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フィリップ・K・ディック (1928 - 1982) は言うまでもなく、SF 界で圧倒的にカルトな人気を誇る作家である。私の知人でも何人かはいわゆる SF マニアという人たちがいて、あらゆる SF 物を渉猟している (いた?)。もちろん私などはその足元にも及ばないのであるが、そんな私ですら、ディックの作品は特別な意味を持っていて、名作映画「ブレードランナー」の原作として知られる「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を含めた数冊のディック作品を読んで、驚愕してきた口である。そんな私が大変久しぶりにディック作品を読みたいと思ったにはわけがある。そのわけは、追ってまたこのブログの記事でご紹介するとして、この「高い城の男」について語ろうではないか。これがディックの肖像写真。
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この「高い城の男」は、ディックの作品の中では初期のものである。この作品が1963年にヒューゴー賞という栄えある賞を受賞したことで、彼の名は一躍知れ渡ったらしい。ときにディックは既に 37歳。彼の充実した創作活動は、その後に彼に残された 20年弱の間に主になされたものだということだ。それにしても、1963年ということは、ケネディ暗殺の年。未だヴェトナム戦争は継続中であり、東西冷戦真っ盛りである。そんなときにディックの書いたこの作品の想定は極めてユニーク。それは、第二次世界大戦で連合国ではなく枢軸国、つまり、ドイツ・日本・イタリアが勝利した世界を舞台にしているのである。つまり、当時ガッチリ世界を支配していた現実の戦後秩序から全く離れた世界を、この作家は夢想していたことになる。これは今我々が考えるより数倍も難しいことであり、超弩級の想像力がないとできないことであったろう。それゆえこの作品は、未だに異色を放っているのである。 

と言いながらこの作品、決して読みながら手に汗握るサスペンスがあるわけではない。あえて言ってしまえば、登場人物が多い割には展開が遅い、それゆえにストーリーを追いにくい作品だと言ってもよいであろう。敗戦によって 3つの地域に分割された米国。西海岸は「戦勝国」日本の傀儡である「アメリカ太平洋岸連邦」、東海岸はドイツの傀儡である「アメリカ合衆国」、その間は緩衝地帯である「ロッキー山脈連邦」。ちょっと小さくて見にくいが、以下の地図が本作において想定された世界の勢力地図。赤はドイツの権力が及ぶ地域、緑は日本のテリトリー、水色はカナダなのである。
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上述の通り、この本を読んでいても、人間関係がもうひとつよく分からない点には結構忍耐を強いられる。しかも、何か大事件が起こるわけではなく、強いて言えば危険書物 (つまり、第二次大戦でもし連合国が勝っていたら、という「想定」に基づく物語) の作者、彼がつまり高い城の男なのであるが、その彼に暗殺の危機が迫るということくらいである。だがそれとても、突き進んで行くストーリーではなく、大変に錯綜した登場人物たちの思惑が徐々に収斂して行くというタイプのものであり、しかも、結局はなんらのサスペンスも起こらないのである。それから、登場人物たちの何人かが易経に凝っているという設定であり、それに関する様々な細かい描写があって、西洋人が読むと東洋の神秘というイメージで流すことができるのかもしれないが、私としては正直、その点もかなり冗長だと感じる結果となってしまった。だが、あえて言ってしまえば、当時文字通り世界をリードしていた偉大なる米国の作家が、その米国がもし先の戦争に敗れて、現実世界におけるドイツさながらの分断国家になっていたらどうなるかという空想を抱き、このようなリアリティを持って世界を描いたこと自体が、現実を遥か超えて行く未知の領域であったことだろう。読みながら情景を心に思い浮かべると、当時の観点で夢想した未来、決してバラ色ではなく、空には黒い雲がかかった未来に思いを馳せることができる。その意味でこれはやはり、歴史的な書物なのであろう。興味深いのは、この中で、同じ「戦勝国」でも、ドイツは独裁国家で暴力的な国、日本はドイツと微妙な距離を保つ慇懃無礼な国、そしてイタリアは、要するに弱小でドイツの尻に敷かれているという設定。なんだか分かる気がするではないか (笑)。

さてこの「高い城の男」、最近米国でテレビドラマ化され、日本でも配信されたようだ。私はそれを見ていないが、なんと製作総指揮があの (そう、あの「ブレードランナー」の) リドリー・スコット。このような分かりやすい映像が使われていたようだ。
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長らく世界の秩序は、先の大戦で勝利したか敗北したかによって決定づけられてきた。だが、そろそろそのような「分かりやすい」時代は終わろうとしているのではないだろうか。ある意味で、このディックの「高い城の男」のような世界なら、まだ分かりやすかったであろうが、今や世界の秩序はどんどん分断化され、見えにくくなっている。これが半世紀以上前に書かれた歴史的書物であればこそ、我々は真摯にその設定に向き合うことができる。さて、今から半世紀後、世界の秩序はどうなっていて、この書物はどのように読まれることであろうか。もし未来の人がこの記事を読んで、未だインターネットというものが存在していれば、是非コメントをお願いします!! (笑)

by yokohama7474 | 2017-04-28 00:05 | 書物 | Comments(0)

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このブログでもいくつかの記事でご紹介している通り、近代日本の実業家には、桁外れの巨大な富を美術品の収集や、何らかの文化的事業のパトロネージュに費やした人たちが沢山いた。今我々が享受できる民間機関による文化遺産の豊かさを思うと、日本が近代化して行く過程で営まれたそのような行為には、深く感謝する必要があるだろう。今では企業の価値は時価総額で計られ、成長と凋落は頻繁に入れ替わり、オーナー社長の裁量は限られ、大企業の経営者にもサラリーマン化現象が見られる。従って、いかなる企業にも、昔日のごとき内容の文化事業への支援 (まあそれを道楽という言葉で置き換えてもよいケースも多いわけだが) は不可能になっている。時代の趨勢で致し方ないのであろうが、だがそれでも、その遺産に触れることで、文化と経済の関係について思いを馳せることには大いに意味があるだろう。

さて、この本で扱われているのはひとりの実業家で、しかも文化をこよなく愛した人。だが、彼は美術品の一大コレクションは残さなかった。なぜから、彼は蕩尽しつくたのである。祖父から自分までの三代で築いたその膨大な財産を。上に写真を掲げたこの本の帯にある通り、現在の貨幣価値にして 800億ともいわれるその財産を一代で使い切り、しかもそこには明確な美学があるという稀有な人物の名は、薩摩治郎八 (さつま じろはち 1901 - 1976)。
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この本は、その薩摩の破天荒なパリ生活をはじめとする生涯の事績を克明に追った伝記なのであるが、著者は有名なフランス文学者である鹿島茂。鹿島の著述活動 (や収集活動) は、いちフランス文学者の枠内にとどまるものではないが、このようなユニークな人物の伝記を、丹念に史料を追いながら面白く纏める手腕は、なかなかのものだ。実は、薩摩の伝記は現在では何冊か出ているが、この本のあとがきによると、もともとは鹿島が誰よりも早く手をつけたところ、リーマンショックのあおりで、連載していた雑誌が廃刊となったため、仕上げの部分が中断して数年が経過してしまううちに、ほかの人の本が出てしまったとのこと。そのあたりの人間的なところが憎めないし、何より、そのような「ウサギとカメ」式の顛末を語る口調が全く恨めしく響かない点、ノンフィクション作家としての資質を感じさせるのである。

