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この映画のポスターと予告編を見たときにすぐに連想したのは、スペイン映画「パンズ・ラビリンス」であった。その映画については、昨年 2月 2日の「クリムゾン・ピーク」についての記事で触れておいたので、ご興味ある向きはご参照頂きたいが、要するに女の子が怪物の幻影を見て、その裏になんとも切ない事情があるというストーリー。その映画をご存じの方は誰しも、この「怪物はささやく」のイメージに、いわばその男の子版ではないのか、と思うに違いない。そうして実際に作品を見に行って購入したプログラムで、この映画のプロデューサーが案の定「パンズ・ラビリンス」のプロデューサーと同じベレン・アティエンサという人であると知って、意を強くしたのである。

この映画においては、母親と二人暮らしの少年が主人公である。夜中の 12時 7分になると、少年の家の隣に広がる丘の上の教会の敷地内にある大木が巨人に変身し、ノシノシと家までやってきて少年に話しかける。そして少年はその怪物と会話を交わし、時には恐ろしい幻影を何度も繰り返し見たり、無意識のうちに暴れてしまうことになる。そしてそこには、少年の深層心理のある秘密が隠されていた、という物語。原題にある "Call" はこの場合「呼ぶ」ではなく、「訪れる」という意味だろう。その意味では、原題の直訳は「怪物がやってくる」にでもなるだろうが、ここで「怪物はささやく」としたのは少しひねりが効いていて面白い。ただそれにしても、こんなものがしょっちゅうやってきて、ニューッと顔を出してはハイコンバンワと話しかけるのは、やはりちょっと怖いし、ささやくにしてはデカい声だ (笑)。
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細部に触れる前に映画の感想を言ってしまうと、残念ながら「パンズ・ラビリンス」の感動にはとても及ばなかった。その理由は、少年を取り巻く環境を細かく描きすぎて、怪物の語ることと実際に起こることとの間の連関性が徐々に見えることで、怪物の神秘性が減少してしまったことではないか。もちろん、今思い出してみて、少年の母、祖母、母と離婚した父、既に亡くなった祖父という人たちの人間像にはそれぞれ工夫が見られるし、特に母親の運命が切なく描かれているとは言えると思う。もしかするとこの話は、本で読んだならもっとイメージが広がって感動するのかもしれないが (実は、原作小説の著者が脚本を書いているのだが)、映画としては、映像のショック度で勝負する前に、ストーリーに依拠しすぎているような気がする。例えば、怪物は 3つの話を少年に対して語り、4つ目は少年が自分で語れと言うのだが、それらの怪物の説話はどうやら、人間というものの複雑さを説いているようであり、それ自体はイメージの広がりがあるようでいて、実は少年自身がそれらの説話によって何かに気づくということにはならない。これは上で書いた、「怪物の語ることと実際に起こることとの間の連関性」ということと矛盾するように響くかもしれないが、これらの説話は本筋のストーリーとは全く関連しないものなので、実は矛盾していないのである。

などと書いていると最低の映画のように響くかもしれないが、決してそこまでけなすつもりはありません (笑)。よいところを挙げると、まずは冒頭に登場するイメージはなかなかに鮮烈だ。丘の上に立つ教会がガラガラと崩れ落ち、墓地が陥没する。この映画を通じて何度もこのシーンが出て来て、なんとも寒々とした感覚を覚えさせるのである。舞台になっている場所について明言はないが、多くの人物の喋る英語のアクセントから、米国でないことは明らかで、墓地の十字架がいわゆるケルト十字架であることから、その鬱陶しい気候及び、少年の名前コナー・オマリーを併せて考えると、アイルランドかスコットランドか、ということになるだろうか。だが、巨人が産業革命による工場の建設に言及することから、申し訳ないが前者ではありえない (私はたまたまその国をよく知っているもので・・・)。ケルト十字架はこのようなもの。映画の中に登場するシーンではなく、飽くまでイメージを拝借しました。
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調べてみるとケルト十字架は、英国内ではスコットランドだけではなくイングランドにもあるようなので、まあ、英国のどこかの田舎が舞台と考えればよいだろうか。劇中に海の近くの遊園地に出かけるシーンがあるので、海沿いのどこかだろう。私の知識と経験の中では、ウィットビーなんかが近いかもしれない。作家のブラム・ストーカー (アイルランド人) が名作「吸血鬼ドラキュラ」の構想を練った街で、このような壮絶な廃墟のある、ホラー好きにはたまらない港町なのである。
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実はこの映画のロケは、イングランド北部、マンチェスター、ウェスト・ヨークシャー、ランカシャーあたりで行われたという。上記のウィットビーはノース・ヨークシャーにあるので、イメージとしてはやはり近いと思う。ホラー好きの方、是非お奨めです。

さて、特筆すべきは役者たちである。主役のコナーを演じたのは、撮影当時 12歳のルイス・マクドゥーガル。1000人の中からオーディションで選ばれたという。ほぼ全編出ずっぱりで、様々な感情を演じる必要のある役であり、例えば日本の 12歳の男の子でこんな演技ができる子がいるかと考えると、空恐ろしいほどだ。
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母親を演じるのはフェリシティ・ジョーンズ。なんとあの、このブログでもご紹介した「インフェルノ」「ローグ・ワン / スター・ウォーズ・ストーリー」の、あの女優さんである。この髪型なので気づくのに時間がかかるが、一方でこの髪型には理由があることも、徐々に分かってくるのである。難しい役だと思うが、見事に演じている。
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それから、モンスター映画と言えばこの人。シガニー・ウィーバーだ!! 少年の祖母を演じていて、実に渋い存在感だ。さすがである。
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そしてもう一人。怪物の声を演じているのは名優リーアム・ニーソン。実は劇中では家族の写真の中に彼の姿があり、それは少年の祖父なのである。それによって、少年にとっては亡き祖父の姿が、巨木の怪物に投影されていることが暗示されている。
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監督は J・A (フアン・アントニオ)・バヨナ。1975年生まれのスペイン人で、これが長編 3作目。前作は、私は見逃してしまった、ナオミ・ワッツとユアン・マクレガー主演の災害映画「インポッシブル」。そして次回作は、なんとなんと、あの「ジュラシックワールド」の続編だという。この映画では、上述の冒頭シーンをはじめ、映像として面白いシーンは幾つもあったので、これからの活躍に期待しよう。
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また、これも上述の通り、この作品は原作小説の作者が脚本も、それから製作総指揮も手掛けている。その人の名はパトリック・ネスといって、1971年生まれの作家である。この「怪物はささやく」を含めた数々の作品によって、これまでに様々な賞を受賞している若手作家であるらしい。作品名を見ていると、「心のナイフ」「問う者、答える者」「人という怪物」「まだなにかある」と、この映画の内容に近いものを連想させるものばかりで、ちょっと興味を惹く。なおこの人は米国生まれだが、現在では英国に移住しているらしい。でも、「パトリック」 (アイルランドの守護聖人で、ニューヨークのセント・パトリック教会で有名) というファースト・ネームも、「ネス」 (もちろんスコットランドのネス湖、ネッシーの棲み処) というファミリー・ネームも、見事にケルトを連想させるではないか!!
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とまあ、最初の方で否定的な評価を書きながらも、「パンズ・ラビリンス」とはまた違った持ち味があり、あちこちに文化的突っ込みを許容する面のある、大変興味深い映画であったというのが私の結論である。これを見て、もし夜中の 12時 7分にこんな奴が現れたらどうしよう!! と心配するようなことになれば、あなたも怪物とコミュニケーションできる素養があるかもしれません。あ、でも、夜中なので、怪物には本当にささやくような声で喋ってもらわないと、近所迷惑なのですが (笑)。
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by yokohama7474 | 2017-06-28 00:57 | 映画 | Comments(0)

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今年の大ヒット作である。GW 前の公開なのに、未だにシネコンではかなりの頻度で上映されている。私にとって「美女と野獣」は、特集上映の際に劇場で見た1946年のジャン・コクトーによるモノクロ映画、1991年のディズニーによるアニメ映画、そしてブロードウェイで見たミュージカル (ベル役が東洋人であった)、と一通りの経験があり、ないのは劇団四季の日本語版ミュージカルくらいか。今回の実写版はやはりディズニーによるものであるが、なかなかに手の込んだ作りであり、もともとよく知られた内容であることもあって、万人が楽しめる内容であるがゆえに、これだけのヒットになっているのだろう。有名ミュージカルの映画化としては、「オペラ座の怪人」や「レ・ミゼラブル」などもうまくできていたが、この映画もそれらと肩を並べる作品であろうと思う。もちろん、何か人生が変わるような感動を覚えるというものではないかもしれない。だが、なんとも華麗な映像を見るだけでも価値はあろうというものだ。

