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ゲット・アウト (ジョーダン・ピール監督 / 原題 : Get Out)

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映画との巡りあわせには様々なパターンがある。監督や俳優、あるいは扱っているテーマは大きなポイントになるし、あるいは、原作となっている小説やマンガを予め知っていることによって、ある映画を見たいと思うこともあるだろう。また、私の場合結構多いのが、劇場で見た予告編で、「これはどうやら面白そうだ」とピンと来るケース。もちろんそのようなガット・フィーリングが常に正しいとは限らず、期待外れでガッカリすることもある。だが、それはそれで、映画を体験するという意味ではまた意義深いこと。たとえガット・フィーリングが外れたとしても、それは飽くまで私個人の趣味の話であって、勤め先に迷惑をかけるわけでもなし、ましてや社損を醸すわけではないので、鷹揚に構えることにしている。だが、人は誰でも、様々な映画を見ているうちに、その人独特の勘が働くようになる傾向はあると思うし、その勘は意外と侮れないものなのである。なぜなら、予告編を見てちょっと気になったこの映画、何か予感がしたので、頑張ってスケジュールをやりくりして見てみると、おっとビックリの大変面白い映画であったのだ。今年見た映画の中でも、間違いなくベストを争う作品。もちろん、これは飽くまで私個人の感想ではあるものの、上のチラシを見て下さいよ。「全米初登場 No.1」「米映画レビューサイト 99% 大絶賛」とある。他人の評価はあまり気にしない私なので、これらの言葉はあまり大きな意味を持たないものの、でも、一言、言いたくなるではないか。「そうそう、この映画、面白いよ!!」と。

予告編で明らかにされるのは、以下のようなストーリーだ。ある黒人の青年 (クリス) が、美人の白人女性 (ローズ) と付き合っていて、その白人女性がその黒人の彼氏を実家に連れて行って両親に合わせようとしている。人のよさそうな黒人のクリスは、ローズが両親に、彼氏が黒人であると告げたのかどうか訊くと、彼女の返事は、「そんなことしていないけど、全然大丈夫よ」というもの。そして・・・。その先は予告編では分からない。だが上のチラシによると、「何かがおかしい」のだそうである。一体何がおかしいのだろうか。これが主演 (なのかな?) カップル。
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米国に暮らしたことのある身としては、日本にいてはなかなか皮膚感覚の持てない人種問題の根深さについて、ある程度認識しているつもりである。自由の国アメリカ。世界各国からの移民たちが協力して作り上げた「世界で最も偉大な国」。肌の色や宗教や、あるいは性別、さらには性的嗜好についてまで、差別がないはずの国。・・・だが実情はそんなものではなく、差別は依然として根強くあるし、それに伴う深刻な貧困問題や犯罪の問題もつきまとう。差別があるからこそ、自由をことさらに謳う必要があるとも言えるだろう。実際、白人と黒人のカップルは、ないことはないにせよ、極めて稀である。この映画は、そのような米国の現実に鋭く向き合い、前政権から現政権に変わったことによって顕在化するかもしれない人種問題に対し、「この国は何かがおかしい」という勇気あるメッセージを発しようとしているのだろうか。「ゲット・アウト」という題名は、そのような社会のくびきから逃れ出ようとする若いカップルの挑戦を表しているのだろうか。なんと社会性溢れる映画なのだろう。最後は感激の涙で濡れてしまうのであろうか。

・・・。さて、この先はネタバレなしに語ることができないので、ほとほと困り果ててしまうのだが (笑)、この映画を見る人は、やはりまず、上記のような社会的な意識の感度を上げて頂いた上で、映画の進展につきあう必要があるだろう。ひとつ、これはネタバレでないので言ってもよいと思うのは、この彼女の実家の人たちの顔はそれぞれに大変個性的で、そこには何か人生の過程がにじみ出ているように見える。夜の団欒における家族の会話のシーンなど、なんと言うべきか、人間の生活、家族の歴史、人と人のつながりとその距離、過ぎて行く時間、といったことをあれこれ考えさせる、本当に深い中身を持っているのだ。ここまで見て、そこに表現された人間の姿の真実に感動するだけでも、この映画を見る価値はある。これがローズの両親。
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だがもちろん、そこまでしかこの映画を見ないことなど、絶対にあってはいけない。最後まで目を開けて、しっかり見届ける必要がある。主人公は一体どこからゲット・アウトしようとしているのか。私の場合、この映画の人道的な流れに違和感をもたらしたのは、ローズの実家のお手伝いさんの、この表情であった。
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おぉ、確かになんだか、生理的に気持ち悪いと思わせる表情ではないか。笑っているのに不気味で、夢に出てきそうだ。この笑いの意味は一体何で、劇中で彼女が見せる行動には、一体いかなる理由があるのであろう。これは、事前に考える準備をしていなくても、見て行くうちに自然とそんな流れになって行くのだが、その奇妙な違和感が、実はその後、雪崩を打って容赦なく観客を襲うことになるのである。ここでも監督の確かな手腕によって、役者の表情がストーリーの流れを作り出しているわけだ。私がこの映画を面白いと評価するのはその点にある。ただ単に、ストーリーが面白いとか、役者が頑張っているとか、映像がきれいだということではなく、映画の持つ力を存分に利用していることこそが、この映画の価値なのである。その意味ではやはり、主役クリスを演じたこのダニエル・カーヤ (1989年英国生まれ) の貢献は大きい。それぞれのシチュエーションで、時に笑いを起こしながらも、必死に危機に立ち向かう姿がよい。
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脚本・監督・製作を手掛けたジョーダン・ピールは、1979年ニューヨーク生まれ。もともとコメディアンで、本作が監督デビューであるらしい。いきなりこれだけの作品を作ることができるのだから、素晴らしい才能である。きっとこれからもいい映画を撮ってくれることだろうから、大いに期待したい。
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念のためだが、ここで明らかにしておくと、この映画を見るにはある一定の社会的な感覚が必要と上に書いたが、ではこの映画が、米国における深刻な差別問題を扱った社会的な内容を持つものかと言えば、答えは微妙になってくる。恐ろしい映画か? 恐ろしい。でも笑える映画か? 笑える。場面によっては。でもその場面の意味を冷静に理解したとき、なんとも背筋が凍るような恐ろしさを覚えるのである。「そ、そういう展開になるかー!!」と眩暈を覚え、その展開自体を笑い飛ばそうとするが、あまりに急な展開なので大抵の人はついて行けず、徐々に理解してから恐怖を覚える、そんな映画なのである。あぁ、ネタバレできないのがこんなにつらい映画も、そうそうないですよ (笑)。このクリスの絶叫の意味、この映画を見てからじっくり反芻して頂きたい。
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この映画の上映館はもともと結構限られていたが、今でも細々とながら上映が続いている。東京なら、TOHO シネマズシャンテで見ることができるので、この記事をご覧になった方で、ショッキングな映画でも大丈夫という方には是非にとお薦めしましょう。あ、もちろん、ショックの前に社会性を持った鑑賞が求められることをお忘れなく。それから、冒頭のシーンはメインのストーリーと直接関係ないようでいて、実は重要な伏線になっているようなので、そこに登場する黒人の顔をよく見ておいて下さい。実は私はそれを怠ったので、あとで、「ええっと、あれか」と推測するしかなかったのである。もちろん、ほかの要素でその推測はほぼ正しいと認識しているものの、冒頭シーンの黒人の顔を覚えていなかったがゆえに、隔靴掻痒の感があるのであります。あ、そうそう。この映画がかなりえげつない内容であるにも関わらず、見る人に嫌悪感を覚えさせないように工夫されている点としては、例えば最初のシーンで高らかに鳴り響く音楽を挙げてもよいだろう。このオールディーズは何という曲か知らないが、デヴィッド・リンチの「ブルー・ベルベット」よろしく、恐怖とノスタルジーがない交ぜになったこの感覚は、開始まもなくにして映画の迷宮に人を誘い込むものであり、そこには不思議な陶酔感があるのである。そんな中、そこに出ている黒人の顔を覚えておけば、あとでなるほどと思うことは請け合いだ。と書いていると、もう一度見たくなってきてしまった。この映画をこれから見る人たちは恵まれていると思いますよ、本当に (笑)。

