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日本画史上に燦然とその名を輝かせている夭折の画家、速水御舟(はやみ ぎょしゅう、1894-1935)については、昨年7月5日の記事でも、世田谷美術館での関連展覧会をご紹介した。その展覧会には、御舟周辺の画家たちの作品も展示されていて、彼の活動の前後まで含めて展望する機会であった。一方、現在東京恵比寿の山種美術館で開催されているこの展覧会(今週末まで)は、2点の重要文化財を含む代表作が勢揃いするなど、この画家の画業を広範に辿ることができる非常に貴重な機会なのである。例によって例のごとく、会期終了間際になってのアップであるが、この記事をご覧になる方が、ひとりでも多く会場に足を運ばれることを願う次第である。因みにこの山種美術館、120点もの御舟作品を蔵する「御舟美術館」であるが、この展覧会は多くの所蔵者からの出展を含む80点からなるものだ。これが御舟。真面目そうな人である。
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速水御舟は東京浅草生まれ。本名は蒔田栄一であるが、後に速水家の養子となり、速水姓を名乗ることとなる。14歳で実家近くの案雅堂画塾というところに入門した。この画塾の主催者は松本楓湖(ふうこ)という、歴史画で知られた画家であったらしい。自由な雰囲気を持っていたこの画塾で出会った先輩が、今村紫紅(しこう 1880-1916)である。紫紅も日本画史上に燦然と輝く天才であるが、35歳で死去。御舟と紫紅とは、近代日本画が確立していく過程でともに試行錯誤した夭逝の天才であるが、ともに官立の美術学校で教育を受けておらず、幼少から画塾で学んだという点が興味深い。この展覧会では、御舟少年時代の作品も並んでいるが、これは17歳のときに古典絵巻の一部を模写した「瘤取之巻」(こぶとりのまき)。闊達な線に驚かされる。
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これはその翌年の制作になる「萌芽」。今村紫紅の南画風なところもあると思うが、これはどう見ても何かの模写や誰かの真似などではなく、画家自身の描きたいものを描いたのであろう。尼僧の全く写実的ではない顔と、周りに生えた、これまた現実離れのした植物たちの幻想性。当時の大富豪であり芸術家たちのパトロンであった原三渓が気に入って購入し、以降御舟のよき理解者となったきっかけを作った作品だそうである。
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これは1917年、23歳のときの「黄昏」。写実性よりも幻想性に依っている点は上の作品と共通しているものの、絵の持つ雰囲気は全然違う。青が大変美しいが、御舟自身、「群青中毒にかかった」と語った頃の作品である。これまた日本画史上に残る大画家である小林古径(当時34歳)が気に入って購入したという経緯を持つ。そのように考えると、御舟は若い頃から理解者に恵まれていたことが分かる。もちろん才能がないとそうはならないが、短い命と引き換えに、何か運命的なものに背中を押されて画業に邁進して行ったということであろう。
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これはその翌年の「洛北修学院村」の部分。スタイルは上の作品と共通しているが、まるでシャガールのようなメルヘンめいたこの幻影はどうだろう。御舟は実際に修学院村の寺に住んで、その記念としてこの作品を描いたという。村の農民たちの生活が描かれているが、庶民の生活への温かい視線というよりも、風景に溶け込む人々の生活の尊さを感じさせる。原三渓の旧蔵品だ。
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ところがその2年後、1920年に御舟は驚くような作品を発表する。現在では東京国立博物館の所蔵になる「京の舞妓」である。これはまさに、洋画家岸田劉生言うところの「でろりとした」絵画ではないか。
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上のメルヘン風の絵画とこれほど異なる不気味な絵があるだろうか!!御舟自身の言葉によると、「人間の浅ましい美しさ」と「陰の奥に存在する真実」を舞妓に見出して描いたとのこと。当時未だ26歳のこの画家の作品を、押しも押されぬ大家であった横山大観は激しく非難し、御舟の院展除名すら求めたという。一方、こちらは洋画壇の中心人物であった安井曾太郎は、御舟の「実在表現」の姿勢を高く評価したとのこと。なるほど、それはよく分かる気がする。この作品、壺や舞妓の衣装などは精密に描かれているのに、その顔は怨恨に満ちたかのような強烈なデフォルメがなされている。その意味では、上に掲げた「萌芽」と、技法は違えど共通点があるのではないだろうか。目に見えるものを綺麗に描くことには、御舟は興味がなかったのだ。それがやがて究極の作品「炎舞」につながって行くのである。これからその過程を辿ることになるが、これは「京の舞妓」の翌年、1921年に描いた「菊花図」。実は昨年7月5日の「速水御舟とその周辺」展の記事でもご紹介した。今確認すると、あっなんだ、そのときも岸田劉生と「でろり」について既に語っているではないか!!なのでここでは多言を弄さず、この菊の花の不気味な存在感をお楽しみ下さいと申し上げよう。今回の図録の解説によると、御舟と劉生は実際に交流があったとのことで、劉生の御舟への影響は明らかなのである。
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同じ1921年の作「鍋島の皿に柘榴」。この絵はある意味で極めて写実的ではあるが、皿を上から覗いているのに、柘榴は真横から描いていて、架空の情景なのである。セザンヌを思わせるところもあるが、一見つややかに描かれた対象物の「でろり」感は、セザンヌとは全く異なるものだ。
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これは御舟の意外な一面を示すもの。1923年の「灰燼」だ。制作年で明らかな通り、これは関東大震災の直後の光景。地震発生時に御舟は上野の院展会場にいたが、自宅に向かう途中で家族の無事が判明すると、文具店でスケッチブックを購入して瓦礫の街を写生して歩いたという。この絵には悲惨な感じはなく、むしろキュビズム風の実験精神が見えるように思うが、現実を超えた災害に向ける画家の鋭い視線も感じることができる。
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そして1925年。あの名作が誕生する。山種美術館の至宝、重要文化財の「炎舞」である。私としては、対面が確かこれが3回目。前回は未だ移転前の千鳥ヶ淵にあった旧山種美術館であった。そのときの展示方法は正直言って感心しなかったが、今回は素晴らしい。漆黒の闇に怪しく浮かび上がる炎を、見事な展示方法で演出している。
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私のように日本の古美術が好きな人間にとっては、この炎は明らかに仏画を思わせる。この絵が宗教性を感じさせるのはそういう点も関係していよう。ご参考までに、青蓮院の国宝、青不動の画像をお目にかける。因みにこの奇跡の絵画は、今では京都の将軍塚というところにお堂ができて、館内で少し距離を隔ててとはいえ、いつでも拝観できる。
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さてこの「炎舞」、軽井沢に3ヶ月間滞在した際に、毎晩のように焚き火を起こし、そこに群がる蛾を観察したことから生まれた。渦を巻いて上昇する炎の力と、それに翻弄され、チリチリと羽を焦がしながらも、短い生を無言で生きる蛾の不規則な動き。誰もが食い入るように見入ってしまう作品だ。実はこれに近い雰囲気の作品を御舟はもう1点描いている。「炎舞」の翌年1926年に描かれた「昆虫二題」のうちの「粧蛾舞戯(しょうがぶぎ)」。これも山種美術館の所蔵である。
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確かに雰囲気は近いが、だが底知れぬ怪しさという点では、「炎舞」には及ばない。そもそも、「炎舞」というシンプルな題名に比較して、なんとも説明的な題名ではないか(笑)。きっと御舟自身、自分の描いてしまった作品を恐れていたのではないだろうか。だが御舟の創造性の素晴らしさは、このような一定の雰囲気にとどまらず、貪欲に多様な作風を試みていることだろう。例えばこれは、「炎舞」と同じ1925年の軽井沢滞在中に描かれた「樹木」。こちらは量感たっぷりな樹木を描いていて、蛾の集う夜の世界とは全く異なるが、やはり現実を離れた幻想性という点では、題材としての共通点はあると思う。
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この「炎舞」を描いた時点から、御舟に残された時間はあと10年。だが彼の探求心は新たな境地に彼を導いたのだ。1928年の作品、やはり山種美術館蔵の「翠苔緑芝(すいたいりょくし)」。四曲一双の金屏風である。
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一見して琳派風の装飾的な画面。黒猫と白兎の対比も面白い。だが、翌年1929年の作品はもっと素晴らしい。重要文化財、これも山種美術館所蔵の「名樹散椿(めいじゅちりつばき)」。全体像と一部のアップの写真を掲げよう。
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この作品は京都のその名も椿寺と呼ばれる寺にあった樹齢四百年の木を素材にしたもの。だがここでは相変わらず写実というよりも、生き物のようなただならぬ迫力の創出に画家の主眼があるように思われる。先般、NHKの日曜美術館で紹介されていたが、この作品の背景には、金箔でできる正方形の升目や、金泥でできる色のむらがなく、完全に均質な金になっていて、装飾性が際立っている上に、なんとも品格がある。それを可能にした技法は、御舟が編み出したという独特の手法、「撒きつぶし」である。金の粉を、にかわを塗った紙の上にまき散らし、丁寧に手でそれを延ばして行く手法で、金箔の10倍の金を使用するという。御舟はその命を削って、この美麗かつ迫力ある作品を創り出したのである。

その後御舟は、1930年に渡欧している。イタリア政府主催のローマ日本美術展覧会(上記の「名樹散椿」も出展された)の式典出席の後、フランス、スペイン、イギリス等を10ヶ月に亘って歴訪している。因みにこのローマへの派遣は横山大観も一緒だったようだが、例の「京の舞妓」での激怒は、このときまでには鎮まっていたのであろうか(笑)。これはフレンツェで描いた「塔のある風景」。おー、これはまた、安野光雅かと思ってしまうような叙情性と現代性だ。
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渡欧から帰国後の御舟は、人物像の模索にとりかかる。これは1932年の「花ノ傍(かたわら)」。うーん、今度は、モダニズムあふれる清新な作品ではないか。今度はあの、「京の舞妓」を誉めたという安井曾太郎を思わせる作風だ。常に新たなものにチャレンジする御舟の旺盛な創作意欲に、心打たれるではないか。
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そして御舟は、若い頃取り組んだ模写の世界にも戻っている。これは1934年に描かれた、池上本門寺の「日蓮上人像」の模写である。
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周知の通り本門寺は、日蓮が旅の途中で倒れて世を去った場所で、日蓮宗の聖地のひとつ。この肖像画のオリジナルは惜しくも戦争で焼失してしまって現存しないが、御舟が模写したということは、本門寺の秘宝にふさわしい由緒正しいものであったのだろう。この鬼気迫る表情に、日蓮という人の強固な意志がみなぎっているではないか。模写でありながらその霊力まで写し取ったような御舟の気迫に圧倒される。

そして、御舟の命は翌年、1935年で突然途絶えてしまう。腸チフスであった。絶筆となった「円かなる月」。皇居前の松にかかる月を描いたものであるらしい。習作を経て最初に仕上げた作品は、日記には「松図失敗改作に決す 心動揺を覚えずにいられぬ」とあることから、一旦破棄されたことが分かっており、この2作目は6日間で仕上げたとのこと。もちろん彼はこれが最後の作品になるとは思っていなかったに違いない。だが、「炎の舞」ではあれだけ濃く、それだけに強い吸引力のあった闇が、ここでは薄ら明るい月夜であり、「名樹散椿」ではあれだけ逞しく繁茂していた木の枝が、ここでは細く弱々しい。変わらぬものを持ちながらもスタイルを変遷させてきた御舟が最後にこの世に残したものは、ある種の枯淡の境地を示す小さな作品であった。
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このように速水御舟の画業には驚くべき面が多々あり、今後も人々に訴えかける作品群であると思う。40年の短い生涯でこれだけの実績を残した画家はそうはいないだろう。「炎舞」だけが御舟ではなく、だが一方で彼の才能を凝縮させた奇跡的な作品が「炎舞」であったのだということを、改めて実感することとなった。未だご覧になっていない方は、今週末、山種美術館に走られたし!!

by yokohama7474 | 2016-11-28 23:46 | 美術・旅行 | Comments(0)

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前項では東京国立博物館(通称「東博」)で開催中の禅についての大展覧会をご紹介したが、実はもうひとつ、是非お薦めしたい展覧会が同じ東博で開催中であるので、そちらもご紹介しよう。上記ポスターにある通り、会期は12月11日までだから、こちらの方がまだ少し時間があるので、あまり焦りはないが(笑)。

ここで展覧されているのは、滋賀県にある櫟野寺(らくやじ)のご本尊十一面観音座像と、同寺の所蔵する他の重要文化財の仏像、合計20体である。展覧会場はごく狭いところではあるが、ひとつの寺からこのようにまとめて仏像がやって来て展示されるというのはかなり珍しいと思う。会場の東博本館には、このようなのぼりが掲げられていて、ワクワクする。
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櫟野寺は、びわ湖の南側、忍者で有名な甲賀市にある古刹である。792年に最澄が延暦寺の建立に必要な材木を求めて櫟野(いちの)の里を訪れ、櫟(いちい)の霊木に仏像を刻んだのが始まりと言われる。この寺には、平安時代の仏像が大小20体現存し、すべて重要文化財に指定されているのだ。私はこれまで2回、この寺を訪れている。最初はまだ高校生だったかと思う。そして2回目はつい最近、去年である。この展覧会に「平安の秘仏」とある。秘仏になっているのは本尊十一面観音であるが、私が若い頃は確か、いつでも見ることができたように記憶している。今では、正月三が日と夏の1日、そして春と秋の数日ずつしか開扉されないようである。ところが現在、本堂と宝物館の改修のため、このような東京でのまとめての展示が可能になったということらしい。仏像ファンにとっては、所蔵する古寺を実際に訪れてそこで拝観するのが常道であるものの、今回のような展覧会には特別な価値がある。それは、ライティングであったり配置であったりという洗練された展示方法によるものであり、特に今回の場合、厨子から出ないと絶対に見ることのできない本尊の背中側を見ることができることは、興味尽きない体験だ。それでは、まずはその本尊をご覧頂こう。
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写真でも充分伝わると思うが、大変迫力ある仏さまである。像高312cm、台座から光背までを含めると実に5mを超える巨像である。観音像は通常立っている(立像=りゅうぞうという)ことが多く、それは庶民を救う役目を追う観音様は、すぐに動いて庶民救済を行う必要あるからだ。このような座像はそれだけで珍しいが、これだけの巨像の造立によって何か強い力を表したいという意向があったのかもしれない。いわゆる丈六仏(立った高さが1丈6尺=4.8m)のサイズである。お顔のアップと、頭上の背面にあって通常は見ることのできない暴悪大笑面のアップによって、その迫力を感じて頂きたい。
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会場入ってすぐ右には、毘沙門天像がある。あの征夷大将軍、坂上田村麻呂(自身が伝説化され、北方の守護神である毘沙門天にたとえられるようになった人物)の発願によるものとの言い伝えがあるらしい。いかにも平安時代の古風で動きのない造形だが、ずっしりした体躯が逞しい。
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会場奥に並ぶのは、薬師如来坐像と地蔵菩薩坐像。
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観音菩薩立像。この下膨れの顔や太い鼻、厚い唇は、本尊の造形を受け継いでいると見られている。明らかにこの櫟野の地での造形パターンということだ。
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地蔵菩薩と吉祥天。やはり存在感ある造形だ。
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興味深いのはこの観音菩薩像。表面に鑿のあとが残る、いわゆる「鉈彫り」と呼ばれる手法である。以前は東国の武士好みの造形と言われたものだが、これは近畿での、しかも武士政権が確立する以前の制作であるので、何か別の解釈が必要であろう。もちろん、未完成という説もあるらしいが、顔や胸はきれいに仕上がっているので、この鑿あとは作為的に残しているという説の方が有力であるらしい。霊木から姿が浮き上がってくるところという神秘的な説もあるようだ。黙して語らぬ菩薩像。
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その他観音像の一部の写真を以下に掲げる。
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破損しているものも多いが、千年近い時を超えて、このように多くの仏像が残っていること自体、なんとも素晴らしいことではないか。東京にいながらこれらの仏像にまとめてお目にかかれるこの機会、是非多くの人々に有効活用して頂きたい。

by yokohama7474 | 2016-11-23 23:38 | 美術・旅行 | Comments(0)