監督は、1955年生まれの米国人、ビル・コンドン。このブログでは、イアン・マッケランが老いたシャーロック・ホームズを演じた「Mr. ホームズ 名探偵最後の事件」を採り上げたが、およそ CG とは縁のない、今回の映画とはまた全く違うテイストのものであった。だが、その前には「シカゴ」の脚本を書いたり、ビヨンセが出た「ドリームガールズ」の監督などを手掛けていて、ミュージカル映画とのかかわりは深いようだ。
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だがそれにしても私が思い出すのは、コクトー (以前も書いたことがある通り、私は彼の大ファンなのであるが) の古い映画では、主役のベルが野獣の城の中に入ったとき、暗い廊下には燭台を持った手が沢山壁から突き出ていて、それらがにゅーっと動いてベルを驚かすというシーンがあった。もちろん今から 70年前には CG はないから、様々な工夫が監督の才気を感じさせるシーンにはなっていたが、今から見るとなんと素朴なこと (笑)。
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ところが今回の映画では、燭台自身がこのように自在に動き、かつリュミエールというその名前が示す通り、もともとフランス人の召使が魔法によってこの姿に変えられたらしく、フランス語なまりの英語を喋るのである。コクトー映画とのなんたる違い (笑)。
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そして、最後に魔法が解かれたときに現れるこの人の素顔を見ても判別するのは難しいのだが、演じているのはあの英国の名優、ユアン・マクレガーなのである!! こういう凝り方の積み重ねが、映画に奥行を出していることは間違いないだろう。
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いやそれにしても、この映画の出演陣は大変豪華である。上述の「Mr. ホームズ 最後の事件」に続き、イアン・マッケランが時計のコグスワースの役として出ているし、ポット夫人はエマ・トンプソン。また、主人公ベルに言い寄る悪い奴、ガストンを演じるのは、「ドラキュラZERO」や「ハイライズ」、また「ホビット」シリーズで精悍なイメージの強いルーク・エヴァンス。また、ベルの父モーリス役は、「ワンダとダイヤと優しい奴ら」でアカデミー助演男優賞を獲得したケヴィン・クライン (どうでもいいけどこの人、昔懐かしいアイドル女優フィービー・ケイツと結婚しているらしい。16歳差。まあ本当にどうでもいいことなのだけれど)。野獣 / 王子役はダン・スティーヴンスという俳優。彼の顔にはなじみはないが、「ナイト・ミュージアム / エジプト王の秘密」でランスロット役を演じていたり、テレビシリーズ「ダウントン・アビー」に出ていたらしい。
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この映画のひとつの見どころは、野獣の見せる細かい表情である。映像技術の発展によって表現の幅が広がっていることは確実だが、それをいかに使いこなすかはまた別の話。この映画はそのあたり、大変に上質にできている。ほらこの表情、上の役者さんの顔の面影があるでしょう。あごひげのあたりとか (笑)。・・・ところでこの映画の CG で唯一惜しいところは、大詰めで野獣が屋根から屋根へ飛び移るあたりのシーン。これはちょっと古典的ないかにも CG という感じで、リアリティを欠いていた。
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そしてベルを演じるのは、「ハリー・ポッター」シリーズのハーマイオニー役で名を馳せたエマ・ワトソン。既に 27歳になった。
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私は「ハリー・ポッター」の第 1作から、彼女はきっといい女優になるに違いないと思っていた。そして今、この映画に見る彼女は確かに美しく知的で、また勇敢さを持つ役柄でもあり、その意味では何も不満はない。だが正直なところ、彼女はこれまであまり作品に恵まれているようには思われず、本来ならもっとよい仕事をしていてもよさそうなのに、と感じてしまう。昨年「コロニア」というチリのクーデターの話に出演していたので見たいと思ったが、見損ねてしまった。このベルのような優しい役ではなく、もっと強い役を演じてみてはいかがだろうか。今後に期待したい。

それから、今回はベルと野獣の心の通い合いにはシェイクスピアが絡んでいる。「ロメオとジュリエット」はロマンティックで好きではないと主張する野獣が、エマの言葉を引き継いで語る言葉はこのようなもの。

QUOTE
恋は目でものを見るのではない、心で見る、
だから翼もつキューピッドは盲に描かれている。
(小田島雄志訳)
UNQUOTE

これは、同じシェイクスピアの「夏の夜の夢」から。なるほど、この作品のテーマと共通しますな。なかなかに憎い引用だ。

最後にもうひとつ余談。なんでもこの作品、公開前に監督が、「ディズニー映画初の同性愛シーンがある」と宣言し、マレーシアではそのシーンをカットしようとしたため、ディズニーが上映を拒否したということがあったらしい。また、米国アラバマ州は上映禁止を宣言、ロシアでは 16歳以上指定になったという。だがこのニュースには違和感がある。こんなに大ヒットしている映画の一体どこに、そんな騒ぎになるようなシーンがあるというのか。調べてみたところ、どうやらこのル・フウという役に関するものらしい。演じるのはジョシュ・ギャッドという俳優。
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彼はガストンの仲間で、その心酔者のように描かれているが、だからと言って「同性愛」シーンがあったとは到底思えない。では何がいけなかったかというと、どうやら、最後で全員がダンスを踊る際に、男と組んで踊っていることであるようだ。うーん、そうだったかなぁ。そう言われればそうだったかもしれないが、集団の中だし、それほど目立つシーンではなかったはず。もしその程度で大騒ぎした国があったのなら、ちょっと違和感がある。もしかすると、監督が確信犯的に話題作りとしてそのようなニュースを事前に流したのでは・・・と勘繰りたくもなってしまう。逆に、もし「同性愛」シーンを楽しみにして劇場に足を運ぶ人がいたら、きっとがっかりするだろう (笑)。

ともあれ、様々な話題を詰め込んだヒット作。見ないと人生の損とは言わないが、魔女の呪いならぬ現代の映像の魔法に酔いしれるには、なかなかによい作品であろうと思う。

by yokohama7474 | 2017-06-14 01:20 | 映画 | Comments(2)

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ハリウッドを代表する俳優で、監督としても前作「アルゴ」で世界の絶賛を浴びたベン・アフレックの新作である。さぞや大々的に宣伝して大ヒットしているだろうと思いきや、上映している劇場はかなり限られていて、どうも日本ではあまり盛り上がっている気配がない。これは場合によっては、上質な映画を見逃す危険があるのではないかと思い、慌てて劇場に足を運んだのだが、案の定、これほど真摯に作られた映画をもし見逃すなら、それは映画好きとしては由々しき事態。この記事を是非参考として頂き、劇場に足を運ぶことで、ベン・アフレックという稀有な才能が今後も映画を作れるよう、是非応援して頂きたいのである。

この映画の舞台は 1920年代、禁酒法時代の米国である。監督でありながら主役を (ついでに? 脚本と共同製作も) 務めるベン・アフレックの役柄は、警察幹部の息子として生まれながら、第一次世界大戦参戦の際、次々に犠牲になって行く仲間たちを見て厭世的となった若者で、今ではボストンを拠点に数人でつるんで銀行強盗を行っているやさぐれ者である。ボストンではおりしもアイルランド系とイタリア系のギャング同士が反目しあっているが、アフレック演じるジョー・コフリンは、そのようなギャングとは一線を画して、基本的には人殺しはしない方針なのであるが、時代の激動の中で数奇なる運命に弄ばれて行く、という物語。ボストン以外にはフロリダ州タンパが舞台となっている。話は結構陰惨であり、時代背景が日本人にはなじみがない (禁酒法時代を舞台にしたギャング物は結構多いのだが) ことが、大々的に公開されていない理由なのかもしれないが、もしそうだとすると、惜しいことだ。ここでアフレックが描こうとしているものは普遍的な人間の心理なのであり、運命に抗う個人の赤裸々な姿であって、我々が日常を生きる上でヒントになるような事柄も多く含まれている。まずやはり、アフレック自身の姿が、戦争による心の傷のため、世の中に対して斜に構えたところもあり、時には卑劣な手段を用いながらも、激動の時代を懸命に生きる男を強烈に表しており、心に残るのである。彼なりにこだわりがあり、リスクも取りながら野心もあり、また大事なものを守ろうとする姿勢は、いつの時代でも必要なもの。例えばあなたが、集団の中で対立する 2派のどちらかについたとき、その親玉とどのようにつきあうか。相手方の親玉からの接触にどう対処するか。移り変わる状況の中で、人間としての矜持をいかに保つか。これは現代のサラリーマンにとっても、切実な課題になりうる (笑)。アクションもでき、複雑な心理のあやも表現できるこの俳優から、生きるヒントをもらおうではないか。
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この手の映画は、まずセットにかなり金がかかるものだし、服装や髪形など、細部のリアリティも重要になってくるし、映像のトーンもその時代らしさが求められる。私としてはそれらの点においてこの映画はかなり上質な仕上がりであると思うので、まずはその点においては映画としての成功の条件は満たしていると言えるだろう。調べてみると美術は、いずれもコーエン兄弟の作品「トゥルー・グリット」「ヘイル、シーザー!」でアカデミー賞にノミネートされたジェス・ゴンコールという人。そして撮影は、「JFK」「アビエーター」「ヒューゴの不思議な発明」で実に 3度のアカデミー賞に輝くロバート・リチャードソン。なるほど、そういう優秀なスタッフが参加しているだけのことはある。因みに、アフレック自身が共同製作者であることは上述の通りだが、共同製作者のうちのもうひとりは、なんとあの、レオナルド・ディカプリオなのである!! ディカプリオとアフレックの接点はあまり思い当たらないが、探してみたところこんな写真を発見。ディカプリオがぞんざいに (笑) 左手に握っているのはオスカー像である。2015年、第88回アカデミー賞で彼は「レヴェナント 蘇りし者」で主演男優賞を獲得したが、これはそのときのパーティーでのツーショット。時期からして、もしかするとこのときにアフレックがディカプリオにこの映画への出資を打診したと考えてもおかしくないのではないか。
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ともあれこの「夜に生きる」の素晴らしい点は、その美術やカメラワークの質のみならず、一連の役者たちの貢献にあることも間違いない。例えば、アフレックの妻役を演じるこの人。
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そう、ゾーイ・サルダナである。たまたま前の記事に採り上げた「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス」でも重要な役柄であったので、このブログでは連続登場ということになるが、あぁよかった、ここでは素顔である (笑)。激動の時代、裏社会にも通じる身であり、自分をしっかり持ちながらも献身的に夫を支える妻の役を、繊細に演じている。それから、またしても私を驚愕させたのはこの女優だ。
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未だ 19歳ながら、その表現力には恐ろしいものすら出て来た、エル・ファニング。このブログでも絶賛した怪作「ネオン・デーモン」での熱演も記憶に新しいが、ここではまた全く違う役柄ながら、大変に重要な役を高い説得力で演じている。この写真は彼女の最初の登場シーンで、そのときはほんの端役かと思うのである。ところがところが、思いもかけない展開によって、彼女の存在が、あれよあれよという間に、この映画のかなめにすらなって行き、そして意外な顛末となるのである。平凡な若い役者であれば、この役自体の重要性を観客に認識させることはできなかったと思う。もはや「ダコタ・ファニングの妹」という呼び方では失礼だろう。末恐ろしい存在である。