by yokohama7474 | 2017-12-07 00:23 | 映画 | Comments(0)

ブレードランナー 2049 (ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督 / 原題 : Blade Runner 2049)

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今やサーの称号を持つ英国の巨匠映画監督リドリー・スコットは、80歳になった今でも精力的な活動を展開しているが、私の世代ではやはり、デビュー第 2作の「エイリアン」(1979年) と第 3作の「ブレードランナー」(1982年) によって衝撃を受けたことが、その後の映画経験の原点になっていると言えるであろう。正直なところこの監督はその後すぐに、全く違った作風の作品を撮って観客を戸惑わせ、「ブラックレイン」で元のテイストに戻ったかと思えば内容はハズレであり、「1492 コロンブス」で、あぁこの監督はもう見限ろうと思ったら、「グラディエーター」で奇跡の大復活。その後もまた様々なタイプの映画を監督し、結構出来不出来がはっきりするタイプであると思う。今年は既にスコット自身の監督による「エイリアン : コヴェナント」を見ることができ、そして今度は「ブレードランナー」の続編だ。この 2作、人造人間がテーマのひとつになっていることが共通するが、相違点もいろいろあり、前者は「エイリアン」の前日譚であるのに対し、本作は「ブレードランナー」の 30年後の世界を舞台にしていることが挙げられる。そして本作では自身は監督ではなく製作総指揮であり、監督は、前作「メッセージ」で一躍その名を高めた 1967年生まれのカナダ人、ドゥニ・ヴィルヌーヴである。
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前作「ブレードランナー」はもちろん、常に酸性雨の降り注ぐ猥雑で荒廃したロサンゼルスを舞台としたスタイリッシュな映像と、意外性のあるストーリー展開、そしてヴァンゲリスによるシンセサイザー音楽によって、誰もが一度見たら忘れないような作品である。私も、この映画に衝撃を受けて、原作であるフィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を読んだし、ヴァンゲリスのほかの映画音楽、つまり「炎のランナー」とか「南極物語」のサントラを購入したりしたものだ。また、初公開から 10年後に公開されたディレクターズ・カットで重要なシーンの追加がされた。つまり、ハリソン・フォード演じる捜査官デッカードの役回りは、人間社会に紛れ込んだレプリカント (人造人間) を処刑することであるにも関わらず、実はデッカード自身がレプリカントであることが示唆されたのである。そのあたりの知識のない人がこの「ブレードランナー 2049」を見ると、さすがにちょっと厳しいとは思うが、まあそんな人はほとんどいないという前提であろうか (笑)。この映画のストーリーは、前作の制作時には想定されていなかった、今回新たに作られたものであるが、それはすなわち、前作の延長戦上にストーリーが書かれたということである。ところで前作の舞台は、当時から見た近未来であったが、今確認すると、それは 2019年。おっ、当時は随分先だという設定なのだろうが、なんと、もう再来年ではないか (笑)。街の風景はこんな映像であり、それはそれは強烈なイメージであった。もともとリドリー・スコットが大阪を訪れたときに道頓堀を見て発想を得たと言われているが、よく外人が写真を撮っている現在の渋谷のハチ公前交差点など、さながらこの「ブレードランナー」の世界に近いと言ってもよいと思う。・・・まあさすがにそれは言い過ぎか (笑)。
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さて、そんな思い入れのある人間が今回の作品を見たときに、どんな感想を抱くであろうか。実は私は、期待が大きかったせいか、残念ながら、ちょっともうひとつ乗り切れないものがあった。今回の舞台も前作と似たような雰囲気ではあるが、どういうわけか、あまりインパクトを感じない。ひとつは、宙を飛ぶ乗り物があまり高層ビルの間を飛び交うことがなく、また、主人公でやはりブレードランナーの K は、このように街中を歩く設定が多いことで、街全体の俯瞰シーンがあまりないことが理由かもしれない。
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それから、戦闘シーンが少ない。最初の方にあるにはあって、それなりの工夫はあるものの、やはり前作のルトガー・ハウアーのような強力なレプリカントとの対決という要素が欲しかったところ。そして、全体を通して不思議な静けさが支配する。これはヴィルヌーヴの前作「メッセージ」でも感じたことで、見ている方はなんとも殺伐とした思いになるのである。そこに流れる音楽も、ちょっと前作のヴァンゲリスをイメージした雰囲気もあって、「ヴオォォォー」という、チベットで使われるほら貝 (?) のような音には不気味さもあってよいのだが、前作では確かエンドタイトルで堂々と流れたあのメインテーマで一種のカタルシス作用があったところ、今回はそれもなく、ただただ静かなのである。この静けさこそが、ヴィルヌーヴ作品の特徴ということだろう。音楽担当は現代の映画音楽の巨匠ハンス・ジマーであるが、もしかすると、ヴァンゲリスを意識し過ぎたのではないかと勘繰りたくもなってしまう。あ、それから、やはり前作へのオマージュ風に思われるのが、劇中で何度か流れる意味不明の日本語のセンテンス。そう、前作ではデッカードが屋台で何かを 4つ注文するのに、店のオヤジが「2つで充分ですよ。分かって下さいよー」と言っているのが非常に印象的で、私などは、この言い回しを日常生活の中で意味もなく繰り返したりして、笑いを取るのに躍起になっていた時期があるので、今回は全く違うシチュエーションながら、シュールな日本語の使用は面白いと思ったものだ。

