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深水黎一郎著 最後のトリック

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昨年 6月にこのブログを始めてから読書の時間がほとんどなくなってしまっていることについては、以前にもぼやきを書いたが、気を取り直して、効率的に進められる読書の道を探ってはいる。もうすぐ読み終わる本も硬軟取り混ぜて何冊かあるが、ここで採り上げるミステリーは、出張を利用して読み進めたもの。先週の今頃から米国に出張であったため、機内での映画鑑賞 (往復で 3本見たが、劇場とはいろんな意味で環境が異なるので、私にとっての「映画鑑賞」の範疇には入れないようにしており、よってブログの対象ともしない) に加えて、一気呵成に読書する機会であるととらえ、出張直前に本屋で適当な本を物色し、これを選んだものだ。

上の写真の帯には「読者全員が犯人」とあって、題名が「最後のトリック」と来た。なになに、そうすると、この本を読む読者が殺人事件の犯人になるという、文字通りミステリー史上最後に残された究極のトリックを扱ったものであるのか。本の背表紙にあるあらすじにも、「ラストに驚愕必至! この本を閉じたとき、読者のあなたはかならず『犯人は自分だ』と思うはず?!」とある。最後が !! でなく ?! であるあたりに一種の保留を見る (笑)。だが、試してみようではないか。

この種の本を紹介するのは本当に難しい。ネタを明かさずに感想を言うことに腐心するからだ。よくこの種の本の最後に記載されている解説に、あらすじと引用が満ち満ちているのを目にするが、冗談じゃない。今その本を読み終えたばかりの人に、あらすじを教え、本文を引用してどうしようというのか。そんなものは解説を書く人の原稿用紙のマス目埋めに過ぎない。だから、原稿用紙を使っていない私はこう言おう。この本を閉じたとき、読者の私は『なるほど、読者を犯人にするという発想には工夫はあるけど、私は犯人ではないよ』と思ったのである。要するに、読み終わる前に作者の苦労が分かってしまうのである。それは、「読者が犯人」という (作中でも散々に不可能だと位置づけられている) 無理なトリックと、連続する挿話の涙ぐましい関連に読んでいる途中で気付くからである。ここで誓って言おう。私は誰も殺していない。いかにこの本の作者が凄もうと、私には殺したという意識がないのであって、そうである以上、この本を読んで心底恐ろしくなる読者は、残念ながらほとんどいないであろう。

もっとも、挿話の中に面白いシーンがいくつかあったことは事実。双子の姉妹が隔離された部屋でカードの柄を当てあうところなど、人物像もよく描かれていた。身なりを気にしない博士が、お互いに音を聞きあうことができない構造を表現するのに、「隣の部屋でシカゴ交響楽団がベルリオーズの『テ・デウム』を演奏しても気づかない」と発言する点など、クラシックファンとしてはニヤリである (私の知るところ、このオケはこの曲を録音したことはない)。また、天文学に関する詳細な記述にもリアリティがある。だが、このような大仰なトリックを大上段に構えて主題に据えた作品である以上、読み終えてしまえばそのあたりの印象は、あまり強く残っていないのが実情だ。

作者、深水黎一郎 (ふかみ れいいちろう) は、1963年山形生まれ。慶応の大学院文学研究科博士課程修了後、ブルゴーニュ大学とパリ大学で学んだという。これまでにメフィスト賞や日本推理作家協会賞短編部門を受賞している。なかなかの教養人とお見受けするので、究極のトリックなどより、人間世界に実際に存在しているミステリーを題材にされる方が興味深い作品になるのではないでしょうかなどと、勝手な感想を抱いております。

by yokohama7474 | 2016-03-06 21:37 | 書物 | Comments(0)

アーネスト・ブラマ著 マックス・カラドスの事件簿

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推理小説史上最も有名な探偵が、コナン・ドイルが作り出したシャーロック・ホームズであることは論を俟たないが、「ストランド・マガジン」がホームズ物を連載し始めたのは 1891年。その爆発的な成功に他の出版社が追随しないはずはなく、第一次大戦開戦の 1914年頃まで、続々と「シャーロック・ホームズのライヴァルたち」が登場して英国の文壇を賑わせたとのこと。このマックス・カラドスという探偵が活躍するシリーズもそのひとつで、第一短編集の出版がちょうど 1914年。よって、探偵カラドスは、「ホームズの時代」最後の名探偵と目されている由。この探偵が登場するのはすべて短編で、26編あるとのことだが、この本にはそのうちの 8編が所収されている。

