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パターソン (ジム・ジャームッシュ監督 / 原題 : Paterson)

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ジム・ジャームッシュの新作映画が 2本、同時期に上映されている。ひとつはこの「パターソン」。もうひとつはドキュメンタリー映画で、「ギミー・デンジャー」という作品。2本とも見てから連続で記事を書きたかったが、今日からまた出張に出てしまい、一週間程度は不在にするので、2本目は当分おあずけである。実はこの 2本、共通する要素があって、「ギミー・デンジャー」でドキュメンタリーの対象になっているミュージシャン、イギー・ポップの名前は、この「パターソン」でも出て来るのである。この 2本の間にいかなる連関があるのかは、また追って考察することとして、この「パターソン」について語ろう。

このブログでジャームッシュの作品について記事を書くのは今回が初めてであるが、過去に「クリムゾン・ピーク」と「ハイ・ライズ」の記事において、出演俳優トム・ヒドルストンが以前に出演したジャームッシュの前作「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ」に触れたことがある。もともとニューヨークのインディーズ系の映画監督としてスタートしたジャームッシュとしては、その作品が吸血鬼ものであることは若干奇異な感じがしたが、私としてはそれを大変に楽しんだのである。だが今回の「パターソン」こそ、彼の原点を想起させる、日常を描いたものであり、古くからのファンは、この映画に一種の安心感を覚えるようなこともあるだろう。ジャームッシュは 1953年生まれの 64歳。
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さてこの映画であるが、ジャームッシュの原点を思わせるには理由があって、ここには人間に危害を加える怪物も異星人も出て来ないし、目を覆いたくなるような殺戮もなく、また驚天動地の SFX もない。主人公はニュージャージー (マンハッタンから西にハドソン川を越えると、もうそこはニュージャージーだ) でバスの運転手をしている若い男の日常が淡々と描かれているだけだ。彼はまた詩が好きで、自身でも詩作を行っている。明るくアーティスト指向の妻と、忠実な (?) ブルドッグとの生活は、決して派手でも日々の変化に富んでいるわけではないが、彼は日々、人々の生活を見ながら感性を高め、それなりに充実した生を営んでいる。この種の映画は、監督が自身で脚本を書いているケースが多いが、この作品も、過去のジャームッシュのほぼすべての作品と同様、ジャームッシュ自身の手になる脚本である。これが主人公を演じるアダム・ドライヴァー。
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実はこの一見平穏極まりない映画には、そこここに、観客にほどよい刺激を与える隠し味が仕組まれているのであるが、まずはこの役者である。バスの運転手がアダム・「ドライバー」なんて、出来過ぎてはいないか (笑)。実は彼は、あの超大作「スターウォーズ」の現在のシリーズで、未熟ながら選ばれた血筋を持ち、ダークサイドに落ちた騎士であるカイロ・レンを演じている俳優だ。
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ハリウッドの SF 超大作で主要な役を演じている「ドライバー」さんを、日常生活を描いたこの静かな作品の「ドライバー」役に起用することに、まず監督がこの作品に込めたメッセージを読み取ることができるのではないか (監督は偶然だと発言しているが)。また、彼の役名にももちろんメッセージがある。それは「パターソン」。舞台になっている街と同じ名前の役である。この「パターソン」は、苗字か名前かも判然とせず、普通なら苗字であると考えたいが、彼がファースト・ネームで呼びかける職場の同僚は、彼のことをただ「パターソン」と呼んでいるのである。つまりこの男、舞台になっているパターソンという街の象徴のような存在ということであろう。それから実は、作中でワンシーンだけ、日常の時間に突然切れ目が走る瞬間があるのだが、その場面では、このパターソンの勇敢な行為によって日常が取り戻されるのである。ただの人のよい運転手兼詩人ではないように思われる。

このパターソンの一週間が淡々と描かれるのだが、月曜日に始まって次の月曜日までの毎日、決まって彼と妻のローラのベッドの俯瞰から始まる。こんな具合だが、ここにはエロティックな要素は一切なく、若く善良で真面目な人たちの日常のリズムがうまく表現されている。
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妻ローラ役のゴルシフテ・ファラハニがとてもよい。イラン出身で、リドリー・スコットの「エクソダス : 神と王」や、最近では「パイレーツ・オブ・カリビアン 最後の海賊」にも出ていたようだ。ここでは、ニュージャージーでのささやかな生活を楽しみながら、アーティスティックなものにこだわりを持ち、実はカントリー歌手を目指すという秘めたる野心を持つことで、意識することなく亭主に負担をかける (笑) 妻を、自然体で演じている。
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それから、忘れてはならないのが、2人の愛犬、ブルドッグのマーヴィンである。犬好きにはたまらん名演技を披露している。劇中ではオスだが、実際には元救助犬のメスで、本名はネリー。その名前はエンドタイトルで確認したのだが、映画の最後に「ネリーの思い出に」と出て来るので、このワンちゃんは既に亡くなっていることが分かる。あとで調べると、この映画での演技が認められ、カンヌ映画祭で犬に与えられるパルムドールならぬパルムドッグ (2001年創設) を受賞するはずだったが、その前に死んでしまったという。それを知ると、涙なしには見られない、ここでの演技である。
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もうひとり、日本から永瀬正敏が出ている。ジャームッシュの作品では、もうかなり以前の話になるが、工藤夕貴との共演で「ミステリー・トレイン」に出ていた。記憶ではその映画でのセリフは確か日本語であったが、今回はちゃんと英語での出演で、主役のアダム・ドライヴァーと語り合う日本人の詩人の役である。主人公パターソンがよく佇む滝があって、その風景からジャームッシュが日本を思い出し、久しぶりの永瀬の出演を念頭にこのシーンを書き上げたという。なんとも名誉なことではないか。
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なんでもない日常の中で、例えばたまたまバスに乗り合わせている様々な人々の語る言葉に、いかに人生を考えるためのヒントが隠されているかを知るのは面白いし、あるいは、どんな人にもそれぞれの信念 (それが誰かへの恋愛感情であれ、日常への不平不満であれ、あるいは詩を書くことへのこだわりであれ) があって、それはこの地球上においては些細なことであっても、それぞれの人生の中では重要な意味を持つのだということに気づく。そのようなさりげない示唆に富んでいる点、見逃すべきではないだろう。劇中で主人公が作る、これもさりげないが美しい詩は、ロン・パジェット (1942年生まれ) という米国の詩人の手になるもの。また、そもそもこのパターソンという街、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ (1883 - 1963) という詩人の長編詩のタイトルになっていて、主人公が詩作に取り組むのも、永瀬演じる日本の詩人がこの地を訪れるのも、この詩への憧れがあるからという設定になっている。私は、詩は決して得意分野ではなく、この詩集のことも恥ずかしながら今回初めて知ったが、ちょっと興味がある。ただ、日本でも翻訳が出ているが、まさにこの作中のセリフにある通り、翻訳詩を読むのは、「雨具を着てシャワーを浴びるようなもの」。原語でないと詩の面白さはなかなかに分かりづらいことは確かだろう。
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この映画を、ただの日常を描いているだけだと思う人もいるかもしれないが、上で少し見た通り、必ずしもそうではないだろう。最後に指摘したいのは、やたらと双子が登場することであり、主人公夫婦の会話にも、子供ができるなら双子がよいという話題が出て来る。このことの意味するところは明確ではないし、プログラムに掲載されたジャームッシュのインタビューでも何らヒントは発見できないが、何かパラレルワールドのようなイメージを感じると、的外れであろうか。つまり、人が今日あるのは、その過去の歴史における、ちょっとした違いの集積の結果である。たとえ同じ顔、同じ性格の人であっても、生きていくということは、その過程においてそれぞれの人生の要素のひとつひとつを、時間とともに不可逆的に作り上げて行くということなのではないだろうか。この映画における双子たちは、そのような偶然の積み重ねの結果の、人によって異なる人生を象徴していて、実は彼自身が街そのものであるパターソンは、そのような人生の積み重ねをじっと見続けている・・・。そんな解釈をすると、この映画の静謐さに、何かとても尊いものを感じてしまうのである。・・・うーむ。ではジャームッシュがこの「パターソン」と「ギミー・デンジャー」を続けて制作したのも、双子の映画という意味か??? 片割れの映画を見る際に、注意しておきたい点である。まぁ、まるっきり違っているかもしれませんけどね (笑)。

by yokohama7474 | 2017-10-17 13:49 | 映画 | Comments(0)

オン・ザ・ミルキー・ロード (エミール・クストリッツァ監督 / 原題 : On the Milky Road)

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今日のニュースで、「世界都市ランキング」で、東京が昨年に続いて 3位となり、ボイントにおいて、2位のニューヨークとの差を縮めたという記事が出ていた (1位はロンドン、4位はパリ)。その理由のひとつは「文化・交流」分野であり、コンサートホールや劇場の数が貢献したとのこと。東京の文化をあれこれ逍遥するこのブログを書いている身としては、大変嬉しい結果であり、東京における文化生活の多様性につき、引き続き多くの人々にアピールして行きたいと思っております。とはいえ、全く堅苦しいものではなく、ラプソディを口ずさみながら川沿いを乱れて歩く、そんなブログであり続けるわけですが。

さて、そんな導入に続き、ここで再度確認しておきたいことがある。世界の大都市にはそれぞれ映画館が沢山あるが、邦画やハリウッドの最新作はもちろん、あまりなじみのない国の映画をこれだけ多く見ることができる街は、東京のほかにはないのではないか、ということだ。例えばパリには有名なシネマテーク・フランセーズがあり、貴重な映画作品を見ることができるが (私も一度そこの深夜上映で、小林正樹の映画を見たことがある)、この施設に相当するものは、東京では、東京国立近代美術館のフィルムセンターであって、通常の映画館ではない。その点東京では、今でもマイナー作品を上映する映画館が結構存在していて、世界の多様な映画に接することができるのである。私のポイントは、世の中に映像が溢れ、動画配信を気軽に楽しむことができる 21世紀の現在に至っても、良心的な小規模映画館がこれだけ多く存在する東京という街は、その点において極めて高い評価を得てしかるべきだということだ。