薩摩治郎八は、東京、神田駿河台の木綿商店の息子として生まれ、1920年に英国オックスフォード大学に留学、1922年にはパリに移り、その地における狂乱の 20年代に、その莫大な資金を惜しみなく消費することで、ダンディな東洋人として名を上げた。その後一旦帰国するが、血筋のよい美女と結婚してまたパリに戻り、様々な芸術家・文化人とも交流しながら、一貫して大いなる散財をすることで (?)、パリで最も有名な日本人となる。第二次大戦の勃発時には、戦火が拡大するかの地から引き上げてくる日本人たちに逆行して 1939年にフランスに渡り (その前に薩摩商店は閉鎖に至ったにもかかわらず)、1951年まで滞在。その後は軽めの雑誌などに、古きよきフランスでの豪遊生活の思い出などを執筆していたらしい。この伝記には、その時代の様々な文化人たちの名前が出て来るので、いちいち書いていてはきりがないが、例えば、薩摩は作曲家モーリス・ラヴェルとは親友であり、また藤田嗣治の現地パリでのパトロンであったらしい。薩摩の回想によると、ラヴェルとともに藤田の個展に出かけて、後ろ姿の裸体画を見たとき、ラヴェルはこう言ったという。「こんなに海の感覚を出している画はないね。それでいて裸体の線だけなんだがね」・・・これはつまり、海が描かれているのではなく、裸婦像なのだが、そこに波のような旋律美があったということのようだ。これが藤田のどの作品を指しているのか判然としないが、イメージとしては例えば、このようなものではなかったか。それにしても、音楽で海を描いたのは、ラヴェルではなくドビュッシーであったはずだが、面白い比喩を使ったものである。
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その他にも多くの芸術家との交流が語られるが、面白いのは、今年 1月15日付の記事で、秋山和慶指揮東京交響楽団がその代表作「サロメの悲劇」を指揮した演奏を採り上げた、作曲家フローラン・シュミット。あの後期ロマン派風の耽美的な曲を書いた作曲家は、自宅に風呂がなく、徒歩圏内に住んでいた薩摩の家にまで、よく風呂を借りに来たという!! そんな趣味だったのか。これぞまさに、風呂ーラン・趣味ット (笑)。
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この本の中では、薩摩が回想録で語っている数々の思い出の信憑性をほかの資料で検証したり、若き日のランデブーの相手が誰の奥さんだったかなどについても、かなり立ち入った調査がなされている。正直、少しうんざりするような細かすぎる部分もないではないが、鹿島という人は一旦こだわると、どこまでもとことん食い下がる人なのであろう。その点では明らかに大変な労作であり、文化的な事柄、特に 1920年代パリが大好きな私のような人間にとっては、実に面白い本なのである。まあそれにしても、華やかなりし頃のパリとは、なんという衝動的パワーに満ちた活気ある場所だったのであろう。もともと芸術家たちは、様々な国からやってきていて、貧乏でも志高くドンチャン騒ぎをしていたわけだ (?)。そんな中、欧州の貴族でもなく、いやもちろん日本においても貴族ではなかった薩摩のような人が社交界の頂点の一角を占めたとは、なんとも興味深いこと。現在のパリでは、移民問題の深刻さが様々な緊張を生み出していることを思うと、この薩摩のようなスケールの大きい東洋人がこの時代のパリにいたことは、幸運なことであった。薩摩の晩年の写真はこちら。
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一見普通のおじいさんのようにも見えるが、不鮮明な画像からも着ているものの高級感は感じられるし、何よりもその福々しい顔から、育ちのよさと、そして、様々な幸せな経験をした人だけが持つ落ち着きを見て取れるように思う。もちろん、彼のような豪遊ができる人はほとんどいないし、ましてや上記の通り、その蕩尽は現代ではまず不可能なことなのであるが、せめてこのような先人がいたことを学び、精神的な貴族に少しでも近づければよいなぁ、と思うことである。

by yokohama7474 | 2017-04-11 22:35 | 書物 | Comments(0)

久坂部 羊著 : 芥川症

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このブログで採り上げる書物には、あまり最新刊はない。というよりも、これまで皆無であったかもしれない (笑)。これはたまたま書店で見かけて購入したもの。新潮文庫で今年 1月 1日に発行されたばかりのもの (もっとも単行本としては既に 2014年 6月に刊行されていたとのこと)。著者の久坂部 羊 (くさかべ よう) は 1955年大阪生まれ。大阪大学医学部卒の外科医、麻酔科医であり、在外公館にて医務官を務めた経歴の持ち主だが、2003年に作家デビュー。若い頃は純文学を志したというが、現在では医療の専門知識を生かしたエンターテインメント作品を中心に執筆しているようだ。
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さてこの本は、題名と表紙によって明らかな通り、文豪芥川龍之介の一種のパロディ 7編によって成り立っている。その題名を列挙すると、
 病院の中
 他生門
 耳
 クモの意図
 極楽変
 バナナ粥
 或利口の一生

もちろん、このブログをご覧になる方に、もとになった芥川の小説名を説明する必要はないと思うが、念のために書いておくと、「藪の中」「羅生門」「鼻」「蜘蛛の糸」「地獄変」「芋粥」「或阿呆の一生」である。そもそも日本の小説家の中で芥川ほど入りやすい人はいないのではないか。短編しか書いていないこともあり、また古典を換骨奪胎していることや、時に童話の形態を取っているものもあるゆえ、(今は知らないが私が子供の頃には) 教科書にもよく取り上げられていた。随分以前から私の手元には、ちくま文庫の芥川全集全 8巻があり、未だすべてに目を通したわけではないものの、彼の文学の鋭利な感覚には常に特別なものを感じている。また、昔私は田端に住んでいたので、いわゆる「田端文士村」の中心人物としての芥川には、長らく特別な思いがあるのである。
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そんな思いで本書を手に取ると、これはなかなかに面白い。それぞれの作品は大なり小なり医療や現代医学に関係した題材となっているのであるが、芥川の「原作」のテーマとの類似性が様々にあるのである。例えば最初の「病院の中」では、父を病院で亡くした息子が、その死因を何人もの医者に尋ねると、それぞれに言うことが違うという具合。これは (黒澤明の「羅生門」の原作にもなった) 芥川の「藪の中」の設定と同じである。だがこの「病院の中」においては、最後にちょっとひねったオチが出て来て、なるほどと思わせるものがある。但し、正直なところ、私としてはこの最初の作品が 7作の中で最も面白かった。ほかにはミステリー仕立てあり、現代社会の問題点と向き合う作品あり、またユーモラスな作品もあるが、描写が必要以上にグロテスクであったり、設定が重すぎたり、またなんとも取りつく島のない悲惨な医療の現実であったりして、ハハハと笑ってすませられない要素もあれこれ出てくるのである。もちろん私はそれらの要素に意義を見出さないわけではないが、芥川という天才が描写したさらに乾いた世界、そしてその奥に潜む人間社会への絶望感というものを思うと、少し複雑な思いに捕らわれるのである。もしかしたら私は、せんないノスタルジーに浸っているのかもしれない。だが、人々をして芥川文学に立ち返らせるものは、やはりこの作家の人間観察であることを思うと、それをパロディにする試みの限界も同時に感じざるを得ないのだ。

とは言いながら、全 7編、飽きることなくスムーズに読み切ることができたことも事実。芥川を必要以上に意識しなければ、それなりに楽しめる書物であると思う。

by yokohama7474 | 2017-02-11 00:36 | 書物 | Comments(0)

鈴木大拙著 : 日本的霊性

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よく、日本人ほど自分たちの特殊性を気にする国民はいないと言われる。いわゆる日本論、日本人論という言説は歴史・文化芸術から政治経済、生活習慣、果てはサラリーマン社会の成り立ちにまで及んでおり、ベストセラー本には、その種の内容を扱ったものがしばしばある。かく申す私自身も、その手の本には以前からかなり興味があり、それなりに読んで来ている。但し、「その手の本」と一口に言っても硬軟様々であり、サブカルチャーを論じたものからマスコミ論、企業文化論、はたまた神道、仏教、天皇制に関する本格的な考察や、あるいはドナルド・キーンのような外からやってきた人の慧眼による分析まで、実に多様である。今回私が読み終えたこの本は、既に歴史的な位置づけを持つものであって、現代の我々誰もが手に取って話題にするようなものではないかもしれないが、日本人のメンタリティについて考えるには、未だに大きな価値を持つものである。