評価すべき点としては、やはり主役のライアン・ゴズリングが挙げられようか。「ラ・ラ・ランド」で一気にブレイクした感があるが、ちょっと三枚目風のところに親しみを覚えさせる一方で、やるとなったらかなりハードなシーンもこなせる、いい役者である。
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それからもちろん、前作の主人公ハリソン・フォードの元気な姿を見ることができるのも、嬉しい。あの超有名なシリーズ物ではもはや彼を見ることができないことを思うと (これをネタバレと怒る人はいないと信じます 笑)、この映画への出演は大変嬉しいところ。
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この 2人の関係について書いてしまうとネタバレになるが、この作品オリジナルの発想がそこにあり、レプリカントとレプリカントでそういうことになるか (?) という面白みはあり、また前作のシーンからの音声を再生したり、デッカードが恋に落ちたレプリカント、レイチェルの映像も出てきて、懐かしさに囚われる点は評価できる。さて、この 2人の関係やいかに。
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ストーリー展開としては、終盤に謎が解明するあたりにもさほどの緊張感がないし、明かされる真相にもあまり衝撃がないのが残念だ。また、悪役のインパクトや、主人公が思いをよせるヴァーチャルな女性 (現れたり消えたりするときに流れるプロコフィエフの「ピーターと狼」のテーマが能天気に明るいのがシュール) の魅力も、私にはちょっと不足していると思われた。それから、予告編でも出て来たこういう映像、大してショッキングではないでしょう。
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こんな感じで、私としてはこれはもうひとつ乗れなかった映画であった。だがその一方で、誰しも自分独自のものがあると信じたいのだというメッセージは切ないし、いよいよ人類の荒廃も進んだ近未来には、もしかするとこんな静けさしかないのかもしれないという、ある種の絶望感の表現に、見る価値があるとは言えると思う。さすがに 3作目が作られる可能性はまずないであろうから、前作から 35年の時を経た現代において、このような映画が作られたことの意味をよく考えたいと思う。

by yokohama7474 | 2017-12-06 00:38 | 映画 | Comments(0)

密偵 (キム・ジウン監督 / 原題 : 密偵)

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私が韓国映画を敬愛していることは、以前もこのブログで書いたことがある。いわゆるテレビドラマの韓流とか K-Pop には疎い私であり、映画にしても、それほど沢山韓国の作品を見ているわけではないが、そうであっても、これまで経験した範囲で言えば、全般的な映画作りの真剣さやその内容の仮借なさについては、残念ながら日本映画はかなり差をつけられていると、常々思っているのである。今回の「密偵」にしても、エンターテインメントとして上質な出来であり、また同時に、人間の本質を見る者に深く問う、素晴らしい作品であると思う。監督のキム・ジウンは、以前の作品ではホラーの「箪笥」を見ているし、ハリウッドデビュー作でアーノルド・シュワルツネッガー主演の「ラストスタンド」も見た。いずれも驚天動地の大傑作とは言わないが、違ったタイプの作品において、なかなか巧みな演出を披露していたと思う。
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本作の舞台は、第二次大戦中、日本統治下の韓国である。このブログでもご紹介した怪作「お嬢さん」もそうであったが、この時代を舞台にした韓国映画が最近増えているのか、それとも、これまでもあったのに日本では公開されなかっただけなのか。いずれであっても、見る人はその映画の中でストーリーテリングや人間の感情表現方法などに意を砕くべきだろう。たまたまここでの悪玉が日本人であっても、それを理由に日本人がこの作品を見ることを避けるなら、それは映画を文化の重要なひとつの形態と考える私のような者からすると、大変にもったいないことだと思うのである。実際、このような上質な映画になると、政治的なメッセージだけで観客の心をつかむのではなく、人間の本質を描くことでこそ、観客にアピールするものだと思う。もちろん悪い日本人や、偉そうにする日本人も沢山出て来るが、逆に韓国人の方も、全員が英雄的な人間像ではなく、そのリアリティことに打たれるべき作品である。

ここでの主人公は、韓国人でありながら日本の警察に所属するイ・ジョンチュル。日本語の使用を含め、これはかなりの難役であるが、演じるのは韓国を代表する名優、ソン・ガンホ。日本で韓国映画がブレイクするきっかけとなった「JSA」「シュリ」の両方に出演していたが、フィルモグラフィーを見ると、それ以外にも「殺人の追憶」「親切なクムジャさん」という私の大好きな作品にも出ており、既に 50歳と脂の乗った年齢である。若い頃から決して美形ではなかったが、今はこのように、作品にふさわしい深みのある演技を見せる。また、彼の持ち味はなんといっても、常にどこかユーモアを感じさせること。この悲惨な内容の映画を、観客がちゃんと冷静に見ることができるのは、かなりの部分、彼の演技に負うものと思われる。
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それから、日本に抵抗する義烈団の団長を務めるイ・ビョンホンもまた、韓国を代表する俳優で、「ターミネーター : 新起動 / ジェネシス」や「マグニフィセント・セブン」というハリウッド映画にも出ている。ここではストイックであり冷徹な切れ者でありながら、祖国独立への強い決意を持つ義烈団の団長役を、静かな迫力で熱演している。
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それから、この人。先般日本公開され、私もこのブログで大絶賛した「新感染 ファイナルエクスプレス」での熱演も記憶に新しい、コン・ユ。容姿はすっきりしているが、内に秘めた情熱をうまく表現している。あ、この映画でも、「新感染 ファイナルエクスプレス」と同じく、列車内でハラハラドキドキの目に遭うのである。
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日本からは、鶴見辰悟が朝鮮総督府警務局の部長として出演している。もちろん弾圧する側だから悪い奴なのだが、そこはかとない人間味もあって、この映画の深い陰影を作り出すのに大きな貢献をしている。
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それから、大変印象に残ったのは、ハシモトという、名前は日本人だが韓国人で、主人公と同じく日本の警察で働いている警官を演じた、オム・テグだ。一体誰が敵で誰が味方なのか分からないストーリー展開の中で、常に周囲に気を配る、動物的な身のこなしの男。彼が誰かをジロリと睨むだけで、ブルブル震えあがってしまうような迫力である。
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このような名優たちの織りなすドラマは、奇想天外というわけではなく、常に歴史の歯車が回っているという感覚のもとで進展するが、先の読めないものであり、ストーリーを追うだけでも楽しめる。実はタイトルの「密偵」は、主役の警察官のことを指すのではなく、ほかにいるはずの二重スパイであって、謎解きの面白さはそこにもある。だが私が本当に感動するのは、人間の複雑な感情のひだがそこここに現れていることである。対立、裏切り、同情、友愛、激昂、諦観・・・。これらは人間の歴史の中でいつどこにでもある感情の数々であり、何もこの映画を戦争時のものとして見る必要はないと思う。描かれているのが人間であれば、その映画には見る価値があるのであるから。中には拷問など悲惨なシーンもあるのだが、それでもこの映画は、韓国人から見た日本統治への憎しみという感情をストレートにテーマにするのではなく、登場人物のセリフや音楽の使い方に、ユーモラスな要素を見出すことができる。後半の方で流れるドヴォルザークのスラヴ舞曲作品 72-2 は、ちょうどこの映画を見る前日にサイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルのアンコールで聴いたばかりであったが、そのスラヴの憂愁溢れるメロディが、描かれた現実の悲惨さを優しく包んでくれる。そして大詰めではラヴェルのボレロを使っていて (但し原曲通りではなく、合唱を入れるなど独自のアレンジをしたもの)、ここには巧まざるユーモアが感じられた。

