カテゴリ:美術・旅行( 150 )

日本の各地にはそれぞれに興味深い文化遺産が存在している。細かく見て行くときりがない世界であり、なかなかそれらをことごとく踏破するのは難しいが、それでも少しずつ興味深い場所を探索して行きたいと考えている。そんなわけで今回の記事では、岐阜県を採り上げる。「またお寺の記事書いているの?」と家人がウンザリした顔をすると思うが、やはり文化の領域内でどこに行くか分からないのがこのブログ。ご興味おありの方はしばしお付き合い頂きたい。

まず訪れたのは、可児郡(かにぐん)というところにある願興寺。「かに」という地名からの連想で、蟹薬師とも呼ばれている。この寺にはなんと、24体もの重要文化財の仏像があるという。事前に電話連絡を入れ、ご住職のおられる時間帯に伺うこととした。
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この寺のある場所は、江戸時代に制定された中山道の御嶽(みたけ)という宿場であり、またもともとは8世紀に東山道(とうさんどう)という街道がここを通っていたとのことで、古代から人々の往来のあった場所であるらしい。
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寺伝によると、815年に最澄がこの土地に薬師如来を安置したのが起源とのこと。それ以来長い年月を経て来た古寺であり、度々の兵火を乗り越えて貴重な文化財を伝えている。まず、重要文化財に指定されているこの本堂を見てみよう。かなり巨大な堂であるが、錆びた金属製の屋根も痛々しく、つっかえ棒をしていたり、あちこちにいびつな柱があったりして、一種異様な迫力がある。
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実はこの本堂、1581年に庶民の手によって建立されたもの。それだけ霊験あらたかな蟹薬師への信仰が篤かったということであろう。ご住職は老齢ながら非常に快活な尼さんで、寺の歴史を詳しくご説明頂ける。その説明によると、この重要文化財の本堂は来年秋から10年をかけて解体修理する予定とのことで、檀家のない寺だけに浄財集めに奔走していると言っておられた。そのため中山道関連のイヴェント等でもこの寺の拝観を組み込むなどして、少しでも観光客を呼び込む努力が必要であるようだ。だがこの寺には観光客の興味を惹くものがある。それが、24体の重要文化財の仏像群だ。この収蔵庫に保管されている。
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中に入るとまさに圧巻。本尊蟹薬師は秘仏であるが、その他の平安から鎌倉にかけてと見られる仏像群は、地方色があるものも多いが、優美な仏様もおられる。このような四天王や十二神将の力強さはどうだ。
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優美なのは、釈迦三尊像や阿弥陀如来だ。
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最近では仏像に関する本も硬軟取り混ぜていろいろ出ているが、みうらじゅんが監修した「東海美仏散歩」(出版社はなんとあの、ぴあだ)にもこの寺の仏像があれこれ紹介されている。この寺のご本尊についてのページは以下の通り。写真では小柄にお見受けするが、ご住職によると、結構大柄の仏様とのこと。
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子年の4月に公開というから、12年に一度で、次回は2020年。よし、ちゃんと覚えておいて、お参りすることとしよう。実は徳川秀忠がこの仏様の前で泊まったことがあるという。それは、関ケ原に向かう途中、上田城で真田の激しい抵抗にてこずり、結局戦には間に合わなかったわけだが、中山道を上る際、途中でこの寺の本堂に泊まったということらしい。後に天下の第二代将軍となる秀忠、どのような悔しい気持ちでここに滞在したのだろう。またこの寺には、鐘楼を兼ねた門がある。大事にされて来た鐘は、戦時中も招集を免れたという。蟹薬師の名に因んで、上の方に金属製の蟹がはめ込まれている。
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このように貴重な文化財の宝庫である願興寺、本堂の解体修理がつつがなく行われることを願うとともに、もしこのブログで興味を持たれた方は、来年秋に修理が始まる前に是非一度足を運んで頂きたい。あ、必ず事前に電話で予約することをお忘れなく。

それから私は、大地の歴史を遥か遡る旅に出た。可児郡から少し西に行ったところにある瑞浪市(みずなみし)というところに、地下トンネルを利用した施設があると聞いたからである。そうして辿り着いたのは、瑞浪市民公園。
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実はこの場所はもともと化石がよく取れるらしく、このような石碑が立っている。
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ところが今ある施設は少し様子が異なる。戦時中ここには、戦闘機を製造するための地下工場が作られ、そのために中国人・朝鮮人の捕虜が強制労働に駆り出されたというのだ。この看板にあるように、相当な規模である。
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このブログでも松本にある地下工場(公開していないので全貌は不明だが)を採り上げたし、同じ長野県の松代では、大本営を移築するために作られた地下施設を見学したこともある。こうした戦争の傷跡を残す負の遺産も、正しい歴史認識のための保存が必要であろう。上の写真の通り、ほとんどのトンネルは封鎖されているが、一部は研究や見学のために有効活用されている。これはなかなか意義深い試みだ。これが地球の歴史を展示している地球回廊という施設。中は涼しくて、展示物も結構手が込んでいて、ちょっとお化け屋敷風で楽しかったですよ。
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それから、トンネルそのものに入って行って、そこに残されている化石を見ることができる場所もある。なかなかワイルドだ。
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また、ここで発掘された化石を展示した博物館もある。かなり大きいものも出ているようだ。
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また、ビカリアという巻貝の化石が、月のおさがりという名前で、お守りとして尊重された例についての展示もあって興味深い。
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そして、さすが陶磁器作りが盛んな場所だけに、ここには登り窯があって、現在も友の会が使用中(笑)。
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それに、ほかのところから移築してきた古墳まであるのである。
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このような悠久の歴史を辿る瑞浪公園、市民の方々の憩いの場になっているようであった。そして私は、次の目的地である多治見市の永保寺(えいほうじ)に向かうこととした。ここには有名な国宝建築が二つもあり、以前から行く機会を伺っていたのである。車を降りて寺に向かうと、堂々たる石灯篭が道の両脇に立っている。これは立派である。
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歴史探訪者たるもの、こういうところで手を抜いてはいけない。早速近づき、素性を確認すると、武州増上寺とある。もちろん、あの芝の増上寺であろう。とすると、将軍家に関連のものであろうか。
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それぞれ、「有章院」「惇信院」尊前とある。帰宅して調べると、前者は第7代徳川家継、後者は第9代徳川家重のことと分かった。きっと増上寺にあって戦争で焼けてしまったこれら将軍の廟の前に立っていたものであろう。これは家継の廟の戦前の写真に色をつけたもの。残っていれば国宝及び世界遺産は間違いなかったろうが・・・。歴史の荒波を越えて岐阜県多治見市で余生を送るこれらの石灯篭は、言葉を喋らないが、その存在感に人は打たれるのである。
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さて、永保寺である。この寺は珍しく、入り口から坂道を下って行ったところに境内がある。そのような寺は全国にどのくらいあるだろうか。今思いつくのは、京都の泉湧寺くらいである。坂道を下るにつれ、よく知られた天下の国宝、観音堂が段々その姿を現すのだ!!境内はちょっと銀閣寺を思わせるものもあるが、いずれにせよ素晴らしいワクワク感がここにはある。
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観音堂の前には池があり、橋が架かっている。紅葉すればまさに観音浄土そのものだろう。お堂に近づいて行ってみよう。
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この凛とした佇まいに、静かに心を打たれる。あいにくの雨であるが、私はしばしその雨の中で立ち尽くす。尋常ならざる美しさである。通常は内部の拝観は叶わないが、写真が掲示してある。
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池を回り込んでみても、その姿は美しい。
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坂道を降りて境内に辿り着くと書いたが、境内のすぐ裏はこのような川になっている。今でも修行道場となっている永保寺は、決して観光にうつつを抜かしている場所ではないのだ。
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そしてこの寺のもうひとつの国宝、開山堂。なるほど、観音堂よりは小ぶりであるが、これも奇跡の建物だ。よくぞ今日まで残ったもの。ここにも内陣の写真が掲示されている。
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多分このような場所であろうかと想像していたそれ以上に厳しい美に触れることができる場所、永保寺であった。心が洗われた気がする。

さてこの多治見市は陶器で有名なのであるが、私が見たかったのはもうひとつの全く異なった場所。それは多治見修道院だ。
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オーストリアあたりの修道院を思わせるこの建物は、1930年に創立されたバロック建築。うーん、これはヨーロッパそのものの雰囲気ではないか。その証拠に、周りにはブドウ畑があり、この修道院でワインを作っているらしい!!ええっと、Tajimi Shudouin Winery、なるほど、多治見修道院ワイナリーか。私が訪れた月曜日はあいにく定休日でワインは買えなかったものの、素晴らしい人間の営みを見た気がする。
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岐阜県にはまだまだ面白いものが目白押しだ。またご紹介申し上げたいと思う。

by yokohama7474 | 2016-10-02 22:16 | 美術・旅行 | Comments(0)

奈良 西大寺

別項で採り上げた吉田裕史指揮ボローニャ歌劇場によるプッチーニの「トゥーランドット」は奈良の平城宮址における野外公演であったが、開場までに少し時間があったので、久しぶりに西大寺を覗いてみることにした。近鉄の大和西大寺駅(わざわざ「大和」とつくのは、岡山に有名な西大寺という寺及び駅があるからだろう)は、近鉄の乗り換え起点となる重要な駅であるが、西大寺というお寺は歩いてすぐだ。
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西大寺というからには、平城宮の西にあって、かつては東の東大寺と対になる巨大寺院であったわけであるが、今日ではごくわずかな建物が残っているに過ぎない。だが、鎌倉時代に興正菩薩叡尊(こうしょうぼさつえいそん)が復興し、真言律宗の総本山として今日までその法脈をつないでいる意義は大きい。また、巨大な茶碗でお茶を飲む大茶盛という行事でも知られる。境内にはその大茶盛のポスターが貼ってある。ちなみにその隣は、つい先日まで奈良国立博物館で開催されていた、僧忍性(にんしょう)の展覧会のポスター。北山十八間戸等の社会事業で知られる忍性は叡尊の弟子で、来年生誕800年。この展覧会はこれを記念したものであったが、和泉元彌主演の映画ももうすぐ封切される。
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この西大寺の境内、40年ほど前から景色は全く変わっていない。かつての栄華を偲ぶ遺構はわずかであるが、静かな境内を散策すると、気持ちが落ち着くのである。これは東塔の礎石。
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この寺は随分以前には、本堂のみが拝観可能であったが、その手前にある四王堂は非公開、また奥にある愛染堂は、秘仏である本尊愛染明王の開扉時のみ公開していたと記憶する(また、宝物館である衆宝館は春と秋の一定期間のみ公開)。だが今回訪れてみると、その四王堂にも愛染堂にも入ることができて有り難い。これが四王堂。
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実はまだ小学生の頃、当時非公開であったこの四王堂がたまたま専門家の調査だか何かで開いていることがあって、ドキドキしながらそこに紛れ込んだことがある。特に注意されなかったが、その内部に安置された巨大な仏像を見上げて圧倒された記憶がある。当時はこちらもチビであったし、暗い中で普段見られないものを見ているという高揚感もあり、そのゾクゾクする感覚は忘れられない。その後もこの場所に来たことは一度や二度はあったと思うが、その巨大な仏像が高さ6mの長谷寺式十一面観音であることはすっかり忘れていた。なんとも存在感があり、もう少し知名度が上がってもよい仏様である。平安時代作の重要文化財である。
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そしてこの堂の主役は四天王、いや、そこで踏みつけられている邪鬼なのである。この寺の拝観パンフレットは、私の覚えている限り、40年前からこの邪鬼だ(笑)。
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これが本堂。本尊は清凉寺式釈迦如来で、重要文化財。また、丈六の弥勒菩薩像(県指定文化財)と、文殊菩薩渡海像(重要文化財)がいずれも素晴らしい。しばし瞑想したくなるような厳粛な空間である。
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そして、境内奥に位置する愛染堂。本尊の愛染明王は公開していないが、中に入ることができ、しかも堂内の客殿では特別な展示がされているのである。
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西大寺中興の祖にして真言律宗の開祖、興正菩薩叡尊が生前に作らせた自らの肖像は、鎌倉肖像彫刻の傑作として知られるが、この春重要文化財から国宝に格上げになった。堂内の客殿に安置された像は誠に凛としており、そのお姿はリアルでありながら、なんとも澄み切った精神を感じさせる優れたもの。
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この寺にはほかにもいくつか素晴らしい文化財が残されており、さすがに歴史のある古寺である。また今度は衆宝館や愛染明王が公開されているタイミングで訪れたい。

by yokohama7474 | 2016-10-02 10:44 | 美術・旅行 | Comments(0)

前項の興福寺詣でのあと、午後に奈良のどこを見に行こうかと思案した。私のお気に入りである近場の福地院や十輪院で地蔵巡りもよいし、大安寺あたりも最近行っていない。あるいは、ちょっと足を延ばして法隆寺に行ってみようか。近くにある慈光院は、奈良には珍しく庭を楽しむところで、なかなかに楽しいのである。だが、なんの計画性もなく、即興性と道草精神でラプソディックに物事を考える私の頭に、ひとつのアイデアが浮かんだ。それは、大和郡山市。もちろん、金魚の養殖で有名な街であり、筒井順慶がいた城のある街である。実は私はこれまで行ったことがない。それは、見るべき仏像がないということもあり、城自体の遺構が残っていないことも理由であった。だが、それぞれの土地には歴史が宿っており、過去に城が栄えたなら、何か面白いものが残っているはず。そう思ってレンタカーを走らせたのであった。