このマックス・カラドスという探偵の特徴は、盲目であること。先天的なものではなく、森の中で乗馬しているときに木の枝が目に当たって失明したという設定になっている。しかしながら、視覚を失ったことで逆にほかの感覚が研ぎ澄まされ、印刷物や手書きの書類も、指先でなぞることで難なく読めてしまう。また、忠実な従僕のパーキンソンという人物が、卓越した観察眼を主人に叩き込まれたということで、視覚面でこの探偵のサポートをする。カラドスは巨額の資産を譲り受けたことで、働く必要のない身であるが、同級生でこちらは本物の探偵であるカーライルを助けて、難事件を次々解決して行くのである。

私は昔の推理小説はそれなりに好きで、ホームズ物はもちろん全部読んでいるし、エラリー・クイーンやヴァン・ダインの主要作品、それからなかんずくチェスタトンのブラウン神父物は、驚嘆をもってすべて読んでいる。もちろん、その筋のマニアの方々には及びもつかないが、このカラドス物を初めて読むに際し、それなりの基準は自分の中にあるつもりである。この作品集の面白い点は、いかにも英国の作品だけあって、登場人物の台詞の皮肉に富んだ言い回しや、まさにホームズばりの細かい観察が必ず出てくること。そして、超常現象を含む不可思議な出来事が起こって、読者にはその不可思議がどのように展開して行くのかについて期待感が高まる。日本でも「座頭市」の例があるように、目が見えないがゆえにむしろ感覚が研ぎ澄まされているという発想も面白く、通常人が騙されるようなことにも騙されないというストーリー展開も、それなりに迫力がある。

ただ、ただである。正直、犯罪の種明かしがされても、ポンと膝を打つようなことは残念ながら少なく、やはりホームズ物とは読み応えが違う。短編においては、ペダンティックな設定やウィットだけではなく、キラリと光るトリックが必要であるところ、どうもこのカラドス物には、その点において不満が残る。もちろん、犯罪の動機に人間の感情の機微が現れるようなこともあるけれど、それゆえに逆に今度は意外性がない結果となっているように思う。

作者のアーネスト・ブラマは、個人的な情報をほとんど公にしなかった人らしく、生年も最近まで諸説あったようだが、1868年生まれというのが定説になっているようだ。このカラドス物の前に、カイ・ルンという中国人が語るアラビアン・ナイト風の奇譚を集めた The Wallet of Kai Lung なる著作で人気を集めた由。未だに英国ではそれなりに人気があるようだ。以下、右がカラドス物、左がカイ・ルン物の表紙。
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創元推理文庫のこのシリーズ、「シャーロック・ホームズのライヴァルたち」と銘打たれていて、ほかにもいろいろ出ているようだ。あたりであろうとはずれであろうと、読んでみないと分からないし、今回のように不満を述べている場合でも、必ずなんらか興味深い点もあれば、逆にホームズシリーズの偉大さを思い知るという意味もある。機会あれば、シリーズのほかの本も読んでみたいと思う。


by yokohama7474 | 2015-11-15 10:15 | 書物 | Comments(0)

地球日本史 2 鎖国は本当にあったのか 西尾幹二責任編集

どこかで読んだのだが、日本人ほど自国論が好きな国民はいないそうである。確かにその種の本はいろいろあって、ベストセラーも多く、また自分自身や、自分の周辺を考えてみれば、日本人の発想や社会のシステム、組織の意思決定方法等々につき、欧米やアジア各国との比較において、いろいろな議論をすることが多い。その理由はいろいろ思い当たることもあるが、人によって意見は様々。議論しているうちに、なぜ我々は日本人論を戦わせるのかという方向になることもある。こうなってくると、「日本人論」ではなく「日本人がなぜ日本人論が好きか論」になってしまい、厄介なので深入りしないが (笑)、まあ興味深いことではある。

今回読み終えたのは、「地球日本史」という 3冊シリーズのうちの 2冊目、「鎖国は本当にあったのか」という題名のついたもの。因みに 1冊目は「日本とヨーロッパの同時勃興」と題されており、これは数ヶ月前に読んだ。3冊目の「江戸時代が可能にした明治維新」も購入済だが、読まずに積んだままになっている本の多さに鑑みて、実際に手に取るのは少し先になるであろう。
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大体私はいい加減な人間であって、古本屋で 1冊目を手に取り、面白そうだと思ったので、買ってきてそのままにしており、随分と時間が経ってから、全く別の古本屋で 2冊目が売られているのを知って、「あ、シリーズ物だったのか」と初めて気づいて購入。そうなってくると 3冊目も購入しようと思い、ネットで古本を購入。つまり私の手元で仲良く並んでいる 3兄弟は、生まれも育ちも別々な者同士が、縁あって集まってきたというわけだ。