今回、私がどうしても見たいと思って、若干無理をしながらも日比谷のシャンテシネでこの映画を見ることができたのも、東京ならではの文化的僥倖というよりほかはない。エミール・クストリッツァの新作を見逃すことは、現代における非常に貴重な文化的試みを体験しそこねるということなのだから。と言いながら、私がこれまでに見た彼の映画は、「アンダーグラウンド」のみである。渋谷の小劇場のレイトショーで見た 1995年制作のこの映画、旧ユーゴの作品という物珍しさを越えて、映画という表現手段の底力を最大限に発揮した、素晴らしい作品であったのである。自分たちの普段暮らしている世界とは全く異なる緊張感や、現実の仮借ない残酷さ、そしてそこで逞しく生き抜く人間たちの生命力をひしひしと感じることができる映画であった。それ以来私にとってクストリッツァの名は、現代における最も優れた映画監督のひとりとしてインプットされた。因みにこの「アンダーグラウンド」、カンヌ映画祭のパルムドーム受賞作品である。これが今年 63歳になるクストリッツァ。サラエヴォの出身である。
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と、そのように興奮した口調で書いているものの、実のところ、最近ちょっとバタバタしていて、本作の題名をよく覚えていなかった。そんなに意気込んで何という映画を見に行くのか、と家人に訊かれたとき、「ええっと、『ミルキー・オン・ザ・ウェイ』だよ」と答えてしまったのである。その瞬間家人が思い浮かべたように、ペコちゃんがさすらいの旅に出るロードムーヴィーかといえば、さにあらず。正しい題名は、「オン・ザ・ミルキー・ロード」である。戦争が起こっている田舎町を舞台に、爆弾の飛び交う中、搾りたての牛乳を容器に入れ、ロバに乗って配達する男が主人公の物語。ペコちゃんやミルキーは、一切関係ありません (笑)。
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さて、旧ユーゴスラヴィア紛争は、東端とはいえヨーロッパという近代文明の先進地域で起こった内戦であり、私などにはとても理解のできない、凄まじい憎悪を孕んだ対立を背景としていた。紛争当時、名前からして東欧出身と思われる人と会食しているときに、なぜヨーロッパで殺し合いが起こっているのかと質問したことがあるが、何やら要領を得ない、「しょうがないんだよ」といったニュアンスの回答であったことを覚えている。クストリッツァの名作「アンダーグラウンド」はまさに、このユーゴの内戦を舞台としていた。今回の「ミルキー・オン・ザ・ウェイ」じゃなかった、「オン・ザ・ミルキー・ロード」も、音楽の使い方や映像の雰囲気において、記憶の中にある「アンダーグラウンド」と共通点が多い。ここではセルビア語が使われ、劇中では戦争が起こっていて、地雷原もクライマックスで重要な要素となることから、やはり同様にユーゴ内戦が舞台かと思いきや、どうやら具体性はなく、ただ「戦争地域」という設定であるようだ。冒頭には「3つの実話とたくさんのファンタジーに基づく」とあるが、プログラムによるとその 3つの実話とは、以下の通り。
1. 90年代のユーゴで英国のスパイから逃れようとした女性の物語。
2. アフガン紛争中に毎日自転車でロシア軍基地に牛乳を運んでいた男が、ある日蛇に襲われて足止めを食い、その間にロシア軍基地は攻撃を受けて壊滅したこと。
3. 地雷原で羊の群れを飼うことで自由を得たボスニアの男の話。
なるほど、この映画の流れがよく分かる。ロバに乗って牛乳を運ぶ主人公コスタを演じるのは、監督のクストリッツァ自身である。本作の脚本も彼が手掛けている。
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この映画を見ていて何度も思ったが、この人、とてもいい顔をしている。美男ということでは全くなく、むしろ三の線なのであるが、飄々とする中に、何か人生のどこかで負った深い傷を感じさせる。この映画をご覧頂く方には、彼が最初に登場するシーンで、鏡の下の方に貼ってある、ちょっと目を引く写真にご注目頂きたい。彼の抱える心の闇の理由がそこに存在していて、そのことはその数分後に村人たちのセリフによって示されるのだ。私は運よくそのことに気づいたので、作品にスムーズに入って行くことができた。冴えた演出である。このコスタに思いを寄せるミレナという女性を演じるスロボダ・ミチャロヴィッチも大変よい。彼女が踊るときにラジカセ (!!) で流れるのは、懐かしの「フラッシュダンス」(1983年) のイントロ部分だ。これは設定された時代を表しているのだろうか。
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そしてもうひとりの主要な役を演じるのは、モニカ・ベルッチ。イタリアの女優で、これまでそれほど大した作品に出ているわけはないが、その名前にはどこか特権的 (?) な響きがあり、いかにもゴージャスな存在だ。このブログでは、「007 スペクター」での出演をチラリとご紹介したことがある。この映画での役柄は、セルビア人の父とイタリア人の母を持つ女性という設定で、ここではセルビア語のセリフを喋っている (口ずさんでいる鼻歌はどうやらイタリア語のようだが)。調べてみると、私より 1歳上の 1964年生まれ。まあ、若いとは言えませんな (笑)。
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コミカルな味もそこここにありながら、そしてそれが映画全体のトーンを明るくしていながら、やはりこの映画で描かれているのは、戦争の中で生きる人々の直面する過酷な現実であり、それはそれは仮借のないもの。またその反動として、人間や様々な動物たちが逞しく生きる姿にも、強く打たれることとなる。その二面性のギャップは、見ているうちに凄みを帯びてきて、人々の胸に迫る。このような描き方は、残念だが日本の映画では絶対できないだろう。いや、日本だけではなく、どの国でもこのような仮借ない映画を作るのは難しいだろう。それは、本当にここで描かれた命の数々が、いつどこで散ってしまうのか分からないという感覚、それゆえに、上に挙げた人の言葉ではないが、「しょうがない」という諦観が、リアルにそこにあるからだ。ここには湿っぽさがなく、主人公が架空の世界で恋人に再開するときの幻想シーンにも、過度な感傷性はない。それが戦争という、人間がどうしてもやめることのできない悲惨な「習性」への冷ややかな視線を感じさせる。いや、実際にはこの映画においては、戦争は途中で終わるのだが、それにも関わらず、ある理由によって殺戮は続く。つまり、人間の「習性」としての戦争だけではなく、一部の狂気を帯びた人々の巻き起こす悲劇までもが描かれていて、それはもう救いのない話なのである。そのような救いのない話を、見る人に嫌悪感を起こさせずに見せるのが、偉大なる映画作家クリトリッツァの手腕なのだ。

主人公コスタは、ロバに乗っているだけではなく、ハヤブサを友とし、ヘビには危ないところで命を救われ、クライマックスでは地雷原で羊の大群の中で命をかける。そのような格闘のあと 15年が経ち、コスタが山の中に入って行くシーンがあるのだが、そこには驚くべき情景が現れる。これだ。
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巨大な熊にミカンを口移しで与えるコスタ。これは CG かと思いきや、本当の熊で、その名はメド。現在は体重 300kg とのことだが、体重 80kg の頃からクリトリッツァと「友達関係」にあるらしい。やはりこのクストリッツァという人、動物とコミュニケーションできる特殊な力があるとしか思えない。劇中では、その巧みなツィンバロンの演奏シーンもあり、その多彩な才能には本当に恐れ入る。

このように、エミール・クストリッツァという特異な才能を充分に堪能できる傑作であり、その強烈な表現力に耐える自信があり、東京の文化度の高さを実感したい方には、是非是非お薦めである。それから、ちゃんと正確に題名を覚えてから劇場に向かわれることも、合わせてお薦めしておこう (笑)。あ、もちろん、東京以外でも、札幌、横浜、名古屋、大阪、神戸でも上映中。日本はなんと文化的な国であることか。

by yokohama7474 | 2017-10-13 00:47 | 映画 | Comments(0)

散歩する侵略者 (黒沢清監督)

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この映画の監督は黒沢清である。学生時代、映画研究会というサークルに所属していた私は、自分自身はそれほどの熱意はなくとも、周りにはいわゆる「自主映画」、要するに当時なら 8mmフィルムを使って、非商業ベースで作る映画のことだが、その分野に深入りしている人たちがそれなりにいた。その世界の人たちにとって、黒沢清という名は既に有名で、尊敬を込めて彼のことを語る先輩などもいたものだ。もちろん、この人がプロの監督になって、現在に至るまで活躍していることは知っていたが、過去にどんな映画を撮った人だっけという家人の質問に対し、うーんと数秒考えて、30数年ぶりに私の頭の中から出て来た記憶は、「えぇっとあのほら、洞口依子の出た、あれだよあれ。ええっと・・・そうそう、『ドレミファ娘の血は騒ぐ』」という作品名。実は私はこの作品を見た記憶はないのだが、伊丹十三が出ていて、その彼が自身の監督作「タンポポ」でも洞口依子を起用していて、その中でマーラー 5番が使われていた (特に卵を使ったラブシーンでのアダージェット) ことなどを急に思い出したりして、なんだか懐かしいような眩暈がするような、妙な感覚にとらわれたものである。宇宙人に狙われるとはこんな感覚なのかもしれない (笑)。現在では誰でも動画を作成してネット上で公開できるわけで、昔の「自主映画」(その多くは自己満足のために作られたものであったと言えば語弊はあるが、私はそう思っている) という言葉について回る感覚は、既に過去のものになってしまっていると思うが、その分野から出て活躍している日本の映画監督は沢山いるので (Wiki にも「自主映画」という項目があることを今回発見)、それが現代日本の文化のひとつを源泉にもなっているということだろうか。これが黒沢監督。
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さて、この映画を見る人のほとんどは、自主映画などという言葉を知らない人であろう。だから、例えば室内のシーンがやたら暗いなぁと思われるケースもあるように思っても、あまり気にしないかもしれない。実際この映画では、照明はどうなっているんだと思う暗めの画像が多く、私のような人間には、それが「自主映画的」に見えてしまうから、たちが悪い。もちろんこれには好みの問題もあって、私の場合は、室内劇の場合には精妙な、凝りに凝った人工的な映像が好きで、そのためには CG の効果的活用も重要だと思うのだが、もちろんそうでない意見もあるだろう。プログラムを読むと、黒沢の前作「クリーピー 偽りの隣人」と同じ真夏の時期の撮影となったが、映像のトーンが同じにならないように、少し寒々とした映像にするため、北欧の映画の色彩を参考にしたという。北欧の映画と言えば、古くはベルイマンなどがあり、最近の北欧映画をこのブログでいくつかご紹介したこともあるが、さて、その試みは成功しているだろうか。私個人の感想は、上記で明らかであると思う。日常に潜む奇怪な出来事の不気味さを表現するなら、もっと精密な絵が欲しい。

