カテゴリ:書物( 26 )

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白水 u ブックスには面白い本があれこれあるが、この小田島 雄志訳のシェイクスピア全集、全 37巻を購入してから、随分と時間が経つ。なにせ、西洋音楽や西洋絵画を楽しむには、シェイクスピアは必須なのである。あるいは映画を取ってみても、黒澤の「蜘蛛の巣城」が「マクベス」であるとか、「ウェスト・サイド・ストーリー」が「ロメオとジュリエット」であるとかいう基本形もさることながら、例えば、私が尊敬おくあたわざる女流監督、ジュリー・テイモア (一般にはミュージカル「ライオン・キング」の演出で知られる) が、マイナー作品「タイタス・アンドロニカス」を原作として「タイタス」という映画を撮ったり、あるいは、最近一体どうしてしまったのか分からずに大変残念な大天才、ピーター・グリーナウェイの「プロスペローの本」がもちろん「テンペスト」であったりすることからも、いかにシェークスピアが様々な芸術家の霊感の源泉になったかが分かろうというもの。ここで現代音楽に目を転じ、ベリオの「耳を澄ましている王様」(マゼールが世界初演) がやはり「テンペスト」であるとか、ライマンの「リア王」が大変感動的だとか、そうなってくるとちょっとマニアックなので、この辺でやめておこう。

と言いながら、実は遠い昔に、このシェイクスピア全集の第 1巻、「ヘンリー 6世」第 1部から順番に制覇しようとして、第 1巻すら読み終わることなく、挫折したきりだ。もともと芝居は好きな私であるが、脚本を書物として読むのは、どうも苦手なのだ。舞台で見ると、登場人物の判別は顔や服装や言葉で行うのだが、本になると、それが人物名になっていて、想像力を働かせるのはなかなかに酷である。これは裏を返せば、脚本を読み込めば、その作品のいろんなイメージを想像できるというもの。

この「から騒ぎ」、原題は "Much Ado About Nothing" というらしい。辞書で調べると、確かに "Ado" という言葉は「騒ぎ」「騒動」などとある。今度外人と話すときに使ってみるとするか。"W...What?!" という反応になること請け合い。そもそも日本人がそんなに高級な英語を喋るわけもないと思っているし、まあそれは実際その通りなので。ただ、この本の解説を見ると、この時代の英語では、"Nothing" は "Noting" (気づくこと) とほとんど同じ発音であったとのことで、この芝居のテーマが、「根拠のないこと (Nothing)」に基づく騒ぎであり、同時に「気づくこと (Noting)」によって始まりまた解決するということを意味しているという説もある由。

これを読むと、とどまるところを知らない言葉遊びがなんとも凄まじい。それこそ小田島訳の真骨頂なのであろうし、翻訳の苦心のほどは随所に偲ばれるのだが、実際に日本語で舞台にかかったときには、なかなか厳しいのかもしれない。まあしかし、シェークスピアのひとつの顔が言葉遊びにあることは間違いないだろうから、昔の英語の分からない身としては、このような訳からイマジネーションの翼を伸ばして劇を楽しむのも一興であろう。

それにしても、17世紀に書かれたこの戯曲、なぜにこうも人間の本質を描いているのだろう。誰かに対する信頼は、その信頼にもとるニセの情報によって簡単に覆る。高望み、から元気、有頂天という感情は、悪巧みによって、嫉妬、怒り、後悔、自己嫌悪・・・と、ほかの様々な感情にその座を譲ることとなる。この「から騒ぎ」は、さして長くもないその上演時間で、そのような人間心理をとことん描き出すのだ。そこに狂言回しも加わり、面白いことこの上ない。

ところでシェイクスピアについては、その正体が謎のままであり、そのテーマで何冊も本が出ているし、映画もいくつかある。彼の生地ストラットフォード・アポン・エイボンには 2度訪問したが、そこで目にするものも、詳細は省くが、実に面白い。そもそも英国の歴史的な場所は、ナショナル・トラストかイングリッシュ・ヘリテージが管理しているにも関わらず、ストラットフォード・アポン・エイボンの諸施設は、シェイクスピア協会か何かの管理になっていて、その事実だけで充分な事柄が物語られているのだ。実際英国では、シェイクスピアの生家が本物ではないということで、訴訟にもなったと聞く。また世の中には、なんとかこの空前絶後の劇作家の正体を暴こうと、いくらなんでもこじつけだろうという解釈をしている研究者が山ほどいるらしい。ここではその一端をご紹介しよう。以下の本に掲げられたシェイクスピアの肖像。この絵は、肩のあたりの描き方のぎこちなさから、実は後ろ向きの人物が後頭部に仮面をつけているところを描いていて、「私の正体を暴けるものなら暴いてみなさい」という意味だという説があるのだ!! いやいや、それ、考え過ぎでしょう。私には、ただのヘッタクソな絵にしか見えないのだが (笑)。
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さぁって、なぜ松本で音楽祭を聴いている途中にのんきにこんな本を読んでいるのか、答えはまた次回。