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これは、東京国立博物館で11/27(日)まで開催されている展覧会。なかなか記事をアップできずにいたが、とにかく会期内に書こうと思い、ギリギリながらここで皆様にご紹介することとした。というのも、これは大変に網羅的に禅に観点する貴重な文化財を取り揃えた展覧会で、これだけの規模と内容での展示は、今後もそうそうあるものではないからだ。日本人の精神世界に深く関わる禅を知ることは、自分たちが何者であり、過去に何をやってきたか、将来何をして行くべきなのか、そのような厳しい問いに直面することでもある。分かったような分からないような、人を食った物の言い方を禅問答のようだと言うが、ロジックでない何かに崇高な価値を求める東洋の発想自体に、我々の住む地域の特性が出ているということだろう。この展覧会は、今年の春に約1ヶ月京都で開催され、秋に東京でやはり約1ヶ月開催されるもの。合計しても2ヶ月しか開催期間がなく、期間中に展示替えもあるので、すべての作品を目にすることはもともと難しい。だがそれもまた一期一会。もし残る期間に現地に赴かれ、そのときの展示品を相対すれば、必ずや何か考えるヒントが得られるものであろうと考え、及ばずながらここに拙文を披露しようとするものである。

まずこの展覧会であるが、臨済禅師没後(仏教用語では「遠諱」(おんき)というらしい)1150年、白隠禅師没後250年を記念して開かれるもの。これらの高僧がどんな人たちであるかについては以下で言及されるが、ではそもそも禅とは何なのであろうか。展覧会における主催者側の冒頭挨拶から引用してみよう。

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およそ千五百年前、達磨大師(だるまだいし)によってインドから中国へ伝えられたとされる禅宗は、唐代の中国において臨済禅師義玄(りんざいぜんじぎげん)によって広がり、我が国には鎌倉時代にもたらされました。禅は武家のみならず、天皇家や公家にまで広く支持され、日本の社会と文化に大きな影響を与えました。
UNQUOTE

QUOTE
禅は、釈尊の坐禅による悟り、即ち仏心を言葉や文字によらず、心から心へと伝えていくことを宗旨としております。体得したものは文字言句では説明し尽くせないからです。
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ここで既に本質的なことが明らかになっている。つまり禅とは、ほとけの悟りの極意を、視覚聴覚で認知できる方法ではなく、心をもって伝えて行く仏教の一派であるということだ。それゆえ、この展覧会の副題は「心をかたちに」となっているのであろう。また、その禅の日本における広がりは、武家政権確立とともに始まり、広く社会に受け入れられて行ったということなのである。それから、もうひとつここで認識すべきなのは、この展覧会は、日本における3派の禅宗のうち2派、つまり臨済宗と黄檗宗(おうばくしゅう)の文化財の展示に限られ、もうひとつの宗派である曹洞宗(そうとうしゅう)は対象から外れていることだ。武家の支持を受けて鎌倉や京都で盛んとなった栄西を開祖とする臨済宗に対し、曹洞宗の開祖道元は、山奥に籠って修行することを是とした(福井の永平寺が総本山であることを想起すれば理解できるはず)。一方の黄檗宗は、江戸時代になって入ってきた中国風の禅で、全国規模で見ればマイナーな存在だ。従って、京都の華やかな禅寺の多くは臨済宗であり、この展覧会にはその臨済宗の寺院からの出展が多いと整理できる。ご覧頂ける通り、多くが高僧とその事績にまつわる遺品である。

では出品作を見て行こう。禅宗の高僧の名前には今日使われていない漢字も多く、ちゃんと漢字変換できない可能性もあるが、その点は何卒ご容赦を。まず最初は、禅の開祖である達磨を描いた作品。山梨県の向嶽寺の所蔵する国宝だ。
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日本でもおなじみのダルマさんはこの人であるが、壁に向かって9年間坐禅したために手足が腐ってしまったという伝承が日本のダルマの形態のいわれである。なんとも壮絶な修行の様子を可愛らしいキャラクターにしてしまう感性が、昔から日本人にあったということではないだろうか。この達磨の絵は、人間的な凄みを感じさせるもので、賛(絵の上の部分の文字)を書いているのは、鎌倉建長寺の開祖、蘭渓道隆だ。彼についてはまた後ほど触れるが、彼の賛が入っていることで、この絵が日本に禅宗が導入された最初期のものと判明するので、非常に貴重な遺品なのである。

仏教の流派はよく、始祖からの正統的な継承を重要視するが、臨済禅はとりわけその要素が強く、六大祖師なる存在が崇敬された。これは最初のふたり、達磨と、その弟子である慧可(えか。日本では雪舟の「慧可断臂図」で知られる)である。京都の妙心寺所蔵になる鎌倉時代の作品で、日本における六大祖師像の現存する最古の例であり、重要文化財だ。
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そして、臨済宗の名前の由来となっている中国の高僧、臨済義玄。彼の没年は867年。来年が没後1150年ということだ。温和な肖像画もあるが、これはまるで鬼のような怖い形相で、「怒目奮拳(どもくふんけん)」と呼ばれる様式。裂帛の気合ということだろう。これも日本の気合と根性文化のひとつの源流であろうか(笑)。興味深い。尚、ここで賛を書いているのはあの一休宗純。京都真珠庵所蔵の重文である。
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さて、禅宗の開祖達磨、臨済宗の開祖臨済義玄とくれば、次は臨済宗を日本に伝えた明珍栄西である。この人の名前は、歴史の教科書にも載っているのでおなじみであるが、字面から「えいさい」とつい読んでしまうのだが、正しくは「ようさい」と読むらしい。昨年岡山の吉備津神社を訪れた際に彼の生誕地の案内が出ていたが、父親はその神社の神官であったとのこと。臨済禅のみならず、喫茶の習慣も日本に伝えたことで知られる。これは現存する彼の最古の肖像画で、京都の両足院所蔵。この人の場合、後世の肖像彫刻も沢山あるが、いずれもこの四角いユニークな頭のかたちをしているのですぐ分かる(笑)。実際に頭が良すぎて、こんな格好に発達していたのだろう。
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これは、それほど有名な方ではないが、無準師範(ぶじゅんしばん)。京都東福寺の所蔵する国宝である。東福寺の開山である聖一国師円爾が宋に渡って弟子入りしたのがこの高僧で、賛は無準師範自身のもの。皇帝にも近い高僧で、弟子の中には、日本にやってきた無学祖元や、伝説的絵師である牧谿がいる。穏やかな表情に厳しさもたたえた、素晴らしい肖像画ではないか。
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そしてこれが、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の肖像だ。彼が開いた鎌倉、建長寺の開山堂に安置されているが、最近の修理によって江戸時代の塗装を剥がし、面目を一新したとのこと。瞳には水晶が入っていて、まさに生けるがごとき風貌。私のもと上司の副社長を彷彿とさせる(笑)。それだけリアルだということで、鎌倉時代の肖像彫刻の傑作だ。重文である。
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一方こちらは、やはり建長寺が蔵する蘭渓道隆の画像。自ら賛を書いている由緒正しいもので、国宝。面長であるが、きっと上の彫刻よりは若い頃の肖像なのであろう。そのように、画一的なものでない複数の肖像から、実際にこの高僧が日本で活動していたという750年も前の歴史的事実を如実に表している点、そのリアリティに圧倒される思いである。会場にはまた、この蘭渓道隆の書(「法語規則」)も展示されている。やはり建長寺の所蔵する国宝だ。
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鎌倉を代表するもうひとつの禅寺、円覚寺を開いたのは、無準師範の弟子である無学祖元(むがくそげん)。その円覚寺が所蔵する自賛の肖像画(重文)と、相国寺所蔵の彼の書である「与長楽寺一翁偈」(国宝)。さすが、いい字書きますねぇ。
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この展覧会の主催者あいさつからの抜粋で、禅が武家だけでなく天皇家や公家にも支持されたとあったが、その事実を体現する人がいる。鎌倉時代の亀山法皇だ。彼はなんとあの京都の大寺院、南禅寺の開基であるのだ。そのやんごとなき由緒ゆえに、南禅寺は京都五山、鎌倉五山双方の別格という位置づけに置かれたのである。これは南禅寺の所蔵する亀山法皇の彫像で、重文。崩御まもなく制作されたものであろうと見られる由。確かにリアルで人間的である。Wikiを見ると、「禅宗に帰依し、亀山法皇の出家で公家の間にも禅宗が徐々に浸透していく。その一方で、好色ぶりでも知られ、出家後も様々な女性と関係をもって多くの子供を儲けている」とある。なるほど、広く人生の機微を探訪された方であったようだ(笑)。だが江戸時代になると、狩野探幽の画像(やはり南禅寺蔵)のように、威厳をもって描かれるようになる。
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その一方、私の好きな高僧の肖像画がある。やはり京都有数の禅寺である大徳寺の開祖、大燈国師 宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)の自賛つきの画像。その大徳寺所蔵の国宝だ。何か不愉快なことでもあったのだろうか、横目できっと睨み付けるようなこの面構えには、美化のかけらもない。きっと厳しい人だったのでしょうね(笑)。この妙超が弟子に与えた書、「徹翁」(てっとう)の豪快さはどうだ。大徳寺所蔵になる重文である。ちなみに今回確認して知ったことには、この大徳寺、あれだけの名刹でありながら、京都五山には入っていない。理由は、室町幕府が五山制度を整備した際に、もともと後醍醐天皇に近かったこの寺を足利尊氏が排除したからだとのこと。今日、五山制度(ちなみに対象寺院はすべて臨済宗)は禅寺の格式そのものかという誤解を招きやすいが、なんのことはない、政治的な要素も多分にある中で制定されたものであるわけだ。妙超の「徹翁」の字を見ていると、そんなことはどうでもよくなってくる。
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そしてもう一人、有名な高僧をご紹介する。夢窓疎石(むそうそせき)である。彼は庭園の設計でも知られ、自ら初代住職となった天龍寺以外にも、京都なら西芳寺(あの苔寺だ)、鎌倉の瑞泉寺、そして私も先般訪れた岐阜の永保寺などに、彼の庭園が残っている。京都の嵐山ある天龍寺は足利尊氏の開基になるもので、それゆえにもちろん、京都五山第一位の高い寺格を持つ。上記の通り、人間のやっていることであるから、五山制度は足利氏の思惑によって整備されたものであることを再認識しよう。だが私は天龍寺の庭は大好きで、もう何度でも行きたくなるほど素晴らしい(今頃は紅葉がきれいだろうなぁ・・・)。そんな庭を造った夢想疎石を私は心から慕うし、このような自賛の肖像画(妙智院所蔵の重文)を見ても、きっと心の澄んだ人だったのだろうと思う。彼の書として展示されている「天龍寺臨幸私記」(鹿王院所蔵、重文)は、実務的な内容でありながら、涼やかな字とお見受けする。そういえば武満徹も、彼の名を題名とした曲を書いている。
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次は私が今回初めて知った、広島三原市の佛通寺というお寺にある2体の彫刻をご紹介する。即休契了(しっきゅうけいりょう)とその弟子、佛通寺開山の愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう)である。室町時代の制作で、県の文化財指定であるが、中央から離れた三原において長らく守られてきたことに感動する。佛通寺はそれなりに知名度のある寺院であり、開山のこの僧たちの念が未だに続いていると思わせるような、生けるかごとき肖像である。
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室町時代の禅僧で最も有名な人はもちろん一休宗純であろう。私も以前このブログの記事で、彼が晩年を過ごした京田辺市の酬恩庵をご紹介したが、とんちの一休さんという姿ではない、狂気をはらんだ天才僧としての姿こそ、後世の人たちに何かを訴えかける。展覧会には、自賛入りの若い肖像画(奈良国立博物館蔵)が展示されているが、これは現存する最も早い時期の一休の肖像画であるそうだ。後ろに長い朱色の太刀が見えるが、これにはいわれがある。一休が堺の街中を木製の剣を持って歩き回ったとき、そのわけを訊かれて、「世の偽坊主はこの木剣のようなもの。室の中にあれば真剣に見えるが、いざ室を出るとただの木片で、人を殺すことも活かすこともできない」と答えたとか。いやはや、一休自身はきっと真剣のような人であったのだろう。
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それから、インゲン豆で有名な隠元隆琦(いんげんりゅうき)もユニークな僧であった。江戸時代に京都・宇治に黄檗山萬福寺を開き、新たな中国風禅宗である黄檗宗の開祖となった。これはその萬福寺が所有する自賛入りの肖像画。これまで見てみた通り、禅僧の肖像画、いわゆる頂相(ちんぞう)にはそれまで正面から描かれたものはなく、これは新機軸であったようだ。ここで彼の持つ長い杖は行脚用のもので、実際に萬福寺には隠元が使ったと言われる長い長い杖が残っていて、この展覧会にも展示されている。力強い「黄檗山」の字にも、この人の生きざまが表れていると感じる。
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さてそれから展覧会は、戦国武将と禅僧との関連のコーナーに入る。ここでは、展示されている戦国武将の肖像をいくつかご紹介する。まず、これは誰でしょう。答えは、九州の有力大名、大友宗麟である。宗麟といえば、キリシタン大名であったはず。このような僧の格好での肖像とは意外である。これは自身が菩提寺として開いた京都、大徳寺塔頭の瑞峯院に伝来したもので、百か日法要のために制作された可能性があるという。つまり、生前の姿をかなり忠実に伝えるものだろう。キリスト教に改宗しても、仏教寺院に葬られて僧の装束で肖像画が描かれるとは、日本の習慣は面白い。
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これは狩野永徳の手になる織田信長像。死の2年後、1584年の作とされる。つまり、三回忌のために作成された可能性が高いとのこと。現在では大徳寺の所有である。通常のイメージよりも少し弱々しくも思われるが、神経質そうなところはイメージに合う面もある。
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そしてこれは、豊臣秀吉の没後数ヶ月を経た1599年、狩野光信(永徳の長男)によって描かれたもの。遺言によって、豊国大明神という神の姿で描かれた最初の例であろうとのこと。現在では宇和島伊達文化保存会が所有する重文。
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江戸時代に入り、将軍家と近かった禅僧たちも多い。代表例として、金地院の以心崇伝像(狩野探幽筆)、自賛のある、たくあんで有名な沢庵和尚像(大阪、祥雲寺像の重文)を挙げておく。
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さて、禅画といえば白隠だ。これはその白隠慧鶴(はくいんえかく)の自画像。静岡県の松蔭寺の所蔵。白隠の自画像のうち最も古い例のひとつらしいが、時に白隠、既に71歳。年を経て迫力が出てこないと、こんな絵を描くことはできないでしょうな。
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これはやはり白隠の手になる達磨像(永青文庫蔵)だが、字が書いてあって、「どふ見ても」と読むらしい。どう見ても一体なんだというのか、大変気になる(笑)。この禅画の雰囲気は、不条理漫画にも通じるものがあるが、果たして不条理漫画なるもの、日本以外にあるのだろうか。もしかすると世界でも独特のものなのでは?
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これも白隠の面白い作品で、「乞食大師像」。やはり永青文庫の蔵である。描かれているのは、上で不機嫌な肖像画をご紹介した、大燈国師 宗峰妙超。彼が乞食の群れの中に身をやつしていたとき、探し出そうとした後醍醐天皇の使者は、妙超が「まくわ瓜」が好物であることを知っていて、高札でまくわ瓜をただで与えると布告。やって来た乞食の群れに対して、「足なしで取りに来い」と言うと、「手なしで渡せ」と答える者があって、妙超であるとばれたという逸話。この狂気をはらんだ表情が、禅の精神のひとつの表れであろう。
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仙厓(この展覧会では「僊厓」となっているが、ここでは通常の漢字を使用する)も様々なユーモラスな禅画で有名だ。この展覧会にも彼の作品が多く並んでいるが、これは福岡県の聖福寺所蔵になる「南泉斬猫図」(なんせんざんみょうず)。これは、いわゆる公案(禅のケーススタディ?)のひとつで、僧たちが一匹の猫をめぐって争いを起こしているのを見た南泉という名僧が、「わしの意に叶ったことを言えば猫は助ける。そうでなければ斬って捨てる」と僧たちに迫った。ところが僧たちはその生死を分ける場で何も言えず、猫は斬り殺されてしまった。その夜、外出から帰ってきた趙州(じょうしゅう)という門下の僧に南泉がその話をすると、趙州は何も言わず、草鞋を脱いで頭に乗せ、部屋を出て行ってしまった。それを見た南泉は、「あのときアイツがいたら子猫を斬らずにすんだのに。かわいそうなことをした」と言ったという話。なんともシュールであるが、これが禅の極意なのであろう。いやそれにしても仙厓、自由すぎる。こんな人がいれば、南泉はやはり猫を斬ることを思いとどまっただろう(笑)。
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その後彫刻のコーナーがある。禅独特の彫刻というものがあって面白い。これは建長寺の伽藍神(重文)。中国風であるが、民間信仰の神のような雰囲気もあるではないか。
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こちらは奈良国立博物館所蔵の同じ伽藍神であるが、こちらは走っておられる(笑)。
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国宝・重文居並ぶ中で、今回特に私の興味を惹いたのは、京都・鹿王院所蔵の十大弟子像。国の文化財指定は受けていないようだが、ほかにないユニークな十大弟子だ。鎌倉時代の制作だが、何体かは江戸時代に補修されている由。高さ40-50cm程度の小さなものであるが、その姿勢・表情の活き活きとしたことは、まるで近代彫刻のようだ。十体すべてご紹介したいところだが、ここでは三体だけにしよう。仏教彫刻を見慣れた人ほど、その造形のユニークさに驚くことだろう。特に三体目の須菩提は、かがんで靴をチェック(?)している!!これら十体は円形にずらりと並んで展示してあるので、面白くて何周も回って見入ってしまった。
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黄檗山萬福寺の十八羅漢から何体か展示されているが、この蘇賓陀尊者(すびんだそんじゃ)は、極めてユニーク。ほとけはおのが心の中にありという意味か。
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萬福寺からはやはり、中国伝来の韋駄天(いだてん)像も出品されていて、やはり楽しい。俊足で知られる、あの神だが、仏教寺院では庫裏(僧侶の生活場所)に置かれることが多い。萬福寺では、弥勒菩薩の化身である布袋像と背中合わせに安置されている。
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最後に、私がこの展覧会の最後のコーナー、「禅文化の広がり」の中で目にした飛び切りの逸品をふたつご紹介する。まず、大阪の東洋陶磁美術館所蔵にな国宝、油滴天目茶碗。素晴らしい名品であるとしか言いようがない。
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それから、会場である東京国立博物館が所蔵するやはり国宝の、雪舟筆による「秋冬山水図」。過去に何度か実物を見ているが、何度見ても空気感を味わうことができる絶品である。
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さて、ここまで充分長く書いてきたが、図録に載っている作品数307の中の、ほんの一部である(難しい漢字の変換もなんとかクリアした 笑)。いかに本展の規模と内容が図抜けているか、お分かり頂けよう。これを見たからと言って、禅について何かがすぐに分かるものではないだろうが、この記事の中で触れたように、武家や天皇家の思惑、高僧の人となり、茶の湯文化とのかかわり、等々の側面での多様な切り口から、日本人の考え方そのものや現代の文化にも、禅は大きな影響を与えていることは、分かってくるであろう。そうすると今度は、ここに出展しているような禅寺を実際に訪れてみたくなるに違いない。この展覧会の後にお寺を訪れることで、必ず何か発見があるだろう。私としては、この展覧会を大いに楽しんだことは事実だが、上の方でも書いた通り、一方ではこの展覧会の対象にはなっていない禅のもう一派である曹洞宗についても、知りたい気持ちが強くなってきた。曹洞宗の開祖、道元の代表作は正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)だが、その解説書を何分の一かまで読んで、もう何年もほったらかしてあることを思い出した・・・。心して再読したいと思います。