だが、映画そのものには見るべき箇所はいろいろあって、結構楽しめた。予告編からも明らかであったように、この映画においては、人間世界に紛れ込んだ宇宙人たちが地球を侵略するという設定になっている。長澤まさみと松田龍平が夫婦を演じ、後者が宇宙人の役柄である。
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この松田龍平という役者、本当にほかの役者にない、大真面目でいてとぼけた不思議な味わいがあって、もうそのまま宇宙人かい、と言いたくなる名演技である (笑)。要するに、「この人変わっているな。ちょっと変だな」と思わせるところが、日常に潜む不気味さの知覚の始まりであるとすると、彼の演技はその知覚を促す最高のものであると思うのだ。それに対して長澤まさみは、イラストレーターとして社会で活躍する女性という役柄だが、見事なまでに劇中ずっと不機嫌なのである。これはこれでまた、年齢的にもそのような役が似合うようになってきていると思うし、これからも怒る女性を演じ続ければ、逆に笑顔を見せた瞬間に、最高に輝くのではないか (笑)。いや実際、この映画でも、ネタバレは避けるが、そのようなコンセプトも見られたような気がする。それから、彼女が劇中で二度発する「もぅ、やんなっちゃうなぁ」という嘆きの言葉は当然、小津の「東京物語」における杉村春子のセリフへのオマージュであろうが、その言い回しは結構いい味が出ていた。きっと監督の厳しい演技指導があったのではないか。

その他、前田敦子、満島真之介、東出昌大、小泉今日子、そしてとりわけ笹野高史といった脇役陣が、それぞれの個性を出していて面白い。それから、主役の一角である長谷川博己も、「進撃の巨人」や「シン・ゴジラ」といった近作よりも、この飄々とした演技の方が、私にはよほどしっくり来る。ラスト間近ではなかなか体を張った演技も見せるが、ただ監督の演技指導に沿っているというのではなく、かなり自主的に役作りしたのではないかと想像される。
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ストーリーに関して、この程度はネタバレにならないと想定して書いてしまうが、ここに出て来る数人の宇宙人たちは、侵略の対象である地球人のことをよく知るために、様々な概念を人間から採取している。例えば「家族」「所有」「自由」仕事」「自分」・・・。そのような概念を抜き取られた人間は、時にハッピーな人格に生まれ変わるのであるが、あるひとつの概念だけは、それなしには人間が人間たりえない、というのが映画のメッセージ。勘のよい人はここでピンと来るであろうから、これ以上深入りはしないが、まあそれだけこの映画の設定には、誰にでも分かる平明さがあって、その点は (たとえ室内の映像が暗くて不満であっても 笑)、多くの人の共感を得られるものと思う。ハリウッドにおけるこの手の映画とは異なり、本当に世界中で宇宙人が人間世界を侵略する迫力のあるシーンは全然出てこない。だからここでの「宇宙人」は、ひょっとして比喩なのではないかと思われるほどだ。そう、ここでの侵略者たちは、のんきに人間社会を散歩するのである。この映画がカンヌ映画祭の「ある視点」部門に出品されたこともうなずけようというものだ。なので私は、この映画が「自主映画」的であるか否かは一旦忘れ、それなりに楽しめるユニークな映画であるということはここで申し上げたいと思う。カンヌでの松田と長谷川。
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プログラムを読んで知ったことには、これはもともと演劇が原作らしい。イキウメという劇団が 2005年に初演し、2011年に再演、そして今月末から 12月にかけて、東京・大阪・福岡でまた再演されるという。作・演出を手掛けるのは 1974年生まれの前川知大 (ともひろ)。この劇団では SF、ホラーといった系列の作品を上演しているという。プログラムに掲載されているインタビューでは、この作品のタイトルには「ウルトラセブン」に通じるものがあるのでは、という指摘に対し、確かに影響はあると認めている。「日常の中に宇宙人がいる、という違和感が好きなんです」と語っており、そのイメージの源泉は、メトロン星人であるそうだ。私はその分野でのマニアではないものの、幼時に体験した「ウルトラセブン」のいくつかのストーリーに見られたシュールな感覚は、いわゆる幻想的なイメージの源泉のひとつにはなっている。特にこのメトロン星人の回 (「狙われた街」) は、実相寺昭雄が演出をした伝説的なものであり、確かにそこからの演劇人への影響とは、いかにもありそうなことだ。うーむ、この芝居、ちょっと見てみたい。もともと私は、素人映画と同様、素人芝居にも手を染めていたこともあり、演劇も好きな人間であるにも関わらず、最近はほかの分野にプライオリティを置いている関係で、ほとんど芝居を見ることがない。これを見れば、自主映画的感覚と演劇的感覚の差異について、新たな発見があるかもしれないなぁ。
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by yokohama7474 | 2017-10-11 00:49 | 映画 | Comments(0)

エイリアン : コヴェナント (リドリー・スコット監督 / 原題 : Alien Covenant)

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さて、前項がスイスの幻想画家 H・R・ギーガーのドキュメンタリー映画を扱った記事であったので、物事の必然として、今回はこの映画を採り上げる。あ、誰々指揮のなんとか管弦楽団の演奏会の記事を期待された方もおられようから、その記事も、それから、それ以外に溜まったあれこれのネタの記事も、順にアップして行くが、まずはともあれ、物事の流れに従って、この「エイリアン : コヴェナント」を語ることをお許し頂きたい。

さて、「エイリアン」である。ギーガーのデザインに基づき、1979年制作のこの映画によって世に出た、世にも忌まわしき宇宙生物。人体に寄生して急速に成長、凶暴化し、その力は強大、動きは敏捷で、攻撃されても酸性の血液が金属を溶かすことで、宇宙船に乗った人間たちをとことん危機に追い詰める。最初の作品では、最後まで全身の姿が明らかになることはなかったが、その後シリーズ化されるにつれ、ゴキブリ感覚で駆除する必要は生じるわ、機械を身に着けたリプリーが直接対決はするわ、女王エイリアンは出て来るわ、もう大変な増殖ぶりなのである。今回がシリーズ 6作目であるが、私はこの「エイリアン」のシリーズは、ハリウッドでシリーズ化された作品の中でも、出色の出来になっているものと常々思っている。シリーズの生みの親はなんと言っても、1作目の監督であるリドリー・スコット。1937年生まれ、もうすぐ 80歳になる英国の巨匠で、既にサーの称号も得ている。
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私がこのシリーズを面白いと思うのは、「エイリアン」の名称をタイトルに持った最初の 4作 (因みに日本のタイトルでは番号がついているだけだが、原題は少しずつ違っているケースがある) は、それぞれ別の監督であるのに対し、それらの前日譚に当たる前作「プロメテウス」と今回の「エイリアン : コヴェナント」の 2作は、またリドリー・スコットの監督に戻っているということだ。しかも、もうひとつ重要なのは、2作目から 4作目までの監督である。ジェームズ・キャメロン、デヴィッド・フィンチャー、ジャン=ピエール・ジュネ。なんとも個性的な第 1級の監督たちが名を連ねているのだ。こんなシリーズはほかにはないだろう。

ところで、前回の「プロメテウス」の予告編は、白くて眉のない不気味な人物が壮大な風景をバックに登場するだけで、ストーリーについては何ら語らないものであったので、劇場で見てみて初めて、エイリアンものの前日譚であると判明した。それに対してこの作品は、劇場で予告編を見た記憶がほとんどないように思うのだが、それでも題名から、エイリアンものの 1作であることは明らか。邦題は、さすがに前日譚であるからと言って「エイリアンゼロ」とするわけにはいかなかったのだろう、原題をそのまま使っている。コヴェナントとは、多くの人にとってはなじみのない言葉かもしれないが、私が従事している仕事は、ガッツリ英文の契約の山に囲まれる生活であり、その契約には "Covenants" という条項は必ず入っている。我々の仕事では「コヴェナンツ (複数形)」という言葉を普通に使うが、強いて日本語にすると、「遵守事項」とか「誓約事項」とでもなるだろうか。契約上必ず守らなければならない事項のことである。ではなぜこの映画にこんな言葉が使われているかというと、別にエイリアンが何か特別な約束をしているわけではなく (笑)、劇中で入植者を乗せて宇宙を航海する宇宙船の名前が「コヴェナント号」であるからだ。この Covenant という言葉は、聖書における神と民との契約というイメージがあるように思われる。つまり、この宇宙船が探している入植地こそ、神との「約束の地」であるべきということだろう。
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そう、この映画は「プロメテウス」の後日譚というよりは「エイリアン」の前日譚であり、まさに最初の作品にあったようなエイリアンへの恐怖が再現されているところがあるように思う。だがその一方で、恐らくは多くの人たちに支持されにくい要素があるとすると、何やら小難しい創造主のイメージが入ってきてしまっており、単純にエイリアンとの対決でハラハラドキドキということにならない点を挙げる必要があるかもしれない。マイケル・ファスベンダー演じるアンドロイドのデヴィッド (ミケランジェロのダヴィデ像に由来) が、実質的にこの映画の主役になっているのだが、あまり語るとネタバレになるので、やめておこう。
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面白いのは、彼なり、もう少しあとの世代のアンドロイドには、人間の文化というものが予めインプットされている設定で、先のダヴィデ像もそうだし、ピエロ・デラ・フランチェスカの絵やバイロン、シェリーらの詩についての知識もあり、そして、何かワーグナーをピアノで弾けと言われると、楽劇「ラインの黄金」の終曲、「ヴァルハラ城への神々の入場」を弾き始めるのである。因みにこの曲、大詰めではオーケストラ曲として流れるシーンが出てくる。余談だがこの演奏、もちろん曲を端折って編集してあるのは致し方ないにせよ、トランペットが耳につくなど、オケのバランスが個性的で、何か通常の演奏と違う。エンドタイトルで確認すると、ホセ・セレブリエル指揮のボーンマス響の NAXOS 盤だった。セレブリエルはウルグアイ出身の名指揮者で、レオポルド・ストコフスキーがアイヴスの交響曲第 4番という難曲を世界初演した際に副指揮者を務めるなどの実績を持つ、ストコフスキーの弟子筋に当たる人。1938年生まれで、未だ健在であるようだ。と思って調べてみてびっくり。件の CD、ジャケットはこの通りだが、これ、ワーグナーのオリジナルではなく、ストコフスキーの編曲版なのだ。いやー、道理で聴き慣れない音が鳴っていると思いましたよ (笑)。わざわざこの演奏を使った意図を詮索してもよいが、まぁこの辺でやめておきましょう。
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この映画でもう 1人頑張っているのは、ダニエルズ役のキャサリン・ウォーターストーン。「ファンタスティックビーストと魔法使いの旅」にも出ていた女優だ。演技には見るものがあると思うが、正直なところ、もう少し花が欲しいようにも思う。
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それ以外の俳優陣は、あまりまともな役柄をもらっていないように思え、この点も、一般的に見てこの作品の弱点になりそうだ。実際、総じて演技のレヴェルにも課題ありと思う。これらの俳優に感情移入をさせないように作られたということだろうか。あるいは、80 近い老監督は、これだけの数の俳優に自ら丁寧な演技指導ができなかったということか。よく分からないが、どうもこのあたりのクオリティの問題で、あまりヒットしていないという事情なのかもしれない。この点は若干残念なのであるが、だが、ただ増殖するだけのシリーズものが多い中、ストーリーをもとに戻し、先行作品の登場キャラクターをよく覚えていなくてもそれほど困らない、このようなやり方には見るべきものがあるように思うが、いかがであろうか。リドリー・スコットという監督は、もちろんシリーズ最初の「エイリアン」や、あるいは「ブレードランナー」という初期の作品から、驚くほど様々なタイプの映画を作ってきたし、私もその多くを見てきた。そのすべてが傑作ではないにせよ、齢 80にして自らの原点に還って来たことには、改めて感慨を抱くのである。これはひいきの引き倒しのいうことかもしれないが、私としてはこの映画、やはり無視できないものなのである。ちょっとエイリアンが可愛いシーンも出てくるし。
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可愛くないか、やっぱり (笑)。

