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薮内佐斗司の彫刻 童々広場(府中市)、青松院(港区)、正蔵院(大田区)、武蔵野稲荷神社(練馬区)、稲毛神社、王禅寺(川崎市)、常泉寺(大和市)

藪内左斗司(やぶうち さとし)は1953年大阪生まれ。東京藝術大学大学院教授であり、また現代日本を代表する彫刻家である。自ら彫刻作品を制作するのみならず、古い仏像の数々の修復にも携わっており、最近ではその方面での興味深い著作もあれこれ出している。そんな藪内の名前が一気に知れ渡ったのは、今から6年前、2010年に平城京遷都1300年祭の際にキャラクターとして制作された「せんとくん」である。
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実は私自身も藪内の名前を知ったのは、この「キモかわいい」キャラクターによってであった。発表当時は賛否両論であったようだが、なんといってもこのキャラクターは一度見たら絶対に忘れない、何か気になる存在であったからこそ、成功したのであろう。もともとは藝大のエラい先生なのであるが、その後ご本人のマスコミへの露出度も上がり、このような写真を見ると、巷でよく言われる、このせんとくんは自らをモデルにしているのではないかという説に加担したくなる(笑)。
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彼の作品展が「やまとぢから」というタイトルで開かれたのは2013年から2014年にかけてで、全国5ヶ所での開催であったが、東京での開催がなかったこともあり、心ならずも見逃してしまった。それが悔しくて、その図録だけ書店で購入し、時折パラパラめくっては、日常の疲れを忘れて癒されているのである。
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この本にはまた、藪内が手掛けた数多くの国内外の彫刻作品が写真つきで掲載されていて誠に楽しい。そんなある日、NHK BSプレミアムで草刈正雄が出演している趣味の番組「美の壺」で鬼をテーマにした回があり、そこで明らかに藪内の作品と分かる屋外の彫刻が紹介されているのを見た。それは府中にあるという。なんと。その府中には近々、藤田嗣治展を見るために訪れる予定である。様々な文化芸術との出会いにおいては、このような偶然のめぐり合わせが実は大きな意味を持つことがある。その府中行きをきっかけに、何度かの機会を見つけて、首都圏にある藪内の彫刻を少し見て回ることとした。以下はごく限られた例に過ぎないが、彼の彫刻の持つなんとも言えない癒しの効果を、このブログをご覧の方々とシェアできれば本望である。では、場所別にご紹介しよう。

* 童々広場 (どうどうひろば、東京都府中市寿町1-12)
これが藪内作品を見たいと思ったきっかけの公共彫刻群。片側1車線の車道の脇にある三角形の土地に置かれている (1996年制作)。決して広場というほど広い場所ではなく、子供たちが遊ぶような場所とも思われないが、街の人たちにとってはよい憩いの場になるのはないだろうか。もともとは桜通り広場公園というらしい。
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上の表記に従ってご紹介すると、まずは「蓮の池」と、「走る童子」、それから「カエル」。
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童子とカエルのアップ。点々とつらなる彫刻群には緩やかな運動性があって、それがなんとも心地よいなごみ空間を作り出している。
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それから、「桜の童子」は2人いて、それぞれ桜の枝を支えるべき柱を抱えているのであるが、うち1人の童子の上には、桜がない。すぐ下の写真の奥に見える彫刻だが、ちょうどその奥の桜の枝がかぶっているように錯覚するが、実は柱の真上には何もないのだ。制作後に枝が枯れてしまったという事情だろうか。だが、それでも怠けずに役目を果たそうとする童子の健気さがよいではないか(笑)。
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これが手前の桜の童子。しっかりお役目を果たしている。
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これが奥の桜の童子。おっと、柱の上には枝がない。驚いて見上げているのだろうか。もう1本の柱の童子と同じ顔にも見えるが(笑)。
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それから、ちょっと見つけにくいのは、「こぼすなさま」である。だがここに掲載した写真の位置関係から、設置場所は自ずと明らかだろう。現地に行かれる方は探してみて頂きたい。ちなみにこのこぼすなさま、ほかの場所でも同名の彫刻を見かけたのであとでご紹介するが、ここでは、ゴミ捨て場を見張っておられるらしい。
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* 青松寺 (せいしょうじ、東京都港区愛宕2-4-7)
次にご紹介するのは、都心でまとまった数の藪内彫刻を見ようとすると最適の場所である。愛宕(あたご)にある青松寺。私も以前から都心をタクシーで移動するときになんとなく気になっている場所であったのだが、まさかこんなに面白い場所とは知らなかった。もともとこの寺は1476年、つまり江戸開幕前の室町時代に、太田道灌によって麹町に開創された。その後家康によって現在地に移築され、江戸時代は禅宗の一派である曹洞宗の一大道場であったらしい。現在では愛宕グリーンヒルズのMORIタワーとフォレストタワーが左右に立っていて、なかなかに鮮やかなコントラストをなしている。
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この寺は近年伽藍を一新して、その際に藪内に様々な彫刻が依頼された。早速この門の左右に、大作四天王像(2004年制作)を見ることができる。天気のよい朝の撮影で、ガラスの反射によって見にくくなってしまっている。その威容が伝わればよいのだが。
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仏像好きなら誰もがすぐに分かる通り、これは東大寺戒壇堂(私の世代なら「戒壇院」の呼称の方になじみがあるが)の四天王像をモデルにしている。順番に、持国天(東方守護)、増長天(南方守護)、広目天(西方守護)、多聞天(北方守護)。それぞれの足元に踏まれた邪鬼もユニークだが、特に持国天の邪鬼は、顔をまともに踏まれていて悲惨である(笑)。
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そして境内に入って右側には、4匹の像に乗った楽し気な童子たちに囲まれた誕生釈迦仏が。天上天下唯我独尊である。
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本堂に向かって左手の堂は、獅子吼林サンガと名付けられた大きな僧堂であるが、その脇の塀にこのような龍が水しぶきを上げている。この龍、下の方から塀にからだをぶち込み、ねじれをもってまた塀の向こうからこちらに突き出しているのだ(笑)。もちろんこれも藪内の作品。いや実に楽しくて、見ていて飽きることがない。
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本堂にもお参りし、一旦門の方に戻ってくると、青空をバックにした門の鬼瓦が面白い。明記はされていないものの、これも藪内のデザインではないかと思いたくなる。いや、もしそうでなくとも、この藪内ワールドにあるだけで、充分人を和ませる雰囲気が出てくるのだ。
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さて、この寺の敷地に、見逃してはならない藪内作品群がもうひとつある。この地図の左側の真ん中あたり、智正庵とあるが、これは茶室である。そのあたりに行かなければ。
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愛宕グリーンヒルズMORIタワーの右横に、このような石段があるので、これを登って行く。そして見えてくる智正庵。
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この茶室に向かって右側の林の中(「望楼」という四阿の近く)に、藪内の手になる十二支を象った彫刻群がある。摩尼車と言って、よくチベットなどで見かける(あ、行ったことはありませんが 笑)、グルグル回すとお経を読んだのと同じご利益があるという、あれだ。確か太宰治の何かの作品においても、印象的に登場していた。ここの摩尼車は、3基ずつ4ヶ所に設置され、十二支の干支がそれぞれてっぺんに乗っていて可愛らしい。
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丑(うし)の像はせんとくんタイプで、まさに藪内の面目躍如。この青松寺、都心にありながら緑も豊かで、時折散歩したくなるような場所だ。藪内作品たちも実によく調和している。尚、ここには1994年作の十六羅漢像もあるが、非公開。以下は書物からの撮影である。
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* 正蔵院 (しょうぞういん、東京都大田区本羽田3-10-8)
ここは羽田空港からほど近い場所にあり、すぐ隣には羽田神社という神社がある。街道沿いということで古くから賑わった場所であるらしい。
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このお寺は不動明王を本尊としていて、羽田不動尊とも呼ばれているらしいが、境内の一角に海照殿と呼ばれる新しい建物がある。これは以前存在した別の寺を引き継ぐものであるらしく、見たところ、法要などを行う場所であるかに見える。
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実はこの中に、藪内が2008年に制作した美しい地蔵菩薩坐像と、かわいらしい六地蔵が安置されている。私が伺った際には建物は閉まっていて人の姿も見えなかったので、残念ながら内部の拝観は叶わなかったが、書物の写真によると、このような仏さまである。これらの藪内作品は、ここでは実際に信仰の対象となるもので、彫刻の質としては当然それにも耐えうるのだという証明になろう。
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* 武蔵野稲荷神社 (東京都練馬区栄町10-1)
これはまた少し毛色の変わった藪内作品であり、ファンならば是非見ておきたい場所だ。西武池袋線の江古田駅の近くの稲荷神社の門と拝殿の彫刻を、藪内が手掛けているのだ(2010年制作)。写真で見て、なんと立派な建物だろうと思って現地を訪ねると、神社の敷地自体はごくごく狭いものであることに驚いた。だがそのこじんまりした場所を彩る装飾の素晴らしさには、感嘆の声を上げざるを得ない。
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石の鳥居は立派だが、そこにこのような立て看板が。確かにここは名門武蔵中学・高校と武蔵大学の目の前だが、ここで名指しされているのは何やら可笑しい。そんなに武蔵の学生さんたちの通り抜けが多いのだろうか(笑)。
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そして見えてきた神社の門は、随神門と呼ばれている。都心で見る神社建築としては、なかなかに決まっている。
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そしてこの門には数々の彫刻が施されている。稲荷神社に因んでのことであろう。門の表裏に沢山の狐の彫刻が。
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なんとも可愛いのであるが、それだけではなくて、平安の昔を偲ばせるような彫刻を見ることができて楽しい。
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そして拝殿。これも立派な建物なのだが、やはり規模はさほどではない。だがここの彫刻も、見ていてなんとも楽しいのだ。まさに、ほかには存在しない藪内ワールドである。
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平成の時代においても、これだけの神社彫刻が作られるのは、やはり藪内あってのことであろう。心がなんとも温かくなる。

* 稲毛神社 (いなげじんじゃ、神奈川県川崎市川崎区宮本本町7-7)
東京の北部から一気に南下して、ここは川崎市。我が家からは多摩川を隔てた反対側であるが、この川崎にもいくつか藪内の彫刻があるのである。まずは、第一京浜沿いの稲毛神社。この神社には樹齢一千年と言われる大イチョウのご神木があり、その創建は気が遠くなるほど昔なのである。
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この神社の境内に鎮座している狛犬が藪内の作品。「天地睨みの狛犬」と題されている。もちろん左右で阿吽をなしている。
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よく見るとまぎれもない藪内の彫刻であるが、もしかすると、言われないと気づかないかもしれない。

* 王禅寺 (神奈川県川崎市麻生区王禅寺940)
こちらは同じ川崎市と言っても随分離れている。山深い雰囲気のお寺である。
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このあたりには柿生(かきお)という地名もあるくらいで、江戸時代からの柿の名所なのである。家康以来の柿にまつわる伝承があり、江戸時代は幕府直轄の天領であったらしい。この王禅寺の境内には、白秋の詩をはじめとした柿関連の表示があれこれ。
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さて、ここにある藪内の野外彫刻は、「禅寺丸」。いかめしくもユーモラスな鬼の彫刻であるが、その右手にはしっかりと柿が握られている。
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実はこの寺には、屋外のブロンズ像以外にも藪内の木造彫刻がいくつかあるらしいが、残念ながら非公開。ここでは書物から撮影した写真を掲載する。上記のブロンズ像と同じ「禅寺丸」と、「稚児大師」。
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* 常泉寺 (神奈川県大和市福田2176)
ここは江戸開幕前の1588年の開創と伝わる古い寺。入り口はこのような情緒あふれる雰囲気なのである。
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そして拝観料300円を払って見ることのできるこの寺の庭には、数々の花に加え、藪内の作品とそれ以外の彫刻が、ところ狭しと並んでいる。まずはおなじみ、せんとくん。
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そしてこれが、縁結び菩薩。足元にはなぜかカエル型の童子たち。
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カエル型といえば、この寺には河童の置物も多く、これらカエルはいわばその変形であろうか。境内にある河童七福神のユニークな鳥居にも、いかにも藪内テイストのカエル童子たちが張り付いているのである。
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境内にはほかにも、花の観音もある。
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そして帰りに境内のトイレに立ち寄ると、なんとそこにも藪内彫刻が!!
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それから、おっとここにも、府中にある彫刻と同じ名前の「こぼすなさま」が。この場合はトイレの真ん前にあるのでよく分かる。そう、トイレの神様なのだ。ここではトイレ掃除用のブラシを持っておられる(笑)。
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そんなわけで、首都圏のいくつかの場所で見ることのできる藪内佐斗司の彫刻のいくつかをご紹介した。これら以外にも、マンションや会社ビル等に置かれた公共の彫刻や、寺院に安置された仏像など、様々な藪内彫刻が点在する。そのいずれもが、見る人を和ませる効果があり、これからの時代も人々から愛され続けて行くだろう。藪内先生、小型の童子像ばかりではなく、今後は是非大型の彫刻も作って頂きたい。未来永劫、都民は大切に守って行きますよ!!

by yokohama7474 | 2016-12-29 22:43 | 美術・旅行 | Comments(0)

小田野直武と秋田蘭画 サントリー美術館

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秋田蘭画(あきたらんが)をご存知だろうか。秋田は文字通り東北の秋田県のことだろう。蘭画とは?植物のランの絵のこと?そう言えば上のポスターには何やら花が描かれている。これってラン?と植物音痴の私などは言ってしまいそうだが(笑)、いえいえ、私は知っている。ここで言う「蘭画」の蘭とは、植物のランではなく、オランダ、つまり阿蘭陀の蘭であり、つまり、蘭画の意味するところは西洋画という意味だ。つまり秋田蘭画とは、秋田で制作された西洋風絵画のこと。展示物が「秋田蘭画」だけでは「飽き足らんが」ね、というオヤジギャグを放つ方もおられるかもしれない。だがこれは、本当にほかに類を見ない素晴らしい芸術であり、とてもオヤジギャグだけで片付けるわけには行かないものなのである。

そもそも私が秋田蘭画について知るところとなったのは、以前、ある大変面白い展覧会に出かけたときである。手元にその図録を出してきて確認すると、それは2000年のこと。日本美術に関する興味深く意欲的な展覧会を数多く開いてきた板橋区立美術館における「秋田蘭画 憧憬の阿蘭陀」展である。
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今回サントリー美術館で展観したこの展覧会の冒頭あいさつに、「16年ぶりとなる秋田蘭画の展覧会」とあったので、つまりはこの2000年の展覧会以降、秋田蘭画を単独のテーマとした展覧会は開かれてこなかったことになる。それは本当にもったいないことであり、これを機会に江戸時代に描かれた特殊な絵画群への興味が喚起されればよいのだが。私はこのブログでも度々書いてきた通り、西洋と東洋の邂逅に多大なる興味を抱いている人間であって、この秋田蘭画などは、まさによだれの出るような大好物なのだ。