さて、このシリーズはもともと産経新聞の連載をまとめたもの。ドイツ文学者で評論家の西尾幹二が責任編集となっているが、様々な分野から総勢 30名程度だろうか、専門の執筆者を集めている。この西尾幹二は、一般的には保守の論客と言われていると理解しており、私はこれまで、大部な「国民の歴史」なども、シリーズの「国民の芸術」とともに、その前提で面白く読んだことがあるが、それよりもなによりも、最初に彼の著作を読んだのは、いや、読まされたのは、中学生のとき学校の国語の教材であった「ヨーロッパの個人主義」だ。今でも探せばその本は本棚の奥から多分出て来ると思うが、ヨーロッパのことなど何も知らなかった当時の私にとっては、この簡潔な題名が大変印象的で、漠然としたヨーロッパのイメージ作りの基礎となったように思う。今調べてみると、その著作は 1969年のもの。この「地球日本史」シリーズは 1998年からの刊行であるから、その間に 30年近い時間が経過している。地球日本史というからには、日本の歴史的事象を地球規模で見て、それがいかに同時代の世界において優れたものであったかを、手を変え品を変えて主張しているのが本書である。

著作家にはそれぞれの立場があり、読む側としては本を選ぶ権利があるのであるから、ちゃんとどういう立場の人が発言しているのかを念頭に置いて読むことが肝要であると私は思っている。歴史認識については特にそうで、それは何も日本に限ったことではなく、アメリカでもヨーロッパでもアジアでも同じであろう。書かれていることを真摯に考えることだけでなく、それ以外の可能性も常に念頭に置いておかないと、あらぬ方向に自分自身の考えを導いてしまう恐れがあると、私は思う。また、書かれた時代という要素も大きい。本書は前世紀に書かれたものであるゆえ、世界の秩序とか、新興国の状況、またインターネット社会という観点からは、多少なりとも Out of Date な面があることは否めない。

この本には、各項目の筆者についての短い紹介が載っていて、皆さん立派な学者さんだが、いかんせん、年齢層はびっくりするほど高い。生年は軒並み 1930年代か 1940年代、中には 1920 年代の人すらいる!! (今日現在未だ存命であるか否かは調べておりません) その意味でこの本は、気鋭の若手学者が通説に挑むということではなく、酸いも甘いも知り尽くしたベテラン学者の方々が、ふがいない若手学者に喝を入れるといった風情だ (笑)。

ただ、ひとつひとつの項目を見てみると、素人目にもいささか乱暴な議論が多いと思う。まあ、学術書ではないので、それでもよいのかもしれないが、本当にこれらの主張を通したいなら、きっちりとした学問的議論も必要なのではないだろうか。と言いつつも、本当に面白い議論があれこれ入っていて、興味は尽きない。ごく一部を以下のご紹介する。

・日本は 17-18 世紀、ちょうどヨーロッパが「世界史」の体現者として振る舞い始めたほぼ同時期に、世界的レベルでの先端を行く「有力文明」の一つに達していた。その意味で、奇しくもユーラシア大陸の東の端と西の端が同時に世界を引っ張った。
・ヨーロッパ人はアジアに来て、銀の流通量に驚いた。16世紀の最大の銀の供給源は日本であった。当時世界一の経済大国であったスペインは、植民地で産する金銀の量に依拠しており、そのために略奪を働いた。その点日本は、自国内で産する銀によって、スペインをも凌ぐ世界一の経済大国であった。
・秀吉の朝鮮出兵は、征服欲によるものではなく、拡大する西欧への対抗措置としての東アジア経営を考えてのものであった。
・16世紀後半の日本は、世界最大の鉄砲の生産・使用国になっており、ヨーロッパのどの国にもまさる軍事大国であった。しかるに日本はその後の江戸時代に、鉄砲の制限・縮小に向かって行ってしまった。

まだまだあるが、このあたりでやめておこう。私はこれらのポイントについての検証を行う能力はないので、それらが正しいか否かを論じる立場にはない。ただ、日本人が正しく自分たちの歴史を知って、評価すべきは評価し、批判すべきは批判するという態度は、国際社会の中でしかるべき責任を果たすために必要であるように思う。その観点から、この本に学ぶところは多い。あ、でも、どさくさまぎれに、写楽は北斎であったという説も入っているが、それは鵜呑みにしないようにしよう (笑)。


by yokohama7474 | 2015-09-17 01:42 | 書物 | Comments(4)