辿り着いた郡山城址、このような掘が今でも健在だ。石垣は建造当初のものであるという。淀んだ水だけでも、そこに留まる歴史の残滓に想いを馳せるには充分だ。
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再現された追手門に至る道はかなり狭く、ちょっと迷ってしまったが、辿り着いてみるとちゃんと駐車場もあり、門も櫓も、大変立派な佇まいである。
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さて、上に掲げた門の写真をよくご覧頂くと、豊臣家の桐の紋が見えることに気付かれることだろう。そうなのだ、戦国時代に一時この地を治めた筒井順慶が1584年に死去すると、筒井家は転封され、秀吉の弟である豊臣秀長が、大和・紀伊・和泉合わせて百万石の大名としてこの郡山城に入ったのである。従ってこの郡山城の本格的な造営は秀長によってなされたということになる。秀長については詳しく知るところではないが、戦国の世の安定に貢献のあった人物らしい。この城の運命はその後紆余曲折あるが、1724年に柳沢吉保の長男、柳沢吉里(よしさと)が入城、明治維新まで柳沢家が領主であった。天守閣は明治の頃に壊されて今はないが、ここは現在桜の名所として知られ、春には多くの人が訪れる市民の憩いの場所となっているようだ。だが、最近天守閣址の石垣に補修の必要が生じ、現在ではそこまでは入れないようになっている。でも、かつてそこにあった繁栄を偲ぶことのできる場所だと思う。もうすぐ補修作業が完了して、人々がその場所に戻ってくることだろう。
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城址の敷地内を進んで行くと、柳沢文庫の表示を見ることとなる。明治の頃に旧藩主柳沢氏の屋敷として建てられたもので、現在では地方史誌専門図書館となっている。
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私が訪問したときには、柳沢吉里が甲斐の国からどのように転封して来たかについての資料が展示されていたが、正直なところ、展示物よりも、なんとも落ち着いた佇まいの建物の方印象に残った。このような廊下を通り、ふすまを開けて展示室に入る。あー、なんともレトロ。
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奥には地方史誌が棚一面に並んでいる。古めかしいシャンデリアも明治の頃のものだろうか。
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ここを出て門の方へ戻ると、そこにも何やらいわくありげな古い建物が見える。
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これは銭湯ではありません(笑)。もともと明治41(1908)年、日露戦争の戦勝を記念して(古い!!)奈良公園内に建てられた奈良県立図書館だ。設計者は奈良県の技師であった橋本卯兵衛。
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人気がないのでおそるおそる近づいてみて、扉を開けたところ、どうやら週末には一般公開しているらしく、奈良市のお役人さんだろうか、年輩の案内の方に大変な歓待を受けた。この建物について、郡山城の歴史、郡山の見どころや駐車スペースに至るまで(笑)、実に詳しく教えてもらうこととなった。この建物を設計した橋本卯兵衛は、あの辰野金吾の手になる奈良ホテルの設計にも参画したとかで、窓の作り方などはそっくりであるそうだ。当時の紐で今でも窓が上下するらしい。
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古めかしい階段は、現在では使われていないものの、私が興味深そうにジロジロ見ていると、立ち入り禁止の綱を外して2階まで上がらせてくれた。
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郡山城の説明も大変興味深く聞いた。奈良は盆地であり、石を切り出せる山が少ないので、石垣を作るのに、古墳の石や石仏をかき集めてきているらしい。このブログでも、姫路城における古墳の利用や、安土城における石仏の利用をご紹介して来たが、いやこれだけ様々な石材を集めているとはなんとも面白い。天下人の弟、秀長の権力のなせる業なのであろうか。ここの館内には、天守閣の石組における転用石材が細かく表示してある。
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それから面白いのは、黄金の瓦が出土していることだ。出土品実物ではなく、復元品の写真だけの展示であったが、やはり豊臣の派手好きがここにも発揮されていたようで、なんとも興味深い。
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この施設、今は何に使われているかというと、登校拒否の子供たちの教育の場ということらしい。このような歴史的な環境に向き合って自分が何を勉強して社会とどう接して行くかについて子供たちが学ぶ場であるということであろう。帰りがけに玄関を見ると、卒業生の詩が飾られているのが目に入った。
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むむ、どうやら道草をしてよかったという内容である。人生の道草そのもののようなラプソディックなブログを書いている身としては、大いに賛同したくなるものではないか。特に次の一節。私の座右の銘にしたい。そうなのだ。道草こそが人生の醍醐味であり、知恵や勇気の源なのである。
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我が道草人生を肯定されて、よい気分で(?)城を出て、郡山の街へ。この旧県立図書館で細かい街の地図などを頂いたが、その中で目を引いたのが、「金魚ボックス」。どうやら電話ボックスを水槽として利用して、そこに郡山名物の金魚を入れてある場所らしい。街の南の端あたりにある。これ、電話ボックスの隙間をパテで塞いでいるようだが、かつては人の声を運んだ受話器が、既にその使命を終えて水の中をひょろひょろ彷徨っているのが、なんとも面白い。
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この近くにはもと旅館があったり、ちょっと足を延ばすと町屋エステサロンなるものもある。街中には旧遊郭もあるらしく、郡山市のかつての繁栄を思わせる。あ、もちろん現在でも全国の金魚養殖の4割のシェアを持つらしく、繁栄はしているのだと思いますが。
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秀長が城下町を作る際に、各職業ごとに区画を分けたとのことで、現在でも茶町、雑穀町、豆腐町、錦町などの地名が残っていて風情がある。中でも紺屋町は、細い道のど真ん中に水路が流れていて、昔は藍染の水洗いをしたらしい。車の中からパチリ。
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またこの街には、見逃せない社寺がいくつかある。まず、源九郎(げんくろう)稲荷神社。ここで言う源九郎とは、歌舞伎・文楽の「義経千本桜」で有名な佐藤忠信、源九郎狐のことである。小さい神社だが、日本三大稲荷のひとつに数えられている。源九郎狐がある僧の夢枕に立ち、大和郡山に祀ってくれたら守護神になろうと言ったため、その僧の話を聞いた秀長の名によって創建されたとのこと。
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その由来から、歌舞伎役者も頻繁にここを訪れるらしい。何か不思議な力を感じるパワースポットである。
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そして、その隣にあるのが洞泉寺。
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秀長が三河の寺を移築してきたもので、本尊の阿弥陀三尊は快慶の作とも言われ、重要文化財である。厨子内のお姿を拝見するところ、快慶本人の作か否かは別として、鎌倉時代の慶派仏師によるものであろうとは思われる。素晴らしい出来で、しばし見とれてしまった。
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この寺にはもうひとつ面白いものがある。
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これは何かというと、お風呂である。天平の昔、光明皇后が病気の人の治療のために使用したもので、右側の高い部分に地蔵菩薩像を置き、そこからお湯を浴槽に流し入れたものという。1586年に、豊臣秀吉と洞泉寺の住職が同じ夢を見て、郡山城のある場所を掘れというお告げを聞き、掘ってみたところこの浴槽と地蔵菩薩像が出てきたという伝承があるらしい。これは大変に興味深い伝承である。というのも、光明皇后はもちろん、悲田院や施薬院という慈善施設を作ったと言われているし、らい病患者の膿を唇で拭ったところ、病人の正体は実は観音菩薩であったという伝説もあるくらい、慈善事業に力を注いだ人であったからだ。調べてみると、郡山城のあたりは奈良時代には薬園が営まれていたとのこと。もちろんこの出土品が本当に奈良時代に光明皇后が使ったものか否かは分からないが、この土地はそのような病気の治癒に特性のある場所であったのであろう。そのことを如実に示すもうひとつの興味深い場所がある。その名も、薬園八幡神社。
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実に「続日本紀」にもその名が見えるという古い神社で、本殿は重要文化財に指定されている安土桃山時代の華やかな建築だ。天平時代の瓦も展示されている。
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そしてこの神社では今でも、名前の通り薬草が栽培されていて、その種類は50にも及ぶ。太古の昔よりの土地の記憶を今に伝えているわけである。
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さてそこから丘陵地帯に移動し、最後の目的地として矢田寺を訪れることとした。あじさいで有名な寺であるが、大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)の開基になると伝えられる古刹である。実は私はこの寺をこれまで訪れたことがなかったのであるが、それは、それなりに重要文化財の仏像を所有するのに、それらを公開していないことであった。だが、古くからの信仰の場には何か感じるものがあるはずだ。これが本堂。
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丘の頂にある本堂まで車で来てしまったが、このように境内を見下ろすのも楽しい。
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重要文化財の春日社(室町時代)や、この地蔵の口の回りに味噌を塗ると味がよくなるという伝説のある味噌なめ地蔵(鎌倉時代)が、中世からの信仰のかたちを伝えている。
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そんなわけで、限られた時間ではあったが、大和郡山市、堪能しました。ほかにもいろいろ見どころがあるが、道が細かったり、名所と名所の距離が意外にあったりして、残念ながらメジャーな観光地という感じには至っていない。だが、城址あり明治建築あり寺あり神社あり、そして金魚ボックスあり(笑)と、その気になれば尽きせぬ魅力を見せてくれる街。通りいっぺんの奈良観光に飽きた方には、お薦めしておこう。

by yokohama7474 | 2016-10-02 02:44 | 美術・旅行 | Comments(0)

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誰もが知る奈良観光の第一歩、法相宗(ほっそうしゅう)総本山の興福寺では今、特別な催しが開かれている(10月10日まで)。それは、ともに国宝に指定されている二つの塔、五重塔と三重塔の初層(1階のこと)の同時公開だ。この催しは東京でも広告を見ることができ、この寺が近年伽藍再建に力を入れていることをよく知っている身としては、是非ともこの催しに出かけて行って、少しでも伽藍復興が進むことに貢献できればよいと思い(まぁ、微々たる額ではあるが 笑)、9月中旬の三連休を利用して、出かけて行ったのである。