by yokohama7474 | 2015-08-30 00:41 | 書物 | Comments(0)

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私は学生時代から、第 2次世界大戦中のドイツの音楽界の動向には大変興味を持っていて、生涯勉強して行きたいと考えているのであるが、今般、とある人に薦められ、この大部な書物を読むこととした。上下 2巻で 750ページ近いのだが、面白すぎてページを繰るのももどかしく、あっという間に上巻を読み終えてしまった。

まず、基本中の基本を押さえておこう。リヒャルト・ワーグナー (1813 - 1883) は、ドイツロマン主義の大作曲家。一部、器楽曲も残しているものの、その生涯をほとんどオペラに費やした。こういう顔だ。
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一般にも、「ワルキューレの騎行」という曲が、その暴力性と、金管が炸裂するド迫力でよく知られている。それは実は、楽劇「ワルキューレ」の第 3幕への前奏曲なのだ。ほう、ではどんな曲か、ちょっと全曲でも聴いてみようかな、と思った方。覚悟はよろしいか。この「ワルキューレ」を含む 4部作、「ニーベルングの指環」は、上演に 4日間を要し、演奏時間は実に 15~16時間に及ぶのですぞ。それぞれの作品 1本が、平均的なイタリアオペラの倍くらいの長さだ。泣けども喚けども、4日間劇場に缶詰になり、鬱陶しく仰々しいドイツ語で、いつ果てるともない音響の渦に呑み込まれる。それって拷問に近いと思いませんか。

ところがその拷問に、身悶えして喜ぶ変人が、世界に何万人、何十万人、もしかしたら何百万人といるのだ。上記 4部作を含むワーグナーの主要 10作品 (ちなみに列挙すると、「さまよえるオランダ人」、「タンホイザー」、「ローエングリン」、「トリスタンとイゾルデ」、「ニュルンベルクのマイスタジンガー」、「ニーベルングの指環」 (= 「ラインの黄金」、「ワルキューレ」、「ジークフリート」、「神々の黄昏」の 4作)、そして「パルシファル」だ) は、世界のオペラハウスにおいて、なくてはならない重要レパートリーだ。しかもこの広い世界には、あろうことか、この重くて長くて暗いワーグナーのオペラだけを、よりによってワーグナーだけを、しかも真夏に演奏するという特殊な音楽祭があるらしい。信じられますか。その劇場は、19世紀に建てられ、冷房もなければ椅子のクッションもない、また、客席に通路もないところらしい。そんなところに出かけて行く人たちは、筋金入りのド M に違いない。そのド M の集まる音楽祭を、バイロイト音楽祭という。

そもそもワーグナーが他の作曲家と異なるのは、すべての作品に自分で歌詞を書いたこと。つまり、詩人であり音楽家であるということであって、自らの世界観を妥協なく作品に投影できたわけである。そして題材は、北欧・ゲルマンの神話や伝説。英雄、贖罪、浄化、神聖性、自己犠牲というキーワードが散りばめられた作品群だ。まあドイツの人たちがそのような作品に入れ込むのは、なんとなく分かる。でも、その人の作品だけを演奏する音楽祭があるとはどういうことか。

ここで登場するのが、有名なバイエルン国王、ルートヴィヒ 2世だ。ヴィスコンティの有名な作品を含め、その生涯が何度も映画化されており、また、日本人にも大人気のノイシュヴァンシュタイン城を建てた王様だ。

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この王様は、中世の英雄譚などの夢物語に溺れるのが好きな人で、ワーグナーの作品群にぞっこんほれ込み、ついにはそのパトロンを買って出る。それによって完成したのが、バイロイト祝祭劇場で、1876年のこけら落としが、この「指環」4部作の連続上演であったわけだ。