by yokohama7474 | 2016-11-23 22:53 | 美術・旅行 | Comments(0)

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毎度おなじみの注意から入ろう。この展覧会は、東京での会期は既に終了してしまっている。だが、年明け2月には長崎で開催され、その後名古屋、大阪へ巡回することになっているので、ご興味おありの方は、そのいずれかに出掛けられるのがよいと思う。なかなか目にすることができない展示品が多いばかりか、これまで充分研究が進んでいなかった分野に関する展覧会であるから、大変興味深く見ることができることは請け合いだ。特に、ヨーロッパとアジアという異なった地域の交流に興味があれば(これが私の強い興味の対象なのであるが)、その面白さはまたひとしおである。

フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866)の名は学校の歴史の教科書にも出てくるし、知らない日本人の方が少ないのではないだろうか。ドイツ人の医師で、長崎の出島に鳴滝塾を開いて蘭学を教えた。日本地図を国外に持ち出そうとして一旦は1828年に国外追放となったが、日本の開国後、1859年に再来日した。その彼は、実は大変な情熱をもって日本をヨーロッパに紹介しようとしていたのである。そのことはそれなりに知られてはいて、私も随分以前に、オランダのライデンの博物館にあるシーボルトが日本から持ち帰った大量の遺品についてのテレビ番組を見たことがある。だがそこでは、多くの収集品が倉庫に眠ったままで、充分な調査もされていないと紹介されていた記憶がある。この展覧会は、千葉の佐倉市にある国立歴史民俗博物館の主導のもと、2010年から2015年に亘って行われたシーボルト父子関係資料の総合的調査の成果を世に問うものである。

まずここで再確認しておきたいのは、シーボルトはバイエルン州ヴュルツブルク(いわゆるロマンティック街道の出発地点で、旧市街は世界遺産に登録されている)出身のドイツ人であるということだ。我々の常識に基づけば、江戸時代に日本が交流を維持したのは中国とオランダだけだ。それなのに、シーボルトがドイツ人とは、これは一体どうしたことか。彼は若い頃から東洋に興味があったのか、ドイツで医師として開業ののち、オランダ国王ウィレム1世の侍医からの斡旋を受け、オランダ領東インド(現在のジャワ島)所属の外科医としてバタヴィアに駐在。そこでオランダ領東インド総督の許可を得て、日本でオランダ商館医の地位を得て来日する運びとなったらしい。来日時に日本の通訳から、彼のオランダ語がおかしいと怪しまれたらしいが、「自分はオランダの山岳地帯の出身で訛りがある」と言って切り抜けたとのことだが、オランダは山岳地帯の全くない国なので、当時の日本人のオランダに対する理解度の低さが伺えて笑ってしまうエピソードである。

さてこの展覧会、シーボルトの肖像から始まっている。これはヴュルツブルクのメナニア学生団という団体に所属していた頃のスケッチ帖(1816年頃)で、右から2人目が、二十歳前後のシーボルトである。これ、なかなかいい雰囲気ではないか。例えば「ファウスト」とか、オペラではオッフェンバックの「ホフマン物語」の冒頭のような、学生たちが酒場で飲んでいる舞台のシーンを彷彿とさせる。あるいは、ブラームスの大学祝典序曲が頭の中に鳴り響くというべきか。ドイツの青春だ。
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彼の第一次滞在は1823年から1828年だから、27歳から32歳の頃ということになるが、日本で描かれた彼の肖像画はこれだ。
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あっはっは。珍しい西洋人の顔を見て、その高い鼻を一生懸命表現しようとした画家の気持ちを思うと、何か微笑ましい。まあもちろん、当時の異人さんに対する警戒心は、実は笑いごとではなかったのかもしれないが。一方のシーボルトも、オランダ人画家に日本人の肖像をスケッチさせている。これらは使用人たちであるようだが、なるほど、こちらは写実的に見える。当時の日本人はこういう顔をしていたのだろう。
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シーボルトは日本でタキという女性と共同生活を営み、娘を設けているが、それが後年、日本で初めて西洋医学を習得した女性医師となる楠本イネである。フォンの称号を持つ貴族の家系の人であるから、当然本国で立派な家族を持っているわけであり、タキさんはいわば蝶々夫人的な存在と言ってもよいだろうが、シーボルトはタキとイネの母子に愛情を注ぎ続けたようで、帰国後に出した手紙が何通か展示されている。これは1830年、オランダに帰国した年のクリスマスにライデンから出されたもの。筆跡は他人のものらしいが、日本語の文章自体はシーボルト本人によるものと考えられている。読んでもなんのことやら分からないが(笑)、最初の「一」にあるのは、「私は7月7日にオランダの港に錨を下した」であろうか。そのあと、「少し体調を崩したが今ではよくなった」と書いてあるように読める。間違っているかもしれませんが(笑)。ただ、シーボルトの愛情がにじみ出た書信であると思う。
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尚、シーボルトが営んだ蘭学の塾である鳴滝塾の精巧な模型が展示されている。いかなる経緯で作成されたものか分からないが、最近になって、ほかの図版との照合から、これが鳴滝塾の模型であると判明したものらしく、今回が日本初公開だ。この鳴滝塾のあった場所には今、シーボルト記念館があり、先日長崎旅行をした際に訪れたかったが、その時間がなかった。次回は是非その場所を訪れ、日本とヨーロッパの文明邂逅に想いを馳せたい。この鳴滝塾から、日本の近代医学や自然科学の創設を担った人材が輩出したのだ。
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シーボルトは日本到着後、早速積極的な学術調査に乗り出そうとしたようだ。だが日常においては行動は厳しく制限され、幕府の直轄領での薬草の採集を名目とした調査のみが可能であったらしい。ところが1826年、オランダ商館長の江戸参府への随行を命じられるという千載一遇のチャンスに恵まれ、その際に旅先での風景や人々の様子を記録する。これは、彼が帰国後に著した「日本」という書物に掲載された、江戸の鳥瞰図。19世紀であるから、日本でも既に遠近法は知られていたわけであろうし、これはもともと日本の浮世絵師が作成した図に基づいているようだ。だが、もともと日本人の美意識にはない光景であり、なんとも興味深い。
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江戸時代における西洋画というと、平賀源内、司馬江漢、亜欧堂田善、それに佐竹曙山や小野田直武らの秋田蘭画(サントリー美術館での展覧会が始まっている!!)という私のお気に入りの名前が並ぶわけであるが、出島出身で、このシーボルトお抱え絵師として活躍した画家もいるのである。その名は川原慶賀(かわはら けいが)。上に掲載した日本人の肖像画を描いたオランダ領東インド駐在のオランダ人画家、デ・フィレーネフェに西洋画を学んだと言われている。この展覧会には彼が描いた数多くの日本人のサンプルが展示されていて、なんとも興味深い。これは、「やくしや」(役者)と「むすめ」(町人の娘)。
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尚、私はもともとこの画家に興味があったので、たまたまこの展覧会に先立って以下の2冊の本を購入していたのであるが、パラパラ見ているだけでも当時の日本の雰囲気(平和でよい時代だ!!)が伝わってきて、なんとも興味深い。
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当時の民衆の姿や風物を描いた、これらのタイムカプセルのような作品が残されたのも、シーボルトのおかげである。なぜなら、日本人にとっての日常はまさに日常であって、特に記録に値するものではないところ、その日常は西洋人にとっては非日常であるがゆえに、つぶさに記録しようという意欲を呼び起こしたであろうからである。さらに言うなら、これを日本人画家に描かせたことの意義は大きい。西洋人なら、対象に対する知識のなさによって、珍妙な描き方になってしまうところ、日本人ならその心配がなく、対象の実在感を写し取ることができるからだ。その代わり、その日本人画家には充分な技量がないといけない。川原慶賀は芸術家として一流ということでもないかもしれないが、少なくともシーボルトの意を汲んで、洋風画法によって写実的に日本人の生活を画面に描き出したという点で、東西文明の邂逅という視点においては歴史的貢献を果たしたわけである。