このように、大変に凝った作りで、見ごたえ充分の映画なのであるが、もうひとつ印象に残ったことを書いておくと、それは言語である。もちろん韓国語がメインだが、出演している役者たちの一部は、日本語を喋ったり中国語 (義烈団のアジトが中国にあるため) を喋ったりしている。この自然さが大変よい。東アジア、つまりは日中韓が中心をなすこの地域では、中国由来の共通の伝統文化はあれども、3ヶ国で言語は全く異なり、そして、現在に至るも外交上の問題が存在している。以前もどこかで読んだことがあり、最近でも日経新聞に掲載されていた生物・地理学者ジャレド・ダイヤモンドの言葉にもあった通り、現実世界におけるこのような東アジアの不安定な状況や諍いが、この地域の経済発展を阻んでいるという説は理解できる。だがこの映画では、政治的目的を持つ登場人物たちは自由に 3ヶ国語を駆使して、様々な危険に身を投じて行く。このような姿は、今後の東アジア地区の安定を目指すにあたって、大変示唆に富んだものではないか。
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繰り返しだが、この映画を、当時の戦争の悲惨な状態や、抑圧する側にあった日本人の非難という面をメインに描いたものと思ってはいけない。歴史というものの残虐性や、人と人の信頼関係の尊さなどに思いを致すべきだろう。恐らくは題材のせいか、日本ではあまりヒットしなかったように見受けられ、既にほとんどの劇場で上映が終了しているが、今調べたところ、新宿のシネマートではまだしばらくかかっている。人間の本質を考えたい人には、強くお薦めしたい映画である。

by yokohama7474 | 2017-12-05 01:40 | 映画 | Comments(0)

ザ・サークル (ジェームズ・ポンソルト監督 / 原題 : The Circle)

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このブログでは、時に 30年前かそれ以上前のことを、つい昨日のことのように書いていることがままある。実際、人の生活の本質的な部分には、何十年どころか何百年、ひょっとしたら何千年も変わらない部分はきっとあるだろうと思う。だが、もし我々が今この瞬間、30年前に世界に戻って、スマホや SNS のない世界で生活しなさいと言われたら、どうしたらよいか分からないという人も結構いるであろう。この映画は、そのようにネットに生活を支配されつつある現代人の身に起こる恐怖を描いている。私は SNS 派ではなく、日常生活のすべてをネットに乗っ取られているわけではないが、現代に生きる人間としては、下手な怪談よりもよほど怖そうなこの作品は、見ておきたいと思ったのである。それには明確な理由があって、主演がエマ・ワトソン、共演がトム・ハンクスというメジャーな俳優を使っていることだ。前者はともかく後者は、出演する作品すべてを見たいと思わせるほどの、現代最高の名優であると私は考えているのである。
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上映が始まって、若干の違和感があったのは、最初に出て来る制作会社のロゴに、なじみのものがない。最近邦画でも結構見かけるワーナーブラザーズとか、ユニヴァーサル、コロンビア、20世紀フォックスというメジャーな会社は全く見当たらないのである。このプロダクションにこの俳優ということは、低予算ながら工夫を凝らした優れた映画か、さもなくば意欲が先走った残念な映画か、どちらかではないか・・・という想像が冒頭から働く。

ストーリーは予告編で理解できた通りで、簡単と言えば簡単。SNS 会社に就職した若い女性、エマ・ワトソン演じるところのメイ・ホランドが、その会社で頭角を現す。その会社の創業者のひとりである、トム・ハンクス演じるところのイーモン・ベイリーが主張する SNS から展開する新しい世界の中で、メイの、そして人々の何かが歪み始める・・・というもの。題名の「ザ・サークル」とは巨大 IT 企業の名であり、「トゥルーユー」という SNS サービスの提供で急速に業績を伸ばしているという設定である。主役のメイは、それまで納得のいかない電話での顧客対応の仕事についていたところ、友人の紹介でこの会社に転職し、このように日々端末に向かって努力することで、顧客対応のスキルを上達させて行く。このあたりのテンポはなかなかよい。
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だが、その後のストーリーの展開には不満がある。ネタバレを避けながらそれを書くのは難しいが、要するにこの会社が進める方向には規制も絡み、政治家との関係も出てきて、自由な社風の中で社員の士気が高いように見える中で、プライヴァシーの観点から段々行きすぎが生じるようになり、メイの心は引き裂かれ、あまつさえ、思わぬ悲劇まで起きてしまう、というストーリーなのだが、これを現代の恐怖というなら、さらにシニカルな要素が欲しかった。例えば、「おいおい、そんなことありえないでしょ」と思わせる間は観客を笑わせておいて、ある瞬間に突如その笑いが凍り付き、観客は奈落の底に突き落とされる・・・そんな流れがあればよかったのに、と思ってしまう。いやもちろん、観客に突然のショックを与える瞬間はあるのだが、そのシーンの出来はあまりよいとは思わない。この映画は残念ながら、最初の方は「現代なら、こういうことにもなるかもね」と思う設定もあるが、話が進むうちに「いやいや、これはないって」という気持ちになってくる。そうなると、何かもっと工夫がないと、やはり映画の流れで観客の心を掴むのは難しくなってしまう。例えばこの黒人俳優、今の「スター・ウォーズ」シリーズにも出ているジョン・ボイエガという人だが、キャラクターの設定は悪くないのに、肝心のところでストーリーの展開にそれほど大きく貢献しない。ちょっと残念だ。
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面白い点があるとすると、劇中で世界中の人たちから常に見られる存在となるメイ役のエマ・ワトソンは、「ハリー・ポッター」シリーズによって実際に世界中の人々から見られる存在であったということだ。劇中で彼女が、多くの社員たちと、ネットを通してその向こうにいる全世界の「トゥルーユー」ファンたちを前に喋る姿を見ると、なるほど 10代の頃から世界に知られる存在であったことが思い起こされる。それは実際大変な緊張感であろうが、既にそんなことには慣れていると言わんばかりに、自然体で演技する点には好感が持てる。
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だが、このエマ・ワトソンの演技の質自体については、私としては今後に期待ということにしておきたい。自然体でいて人の心を動かすというレヴェルには、残念ながら未だ達していないと思う。それにひきかえ、トム・ハンクスはさすがである。時に不気味な光を放つその目の動きひとつ、ジョークを交えた軽妙な喋り方ひとつ取っても、彼の演じている人物の表面と内面の複雑な乖離が滲み出てきている。つまり、明らかに熱血漢ではあるが、その人生の目標が、ビジネスの成功であるのか純粋な好奇心であるのか、また、他人に対して理解があるのか冷酷な人間なのか、そのあたりの答えを観客に単純には与えない。恐らくは、そのどれもがこの人物の真実なのであろう。出演シーンはさほど多いわけではないのだが、その存在感は絶大である。
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このように、トム・ハンクスの演技を除くと素晴らしい出来とは言えないと思うのだが、ひとつ、奇妙で不幸な出来事によって、この映画がただならぬものになっているという事情があるので、ご報告しよう。劇中でエマ・ワトソンの両親役を演じるビル・パクストンとグレン・ヘドリーのふたりともが、なんと、この作品の撮影中または封切直前に、相次いで急死しているのである。
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奇しくもふたりとも 1955年生まれの同じ年。前者は「ターミネーター」「エイリアン 2」「タイタニック」というジェームズ・キャメロン映画に何本も出ているほか、「ツイスター」も記憶にある。後者はそれほど有名な出演作はなさそうだが、なかなか味のある女優さんである。実は、上の写真でもそれと知られるかもしれないが、ビル・パクストン演じる父役は難病を患っているという設定で、なかなかに鬼気迫る演技であったのだが、撮影後の心臓病の手術の後、亡くなったらしい。母役のグレン・ヘドリーは、撮影中に肺血栓で死去。劇中でもこの二人が IT の恩恵を被る一方で、恥ずかしいところを全世界に目撃されたりする、いわば先端技術に翻弄される設定であったが、偶然とは言え相次いで亡くなったことを知ると、IT に憑り殺されたかのようで、何か不気味なものを感じる。

