにここでは、吹き出しで神様の正体が示される (笑)。目に見えるものを信じたい日本人の特性が表れているが、西洋でもモーゼとアロンの物語にある通り、人はやはり目に見えるものを信じたがるもの。
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さてこれは、奈良国立博物館所蔵、鎌倉時代の十一面観音。春日明神の本地仏として作られたと見られ、仏師善円の作になるもの。胎内の納入品から、1222年に制作されたことが分かっている。善円の代表作といえば、言わずとしれた (?) 西大寺の愛染明王だが、この十一面観音は彼の最初期の作品だけあって、愛染明王の完成度には達していない。だが、その素朴で若々しい表情は大変印象的だ。
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そしてこれは、上の十一面観音ともともと一具の、春日明神の本地仏のひとつとして作られたと見られる、東京国立博物館所蔵の文殊菩薩。これも美麗な仏像である。
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展覧会にはまた、春日大社を描いた様々な厨子が展示されていて興味深い。これは東京国立博物館所蔵のもので、1479年の制作。春日大社の神秘的な森と、扉の裏に描かれた愛染明王 (右) と不動明王 (左)。
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絵巻物も沢山展示されている。これは東京国立博物館所蔵になる江戸時代の春日権現験記絵の巻六から、地獄の場面。
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そして、春日大社に奉納された武具の数々も圧倒的だ。これは国宝の赤糸威大鎧 (あかいとおどしおおよろい)。13世紀、鎌倉時代の作。その保存状態のよさは驚異的で、まさにタイムカプセルに入って今日に伝えられたもののようだ。作者が見たら、「えっ、まだこんなに綺麗に残っているの?」と狂喜するであろう。
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こちらはやはり春日大社に現存する大鎧の一部であるが、惜しくも 1791年に火事に遭い、今では残欠のみ伝えられている。だがこれは春日大社の大鎧の中で最も古く、平安時代にまで遡る可能性があるという。驚きの古さである。
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これは籠手 (こて)。鎌倉時代の作で国宝。源義経のものであるという伝承があるらしい。そう思って見ると、美麗でありながら鬼気迫るものがある。
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奉納品の中には当然、舞楽面が多く存在する。実に平安時代の作であるこの納曽利 (なそり) は重要文化財。実によくできているのだが、こういうものを見ていると、日本人のフィギュア好きは、遥か古代から脈々と息づいているものだと実感される。
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さて、式年遷宮という言葉があって、つい先年の伊勢神宮の例でも分かる通り、二十年に一度、神社の本殿を移築するものである。これは技術の伝承のために必要なものであり、春日大社でも、768年に造営されて以来、定期的に遷宮が行われてきており、昨年 2016年のもので実に 60回目 (!) だという。まさに驚きの古い歴史なのであるが、これは平安時代の皇年代記という文書で、重要文化財。冒頭に「御遷宮」とはっきり読み取れる。
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遷宮の度に古いものが取り除かれるらしいが、この展覧会では過去に祀られていた獅子や狛犬が何組も展示されている。これは鎌倉時代の作。木彫りであり、未だに金箔が残っているということは、屋内に祀られていたものであろう。なんともユーモラスで可愛らしい。ちゃんと阿吽になっているのである。
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これら以外にも、まだまだ興味深い展示物が目白押しで、実に見ごたえのある展覧会だ。次にこのような展覧会が開かれるのはいつのことか分からない。従って、日本人のメンタリティや歴史に興味のある人には必見であると申し上げておこう。また、この展覧会では昨年の遷宮を記念したお守りも頂くことができ、霊験あらかたな春日の神の庇護を受けることができるのである。もともと関東の神が関西に移って行ったことを思うと、この展覧会が東京国立博物館でのみ開催されることには意味があると思う。関西で展開したディープな日本の歴史の源泉が、実は当時辺境の地であったはずの関東にあったことは、一体何を意味するのか。展覧会の図録の上にお守りを置いて、私はしばし感慨にふけるのである。
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by yokohama7474 | 2017-03-04 01:39 | 美術・旅行 | Comments(0)

岩佐又兵衛 源氏絵 出光美術館

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このブログでは何度も出光美術館で開かれた展覧会をご紹介して来た。小説や映画にもなった「海賊と呼ばれた男」出光佐三のコレクションがもとになったこの美術館の所蔵する日本美術は、実に素晴らしい (ほかにはルオーの作品群もある)。もちろん東京には、根津美術館や五島美術館、あるいは静嘉堂文庫、また現在改修中の大倉集古館といった個人のコレクションによる素晴らしい美術館が多々あるが、この出光美術館がほかと違うところは、館蔵品のレヴェルもさることながら、その企画力である。個別の展覧会のテーマにかける学芸員の熱意のなせるわざであろうか、どの展覧会も他の美術館からの出品を交えて、まさに百花繚乱、大変高いクオリティを毎回達成している。ここでご紹介するのは既に終了してしまった展覧会であり、残念ながら他都市の巡回はないのであるが、この美術館の持ち味を充分に表したものであるゆえ、その意義をここで記しておきたいと思うものである。