さて、展覧会は、シーボルトが収集した日本に関する膨大な資料の一部の里帰りと、彼がヨーロッパでいかに日本を紹介するために懸命な努力をしたかについての情報が満載である。彼の二度目の来日は、日本が開国した後、1859年である。前年に締結された日蘭修好通商条約に基づき、彼に対する追放令は解除されていたらしい。すなわち、かつて追放された大好きな日本に、30年を経て還って来たことになる。この二度目の来日には、当時12歳の長男、アレクサンダーを随行していたとのこと。これは自身が創設した出島オランダ印刷所で製作された、「日本からの公開状」という小冊子。
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シーボルトは日本の文化習俗のみならず、動植物にも多大な興味を示し、「日本植物誌」や「日本動物誌」も編纂している。これは「日本植物誌」に掲載されたアジサイであるが、この植物は日本が原産。シーボルトはこれをヨーロッパに紹介する際、最愛の日本女性、おタキさんにちなんで、オタクサ(学名 Hydrangea Otaksa)と名付けた。
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これは「日本動物誌」の甲殻類のページから。イセエビだろうか。
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彼が一度国外追放の憂き目を見たのは、日本の地図を国外に持ち出そうとしたからだということは上に書いたが、実際、もし日本を攻めるのであれば地図は非常に重要な情報で、シーボルトも19世紀ヨーロッパの人間であってみれば、そのような軍事目的に利用できる情報の価値はよく心得ていたに違いない。彼の真意についてはいかなる説が有力であるのかは知らないが、いずれにせよ、彼は純粋に日本のことが好きで好きで仕方がなく、この未知の国についてすべてを知りたいという情熱が、すべての活動の根本になっていたように見受けられる。展覧会にはこのように、シーボルト自身が付箋を貼った地図(1840年製作なので、二度目の来日時の収集品である)も展示されている。これは、彼がヨーロッパでの「日本博物館」の展示のために使ったものと考えられている。
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さてでは、この展覧会の題名にもなっている「日本博物館」とは何だろう。実は彼は、自ら収集した日本の品々をヨーロッパに紹介することに心血を注いだ。最初の渡航から帰国した後の1832年、オランダのライデンの自宅において、収集品の最初の展覧会を開催。二度目の渡航から帰国後には、1863年にアムステルダム、翌年にはヴュルツブルク、1866年にはミュンヘンでそれぞれ日本に関する展覧会、自ら名付けたところによると、「日本博物館」を開いている。そして彼は結局、展覧会の開催地であるミュンヘンで風邪をこじらせ、1866年に70歳で世を去っているのである。この展覧会では、アムステルダムでの展示の再現が試みられていて興味深い。これが当時の雑誌における紹介。
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ここで描かれている日本の文物の実物が展示されている。例えば、真ん中に置かれた阿弥陀如来像。
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これは、ちょっと分かりにくいが、いちばん下の段の左の方に置かれていた、厨子入りの蛇身弁天像。グロテスクな姿だが、民間信仰の産物であって、やけに生々しい。
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下から二段目の右の方に置かれていた、麒麟香炉。これも、見る人たちにエキゾチックな感覚を与えたであろう。
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この「日本博物館」の再現展示のほかにも、シーボルトの膨大な収集品から、工芸品なども沢山展示されている。これは蒔絵の裁縫道具箱。
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だが、実はこの裁縫道具箱は、もともと海外輸出用に、外国人の趣向に合わせて作られたものらしい。なるほど、鎖国していたとはいえ、今ヨーロッパの宮殿などでは日本や中国の工芸品や陶磁器を多く見かけるということは、日本からの輸出も結構行われていたということだろう。実のところ、上に写真を掲げた彫刻なども、悪くはないが、日本で最高品質のものとは言い難く、また、収集品には日本人の日用品も多く含まれる。つまりシーボルトは、日本で比較的容易に手に入るものを片っ端から収集して行ったということだろう。必ずしも最高級の美術品でなくても、日本の文化をヨーロッパに紹介するという目的においては、大いに意味のあるコレクションであったと思われる。

展覧会では、彼が日本をヨーロッパに紹介する意義を主張して、コレクションの購入を施政者に訴えかけたことが説明されている。これは、あのワーグナーのパトロンとして名高いバイエルン王国のルートヴィヒ2世にあてた1864年の書簡。シーボルトはなかなかに逞しい人であったようなので、ヨーロッパ以外にも優れた文化があるという学術上の意義はもちろん、教育機関での利用や、貿易による経済振興も言及されているようだ。少なくとも、「侵略の価値がある」と書いてある気配は、なさそうですよ(笑)。
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ここにご紹介したのは展示品のほんの一部であるが、シーボルトの人となりを感じさせるものから、今や日本では失われてしまった風景習俗の記録、ヨーロッパ人の日本に対する興味、そして何より、これだけ離れたヨーロッパと日本との間の交流が、既に江戸時代に実現していた事実など、貴重な事柄を多々学ぶことのできる展覧会である。大変楽しませてもらいました。長崎でこの展覧会を見るのも、面白そうですねぇ。

by yokohama7474 | 2016-11-19 17:30 | 美術・旅行 | Comments(2)

午前中に軍艦島への上陸ツアーを終えた私たちは、残る午後の時間を長崎中心部の観光に充てることとした。長崎に来れば、やはりここを訪れないわけにはいかない。原爆資料館だ。駐車場の横にはこのような彫刻が立っている。
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広島の原爆資料館も最近リニューアルされてから未だ行っていないが、この長崎の資料館も初めてだ。1996年に建てられた近代的な建物。
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このような場所は、日本人が暑い真夏に過去の惨禍を思い出すというだけではなく、正しい歴史認識に基づいて国際的にメッセージを発信することができる場所であるべきだと思う。もちろん歴史認識自体が、ともすれば立場によって相対的なものになってしまうことは否めないものの、少なくとも事実を積み上げることで、起こってしまった悲劇を冷静に見つめることができるだろう。入り口からこのようならせん状のスロープを下りて行くが、徐々に時間を遡り、展示室の手前で1945年に立ち返ることとなる。オバマ大統領からのメッセージが展示されている。願わくば、「日本も核武装してはどうか」と公言する米国の次期大統領にも、もちろん、ここと広島を訪れて欲しいものだ。
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そして、展示室で最初に目に入るのが、1945年8月9日の「その時」で永遠に停まってしまった時計である。
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ここには、原爆の惨禍の証人としての数々の痛ましい展示物が並んでいるが、ショッキングなのは、瓦礫と化した街の様子の一部が、当時のモノクロの映像とともに再現されていることである。中でも、爆心地近くで大きな被害を受けた浦上天主堂の実物大模型は、見る人を震撼させる。そのリアリティは、子供たちでもよく理解できるような展示になっている。
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とてもここに載せられないような、まさに目をそむけたくなるような展示物も多いが、原爆の威力の凄まじさが分かる一例をご紹介しよう。これは、爆心地から4.4km離れた地点で撮影された写真だが、兵士が屋上から梯子を下りてきたところで熱戦を浴び、光が当たった部分のみコールタールが溶けて、陰になった部分が壁に残ったもの。
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もちろん、被害の悲惨さのみが展示の主眼ではなく、当日どのように爆弾が投下されたのかの検証や、原爆自体についての解説もある(以下の写真は、投下された原爆「ファットマン」)。また、1945年当時についてだけでなく、その前に日本がいかに戦争に踏み込んで行ったのか、また戦後の世界において核の脅威がどのように拡散し、現在存在する核兵器の量はいかなるものか、核軍縮の努力がいかに続けられているか、といった点についても展示物が沢山並んでいる。つまり、過去の惨禍を被害者として嘆くのではなく、過去へも未来へも視線を投げかけている真摯な展示方針に強く打たれるのである。日本人だけでなくあらゆる国の人たちに(欧米だけでなくアジア近隣諸国の人たちも)、特に施政者には見て欲しい場所だ。
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そして、浦上(うらかみ)天主堂を訪れた。その起源は1879年の小堂建設にまで遡るが、大聖堂は1914年に完成。後述する、長崎で処刑された二十六聖人の殉教に捧げる教会として設立された。上述の通り原爆で甚大な被害を受けたが、1959年に再建。資料館で見た聖人像が、今も入口横に立っている。
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これが被爆時の写真。なんとも痛ましい。
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現在では立派に再建されてはいるものの、被爆した彫像類が多く展示されていて、ひとつひとつを見るのは本当に心が痛い。中でも、堂内、入り口を入って左の小礼拝堂に安置されている「被爆のマリア」は、正面祭壇の最上段に安置されていた木造のマリア像の頭部で、瓦礫の中から奇跡的に発見されたもの。焼け焦げてなお、空洞の眼窩をもって戦争の惨禍を静かに語り続けている。これを見て鬼気迫るものを感じない人はいないだろう。
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それ以外も、様々な破損物が展示されている。私は特に、キリスト磔刑像のバラバラ遺体を痛ましいと思った。
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痛ましい心を少しでも鎮めたくて、平和祈念公園へ移動し、平和祈念像を見た。著名な彫刻家、北村西望によって1955年に作られた巨大彫刻である。垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた足は救った命を表し、軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っているということらしい。骨太な、よい彫刻であると思う。空が白々しいまでに青い。
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次に向かった場所は大浦天主堂である。これはキリスト教の教会として唯一国宝に指定されているもの。この旅行で幾つもの教会を見てきたが、さすがにこれは美しい教会である。実はこの教会の建造は、明治維新に先立つ1864年。フランス人によって建てられたので、当初は「ふらんす寺」と呼ばれたらしい。全国的には江戸時代の最末期までキリスト教が禁止されている中、江戸時代を通じて世界に向けて開いた窓であった長崎には、このような素晴らしい教会が建てられたとは本当に驚きだ。
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冷静になって考えてみると、来年2017年は大政奉還150周年。ということは、この教会は150年以上この地に建っていることになる。建設当時の貴重な写真が残っているが、その外見は現在と違っているので、150年の歴史の中で手を加えられてきたということだろう。因みにこの写真を撮影したのは、日本最初の写真館を開いた上野彦馬である。
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因みに内部はこのように美しい空間。この中にいるだけで、日常の垢が落ちて行くような気がする。実に清浄な場所なのである。
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ここにいると時間を忘れてしまうのだが、まだ見なければいけない場所がある。この大浦天主堂に隣接している、グラバー園である。港を見下ろす丘の上にまで、何軒もの西洋人の旧居が連なっている場所だ。大浦天主堂の横から入ると、エレベーター風に上に上がって行く動く歩道を乗り継いで、丘の上まで昇って行くことになる。
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この場所の名前の由来となっているトーマス・グラヴァー(という表記が正しいが、慣例に従い、以下「グラバー」と表記)は、スコットランド出身。1859年に来日し、幕末の志士たちへの援助を惜しまなかったと言われている。まぁ、明治維新の歴史的評価については最近では様々な言説があり、例えば坂本龍馬とグラバーの関係についてもいろいろ書物も出ているし、何よりグラバー自身がフリーメーソンのメンバーであったことから、陰謀説にも結び付いていることも私はよく知っている。だが、そのあたりはよしとして、ここに存在する歴史的建造物(多分グラバー邸以外は、長崎の中のほかの場所から移築されてきたものであろう)を見ながら、日本が近代化に邁進した頃に思いを馳せようではないか。

まず、丘の上に建っている建物は、旧三菱第2ドックハウス。船が造船所で修理されている間に乗組員たちが宿泊した施設である。対岸に三菱造船所を見下ろす建物の前は見晴らしもよく、たたえられた水が大変に心地よい。
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少し下りて行くと、往年の名ソプラノであり、日本人歌手として初めて世界的に活躍した三浦環(みうら たまき、1884-1946)の像がある。これは言わずとしれた彼女の当たり役、プッチーニ作曲になる「蝶々夫人」である。港を見下ろす丘の上からピンカートンの帰りを待ち望みつつ、「ある晴れた日に船が見える」と歌う名アリアが響いてくるような気がする。そしてここにはまた、作曲者プッチーニの肖像も掲げられているのだ。
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そしてこれは旧リンガー邸。重要文化財に指定されているだけあって、素晴らしい建物だ。
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この館の主、フレデリック・リンガーは、グラバー商会に勤務後、リンガー商会を設立。貿易のみならずホテル・製茶・製粉・上水道・発電など幅広い事業を行った英国人。うむ。長崎名物チャンポンを中心に展開するレストランチェーン、リンガーハットは、もしかして彼の名前に由来するものなのではないか。だが、実はこの館の中の展示は、チャンポンに関するものではなく(笑)、知られざる日本人オペラ歌手に関するものなのだ。その名は喜波貞子(きわ ていこ 1902-1983)。
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私も寡聞にして彼女の名前は知らなかったが、三浦環より一世代下であり、やはり蝶々夫人役をはじめとして、世界的に活躍したソプラノ歌手であるらしい。顔を見ると分かるが、純粋な日本人ではなく、祖父はオランダ人なのである。ここの展示では、彼女自身が記録として残した世界各地での活躍の様子を示す雑誌の切り抜きや衣装などが並んでいて、興味は尽きない。また、彼女の人生を辿る説明書きも懇切丁寧だ。彼女の評伝が出たら読んでみたい。
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尚、このリンガー邸の横には、英国人居留地にあったフリーメーソン・ロッジの石柱が立っていて、興味深い。
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さて、リンガー邸の横には、これもやはり重要文化財のオルト邸が建っている。敷地面積で言えば、恐らくこれがこのグラバー園で最も広い屋敷であろうし、ギリシャ神殿風のファサードを持つ、なんとも雰囲気のある建物なのだ。尚、大河ドラマ「龍馬伝」で余貴美子が演じた大浦慶は、この屋敷の主、ウィリアム・オルトのビジネス・パートナーであったとのこと。
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それから、興味深いのは、日本で初めての西洋料理店である自由邸の建物が残っていて、今も喫茶店として使われている。
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さて、いよいよ本命、グラバー邸である。これも重要文化財であり、大変に見応えのある建物なのだ。1863年に建てられた、現存する日本最古の木造洋風建築。昨年、産業革命遺産のひとつとして、世界遺産に登録された。なぜかここには、コスプレを楽しむ人たちも(笑)。
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実際にグラバーという人が何を求めて日本にやって来て、どのような活動を展開したのかについては、諸説あるようだ。善玉悪玉を議論すると、なかなか難しい点もあるだろう。だが、間違いなく彼は日本の近代化に貢献のあった人物であると思われる。真偽のほどは知らないが、屋敷の中には、幕末の志士をかくまうためという隠し部屋がある。
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彼はツルさんという夫人を娶り、息子を得たが、その名は倉場富三郎(くらば とみさぶろう)。「くらば」はもちろん「グラバー」の当て字である。実業家でもあり水産学者でもあったそうだが、終戦直後に自殺してしまった。スパイ容疑がかけられていたとも言われているらしい。
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内部の展示で興味を惹くのは、この狛犬(2匹一対のうちの一体)だ。
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実はこれ、キリンビールのラベルのもとになった彫刻。実はグラバーは今日のキリンビール社の前身の社長を務めた人で、麒麟の口髭は、グラバーをモデルにしたと言われているらしい。キリンビールが三菱系の会社であると知らない人も多いかもしれないが、実はそうなのである。

