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これは、私がどうしても名前を覚えられなくて、いつも、「えぇっと、あのインド人」と呼んでしまう映画監督、えぇっと、M・ナイト・シャマランの新作である。彼の前作「ヴィジット」もこのブログでご紹介したが、あの「シックス・センス」(1999年) によって一気にブレイクした才能で、その後もコンスタントに映画を撮り続けている才人である。あの「シックス・センス」の発想の面白さは実に大したもので、あれを見て「やられた!!」と思わないほど頭のよい人がいたら、会ってみたい。私など、劇場で思わず叫んでしまいそうになるほどであった (笑)。この「シックス・センス」の次に、同じブルース・ウィルスを主演に迎えてシャマランが撮ったのは、デイヴィッド・ダンという警備員が主役の「アンブレイカブル」(2000年)。これは前作ほどではないが、まずまずの出来であったと記憶する。だが、それから本作までの 8作で、彼は「シックス・センス」を超えただろうか。もちろん見る人それぞれの評価があるだろうが、残念ながら No と答える人が多いのではないだろうか。中には、「エアベンダー」のような、ちょっと迷ってしまっているかなぁという残念な作品もあった。だが今回の作品、プログラムに踊る言葉は、「シャマラン完全復活!! 想像を絶する究極の結末。観客の予想を裏切り続ける 1時間57分!」とある。さてさて、本当にインド人の復活なるか???
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この映画のストーリーは、予告編を見るだけで明らかである。女子高校生 3人を乗せて停まっていた車の運転席に、見知らぬ男が突然乗り込んでくる。「車を間違ってますよ」と注意する少女たちに何やらスプレーを浴びせかけ、男は 3人を誘拐、監禁する。そしてその男の中には 23の異なる人格が存在し、24番目の人格が迫り来る。果たして少女たちの運命やいかに!! というもの。主役 2人が、最初の「出会い」で作り出す視線の交錯は、こんな感じ。
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ここから始まる監禁と、そこから逃げようとする女の子たちの奮闘は、以前私が大絶賛した「ドント・ブリーズ」や、こちらはかなり厳しいことを書いた「グリーンルーム」と共通するものがある。最近の観客は、狭いところに閉じ込められて、そこから脱出するという設定にのめり込むということなのだろうか。だがここで私の独断を述べてしまうと、この映画の出来は「ドント・ブリーズ」には及ばないが、もしかすると「グリーンルーム」よりも上に位置するかもしれない。そしてここで結論を急ぐと、残念ながらこの映画の出来は「シックス・センス」にはやはり及ばない。ネタバレを避けながらこのことについて語るのは極めて困難なので、以下はちょっと回りくどい言説になってしまうが、この映画をご覧になった方には分かって頂けると思って、話を続けます。

上記の通り、少女たちを誘拐する男は多重人格者であり、既に予告編にもこのような少年と女性のキャラクターが登場する。
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多重人格者の映画と言えば、昔「レイジング・ケイン」という、ブライアン・デ・パルマの映画があった。主演のジョン・リスゴーが頑張っていたが、だがスクリーン上で見る多重人格の表現は、正直なところあまり恐怖を覚えさせなかったと記憶する。今回の「スプリット」の場合、多重人格者を演じる「X-メン」シリーズのプロフェッサー X (チャールズ・エグゼビア) 役でおなじみのジェームズ・マカヴォイは、23もの人格すべてを演じるのかと思いきや、そのうちの 9人分だけだ。いや、「だけ」というのは語弊があって、これは充分多い数であり、口調や動作の違いでそれらの人格を使い分けるマカヴォイの演技はさすがだと言えよう。だが。だがである。やはり、スクリーン上で見る多重人格者は、正直言って怖くない。それは、演じている役者が、スクリーン上の複数の人格を表現していることがつぶさに分かるからであり、もし現実にそんな人がいたら怖いだろうなぁとは、あまり思わないのである。それよりもむしろ、このような窓のない空間に閉じ込められるという、その単純な事実が怖い。
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彼女たちがここで経験するのは、得体の知れない「人々」 (?) による奇妙に友好的な待遇である。様々な逃亡を企てる彼女らがそれに失敗するたび、どんなひどいことが起こるのかと思いきや、即全身ズタズタとか、逃げようのない残酷な拷問にかけられるとか、そこまでひどい目には、とりあえずのところは、遭わないのである。その意味するところは何だろう。クライマックスに向けて何らかのメッセージが発信されるのであろうと思い、画面の隅々まで可能な限り注意を払ったが、最後のシーンに至っても、「シックス・センス」並にポンと膝を打つようなことにはならなかった。だから、この映画に対する私の大きな期待は満たされたとは、残念ながら言えないのである。いつものようにシャマラン自身がチョイ役で出演しているが、そういったシーンによっても、観客の恐怖は和らいでしまうのだ。

ただ、映画として優れた場面はいくつかあって、見ていて飽きるということがないとも言える。何より、主役のケイシーを演じるアニヤ・テイラー=ジョイのくるくる変わる表情がよい。内向的でつらい過去を持つ女の子という設定であるが、目と目が離れていて決して完璧な美形には見えない顔でありながら、このような涙の表情が、謎めいた雰囲気を醸し出していて、ただ単に怯えているだけの弱い女の子というイメージではないのである。今後期待できる女優さんだと思う。
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さて、この映画の舞台がどこであるかは、ただ映画を追っているだけでは判然としないが、いくつかのシーンから、明らかにフィラデルフィアである。シャマランは幼少期をこの街で過ごし、これまでの作品でもしばしばフィラデルフィアを舞台にしている。そのことがはっきりするのは、終盤に登場するタクシーに "Philly" と書いてあるからだ。大リーグのフィリーズでも分かる通り、Philly とはフィラデルフィアのことなのである。あ、それから、美術好きには、映画の中で登場人物が鑑賞するこの作品がヒントになる。
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これは言うまでもなく、ポール・セザンヌの代表作のひとつ「大水浴」。フィラデルフィア美術館の目玉のひとつでもある。私はこの美術館を二度訪れたことがあるが、素晴らしいコレクションを持っている。このセザンヌもさることながら、より貴重なのは、マルセル・デュシャンの遺作である。箱の中を覗き見する怪しい作品であり、この美術館に出かけて行くしか鑑賞する方法はないのだ。あ、それからもちろん、映画好きの人は、この美術館の外見に興奮を覚えるかもしれない。
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そう、「ロッキー」である。このシャマランの映画と直接関係はしないものの、この美術館の映像を見ると、やはり「ロッキー」を思い出さざるを得ないし、階段を駆け上って両方の拳を突き上げたくなるのである (笑)。一方、クラシックファンが期待するかもしれない、米国屈指の名門オケ、フィラデルフィア管弦楽団に関するネタは、残念ながら本作には登場しません。

ともあれ、予告編でシャマラン自身が「見たあとも絶対人に喋るな」と観客に呼び掛けていることであるから、ラストシーンについて語ることはできないが、うーん。どうでしょう。こればっかりは見てのお楽しみなので、たとえポンと膝を打つようなことにならないとしても、恨みっこなしだ (笑)。ひとつだけ、これから見る方にアドバイスすると、本編が終了してエンドタイトルが流れても、席を立ってはいけない。エンドタイトル終了後に日本語で、あるメッセージが流れるので、それを見た上で、この映画を評価するべきだろう。そのメッセージの意味するところは、またシャマランの次回作まで待たないと理解できないかもしれないが。

そんなわけで、人格がスプリットしないよう、理性を持って見れば、あなたは決してこの映画によって壊されることはないだろう。多重人格、何するものぞ!!
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by yokohama7474 | 2017-05-24 01:09 | 映画 | Comments(0)

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ここしばらく映画を見る機会を逃していた。もちろん、出張の際に飛行機の中で見た映画はある。それらは大抵、劇場で見逃したものか、あるいは劇場で見ることは最初から想定しないタイプの映画であって、面白いもの面白くないもの、様々だが、このブログで採り上げる対象とはしない。というのもここでは、映画に関しては、劇場というしかるべき空間での経験のみを語ることとしたいからだ。とまあそんなわけで、しばらくぶりに劇場で見て、そしてここで採り上げる映画は、あのウディ・アレンの新作である。