岩佐又兵衛 (1578 - 1650) をご存じであろうか。昨年 2016年は彼が京都から福井に居を移してから (恐らく) ちょうど 400年。福井県立美術館で大規模な彼の展覧会が開かれた。私はそれを知っていながら福井まで出かけることができずに悔しい思いをしていたので、東京で開かれたこの展覧会で、渇を癒すことになったのである。だが私の人生、それほど悲観したものでもない (笑)。日本美術の奇想の発見者である辻 惟雄 (のぶお) の監修になる大規模な岩佐又兵衛展を、2004年に千葉市美術館で見ているし、さらに遡れば 1995年に宮内庁三の丸尚蔵館で「小栗判官絵巻」、そして 2003年には熱海の MOA 美術館で「山中常盤物語絵巻」を見ている。のみならず、又兵衛の画集を 2冊持っているほか、このような面白い本を読んでいる。
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ことほどさように、岩佐又兵衛は私にとっては大変に重要な画家であるがゆえに、この出光美術館の展覧会には、ギリギリのタイミングであったとはいえ、出かけることとしたのである。この展覧会は、そのタイトルにもある通り、ただ岩佐又兵衛の作品を集めたものではなく、源氏物語を題材とした絵画作品を中心に集めていて、上記の通り、この美術館の学芸員の熱意を感じる内容なのである。展覧会はまず、やまと絵の手法による源氏物語の絵画作品から始まる。やまと絵と言えば土佐派。というわけで、土佐光吉 (1539 - 1613) の手になるこのようなうっとりするような源氏物語画帖 (重文、京都国立博物館藏) が目に入ってくる。
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それからさらに遡り、これは土佐光信 (1434? - 1525?) 作と伝わる、出光美術館自身の所蔵になる「源氏物語画帖」から。これもなんと美しい絵画であることか。
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これらの画帖では、源氏物語の様々な場面がダイジェスト的に描かれているし、あくまでも王朝貴族文化を懐かしむ作りとなっている。一方で岩佐又兵衛 (及び彼の工房) の源氏絵においては、物語の全体像をとらえるというよりは、個々の場面の情緒をより深く求めた作品が基本となっていて、より人間的な面に焦点が当てられている。その典型例が、展覧会のポスターにもなっている、これも出光美術館の所蔵品、重要美術品の「野々宮図」である。
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これは源氏物語第 10帖の「賢木」(さかき) によるもので、光源氏が六条御息所を嵯峨野の飲み屋、じゃないや (笑)、野宮に訪ねるところ。この源氏の面長な顔はどうだろう。私がイメージするところの又兵衛の作風そのものだ。まさに能に現れる亡霊のような源氏と、その後ろに寂しげに立つ素木の鳥居が、なんとも寒々とした雰囲気を醸し出している。実はこれは、金谷屏風と呼ばれる全十二図の屏風のひとつ。これは福井の商家、金屋家に伝わった屏風絵なのであるが、明治42年 (1909年) に展示された後、屏風から掛け軸に変えられ、様々な所有者の手に渡ったもの。現在所在不明のものもある。これはその屏風の片方の貴重な写真。この「野々宮図」は、右から三番目に見える。
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上にご紹介した本にある通り、この岩佐又兵衛は、浮世絵の元祖とも言われ、江戸時代には大変高名な画家であったものが、昭和初期に忘れられて行く。作品の散逸が起こってしまい、その名前も一般にはあまり知られなくなってしまったのは、そのような不運な背景があるのであろう。だが今や、又兵衛の作品のひとつ、洛中洛外図屏風 (舟木本) は国宝に指定されている。人々はこの画家の個性に魅入られつつあるようだ。そんな又兵衛の個性を、この展覧会に出されている源氏絵でもう少し見てみよう。これは、福井県立美術館所蔵の「和漢故事説話図 須磨」。静かに誦経する源氏の前で猛烈な雷雨が続いている場面。淡い色調でありながら、恐ろしい嵐を描く又兵衛の冴えた手腕に驚く。
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これは、伝又兵衛筆になる「源氏物語 桐壺・貨狄 (かてき) 図屏風」から、竜頭鷁首 (りゅうとうげきしゅ。ちなみに私の使っている PC では「げきしゅ」でちゃんと正しい変換が出来る。優秀優秀) の舟が作られている場面。異形のものに対する又兵衛の興味を示す場面と思うがいかがであろうか。
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展覧会はここから一旦源氏絵を離れ、又兵衛の画業を辿る。これは「四季耕作図屏風」から。庶民の生活を描いてもその確かな手腕を見せる又兵衛。因みにこのあとにご紹介するのはすべて出光美術館の所蔵品。さすが、いっぱいお宝持っていますねぇ!! (笑)
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これは「瀟湘八景」(お、これも一発で漢字変換できた!!)。この題材は多くの画家が手掛けているが、又兵衛の描く松の木はまるで動物のようで、ここにも異形性への指向が見える。
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これは伝又兵衛筆「三十六歌仙・和漢故事説話図屏風」から。様々な主題が入り乱れた作品であるが、個別のシーンにクローズアップするのが又兵衛風感性なのであろう。
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「職人尽図巻」。ええっと、最初のものはどう見ても布袋である。七福神も職人のうちということか (笑)。それから、琵琶法師の助手 (?) が琵琶を背中にしょって倒れているのは、一体いかなる意味なのだろうか。それに仏師もドヤ顔だ。又兵衛晩年の作であるそうだが、何やら達観したユーモアを感じる。
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これは重要美術品の「在原業平図」。やはり面長の顔がいかにも又兵衛だが、立った業平像は珍しいらしい。
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これは重要美術品の「伊勢物語 くたかけ図」。日本画家下村観山の旧蔵品である。この絵が描いているのは、人柄も歌もあか抜けていない女性に愛想を尽かして出て行く男。なんと残酷なシーンであることか (笑)。これはまた、又兵衛ならではの決定的瞬間のクローズアップであろう。顔に袖を当てた男の「な、なんだよコイツ」という蔑みの表情と、「私何かまずいこと言った?」とでも言いたげな女のとぼけた表情の対比が可笑しく、また太刀持ちの童子 (?) が顔を見せないのにやけに凛々しいのも面白い。「ご主人様、さぁこんな女は放っておいて、とっとと行きましょう!!」と言いたげである。やはり残酷だ。
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これは「三十六歌仙図」から柿本人麿。オーソドックスとは言えようが、又兵衛の描く人物には、いつも何か飄々とした味わいがある。もっとも、彼が残虐な場面を描くときには、このような感性のまさに裏返しを見ることになるのだが。
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展覧会の最後にはまた、土佐派と又兵衛の源氏物語図屏風の比較があったが、全体像を見ることが重要であって、ここで細部を採り上げてもあまり意味がないので、省略する。上でご紹介した作品だけでも、この岩佐又兵衛という画家の特異な持ち味は充分出ていると思う。実に貴重な展覧会であった。

さて、この展覧会を見逃した方に朗報。熱海の MOA 美術館が、改修工事を経て 2月 5日にリニューアルオープンしていることは、前の吉田博展の記事で書いたが、ここで 3月17日 (金) から 4月25日 (火) まで、「奇想の絵師 岩佐又兵衛 山中常盤物語絵巻」展が開催される。これは源義経が母、常盤御前の仇を取る物語だが、全 12巻、70m を超える重要文化財の絵巻物を一挙公開するとのこと。上にも書いた通り、私は 2003年に一度見ているが、是非また見に行くこととしたい。この絵巻物はその血みどろのシーンが有名であるが、クライマックスは義経が悪漢をなぎ倒すこのようなシーン。これぞ又兵衛。男が女を振るシーン同様、実に残酷 (笑)。強い表現力を持つ芸術に惹かれる方には、絶対お薦めの展覧会である。
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by yokohama7474 | 2017-02-13 23:58 | 美術・旅行 | Comments(0)