また、この映画の原作者が面白い。1965年ボストン生まれの米国の作家、デニス・ルヘイン。この映画での製作総指揮も兼ねている。
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過去の作品を見てみると、「探偵パトリック & アンジー」シリーズというもので知られているようだが、「ミスティック・リバー」「シャッター・アイランド」という映画化された作品もある。そういえば、前者はボストンが舞台であったのははっきり覚えているが、後者も、調べてみるとまたしかりなのである。つまり彼は故郷ボストン (米国屈指の歴史ある街である) にまつわる物語を創造し続けているということか。もっともこの「夜に生きる」のもうひとつの舞台であるフロリダでは、KKK の活動や人種差別、また宗教の問題もこの映画には出てくる。これらは東海岸の問題ではなく、米国の本音と建て前の差が赤裸々に現れる南部の問題であるだろう。その意味で本作には、現在に続く米国の闇の部分がクローズアップされているという面もある。なお、このルヘインの「探偵パトリック & アンジー」シリーズの 1作、「愛しきものはすべて去りゆく」という小説は、やはりベン・アフレックによって「ゴーン・ベイビー・ゴーン」として映画化されているが、日本では未公開であるようだ。

このように興味深い要素が沢山詰まった映画であるがゆえに、見ても絶対損にならないと申し上げておきたい。余談だが、"Live by Night" という原題から私が思い出したのは、学生時代に映像論のゼミでテーマとなっていた 1950年代ハリウッドと赤狩りに関連して見せられた、ニコラス・レイ (1911 - 1979、一般的に知られる代表作は「理由なき反抗」だろう) の作品、"They Live by Night" という映画であった。当時は日本公開されていない映画であったので、字幕なしのビデオを教室のスクリーンに投影しての鑑賞であった。その後 1988年に「夜の人々」という邦題で公開されたようだが、わずかに残る私の印象では、なんとも暗い映画であり、やはり銀行強盗を描いた映画であった。これは 1948年の制作で、ニコラス・レイのデビュー作。この作品と今回のアフレックの「夜に生きる」を関連づけた英語の記事がないかと思って検索してみると、ロサンゼルス・タイムズのレビューがヒットした。ざっと見たところ、役者としてのベン・アフレックは監督としてのベン・アフレックに貢献していない、と厳しい論調で、似たような題名の古い作品でも、レイの「夜の人々」の方がもっと汚くタフだった、とある。これはアフレックの作品を誉めていないということでしょうね (笑)。ただ私としては、アフレックにはいくつもの顔を持って活躍して欲しいし、このロサンゼルス・タイムズの記者が主張するように、最近彼が演じているバットマンが彼に合っているとは、全く思いません!! というわけで、レイの「夜の人々」からの、これだけ見るとあまりタフには見えないショットでこの記事を終えることとしよう。
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by yokohama7474 | 2017-06-11 01:01 | 映画 | Comments(0)

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渋い茶の湯の展覧会の記事のあとにこのような賑やかな映画の記事がくるというのが、このブログの特徴であり、嫌悪感を抱かれる方もおられるかもしれないが、私にしてみれば、あれも文化からこれも文化。茶の湯とアメリカン・コミックの間に、何か一脈通じあう文化的な特性がないと、誰が言えよう・・・ないか (笑)。

この映画、マーヴェル社のアメコミを原作としており、2014年に制作された 1作目に続き、これが 2作目。実は私は、1作目は見ようかどうしようか考えているうちに上映終了となってしまったので、結局見ていないのである。正直なところ、上のポスターにも登場する「銀河の運命は、彼らのノリに託された!」という、まさに軽いノリのトーンが若干鼻につき、果たしてこの映画を見る価値があるのか否か判然としなかったのである。今回も予告編を見ていて同様の迷いを覚えていたのだが、まあでも、見てみると意外と面白いかも、と思って見に行くこととした。そして一言、大変面白かった!! このブログでは様々な分野の異形の存在に対する私の思い入れが随所に出ているが、この映画もまさしく、異形なるものが宿命的に持つ、表面上の明るさと裏腹の、何か極めて人間的な陰の部分に魅かれたと言えようか。・・・ま、そんなことではなく、単純に面白かったと言えばよいのですがね (笑)。

ここには様々な奇妙なキャラクターが登場し、それはもう騒がしいこと。主役のピーター・クイルを演じるのは、最近「パッセンジャー」でもいい味出していた、クリス・プラット。普通の人間の姿をしていて、かなり三の線なのではあるが、実は大変な存在なのであることが、この映画の中で明らかになる。
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そのピーターがひそかに (?) 思いを寄せるガモーラ。演じるのはゾーイ・サルダナ。最新の「スター・トレック」シリーズでも近いイメージの役 (?) を演じているが、まあそちらの方はこんなに顔が緑ではありません (笑)。
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これはドラックス。演じるのは元プロレスラーのデイヴ・バウティスタ。実際の体も立派なのだろうが、これはラバースーツを着用しての演技であったろう。なんでも、前作よりもスーツが進化して、前回は 2時間半かかったメイクが今回は 1時間ほどに短縮して、撮影時にはご機嫌であった由。
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これが凶暴なアライグマのロケット。犬好きには、この真っ黒な鼻がなんともリアルで、どんなに凶暴なことをしても憎めないキャラになっているのである。声を演じているのは、「アメリカン・スナイパー」の、あのブラッドリー・クーパーだ。
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冒頭すぐの戦闘シーンでは、この 4人 (匹?) のガーディアンズ・オブ・ギャラクシーが、巨大なタコのオバケのような怪物と壮絶に戦うのだが、その前でコイツがコードをつなぐと、ピーター・クイルのお好みのナンバーのリミックス版 (?) が大音響で流れ始め、それに合わせてコイツが踊り続けるのだ。私はそのシーンのバトルの壮絶さと裏腹のユーモア、それを演出する華麗なる映像美に完全にノックアウトされ、心の中では拍手喝采なのであった。もう一度見たいシーンだ。
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コイツの名前はグルート。そういえば前作では、大人の大きさの枝人間を予告編で見た記憶があるが、なんでもこのベビー・グルートは、前作で命を犠牲にしたそのグルートが小枝から蘇ったものであるらしい。喋る言葉は "I am Groot." だけなのであるが、実は場面場面で違うことを言っているらしい (笑)。このベビー・グルートが実にかわいくて、その "I am Groot" が妙に耳に残るのだが、声をやっているのがあのマッチョなヴィン・ディーゼルというギャップもおかしい。
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私がこの映画を面白いと思う点は、これらの異形のキャラクターを過剰に使いながらも、あちこちの細部でユーモアのセンスが光っていることと、それから、もうこれは容赦ないまでの圧倒的な映像のマジックである。例えば、オープニングの自動車のシーン以下度々現れるミニチュア感覚にはくらくらする。このような映像効果と、気の利いたセリフとの両立は、実は結構難しいと思うのである。そして、人間の想像力の豊かさを思わせる数々のシーンを見て私の心をよぎったのは、ルネサンス期のフランドルの画家、ヒエロニムス・ボス (1450 頃 - 1516) である。プラド美術館所蔵の有名な「快楽の園」に登場するこの卵人間 (一般には「樹木人間」と呼ばれることが多いが、私にはどうも、樹木よりも卵に近いと見受けられる) を連想させるシーンも出てくる。
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そうそう、キャラクターの中にはほかにも印象に残るものがあって、このアイシャという女王の姿はどうだろう。全身どころか目の中まで黄金で、全く妥協がない徹底ぶりなのである。一度見たら絶対に忘れない。演じる女優はエリザベス・デビッキ。このブログでも「コードネーム U.N.C.L.E」の記事で触れたし、「エベレスト 3D」での演技も印象深い。いやー、確かに言われてみれば分かるが、そう聞かなければ、この女優さんの家族でも判別できないのではないか (笑)。
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それから、予備知識なく見てびっくりしたのはこの人、シルヴェスター・スタローンの出演である!! 出演シーンはそれほど多くないが、それなりに重要な役柄だ。
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もうひとり忘れてはならないのは、カート・ラッセル。このブログでは「ヘイトフル・エイト」の記事で触れたが、私にとってはなんと言っても「遊星からの物体 X」(1982) が未だに忘れがたい。ここでは怪役を演じているが、実に楽しそうである。
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こんな面白い作品を撮ったのは、前作から引き続きジェームズ・ガン。セントルイス生まれの 48歳で、監督作としては本シリーズ以外にはそれほど実績があるわけではないが、脚本や製作も手掛け、本作にも出演している弟ショーンをはじめ、兄弟 5人が映画界で活躍している由。おっと、背中にいるのはロケットか???
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そんなわけでこの映画を大変楽しんだ私は、グルートのキャラクター商品 (コロコロスタンプと言って、紙の上で転がすと "I am Groot" "I am Groot" という言葉が印字される) を購入、早速拙宅のガラクタコーナーに仲間入り。あっ、グルートの右隣には、Bunkamura で以前購入した、ボスの「卵人間」のフィギュアがあるではないか!! こうしてアメコミとフランドル・ルネサンス絵画の強烈な出会いが、川沿いの狭い家の中で実現したのである。
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by yokohama7474 | 2017-06-10 22:45 | 映画 | Comments(0)