by yokohama7474 | 2017-10-07 01:16 | 映画 | Comments(0)

DARK STAR / H・R・ギーガーの世界 (ベリンダ・サリン監督 / 原題 : DARK STAR - HR GIGERS WELT)

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H・R・ギーガー。広く一般に知られている名前ではないかもしれないが、上のポスターのようなイメージをどこかで見かけたことがある人は多いのではないか。このエアブラシによって作られた不気味で陰鬱な黒魔術的イメージのひとつの象徴として彼の名を高めたのは、なんと言ってもリドリー・スコット監督の名作「エイリアン」における不気味極まりないエイリアンの造形であったことは論を俟たない。
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この映画は、そのスイス人画家 H・R・ギーガー (1940 - 2014) の晩年に制作されたドキュメンタリーである。恐らくは現在公開中の (そしてあまりヒットしていない様子の) やはりリドリー・スコットによる「エイリアン : コヴェナント」に合わせて公開されているものであろうが、いかんせん、シネコンで全国で大々的に上映という運びにはならず、東京でも上映劇場は極めて限定的。最近までは、恵比寿の東京都写真美術館のホールで上映されていただけであったし、現在は (私もそこで見たのだが) 渋谷のシアター・イメージフォーラムでの上映だけ。そして全国的に見ても、ほかには名古屋の今池にある名古屋シネマテークのみでの上映という状況である。この週末からは角川シネマ新宿でも上映が始まるようだが、いずれにせよそれだけで、繰り返しだが極めて限定的な上映なのだ。私としても、この映画を広く遍く宣伝して回るつもりは毛頭なく、もともとギーガーが好きな人、あるいは悪魔的な芸術に興味のある人にのみ、推薦したいと思ってこの記事を書くつもりである。これが晩年のギーガーの肖像。
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「エイリアン」以外での彼の業績として、ロックの分野では彼の手掛けたおどろおどろしいジャケットが、アナログレコード時代からあれこれあるようである。私もロック自体に興味がないわけでは全くないものの、どうしても物理的な時間の制約で、聴く音楽としては圧倒的にクラシック主体の生活を送ってきた。そんな私にとってのギーガー体験は、ほとんどの人と同じように「エイリアン」であったのだが、もちろん、学生時代の友人には、ギーガーの初期の画集「ネクロノミコン」に入れあげている奴もいたし、私自身も彼の「NY City」という画集をその頃買ったものだ。また、実相寺昭雄が監督した「帝都物語」の護法童子のデザインが彼の手になるものであることを喜んだし (映画の出来はともかくとして・・・)、またかなり以前、多分学生時代にやはり、彼に関するドキュメンタリー映画を見た記憶がある。因みに、その映画の名前をなかなか思い出せず、調べてもすぐには分からなかったのが、ついに判明した。「H・R・ギーガーの『パッサーゲン』」。1972年のテレビドキュメンタリーである。今思い出したことには、監督はギーガーと同じスイス出身の、あのフレディ・ムーラー (代表作「山の焚火」) であった。あぁ、そうでしたそうでした。実に懐かしいと思って書庫を探しても、残念なことにその作品のプログラムは出て来ず、内容についての記憶は既にほとんどないのだが、ともあれ、その「パッサーゲン」の制作が「エイリアン」(1979年) よりも前であったとは、今初めて知った。もちろん私がそのドキュメンタリーを劇場で見たのは、「山の焚火」の公開後だから、1980年代で、既にギーガーが「エイリアン」をデザインした画家であることは広く知られていた。これが画集「NY City」の表紙。
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そんなわけで、もともとギーガーに思い入れのある私としては、このドキュメンタリーを実に興味深く見たのである。このような不気味な作品を描くことから、一体どんな人だったのかということについて、誰しもが知りたいと思うことだろう。実際には、お世辞にも爽やかな人とは言えないものの、結構茶目っ気もありユーモアもあり、子供のように純真なところがある人であったようである。作品中ではギーガーの仕事場を含む自宅 (チューリヒ中心部に位置し、近くに彼の美術館もあるようだ) 内部の情景が様々に出て来るのだが、沢山の書物が乱雑に並べられているのが印象的。これは助手と話しているところだが、劇場で見たときにはっきり見えた本の背表紙はダリの画集だけだったが、この写真を拡大すると、ほかにもコクトーやデルヴォー、ピカソ、エッシャーなどの名前を見つけることができて面白い。尚、ギーガーはここでドイツ語で喋っているし、原題もドイツ語である。
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また、こんなダイニングで友人と食事をしたりもする。間違いなく悪趣味なのだが (笑)、それを楽しんでいる健全さがある。
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興味深いのは、撮影当時の (生涯最後の) 妻、その前の妻や、さらに若い頃のフィアンセで、精神に異常を来してピストル自殺してしまった女優など、ギーガーを巡る女性たちの数々のエピソードである。生涯最後にギーガーの伴侶であったカルメン・マリア・ギーガーは、現在ギーガー美術館の館長でもあり、ギーガーの作品について、また彼の人柄について語っているのであるが、そこには、彼の芸術の危なさへの充分な理解と、だがそれを超えた彼の芸術及び彼自身への自然な愛が感じられて、大変に心地よい。自殺したフィアンセについては、ギーガー自身もいかに彼女を深く愛していたかを語り、彼女の兄が当時を振り返りながら、ギーガーの愛すべき人柄を語っている。これぞリアルなギーガー像であり、人間には、暗い負の要素に踏み入っても、必ずやどこかで精神のバランスを取る力があるものだと実感する。公序良俗に反する作品を作る芸術家の中には、非常に純粋な魂が宿っていることが多いのだということを、再認識した。これがカルメン・マリア・ギーガー。
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また、エイリアン・ファンとしては、撮影当時の情景が出てきたり、制作当時のエピソードについて関係者が語っているのが嬉しい。ギーガー自身は、エイリアンの卵の口の部分の造形を、最初は切れ込み一本にしたところ、卑猥であるとのクレームがあったので、十字形に変更したら、より卑猥になった、と楽しそうに語っているし、監督のリドリー・スコットは、ギーガーを知ったきっかけについて、「脚本のダン・オバノンが画集を持ってきたんだよ。えっと、『ネクロ・・・』なんだっけ。(スタッフの横からのささやきに) そうそう、『ネクロノミコン』だった」と、意外ととぼけた味わいで喋っている (笑)。当時のギーガーの写真がこれだ。このような写真を残していることから、決して気難しい頑固な芸術家ではないことを知ることができる。
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このように、人間ギーガーに迫る貴重なドキュメンタリーであると同時に、人間の創作活動の神秘というか、高貴なるものと猥雑なものとの境界線について考えさせられる映画である。映画の終結部において字幕で説明されることには、ギーガー自身はこの映画の撮影終了後まもなくして死んでしまい、完成作を見ていないという。それも因縁めいた話であり、このような記録が残されたことは、後世の人々にとって幸運なことであったと言えるだろう。あ、そうそう、彼の名前は常に「H・R・ギーガー」と記され、この「H・R」が何であるか知らなかったのであるが、この映画では、それが「ハンス・リューディ」であると明かされ、周りの人は彼のことをハンスと呼んでいたことが分かる。これなども、ギーガーの世界を身近に感じることができる話ではないか。