興福寺は藤原氏の氏寺として長い歴史を持つが、その堂塔は何度も火災に見舞われ、また明治の廃仏毀釈の頃には廃寺寸前になるなど、苦難の歴史を辿ってきた。だがそれでも、この2つの塔や東金堂、南円堂、北円堂という国宝・重要文化財が残されたし、阿修羅像をはじめとする天平時代の貴重な仏像の数々に加え、平重衡の南都焼き討ちからの復興の際、運慶一派によって制作された素晴らしい鎌倉彫刻の数々を現在に伝える。現在では奈良公園の一角として多くの人々に親しまれているが、寺域を示す塀もなければ門もない。いや、それどころか、中心となる本堂も存在しない。寺としてはその状況からの脱却を求めているらしく、昔日の威厳ある風景を取り戻すべく、中金堂の再建中である。将来的には回廊や中門も再建される予定であり、そのための浄財集めが必要とされている。近年行われて大活況を呈した阿修羅像を含む八部衆・十大弟子の東京での展覧会や仮金堂での展示は、いずれもその流れによるもの。今回の五重塔・三重塔の史上初の内部同時公開も、やはりそうなのであろう。ここで同時公開が史上初というのには理由があって、以前五重塔、三重塔それぞれの初層開扉は行われたことがあるからだ。五重塔の開扉は2000年のこと。私はそのときに見に行っており、写真集も購入した。塔の内部については、後でこの写真集掲載の写真をお目にかけることにしましょう。
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さて今回の興福寺訪問、あいにくの雨である。もう何十回も訪れていておなじみの、東金堂から望む五重塔。
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上記の通り中金堂を再建中である。平成30年落慶予定というから、ほんの2年後だ。さらにその後、手前の礎石の部分に回廊と中門が再建されることになるのであろう。だからこのような写真は、時を経ると貴重なものになるかもしれない。
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五重塔にはこのように観覧者の列ができている。この塔は室町時代、1426年頃の再建になるもので、高さ50.1m。日本の五重塔の中でも京都の東寺のそれに次ぐNo.2の高さであり、もちろん国宝だ。
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そしてこのような注意書きが。3点目を見て、「えっ、国宝の建物なのに、中にある置物は安物なのか!!」と一瞬思ってしまったが、それは私の勘違い。「安置物」は「やすおきもの」ではなく、「あんちぶつ」と読むのでした(笑)。
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この五重塔の初層部に安置された仏像は、塔の建設後まもなく作られたもので、もちろん安物であるわけもない。室町時代は既に仏教彫刻自体の需要が減っていた時代であるので、これらの仏像も、この寺にある鎌倉時代の仏像ほどの出来ではないにせよ、四方に薬師(東)、釈迦(南)、阿弥陀(西)、弥勒(北)のそれぞれ三尊像を配するのは奈良仏教(いわゆる密教到来前)の伝統であるそうで、貴重な作例である。では上記の写真集から、それぞれの三尊仏をご紹介しよう。心休まるお姿ではないか。
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続いて三重塔を見てみよう。こちらは鎌倉時代初期の建築で、現在残る興福寺の建造物の中でも、北円堂と並んで最も古いもののひとつで、もちろん国宝だ。高さ19mと、五重塔と比べると小ぶりであるが、優美な建物である。
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こちらは初層の内部に立ち入ることはできず、外からの拝観になる。内部には五重塔のようないわゆる塔本四仏はなく、肉眼では分からない板絵や、東側には弁財天が祀られている。もちろん内部は撮影禁止なので、私が撮ったものではなく、2011年の前回開扉時の写真を引用。
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彩色に関する資料も何点か掲示されている。
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実は後で知ったことには、凸版印刷がこの塔の彩色をヴァーチャルで見ることができるように復元し、ヘッドマウントディスプレイで360度体験できるらしい。場所はこの三重塔西側の興福寺会館前で、今回の五重塔・三重塔特別公開のチケットを購入した人の中で、各日先着250名とのこと。このヴァーチャル体験の期間はなぜか前期と後期に分かれていて、前期は8月26-31日、後期は今日10月1-10日とのこと。つまり、私が現地を訪れた9月はまるまるお休みだったことになる。な、なんで??? ちょっと悔しい。これはイメージだそうです。
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ところで興福寺の塔というと、明治の廃仏毀釈の際に両方とも売りに出され、25円とか50円とかの価格で買い手がついたという記述をよく目にする。当時この寺が存続の危機に立たされたことは確かなようであるが、寺のウェブサイトによると、塔の売却については「あくまでも伝承の域を出ない」とある。実際のところはどうだったのか分からないが、今日のように文化財保護という観点が未だ確立していなかった頃、貴重な建築物や彫刻工芸品の数々を守った人々の努力には、本当に頭の下がる思いである。そのような人々の努力の成果が、国宝館という名称で知られるこの寺の宝物館であると言えるだろう。私は子供の頃から40年くらいに亘ってなじみの場所であり、もう何度訪れたことか数えていないが、昔の展示方法に比べて今の展示方法は非常に質が高く(特にライティング)、今回改めて日本の至宝の数々を心行くまで堪能した。いかに優れた芸術作品でも、それを鑑賞する環境が整っていないとその真価を感得することはできない。その意味で、この興福寺国宝館の展示方法を、ほかの社寺や美術館にも見習って頂きたいものである。阿修羅を含む八部衆や十大弟子と、ガラスケースで隔てられることなく対面できる喜びは本当に大きい。このような奇跡的な造形をこれほどまでにじっくり鑑賞できる場所はそうそうあるものではない。
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国宝館以外で常時拝観できるこの寺の建物は、東金堂である。十二神将や維摩居士、文殊菩薩という国宝仏が見どころであるが、実はこの大きな本尊、薬師三尊像も味わい深い。明らかに銅像で白鳳時代の古い様式を示す脇侍、日光菩薩・月光(がっこう)菩薩に比べて、本尊の薬師如来は明らかに時代の降る室町時代のもの。もう何十年もおつきあいしているこのご本尊であるが、実に恥ずかしいことに今回初めて知ったことには、木造ではなく銅製なのである。してみると、もともと飛鳥の山田寺から運ばれてきた旧本尊と、この両脇侍に合わせて、木ではなく銅で制作されたということだろう。それから、これは調べればきっとどこかに書いてあるのであろうが、この仏様の台座は箱型をしていて、普通の蓮弁ではない。これはつまり、当初からその台座の中に何かを格納するという目的で作られたということではないだろうか。
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その「何か」とは明らかで、昭和12年にこの台座から発見された旧山田寺の本尊の頭部、いわゆる山田寺仏頭である。現在国宝館で見ることのできるこの素晴らしい仏頭は、白鳳時代の清新の気を見事に伝えている、やはり奇跡的な作品であるが、戦乱の中でこの尊い仏様の頭部を守ろうとする人たちがいて、それを永遠に保存するために現在の本尊の台座を作ったのであろう。だがそれが昭和の時代まで発見されなかったことはまた興味深い。廃仏毀釈の嵐も、この尊い仏頭に近寄ることなく過ぎ去って行ったわけである。
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奈良のよいところは、何度訪れても新たな発見があること。今回の興福寺訪問でも、そのような思いを新たにした。古いものであっても新鮮な思いで接することにより、未来につながる原動力になる。そのようなことを意識するとしないとでは、日常生活の過ごし方も変わってくるものだ。古い仏様からパワーをもらって、なんとか頑張って生きて行くことができるような気がしている。

by yokohama7474 | 2016-10-01 11:51 | 美術・旅行 | Comments(0)

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神奈川県立近代美術館と言えば、鎌倉の鶴岡八幡宮の境内にあって、「カマキン」の愛称で親しまれた美術館である。だが、今年1月11日の記事で採り上げた通り、そのカマキンは先日惜しくも閉館となってしまった。だがこの美術館、本館は閉鎖してしまったものの、鎌倉に別館があるし、実は葉山にも比較的新しい建物があって、時々面白い展覧会を開いている。陽光溢れる葉山の海岸沿いに建つこのような場所だ。
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これまでにここを訪れたときには、私の大好きなチェコのヤン・シュワンクマイエル、ロシアのユーリ・ノルシュテインといった、いわば芸術派のアニメーターの展覧会を見ることが多かったのだが、そこに今回新たな1ページが加わった。米国フィラデルフィア出身の双子の映像作家、スティーヴンとティモシーのクエイ兄弟(あるいは、ブラザーズ・クエイといった方が座りがよいか)の展覧会である。1947年生まれなので、来年70歳になる。
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私がこの展覧会を見てから既に二週間が経過してしまっているが、だが大丈夫。開催期間は10月10日まで。まだあと二週間残っている。非常に趣味性の高いアーティストであるので、興味のない方には無縁であろうが、彼らの怪しい雰囲気に身を乗り出す方には、是非この展覧会を訪れて頂きたい。あ、それから、この美術館のすぐ近くには、日本画家の山口蓬春の旧自宅兼アトリエが残されているので、そちらもお薦めだし、ちょっと南に足を延ばすと、運慶作の重要文化財の仏像を5体所蔵する横須賀市の浄楽寺もある。うわー、クエイ兄弟に山口蓬春に運慶と、全く共通点のない時空を超えた組み合わせであるが、このラプソディックな記事をモットーとするブログを書いている身としては、これらを同じ日に回られることを、併せてお薦めしておこう。食い合わせの悪さで精神的下痢(?)を起こされても、当方は一切関知しません。

いつもの寄り道はこのあたりにして、さて、クエイ兄弟である。このブログでは既に一度、その名前が出ている。今年の1月23日の勅使川原三郎のダンスについての記事である(ちなみにその記事へのアクセスは非常に少なくて、ちょっと残念な思いをしているのだが・・・)。そのダンスはポーランドの作家ブルーノ・シュルツの作品から想を得ていて、そのシュルツの別の作品をクエイ兄弟が映画化したのが短編「ストリート・オブ・クロコダイル」。私は学生時代にその作品といくつかのクエイ兄弟の短編を劇場で見て、ガツーンと脳天をやられてしまったのである。もう一度その作品のポスターと、いかなる映画であるかのイメージを持って頂けるような場面の写真(ポスターの一部だが)を掲載しておこう。
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今手元に、1988年公開当時のプログラムを持ってきて見てみると、当時の衝撃が甦ってくる。中でも、やはり私が敬愛してやまない英国の映画監督、ピーター・グリーナウェイ(最近とんと活動を聞かないので淋しい限りであるが)までが文章を寄せている。
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ご覧頂けるように、この映像作家が立っているのは芸術文化のDark Sideであって、決してBright Sideではない。趣味性の高いアーティストであると書いたのはそういうことである。Dark Side好きの私にとっては感動の嵐であっても、Bright Side好きの方の中には、「なんだよこれ」と眉をひそめる向きもあろう。そのような方には、この展覧会はお薦めしません。

さて、日本ではこの映画でクエイ兄弟の名前は大ブレイク(?)したのであるが、その後彼らの作品に触れる機会は非常に限られていた。1995年に制作した長編映画「ベンヤメンタ学院」は正直なところ期待外れ。その後2005年にやはり長編映画の「ピアノ・チューナー・オブ・アースクエイク」を制作しているが、私はそれを見ていない。それら以外にクエイ兄弟の名前を聞くことはなく今日に至っているのであるが、その長い間の渇を癒すのがこの展覧会である。会場では、彼らの数々の短編作品を上映しているほか、撮影に使われたパペットの類もあれこれ展示されている。また、兄弟の美意識の原点を辿ることのできるデッサンや鉛筆画、また彼らが手掛けたCMや舞台美術などにも触れることができ、これまで「ストリート・オブ・クロコダイル」で大ブレイク(あ、だからこれには"?"がつくのだが 笑)して以来未知であったクエイ兄弟の全貌に迫ることができる、貴重な機会なのである。

上記の写真でも感じられると思うが、クエイ兄弟の持ち味はかなりブリティッシュな感じである。確かに彼らはロンドンのロイヤル・アカデミーに学び、今でもロンドンに住んでいるものと理解している。だが実は彼らの生まれは米国ペンシルヴァニア州、フィラデルフィア郊外である。今回の展覧会には、「母と双子」という1948年の写真が出品されているが、これが彼らの幼少時の写真なのであろうか。生まれは1947年なので、1歳ということになる。
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いやー、この写真、1歳にして既にクエイ兄弟の最初の作品のような気がする。遠景の2人の赤ん坊の無人格性と、後年彼らの作品中でパペットが行うなんらかの「労働」を、ここでは彼らの母が行っており、そして不気味に大きく開いた地下室への入り口が、何か神秘なものを思わせる。それぞれが、まごうことなきクエイ・ワールドではないか!!

20代の頃の鉛筆画にも面白いものが沢山ある。これは、「シュトックハウゼンを完璧に口笛で吹く服装倒錯者」(1967年頃)。カールハインツ・シュトックハウゼンは当時バリバリの前衛作曲家。電子音楽(って古い言葉だな)をいち早く取り入れ、頭が痛くなるようないわゆる現代音楽を盛んに作った人だ。だから、そのシュトックハウゼンの音楽を完璧に口笛で吹くなど、ありえない話(笑)。このあたりにこの兄弟のブラックな面が出ている。
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でもこれは、誰が見ても面白いと感じるであろう。「幻想 - 外したゴールのペナルティ」(1968年頃)。幻想的な絵本の挿絵のようでもあり、シュールな雰囲気をたたえていて物寂しいが、それと同時に、Dark Sideのクエイ兄弟にもサッカーに興じた少年時代があったのかと思うと、ちょっとほっとする(笑)。
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ついでにサッカーを題材にした作品をもうひとつ。「ペナルティーキックを受けるゴールキーパーの不安」(1970年代)。いいですねぇ。ノスタルジーと不気味さのほどよい調和というか。
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これは、「切断手術を受けても意欲的な人のための自転車コース」(1969年)。クエイ兄弟の中にある、身体の変容といびつな運動性というテーマへの強い興味がここにも表れている。感性として似ているのは、もともとモンティパイソンのイラストレーターであったテリー・ギリアムであろう。そういえば、彼らの2作目の長編映画「ピアノ・チューナー・オブ・アースクエイク」の制作総指揮はギリアムらしい。
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彼らの作品を見ていると、いかにDark Sideとはいえ、ただおどろおどろしいのではなく、そこには冷徹な知性が常に感じられる。音楽や文学に材を採った作品も多い点も特徴だ。これは、「MISHIMA」(1971年頃)。言うまでもなく三島由紀夫のことだろうし、制作年から明らかなように、前年の三島の自決に対するクエイ兄弟の反応であろう。仮面としての剣道着を着た人物がねじれたポーズを取っている。私が勝手に想像するのは、この剣道着がカポッと外れて、中に入っている三島の肉体がバラバラと崩壊する様子である。
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短編映画の撮影に使用されたとおぼしきセットが沢山展示されていて興味尽きないが、まずはやはり、代表作「ストリート・オブ・クロコダイル」だ。
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あぁ、いつまでもこのセットの前に佇んでいたい。あるいは、このセット、欲しい!! ・・・という叶わぬ欲求を起こさせる耽美性なのである。CG全盛の今日、このような手作りパペットはあまり流行らないだろうし、撮影にかかる手間も膨大なものであろうが、その徒労にこそ高い趣味性が潜んでいる。これは「パンチとジュディ」。もともとある英国の人形劇らしいが、作曲家ハリソン・バートウィスルが1968年に書いた同名のオペラに想を得ている。バートウィスル!!現代音楽の分野ではそこそこ有名ではあるが、一般的な知名度は低いだろう。ところでこれ、殺戮のシーンではないのか!! なんともブラック。
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作曲家を扱った短編映画も多い。ストラヴィンスキーを題材にした「イーゴリ --- パリでプレイエルが仕事場を提供していた頃」(1982年)や、「レオシュ・ヤナーチェク --- 心の旅」(1983年)。
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それから、クエイ兄弟が大きな影響を受けたチェコ・アニメの大家、ヤン・シュワンクマイエルを題材にした「ヤン・シュワンクマイエルの部屋」(1984年)。人形を使った魔術の国、チェコ。ルドルフ2世が作った「驚異の部屋」やアルチンボルド。そのようなイメージの断片を散りばめていて、知性と悪魔主義的感性が融合している。これぞクエイ兄弟の真骨頂。
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これだけ趣味性の高い創作活動をしていると、ちゃんと食べていけるのであろうかという余計な心配をしてしまうのであるが、そこはそれ、結構ミュージック・ビデオやコマーシャルの仕事をしているらしい。あぁ、よかった(笑)。以下はそれぞれ、ハネウェル(1986年)、ニコン(1989年)、コカコーラ(!1993年)のCMから。趣味性の追求に妥協はないように見える。
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それからこれは、アイルランドのビール銘柄、マーフィーズのモノクロのCM(1996年)。侍が忍術によって瓶に触れずにビールを飲み干す。
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フランスの天然微発砲水、バドワのCM(1998年)。フランスではクエイ兄弟の人形パペットが、普通にテレビに出ていたということだろう。
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それから、舞台美術もあれこれ手掛けているようだ。以下は、イングリッシュ・ナショナル・オペラでのプロコフィエフの「3つのオレンジへの恋」(1988年)と、ロイヤル・ナショナル・シアターでのチャイコフスキーの「マゼッパ」。
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この展覧会には一ヶ所、写真撮影OKの作品がある。映画「ベンヤメンタ学院」に使われたセットで、「粉末化した鹿の精液の匂いを嗅いでください」とある。いやですよそんなもの(笑)。と心配するまでもなく、近づけないので匂いを嗅ぐことはできない。
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ここでご紹介した以外にも、クエイ兄弟の持ち味満載の展示物が目白押しである。面白いのは、双子なので人間としては二人なのであるが、どの作品も、二人のうちのどちらが作ったとか、制作にあたってどのように役割分担したとか、そのような記述は一切ない。それだけ二人は一心同体ということであろうか。これを機会にまた日本で人気が再燃して、次の映画作品にとりかかってもらえればいいなぁと思っております。そのためにも、この展覧会に行かれる方には、是非山口蓬春と運慶も同日に鑑賞して頂き、イメージの衝突に慣れておいて頂ければと思う次第であります。