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最近の邦画には、マンガを原作とするものが多い。だが私は、最近のマンガは全く知らない人間なのである。過去の記事でも何度か触れてきた通り、私自身はそのことを特に恥ずかしいこととは思っておらず、むしろ映画を予備知識なしに楽しむという意味では、原作を知らない方がよい場合もあると思っている。この映画の場合もしかり。三池崇史監督、木村拓哉主演の「無限の住人」。ここには相当に強烈な視覚イメージが横溢している。その凄惨な殺しの場面の数々、異様としか形容できないキャラクターたち。マンガと映画では、そのあたりの感覚は違ってくる面があって当然かと思うが、ここで様々な役を演じているのは日本を代表する俳優たちであり、監督は、独特のハードな映像美で知られる三池崇史。よくも悪くも、ここには今日の日本映画の特色がよく出ていると思うし、総合的に私は、この映画をなかなか面白いと思って見ることとなった。これが監督の三池崇史。
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まずはキムタクから始めようか。このブログでは彼は初登場 (笑) となるが、私は以前から彼はよい役者であると思っている。もちろんこの場合は、テレビドラマではなく、映画においてきっちりと歴史的な役割を果たしうるという意味である。だが、残念ながらと言うべきか否か正直分からないが、彼はこれまで、映画にはそれほど出演していない。香港の世界的映画監督、ウォン・カーウァイの「2046」に出演した頃 (2004年) には、その後素晴らしい出演作が相次ぐかと期待したのであるが、結局そのようにはならず、海外の出演作はそれ以降は皆無だし、日本映画にしても、それほど多くには出ていない。なんと言ってもテレビでの活躍だけで、彼のスケジュールは満杯であったことであろう。それが悪いと決めつける気は毛頭ないが、映画ファンとしてはこの才能がスクリーンにあまり出てこないことは惜しいと思ったことは事実。先ごろ国民的な話題となった SMAP の解散 (申し訳ないが私のようなオッサンには、なぜにそんなに世間が騒ぐのか理解に苦しむ事態であった) を経て、さてこれからはいかなる活動を展開して行くのか。既に今年 45歳になるという年齢であるから、若いときとは違った懐の深さを見せて欲しいものである。
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ここで木村が演じている万次は、百人斬りの異名を取る凄腕の剣士であるが、あるとき八百比丘尼 (やおびくに --- 妖怪ファンにはもちろんおなじみの名前で、人魚の肉を食ったために不老不死となった女性である) から不思議な虫を体内に注入されることで、不死身の体になった男。上のポスターにある「不死身って、死ぬほどめんどくせぇ」とはまさに言い得て妙のフレーズで、いくらからだが傷ついてもすぐに治癒してしまうので、斬られても斬られても、死ぬことはないのである。その彼はあるトラウマを抱えて苦しんでいるのであるが、そんな彼の前に現れたのは、一途に父のかたき討ちを目指す少女、凛。その二人に、善悪が明白でないこともある(あ、一部は見たまんま悪い奴だが 笑)異形のキャラクターたちが入り乱れて絡み合い、くんずほぐれつ物語が展開する。
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凛を演じる杉咲花は、子供のように幼く見えるが、今年 20歳。NHK 朝ドラの「とと姉ちゃん」で高畑充希の末の妹を演じ、また映画では既に「湯を沸かすほどの熱い愛」での宮沢りえの娘役で、様々な賞を受賞している。その勢いが持続しているのであろう、ここでの凛の役は大変な熱演である。そもそもスクリーンで鼻水を垂らすのも厭わずに演技できるのは大変立派であり、それも彼女の女優魂のなせるわざだろう (笑)。但し、ちょっと子供っぽく演じられた凛像を見ると、原作は知らないながらも、もっとほかの演技の選択肢がなかったかなという気は、若干しないでもない。尚、彼女が甲高い声で「万次さん」のことを「卍さん」の発音で呼ぶのが耳についたが、これは原作の設定と何か関係があるのだろうか。
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この映画に出演している俳優たちの名を列挙すると、山崎努、田中泯、市川海老蔵、福士蒼汰、北村一輝、市原隼人、金子賢、満島真之介、山本陽子、栗山千明、戸田恵梨香。そのほとんどが、夢にまで出てきそうな、一度見たら忘れない派手ないでたちで、それぞれの存在感を出している。中でも私にとって印象的であったのは、福士蒼汰である。三池監督の前作「神さまの言うとおり」は、やはりマンガが原作の不思議な味わいの佳作であったが、そこでの福士は、若さの特権のような未熟さがリアルであった。だがこの作品では、いくら大量に人を斬っても汗をかかず息も上がらない爽やかなイメージを保ちつつ、陰のある役を面白く演じている。いや、ここでもさらに違った演技の可能性は感じるものの、これはこれで、この役者の今後に期待を持たせる出来であると思う。
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それにしても、この映画に渦巻く憎悪はいかばかりであろう。目を覆うばかりの殺戮が何度も起き、そこでは善悪の境も定かではなく、誰が敵で誰が味方かも、判然としないことがあるばかりか、時折反転すらすることになる。従って、登場人物たちが何に命を賭けているのかを考えることは、なかなかに複雑な作業になるのである。だが、そんな不安定で暗鬱な設定でありながら、見た印象は陰鬱一辺倒のものではないのだ。そのことについて改めて考えると、主役二人のキャラクター設定が巧みであるからであろうと気づくのである。原作マンガがどうであるかには関係がない、この映画としての特徴がそこには表れていると思う。その立役者である木村は、「死ぬほどめんどくせぇ」という口ぶりが似合うキャラクターとして、得難い実績をここで残したと思うので、今後はまた違う凄みを目指して欲しいものだと思う。それから、是非書いておきたいのは、この映画の冒頭と大詰めで、二度に亘り大規模な殺陣を見せること。ここに私は彼の意気込みを見る。その身のこなしは実に見事なものであり、その点では 20歳ほども若い福士の殺陣よりも、数段上を行っているであろう。そうであれば今後キムタクの負った使命としては、若い俳優たちにその背中を見せ、スクリーンで凄みのある演技を次々と見せて行くことではないか。私は彼にはその才能はあると思うし、これからも大いに期待したいところなのである。

ところで、この映画ではクラシック音楽は使われていないので、音楽に関して私が何か語れる要素はほぼ皆無であるが、面白い発見をひとつ。ここで音楽を担当している Miyavi というアーティスト、実は俳優として映画にも出演している。それは、先般このブログでも称賛を捧げたハリウッド映画「キングコング 髑髏島の巨神」なのである!! 冒頭、米兵と争う日本兵が彼なのだ。このような風貌だが、うーむ、この「無限の住人」のキャラクターとして出て来ても遜色ないインパクトではないか。
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このように、あれこれ留保しながらも、私がこの映画をかなり楽しんだことはお分かり頂けたかと思う。現在邦画は大変な隆盛であるだけに、とにかく質の高いものを見たい。鑑賞する方も、きっちりと映画の質を見極めて行きたいものだ。その意味では、日本のマンガが持っている質の高さに映画が影響されることもあるだろう。日本ならではのストーリーテリングを期待しよう。

by yokohama7474 | 2017-06-07 00:19 | 映画 | Comments(0)