そもそも中央から遠く離れた秋田藩において、鎖国中の江戸時代に西洋画が描かれたのはなぜかというと、展覧会の題名にもなっている小田野直武(おだの なおたけ、1749-1780)という画家が秋田の角館(かくのだて)出身であるという事情による。あの有名な江戸時代のマルチタレント、平賀源内が、鉱山の発掘(!!)のために1773年に角館を訪れたときに才能を見出され、その年に江戸に出て西洋画法を学んだのである。そして直武は郷里秋田の藩主である佐竹曙山(さたけ しょざん、1748-1785)、その一族で角館城代の佐竹義躬(さたけ よしみ、1749-1800)らにその技法を教えた。主として彼ら3人が制作した西洋風の絵画を、秋田蘭画と呼んでいるのである。この展覧会の副題に「世界に挑んだ7年」とあるのは、直武が江戸に出た1773年から死去する1780年までの7年間を指しているのであろう。直武はわずか30歳、曙山も38歳で亡くなっており、活動期間は短かったが、西洋風の画法を取り入れた先進性は、その後の日本美術に大きな影響を与えたことは間違いないだろう。

いや、そもそも、日本人なら誰でも、歴史の教科書で小田野直武の作品を目にしたことがあるはず。それは、杉田玄白らによって訳された「ターヘル・アナトミア」、邦題「解体新書」の挿絵を描いたのが彼だからだ。この表紙、見覚えがあるだろう。
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もちろん表紙のみならず、詳細な解剖図の挿絵はすべて、直武の手になるものだ。
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写真もコピーも、もちろんスキャナーもない時代、西洋の書物を翻訳して出版するということは、挿絵は誰かが日本で描いてそれをもとに版木を作成するということ。見たものをそのまま描くということは、単純そうでいて、そもそもの物の見方や描き方の技術が異なる場合には、言わば常識の部分から変わってくるわけだから、至難の業であろう。だが、解体新書の出版は1774年。直武が江戸に出た翌年のこと。つまりは、江戸に着くなり模写の準備に取り掛かったわけである。あるいは、(どこにもそうは書いておらず、私の勝手な妄想だが)杉田玄白の親友であった平賀源内は、もともとこの挿絵を描ける若い才能ある画家を探していて、秋田で白羽の矢が立ったのがこの直武であったという可能性も、あるのではないだろうか。杉田玄白の人となりについて詳しく知るところではないが、78歳頃の1811年に描いた自画像はこれである。上部の賛も自分で書いているから、まさに自画自賛。
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なにやらひょうきんな仕草だが、玄白が夢の中で狐に扮して今様を謡った様子を描いたものらしい。先端の学問である蘭学を鎖国の日本で主導した玄白はまた、夢のような現世を大らかに笑い飛ばす鷹揚さの持主であったのだろうか。老年に至った頃に、早くしてこの世を去った16歳年下の小田野直武のことを回想するようなこともあったのかもしれないと想像する。人生、時には狐に憑かれて踊らないとやっていられないということか。

さて展覧会は、洋画以前の直武の作品に始まる。左下に書かれている通り、これは英一蝶(はなぶさいっちょう)の原画を写したもの。明らかに練習用の手すさびであるが、その墨の線の活き活きとしていること。
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これは粉本の「神将図」。裏にも絵が描かれているので、これも練習なのである。筆の勢いが素晴らしい。
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この「蒼鷹摶禽図」(そうようはくきんず)などは、狩野派の雰囲気であるが、既にして写実に迫ろうという画家の意気込みが見て取れる。
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これは「柘榴図」。うーん、素晴らしい写実性だし、後年の情念の表出が既に表れている上、博物誌的な興味も呼び起こす絵画である。
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さて展覧会は、日本における西洋画の曙光を示す作品が目白押しだ。これは、ルンフィウスというオランダの博物学者による「アンボイナ島奇品集成」。
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ここで言うアンボイナとはアンボン島のことで、今のインドネシア領である。甲殻類や貝類、化石等の図版を多く含んでおり、日本では「紅毛介譜」と呼ばれて、平賀源内も所持していたことが分かっているらしい。実はたまたま、つい先日NHKのBSで再放送していた2003年の番組で、ロシアのピョートル大帝がいかにしてサンクト・ペテルブルクを建都したかという極めて興味深いテーマを扱っていたが、その番組の中、エルミタージュ美術館の書庫で彩色つきのこの絵の原画が見つかり、荒俣が大興奮していた。ちなみに原画を描いたのは、ピョートルがドイツからロシアに招いたメーリアンという女性画家兼自然科学者であったらしい。以下、その番組からの写真。文化の伝播とは非常に力強いものであり、そこに好奇心さえあれば、様々な障害を乗り越えて文化は伝わって行くのである。
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日本に入ってきた西洋の図版のもうひとつの例をご紹介する。これはヤン・ヨンストンの「動物図譜」から、ライオンの雄雌である。
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このうち雄の方を日本人が写したものがこれだ。やはり平賀源内に師事した森島中良という人の手になるもの。当時の日本人が見たこともないライオンを、日本古来の獅子ではない形態で表そうという意欲的な試みだ。
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この絵も大変興味深いのであるが、作者不詳ながら、8代将軍吉宗がオランダ商館に発注した油彩画の模写であるらしい。当時は本所にあった五百羅漢寺に下賜されたものであるとのこと。保存状態はよくないが、強い好奇心に駆られて、珍しい西洋文物に学ぼうとする画家の姿勢が見て取れる。
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江戸時代に流行した「眼鏡絵」というジャンルがある。45度傾けた鏡に映した絵をレンズを通して覗いてみる風景画の一種。ここには西洋的な遠近法が採用されていた。これは佐竹藩の上屋敷を描いたもの。やはり秋田には、西洋的なものを学ぼうとした人たちがいたのである。でもこのシュールなタッチ、作品の本来の用途を超えて、現代人に訴えかけるものがあると思うのだ。
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さてここまで、秋田蘭画の前哨戦としての西洋風絵画を見てきたが、実は秋田蘭画のルーツにはもうひとつあって、それは沈南蘋(しんなんびん)という画家のスタイルなのである。彼は中国人であるが、長崎に2年間滞在して写実的な花鳥画を指南した。つまり、西洋画ではないものの、独特の写実性を志向した一派があり、それもまた秋田蘭画に影響を与えているのである。この展覧会には沈南蘋自身の作品は出展されていないが、いわゆる南蘋派の作品があれこれ展示されている。これは沈南蘋の弟子であり、やはり長崎に滞在した中国人画家、鄭培(ていばい)による「風牡丹図」。題名通り、風に揺れる牡丹の花を描いていて、独特の情緒がある。
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南蘋派のスタイルで数々の作品を残した宋紫石(そうしせき)は、この中国風の名前にもかかわらず、日本人だ。この「鷹図」にも神韻縹緲たる写実性が漂っている。
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今回初めて知った画家、松林山人(しょうりんさんじん)。長崎生まれの画家であるとのことだが、この「牡丹図巻」は素晴らしいではないか。この牡丹、まるで生きているかのような不気味な生命力に富んでいて、まさに秋田蘭画と共通する先進性が満ちている。江戸時代中期のものとは信じられない。
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さて、秋田蘭画の立役者、小田野直武の作品に戻ろう。これは「品川沖夜釣」。眼鏡絵として作成されたものだが、品川を描いているということは、彼が江戸に滞在したときのものであろう。うーん、東洋と西洋の狭間で生み出されたキッチュな作品である。
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直武の眼鏡絵をあとふたつ。「梅屋敷図」と「江の島図」。なんだか楽しくなってくるではないか。
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展覧会には直武の写生帖がいろいろ展示されていて興味深い。この絵には、「小田の」という署名もあるのだが、これはつまり、このような写生についても自身の作品であるという自負を持っていたということだろう。「の」の字がひらがなであるのも何か楽しい。また、アジサイもリアルである。
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これは「獅子図」。上で見たヤン・ヨンストンの作品に基づくものの、オリジナルとは角度が違っていて、独自の表現を試みていたものと考えられる。素晴らしい実験精神ではないか!
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直武の実験の例をもうひとつ。これは「洋人調馬図」。もとになったにはヨハン・エリアス・リーディンガーというドイツ人の版画であるが、背景の木々を省略するなどして、主題を突き詰めようとする姿勢が見受けられる。なんとも興味深い。
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さてそれではいよいよ、本格的な秋田蘭画をご紹介しよう。これは直武による「鷺図」。16年前の板橋区立美術館での展覧会の図録の表紙になっていたものだ。描かれている題材は日本的なものであるが、その技法が西洋風であり、これぞ東西文明の融合であろう。
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直武の最良の作品の数々においては、描かれる対象(多くは植物である)がまるで動いているかのような異様な生命力である。これは「岩に牡丹図」。なんという真に迫る表現だろう。
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そして秋田蘭画の特色は、ひとりの画家の創作スタイルを、殿様が学んだことである。これも、上下の秩序が明確であった江戸時代においては稀有なことであろう。以下、直武の「蓮図」と、秋田藩主佐竹曙山の「紅蓮図」。殿様の気合が感じられよう。
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佐竹曙山の写生帖も実に瞠目すべきものである。これなどは、生きたトカゲではなく標本である。近代的博物学の精神に則るものであろう。
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曙山の「燕子花にナイフ図」。このナイフは西洋のものであろうし、その点での物珍しさもあるが、ただの写実にとどまらない存在感こそが、実にユニークなものであると思う。
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秋田蘭画のもうひとりの中心人物、佐竹義躬の「松にこぶし図」。やはり写実の奥に何やら不気味な生命力が感じられる。
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ここで小田野直武畢生の傑作をご紹介する。重要文化財に指定されている、「不忍池図」。ここではまさに南蘋派と西洋画法の融合が見られ、ちょっとほかでは見ることのできないなんとも生々しい花の生命力が見る者を圧倒する。この鉢植え、今にも動き出して何かを語り出しそうである。また、細部においては花に近づく小さな虫などの細密な描写もあり、まさに直武の代表作にふさわしい。
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そして展覧会は、秋田蘭画の中心人物たち以外の興味深い作品の展示に移る。これは田代忠国の「卓文君図」。題名の通り中国の人物を題材としているが、その細長い容姿は、あたかもヨーロッパのマニエリスムのようではないか。ここにあるのは写実ではなく、デフォルメである。ただ何かを模倣するだけでない、創造的な姿勢を伺うことができる。
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作者田中忠国(1757-1830)はやはり秋田人で、曙山に仕えたらしい。一説には直武とともに、西洋画法を平賀源内から直接伝授されたと言われているが、真偽のほどは定かではない。直武のようなスーパーな才能でないあたりが、私としてはなんとも憎めないのである。以前もどこかの展覧会で見た記憶のあるこの「三聖人図」のキッチュさは、本当に楽しい。ちなみにこの三聖人とは、以前は孔子、老子、聖母マリアと言われていたが、最近の研究では、道教でいう福星、禄星、寿星が描かれているという説が有力になっているらしい。三人合わせて福禄寿ですな(笑)。一度見たら忘れることのない絵である。
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これも珍しい作品だが、荻津勝孝(おぎつ かつたか)の「張良・韓信図」。こんな劇画タッチの江戸絵画は見たことがない。荻津は1746年生まれと、直武と同世代であるが、秋田における絵画制作にはこのような多様性があったことを知ることは、なんともワクワクするような思いなのである。
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江戸時代の洋風絵画と言えば、一般的に知られたよりメジャーな画家は、司馬江漢(しば こうかん)であろう。彼も1747/48年生まれと、直武と同世代。平賀源内と交流し、小田野直武に西洋画法を学んだとされるが、確たることは分からないらしい。この「七里ヶ浜図」は、秋田蘭画のおどろおどろしさのない平明なもので、かなり持ち味を異にしている。その点が好き嫌いの分かれ目になるだろう。
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江漢といえばこのような遠近法を伴った風景画という印象が強いが、以下の「異国工場図」のような面白い作品も手掛けている。これはまるでカリカチュアではないか。このような感覚を学ぶ機会が江戸時代の日本にあったとすると、なかなか日本も捨てたものではない(笑)。
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これもまた珍しい作品。1800年頃に描かれた石川大浪の「乱入図」。台湾においてオランダ東インド会社の施設に日本の朱印船船長が乱入した事件を題材にしているらしい。遠近法には狂いがあるように見えるが、描かれた建物は完全に西洋のものだ。日本人の日常にない風景を想像で描いたものであれば、これぞまさに想像上の東西文明の対決!!石川大浪、一体どんな人物であったのだろうか。
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ほかにもまだまだ興味深い作品が展示されていて、16年前の板橋区立美術館での展覧会に比較すると、格段に展示の幅が広がっている。そういえば、この秋田蘭画は歴史に埋もれてしまっていたところ、その再評価を行ったのは秋田の角館出身の日本画家、平福百穂(ひらふく ひゃくすい)なのである。私は5年ほど前に角館を訪問した際、百穂の美術館にも足を運んだが、その時には不覚にして、彼と秋田蘭画の結びつきには気づかなかった。ある時代の文化的な遺産が歴史を経て人々に訴えかけるには、やはり多かれ少なかれ立役者が必要である。百穂自身の作品自体があまり秋田蘭画との共通性がないだけに、画家の持つ懐の深さを思い知らされる。
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なお、展覧会の副題の「世界に挑んだ7年」に、私は少し違和感を感じる。もちろん、狭い島国で得られる情報に飽き足らず、西洋の先進文明を学んだ人たちが残した業績なのであるが、彼らに「世界に挑む」という大仰な思いがあったかどうか。私はむしろ、上述の通り、抑えられない強い好奇心に突き動かされ、面白いから夢中になって制作に励んだ人たちであったのだろうと思う。もともと「世界」という遠い目標があって、そこに向けて努力するという発想は、どうも日本人の奥深い部分に根強く残っていると思うが、そのような義務感めいたものを秋田蘭画から感じることはできない。そこには実り豊かな7年間があり、それを引き継いだ流れもあったということ。それだけで充分興味深いではないか。秋田蘭画だけでは飽き足らんが、とは言わせませんよ!!

by yokohama7474 | 2016-12-25 11:00 | 美術・旅行 | Comments(0)

クラーナハ展 500年後の誘惑 国立西洋美術館

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ドイツ・ルネサンスの画家、ルーカス・クラナッハ(1472-1553)は、その独特の怪しい作風によって、随分以前から私にとっては特別に魅力ある名前なのであるが、一般にはイタリア・ルネサンスの画家たちや、同じドイツでもデューラーやホルバインに比べると知名度が低いせいか、今回が日本で初の個展なのである。「500年後の誘惑」とある副題は言いえて妙であり、宗教改革時代のドイツでこのような絵画が人気を得ていたと思うと、実に興味深く、ヨーロッパの歴史、あるいは信仰と美の関係、さらには男性の女性への欲望の在り方といった面から、一筋縄では行かない様々な要素が浮かび上がる。どのような活動をした画家であったのか、以下で見て行くことにする。尚、この画家の名前は、今回の展覧会の表記ではクラーナハとなっていて、その方がオリジナルの発音に近いのかもしれないが、どうもその名前にはなじめないので、通常通り「クラナッハ」という表記を採用する。尚、同名の息子も画家として名を成したが、ここではいわゆるクラナッハ父の作品が主として集められている(展覧会の英文表記でも、"Lucas Cranach The Elder"とある)。