吉田博 木版画展 - 抒情の風景 (ノスタルジック・ユートピア) 名古屋ボストン美術館

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米国有数の美術館であり、特にその膨大で上質な日本美術のコレクションで知られるボストン美術館は、名古屋に分館を持っている。主としてボストン美術館の所蔵品の一部の展示を行う施設であるが、金山駅に隣接した至便な場所にあり、名古屋と少し縁のある私は、何度も足を運んでいる。だが大変残念なことに、この美術館は、来年 9月末をもって閉館することが決定している。なので、このような現地の光景も、もうすぐ見ることができなくなるわけである。
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今回の展覧会は少し毛色が変わっていて、ボストン美術館の所蔵品によるのではなく、熱海の MOA 美術館の所蔵品によるものである。私はこの美術館にも随分ご無沙汰しているが、改装を経て先頃リオープンしているので、また出かけてみたい。さてこの展覧会で展示されているのは、上のポスターでも明らかな通り、吉田博という画家の木版画である。あまり知名度の高い画家ではないと思うし、かく申す私自身、昨年のある時期までは全く知らない名前であった。だがあるとき書店の美術書コーナーで以下のような本を見つけて、興味を抱いたのである。この本の帯に、生誕 140年を記念した彼の回顧展が全国を巡回中 (東京では今年 7 - 8月、東郷清児記念損保ジャパン日本興亜美術館にて開催) であること、そしてこの画家は、ダイアナ妃やフロイト (なんちゅう組み合わせか!! 笑) を魅了したことが記されている。
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昨年 8月24日付の松本に関する記事で、同地の美術館で開催されていた山岳画の展覧会にこの吉田の作品もいくつか含まれていたことを記したが、私が吉田の作品の実物に接したのは、これまではその機会に限られていたのである。実は現在名古屋ボストン美術館で開かれている (2/26 まで) この展覧会は、上記の全国の巡回展とは全く別のもので、名古屋だけの企画。なのでこれは大変に貴重な展覧会なのである。

吉田博 (1876 - 1950) は福岡県久留米市の生まれ。上田という家に生まれたが、明治初期の洋画家として福岡でその名を知られていた美術教師の吉田嘉三郎に画才を見出され、その養子となった。幼時より自然に親しんだが、京都、そして東京で画業に励むうち、画壇では洋行帰りの黒田清輝 (1866年生まれなので吉田よりも 10歳上) らが「新派」ともてはやされ、実力ではひけを取らないのに自分たちは「旧派」に分類されて等閑視される状況に義憤を覚える。そして彼は、東洋美術の収集家として高名であったデトロイトの実業家チャールズ・フリーア (ワシントン DC のスミソニアン博物館群のひとつ、フリーア美術館にその名を残している) の紹介状を携えて 1899年に横浜を船で発ち、一路米国へと向かったのである。そして彼はデトロイトで奇跡的成功を収め、そこからボストンに移り、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンといった東海岸の大都市を経てヨーロッパに渡る。これによって彼の作品は欧米でよく知られるようになった。以下、要塞のような規模の当時のデトロイト美術館 (そういえば先般日本でもこの美術館の所蔵品の展覧会が開かれていた) と、1899年12月頃のデトロイトでの吉田の写真。自動車産業に沸く大都市デトロイトでは文化活動も活発であったのだろう。弱冠 23歳の吉田の並々ならぬ自信が窺える写真である。
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これはボストンでの「6人展」の写真と、それを報じる1900年12月 5日付のボストン・サンデー・グローブの紙面。このような出来事があったからこそ、今回の展覧会が名古屋ボストン美術館で開かれる意味があろうというもの。因みに 6人の写真の中で、吉田は前列真ん中に写っていて、その足を組んだポーズからも、自信満々の様子が伝わってくるではないか。その他知られた名前では、前列左端が鹿子木孟郎、後列右端が満谷国四郎だ。
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今回の展覧会では、吉田の版画ばかり 86点が集められているが、いやその美しいこと!! 彼の作品集を眺めていても、人物画は極めて稀で、もっぱら風景画に人生を捧げた画家であったことは明らかだが、その風景の抒情性は際立っていて、版画という表現手法は彼に適したものであったことを実感する。同じような情緒を感じさせる画家には、小林清親と川瀬巴水を挙げてよいだろう。いずれも私を魅了してやまない画家であるが、そこに吉田博の名が加わったことは本当に嬉しい。やはり人生、生きていれば次々に新たな発見があるものである。吉田の版画について、昨年放送された NHK Eテレの日曜美術館での特集が先頃再放送されているのを見たが、彼が版画を始めたのは 1925年、49歳のとき。絵師が作品全体の創作者であり監修者であるためには、彫師や擦師は絵師に従属する存在であるべきとの信念に基づき、自身で彫りや擦りを一から始め、徹底した修練によって職人顔負けのレヴェルに達したという。これは 1940年頃の写真だが、確かに自分で版木を彫っている。
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気の遠くなるような手間をかけて何度も摺りを重ねた彼の版画は、どれもみな、息を呑むように美しい。まずは展覧会のポスターにもなっている 1926年の「光る海」。瀬戸内海の風景である。リアルでありながら郷愁を感じさせるのは、題材と技法の組み合わせによるものだろう。
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もちろん、多くの山を描いているが、これはシアトルのレーニア山とマッターホルン。ともに 1925年の作品で、初期の版画である。
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吉田は山岳地帯にとどまらず国内外を旅行し、多くの場所を題材として版画を制作した。興味深いのは、同じ版木を使って違う色合いの作品を複数制作していることもあるのである。例えばこれは、姫路城の朝と夕 (ともに 1926年の作)。写真ではその実際の美しさが伝わらないのがもどかしいが、多少のイメージはお分かり頂けよう。
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これは「東京拾二題」から「亀井戸」(1927年)。今でも有名な亀戸天神の藤を描いたものであろうか。構図は奇抜とは言えないが、工夫が凝らされているし、春の空気が伝わってくるような素晴らしい作品だ。
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これらは、「猿澤池」(1933年)と、「櫻八題」から「三渓園」(1935年)。似た構図だが、季節の違いと、それから恐らくは描いている時間帯も違うのではないか (前者は朝、後者は夕?)。
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これはすごい。吉田の版画の中でも最大の摺り回数、実に 96回の摺りを重ねたという「陽明門」(1937年)。この異形の門の美に迫るにはそれだけの執念が必要だったということだろう。そして同じ日光の風景でも、一転してシンプルな「日光霧之日」(1937年)。森閑とした空気を感じさせる。表現したい内容に応じて技法を使い分けるのは、芸術家として持てるパレットの濫用という誘惑に打ち克つことであろう。
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海外での作品から、「タジマハルの朝霧 第五」(1932年) と、「奉天大南門」(1937年)。面白いのは後者で、この頃には、のちの大指揮者小澤征爾は 2歳の幼児として、この奉天 (現在の瀋陽) にいたはず。
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繰り返しだが、やはり写真では本当の色合いの素晴らしさは分からない。今回展示されている作品は、是非 MOA 美術館で常に見ることができるようにして欲しいものだと思う。いずれにせよ、図らずも欧米で知名度の上がった吉田であったが、戦後も GHQ が彼の自宅を訪れ (マッカーサー夫人も来たらしい)、さながら美術サロンのようであったらしい。やはり若い頃果敢にも米国に乗り込んで活躍したことで、語学力も磨かれたのであろう。このような写真が残っている。
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なお、上に挙げた吉田博作品集の帯に、ダイアナ妃とフロイトを魅了したとあるが、まずダイアナ妃については、このような 1987年の写真が残っている。ケンジントン宮殿の彼女の執務室の壁にかかっているのは、上でもご紹介した作品、「猿澤池」と「光る海」である。
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またフロイトに関しては、近年判明したことには、1932年に日本精神分析学会の初代会長である古澤平作という人が、富士山を描いた吉田の「山中湖」という版画を送っており、フロイトは終生その絵を愛し、まだ見ぬ日本に想いを馳せたとのこと。私は彼の出身地であるウィーンでも、それから亡命先であるロンドンでも、彼の旧居に行ったことがあるが、いずれにおいてもそのような絵を見た記憶はない。ただフロイト邸の書斎や居間にはところ狭しと、主として古代の美術品が並べられていて圧巻である。イメージを持って頂くために、私がウィーンのフロイト旧居で購入した写真集から、ひとつの写真をご紹介する。
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こんな中に吉田博の版画が含まれていたと思うと、何やらワクワクするのである。そのフロイトが所蔵していたという「山中湖」(1929年) は、こんな作品。美しい逆さ富士である。
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次は、7月に始まる東京での吉田の回顧展に期待することとしよう。