ところでこの映画のスタッフにはビッグネームがいて、それは音楽のダニー・エルフマンだ。ティム・バートンの映画の数々で知られる人だが、通常はオーケストラを使って線の太い音楽を書くイメージだが、ここではミニマル・ミュージック調の音楽を書いていて、IT の暴走という現代の恐怖をユニークに描いているとは思う。だがやはり、脚本も手掛けている監督のジェームズ・ポンソルト (インディーズ出身のようだ) の手腕に、本作に関しては課題あり、というのが私の整理である。原作はデイヴ・エガーズという人のベストセラー小説であるそうだが、そちらの方はまた違ったインパクトがあるのだろうか。
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と、映画としては残念ながらあまり高く評価できないというのが私の意見だが、これからこの種の映画は増えてくるかもしれない。どんどん進化する IT と、果たして私たちはどのようにつきあって行くことになるのだろうか。最近の凶悪犯罪でも SNS が使われたというショッキングな事実もある中で、せめて映画の中では、そのショックを打ち消すようなヒューマニティを信じたいし、その表現にはやはり高度なものを期待したいのである。

by yokohama7474 | 2017-12-02 01:24 | 映画 | Comments(0)

バリー・シール / アメリカをはめた男 (ダグ・リーマン監督 / 原題 : American Made)

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よく考えてみると、トム・クルーズという役者は、映画に出演するときにはほぼ必ず主役ではないか。現在ハリウッドで活躍している俳優たちのあれこれを思い浮かべても、時には脇役か、少なくとも数人いる主役のひとりで出演することがある中で、これほど単独での主役が多い人は、ちょっといないのではないか。そして彼は必ず、体を張った演技を披露。既に 55歳という年齢を感じさせない若さを保っているのである。このブログでも既に、「ミッション : インポッシブル / ローグ・ネイション」「ジャック・リーチャー NEVER GO BACK」「ザ・マミー / 呪われた砂漠の女王」を採り上げたが、それに続くトム・クルーズの主演作がこれだ。だが、実はこの映画、公開から未だ 1ヶ月と少しという今のこのタイミングで、ほぼ上映が終了してしまっている。ということは、少なくとも日本では興行的には失敗したということではないだろうか。私の場合、ヒットしているか否かは見るべき映画の選択には関係なく、監督や役者や、あるいは予告編で得た感触に依拠して映画を選別しているわけで、結果的に面白くない場合でも、「だからヒットしなかったのか」と思わないケースもある。だがしかし、この映画の場合は、「なるほど、これはヒットしないわな」と思ったというのが正直な感想。以下、その理由を考えて行こう。まあ何はともあれ、いつもながらに爽やかなトムの笑顔。
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まずこの映画の主人公は、邦題になっているバリー・シールという実在の男である。副題に「アメリカをはめた男」とあるように、1970年代から 80年代にかけて、「CIA と麻薬王を手玉に取り、ホワイトハウスに雇われた天才的なワル」(映画のプログラムより) の物語である。もともと当時の大手エアライン TWA のパイロットで、ひょんなことから CIA の秘密工作に関与し、グアテマラやエルサルバドルという中米の国々を舞台に、活動を広げて行く。その才気によって危ない橋を何度も渡り、段々大胆になって行って、巨額の富を得るのだが、いつの間にか越えてはいけない一線を越えてしまい・・・という話。実在のバリー・シールさんはこんな人だったらしいから、正直言って、トム・クルーズほどはカッコよくはなかったわけですな (笑)。
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まあそれはよいとして、私がまず疑問に思ったのは、この映画の宣伝方法である。ポスターに踊る文句からは、いかにもワルが調子よく巨大な悪や政府機関を手玉に取るという痛快アクションのように見えるし、映画のプログラムにも、「トムの華々しいフィルモグラフィーにおいても破格の "ぶっ飛んだ" 衝撃を呼び起こす痛快作なのだ」とある。だが、本当にこの映画を見て、痛快だ!! という感想を持つ人は、どのくらいいるだろうか。私の場合は、米国という国の救いがたいほど深い闇を見せつけられたように思い、本当に胸が悪くなる思いをした。もしこれがフィクションだったら、また違った感想になったかもしれないが、事実に基づくとなると、そうそう笑ってみているわけには行かない。例えば、この映画の舞台はレーガン政権時代だが、作中ではそれから 3代の大統領たち、つまり、ブッシュ父、クリントン、ブッシュ息子が様々な関わり方で登場するのである。明らかに犯罪者である主人公と、後に政権トップに上り詰める人たちとの間に何らかの関係があるということはつまり、米国政府は犯罪者を利用しているということである。そう、そのことは上の説明でも既に明らかなのであるが、実際に映像でそのことを思い知らされることは、あまり楽しいことではない。またその一方で、何十年か前の話とはいえ、未だ現存している過去の大統領たちの名誉にならないこのようなことを映画にしてしまうハリウッドとは、なんと驚くべき表現の自由を獲得していることか、と感嘆してしまう。日本では決してこんなことは起こらないだろう。原題の "American Made" とはつまり「米国製」という意味であり、バリー・シールという人物はすなわち、まぎれもなく米国において生まれ、米国以外では誕生しえないのだということを示しているのだろう。ここで右側に写っているのが、正体不明の CIA の工作員「シェイファー」。演じるのはドーナル・グリーソンという役者で、画像を検索して分かったが、「レヴェナント : 蘇りし者」や「エクス・マキナ」にも出演していたし、現在進行中の「スター・ウォーズ」シリーズでは、ハックス将軍という役を演じている。
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だが、映画を評価する際に、事実がどうのということだけに依拠するのも、適当でないだろう。実話に基づいているか否かに関わらず、この映画が単純に面白ければそれでよいという見方もあるはずだ。だが残念ながらその点でも、この映画を評価することは難しいように思う。ひとつには、当時のホームビデオのような画像が頻繁に現れ、トム・クルーズの顔を映画らしく捉えていないという不満がある。私の好みもあろうが、実話に基づく物語だからといって、一般人が記録として撮るような映像を見せるのはいただけない。考え抜かれたプロのカメラワークが欲しい。それから、上記の「シェイファー」は例外として、ほかのキャラクターに魅力が乏しい。コロンビアの麻薬王なんて、もっと遊べるキャラクターではないだろうか。