実は東京には以前、このギーガーの世界に実際に身を置ける場所があった。それは、白金にあったギーガー・バーである。今調べてみると、1988年 10月のオープン。当時学生であった私は、友人と二人で一度だけそこに出掛けたことがある。そうそう、こんな椅子に座って酒を飲みながら、当時復刊された作品群を貪るように読んでいた江戸川乱歩の話などを熱心にしていたことをはっきりと覚えている。入り口も覚えていますよ。
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この映画の中にも、これは恐らくは東京ではなくスイスにあるものであろうが、やはりギーガー・バーのデザインに喜々として携わっているギーガー自身の姿が出てくる。伴侶が語るには、彼は金があれば惜しみなく蕩尽する方で、バーのデザインにも凝りに凝ったとのこと。東京ではバブルによって初めて、このようなバーのオープンが可能になったものであろうが、この内装の維持費は膨大に違いない。そんなわけで、その後このバーは閉鎖され、今は存在しない。私のようにバブルを知っている世代は、その恩恵を文化面で受けたことには、大いに感謝するべきである。・・・久しぶりにそんなことまで思い出してしまった。「エイリアン」に関しては、最初の作品の監督であるリドリー・スコットが未だ健在であり、最新作も彼自身の監督によるものであることは、実に嬉しいことだ。その最新作「エイリアン : コヴェナント」については近日中に執筆予定の別の記事をご覧頂くとして、ギーガーという異端の存在をメジャーにし、尽きせぬインスピレーションを与えたエイリアンにも感謝しよう。・・・と言っても、キスされるのはギーガーとしてもちょっと困ると思うが (笑)。
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by yokohama7474 | 2017-10-06 01:35 | 映画 | Comments(0)

関ヶ原 (原田眞人監督)

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日本人なら誰もが知る天下分け目の関ヶ原。あまりにも一本気で、狡猾な策略を欠いた石田三成と、目的をはっきりと据え、その目的に向けて策を弄した徳川家康の戦い・・・という単純な図式であったのかどうか、歴史的評価にはいろいろあるだろうが、大掛かりな戦であった割には 6時間という短時間で決着がつき、それが徳川の世の始まりとなったことは、確かであるだろう。この映画は、司馬遼太郎の小説を原作としたもので、その点においてフィクションの要素も含んでいて、特に何か最新の研究成果に基づく新たな歴史的真実の発見を促すものではないが、もちろん映画であるから、見る者に刺激を与えてくれればそれがいちばんである。その意味では、興味を引く要素と、残念な要素が入り混じった内容になっているというのが私の感想だ。

この映画を作ろうとする際にまず考えねばならないことは、どのような観客を想定するか、ということではないか。つまり、歴史に詳しくて、かつ司馬遼太郎の原作を読んでいる人なのか、あるいは、石田三成と徳川家康の名前は知っているが、例えば小早川秀秋の裏切りまでは知らない人なのか、さらには、日本史の授業で天下分け目の戦いとして習ったが、それ以上のイメージの全くない人なのか。このような何パターンかの観客のいずれにアピールすべきであるのか、その方針によって、内容がかなり変わってくると思う。つまり、実在の人物たちの関与は多岐に亘り、歴史的な背景も非常に複雑であって、それらの事情を事細かに描いていると、とても 1本の映画に収まりきらないということ。その一方で、ただ単に東軍と西軍が戦いましたでは映画にならず、歴史の歯車のようなものがきっちり描かれないと深みが出ないこと。それゆえ、このような映画の脚本を作るのはなかなかにリスクがある。そう思うと、司馬遼太郎の小説を原作にしたことの意味が見えてくる。ここでは飽くまで「司馬作品の映画化」という位置づけをはっきりさせることで、歴史ものとしての権威づけがなされ、一定数の観客動員が見込まれるだろう。その点は理解できるが、それでも私はこの作品の導入部にはどうも納得がいかない。そのシーンのロケ地は明らかに彦根の天寧寺であるのだが、現代の古老の語る昔話と、秀吉にその聡明さを見出された三成少年の出会いを、その地でオーバーラップさせる必要があっただろうか。これがその天寧寺で、私が昨年現地を訪れたときの写真。ちょうどこの写真の手前右下あたりの場所でストーリーは始まる。
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ここで忘れないうちに書いておくと、もしこの映画を見て、この天寧寺なり、三成ゆかりの佐和山城に興味を抱かれれば、その私の記事 (2016年 7月 23日) をご参照頂きたい。貴重な情報も多々含まれておりますよ。

ここでこの映画に対する不満を書いてしまうと、歴史の流れを現代 (あるいは原作小説の書かれた時代) にまで引き寄せることで、その時日本を二分するとまで思われた戦の迫真性が弱まってしまったように思う。つまり、この戦いは、日本が当時置かれた状況や、関係した武将たちの生きざまにこそ描くべきものがあるのであって、それを歴史の無常感に託してしまうと、やはり焦点がぼけてしまうと思うのだ。今でも劇場で上映されているクリストファー・ノーランの「ダンケルク」を思い出してみよう。あの映画が完璧とは言わないが、きっと戦場にいる兵士たちがその場で感じたであろう緊迫感や絶望感が、ひしひしと伝わって来たではないか。このような仮借ない描き方をしないと、歴史の重みを本当に感じることができない。そのようなこの映画への不満は何も冒頭だけではなく、各武将の描き方にも感じるところがあった。上述の通り、これだけ多くの登場人物を 2時間半ですべて描き切ることは極めて困難だが、例えばもう少し、誰と誰がどんな関係であったといった説明なり語りを時々加えるようなことがあった方が、スムーズな流れになり、ひいてはそれが観客の感情移入を呼んだものであろうと思う。それから、戦闘シーンの出来 (主要人物が傷ついたり命を落とす場面を含め) も、もう少し鮮やかにできなかったものか、という思いを禁じ得ない。

だがこの映画には何人かの役者が素晴らしい演技を披露しているので、その点だけでも見る価値はあろうと思う。まず圧巻は、豊臣秀吉を演じた滝藤賢一である。もともと無名塾の出身で、最近の映画 (私はテレビドラマには一切知識がないので語れないが) の何本かで忘れがたい演技を見せていたが、今回の鬼気迫る秀吉役は、彼としても新境地ではないか。どうやらこの名古屋弁も、本物のようだぎゃー。
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それから、もちろん徳川家康役の役所広司も素晴らしい。つい先日「三度目の殺人」で全く違うタイプの役を演じるのを見たばかりだが、いやそれにしても今回の役、単なるタヌキ親父の家康ではなく、目的のためには手段を選ばない異常なまでの冷酷さと、どこか憎めない人たらしの部分を併せ持つ、大変に複雑なもの。役所ならではの、一本筋の通った演技が見事。
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石田三成役の岡田准一はいつもの通りの熱演だし、それに加えて家臣 (最初は違うのだが) の島左近を演じた平岳大も、なかなかの迫力だ。
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それから、出番は少ないが、さすがの存在感を見せるのは、直江兼続役の松山ケンイチ。それに比べれば、まあ役柄の印象もあるのかもしれないが、小早川秀秋役の東出昌大は、ちょっと線が細いか。
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一方で、伊賀者の初芽を演じた有村架純は、主要登場人物ではもっともガッカリであった。精悍さが全くなく、くのいちにはどうしても見えないので、最後まで戸惑いを覚えながら見ることとなった。NHK 朝ドラで主役をこなしながら、この映画や、もうすぐ公開される「ナラタージュ」などの全く異なる映画に出演している点は、本当に頑張っていると思うのだが・・・。
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このように課題をあれこれ書いてはいるものの、想像力を持って鑑賞すれば、この戦いのリアリティを感じることができる箇所もあるので、全体の出来としてはまずまずであるとは言えると思う。ただ、冒頭のポスターにある「誰も知らない真実」にはやはり違和感がある。ネタバレは避けるが、三成の心のうちにその「真実」があったということであると理解した。その設定はきっと原作にあるものだと思うが、それが分かるいくつかのシーンで私は、申し訳ないがほとんど感情移入できなかった。ここでまた「ダンケルク」を例に引こうか。あの映画で描かれた厳しい戦争の真実は、この映画の設定からは、残念ながら感じられない。

ところで私は関ヶ原に実際に行ったことはないのだが、一度は訪れてみたいと思っている。もちろん歴史に思いを馳せたいということもあるが、関ヶ原ウォーランドというところにある、浅野祥雲という中部地区では有名な伝説の (?) 造形作家が作ったキッチュな人形群があるらしいので、それを見たいのだ。例えばこんな感じ。家康の前に、なぜに賽銭箱? (笑)
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それから、2015年に江戸東京博物館で見た「大関ヶ原展」も面白かった。この映画を見てから、展覧会の図録を引っ張り出してきてつらつら見ているが、大変興味深い。例えば、この映画にも何度か出て来る、家康が関ヶ原に持って行ったとされる巨大な金の扇子。久能山東照宮の所有で、長さ実に 220cm。後世の合戦図においては、家康の象徴とされているもの。
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加えてもうひとつ。私がブログでこの書物に触れるのはこれが三度目であるが、村山知義の小説「忍びの者」にも、関ヶ原のことが詳しく出て来る。今手元に持ってきて確認したが、全 5巻のうちの第 4巻の最後の方である。何度でも主張するが、この小説は滅法面白いので、司馬遼太郎もよいが、文化を語る人にはこの本も、是非是非お薦めです。
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そんなわけで、天下分け目の関ヶ原は、今も日本人の想像力を掻き立ててやまないのである。

by yokohama7474 | 2017-10-05 00:48 | 映画 | Comments(0)

新感染 ファイナル・エクスプレス (ヨン・サンホ監督 / 英題 : Train to Busan)