クラナッハの時代性を理解するためにその他の画家の生年を調べると、デューラーは1471年、ミケランジェロは1475年生まれなので彼らと同世代。ちなみにホルバイン(この場合は有名な息子の方)は1497年生まれで、クラナッハの一世代下。ラファエロは1483年生まれで、その中間ということになる。クラナッハが画家として活動を始めたのは、ベルリンの60km南東に位置するヴィッテンベルクという街。以下は宗教革命期の地図であるが、ヴィッテンベルクは青く塗った部分、つまりザクセン選帝侯の領土に存在する(ちなみに、緑の部分は神聖ローマ帝国=ハプスブルク家の領土)。
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ザクセンと言えば、もちろん現在の州都はドレスデンだが、14世紀から選帝侯、つまり神聖ローマ皇帝に対する選挙権を持つ領主が、このヴィッテンベルクに宮廷を置いていた。正直なところドイツの歴史は非常に複雑で分かりにくいのだが、このヴィッテンベルクの重要度は同国の歴史においても際立っている。なぜなら、この地の大学で教鞭を取っていた宗教家が、1517年に宗教改革を起こしたからである。言うまでもなく彼の名は、マルティン・ルター。画家クラナッハの活動はこのルターの宗教改革と密接な関係を持っているのである。ルターが活躍したヴィッテンベルク大学を創設し、またクラナッハをウィーンから呼び寄せて宮廷画家に任命したのは、ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公。これがクラナッハによる1515年頃の彼の肖像である。真面目そうな人である。
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今日我々が知るクラナッハの作風がいつどのように出来上がったものであるのか定かではないが、ひとつ確実なことは、クラナッハは32歳の1504年以降数十年に亘ってこのヴィッテンベルクで宮廷画家として活躍し、工房を率いて高い社会的地位も得た、成功者であったということだ。そのきっかけを作ったのがこのフリードリヒ賢明公であったわけだが、クラナッハはまたこの「聖母を礼拝するザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公」という木版版画(1512/15年頃)も制作している。よほどこの選帝侯に気に入られていたということだろうか。でもこのタッチは独特の陰影感があり、クラナッハというよりも、あたかも遥か後年のフジタの宗教画すら思わせる近代的なものではないか。
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上述の通り、クラナッハより11歳年下のマルティン・ルター(1483-1546)が1517年に宗教改革を起こしたのはこのヴィッテンベルクであり、クラナッハの創作活動は、まさにこのプロテスタント発祥の地で展開されて行く。いやそれどころかクラナッハはルターと親しく、彼の工房はこの信念の宗教家の肖像画を繰り返し描いて、宗教改革運動に「顔」を与えるという重要な役割を果たしたのである。これは1525年の作品であるが、まるで近代の肖像画のように、簡潔でありながら、モデルとなった人物の意志の強さを描き出している。偉大な宗教家と異色の画家は、一体いかなる会話を交わしたものであろうか。
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また、ルターがドイツ語に訳した「新約聖書」の挿絵をクラナッハが描いている。これは1522年9月発行のもの。ドイツにおける印刷術の発展が宗教改革の大きな原動力になったことは周知の事実であるが、その印刷された聖書は、クラナッハの挿絵とともに流布されたものなのである。
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さて、クラナッハがこのようにルターと近い関係であったことを確認して、ここで宗教改革に先立つ頃、彼の初期の作品をいくつか見てみたい。まず、1509-10年頃の「ブドウを持った聖母」。イタリア風ではあるが、かの地の絵画の流麗さや洗練を欠いていて、既にどこか不気味さすら漂う聖母子像であるが、それでも、赤と緑の補色を使っているあたりには、後年にはない鮮やかさを感じることができる。
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これは、1515年頃の「聖母子」。こちらのマリアはより優しい表情をしていて、親しみやすい。だがその表情には虚ろなところもあり、後年この画家が描いた人物たちの一部がたたえている表情との共通点を感じさせる。
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これは1515-20年頃の「幼児キリストを礼拝する幼き洗礼者聖ヨハネ」。ここでも、顔の成分が中央に集まった感じなど、どこかぎこちないクラナッハ流である。この作品では、この画家特有の背景の漆黒も、この頃始まっていることが分かる。
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このような油彩の宗教画以外にも、宮廷画家として彼は、君主や聖人の騎馬像の版画もあれこれ作成している。これは1509年頃の「サムソンのタピスリーのある馬上槍試合(第2トーナメント)」。決して超絶技巧というわけではないが、複雑な群像の構図に真面目に取り組んでいる新進画家の姿を想像することができる。
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かと思うと、当時の宗教画としてはかなり大胆な表現を見ることもできる。やはり初期の頃から尋常ではない表現力を志向したということなのであろう。1508-09年頃の「聖カタリナの殉教」。ここで描かれている聖カタリナとは、ローマ皇帝の愛を拒んだために車輪に縛り付けて八つ裂きの刑に処せられるところ、神の加護で一旦は救われるが、その後斬首された女性。ここで空から降り注ぐ火花の迫力は凄まじい。後年にはない、クラナッハとしては異色の劇的な表現であるが、いかなる経緯でこのような強烈なヴィジョンを自らのものにしたのであろうか。
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また、クラナッハについての同時代の興味深い発言が残っている。ヴィッテンベルクの教授を務めていた人文主義者クリストフ・ショイルルという人の言葉。「わが同郷人である唯一無比のアルブレヒト・デューラー、この紛うことなき天才を別にすれば、(中略) 絵画という技芸において、クラナッハこそがわれらの時代に第一の座を占めるとわたしは考える」というもの。そのショイルルの蔵書に使われていたというクラナッハ作の蔵書票が残されている。1510年頃の作。画家と学者の交流もあったのであろう。この女性は両手に紋章を持っているが、左はグリフォンだろう。そして右は、なぜか黒人なのである。
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展覧会はこの先、クラナッハの描いた肖像画の数々が続く。これは1534年と円熟期の作品で、「ザクセン公女マリア」。この抑えた表情と堅く組み合わせた両手から、この女性は決して見る者に落ち着きを与えるものではないが、不思議と冷たさもあまりない。装飾性の高い服装も手が込んでいて、画家がここで発揮した高度な技術が、全体をきっちりとした構図の中にまとめあげているのは見事である。ピカソはこの絵を愛好し、ポストカードを所持していたそうだ。
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次は男性の肖像を見てみよう。これは1524年以降(1532年?)の作、「ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯カジミール」。これも人物の堅実な性格を偲ばせる見事なものだ。但し、やはりある種の虚ろな表情が彼の顔に張り付いている点は、ほかの多くのクラナッハ作品と共通する。
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興味深いことに、神聖ローマ皇帝として絶頂期を築いたハプスブルクのカール5世(スペイン王としてはカルロス1世)の肖像も描いている。1533年の作。神聖ローマ帝国はカトリックであり、プロテスタントの街ヴィッテンベルクを本拠地とするクラナッハが彼の肖像を描いているのは奇異に思われる。これはハプスブルク家からの依頼ではなく、ザクセン選帝侯による依頼によって描かれたとされているようだ。当時の神聖ローマ帝国はオスマン帝国という巨大な敵と戦う用意のために、一時期プロテスタントの弾圧を断念していたという背景があるらしい。
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さてここからはいよいよ、クラナッハをクラナッハたらしめている、一連の裸婦像を見て行こう。まずこれは、1532年の「ヴィーナス」。
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もちろん神話に材を取った裸体画はイタリアでも多く描かれたが、そのほとんどは豊満な肉体を持つもの。だがクラナッハ描くところの裸婦はいずれも痩身で、肉感的な要素はほとんど持っていない。だが、このように背景を真っ黒に塗り、しかも覆っているのは透明のヴェールであるヴィーナスとは、一体なんなのだ。怪しいことこの上ない。こんなものはもちろん教会には置けないし、個人の邸宅にあっても目のやり場に困ってしまう。図録の解説によると、本作がいかなる目的のために描かれたのか明確でないとのこと。宗教改革の地で貴人や王族を描く一方で、一体どのような需要に応えて描かれたものなのであろうか、想像が掻きたてられるのである。次は1537年以降の作、「泉のニンフ」。
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上の写真では切れてしまっているが、左上にラテン語の銘文が記されており、「われは聖なる泉のニンフ。われは憩う。わが眠りを妨げることなかれ」とあるらしい。これは画家の人文主義的知性を表しているとのこと。つまり裸体画によって惹起される欲望の抑止を訴えているからである。・・・いや、でもそれは言い訳ではないのか。この絵は別にポルノグラフィではないが、肉感的ではないがゆえにそこにある「肉」の生々しさには逆に、強い表現力がある。当時としては非常に煽情的なものではなかったか。

次は時代がかなり遡って、1510/13年頃の「ルクレツィア」。初期の作品である。こうして比べると、上の方に掲載した聖母子像に近く、円熟期のエロティシズムとはかなり違うものであることがよく分かる。だが、恍惚感なしにルクレツィアが剣を押し当てた肌からは、実際に血が滴っていて、豊潤なロマン性を持つイタリア的感性からは既に「一線を超えた」違いのある表現になっていると思う。
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そして円熟期、1532年の「ルクレツィア」はこれだ。表情は少し感情的だが、漆黒の背景に浮かび上がる細身のからだに透明のヴェールは、完成された彼のスタイル。そしてここでも剣の切っ先はルクレツィアの肌をわずかに切り裂き、血を滴らせているのだ。
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これは1537年の「正義の寓意(ユスティティア)」。こちらは透明のヴェールを全身にまとっているが、こらこら、全然隠していないだろ(笑)。「正義」がそんなことでよいのであろうかと、21世紀の謹厳な人間である(?)私としては、500年間前のこの大胆な表現に戸惑ってしまうのである。
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クラナッハはまた、うんざりするような不道徳な男女の絵をいくつも描いている。プロテスタント地域においてこのような作品群は、道徳的な意味を込めて描かれたのであろうが、それにしてもこの「不釣り合いなカップル」(1530/40年頃)における醜い男を得意げに見つめる若い女の表情はどうだ。
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これは「ヘラクレスとオンファレ」(1537年)。あーあー、勇者ヘラクレスが女どもの策略にかかって、鼻の下を伸ばしてしまっている。だらしないのぅ。
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恐ろしい女どもの肖像はまだまだある。これは「洗礼者ヨハネの首を持つサロメ」(1530年代)。19世紀末のサロメブームを待たずとも、聖書に描かれたこの退廃の少女は、クラナッハの手によって、恐ろしくも無邪気な微笑みを16世紀に既に浮かべていたのである。また、このヨハネの首の切断面の生々しさも、一度見たら忘れない。こんな絵画、人目に触れるところに置いておいてはいけない。
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そして今回の展覧会のポスターにもなっている代表作、「ホロフェルネスの首を持つユディト」(1525/30年頃)。今回の展覧会に10点あまりのクラナッハ父子の作品を出展しているウィーン美術史美術館の所蔵になるもので、近年の修復を経て細部の鮮烈な色彩が甦った。西洋美術史上、これほど怪しげかつ優美なユディットはほかにあるまい。まさに傑作である。
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まだまだほかにも多くの作品が展示されていて、日本初のこの画家の展覧会としては大変な規模である。数十年来のクラナッハ・ファンとしては誠にありがたい機会なのである。展覧会には本人の作品以外に、後世のアーティストたちがクラナッハからの影響によって制作した作品も相当数展示されていて、興味深い。だが私にとっては、カトリックの腐敗を攻撃したルターによる宗教改革の勃興に視覚面で積極的に加わった画家が、同時に怪しさをいっぱいに湛えた不道徳な作品も多く手掛けたことにこそ、強い興味の対象だ。この展覧会を見てもその謎めいた制作活動の明確なイメージが得られるわけではないが、ただ単に上品なもの、知的なもの、美麗なもの、模範的なものにはない、時に怪しく時に醜い人間の真実こそが、この画家が描こうとしたものであったのだろうということは、改めて理解できたような気がする。上品で知的で美麗で模範的なものを好む人にはお薦めしないが、ちょっと闇の部分を覗きたい方には、是非にとお薦めしておこう。

by yokohama7474 | 2016-12-20 00:23 | 美術・旅行 | Comments(2)

クリスチャン・ボルタンスキー アニミタス_さざめく亡霊たち 東京都庭園美術館

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東京・目黒にある東京都庭園美術館は、ちょっと特別な美術館である。というのも、その建物自体が非常に貴重なものなのである。1933年に建てられたアール・デコ建築で国の重要文化財。旧朝香宮(あさかのみや)邸である。私は若い頃からここで沢山の素晴らしい展覧会を鑑賞し、その度にこの皇族の館の尽きせぬ魅力を同時に味わってきたものだが、近年は改修を経て新館もオープン。より洗練された美的空間となっている。私が訪れた日の様子。空気は冷たく、青い空が気持ち良い。
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既によく知られている建物であると思うが、未だこの場所を訪れたことのない方もおられようから、いくつかの写真を借用して掲載しよう。玄関に使用された素晴らしいガラスの彫刻はルネ・ラリックによるもの。その他にも、当時最先端、正真正銘のアール・デコ様式が随所に取り入れられた、日本においては誠に稀有な建造物である。
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だが、2014年11月にリニューアルオープンした後でこの美術館で開かれてきた特別展には、残念ながらさほど頻繁には通っていない。飽くまで私個人の感想だが、どうしても見たいと思うものにあまり巡り合わなかったことも事実。唯一、最近ここで見て面白かったものとしてすぐに思い出せるのは、昨年開かれた「アール・デコと古典主義 幻想絶佳」という展覧会くらいである(ロベール・プゲオンやジャン・デビュジョルといった未知の画家との出会い!)。ある意味、これだけ器が立派だと、展示する作品も選んでしまうという事情もあるのかもしれない。だが今回、私がどこかでポスターを見て興味を持った展覧会がこれだ。この孤独感溢れる風景の写真に、何か心動かされるものを予感する。1944年生まれのフランス人アーティスト、クリスチャン・ボルタンスキーの個展である。彼のことは私も今回初めて知ったが、いわゆるインスタレーションを手掛けるアーティストであるらしく、1990年に名古屋と水戸で個展が開かれたそうだが、東京では今回が初ということだ。展覧会の副題、アニミタスとは、無数の小さな魂を指しており、地に天に、またここではアール・デコの館の中に、さんざめく亡霊たちの声を表現しようとするものだ。
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実はこの展覧会、「アール・デコの花弁 旧朝香宮邸の室内空間」という展覧会と同時開催ということになっている。むむ、これってこの庭園美術館の内部の装飾のことを指しているのではないか。それなら、どの展覧会でも見ることができるはずだが・・・。という疑問への答えは、内部に足を踏み入れて得られた。つまりボルタンスキーによるそれなりに手の込んだインスタレーションは新館での展示がメインで、アール・デコの館である旧館においては、いくつかの簡単な展示以外は「声によるインスタレーション」を体験することになるのだ。つまり、旧館の中には展示物はほとんどなく、その代わり、この旧朝香宮邸のデコレーションについての解説が付されている。通常は公開していない部屋がいくつか開けられてはいるものの、既にこの建物をよく知っている人には、この旧館で「見る」ものはあまりなく、もっぱら「聴く」ことになるのである。館内のそこここにスピーカーが設置され、あらかじめ録音された男女の断片的な声が静かに交錯している。会場に置いてある資料から撮影した、それらの言葉の数々。
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どうやらこれらが、宙を漂い時空を超える亡霊たちの声という設定のようであるが、正直私にはあまりピンと来なかった。亡霊の声とは、声なき声ではないのか。実体を持つ人間から発されたことが明らかな声の録音には、さほどの凄みはない。むしろ、誰もいない旧朝香宮邸で、過ぎ去りし日々を想いながら、イマジネーションを働かせる方が、よほど意味深い文化体験になるのではないか。また、以下のような影絵のような展示があったが、申し訳ないが私の心にはメッセージは届いて来ない。亡霊は首吊りした人だったのか???(苦笑)
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新館の方では2つの部屋でインスタレーションが展示されていた。ここでは写真撮影OKとのことで、以下は私の撮影になるもの。まず、様々な目の巨大な写真をヴェールに印刷し、鑑賞者がその間を歩き回る「眼差し」という作品。なるほど、見知らぬ亡霊の眼差しの中を彷徨い歩く生者たちか。
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その真ん中には金色の小山のようなものがあって、これは「帰郷」と名付けられている。巨大な金色のキスチョコのようで、あまり美しくないので写真は撮らなかったが、これはエマージェンシー・ブランケット(災害用のシート)の束で、後で解説を読んで分かったことには、その下には夥しい数の古着が積み上げられているらしい。なるほど、ここでも不在の人たちが生きた(あるいは未だ生きている)証の存在感が物を語るというわけか。でも、古着がシートに包まれているなんて、説明されないと分かりません・・・。