著者鈴木大拙 (すずき だいせつ、1870 - 1966) は日本を代表する仏教学者。96歳近くまでの長い人生を生きた仏教界の碩学であったが、このような猫を抱いた写真を見ると、まさに好々爺という感じに見える。
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彼は戦後間もない 1949年に文化勲章を受賞しているが、その大きな歴史的な業績は、禅の思想を海外に紹介したことにあると言われている。経歴を調べると、明治初期に金沢の藩医の家系に生まれ、若い頃は英語教師をしていたが、鎌倉の円覚寺に参禅して禅の思想に目覚め、27歳のときに渡米して仏教関係の書物を英訳・出版する。39歳で帰国して後、学習院や東京帝大でまた英語講師となる。だがその後は仏教研究に邁進し、戦後、79歳の 1949年から約 10年間は、主として米国の諸大学で、あるいはヨーロッパやメキシコでも、仏教に関する講義・講演を行ったという。そうすると、もともと彼には英語の素養があったにせよ、Daisetz Suzuki という名前が欧米に知られるようになったのは戦後のことで、鈴木自身はその頃既に 80歳前後という高齢であったということだ。現代音楽ファンには、米国の名門、ニューヨークのコロンビア大学での鈴木の講義を、あの 20世紀音楽の風雲児ジョン・ケージが聴講して大きな啓示 (シャレではありません)を受けたことは、よく知られている。ケージは既成の西洋音楽の枠組を破壊した、ある意味で過激な思想な持主ではあったが、鈴木と対話 (というよりも、茶碗の実在性を通して世界のありかたについての講義を傾聴?) しているこの表情を見ると、なんと柔和であることか。
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さて、鈴木大拙はそのような偉大な仏教学者であるが、今日でも多くの著作が出版されていおり、この「日本的霊性」も、岩波文庫で手軽に手に入る。書かれたのは 1944年、すなわち太平洋戦争末期である。本書の解説によると、鈴木は戦争勃発当時から日本の敗戦を確信しており、戦争に負けてしまうと日本は、霊性的自覚の世界的意義を宣揚し、世界の精神文化に貢献することで、国際的使命を果たすしかないと考えていたらしい。というのも、それ以前に「日本的霊性」なる語は彼の著作には登場しておらず、ここで初めて使われた言葉であるからだ。つまりここで鈴木は、敗戦によって悲惨な運命に見舞われるであろう日本人に対し、自らの文化の独自性を自覚することによって、我々は戦後の世界平和に貢献できるのだという、ひそかなメッセージを託したということであろうか。興味深いのはその視点が、日本文化の独自性といっても、いわゆる戦意発揚のための国粋主義的な発想 (それは当然、国家神道の称賛に結びつくであろう) とは全く異なるものである点だ。実際この書物においては「神道は日本的霊性という点において充分なものでない」という趣旨の発言が、暗に明に、繰り返しなされているのだ。これは戦時中の発言としてはかなり危険なことであり、もちろん軍部の検閲などもあったであろうが、末端の役人や軍人には、鈴木がここで言わんとしていることの真意が理解できなかったということであろうか。また上記の通り、鈴木の今日的な位置づけは禅の思想の紹介者であるが、この著作における記述の中心は禅ではなく、浄土宗の系統、つまりは法然・親鸞である。私なりに勝手に解釈してみると、禅には多かれ少なかれ高踏的な要素がつきまとい、庶民が誰でもその思想に共感するというわけにはいかないが、浄土系であれば、誰でも念仏を唱えることで極楽往生できるという平易さによって、庶民性においては優れたものがある。そのような題材の選択においても、鈴木の真意を垣間見ることができる。

ここでの鈴木の趣旨は、真に「日本的霊性」と呼びうるものは、万葉集や平安時代の文化には未だ表れておらず、法然・親鸞によって浄土系思想が発達することで、初めて発生したということである。すなわち、師である法然に導かれ、戦乱の鎌倉期に「大地のうえに親しく起臥する」ことによって親鸞が到達した境地、「弥陀の五劫思惟 (ごこうしゆい) の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人 (いちにん) がためなりけり」という発想こそが、日本的霊性の目覚めであるという。この親鸞の言葉は、「歎異抄」の中に弟子によって記録されている言葉であるらしく、要するに、阿弥陀如来が長い長い時間をかけて思考された結果の誓いをよくよく考えてみれば、このわたし一人の救済についてのものであった、という意味なのであるが、これだけ読むと、まだその真意が分からない。これは、自分ひとり救済されればよいと言っているのではなく (もしそうであれば、後世にまで尊敬される宗教人にはなりませんよね! 笑)、多くの罪を重ねてきた凡人である自分には、現在・過去・未来のあらゆる人間たちの命が集約されている、このような私まで救済されるということは、全人類が救済されるのだ、という意味であるらしい。まあ私も別に親鸞の教義をきちんと勉強したことはないので、実感を持って語ることができるわけではないが、宗教人としての親鸞の厳しい姿勢と高い知性ゆえの、逆説的なものの言い方の奥深さを感じることはできる。有名な悪人正機説 (善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや) も、同様の発想によるものであろう。ふと思い立って、2011年に東京国立博物館で開催された、「法然と親鸞 ゆかりの名宝」展の分厚い図録を手元に引っ張り出してきた。2012年は法然没後 800年、そしてその弟子であった親鸞の没後 750年であったので、それを記念して開かれた大展覧会であった。日本の文化史は、汲めども尽きぬ豊かな泉なのである。
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鈴木の著作に戻ろう。彼は本書の最後の章で、「妙好人」(みょうこうにん) と呼ばれる人たちの例にいくつか言及している。この言葉はなじみがないが、浄土真宗の在家の熱心な信者のことを指すらしい。特に島根県の下駄職人であった浅原才市 (あさはら さいち、1850 - 1932) についての記述が面白い。こんな人であったようだ。私は読んでいないが、彼をモデルにした水上勉の小説もあるらしい。
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この人は、とにかくなんでもかんでも、なむあみだぶつという語を入れた歌を沢山詠んだらしく (下駄をつくるときにできるカンナくずに書きつけたという)、その素朴な作品を、偉大なる仏教学の泰斗が細かく分析している。例えば以下のようないくつかの歌。

QUOTE
わしのりん十 (臨終)、あなたにとられ。
りん十すんで、葬式すんで、
あとのよろこび、なむあみだぶつ。

りん十まだこの (来ぬ)、このはずよ、すんでをるもの。
りん十すんで、なむあみだぶつ。

今がりん十。わしがりん十、あなたのもので、
これがたのしみ、なむあみだぶつ。
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これについての鈴木の解説は以下の通り。