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最近は、メジャー大作からちょっと渋めの文芸映画、ドキュメンタリー、また邦画も含めて、見たいと思う映画が目白押しである。日常生活の中であれこれの些事に時間を取られる身としては、それらの映画を極力多くを見るために、まずは優先度を決めてから具体的予定を立てる必要がある。もちろん、いつもうまく行くわけではないのは致し方ないのだが、最近では最も強く見たいと思ったこの映画は、なんとか見ることができた。そして、期待通りのクオリティに、もう感涙が止まらない。いや、もちろん、本当に泣いているわけではない。だが、もしこれがゾンビ映画とご存じない方はそのまま誤解をもって劇場に向かって頂きたいし、もしご存じの方は、新しいタイプのゾンビ映画がこれほどの面白さで実現したことを、とりあえず身近のどなたかと喜んで頂きたい。劇場で見た予告編で、女子高生たちが、途中まで顔を手で覆いながら怖がっていたにも関わらず、ラストではまさかの号泣!! ということになっていた。そういう映画なのである。何があっても、守り抜け!!
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私がゾンビ映画の大ファンであることは以前も書いた。もちろん、世の中のありとあらゆる分野でマニアの方々が存在し、ゾンビ映画に関する私の知識も経験も、その道のマニアには足元にも及ばないのであるが、ただそれでも、ゾンビ映画の様々な設定や表現が、人々の感性や社会意識にいかに強く訴えかけて来るかということについての認識は、人後に落ちるものではないと思っている。そんなわけで、この韓国製ゾンビ映画に対して、ただならぬ期待感がいっぱいであったのである。ゾンビとは、謎のウィルスに感染することで死者が甦って歩き出し、そのゾンビに噛まれた者はそのウィルスに感染して生者を襲い始めるというのが、この分野のお定まりの設定である。題名については当然、日本では新幹線とかけて「新感染」という言葉をあてはめているわけである。ここで舞台になっているのは、韓国の高速鉄道、KTX であって、日本の新幹線ではない。ともあれ、疾走する高速鉄道の中でゾンビたちが大量発生。いわば縦長の密室である。さあ主人公はいかにして家族や仲間を守ることができるのか!! という重い課題を背負った映画である。舞台となる KTX には私も随分以前に一度乗ったことがあって、ソウルから慶州 (キョンジュ) に向かうのに、東大邱 (トンテグ) まで利用したのであった。この KTX の終点は釜山 (プサン)。よってこの映画の英題は、"Train to Busan" なのである。この映画には KTX とその運営会社である Korail のロゴが随所に出て来るので、この鉄道会社の協力のもとで撮影されたものであろう。
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ストーリーは、単純と言えば極めて単純。ソウルで証券会社のファンドマネージャーをしているソグは、仕事熱心なあまり家庭を顧みず、妻とは別居状態。だが、ひとり娘スアンの誕生日に、スアンをプサンに住む妻のもとに連れて行くため、KTX に乗り込む。だがその列車には、謎の病原菌に感染した若い女性が飛び乗り、彼女が乗務員に襲い掛かることで、狭い列車の中での集団感染が始まる。時速 300kmで疾走する KTX の中、どこにも逃げ場はない。果たしてソグは娘スアンを守れるのか? というもの。これがすべての始まり。
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繰り返しだが、これは本当によくできた映画なのである。予告編では列車の中をゾンビたちが折り重なって迫ってくるシーンが見られ、それは本当に「ヤバい」映像であったが、なんのことはない、そのシーンは列車内の感染開始シーンからほどなくして出て来る。もし自分がその場に居合わせたなら、いかにして逃れようかと思うと、本当に絶望的な思いに駆られるのである。
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列車はただ走るだけだから、何もしなければ各車両順番にゾンビたちに占拠されて一巻の終わりなのであるが、そこはよく考えられていて、ゾンビたちにはある限界と習性がある。生存者たちはそこに目をつけ、あらゆる知恵と勇気を振り絞って、何両か離れたところにいる家族や友人のもとへ、決死の移動をするのだ。この設定は本当によく考えられていて、今思い出しても面白い。見ているうちに絶望から少しずつ希望が湧いて来るのである。そして、運転手のところにまでゾンビたちは辿り着かないので、列車は途中で停まることとなる。なんだ、そこで舞台は列車から街に移るのかと思いきや、その駅 (テジョン) ではこんなことに。そして列車は再び走り出すことを余儀なくされるのだ。
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私はこの手のゾンビ物のパニック性が大好きで、夢でも時々時々何かに追われることがあるのだが、いつも夢の中で蛮勇を振り絞って敵と戦い、逃げるしかないと思うと全力で逃げて (笑)、そして目が覚めて、夢で本当によかったと安心するとともに、朦朧とした意識のまま、いつの日か自分がそんな目に遭ったときにどのようにして生き残るかに、漠然と思いを致すのである。この映画はさしずめ、ゾンビに襲われる、または類似の事態に出くわした際に、いかに生き残るかについてのヒントに満ちていると言えるだろう。もちろん、そんな事態に出会うことがなければそれに越したことはないのだが・・・。ともあれ、多忙な毎日を送るとともに、富裕層に属して様々なコネを持っている主人公ソグは、自分と娘だけは生き残ろうと知恵と体力の限りを尽くすのだが、結局何人かの仲間とともにゾンビたちと対決することを決意。抜け駆けしてでも自分と愛する娘だけは守るという思いは、徐々に、たまたま同じ列車に乗り合わせた仲間たちとともに戦おうという強い連帯感に変わって行く。そのような点は、まさに人間ドラマであり、ゾンビ物という極端な設定になっているので見落としがちかもしれないが、危機に瀕した人間にとって一体何が重要なのか、という重い問いかけになっているのだ。
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次から次へと襲い来る危機と、それへの主人公たちの対処は本当によく考えられていて、なるほどその手があったか、と唸らされる。もちろん、仲間たちは徐々に減って行ってしまうのだが、その描き方も秀逸。また、生き残った人たちの中には、最後まで自分だけ逃げられればよいと思う人もおり、せっかくゾンビたちの間を抜けて彼らのところに辿り着いても、感染を恐れる人たちから隔離を命じられたりする。そのあたりには人間の本性が呵責なく描かれており、本当に心に刺さってくるのである。そしてそして、このような絶体絶命の危機に。
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これ以上書くとネタバレになるのでやめておくが、まあとにかく、大変に創意工夫に富んだ映画であるとともに、人間や社会についていろいろなことを考えさせられる映画でもあるのである。それゆえ、ラストで大号泣は無理もないこと。私が見たときも、劇場で何人もの人たちが鼻をすすっていた。人間とゾンビを隔てるものは何か。最後に生き残る人たちはそれぞれ、期せずしてそのことを体現するのであり、それに気づくと、生きていることの尊さに気づくことになる。これほど感動的なゾンビ映画が、未だかつてあっただろうか。こんなすごい映画を作ったのは、1978年生まれのヨン・サンホという監督。
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彼の経歴を見ると、もともとアニメの監督で、これまでにアニメ長編を 3本監督しており、この映画が実写長編デビューなのである。これからが本当に楽しみな監督だ。実は彼の 3本の長編アニメ作品のうちの一本、「ソウル・ステーション / パンデミック」は、この「新感染 ファイナル・エクスプレス」の前日譚にあたるらしい。日本でも 9月30日に公開になるので、これも必見だろう。
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まあそれにしても、この映画に学ぶゾンビ虐待法はよくできている。よくできているのだが、もしこれが日本の新幹線で起こったらどうしよう。日本では至るところが自動ドアであり、韓国の KTX と違って、新幹線も当然自動ドアなのである。ということは、ゾンビたちが車両の前まで迫ったところで、ドアがそれこそ自動的に奴らを中に入れてしまう。もし車両に入って来るゾンビを防ぐためにドアを締め切りたいと思ったらどうすればよいのだろう。きっと新幹線のドアも、どこかをいじれば手動式になるのではないかと思うが・・・。今度新幹線に乗ったらまじまじと調べてみよう。不審者と思われて職務質問を受けたら、「車内でゾンビ感染が発生した際、人間たちがともに戦えるように準備しているんです」と答えよう・・・。いやいや、良識ある社会人なら、それは空想にとどめて、そんな日が来ないことをひたすら祈るしかない (笑)。

by yokohama7474 | 2017-09-24 00:08 | 映画 | Comments(2)

三度目の殺人 (是枝裕和監督)