そんなわけで、グラバー園にある西洋人の旧居の数々をを楽しんで外に出ると、このような広告が目に入った。先般までレストランであったようだが、今は売りに出されている。だが、なになに、1860年に建てられた日本最古の木造洋風建築だって? じゃあ、グラバー邸の立場はどうなる???なかなか瀟洒な建物であることは確かだが。
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さて、旅の終わりに向かったのは、西坂公園というところにある、日本二十六聖人殉教記念館。これは、1596年、豊臣秀吉の命によって処刑された、6人の宣教師と20人の日本人キリシタンのこと。京都と大坂で捉えられた信者たちは、長崎までの1,000kmの道のりを歩かされ、この地で磔となった。この事件はヨーロッパでも大きく取り上げられ、17世紀フランスの版画家ジャック・カロ(音楽ファンの方は、彼の版画がマーラーの交響曲第1番第3楽章のインスピレーションのもとになっているのをご存じだろう)もその光景を描いていることは、以前もこのブログでご紹介したことがある(4月14日付、カラヴァッジョ展に関する記事)。
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このことによりこの26人の殉教者は聖人に列せられることとなり、前述の浦上天主堂も、彼らを悼むために建造された。彼らが処刑された地には、現在ではこのような彫刻がある。1962年、日本を代表する彫刻家、舟越保武によって制作されたもので、その場の空気にはどこか凛としたものが漂う。
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そしてこの彫刻の裏側に、この二十六聖人の殉教に関連する資料を収めた資料館があるのである。
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この資料館の内容は非常に充実していて、私のようにこの時代のキリシタンに興味を持つ者にとっては、なんとも見応えのあるものなのである。これら殉教者の遺骨は、外国で保管されていたものが、近年里帰りしたとのことで、この資料館の2階に祀られている。歴史の荒波の中で散って行った命であるが、そこには信仰による恍惚があったのであろうか。人間である以上、神の栄光のためと割り切って死出の旅に出ることにはやはり、大きな葛藤があったのではないか。殉教者たちは黙して語らないが、今を生きる我々としては、このような場所において歴史を正しく認識することで、様々なことを学ぶことができるように思う。・・・と、神の啓示がガツンと私の身に降りかかったような気がしたのである。

そんなわけで、2日間の長崎の旅、大変充実したものになった。もちろん、最近復元が進んでいる出島や、国宝建造物のある黄檗宗の崇福寺、眼鏡橋や丸山花街、また亀山社中など、今回見ることができなかった名所も多い。できればまた長崎を再訪し、この街の持つ意義や情緒をさらに味わいたい。とりあえず今回の旅で購入したガジェット類は、川沿いの我が家の「世界遺産コーナー」の一角に収まることとなったのである。
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by yokohama7474 | 2016-11-16 01:48 | 美術・旅行 | Comments(2)

まずはこの写真を見て頂こう。
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灯台が立っているから海に近いところであろうが、この峩々たる岩山の上に見える建造物は、何かの遺跡のようである。古代のものだろうか。あるいはギリシャにあるという、孤絶した山の上の中世の修道院だろうか。次に、この写真はいかがであろうか。
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これも何かの遺跡であろう。ローマにある古代ローマ帝国時代の公共建築の遺跡、フォロ・ロマーノでこのような光景を見たように思う。いずれにせよ、どこかの地中海の遺跡であると見える。・・・などと書いているが、これらはいずれも私が最近長崎県で撮影した写真。そう、近代産業遺産として今やユネスコの世界遺産にも登録された、かつての炭鉱の島である端島(はしま)、通常「軍艦島」である。このポスターが分かりやすいであろうか。
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この軍艦島、私が初めてその名を知ったのはいつのことだったろうか。この島は要するに、炭鉱の閉鎖とともに打ち捨てられた海上の廃墟であり、つまりは近代の遺構なのである。だが冒頭に書いたように、この場所はまるで古代や中世の遺跡を思わせるところから、美的な観点からの関心の対象となる。そもそも古代の遺跡というものは、ほぼことごとくが廃墟なのであって、それゆえに神秘的なのだ。人がこの島に抱く言い知れぬ神秘感は、あたかもそれら古代の遺跡に感じる神秘感と近いものがあるのだと思う。だが、それだけでは充分ではないだろう。人が本能的に廃墟に感じる興味の根幹にあるものはまた、巨大工場の夜景を楽しむ感性にも似ている。つまり、何か巨大であり、明らかに人為の結果でありながら、人の姿の見えない建造物。そこには人を畏怖させると同時に、何か怖いもの見たさで気になって仕方ない、そんな感覚を覚えるものだ。その神秘感を言葉で説明するのは難しい。だが、美術好きなら、例えばカスパール・ダヴィット・フリードリヒや、もっとマニアックなところではモンス・デジデリオ、また、ジョセフ・ガンディの名前が挙がるだろうか。廃墟はひとつの美的テーマなのである。私の書棚には、これらの画家の画集が並んでいるのはもちろんのこと、廃墟自体をテーマにした本という意味では、1997年に発行された谷川渥(たにがわ あつし)監修になる「廃墟大全」がある。その中では様々な廃墟的美術が論じられていて楽しいのであるが、今確認したところ、軍艦島への言及はなさそうだ。ところがもう1冊、2002年発行の栗原亨 (くりはら とおる)監修になる「廃墟の歩き方 探索篇」になると、もう表紙からして軍艦島なのである(笑)。
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この本は本当に実践的な(?)書物であり、廃墟に入るときの注意事項や守るべきマナーが詳細に書いてある。さすがに私は、この本を読んだときにそこまでやる勇気も大胆さもなかったし、今もないが、このような本が出るということは、要するに世に廃墟好きは意外と多く存在しているということであろう。軍艦島とは、そのような廃墟の中でも、まさしくとびきりの王者的存在であったのだ。確か、別の本だと思ったが、どうやって地元の船にお願いしてこの島に上陸できるかを書いてある文章を読んだ記憶もある。だが、さすがに一般公開されておらず、崩壊の危険のある場所に出向くような大胆な行動は想定外であり、その後の私は、軍艦島だけの写真集とか、ワンダーJAPANという奇妙な雑誌を時々購入したりして渇を癒しながら、この廃墟に対する愛慕の念(?)を育んできたのだ。映画でも、「007 スカイフォール」や「進撃の巨人」でここがロケ地として使われているのを、複雑な思いで見ていたものだ。ところがである。昨年、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」のひとつとして世界遺産に登録。これを受けて、ついに一般の人々にも公開されるようになったのだ。いつか行きたいとは思っていたが、前の記事に書いた通り、思わぬところで家人と意気投合。早速軍艦島上陸ツアーをネット検索してみた。ところが、予定日の1ヶ月くらい前であるにもかかわらず、周辺の週末はすべて満員。改めて軍艦島人気を実感したのだが、さて、どうしたものか。思いを持って出かけた場所に悔いを残さないためには、とにかくあきらめずに手段を探すことである。キャンセルが出ないか、あるいはオークションの対象にでもなっていないかと、何度も何度も軍艦島ツアーを調べているうちに、ふとしたことで、ほかとは違って少人数で運航しているツアーがあるのを発見。ガイドブックとかメジャーなサイトには出ていない会社であるが、ダメモトで問い合わせてみると、土曜は一杯だが、日曜の午前の便なら未だ空きがあるとのこと。その回答に、PCの前でひとりガッツポーズだ。これは執念の勝利である。本当に何後も諦めずにトライすれば、道は拓けるのである。

ツアーの内容に入る前に、この軍艦島の概要について記しておこう。正式名称を端島ということは上にも書いたが、もともと無人島で、最初に1810年に石炭が発見され、佐賀藩が小規模な採掘を江戸時代から行っていたが、1890年に三菱合資会社の経営となり、何度も埋め立てを繰り返して、徐々に拡大して行った。以下が軍艦島ツアーのパンフレットに載っている埋め立ての歴史と、海底炭鉱のトンネルの様子。要するに、この島が開発される途上で、ここに人々は暮らし始めたが、炭鉱は海底にあることから、島の内部を掘るのでなく、島から一旦地下に潜っては、周辺に海底坑道を掘り進んだということである。常に危険の伴う仕事であり、島の挨拶は「ご安全に」であったそうだ。
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「軍艦島」という異名は、三菱の長崎造船所で建造していた軍艦「土佐」に似ているところからつけられたらしい。この「土佐」について調べてみると、「長門」の拡大改良型とのことだが、ワシントン海軍軍縮条約によって建造中止となり、1921年に自沈処分となったとのこと。なるほど、勇ましい軍艦の進む姿ではなく、哀れに煙を吐いているところがこの炭鉱の島との共通点と見做されたのもしれない。
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この軍艦島、今からちょうど100年前の1916年に日本最初の鉄筋コンクリート作りのマンションができるなど、未来の島と言われていたらしい。その後最盛期には5,000人を超える人々が暮らし、頻繁な上映会が催される映画館あり、本土にも未だ珍しい時代にスーパーマーケットもあり、神社やスナックもあって、ないのは墓だけだと言われたらしい。だが、エネルギー政策の転換により石炭産業が斜陽化したことで徐々に衰退。1974年に炭鉱が閉鎖され、多くの人々の生活の痕跡を残したまま無人島に還ってしまった(石炭を取りつくしたということではないらしい)。日本人がこの軍艦島に惹かれるのは、ただの廃墟だから興味深いということではなく、日本全体に活気があった高度成長期へのノスタルジーもあるのだと思う。

さて、その憧れの軍艦島ツアー。私が乗船したのは「アイランド号」という船であるが、ほかの大規模ツアーが長崎港から出るのに対し、この船は長崎半島を市内から20km弱南下した場所、軍艦島のすぐ近くから出る。なので、海を見ながらの乗船所までのドライブとなったのだが、これが返って気持ちよい。海沿いの国道の小高いところから、遠くに軍艦島がその姿を現したときには、「あぁっ!!」と叫んでしまいましたよ。左が軍艦島、右が中ノ島。軍艦島には墓がないと書いたが、実は島で亡くなった人たちはこの隣の中ノ島で荼毘に付されたらしい。
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しばらく行くと、夫婦岩がある。国道沿いに車を停めるスペースも設けられており、写真を撮るには最適だ。岩の間に見える軍艦島が、ひときわ神秘的に見えるではないか。
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そうして到着したのは、野母崎という場所にあるAlega軍艦島という施設。温泉もあり、ここに泊まることもできるようだ。中の売店で軍艦島グッズなどの土産物も買えるし、乗船前のトイレも済ませることができて便利。それから、昔の新聞記事の拡大コピーがあれこれ貼ってあって、その中には災害に関するものもある。この島に住めば上質な暮らしが保証されていたとはいえ、やはり炭鉱の仕事の危険性に加え、台風等の被害も何度もあったようである。今の軍艦島が廃墟として美しいのは、このような苦難の歴史を経てきていることも一因かもしれない。
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そして海の方に降りて行くと、ありましたありました。アイランド号が我々を待っています。ツアー客12名という小さい規模である。
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私たちが乗った船は10時に出航し、10分後くらいには島の沿岸に到着。だが、別の船がその時間帯には停泊し、ツアー客が上陸しているので、同時には上陸できない。従って、上陸準備が整う10時半までの間を利用して、島の回りをぐるっと一周してもらえるという。実はこの軍艦島、人々が退去した際には一連の建物は全く壊さずに出て行ったため、その後の風雨にさらされ放題で、以前見た映像では、アパートの各部屋には、さまざまな電化製品や家具がずっと放置されているのだ。それがまた廃墟好きの心を刺激するのであるが、その状態の意味するところは、住居エリアは崩壊の可能性が常にあって、人の立ち入りは危険だということだ。以下はまた乗船時にもらったパンフレット記載の見取り図だが、上陸できるのは、図の下側と左側の赤線の引いてある部分だけで、多くの建物が存在している中央部から右側は、立ち入り禁止なのである。そうであればこそ、立ち入ることのできない島の反対側を、船の上から眺めることができるだけでも貴重なのだ。
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さあ、船は快調に飛ばし、どんどん島に近づいて行く。案内の海の男たち。煙草など吸って、カッコいいですねぇ。そういえば、秋以降は海が荒れることも多く、上陸できないケースもかなりあるとのこと。これだけの晴天に恵まれた我々は実にラッキーだ。やはり日ごろの行いがよいせいですな(笑)。
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そして、ついに近くに見えてきた軍艦島。やはり、遂に来た!!という感動が体を駆け巡る。冒頭に掲げた写真の通り、まるで岩山の上の古代神殿のようだ。また、神社の本殿(これは本物の宗教施設)は、高いところに築かれているので、長い足が危なっかしく、よく残っているなぁと感嘆する。
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そして船は居住区の横を通って左に旋回して行く。この凄まじい荒れようは、想像していた通りである。
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すると、あ、なにやらへりの部分から釣り糸を垂れる人が数名。船の人に、「あそこには入ってはいけなんですよね」と訊くと、「よかと」との返事。なんでも、このツアー船の主催者は釣りのアレンジもしていて、事前の許可を取得して軍艦島で釣りを楽しむ人たちもいるらしい。へぇー、何か特別な魚でも釣れるのでしょうか。
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そして我々の乗った船は、ついに軍艦島がその名を持つに至ったその姿を、我々に見せてくれる。本当に軍艦のようだ。
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ちなみにこれが、他社のツアー船。なんでも、200名規模とか。正直なところ、そんな規模ではゆっくり説明も聞けないし、質問もできない。また、あとで分かったことには、我々の船のガイドの方は、もとこの島の住民であったそうで、貴重な話を沢山聞くことができて、大変有意義であった。このあたり、たまたま大規模ツアーが軒並み満員だったことによる怪我の功名、結果オーライ。好きな言葉である(笑)。
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さて、いよいよ上陸だ。ワクワクする。桟橋から砦のような遺構の中を通って入ってみると、なにやらコンクリートの棒が立ち並んでいて、ギリシャの古代神殿かと思うが、これはボタ(捨て石)を運ぶベルトコンベアーの跡。この上をボタが運ばれ、海に廃棄されていたのだ。
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これは確か炭鉱へ降りるケージを吊ったロープの巻き上げを行う場所の壁。クノッソス宮殿かと思ってしまいました。
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これは食堂や風呂場などがあった施設の階段。炭鉱は24時間稼働していて、8時間ずつの3交代であったので、風呂も常に沸いていて、作業服ごと石炭を落とす場所、体を洗う場所、湯船など、何段階かに分かれていたとのこと。当時の写真を使った説明がリアルだ。
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電気は海底からこの隙間を通して送電線を引いている。今でも使えると聞いた。
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通路を進むと、左手にコンクリートで床を固めた場所が出てくるが、これは25mプール。海水を入れて泳いでいたらしい。
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これが、築100年(笑)の、日本最初の鉄筋コンクリート作りのマンション。この建物の前が目抜き通りであったらしい。
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ここで行き止まりなので、また桟橋の方に向かう。これは事務員の住居で、労働者の部屋と違って部屋に風呂、トイレがあるという当時としては珍しい高級住宅であった由。だが、今ではベランダが崩落寸前だ。この建物の下の壁面に緑色が塗ってあるが、これは、当初植物が全くない島であったので、そのように塗っていたものとか。
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これは学校。かつての学びの屋は、建物の向こうの空の青が透けて見えるほどがらんどうだ。
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予想はしていたが、実際に目にしてみると、まさに凄まじい廃墟である。この島は台風になると大きな被害を受けるそうで、このような大きなコンクリートの塊が飛んだり倒れたりすることもあるという。今や世界遺産。一体どのように保存して行くのか、大きな課題であろう。
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軍艦島の写真集を見ていると、住居内に様々なものが残されているのが大変不思議であった。何も災害で急に避難したわけでなし、なぜに身の回りのものを整理して島から出なかったのか。その疑問に対する答えは、意外に単純なものであった。実際に閉山までここで働いていたというガイドさんによると、退職金が非常に恵まれていたので、家電品などをわざわざ持ち出す経済的必要がなかったのだそうだ。なるほど、それゆえに、人々の日常の暮らしの断片があちこちにリアルに残ったまま朽ちて行くという、軍艦島独特の風情が生まれたわけである。廃墟に対する美的な意味での興味と、近代の産業化時代の世相、また、特殊な環境下で暮らした人々の悲喜こもごもに思いを馳せながら、軍艦島をあとにした。陸に戻ってきたのは11時半頃。1時間半のタイムトラベルでした。
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さて、私の参加したツアーは、長崎港ではなくかなり南の方から出航すると上で書いたが、そこまで足を延ばすメリットがいくつかある。ひとつは、最近できたばかりの軍艦島資料館が近いこと。展示物はさほど多くないものの、地元の人たちの軍艦島を大事にする思いが伝わってくる。石炭採掘当時のジオラマもあって、往時の活気を偲ぶことができる。
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尚、この資料館の向かいにある喫茶店では、軍艦島カレーなる限定食が食べられる。午前の便に乗られた方、下船後のランチにお薦めです。
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さて、もうひとつある。実は事前に長崎の文化財を調べたところ、観音寺というお寺に重要文化財に指定された平安時代の千手観音があることを知ったのだが、寺院の名称としてはありふれたものだし、場所も調べる時間がなかった。ところがである。このお寺、長崎半島の南端近く、ツアーの乗船/下船場所のすぐ近くであったのだ!!ただ、ご本尊の千手観音は秘仏と書いてあったので、まあ行くだけ行ってみようと思ったら、なんとなんと、本堂は開いていて、御簾越しとはいえ拝観できたし、江戸時代の洋画家、川原慶賀の描いた本堂の天井画も見ることができたのである。これも何かのご縁である。以下、お寺の風景と、ネットで見つけてきたご本尊(なかなか堂々たる仏様だ)と天井画(保存状態が悪いのが残念)の写真を掲載する。
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アイランド号で軍艦島ツアーに参加される方、是非この由緒正しい古寺に足を運んでみて下さい。その土地の歴史について、何か発見があるものと思います。