評価できる点を挙げるとすると、トム・クルーズが、ここでも体を張った演技を、多く自分でこなしているということだろうか。なんでも、飛行機のシーンも自分で操縦したというから、驚きだ。
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監督のダグ・リーマンは、「ジェイソン・ボーン」シリーズの監督や製作総指揮で知られる人で、トム・クルーズとは既に「オール・ユー・ニード・イズ・キル」で組んだことがある。これらの映画は結構面白いので、その意味では、今回は少し残念な出来であったと言わざるを得ないものの、また今後に期待できるだろう。調べてみると、私と同い年で、誕生日は 1ヶ月も違わないので、ちょっと応援したくもなろうというものだ (笑)。
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ひとつ印象に残ったのは、最後のセリフである。主人公バリー・シールはそこで、米国という国は世界で最も偉大であると言おうとして、ある理由によって途中で遮られてしまうのであるが、「米国を再び偉大な国にする」という言葉は、周知の通り、現在の米国大統領のスローガンである。現在の視点でこの映画を見ると、1970 - 80年代は、もしかすると米国の人々の多くが、自国は世界で最も偉大な国であると信じていたかもしれないが、その偉大さが、実は手段を選ばない汚いやり方によって支えられていたかと思うと、改めて複雑な思いを抱かざるを得ない。その意味では、世界の秩序が大きく変わった現在、米国が再び偉大な国になるという目標が、果たしていかなる方向に向かって行くのかは、そう簡単に予測できる問題ではない。この映画を見て私が抱いた、あまり楽しくない感情は、その思いに起因しているのかもしれない。とても痛快作とは言えないのである。

by yokohama7474 | 2017-12-01 01:18 | 映画 | Comments(0)

セブン・シスターズ (トミー・ウォルコラ監督 / 原題 : What Happened to Monday?)

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かつて我々が想像していた未来は、明るい希望に満ちたものであった。鉄腕アトムやドラえもんが人間と共存し、困った問題にはすぐに解決策が示される。大きな問題だけでなく、よしんばそれが小さな問題であっても、困難を克服することで、人類はまた次の希望を持つことができる。それこそが我々の夢見る未来であったのだ。だが、いつの間に世界は変わってしまったのであろうか。近い未来、遠い未来、なんであれ、我々がこれから迎えようとしている世界は、果たしてどの程度希望を持てるものなのであろう。この映画を見てそんなことを考えてしまった。だが待て。なぜに未来のことなのか。題名のセブン・シスターズとは、英国のドーヴァー海峡に面したこのような場所のことではないのか。
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もちろん私はこの場所を訪れたことがあって、その雄大な景色に痛く感動したのであるが、このセブン・シスターズという場所とこの映画の間には、全く何の関連もない。それもそのはず、この映画の原題は、"What Happened to Monday?" である。つまり、「月曜に何が起こったか」ということ。この映画を見た人は誰でも分かるのであるが、これは実に秀逸な題名である。残念ながら、「セブン・シスターズ」では、この題名に込められたサスペンスを到底理解することはできない。ただその一方で、この題名にはそれなりの理由があって、それはつまり、この映画の主人公は 7人の姉妹なのである。これは予告編で既に明らかになっていたことなので、ネタバレには当たらないと整理して、この映画の前提を書いてみよう。
・近未来、世界は人口増加によって深刻な食糧難に陥っている。
・その問題を解決するため、遺伝子操作によって食物の大量生産が成し遂げられた。
・それによって食糧難が克服できたと思われたが、遺伝子操作による思わぬ副作用が現れた。
・それは、人間の多産性。つまり、一回のお産で多くの子供が生まれるようになってしまった。
・そのままではまた食糧危機が起こってしまうので、政府が立てた方策は、どの家庭も一人っ子しか認めないというもの。
・だが、既に多産が起こってしまっている状況下、生まれてくる多くの子供をなんとかしないといけない。
・そこで政府は、各家庭で選ばれた一人以外の子供を冷凍保存し、将来いつか食糧問題・人口問題が解決する日に、また蘇生するという方策に出た。
・ここにひとつの家族があって、ある女性が、父親の分からぬ子供を身ごもり、その七つ子を産んですぐに死んでしまう。
・その女性の父は、自分の孫にあたるその 7人の女の子たちを秘密裏に引き取り、古いアパートの最上階にかくまう。
・その 7人の女の子たちは、月曜から日曜まで、それぞれの曜日を名前として与えられる。つまり、Monday、Tuesday .... Saturday、Sunday。
・小学校に入る年齢になると、それぞれの子は自分の名前と同じ曜日に外出し、7人で一人の人格を演じることとなる。
・その生活を続けた 7人の女性は、既に 30代に至り、社会的にも重要なポジションを得ることになる。
・だが、彼女らの行っていることは、一人っ子しか認めないという政府の方針に逆らっており、極めて危険なこと。
・そしてある日、月曜日に Monday さんが外出し、そのまま戻らない。さぁ、どうする姉妹たち???

改めて、なかなかよくできた設定だと思う。そしてこの映画は、この秀逸な設定の中で、ハラハラドキドキ、先を読ませない展開を見せるのだ。こんなに面白い映画はそうそうないと思う。これが 7姉妹。
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それぞれに全く違ったいで立ちであり、全く違ったキャラクターなのであるが、実は演じているのは一人の女優。1979年スウェーデン生まれのノオミ・ラパスである。経歴を調べるといろいろな映画に出ているが、私もそれと知ってなるほどそうかと思ったことには、リドリー・スコットの「プロメテウス」の主役を務めていた人である。名作「エイリアン」の前日譚にあたるこの映画、最高の作品と絶賛するつもりはないが、それなりにインパクトのある映画ではあった。特に、この女優が演じたこのシーンは実にエグいもので、一度見たら忘れまい。うー、ブルブル。
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この作品の中のシーンでは、随所にこの 7人の姉妹が交錯し会話していて、誰もが、一体どうやって撮ったのか不思議に思うことだろう。それぞれのキャラクターを演じるノオミ・ラパスの演技が極めて自然なので、本当に、同じ顔をして違うテイストを持った 7人が存在しているのではないかと思うほどだ。それゆえ、Monday が行方不明になった翌日に Tuesday が何食わぬ顔で外出するところから、本当にハラハラするのである。これ、ひとりの女優が演じていると信じられますか?
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設定がうまく出来ている上に、話の流れを作るのが大変に巧いので、見ている人はどんどん引き込まれていく。スリルとサスペンス、そしてそこはかとないユーモア。そのストーリーの展開において、次々と襲い掛かる試練に立ち向かう姉妹たちに、観客はそのうち深く感情移入することになる。そして大詰めでは、最初に行方不明になった Monday に一体何が起こったのかが明らかになり、おぉなるほど、この映画の本質はまさに「Monday に何が起こったか」であることに気づくのである。これは秀逸な映画である。しかも、姉妹たちの祖父にウィレム・デフォー、一人っ子政策を強く推進する政治家にグレン・クローズが配されていて、その演技のレヴェルは極めて高い。
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この映画を監督したのは、ノルウェイ出身のトミー・ウィルコラ。主演女優と同じ 1979年生まれで、これまでマニアックな映画を 4本撮っているが、日本で劇場公開されるのは本作が初めてとなるらしい。今後は注目する必要があるだろう。
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つまりこの映画は、ともに北欧生まれの監督と主演女優によってこれだけ面白いものになったわけだが、実はほかの役者にもノルウェイ出身がいて、さながら北欧の才能が結集した感さえある。このような映画を見ることができる我々は本当に恵まれている。ただ、現在上映しているのは新宿のシネマカリテのみで、12/1 (金) が最終上映日である。それまでに一人でも多くの人に見て頂きたいと、お薦めしておこう。