by yokohama7474 | 2016-09-24 11:36 | 美術・旅行 | Comments(0)

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まずはお詫びから入ろう。この記事をご覧頂く方がこの展覧会に興味を持たれ、「ちょっと行ってみようかな」と思われても、時既に遅し。会期は9月22日(木・祝)まで。つまり、私がこの記事を書き終わるその当日だ。いや、それでも、朝この記事をご覧になった方は、ちょうど祝日ということもあり、上野公園の東京都美術館に走ろうか、という気持ちを抱かれるかもしれない。この展覧会はこの後日本のどこの都市にも巡回しない。よって、本当に今日は最後のチャンス。最終日に現地に急ぐだけの価値はある、と申し上げておこう。

さてこの展覧会は、パリにある現代美術の殿堂、ポンピドゥー・センターの所蔵作品によるものである。名称は、この美術館の設立を主導した当時のフランス大統領、ジョルジュ・ポンピドゥーの名を取ったもの。フランスにおける国立の大規模美術館として、古代から近代までをカバーするルーヴル美術館、主として19世紀(メインはヨーロッパ各地での革命勃発の年1848年から第一次大戦勃発の1914年まで)をカバーするオルセー美術館、そして20世紀(と21世紀?)をカバーするこのポンピドゥー・センターの3館が、芸術の街パリの主役たちである。建物の外側にパイプが走る独特の「現場感覚」あふれる、ささくれだっていて決して平穏ではないモダニズムを持った、こんな建物だ。おっとこの写真に写っているのは、この美術館を取り巻くパイプに住んでいる(?)というキャラクター、リサとガスパールではないか!!
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私がこの美術館を初めて訪れたのは1990年のこと。以来何度となく足を運んでいるが、よく小学生たちが見学に来ていて、本物のピカソの前に車座に座り、教師の問いかけに何やら積極的に答えている情景などを目にする。まぁそれを見ていると、さすがパリであると思う。しかも子供ですら、喋っているのはフランス語なのである!!(当たり前か 笑) だが、現地を離れた展覧会は少し勝手が違うだろう。今回のように一ヶ所の美術館からまとめて作品を持ってくる場合、いわゆる総花的で当たり障りのない選択がなされることも往々にしてあり、現地を訪れたときのような高揚感がない場合もあるのだ。だがその点今回の展覧会は、これは行ってみないと分からないのだが、これまでに例のない独特な方法を取っていて、しかもそれが非常に成功していると評価できると思う。図録に載っている主催者の挨拶を引用すると、「フォーヴィスムが台頭してきた1906年からポンピドゥー・センターが開館した1977年までのタイムラインを『1年1作家1作品』によってたどります」とのこと。つまり、1906年、1907年、1908年...と来て1977年までの72年間に亘って、各年1人のアーティスト(絵画、彫刻、写真、建築や家具、そして映画まで)の作品が展示されているということだ。しかも興味深いのは、隣接する年で全く違う分野の作品が無作為に並ぶような場当たり的な企画ではなく、お互いに関連する作家であったりジャンルであったりが、年を接して並ぶように慎重に考察・選定されている。これによって、これまで気づかなかった美術の潮流や、あるいは全く未知の作家に巡り合うチャンスが与えられている。これまでにない新しい形態の展覧会であるが、これが可能になるのも、多様で膨大な作品を所有するポンピドゥー・センターならではだ。

以下、展示されている71作品の中から私の興味を惹いたものを幾つかご紹介し、この企画についての私なりの評価を、いつものようにとりとめなく(?)書いてみたい。ん? 1906年から1977年までは、両端を入れると72年。なのになぜ71作品?答えは後ほど。なんだよ、じれったい奴だなぁと、ジョルジュ・ポンピドゥーさんも苛立っておられる。
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この展覧会では、それぞれの年の作品の作者の肖像と、その言葉が引用されていて、その点も非常に凝った構成になっている。まずトップバッター、1906年の作家は、ラウル・デュフィ(1877-1953)。瀟洒な色使いと軽快な筆致で親しみやすい作品を描いた人だ。作品は「旗で飾られた通り」。
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続く1907年は、これもフランスのビッグ・ネーム、ジョルジュ・ブラック(1882-1963)。フォーヴィスムからキュビスムに進んだ、やはり20世紀を代表する画家のひとりで、作品は「レック湾」。
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なるほどこの展覧会、やはりオーソドックな有名画家の明るい作品を並べて一般的な人気を狙うのだな、と思ったら、あにはからんや、次の1908年は一転してこの作品。これは侮りがたい。
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あの有名なムーラン・ド・ラ・ギャレットを描いているが、ルノワールの作品とは大違いで、夜のモンマルトルの雰囲気がよく出ている。描いたのはオーギュスト・シャボーという画家(1882-1955)。この生年はピカソよりひとつ下、上記のブラックとは同い年だ。だが一般的な知名度は段違いに低い。試みに調べてみたが、Wikipediaでも彼の項目はない。美術の正規教育は受けたものの、船乗りで生計を立てていた時期もあるらしい。丁寧な絵ではないが、何か人生の裏側を知っている人でないと描けないような深い語り掛けをしてくる絵であると思う。

それから、知らない作家は1911年のコーナーでも登場する。ロジェ・ド・フレネー(1885-1925)。引用されている彼の言葉は、「私にはあまり想像力がないので、目で捉えたものをつくることしかできない」というもの。20世紀初頭という美術の革命の時代に生きた画家としては、なんと控えめな言葉であろうか。結核を患い、40歳という若さで世を去ったが、主としてキュビスムのスタイルを追求したらしい。展示されているのは「胸甲騎兵」という作品。
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そして永遠の前衛の最先端、マルセル・デュシャン(1887-1968)の有名な「自転車の車輪」は1913年の作品。
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翌年、1914年の作品が驚きだ。レイモン・デュシャン=ヴィヨン(1876-1918)の「馬」という彫刻。見事なモダニズムだ。
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この作品の作者の肖像写真はこれである。
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「動くものを動かなくするかわりに、動かないものを動かす。これが彫刻における真の目的である」とあるが、私はこれを読んで、ひとつ前に作品が展示されていたマルセル・デュシャンの手になる「階段を降りる裸体」を思い出した。ん?それにしてもこの作家の名前、レイモン・デュシャン=ヴィヨン...そうだ、彼はマルセル・デュシャンの兄なのである!! 腸チフスにかかって42歳で亡くなってしまったようだが、あの永遠の前衛デュシャンにも人並に家族がいて、しかも芸術家であったとは、あまり信じられない。因みにほかの兄弟たち、ジャック・ヴィヨン、シュザンヌ・デュシャン=クロティも芸術家であった由。デュシャンの妙な気品は、そのような家族環境から来ているのかもしれない。

さて時代は既に第一次大戦に突入しているが、ここで選ばれている作品群には、戦争の影は一切ない。シャガールやマン・レイという有名作家を経て、1922年はル・コルビュジェ(1887-1965)の作品。彼はもちろん有名な建築家であるが、ここでは「静物」という油彩画が出品されている。いかにも彼らしい混乱のないモダニズムが感じられる。
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1924年、25年は家具のデザインが連続していて、このあたりに展覧会の秩序ある見せ方の工夫があるが、1929年、30年の連続は、また毛色が変わっていて、かなりの衝撃だ。いわゆるアウトサイダー・アート、最近少しは定着してきたように思われる用語で言うと、アール・ブリュットに分類される作品であるからだ。1929年はセラフィーヌ・ルイ(1864-1942)の「楽園の樹」。なんとも形容しがたい表現力。
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彼女は全く美術の素養のない家政婦であったが、38歳のときに芸術に身を捧げなさいという聖母マリアのお告げを受け、多くの作品を生み出したが、後年は精神を病み、最後の10年間はすべての芸術活動をやめて精神病院で過ごしたという。引用されている言葉は、「私は絵を描きます。でもとても難しいです。私は絵のことを知らない年老いた初心者です」というもの。
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1930年は、カミーユ・ボンボワ(1883-1970)。「旅芸人のアスリート」という作品。アンリ・ルソー風ではあるが、船頭の息子として生まれ、肉体労働やサーカスでのレスラーとして働いたという彼の場合、これは自画像なのであろう。教育では身につけることができない、彼の人生が巧まずしてそのまま画面に現れたといった生々しさを感じる。
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この展覧会には彫刻もあれこれ出品されていて、ブランクーシやジャコメッティや、あるいは以前世田谷美術館での個展をこのブログでも採り上げたフリオ・ゴンザレスなどもよいが、私が好きなパブロ・ガルガーリョ(1881-1934)の「預言者」をご紹介しておこう。様々な角度からの視覚がこの彫刻の面白さを引き出すので、この写真だけではその存在感は伝わりにくいかもしれないが、見ていて飽きることのない、素晴らしい作品である。
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この展覧会では、シュールレアリスムの作品はほぼ皆無で、そのあたりも一種の知見を感じさせるが、ルーマニア出身のヴィクトール・ブラウネル(1903-1966)の「無題」が1938年のコーナーに展示されている。ちょっと雑に見えるが、奇妙に深層心理に訴えかける作品だ。
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そうして、1941年の作品は、再びアウトサイダー・アートである。フルリ=ジョゼフ・クレパン(1875-1948)の「寺院」。配管工で金物屋であった彼は、神秘主義に強い興味を持っていたが、ある日手が勝手にデッサンを始め、絵を描き出したという。1939年に第二次世界大戦が始まると、戦争を終わらせるために300枚の絵を描けとのお告げを聞き、ちょうど300枚目は、ドイツ降伏の前日、1945年5月7日に描き終えたという。そうするとこれもその300枚のうちの1枚か。いやー、なんとも鬼気迫るものがある。
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そして展覧会は1945年のコーナーへ。実はここには何も展示されていない。「人類にとって大きな意味を持つこの年には作品展示はせず、代わりにその年に作られたエディット・ピアフの『ラ・ヴィ・アン・ローズ(バラ色の人生)』を流します」という内容の表記があった。そういう理由で、総作品数は72ではなく71なのである。面白いことに、続く1946年はこのような作品が展示されている。
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「ラ・ヴィ・アン・ローズ」ならぬ「ピンクの交響曲」と題されたこの作品の作者は、アルジェリア人のアンリ・ヴァランシ(1883-1960)。彼は音楽絵画という概念を標榜したという。この展覧会では、二度の戦争の惨禍を社会参加的に訴える作品はごく限定的であるが、ピアフの「ラ・ヴィ・アン・ローズ」が流れる中でこのような作品を見ると、逆に凄まじい惨禍が人類を襲ったことを実感してしまうという逆説。歴史は決して後には戻らない。