さて、この日は軍艦島から戻って、観音寺にお参りしても、まだ正午過ぎ。午後は長崎の中心地へ移動のこととした。海沿いの、じゃなかった、川沿いのラプソディ長崎編、まだ続きます。

by yokohama7474 | 2016-11-14 01:39 | 美術・旅行 | Comments(0)

ある週末、長崎に遊ぶこととなった。その理由は、その土曜日が家人の誕生日であったことである。このブログで散々書き連ねている通り、私の週末は大抵の場合、オペラやコンサートや美術館通いで予定が埋まっており、特に秋のシーズンには文化行事が多い。だが、やはり家庭円満は社会人としての生活の基本である。ということで、この週末は家族サービスに充てようと決意。どこに行きたいかと家人に尋ねると、軍艦島だという。おぉ、つい先ごろ近代産業遺産としてユネスコの世界遺産に登録されたとはいえ、もともと廃墟好きの私にとっては、もちろん行先として異論があるはずもない。であれば、日帰りでなく一泊して、これも私の長年の強い興味の対象であるかの地の教会を巡りたい。実は長崎には30年ほども前に一度行ったことがあるのだが、既に記憶が曖昧であるし、そもそも島原・天草には行ったが平戸には行っていない。そんなわけで、土曜の早朝に羽田を発って長崎に向かったのである。我が家の旅行はのんびりゆったりという雰囲気とは縁遠く、いつも時間と体力の限界に挑戦するような鬼の観光スケジュールとなるのだが、今回もしかり。見どころ、考えどころ満載で、実に感慨深い旅となった。文化に興味を持つ人たちには何らかの参考になろうかと思うので、以下、記憶を辿りながら旅を再現してみよう。

まず、長崎県の地図(壱岐、五島列島、対馬は除く)は以下の通り。今回は初日に北の端の平戸市(赤丸の地点)に行き、翌日には南の端、長崎半島の突端近く(青丸の地点)まで行くことになった。ほとんど長崎県縦断旅行というわけである。実際に踏破してみると、結構な距離であった。尚、以下の文章においては、教会の外見は私が撮影した写真を使うが、内部は原則として撮影禁止なので、内部の写真は出版物等からの借用である。
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長崎空港は、県の南北の中心あたりにある大村市に位置しており、レンタカーを借りて北上すると、天気にも恵まれてなかなかに気持ちよい。高速と一般道を走ること1時15分ほどで、最初の目的地である田平(たびら)天主堂に到着。
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一見して分かる通り、この教会は煉瓦作り。五島生まれの名棟梁で数々の教会を設計した鉄川与助によって、1918年に建てられた。このような神々しい内部を見ると、とても日本の教会とは思われないほどである。
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周知の通り、長崎・平戸地域には、哀しい隠れキリスタンの逸話が数多く残っている。明治維新後はこのような教会も各地に建てられるようになったものの、現地を訪れて改めて感じるのは、キリスト教に篤い信仰心を抱き、脈々とその信仰を受け継いできた名もなき人々の思いが、このようなかたちで結実したことの意味するところは、いかに天国への遥かな憧れがこの地に存在してきたかということだ。これから順に見て行くが、ひとつひとつの教会は驚くほど異なる個性を持っていて、建物の建設や維持、あるいは教団の活動維持には、計り知れない苦労があることだろう。ただ単に美しい教会建築に酔いしれるのではなく、現実にこれらを可能にした、あるいはこうせざるを得なかった人間の思いにこそ、学ぶべきものはあるはずだ。古くからの日本人のひとつの特性は、外来のものでもうまく取り込むことである。この田平天主堂の横には墓地があって、墓石自体は純日本風であるにもかかわらず、なんとその上に十字架が設置されているのだ。大変興味深い光景ではないか。
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さてこの田平天主堂は平戸市ではあるが、平戸島ではない。九州本土から平戸島には、平戸大橋という巨大な赤い吊り橋が架かっていて、スムーズに行き来できるようになっている。
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平戸島に入り、海沿いに南に向かっていると、なにやら記念像が海の方を向いて立っている。旅で少しでも有意義な体験をしたかったら、目に入ったものに興味を惹かれたときにそれが何であるかを確認することだ。というわけで、車を停めて行ってみると、それは鄭成功(ていせいこう)の彫像であった。
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鄭成功と言っても、最近の若者は知らないであろうし、私とても、歴史の授業で習った範囲、つまり、中国の明王朝滅亡の際に、中国人の父と日本人の母を持つこの人物が明朝復興のために力を尽くし、後世「国姓爺(こくせんや)」として歌舞伎などで英雄視されているということしか知らない。そういえば彼は平戸の生まれであると読んだことがあったのだが、まさかキリスト教会探訪の旅の途上、ここで鄭成功の事績に触れることになろうとは。ここには、いくつか彼にゆかりの場所がある。まず、海の中(潮が引くと地上に出てくるのだろうか)に、「鄭成功誕生石」というものがある。潮干狩りに来ていた彼の母がこの場所で産気づき、この石にもたれてて鄭成功を生んだという伝承がある由。
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それから、彼を祀る廟。これは比較的最近のものであるようだ。
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さらに行くと、海側から住宅街に入った、鄭成功の生家跡と言われる場所に、小さな記念館が建っている。もちろん、当時の建物がいかなるものであったのかは分からないので、想像による復元だ。また、母である田川マツと少年鄭成功の彫刻が立っている。
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鄭成功の父は鄭芝龍(ていしりゅう)という復権省出身の貿易商人(但し自衛のために武力を所持した海賊的側面もあり)で、平戸藩主、松浦隆信の信任厚く、この平戸の地に駐留。田川マツを娶ったという。鄭成功は長じて、清朝に滅ぼされる明朝のために力を尽くし、一時は台湾からオランダ人を駆逐する活躍を見せた。それがゆえにこの人物は、中国本土、台湾の双方から英雄視されており、いわば東アジア地区全体で尊敬されているのである。記念館には中国・台湾から贈られた展示品も多く、また地元の方が説明をして下さったところでは、よく中国・台湾の人たちが、英雄のふるさとを見たいということでこの地を訪れるとのこと。また、「彼らは皆日本人の能力に期待していて、日本が国際社会で活躍して欲しいと願っていますよ。日本、もっと頑張れって言われますよ」との興味深い説明もあった。鄭成功は東アジア共栄のシンボル。このような民間の国際交流が活発であることは、大変よいことだと思う。

教会巡りに戻ろう。次に訪れたのは、宝亀(ほうき)教会堂。
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この教会は1898年の建立で、平戸最古の教会。マタラ神父という人の指導で、地元の棟梁たちによって建てられた。一見煉瓦作り風に見えるが、それは正面の壁と玄関部分だけで、主体構造は木造。上の写真にもある通り、側面にテラスがあって、さながらコロニアル建築(17-18世紀頃にヨーロッパ諸国の植民地に建てられた建築)のようだ。内部はこのように柱に色が塗られていて、美しい。
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続いて向かったのは、紐差(ひもさし)教会。
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鉄川与助の設計により1929年に完成したもので、鉄筋コンクリート作りだ。これは、関東大震災で多くの煉瓦作りの建物が倒壊したのを見た鉄川の考案によるものとのことで、規模もかなり大きい。長崎市の旧浦上天主堂が原爆で倒壊した後、再建されるまでの期間は、日本で最大の教会であったとのこと。上の写真の通り、シンプルなデザインのステンドグラスが時々刻々美しい表情を堂内に与えている。内部の全体像はこんな感じで、舟底天井もシンプルながらなんとも美麗である。
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この近く、平戸島のちょうど真ん中あたりなのだが、平戸市切支丹資料館がある。少し古いが、この土地の持つ独特な風土を知るには貴重な場所である。様々な隠れキリシタンについての資料が展示されているが、珍しいのは、この地区の人々が信仰を隠すために神棚や仏壇も併設した納戸(「納戸神」と呼ばれる)が復元、展示されていること。
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館の受付をやっている初老の女性が、問わず語りに説明して下さったことには、古い習慣もかなり減って来ていて、先祖代々の貴重な遺品も散逸しそうであったのでこの資料館が出来たが、近年まで続いてきた隠れキリシタンの維持組織も、後継者不足によって1992年に解散したとのこと。時代の流れは致し方ないものの、せめてこれからも、ここを訪れる人たちが、かつてそのように必死で信仰を守ろうとした人たちがいたことに思いを馳せることができる場所であって欲しい。ところでこの資料館、「おろくにん様」(六人の殉教者たち)が祀られる、ウシワキの森という場所のすぐ横に存在しているのであるが、その森に行ってみると、何やら未だに霊気漂う不思議な場所である。年老いた男女が一心不乱に塚に手を合わせていて、こちらも襟を正したくなったものである。尚この日訪れた教会のうちのいくつかでも、若者であったり老人であったりが祈りを捧げるところも何度か目にした。やはり信仰は未だに生き続けているのである。
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ここからまた平戸島の北部に戻る道を取り、訪れたのは平戸城。この地を治めた松浦(まつら)氏の居城で、現在の天守閣は戦後の再建だが、海を臨む岬の突端に建っていて、平戸の街中から見ると大変絵になる。
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城からの眺めも、なかなかだ。平戸大橋も見えるが、私がなぜか興味を惹かれたのは、眼下に見える無人島とおぼしき島に祀られた神社である。以下、2枚目の写真の左側に見える亀の甲羅のような島で、3枚目はそこの神社を望遠で撮ったもの。
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それから、平戸ザビエル記念教会に向かった。1931年完成で、高い丘の上に建つ姿は美しいが、よく見ると、正面向かって左側にある塔が、右側にはない。これは資金難によるものである由。本当に信者たちの浄財によってできた教会なのである。教会の後ろの雲は、まるでオランダの風景画のような風情で、何か不思議な気がする。
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内部はマーブル模様の柱が立ち並び、清々しい美しさである。
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さてこの教会の裏側を左手に行くと、いくつか仏教のお寺が並んでおり、なんとも風情のある石段を下りる道がある。これは、「寺院と教会の見える道」と名付けられていて、振り返れば寺院の屋根越しに教会の尖塔が見えるという、いかにも平戸らしい風景を満喫することができる。うーん、この文化の混淆、いろんな意味で均一性の高い日本という国においては面白い風景ではあるが、この場所でその意義を大いに実感する必要があるだろう。
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また、光明寺・瑞雲寺というお寺の境内からは海が見え、つい先刻登ってきた平戸城の天守閣も、なかなか見事な姿を見せている。
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さて平戸の街中には、まだまだ面白いものがいろいろある。実に1702年に建造された石の橋、幸橋は重要文化財だが、未だに歩行者が通っている。
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吉田松陰も平戸に滞在したことがあって、その宿、紙屋の跡地には石碑が立っている。でもなぜアンパンマン???
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さて、普通の人ならこのあたりでかなりバテていると思うが(笑)、我々の観光旅行は貪欲だ。ちゃんと各施設の閉館時刻を調べ、あと2ヶ所を訪れることとした。最初は、最教寺。実に弘法大師空海が806年、唐から帰朝後に最初に日本で密教の護摩を焚いたところと言われる聖地で、西の高野山と呼ばれているらしい。古い建物は残っていないが、霊宝館にある重要文化財の涅槃図のほか、近年建てられたらしい三重大塔が興味を惹く。天気は晴れたり曇ったりだが、時折西日が差すと、石仏が神々しく輝いて神秘的だ。
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また、三重大塔の地下では、胎蔵界めぐりを行うことができる。これは、真の暗闇の中、壁に沿って手探りで歩き、一周すると仏が現れるというもので、長野の善光寺等、時折お寺にはあるものだ。なかなか面白い体験だったが、寺のパンフレットにあるこのキッチュな絵を見て、さらに気分は高揚する(笑)。
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最教寺を辞し、最後の目的地である旧オランダ商館へ。ここは港のすぐ横であり、長崎の出島にできる前に、最初にオランダ商館が置かれた場所であるという。行ってみると、オランダ人たちが住んだ地域の塀や、商館の跡地、井戸など、生活の痕跡が残っていて楽しい。
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そしてこのあたりからもすぐ、平戸城が見える。あ、それから、城から見ていて気になっていた神社のある無人島は、港のすぐ近く。もしかすると航海の神、金毘羅さんを祀っていたりするのだろうか。日本の神様は親切だから、異国人であってもご利益があったのかもしれない(笑)。
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この場所には、1637年に築造された倉庫が復元されている。但し、資料が少ないため、多分に想像によって復元しているらしい。それにしても、またこの空はオランダ絵画のようではないか。かつてここに暮らしたオランダ人たちも、このような光景を見て、遥か彼方の母国を思ったものであろうか。
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ここには大変興味深い展示物があれこれ並んでいる。例えばこれは聖書であるが、日本で禁制とされたポルトガルの旧教(カトリック)ではなく、新教(プロテスタント)であることを幕府に訴えたらしい。本当にその違いを幕府が理解したか否か疑わしいが、江戸時代を通じてオランダとの通商は維持されたということは、ちゃんと違いが認識されたということだろう。もちろん、布教活動をせずに貿易だけやっていたという事実こそが何より大事であったろうが。
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これは、反射で少し分かりにくいが、船首飾りである。なんとも素朴。
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これは南蛮甲冑。日本の甲冑をもとに、1630年代にオランダで作られたという。このような独特な文化の混淆に、私は限りない興味をそそられるのである。
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そしてこの場所は倉庫の復元なので、このような滑車も取り付けられていて、往時を偲ぶことができる。
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このように長崎での一日目は、平戸における東西文明の混淆、融合、衝突と破壊という様々な局面を体験することとなった。見上げると、丘の上のザビエル教会の尖塔が夕日を浴びている。信じる神は違えども、この地球で過ぎて行く一日一日の時間の貴重さを、このような光景から感じることができるのが人間だ。
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その日は長崎市の中心地で一泊し、いよいよ翌日は軍艦島、そして長崎市内観光だ。乞うご期待。