私のウディ・アレンに関する思い入れは以前にも書いたのだが、1980年代、90年代の頃にはどうにも共感できず、あえて距離を取っていた。だが時は流れ、このところの私は彼の作品にほれ込んでいて、見る映画見る映画、ふぅーんっと唸ってしまうのである。今彼のフィルモグラフィを眺めて数えたところ、2008年の「それでも恋するバルセロナ」以降の監督作品 (劇映画のみ) 9本のうち、見ていないのは 1本だけだ。彼は今年 82歳になる高齢だが、そのキャリアで一貫して監督作では必ず脚本を書き、オープニングタイトルは極めてシンプル。CG も使用しないから、エンドタイトルも今時珍しい、短いものだ。彼の制作態度は何十年も変わっておらず、ただこちらが年を取ってものの見方が変わってきた (願わくば大人になった???) ということなのだろう。これは本作で主要な役 (ヴォニー) を演じるクリステン・スチュワートと並ぶウディ・アレン。肩など組んで、おいおい、近い近い!! (笑)
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そんなわけで、久しぶりに見る映画として迷いなくこれを選んだのだが、オープニングタイトルでいきなり、普段のウディ・アレン映画では経験しない、のけぞるほどの驚きを覚えることとなった。それは、撮影監督の名前である。Vittorio Storaro・・・えっ、もしかして、ヴィットリオ・ストラーロ??? そう、あのベルナルド・ベルトルッチの盟友であり、この稀代の名監督の代表作の数々を、まさに奇跡の映像で彩った、あの天才撮影監督である。もちろんそれ以外にも、「地獄の黙示録」も有名だし、BBC がワーグナー生誕 150年を記念し、ロバート・バートン主演で制作した伝記作品でも、テレビながら実に彼らしい映像美を創り出していた。調べてみると彼は 1940年生まれで、今年 77歳。ウディ・アレン作品の撮影監督は初めてである。
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そして、始まった映画の冒頭シーンを見て、私は再びのけぞったのである。1930年代ハリウッド。映画関係者たちが集う華やかなパーティで、プールサイドを滑らかに動くカメラが映し出す、夕焼けのあとの空の薄い青、プールの水の青、それを反射する白い建物の青。それぞれ微妙な差を持つ青たちが、ひとつの画面の中で実に絶妙にバランスされてゆらめいており、言葉を失うほどだ。実際、この 96分という比較的短い映画の中に収まった映像美は、平凡な映画の百本分くらいではないか。正直なところ、映像に見とれてストーリーを追うのを忘れるシーンもいくつかあった。ここでのストラーロの行動範囲は、屋内ではオフィスや高級レストランやカジュアルなバーやパーティ会場や一般人の自宅や、それこそカフェまで。屋外では冒頭のような屋敷のプールサイドから、海岸の波打ち際から、豪邸のテラスから、ならず者が死体をセメント詰めにする建築現場まで。実に様々なシーンをフレームに収め、ある場合には西日が疑念に満ちた人の顔を赤く照らすかと思うと、またある場合には家族の会食の場面で家長たる父親の顔が陰になる。また、美しいシルエットもあれば、叔父を待つ主人公の服装と彼が背にする廊下の貼り紙が同系色のブラウンであったり、それはそれは、随所で遊びと真剣勝負がないまぜになっているのである。私は今ここで、記憶によってそれぞれのシーンを再現してみようとしているが、それには限界がある。少なくとももう一回、いやできれば三回はこの映画を見てみないと、この映像の真価を語りつくすことができないという無力感にとらわれているのである。昨今このような映画は極めて少ない。その点だけでも、この映画を見に行く価値は充分にあるのである。

もちろん、いつものようにウディ・アレン自身による脚本であるから、そのセリフの洗練されたこと。英語の論理性と、実はそこに時折出て来る詩的な感覚を感じることができて、いつもながら見事である。そうそう、「片思い」のことを "Unrequired Love" というのですな。勉強になります。実際この映画の言語を日本語に置き換えてみると、どうなるだろう。恐らく映画として成り立たないだろうと思う。人間の弱さを示す見栄や取り繕い、疑念や憤りや利己的な思い、情熱の先走り、そしてその反動の自己嫌悪・・・。そのような感情がストレートに伝わってくるのは、言語的なセンスも大いに関係していよう。そして、アレンの映画の常であるように、ここには本当の悪人という人はひとりも出てこない。それゆえに人生とは滑稽で哀れで、そして生きるに値するものなのだ。・・・おっといけない。若い頃の私は、このようなアレンの映画の批評を耳にして、どうにも敬遠したくなり、結果的にウディ・アレン映画という宝の山を、食わず嫌いしていたのであった。だから私も、そのような思いをあまり大々的にここで書いてしまうと、きっと若い人たちのためにならない。これ以上この種の賛美を連ねるのはやめておこう。もう遅いか (笑)。

この映画に出演している役者たちのほとんどが、私にとっては馴染みにない人たちである。ただ、主役ボビーを演じるジェシー・アイゼンバーグは、「グランド・イリュージョン」の 2作に出ていたのは覚えているし、調べてみると、「バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生」におけるレックス・ルーサーの役でもあった (因みにこの映画、私があれだけ散々悪口を書いたにも関わらず、続編が公開されることになるようだ)。ここでは、ナイーヴな青年がセレブたちの集う「カフェ・ソサエティ」で成り上がって行きながら、純粋な部分も残しているという設定を、大変上手に演じている。彼の放つ言葉がそのまま、英語の散文詩だと言ったらほめ過ぎだろうか。
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因みにこの映画、日本では以下のようなポスターもある。
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これを見ると、ボビーという男が、ふたりのヴェロニカという女性と巡り会い、恋に落ちる話であることは明確だが、さて、この派手な色遣いはどうだろう。正直、あのヴィットリオ・ストラーロの魔術的なカメラワークを堪能するには、ちょっとイメージが違わないか。この映画のストーリー自体は、最近ヒットした「ラ・ラ・ランド」に近いものがあって、まあその男女の切ないロマンス性を否定するつもりはないが、それよりもこの映画においては、人間を見る目にこそ大きな価値があると私は思っており、このように派手な作りのポスターで「ロマンスですよー」と宣言することは、作品の大人の魅力を伝えるためには、むしろ逆効果ではないか。それゆえ、私は冒頭に掲げた黒くてシンプルでシックなオリジナル・ポスターの方が、より作品の本質に近いと思うのである。

実は、ウディ・アレンとヴィットリオ・ストラーロにとっては、この映画が、ともにデジタルカメラで撮影した初の作品になったとのこと。ストラーロは長年デジタルでの撮影実験を重ねてきて、ようやくこの技術が満足できるレヴェルに達したと判断したのだという。そして、アレンの次回作 "Wonder Wheel" (ケイト・ウィンスレット主演) でもカメラを担当しているらしい。ともに 80歳前後に至った大芸術家同士、しかも全く違った持ち味の人たちが、ここへ来て意気投合しているというのが素晴らしい。是非是非、これから先も、共同で歴史に残る偉大な作品を作り続けて欲しい。あ、等身大で。
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by yokohama7474 | 2017-05-22 22:04 | 映画 | Comments(0)

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私はいわゆるアニメ物は、漫画であれ映画であれ、あまり知識がなく、むしろその分野には無知であると自覚しているのであるが、そんな私でも、ひとつのアニメ映画に大いに衝撃を受けたことがある。それは押井守による「イノセント」という映画であったのだが、その衝撃は 13年経った今も、思い出すだけで即座に甦ってくるほど強烈なものであったし、そのことは既に昨年 6月16日の記事で、押井の近作である「ガルムウォーズ」を採り上げた際に記した。その「イノセント」は、実は押井自身の以前の作品の続編であるのだが、その作品の名は「Ghost in the Shell / 攻殻機動隊」。1995年の作であり、また、2008年に一部をリニューアルした「2.0」と称するヴァージョンもあるらしいが、実は私は今に至るも、その作品を見ていない。それは、士郎正宗の漫画を原作とするこの映画を見ることで、私が「イノセント」で感じた衝撃が変質してしまうのではないかと思ったこともひとつの理由なのである。そして今回ハリウッドで制作されたこの映画は、その「Ghost in the Shell / 攻殻機動隊」のリメイクなのであるが、これを必ず見たいと考えたのは、日本のアニメに発想の源泉を持ちながらも、何か違った視点で描いている部分がきっとあるだろうと思ったからにほかならない。そして確かにこれは、士郎 / 押井へのオマージュを随所に感じさせながらも、ひとつの作品として完結している点、私としては高く評価したいと思うのである。

随分何度も予告編を見ることになったが、まず、昔の「ブレードランナー」をさらにキッチュにしたような街の映像が目を捉える。
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現実世界でこの映像に最も近いのは、やはり香港であろう。いや実際、よくよく目を凝らすと、実在の香港のビルが見えてくる。私がニューヨークやヴェネツィアとともに愛する、世界に二つとない街。まあ最近は中国化が著しく進んでいるとはいえ (笑)、未だにその個性を保っている。
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この街の映像が、独特のノスタルジーと未来性をともに纏いつつ、見る人の脳髄に働きかける。そして私は見逃さなかったのだが、押井守の映画「イノセント」のロゴが画面の隅に出てくるのである。これに気付いたら賞金という制度にしてくれないものか (笑)。このような複雑に入り組んだ映像に満ちた映画であるが、そのメッセージは単純かつストレート。それは題名に既に表れているのだが、この "Ghost in the Shell" のゴーストは、人間の魂のこと。シェルはもちろん日本語では甲殻なのだが、これはロボットの表面を包む堅い金属のこと。つまり「ゴースト・イン・ザ・シェル」とは、機械の体の中に宿る人間性という意味なのである。その、人間の魂を持ったロボットがこの映画の主役。公安 9課所属で、少佐と呼ばれる優れた警察官、ミラこと草薙素子である。演じるのはあのハリウッドのトップ女優、スカーレット・ヨハンソン。
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昨今の彼女の活躍ぶりには実に目を見張るものがあるが、この映画で彼女はまた、新たな金字塔を打ち立てたと思う。心は人間、体は機械というこの難しい役柄をこのように実在感をもって演じられる女優がほかにいるだろうか。つまり、あまり冷たくてもいけないし、感情が出すぎてもいけない。彼女の瞳は多くの場面でうるうると濡れているのであるが、だがしかし、涙を流すことはない。なぜなら彼女は機械なのだから。
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そして、予告編からやけに目立った彼女の「裸スーツ」(?)。でも映画を見れば、これには必然性があることが分かる。つまり彼女は、自らの体を透明にすることができるのであって、そうである以上は、服など着ていてはいけないのである。これは実は大変よくできた設定で、昔ながらの透明人間 (例えば、ティム・バートンの最新作「ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち」に出てくる子供の透明人間など) は、生身の体であるので、透明になるにはスッポンポンになる必要があり、その分風邪を引きやすかったところ (笑)、体が機械ならその心配はない。思う存分スッポンポンになれるというものだ。
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実はスカーレット・ヨハンソンは、この映画のオファーを受けるまで、「甲殻機動隊」のことを知らなかったという。1984年ニューヨーク生まれの彼女ならやむをえまい。だが彼女は明らかにこの役を楽しんで演じている。その彼女がここで共演している日本人俳優が 2人。
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ひとりはもちろん、ビートたけし。世界で尊敬される映画監督でありながら、昔ながらのへたくそな演技で、しかも日本語で、無骨かつ俊敏な、公安 9課を率いる荒巻を演じているのが心地よい。この映画では、個体間のコミュニケーションを無線で取ることができるという設定なので、別に言語などはどうでもよいのである。なかなかの存在感である。そしてもうひとりは、なぜかこの映画のプログラムに名前が載っていないが、この大女優だ。
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桃井かおりである。既に 66歳になったが、ここでの演技の無重力感は以前から変わらぬ大したもの。もちろん彼女は英語でセリフを喋っている。