ここまで有名作家の作品はかなり飛ばしてきたが、ここで一人ご紹介しておこう。1948年のコーナーで展示されているアンリ・マティス(1869-1954)の「大きな赤い部屋」。この展覧会のポスターにも使われている。
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私はマティスは本当の天才だと思っているが、その理由を明確に説明することができない。なぜこんな普通の情景がこれほどに神々しく見えるのか。以前見た大規模なマティス展で、なんということのない室内を描いた作品の制作過程で、描かれている対象の位置を繰り返し繰り返し動かして試行錯誤しているという解説を見た記憶がある。彼が作り出しているのは、彼自身が神である、現実とは別の世界なのであろうか。

これまでこの展覧会での展示はご紹介していないが、写真家としては、アンドレ・ケルテスやアンリ・カルティエ=ブレッソンの作品が出展されている。だが私が面白いと思ったのは、リチャード・アヴェドン(1923-2004)が1958年に撮影したココ・シャネルの肖像。タイトルでは本名のガブルエル・シャネルの名が使われているが、ここで写真家が切り取りたかった老いたシャネルのリアリティには、その方がふさわしいだろう。こんな角度での撮影と、皺がエッフェル塔の足みたいに伸びた写真の公開を、よくシャネルが許したものだ(笑)。
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さてこのあたりからはいわゆる現代アートの世界に入ってきて、そこそこ面白いものもあれば、全然面白くないものもある。その中で私としてはこの人を採り上げないわけにはいかない。1961年のコーナーに展示されたクリスト(1935年生まれ)の「パッケージ」。
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よく知られているように彼は、巨大な建造物を梱包することで知られており、かつて日本でも茨城でアンブレラ・プロジェクトというものが開催された。壮大なる無為な行為は、人類の歴史のある一面を、皮肉とともに人々に突きつける。相当に過激なアーティストなのである。

1962年のコーナーでは、映画監督クリス・マルケル(1921-2012)の「ラ・ジュテ」という作品が上映されている。
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クリス・マルケルと言えば、私も昔アテネ・フランセで見た「サン・ソレイユ」が非常に美しい作品だったし、黒澤明の「乱」の制作に取材したドキュメンタリー映画「A.K.」(語りは蓮實重彦であった!!)も面白かった。久しぶりにその名前を聞いて、このような芸術的な映画を見る機会が減っていることを反省することしきり。

最後の3年、1975年から77年は、ポンピドゥー・センターそのものを対象とした作品が展示されている。なるほど、これだけ多様な芸術分野を包含したこの偉大なる美術館こそ、未来に渡して行くべき作品なのである。1975年は、ゴードン・マッタ=クラーク(1943-1978)の映像作品で、「コニカル・インターセクト(円錐の交差)」。今のポンピドゥー・センターの場所には、もともと17世紀の建物が立っており、その取り壊しのために建物に円錐形の穴が開けられる際の映像を使用している。
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ところでこのゴードン・マッタ=クラークの名は初めて聞いたが、有名な画家ロベルト・マッタの息子だそうである。ちょっとマッタ、この展覧会には父親であるマッタの作品も展示されていなかったか。図録で確認したが、それは勘違いで、ほかの画家、アンドレ・マッソンと混同していた。というのも、随分以前に開かれたこのマッタとマッソンの合同展覧会によって、私はこれらの画家たちのことを知ったからである。実はこのゴードン・マッタ=クラークは、すい臓がんのために35歳の若さで亡くなっている。余談だが、もう一方のアンドレ・マッソンの息子ディエゴ・マッソンは指揮者、作曲家である。超有名ではないかもしれないが・・・(笑)。

展覧会の最後、1977年のコーナーに展示されているのは、このポンピドゥー・センターの模型である。
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このユニークな建物、誰の設計かと思えば、2人の建築家の合作で、ひとりは関西空港の設計によって日本でも有名なレンゾ・ピアノ(1937年生まれ)、もうひとりはリチャード・ロジャース(1933年生まれ)だ。リチャード・ロジャースと言えば「回転木馬」「南太平洋」「サウンド・オブ・ミュージック」などのミュージカルで有名な作曲家を思い出すが、もちろん同姓同名の別人である。代表作を調べると、ロンドンのロイズの本社があった。なるほど、あれはちょっとポンピドゥー・センターに似ている。日本にもいくつか作品があって、その中には南山城小学校というものもある。へー、写真を見ると解放感あるが、破天荒な小学校だ(笑)。ともあれ、激動の20世紀の文化活動を維持・保存するためのハコであるこの建物、それ自体が貴重な文化遺産になって行くものであろう。

まだまだご紹介できない作品が沢山あるが、このあたりでやめておこう。芸術の都パリらしいこの展示作品の幅広さとレヴェルの高さ。東京も、世界に誇る文化活動を、もっともっと広げていかなければという思いを新たにしながらも、やはりパリは特別だなぁと嘆息することしきりの、初秋の深夜でありました。

by yokohama7474 | 2016-09-22 01:57 | 美術・旅行 | Comments(2)

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6月21日から開催中のこの展覧会、約3ヶ月近い期間も9月19日、つまりこの3連休で終わり。これは明らかに今夏行われたリオデジャネイロ・オリンピックの開催に合わせて開かれたものであろうと思うのだが、なんとなくそれほど大反響を呼んでいるようでもなかったこともあり、なかなか足を運ぶ機会がなかった。だが、展示品が実に325点、そのうちの9割が日本初公開となると、まぁそれは行っておかないといけませんね、と自分に言い聞かせ、例によって会期終了間近になってようやく現地に赴くこととなった(今後、長崎と神戸を巡回)。

私はギリシャには一度だけ行ったことがあるのだが、出張で訪れたアテネで、午後の空いた時間を使ってパルテノン神殿や博物館を見ただけである。それでも、ヨーロッパ文明発祥の地をこの目で見ることができたことは、今に至るも私の人生において大きな糧となっている。ただ、何分にも古い文明の遺跡であるので、パルテノンにしても、歴史の風雪になんとか耐えて、執念でかろうじて立っているという痛々しさを感じざるを得なかった。その後ヨーロッパ文明の中心地となったローマの壮大な遺跡群に比べると、街の規模も遺跡の残存具合もかなり差があり、華麗なるローマが日本における京都だとすると、アテネは古い奈良に喩えられるのではないかとの印象を持ったものだ。だが、ギリシャは多くの島からなる国であり、それぞれの都市国家が覇を競った場所。ほんの数時間アテネを歩いただけでは、もちろんその奥深さは分かろうはずもない。今回のような大規模な展覧会で、ギリシャ各地の時代も様々な遺品を目にすることで、見えてくることがあるだろう。こんな風景を思い浮かべて会場を歩こう。
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ところで、世界四大文明という範疇がある。言わずとしれた、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、黄河文明である。先史時代のことはまだまだ分からないことが多いが、紀元前 3,000年前後をこれらの文明が栄えた時代とすると、実はギリシャ文明もその頃には既に栄えていたらしく(エーゲ文明)、改めて考えれば、なぜギリシャ文明は四大文明に入らないのか、少々不思議である。私が時々取り出しては眺めている、高校時代に教材であった昔懐かしい吉川弘文館の「標準世界史年表」(横長の見開きで、ある時代に世界各地で何が起こっていたかを同時に見ることのできる年表) を開いてみると、最初のページにこれら四大文明やギリシャ文明が並んでいる。もっとも、そもそもこの四大文明という奴は既に古い概念であるとはよく聞く話だし、ネット上で「なぜギリシャは四大文明に含まれないのか」という疑問に対する答えを探すことはそれほど困難ではない。いずれにせよ、近代から現代に至るまで世界をリードして来た(今後何百年かの間にどうなるかは神のみぞ知るだが・・・、そもそも、どの神だよという点から話が始まるが 笑)ヨーロッパという地域で、名実ともに最初の高度な文明であることから、ある意味で別格扱いというのが西洋人の整理なのかもしれない。尚、「世界四大文明」という考えは、19世紀に中国の学者が言い出したということらしく、そうであれば、東洋に重点のある分類には、それなりの反西洋の意図があったと解釈するのは無理のないところだろう。

ともあれこの展覧会、さほど大きな作品は来ていないし、とにかくそれを見なければ一生悔やむような絶品がズラリと並んでいるかと言えばそうでもないのだが、それでも興味深い作品が多く、また体系だった分類で数々の展示品を並べており、ギリシャ文明のダイナミズムはよく理解できる。構成は以下の 8部。
1. 古代ギリシャ世界のはじまり
2. ミノス文明
3. ミュケナイ文明
4. 幾何学様式 ~ アルカイック時代
5. クラシック時代
6. 古代オリンピック
7. マケドニア王国
8. ヘレニズムとローマ

なにせ展示品数325の大展覧会である。細かくご紹介して行くときりがないし、それぞれのセクションについてまとめるのも相当に骨が折れる。よって、川沿いのラプソディ(つまり、狂詩曲ですな)のタイトルを言い訳として、思いつくまま、興味深い展示品を適宜採り上げて行きたいと思う。

最初にお目にかけたいのは、このお尻。
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デフォルメされたなんともキュートなお尻であるが、後期新石器時代、紀元前実に 5300-4500年の制作と見られ、キュクラデス諸島のサリアゴス島の出土である。「サリアゴスの太った女性像」と呼びならわされているらしい。もちろん生命を生み出すのは女性であって、人間が自らの姿態を表し始めた時代には、生命の源に意識が行ったということなのだろうが、でも、こんなに尻を強調しなくても(笑)。もしかしたら、作った人たちもこれを見てゲラゲラ笑っていたのでは、と思いたくなる。見る人を幸せにするお尻である。それから、これはどうだろう。
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何やら顔のようにも見えるがさすがにそうではなく、乳房を持った粘土の容器である。このような形の容器はアンフォラと呼ばれ、展覧会ではこれを「乳房型突起装飾アンフォラ」と表記している。初期青銅器時代、紀元前2300-2000年頃の作品。私は本当に不思議に思うのであるが、アンフォラは実用的な容器であったはずなのに、なぜにこのような装飾を施したのであろうか。豊穣を祈った儀式的な発想なのだろうか。でもこのような作品を作った芸術家は、もしかしたら「いやらしい」「持つときに邪魔だよ」といった避難を回りから受け、でも自分の信念を貫いた勇気ある人だったのかもしれない(?)。いやそれにしても不思議な容器である。それから、このサントリーニ島出土の水差しは、乳首がついているのだが、水差しなのに胸を張っているではないか(笑)。紀元前17世紀のもの。すごい想像力だ。
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この展覧会では様々な容器や装飾品が展示されているが、やはり私の興味を惹くのは、このような人間の営みを感じさせるもの。ただその中でも、少し特殊なものもある。いわゆるキュクラデス文明によくあるこのような形態の彫刻は、お尻や乳房の人間性ではなく、そのシンプルな存在感で私の心を震わせる。
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時代の分類でいうと、初期キュクラデスII期(紀元前2800-2300年)頃のもの。高さ74.3cmなので、結構な大きさである。この時代の人間が、自分たちの顔をこのような形態で認識したということだろうか。洗練されすぎではないだろうか。私はアテネでも、それから仕事で何度か訪れたキプロスでもこの種の彫刻を沢山見たが、人間の形状を抽象化している神秘性に心底驚いたものだ。もちろん音楽好きなら、このような神秘性を舞台に転用した例として、サイトウ・キネン・フェスティバル松本の最初のオペラ公演、ストラヴィンスキーの「エディプス王」における演出家ジュリー・テイモアによる仮面を思い起こすことだろう。もちろんジュリー・テイモアの最も有名な演出作品は、ミュージカル「ライオンキング」である。
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上述の通り、今回の展覧会の面白いところは、ギリシャの中でも様々な時代に様々な場所で作られた遺品を幅広く紹介していることだ。これは一体なんだろう。
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真ん中にあるのはラグビーボールか???このような装飾はカマレス式と呼ばれているらしく、奢侈品であり権威の象徴であったと考えられている由。発掘されたのはあのミノス文明が栄えたクレタ島で、紀元前1750-1700年の作。クレタ島には、伝説のミノス王が牛頭人身のミノタウロスを閉じ込めたと言われるクノッソス宮殿の遺跡が実在している。行ってみたいなぁ。
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ミノタウロス神話が史実か否かについては詳しく知るところではないが、なんともロマンがあることは確かだし、上のような洗練されたデザインには驚嘆するのであるが、このような出土品もクレタ島からは出ていて驚かされる。
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これらは、やはり紀元前1700-1750年頃の作品。左端のものはなんと2階建ての建物の模型である。右のふたつは、飾り板。「町のモザイク」と呼ばれている。確かに建物を象っているようにも見える。これらより数百年時代が降るが、やはりクレタ島出土のこの見事な壺はどうだ。
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この展覧会ではほかにもいろいろとタコの装飾品が並んでいるが、これはとりわけ見事なもの。よくヨーロッパ人はタコを「悪魔の魚」と呼んで食べないと言われるが、ギリシャ人は全くの例外で、タコを食べるので、日本人にも親近感が沸く(笑)。だがそれにしても、紀元前15世紀のタコとは・・・。一方でクレタ島での造形は、いわゆるギリシャ彫刻より早い時代であるので、このような素朴な女神像も出土している。紀元前12世紀の作。アジア的と言うと言い過ぎかもしれないが、ヨーロッパ的というものが確立する前の造形であることが興味深い。
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そしてそして。牛頭の伝説を持つクレタ島で、こんなすごいものが出土している。
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冒頭に掲げたポスターにも掲載されているこの見事な作品は、牛頭形リュトン。紀元前1450年頃のものと言われている。模様のついていない部分は出土しなかった箇所を補ったものであるらしい。このリュトン(飲み物を入れる容器)はバラバラに壊されていたとのことで、何か呪術的な意味があったものと考えられている。いやそれにしても、時代を考えるとこの造形には鳥肌立つ思いである。ミノス文明における牛頭の意味はいかなるものであったのであろうか。