by yokohama7474 | 2016-11-13 16:03 | 美術・旅行 | Comments(0)

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もう恒例になっているような気もするが、まず最初にお断りしておく。私がこれから採り上げるこの展覧会、東京での会期は既に終了してしまっている。だが、この素晴らしい展覧会をどうしても見たいという方は、12月15日までなら姫路で見ることができ、年明けになれば京都の細見美術館で見ることができるのだ。なかなかタイムリーに記事をアップできないことは私としても忸怩たる思いなのだが、せめてこの展覧会の意義をこの記事で広く訴えたいと考える次第。

そもそも家人から、「キイツの展覧会やってるよ」と聞いたとき、私の頭に浮かんだのは、25歳で世を去った英国ロマン派の夭折の詩人、ジョン・キーツ(1795-1821)であった。ロンドンではハムステッドにある彼の旧居に行ったこともある。彼の詩集も今手元にあるが、「エンディミオン」という作品の冒頭、"A thing of beauty is a joy for ever." (美しきものはとこしえに歓びである)に心震える思いである。だが、そんな私の妄想を打ち砕く家人の声。「琳派だよね」・・・むむむ、キーツはリンパ炎で亡くなったのだろうか・・・などとあらぬことを考えているうちに気付いたのだ。おお、これは琳派の鈴木其一(すずき きいつ)の展覧会だったのだ。

そのような私の思いをギャグだと思われる方には、以下の事実を申し上げよう。詩人キーツの生年は上記の通り1795年だが、江戸琳派を酒井抱一とともに代表する鈴木其一の生年は1796年(没年は幕末の1858年)。なんと、西洋のキーツと東洋のキイツは、1歳違いの、ほぼ同い年なのだ。事実は小説より奇なり。夭折の天才キーツの死後まもなく描かれた肖像画はこれだ。
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一方で日本のキイツの方は肖像画は残っていないようである。だが、きっと彼も「美しきものはとこしえに歓びである」とつぶやいたことがあったかもしれない。そのような其一を生んだ環境と、近代性溢れる彼の作品を見て行くこととしよう。まずおさらいであるが、琳派とは、江戸初期に京都で活躍した尾形光琳、乾山兄弟と、それに先立つこと恐らく百年くらい(限定できないのは生没年不詳であるからだが)前に活躍した俵屋宗達に代表される美学のことで、光琳よりもさらに百年くらい後に活躍した抱一、其一師弟の活躍の舞台は江戸であった。ゆえに、この抱一、其一ら一派のことを江戸琳派と呼んでいるのである。展覧会は、其一の師匠であった抱一の作品から始まる。
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これは抱一の「桜に小禽図」(右)と「雪中檜に小禽図」(左)。なんともきっちりした絵ではないか。右の絵では木の幹がぼやっとしていて、花曇りの感じが出ているのに対して、左の絵では木の輪郭がきりっとしていて、雪の中の空気感まで描かれている。こんな素晴らしい作品を残した師匠の肖像を、其一が残している。酒井抱一は姫路藩主の家柄で(あ、だからこの展覧会は今姫路で開かれているのか!!)、なかなかに高貴な血の人なのであるが、この肖像を見るとまるで商人のような佇まいである。
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この作品はその師弟が共演したもの。つまり、其一が絵を描き、抱一が賛(上部の書き込み)をした「有掛絵ふ字尽くし図(うけえふじずくしず)」(1822年、つまり英国でキーツが天に召された翌年だ)。有掛(うけ)とは、十二年ごとに巡ってくる幸運な時期のことで、誰かが有掛に入るときには「ふ」の字のつくものを七種類贈る習慣があったらしい。ここでは、富士、湖面の逆さ富士、船、「ふ」の字をなした鳥三羽、船人で七つだそうだ。なんとも粋ではないですか。
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それから、これも面白い。抱一と其一のほか、谷文晁や渡辺崋山ら、合計72名の絵師や書家の作品を集めた、文政三年諸家寄合描図(1820年)。当時の文化人の間を回覧して作成されたものらしく、一説には抱一の還暦祝いとも言われている。其一は真ん中左の蟹を描いている。当時の文化度の高さを思い知らされる作品だが、この中には抱一が吉原から身請けした遊女の漢詩なるものもあるという。うーん、遊女も漢詩を書くことができたとは、やはり文化度が高かったということだろう。
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その他、抱一、其一近辺の画家の作品の展示もあるが、やはりここから先は其一の作品が見たい。その筆致は千変万化の鮮やかなもので、驚くべき作品に出会うことができる。まずこの「雪月花三美人図」のうちの一幅においては、手堅い美人画の手腕を発揮している。
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この活き活きとした群像図は、吉原大門図。この粋な遊びも文化ですなぁ。本当に楽しそうだ。
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そして、見る人誰もが圧倒されるに違いない、根津美術館所蔵の「夏秋渓流図屏風」。色使いが異常なまでに鮮やかである上、いかにも琳派を継承する様式的な川の流れは、実に大胆だ。
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大胆な構図は、とても江戸時代のものとは思われない近代性をまとっている。いつまでもその前に佇んで眺めていたい逸品だ。
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そして、琳派と言えば風神・雷神。其一もそれを描いているが、雲の描き方が奔放で、伝統に新たな息吹を与えることを自負しているかのような描き方ではないか。見ていて楽しくなってくる。
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かと思うとこの「松島図小襖」の、様式化された波の模様も素晴らしい。これぞまさに琳派的装飾性であろう。
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これも装飾性が高いと言ってもよいだろうが、毛色が全く違う。乾山描くところの茶碗の模様のようではないか。「芒野図屏風」である。装飾的でいて、漂う霧の雰囲気がリアルに出てもいる。
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其一の作品にはまた、若冲かと見紛うばかりの精緻な動植物も多い。この「蔬菜群虫図」に描かれた、動きさえ感じさせる蔓は、西洋画を思わせる。
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もちろんなんでもできる其一のことだから、当然水墨画も描いている。この「昇龍図」は、力強くもまたユーモラス。垂直に登る龍をこんな風に背中から描いた画家は、ほかにいないのではないか。
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そしてこれは、メトロポリタン美術館が所蔵する其一の代表作のひとつ、「朝顔図屏風」。ほんの一部分の写真だが、双幅の屏風全体を並べてみると、風神・雷神の構図を模倣しているとも言われる理由が分かる。それだけ生命力に満ち、動きさえ感じさせる朝顔なのだ。
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これは「林檎図」。この写実性にはなんとも気品があり、花も実も、いやみにならない範囲での存在感をたたえている。これも近代的だ。
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この「雪中竹梅小禽図」は、積もった雪の重さまでリアル感じさせる一方で、自らの重みに耐えかね地面に落ちる雪は様式化されており、美しい。
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これも面白いのだが、集まった人々の非日常的な瞬間が活き活きと伝わってくる。「大原雑魚寝図」と題されており、節分の夜、京都・大原の江文(えふみ)神社で行われた雑魚寝の風習を描いたもの。いわゆる無礼講であるようで、真ん中の若者は、あろうことか、男性、女性、双方から誘惑されて困っているようだ(笑)。
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これはまたユニークな美の表現。「富士千鳥筑波白鷺図屏風」から富士山の方(もうひとつは筑波山を描いている)。うーん。近代の日本画のようではないか。モダンな感覚に痺れる思いだ。
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この「達磨図凧」は、江戸時代の凧がそのまま残っている貴重な例であるらしく、糸も残っているので実際に使われていたらしい。其一は仏画もよくしたが、この太い線で描かれた達磨の絵には、繊細さと力強さが同居しているように思う。消耗品の凧にまで貪欲に活動範囲を広げた其一の制作意欲には恐れ入る。
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かと思うと、神社に奉納された絵馬もある。これは、「神功皇后図絵馬」(1845年)。埼玉県行田市(私も訪れ、今年の6月26日に記事を書いた)の行田八幡神社に奉納されたもので、1989年まで実際に拝殿に掲げられていたものらしい。絵馬なので多少荒い作風になるのは致し方ないが、背景の波の様子など、いかにも琳派の継承者であると思わせる。
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ご紹介した以外にもまだまだ沢山の素晴らしい作品が展示され、思わず唸ってしまう瞬間も多く訪れる。「美しきものはとこしえに歓びである」・・・西洋のキーツの言葉が、日本のキイツの作品には本当にふさわしいと思う。この地上に生きているときには顔を合わせることがなかった同世代の二人が、今やあの世で言葉の壁を乗り越えて話しているのではないかと想像するのも楽しいものだ。鈴木其一、江戸琳派とまとめてしまうのはもったいない、素晴らしい手腕を持った画家であった。

by yokohama7474 | 2016-11-12 01:28 | 美術・旅行 | Comments(6)

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世界には様々な都市があり、それぞれの顔を持つが、その中でも、ちょっとほかにないだろうという独自性を持つ都市がいくつかある。ニューヨークや香港や、あるいはパリはそのような都市であると言って間違いないだろう。だがそれらはいずれも、現在においても経済活動も盛んで、それゆえの人の往来がある街。だがここに、専らその文化的価値を持って世界で唯一と言える街がある。ヴェネツィアがそれである。かつて東方貿易で栄えたこの街は、陽光がないわけでは決してないが、水の上に築かれた危うさもあって、どこか退廃の気配が漂っており、世界のほかの場所にはない味わいを持っているのだ。
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などと偉そうなことを言っているが(笑)、私はこれまで一度しかヴェネツィアに行ったことがなく、しかも、その観光のひとつの目玉であるべきアカデミア美術館に行こうとしたところ、閉館していたのだ。理由は分からない。ただ閉館していたのであって、イタリアでそんなことがあっても怒ってはいけない。かの地では、閉まっているものは閉まっているのである。なのでこの展覧会の広告を見たとき、これはよいチャンスだと思ったのである。そのヴァネツィアのアカデミア美術館から、ヴェネツィア・ルネサンスの名品がやってくる!! 是非見たい・・・と思っているうちに、気が付くと10月10日。東京でのこの展覧会の最終日である。そんなわけで、いつもながらに後手後手に回ってしまって大変申し訳ないのだが、今から3週間半前に見たこの展覧会を、今頃採り上げることとする。なので、これを見てご興味を抱かれる方も、既に東京六本木の国立新美術館での展覧会は既に終了していることをご承知されたい。だが、ひとつの朗報は、大阪の国立国際美術館では、年明けの1月15日まで開催中なのである。という言い訳をしておいて、私がこの展覧会に行ったときの国立新美術館の写真がこれだ。
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なるほど、ダリ展と同時開催であったわけだ。実際のところ、ダリ展は入場15分待ちであったところ、このヴェネツィア・ルネサンス展は待ち時間なし。会場内はガラガラとは言わないが、それなりに余裕のある状態で、それだけ東京の人は、ヴェネツィア・ルネサンスへの関心が低いということかと思ったものだ。なので、微力ながらこの記事で、その素晴らしさについて少し言及してみることとしたい。

そもそも、イタリアにおけるルネサンスといえば、フィレンツェじゃないんかい、と思う人も多いかもしれない。もちろんフィレンツェも、世界にただひとつの特別な街。イタリアの場合、それぞれの都市が覇を競っていた頃、経済の隆盛に応じて文化も発達したという点では、フィレンツェもヴェネツィアも変わりはない。だが、それぞれの都市の原動力となった経済の様相同様、それぞれの都市が生み出した美術には、かなりの違いがあると言ってもよい。フィレンツェの華麗さに比してヴェネツィアの場合は、色合いは少しくすみ、楽天性も少ないが、時に凄まじい劇性を持っていると言ってしまってもよいのではないか。