いやそれにしても、この映画の映像は素晴らしいもの。多分もう一度見ても見飽きないものだと思う。そんな中、「イノセント」とも通じるこのようなロボットも登場し、恐ろしいやら艶やかやら。この顔がパカッと開いたり、後ろ足 (?) がニョキニョキ出るあたりでは、人間の形態が変容する様を感じることができて、なんとも凄まじい。
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この、人とロボットの混合感覚は、ほかのシーンにも横溢している。この映画がもともとのアニメ映画「Ghost in the Shell / 甲殻機動隊」とどう違うのか知らないが、アニメ映画のこのようなシーンは、目隠しこそないものの、今回も登場する。ここには人間の身体性の危うさが出ているように思うのだ。
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この作品における音楽担当は、クリント・マンセルとなっているが、だがしかし、あの「イノセント」と共通する日本の民謡のような音楽に心震える。エンドタイトルで確認したところ、やはり「イノセント」の音楽を担当した川井憲次の名があった。うーん、これは痺れる。今年 60歳のこのような方だ。
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このような、映像美に溢れ、原作やその先行映画化作品に対する敬意を感じさせるすごい映画を監督したのは、1971年英国生まれのルパート・サンダース。CM 監督として名を上げたあと、2012年の「スノーホワイト」で劇場映画デビュー。本作が 2作目になるようだ。この豊かなビジュアルで、今後の映像世界を切り拓いて行ってくれることを期待したい。
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このように、私にとっては様々な刺激に満ちた映画であったのだが、最後に、"Ghost in the Shell" という言葉がどこから来ているかを記そう。これは、アーサー・ケストラー (1905 - 1983) による「機械の中の幽霊」という評論から採られているのである。ケストラーはユダヤ人で、反日主義者であったらしいが、そんな人の書いた書物が、日本発のエンターテインメントになっているのが面白い。この本はかつてちくま学芸文庫で出版されていたようだが、現在では絶版であるらしく、アマゾンで調べると、古本が 7,500円以上、場合によっては実に 20,000円の値がついている。これはなかなかにてごわい。
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改めてこの映画のイメージの豊かさを思い出すと、眩暈がするようだが、ここには人間社会のなんらかの真実がある。それゆえ、ゲイシャロボットもこんな風に顔を開いて驚くのである!!
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by yokohama7474 | 2017-05-03 23:28 | 映画 | Comments(0)

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この映画のポスターを見て誰しもが抱く感想があるだろう。まず、グレートウォールというからには、万里の長城についての物語だろう。実際ポスターの下の方には、「万里の長城が造られた目的が、ついに明かされる」とある。だが、主演は現在ハリウッドのトップ俳優のひとりであるマット・デイモン。アクションから繊細な演技まで、なんでもできてしまう彼のことだから、西洋人でありながら、ここでは何食わぬ顔をして中国人を演じているのか??? ともかく、仲間とともに何かと戦うという設定の物語であることは確かだろう。もちろん万里の長城の建設に着手したのは、あの秦の始皇帝。紀元前 200年頃の話だ。そんな古代を舞台とするなら、西洋人を登場させるのは無理があるだろう。いや、とはいえ、ユーラシア大陸は陸続き。人類はその後シルクロードなる陸上の交易路を確立させ、アジアとヨーロッパには密なる交流が生まれるのだ。でも、秦の時代とは・・・。

とまぁ、余計なことを考えていたのだが、4/14 (金) の公開だから未だ 2週間足らずなのに、既にシネコンでの上映頻度が低くなっているのを発見して、これがいかなる物語であろうとも、劇場に急がねば、と思って見に行ったもの。もちろんそう思う理由は、この人だ。
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現代映画界の巨匠監督、チャン・イーモウ (張 芸謀) 65歳。そう、この映画は彼のすべきハリウッド第 1作なのだ (但し、中国と米国の合作映画であるが)。この監督については、北京オリンピックの開会式・閉会式の演出を手掛けたことで知られていると言ってもよいし、あるいはオペラ・ファンなら、ズービン・メータとフィレンツェ五月祭音楽祭が紫禁城で上演したプッチーニの「トゥーランドット」の演出家であることを挙げてもよい。だがやはり、初期の「赤いコーリャン」「菊豆」、あとなんと言ってもツァン・ツィイーがなんとも可愛らしかった「初恋のきた道」などのヒューマンな作風が忘れがたく、最近では「妻への家路」が深く心に残っている。その一方で、一般的に彼の知名度を上げたのは「HERO」と「LOVERS」というアクション大作であったろう。それから私として是非お奨めしておきたいのは、これも私が心から敬愛するコーエン兄弟の「ブラッド・シンプル」をリメイクした「女と銃と荒野の麺屋」。あまり知られていない映画かもしれないが、ご存じない方には、「ブラッド・シンプル」と併せて是非是非ご覧頂きたい。面白いです。さてそんなチャン・イーモウがこれまでハリウッド資本で映画を撮っていなかったとは意外である。というのも、同世代の中国の映画監督でもうひとりのビッグネーム、チェン・カイコー (陳 凱歌) は随分以前、調べてみると 2002年に、「キリング・ミー・ソフトリー」というサスペンス映画でハリウッドデビューしているからだ (ちょっと残念な出来ではあったものの)。ともあれ、チャン・イーモウがマット・デイモンを得て世に問う新作の出来栄えや、いかに。
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えぇっと、なんと書こうかな (笑)。私がもし一言でこの映画をまとめるとすると、珍作という言葉を選ぶかもしれない。ネタバレはいつもの通りしないようにするが、でもこれを言わないと話が進まないことには、なんとなんとこれは、私がつい最近見て記事も書いた、「キングコング 髑髏島の巨神」と同系列、つまりは怪獣映画なのである!! 舞台は秦の時代ではなく、12世紀、宋の時代。万里の長城が防ごうとしているのは、大量に攻め寄せる敵。その敵とは、60年に一度やってくる怪物、饕餮 (どんな字だかさっぱり分からないが、「とうてつ」と読む) の大群であり、その怪物たちは知恵があって、人間の裏をかいてどんどん攻め方を発達させているらしい。因みにこの饕餮という怪物、Wiki で調べてみると、殷や周と言った古代の時代から中国の青銅器や玉器に彫られているという。あぁなるほど、例えば出光美術館のコレクションにあるような青銅器類に、よく見かける文様だ。
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映画の中ではこんな感じ。
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あらら、この記事は「キングコング 髑髏島の巨神」について書いているのではありませんよね? (笑) いえいえ、ちゃんと「グレートウォール」であります。この映画でこの怪物が恐るべき大群で現れるシーンは、少し前なら「スターシップ・トゥルーパーズ」(私の大好きな映画なのである)、比較的最近なら「ワールド・ウォーZ」と比較されるだろう。だがこの映画、不思議なことに、そんな圧倒的な数の敵に襲われる人間側の描き方に、あまり絶望感がないのである。マット・デイモンと、もうひとり、ペドロ・パスカルというチリ人俳優の演じるコンビは、傭兵として各地を渡り歩き、火薬を求めて中国にやってきたならず者たちであり、腕に覚えの彼らは、なんのためらいもなく怪物との戦いに身を投じる (因みに、ヨーロッパでルネサンス三大革命と言われた火薬・羅針盤・活版印刷は、すべて中国が先立って発明していたというのは有名な話)。正直なところ、人間を描く名人であるチャン・イーモウともあろう人が、いかにも CG CG した動きを見せる怪物の集団を、こんなに CG、いやイージーに見せてしまってよいものであろうかという印象を拭うことはできない。決戦を間近に控えた人間は、それこそ「七人の侍」が秀逸に描いている通り、不安な思いをかき消すべく、生きている証拠を探して、例えば自暴自棄な男女の愛に走ったりするものではなかろうか。その点、この映画のヒロインには、爽やかなまでにその気配がない (笑)。
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この中国人女優さんの名は、ジン・ティエン。実は以前の記事ではあえて書かなかったのだが、「キングコング 髑髏島の巨神」にも出演しており、英語のセリフもそこそこある役であった。だが正直、その映画における彼女の役の必然性には納得できる要素が少なく、製作会社レジェンダリー・エンターテインメントが中国資本に買収されたことと何か関係があるのかなぁと、漠然と考えていた。そして実は、この「グレートウォール」もレジェンダリーによる製作なのである。これがコング映画における彼女の勇姿。私が立て続けに見た二本の怪獣映画のいずれにも出演していたということになる。
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彼女の顔は文句なしに美形であり、英語もまぁまぁ頑張ってはいるが、正直なところ、世界に羽ばたく素晴らしい女優かと訊かれれば、まだまだこれからでしょうと答えると思う。この映画における、決してフレンドリーではないとは言わないが、どうにも血の通ったところがあまり感じられない女将軍役を見ていると、例えば「スターウォーズ」の 1作目、エピソード 4 なども、王女と飛び入り兵士の話であったわけだが、あの映画にはなんだか夢があったなぁと思う次第。この映画、時代の要請なのか、あるいは作り手の側に何らかの意図があるのか分からないが、言葉を選ばずに言ってしまえば、あまり感興を感じない残念な設定なのである。