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これは 1985年製作の台湾映画。これまで長らく日本では劇場未公開であったところ、ようやく今、公開されているものである。だが上映館は限られていて、気軽にシネコンで見ることができるわけではない。私は渋谷のユーロスペースで見たのだが、そこでは GW 明けから上映していて、既にかなり時間が経っているにもかかわらず、週末の上映ではほぼ満席の盛況なので、驚く。その理由の第一は、監督にあるだろう。エドワード・ヤン。このブログでは既に 3月25日の記事で採り上げた「牯嶺街 (クーリンチェ) 少年殺人事件」(1991年) の監督だ。1947年生まれのヤンは、この「台北ストーリー」制作当時 38歳。2年前の長編デビューに続く、これが第 2作であったのである。そしてこの監督、今日までさぞや活発な映画制作を行っているのかと思いきや、2007年に惜しくも癌で死去。生涯に撮った長編映画はわずか 7本のみ。今年は彼の没後 10年であり、その業績を偲ぶにはちょうどよい機会だと思う。実は「牯嶺街 (クーリンチェ) 少年殺人事件」もそうであったのであるが、我々が今日この作品を見ることができるのは、ある功労者のおかげなのである。その名はマーティン・スコセッシ。言うまでもなく今日のハリウッドを代表する映画監督であるが、彼がこのエドワード・ヤンの作品にほれ込み、4K によるデジタル復元がなされることで、今回の劇場公開が可能になったわけだ。ありがとう、マーティン!!
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この映画を含め、エドワード・ヤンの作品は「台湾ニューシネマ」などと呼ばれている。私を含め、多くの人にとって台湾映画はあまり縁のない世界であろうし、ニューシネマなどと言われても何がニューなのか判然としない点は否めないが、台湾という若干特殊な地域を舞台に、絵空事の空想物語ではなく、その時代に生きている人たちの等身大の愛や苦悩を生々しく描く点が、当時はニューであったのだろう。その点この映画の題材は極めて明確。台湾に住むあるカップルが経験する、仕事の問題、幼な馴染の問題、地域の問題、米国や日本との関係の問題、そして、お互いにとってのほかの異性の問題等々が複雑に絡み合って疾走する物語。ここでの主人公はこの 2人だ。
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主演女優は、実はこの後エドワード・ヤンと結婚することになるツァイ・チン (1995年に離婚)。もともとは歌手であり、今でも歌手活動を行っているらしい。そして主演男優の方は、さらに国際的に有名な人である。この映画から 30年を経た最近の写真はこれだ。
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映画好きならご存じであろう。今や台湾映画界の巨匠として知られるホウ・シャオシェン (候 孝賢)。エドワード・ヤンと同じ 1947年生まれで、この「台北ストーリー」では製作・脚本・主役を務めている。代表作はヴェネツィア国際映画祭でグランプリを取った「悲情城市」(1989年) であろう。この「台北ストーリー」は、彼が役者として出演している唯一の作品。盟友ヤンと組んで、台湾映画界を変えようという意気込みをもってこの映画を作ったことは、明らかに見て取れる。

この映画の印象は、随所に「牯嶺街 (クーリンチェ) 少年殺人事件」と共通するところがある。そのひとつは音楽の使用法が極めて限定的であることだ。まず冒頭、タイトルバックにバッハの無伴奏チェロ組曲第 2番の開始部分が流れる。このバッハの無伴奏は全部で 6曲あるのであるが、ここで使われている 2番の冒頭部分は極めて渋くて地味なもの。陰鬱というと少し違うかもしれないが、決して明るく楽しい映画でないというトーンが、冒頭で既に設定されるのである。そうして、全編を通じて、いわゆる BGM になっている音楽が流れるのは、私の記憶にある限り、たった一箇所だけだ。それはこんなシーン。
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大きく見えるフジフィルムのネオンをバックに、主演カップルのひとり、女性のアジンが、ほかの男にそれとなく言い寄られるシーン。ここで流れる曲は明らかに古典派のチェロ・ソナタの緩徐楽章なのであるが、恥ずかしながら私はその曲名をその場で判別することはできなかった。だが、音楽好きなら周知のことだが、古典派のチェロ・ソナタといえばベートーヴェンだ。自宅でロストロポーヴィチの CD を出してきて確認し、それがやはりベートーヴェンのチェロ・ソナタ第 3番の第 3楽章であると確認した。そしてプログラムを見て驚いたことには、このバッハとベートーヴェンは、あのヨーヨー・マによる演奏なのである。もちろん、この映画のために演奏したのではなく、既存の録音を使ったものであると思うが、台湾ニューシネマとヨーヨー・マ (パリ生まれで米国在住の中国人) とは、これまた意外な組み合わせで面白い。これは、若い頃のヨーヨー・マのジャケット。
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実際この映画を見ていると、現場で即興的に作って行った部分が結構あるのかなと思う。その一方で、登場人物たちの米国に対する思い、そして日本のカルチャーへの興味という要素が顕著であり、そこは丁寧に作られているなという印象だ。これはきっと、当時の台湾の一般的な人たちの思いを代弁しているのであろうか (もちろん、そのような思いの対局は中国本土であろう)。1985年といえば、私が 20歳の頃であり、この映画に出て来る当時のテレビの映像は懐かしいものである (野球中継のビデオに出て来る広島カープの試合では、3番高橋慶彦が打席に立っていたりする)。家の中にかかっているカレンダーは出光興産のものであり、台北市内のネオンとしては、上記のフジフィルム以外に、NEC も出て来る。また、主人公の男性アリョンの同級生の女性は日本人と結婚していて、彼女の父は孫をあやすのに日本語を喋っているのである。それから、登場人物たちがまぁよく煙草を吸うこと!! 私も当時はスモーカーだったので、ちょっと気恥ずかしいような気もするが、それも時代の雰囲気ということになると思うし、何よりもこの映画の大詰めでは、喫煙が重要なファクターになるのである。ネタバレは避けるが、もしかすると「太陽にほえろ」の松田優作の殉職シーンへのオマージュかと思えるシーンもあるし、それから重要なのは、医者が救急車に担架を運び入れたあと、警官から勧められて喫煙するシーンでは、医者が緊急事態と認識していないことから、担架の中の人間は既にこと切れていることが暗示されているのである。男も女も、老いも若きも、スパスパ喫煙していた時代。
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それから、ここに登場する若い世代のありあまるエネルギーも、なにやら新鮮に映る。博打で負けて車を失ったり、台北市内をバイクでつるんでヘルメットもなしに疾走し、辿り着いたディスコで踊りまくる曲は、おぉ、懐かしの「フットルース」なのである!! ケヴィン・ベーコンの主演映画で、この主題歌はケニー・ロギンス。但し、そのようなエネルギーの向かう先をこの登場人物たちの多くは知らず、主人公も、若き日の野球への情熱を胸の奥に抱えながら、やるせない現実の前に自暴自棄になり、取り返しのつかない事態を招いてしまうのである。一見淡々としながらも、そこに渦巻く断腸の思いの切実さは、今見ても人の心に迫るものであると思う。決して器用に作られた映画ではなく、多くのシーンでは昔の自主映画の雰囲気が漂っているが、見たあとになって思い返すと、不思議と強い印象が残っているのである。

と、こんな映画なので、さぞや当時の制作の雰囲気は団結したものであったのかと思いきや、プログラムにはホウ・シャオシェンの意外な言葉が載っているので、ここに掲載する。

QUOTE
エドワード・ヤンとこうして一緒に映画を作ったり、いろんなことを話し合ったりしてはじめて、日常生活を見つめる彼の視点が、いかに自分のそれと違っているかを認識したよ。彼にとって台湾というのは、独裁的な力に支配された、とてもありそうもないような現実だったんだ。でもそれと同時に、彼の子供時代のさまざまな記憶が水面に現れ出てきているような感じもする。それもとても詩的な流儀でね。
UNQUOTE

なるほど。天才は天才を知る。違った視点を持ちながらも、ともに映画を作ることができるとは、本音のぶつかりあいを伴う真摯な同盟関係であったということだろう。我々はもはやエドワード・ヤンの新作を見ることは叶わないが、せめて過去の作品から、様々な生きるためのヒントをもらいたいものだ。
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by yokohama7474 | 2017-05-31 01:06 | 映画 | Comments(0)

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もし、世界各地に突然、謎の飛行物体が現れ、全く装飾も武器も見えないツルっとした表面を見せつつ、不気味な沈黙とともに静かに中空に佇んだら・・・。想像するだに気持ちの悪い話である。そして、どうやら異星からやってきた生命体とおぼしき存在が、我々の前にこんなものを突き出してみせたら・・・。
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ええっと、これならよく知っているぞ。江戸時代の禅僧、仙厓の手による自由で即興的な作品だ。このブログでも以前、映画「海賊とよばれた男」の記事で、その映画の主人公のモデルとなった出光佐三のコレクションから、これに近い作品をご紹介したことがある。いやいやまさか、エイリアンのメッセージが仙厓ですか? ・・・とまぁ、この記事をこのように書き出そうという案は、実は映画を見る前から既にあったのである。というのも、事前に何度も見ることになった予告編で、このようなシーンを目にしたからだ。
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まぁ、ただ円だという点が共通するだけなので、うーん、この書き出しはちょっとイマイチだったかなぁと思ったのだが、この映画のプログラムに掲載されている監督のコメントを見て驚いた。ここに出てくる宇宙船やエイリアンの文字のデザインのヒントは、実は書道の筆跡や禅のイメージにあったと語っているのである。発言を引用すると以下の通り。

QUOTE
禅の権威だったりしない僕がこんなことを偉そうに言うのは気が引けるんですが、正直な話、僕自身、日本的なものや禅のデザインにとても強い感覚があると感じていて、その強さを今回、エイリアンの存在感にも持たせたかった。で、デザインに採り入れました。
UNQUOTE

ここで私が解釈するのは以下の二つの点。ひとつは、この映画においてはシンプルかつ神秘的なものに日本的要素を活用しようとしていること。もうひとつは、この監督は絶対に謙虚で性格のよい人ということだ (笑)。本作でアカデミー監督賞にもノミネートされた彼の名は、ドゥニ・ヴィルヌーヴ。1967年カナダのケベック生まれである。道理でフランス風の名前である。
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私はこの監督の作品を見るのは初めてだが、この次に公開を控えている注目作の監督として、その名には見覚えがあった。その映画の名は「ブレードランナー 2049」。言わずとしれたあのリドリー・スコット初期の名作の続編である。それに続いては、なんと「デューン / 砂の惑星」の続編の監督にも抜擢されたという。こちらはもちろんデヴィッド・リンチ初期の、これは名作というよりも大失敗作と一般には言われているもの。いずれもカルト的な美意識で人気を誇る作品の続編を任されるとは、やはりそれだけその手腕にハリウッドが期待を寄せているということだろう。経歴を見てみると長編デビューは 1998年だから、既に 20年近いキャリアを持っているわけで、これまでその名を知らなかったこちらの方が不明を恥じるべきだろう。