さてもうひとつの部屋は真っ暗で、両面スクリーンに静かな映像が流れている。題名は、ポスターにもなっている「アニミタス」と、そして「ささやきの森」。
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何席かの椅子に座ってこれらの映像の前でゆっくり時間を過ごすことができるようになっている。また、ただ視覚だけではなく、森の写真の前の地面には草が敷き詰められていて、実際に森の匂いを嗅ぐことになるので、嗅覚も刺激される。これはこれで、全身で感じる情緒はあるし、自分と向き合う時間にもなる。だが私は思うのだ。旅をしてこのような場所に行けば、人間のイマジネーションはより豊かに羽ばたくのではないだろうか。美術家の作る狭い空間で人生における大事なことを発見することも、時にはあるに違いないが、自然こそは何よりも素晴らしいインスタレーション。私なら、このスクリーンの前でよりも、匂いのみならず木に触ることができ、自分が動けば千変万化の表情の変化のある森の中でこそ、自分と向き合いたいものだと思う。

暗い部屋から出ると、ガラス張りの新館には、初冬の光がいっぱいに降り注いでいる。なんでもない風景だが、自分が生きていることを実感できる瞬間だし、何よりもそこには理屈も作為もない。ただ見る人の心次第で、なんということのない風景も、その瞬間その場所で生きる人たちを包むかけがえのないものになる。
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外に出ると、鮮やかな紅葉が目に入ってくる。つい深呼吸したくなる。
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現代アートにはそれなりの存在意義があることは私も知っているつもりであるし、このボルタンスキー展をつまらないと断じるつもりもないが、自然と人間の作為の対比の中では、やはり自然こそがよりスケールの大きい「芸術」になっているという思いを、改めて強く持つこととなった晴天の週末であった。

by yokohama7474 | 2016-12-17 19:06 | 美術・旅行 | Comments(0)

愛知県 三河地方の古寺 普門寺、豊川稲荷、三明寺、専長寺、金蓮寺、華蔵寺、浄名寺

オペラとコンサートに疲れた(?)体を少し休めたいと思って、12/3(土)・4(日)と小旅行に出かけることとした。行先として私の頭の中に浮かんだのは、蒲郡。ガマゴオリという濁った響きが何やら神秘的な響きを帯びている上、温泉地として昔から名高い割には、これまでに実際に行ってみる機会はなかったし、周りで行ったという人もほとんど聞いたことがない。東京からはかなり遠くて不便だし、関西からでも同様。唯一中部地区の人たちにとってはそれなりになじみなのかもしれないが、それでも名古屋から50kmくらいはあるだろう。この蒲郡、いや、正確には「蒲郡あたり」に行ってみたいと思ったもうひとつの理由があって、それは、私の頭の中にこびりついた、ある映画のセリフであったのだ。

「次のクラス会なんだがね、どうだい、蒲郡あたりで」

お好きな人にはすぐに分かる、これは小津安二郎映画の中のセリフ。だが、カラー映画であることは覚えていたが、どの映画であるかについては自信がなかったので、後で自宅で調べてみると、それは昭和33年(1958年)制作の「彼岸花」。小津初のカラー作品である。セリフは正確には以下の通り。
 中村伸郎 : 「あ、それからね、また久しぶりにクラス会やろうってんだがね、どうだい」
 佐分利信 : 「なに」
 中村伸郎 : 「クラス会だよー、中学の」
 佐分利信 : 「あー」
 中村伸郎 : 「今度は関西の連中も合同でね、蒲郡あたりでやろうってんだがね、どうだい」

なるほど、関東と関西の中間地点として蒲郡が旧制中学のクラス会の場所に選ばれるという設定であったわけだ。このセリフ(佐分利信の上の空ぶりも含め)とカット割りから小津映画について延々論じたい誘惑にぐっと耐え、そして、その後「蒲郡あたり」の竹島でのクラス会のシーンで、笠智衆が楠正成の最期についての詩吟を披露して、友人たちがしんみりすることについても語りたいのを我慢して、今回の旅行についての記事を書いて行こう。念願の蒲郡あたりでの温泉宿泊はそれなりに快適なものではあったが、このブログで語るべき対象は温泉ではなく、さらに具体的に歴史と文化の宿るところ、つまりは三河地区の古寺の数々なのである。あ、その前に一応その、「彼岸花」における「蒲郡あたり」のクラス会のシーンだけ(笑)。
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さて、お寺に興味のない人もおられるであろうから(笑)、私が名古屋で家族と落ち合ってから蒲郡に向かう前、家人の要請によって名古屋港水族館に行ったという話を披露しておこう。正直なところ、なんだよ、寺回りの前に水族館か、ささっと見て早く移動しよう・・・と思ったものの、入ってみると面白くて面白くて、ヒャーヒャー騒ぎながら、あっという間に2時間を過ごしてしまいました(笑)。イルカやシャチや、珍しいところではベルーガ(シロイルカ)にも芸を仕込んでいて、なんとも心が癒される。それ以外にも見どころ満載の水族館だが、ここではひとつだけ、こういう生き方もあったのか!!と驚愕させられるチンアナゴの写真だけ載せておこう。アナゴの一種だが、水中の砂地に潜り、頭だけ地面から出してプランクトンを食べて生活している。大きな水槽にこんな連中がワサワサいて、その大真面目な姿がなんとも微笑ましく、ついつい水槽に貼りつき、そして写真を撮らずにはいられなかったのである。
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ちなみに「チンアナゴ」の名前の由来は、犬のチンに似ているからということらしい。これはWikiで使われているこの魚のアップ写真。やっぱり可笑しい。生まれ変わったらチンアナゴになりたい、とは思わないが、でも、こういう生活どうでしょう。体を安定させて餌を採る手段を確保し、いざとなれば地中に潜って難を逃れる・・・。なかなか巧妙だ。でも、「オレはこんな守りの生活はイヤだ。もっと自由に海の中を泳ぎ回りたい!!」という気概のあるヤツはいないのだろうか(笑)。いても食われてしまうのか。
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さて、地理的なポイントを整理しておこう。これは愛知県の地図であるが、県庁所在地である名古屋はもちろん昔の尾張の国。この地図の西1/3くらいである。それに対し、東側の2/3が三河地方。赤丸は蒲郡あたりを示している。
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徳川家康は岡崎の生まれ、つまり西三河の人間であり、この地域に寺社が多いのはそのあたりの事情も関係しているが、実は、その歴史を紐解いてみると、なんのなんの、江戸時代どころではなく、古く奈良時代に創建された寺も沢山あるのである。本州の中央あたりで海に面しているこの地方には、恐らくは古代から中央との交流があったのであろう。以下、素晴らしいいくつかの古寺のご紹介で、その歴史に想いを馳せてみたい。尚、通常仏像は撮影禁止の場合が多く、以下の記事においても、風景については基本は私の撮影した写真を掲載するが、仏像だけは外部のサイトから借用または書物からの撮影であること、お含み頂きたい。しかしながら、最後の浄名寺の円空仏だけは例外で、これは私の撮影になるものである。詳細は追って。

「蒲郡あたり」から車を走らせ、まず最初に向かったのは、豊橋市にある普門寺。実は、この寺に重要文化財の仏像が多く存在していることは知っていたものの、その公開は一年でも限られた期間しかない。今回、ちょうど我々が訪れた時期にもみじ祭りなるお祭りが行われていて、ちょうど仏像も公開されていたのである!!おぉ、これは何と運のよい。やはり普段の行いがよいせいでしょうなぁ(笑)。
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この普門寺は、なんと727年、行基菩薩による開基と伝わる古刹。実に古い。その後鎌倉時代には、源頼朝の帰依を受けたという。この寺には、その頼朝の等身大の像と伝わる不動明王とその脇侍が伝わる。愛知県指定文化財である。この不動三尊の前で人々は陶器の上にお灸をすえたものを頭の上にかぶって祈祷を受けている。ほうろく灸というらしい。
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またこの寺の収蔵庫には、貴重な国指定の重要文化財が6体伝わっていて、このような特別な機会にのみ公開される。その仏像とは、釈迦如来、阿弥陀如来と四天王だ。以下の写真で明らかなのは、この二体の如来と四体の天部は、少なくともそれぞれが一具のものであるということ。如来たちの台座は簡素ながら実にユニーク。また四天王は、一応袖がまくれ上がっている等の躍動感の表現は面白いが、むしろその田舎づくりの魅力がよいと思う。
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なんとも古式ゆかしい仏像群で、心が本当に癒されるのである。さて、この後はこの寺で経験した「もみじ祭り」の写真を一気に掲載しよう。嗚呼、なんと美しいことか。このような美しい景色を見るだけで人生、生きるに値する。
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またこの寺の本堂では、ほのかな明かりのもと、現代美術の展示が行われていて、薄暗い中に美的な感覚が満載であった。これはなかなかの工夫である。選ばれた場所の霊性をうまく使った企画であろう。
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普門寺を辞して向かった先は、日本でも有数の霊場、その名も高き豊川稲荷である。実はその正式名称を妙厳寺(みょうごんじ)という立派なお寺なのであるが、恐らくは民間信仰との混淆によるものであろう、日本有数の稲荷神社と認識されて賑わっている。
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ここには過去何度か来ようと思って果たせずにいた。今回念願叶って訪れてみると、仰ぎ見る空の実に広くて青いこと。そこで空気を吸うだけで霊験あらたかな思いである。
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またここには江戸時代に作られた庭があり、名勝に指定されている。決して広くはないが、心の洗濯には充分な広さである。
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実は大岡越前守ゆかりの品や重要文化財の仏像を展示する宝物館を楽しみにしていたが、閉館となると致し方ない。
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さて、この広々とした場所も開放的で素晴らしいのであるが、この豊川稲荷のすぐ近くに、観光客がほとんど訪れない必見の古寺がある。三明寺(さんみょうじ)である。この寺の歴史は気が遠くなるくらい古く、実に702年、大和国、橘寺の僧、覚淵が開基であると伝わっている。この寺はまた、「豊川弁財天」としても知られている。その弁財天は平安時代に三河国司を務めた大江定基という人物の愛人、力寿姫(りきじゅひめ)の死を悼んで彼女の面影を刻んだものであるという哀しい伝説がある。今の本堂の中には重要文化財に指定されている弁財天の宮殿がある。お参りする人も稀な霊場である。
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そしてこの寺には、やはり重要文化財の美しい三重塔がある。1551年の建造とのこと。それぞれの層が異なった表情を持ち、またその反り返った庇に、450年の歴史が降り積もっている。ちょうど紅葉の季節。魂が洗われる風景だ。再び、生きるって素晴らしい。
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この忘れがたい風景を目に焼き付け、次に向かった先は西三河、西尾市の専長寺である。前日から電話で拝観を予約して訪れた。
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後で触れるが、この西尾市はあの、忠臣蔵で悪者として描かれている吉良上野介の領地。由緒ある寺も沢山あり、また、海に面した地域ならではの海運との関係も理解することができる場所だ。何よりこの寺では、私がすべての仏像好きに広くお薦めしたい、驚愕の美仏がおわしますのだ。重要文化財の阿弥陀如来である。実に美麗な仏像なのである。
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あ、念のため。これらの写真は3体の別々の仏様ではなく、皆同じ仏像なのである。向かって右側から自然光が入っているので、時間帯によって、また見る角度によって、その表情は変化するであろう。事前に何冊かの本で仏像の存在は知っていたが、実際に現地を訪れてみると、お寺の方が仏像の由来を詳しく語って下さる。それによるとこの仏像を発願したのは、鎌倉幕府第三代将軍、源実朝の未亡人、出家して本覚尼と名乗った女性である。その本覚尼が、実朝の菩提を弔うため、あの仏師運慶に依頼して制作したのがこの仏像であるという。仏像好きの方にはすぐに分かるであろう。この中品中生の印は、運慶作であることが明確になっている静岡、韮山の願成就院の国宝、阿弥陀如来と共通するもの。しかも、願成就院の本尊の指先が欠けているのに対し、こちらはすべてきれいに残っているのである。私は一目で光背も台座の当時のものであると思ったが、果たして実際にそうらしい。近年、京都の国宝修理所で修復され、江戸時代の補修による派手な金箔が剥がされて、オリジナルのお姿が甦った。ただ、胎内からは運慶作という証拠は見つからなかった由。だが、私はこれを運慶作と信じたい。それほどに素晴らしい仏像であり、51歳になる今日までこの仏像と巡り合わなかった自分自身の不明を恥じたのである。ちなみにこれが、運慶作の願成就院の国宝、阿弥陀如来。是非上の専長寺のご本尊と比べてみて頂きたい。
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なお、この専長寺のご本尊は、明治期まで京都におられたとのこと。それは新京極に今でも現存する誓願寺。どうやら廃仏毀釈によるものらしい。先人が命を削って創り出した貴重な文化遺産を壊すのも人なら、守るのも人なのである。ただこの美しい阿弥陀如来だけが、その歴史の体現者なのである。またこの寺にはもう一体鎌倉時代の阿弥陀如来像があるが、それは立像で、西尾市指定文化財。こちらは快慶風の、やはり美しい仏さまだ。
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さてそれから向かったのは、東海地方に残るたった3棟の国宝建造物のひとつを擁する金蓮寺(こんれんじ)である。件の国宝は弥陀堂と呼ばれる建物。愛知県最古の建造物であり、実に1186年の建立。800年以上もここで命長らえていることは本当に驚きだ。この特徴的な庇は一体何であろうか。
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このお堂の中には県指定文化財の阿弥陀三尊像がおられるのだが、私が訪れたときは、堂の開閉を担当する住職の息子さんが不在であったので、内部の拝観はできなかった。また次の機会を狙うこととしよう。