さてさて、本の中身になかなか辿り着かないが、この本は、その作曲者ワーグナー自身が創設したバイロイト音楽祭が継承されて行く中で、いかなる歴史があったのかということを、圧倒的な量の史料を駆使して克明に描いている。題名になっているヴィニフレート・ワーグナーとは、大作曲家ワーグナーの長男、その名もジークフリートという人がいたのだが、その奥さんだ。英国から年の離れた旦那のところに嫁入りして来て、最初はおしとやかなお嬢さんであったものが、ドイツの第 1次大戦における敗戦から、第 2次大戦に突き進む激動の時代に、どのように変貌し、どのようにこの音楽祭を維持して行ったかがよく分かる。例えて言えば、「ゴッドファーザー」の 1作目、ただの真面目な学生であった三男のアル・パチーノが、マフィア同士の争いの中で、血の気の多い長男、優柔不断な次男を差し置いて、家族を守ろうとしているうちに頭角を現して次のボスになるという、あのストーリーを彷彿とさせるものがある。歴史とは、様々な巡り合わせやある種の必然の積み重ねによって、少しずつ起こる変化が、いつのまにやら激流になる、そのような流れであると言えると思うが、ここに描かれたのは、天才、凡才、策略家、お人よし、ドイツ人、イタリア人、ユダヤ人、様々入り乱れて歴史の歯車がミシミシと回る様子である。そのまま映画にもできるような、凄まじい内容だ。

とまあ、書物の内容はともかく、一度そのバイロイト音楽祭に行ってみたい。おー、行ってみたいぞぉ・・・と心の中で叫んでいるのでありました。

次回に続く。


by yokohama7474 | 2015-08-09 07:14 | 書物 | Comments(0)

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最近、街の本屋さんの数が減ってしまって、ぶらっと立ち読みする楽しみが減ってしまったが、それでも大規模書店に行けばその楽しみは未だに存在している。こう暑くなってくると、子供の頃、長い夏休みにすることがなくて、本屋に涼みがてらでかけ、あれこれつまみ読みした思い出が甦ってくる。もっともその頃は、今ほど暑くはなかったような気がするが・・・。

話が脱線してしまったが、ある時本屋に積んであった本の帯に、「夢中で読めた。紛うことなき徹夜本だ。」というコピーが見えた。手に取ってみると、男か女か分からない、見慣れない作者名。なじみのない題名。時々私がそうするように、この時もそのままこの本を持って、レジに向かったものだ。帰宅してふと気づいたことには、これ、昔斉藤由貴が主演していた、相米 慎二監督の映画の原作ではないか!! ということは、最近の本ではない。本を開いてみると、1975年の作とのこと。それは古い。作者は北海道在住の女性作家であるが、2005年に 56歳で急逝しているとのこと。この作品は、ロシアの童話、マルシャークの「森は生きている」に着想を得て書かれたもので、孤児である女の子が青年に育てられる過程が描かれているが、途中で起こる毒殺が物語の大きな転換点となるというもの。

創元推理文庫だし、当然ミステリーと思って手に取った私は、徹夜本という触れ込みにもかかわらず、想定外の大変な忍耐を強いられつつ読み進んだが、なかなか殺人事件は起こらないし、起こったあとも物語は牛歩のごとき進展のなさだ。結局、何週間も放置するような事態に陥り、徹夜どころか、読み終わるのに 2ヶ月ほど要してしまった。結局これは、ミステリーではないし、殺人事件に驚くべきトリックがあるわけでもない。描かれた少女の心理を追うべき書物なのであろう。・・・ということは、大変申し訳ないが、私にとっては本来 No Thank You の分野の本である。何より、登場人物の発想、発言、行動にリアリティがない。こういう人が本当にいるなら、ちょっと会ってみたい。もちろん、文学はリアリティなくとも成立しはするが、この書物の手法では、どうであろうか。リアリティのないことは美点になるとは思えない。登場人物たちの会話が、どこまで行ってもきれいごとに見えてしまうのだ。

比較すること自体酷かもしれないが、同じ孤児を主人公とした名作に、シャーロット・ブロンテの「ジェーン・エア」がある。あれはまさに強烈な作品で、読んでいて何か血がかぁっと熱くなる経験をしたものだが、大変残念ながら、もし日本に同等の天才がいたとしても、同じレヴェルの作品を書くことはできないと思う。それは、自己と他者という対立関係において、言語というかたちで形成されるコミュニケーションの方法が、日本人と欧米人 (日本語とラテン語系言語) では決定的に異なるからだろう。やはり日本語の文学は、日本人が宿命的に追っている曖昧な自己表現を前提として書かれるべきではないか。