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このブログで映画の記事を書いていることで、自分の好みを全世界にさらけ出していることになっているとは、以前から気づいている。一部芸術映画もあるものの、ホラー、アクション、SF、サスペンスものがほとんどなのである。そんなことだから、映画監督是枝裕和が名声を獲得して行く過程を知りながらも、彼の採り上げる題材は私にとってそれほど興味をそそるものでないケースが多く、ちょっと面白そうかなと思っても、劇場に足を運んで彼の作品を見るという経験は、これまでになかったのである。だがこの映画は、是非見てみたいと思った。30年前に殺人の前科のある男が、またしても殺人犯として捕えられる。なんとかして減刑を勝ち取ろうとする弁護士をあざ笑うかのように、供述をコロコロと変える男。真相究明の過程で微妙に絡んでくる、陰のある被害者の娘。上のポスターにある通り、役所広司、福山雅治、広瀬すずの 3人が中心人物たちを演じる。ポスターのコピーにある「犯人は捕まった。真実は逃げつづけた」とは、一体どういう意味なのか。この写真の左端が是枝監督。
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様々な意味で、非常に丁寧に作られた映画であると思う。音響、映像、語られる言葉、「逃げつづける」ストーリー。だがそのストーリーの逃げ方には、役者の力が大きく貢献している。冒頭の殺人のイメージ以降は、多くは獄中の犯人を弁護士たちが訪問して面会するシーン、弁護士が様々な関係者を訪問するシーンや、仲間で議論するシーン、そして法廷のシーン。それらが映画の大部分を占めており、一部幻想シーンでは広い屋外が出て来るものの、基本的には室内劇の組み合わせでできているような映画である。その流れの中で、繰り返し出て来る犯人との面会シーンの息詰まる迫力には、まさに瞠目する。役所広司の演技はここで鬼気迫るものを帯びており、対する福山雅治も、役所に触発されるような緊張感を漲らせてくる。この一連のシーンを見るだけでも価値のある映画と言ってもよいだろう。
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役所の演技を鬼気迫ると表現したが、実はここで彼の演じる謎の「犯人」、三隅は、とても凶悪犯とは思えないような落ち着いた人間であり、その目は優しく、語り口は穏やかで、弁護士に接する態度にも気遣いが見られる。その一方で、一旦意に添わぬ話題に入ると激昂することもあり、弁護士たちの行ったことを激しく非難する。なので、この演技が展開される場所の狭さにも関わらず、実は微妙な感情の動きや、突然の興奮まで、範囲が広く多様であり、セリフのひとつひとつ、仕草の細部に至るまで、一瞬たりとも目が離せない。そして観客は、固唾を飲んでその演技を見守りながら、この男の語ることの一体何が嘘で何が真実であるのか、当惑しながら映画に引き込まれて行くことになる。ここで私が感心したのは、セリフである。日本語とはなかなかに厄介な言語であって、常に相手との相関関係によって、トーンや表現が変わるのである。端的な例が、一人称の多さ。相手や環境によって「おれ」「ぼく」「わたし」を使い分ける経験は、日本人男性にとって日常のことであり、また、二人称として一般的であるはずの「あなた」よりも、相手の名を呼んで「○○さん」という方が座りがよい。英語では一人称は "I"、二人称は "you" であるという単純さとの対照は著しい。そこにはさらに、敬語というこれまたややこしいものが介在し、かくして日本人同士の会話には、忖度と遠慮による不明瞭さが、常につきまとうこととなるのである。この室内劇においては、その日本語の曖昧さの裏にある相手への気遣いというものが、セリフのトーンを変えることで、大変巧妙に描かれている。例えば終盤近くで福山が、「頼むよ、本当のことを言ってくれよ」と、敬語をかなぐり捨てて声を張り上げるシーンがあるが、エリートでありプロフェッショナルである弁護士が、クライアントとの対話という職務を越えて、人間として上げた声である。このセリフが流れる瞬間、見る者は登場人物たちの感情を、実感を持って理解することとなる。ほかの例を挙げよう。吉田綱太郎が福山の友人役の弁護士として出ていて、これも大変にいい味を出しているのであるが、どう見ても年は吉田が上なのに (実年齢では 10歳違い)、二人はため口をきいているのだ。設定では彼らは司法修習生の同期ということで、実際にそのようなため口が普通なのか否かはさておいて、日本における集団の中の「同期」という特別な関係を思わせる。その他、家主のおばちゃんとかスナックの経営者とか、脇役の人たちのセリフも実にリアルであり、随所に日本語によるコミュニケーションへの敏感な感性を感じさせる。実はこの映画、是枝は監督だけでなく、原案・脚本・編集まで手掛けている。なるほどこの感性が、彼の映画の持ち味なのであろう。
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さらにこの映画の美点は、その空気感の表現とでも言おうか。室内劇がメインで展開する作品であり、登場人物たちの顔のアップが多いだけに、一旦彼ら登場人物たちがどこか外部を訪問するとなると、その場所の空気感が際立ってくる。殺人事件という陰惨な出来事の真相解明の過程で地道な努力を続ける弁護士たちであるが、その間も世界では淡々と時間が流れている。それぞれの場所に吹いている風、どこからともなく聞こえてくる音、時間とともに変化する光。もしかしたら、漂っているかもしれないドブの悪臭や、夕げの支度の懐かしいにおい。そんなものを感じる瞬間が多く現れ、様々な人間がこの地上に生活しているのだという、そののっぴきならない事実を感じさせるのである。やはりこれも、作り手の感性が紡ぎ出す世界の様相なのであろう。ラストシーンには、そのような空気感が凝縮されている。
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このようなよくできた劇中の世界において、素晴らしい俳優たちの演技が輝いている。広瀬すずは CM でもおなじみの顔であり、もはや日本の若手女優を代表する存在だが、この映画を見て、私は彼女を天才であると思った。足に障害を持つ被害者の娘であり、秘密を抱えて暮らしている高校生。なかなかに複雑な感情表現を必要とされる役柄であるが、広瀬の演技には、考え考え口にする言葉の重みがあり、なぜそのようなセリフが必要であるのかを完全に理解していると思われる。ただ若いだけとか、ただ演技がうまいだけではとても達成できない水準に達している。何もこのような緊張感のある映画だけではなく、幅広く活躍して行くであろうが、このように丁寧に作られた映画での経験が、必ずや今後も彼女の演技に結実するだろう。
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それから、福山の父親のもと裁判官役で出ている橋爪功も見事なら、「シン・ゴジラ」でのクールな役人役で思わぬ人気 (?) を得た市川実日子が、検察官として同様のテイストで演技しているのも面白い。それから、斉藤由貴が被害者の妻役を演じているが、かなり癖のある役であり、たまたまなのかなんなのか、最近世間を騒がせた不倫騒動を思わせる内容もあって、若干鼻白む感を否めない。あ、もちろん、個人の感想です。音楽担当は、珍しいことにルドヴィコ・エイナウディというイタリア人作曲家で、繊細な映像を邪魔しない静謐な音楽はなかなかの出来であったと思う。是枝監督のたっての希望での参加ということらしい。これがその 2人のツーショット。
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このように大変よくできた映画であり、多くの人に感銘を与えるものであると思うが、2つだけ留保点を書いておこう。ひとつ、まあこれはウケ狙いのジョークであるが、弁護士を演じているはずの福山雅治が、法廷のシーンで「証人」の発音を「商人」と同じ発音としていたこと。しかも一度ならず二度ほども。これはやはり、ちょっとおかしいのではないか。あるいは法曹界には、そのような発音もあるのであろうか。それからもうひとつ。これはひとつめとは比較にならない、映画の根本にかかわることであるが、本件の結末である。要するに、犯人がはっきりと明示されることなく終わるのだ。もちろん、示されたヒントだけで犯人は明らかだろうと感じる人もいるかもしれないし、そもそも題名がなぜに「三度目」の殺人とされているかに、大きなヒントがあるとも言えるだろう。つまり、三度目はもちろん死刑を指しているのであろうが、ということは二度目もあるということだ。だが、私にとってはそんなことはどうでもよい。この感性豊かな作品において、その豊かな感性があればストーリー上、犯人を明確に示さずともよいという発想がもしあるなら、それにはちょっと異議があるということなのだ。映画にせよ小説にせよ、結末は見る者の想像力に任せるという方法もあることは先刻承知ではあるが、私としてはやはり、鑑賞者がその作品との出会いをきっちりと胸にしまうためには、作り手は勇気を持って犯人を明確にすべき (あるいは、完全に明確でなくとも、もう少し分かりやすくすべき) ではないかと思うのである。優れた作品を作る手腕を持つ芸術家なら、その点を避けて通ることは、いわば「言わぬが花」という日本的曖昧さの中に埋もれてしまうことではないだろうか。この作品は今年のヴェネツィア国際映画祭のコンペティションに出品されたらしく、その評価は寡聞にして知らないのだが、国際的に見れば、この終わり方はちょっと議論の余地のあるところだと思われてならない。どんな作品も完璧ではないが、今後の日本映画の発展に向けて、より海外にも通じる内容の映画を目指す方がよいのではないかと思ったことであった。

by yokohama7474 | 2017-09-23 12:56 | 映画 | Comments(2)

ダンケルク (クリストファー・ノーラン監督 / 原題 : Dunkirk)

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映画を見る際にこだわるポイントは、もちろん人によって様々であろうが、以前からこのブログで述べている通り、私の場合は、見るべき映画の選択において最も重要な要素は、監督なのである。その意味でこの映画は、もちろん必見であることは論を俟たない。なぜなら監督は、あのクリストファー・ノーランであるのだから。私にとって、いや、映画が好きなあらゆる人にとって、彼は間違いなく現代最高の映画監督のひとりである。2000年の出世作「メメント」に驚嘆して以来、私は彼の監督作をすべて見てきたが、およそ失望させられたことがない。これは実に驚異的なことなのであるが、さらに驚くのは、彼が未だ 47歳であること。これからの 30年、40年は、私自身があと何年生きるかは別として (笑)、ノーランの映画が一体どこまで進化するのか、本当に見ものであると思う。
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既に大々的に予告編で上映されていた通り、この作品は、ノーラン監督初の実話もの。1940年、第二次世界大戦の未だ初期、ナチスドイツが破竹の快進撃を続けているときに、フランス北部、ドーヴァー海峡に面した港街ダンケルクに追い詰められて逃げ場を失った 40万人の連合国 (もちろん、英国とフランスがメイン) 兵士たちが体験した絶体絶命のピンチを描いている。これも散々予告編で見たことであるが、この監督は CG は基本的に使わない主義で、本当に病院の建物一棟を爆破したり、空中に吊るした航空機を途中で輪切りにしたり、無重力空間を作り出すために巨大な部屋のセットを作ってそれを回転させたり・・・。そんな監督が戦時中の実話に挑むと、一体どういうことになるのであろうか。桟橋にひしめきあって救援を待つこのような夥しい数の兵士たちは、ダンケルクに追い詰められた全体の人数の中の、ほんの一握りなのである。
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私が見たのは、今時珍しい 35mm フィルムによるヴァージョン。もちろんデジタル映像に慣れた目には、ピントが甘く見える。最初はそれが気になったのであるが、徐々にそれに慣れてくると、あたかも戦場で撮影したようなリアルさがひしひしと感じられ、それによって、見ているのが苦しくなってきた。それにはほかにも理由があって、この映画には気の利いたストーリーテリングはなく、セリフや音楽は最小限。また、時計が時を刻むようなチクタクいう音が最初から最後まで聞こえるのである。ここに登場する兵士たちは、自分たちが大きな危機にさらされていることは皮膚感覚で分かっても、では、いついかなるかたちで絶対的な危機が訪れるのか、あるいは、いかなる手段で自分たちが救出されうるのか、そういったことに想像力を巡らせることができない。それは全くの極限状態であり、人間の生存本能が剥き出しになる状況であろう。今、平和な時代の平和な国に住む我々には、そのような極限状態を理解できると言うなら、それはおこがましいというものだ。だからこそ、この映画で疑似体験することには意味があろうと思うのである。世に言うダンケルク救出作戦の、実際の写真がこれだ。もし自分がこの中にいたら、果たしてどのように行動していただろうかと自問する。
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この映画の顕著な特色のひとつは、敵であるドイツ軍の人間を一切映像で見せていないことだ。メッサーシュミットの戦闘機が飛んだりしている映像はあっても、そこで操縦しているパイロットは映らないし、それ以外のいかなる箇所でも同じこと。つまりここでは、迫り来る敵軍ドイツという想定はあっても、それが人間であるのか、はたまた抽象的な「敵」であるのかすら描かれていない。つまり監督の意図は、敵には敵の事情なり、命を賭けた戦いがあるという事実を描くのではなく、連合国軍兵士たちにとっての、顔の見えない敵の脅威を描くということであったと思う。戦争映画において、敵をいかに描くかは重要な問題であるが、この映画のように、敵を一切描かないことで、兵士の抱いた恐怖をリアルに表現する手法はなかなかに思い切っている。ここで観客は、当日その場にいた兵士たちと同じように、顔も見えず、いつ現れるか分からない敵に怯えつつ、早く戦場を抜け出したい!! と切望するのである。見ていて苦しくなるようなこのリアリティ、さすがクリストファー・ノーランである。