by yokohama7474 | 2017-02-12 12:25 | 美術・旅行 | Comments(0)

拝啓 ルノワール先生 あべのハルカス美術館

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この展覧会は、つい先頃まで東京・丸の内の三菱一号館美術館で開かれていたものである。私はそれを知りながら、あえて東京ではこの展覧会をパスしたのである。その理由は、私は自他ともに認める (?) ルノワール嫌いであること。もちろん私とても、この展覧会がルノワールのものというより、その弟子である梅原 龍三郎 (1888 - 1986) のものであることは一目で分かる。だが、平和でふくよかで安穏としたルノワールにどうも共感できない私は、それを敬遠したのである。ところが今回、大阪に出かける用事があり、未だ足を運んだことのない日本で最も高いビル、あべのハルカスに行ってみたいと思い、仕方ないので (?) ついでにそのビルの中にある美術館で開催中のこの展覧会に足を運んだのである。

まずはあべのハルカスだ。地上 60階、300m の高さを誇る。2014年に完成、高さ 296mの横浜ランドマークタワーを抜いて日本一となり、今日現在その地位を保っている。
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美術館はこのビルの 16階にある。
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だがせっかくだ。まずはこのビルの展望台まで登ろうではないか。60階まで登るのに、わずか 45秒。エレベーターの中には高度を示す表示もあり、また窓の外の壁には、高速で過ぎ行く壁の照明が見える。実はこの光景、上りのときには唖然として撮影できなかったので、下りのときに撮ったもの (笑)。
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屋上から見る大阪の景色。まぁ雑然とした都会ではあるが、まさに遠くまで見晴るかすこの景色には、天から雲の影が落ちていたり、降り注ぐ太陽の光が神々しい雰囲気を醸し出しており、なかなかのものである。何やら世界の支配者の視点に立っているようだ。これは一見の価値あり。
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またこの展望台には、日本にあるほかの高層建造物との比較があって面白い。あべのハルカスは第 3位の高さだが、東京スカイツリーと東京タワーは、タワーであって、ビルではない。尚あべのハルカスの展望台の高さは、スカイツリーに次ぐ第 2位だ。
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ではまた 16階に戻り、展覧会に足を運んでみよう。安井曾太郎と並ぶ日本の洋画家の大家、梅原龍三郎は、よく知られている通り、あのオーギュスト・ルノワール (1841 - 1919) の弟子である。この展覧会は、梅原の画業を辿りながら、その師弟関係をつまびらかにしようという試み。ルノワール嫌いの私であっても、大変に楽しめる内容であった。これは稀代の写真家、土門拳が撮影した壮年期の梅原。
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この梅原は京都の生まれ。家業はいわゆる「悉皆屋 (しっかいや)」、つまり和服の染め物の請負業者であった。つまり、日本独特の煌びやかな色彩に、幼時からなじんでいたということであろう。彼は 20歳という若さの 1908年 7月、パリに渡る。この展覧会に展示されている梅原の作品のうち最も早いものはこれである。渡仏の年に描かれた自画像。そう、この偉大なる洋画家にも、当たり前だが若い頃があったということだ。
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どうやら梅原は、船に乗ってフランスに向かう途中で初めてルノワールのことを知ったらしい。つまり、絵画を志すあまり、憧れのフランス人画家に会いたかったという理由で渡欧したわけではないようだ。その思い切りのよさと行動力は脱帽ものである。だが、ルノワールの薫陶を受ける前の若い頃の梅原の作品は、既に素晴らしい。ここに横溢している生命力はいかばかりか。これは同じく 1908年の「少女アニーン」。青が大変に美しく、これは典型的なルノワールの作風とは全く異なるものであるゆえに、師弟の画家としての資質の違いを表すものであろう。
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梅原とルノワールの出会いは 1909年。当時既にフランス画壇の大家であったルノワールを自宅に訪ねるに際し、誰かの紹介があったようには思われない。本当に凄まじい行動力である。だが遠い東洋の地から来たこの若者は、どうやらルノワールに気に入られたようで、それからルノワールが死去する 10年後まで親交が続いたのである。それにしても 20世紀初頭のパリは、とてつもないエネルギーで新しい芸術が花開いていった特別な場所。様々な刺激に満ちていたに違いない。そんな中、梅原もその作風の確立を目指して、様々な試みを行っている。これは 1911年に描かれた、ティツィアーノの自由な模写で、「ドンカルロス騎馬像」。ハプスブルクの絶頂期のスペイン王カルロス 1世、神聖ローマ皇帝としてはカール 5世の肖像画である。原画のイメージを頭の中で再構築しているのであろう。
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同じ 1911年の梅原のスタイル模索を示すこの「自画像」は、その長い胴体や小さい頭から、エル・グレコの作風に倣ったものと考えられている。だがこれは単なる模倣ではなく、この画家独特の持ち味がはっきり出ていると思う。
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これも 1911年作の「モレー風景」。これは大変美しい作品であると思うが、梅原自身はこの作品に不満があり、師匠であるルノワールに見せたところ、成熟した画業に至るには長い時間がかかると諭されたという。
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梅原とルノワールの交流を物語る貴重な資料が展示されている。上の作品が描かれたのはモレーという場所であるが、梅原の不満を聞いたルノワールは、自分の制作旅行に随行するようにとの指示を出す。その手紙がこれだ。なるほど、宛先として "R. Umehara" と読むことができる。
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尚、このモレーの風景画をルノワールに見せた経緯を、後年梅原自身が箱書きに記載している。
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梅原は題材を求めてイタリアも旅行したようだが、ポンペイで見た壁画に衝撃を受け、このようなポンペイ壁画風の作品も残している。