シェイクスピア作 : から騒ぎ (小田島 雄志訳)

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白水 u ブックスには面白い本があれこれあるが、この小田島 雄志訳のシェイクスピア全集、全 37巻を購入してから、随分と時間が経つ。なにせ、西洋音楽や西洋絵画を楽しむには、シェイクスピアは必須なのである。あるいは映画を取ってみても、黒澤の「蜘蛛の巣城」が「マクベス」であるとか、「ウェスト・サイド・ストーリー」が「ロメオとジュリエット」であるとかいう基本形もさることながら、例えば、私が尊敬おくあたわざる女流監督、ジュリー・テイモア (一般にはミュージカル「ライオン・キング」の演出で知られる) が、マイナー作品「タイタス・アンドロニカス」を原作として「タイタス」という映画を撮ったり、あるいは、最近一体どうしてしまったのか分からずに大変残念な大天才、ピーター・グリーナウェイの「プロスペローの本」がもちろん「テンペスト」であったりすることからも、いかにシェークスピアが様々な芸術家の霊感の源泉になったかが分かろうというもの。ここで現代音楽に目を転じ、ベリオの「耳を澄ましている王様」(マゼールが世界初演) がやはり「テンペスト」であるとか、ライマンの「リア王」が大変感動的だとか、そうなってくるとちょっとマニアックなので、この辺でやめておこう。

と言いながら、実は遠い昔に、このシェイクスピア全集の第 1巻、「ヘンリー 6世」第 1部から順番に制覇しようとして、第 1巻すら読み終わることなく、挫折したきりだ。もともと芝居は好きな私であるが、脚本を書物として読むのは、どうも苦手なのだ。舞台で見ると、登場人物の判別は顔や服装や言葉で行うのだが、本になると、それが人物名になっていて、想像力を働かせるのはなかなかに酷である。これは裏を返せば、脚本を読み込めば、その作品のいろんなイメージを想像できるというもの。

この「から騒ぎ」、原題は "Much Ado About Nothing" というらしい。辞書で調べると、確かに "Ado" という言葉は「騒ぎ」「騒動」などとある。今度外人と話すときに使ってみるとするか。"W...What?!" という反応になること請け合い。そもそも日本人がそんなに高級な英語を喋るわけもないと思っているし、まあそれは実際その通りなので。ただ、この本の解説を見ると、この時代の英語では、"Nothing" は "Noting" (気づくこと) とほとんど同じ発音であったとのことで、この芝居のテーマが、「根拠のないこと (Nothing)」に基づく騒ぎであり、同時に「気づくこと (Noting)」によって始まりまた解決するということを意味しているという説もある由。

これを読むと、とどまるところを知らない言葉遊びがなんとも凄まじい。それこそ小田島訳の真骨頂なのであろうし、翻訳の苦心のほどは随所に偲ばれるのだが、実際に日本語で舞台にかかったときには、なかなか厳しいのかもしれない。まあしかし、シェークスピアのひとつの顔が言葉遊びにあることは間違いないだろうから、昔の英語の分からない身としては、このような訳からイマジネーションの翼を伸ばして劇を楽しむのも一興であろう。

それにしても、17世紀に書かれたこの戯曲、なぜにこうも人間の本質を描いているのだろう。誰かに対する信頼は、その信頼にもとるニセの情報によって簡単に覆る。高望み、から元気、有頂天という感情は、悪巧みによって、嫉妬、怒り、後悔、自己嫌悪・・・と、ほかの様々な感情にその座を譲ることとなる。この「から騒ぎ」は、さして長くもないその上演時間で、そのような人間心理をとことん描き出すのだ。そこに狂言回しも加わり、面白いことこの上ない。

ところでシェイクスピアについては、その正体が謎のままであり、そのテーマで何冊も本が出ているし、映画もいくつかある。彼の生地ストラットフォード・アポン・エイボンには 2度訪問したが、そこで目にするものも、詳細は省くが、実に面白い。そもそも英国の歴史的な場所は、ナショナル・トラストかイングリッシュ・ヘリテージが管理しているにも関わらず、ストラットフォード・アポン・エイボンの諸施設は、シェイクスピア協会か何かの管理になっていて、その事実だけで充分な事柄が物語られているのだ。実際英国では、シェイクスピアの生家が本物ではないということで、訴訟にもなったと聞く。また世の中には、なんとかこの空前絶後の劇作家の正体を暴こうと、いくらなんでもこじつけだろうという解釈をしている研究者が山ほどいるらしい。ここではその一端をご紹介しよう。以下の本に掲げられたシェイクスピアの肖像。この絵は、肩のあたりの描き方のぎこちなさから、実は後ろ向きの人物が後頭部に仮面をつけているところを描いていて、「私の正体を暴けるものなら暴いてみなさい」という意味だという説があるのだ!! いやいや、それ、考え過ぎでしょう。私には、ただのヘッタクソな絵にしか見えないのだが (笑)。
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さぁって、なぜ松本で音楽祭を聴いている途中にのんきにこんな本を読んでいるのか、答えはまた次回。