QUOTE
(才市の歌で) 最も特殊と見られる一事は、才市の考えが未だ曾て死後の往生に及ばぬことである。(中略) 普通に念仏宗と言えば、娑婆は苦しみ、極楽はその名の如く楽しいところ、両者は対峙して相容れない。それゆえ此の世では忍順・随順など言う訓練をやって、静かに臨終をまつことにする。弥陀の本願さえ信じておれば、極楽往生疑いなしだから南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と言って日々を送る、それにこしたことはないというが普通である。(中略) 然るに才市の歌には、死んでからどうのこうのということがない。親から貰うた六字の名号 (注 : 南無阿弥陀仏のこと) で、その心は一杯になっていて、そのほかの事を容れる余地がないように見える。
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面白いのは、歴史上の偉人の高邁な思考のみならず、このような市井の「詩人」の創作にまで仏教の本質を見ようとした鈴木大拙の視野の広さである。ナントカ大学卒だとか、ナントカ会社勤務だとか、そんな些末なことに拘っていては一生見えないような、幅広く奥深い世界を、鈴木のような人から学びたいと思う。それからもうひとつ興味深い事実をひとつ。鈴木の伴侶は、ベアトリス・レイン (Beatrice Lane) という米国人女性であった。彼女は神智学者であり、禅の研究のために日本に来ていて、鈴木とも若き日に円覚寺で出会ったが、結婚したのは 1911年、鈴木 41歳のとき。これは 1925年頃の写真で、左に見えるのは養子のヴィクターである。尚、二人の間にはポールという実子もいる由。
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これは老年のベアトリス。品のよいおばあさんであるが、日本生活が長かったせいだろう、どこか日本的な風貌にも見える。
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このベアトリスについて、日本語でネット検索してもあまり情報は出てこないが、英文サイトならいろいろと情報を得ることができる。1878年ニュージャージー生まれだから、鈴木よりも 8歳下。あのガートルード・スタインと大学で同級生であったらしい。彼女らが学んでいたのはラドクリフ・カレッジというところで、講師は心理学者のウィリアム・ジェイムズ。この人の名前は知らなかったが、調べてみると、「意識の流れ」理論を提唱したという。なに、意識の流れ??? それは私の偏愛する「ねじの回転」を書いた作家ヘンリー・ジェイムズの手法ではないか・・・。と思ったら、なんとこのウィリアム・ジェイムズは、ヘンリー・ジェイムズの実兄であるらしい!! 彼の理論は、20世紀文学のもうひとりの巨星であるアイルランド人のジェイムズ・ジョイスにも影響を与えており、また、日本の著述家でも、西田幾多郎や夏目漱石に影響を与えている。おおぉ、ここで出て来た名前、西田幾多郎 (にしだ きたろう) こそ、鈴木大拙と同郷同年生まれ、同じ金沢の石川県専門学校 (後の旧制第四高等学校) で机を並べて勉強した、あの大哲学者ではないか!! ここで見えない糸が突然に見え始めた。鈴木にとってのベアトリスは、まあ、ダンテにとっての同名の女性 (イタリア語でベアトリーチェ) と同じくらいだったか否かは分からないが、運命的な愛を抱く相手であるとともに、20世紀文化の大きな潮流につながる精神的な窓口であったのではないだろうか。彼女は 1939年、61歳で逝去してしまう。これは鈴木が海外で仏教について積極的に講義するようになるより前の話。そうすると彼の海外での活動においては、亡きベアトリスが背中を押していたということなのであろうか。ひとりの人間である鈴木大拙が、その活動によって永遠の精神史の一部となるに際し、彼女の啓示が大きかったということなのであろう。冒頭に、本書を日本人論のカテゴリーで言及したが、本当に大切なことは、日本人の思想に関する考察が、実はさらに普遍的な要素、国際的にも受け入れられる要素を持っているということを認識することではないだろうか。

調べてみると、鈴木大拙も西田幾多郎も、金沢に記念館ができている。できれば近日中に訪れて、今私を包んでいる上記のような「意識の流れ」を、そこにつなげて行きたい。アイルランド文学についても、最近ちょっと思うところあり、また記事を書ければよいなと思っております。


by yokohama7474 | 2017-01-22 12:49 | 書物 | Comments(0)

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永井荷風 (1879 - 1959) は、日本文壇史上に残る文豪と称される人。荷風の名前を知らない人はほとんどいないと信じたいが、さて。昨今ではこのブログのひとつのキーワードとなっている (?) 「昭和は遠くなりにけり」という感覚に基づけば、荷風などは随分と昔の人であると思われても仕方ない面がある。この本は、荷風が晩年を過ごした千葉県市川市で、生前の荷風を知る人たちに執念でインタビューした内容をまとめたもの。荷風ファンにとっては、それはもう面白くて仕方ないものに仕上がっている。著者の橋本敏男は、1937年生まれ。もともと読売新聞社の記者であるが、定年後にこのような荷風研究をしているらしく、ほかにも何冊か荷風についての著作がある。

私は今でこそ永井荷風を心から尊敬すると言えるが、若い頃は何というかこう、なんとも低俗な場所に出入りしたスケベオヤジのような悪い印象があって、どうにもその作品に踏み込む勇気がなかったものである。
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それでも「墨東綺譚」は若い頃に読んだし、その後「あめりか物語」(1908年)「ふらんす物語」(1909年) と読むにつれて、この作家の懐の深さにようやく気付いた次第。その間にも私は磯田光一による荷風の評伝も読んでいるし、最近では沢山出ている荷風のぶらり東京散策についての書物を何冊も買い込んでいるのだ。また、古本屋で旧かなづかいの古い荷風作品を何冊か購入し、黄ばんだページをめくりながらウームと唸っている。そう、昔はイヤらしいと思っていた人物が、気が付けば並ぶ者のない偉大な存在になっていることなぞ、そうそうあるものではない。

彼は明治12年の生まれであるが、父は日本の近代化間もないその時代に、既にプリンストン大学やボストン大学に留学経験があったというから驚きだ。世間の秩序に逆らう偏屈オヤジの印象が強い荷風であるが、素晴らしい文化的な家庭に生まれたということだ。米国では日本大使館や横浜正金銀行の現地スタッフとして勤務したが、その後コネの力でフランスに渡り、かの地の文化にどっぷり浸ったわけである。クラシック音楽ファンとしての私は、まず「あめりか物語」に驚嘆。この中には、当時未だ没後26年(!!)であったワーグナーの作品についてのあれこれの記述があり、また、真に驚愕すべきは以下の文章だ (表記は原文のママ)。

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(初対面の女性相対して) 劈頭第一に、自分はオペラが好きかどうかという意外な質問に会い、つづいて、プッチニの「マダム・バターフライ」の事、今年四、五年目で再び米国の楽壇を狂気せしめたマダム、メルバが事。それから、今年の春初めてアメリカで演奏されたストラウスの「シンフォニヤ、ドメスチカ」の事など、意外な上にも意外な問題に、自分は今までの覚悟は愚か、宛ら百年の知己を得たような心地で、殆ど嬉し涙が溢れて来そうであった。
UNQUOTE

つまり、軽く口説こうとした女性から、思わぬことに当時最先端の音楽の話が出て、大変に感動したということである。ちなみにプッチーニの「蝶々夫人」の初演は 1904年。オーストラリア出身の歌姫ネリー・メルバは 1893年に22歳でニューヨークのメトロポリタン歌劇場にデビューしている。また、リヒャルト・シュトラウスの Sinfonia Domestica、つまり家庭交響曲は 1904年に作曲者自身の指揮で、ニューヨークで世界初演された。「あめりか物語」が書かれた 1908年には、プッチーニは 50歳。シュトラウスは 44歳。バリバリの働き盛りの作曲家たちであったのである!! この驚きがさらに増大するのが、岩波文庫の「ふらんす物語」に付録として収録されている、「西洋音楽最近の傾向」という文章 (1907年にニューヨークで執筆) だ。なんとここでは、若手有望作曲家として、シュトラウスとドビュッシー (シュトラウスより 2歳年上) が比較されていて、彼らの作品のあれこれについて詳細に論じられているのである!! 彼らは当時最先端の現役作曲家であったわけだ。もうクラクラして来てしまう。これが若き日の荷風。
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だが彼の非凡なところは、このような高尚な芸術を論じる一方で、異国の地の女性たちとアヴァンチュールを徹底的に楽しんでいることだ。なんとも先進的ではないか。ただひたすら美を愛する人。このことを頭に入れれば、たとえ彼が老年に至って頑固ジジイになったとしても、我々が払うべき尊敬の念にはいささかも関係しないはず (?)。

戦争中の空襲によって家 (偏奇館、もちろん万巻の蔵書も一緒に) を失った荷風は、東中野、明石、岡山と転々とする。戦後岡山で谷崎潤一郎と食事をして大変感激したという話は知っているが、今回初めて知ったことには、偏奇館を焼け出されてから荷風が頼ったのは、菅原明朗 (すがはら めいろう、1897 - 1998、なんという長命!!) であったのだ。と言ってもこの名前は一般にはあまり知られていないと思うが、作曲家である。私自身もそれほど彼の音楽を知っているわけではないものの、以前 FM のエアチェックで何曲か耳にしたことがあって、名前はよく知っている。調べてみると、長い人生に沢山の作品を残しているのである。菅原と荷風は、浅草オペラの台本と作曲という関係で共演したことがあるらしい。それは 1938年に初演されたオペラ「葛飾情話」。これはそのときの写真で、右端が荷風、左奥が菅原、ほかの 3名は歌手である。一体どんな作品であったのだろうか。
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荷風が市川に居を構えたのは 1946年で、何度か転居しながらも死ぬまで市川に暮らした。最初はほかの人の家に同居であったため、変わり者の荷風はあれこれ問題を起こしたようだ。市川市では、近年になって荷風の記憶を整理して保存しようという動きが起こり、そしてこの本は、その過程における産物なのである。2003年に市川市が荷風生誕 125周年を記念して開いた展覧会の準備において、関係者たちのインタビューが行われたが、その中には新発見の事実もあって大変興味深く、この本の中にその詳細が述べられているのである。実は私はこの本を片手に、市川の荷風ゆかりの場所を年末年始に歩いてみようかと思ったのであるが、既に文学ミュージアムなる市川市の施設が存在していると知り、どうせならそこを見てから街を歩いてみようと考え直した次第。加えて、この地域の古代からの歴史についての本も購入しているので、いずれそちら方面も探訪して記事を書いてみたい。いつになるかは分からないが、市川の知られざる一面に触れることになると思うので、是非ご期待頂きたい。