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この展覧会には、梅原自身の作品以外に、彼に影響を与えた作品や、梅原の手元に置かれた古今の美術品も展示されていて興味深い。これはそんな梅原の旧蔵品、師であるルノワールの「負籠の農婦」。このような細密なタッチで描かれた人物像の実在性には瞠目する。私はこの画家のことを嫌いと言いながらも、ルノワールはさすがの画家であることを認めることになってしまっているのだ。
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これはやはりルノワールによる印象派風の柔らかい作品、「樹木」。目の保養になるような無類の美しさに、しばしの間ルノワール嫌いは返上だ (笑)。
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梅原の収集品は、古代の彫刻にも及ぶ。そしてこの古代ギリシャ文明も相当初期の頃の、女性を象ったキュクラデス彫刻 (実に紀元前 2500 - 2000年頃のものという!!) と、その収容箱に自ら描いた対象物。なんとも可愛らしいではないか。
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会場に掲げられている説明によると、ルノワールは滅多に同業者を褒めなかったようだが、ドガはその数少ない例外であったようだ。これはそのドガが、ラファエロの「アテネの学堂」(ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂にある) を模写したもの。踊子や馬を描いた作品とは少し違う、古典に学ぶドガの姿。
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ルノワールが一目置いていたもうひとりの画家はセザンヌである。この画家こそ私が近代美術史上最高の画家と崇める存在なのであるが、梅原も後年、ルノワールよりもセザンヌを高く評価する発言を残している。この「リンゴとテーブルクロス」(1879-80) もいつものセザンヌであり、世界を再構築する試みが、ただひたすら素晴らしい。
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梅原はパリ時代に多くの歴史的画家と面識を得ているが、ピカソとは早くも 1911年に会っている。ピカソと梅原の作風は大きく異なっているし、梅原のピカソ評は厳しかったようだが、このような梅原が所持していたピカソ作品 (「アトリエのモデル」1966年) を見ると、その生命力という点における両者の意外な共通点に思い当たるのである。
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また毛色の違った画家で、梅原が面識を持っていたビッグネームとしては、マティスとルオーがいる。特に後者は、その厚塗り具合が梅原に直接影響を与えていると思われる。これはやはり梅原の旧蔵品で、ルオーの「びっくりした男」(1948-52年頃)。
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それから面白いのは、梅原の画風に影響を与えたものとして、大津絵が挙げられること。梅原の日本での師である浅井忠もこの民衆芸術に注目している。このデフォルメはなんともユニークであり、人物の表現としてはキッチュなまでの強い表現力がある。
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あとは梅原の作品を見て行きたいのだが、興味深いのは師匠であるルノワールの作品を、オリジナリティ溢れる筆遣いで模写していること。以下は、ルノワールが 1913 - 14年に描いた「パリスの審判」と、梅原が 1978年に描いた模写。構図だけは踏襲しているが、これは全く異なる作品であって、師匠と弟子とのテンペラメントの違いを如実に表していて面白い。
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また、ルノワールが手掛けた彫刻を梅原は絵画の中に描いている。梅原 84歳の作、異常な生命力溢れる「薔薇とルノワルのブロンズ」(1972年) と、そのモデルとなったルノワールの「ヴェールを持つ踊子」。
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梅原作品のこの生命力は、何も老年に至って現れたものではない。最後に掲載する 2点は、まず 1940 年の「紫禁城」と、1962年の「南仏風景」。北京の紫禁城や天壇を描いた作品はいわば梅原のトレードマークであるが、この作品では、空に浮かんだ雲がまるで生き物のようだ。一方の南仏の風景は、上に掲げた若い頃の「少女アニーン」の鮮やかな青を、屋外でさらに発展させたかのようで、やはり生命力の横溢が見られる。
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改めて梅原の画業を振り返ってみると、やはりルノワールとの運命の出会いが、師匠とのメンタリティの違いを含めて、梅原を梅原たらしめたのだと思い当たる。また、彼が得た多くの一流画家との知遇によって、日本の洋画壇自体が大きな刺激を受けたことも間違いないだろう。いつの時代も積極的に先端のものを学びに行く姿勢が、新たな展望をもたらすのであろうと思うが、翻って現代を考えてみえると、もはや世界をリードする偉大な芸術家の個性は、際立って存在しているようにも思われない。過度にノスタルジックになることはよくないかもしれないが、いわゆるアートというものが今後どうなって行くのか、不安を覚えるのも事実である。あべのハルカスからの眺めのような展望があればよいのに・・・と思ってしまうのであった。
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by yokohama7474 | 2017-02-05 00:30 | 美術・旅行 | Comments(0)

世界遺産 ラスコー展 国立科学博物館

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フランスにあるラスコー洞窟は、スペインのアルタミラ洞窟などと並んで、旧石器時代の壁画が残ることで有名である。子供の頃から教科書や図鑑などで素朴な動物の絵を見て、何やら人類の遠い記憶といった雰囲気のその壁画に、底知れぬ神秘的なものを感じていた。また、20世紀になってから子供と犬によって偶然発見されたという逸話も面白く、ラスコーがフランスのどこにあるのか知らないが、一度は行ってみたいなぁと思いながらも、そんなに古い壁画は、保存のために一般公開していないことは明らかであり、いわば「永遠に見ることのできない聖地」のようなイメージが私にはある。そんな中、上野の国立科学博物館で今、そのラスコーの壁画の展覧会が開かれていることは朗報であり、でもまさか本物の一部を切り取って日本まで持ってくることは不可能であるので、さて一体何を見ることができるのか、あまり期待すぎないようにと自分に言い聞かせ、現地に足を運んだのである。