by yokohama7474 | 2015-08-30 00:41 | 書物 | Comments(0)

ブリギッテ・ハーマン著 ヒトラーとバイロイト音楽祭 ヴィニフレート・ワーグナーの生涯 上 戦前編

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私は学生時代から、第 2次世界大戦中のドイツの音楽界の動向には大変興味を持っていて、生涯勉強して行きたいと考えているのであるが、今般、とある人に薦められ、この大部な書物を読むこととした。上下 2巻で 750ページ近いのだが、面白すぎてページを繰るのももどかしく、あっという間に上巻を読み終えてしまった。

まず、基本中の基本を押さえておこう。リヒャルト・ワーグナー (1813 - 1883) は、ドイツロマン主義の大作曲家。一部、器楽曲も残しているものの、その生涯をほとんどオペラに費やした。こういう顔だ。
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一般にも、「ワルキューレの騎行」という曲が、その暴力性と、金管が炸裂するド迫力でよく知られている。それは実は、楽劇「ワルキューレ」の第 3幕への前奏曲なのだ。ほう、ではどんな曲か、ちょっと全曲でも聴いてみようかな、と思った方。覚悟はよろしいか。この「ワルキューレ」を含む 4部作、「ニーベルングの指環」は、上演に 4日間を要し、演奏時間は実に 15~16時間に及ぶのですぞ。それぞれの作品 1本が、平均的なイタリアオペラの倍くらいの長さだ。泣けども喚けども、4日間劇場に缶詰になり、鬱陶しく仰々しいドイツ語で、いつ果てるともない音響の渦に呑み込まれる。それって拷問に近いと思いませんか。

ところがその拷問に、身悶えして喜ぶ変人が、世界に何万人、何十万人、もしかしたら何百万人といるのだ。上記 4部作を含むワーグナーの主要 10作品 (ちなみに列挙すると、「さまよえるオランダ人」、「タンホイザー」、「ローエングリン」、「トリスタンとイゾルデ」、「ニュルンベルクのマイスタジンガー」、「ニーベルングの指環」 (= 「ラインの黄金」、「ワルキューレ」、「ジークフリート」、「神々の黄昏」の 4作)、そして「パルシファル」だ) は、世界のオペラハウスにおいて、なくてはならない重要レパートリーだ。しかもこの広い世界には、あろうことか、この重くて長くて暗いワーグナーのオペラだけを、よりによってワーグナーだけを、しかも真夏に演奏するという特殊な音楽祭があるらしい。信じられますか。その劇場は、19世紀に建てられ、冷房もなければ椅子のクッションもない、また、客席に通路もないところらしい。そんなところに出かけて行く人たちは、筋金入りのド M に違いない。そのド M の集まる音楽祭を、バイロイト音楽祭という。

そもそもワーグナーが他の作曲家と異なるのは、すべての作品に自分で歌詞を書いたこと。つまり、詩人であり音楽家であるということであって、自らの世界観を妥協なく作品に投影できたわけである。そして題材は、北欧・ゲルマンの神話や伝説。英雄、贖罪、浄化、神聖性、自己犠牲というキーワードが散りばめられた作品群だ。まあドイツの人たちがそのような作品に入れ込むのは、なんとなく分かる。でも、その人の作品だけを演奏する音楽祭があるとはどういうことか。

ここで登場するのが、有名なバイエルン国王、ルートヴィヒ 2世だ。ヴィスコンティの有名な作品を含め、その生涯が何度も映画化されており、また、日本人にも大人気のノイシュヴァンシュタイン城を建てた王様だ。

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この王様は、中世の英雄譚などの夢物語に溺れるのが好きな人で、ワーグナーの作品群にぞっこんほれ込み、ついにはそのパトロンを買って出る。それによって完成したのが、バイロイト祝祭劇場で、1876年のこけら落としが、この「指環」4部作の連続上演であったわけだ。