さてこの本にはもうひとつ、大変に興味深い部分がある。それは、作家の井上ひさし (1934 - 2010) が 2005年にやはり市川で行った講演である。実は彼が若い頃に浅草のフランス座というストリップ劇場 (講演の中で井上は、この表現は誤解を招くとし、「きちんとした劇場です」と説明している) の文芸部に所属していた頃、荷風が何度かそこにやって来たらしいのである。そのあたりの説明がもうそれは抱腹絶倒。私など、読みながら何度も声を上げて笑ってしまいました。晩年の荷風の印象を明確に示すとともに、井上ひさしという人の才能の多彩さも思い知ることができた。私の場合、小学生の頃に井上の「ブンとフン」という作品に入れあげ、その後「モッキンポット師の後始末」「手鎖心中」と読んで行ったが、「子供のくせに心中の本を読んでいるのか」と大人たちにいぶかられたことが原因で (?)、その後彼の作品には疎遠になってしまった。もちろん一般的には「ひょっこりひょうたん島」を代表とする放送作家から、「吉里吉里人」で小説家としてブレイクした人というイメージがあると思うが、そのユーモア感覚には改めて脱帽である。近く私はまた井上作品を読むことになるだろう。だがそれにしても、この人の老年の肖像写真は、荷風と似ているではないか!! まあ、井上がその講演で語っている荷風の歯の汚さは、井上にはなさそうであるが (笑)。実際荷風の肖像写真には、口を堅く結んだものが多く、その理由を、私はこの井上の講演で知ったのである。
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日本文学には、汲めども尽きぬ豊潤な泉が沢山ある。ここでも先人たちの過去の遺産が、現代においてもなお光り輝いていることを認識するのである。

by yokohama7474 | 2017-01-08 00:11 | 書物 | Comments(0)

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赤瀬川 原平 (あかせがわ げんぺい、1937 - 2014) は大変多才な人であった。よく知られている通り、尾辻克彦のペンネームで芥川賞を受賞している小説家でもあるが、私にとっては彼は一義的には美術家なのである。いわゆるカッコ書きの「美術」の分野においても、若き日のハイ・レッド・センター (高松次郎、中西夏之というすごい連中と組んで、それぞれの苗字の英訳、High=「高」松、Red=「赤」瀬川、Center=「中」西の頭を英語にしたもの) としての活動や、千円札を加工した作品が裁判になったこと、また超芸術トマソンを唱え、路上観察学会の創設をするなどフィールドワークに長けていたこと等々、本当に賑やかな経歴を残した人である。そして彼はその癒し系の外見そのままに、数多くのユーモラスな著作を残した人なのである。
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私が最近読み終えたこの本は、2015年、つまり彼の死後の発行であるが、もともとは1970年代に雑誌に連載していたもの。つまり彼が千円札偽造で罪に問われたあとの時期である (執行猶予付きの有罪判決は 1970年)。もしご存じない方がおられるといけないので紹介しておくと、これが 1963年に赤瀬川が自らの個展、「あいまいな海について」の案内状として制作、発送された千円札のコピー。彼はこの後何度か、千円札を利用した美術作品を制作しており、これが紙幣の偽造として裁判になったもの。うーん。日本の印刷技術では、所詮は美術家が作品として作った簡単なコピーはあまりにずさんで、無害とも思えるが、まぁ、紙幣というものはそれだけ厳格に管理されるべきものというのも、理解はできる (年末に放送された NHK の「探検バクモン」では紙幣の印刷過程が取材対象となっており、大量に印刷される一万円札を見て、経済の根幹について考えることになったのは、ただの偶然であるが・・・)。実は赤瀬川は、この裁判を境に、美術家としての活動を停止しているのである。
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この本に話題を戻すと、これは短編集なのであるが、その乾いたユーモア感覚は、赤瀬川の一側面を明確に表していると思う。一部には下ネタもあり、決して高踏的な作品集ではないのだが、そこに押された作者の烙印は、現実世界で役に立つものではないという理由で、人々の記憶から抹消されるようなものでは決してない。表紙からしてシュールな感覚が満載であるが、ここで明確なことは、人の性質を特徴づけるべき表情を持った顔が、ここから削除されていることだ。この本には赤瀬川自身の手になるイラストが幾つも掲載されているが、以下の通り、やはり人間の顔を正面から描いたものは全くないのである。一時期、マンガ雑誌「ガロ」を発表の場としていたこともある赤瀬川らしいタッチだ。
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私は以前にも彼の「新解さんの謎」(三省堂発行の新明解国語辞典 = いや実際面白い辞書である = をネタに突っ込んだ本) など、抱腹絶倒の作品を読んだことがあり、彼のユーモア感覚には一定のイメージがあった。そしてこの短編集はそのイメージ通りの作品であって、改めて赤瀬川の人となりを偲ぶこととなったのである。そのナンセンスぶりを示すために一例を挙げると、やっとのことで銭湯を脱して自分だけの風呂を持った男の話がある (繰り返しだが、舞台は1970年代である)。吉祥寺在住の彼は、なんとか中野に風呂は借りることはできたものの、我が家の風呂場であればそこに続くべき存在である廊下は、まだ手に入れていない。なので、自分の風呂に入りに中野にまで行ったあと、東中野の不動産屋に立ち寄って、ちょうどよい賃貸の廊下がないか否か確認する。予算の関係もあり、いくつかの物件を見たあとにちょうどよい賃貸廊下が見つかった。但し、ほんのちょっとだけ遠くて、それは千葉の我孫子に存在する・・・。吉祥寺からまず我孫子まで行って廊下を渡り、それから中野で風呂に入る、また我孫子に戻って廊下を歩いてから吉祥寺に戻る。つまり、風呂に入って帰ってくるだけで 5 - 6 時間・・・。そんなわけで、彼が帰りの中央線で廊下を借りるべきか否かについて思案を巡らせていると、電車の中で二人の知り合いに会う。ひとりはこれから八王子の台所に行ってお湯を沸かせてカップヌードルに入れ、新宿で夕食。もうひとりは顔面蒼白で体を震わせながら、これから奥多摩の便所まで用を足しに行くという。とまぁ、このような荒唐無稽な設定なのである。バカな話と言ってしまえばそれまでだが、でもここには、何か現代の私たちが忘れてしまった笑いの感覚がありはしないだろうか。もちろんこの本を通して読むと、若干この種のギャグに食傷気味になることもあろうが (笑)、でも昭和の時代に日本が確実に通り過ぎて来た道の、その一端はここに表れていると思う。