まずラスコーがどこにあるかというと、展覧会の図録掲載の地図によると、以下の地図の通り。フランス南西部、ボルドーの近くである。そして、やはり図録掲載の写真から、現地の風景もご覧頂こう。川に沿った場所にある小さな村である。
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この壁画はいつ、誰が描いたものであるのか。答えは約 2万年前、描いたのはクロマニョン人だ。2万年前と言っても「随分前だなぁ」くらいにしか思わないが、ヨーロッパで最古の文明がギリシャに興るのは 5000年前。日本で言えば、縄文時代の始まりは 1万6000年前、弥生時代の始まりは 2500年前。そう思うと、「随分前」のイメージが少しは明らかになる。そう、随分前のものなのである (笑)。クロマニョン人は、後期旧石器時代にヨーロッパに住んでいた人類 (ホモ・サピエンス) である。その前の中期旧石器時代にヨーロッパにいたのはネアンデルタール人であり、こちらは未だ芸術的活動を行えるほど進化していなかった。よって、クロマニョン人を「新人」、ネアンデルタール人を「旧人」と呼ぶ方法が分かりやすいが、調べてみると、ネアンデルタール人はホモ・サピエンスではなくその亜種であるというのが現代の定説になっており、この呼び方は適当ではないそうだ。まあこのあたりは調べれば調べるほど細かい話が沢山出て来て、なにせ検証個体や遺跡の数も限られているので、いかに DNA 鑑定等現代の先端科学を駆使しても、素人でもはっきり分かる歴史が書かれる日が来るのかどうか分からない。

ともあれこのラスコーに驚くべき壁画を 2万年前に残したクロマニョン人、どのような外見をしていたのか。この展覧会に展示されている復元像はこの通り。
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これはどう見ても現在の人類そのままである。なるほどクロマニョン人はホモ・サピエンス、我々の直接の祖先なのだ。そもそもホモ・サピエンスはどこから来たかというと、最近の研究により、20~10万年前のアフリカにその起源があることが分かっている。以下の図は、ホモ・サピエンスの世界への拡散ルートである。ヨーロッパには 4万7000年ほど前に、東方から西に向かって移動して行った。また、ユーラシア大陸を横断して日本にも 3万8000年前に入っている。アメリカ大陸はその頃ユーラシア大陸と陸続きであったらしく、南米には 1万3000年前に到達している。図の中で白く塗られているのは氷床。つまり氷に閉ざされているので人類が住まなかったところだ。面白いことに、近代から現代にかけて最先端地域として世界を牛耳ってきた (そろそろ陰りが見えているという見方もあるかもしれない 笑) 英米両国は、この図によるといずれも当時は未だ氷の土地である。ホモ・サピエンス登場の頃には世界で最も遅れた場所であったのだ!!
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上記の通り、ネアンデルタール人は芸術的活動をしておらず、クロマニョン人がヨーロッパにおいて初めて、人類としての「芸術」を残すこととなった。ヨーロッパ、特にフランスとスペインには 300ほどの洞窟でクロマニョン人の壁画が見つかっているらしいが、規模においても保存状態においても、このラスコーはまさにその貴重な代表例であり、早くも 1979年には世界遺産に登録されている。1940年、穴に落ちてしまった飼い犬を追って村の少年が偶然発見したこの壁画は、その後一般公開され、多くの人たちが訪れたが、バクテリアや菌類の繁殖を招き、保存上の理由によって 1963年には時の文化大臣アンドレ・マルローによって閉鎖されてしまった。現在では研究者すら入ることができないらしいが、現地には 1983年にオープンした洞窟の一部を再現した (主に手作業による測量と模写からなる) 資料館があって、ラスコー 2と呼ばれている。今回の展覧会では、新たに 3次元レーザースキャン技術などを使って作成したラスコー 3が展示されている。これは世界を巡回しているらしく、日本でも東京のあと、宮城県多賀城市と福岡でも展覧される。尚、会場ではほとんどの箇所で写真撮影が許されている。私は残念ながらスマホすらロッカーに入れてしまって素手だったので会場で写真は撮らなかったが、再現壁画はこのような感じで、ライティングが時折変化するので、見ていて興味が尽きない。
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さて、ではラスコー壁画とはどのようなものなのか、見てみよう。このようないくつかに枝分かれし、細く伸びた、まるで腸のような洞窟内は、7つの場所に分類されている。すなわち、
 1. 牡牛の広場
 2. 軸状ギャラリー
 3. 通路
 4. 身廊
 5. ネコ科の部屋
 6. 後陣
 7. 井戸状の空間
である。会場にはこのそれぞれの区分の形状をミニチュアで再現しているが、洞窟の内部を覆う管のような形態は、まさに腸のよう。
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最初の「牡牛の広間」は、長さ 18m、幅 7m、高さ 4 - 5m というまさに広間であり、ウシ、ウマ、シカなど、一部重なり合った 30頭以上の動物が描かれている。すごい迫力だ。線描もあれば彩色したものもある。
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次の「軸状ギャラリー」は狭い入り口の奥に広がる空間で、ここには 60頭ほどの動物が描かれている。その美しさに魅了されたある先史学者は、「先史時代のシスティーナ礼拝堂」と呼んだという。もし狭い空間でこれを見ることができれば、2万年の時を超えた人類の創造の奇跡に身震いすることであろう。動物たちの活き活きとしたこと!!
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次の「通路」では、もろい壁面に彫刻刀のような石器を使って、繊細で小さな線刻画が多数施された。全体で実に 239頭が確認されているという。
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「身廊」とは、教会建築において堂内の長い部分を指す名称だが、それはここが天井の高い広間のようになっているからである。ここでは線刻、彩色それぞれの作品が残る。以下はヤギの列。見えにくいので、復元図を添える。また、ここにある「大きな黒い牝ウシ」は、反対側に向いたウマたちの上に重ね描きされていて、大した存在感だ。
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「ネコ科の部屋」は、這わなければ入れない場所で、ライオンかとも思われるものなど、ネコ科の動物の線描が含まれている。大変ユニークだ。
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「後陣」も教会建築の一部を指す語であり、堂内の奥の半円形の窪んだ箇所のこと。ここでは 10m × 10m の三角形の場所にその名がつけられている。これは少し見にくいが、トナカイの線刻画。下の写真の解説にある通り、ラスコー洞窟では多くのトナカイの骨が発掘されているが、トナカイの描かれた絵はこれだけだという。
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そして面白いのが、「井戸状の空間」。たて穴を 5m降りて行ったところにあり、地表から 20m下にある場所だ。ここでは黒い絵具だけを使って不思議な絵が描かれている。槍が刺さって内臓がはみ出ているバイソンが、トリの頭を持つ人物を攻撃しており、その横には、やはりトリを彫刻した槍か、槍を飛ばす道具と見られる道具が立っている。意味は解明されておらず、誠に謎めいた壁画である。
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このようにラスコーの壁画の数々は、ほとんどが動物を描いたものであるが、技法も色使いも様々であり、呪術的な雰囲気をたたえたものもある。先史人たちはなぜ洞窟の中にこれだけの夥しい作品を残したのであろうか。彼らはどうやら洞窟内に暮らしていたのではなく、住居は周辺にあったらしい。なのでこの場所は彼らの長いキャンバスであったわけである。つまり、「絵を描く」こと自体が彼らの目的であって、これは動物との決定的な違いなのだ。もちろん、人間が動物と違う証拠として、ここで使われていた石器や絵具、そして驚くべきことに、動物の油を使用したというランプまでもが発掘されている。今回の展覧会で展示されているこれらの品は、なんとここが世界初公開であるらしい。
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そして、日本での展覧会独特の展示も加わっている。それは日本の後期旧石器時代についてのものだ。私は初めて知ったのだが、なんと日本には、2つのこの時代の「世界最古」があるという。ひとつは、「世界最古の落とし穴」。静岡県の東野遺跡のもので、3万 4000年から 3万 1000年ほど前のもの。動物を追い込むのではなく、自然に落ちるように仕組んだものと考えられている。これが世界最古ということは、日本人は元来狡猾な人種なのであろうか (笑)。
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そしてもうひとつ、これはすごいと思うのだが、「世界最古の往復航海の証拠」。伊豆七島の神津島の沖にある恩馳島には黒曜石の岩塊が存在し、旧石器時代にここから運ばれたと見られる黒曜石が本州の遺跡で発見されているという。以下の地図で赤い色のついた遺跡である。尚、肌色の部分は 3万 8000年前の陸地。これが世界最古ということは、日本人は元来交易のセンスがあるということだろうか。
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一体人間はなぜ、絵を描くのであろう。ラスコーは、その根源的な問いに対して無言のヒントをくれる場所であるようだ。ただ生きるために食うという生活ではなく、火をおこし道具を使い、直立歩行することで、人間ならではの生活をクロマニョン人たちは実現し、そして何かを壁面に再現するという段階に至った。今に至る人間の芸術行為の根源を作り出した彼らの活動を知ることは、また我々人類の可能性を知ることでもある。一度現地でその空気を吸ってみたいものだが、まずはこの展覧会でその内容を知ることには、大きな意義があると思うのである。