そして、展覧会ポスターの真ん中に据えられたこの絵は、サントリーニ島から出土した漁夫のフレスコ画。紀元前17世紀のもの。
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サントリーニ島というと、やはり壁画のフレスコ画である「ボクシングをする少年」で有名であるが、この絵は登場人物がひとりという点では少し不利かもしれないものの、まさに時空を超えた表現力に唖然とする。両手に魚を大量に抱えた漁夫は、その肉体美を誇示するかのように褐色の全裸姿をさらし、その髪型は、ふたつの房を残して剃り上げられている。図録の解説によると、「エーゲ美術のモニュメンタルな絵画の中でも最も重要な作品の1つ」とのこと。日本でもこのような面白そうな本の表紙として使われている。
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輻輳的なギリシャ文明の中でも有名なのが、ミュケナイ文明(ミケーネ文明)である。トロイ遺跡を発掘したハインリヒ・シュリーマンがアガメムノンのマスクを発見したとされるのがこのミュケナイである。もっともシュリーマン自身の功罪は昨今では様々に議論されているようだが、神話の世界と現実が交錯するイメージには、やはり抗いがたい魅力を感じる。この展覧会でも、このミュケナイの獅子門の複製が鑑賞者を見下ろしている。
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私の世代では、ミュケナイというよりミケーネという呼び方がしっくり来て、そのひとつの理由は、子供の頃に見ていたテレビアニメ、永井豪原作の「グレートマジンガー」の敵がミケーネ帝国であったからだ(笑)。
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だが実際に大人になってから見るこの展覧会で、ミュケナイ文明は、まあロボットは作れなかったかもしないが、高度な黄金の文明であったことを思い知る。この素晴らしい瑪瑙でできた剣の柄はどうだろう。紀元前1400年頃のもの。もちろん実用ではなく、装飾用であろう。
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そしてここでもタコをあしらった作品があるが、黄金製だ。紀元前16世紀後半の、ミュケナイの飾り板だ。
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紀元前900年頃からのギリシャ文明の様式を、幾何学様式と呼ぶらしい。ギリシャ文明のイメージのひとつの典型とも思われる、このような作風だ。紀元前750-725年頃のもので、ピュクシスという形態の壺である。副葬品で、馬は社会的ステイタスを表していると理解されている。卍型が見られるのも面白い。
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これなども、現代に作られたと言っても通用するようなキッシュな感性ではないか。紀元前7世紀半ば頃のオイノコエという形態の壺。描かれているのはライオンらしいが、私の目にはまるで、「チキチキマシーン猛レース」のケンケンのように見える(笑)。
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かと思うと、紀元前6世紀半ばに作られたこのセイレーン像の怪しいこと。ここでまた永井豪のマンガを例に引くのはやめておこう(笑)。もっともあれはシレーヌという名前ですがね。
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ギリシャの都市文明が発達する頃になると、哲学、演劇、また医学の分野などでも驚くべき成果が続々である。そもそも紀元前に作られた演劇が、その作者名とともに今日まで伝わっていること自体が信じがたい。アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスという悲劇作家やアリストファネスという喜劇作家は、高校の教科書にも出てくる名前だ。これは紀元前後に作成されたと見られる喜劇用の仮面で、「繊細な若者」。役者がこれをかぶり、観客たちが爆笑したのであろうか。
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これは有名なアリストテレスの肖像。1世紀後半のものらしいが、アテネのアクロポリスで、鼻も欠けずに出土した。
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驚くべきは、当時医者の治療を受けた部位が治癒すると、その部分をかたどった彫刻を奉納したらしい。このような耳とか乳房の彫刻が出土している。これはシュールなまでの雰囲気をたたえているではないか。
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展覧会はそれから、古代オリンピック及びその理念に関連する展示物のコーナーに入る。格闘や数々の競技が描かれた作品が並んでいるが、これは紀元前2-1世紀のブロンズ像で、エジプトのプトレマイオス5世がレスリングで敵を押さえつけているところ。素晴らしい保存状態で、本当に作られた時代が信じられない。
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面白いのは、当時実際に使われた垢掻き用のヘラが何点か展示されていること。肌につけた油や、競技・練習中に付着した砂を落とすために使われたらしい。これは2-4世紀のもの。なんという高い文明度!!
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若くして亡くなった競技者の墓碑が発掘されている。ステファノスという名前であることが判明している由。きっと愛犬をいつも連れて競技していたのであろう。実に紀元前360-370年頃のものという。この犬は、たまたまこの飼い主に巡り合ったがゆえに、時を超えてその姿を永遠に残すことになった幸運なヤツである。
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展覧会の最後には、アレクサンダー大王の東方遠征以降のヘレニズム時代の遺品が展示されている。我々がイメージするところのいわゆるギリシャ彫刻もあれこれ並んでいるが、私の目を引いたのはこれだ。2-3世紀の作とされるアフロディーテ像。1982年にアテネで発掘されたらしい。
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これ、何かに似ていないだろうか。そうだ、ルーヴルの至宝、ミロのヴィーナスだ。そちらは紀元前2世紀のものとされているので、恐らくは規範としての彫刻のスタイルがローマ時代に模倣されていったということなのであろう。その意味では、やはりオリジナルに比べると少し類型化しているようにも見える。だが私がここで感動するのは、写真も印刷術もない時代、脈々と続く芸術家の創作活動において、美の規範が伝承して行ったという、気の遠くなるような事実である。便利な時代になると、当時の芸術家と同じような強いモチベーションを維持するのは難しいのかもしれない。

と、ごく一部をご紹介するだけで大変な労力が必要な展覧会なのであるが、それだけ古代ギリシャ文明が奥深くまた幅広いということだろう。また現地を訪れる日を夢見て暮らして行こう。ま、とりあえず、朝からの観覧で空腹を覚えた私は、東京国立博物館内、東洋館の脇にある、ホテルオークラ経営のレストランで昼食を取ることとした。この展覧会期間中の特別メニューのひとつ、「ムサカセット」をオーダー。ムサカとは、ギリシャ風グラタンのようなもので、ズッキーニとかひき肉が入っていて、なかなかに美味でしたよ。
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by yokohama7474 | 2016-09-17 23:34 | 美術・旅行 | Comments(0)

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人並みに西洋美術を愛する身でありながら、日本人に深く愛されている印象派というものには、正直、どうもなじめないものがある。生来のひねくれ者だと言ってしまえば話は簡単だが、それ以上に、私が文化芸術に接するときには、人間の Bright Side よりは Dark Side により興味があるということだろうと自覚している。もちろん、私のことを個人的にご存じの方には、いかに私が能天気な人間であって、深刻な事柄と無縁であるかも同時にご存じであろうから、私がここで何をもって Dark Side と呼んでいるかについては、あまりイメージがないかもしれない。Dark Side とは、組織への従順性には一顧だにせず、社会の規制への抵抗として、悪いことを平然と行う無頼なマインドセッティングのこと。ここでひとつの例を挙げると、中学・高校の頃は、必ず昼休みになる前に弁当を食っていた。いわゆる早弁という奴だ。これはひとつの Dark Side の資質と言えば、少しはイメージをお持ち頂けるだろうか。...そんなことかい(笑)。

などとくだらないことを冒頭に書いているのは、今週末まで横浜美術館で開催中(その後京都国立近代美術館に巡回)のこの展覧会、上でご覧の通り、「印象派を代表する女性画家」であり、また、「あふれる愛とエレガンス」の画家の個展であるからだ。このような Bright Side について語ることは、果たして私の信条と矛盾しないかということをまず考えてしまうわけである。だが、私はこの画家の名前は聞いたことがあるものの、作品については詳しく知るものでない。また、日本でのこの画家の個展開催は実に35年ぶりとのこと。よって、虚心坦懐に見れば何か新たな発見があるかもしれないと思い、この Bright Side に属するらしい画家の展覧会に赴いたのである。

メアリー・カサット(1844-1926)は、米国ピッツバーグで生まれた女流画家。近い年代の米国人画家といえば、ホイッスラー(1834-1903)が挙げられるが、この1830年代、40年代生まれはまさに印象派の世代。ホイッスラーは印象派とは一線を画した画家であったが、このカサットはパリに渡って、まさに印象派のひとりとして活躍した人である。私はカサットの作品にホイッスラーの感性との共通性も感じるが、紋切り型の分類によると、この2人は違う流派に属した人たち。そもそもカサットの場合、当時女性で画家になるということは非常に稀であったがゆえに、世間の無理解の中で大変な苦労をしたらしい。ここに彼女の肖像写真を2枚示そう。若い頃の写真と、年老いてからの写真である。
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確かに若い娘と老女であるが、この2人が同一人物であることは明らかではないだろうか。その射るような、だがとても自然でもある視線には、強い意志と同時に、社会に順応する柔軟性が備わっているように思う。このような人物の創り出す芸術には、Bright SideであるとDark Sideであるとを問わず、何か非凡なものがあるに相違ない。

カサットは1865年、21歳にして画家を志してパリに移り、初期にはサロン入選を目指して保守的な作風を持っていた。そして1870年以降は、度々サロンに入選するという実績を挙げた。これは1872年、29歳のときの作品、「バルコニーにて」。半年間滞在したスペインのセヴィリアで制作された。セヴィリアと言えば、ムリーリョである。確かにこの女性たちの柔らかい表情にはムリーリョ風の雰囲気がある。
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1877年、33歳のカサットをあの大画家エドガー・ドガが訪れて、サロンという保守的な場ではなく、印象派展への出品を勧めた。そしてそれ以降、彼女の作風はほぼ一貫して印象派風になって行く。そもそも印象派の女流画家と言えば、以前も伝記映画を通じてこのブログでも紹介したベルト・モリゾ(1841-1895)がいるが、カサットはこのモリゾとも交流があったらしいく、年の近いモリゾの作品の透明感を懸命に学んだという。近い世代ではほかにも、エヴァ・ゴンザレス(1849-1883)、マリー・ブラックモン(1840-1916)という女流画家が印象派のスタイルで活躍した。彼女らの作品はこの展覧会にも展示されているが、彼女らが活躍したのは、女性の権利が徐々に認められつつある時代。カサットの創作活動には社会性があり、晩年は女性参政権の実現に奔走したという。

だがそれは一旦忘れよう。一体どのような作品を残した画家なのか。私にとってなじみがあり、彼女の代表作のひとつと目されるのが、この「桟敷席にて」(1878年作)。
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パリの劇場での一場面のようであるが、全体として落ち着いた色調の中、熱心にオペラグラスで舞台の方向を見ている女性が描かれている。ここで面白いのは、彼女の左側の奥に、あからさまな好奇心を持って彼女をオペラグラスで見ている男性が描かれていることだ。この男性は、この絵に描かれているほかの人物たち同様、輪郭も定かでなく、その人格は分からないが、自らの意志を持って社会と接している女性の姿の前に、なにやら情けなくも見える。近代的な光景と言えるだろう。