それにしても、これから数十年後の世界がどうなっているか、想像することも難しい。まさかこの映画で描かれているような事態が現実に起こっていることはないとは思うが・・・。いずれにせよ、映画は嘘の塊であり、その嘘をいかにリアリティを持って描くかに醍醐味がある。この映画のように立派な嘘をつければ、見る価値があろうというものだ。そんな映画の題名として、"What Happened to Monday?" から「セブン・シスターズ」に変えられてしまう点にはしかし、大いに疑問を感じる私である。これはいささか困った問題ではないかと、Monday (モンダイ) さん自身が言っておられます (笑)。だからこの映画の邦題は、「Monday の問題」とでもすればよかったのではないですかね。
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by yokohama7474 | 2017-11-29 00:08 | 映画 | Comments(0)

亜人 (本広克行監督)

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またもや、という言葉が何度目か分からぬほどだが、マンガを原作とする邦画である。マンガが悪いと十把一絡げに乱暴な議論を展開するつもりは毛頭なく、原作が何であれ、面白い映画でありさえすればよいのである。予告編を見て、これは何やら面白そうだぞという気がしたので、見に行くことにしたのである。上のポスターも結構よくできている。というのも、この黄金色をバックにして空気中を黒いものが漂っているこの浮遊感、どこかで見たことはないか。そう、これである。
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俵屋宗達の「風神雷神図屏風」。では、主演の佐藤健と綾野剛は、風神雷神であるのか。あながち的外れでもない・・・かどうかは別として、この 2人、人間にはない特殊な能力を持っていて、それこそ彼らが、フウジンやライジンさながら、アジン (亜人) と呼ばれる理由なのである。つまり、人に似て人にあらず。人間の生命は一度きりなのだが、この亜人たちは、一旦生命を終えても、すぐにまた再生するのである。であるから、闘いで傷つき、絶体絶命のピンチに陥ったときにすることは簡単。一度自分を殺すのだ。そうするとリセットされ、傷のない新たな自分として再度敵に攻撃を仕掛けることができるのである。なるほど、この設定はなかなかにユニークだ。不死身の体を持っていれば、かなり大胆なこともできるはずであるからだ。それゆえ、こんな状態であったものが、
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切羽詰まると、こんな感じになってしまうのである。
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なるほどこれは、普通にはない設定である。だが、映画の中でこれが散々繰り返されてみると、正直なところ、ちょっと辟易としてくる。君たち、もっと命を大事にしろよと言いたくもなってくるのだ (笑)。真面目な話、人間とは弱いものなのだ。このような便利な能力があれば、真剣に自分の身を守ろうとは考えないゆえ、敵と戦う意欲を維持することは極めて困難になってくるものだと思う。それゆえ、この映画では、彼ら亜人、とりわけその道のベテラン (?) である佐藤を演じる綾野剛は、ある想像を絶する耐え難い目に遭ったことへの復讐として人間社会を恐怖に陥れるという設定になっているのである。
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この役者の持つ一種独特の危なさには、なかなかのものがある。最近では、(劇場で見なかったのでこのブログの対象とはしないが) 剣道に魅入られた男を演じた「武曲 MUKOKU」など、その狂気を孕んだ危ない要素のみならず、主人公の内面のナイーブさや、若き日のうぶな外見まで、実に幅広く演じていて素晴らしかった。そしてこの映画でも、ムキムキ筋肉の披露を含め、なんとも楽しんで悪役を演じていることが明らかで、こういうことができる役者がそうそういるとは思えない。それに対する佐藤健 (たける) は、この作品の本広監督とは既に「るろうに剣心」シリーズで組んでいる (綾野も 1作目に出演している)。これもまたマンガを原作にするシリーズであるが、私はこの「るろうに剣心」シリーズには、明治の日本の毒がうまく表現されていると思っていて、結構好きなのである。佐藤健という俳優はそのシリーズと、NHK BS あたりの遺跡の旅のドキュメンタリーで見たくらいであるが、その身のこなしには非凡なものがあることは明らかで、これから多くの映画で様々な役柄を演じて、演技の幅を広げて欲しいと期待している。なんだかお父さんのようなコメントですが (笑)。さすが本広監督、佐藤の持ち味を充分分かっているのだろう、この映画は、拘束された彼の瞳のアップに始まり、自由を得た彼の瞳のアップで終わるのである。あ、それから、これは女性ファンサービスであろうか、彼も綾野に負けじとムキムキ筋肉を披露している。ムキムキ同士の死闘。
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この映画、このように主役 2人の肉弾戦をはじめ、見どころはあれこれあって、まあこれはネタバレとは言わないだろうから書いてしまうと、大林宣彦と大森一樹が出演しているのが面白い。以前からどこかで、「大林」と「大森」の違いについてちょっと書いてみたいと思っていたが、ここではその暇はないので飛ばしましょう。とにかくこの映画にはあれこれ工夫があって、面白いと言えば面白い。だが一方で、課題も多いと言わざるを得ない。ひとつは、脇役の存在感。申し訳ないが、善玉悪玉、男性女性を問わず、ここでの主役 2人以外の役者陣には、私は感心しなかった。よい映画を作るには、よい脇役が必要である。私が感じたように、脇役の水準に限界があることが、もし今の邦画の状況であるなら、ちょっと残念なことである。それから、リセットを繰り返す亜人たちの戦いぶりにも、映画としての手に汗握るほどのサスペンスを感じることはなかった。例えばこういう分身たちが戦うシーンが多く出てきて、その CG には見るものはあったものの、設定にちょっと無理があるだろう。こんな便利なものがあるなら、自分がどこかに出掛けずとも、あるいはムキムキ同士の肉弾戦を展開せずとも、常にこの分身を使って戦わせていればよい。「ウルトラセブン」のカプセル怪獣の時代ならいざしらず、現代では、荒唐無稽な中にも説明可能なストーリー作りの必要があると思うのである。
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それから、例のリセットである。この映画の設定の最大のウリであるこの点が、様々なシーンで緊張感をそいでいる。そして、特殊部隊をひとりで軽々とやっつけるという設定もナンセンス。人生は決して、決して、リセットできないし、本当のプロフェッショナルな訓練を受けた特殊部隊には、いかに亜人と言えども、そうそう簡単にかなうわけはないのである。我々が現実社会で見ている厳しさとか絶望感には、このような設定ではどうしても届くわけがない。もちろん、映画であるから、荒唐無稽な設定自体は大いに結構であるが、この時代にこのような映画を世に出すことの必然性は、感じてみたいものだ。あ、その点について、ひとつ思うことがある。最近の邦画には、「人に見えるけれど本当は人ではないものが、人間世界に紛れて生活している」という設定のものが多くはないか。「寄生獣」「東京喰種」がそうであったし、「進撃の巨人」にもその要素がある。こうして並べてみると、本作を含めてすべてマンガが原作である。もちろん、洋画でも、ちょっと古いが「メン・イン・ブラック」などの同種の作品があるが、もともと多様な人たちが集まっている米国では、そのような設定にはユーモアをまぶさないと、シャレにならない。その点日本は、均一性は比較にならないほど高いがゆえに、このような設定のマンガや映画が、結構シリアスな設定として描かれるのだろうか。自分が人と違った存在であることへの恐怖が、日本の社会には存在していて、それがマンガに反映されているのだろうか。ここで現代マンガ文化論をぶつつもりはなく、私にはそんな資格はないが、ふとそんなことを思ったものであった。