by yokohama7474 | 2017-01-28 15:25 | 美術・旅行 | Comments(0)

再会 興福寺の梵天・帝釈天 根津美術館

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興福寺は言うまでもなく奈良の観光メッカのひとつ。古く 669年に藤原鎌足によって建てられた山階寺がその起源であり、藤原氏の氏寺として幾星霜を経てきた由緒正しい古寺であり、薬師寺と並んで法相宗 (ほっそうしゅう) の総本山である。権力と結びつき、自らも武力を有した時期もあるため、その歴史は戦乱に翻弄され、また火事にも何度も見舞われてきた。その長い歴史の中で失われた貴重な文化財はもちろん数知れずであるが、それでも信じられないほど素晴らしい仏教美術の宝庫なのである。命をかけてこれらの文化財を守ってきた人たちがいたからこそ、現在の我々がこのような美の規範を知ることができるのである。そしてその興福寺は現在伽藍の復興中であり、近く達成されるひとつの大きな成果は、中金堂の再建である。興福寺には今でも東金堂という室町時代の国宝建造物はあるが、以前存在した西金堂は既になく、最も重要な建物であるべき中金堂の位置には、長らく粗末な仮金堂が存在してきた。江戸時代後期に建てられたその建物は既に解体され、現在は新たな中金堂の建設が進んでいる。私が昨年 9月に足を運び、10月 1日付の記事にも掲載した現在の中金堂の建築現場はこのような状況。
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平成 30年落慶予定ということは、もう来年である。元号は今度どうなるか分からないが、ひとつの可能性として、平成最後の年になるかもしれないと言われている平成 30年 = 2018年に、ここ興福寺の新たな歴史が生まれるのである。この寺は中金堂再建のためにここ何年も資金集めに奔走しており、この寺の代表選手である阿修羅像は、東京にも出張しなければならなかったし、仮金堂での展示も行われ、いずれも大変な集客を達成して資金集めに大きく貢献したのであった。ともあれ、来年の完成が見えてきていることは本当に喜ばしい限りだが、その中に展示されるのは、日本画家、畠中光亨による「法相祖師画」という作品であり、既に完成しているその絵の中金堂への安置を前にして、全国でお披露目の展覧会が始まった。現在は日本橋高島屋で開催中。
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公式サイトには、主要な展示物と各地での開催予定が記されている。
http://kohfukuji-hatanaka.exhn.jp/

前置きが長くなったが、この中金堂の再建及び法相祖師画の全国巡回の機会に、興福寺側の厚意により、大変興味深い特別展示が東京青山の根津美術館で実現した。タイトルに「再会」とあるが、これはつまり以下のような意味である。現在興福寺国宝館に安置されている重要文化財の梵天 (ぼんてん) 像と、それと本来一対であった根津美術館所蔵の帝釈天 (たいしゃくてん) 像が、112年ぶりに再会するのである。これが興福寺の梵天像。
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そしてこれが根津美術館の帝釈天像。
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これら二体はいずれも興福寺東金堂に安置されていた鎌倉時代の仏像であるが、明治期に帝釈天の方が流出してしまったということらしい。明治期に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐によってさしもの名刹興福寺も無事では済まなかったことは歴史的事実であるが、この像の流出の場合は幸いというべきか、ちゃんとした素性の人に引き取られたようである。それは、三井財閥を支えた実業家であり、茶人でもあった益田鈍翁。展覧会の案内によると、当時帝釈天像は一部破損しており、興福寺の維持・徒弟教育基金設置に協力した益田に譲られることとなったという。その後修復がなされたのであろう。この帝釈天はきれいな仏さまではあるが、顔の部分はちょっときれいすぎて、横から見ると顔だけ色も違っており、後補であるように私には思われる。文化財指定を受けていないのはそのせいなのであろうか。ともあれこの像はその後、鉄道王と呼ばれた根津嘉一郎の手に渡り、この美術館のコレクションとして展示されるようになった。これは昭和 8年の写真で、自宅でこの像を眺める根津嘉一郎。
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このように数奇な運命に弄ばれた仏像であるが、100年以上の時を経て本来ペアであった二体が揃うというのは、本当に貴重な機会である。実はこの二体の胎内の銘から、ともに大仏師定慶 (じょうけい) の作と判明している。慶の字のつく仏師はいわゆる慶派と呼ばれる流派に属し、あの有名な運慶や快慶がその代表であるが、この定慶については詳しいことは分かっていないらしい (同名のほかの仏師もいたようだ)。だが一般にこの仏師の代表作と言われるのは、やはり興福寺所蔵の、国宝のこの金剛力士像。
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私はこの金剛力士、特に阿形が大好きで、昔「国宝」という美術書シリーズでこの像の写真が使われているのを見てワクワクしたものである。本当に素晴らしい肉体の表現である。また、同じ興福寺の東金堂に安置される維摩居士 (ゆいまこじ) と、それと対になる文殊菩薩も彼の作品らしい。これらも人間性と崇高さを併せ持つ写実的な素晴らしい作品で、やはり国宝。
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これらに比べると今回の二体は、若干衣が重いような気もするが、それでもやはり名品であることは間違いない。写実性よりは天平彫刻に範を採ったような古典性が窺われ、それも鎌倉彫刻のひとつの特徴なのである。根津美術館の展示コーナーの一角での「再会」であり、決して大々的な催しにはなっていないが、首都圏の仏像ファンなら足を運ぶ価値はあるものと申し上げておこう。