さてさて、本の中身になかなか辿り着かないが、この本は、その作曲者ワーグナー自身が創設したバイロイト音楽祭が継承されて行く中で、いかなる歴史があったのかということを、圧倒的な量の史料を駆使して克明に描いている。題名になっているヴィニフレート・ワーグナーとは、大作曲家ワーグナーの長男、その名もジークフリートという人がいたのだが、その奥さんだ。英国から年の離れた旦那のところに嫁入りして来て、最初はおしとやかなお嬢さんであったものが、ドイツの第 1次大戦における敗戦から、第 2次大戦に突き進む激動の時代に、どのように変貌し、どのようにこの音楽祭を維持して行ったかがよく分かる。例えて言えば、「ゴッドファーザー」の 1作目、ただの真面目な学生であった三男のアル・パチーノが、マフィア同士の争いの中で、血の気の多い長男、優柔不断な次男を差し置いて、家族を守ろうとしているうちに頭角を現して次のボスになるという、あのストーリーを彷彿とさせるものがある。歴史とは、様々な巡り合わせやある種の必然の積み重ねによって、少しずつ起こる変化が、いつのまにやら激流になる、そのような流れであると言えると思うが、ここに描かれたのは、天才、凡才、策略家、お人よし、ドイツ人、イタリア人、ユダヤ人、様々入り乱れて歴史の歯車がミシミシと回る様子である。そのまま映画にもできるような、凄まじい内容だ。

とまあ、書物の内容はともかく、一度そのバイロイト音楽祭に行ってみたい。おー、行ってみたいぞぉ・・・と心の中で叫んでいるのでありました。

次回に続く。


by yokohama7474 | 2015-08-09 07:14 | 書物 | Comments(0)

佐々木 丸美著 雪の断章

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最近、街の本屋さんの数が減ってしまって、ぶらっと立ち読みする楽しみが減ってしまったが、それでも大規模書店に行けばその楽しみは未だに存在している。こう暑くなってくると、子供の頃、長い夏休みにすることがなくて、本屋に涼みがてらでかけ、あれこれつまみ読みした思い出が甦ってくる。もっともその頃は、今ほど暑くはなかったような気がするが・・・。

話が脱線してしまったが、ある時本屋に積んであった本の帯に、「夢中で読めた。紛うことなき徹夜本だ。」というコピーが見えた。手に取ってみると、男か女か分からない、見慣れない作者名。なじみのない題名。時々私がそうするように、この時もそのままこの本を持って、レジに向かったものだ。帰宅してふと気づいたことには、これ、昔斉藤由貴が主演していた、相米 慎二監督の映画の原作ではないか!! ということは、最近の本ではない。本を開いてみると、1975年の作とのこと。それは古い。作者は北海道在住の女性作家であるが、2005年に 56歳で急逝しているとのこと。この作品は、ロシアの童話、マルシャークの「森は生きている」に着想を得て書かれたもので、孤児である女の子が青年に育てられる過程が描かれているが、途中で起こる毒殺が物語の大きな転換点となるというもの。

創元推理文庫だし、当然ミステリーと思って手に取った私は、徹夜本という触れ込みにもかかわらず、想定外の大変な忍耐を強いられつつ読み進んだが、なかなか殺人事件は起こらないし、起こったあとも物語は牛歩のごとき進展のなさだ。結局、何週間も放置するような事態に陥り、徹夜どころか、読み終わるのに 2ヶ月ほど要してしまった。結局これは、ミステリーではないし、殺人事件に驚くべきトリックがあるわけでもない。描かれた少女の心理を追うべき書物なのであろう。・・・ということは、大変申し訳ないが、私にとっては本来 No Thank You の分野の本である。何より、登場人物の発想、発言、行動にリアリティがない。こういう人が本当にいるなら、ちょっと会ってみたい。もちろん、文学はリアリティなくとも成立しはするが、この書物の手法では、どうであろうか。リアリティのないことは美点になるとは思えない。登場人物たちの会話が、どこまで行ってもきれいごとに見えてしまうのだ。

比較すること自体酷かもしれないが、同じ孤児を主人公とした名作に、シャーロット・ブロンテの「ジェーン・エア」がある。あれはまさに強烈な作品で、読んでいて何か血がかぁっと熱くなる経験をしたものだが、大変残念ながら、もし日本に同等の天才がいたとしても、同じレヴェルの作品を書くことはできないと思う。それは、自己と他者という対立関係において、言語というかたちで形成されるコミュニケーションの方法が、日本人と欧米人 (日本語とラテン語系言語) では決定的に異なるからだろう。やはり日本語の文学は、日本人が宿命的に追っている曖昧な自己表現を前提として書かれるべきではないか。