この作者は現在再評価が進んでいるとのことらしく、否定的なことを書くのは気が引けるが、この本をミステリーと思って手に取ることさえなければ、また違った読み方もあったのかもしれないなと思う。因みに、斉藤由貴主演の映画も、見ておりません。あしからず。


by yokohama7474 | 2015-07-30 01:06 | 書物 | Comments(2)

古本屋で購入した、1985年 (昭和 60年) 発表のミステリーの文庫版。
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ちょうど、「イニシエーションラブ」がノスタルジーを持って 80年代を舞台にしていたところ、こちらは正真正銘、その 80年代の作品である。登場人物はもちろん秘密の電話をかけに公衆電話に走るし、撮影した写真は現像している。もちろん私自身、その頃はまだ洟を垂らしたガキだったとしらばくれる意図はなく、この作品の作者が文壇に登場した際、東大医学部教授がミステリー作家に華麗なる転身、と話題になっていたのをよく覚えている。処女作の「運命交響曲殺人事件」が、文字通りベートーヴェンのシンフォニーを題材にしていたはずで、当時少し興味を持ったものだ。調べてみるとこの作者はその後 15年の間に 30編近いミステリーを執筆したらしいが、これまでに読む機会がなく、今回たまたまこの作品に巡り合ったというわけだ。

これを読む現在の人々が気になるのは恐らく、公衆電話やフィルム式のカメラという今はない小道具ではなく、登場する人物たちの描き方そのものではないだろうか。いやなんとも会話の雰囲気が古臭く、昭和のテレビドラマを見ているような気がする。探偵役の小野田亮平のキャラクターにはそれなりのとぼけた味わいがあり、ストーリーも最後に向けたドンデン返しがあって、それなりに楽しめるとも言えるが、いかんせん、終始ドキドキハラハラとはいかないし、特にヒロインの性格づけには、オヤジから見た「いいお嬢さん」という色合いが濃厚で、読んでいて時折天を見上げたくなるような瞬間が多く訪れる (笑)。また、タイトルの葬送行進曲は内容に関係なく、ハテナマークを禁じ得ない。

ともあれ、80年代を追憶する機会にはなりました。


by yokohama7474 | 2015-06-21 14:37 | 書物 | Comments(0)

映画を見たあと、本屋でたまたま原作を見かけて、この本を読むことにした。映画のポスターと同じ表紙なのだが、1枚めくると違う (これがもともとのものなのでしょう) デザインの表紙が出てくる。奥付を見ると、2007年4月に第 1刷、2015年 6月には実に第 63刷とのこと。売れていますなぁ。
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作者の乾くるみは、1963年静岡生まれとのこと。女性のような筆名であるが、文章を読めば一目瞭然、絶対に男である。賭けてもよろしい。

さて、映画を先に読んで原作を後で読む場合、洋の東西を問わず、伝統的には大概は原作の方が映画より面白いことは論を俟たない。その理由は、本の方が映画よりも、自分勝手なイマジネーションを自由に羽ばたかせることができるからだと思うが、さて、昨今の小説はどうだろうか。

映画では、「最後 5分」ですべてが変わるとされていたが、原作の方は、「最後の 2行」とのことである。これは明らかに、原作の方がアグレッシブということですな。うーん。先に映画を見ている身としては、そのカラクリを小説がどう表現するかを少し考えてみるという楽しみがある。後半 (映画でも原作でも、Side B と称される) を一人称で語るというアイデアは読む前にすぐに浮かんだが、実際そうなっているのを見て、一瞬、「よっしゃ」と得意な気になる。まあこれは誰でも思いつくアイデアか。映画で少しうるさいと思った 80年代の歌は、それぞれのタイトルが原作でも使われていることが判明。本の場合は、実際にその音楽は流れて来ないから、もしその曲を知らない人にとっては、その方が余分な抵抗がないかもしれず、その点で原作は結構読みやすいと言える。また、映画は原作のストーリーを細部に至るまでかなり忠実に再現していると言える。なので、映画と原作の違いは、やはりクライマックスということになる、