さて、この西尾市がかつての吉良氏の領土であったことは前述したが、ここで面白い本を紹介しよう。竹村公太郎著になる「日本史の謎は『地形』で解ける」という書物である。
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上にある通り、養老孟司と荒俣宏が絶賛している書物を私が今更どうこう言うのもおこがましいが、この本、滅法面白い!! そしてこの中に、なぜ江戸時代に忠臣蔵が爆発的に流行ったかについての大変興味深い説が載っている。ヒントは、徳川と吉良はともに三河の出身。より河口に近い領土を持った吉良の方が灌漑に有利なのは明らかで、実際に西尾市には、吉良上野介 義央(よしひさ)が一晩にして築いたという黄金堤(こがねつつみ)の一部が現存している。そのような業績から、地元では吉良義央は稀代の名君なのである。次に私が訪れた華蔵寺(けぞうじ)はその吉良氏の菩提寺。現地に到着してみると、西尾市出身のもうひとりの有名人、「人生劇場」の尾崎士郎による碑のある吉良義央の像が。
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吉良家の墓所は、決して大人気で花が絶えないということではないにせよ、地元の人たちには大事にされていることは明らかだ。義央の墓はどちらかというと質素なもの。
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面白いのは、その義央をはじめとする吉良家の殿様たちを祀るお堂である。これがその中の義央の像。50歳のときの肖像で、本人もその出来を気に入って自分で彩色したと言われている。悪役のイメージとは異なる、なんとも穏やかな表情である。現地では未だに「吉良さん」として親しまれているようだ。
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面白いのは、堂内に貼られたこの説明書き。地元の人の思いが伝わってきて、なんとも心が温まる。
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尚、この寺の庭園はその吉良義央の命で作られたもので、まるで京都の寺の庭であるかのように美しい。またこの寺には池大雅筆による襖絵が伝わっているが、残念ながら今回は公開していなかった。
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そして最後に向かったのが、浄名寺というお寺。ここを紹介している書物はあまり多くないかもしれないが、実はここには、東海地方に数多く残された江戸時代の遊行僧、円空の手になる、いわゆる円空仏の中でも最大級の作品がおわすのである。このような簡素な堂の中に鎮座ましましている。
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拝観を乞うと、住職とおぼしき尼さんが出て来られ、堂内は自由に見学できるとのこと。だがこの頃には既に夕闇が迫っており、小雨も降っていたので、ご住職にお堂を開けて頂き、ライトを点灯して頂いて、この仏像の由来をご説明頂いた。また、写真撮影自由とのことで、このユニークな仏さまとの邂逅を楽しんだのである。
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木の塊に彫刻を施したものであるが、うーん、その表情の慈悲深いこと。しばし見入ってしまった。だが実はこの仏さまも、もともとここにいらしたものではなく、伊勢地方から廃仏毀釈の時代に運ばれてきたものであるという。この拓本にある背中の銘によると、「南海峯 白馬寺」とあるが、この白馬寺については、かつて伊勢にあった寺ということ以上に分かっていることはないようであった。
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このように数奇な運命を辿ってこの西尾の地に辿り着いたこの仏像であるが、なんとなんと、つい15年前までは、円空作であることも判明していなかった由。15年前、つまり平成13年に今のお堂が建立されたらしい。
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このように、三河地方には訪れる価値のある古寺が目白押しだ。私としても、まだまだ取りこぼしがある。できうればまた、「蒲郡あたり」で一泊しつつ、三河の古寺巡りを楽しみたい。

by yokohama7474 | 2016-12-15 23:26 | 美術・旅行 | Comments(0)

ゴッホとゴーギャン展 東京都美術館

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前項に引き続き、今東京で開かれているメジャーな西洋の画家の展覧会を採り上げる。オランダ出身のヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(1853-1890)と、フランス人ポール・ゴーギャン(1848-1903)。南仏アルルで共同生活を営んだことで知られる彼らの、互いへの尊敬と芸術家としての資質の共通点や相違点を、様々な角度から知ることできる展覧会である。12/18(日)まで上野の東京都美術館で開かれた後、年明けには名古屋に巡回する。

ゴッホとゴーギャン。同じ「ゴ」で始まる名前で紛らわしいが(笑)、彼らの個性は、それぞれに美術史上に燦然と輝くような素晴らしいものなのである。何がどう素晴らしいか、この展覧会に沿って見て行こう。会場には彼らに影響を与えたほかの画家たちの作品も並んでいるが、ここでは主役二人の作品に限って話を進めて行く。以下の写真は、上がゴッホ、下がゴーギャン。
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まずゴッホについて最初にひとつ注記しておくこととする。彼の名前を本国オランダ風に発音すると、フィンセント・ファン・ゴッホ。それをヴィンセント・ヴァン・ゴッホと読むのは英語風なのである。この展覧会では、タイトルこそ日本で一般的に知られた「ゴッホ」になっているが、会場の説明においても図録においても、「ファン・ゴッホ」という表記で一貫している。欧米ではこの呼び方が一般的なので、いわゆるグローバル・スタンダードに従っていると言えるだろう。これは一見識だ。だがこの記事では、一般的な呼称に従い、「ゴッホ」と呼ぶようにしよう。

ゴッホは絵画の専門教育を受けておらず、画家になる決心をしたのは、1880年、27歳のときだったと言われている。彼が自ら命を絶った(最近では異説もあるらしいが)のは1890年。つまり彼の画業はわずかに10年であったことになる。人間の持つ凄まじい潜在能力を実感させる話ではないか。だが彼の初期の作品は、いわゆる巧い絵画にはなっていないのである。展覧会の最初に展示されている「泥炭船と二人の人物」。1883年の作品である。よく知られた「ひまわり」や「星月夜」とは程遠い薄暗い画面であるが、画家が貧乏で充分な絵の具を買えなかったこともその一因であるようだ。だがここには、ゴッホらしい労働者へのシンパシーもあり、彼自身が生まれ育った環境であるオランダのどんよりした暗い空を美化せず描いている点にも、絵画を内面の吐露ととらえる真摯な姿勢が感じられる。
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これは1885年の「古い教会の塔、ニューネン」(農民の墓地)。これを見るとゴッホが決して内面性だけを重視していたわけではなく、対象物の形態を自己のフィルターを通して再構築しようという意図で絵画に取り組んでいたことが分かる。もちろん、この存在感のある塔が暗示しているのは、時を経ても変わらぬ人間の生活だという解釈もできるとは思うが。
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一方のゴーギャンであるが、彼もまた絵画の専門教育を受けておらず、株式仲買人として生計を立てていた。余暇に描いていた絵画を本業にする決意をしたのは1883年頃と言われている。つまり、ゴッホとゴーギャンの共通性は、ともに絵画の専門教育を受けていないにも関わらず、なんらかの強い情熱に突き動かされて、1880年前後に絵画の道に入って行くという点である。この頃のヨーロッパは、帝国主義、植民地主義が台頭し、ヨーロッパ内の戦争は落ち着きを見せる一方で、アジアやアフリカでの戦争が盛んになって行く時代である。大都市の発達とは裏腹に貧富の格差が生まれ、文化的には各地で退廃的な要素が増していた時代でもある。そんな中、この二人の芸術家は1887年にパリで出会い、その翌年、南仏アルルで共同生活を営むことになり、その強すぎる個性同士のぶつかりあいが、なんらかの化学反応を起こすのであるが、その前に、今度はゴーギャンの作風を見てみよう。これは1881年の「夢を見る子供」。自分の娘を描いているらしいが、既にしてその点がゴッホと異なる。ゴッホは一生独身で子供はいなかったし、もしいたとしても、このような作品は描かなかったろう。つまり、顔を壁の方に向けて寝ている子供の回りに、壁の模様の鳥たちや枕元の人形が、なにやら不気味な雰囲気を与えている。ここで描かれる個人的な幻想こそ、後年のタヒチにおける活動の原点なのではないか。
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1885年のゴーギャンの「自画像」。屋根裏部屋で創作に励む株式仲買人。この頃彼は精神的に相当追い詰められていたらしいが、ここで見られるのは、暗さとともに、控えめながら色彩への渇望が感じられる貪欲な作風であると言えるのではないだろうか。
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一方こちらはゴッホの1886年の作品、「パイプをくわえた自画像」。彼の自画像は非常に数多いが、この作品の暗いタッチでの劇的な描写は、後年の典型的な自画像とは異なる。情熱が感じられる点は、上のゴーギャンの自画像と共通するが、よりストレートで不器用と言えばそれなりに当たっているのではないか。
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そんなゴッホの個性を如実に表す「靴」(1886年作)。シュールの画家ルネ・マグリットに、やはり靴を描いた「赤いモデル」という謎めいた作品があるが、そちらは靴の先が人間の足になっている。そのひねくれ具合(?)に対して、この作品におけるストレートな人間性の表出はどうだろう。この靴の持ち主であろう労働者の、「不在による存在感」という意味では、既にシュールのなんたるかを知っている我々としては、これとてもシュールと呼べるかもしれないが、もちろんゴッホ自身の中にはリアリストしかいないのである。
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1887年の「自画像」。これこそが典型的なゴッホの自画像である。上に掲げた前年の作品との違いに感銘を受ける。ゴーギャンとの邂逅前夜、既にしてゴッホは我々の知るゴッホになっていたわけである。表現主義的と言ってもよいであろうが、そこに退廃はなく、前に進もうとする強い決心が感じられる。
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やはり同じ頃に描かれた「石膏トルソ(女)」。これはゴッホにしては珍しい題材だが、アマチュア画家として活動を始めた頃に比べると技術的には格段の進歩であり、神がこの男に与えた、充実した、しかし過酷な運命を、無言で表現しているようにも見える。ゴッホの作品としてはあまりほかに記憶のないような鮮やかな青も、その鮮やかさゆえに哀しみを感じさせる。
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かと思うと、やはり同じ頃の作品、「モンマルトル、ムーラン・ド・ラ・ギャレットの裏」は全く違う作風を持つ。そもそもモンマルトルにあるこの場所は、ルノワールの有名な作品にある通り、当時の文化人を含むパリの人々が集まってくる賑やかな場所であって、普通はトレードマークの風車か、あるいは集まってきた人々を描くものである。ゴッホ自身も別の作品では風車を描いているが、この絵では、「裏」を描いているのである点、ユニークである。だが、裏を描きながらもその色彩は印象派風に明るい。激しい情熱だけがゴッホの本質ではないことに思い当たるのだ。
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その頃のゴーギャンはいかなる作品を描いていたか。これは1886年、「ポン=タヴェンの木陰の母と子」。ポン=タヴェン(ポン=タヴァンともいい、私はそちらの呼び方の方になじみがあるが)とは、ブルターニュ地方の小村であり、1880年代に多くの風景画家がここで制作し、その作風はポン=タヴェン派と呼ばれたが、その中心人物がゴーギャンであったのだ。その後、1890年代に、やはりゴーギャンの影響のもとに制作された絵画の一派にナビ派があるが、そこから世紀末象徴主義はすぐ近くなのである。つまりゴーギャンのファンタジーは、ただ単に目に見えるものを美しく描くという印象派的な制作態度とは異なる次元を模索していたわけである。そう思ってこの絵を見ると、一見印象派風ではあるものの(実際に当時ゴーギャンは印象派展に何度か出展している)、色彩の多様性を捨てている点からも、外光の鮮やかさよりは、人の感情を反映したような風景を描いていることが分かると思う。
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そしていよいよこの二人は、南仏アルルで共同生活を始める。世の中には、男が二人で共同生活というだけで、同性愛ではないかと疑う風潮があるかもしれない。だが私はこの二人の画家の作品をこれまでにあれこれ見てきて、そのようなことは全く感じられないと思っている。今回、ネット検索で少し調べてみたが、ゴッホに多少同性愛的な要素を見る意見もあるが、概してこの二人の画家の共同生活に同性愛を想定する意見は少ない。例えばこれは、1888年にゴッホがアルルで制作した「レモンの籠と瓶」。ここに見られるのは、同性愛者のウェットな心情ではなく、ひたすら真摯に対象に迫ろうとする画家の心意気ではないだろうか。
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そしてこれは、同じ頃に描かれた「ズアーヴ兵」。ここではゴッホの研ぎ澄まされた感性が、赤と緑という強烈な補色関係にもとに発散されているように思う。描かれているズアーヴとは、アルジェリア兵人のフランス歩兵のこと。モデルの確保に苦しんでいたゴッホが見つけた恰好のモデルであったようだ。
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そしてやはり1888年に描かれた「ゴーギャンの椅子」。この展覧会のポスターにも使われている作品だ。上の作品と同系の緑を背景にしているが、ここでは人物は描かれておらず、ゴーギャンが座っているべき場所には蝋燭や書物が置かれている。これは、ゴッホがゴーギャンのことを「詩人」と称したように、書物や思想から来るイマジネーションに依拠するゴーギャンの芸術を表しているとのことである。ちなみにゴッホはこれと並んで「ファン・ゴッホの椅子」という作品も描いているが、ロンドンのナショナル・ギャラリーの所蔵するその作品は今回出展されていない。ちょっと惜しいことだと思う。
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一方のゴーギャンであるが、アルルに移る前にポン=タヴェンで描いた1888年の作品、「鵞鳥の戯れ」がこれである。なるほど外の景色を描いている点では印象派風ではあるものの、手前の方の水の描き方は実に象徴派的だ。ゴッホとの作風の違いは一目瞭然である。だが、使われている色彩は、実は上のゴッホの作品との共通点があるのである。
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やはりポン=タヴェンで1888年に描かれた「木靴職人」。労働者の姿ではあるものの、そこに座って作業している人物よりも、何か遠い世界の幻想的な雰囲気を思わせる。これこそが、この後突き詰められて行くゴーギャンのスタイルの萌芽であろう。
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同じ1888年、これはアルルで制作した「アリスカンの並木路、アルル」。うーん、美しい光景だが、現実を超えた毒々しさもあるのではないか。つまり、ただ単に美しい光景を描くことは、ゴーギャンの意識にはないのである。
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これもいかにもゴーギャンだ。同じ1888年の「ブドウの収穫、人間の悲惨」。赤と黒の対比が強い印象を与える。中央の女性の衣装はブルターニュのもので、アルルとブルターニュの融合が意図されているらしいが、その点はちょっとイメージが沸かないのが正直なところ。それよりも注目されるのは、ゴーギャンの描く人物は、決して人生を謳歌する楽し気な表情はしていないということであり、この女性も、角度や肘のつき方は異なるものの、デューラーの「メランコリア」を思わせる姿勢だ。
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アルルでのこの二人の天才の共同生活は、たったの2ヶ月しか続かなかった。1888年12月23日、ゴーギャンは自らの左耳の一部を切り落とし、その騒動の後、ゴーギャンは12月25日にはパリに帰ってしまう。その間の経緯については様々なことが言われているが、ともに絵画制作の高揚を迎えて発生した激しい個性のぶつかりあいに、生身の人間としての彼らが耐えることができなかったのであろうか。だがこの共同生活は、お互いの画家に重要なものを与えたことはまず間違いないだろう。