この作者は現在再評価が進んでいるとのことらしく、否定的なことを書くのは気が引けるが、この本をミステリーと思って手に取ることさえなければ、また違った読み方もあったのかもしれないなと思う。因みに、斉藤由貴主演の映画も、見ておりません。あしからず。


by yokohama7474 | 2015-07-30 01:06 | 書物 | Comments(2)

由良三郎著 葬送行進曲殺人事件

古本屋で購入した、1985年 (昭和 60年) 発表のミステリーの文庫版。
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ちょうど、「イニシエーションラブ」がノスタルジーを持って 80年代を舞台にしていたところ、こちらは正真正銘、その 80年代の作品である。登場人物はもちろん秘密の電話をかけに公衆電話に走るし、撮影した写真は現像している。もちろん私自身、その頃はまだ洟を垂らしたガキだったとしらばくれる意図はなく、この作品の作者が文壇に登場した際、東大医学部教授がミステリー作家に華麗なる転身、と話題になっていたのをよく覚えている。処女作の「運命交響曲殺人事件」が、文字通りベートーヴェンのシンフォニーを題材にしていたはずで、当時少し興味を持ったものだ。調べてみるとこの作者はその後 15年の間に 30編近いミステリーを執筆したらしいが、これまでに読む機会がなく、今回たまたまこの作品に巡り合ったというわけだ。

これを読む現在の人々が気になるのは恐らく、公衆電話やフィルム式のカメラという今はない小道具ではなく、登場する人物たちの描き方そのものではないだろうか。いやなんとも会話の雰囲気が古臭く、昭和のテレビドラマを見ているような気がする。探偵役の小野田亮平のキャラクターにはそれなりのとぼけた味わいがあり、ストーリーも最後に向けたドンデン返しがあって、それなりに楽しめるとも言えるが、いかんせん、終始ドキドキハラハラとはいかないし、特にヒロインの性格づけには、オヤジから見た「いいお嬢さん」という色合いが濃厚で、読んでいて時折天を見上げたくなるような瞬間が多く訪れる (笑)。また、タイトルの葬送行進曲は内容に関係なく、ハテナマークを禁じ得ない。

ともあれ、80年代を追憶する機会にはなりました。


by yokohama7474 | 2015-06-21 14:37 | 書物 | Comments(0)

乾くるみ著 イニシエーション・ラブ

映画を見たあと、本屋でたまたま原作を見かけて、この本を読むことにした。映画のポスターと同じ表紙なのだが、1枚めくると違う (これがもともとのものなのでしょう) デザインの表紙が出てくる。奥付を見ると、2007年4月に第 1刷、2015年 6月には実に第 63刷とのこと。売れていますなぁ。
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作者の乾くるみは、1963年静岡生まれとのこと。女性のような筆名であるが、文章を読めば一目瞭然、絶対に男である。賭けてもよろしい。

さて、映画を先に読んで原作を後で読む場合、洋の東西を問わず、伝統的には大概は原作の方が映画より面白いことは論を俟たない。その理由は、本の方が映画よりも、自分勝手なイマジネーションを自由に羽ばたかせることができるからだと思うが、さて、昨今の小説はどうだろうか。

映画では、「最後 5分」ですべてが変わるとされていたが、原作の方は、「最後の 2行」とのことである。これは明らかに、原作の方がアグレッシブということですな。うーん。先に映画を見ている身としては、そのカラクリを小説がどう表現するかを少し考えてみるという楽しみがある。後半 (映画でも原作でも、Side B と称される) を一人称で語るというアイデアは読む前にすぐに浮かんだが、実際そうなっているのを見て、一瞬、「よっしゃ」と得意な気になる。まあこれは誰でも思いつくアイデアか。映画で少しうるさいと思った 80年代の歌は、それぞれのタイトルが原作でも使われていることが判明。本の場合は、実際にその音楽は流れて来ないから、もしその曲を知らない人にとっては、その方が余分な抵抗がないかもしれず、その点で原作は結構読みやすいと言える。また、映画は原作のストーリーを細部に至るまでかなり忠実に再現していると言える。なので、映画と原作の違いは、やはりクライマックスということになる、