怪物との戦いの成り行きや、クライマックスの作り方も、昨今のあれこれの映画の中では、まあ特にどうということもない。ひとつ言えることは、決定的な悪役が全く出てこないということか。怪物の側の論理 (?) は描かれていないが、ただ人間と敵対している存在ということでしかなく、人間ドラマはそこには期待できないのである。出演している役者の中には、ウィレム・デフォーとかアンディ・ラウといった才能豊かな人たちもいるわけだが、彼らの登場シーンでもドラマ性は希薄で、あまり個性的には描かれていない。もちろん、この映画のストーリーや映像が全く面白くないという気はなく、何気なく見ていればそれなりに面白いと言ってもよいが、あのチャン・イーモウのハリウッド・デビューで、かつマット・デイモン主演と来れば、この出来はいささか残念である。だから私は思うのである。これはもしかしたら、才能ある人たちが作り上げたヘンな映画として、人々の記憶に残るのではないかと。最初の方で珍作と申し上げたのは、そのような意味だったのである。
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さてそうなるとこの映画、何か現代的なテーマでも隠されているのかと勘繰りたくもなってくる。東洋と西洋の優劣関係の揺らぎと「信頼」の重要性、富に向かって我も我もと押し寄せる中国の人口問題、会話の通じない独裁者 (この映画の怪物にも中心がいる) が指導する国家と対峙する緊張感、外から境界を超えてやってくる移民たち、平和実現のためには犠牲もやむないと冷静に考える姿勢・・・そんな諸々の要素がここで隠喩されているとしたら? はい、もしそうならそうでもよいのだが、「もし弾道ミサイルが飛んできたらこうしましょう」という注意事項が職場で喚起されるような物騒な現実の前では、隠喩の意味を考えていても埒があかない (笑)。娯楽は娯楽として、感情移入できるものであって欲しい。これが大監督チャン・イーモウの気まぐれなのか、あるいは今後変わって行く契機となるのかは、また次回作で確認してみたいと思う。

by yokohama7474 | 2017-04-27 00:24 | 映画 | Comments(0)

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私はこのブログで映画を紹介するときには、かなりの頻度でその映画を予告編で見たときの印象を記している。それは、予告編にはその映画の興行成績にも直結しうる凝縮されたメッセージが入っているケースが多く、大げさに言えばその映画と対面するときの大事な「顔」であると思うからだ。そして、この映画の予告編を見たときに真っ先に私の頭が理解したことには、これは怪獣映画であるということだ。もちろん、誰もがすぐに理解する通り、キングコングの映画であるから、一般的には「モンスター映画」という呼称がふさわしいように思うが、なんのなんの、怪獣好きにはすぐに分かるこの「怪獣映画」の匂い (笑)。だからこの映画は私の中では、封切当初から見たい映画一覧表のかなり上位を占めることとなったのである。ところが、あろうことかこの数週間、結構忙しくて、なかなか映画を見る時間がない。ああ私はこのまま、仕事とか接待メシとか歓送迎会に時間を取られたまま、この映画を見る機会を逃してしまうのではないか・・・と神に罪を告白する思いで天を仰いでいたのであるが、ようやく先週末、なんとか朝の回に見に行くことができたのである。

さあ、そんなわけで、これが新たなる怪獣映画の傑作との出会いとなったことは、誠に喜ばしい。私の世代でキングコング映画と言えば、もちろん最初の作品 (1933) は RKO 製作映画のリヴァイヴァル特集上映で劇場で見ているものの、ジェシカ・ラングの出たジョン・ギラーミン監督作品 (1976) は劇場では見ていない一方、ナオミ・ワッツの出たピーター・ジャクソン監督作品 (2005) はもちろん見ている。あ、あと、米国のテレビアニメ物は、日本語の主題歌を今でもよく覚えている。だが東宝映画の「キングコング対ゴジラ」(1962) は、テレビでも見た記憶がない。でもこんなポスター、レトロでよいではないか。著作権の緩やかな大らかな時代の産物と思っていたが、今回調べて分かったことには、ちゃんと米国のプロダクションから東宝が権利を購入して制作したらしい。なるほど、題名においてゴジラよりもキングコングを先に出すことまで、契約で決まっていたのだろうか (笑)。まあ、こんな対決はもう二度と実現しないだろう。
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さて、21世紀のキングコングは、こんなに素朴ではない。第一今回の映画、予告編を裏切るキングコングの登場シーンがなんとも小気味よいのである。つまり、大抵の人は予告編でこのシーンを見て、岸壁に血で手形を残した巨大生物の存在におののく人間たち、しかしその正体は未だ現れず、不気味な謎に包まれている・・・と思うではないか。
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ところがそうではなくて、今回のコングは、かなり唐突にその姿を堂々と現すのだ。これからご覧になる方には、コングの初登場シーンにご注目、と言っておこう。いやー、楽しいなぁ。おっと、こんなに激しく牙をむかれては、その存在意義を誤解されてしまいます。
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そう、この映画においては、この凶暴極まりないコングが善玉なのか悪玉なのか、この点がかなり重要となってきて、これはいわゆるモンスター映画の常道でもあろう。だが上述の通り、これはただのモンスター映画ではなく、様々な怪獣たちが出て来る点にこそ重要性がある。そんな中でコングの位置づけも、それほどもったいつけることなくストレートに描かれることとなる。実に小気味よい。これがこの島に住む怪獣たちの例。
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よく見ると最初に掲げたポスターに、これらの怪獣たちの姿があしらわれていて、だからこれが怪獣映画であることは、やはり最初から明らかなのであるが、少し難点を挙げると、これらの怪獣の出番がちょっと少なくはないだろうか。実際のところこの映画におけるコングの闘いは、最初は人間と、そして最後は宿敵スカル・クローラー (上に掲げた写真のうちのひとつ) と、ということに絞られるのだ。だが、それとても難点というほどでもない。なんと言ってもヘリコプターを縦横無尽につかんでは投げるシーンは凄まじい迫力だし、クライマックスのスカル・クローラーとの闘いにおいては、霊長類(?)たるコングが他の巨大生物と違う点は、道具を使うことができる点だと実感し、胸が熱くなるのである (笑)。そのシーンもやはり非常によくできていて、とにかくすごい迫力なのだが、実はその闘いは、2014年のハリウッド版「Godzilla ゴジラ」におけるゴジラとムートーの闘いを思わせる点もある。・・・ではゴジラとキングコングが闘ったら、何が起こるのだろう。いやいや、上述の通り、そんなことはもう起こらないのだが。

改めて思い返してみると、この映画では随所に冴えた演出のセンスが見られるのだが、端的な長所を挙げると、観客が登場人物たちをきっちり区別できるように作られていること。このブログでも過去に何度か、戦闘ものにおける一群の登場人物たちの区別が難しい作品を採り上げたが、その点この映画は本当によくできていて、多くの登場人物たちが探索や戦闘に加わっているにもかかわらず、主要な役は全員識別できるようにできている。これは稀有なことで、監督の手腕であると称賛しよう。そしてそんな中、このような豪華な顔ぶれが顔を突き合わせるのである。
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そう、ジョン・グッドマンとサミュエル・L・ジャクソンだ。どんなに豪華な怪獣映画やねん (笑)。そして、実質的な主役はこの人、今最高にカッコよい、トム・ヒドルスマン。私は彼の演技を見て失望したことはない。
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そして、伝統的なキングコングもののヒロイン役を包含する (?) 逞しい女性カメラマンを演じるのは、ブリー・ラーソン。うーん、まあ正直それほどよい女優さんとも思わないが、未だ 27歳ながら、2015年の「ルーム」という映画で、なんとアカデミー主演女優賞に輝いているのだ。お見それしました。
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という大変充実したキャストをまとめた才人監督は誰かというと、なんと、インディーズ系出身でこれがメジャー長編デビューとなるジョーダン・ヴォート=ロバーツ。
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この特異な髭によって年齢不詳に見えるが、きっとまだ若いのだろう。芸術系の映画はもちろん好きだが、日本のアニメやゲームも大好きであるとのこと。さもありなん。またこの映画では、密林を舞台にしているということで、コッポラの「地獄の黙示録」へのオマージュを感じさせるシーンも多い。私の見るところ、この作品は正しい監督を得ることによって、素晴らしい成功作になったのだと思う。
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さて、これからこの映画をご覧になる方は、エンドタイトルが終わるまでちゃんと席にいなければならない。実際そこでは、私が上で書いたことが大嘘であることが判明するのである。嘘をついて失礼しました。実は、この映画のプログラムにも記載はあるし、ネット上にも様々な情報が溢れているので既にネタバレではないと確信して書くが、実は近い将来、キングコングはやはり、あのゴジラとの再決戦に臨むことになるのである!! 実はこの映画、「モンスターバース = Monster Verse」(Verse とは韻文とか詩作のこと) というシリーズの 2作目。1作目は、上でも触れた、ギャレス・エドワース監督の「Godzilla ゴジラ」なのである。そして、3作目は 2019年公開予定の "Godzilla ; King of Monsters"、4作目は 2020年公開予定の "Godzilla vs Kong" となる予定。このシリーズは、レジェンダリー・エンターテインメント社が東宝と提携して制作し、ワーナー・ブラザーズが配給しているらしい。なるほど、ゴジラは日本では「怪獣王」であったが、このシリーズでも他の怪獣をなぎ倒し、最後はキングコングと対決するわけか。それにしても、上の方で掲げた昔の東宝映画の題名では、キングコングの名が先に出ていたが、今回のハリウッド映画は、ゴジラの名が先に出るわけか。ゴジラの世界的名声も確立されたわけで、ご同慶の至りである (笑)。昨年日本で異常なほどヒットした「シン・ゴジラ」は、私の見るところでは、ハリウッド版ゴジラへのアンチテーゼであったわけだが、今後公開されるこれらのハリウッド映画に対して、日本側としても何か対抗策を取らなくてよいのだろうか。それとも、この Monster Verse シリーズには東宝も携わっているので、それでよしとするのだろうか。国際社会における日本の地位に影響するかもしれない大問題ではないか (笑)。でもこのコングの表情の多彩さは、さすがに恐竜タイプのゴジラでは出せないなぁ・・・。本当によくできている。いずれにせよ、対決を楽しみにしておりますよ。
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by yokohama7474 | 2017-04-25 00:31 | 映画 | Comments(0)