いわゆるヴェネツィア・ルネサンスの画家として歴史上最初に出てくる一派は、ベッリーニ家である。ヴェネツィア派の創始者といわれるヤーコポ・ベッリーニと、その息子たち(近年では諸説あるようだが、一般にはそう理解されている)、ジェンティーレ・ベッリーニとジョヴァンニ・ベッリーニらがそれだ。この展覧会も、ジョヴァンニ・ベッリーニ(1424/28? - 1516)の作品から始まる。聖母子(1485-90年作)である。
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制作年を調べると、フィレンツェではちょうどボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」やダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」「最後の晩餐」の頃ということになる (ラファエロやミケランジェロは未だ子供である)。それらフィレンツェ絵画の人間性や明るい色彩に比べると、やや地味な印象はぬぐえないが、それでもこの母と子の深い感情をたたえた表情はどうだ。全体に静けさが支配している。そして、少し毛色は異なるが、このような作品にも同様の静けさが見られる。
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その生涯については判明していないことが多い、だがヴェネツィアに大きな工房を持っていたと考えられているラッザロ・バスティアーニという画家の「聖ヒエロニムスの葬儀」(1470-80年)。面白いのは、線の硬さに現代性を感じることができることで、特に、真ん中の修道士たちのマンガ的な顔は印象に残る。
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この硬い線と、抑制されながらある意味で装飾的な色使いには、どこかに見覚えがある。そうだ、私の大好きな画家で、世界の美術館でその作品を見てはいつも狂喜乱舞している、カルロ・クリヴェッリ(1430/35頃 - 1495)である。彼はヴェネツィア出身ではあるが、姦通の罪で同地を追放されたという。なるほど、怪しい美しさを放つ彼の作風は、同時代のヴェネツィアがはらんでいた何かから来ているわけか。これは「聖セバスティアヌス」と「福者ヤコポ・デッラ・マルカ」(1480-90年)。クリヴェッリらしい静謐で神秘的な絵だ。
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クリヴェッリは日本ではさほど知られた画家ではなく、関連書籍も多くないが、私の手元にはトレヴィルの画集(このシリーズの高い趣味性には本当に心躍るものがあった)と、石井 曉子という研究者の著した評伝がある。前者は既に絶版になっているのかもしれないが、中古市場ではそれほど高くない値段で手に入る。ただ美しいだけのルネサンス絵画に飽き足らない方には、強烈にお薦めしておこう。尚、この画集の表紙に使われているクリヴェッリの作品、創元推理文庫に入っているサラ・ウォーターズのミステリー小説「半身」の表紙にも使われている。
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さて、展覧会に戻ろう。これはヴィットーレ・カルパッチョ(1460頃 - 1526)の手になる「聖母マリアのエリザベト訪問」(1504-08年作)。カルパッチョといえば、「聖ウルズラの生涯」の連作が有名で、このヴェネツィアのアカデミア美術館の至宝とされている。この作品はそれに比べると面白みを欠くが、注目したいのはこの赤だ。生の肉や魚を薄切りにしたカルパッチョという料理は、この画家の赤に因んで名づけられたそうである。なるほど。
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展覧会にはその他いくつかの15世紀末頃の宗教画が並んでいるが、正直なところ、フィレンツェの絵画ほどの躍動感はない。だがこの街独特のくすんだ色合いの絵画の全盛期は16世紀に入ってから訪れる。ジョルジョーネ(1477/78頃 - 1510)、ティツィアーノ(1488/90頃 - 1576)、そしてヤコポ・バッサーノ(1515頃 - 1592)、ヤコポ・ティントレット(1519-1594)、パウロ・ヴェロネーゼ(1528-1588)らの輩出によるものだ。これはボニファーチョ・ヴェロネーゼ(1487頃 - 1553、パウロ・ヴェロネーゼとは別人)の「嬰児虐殺」(1537年頃作)。ここでは色彩は鮮やかで、激しい動きはルネサンスというよりもマニエリスム風だが、人体を誇張して長く伸ばすという手法は取っていない。
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これも同じ画家の晩年の作、「父なる神のサン・マルコ広場への顕現」(1543-53年作)。今も全く変わらない聖マルコ寺院と鐘楼の姿が描かれているが、カナレットらによってヴェネツィアの風景が盛んに描かれたのは18世紀のことで、これはそれに200年も先立つ貴重な例であるとのこと。
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この展覧会にはジョルジョーネの作品は展示されていないが、彼の「テンペスタ」は、謎めいた風景画として、やはりアカデミア美術館の至宝となっている。その代わりと言うべきか、ヴェネツィア絵画黄金期を築いたもうひとりの雄、ティツィアーノ・ヴェチェッリオと彼の工房による作品が3点、展示されている。これは「聖母子」(1560年頃作)。深い感情をたたえた素晴らしい作品だ。
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そして今回の展覧会の目玉である「受胎告知」(1563-65年作)。これはアカデミア美術館の所有ではなく、ヴェネツィアのサン・サルヴァドール聖堂というところに飾られている祭壇画である。幅240cm、高さ410cmの大作で、ティツィアーノ晩年の傑作だ。
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現役の教会の祭壇画が日本まで運ばれてくるというのは珍しく、その経緯についての説明はないが、恐らくは修復のために祭壇から降ろしたというような事情でもあったものだろうか。ただ、会場ではライティングがあまりよくなく、反射で画面がよく見えないもどかしさがあった。大阪での展示ではその点が改善されているとよいのだが。こうして見ると、素晴らしい劇性が表現されているのが分かる。
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次の巨匠は、ティントレットである。本名はヤコポ・ロブステイといい、この通称は、父親が染色職人(ティントーレ)であったことに由来するとのこと。このティントレット、ヴェネツィアの政治の中心、パラッツォ・ドゥカーレの大壁画「天国」や、サン・ロッコ同信会館の天井画など、劇的で壮大な作品で知られる。この展覧会で展示されている「聖母被昇天」(1550年頃作)も、複雑な空間構成を見事にまとめた素晴らしい作品。
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私はこの画家が好きなので、えこひいきであと2枚ご紹介する。「動物の創造」と、「アベルを殺害するカイン」(ともに1550-53年頃作)。創世記に材を取った連作である。うーん、ヴェネツィアらしい影のある色彩ながら、そのドラマ性には胸躍るものがある。
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ちなみにここでも、上のクリヴェッリ同様、トレヴィルの画集シリーズで以前出ていたティントレットの巻をご紹介する。内容は、上にも言及した、サン・ロッコ同信会館の壮絶な天井画である。現地に行ってみると、天井を見上げてばかりいると首が疲れるので、鏡で天井画を見ることができるようになっていたと記憶する。
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次にパオロ・ヴェロネーゼの作品をご紹介する。「レパントの海戦の寓意」(1572-73年頃)。史上有名なレパントの海戦は、1571年、オスマン・トルコをローマ教皇・スペイン・ヴェネツィア連合軍が破った戦いで、その後ヨーロッパのキリスト教国が地中海の制海権を奪回するきっかけとなったとされるものである。この作品は海戦の勝利を記念して教会に寄進されたものらしいが、制作年を見ると、まさに海戦の勝利直後ということになる。その時代、ヨーロッパ側がいかにこの勝利を喜んだかということが分かる。細部もまた、非常に手の込んだリアリティが追求されている。
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尚、またまた余談であるが、先日仕事でバルセロナを訪れた際、海洋博物館というところでレセプションが開かれたのだが、その博物館には、このレパントの海戦でスペインが使用したという戦艦の実物大模型が展示されていた。やはり今でもこの海戦はヨーロッパ人にとって大きな意味を持つものなのだと実感した次第。
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さて、得意の寄り道はこのくらいにして(笑)、先を急ごう。ヴェロネーゼだが、このような迫力ある戦闘場面だけではなく、宗教的な内面性の表現にも長けている。これは「改悛する聖ヒエロニムス」(1580年頃作)。細部のリアリティは海戦の絵と通じるが、左腕の筋や、握りしめた右手に、聖人の内面がにじみ出ていると思う。
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この作品は、ヤコポ・ティントレットの次男であるドメニコ・ティントレット(1560-1635)の、「キリストの復活」(1580-90年頃作)。父ティントレットより時代が下るだけあって、その表現の多彩さは顕著である。ただ、やはり父の壮大なヴィジョンよりも少し平明なものになっている点は否めまい。
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最後に、ヴェネツィア絵画のひとつの伝統である肖像画を一点ご紹介しよう。これもドメニコ・ティントレットによる「サン・マルコ財務官の肖像」(1600年頃)。人間の内面を感じさせる作品であるが、この都市では、要職に就いた人たちのこのような肖像画が今でも数多く残っており、昔日の栄光を無言で語っている。ゴンドラから響く舟歌を耳に、夥しい死者の群像とともにあるヴェネツィアの歴史に思いを馳せる日を、また近く持ちたいものだと思う。
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ところで、このドメニコ・ティントレットであるが、最近発見されて話題になった、あの天正遣欧使節団の伊東マンショの肖像画の作者でもある。この展覧会に展示されているわけではないが、せっかくなのでその作品の写真も掲載しておこう。私は天正遣欧使節団には多大なる興味を抱いているのだが、今年東京国立博物館でこの絵が展示されたのを見に行くことはできず、その後、宮崎や長崎での展示があったことも知っているが、残念ながら見ることはできていない。いつかどこかで、実物を拝めることを切に希望する。
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そんなわけで、いつも通り寄り道三昧の展覧会案内でした。

by yokohama7474 | 2016-11-03 12:33 | 美術・旅行 | Comments(8)

前の記事では、織田信長の最期にまつわる書物をご紹介したが、この記事は、信長が初めて築いた城について触れたいと思う。愛知県、名古屋の北東に位置する小牧山城がそれだ。
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私がこの城を訪れたのは1ヶ月と少し前。実は以前に記事として採り上げた岐阜県の願興寺や永保寺を訪問したあとであった。名古屋市内から車で移動すると、上記の岐阜の寺々からこの小牧を回るというのは、実はちょうど無理のない1日の観光コースに収まるのである。なので、この地区在住の方はもちろん、別の場所から名古屋地区に旅行される方にはレンタカー利用による手軽なドライブとして、このような歴史を巡る旅をお薦めします。さてこの小牧城、私には以前から気になる存在であった。歴史上、小牧・長久手の戦いは有名である。一方の長久手古戦場 (名古屋の東) は昨年訪れて、やはりこのブログの記事として採り上げた。だが、かたや小牧というと、県営名古屋空港の所在地であるということ以上に、あまりイメージがない。そもそも小牧と長久手は随分離れていて、連続した名称で呼ばれることには違和感があったのだ。だが調べてみるとこの戦い、本能寺の変の 2年後の1584年、信長の跡目争いとして起こった、羽柴秀吉と、織田信雄(のぶかつ、信長の次男)を擁した徳川家康との間の戦いで、実は全国規模の戦争に波及した一連の戦の総称であるらしい。小牧には家康の本陣があり、一方の長久手では両軍の戦闘が行われたことが、名前の由来であるようだ。この長久手の戦いでは秀吉軍が敗走し、秀吉側から和睦の申し出があったという。だがこの秀吉の敗北はこの戦い一日だけのことであり、実は1年に亘った一連の戦乱を通して、秀吉は信雄の領土をかなり奪うことで、その同盟者であった家康を出し抜いたというのが真実であるらしい。つまり、秀吉の天下統一に向けた確かなマイルストーンにはなったわけだ。

このように、戦国時代の歴史において重要な事柄がこの小牧で起こったことは事実であるにせよ、興味を惹くのは、冒頭に記した通り、この城は信長が最初に築いた城であるということだ。私がこれまでに訪れた中では、このブログでも採り上げた安土城が、もちろん信長の業績としては特筆ものであるが、彼はそれ以前に岐阜城も築いており、私は数年前にそこも訪れたことがある。なので、この小牧山城を訪れることで、信長が生涯に作った3つの城郭跡地にすべて立ち会うことになる。これは楽しみですよ、信長さん。
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この城は、小牧山という小さな山の上に建っている。ピンボケながら、私が車窓から撮影したのがこの写真。それなりの高さの感じが伝わるものと思う。尚、頂上に建っている天守閣はもちろん建造当時のものではなく、昭和43年に篤志家が私財を投じて再建したもので、今は小牧歴史館という博物館になっている。
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現地に辿り着いてみると、このような案内板があるが、てっきり山頂まで道路が続いているものと思いきや、かなりの山道をえっちらおっちら登っていかなくてはならないのである。それほど楽なことではない。
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現代の感覚では、戦国時代の城が山の上に石垣で囲まれて存在していることは普通と思われるが、実は城に石垣が作られたのは、この小牧山城が日本で最初であるという。つまり、天下統一を目指した当時30歳の信長は、軍事目的のみならず、「見せる」城の造営に意を砕いたわけであり、やはりほかの戦国武将にはない先見の明があったということであるようだ。そういえば岐阜城でも近年発掘が行われ、接客を含む信長の様々なアイデアが明らかになってきたと聞いたことがある。ここ小牧山城でも、近年の発掘作業を経て、今後は観光地として整備される計画であるようだ。頂上に至る道々、このようなものを見ることができる。石垣の裏込石は、「平成23年度発掘調査で出土」とあるので、ほんの5年前だ。
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そして見えてきた、天守閣を模した小牧市歴史館。辿り着くまで、なかなかにワイルドな道が続く。信長の築城以来、歴史を経て来た大きな石たちは、沈黙して語らないが、その存在感は心に残るものがある。
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そしてこれが歴史館。
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通常、再建された城郭の内部には、甲冑や火縄銃だとか、合戦の屏風とか、あるいはほかの城の写真(笑)などが展示されていて、あまり変わり映えしないのであるが、ここには規模は大変小さいながらも、古墳時代から現在に至るこの土地の歴史にまつわるものが展示されていて、なかなか居心地がよい。そして最上階から見えるのはこんな景色。左の奥に見えるのが、県立小牧空港の滑走路だろう。そのつもりで撮影したはずだが、結構距離があって、よく確認できない(笑)。
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現地にはこの城の発掘調査から判明した石垣についての説明パンフレットなどもあり、信長の時代に思いを馳せることができる。上述の通り、観光地としての整備を進めるということなので、数年後にはさらに観光客フレンドリーな場所になっているかもしれない。今後の高齢化社会を思うと、やはり頂上まで車で通れるようにしてもらえれば、もっと来訪者が増えるのではないだろうか。教科書にも載る「小牧・長久手の戦い」の舞台であり、信長の覇道の初期に位置する城である。華麗なる歴史スポットとして脚光を浴びてもらうことを祈っておりますよ。

by yokohama7474 | 2016-10-26 23:51 | 美術・旅行 | Comments(0)