今私の手元には、「芸術新潮」誌の2015年 2月号がある。特集名は、「超芸術家 赤瀬川原平の全宇宙」。以前全文を読んだが、改めてパラパラ見返すだけでも面白い。いわゆる「美術」という語の頭に「現代」がついてしまうと、普通は途端に理屈っぽくなるのであるが、赤瀬川のような人が手掛けた現代美術は、同時代性を超えて古びることで、却って今後も長い生命を保つのではないだろうか。大いなる逆説。
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彼の提唱したトマソン芸術をご存じない方のために簡単に説明すると、もっともらしいが全く役に立たない建造物のことを主に差している。トマソンとは、この人に因む命名。
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この人ゲーリー・トマソンは、王貞治引退後の1981年、ジャイアンツに所属した元大リーガー。そう、鳴り物入りで入団したくせに、全く役に立たないと散々揶揄された人である。では、超芸術トマソンの実例にはいかなるものがあるか。以下の写真は記念すべきトマソン第 1号、「四谷の純粋階段」である。確かに、上がって下りるだけのこの階段、存在はするが全く役には立っていない (笑)。現在では既にビルに建て替わっていて、もはや見ることはできないらしい。古びることで価値が出て来た光景なのである。
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このようなことを考え合わせると、赤瀬川原平が発見し記録した数々の不思議な光景は、昭和も終わりに近くなって世の中自体に余裕がなくなってから、継子扱いされたものばかり。彼が世間を茶化しながら発したメッセージは、この日本にかつて存在した、いや、今でも存在する建造物を、時代とともに瞳に焼き付けるべしということなのではないか。役に立たないと思われた建造物は、役に立たないからこそ、そのイメージが後世に伝わって行くのである。うーん、深いではないか。

そんなわけで、赤瀬川の感性に久しぶりに出会うことができ、私はこの本を楽しく読むことができたのである。過ぎ去りし昭和の感覚にしばし戻って、文化的な刺激を得たい方にはお薦めである。

by yokohama7474 | 2017-01-07 22:25 | 書物 | Comments(0)

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一週間ほど出張に出ていて、記事を更新することができませんでした。その間、真面目に仕事はこなしながら、書くネタはあるのに記事を書けないもどかしさで身を焦がす思いでした(笑)。幸か不幸か、今回は出張中にオペラやコンサートに出かけることはなかったので (一生懸命我慢したので?)、今回の記事は、音楽ネタではなく、しばらく前に読んだこの本についてということに相成った。

1582年、織田信長がその最期を迎えた本能寺の変は、その謎めいた真相を巡ってあれこれの推測が飛び交う、日本史上屈指の大事件であることは論を俟たない。ドラマや映画で何度扱われてきたか分からないくらいその話題度は高く、400年以上経った今でも、いわゆるゴシップの類が飛び交っている状況だし、それどころか最近は、歴史ネタで踊るコンビがネタにしているくらいである。この本は、そんな本能寺の変の真相に迫る、ミステリーさながらの実に面白い本なのだ。たまたま上の画像では「15万部突破」とあるが、私の手元の本 (2014年6月、初版第九刷) には、「20万部突破」とあり、ネットで画像検索すると、「24万部」「26万部」「35万部」、さらには「漫画化決定!! 別冊ヤングチャンピオン」という宣伝においては、ついに「40万部突破」とある。大変な売れ行きの本なのである。ちなみに題名から計算すると、ええっと、2013年の発行ということになるが(いや、厳密には「年目」はその年を含むので、ちょうど430年後の2012年が正しいと思うが、まあそこは置くとして)、実はその前、2009年に「本能寺の変 427年目の真実」という本があり、それを加筆・修正したのがこの本である。それだけ著者の執念がこもっているということだろう。

ではその執念をこめた著者は誰かというと、その名の通り、明智光秀の末裔、1947年生まれで、もともとシステムエンジニアの明智憲三郎という人だ。
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つまり、歴史の門外漢である人が日本史上最大の謎のひとつに挑んだというのがこの本なのであるが、その内容は、これは掛け値なしに滅法面白く、しかもかなりの数の一次史料にあたっての考察なので、その説得力には相当なものがある。上記の通り、これはいわばミステリーとしての謎解きの要素のある書物なので、その内容についてここに書いてしまうとネタバレになってしまい、このブログのコンセプトに反するので(笑)、それは避けることとするが、人々が単純に疑問に思う点、例えば、「信長ともあろうものが、なぜ本能寺滞在時には守りを固めていなかったのか」「変が起こるや否や秀吉が中国地方から矢のように近畿まで戻れたのはなぜか」「家康が堺から三河まで命からがら逃げ帰ったというのは本当か」、そして「なぜ光秀は反乱を起こしたのか」、「著者は光秀の末裔というが、謀反を起こした犯罪者の家系が根絶やしにされなかったのはなぜか」といった点のそれぞれについて、極めて明快な回答が提示されるので、その爽快感は無類のものである。しかもここで展開される説において、これまで定説とされてきたものが一体何に依拠していて、それがどの程度信憑性のあるものかがいちいち示されるので、この本の説には実際に説得力が感じられるのである。

考えてみれば、「歴史の真実」などという言葉にはうさん臭さがつきまとう。ほんの何十年どころか、何年か前の事件であっても、その真相は永遠に分からないという事件は沢山あると思う。ましてや、400年を経過した事件には、後世の権力者による情報操作もあってしかるべきだし、そもそも全体像を把握することができた同時代人はいないであろう。あるいは、ある人にとっての「真実」と、別の人にとっての「真実」が異なるという事態もあり得よう。その場合は、そもそも「真実」の定義すら曖昧になっているわけで、人間の営みには様々なところでそのような不確定性があるのだと思う。その一方で、この本を読んでいると、いやはや日本人というものは昔から日記やその他の記録を残すことが好きなのだなぁという感想を抱かざるを得ない。さしずめ現代ではブログなどという存在が、後世の人たちから見れば貴重な歴史的遺物と思われる日が来るのかもしれない。もっとも現在の世界に存在している情報量は、後世の人たちにとっても把握しきれないほど膨大であり、必要な情報が充分に歴史探索者に届くか否かは、いささか心もとない気もする。でも、今から400年後にこのブログを見る人が、この記事から例えば2016年の米国大統領選の行方を推理するような事態になったとしたら、「おいおいおいおい」と言いたくなるでしょうねぇ(笑)。でも、「お、400年前の日本ではこれだけ文化的なイヴェントが起こっていたのか」というように評価されるようなことがあれば、なんともやりがいのあることになるわけで。うーん、400年後の人類、一体どうなっているのだろうか。

などと余計なことを考えているわけだが、最後にちょっといい話。現存している京都の本能寺(当時とは場所が少し変わっているらしい)に行くと、その宝物館でこのような置物を見ることができる。
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これは三本足の蛙のかたちをした香炉で、信長愛用の品と伝わる。この蛙、なんとも愛嬌があるが、実は本能寺の変の前夜に突然鳴き出して、信長に危険を知らせたという。信長愛用の品であれば、そのくらいの不思議を起こす力はあるような気もするが、もし本当に鳴き出したとしても、信長の命を守ることはできなかったわけで、運命の厳しさを感じることができるのである。一方で謀反を起こした明智光秀の切実な思いは、一般的な歴史認識においてはあまりクローズアップされることはない。その点、光秀の末裔が書いたというこの本を通して、その歴史的な空隙を埋めることができて、大変有意義だと思う。三本足の蛙はもう鳴くことはないだろうが、歴史の結節点でこの蛙が実際に見た光景には、多分現代の我々が空想しても及ばない壮絶な歴史のドラマが込められていたのだろう。そんな蛙さんに話しかけたくなってしまいますなぁ。

by yokohama7474 | 2016-10-25 00:24 | 書物 | Comments(0)

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今年1月24日の記事で映画「フランス組曲」をご紹介したが、その映画の原作者が、イレーヌ・ネミロフスキーであった。その記事において、このアウシュヴィッツ強制収容所で命を落としたユダヤ人女流作家の作品のいくつかの翻訳本の装丁の美しさに惹かれたことを書いたが、そのうちのひとつがこれである。