私の率直な感想は、映画の「最後の 5分」は、原作の「最後の 2行」よりも秀逸ではないか、というもの。映画のラストに向かう場面には運動性があり、季節特有の高揚感や凛とした空気がある。なんとなく懐かしく甘酸っぱい想いを抱かせる、幸せなカップルの笑顔と、必死に自分の思い込みを証明したい一人の男がいる。一方で原作の方は、「おっとそうだったのか」という単発ショットで幕切れになる。その意味では、映画の方が小説よりもカタルシスがあるという珍しいケースになるかもしれない。そもそも、映画の種明かしは大変に懇切丁寧で分かりやすいので、映画を先に見てしまった身としては、その理解なしに文章を読むことはなく、もし先に原作を読んでいたら、カラクリを充分理解できたか否か、心もとない。

まあ、先に本を読んだ人が映画をどのように思うのかは分からないので、どなたかに試して頂きたい。

by yokohama7474 | 2015-06-20 23:00 | 書物 | Comments(0)

ブログを始めて未だたかだか一週間なのであるが、ひとつ困ったことがある。それは、夜、本を読む時間が減ってしまったことだ。私が手に取る、まさに玉石混淆の書物 --- 比較的新しいミステリーから、音楽家の伝記、古本屋で100円で買った旧かな使いの色あせた文学書、ちょっと難しい思想書から、はたまた古代史や陰謀論を扱った奇天烈なトンデモ本、犯罪の実録本など、頭の中どうなっているのと言われそうな書物のオンパレードである。せっかくブログをやるなら、こういったものも紹介しておきたい。ということで、これが書物の第一弾。
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2冊並べましたが、シュールな感じが出ましたか? 深い意味はなくて、たまたま 2回クリックしてしまったからです (笑)。でも、それこそがまさにシュール。この本からヒントを得て、勝手に手が動いて 2回クリックしてしまったのだろう。じろじろ見比べて間違い探しをせずともよろしい。全く同じ画像である。

その奇行で知られるシュールレアリスムの画家サルヴァドール・ダリは、恐らくはピカソ以降最も一般的にも名の知れた画家であろう。誰もが見たことのある夢のようなイメージ。解釈できそうでできない、群がる蟻や溶ける時計や燃えるキリン。はたまた、風景に見せかけた顔というトロンプルイユ。時に宗教的なイメージを使い、夫人であるガラの肖像を繰り返し描く。過剰な自信家で皮肉屋で、商売上手でへそ曲がり。そんなダリが、1947年、43歳のときに執筆したのがこの本だ。祖国の内乱、世界大戦を経たこの時期、ダリは米国に住んでいて、もともとフランス語で書かれたこの本は、米国で英語で出版されることになる。

内容は、ある意味で大変ダリらしい。すなわち、若い画家に向けていかに絵画修業すべきかということを説いているのだが、あちらこちらに誇張や断定や逆説が見られ、誠にデタラメな内容かと思いきや、実はかなりプラクティカルな修練法や、色彩の使用法についての詳細な記述も含まれている。もちろん、私は画家ではないから、その内容の技術的評価はしかねる。ただ、それらの記述を通して、実はダリは極めて真摯な人なのであるということが見えてくるのだ。あちこちに手書きメモから起こした挿し絵が入っている。このようなイメージを辿って行くのも楽しい。見ているうちに、何やらダリの不思議な世界に引き込まれて行ってしまう。
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ん? 気のせいか。先に進もう。

ダリの「意外な真面目さ」を思い知るのは、本書28ページに掲載されている 10人の画家と自分との比較である。それぞれの画家につき、技術、インスピレーション、色彩感、素描力、天才性、構成力、独創性、神秘性、真実性という 9項目について、20点満点で点数をつけている。これを見ると、ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ヴェラスケスとフェルメールには相当心酔しており、自分の評価は概して彼らより下。一方、先輩ピカソに対しては、敬意を表すべき点と、自分の方が勝っている点を明確に意識していることが分かる。例えば、天才性はピカソが 20点満点に対して、自身は 19点。また、神秘性はピカソが 2点であるのに対し、自身はやはり 19点など。また、フェルメールはほとんどすべて 20点満点だが、唯一、独創性だけが 19と、よく考えられている。尚、マネは真実性だけは 14点、それ以外は 0点から 6点だ。モンドリアンに至っては、ほとんど 0点 (笑)、最高が独創性の 3.5点である。極端な評価ではあるものの、なんとなく分かる気がする。

この本は、美術を志す純朴な学生が読んで本当に有益か否かは保証の限りではないが (笑)、多少美術に関心があり、悔しいけれどダリのことが気になるという人には、読んでみて損はないものだと思う。

by yokohama7474 | 2015-06-11 00:09 | 書物 | Comments(0)