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ジョン・F・ケネディは言うまでもなく、アメリカ合衆国大統領として歴史上最も高く評価されているひとりであり、その悲劇的な暗殺事件は、50年以上経過した今でも、数々の陰謀論とともに未だに世の人々の間で語られる。それに加え、ケネディ家の抱える闇や、大統領自身の私生活のダークサイドも様々なことが知られるようになっており、興味深いとともに、ゴシップネタには少々うんざりすることもある。だがしかし、いずれにせよケネディ暗殺は 20世紀最大の謎のひとつ。私もこれまで、その件に関するいろいろな映画 (「JFK」のようなメジャーなものだけでなく) や書物、テレビ番組を体験して来た。だが、今回採り上げるこの映画は一風変わっていて、その未亡人、ジャクリーンを主人公としたもの。ジャッキーとはもちろん彼女の愛称である。ここでジャッキーを演じるのは、ナタリー・ポートマン。なるほど、ついこの間リュック・ベッソンの「レオン」でデビューしたと思ったら、もうこんな役を演じるような年になったわけだ。・・・いやいや、「レオン」は 1994年の作品。あれから既に 23年も経っているのだ。彼女は既に「ブラック・スワン」でアカデミー主演女優賞も受賞し、名実ともにハリウッドを代表する女優のひとりである。尚、上のポスターに、アカデミー賞 3部門ノミネートとあるが、主演女優賞は、別項で採り上げた「ラ・ラ・ランド」のエマ・ストーンが受賞した。ちなみにこれが、1961年、大統領就任式の際の JFK (家族内での愛称は「ジャック」だったそうだ) とジャクリーン。
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映画は、1963年11月22日のケネディ暗殺から葬儀までの過程をジャーナリストに語るジャクリーンを軸に、ホワイトハウスでの回想シーンを織り交ぜている。ほとんどジャクリーンの一人芝居に近い内容であり、まさにナタリー・ポートマンの存在感と力が、真正面から試されていると言ってよいだろう。その衣装や髪型、喋り方まで、我々のイメージするジャクリーン像をうまく表現しているとは言えるように思う。だがその一方で、映画全体として、もうひとつ何か印象に残るものがないような気がするのも事実。一体何がそう思わせるのだろう。ダラス到着時、未だこれから起きる悲劇を知らないふたり。ケネディを演じるのはキャスパー・フィリップソンという俳優。
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そして数時間後、ケネディの棺とともにワシントンに帰るエアフォース・ワンの中では、ジョンソン副大統領の大統領就任の宣誓が行われ、夫の血を未だ衣服につけたままのジャクリーンもその場に呆然と居合わせることとなる。ジョンソン役はジョン・キャロル・リッチという俳優。
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やはり後に暗殺されるロバート・ケネディもここでは重要な役回りだ。ゴシップによると JFK 死後、ジャクリーンとあまりにも親密であったとも言われるが、真実は分からない。ロバートを演じるのはピーター・サースガードという俳優。
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ここではまず、ダラスにおけるケネディ暗殺という歴史的事件の再現が行われていて、それ自体は緊迫感もあって、なかなかよくできている。だが、なんと言えばよいのか、圧倒的に大きな黒い歯車が回っているというような感じはしない。それもそのはず、この映画の主眼は、この事件の裏に潜む陰謀に迫ることではなく、ジャクリーンがファースト・レディとして、あるいはひとりの妻として母として、いかなる運命に立ち向かったのかということを、彼女の心の裏側からの視点も含めて、詳細に描き出すことであるからだ。もちろん、あの明るい笑顔の裏に様々な葛藤や努力があったことは想像に難くないが、この映画では、どうもジャクリーンの不安と不満に必要以上に観客が追い込まれて行くように思える。画面に形容しがたい不安を与えるひとつの要素は、音楽であろう。キュイーンキュイーンとグリッサンドでうねる弦楽器の音色が何度も出て来て、明るいシーンの印象まで薄くしてしまったような気がする。その音楽を担当したのは、ミカ・レヴィという女流作曲家。調べてみると 1987年生まれの英国人で、もともとロンドン・フィルの楽員。アーティストでもあり、音楽プロデュースも手掛ける才人であるらしい。映画音楽の分野では、「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」という映画で、評価されたらしい。あっ、この映画は、去年公開していた、スカーレット・ヨハンソン主演のエイリアン物だな。見に行かねばとチェックしてあったのに、結局見ることができなかったものだ。そんなに音楽が面白かったとは、見逃して悔しい。これが作曲者のミカ・レヴィ。
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ともあれ、私が課題と感じてしまったのは、ジャクリーンを、数々の困難を乗り越えた意志の人と描くのか、ある場合には夫に裏切られながらも愛し続けた献身的な妻と描くのか、あるいは、2人の子供を持ち、ほかに 1人を流産で、もう 1人を生後すぐに亡くしてしまった母として描くのかが、どうももうひとつ明確ではないということだ。というのも、ジャーナリストに話して聞かせるジャクリーンは特に傲慢ささえ漂わせ、一度喋ったことをメディアに載せるなと命令したりする、あまり優雅でない女性として描かれているからだ。そんなことをせずに、時系列に沿って、暗殺の悲劇と過去の回想だけにした方が、感動的な仕上がりになったのではないかと思うが、いかがなものだろうか。また、描かれている期間は限定的で、彼女がその後オナシスのもとに走ったことは描かれておらず、ジャクリーンという人間性にとことん肉薄するという作りにはなっていない。主役を取り巻く役者陣も正直、それほど印象的ではないが、ただひとり「これは」と思ったのは、神父役を演じたジョン・ハートである。
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もちろんあの伝説的な「エレファント・マン」で知られる英国人俳優であるが、最近はハリー・ポッター・シリーズなどにも出ていた。ここでの彼は、ケネディ死後の相談役として、ジャクリーンに対して率直かつ優しさに満ちた語り掛けをしている。実は私は知らなかったのであるが、彼はこの映画出演後、今年の 1月に 77歳で亡くなっている。癌だったそうだが、既に撮影のときには病に侵されていたのであろう。痛ましい話であるが、これまた知らなかったことに、彼は 2015年には Sir の称号まで得ていたのだ。素晴らしい役者であった。

監督は、1976年チリ出身のパブロ・ラライン。これが初の英語作品とのことである。私の上記の感想からもう一度考えてみれば、演出が少し詰め込みすぎかなぁ・・・という気もするが、様々な場面に見える創意工夫は、評価に値するだろう。
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さて最後に、クラシック音楽ファンのためのオマケをひとつ。ホワイト・ハウスでチェロの大巨匠、パブロ・カザルス (1876 - 1973) が演奏するシーンが出てくる。これは劇中、カザルスのチェロに聴き入る JFK 夫妻をはじめとする人々。
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この 1961年の演奏はライヴ盤として、今でも手に入る。これだ。ジャケットを見ても、映画の中のように、カザルスがひとりで「鳥の歌」だけ演奏したかのように思ってしまいそうだが、実際には、ピアノのホルショフスキー、ヴァイオリンのシュナイダーとのトリオであった。
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音楽に興味のない方は、このカザルスがいかに偉大なチェリストであったかイメージがないであろうから、ひとつの例を挙げよう。これは昨年私がバルセロナに出張したとき、空港のラウンジで撮影したもの。通常はパブロ・カザルスと呼ぶが、彼の故郷カタルーニャの言葉では、パウ・カザルスという名前になるらしい。ラウンジの一角がこのような彼を記念するコーナーになっている点、今でもいかに深い尊敬を集めているかが分かろうというものだ。
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このように、カザルスがいつどの都市を訪れたかを示すプレートが飾られている。
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よく見ると、1961年にケネディの前で演奏したと確認できるが、面白いのは、その前に日本とイスラエルも訪れている。またケネディからは、2年後に叙勲もされている。
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そんなわけで、数多い JFK 物の中では少し異色な作品であり、今後人々の心にどのくらい残るかは正直分からないが、様々なピースを組み合わせてみると、ジャクリーンという、やはり 20世紀を彩ったイコンのひとりの人生について、また、彼女が経験した時代の雰囲気について、考えるヒントになる映画とは言えるであろう。ナタリー・ポートマンも、これから演技の深みをさらに増して行ってもらえるものと、期待している。

by yokohama7474 | 2017-04-08 23:48 | 映画 | Comments(0)

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私は元来、少々へそ曲がりなところがあって、映画はもちろん人並に好きなのであるが、米国のアカデミー賞なるものにはさほど興味がない。世の中の敏感に流行じゃないや流行に敏感な人たちは、毎年その時期 (そもそも、いつ頃アカデミー賞の発表があるかも知らないといういい加減さ) になると、今年はあの作品だあの俳優だとソワソワされているようだが、その点私は、泰然としたものだ (笑)。賞が発表されてから、ニュースで仔細ありげにリストを眺め、ふーんと他人事のように(まぁ、他人事ですな、実際)つぶやくことが多い。そして賞の発表後も、「アカデミー賞受賞作だから」という理由で映画を見に行くことは少なく、その映画が面白そうか否かだけが、私の判断基準なのである。

だがそんな私も、今年のアカデミー賞における異常事態には驚いた。もちろん、作品賞発表時の間違いである。「ムーンライト」に行くべき作品賞が、「ラ・ラ・ランド」と発表され、関係者のスピーチの途中で訂正されるという前代未聞の事態。
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そもそも、上記のポスターのように、この作品が今年の大本命と言われていることは知っていたが、史上最多タイの 14部門にノミネートされ、実に 6部門 (主演女優賞、監督賞、作曲賞、主題歌賞、撮影賞、美術賞) を受賞し、あまつさえ、作品賞までもう少しで受賞するところ (?) だったのであるから、この作品は大勝利を収めたと言ってよいわけである。もちろん、もしこの珍事がなくとも、私はこの作品に興味を持ったであろうと思う。それはなぜなら、監督がデミアン・チャゼルであるからだ。
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今回彼は、32歳で史上最年少のオスカー受賞監督となったわけだが、それも当然。なぜなら彼の前作「セッション」(原題 : Whiplash ・・・これは劇中で演奏される曲の題名) が、実に素晴らしい出来であったからだ。もし私が今、過去 5年間の間に見た映画の中でベスト 5 を挙げろと言われば、そのときの気分や記憶の状況、あるいはアルコール分の摂取量によって答えは異なるだろうが、この「セッション」はまず必ず入るだろうと思うのである。そして今回、この「ラ・ラ・ランド」を見て思うことは、この作品は単体で良し悪しを語るよりも、きっと後年、この監督の事績を振り返ったときに、その価値がよりよく分かるものではないだろうか。いやもちろん、この映画を見て感動した人も沢山おられるであろうから、私がここで言っていることが否定的に響くのを恐れるのであるが、換言するとこの監督、もっとすごい映画を将来撮る可能性もあるのではないか、と思うのである。