予告編で明らかである通り、この作品の主人公は娘を亡くした女性言語学者、ルイーズ。世界の 12都市に同時に現れた (映画の原題は "Arrival"、つまりは「到着」だ)、巨大な石のような謎の飛行物体の中にいるエイリアンたちから発されるメッセージを読み解こうとする彼女が、自身について、また恐らくは世界の成り立ちについても、新たな発見をする物語。この作品は一貫して奇妙な静謐さに貫かれており、例えば空模様ひとつ取っても、きれいな青空の映像は皆無で、必ずどんよりと曇っているのである。それゆえ観客は、どうもすっきりと落ち着くことのない雰囲気の中で、ストーリー展開につきあわされることとなる。そして、実はここでのストーリーは、波乱万丈とか手に汗握るものにはなって行かない。「あれ? なんでだろう」という小さな疑問を持つことがあっても、充分な説明をそこで得ることはできず、「ま、いいか」と流して見て行くしかない。それを是とするか否とするかで、この映画に対する評価が変わってくるのではないだろうか。子を失った母の哀しみがずっと深いところを流れているとは言えるだろうが、ここで起こっているのは個人の悲劇ではなく、世界の危機である。しかも、どことは言わないがある大国などは、この飛行物体を排除するために核兵器攻撃まで検討するという、大変な事態まで起こってしまう。
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正直なところ、この映画を見た日の私は若干の寝不足で忍耐を欠いていたこともあり、世界の終わりをド派手に演出する映画にはいつも批判的なくせに、それとは正反対のここでの静謐な世界の危機の描き方を見て退屈し、しばし夢の世界に遊んでしまったことを認めよう。だが見ているうちに大体先が読めることも事実。終盤で明かされる秘密は、私としてはそれほど驚愕のものではなく、ただただ、エイリアンのメッセージが円環構造をなしていることから、それは最初から自明だったのではないかと思ってしまったのである。とはいえひとつ言えることは、この物語はいわば「バベルの塔」の逆を行くものであり、バラバラになった人類が再び結束を得るために、個人の哀しみを乗り越えた女性言語学者が貢献を果たす、という解釈もできるのではないだろうか。主役のルイーズを演じたエイミー・アダムスは、あまり好きなタイプの女優ではないが、かなりの熱演を披露していたとは思う。
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この人は最近では「マン・オブ・スティール」シリーズでスーパーマンの恋人ロイス・レーンを演じているほか、ティム・バートンの「ビッグ・アイズ」にも出ていた。それから、調べて分かったことには、スピルバーグの「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」でディ・カプリオの相手役だったそうだ。へぇー、15年で随分成長されました (笑)。
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共演しているフォレスト・ウィテカーやジェレミー・レナーの演技が安定しているのは、まぁ当然であろう。但し、前者は最近結構演技がおとなしめな印象もあるし、後者はよい役者であるとは思うものの、「ハート・ロッカー」でその顔を覚えて以降、どの映画でも難しい顔つきをしていて、あまり爽やかでないというその点だけが、いつも気になるのだが (笑)。
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そのように考えてみれば、ここでの登場人物たちは、世界の終わりが近いかもしれないのに、それほど感情を表に出さない人たちがほとんどだ。そのような人々の描き方も、この映画の妙な静謐さにつながっているのかもしれない。妙な静謐さと言えば、音響にもそれが感じられるシーンがある。例えば後半のパーティのシーンで流れている音楽は、よく聴くとドヴォルザークの弦楽セレナードの緩徐楽章であったのだが、注意して聴かないとそれと分からないような、奇妙な歪みを感じた。ただ弱音であっただけでなく、なんらかの効果が施されていたのだろうか。また見る機会があればちょっと注意したい。この懐かしさを伴うデジャヴ感覚は監督のセンスであるのかもしれない。そういえば、冒頭のシーンで使用されているミニマル・ミュージックはオリジナル音楽 (担当はアイスランド出身のヨハン・ヨハンソン) ではなく、マックス・リヒター作曲の既存曲であるらしい。その点でも映画の流れに合う選曲と言えるであろう。

最後にもうひとつ。ここでのエイリアンのペアは、アボットとコステロというあだ名をつけられるが、これは米国で 1940 - 50年代に活躍したコメディアンのコンビで、彼らの映画は日本では「凸凹 (でこぼこ) ○○」というタイトルで公開されたので、我々の世代にとってはテレビ放映などで、ある程度おなじみだろう。世界の終わりかもしれない状況でもこのようなふざけた命名をするという設定は、映画の静謐なトーンとは少し異なるが、設定上どうしても沸きあがってくる絶望感を回避するのに、役立っているように思う。米国人には、往々にしてそういう感覚があると言ってもよいかもしれない。
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そんなわけで、仙厓からアボットとコステロまで、様々な要素を含んだ作品。私のようにうたた寝せず、感覚を研ぎ澄まして見れば、いろいろなヒントが得られるはず。この地上では時間は一方向にしか進まず、空間も連続性があるが、この映画のように様々な要素がちりばめられていると、時空を超えた発想が生まれるのかもしれない。私としては、とりあえず次回の「ブレードランナー 2049」で、たゆたうのではなく、突き進むこの監督の演出が見たいものだと、勝手に期待しているのである。

by yokohama7474 | 2017-05-30 00:42 | 映画 | Comments(0)

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これは、私がどうしても名前を覚えられなくて、いつも、「えぇっと、あのインド人」と呼んでしまう映画監督、えぇっと、M・ナイト・シャマランの新作である。彼の前作「ヴィジット」もこのブログでご紹介したが、あの「シックス・センス」(1999年) によって一気にブレイクした才能で、その後もコンスタントに映画を撮り続けている才人である。あの「シックス・センス」の発想の面白さは実に大したもので、あれを見て「やられた!!」と思わないほど頭のよい人がいたら、会ってみたい。私など、劇場で思わず叫んでしまいそうになるほどであった (笑)。この「シックス・センス」の次に、同じブルース・ウィルスを主演に迎えてシャマランが撮ったのは、デイヴィッド・ダンという警備員が主役の「アンブレイカブル」(2000年)。これは前作ほどではないが、まずまずの出来であったと記憶する。だが、それから本作までの 8作で、彼は「シックス・センス」を超えただろうか。もちろん見る人それぞれの評価があるだろうが、残念ながら No と答える人が多いのではないだろうか。中には、「エアベンダー」のような、ちょっと迷ってしまっているかなぁという残念な作品もあった。だが今回の作品、プログラムに踊る言葉は、「シャマラン完全復活!! 想像を絶する究極の結末。観客の予想を裏切り続ける 1時間57分!」とある。さてさて、本当にインド人の復活なるか???
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この映画のストーリーは、予告編を見るだけで明らかである。女子高校生 3人を乗せて停まっていた車の運転席に、見知らぬ男が突然乗り込んでくる。「車を間違ってますよ」と注意する少女たちに何やらスプレーを浴びせかけ、男は 3人を誘拐、監禁する。そしてその男の中には 23の異なる人格が存在し、24番目の人格が迫り来る。果たして少女たちの運命やいかに!! というもの。主役 2人が、最初の「出会い」で作り出す視線の交錯は、こんな感じ。
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ここから始まる監禁と、そこから逃げようとする女の子たちの奮闘は、以前私が大絶賛した「ドント・ブリーズ」や、こちらはかなり厳しいことを書いた「グリーンルーム」と共通するものがある。最近の観客は、狭いところに閉じ込められて、そこから脱出するという設定にのめり込むということなのだろうか。だがここで私の独断を述べてしまうと、この映画の出来は「ドント・ブリーズ」には及ばないが、もしかすると「グリーンルーム」よりも上に位置するかもしれない。そしてここで結論を急ぐと、残念ながらこの映画の出来は「シックス・センス」にはやはり及ばない。ネタバレを避けながらこのことについて語るのは極めて困難なので、以下はちょっと回りくどい言説になってしまうが、この映画をご覧になった方には分かって頂けると思って、話を続けます。