その後のゴッホとゴーギャンの軌跡を見てみよう。これは1889年にゴッホが描いた「ジョゼフ・ルーランの肖像」。駅で郵便物を管理する仕事をしていた彼をゴッホは何度か描いている。この背景は壁紙であろうか、それとも絵画自体の装飾なのであろうか。描かれた人物の優しい面も感じさせるが、やはり精神のヴォルテージが上がった状態を経ている危ない感覚もあるように思う。
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そして、これぞゴッホというべき、同じ1889年の「刈り入れをする人のいる麦畑」。上の絵では髭に表れていたウネウネ感は、ここでは麦に表れている!! 結局ゴッホはこの翌年、1890年の7月27日にオーヴェール=シュル=オワーズという場所の麦畑で自らをピストルで撃ち、2日後に亡くなっている。最近では自殺説に異論が唱えられていることもあるようだが、いずれにせよ精神の限界まで創作活動に打ち込んでいたことは事実であろう。まさに強い燃焼力を持った10年間の画業であった。
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ゴッホの死の翌年、1891年の4月1日にゴーギャンは初のタヒチ行きに出ている。結局彼はその後1903年まで生き永らえるのであるが、「ここではないどこか」を切実に希求する彼の魂は、比類ない芸術に結実する。1892年、タヒチで描かれた「小屋の前の犬、タヒチ」。ここには未だ呪術的な要素は見受けられないが、その色彩の強烈さに、描かれた風景の写実性を超えて圧倒される。
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我々の知るいわゆるゴーギャン的な作品、1899年作の「タヒチの3人」。さらに写実性はなくなっており、背景の色の帯は抽象的ですらある。そして描かれた人物たちは相変わらず虚ろな表情だ。ゴーギャンは、南洋の強い光の下でも、楽園からの追放を夢想していたのであろうか。
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最後に、ゴーギャンの死の2年前、1901年の作品である「肘掛け椅子のひまわり」をご紹介する。もちろんひまわりはゴッホの畢生のモチーフだ。ゴーギャンは、タヒチには自生していないひまわりの種をフランスから取り寄せたという。故郷を遠く離れた南国タヒチで、彼が思い出していたゴッホとは、一体いかなる芸術家であったのだろうか。強い生命力を感じさせながら、どこかもの哀し気に見えるひまわりである。
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西洋美術史の中でも、第一級の画家が二人、共同生活をして制作に励んだという例は、ほとんどないであろう。この展覧会から見えてくるものは、命を燃やしてそれぞれの個性を作品に叩きつけた彼らの、生の軌跡であるのである。

by yokohama7474 | 2016-12-10 01:16 | 美術・旅行 | Comments(2)

ダリ展 国立新美術館

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毎度おなじみの言い訳から入ると、なかなか記事をアップできないうちに、この展覧会の会期も残り数日になってしまっている(12月12日(月)まで)。だが今回は、あまり罪悪感はないのである。なぜなら、日本でも大人気のサルヴァドール・ダリ(1904-1989)が好きな人はとっくにこの展覧会を見ているであろうし、興味のない人はこの記事を見ても特に新たな心境の変化はないであろうからだ(笑)。そのくらいダリの人気ははっきりしている。かく申す私も若い頃から人並にダリは大好きで、タッシェン(ドイツの美術専門出版社)のダリ全作品集の日本語版を持っているし、私見では彼は西洋美術史の中でも、ダ・ヴィンチやフェルメールやセザンヌと並ぶくらいの、そう何人もいない大巨匠のひとりである。だが、それほどの人気者であるにもかかわらず、東京でダリの展覧会はこれまでにさほど多く開かれていない。今回は約10年ぶりとのことで、会場はかなりの混雑である。彼の最高の作品が目白押しというわけではないにせよ、その画業を辿ることで興味深い発見が多々ある展覧会であった。これがタッシェンのダリ全集。内容に比してその価格は決して高くない。
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会場には多くの初期の作品が並んでいて、これらを見ていると、我々がよく知っているシュールレアリズムの画家ダリが誕生するまでの軌跡を辿ることができて非常に興味深い。これは1918年に描かれた「魔女たちのサルダーナ」。ダリ14歳の作である。
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美術好きなら、当然これを見て連想する絵があるだろう。エルミタージュ美術館の至宝のひとつ、マティスの「ダンス」である。
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正確にはこれは「ダンス II」なのであるが、制作は1910年で、少年ダリの作品のたった8年前である。当時の印刷技術やマスコミの発達具合を思うと、いかにダリが少年の頃から既存の美術に敏感であったかが分かろうというものだ。だがその一方で、栴檀は若葉より芳し。1920年というから、ダリ16歳の作、「チェロ奏者リカール・ピチョットの肖像」。未だ後年のシュールさは出ていないものの、抒情あふれる雰囲気は紛れもなく一流のもの。そして背景にぽっかり空いた窓だけが、迫りくる神秘をそこはかとなく表している。
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窓とは、内部と外部の境界線。人間の心理が揺らぐところでもあろう。やはり1920年頃に描かれた「縫い物をする祖母アナの肖像」でも、やはりポカリと空いた窓が描かれている。こちらはより唐突感のある窓であり、後年のシュルレアリスト、ダリの萌芽が見られると思う。そして、青のきれいなこと!!彼の生まれ故郷、カタルーニャ地方カダケスの海と空の色であろうか。
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これは1921年頃の「ラファエロ風の首をした自画像」。誇張された首の太さや長さに比して、背景の印象派風の抒情性が素晴らしい。ここでは自画像が風景と一体になっているようでもあり、後で見るような地面から生えた首の原点がここにあるのかもしれない。
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印象派風と言えば、やはり1921年頃に描かれたこの「パニ山からのカダケスの眺望」は完全に印象派風であると言ってよいだろう。外光を浴びて試行錯誤する若き芸術家の姿を思わせる作品だ。
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画家の試行錯誤はまだまだ続く。これは1923年の「キュビスム風の自画像」。まさにモダニズムの雰囲気あふれるキュビスム風の肖像画である。後年のスタイルとは違っていても、技術的には非常に高度な咀嚼力を持つ画家であったことがよく分かる。
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これも1923年の「フィゲラスのファンタジー」。やはりキュビスム風であるが、この時代らしく、労働者という主題が扱われていて興味深い。私がこれを見て思い出すのは、シケイロス、オロスコ、リベラといったメキシコの革命絵画運動である。また、この顔はレーニンを思い起こさせるではないか。赤いダリ(?)。
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と思うと同じ1923年にこのような作品も描いている。「アス・リャネーの浴女たち」。なんということ、新印象派風の点描ではないか!!大丈夫かダリ。未だ十代とはいえ、シュールにはまだ遠く、本当にそこに辿り着くのか否か、少し不安になってくる(笑)。
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ところで、若い頃のスペインにおけるダリの盟友と言えば、詩人のガルシア・ロルカと映画監督のルイス・ブニュエルである。私は以前、この特別な才能を持った3人のかかわりを克明に追った大部な書物を読んでいるし、何を隠そう、四方田犬彦による650ページ超のブニュエルの伝記も、最近読み始めたばかり。とにかくブニュエルは私にとっては特別な存在であり、歴史上唯一映画におけるシュルレアリスムの作家として、彼の業績の偉大さには誠に脱帽ものだ。これは1924年の「ルイス・ブニュエルの肖像」。ダリとブニュエルの共同作業と言えば、言わずとしれた「アンダルシアの犬」であるが、その映画の制作は1928年。この肖像画よりも4年あとである。ここでは、四方田の伝記の表紙と、「アンダルシアの犬」の最も有名なシーンの写真も掲げておこう。あぁ、ブニュエルのシュールな映画群を、久しぶりに浴びるほど見たい!!
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これはブラックの作品ではなく、紛れもないダリの作品なのであるが、いやー、それは分からないでしょう。やはり1923年頃の「静物」。画家の試行錯誤は続いていたようだ。
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だがこの頃(20歳前後)から、シュールの片鱗が見えてくる。以下は「裸婦」と「水の中の裸体」。未だタッチは裸婦、いやラフながら、ダリがダリになりつつあることをはっきり認識することができるではないか。
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そして、1926年作の「巻髪の少女」に至って、いよいよダリのスタイルが現れてくる。解説によるとこの作品の霊感のもとは、ドイツの作家ヴィルヘルム・イェンゼンの「グラディーヴァ」という小説(1903年)だそうである。フロイトが精神分析で採り上げ、シュールレアリストたちにも多大な影響を与えた作品らしい。これは私も知らなかった。日本では種村季弘の訳で出ているようだ。今度読んでみよう。
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この1926年にダリは、もうひとつの作品でさらなる一歩を踏み出している。「少女の後ろ姿」。この細密描写はフェルメールばりである。上の「巻髪の少女」と同じく女性の後ろ姿を描いているあたり、ダリの女性観を垣間見ることができるように思うが、過度の精神分析よりも、この写実性から現実を超えて行く画家の大きな飛躍を感じたい。
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だが、未だ曲折がある。同じ1926年に制作された「岩の上の人物」。これは同郷の先輩、ピカソを彷彿とさせる作風ではないか。こらこら、あたかもこの人物のように、ダリは一体どういうつもりで道草食っているのだ!!(笑)
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さて、1929年に至ってこの作品が生まれている。「子ども、女への壮大な記念碑」。これぞまさによく知られているダリの世界。上記の作品群から数年で、大きなジャンプが成し遂げられたのである。うーん、これは正真正銘、どこからどう見ても紛うことなきダリではないか。
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ここから先、私がとやかくコメントするまでもなく、ダリ・ワールドの急速な展開が見られる。まずは「姿の見えない眠る人、馬、獅子」(1930年)。以前放送されたNHKの日曜美術館で、ゲストコメンテーターの横尾忠則がスタッフからこの絵について「何を描いていると思われますか?」と訊かれて、つっけんどんに「なんでもええんちゃいます?」と答えているのを見てゲラゲラ笑ってしまった。まあ一応、手前の不可解な動物は、右が頭とすると獅子に見え、左が頭とすると馬のようでもあり、腕を伸ばして寝ている男のようでもある。
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以下、圧倒的なダリ・ワールド。「皿のない二つの目玉焼きを背に乗せ、ポルトガルパンのかけらを犯そうとしている平凡なフランスパン」(1932年作)、「謎めいた要素のある風景」(1934年作)、「形態学的なこだま」(1936年作)、「パッラーディオのタリア柱廊」(1938年作)。謎が不定形に流れたり漂ったりしている。
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会場には、日本におけるダリ受容を示す雑誌や書物類がいろいろと置いてあって興味深いが、これは、著造修口瀧の「リダ」という書物。あ、違った、瀧口修造著の「ダリ」でした(笑)。瀧口修造は言うまでもなく、日本にシュルレアリスムを紹介した詩人であり、武満徹らが結成した前衛芸術集団、実験工房のメンバーたちのメンターであった人だ。
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そしてダリに運命的転機が訪れる。1929年、当時は詩人ポール・エリュアールの妻であったガラ(1894-1982)との出会いである。ガラはダリよりも10歳年上で、二人は1934年に結婚した。彼女はあらゆる意味でダリのミューズであったと言ってよいであろうし、ダリの作品中に頻繁に描かれるようになる。また、旦那の商売を積極的に後押しし、今日我々の知るサルヴァドール・ダリのイメージは、ダリ自身とガラの合作であると言えるのではないだろうか。これは1936年の「ガラの測地学的肖像」。ここではまたフェルメールばりの精密描写に抜群の手腕を示しつつも、相変わらず人物は後ろ姿を見せている。
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1940年、パリがナチスドイツに占領されたことをきっかけに、ダリとガラは米国に脱出した。ここからが商品としてのサルヴァドール・ダリが出来て行く過程になるのであろう。横浜美術館の平常展示コーナーにいつもは飾られている大作、「幻想的風景」三部作(1942年作)。自信に満ち溢れた画家の意気込みを感じることができる。
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ダリはまた、戦時中の米国で変わった実験を行っている。1942-43年作の「船」。
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実はこの作品、モンタギュー・ドーソンという海洋画家の作品に手を加えたもの。現在なら著作権で裁判になるようなケースであろうが、ダリの深層心理をあれこれ考えることができるような再創造であり、大変興味深い。
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これは1943年頃の「アメリカのクリスマスのアレゴリー」。卵の殻を北米のかたちに突き破って出て来ているのは何だろう。飛行機の一部であろうか。豊かな物量に恵まれた米国での生活への屈折した思いが描かれているのであろうか。
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米国でダリは依頼に応じて肖像画も描いている。これは1953年の「アン・ウッドワードの肖像」。ダリにしてはおとなしい絵であるが、モデルの女性の左横の岩に女のシルエットが浮かび、また、彼女の青いベルトは、あたかも背景の海につながってピーンと伸びているようである。面白い。
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ダリの舞台美術やそのスケッチもあれこれ展示されている。これは、1944年頃の「狂えるトリスタン」のための習作。もちろん、あのワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」を題材とし、そのオペラに基づくバレエ音楽で使われた背景幕の下絵である。ダリとトリスタン、ワクワクする組み合わせではないか。
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このブログのごく初期、昨年6月11日の記事で採り上げたダリの著作「私の50の秘伝」の挿絵の原画(1947年作)がいくつか展示されていて興味深い。これは、「真の画家は、果てしもなく繰り広げられる光景を前にしても、ただ一匹の蟻を描写することに自らを限定することができるはずである」。
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これは、詩人ギョーム・アポリネールの「秘密の詩」(1967年)の挿絵から、「泉の裸婦」。どんどん描き飛ばしていったようではあるものの、やはりダリの宇宙がそこにはあるのである。
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これは1969年の「不思議の国のアリス」の挿画から、「タルトをぬすんだのは誰か?」。これ、自由すぎませんか。
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さらに時代は下り、1977年の「ガラの晩餐」から、「ソドム風口直し」。遊びの要素が勝っていて、商品としてのダリの価値に大いに依存しているが、でもこれはこれで、やっぱり楽しいのが癪だ(笑)。
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ダリの芸術は、現実世界の深刻な問題と切り結んでいるとはとても思えない、ファンタジー溢れるものがほとんどだが、既にスペイン内乱に先立つ1936年に代表作のひとつ「茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)」(今回の展覧会には出品されていない)を制作している通り、社会的なメッセージが込められたものも時折ある。この展覧会では、第二次大戦における原爆の使用にショックを受けたダリが、原子力をテーマとして描いた作品もいくつか展示されている。これはまさに終戦の年、原爆投下の年である1945年に描かれた「ウラニウムと原子による憂鬱な牧歌」。恐ろしいイメージが散りばめられている中、下部の真ん中あたりに描かれた野球選手(ベーブ・ルース?)が、野球のないヨーロッパからやって来た画家の米国に対する皮肉のようである。
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これは戦争ではなく、ビキニ環礁での核実験を題材としたもので。「ビキニの3つのスフィンクス」(1947年作)。この記事の上の方で言及した「ラファエロ風の首をした自画像」との共通点はあまりないものの、首が地面から生えるという不思議な情景の萌芽は若い頃にあるのかもしれないと思ったものだ。
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ここで代表作のひとつに数えられる「ポルト・リガトの聖母」(1950年作)を見ることができる。なんと、福岡市美術館の所蔵になるものだ。ガラをモデルにした聖母が宙を浮遊していて、表面上の宗教性とは異なる不思議な空間が面白い。
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これは1956年頃の「素早く動いている静物」。10月15日の久石譲指揮の演奏会に関する記事でも言及した作品であるが、展覧会全体を振り返ってみると、この頃のダリは、その能力のピークを迎えていて、これ以降はさすがに衰えていったようにも思われる。スーパーリアリスムも真っ青な超絶写実技巧が、最後の輝きのようである。素晴らしい作品だ。
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いや、結論を急ぐのは避けよう。晩年の作品が並んだコーナーに、1962年制作の「テトゥアンの大会戦」という大作が展示されている。当時ダリは58歳。未だ老け込む年齢ではなかったと思うが、その前後の作品を見ると、これだけの大作は見当たらず、衰えぬ創作意欲を感じることができる。よく見ると細部はそれほど丁寧に描かれてはいないが、いわゆる典型的なダリのシュールレアリスムとは少し毛色の異なる雰囲気で(画面のガラが妙に浮いた笑顔であるのも不気味)、じっくりと見入ってしまった。
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これは1979年の「ラファエロ的幻覚」。合板に油彩で描かれていて、未完成のようにも見える。枯淡の境地の作品であろうか。
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これは1982年の「無題、エル・エスコリアル宮の中庭にいるヴェラスケスの『セバスティン・モーラ』」。スペイン絶頂期の王、フェリペ2世が建てたエル・アルコリアル宮の遠近法の狂った中庭と、自国の大先輩画家であるヴェラスケスの作品からの借用で成っている。これはコラージュではなく、ヴェラスケスの引用もどうやら手で描いているようで、さすがのデッサン力であるとは言えるが、その発散するファンタジーの強さには往年の力がないように思われる。
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最愛のガラが死去したのは1982年。ダリはその後7年間を生き延びるが、晩年の創作は限定的であったようだ。これは1983年の「チェロに残酷な攻撃を加えるベッドと二つのナイトテーブル」。色彩こそ鮮やかだが、写実性は後退し、例えばラウル・デュフィの作品のようなイメージだが、ダリの作品としては様式の混乱が見られるようで、どこか痛々しい。それもそのはず、この頃ダリは既に寝たきりで、ここで描かれているようなベッドの上でほとんど動けない生活を送っていたらしい。そう思ってよく見ると、ここで描かれた対象の浮遊感は、ダリ自身の夢の世界であったのかと思いたくなってくる。
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不世出の大画家の初期から晩年までを俯瞰することで、そのイメージの源泉について思索を巡らすことができる。次に大規模なダリ展が開かれるのはいつのことか判らないので、当分はこの展覧会を反芻することで、このシュールの巨人についての自分の中での位置づけを決めることにしたい。彼の生まれ故郷、フィゲラスのダリ美術館にも行ってみたいなぁ。この不敵な肖像写真、好きですよ(笑)。
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by yokohama7474 | 2016-12-07 00:29 | 美術・旅行 | Comments(0)

藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画 生誕130年 府中市美術館

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近代以降の日本人画家で、世界的に最も知られた名前は誰であろうか。この問いに対し、ほとんどの人は、エコール・ド・パリの中心的な画家であった藤田嗣治(ふじた つぐはる 1886-1968)と答えるであろう。1955年にフランスに帰化してからは、レオナール・フジタ = Leonard Foujita という名前で呼ばれ、多分世界的にはその名前で知られているはずである。今年はその藤田の生誕130年。このブログでも既に、昨年公開された小栗康平の映画「Foujita」や、東京国立近代美術館が保管する彼の戦争画の展覧会などを採り上げた。この記事で採り上げる展覧会は、この記念の年に彼の様々な作品を一堂に集め、このよく知られていながら実はよく知られていない画家の全貌に迫ろうという意欲的な企画なのである。会期は来週末、12/11(日)まで。日本の洋画、または東洋と西洋の文化の邂逅に興味があるという方にとっては、必見の展覧会なのである。
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この展覧会の会場は、東京の中心部ではなく、府中市美術館なのである。私は普段府中を訪れることはなく、ただ一度、10年以上前に、具象画家 遠藤彰子の展覧会を見にこの美術館に来たことがあるのみだ。久しぶりに訪れてみると、府中市民の憩いの場である広大な敷地の中の、気持ちよい場所なのだ。「知っているようで知らなかったフジタのすべて」というコピーが興味深い。
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展覧会は藤田の若い頃の作品から始まる。彼は軍医であった父の上官にあたる森鴎外の推薦で、東京美術学校、今の東京藝術大学に学んでいるが、在学中の成績は決してよくなかったらしい。これはその藝大が所蔵する1910年、24歳の頃の自画像。トレードマークのおかっぱ頭ではなく、画風もよく知られる彼のスタイルとは違っているが、清新の気風に満ちた勢いのある絵ではないか。
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その藤田が単身でパリに渡航したのは1913年。芸術家の創作活動の展開や、それが世に入れられる過程には、様々な宿命的なめぐり合わせが往々にしてあるものだが(先般記事にした速水御舟の場合もそうであった)、藤田の場合も、モンパルナスの安アパートの隣にモディリアニやスーチンという画家たちが住んでいたというから驚きだ。これが渡仏の年に描かれた「スーチンのアトリエ」。ハイム・スーチンはロシア系のユダヤ人で、やはりエコール・ド・パリの中心人物のひとり。この絵にもまだ藤田の個性を見出すことはできないが、新天地で決意をもって絵を描く若い芸術家の息吹が伝わってくる。
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当時美術の最先端であったパリ。その地で藤田は様々な刺激を受けて、当然のことながら、スタイルの模索が始まる。1914年の「キュビスム風景」は、文字通りキュビズムを追求したもの。キュビズムの歴史上最初の作品は、1907年に描かれたピカソの「アヴィニョンの娘たち」だと言われているので、それからほんの7年しか経っていない。だがここには、やはり藤田の心の奥からの共感はないように見受けられる。
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これは1917年の「収穫」。ルーヴルで学んだ古代ギリシャの壺の絵に影響されているとのことだが、私にはそれよりもむしろ、モディリアニのスタイルへの追随かと思われる。やはりこれも、藤田独自のスタイルとして完成されたものには見えない。
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この後もやはり試行錯誤が続いていたようで、少し寂し気な作品がいくつか並んでいる。これは1917年の「ル・アーヴルの港」。この荒涼とした画面は、画家の内面の心象風景であると思いたくなる。
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第一次大戦中、1918年の「風景」。南仏のカーニュというところにモディリアニやスーチンとともに疎開した際のもの。このゆがんだ光景にはやはり屈折した感情が満ちているように思われてならない。そして、この骨太の構図や単純な色合いに、私は北川民次(メキシコで活躍した画家)を連想するのであるが、藤田と北川は極めて対照的なスタイルの画家であるだけに、大変興味深い。実は藤田と北川の縁については後述するが、ここで認識しておくべきは、1894年生まれの北川がメキシコに渡ったのは1921年。この絵の制作よりも後なのである!!うーん、面白い。
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1920年代に入ってパリにおける藤田の評価は急上昇。例の乳白色の裸婦というスタイルを確立して行く。これはその頃、1922年の「バラ」。下地は乳白色に近いものがあるが、この不思議な存在感を持った、そしてあちこちに向いた何本かのバラの意味するところは何であろう。私には、真ん中にすっくと伸びた一本が、藤田の高揚する気持ちを表しているように思われる。
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こんな面白いものも描いている。1923年の「アントワープ港の眺め」。これはまるで都市を描いた中世の絵画のようではないか。アントワープの銀行家の自宅を飾る装飾画として依頼されたもののひとつであるとのことだ。スタイル確立の過程にありながら、未だ模索を続ける画家の姿を見ることができる。
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同じ年の暮れ、藤田はついに素晴らしい傑作を生みだすことになる。現在では東京国立近代美術館が所蔵する「五人の裸婦」である。彼が初めて群像表現に挑んだこの作品は、サロン・ドートンヌに出品され、25,000フランという当時のサロン出品作の最高額がつけられた。
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ここで描かれている五人の女性は人間の五感を表しており、左から触覚(布を持つ)、聴覚(耳をつまむ)、視覚(見て見てという感じ?)、味覚(口を指差す)、嗅覚(犬を連れている)。五感と言えば、(諸説あるものの)藤田の暮らしたパリのクリュニー美術館にある一角獣のタペストリーを思い起こすし、西洋絵画における寓意としてはなかなかに気の利いたもの。その一方で、この女性たちのたたずまいはどう見ても西洋的ではなく、東洋の女性のイメージをうまく作り上げている。まさに試行錯誤を経て花開いた藤田の芸術である。こうして人気画家になった藤田のもとには、肖像画の依頼が相次ぐ。これは1924年の「ギターを持つ少年と少女」。二人とも黒目で、東洋的なものを感じさせる。東洋への憧れを持つ依頼主であれば、大変喜んだことであろう。
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これも1924年の作、「動物群」。室内装飾のために描かれたものと推測されているとのことだが、写実と様式化、西洋と東洋が不思議に融合した面白い絵であると思う。
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これは1927年頃の「猫のいる自画像」。猫好きであったと見える藤田は、似たような構図での自画像をいくつも描いているが、この繊細な線と白く透明感ある背景、そして妙に生々しい表情の猫の組み合わせが、ほかにない藤田独特の世界を表している。
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これは1929年の「立てる裸婦」。非常にモダンな感覚であるが、この画家が裸婦を描く必然性のようなものまで感じさせてくれる作品だ。
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同じく裸婦を描いた1931年の「仰臥裸婦」。西洋美術の伝統を感じさせつつ、布の陰影や、全体に見える線の細さは、同時に日本的でもある。有名なフュースリの「夢魔」と同じ女性のポーズでありながら、これほど雰囲気の異なる絵画はあるまい(笑)。
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藤田はこの1931年に、個展開催のために南北アメリカへ行く。アルゼンチンのブエノスアイレスでは、6万人が個展に足を運び、1万人がサインを求めて列をなしたという。い、1万人!!クラシックコンサート終演後のサイン会が、吹っ飛んでしまうような規模である(笑)。そこで藤田はまた画家としての変貌を模索する。1932年の「カーナバルの後」は、リオのカーニヴァルの後の様子を描いているが、大騒ぎのあとの倦怠感は、これまでの藤田芸術になかったものであろう。また、「室内の女二人」は、どう見ても娼婦だろう。藤田らしからぬ卑俗な生々しさが画面全体を覆っている。
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かと思うと、一風変わった宗教画も描いている。日本に帰国した翌年、1934年の「殉教者」。キリストの恰好だが、顔は明らかに東洋人。いかなる意図で描かれたものであるか分からないが、不思議な東西融合の感覚は、やはり藤田ならでは。
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藤田はその後中国に向かい、ここでもこのような独特の絵を描いた。1934年の「力士と病児」。この生命力の塊のような男の肖像は、これまでの藤田にはなかったパターンだ。どこかマンガ風というか、現代の中国アートのようにも見えて面白い。
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西洋を体験して来たせいか、日本人を描いてもどことなくエキゾチックだ。これは「ちんどんや 職人と女中」。なんともキッチュである。
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1930年代に藤田は多くの壁画を手掛けたという。1935年には、銀座コロンバンの壁画を描いている。当時の人々が夢見た「本場ヨーロッパの光景」ということだろうか。
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これは1937年作の「北川民次の肖像」。藤田と北川は1932年にメキシコで出会い、意外なことに、親しい親交があったようだ。藤田らしからぬラフなタッチでひとなつっこく微笑む北川の顔が印象的だ。上に触れた通り、これほど違うタイプの藤田と北川が、何かの不思議な縁によってお互いに影響しあっていた可能性を知り、興奮したのであった。
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これは1938年の「客人(糸満)」。沖縄の光景を描いている。ここにもキッチュな感覚が溢れている。まさに「知られざる藤田」の顔である。
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あれ、これはゴッホの作品か? 違います。1939年に藤田が描いた「モンマルトルのアトリエ」。1920年代のパリでの栄光は、日本に帰国してからどのように思い出されたのであろうか。明るい色彩の中に複雑な心理状態が投影されているように思う。
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これは有名な「猫」。1940年の作で、東京国立近代美術館の所蔵。争い合う猫の群れが、戦争に突き進む闘争的な時代の雰囲気を表しているという説があるようだが、さて、どうだろう。繊細でいてダイナミックな動きを持つ藤田の猫をじっくり鑑賞しよう。
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そして、問題の戦争画が3点、展示されている。藤田の戦争画については昨年11月22日の近代美術館での展覧会の記事で詳しく採り上げたので、ここでは繰り返さないが、この1943年作の「アッツ島玉砕」は、凄まじい群像画として鬼気迫るものがある。ドラクロワ、ジェリコーといったロマン派絵画を思わせる面もあって、興味は尽きない。
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従軍までして熱心に戦争画を描いた藤田には戦後、激しい非難(もちろんそれ以前にもやっかみ半分の非難はあったのだろうが)を受けることとなる。それに嫌気をさした藤田は、1949年に日本を離れ、ニューヨークに向かう。これはその年に制作された「猫を抱く少女」。展覧会のポスターにもなっている作品で、その乳白色の背景といい少女の人形さながらの表情といい、藤田の個性が再度花開いたように思われるが、内心にいかなる思いを抱えていたものであろうか。
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1955年にはフランスに帰化。子供たちを描いた絵など、自由な境地で創作活動を続けたように見える。これは1958年の「パリ、カスタニャ通り」。
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この作品、なぜか私の琴線に触れるものである。硬質な線と繊細なリアリズムであるが、しかし人物は描く対象にはなっていない。これは屋外で描いた壮大な静物画のようなものではないか。題名がスペイン風であることもあり、私にはどうしてもスペイン・リアリズムの巨匠、アントニオ・ロペス・ガルシアの作品が想起されるのである。もちろんそんなことはどこの解説にも書いておらず、私の勝手な思いなのであるが、試みにそのロペス・ガルシアの作品をここに掲げておこう。うーん、ちょっと違うか(笑)。
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さて展覧会は、藤田が後年多く手掛けた宗教画の数々で締めくくられる。これは1952年の「二人の祈り」。藤田自身と妻君代が祈りを捧げている。この絵には藤田のある一面であるキッチュな味が出ていて、あまり敬虔な気持ちにはならないものの(笑)、ちょっとほかでは見ることのできないユニークな個性が出ていて、私は好きである。また、藤田夫妻が実際に祈っている写真も残されている。
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一方、これはヨーロッパの伝統的な図像にある程度準拠した、1959年作の「聖母子」。この華やかな色彩の裏に潜む画家の複雑な思いを感じようではないか。
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これは、私が見に行ったときには展示されていなかったが、図録で私の大きな関心を惹いた、1960年の「黙示録」のなかの「四人の騎士」。これはもうほとんどアウトサイダーアートではないか。
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こうして画業を振り返ってみると、実に様々な顔を持った画家であると思うが、一方でその創作態度は実は非常に一貫しているとも思われる。ここではあまり触れなかったが、彼が日本の画壇でいかなる中傷を受けたのか、それに対してどのように反応したのか、そのような経緯にも、この画家の秘密を考えるヒントが沢山隠れているように思う。ともあれ、彼の芸術はこれからも末永く人々を魅了するものであろうから、この機会にその全貌に迫る試みをしてみる価値は充分にある。府中市美術館に走れ!!

by yokohama7474 | 2016-12-03 00:10 | 美術・旅行 | Comments(0)