まず最初に確認しておきたいのは、これはミュージカル映画であるということ。昨今のミュージカル映画は、ディズニーのアニメ系を除くと、「オペラ座の怪人」「マンマ・ミーア」「レ・ミゼラブル」にせよ、これから公開される「美女と野獣」にせよ、舞台の映画化が主流であろうが、これはオリジナル。どのように構成されているのかと思いきや、歌と踊りのシーンはかなり限定的で、通常の演技のシーンが大半だ。だからこれは、フレッド・アステアやジンジャー・ロジャースの古きよきスタイルのミュージカルとは異なり、現代において説得力を持つべくして作られた、新たなスタイルのミュージカルなのである。
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ここで主演女優を務めているエマ・ストーンについて、私はこのブログで何度か言及しているが、「アメイジング・スパイダーマン」シリーズで出て来たときには、やたら目の大きい女の子という以上の印象はなかったが (ただ、その前のシリーズで同じ役を演じたキルスティン・ダンストが苦手であった私は、彼女に好感を持ったことは間違いない)、最近のウディ・アレン監督作品での彼女にはまさに脱帽。もちろん「バードマン」での演技もなかなかのもの。未だ 28歳にして、オスカー女優の仲間入りとは恐れ入る。
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ここで彼女が演じている、女優を目指してロサンゼルスで頑張っている女性、ミアの姿は、きっと 10年ほど前までの彼女自身の姿でもあるのではないか。その意味で、この映画を見る人たちがリアルに、夢を追うことの素晴らしさを実感できるような等身大の演技を、彼女は披露していると言えるように思う。だから、と言ってよいのか分からないが、予告編を見たときから彼女のダンスは、決して惚れ惚れするようなものではなかったし、本編を見てもその感想は変わらないのであるが (笑)、その点にこそ、この映画が人々の心に訴えかける力があるのかとも思う。金髪碧眼の美形のようでいて、額には皺は多いし、目以外の顔の要素が弱い (?) ようにすら思われることもある、一種不思議な女優さんである。このようなシーンにも、なぜかセクシーさは皆無 (笑)。
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一方のライアン・ゴズリングも、決してイケメンでダンディというわけではなく、古風で不器用な男を絶妙に演じている。なにせ彼が演じるセブは、クラシックでいかにも燃費の悪そうなアメ車でカセットを聴き、自宅ではアナログレコードを聴いていて、妄想シーンは懐かしの 8mmフィルムだ (笑)。古き良きジャズを信奉し、やはり夢を追う人という役柄だ。この役者さんは、過去にアカデミー賞やゴールデン・グローブ賞にノミネートの実績があるようだが、私が知っているのは、「マネー・ショート」だけである。このブログの記事でも採り上げたが、その作品では語りとともに、バリバリのウォール・ストリート野郎を演じていた。この「ラ・ラ・ランド」では、以前から習いたかったというピアノを 3ヶ月間特訓したとのことで、劇中の演奏シーンは、かなりサマになっている。
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だが私がこの映画で驚嘆したのは、何と言っても冒頭のシーンである。カリフォルニアでは鉄道網が発達していないため、人々は車で移動するしかないのであり、私自身もロス近辺を自分で運転して移動したことが何度かあるが、渋滞になると、それはそれはひどいのである (一度運転中に電話がかかってきて、込み入った話をしているうちに空港に向かう高速の出口を逃してしまい、次の出口から渋滞の中を戻るのに、大変な目にあった。あ、「込み入った話」と言っても男女の話ではなく、仕事です)。それを知っている人にとっては、この冒頭シーンは何とも胸のすくものである。実際にロス近郊の高速道路で撮影したものらしく、都会と砂漠の広大なミックスであるこの地域でしかありえないような、ユニークなシーンである。カメラは、渋滞の車から抜け出て踊り出す運転手たちの動きを克明に追って、縦横無尽に動き回る。その楽しさは、考え抜かれているに違いないのにスムーズなこのワンシーンワンショット (途中でシーンをつないでいる箇所は、きっとあるのだろうが) によって、いきなりマックスに達するのである。オーソン・ウェルズの「黒い罠」の冒頭シーンと比較するのはちょっと突飛であろうし、実際、画質も映画の性質も全く異なるが、その衝撃度においては遜色ないと言ってもよいだろう。あ、あと、映画の冒頭に流れる車の BGM は、チャイコフスキーの序曲「1812年」です。
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さてこの映画、夢を追う男女の切ない恋の物語なのであるが、簡単にまとめてしまうと、同じ夢を追う人たちであっても、男はロマンティスト、女はより現実的で逞しく、順応力が高いという、そんな描き方になっている。まさに込み入った話が描かれているわけだが (笑)、万人受けするように、細心の注意が払われていると思う。例えば車だが、セブの乗っているクラシック・カーに引き換え、ミアの車は、トヨタ・プリウスだ。しかもこの車種は米国でも人気であることを示すシーンもある。まさにトランプ政権下の日本の自動車メーカーの今後の課題が、ここに表れている。・・・というのはもちろん冗談で、ミアが経済性に優れたコンパクトな日本車を選ぶ点に、この男女の指向の違いが表れているのである。それから、何度も出て来る、二人が議論するシーンは、いかにも米国人同士の会話であり、ある意味大人、ある意味自己正当化のロジックに長けたもの。ここでも等身大カップルの姿がヴィヴィッドに描かれている。
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大詰めでは、まるでパラレル・ワールドのような描き方がされて、人によってはそこで涙腺が刺激されることであろうが、私は結構冷静に見ていて、やはりこの監督の創造の原点にある音楽的なものへの指向が、ここで具体的なストーリーの形を取っているのだなと理解した。その意味で、前作「セッション」から本作へは、ある種の継続性も確保されており、そして、また次へ向かって飛翔する音楽的感性が、充分に感じられるのだ。上述の通り、それゆえに、この作品を将来また振り返ったときに、デミアン・チャゼル監督の表現したかったことや、その表現方法について、きっと納得するものがあると思う。

ところでチャゼルの過去の経歴を見てみると、なんと、私が昨年 7月 2日の記事で採り上げた、「10 クローバーフィールド・レーン」の脚本を書いているのだ!! な、なんだよ、せっかく音楽つながりという整理をしたのに、全く違う持ち味のエイリアン映画が、ここで紛れ込んでしまった (笑)。これぞまさに、この監督の懐の深さを示す例であると牽強付会して、この記事を〆ることとしよう。さすがアカデミー賞 6部門受賞、見る価値ありです。もちろん使用されている音楽も、リズミカルな部分から抒情的な部分まで、一度聴いたら忘れられませんよ!! ご夫婦でカップルで、こんな感じでどうぞ。等身大で。
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by yokohama7474 | 2017-04-05 01:23 | 映画 | Comments(2)

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この広大な宇宙の中に、たった一人。あるいは二人。果たしてそんな事態に、人間は耐えられるだろうか。最近では、「ゼロ・グラビティ」や「オデッセイ」という映画でそのようなテーマが扱われていた。そしてここにもう一本、なかなかよくできた映画が加わった。題名は「パッセンジャー」で、上記のポスターの題名の英語表記にも "Passenger" とあるが、実際の原題は "Passengers"、つまり単数形ではなく複数形である。冒頭の問いの中で、「たった一人。あるいは二人」と書いたが、実際のところ、一人と二人では大変な違いである。いやそれはもう、決定的な違いなのである (笑)。会話する相手がいるか否か。協力する相手がいるか否か。それによって、生きようとする意志も全く変わってくるだろう。