そしてこの映画のキャストは、そのほぼ全員が男性。当然それも、歴史的事実に基づくリアルな設定であろう。ここに登場する様々な兵士たちや、彼らを迎えに行く民間の船に乗った人たちが、それぞれに直面する危機に立ち向かう。時には複数の人物の複数の危機のシーンが同時並行で描かれる。そこにはもちろんノーランの演出の妙はあるのであるが、その地獄絵図の凄まじさに、観客はただスクリーンに釘付けとなるのである。それからもうひとつさすがだと思ったのは、若い兵士たちに新人俳優を多く起用し、観客にとっても、見知らぬ兵士の経験する危機という点でのリアリティが存在することである。しかも、どの俳優も本当に精悍だし、素晴らしい存在感がある。きっと彼らの中から明日のスターが生まれてくるのではないか。これはトミーを演じるフィン・ホワイトヘッド。
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それから、何人かの実績のある俳優たちが、互いに共演することなく、それぞれが素晴らしい存在感を発揮している。まずなんと言っても、使命感に燃え、クールに敵を撃破する空軍パイロット、ファリアを演じるトム・ハーディが最高だ。そして、海から救出される謎の英国兵を演じるキリアン・マーフィー。加えて、もともとのシェイクスピア劇から活動の幅を広げ、今や英国を代表する偉大なる監督 / 俳優であるケネス・ブラナーの演じる海軍中佐。いずれも素晴らしい。繰り返しだが、これらの俳優同士がこの映画の中で出会うことは、決してないのである。
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またここでは、極限状態に置かれた人間たちの弱い部分も仮借なく描かれている。そのような弱い人間を責めるのは簡単だが、自分の命が危ない状況で、一体どこまで命を捨てる覚悟ができるのであろうか。戦争の真実が、結局は人間の真実を赤裸々に暴くのだということは、人間の持って生まれた宿命なのであろうか。決して万人が楽しめる娯楽作にはなっていないこの映画が訴える虚無感には、現代に生きる我々がしっかりと受け止めなくてはならない要素が多々ある。眼と心を大きく開いて、過去の戦争の凄惨な歴史と、立派な行いをした人々の姿を、自らのうちに取り込みたいと思う。そんなことをストレートに思わせる監督の手腕に脱帽しながら。

by yokohama7474 | 2017-09-19 23:56 | 映画 | Comments(0)

エル ELLE (ポール・ヴァーホーヴェン監督 / 原題 : ELLE)

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映画の世界で「エル」と言えば、誰もが思い浮かべるのはもちろん、ルイス・ブニュエルがメキシコで制作した映画であろう。って、本当かどうか知らないが (笑)、この映画はそれとは違う。なぜなら、ブニュエルの映画は "El" だが、この映画は "Elle" であり、前者における主人公は男性であるのに対し、ここでの主人公は女性であるからだ。もちろん "Elle" とはフランス語で「彼女」という意味であり、有名なファッション雑誌の名前もここからきているのであろう。そう、この映画の主役の「彼女」は、実に危険な人物であるがゆえに、題名も多くを語ることなく、ただ「彼女」となっていて、なかなかに含蓄深いのである。

この映画の監督は、オランダのポール・ヴァーホーヴェン。ヴァーホーヴェンと言えば、「ロボコップ」「トータルリコール」「氷の微笑」といったハリウッド映画で知られる人だ。それから、私にとっては忘れがたい衝撃の超傑作 SF 映画、「スターシップトゥルーパーズ」も彼の作品である。だがここで彼は、フランスの役者たちを起用した全編フランス語の、文字通りのフランス映画を監督した。最近の活動をあまり耳にしなかっただけに、若干意表をつくかたちでの再登場は、実に興味深い。このヴァーホーヴェン、今年 79歳という高齢であるのだが、このように人間の生きざまを仮借なく描くだけのパワーを未だ保っているとは素晴らしい。
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この映画にまつわる言説を見てみよう。上のポスターには、「犯人よりも危険なのは、"彼女" だった」とあるし、この映画のプログラムには、「異色のサスペンスにして、世界初の気品あふれる変態ムービーが誕生した!」という、なんだかよく分からない表現が載っている (笑)。見終わった今、冷静に考えて、それらの表現を理解することはできるものの、この映画には決してポルノ的な部分はなく、極めて真摯に、のっぴきならない人生の残酷さを描いているように思われる。確かに煽情的な場面はそれなりにあり、彼の旧作「氷の微笑」に通じるところもあると思うが、ストーリーの複雑性は際立っており、そして登場人物たちの、これまた複雑な人間関係には、まあそれはびっくり仰天なのであった (笑)。フランス人って、みんな本当にこうなんだろうかと思ってしまうが、自分の知っているフランス人を何人か思い浮かべてみると、ちょっと納得できるような気もする。とにかくこの映画に出て来る人たちの間には、ああなんということ、あっちもこっちも仮借ない (?) 肉体関係が張り巡らされているのである・・・。これは、物語の発端となる主人公の女性がレイプされる場面を演出している監督と主演女優。
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ストーリーは一見分かりやすいのだが、劇中で描かれていない背景について想像力を巡らせると、なんとも鳥肌立つ内容なのである。すなわち、ビデオゲーム会社の社長を務める女性 (設定は 50代?) が、ある日自宅に侵入して来た黒装束の男にレイプされてしまう。当然警察に駆け込むかと思いきや、単独で犯人探しをする主人公。実は彼女にはトラウマがあって、子供の頃に自らの父親が近所の子供たちを何人も殺したという忌まわしい経験を持つのである。彼女は非常に我の強い人であり、好き嫌いをはっきり主張するタイプ。そしてまた、自らの欲望に正直で、時に極めて大胆な行動に出ることもある。そうこうするうち、レイプ犯が特定されるのだが、その後彼女は・・・という物語。まず圧巻なのは、主役を演じる名女優、イザベル・ユペール。
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劇中では息子に子供が生まれ、お婆さんになる年齢。だがそのルックスは、せいぜい 30代かと見まがうほどの美しさ。そして実年齢を知ってびっくり!! 1953年生まれなので、今年実に 64歳!!!! ここで彼女が見せる演技は、いろんな意味で決然たるもので、キャリアウーマンでありながら情熱家であり、一方で大人の分別もわきまえており、ペットの猫は大事にするが家族には概して冷淡で、ええっと、あえて言ってしまえば、変態なのである (笑)。こんな演技ができる女優は日本には絶対いないし、ハリウッドでもちょっと想像できない。彼女を巡る男性女性、いろいろいるのであるが、もうひとりの圧巻は、このイザベル・ユペールの母親役を演じているジュディット・マーグルという女優。ルイ・マルの「恋人たち」でジャンヌ・モローの友人役を演じたという。
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ええっと、ちょっと待てよ。フランスの人間国宝的女優であったジャンヌ・モローは、つい先日、7月31日にその生を閉じたばかり。享年 89歳であった。その友達を演じたって、この女優は一体何歳なのか。上の写真から、何歳だと思われるだろうか。60歳? 70歳? いえいえ、答えは 1926年生まれ。つまりは今年実に 91歳ということになる!!! それでいて劇中での彼女は、若いツバメを捕まえて結婚するという快挙に出るのである。なんだかもう、クラクラして来てしまうのだ (笑)。

この映画の設定はこのようにちょっと破天荒なのであるが、ひとつ言えるのは、人間の本性を深い部分で描いていることで、設定のわりには過剰な性的描写が少ない点、好感が持てるのである (もちろん、家族での鑑賞に適するような穏便な描写にはなっていないが。笑)。愛憎渦巻く人間関係は、極端なかたちを取りながらも結構なリアリティがある。これぞフランス映画。ハリウッド時代のヴァーホーヴェンとは一味違っている。だが、このめくるめく人間関係をどのように整理しよう。劇中で描かれていない過去の惨劇の真相は、一体いかなるものであるのだろうか。そこには明確な回答は示されず、見る者の想像力に任されることとなる。ここに登場する男優女優は私の全く知らない人ばかりであるのだが、それぞれが役柄に応じたリアリズムを体現していて、いやそれは、実に素晴らしいのである。人間同士には様々なご縁による様々な関係が成立しうる。この映画の人物たちは、そのようなご縁にうまく乗りながら、それぞれにのっぴきならない生を送っているのである。黒猫も、そのような主人公の生のひとつの要素なのだ。
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主人公の性格描写において重要な役割を担っているのが音楽である。彼女がレイプされるシーンと、自動車で災難に遭うシーンで流れているのは、いずれもモーツァルト。前者はディヴェルティメント K.136 の第 2楽章。後者は「魔笛」の後半、タミーノが試練を受ける場面の音楽だ (エンドタイトルで、後者はクラウディオ・アバド指揮のマーラー室内管弦楽団の演奏であると確認)。これらは劇中の BGM ではなく、主人公がその場面で実際に聴いている曲である。つまりは彼女はモーツァルトの愛好者という設定なのであろう。それは、主人公には変態性があるとはいえ、自分に正直なピュアな人であることを表しているのだろう。ほかには、会食の場面でラフマニノフのピアノ協奏曲第 2番の第 2楽章が流れていた。あ、それから、母親の病室で流れている映像は、サイモン・ラトルとベルリン・フィルが 2013年のヨーロッパ・コンサートで演奏したベートーヴェンの「田園」で、場所はプラハ城だ。
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このような特殊な映画であるゆえ、人によっては嫌悪感を感じるかもしれない。だがそんな人でも、いかに真摯にこの映画が作られているかを感じることはできると思う。万人にお薦めできる映画でないことは確かだが、人間の深い部分を見たいと思う人にとっては、大きな価値を持つ映画であると思う。老境に至ったヴァーホーヴェン監督が、これからも強い表現力を持った映画を撮ってくれることを期待したいと思う。

by yokohama7474 | 2017-09-16 02:15 | 映画 | Comments(0)