上記の通り、少女たちを誘拐する男は多重人格者であり、既に予告編にもこのような少年と女性のキャラクターが登場する。
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多重人格者の映画と言えば、昔「レイジング・ケイン」という、ブライアン・デ・パルマの映画があった。主演のジョン・リスゴーが頑張っていたが、だがスクリーン上で見る多重人格の表現は、正直なところあまり恐怖を覚えさせなかったと記憶する。今回の「スプリット」の場合、多重人格者を演じる「X-メン」シリーズのプロフェッサー X (チャールズ・エグゼビア) 役でおなじみのジェームズ・マカヴォイは、23もの人格すべてを演じるのかと思いきや、そのうちの 9人分だけだ。いや、「だけ」というのは語弊があって、これは充分多い数であり、口調や動作の違いでそれらの人格を使い分けるマカヴォイの演技はさすがだと言えよう。だが。だがである。やはり、スクリーン上で見る多重人格者は、正直言って怖くない。それは、演じている役者が、スクリーン上の複数の人格を表現していることがつぶさに分かるからであり、もし現実にそんな人がいたら怖いだろうなぁとは、あまり思わないのである。それよりもむしろ、このような窓のない空間に閉じ込められるという、その単純な事実が怖い。
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彼女たちがここで経験するのは、得体の知れない「人々」 (?) による奇妙に友好的な待遇である。様々な逃亡を企てる彼女らがそれに失敗するたび、どんなひどいことが起こるのかと思いきや、即全身ズタズタとか、逃げようのない残酷な拷問にかけられるとか、そこまでひどい目には、とりあえずのところは、遭わないのである。その意味するところは何だろう。クライマックスに向けて何らかのメッセージが発信されるのであろうと思い、画面の隅々まで可能な限り注意を払ったが、最後のシーンに至っても、「シックス・センス」並にポンと膝を打つようなことにはならなかった。だから、この映画に対する私の大きな期待は満たされたとは、残念ながら言えないのである。いつものようにシャマラン自身がチョイ役で出演しているが、そういったシーンによっても、観客の恐怖は和らいでしまうのだ。

ただ、映画として優れた場面はいくつかあって、見ていて飽きるということがないとも言える。何より、主役のケイシーを演じるアニヤ・テイラー=ジョイのくるくる変わる表情がよい。内向的でつらい過去を持つ女の子という設定であるが、目と目が離れていて決して完璧な美形には見えない顔でありながら、このような涙の表情が、謎めいた雰囲気を醸し出していて、ただ単に怯えているだけの弱い女の子というイメージではないのである。今後期待できる女優さんだと思う。
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さて、この映画の舞台がどこであるかは、ただ映画を追っているだけでは判然としないが、いくつかのシーンから、明らかにフィラデルフィアである。シャマランは幼少期をこの街で過ごし、これまでの作品でもしばしばフィラデルフィアを舞台にしている。そのことがはっきりするのは、終盤に登場するタクシーに "Philly" と書いてあるからだ。大リーグのフィリーズでも分かる通り、Philly とはフィラデルフィアのことなのである。あ、それから、美術好きには、映画の中で登場人物が鑑賞するこの作品がヒントになる。
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これは言うまでもなく、ポール・セザンヌの代表作のひとつ「大水浴」。フィラデルフィア美術館の目玉のひとつでもある。私はこの美術館を二度訪れたことがあるが、素晴らしいコレクションを持っている。このセザンヌもさることながら、より貴重なのは、マルセル・デュシャンの遺作である。箱の中を覗き見する怪しい作品であり、この美術館に出かけて行くしか鑑賞する方法はないのだ。あ、それからもちろん、映画好きの人は、この美術館の外見に興奮を覚えるかもしれない。
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そう、「ロッキー」である。このシャマランの映画と直接関係はしないものの、この美術館の映像を見ると、やはり「ロッキー」を思い出さざるを得ないし、階段を駆け上って両方の拳を突き上げたくなるのである (笑)。一方、クラシックファンが期待するかもしれない、米国屈指の名門オケ、フィラデルフィア管弦楽団に関するネタは、残念ながら本作には登場しません。

ともあれ、予告編でシャマラン自身が「見たあとも絶対人に喋るな」と観客に呼び掛けていることであるから、ラストシーンについて語ることはできないが、うーん。どうでしょう。こればっかりは見てのお楽しみなので、たとえポンと膝を打つようなことにならないとしても、恨みっこなしだ (笑)。ひとつだけ、これから見る方にアドバイスすると、本編が終了してエンドタイトルが流れても、席を立ってはいけない。エンドタイトル終了後に日本語で、あるメッセージが流れるので、それを見た上で、この映画を評価するべきだろう。そのメッセージの意味するところは、またシャマランの次回作まで待たないと理解できないかもしれないが。

そんなわけで、人格がスプリットしないよう、理性を持って見れば、あなたは決してこの映画によって壊されることはないだろう。多重人格、何するものぞ!!
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by yokohama7474 | 2017-05-24 01:09 | 映画 | Comments(0)

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ここしばらく映画を見る機会を逃していた。もちろん、出張の際に飛行機の中で見た映画はある。それらは大抵、劇場で見逃したものか、あるいは劇場で見ることは最初から想定しないタイプの映画であって、面白いもの面白くないもの、様々だが、このブログで採り上げる対象とはしない。というのもここでは、映画に関しては、劇場というしかるべき空間での経験のみを語ることとしたいからだ。とまあそんなわけで、しばらくぶりに劇場で見て、そしてここで採り上げる映画は、あのウディ・アレンの新作である。

私のウディ・アレンに関する思い入れは以前にも書いたのだが、1980年代、90年代の頃にはどうにも共感できず、あえて距離を取っていた。だが時は流れ、このところの私は彼の作品にほれ込んでいて、見る映画見る映画、ふぅーんっと唸ってしまうのである。今彼のフィルモグラフィを眺めて数えたところ、2008年の「それでも恋するバルセロナ」以降の監督作品 (劇映画のみ) 9本のうち、見ていないのは 1本だけだ。彼は今年 82歳になる高齢だが、そのキャリアで一貫して監督作では必ず脚本を書き、オープニングタイトルは極めてシンプル。CG も使用しないから、エンドタイトルも今時珍しい、短いものだ。彼の制作態度は何十年も変わっておらず、ただこちらが年を取ってものの見方が変わってきた (願わくば大人になった???) ということなのだろう。これは本作で主要な役 (ヴォニー) を演じるクリステン・スチュワートと並ぶウディ・アレン。肩など組んで、おいおい、近い近い!! (笑)
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そんなわけで、久しぶりに見る映画として迷いなくこれを選んだのだが、オープニングタイトルでいきなり、普段のウディ・アレン映画では経験しない、のけぞるほどの驚きを覚えることとなった。それは、撮影監督の名前である。Vittorio Storaro・・・えっ、もしかして、ヴィットリオ・ストラーロ??? そう、あのベルナルド・ベルトルッチの盟友であり、この稀代の名監督の代表作の数々を、まさに奇跡の映像で彩った、あの天才撮影監督である。もちろんそれ以外にも、「地獄の黙示録」も有名だし、BBC がワーグナー生誕 150年を記念し、ロバート・バートン主演で制作した伝記作品でも、テレビながら実に彼らしい映像美を創り出していた。調べてみると彼は 1940年生まれで、今年 77歳。ウディ・アレン作品の撮影監督は初めてである。
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そして、始まった映画の冒頭シーンを見て、私は再びのけぞったのである。1930年代ハリウッド。映画関係者たちが集う華やかなパーティで、プールサイドを滑らかに動くカメラが映し出す、夕焼けのあとの空の薄い青、プールの水の青、それを反射する白い建物の青。それぞれ微妙な差を持つ青たちが、ひとつの画面の中で実に絶妙にバランスされてゆらめいており、言葉を失うほどだ。実際、この 96分という比較的短い映画の中に収まった映像美は、平凡な映画の百本分くらいではないか。正直なところ、映像に見とれてストーリーを追うのを忘れるシーンもいくつかあった。ここでのストラーロの行動範囲は、屋内ではオフィスや高級レストランやカジュアルなバーやパーティ会場や一般人の自宅や、それこそカフェまで。屋外では冒頭のような屋敷のプールサイドから、海岸の波打ち際から、豪邸のテラスから、ならず者が死体をセメント詰めにする建築現場まで。実に様々なシーンをフレームに収め、ある場合には西日が疑念に満ちた人の顔を赤く照らすかと思うと、またある場合には家族の会食の場面で家長たる父親の顔が陰になる。また、美しいシルエットもあれば、叔父を待つ主人公の服装と彼が背にする廊下の貼り紙が同系色のブラウンであったり、それはそれは、随所で遊びと真剣勝負がないまぜになっているのである。私は今ここで、記憶によってそれぞれのシーンを再現してみようとしているが、それには限界がある。少なくとももう一回、いやできれば三回はこの映画を見てみないと、この映像の真価を語りつくすことができないという無力感にとらわれているのである。昨今このような映画は極めて少ない。その点だけでも、この映画を見に行く価値は充分にあるのである。

もちろん、いつものようにウディ・アレン自身による脚本であるから、そのセリフの洗練されたこと。英語の論理性と、実はそこに時折出て来る詩的な感覚を感じることができて、いつもながら見事である。そうそう、「片思い」のことを "Unrequired Love" というのですな。勉強になります。実際この映画の言語を日本語に置き換えてみると、どうなるだろう。恐らく映画として成り立たないだろうと思う。人間の弱さを示す見栄や取り繕い、疑念や憤りや利己的な思い、情熱の先走り、そしてその反動の自己嫌悪・・・。そのような感情がストレートに伝わってくるのは、言語的なセンスも大いに関係していよう。そして、アレンの映画の常であるように、ここには本当の悪人という人はひとりも出てこない。それゆえに人生とは滑稽で哀れで、そして生きるに値するものなのだ。・・・おっといけない。若い頃の私は、このようなアレンの映画の批評を耳にして、どうにも敬遠したくなり、結果的にウディ・アレン映画という宝の山を、食わず嫌いしていたのであった。だから私も、そのような思いをあまり大々的にここで書いてしまうと、きっと若い人たちのためにならない。これ以上この種の賛美を連ねるのはやめておこう。もう遅いか (笑)。