そして彼女の代表的な作品として、一連の母と子の肖像が挙げられる。なるほどこれが「あふれる愛とエレガンス」か。展覧会のポスターにもなっている、「眠たい子どもを沐浴させる母親」(1880年)。
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まあ確かに、いかに私がDark Sideを愛する人間とはいえ(笑)、このような情景にはやはり心温まるものを感じる。解説によると、子供の極端に長い足や無邪気なポーズは、パルマで研究したパルミジャニーノやコレッジョの母子像の影響だという。ふーん、なるほど。マニエリスムを代表するパルミジャニーノは私も大好きだが、ちょっとイメージが違うなぁ・・・。これが彼の代表作。
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コレッジョの場合、まあ確かにこの作品など、幼児キリストのポーズが奔放ではあり、そこから学んだと言われれば分かるような気もする。
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だが、私としてはこの絵の面白さは、青い色彩を椅子、衣類、そして赤ん坊の足にまで使うという大胆さにあると考える。母と子の愛がどうというより、大胆な視覚の冒険に心惹かれるのである。同様のテーマで母子を描いた作品がいくつも展示されていて、これぞカサットというイメージであるが、よく見るといずれも色彩と構図にかなりの神経が使われているのが分かる。そして、西洋の過去の絵画に学んでいるとは言っても、その精神は常に近代的だ。
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これら3枚はしかし、いずれも1890年代の制作。それらに先立つ1880年に描かれた「眠たい子どもを沐浴させる母親」との一見して分かる違いは、その輪郭の明確性である。つまり、描かれる対象がしっかりと回りの部分から区別されていて、「眠たい子どもを沐浴させる母親」のように、人の体も服も椅子も青を含み、輪郭も曖昧模糊とした描き方からは、明らかに変化して来ている。これは浮世絵の影響ではないだろうか。カサットは、他の印象派の画家たち同様、浮世絵に大きな影響を受けたとのことで、展覧会には、歌麿や北斎の作品のほか、カサット旧蔵の琳派の屏風絵まで展示されている。その意味では、彼女の版画作品はさらに、浮世絵の直接的な影響を感じさせる。これは、「沐浴する女性」(1890-91年)。まさに浮世絵風ではないか。
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そしてこの「手紙」(1890-91年)などは、日本の大正モダニズムを思わせるではないか! 江戸時代の日本から影響を受けた西洋の画家が、今度は近代の日本の画家に影響を与えていると考えると、なんとも興味深い。
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カサットは1926年、82歳で世を去るが、60代後半から視力が弱り、1915年以降は何度も白内障の手術を受けたという。従ってこの展覧会でも、後期の作品は1910年代前半までで終わっている。これは1913年の作である「クロシェ編みのお稽古」。視力が弱っても色を塗りやすいパステル画が制作手法として選ばれているが、平和な風景の中に若干の憂鬱も感じさせるのは、第一次大戦前夜という暗い時代が、なにがしかの影を落としているのであろうか。
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カサットは終生、人物画を中心に制作活動を続け、ある場合は西洋の過去の巨匠、ある場合には日本の絵画に範をとって、前衛的とまでは言えないものの、美しい絵画を求めて冒険的な試行錯誤をした。このような大規模な回顧展では、一点や二点の絵画では分からないそのような画家の軌跡を辿ることができ、やはり様々な発見がある。Bright Side を描き続けた画家とはいえ、そこには強い表現意欲を感じることができて、Dark Side 好きにも大いにインスピレーションを与えてくれるのである。メアリー・カサット、また世界のどこかの美術館で彼女の作品に遭ったときには、親しみをもって接することができるであろう。

by yokohama7474 | 2016-09-07 01:06 | 美術・旅行 | Comments(0)

ここ数年、8月後半には音楽祭を聴くために松本を訪問しており、その度に松本の近隣を観光するものの、通常の松本観光の中心である松本城やその裏手にある旧開智学校等には、久しく足を運んでいなかった。それらメジャーな場所は以前に観光しているので、長野において未だ自分の知らない面白い場所を探訪したいと考えたがゆえである。だが、このブログでも既に姫路城と彦根城を採り上げた。城シリーズではないが、自然な流れとして、このあたりで松本城を記事にしてみようか。そう思い立ったのである。そして松本市街に遊んだ一日は、様々に新たな発見に満ちた充実の一日となった。やはりここは懐の深い街である。

音楽祭期間中ということで、街中にはセイジ・オザワ松本フェスティバルの看板も見える。ザルツブルクのようだと言うと言い過ぎかもしれないが、音楽祭が街の風物詩になっているとは、素晴らしいことだ。
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そして私のこの日の松本散策は、この場所から始まった。
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な、なんだこれは。松本にはもうひとつ城があるのか??? 実はこれ、松本城の正面に続く道沿いにある古本屋さんなのだ。このミニ松本城、建てるのも結構費用がかかったであろうが、維持管理も大変に違いない。だがこの堂々とした佇まいはどうだろう。建てられてから少なくとも数十年は経っていよう。古本屋好きの私としては、ここを素通りするなんてできっこない。入り口の様子。
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店内を見てみると、場所柄を反映して山の本が多く、また、格調高い文学書や歴史・地理などの専門書が並んでいる。横光利一や、地元出身の臼井吉見の本など手に取って見てみたのだが、正直、お値段はなかなかの水準で、また次回と自分に言い聞かせて店を出た。

そして、いよいよ松本城だ。
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戦国時代に信濃国の守護であった小笠原氏の命により、深志城として建造されたのが最初と言われる。その城はその後落城し、再建された。今の城の築城年代には諸説あるようだが、戦国時代か、あるいは遅くとも大坂の役の頃、1615年前後に建てられたとされる。日本に5つしかない国宝城郭のひとつで、まさに日本をを代表する城である。スタイリッシュな黒を身に纏い、均整の取れたこの美しい姿。
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ところがさすが人気の観光地、私が訪れた10時30分頃には既に天守閣への入場制限がなされていて、30分待ちとのこと。とはいえ、いろいろな気配りがなされている。入場を待つ人たちはテントの下のロングベンチに腰かけることになる。これで日差しもよけられ、足も疲れないので30分くらいは大丈夫だ。また、待ち時間に城の説明の紙が配られたり、昔の城主とお姫様の恰好をした人たちが出て来て愛嬌をふりまいたりしている。
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これらの心配りに穏やかな気持ちで待っていると、お、目の前に興味深いもの発見。松によく似たコウヤマキの幼木であるが、あの松本にとって重要な人物のお手植えである!!1992年に当時のサイトウ・キネン・フェスティバルが最初に開催されたときにマエストロ小澤が植樹したものであろう。これは、もし混雑がなくてそのまま天守閣に入っていれば気づかなかったもの。旅先では、このような偶然も楽しいものだ。どんなときも常にキョロキョロしていよう(笑)。
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さて天守閣の中というものは、存外どの城も同じようなもので、火縄銃やほかの城の写真など飾ってあっても、あまり面白くない。だが、やはり400年前の、今は何もない空間には何か不思議な重みがあるのも事実。寺社建築ではないので、滑らかに磨かれることもない、削り痕も生々しく荒々しい柱に、この城が送ってきた長い年月を感じる。
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このように立派な松本城であるが、もちろん明治の激動期を乗り越えてその秀麗な姿が現代に残っているのは偶然でもなんでもなく、他の古い城と同様、必死に城を守った人たちがいたからである。これは城内に展示されている明治35年(1902年)頃の写真。明治の大修理の直前とのことだが、今にも崩れ落ちそうだ。
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尚この城には、3代将軍家光を迎えるために増築されたと言われる箇所がある。天守閣正面の向かって左側の突き出た赤い手すりのある部分、月見櫓である。内部に入るとよく分かるが、ここは三方を開け放つことができるようになっている。この場所で実際に月でも眺めると、風流だろうなぁ。戦乱の時代から平和の時代に移り変わった象徴のような部分に思われて、なにかよい気分になる。
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さて、松本城域内には松本市立博物館があり、夏ということもあってだろう、戦争に関する展覧会を開催していた。その中にひとつ、最近発見された中国に従軍した兵士の記録があって、そこで見つけたこの落書き。「馬じゃあるまいし こんなに背わせてと不平言った頃」とある。戦中に書かれたものであれば、これは上官に見つかったら大変である。でも人間の正直な心情が表れた、よい遺品ではないか。いかに戦争中であっても、人間の思いはただがむしゃらな自己犠牲だけではいられまい。私ももしその時代に生きて従軍していれば、多分ふざけてこんなことをして、上官にこっぴどく殴られていたかもしれない(笑)。平和のありがたみを噛みしめよう。
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次に向かったのは、日本で最初期にできた小学校である、重要文化財、旧開智学校である。
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一昨日、佐久市についての記事で、同市にあるやはり重要文化財の旧中込学校が、日本に現存する最古の学校建築であると述べたが、この両者の竣工時期の差はわずかに数ヶ月。この開智学校は1876年4月の完成。今から実に140年も前である。もともとほかの場所にあったものをここに移築して来て、彩色や細部の彫刻には復元された箇所も多いようだし、現在残っている校舎は当時のものの数分の一のようだが、いやそれにしても、昔の小学校はなんともモダンで鮮やかで、しかも東洋風の意匠も取り入れられているユニークなものだろう。近代教育の黎明期にここで学んだ人たちは、来るべき新しい時代に胸を躍らせたことであろう。現在は通行禁止になっている廻り階段も面白いし、校舎の端にあって2階に続く階段は、人々の往来によって、いい感じにすり減っている。2階の講堂も、なんとも懐かしい雰囲気を漂わせている。
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それから、明治天皇ご夫妻がここに滞在されたこともあるとのこと。当時は神様だから、両陛下が滞在された部屋は、その後も使わずにそのままにしてあったのだろうか。
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興味深いのは、この学校を設計した立石清重(たていし せいじゅう)の写真だ。なんとも昔の日本人の顔であるが、この方、地元の大工さんであるそうだ。ということはこの学校は、西洋人が上から目線で作ったものではなく、日本人の日本人による日本人のための施設であったわけだ。素晴らしいことではないか。松本という土地柄がこの学校の建築を可能にしたのである。
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この旧開智学校のすぐ正面に、現在の開智小学校がある。建物上部の八角形の部屋は、旧開智学校の上部の鐘楼のかたちを模しているのだろうか。さすが、140年前に開校した学校は、今でも進取の精神を脈々と伝えているのである。
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尚、旧開智学校のすぐ隣に、旧司祭館という建物がある。1889年にフランス人司祭が作らせたアーリーアメリカン調の建物。ちょっと軽井沢風というべきか。こじんまりしているがシャレた建物で、復元に際しては、暖炉も使える状態にしたらしい。松本市、いちいちやることが気が利いている!!
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さて次に向かったのは、これも松本を代表する教育施設の遺構、旧松本高等学校である。現在でも市民の文化活動などに使われていて、一般公開されているのはごく一部であるが、1919年に完成した本館と講堂が重要文化財に指定されている。なおこの一帯はあがたの森公園という名称の、大変美しい公園になっている。ここにもセイジ・オザワ松本フェスティバルの旗がたなびいている。
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旧制高校と言えばバンカラなイメージがあるが、現代では失われてしまった風情がこの建物には漂っている。内部を見学できるのは、復元された校長室と教室だ。文教都市松本の面目躍如たるものがある。その時代に生きていなかったのに、懐かしいのはなぜだろう。
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この旧制高校の建物のすぐ横には旧制高校記念館という小さな博物館があり、旧制松本高校出身の北杜夫に関する資料などが展示されているが、以前見たことがあるので今回はパス。公園を少し奥に進むと、おぉなんとそこは素晴らしく整備された日本庭園だ。真夏の日差しは強かったものの、公園の木陰に入ると涼しく、そこのベンチに座ってしばしうたたねするという、最高の贅沢を楽しんだ。その間も、旧制高校の建物の中で練習する市民合唱団とおぼしき人々の歌声が遠くから流れてきて、夢幻的であることこの上ない。なんと心地よい。
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昼寝から覚めて次に向かったのは、松本市美術館。山岳画の展覧会を開催していて、それも足早に見たが(最近展覧会が日本を巡回しているらしい吉田博という画家の作品もいくつかあった)、それよりも松本と言えばやはり草間彌生である。1929年にこの地に生まれ、早くから世界的アーティストとして成功。未だに現役で活躍中だ。美術館の入り口には彼女の手になる巨大な作品が。
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平常展示の中にも彼女の作品コーナーがあって、大規模なインスタレーションをいくつか体験できて楽しい。また、一部のコーナーでは作品の写真撮影も可能とのことで、遠慮せずに何枚か撮らせて頂きました。
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ニョキニョキキラキラの不思議なヤヨイワールドのほかにも、地元に関連した多様な作品を見ることができるこの美術館、広々としていてなんとも気持ちがよい。

さて、この日の夕方にはファビオ・ルイージ指揮サイトウ・キネン・オーケストラの「復活」の演奏会が控えていたので、このあたりで観光は終えて、残る時間でしばらく街を歩きたいと思った。お目当ては、古い町並みが残っているという中町通りである。その前にまず、四柱神社(天照大神等4人の神様をご神体とする)にお参りする。ここはやはり明治天皇の御座所であったらしい。それほど古い神社ではないが、落ち着いた佇まいだ。
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この近辺に流れているのは、女鳥羽(めとば)川。ちょっと金沢の犀川を思い出す風情ではないか。
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上の写真の左側、川に沿って建物が軒を並べているが、これがなわて通り。なんとも庶民的な通りで、思わずたこ焼きを買い食いしてしまいました・・・。
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この通りから女鳥羽川を渡った反対側に、中町通りがある。蔵が立ち並ぶ風情ある通りだ。次回はこのあたりのよさげな飲み屋でちょいと一杯と行きたいものだ。
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そんなわけで、今回の長野滞在もあれこれ発見に満ちたものとなった。まだまだ訪れていない素晴らしい場所があるに違いない。夏の音楽祭の時期を中心に、またこの地域を探訪する機会を楽しみにしよう。

by yokohama7474 | 2016-08-24 23:42 | 美術・旅行 | Comments(0)

長野の旅。海は見えないが、雄大な日本アルプスの山々の眺望や数々の歴史遺産を楽しむ旅だ。昨日の記事に引き続き、車窓からの雄大な浅間山の写真から始めよう。あっ、ここでは前項の写真と異なり、邪魔な電線は写っていないではないか。最初からトリミングすればよかった(笑)。
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さて私はこの日、松本から一旦万座温泉に移動、そこで家族と合流したのだが、この機会にどうしても行きたい場所があった。その場所の名は、小布施町(おぶせちょう)。8月17日付の大妖怪展の記事で、高井鴻山の妖怪画を紹介しながら、「小布施に行きたい」と呟いた私であったが、思ったらすぐに実行すべし。たまたま松本に行く用があるからと言って、小布施はそこからさらに何十kmも、あるいは100kmも北上した場所で、決して近くはない。だが高速道路が完備しているので、その気さえあれば余裕で日帰りできる場所なのである。