by yokohama7474 | 2017-01-14 00:26 | 美術・旅行 | Comments(0)

川崎市 影向寺 薬師三尊像公開 2017年1月3日

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皆様、あけましておめでとうございます。2017年も始まってしまいました。さぁ、新たな年に向けて頑張ろうではありませんか。今年がこのブログをご覧の皆様にとって、また世界にとって、よい年でありますように。東京地方では年末年始は一貫して大変よいお天気であったので、川沿いの我が家から元日の朝に見た富士も、このようにきれいなものでした。

さて今年は、今日1月3日に身近なところで歴史を実感しようと、我が家からは多摩川を亘ってほんの数キロのところにある川崎市宮前区の影向寺(ようごうじ)にお参りすることとした。ここには、仏像ファンには既におなじみの重要文化財の仏像が鎮座ましましている。我が家から最も近い距離にある重要文化財だろう(目黒の五百羅漢寺及び大圓寺と同じくらいの距離か)。実際、この武蔵野は実に1300年ほどの歴史を持つ古い場所であり、近世以降に様々な理由で発展した江戸・東京よりも遥か遥か遡る大昔の歴史的遺産がいろいろとあるのである。今回ご紹介する川崎市の影向寺は、そのような悠久の歴史に思いを馳せることができる場所なのだ。
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川崎の住宅街から狭い坂道を登って行ったところにこの寺はある。重要文化財指定の仏像を収めた収蔵庫の開扉は年末年始と8月5日、11月3日のみで、実に貴重な機会なのである。私は家人とともに以前この寺を訪れたことがあるのだが、調べてみるとそれは、2013年11月3日。つい先日だと思っていたが、既に3年超の月日が経っている。その後私もこのブログを始めたこともあり、今回は年始の初詣として訪れることとした。凛とした冬の空気を胸一杯に吸って、日常とは違う太古の歴史に少しでも近づこう。前回の訪問時にはなかったが、この地域の発掘調査により、つい2年前に国の史跡に指定されたらしい。実はこの場所、寺伝では奈良時代に聖武天皇が行基に開かせたということらしいが、発掘される瓦からは、それよりもさらに前の白鳳時代の創建であるとされているのである。
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小さな門には、初詣期間中の正月三が日に、平安時代からこの寺に伝わる薬師三尊の開扉についての案内が。正月も既に3日ということもあってか、境内には人もまばらで、その青い空に悠久の歴史を思うにはうってつけの日和である。
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境内に入ってすぐ右手には、聖徳太子を祀るお堂が。一見して太子ゆかりの法隆寺夢殿を思わせる建物だ。近年の建造だが、ご本尊の聖徳太子像は、鎌倉後期から室町時代の造立と思われる、川崎市指定文化財。いかにも地元の信仰を肌で感じることのできる場所である。
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正面の本堂は、1694年建立の神奈川県指定文化財。内陣と外陣がはっきりと分かれた天台宗の建築の伝統を継いでいる。やはり地元の人たちに大事にされてきた様子が伺えて、気持ちが穏やかになる。実際に信心深いご家族が何組かお参りされていた。
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ただ、この赤い提灯に記された警句には、なんともユーモラスなものもあって面白い。ご住職の趣味なのであろうか(笑)。
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そして、推定樹齢600年の「乳イチョウ」。乳を出すのにご利益があるらしい。
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そして、特別公開中の薬師如来その他を収める収蔵庫。そして、おっとここにも洒脱な警句をあしらった赤い提灯が。あっはっは。笑う門には福来たる。でも、「女房、鉄砲、仏法」ってどういう意味?御しがたいが重要なものということでしょうかね。
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重要文化財に指定されているのは三体。いずれも平安時代の作とされている薬師如来と日光菩薩・月光菩薩。だがこのご本尊と両脇侍は、もともと一具のものではなかったと見られているらしい。ご本尊は戦前の文化財保護法における国宝ということで、現在でも国宝復帰の運動が続けられているが、私の独断では、この仏さまはここに千年もおられることにこそ意味があるのであって、たとえ国宝でなくても、その素朴な持ち味は分かる人には分かるのだ。以下、お寺のホームページから借用して、薬師如来とその両脇侍、二天像に十二神将の写真をご覧頂こう。関東でもこのような古いお寺で遥か昔に思いを馳せることができるということは、忙しい現代人にとっていかに大事なことであろうか。
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実に古色ゆかしいとはこのことだろう。我が家から数キロしか離れていないこの土地で、大事に守られてきた仏さまたちである。やはり古代の息吹を現代に伝える霊験あらたかな場所。数年に一度は足を運びたい。そして拝観を終えたあと、境内でこんな碑を見つけた。
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なんと、あの西脇順三郎の歌を刻んだものだ。西脇はもちろん、シュールレアリズムを日本に紹介した詩人であり英文学者。慶応の教授でもあった。モダニストの印象が強い彼がこんな古い仏教の地で歌を詠んだとは。なんとも興味深いことではないか。彼もまた、あの素朴な薬師如来の前で手を合わせたのであろうか。1000年を超える文化の出会い。
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今年は、武蔵野の古い歴史を育んだ多摩川を巡るタイプスリップにもできる限り経験してみたい。今年もあらゆる文化を楽しみましょう!!
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by yokohama7474 | 2017-01-03 22:30 | 美術・旅行 | Comments(0)