私の率直な感想は、映画の「最後の 5分」は、原作の「最後の 2行」よりも秀逸ではないか、というもの。映画のラストに向かう場面には運動性があり、季節特有の高揚感や凛とした空気がある。なんとなく懐かしく甘酸っぱい想いを抱かせる、幸せなカップルの笑顔と、必死に自分の思い込みを証明したい一人の男がいる。一方で原作の方は、「おっとそうだったのか」という単発ショットで幕切れになる。その意味では、映画の方が小説よりもカタルシスがあるという珍しいケースになるかもしれない。そもそも、映画の種明かしは大変に懇切丁寧で分かりやすいので、映画を先に見てしまった身としては、その理解なしに文章を読むことはなく、もし先に原作を読んでいたら、カラクリを充分理解できたか否か、心もとない。

まあ、先に本を読んだ人が映画をどのように思うのかは分からないので、どなたかに試して頂きたい。

by yokohama7474 | 2015-06-20 23:00 | 書物 | Comments(0)

サルヴァドール・ダリ著 私の50の秘伝

ブログを始めて未だたかだか一週間なのであるが、ひとつ困ったことがある。それは、夜、本を読む時間が減ってしまったことだ。私が手に取る、まさに玉石混淆の書物 --- 比較的新しいミステリーから、音楽家の伝記、古本屋で100円で買った旧かな使いの色あせた文学書、ちょっと難しい思想書から、はたまた古代史や陰謀論を扱った奇天烈なトンデモ本、犯罪の実録本など、頭の中どうなっているのと言われそうな書物のオンパレードである。せっかくブログをやるなら、こういったものも紹介しておきたい。ということで、これが書物の第一弾。
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2冊並べましたが、シュールな感じが出ましたか? 深い意味はなくて、たまたま 2回クリックしてしまったからです (笑)。でも、それこそがまさにシュール。この本からヒントを得て、勝手に手が動いて 2回クリックしてしまったのだろう。じろじろ見比べて間違い探しをせずともよろしい。全く同じ画像である。

その奇行で知られるシュールレアリスムの画家サルヴァドール・ダリは、恐らくはピカソ以降最も一般的にも名の知れた画家であろう。誰もが見たことのある夢のようなイメージ。解釈できそうでできない、群がる蟻や溶ける時計や燃えるキリン。はたまた、風景に見せかけた顔というトロンプルイユ。時に宗教的なイメージを使い、夫人であるガラの肖像を繰り返し描く。過剰な自信家で皮肉屋で、商売上手でへそ曲がり。そんなダリが、1947年、43歳のときに執筆したのがこの本だ。祖国の内乱、世界大戦を経たこの時期、ダリは米国に住んでいて、もともとフランス語で書かれたこの本は、米国で英語で出版されることになる。

内容は、ある意味で大変ダリらしい。すなわち、若い画家に向けていかに絵画修業すべきかということを説いているのだが、あちらこちらに誇張や断定や逆説が見られ、誠にデタラメな内容かと思いきや、実はかなりプラクティカルな修練法や、色彩の使用法についての詳細な記述も含まれている。もちろん、私は画家ではないから、その内容の技術的評価はしかねる。ただ、それらの記述を通して、実はダリは極めて真摯な人なのであるということが見えてくるのだ。あちこちに手書きメモから起こした挿し絵が入っている。このようなイメージを辿って行くのも楽しい。見ているうちに、何やらダリの不思議な世界に引き込まれて行ってしまう。
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ん? 気のせいか。先に進もう。

ダリの「意外な真面目さ」を思い知るのは、本書28ページに掲載されている 10人の画家と自分との比較である。それぞれの画家につき、技術、インスピレーション、色彩感、素描力、天才性、構成力、独創性、神秘性、真実性という 9項目について、20点満点で点数をつけている。これを見ると、ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ヴェラスケスとフェルメールには相当心酔しており、自分の評価は概して彼らより下。一方、先輩ピカソに対しては、敬意を表すべき点と、自分の方が勝っている点を明確に意識していることが分かる。例えば、天才性はピカソが 20点満点に対して、自身は 19点。また、神秘性はピカソが 2点であるのに対し、自身はやはり 19点など。また、フェルメールはほとんどすべて 20点満点だが、唯一、独創性だけが 19と、よく考えられている。尚、マネは真実性だけは 14点、それ以外は 0点から 6点だ。モンドリアンに至っては、ほとんど 0点 (笑)、最高が独創性の 3.5点である。極端な評価ではあるものの、なんとなく分かる気がする。

この本は、美術を志す純朴な学生が読んで本当に有益か否かは保証の限りではないが (笑)、多少美術に関心があり、悔しいけれどダリのことが気になるという人には、読んでみて損はないものだと思う。

by yokohama7474 | 2015-06-11 00:09 | 書物 | Comments(0)