題名のダヴィッド・ゴルデルとは、主人公のユダヤ人実業家の名前。なにやら知らぬが、響きのよい名前ではないか。主人公の名前を題名とする文学作品としては、「アンナ・カレーニナ」とか「ジェーン・エア」とか「シラノ・ド・ベルジュラック」とか、いくつか思いつくが、いずれも一度聞いたら忘れない響きであると思う。その意味ではこのダヴィッド・ゴルデルも同様で、なぜか印象に残るのである。私の勝手な思いつきであるが、この名前が古代ユダヤの王「ダヴィデ」と、彼に退治された巨人「ゴリアテ」の響きを思わせて、なにやら神秘的な連想を誘うのではないだろうか。もちろん、ダヴィッド (英語ではデイヴィッド) は、聖書に登場するこのダヴィデに由来する名前である。これはカラヴァッジオの有名な「ゴリアテの首を持つダヴィデ」。切られた首は画家の自画像と言われている。
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だがこの「ダヴィッド・ゴルデル」は、古代ユダヤの話ではない。両大戦間、1920年代を舞台に、ソヴィエトの油田採掘への投資で切った貼ったの勝負をする実業家の話である。全く予備知識なく、ただ青を基調とした清冽な表紙にだけ惹かれて本作を読みだすと、冒頭から戸惑うことになる。厳しい交渉のシーンなのであるが、その描き方はかなり骨太であり、人生の苦渋の経験の数々を皺としてその顔に刻んでいるであろう初老の主人公、ダヴィッド・ゴルデルの狡猾で強欲なイメージが浮かんでくる。その後ストーリーは大きな展開があると言えばあるし、最初から変わらないトーンで淡々と進むと言えばそうも言える。リアリティはあり、それは過酷なものですらあるのだが、どこか夢の向こうで人々ののっぴきならない人生が展開しているようにも思える。ユーモアを感じることもできるが、思い返してみると暗褐色のシーンのイメージが圧倒的に多い。そんな不思議な小説である。金に執着する強欲ユダヤ人、ダヴィッド。それゆえに彼には一方で家族への強い思いがあるのだが、妻や娘はそれを弄ぶように冷酷だ。若さと老い。富と困窮。精神の高揚と委縮。それらが終始入り乱れ、見知らぬ青年が登場して物語は静かに終わりを告げる。読後感は決してよいものではないのだが、しばらく経つとこの表紙のような涼やかな諦観をもって振り返ることになる。

作者のネミロフスキーは1903年にロシア帝国内のキエフ(今のウクライナの首都)で生まれ、ロシア革命の際にパリに亡命。1929年というから、未だ26歳の若さでこの「ダヴィッド・ゴルデル」で文壇にデビューした。パリの出版人ベルナール・グラッセ(プルーストやラディゲの作品を世に送り出した人らしい)のところに、M・エプスタインという名前で送られてきた原稿は、その力強い筆致で百戦錬磨のグラッセを唸らせたが、なかなか作者に連絡が取れず、新聞広告まで打って作者に呼びかけたらしい。そして1ヶ月後、グラッセのもとに現れたうら若い女性が、子供が生まれたばかりで連絡が遅れて申し訳なかったと自己紹介した上で、夫の名前で原稿を送付したことを告白。そのわずか一週間後にこの小説は出版された。これが作家ネミロススキーの処女作となった。
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そして、早くも1931年に、この作品はジュリアン・デュヴィヴィエ監督により映画化されている。後年、「望郷」「舞踏会の手帖」等で知られるようになるフランス映画の巨匠の、実はこれが初監督作品であったようだ。一体どのような内容であったのか知らないが、試写会にはあの作曲家モーリス・ラヴェルや画家キース・ヴァン・ドンゲン、作家コレット等が姿を見せたという。ふーん。私はコレットはよく知らないが、ラヴェルとヴァン・ドンゲンはよく知っている。このような酒と汗の匂いがして、なぜか鼻毛が出ていたに違いないと思えてならない(笑)主人公を描いた映画と、この2人の洗練された芸術家のイメージは、かなり遠いものがある。ということは、両大戦間のパリにおいて、芸術としてのスタイルの差を埋めるような、何か不思議なリアリズムが、人々の心に訴えかける要素があったということだろう。大変に興味深い。

その後ネミロフスキーは人気作家となったそうだが、39歳の若さでナチのホロコーストの犠牲となってしまう。なんという理不尽なこと。もちろん、才能ある作家であろうが歴史的に名を残す可能性のない市井の人であろうが、命の重さに変わりはないものの、もし彼女が戦後まで生きながらえれば、フランス文学史に新たなページを開いたということになったかもしれない。ただその一方で、運命的に限られた命であったからこそ、天から才能を与えられて、若くして文壇を駆け抜けたとも言えるのかもしれない。今、この本を出している未知谷(みちたに)という出版社で、同じ芝 盛行の翻訳で何冊もネミロフスキーの作品が出版されている。この出版社のウェブサイトは、あたかもインターネットが普及し始めた初期の頃のように古風なものであるが、面白そうな本を次々と出版している。モットーは、「誰もやらないなら私がやります」であるそうだ。文化を愛する人なら、この出版社の果敢な姿勢に大いに共感するはず。私もまずはネミロフスキーをもう少し読んでみることにします。しかしながら、正直に白状すると、「ネミロフスキー」だか「ミネロフスキー」だか、まだ混同することしきりなのである。正しくは、ネミロフスキー。ちゃんと覚えよう(笑)。

by yokohama7474 | 2016-09-16 00:21 | 書物 | Comments(0)

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一風変わった小説を読んだ。1972年英国出身のチャイナ・ミエヴィルの「都市と都市」という2009年に発表された小説だ。原題はそのまま、"The City & The City" であり、このハヤカワ文庫の翻訳(日暮雅道訳)で、500ページを超える大部な作品である。裏に記載されているあらすじの最後の部分には、「ディック - カフカ的世界を構築し、ヒューゴ賞、世界幻想文学大賞をはじめ、SF/ファンタジー主要各賞を独占した驚愕の小説」とあるし、上の写真の帯の部分には、「カズオ・イシグロ絶賛!」とある。フィリップ・K・ディックは言うまでもなくSF界の永遠のカリスマだし、カフカはもちろん20世紀初頭の不条理小説の大家として世界文学史上に堂々と名を留めている。これら作家の作り出す世界は私も大好きだし、それに加えてブッカー賞を受賞した現役作家として飛ぶ鳥を落とす勢いのカズオ・イシグロまで絶賛と来ると、これは読まずにはいられないでしょう、やはり。これがミエヴェルの写真。うーん、このスキンヘッドにマッチョな体つきには、なにやらただならぬ雰囲気を感じてしまうが、結構フレンドリーな方らしいです。
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この小説の設定は大変にユニークで、それは、東欧あたりに存在するという設定の二つの都市国家、ベジェルとウル・コーマが舞台となっていて、この二つの都市国家は同じ場所に存在しているのだが、言語や政治・経済が異なっていて、それぞれの住民は相手の国のことを見てはいけない(見えても見えないふりをする)ルールになっていて、もしそれを破ると、「ブリーチ」(Breach、つまり義務を守らないという言葉そのものだろう)と呼ばれる超法規的警察権力によって処罰されるというもの。このように書いていてもさっぱり訳が分からないが(笑)、設定について詳細な説明はない。まさに不条理の世界そのものだ。物語は、ベジェルで米国人女子大生の殺害死体が発見され、同国の警官であるティアドール・ボルルが、ウル・コーマにも乗り込んでその謎に迫るというもの。ストーリーテリングのトーンはハードボイルド風であり、SFでもミステリーでもホラーでもない、なんとも名付けようのない作品である。私はこれを読んでいて、イスラエルとパレスティナのイメージかと思っていたのだが、ネットで調べると、どうやらモデルはオランダにあるバールレ=ナッサウという街であるらしい。この街についてはWikipediaもあるので、ご興味おありの向きはご覧頂ければと思うが、ベルギー国境から5km程度の距離にあるものの、街の中に実に21ヶ所ものベルギーの飛び地が存在しているという。場合によっては家の中を国境線を通っていることもあり、そのような家に住む家族は、正面玄関のある方の国民になっているそうだ。オランダ側の人口6,000人、ベルギー側2,000人という小さい規模の街であるが、歩いていると何度も国境を越える街とは、なんともユニーク。12世紀にブラバント公爵(おぉ、ワーグナーの「ローエングリン」ですな)がブレダという地域の領主にこの土地を与えたものの、自ら所有する部分は譲らなかったという。このブラバント公の所有地が今のベルギー領らしい。以下の地図で、黄色はオランダ、青がベルギーだ。オランダの中のベルギーの飛び地に囲まれたオランダの領地という場所もあり、なんとも面白い。
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さて、このようなモデル都市はあるものの、この作品で描かれているベジェルとウル・コーマの関係ほど複雑ではない。正直その関係は、読んでいてもあまりヴィヴィッドにイメージされることがない。それが作者の作戦なのかもしれないが、多分に映画的なヴィジュアル性を伴う文章というものは、意外と読んでいる人のイメージを刺激しないものだ。従い、500ページもある大部な作品で延々それをやられると、読者の方は相当辟易してくるものだ。加えて、殺人事件とその謎に迫る主人公の活躍は、胸がスカッとするというものでもなく、手に汗握る展開とは、お世辞にも言えないと思う。驚愕の謎解きがあるかと言えば、私としては否定的にとらえざるを得ない。むしろ、架空の場所を設定して自ら延々と同じような描写を続ける作者の姿を思うと、ちょっと偏執狂的な感じがすると言ってもよいし、もっと言葉を選べば、「いやぁご苦労さんですなぁ」ということになろうか。