だが、小布施に行く途中に少し寄り道をした。高山村という村である。そこで目にしたこの表示。
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なに、福島正則といえば、秀吉の子飼いの部下ではないか。こんな長野の山の中で荼毘に付されているのか???荼毘に付されたということは、当然ながらこの地で亡くなったということである。ということで、車に乗ったままこの火葬の地を探したのであったが、残念なことに見つけることができなかった。よく地方のマイナーな観光スポットにはある話だが、少し離れた場所にはやたら沢山案内板が出ているのに、近くに行くと途端にその数が減ってしまうという、あのパターンだ(笑)。実はこの近くには、福島正則の屋敷跡というのもあって、後で本で知ったところによると、一部当時の遺構が残っているという。残念ながら、そちらも時間の関係で見ることができなかった。また改めて探しに行きたいと思う。だが、本当にあの福島正則がここにいたのだろうか。この謎が後になってきれいに氷解しようとは、このときは未だ知る由もない私であった。
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さて、しばらく行くと、このように面白そうな看板を発見。字がかすれて読みにくいが、高山村歴史民俗資料館だ。
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なになに、「必見! 7000年前の湯倉人骨」とある。この湯倉というのは、その下に「湯倉の洞窟遺跡」とあるので、洞窟の名前であることが分かる。だがそれにしても、「湯倉人骨」と、ひとつながりの名詞にしてしまうというのは、それだけ歴史的な価値が世間で認められているのか、あるいは世間の評価とは関係なく、自分たちが自信満々でそのように謳っているのだろうか。興味津々だ。高山村の歴史民俗資料館はこのような建物。おぉ、これはモダンな建築だ。誰が見ても、ル・コルビュジェのロンシャンの教会を思い出すではないか!! 先に、群馬県立近代美術館が磯崎新の設計と知らずに眺めていた愚か者の私である。ここでも誰か高名な建築家の作品と遭遇したのかも・・・と思って後日調べたが、どこにも設計者の名前は見当たらない。でも、なかなかスタイリッシュな建築であると思う。
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我々が近づいて行くと、炎天下の資料館の前で何やら清掃作業を行っていた男性が、作業を停めて案内して下さった。ご多忙のところ、誠に恐縮でした。これが高山村全体の模型。敷地の2/3が山だそうである。さすが信州。
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そして、必見の湯倉洞窟に関する資料が展示されている。見よこの墨痕鮮やかな達筆を。
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高山村に存在するこの洞窟は縄文時代初期、7,000年ほど前のものとされており、学術的に非常に重要な遺跡と認定されているとのこと。食料とされた様々な動物の骨や土器のほか、石を抱いて埋葬された女性の骨が良好な保存状態で発掘されたとのこと。ここに展示されている人骨は複製だが、雰囲気は大変よく分かる。石を抱いているのは、いかなる意味があるのだろうか。
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なるほど、太古の昔からこの地には人間の営みがあったわけである。この資料館にはその他、既に窯が閉鎖されてしまった藤沢焼という磁器についてや、このあたりの昔の暮らしについての展示がある。そんな中、私の目を引いたのは、このキリスト教禁止の高札。慶応4年とあるので、1868年、すなわち明治元年のものだ。そんな時代でもキリスト教が邪宗門という扱いとして、わざわざ高札まで出されているのは面白い。山深い信濃には品格の高い社寺が多くて、それらへの人々の信仰が篤いことと関係しているのだろうか。
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さて、この高山村、ほかにも見逃せない場所がある。それは、一茶ゆかりの里 一茶館。そう、あの小林一茶ゆかりの地に建てられた資料館だ。これも非常にモダンな建築である。設計者は、今度は判明したのだが(笑)、岡田新一。調べてみると、なんとあの最高裁判所を設計した人だ。また、以前コンサートを聴いた、東京藝術大学の新しい奏楽堂もこの人の設計。その他多くの公共建築を手掛けている。
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小林一茶(1763-1828)が信濃の人であるという知識はなんとなくあったものの、一般に知られている俳句以上に一茶について何か知っているわけではない。ましてや、この場所が一茶といかなる由縁のある場所であるのか、全く知識がなかった。館内の説明によると、一茶は47歳のときにこの高山村の俳人、久保田春耕を訪ね、その父である久保田兎園の自宅の離れ家を逗留先として提供される。それがきっかけで一茶は、65歳で他界するまでこの地を頻繁に訪れ、20人ほどの門人に俳諧指導を行ったとのこと。そのため、これらの家には一茶直筆の遺品の数々が残されたとのこと。一茶が晩年を過ごした家(火事で焼け出されたので小さな土蔵に住んでいたらしい)などは野尻湖近くに残されており、そちらにも資料館が建っているようだが、この高山村の資料館はそれに劣らず貴重な場所である。館内には一茶の生涯をアニメ風に紹介するビデオも流れており、その飄々とした庶民的温かさを感じさせる作風とは裏腹に、幼時から親族との死別を様々に経験して来た気の毒な境遇の人であることを知った。それゆえに、館内に展示されている様々な書や絵画に、この人独特の生きる力を感じる。
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またこの場所には、一茶がしばしば逗留したという離れ家がそのまま残っている。そう思って見るせいか、大変風流だし、この手の建物にしては珍しく中に入れるので、本当に一茶たちの息吹きを感じることができるようだ。
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このように、借り切って句会もできるようだ。なんと風流な。でも飲酒は禁止ですか。ま、やむないですが・・・(笑)。
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さて、それから本来の目的地であった小布施町へ。この町が有名なのは、あの葛飾北斎(1760?-1849)が老年に至ってから何度も江戸からやって来て、大規模な作品を含めた多くの肉筆画を残したことによるのである。私は随分以前に一度行っているが、今回久しぶりに再訪して、観光地としてよく整備されていることに驚いた。

北斎は言うまでもなく日本美術史上最大の画家のひとり。その画業の幅広く力強いこと、ほかに類を見ないし、見る人の度肝を抜くような大胆な視覚イメージを数々創り出した天才である。彼の人生で特筆すべきは、数えで90歳という、当時としては異例の長寿を全うしたことであるが、誠に驚くべきことに、この小布施に初めてやってきたのは既に83歳!!それから江戸との間を何度か往復しながら、足掛け4年をこの小布施で過ごしたという。しかも江戸と小布施の往復は徒歩であったらしい(確か、片道4泊?だったかと聞いた)。うーん、現代、高速道路を車で行くだけでも充分遠く感じるのに、どうすれば老体でこの道を歩いて往復できるのか。超人である。
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そしてここにもうひとりの重要な登場人物がいる。小布施の豪商で、儒学者でもあり、自らも絵をよくした高井鴻山(たかい こうざん、1806-1883)である。彼こそが北斎をこの地に呼び寄せた張本人である。
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江戸時代も末期に近づき、かつては盤石であった幕藩体制が揺らいでいた頃、絶好のパトロンを得た北斎は、この山深い小布施の地で、いかなる作品を残したのか。これが小布施に残された北斎の肉筆画を所有・管理する美術館、北斎館である。つい最近リニューアルオープンしたばかりらしい。道理で中は非常にきれいだ。
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ここではちょうど、安藤広重の東海道五十三次のすべてが展示されていた。実は広重の作品に先立って北斎が同じ東海道をテーマとして発表した連作も数種類展示されている。だがここでは、北斎の作品は明らかに単なるガイドブック代わりで、なんとも手抜きの仕事ぶりであり、広重の傑作には及びもつかない。なので、広重の絵を見て「ほぅー」と唸りながら足を進めることになるのだが、そのうち、なぜに北斎館で広重に感嘆しているのか分からなくなって来た(笑)。だがその後、かなりの数の北斎の肉筆画の展示に大満足。これは「富士越龍」。絶筆に近いと思われる、88歳のときの作品だ。素晴らしすぎる。神韻縹緲たるとは、まさにこのような作品に使うのであろう。
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だがここの目玉は、なんといっても、北斎が二基の祭屋台に描いた天井画である。
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1基には龍と鳳凰、もう1基には男浪と女浪。ここでは鳳凰と女浪をご紹介する。因みに男浪・女浪(おなみ、めなみ)は、北斎のデザインに基づいて、高井鴻山が彩色したと伝わっているらしい。いずれも、人を呑み込まんばかりの生命力だ。
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さて、この北斎館のすぐ近くには、その高井鴻山の旧居が現存しているのだが、残念ながら現在リニューアル工事のため閉館中。残念だが、開き直って、また将来小布施に来る理由ができて有り難い!! と思うことにしよう。せめてここでは、先の「大妖怪展」の記事から、鴻山の妖怪画を採録して渇を癒すこととします。
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小布施で北斎の作品を鑑賞するのに必須の場所が、もうひとつある。岩松院(がんしょういん)というお寺だ。北斎はこの寺の本堂に、実に畳21枚分もある天井画を描いているのである。このようなこじんまりとした佇まいの、曹洞宗のお寺である。
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ここに北斎が描いたのは、八方睨みの鳳凰、つまり、天井下のどの位置から見ても自分の方を見ているような巨大な鳳凰の絵である。
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鴻山が提供した潤沢な資金のおかげで大変質のよい絵の具を使うことができ、そのために、描かれてから170年を経ても、大変鮮やかな色彩が見事に残っている。やはり優れた芸術が生まれるには、経済的な余裕が必要な場合が多い。もちろん、カネがあるだけではダメなのであり、鴻山と北斎のようなパトロンと芸術家の関係は理想ではないか。

実はこの岩松院、この巨大な天井画だけでなく、実はほかにも見どころがあるのだ。まず本堂に向かって右手にある、蛙合戦(かわずがっせん)の池。
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随分と草深くて分かりにくいかもしれないが、さほど大きくない池である。春には多くの蛙がここで産卵するため、あたかも合戦の様相を呈するという。江戸時代に、この場所で蛙合戦を見ながら俳句を詠んだ人がいた。もうお分かりであろう。「やせ蛙 まけるな一茶 これにあり」。そう、あの小林一茶である。この句は、一茶54歳のときに授かった病弱な長男、千太郎への激励の意味で読まれたらしいが、千太郎は生後1ヶ月足らずで他界。その後一茶はできた子供のすべてと、ついには妻まで失ってしまうのだ。

岩松院の本堂にはまた、福島正則の遺品も展示されている。それもそのはず、彼の遺骨はこの寺に葬られているのだ。そうするとやはり、途中で通りかかった荼毘の地というのは本当だったのである!!本堂に向かって左手奥には霊廟がある。行ってみると、古い石塔を覆うように小さな堂がその周りに建てられたものだということが分かる。
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福島正則は、関ヶ原の後、その功績によって50万石弱の広島藩の藩主となったが、江戸時代に入ってから城の改修をしたところ、幕府のお咎めを受け、石高わずか4万5000石の信濃の地に転封されたという。やはりもともと豊臣の中心的な家臣ということで、徳川から疎んじられたものであろうか。武将の運命も人様々である。だが、死後400年近く経っても、終焉の地でこれだけ手厚く祀られていることは、素晴らしいことではないか。

岩松院には多くの観光客が訪れるが、文化財好きはここだけで満足してはいけない。ほんの数百m歩いたところに、観光客があまり訪れない、だが絶対お薦めの寺があるのだ。その名は浄光寺。地名を取って雁田薬師とも呼ばれる。仁王門のところから見上げるとこんな感じ。鬱蒼とした山の雰囲気だが、寺の名前の通り、心が浄化されるような気がする。
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このお寺が面白いのは、仁王門で案内用のスイッチを押すと、境内何ヶ所かに設置されたスピーカーから録音された音声が流れ始め、この寺の歴史や文化財についての説明をしてくれるのだ。それがかなり長いので、門から本堂までえっちらおっちら登って行っても、また先の方にある別のスピーカーで説明を聞けて、移動時間を大変効率的に活用できる。私も全国いろんなお寺に詣でてきたが、このような効率的なアイデアは初めてだ(笑)。

そして石段の先に見えてくるのは、重要文化財の薬師堂。1408年の建立である。檜皮葺で、ギュッと上部を絞ったプロポーションがなんとも洗練されている。この山の中、静かに風雪に耐えてきた建物である。きっとこの景色、600年間変わっていないのではないか。あっ、よく見ると後ろに避雷針が立っていますね。あれだけは600年も経っていないと思う(笑)。
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このように、それほど多くの人が訪れないものの、本当に素晴らしい文化財は、日本のあちこちにある。そのすべてが、本当に貴重な歴史の遺産である。我々が21世紀の社会を生きて行くためにも、歴史に学び気持ちをリフレッシュすることは必要なことである。

川沿いのラプソディ長野編、次回は松本の街歩きです。乞うご期待。

by yokohama7474 | 2016-08-24 00:26 | 美術・旅行 | Comments(0)