この映画の予告編は何度も見たが、要するに地球の人口増加や環境破壊によって、別の星に移住する手段を考えた人類が、巨大な宇宙船でその星に向かうのだが、カプセルの中で冬眠していた主人公たちが、どういうわけか予定よりも早く目覚めてしまう、というストーリーだ。目的地到着まで 90年。ということは、ここで危機に見舞われる男女二人は、何もしなければ船内でそのまま死を迎えることになる。この設定は実に残酷で逃げ場のないものであるが、その設定自体はそれほど奇抜ではなく、映画にする場合には、どのように決着をつけるかという点こそが見もの、ということになるだろう。脚本はオリジナル。ハリウッドでは、未制作の優秀脚本のリストを「ブラック・リスト」と呼んでいるらしいが、この作品はそこに載っていたものらしい。脚本を手掛けたジョン・スペイツは、ほかには「プロメテウス」や、「ドクター・ストレンジ」も手掛けているとのこと。なるほど、この作品に出てくる医療用のポッドは「プロメテウス」と共通するし、宇宙的なスケールは「ドクター・ストレンジ」と共通するが、後者については、私はこのブログで散々厳しいことを書いてしまった手前、この「パッセンジャー」での脚本の出来には、ちょっと慎重に接する必要ができてしまうのである (笑)。加えて、実は「プロメテウス」もそれほどよい出来の映画とは思っていないゆえに、なおさらだ。さて、この二人の運命やいかに。
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さて、これが件の宇宙船、アヴァロン号。自身が回転しながら、障害物に対するバリアを作ったり、あるいは光線でそれを壊したりする機能を備え、目的地まで 120年の道のりを進んで行く。なかなかに奇抜なデザインだ。
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私はこの宇宙船の設定のあれこれを、大変に気に入った。もちろん船内では重力が作り出されていて、人が自由に歩けるのみならず、豪華客船さながら、大広間や落ち着いたバーやプールや、各種エンターテインメント設備も備わっている。もちろん CG は駆使されているであろうが、プログラムによると、グランド・コンコースと呼ばれる、人々が集うためにある場所は、巨大なセットが作られたという。
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先端的なデザインに見える一方、床が緩やかな円弧を描く船内の通路の様子などは、「2001年宇宙の旅」を思わせるような、いわば古典的な様相もあって、映画史的な記憶を呼び覚ます。
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このようなアールデコ調の装飾を持つバーにいるバーテンダーは、この程度はネタバレにならないと思うので言ってしまうと、アーサーという名前のアンドロイドなのである。演じるのは英国の名優、マイケン・シーン。宇宙船で過ごす人間に対して、非常に洒落たセンスで反応するようにプログラミングされているようだが、その気の利いたところが裏目に出ることになってしまう。ところで、後で気付いたのだが、この宇宙船の名前、アヴァロンとは、伝説のアーサー王の墓がある場所。そのことと、このアンドロイド、アーサーの名前とは関係があるのだろうか。
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この映画の出演者は、このアーサー役を除くと、船内で目覚める主人公の男女と、それからもう一人の、計 3名のみだ。その意味では、これは巨大な規模の室内劇である。最初に目覚めるジムは技術者、次に目覚めるオーロラ (もちろん、「眠りの森の美女」の主人公から来ているのだろう) は、ニューヨークの著名な作家の娘で、自分も作家・ジャーナリスト。従ってこの 2人は、いわば違う階級に住む人たち。それゆえこの映画を、「宇宙版『タイタニック』」と呼ぶ声もあるようだ。うーん、私は「タイタニック」は、もちろん嫌いという気はないが、歴史的な悲劇を個人の観点で描いたという点に、美点も欠点もある映画だと思っている。その点この映画は、飽くまでフィクションゆえ、個人間の関係に立脚することに焦点が合ってもよいと思う。設定は壮大ではあるが。

ジムを演じるクリス・プラットはなかなかよい。最初に一人で悪戦苦闘する場面で、T-シャツは汚れ、髭は伸び放題、体もだらしなく膨張するところをリアルに演じている。実在感のある演技のできる俳優であろう。彼は「ジュラシック・ワールド」で主役を務めたほか、近く続編が公開される「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」でも主役、「マグニフィセント・セブン」にも出ていた。
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一方のオーロラを演じるジェニファー・ローレンスは、なんといっても「ハンガー・ゲーム」シリーズのヒロイン役で知られ、また、「X-メン」シリーズにも (青塗りで分かりにくいが 笑) 出演している。そして、私にとってはレーダー外の映画だが、2012年の「世界にひとつのプレイブック」で、弱冠 22歳でアカデミー主演女優賞を獲得している。正直、それほど美形にも見えないこともあるが、なんとも表情豊かな女優である。この映画では、宇宙船の中という極限的に限られた世界の中で、実に多彩な衣装で演じるという逆説的方法により、人間はどんな環境でも、生きて呼吸して生活して、感情もあるのだということを強く表現している。
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このように見てくると、主役の 2人はこの映画の設定にピッタリの役者さんたちではないだろうか。そして第 3の男、ガスを演じるのは、ローレンス・フィッシュバーン。なんと言っても「マトリックス」シリーズで知られているであろうが、私にとっては、未だ若い頃の「地獄の黙示録」での狂気の演技が忘れがたい。ハリウッドにとって、なくてはならない名バイプレーヤーだと思う。
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さて、この映画にはほかにも地球で撮られた映像などが登場するが、本当に上記以外に人間が出てくるシーンはほとんどない。ところが、エンドタイトルを注意深く見ていると、上記 4名以外にもう一人、名前の出てくる俳優がいる。それはこの人。
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あのアンディ・ガルシアだ。ここではあえて若い頃の写真を掲載したが、「ゴッドファーザー パート III」の頃の勢いに比べて、残念ながら最近は少し影が薄いような気もするし、リメイク版の「ゴーストバスターズ」でのニューヨーク市長役も、こう言ってはなんだが、大したことのない役だった。そしてこの映画では、本当に一瞬だけしか出ていないので、人によっては見逃す可能性大である。彼の出演シーンを見たときに私は、この人と混同してしまった。そう、スペインの偉大なるヴィオラ・ダ・ガンバ奏者、ジョルディ・サヴァールである。ここで笑ってもらえる人が何人いるか分からないが・・・。
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監督のモルテン・ティルドゥムは、1967年ノルウェー生まれ。長編監督デビューは 2003年であるが、それ以降自国内での映画制作を行ってきて、初の英語作品は、2014年の「イミテーション・ゲーム / エニグマと天才科学者の秘密」である。なるほど、あのベネディクト・カンバーバッチ主演のあの映画か。飛行機で見たため、このブログで記事として採り上げてはいないが、なかなか面白かった。このような才能をしっかり見出すのが、ハリウッドの懐の深さであると実感する。
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さあ、この映画の結末をどのように評価しようか。なるほどそう来たかという感じはあって、好感を持つことはできる。人間の、またそれ以外の生物の命の尊さについて、何か感動的なものを感じることもできる。その一方で、設定の壮大さに比して、ちょっと控えめなようにも感じる。上述の通り、歴史的にも日常的にもリアリティのない設定における話の展開なので、個人の物語の結末をそこに見るべきであろうが、ブラックさがない分、ゾッとする切実さもない点が、評価の分かれ目になるだろう。とはいえ、いろんなシーンを思い出すと、様々に想像が膨らむ映画であり、その点ゆえに、私はこれを、なかなかよくできた映画であると評価したい。

by yokohama7474 | 2017-04-01 23:17 | 映画 | Comments(0)

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3月20日 (月・祝) に記事を書いて以来、中 4日に亘ってブログを更新しなかった。出張に出たわけでもないのに、また、プロ野球のローテーション・ピッチャーではあるまいし、こんなに間を空けてしまって、いつも読んで頂いている方々には誠に申し訳ない。書くネタがなかったわけではない。それどころか、貯まってしまっている。それにもかかわらず更新を怠ってしまったのは、いずれも人事異動に関することが理由である。ひとつは人事異動のシーズンで壮行会が結構あり、ベロベロに酔っぱらう日があったこと (まぁそれは普段からという説もあるが)。もうひとつは、身近で起こった人事異動に納得できず、各種調整を行っていたこと。私は思うのであるが、いかなる組織も人間の集合体。文化に自らの居所を見出した私は、いついかなる場面でも、他人の痛みが分かる人間でいたい、そして、それを堂々と人に語れる人間でありたいと切に願うのである。

まぁともあれ、この映画である。もちろん映画好きなら誰もが知っている台湾映画。だが私にとっては、長らく「名のみ高い映画」であったのだ。1991年に制作され、日本でも公開されたが、私はその頃評判を耳にしながら (もう一本の台湾映画、「悲情城市」と並んで) 見逃してしまい、そしてそれ以来 DVD 化されることもなく (どうやらレーザーディスクは出たようだが)、見る機会がなかった映画なのである。この度、マーティン・スコセッシが設立したフィルム・ファウンデーションのワールド・シネマ・プロジェクトと米クライテリオン社との共同で、オリジナル・ネガからデジタル・リマスター版が制作されたものである。上映時間は実に 3時間56分で、これがオリジナル。最初の日本公開時には 3時間 8分であったが、今回初めて、監督の意向通りの上映が叶うことになったわけだ。この映画の監督は、そう、エドワード・ヤン (楊德昌) だ。台湾では英語教育が進んでいて、皆欧米風のファーストネームを持っている。私も仕事上、かなりの数の台湾の人たちと関わったが、おしなべて親日であり、だが歴史的に屈折を余儀なくされてきた人たちの、毅然とした生きる姿勢に感銘を受けたものである。これが監督のエドワード・ヤン。
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ほぅ、今どんな映画を撮っているの、と思う人もいるだろう。だが残念なことに、彼は 2007年、59歳の若さで、癌で亡くなっている。2000年に「ヤンヤン 夏の思い出」でカンヌの監督賞も受賞しているが、その頃には既に癌に犯されていたらしい。従ってこの「牯嶺街少年殺人事件」は、彼が映画史に残した貴重な作品なのである。今年は彼の生誕 70年であり、没後 10年なのである。私はつい昨日これを見ることができたのであるが、その日は自宅の近くのシネコンでの上映終了日。この長い上演時間であるから、1日に 1回のみの上映で、文字通り最後の回の上映をなんとか見ることができたもの。上映劇場自体はそれほど広くはなかったものの、ほぼ全席売り切れ。しかも、この長丁場なら、昔はインターミッションと称するトイレタイムがあったものだが、この作品にはそれがなく、鑑賞者たちの膀胱はかなり限界に挑戦する状態であったに違いないのに、誰一人として上映途中で抜ける人はいなかったのである。このような場に立ち会うと、あぁ、面白くないことはいろいろあれど、日本は未だ捨てたものではない、と思えるのである。

さて、ここに面白い言葉がある。ヤヌス・フィルムズという会社によるこの映画の評価。「『ゴッドファーザー』と小津安二郎の間に位置する、家族についての完璧な映画」・・・なるほど、見終った今、これは言い得て妙だと思う。因みにこのヤヌス・フィルムズのウェブはこちら。これまた、映画ファンなら狂喜するような内容である。ちなみにこのヤヌスとは、もちろんあの「ヤヌスの鏡」のヤヌスであろう。あ、いや、昔のテレビドラマではありませんよ (笑)。
http://www.janusfilms.com/