この映画に出演している役者たちのほとんどが、私にとっては馴染みにない人たちである。ただ、主役ボビーを演じるジェシー・アイゼンバーグは、「グランド・イリュージョン」の 2作に出ていたのは覚えているし、調べてみると、「バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生」におけるレックス・ルーサーの役でもあった (因みにこの映画、私があれだけ散々悪口を書いたにも関わらず、続編が公開されることになるようだ)。ここでは、ナイーヴな青年がセレブたちの集う「カフェ・ソサエティ」で成り上がって行きながら、純粋な部分も残しているという設定を、大変上手に演じている。彼の放つ言葉がそのまま、英語の散文詩だと言ったらほめ過ぎだろうか。
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因みにこの映画、日本では以下のようなポスターもある。
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これを見ると、ボビーという男が、ふたりのヴェロニカという女性と巡り会い、恋に落ちる話であることは明確だが、さて、この派手な色遣いはどうだろう。正直、あのヴィットリオ・ストラーロの魔術的なカメラワークを堪能するには、ちょっとイメージが違わないか。この映画のストーリー自体は、最近ヒットした「ラ・ラ・ランド」に近いものがあって、まあその男女の切ないロマンス性を否定するつもりはないが、それよりもこの映画においては、人間を見る目にこそ大きな価値があると私は思っており、このように派手な作りのポスターで「ロマンスですよー」と宣言することは、作品の大人の魅力を伝えるためには、むしろ逆効果ではないか。それゆえ、私は冒頭に掲げた黒くてシンプルでシックなオリジナル・ポスターの方が、より作品の本質に近いと思うのである。

実は、ウディ・アレンとヴィットリオ・ストラーロにとっては、この映画が、ともにデジタルカメラで撮影した初の作品になったとのこと。ストラーロは長年デジタルでの撮影実験を重ねてきて、ようやくこの技術が満足できるレヴェルに達したと判断したのだという。そして、アレンの次回作 "Wonder Wheel" (ケイト・ウィンスレット主演) でもカメラを担当しているらしい。ともに 80歳前後に至った大芸術家同士、しかも全く違った持ち味の人たちが、ここへ来て意気投合しているというのが素晴らしい。是非是非、これから先も、共同で歴史に残る偉大な作品を作り続けて欲しい。あ、等身大で。
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by yokohama7474 | 2017-05-22 22:04 | 映画 | Comments(0)

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私はいわゆるアニメ物は、漫画であれ映画であれ、あまり知識がなく、むしろその分野には無知であると自覚しているのであるが、そんな私でも、ひとつのアニメ映画に大いに衝撃を受けたことがある。それは押井守による「イノセント」という映画であったのだが、その衝撃は 13年経った今も、思い出すだけで即座に甦ってくるほど強烈なものであったし、そのことは既に昨年 6月16日の記事で、押井の近作である「ガルムウォーズ」を採り上げた際に記した。その「イノセント」は、実は押井自身の以前の作品の続編であるのだが、その作品の名は「Ghost in the Shell / 攻殻機動隊」。1995年の作であり、また、2008年に一部をリニューアルした「2.0」と称するヴァージョンもあるらしいが、実は私は今に至るも、その作品を見ていない。それは、士郎正宗の漫画を原作とするこの映画を見ることで、私が「イノセント」で感じた衝撃が変質してしまうのではないかと思ったこともひとつの理由なのである。そして今回ハリウッドで制作されたこの映画は、その「Ghost in the Shell / 攻殻機動隊」のリメイクなのであるが、これを必ず見たいと考えたのは、日本のアニメに発想の源泉を持ちながらも、何か違った視点で描いている部分がきっとあるだろうと思ったからにほかならない。そして確かにこれは、士郎 / 押井へのオマージュを随所に感じさせながらも、ひとつの作品として完結している点、私としては高く評価したいと思うのである。

随分何度も予告編を見ることになったが、まず、昔の「ブレードランナー」をさらにキッチュにしたような街の映像が目を捉える。
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現実世界でこの映像に最も近いのは、やはり香港であろう。いや実際、よくよく目を凝らすと、実在の香港のビルが見えてくる。私がニューヨークやヴェネツィアとともに愛する、世界に二つとない街。まあ最近は中国化が著しく進んでいるとはいえ (笑)、未だにその個性を保っている。
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この街の映像が、独特のノスタルジーと未来性をともに纏いつつ、見る人の脳髄に働きかける。そして私は見逃さなかったのだが、押井守の映画「イノセント」のロゴが画面の隅に出てくるのである。これに気付いたら賞金という制度にしてくれないものか (笑)。このような複雑に入り組んだ映像に満ちた映画であるが、そのメッセージは単純かつストレート。それは題名に既に表れているのだが、この "Ghost in the Shell" のゴーストは、人間の魂のこと。シェルはもちろん日本語では甲殻なのだが、これはロボットの表面を包む堅い金属のこと。つまり「ゴースト・イン・ザ・シェル」とは、機械の体の中に宿る人間性という意味なのである。その、人間の魂を持ったロボットがこの映画の主役。公安 9課所属で、少佐と呼ばれる優れた警察官、ミラこと草薙素子である。演じるのはあのハリウッドのトップ女優、スカーレット・ヨハンソン。
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昨今の彼女の活躍ぶりには実に目を見張るものがあるが、この映画で彼女はまた、新たな金字塔を打ち立てたと思う。心は人間、体は機械というこの難しい役柄をこのように実在感をもって演じられる女優がほかにいるだろうか。つまり、あまり冷たくてもいけないし、感情が出すぎてもいけない。彼女の瞳は多くの場面でうるうると濡れているのであるが、だがしかし、涙を流すことはない。なぜなら彼女は機械なのだから。
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そして、予告編からやけに目立った彼女の「裸スーツ」(?)。でも映画を見れば、これには必然性があることが分かる。つまり彼女は、自らの体を透明にすることができるのであって、そうである以上は、服など着ていてはいけないのである。これは実は大変よくできた設定で、昔ながらの透明人間 (例えば、ティム・バートンの最新作「ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち」に出てくる子供の透明人間など) は、生身の体であるので、透明になるにはスッポンポンになる必要があり、その分風邪を引きやすかったところ (笑)、体が機械ならその心配はない。思う存分スッポンポンになれるというものだ。
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実はスカーレット・ヨハンソンは、この映画のオファーを受けるまで、「甲殻機動隊」のことを知らなかったという。1984年ニューヨーク生まれの彼女ならやむをえまい。だが彼女は明らかにこの役を楽しんで演じている。その彼女がここで共演している日本人俳優が 2人。
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ひとりはもちろん、ビートたけし。世界で尊敬される映画監督でありながら、昔ながらのへたくそな演技で、しかも日本語で、無骨かつ俊敏な、公安 9課を率いる荒巻を演じているのが心地よい。この映画では、個体間のコミュニケーションを無線で取ることができるという設定なので、別に言語などはどうでもよいのである。なかなかの存在感である。そしてもうひとりは、なぜかこの映画のプログラムに名前が載っていないが、この大女優だ。
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桃井かおりである。既に 66歳になったが、ここでの演技の無重力感は以前から変わらぬ大したもの。もちろん彼女は英語でセリフを喋っている。

いやそれにしても、この映画の映像は素晴らしいもの。多分もう一度見ても見飽きないものだと思う。そんな中、「イノセント」とも通じるこのようなロボットも登場し、恐ろしいやら艶やかやら。この顔がパカッと開いたり、後ろ足 (?) がニョキニョキ出るあたりでは、人間の形態が変容する様を感じることができて、なんとも凄まじい。
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この、人とロボットの混合感覚は、ほかのシーンにも横溢している。この映画がもともとのアニメ映画「Ghost in the Shell / 甲殻機動隊」とどう違うのか知らないが、アニメ映画のこのようなシーンは、目隠しこそないものの、今回も登場する。ここには人間の身体性の危うさが出ているように思うのだ。
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この作品における音楽担当は、クリント・マンセルとなっているが、だがしかし、あの「イノセント」と共通する日本の民謡のような音楽に心震える。エンドタイトルで確認したところ、やはり「イノセント」の音楽を担当した川井憲次の名があった。うーん、これは痺れる。今年 60歳のこのような方だ。
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このような、映像美に溢れ、原作やその先行映画化作品に対する敬意を感じさせるすごい映画を監督したのは、1971年英国生まれのルパート・サンダース。CM 監督として名を上げたあと、2012年の「スノーホワイト」で劇場映画デビュー。本作が 2作目になるようだ。この豊かなビジュアルで、今後の映像世界を切り拓いて行ってくれることを期待したい。
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このように、私にとっては様々な刺激に満ちた映画であったのだが、最後に、"Ghost in the Shell" という言葉がどこから来ているかを記そう。これは、アーサー・ケストラー (1905 - 1983) による「機械の中の幽霊」という評論から採られているのである。ケストラーはユダヤ人で、反日主義者であったらしいが、そんな人の書いた書物が、日本発のエンターテインメントになっているのが面白い。この本はかつてちくま学芸文庫で出版されていたようだが、現在では絶版であるらしく、アマゾンで調べると、古本が 7,500円以上、場合によっては実に 20,000円の値がついている。これはなかなかにてごわい。
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改めてこの映画のイメージの豊かさを思い出すと、眩暈がするようだが、ここには人間社会のなんらかの真実がある。それゆえ、ゲイシャロボットもこんな風に顔を開いて驚くのである!!
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by yokohama7474 | 2017-05-03 23:28 | 映画 | Comments(0)