速水御舟の全貌 日本画の破壊と創造 山種美術館

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日本画史上に燦然とその名を輝かせている夭折の画家、速水御舟(はやみ ぎょしゅう、1894-1935)については、昨年7月5日の記事でも、世田谷美術館での関連展覧会をご紹介した。その展覧会には、御舟周辺の画家たちの作品も展示されていて、彼の活動の前後まで含めて展望する機会であった。一方、現在東京恵比寿の山種美術館で開催されているこの展覧会(今週末まで)は、2点の重要文化財を含む代表作が勢揃いするなど、この画家の画業を広範に辿ることができる非常に貴重な機会なのである。例によって例のごとく、会期終了間際になってのアップであるが、この記事をご覧になる方が、ひとりでも多く会場に足を運ばれることを願う次第である。因みにこの山種美術館、120点もの御舟作品を蔵する「御舟美術館」であるが、この展覧会は多くの所蔵者からの出展を含む80点からなるものだ。これが御舟。真面目そうな人である。
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速水御舟は東京浅草生まれ。本名は蒔田栄一であるが、後に速水家の養子となり、速水姓を名乗ることとなる。14歳で実家近くの案雅堂画塾というところに入門した。この画塾の主催者は松本楓湖(ふうこ)という、歴史画で知られた画家であったらしい。自由な雰囲気を持っていたこの画塾で出会った先輩が、今村紫紅(しこう 1880-1916)である。紫紅も日本画史上に燦然と輝く天才であるが、35歳で死去。御舟と紫紅とは、近代日本画が確立していく過程でともに試行錯誤した夭逝の天才であるが、ともに官立の美術学校で教育を受けておらず、幼少から画塾で学んだという点が興味深い。この展覧会では、御舟少年時代の作品も並んでいるが、これは17歳のときに古典絵巻の一部を模写した「瘤取之巻」(こぶとりのまき)。闊達な線に驚かされる。
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これはその翌年の制作になる「萌芽」。今村紫紅の南画風なところもあると思うが、これはどう見ても何かの模写や誰かの真似などではなく、画家自身の描きたいものを描いたのであろう。尼僧の全く写実的ではない顔と、周りに生えた、これまた現実離れのした植物たちの幻想性。当時の大富豪であり芸術家たちのパトロンであった原三渓が気に入って購入し、以降御舟のよき理解者となったきっかけを作った作品だそうである。
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これは1917年、23歳のときの「黄昏」。写実性よりも幻想性に依っている点は上の作品と共通しているものの、絵の持つ雰囲気は全然違う。青が大変美しいが、御舟自身、「群青中毒にかかった」と語った頃の作品である。これまた日本画史上に残る大画家である小林古径(当時34歳)が気に入って購入したという経緯を持つ。そのように考えると、御舟は若い頃から理解者に恵まれていたことが分かる。もちろん才能がないとそうはならないが、短い命と引き換えに、何か運命的なものに背中を押されて画業に邁進して行ったということであろう。
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これはその翌年の「洛北修学院村」の部分。スタイルは上の作品と共通しているが、まるでシャガールのようなメルヘンめいたこの幻影はどうだろう。御舟は実際に修学院村の寺に住んで、その記念としてこの作品を描いたという。村の農民たちの生活が描かれているが、庶民の生活への温かい視線というよりも、風景に溶け込む人々の生活の尊さを感じさせる。原三渓の旧蔵品だ。
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ところがその2年後、1920年に御舟は驚くような作品を発表する。現在では東京国立博物館の所蔵になる「京の舞妓」である。これはまさに、洋画家岸田劉生言うところの「でろりとした」絵画ではないか。
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上のメルヘン風の絵画とこれほど異なる不気味な絵があるだろうか!!御舟自身の言葉によると、「人間の浅ましい美しさ」と「陰の奥に存在する真実」を舞妓に見出して描いたとのこと。当時未だ26歳のこの画家の作品を、押しも押されぬ大家であった横山大観は激しく非難し、御舟の院展除名すら求めたという。一方、こちらは洋画壇の中心人物であった安井曾太郎は、御舟の「実在表現」の姿勢を高く評価したとのこと。なるほど、それはよく分かる気がする。この作品、壺や舞妓の衣装などは精密に描かれているのに、その顔は怨恨に満ちたかのような強烈なデフォルメがなされている。その意味では、上に掲げた「萌芽」と、技法は違えど共通点があるのではないだろうか。目に見えるものを綺麗に描くことには、御舟は興味がなかったのだ。それがやがて究極の作品「炎舞」につながって行くのである。これからその過程を辿ることになるが、これは「京の舞妓」の翌年、1921年に描いた「菊花図」。実は昨年7月5日の「速水御舟とその周辺」展の記事でもご紹介した。今確認すると、あっなんだ、そのときも岸田劉生と「でろり」について既に語っているではないか!!なのでここでは多言を弄さず、この菊の花の不気味な存在感をお楽しみ下さいと申し上げよう。今回の図録の解説によると、御舟と劉生は実際に交流があったとのことで、劉生の御舟への影響は明らかなのである。
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同じ1921年の作「鍋島の皿に柘榴」。この絵はある意味で極めて写実的ではあるが、皿を上から覗いているのに、柘榴は真横から描いていて、架空の情景なのである。セザンヌを思わせるところもあるが、一見つややかに描かれた対象物の「でろり」感は、セザンヌとは全く異なるものだ。
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これは御舟の意外な一面を示すもの。1923年の「灰燼」だ。制作年で明らかな通り、これは関東大震災の直後の光景。地震発生時に御舟は上野の院展会場にいたが、自宅に向かう途中で家族の無事が判明すると、文具店でスケッチブックを購入して瓦礫の街を写生して歩いたという。この絵には悲惨な感じはなく、むしろキュビズム風の実験精神が見えるように思うが、現実を超えた災害に向ける画家の鋭い視線も感じることができる。
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そして1925年。あの名作が誕生する。山種美術館の至宝、重要文化財の「炎舞」である。私としては、対面が確かこれが3回目。前回は未だ移転前の千鳥ヶ淵にあった旧山種美術館であった。そのときの展示方法は正直言って感心しなかったが、今回は素晴らしい。漆黒の闇に怪しく浮かび上がる炎を、見事な展示方法で演出している。
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私のように日本の古美術が好きな人間にとっては、この炎は明らかに仏画を思わせる。この絵が宗教性を感じさせるのはそういう点も関係していよう。ご参考までに、青蓮院の国宝、青不動の画像をお目にかける。因みにこの奇跡の絵画は、今では京都の将軍塚というところにお堂ができて、館内で少し距離を隔ててとはいえ、いつでも拝観できる。
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さてこの「炎舞」、軽井沢に3ヶ月間滞在した際に、毎晩のように焚き火を起こし、そこに群がる蛾を観察したことから生まれた。渦を巻いて上昇する炎の力と、それに翻弄され、チリチリと羽を焦がしながらも、短い生を無言で生きる蛾の不規則な動き。誰もが食い入るように見入ってしまう作品だ。実はこれに近い雰囲気の作品を御舟はもう1点描いている。「炎舞」の翌年1926年に描かれた「昆虫二題」のうちの「粧蛾舞戯(しょうがぶぎ)」。これも山種美術館の所蔵である。
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確かに雰囲気は近いが、だが底知れぬ怪しさという点では、「炎舞」には及ばない。そもそも、「炎舞」というシンプルな題名に比較して、なんとも説明的な題名ではないか(笑)。きっと御舟自身、自分の描いてしまった作品を恐れていたのではないだろうか。だが御舟の創造性の素晴らしさは、このような一定の雰囲気にとどまらず、貪欲に多様な作風を試みていることだろう。例えばこれは、「炎舞」と同じ1925年の軽井沢滞在中に描かれた「樹木」。こちらは量感たっぷりな樹木を描いていて、蛾の集う夜の世界とは全く異なるが、やはり現実を離れた幻想性という点では、題材としての共通点はあると思う。
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この「炎舞」を描いた時点から、御舟に残された時間はあと10年。だが彼の探求心は新たな境地に彼を導いたのだ。1928年の作品、やはり山種美術館蔵の「翠苔緑芝(すいたいりょくし)」。四曲一双の金屏風である。
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一見して琳派風の装飾的な画面。黒猫と白兎の対比も面白い。だが、翌年1929年の作品はもっと素晴らしい。重要文化財、これも山種美術館所蔵の「名樹散椿(めいじゅちりつばき)」。全体像と一部のアップの写真を掲げよう。
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この作品は京都のその名も椿寺と呼ばれる寺にあった樹齢四百年の木を素材にしたもの。だがここでは相変わらず写実というよりも、生き物のようなただならぬ迫力の創出に画家の主眼があるように思われる。先般、NHKの日曜美術館で紹介されていたが、この作品の背景には、金箔でできる正方形の升目や、金泥でできる色のむらがなく、完全に均質な金になっていて、装飾性が際立っている上に、なんとも品格がある。それを可能にした技法は、御舟が編み出したという独特の手法、「撒きつぶし」である。金の粉を、にかわを塗った紙の上にまき散らし、丁寧に手でそれを延ばして行く手法で、金箔の10倍の金を使用するという。御舟はその命を削って、この美麗かつ迫力ある作品を創り出したのである。

その後御舟は、1930年に渡欧している。イタリア政府主催のローマ日本美術展覧会(上記の「名樹散椿」も出展された)の式典出席の後、フランス、スペイン、イギリス等を10ヶ月に亘って歴訪している。因みにこのローマへの派遣は横山大観も一緒だったようだが、例の「京の舞妓」での激怒は、このときまでには鎮まっていたのであろうか(笑)。これはフレンツェで描いた「塔のある風景」。おー、これはまた、安野光雅かと思ってしまうような叙情性と現代性だ。
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渡欧から帰国後の御舟は、人物像の模索にとりかかる。これは1932年の「花ノ傍(かたわら)」。うーん、今度は、モダニズムあふれる清新な作品ではないか。今度はあの、「京の舞妓」を誉めたという安井曾太郎を思わせる作風だ。常に新たなものにチャレンジする御舟の旺盛な創作意欲に、心打たれるではないか。
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そして御舟は、若い頃取り組んだ模写の世界にも戻っている。これは1934年に描かれた、池上本門寺の「日蓮上人像」の模写である。
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周知の通り本門寺は、日蓮が旅の途中で倒れて世を去った場所で、日蓮宗の聖地のひとつ。この肖像画のオリジナルは惜しくも戦争で焼失してしまって現存しないが、御舟が模写したということは、本門寺の秘宝にふさわしい由緒正しいものであったのだろう。この鬼気迫る表情に、日蓮という人の強固な意志がみなぎっているではないか。模写でありながらその霊力まで写し取ったような御舟の気迫に圧倒される。

そして、御舟の命は翌年、1935年で突然途絶えてしまう。腸チフスであった。絶筆となった「円かなる月」。皇居前の松にかかる月を描いたものであるらしい。習作を経て最初に仕上げた作品は、日記には「松図失敗改作に決す 心動揺を覚えずにいられぬ」とあることから、一旦破棄されたことが分かっており、この2作目は6日間で仕上げたとのこと。もちろん彼はこれが最後の作品になるとは思っていなかったに違いない。だが、「炎の舞」ではあれだけ濃く、それだけに強い吸引力のあった闇が、ここでは薄ら明るい月夜であり、「名樹散椿」ではあれだけ逞しく繁茂していた木の枝が、ここでは細く弱々しい。変わらぬものを持ちながらもスタイルを変遷させてきた御舟が最後にこの世に残したものは、ある種の枯淡の境地を示す小さな作品であった。
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このように速水御舟の画業には驚くべき面が多々あり、今後も人々に訴えかける作品群であると思う。40年の短い生涯でこれだけの実績を残した画家はそうはいないだろう。「炎舞」だけが御舟ではなく、だが一方で彼の才能を凝縮させた奇跡的な作品が「炎舞」であったのだということを、改めて実感することとなった。未だご覧になっていない方は、今週末、山種美術館に走られたし!!

by yokohama7474 | 2016-11-28 23:46 | 美術・旅行 | Comments(0)

平安の秘仏 滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち 東京国立博物館

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前項では東京国立博物館(通称「東博」)で開催中の禅についての大展覧会をご紹介したが、実はもうひとつ、是非お薦めしたい展覧会が同じ東博で開催中であるので、そちらもご紹介しよう。上記ポスターにある通り、会期は12月11日までだから、こちらの方がまだ少し時間があるので、あまり焦りはないが(笑)。

ここで展覧されているのは、滋賀県にある櫟野寺(らくやじ)のご本尊十一面観音座像と、同寺の所蔵する他の重要文化財の仏像、合計20体である。展覧会場はごく狭いところではあるが、ひとつの寺からこのようにまとめて仏像がやって来て展示されるというのはかなり珍しいと思う。会場の東博本館には、このようなのぼりが掲げられていて、ワクワクする。
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櫟野寺は、びわ湖の南側、忍者で有名な甲賀市にある古刹である。792年に最澄が延暦寺の建立に必要な材木を求めて櫟野(いちの)の里を訪れ、櫟(いちい)の霊木に仏像を刻んだのが始まりと言われる。この寺には、平安時代の仏像が大小20体現存し、すべて重要文化財に指定されているのだ。私はこれまで2回、この寺を訪れている。最初はまだ高校生だったかと思う。そして2回目はつい最近、去年である。この展覧会に「平安の秘仏」とある。秘仏になっているのは本尊十一面観音であるが、私が若い頃は確か、いつでも見ることができたように記憶している。今では、正月三が日と夏の1日、そして春と秋の数日ずつしか開扉されないようである。ところが現在、本堂と宝物館の改修のため、このような東京でのまとめての展示が可能になったということらしい。仏像ファンにとっては、所蔵する古寺を実際に訪れてそこで拝観するのが常道であるものの、今回のような展覧会には特別な価値がある。それは、ライティングであったり配置であったりという洗練された展示方法によるものであり、特に今回の場合、厨子から出ないと絶対に見ることのできない本尊の背中側を見ることができることは、興味尽きない体験だ。それでは、まずはその本尊をご覧頂こう。
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写真でも充分伝わると思うが、大変迫力ある仏さまである。像高312cm、台座から光背までを含めると実に5mを超える巨像である。観音像は通常立っている(立像=りゅうぞうという)ことが多く、それは庶民を救う役目を追う観音様は、すぐに動いて庶民救済を行う必要あるからだ。このような座像はそれだけで珍しいが、これだけの巨像の造立によって何か強い力を表したいという意向があったのかもしれない。いわゆる丈六仏(立った高さが1丈6尺=4.8m)のサイズである。お顔のアップと、頭上の背面にあって通常は見ることのできない暴悪大笑面のアップによって、その迫力を感じて頂きたい。
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会場入ってすぐ右には、毘沙門天像がある。あの征夷大将軍、坂上田村麻呂(自身が伝説化され、北方の守護神である毘沙門天にたとえられるようになった人物)の発願によるものとの言い伝えがあるらしい。いかにも平安時代の古風で動きのない造形だが、ずっしりした体躯が逞しい。
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会場奥に並ぶのは、薬師如来坐像と地蔵菩薩坐像。
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観音菩薩立像。この下膨れの顔や太い鼻、厚い唇は、本尊の造形を受け継いでいると見られている。明らかにこの櫟野の地での造形パターンということだ。
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地蔵菩薩と吉祥天。やはり存在感ある造形だ。
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興味深いのはこの観音菩薩像。表面に鑿のあとが残る、いわゆる「鉈彫り」と呼ばれる手法である。以前は東国の武士好みの造形と言われたものだが、これは近畿での、しかも武士政権が確立する以前の制作であるので、何か別の解釈が必要であろう。もちろん、未完成という説もあるらしいが、顔や胸はきれいに仕上がっているので、この鑿あとは作為的に残しているという説の方が有力であるらしい。霊木から姿が浮き上がってくるところという神秘的な説もあるようだ。黙して語らぬ菩薩像。
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その他観音像の一部の写真を以下に掲げる。
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破損しているものも多いが、千年近い時を超えて、このように多くの仏像が残っていること自体、なんとも素晴らしいことではないか。東京にいながらこれらの仏像にまとめてお目にかかれるこの機会、是非多くの人々に有効活用して頂きたい。

by yokohama7474 | 2016-11-23 23:38 | 美術・旅行 | Comments(0)