この映画を見てすぐに分かる特色は、音楽が全くないこと。いやもちろん、劇中で音楽が演奏される場面では音楽が流れるものの、いわゆる BGM のようなものはなく、ひたすら人々の立てる物音だけがスピーカーを通ってくる。いや、だがしかし、私が覚えている限りにおいて、この長い映画の中でただ一ヶ所だけ、BGM が流れる。それは映画のほぼ終わりに近い箇所で、プレスリーのカバー演奏 (英題になっている "A Brighter Summer Day" はその歌詞の一部) を録音したオープンリール・テープが預けられる場面。きっとそこでは、人の思いが現実を超えて、音楽として空気の中に流れ出たということを表現したかったのではないか。それにしても、音楽のないこの映画、画面もまた暗いシーンが多い。1960年前後の台湾を舞台にしているのであるが、頻繁に停電が起こる様子が描かれている。主人公、小四 (シャオスー) は多くの場面で長い銀色の懐中電灯を手にしており、そこに彼は人生の指針を見出しているように見えるが、彼がその懐中電灯を手放したとき、取返しのつかない悲劇が起こるのだ。そして、冒頭に掲げたポスターにある「この世界は僕が照らしてみせる」というコピーは、まさにそのことを示しているのである。これがそのシャオスーと、恋人の小明 (シャオミン)。そして、懐中電灯を手にした小四。
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この映画の不思議なところのひとつは、出てくる若い女性のほとんどが、申し訳ないが全く魅力的には見えないということだ。一方、男の子たちはなかなかに美形もいるのであり、もしかしてこれは監督の指向のなせるわざかとも思いたくなるが、まあそれはどうでもよい。音楽のないシーンの連続で成り立っているこの映画、もちろん主人公たちが断腸の思いをあらわにする瞬間もあれこれあるのだが、思い返す映画全体の印象は、極めて平板。この静けさ、どこかで覚えがある。そう、小津安二郎の一連の映画群である。あの、家族の姿を描きながらもどこか別の世界の人たちのような登場人物たちと、この映画の登場人物たちの印象はかなりダブるのである。また、主人公の家 (かなり日本風であるので、きっと戦前の日本人の家に、戦後台湾人が住み着いている設定なのであろうと解釈した) のある狭い部屋のシーンが何度か出て来て、そこに何本も空き瓶が並んでいるのが小津的であるし、シーンによってその瓶の並び方が違う点にも、監督のこだわりが見える。そしてこの映画の平板さは、不良グループたちの描き方にもはっきり出ている。要するに、出てくる不良たちの誰もが全然怖くないのである (笑)。極め付けは、「台北中が恐れた男」として、途中でフラッと帰ってくるハニーという男。このように、海兵隊の恰好をして、コートには袖を通していない。
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彼は敵対する不良グループに喧嘩を売るのであるが、「おぅ、やるか」と言って繰り出すパンチの、見るからに弱っちいこと (笑)。そうだなぁ、「あしたのジョー」の中で、パンチドランカーになってしまったカルロス・リベラが「ミーのパンチ、強いネ」と言って繰り出すヨレヨレのパンチにそっくりとでも言おうか。そうしてこのハニーさん、その後あっという間に退場になるのだが、本当に台北中が恐れた男なら、簡単にそんな風にはならんでしょう。そのあたりのクサさになんとも言えない味があるのである。それ以外にも、まさに「ゴッドファーザー」ばりの大量虐殺のシーンがあるが、その前後の成り行きがよく分からないシュールさがある。そうそう、シュールと言えば、この映画には何度か、集団が思い思いのポーズで静止しているシーンが出てくる。そのあたりの静けさは、一度見たら忘れられないものであり、それから、殺戮シーンで出てくる蝋燭の光が、まるでジョルジュ・ラ・トゥールの絵画のような美しさである。その画家の名前を知らない人でも、この作品は見たことがあるだろう。
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それ以外にも、1960年頃の台湾の情勢を思わせる、ケネディ、プレスリー、ジョン・ウェインへの憧れを示すシーンもあり、戦後に本土から台湾に移住してきた主人公一家 (実は監督のエドワード・ヤンも上海から移住した、いわゆる外省人であるらしい) の苦難も描かれている。そのようにごった煮感満載の 4時間、膀胱の膨張に耐えて見るだけの価値はあるものであり、まさに小津映画と「ゴッドファーザー」の両方に思い入れのあるような映画好きなら、見逃してはならないものだと思う。但し、もう一回見ろと言われたら、ちょっと躊躇するかもなぁ・・・

by yokohama7474 | 2017-03-25 23:32 | 映画 | Comments(0)

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今回の記事は短くなりそうだ。理由のひとつは、明朝は早く起きる必要あること。もうひとつの理由は、残念ながら私はこの映画を面白いとは思わなかったことだ。だがまぁ、どのような映画であったのか、記録のために書いておこう。まず題名だが、「アサシン」とは暗殺者のこと。「クリード」は宗教上の信条のことで、クラシック音楽を聴く人なら、ラテン語のミサ曲に「クレド」(Credo) という曲が必ずあって、よく「信仰告白」などと訳されているのをご存じだろうが、きっとその言葉が Creed の語源だろう。15世紀スペインの暗殺者の子孫が、先祖の記憶を辿る特殊な装置によって時間を遡ることを強制される物語であることは予告編で明らかだが、見てみるとこれは、アサシン教団 (これは実在した集団のようだ) と、陰謀論ではおなじみのテンプル騎士団の確執を描いたもの・・・のようだが、正直なんだかよく分からない (笑)。身も蓋もない言い方をすると、このストーリーはあまり私の人生に関係ないという思いが、映画の最初から最後までついて回り、時にウトウトと夢の世界に落ちて行くことになってしまったのだ。だが、何を隠そう、私は陰謀論は大好きで、テンプル騎士団についての本は真面目なものから与太話本まで何冊も読んでいるし、ロンドンのテンプル教会も大好きなのである。その私が感情移入できないのだから、やはり内容に問題があるのではないだろうか。アサシン教団の戦士たちは、あたかもこのワシのように空からダイブするのだが・・・。
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実はこの映画、ゲームに基づく作品らしい。私はゲームをしない人間なので全く知識がないのだが、ゲームの主人公にもともとイメージのある人なら、この映画に対して、また違った見方ができるのであろうか。
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映画には様々な設定があるが、どこまで行っても所詮は虚構の世界。最近はリアルなドキュメンタリータッチの秀作も数々あれど、それらとても、あるいはさらに言えば、ドキュメンタリー映画ですら、映画である以上、そこには虚構の要素が色濃く存在しているものというのが私の考えだ。だから、見る者がその嘘に浸っていられるか否かという点が、良い映画と悪い映画を区別する分かれ道であると思う。その点、この映画のそこここに、嘘が嘘として放り出されているのを私は感じる。例えば、主人公を祖先の世界に戻すというアニムスなる巨大な機械が主人公をガッチリと抱えることになるのだが、過去の世界で主人公の祖先が敵と戦う動きを、そのまま現実世界でアニムスにつかまれた主人公が再現することになる。ここで現代の主人公の戦う姿を映す理由は何であろうか。正直ちょっと煩わしいし、また、俊敏に動く主人公の祖先は、当然ながらでんぐり返りなどもするのであるが、おいおい、背中にはアニムスを背負いながら、どうやってそれを現実世界で再現するのか!! (笑) なにせこんな感じなんだから。
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このような嘘が気になる映画は、残念ながら私は評価できないのである。ストーリーもさしてひねりはなく、敵味方が奪い合う対象物も、一体なぜそんなに価値があるのか、その説得力に乏しい。それから、アサシン教団、テンプル騎士団双方の仲間うちの結束や人間同士の感情、歴史的使命等についての説明が少なすぎる。戦闘シーンは玉石混淆という感じで、カッコよく敵をなぎ倒すシーンもあるが、あまりカッコよいと思えない殺陣もある。主役のマイケル・ファスベンダーは、ドイツ人とアイルランド人の間に生まれた人らしく、私は過去にもいくつか彼の出演作を見ているはずだが、正直あまり印象にない。ここでも、惚れ惚れする快演か否かは、意見の分かれるところではないか。
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ただ、ほかの役者陣はなかなかに豪華である。まず、先に見た「マリアンヌ」の演技も記憶に新しい、マリオン・コティヤール。ここでは全く違った顔を見せる。そして、さすがに年老いたと思うが、あのジェレミー・アイアンズがその父親役を演じている。
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そして、おぉこれはなんと久しぶり、テンプル騎士団の幹部を演じているのは、あのシャーロット・ランプリングではないか!! 既に 70を超えているが、ご健在で何より。ただこの映画での彼女の役柄には、それほど印象的なシーンはない。
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それから、ロケ地で 2ヶ所、私の好きな場所が出てきたので簡単にご紹介。ひとつはセヴィリアの大聖堂。これは非常に規模の大きい建物で、「後世の人たちが、アイツらは気でも狂ったのかと思うくらいデカい聖堂を建てよう」という意図で作られたという。だが、広い場所に面していないので、現地を訪れてもなかなか雄大な姿の全容を見ることができない。ただ、中には有名な場所がある。そう、コロンブスの墓所である。4人の王の彫刻が棺を担いでいる。またその横には、巨大な聖クリストバル (もちろん、コロンブスのファーストネーム、クリストファーと同じ名前) の壁画があって、これも忘れがたい。私がこの地を訪れて既に 20年が経つが、その感動は忘れがたい。
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もうひとつは、ロンドンにあるフリーメーソンのグランド・ロッジ。映画の中ではテンプル騎士団の集会場という設定になっているが、イメージ的にはぴったりだ。私はこの建物の前を何十回も通ったことがあって、それは、ホルボーン界隈からコヴェントガーデンのロイヤル・オペラに向かう途中にあるからだ。内部の見学もできるようだが、そう言えば中に入ったことはないなぁ。もしかすると、この映画でのテンプル騎士団の集会のシーンも、ここで撮影しているのだろうか。それとも、さすがにあんなに広いホールはないのかな。今度ロンドンに行く機会があれば覗いてみたいものである。
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さてこの映画、終わり方はいかにも次回に続くといった風情である。もし次があるなら、映画単体として楽しめるクオリティで作って欲しいと、心から願うのであります。...結局あまり短い記事にはならなかったなぁ(笑)。

by yokohama7474 | 2017-03-17 01:26 | 映画 | Comments(0)