もちろん、舞台が架空の街であれ、合理性を欠く禁忌の描写や、先史時代の謎を巡る言説に、普遍的な人間社会の宿命を感じる部分も、あるにはある。そして、この奇妙な設定が一種独特の情緒を生んでいることも確かだと思う。だが、やはり私は、実際に人間が辿ってきた歴史の方に興味がある。いかに優れたイマジネーションを持つ作家であっても、現実世界の歴史以上に面白い作品を書くことは至難の業だろう。あらゆることに関する詳しい情報が簡単に手に入る現代、歴史的事象は考えられないくらいのリアリティをもって我々の前に立ち現れてくる。わざわざ架空の世界のトラブルに深いりする小説を手に取る必要が、一体どのくらいあるだろうか。

というわけで、ちょっと特殊な設定を持つ小説だけに、「読んだ」という事実は忘れないと思うが、むしろ現実に存在するオランダのバールレ=ナッサウを訪れてみたいと思わせるきっかかになった小説として記憶に残るかもしれない。

by yokohama7474 | 2016-08-20 22:57 | 書物 | Comments(0)

井上章一著 : 京都ぎらい

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京都のイメージにぴったりの抹茶色のカバーに、デカデカと「京都ぎらい」と題名が書いてあり、しかも、「新書大賞2016 第1位」と謳い文句が出ている本が積んであるのは、書店を覗くといやでも目に付くものである。しかも副題が「千年の古都のいやらしさ、ぜんぶ書く」と、これまた刺激的。ここで「全部」という漢字ではなく、「ぜんぶ」とひらがなになっているあたりも、いかにも京都らしい柔らかさがあって、これはどうやら、京都人が自らの故郷を非難する本であろうと察しがつく。なんと言っても日本でいちばんの観光地であり、昨今では海外から旅行者の人気の的である京都に関して、一体何がそんなに問題であるのか。

実は私がこの本を手に取った理由は、キャッチーなこの装丁だけではなく、この著者の名に覚えがあったからだ。井上章一。この本における肩書は、「国際日本文化研究センター教授」とある。この教育機関のことはよく知らないが、調べてみると、哲学者の梅原猛が初代所長、心理学者の河合隼雄が第 2代所長を務めた機関で、日本文化の研究に携わる錚々たる研究者たちが顔を揃えているようだ。この井上氏は1955年京都府生まれ。京都大学工学部建築学科及び同大学院修士課程修了。もともとは建築の専門家であるが、これまでの著書には「現代の建築家」という専門そのままの本もあれば、「霊柩車の誕生」「美人論」から、果ては「阪神タイガースの正体」という本まで含まれる、熱狂的タイガースファンであるらしい。実は私は以前この人の著作を1冊読んでいて、それは「つくられた桂離宮神話」という本なのである。さらに言えばその本を読む前に、2冊ほど関連する別の本を読んでいた。今本棚からそれら3冊を出して来よう。
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桂離宮は、ほぼ同時期、17世紀前半に造営された日光東照宮の極めて高い装飾性との対照において、その簡素な精神性に日本美の極を見るとする論調が歴史的に主流である。この井上氏の著作では、その論調を作り出したドイツの建築家ブルーノ・タウトに異を唱え、そのタウトの考察が戦時体制においてナショナリズムの高揚に利用されたということが述べられている。私自身は、ブルーノ・タウトの名前と桂離宮神格化については、30年以上前、高校生の頃に読んだ、それこそ梅原猛の著作で知ったのだが、桂離宮を初めて参観したのはそれから10年以上経ってからだった。一方で、その頃には既にモダニズム建築に対する興味も芽生え、また外国人から見た日本文化にも興味があったので、自然にタウトの著作に親しむこととなった。そうなると今度はそのアンチテーゼとしての井上氏の本に興味が沸いた、という順番であったわけである。そうして読んだ井上氏の言説を、大変面白いと思ったのであった。実証的な論の展開は大方忘れてしまったが、あとがきに紹介されたエピソードが面白くてよく覚えている。引用しよう。

QUOTE
私は、桂離宮の良さがわからないと、正直にまず書いた。無理解を前提にしながら、仕事をすすめてきたのである。この態度は、しかし多くの同業者から、つぎのように批判されてきた。
「桂離宮がわからないようなやつに、建築史を研究する資格なんかない」
「桂離宮を語るのなら、美の本質に肉薄すべきだ。それをないがしろにするのは、邪道である」
いまでも、「井上です」と自己紹介をしたときに、からまれることがある。「君か、桂離宮がわからんなどという暴言をはくのは」、と。
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著作を世に問うに当たって、これほど正直に自らの立場を明確にできるとは、大変勇気のいることである。世の中には常識というものもあれば良識というものもある。実はそれらと、先入観、集団への帰属意識、他人から白眼視されることへの恐怖、といったものとの距離は、意外と近い場合もある。私はこの井上氏の「つくられた桂離宮神話」を読んで、やはり何事も自分の直感を大事にすべきであること、そしてごく自然な感性で物を見ること(つまり、他人がよいと言うからよいのではなく、自分がよいと思うからよいのだという素直な信念)を学んだのであった。もちろん、私自身が桂離宮を美しいと思うか否かとは別問題として(笑)。
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そんな中、久しぶりにこの著作家の本を読んでみたのだが、この語り口には覚えがある。いや、この本の方が格段に口語的で読みやすい。誰でもが読み通せるだけの平易な内容であるがゆえに、新書大賞なるものを受賞するのもむべなるかな。内容は要するに、洛西の嵯峨という京都「府」出身の自分が、実際に京都の中心である洛中生まれの人々から見れば「郊外」の生まれとしてしか扱われないことへの積年の恨みに端を発し、京都というこの複雑な土地柄における坊主と姫の歴史的関係(?)、訪問者を歓迎するために庭園を発達させた寺院の歴史的機能、初期の江戸幕府の寺院復興への貢献、足利尊氏の天龍寺創建は後醍醐天皇の霊魂の鎮魂のためである等々、聖俗取り混ぜたとりとめない京都論が展開する。ここに記載されている場所にイメージのある人なら、なるほどなるほどと思う箇所が多々あることだろう。また、引用されている実際の会話にかなり笑いを誘われることであろう。タブーを恐れずに歯に衣着せぬ論調の箇所もあり、さすが件の井上氏、勇気があるなぁと思ってしまうこと請け合いだ。このような飄々としたお方。
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一方、このような本の中には、笑いながらも日本人のイヤな部分が見えてくることも事実。ここに書かれたことを知らず、ただ純粋に京都に日本の歴史を感じ、桂離宮に簡素な日本美の極を感じていた方が、実は幸せかもしれない(笑)。読書経験をいかに実生活に活かすかは、読んだ人次第ということだろう。

by yokohama7474 | 2016-07-28 22:42 | 書物 | Comments(2)