フウジンライジンアジン、日本独自の文化として認定されるには、まだまだ課題が多いと考えるべきだろう。こらこら、リセットしても、状況はすぐには変わりませんよ!!
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by yokohama7474 | 2017-11-18 22:36 | 映画 | Comments(0)

ギミー・デンジャー (ジム・ジャームッシュ監督 / 原題 : Gimme Danger)

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もともとインディーズ映画の騎手としてそのキャリアを開始した名監督、ジム・ジャームッシュの作品だ。以前同じ監督の近作「パターソン」をご紹介した通り、その「パターソン」と、この「ギミー・デンジャー」とは、たまたまなのか、同じ時期に日本公開していたのである。だが、「パターソン」と違ってこれはドキュメンタリー映画。では一体何についてのドキュメンタリーであるのか。それは、ロック歌手イギー・ポップと、彼が率いていたバンド、ザ・ストゥージズ (The Stooges) についてなのである。さてそれはどんな人たちだろう。
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あーあ。やってしまいましたねー。多くのクラシック音楽ファンが集って来られるこのブログで、このような裸の写真はいかがなものですかねぇ (笑)。だが、この記事を書いている本人である当の私は、そんなこと全くお構いなしに、この映画の面白さについてこれから語って行くのである。もちろん私とても、イギー・ポップの大ファンというわけではなく、正直、どんな曲を歌っているのかは全く知らない。だが、その名前には何か聞き覚えがあって、それは恐らく、デヴィッド・ボウイの何かのアルバムでその名を見たことによるのかと思いつつ、よく思い出せない。もしかすると、「イギー」ならぬ「ジギー・スターダスト」からの連想ということもあるのかもしれない。だが、念のためと思って今調べると、やはりそのアルバムの「ジギー」は、「イギー」から取ったという説があるようだ。ふーむ。デヴィッド・ボウイとイギー・ポップの関係がいかなるものであったのかを探るのがここでの目的ではないが、アーティスト同士の交流には、常人の感覚を超えるものがあり、それはそれでアーティストの存在証明のようなものであろう。ともあれ私は是非この映画を見たいと思って機を伺っていたのであるが、出張や旅行も飲み会もあって、なかなかその機会を得ることができなかった。そして、渋谷の小劇場アップリンクでようやく見る機会を得たのは、11月10日、18時40分からの、この映画の日本における本当に本当の最終上映回であった。日本での封切日は 9月 2日だから、結構長く上映していたことになるが、それでも私が見た最終回、定員 45名ほどの劇場は満席であった。これだけ熱心なファンがいるんだから、もう少し長く上映してもよかったのでは? と思ってしまうが、こちらはこちらで、ほかに見なくてはいけない映画が目白押し。アップリンクの低い椅子にふんぞり返りながら、ともかくも滑り込みセーフでこの映画を見ることができた幸運を喜んだ。ここは映画館といっても、こんな可動式 (?) の椅子が並んでいるだけなのだが、なかなか侮れないクオリティの映画をいろいろ上映している。
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この映画の主人公イギー・ポップは、本名ジム・オスターバーグ。1947年ミシガン州の生まれだから、今年 70歳になるわけである。1967年というから、わずか 20歳のときにストゥージズを結成、まず 10年ほどはそのバンドで暴れまくる (笑)。実際、この映画において様々な映像で現れる彼の当時のステージを見ていると、それはもう過激であって、いわゆるパンク・ロックの先駆けとみなされているようだ。もちろん私はパンク・ロックの大ファンとはお世辞にも言えないが、時代とともに移り変わる音楽のスタイルには大変興味があって、高校生の頃には、過激なロックとしてはセックス・ピストルズとかヴェルヴェット・アンダーグラウンドが面白いと友人から聞くと、アナログレコードを図書館で借りてきて、カラヤンやベームのレコードの間に聴いていたものだ (笑)。実際、1960年代から 70年代は、まさに政治的なメッセージが切実な重みを持った時代でもあり、既成の権威に対する反抗精神がそこに表れているであろうから、表現形態がなんであろうと、それは文化としての意義があるわけである。このようなイギーの姿勢も、立派な表現行為でなくてなんであろう・・・。か。
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この映画では、イギー・ポップが自身の来し方を徒然に語っているのであるが、彼の語りを聞いていてまず気づくのは、その歯並びの大変きれいであること (きっと矯正したのでしょうな)。それから、彼の喋る英語は、決してパンクロッカーというイメージから想像されるようなブロークンなものではなく、多少語弊があるかもしれないが、これならビジネスマンとしても充分通用すると思われるような、かなりちゃんとした (decent な) ものである。私はここに、米国という国の成熟を見る。彼が今語る自身の過去は、ユーモアも随所にあり、また自己分析も鋭くて、言葉の選び方もセンスがよく、様々な人が見て興味を持てるものである。こういう大人の語りを、日本のミュージシャンはできるであろうか。ま、見た目はこんな感じでカジュアルなんですけどね (笑)。
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ジャームッシュは、このイギーと彼のバンドが大好きで、「この映画はストゥージズへのラブレター」と語っている。ドキュメンタリー作家としての彼の手腕にはあまりイメージがないが、この映画はテンポもよく、本人たちのインタビューや当時の映像、また時にはユーモラスなアニメでの再現シーンなどもあり、大変に見やすい映画であると言えるだろう。また、上記の通り、イギーの語り自体が面白く、カリフォルニアでアンディ・ウォーホルに話しかけたことや、フラフラ道を歩いていて轢かれそうになった車 (キャデラック?) がジョン・ウェインのもので、運転していた彼に罵倒されたという話も、想像すると可笑しい。また、当時のカルチャーシーンの中で実際に面識を得て刺激を受けた音楽家として、ジョン・ケージやロバート・アシュレイ、ルチアーノ・ベリオとキャシー・バーベリアン夫妻、それから特に、本人の映像も出て来るハリー・パーチらの名が出る。これらはいずれも 20世紀音楽の冒険的な作曲家たちであり、ここでもやはり、米国においては、いわゆる芸術音楽や前衛音楽を手掛ける人たちと、過激なパンクロックをやる人たちの間に頻繁な交流があることが分かって、大変面白いのである。偏狭なセクショナリズムに囚われず、何か面白いもの、刺激的なものを求めて表現手段を追求して行ったアーティストたちの交流からは、現在ではもう稀にしか見ることができない、その時代に生きるために必要な表現活動という切実さを感じるのである。私のように、この映画を見て、久しぶりに 20世紀の前衛音楽を聴きたくなる人はあまり多くないかもしれないが (笑)。そうなのだ、余談ながら、つい先日も、あの私の大好きなテリー・ライリーが来日しているのを知らずに、呑気にボストン交響楽団などを聴いていたことがあとで判り、ちょっとだけ後悔した私である。これはハリー・パーチ。この楽器はなんだろう (笑)。
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先に「パターソン」についての記事で、その映画とこの「ギミー・デンジャー」との間に双子的な関係があるのでは、と予測してみた。結果的には、あまりペアとして作られた感じはしないものの、いくつかの点で好対照ではある。かたやフィクション、かたやドキュメンタリー。かたや文学、かたや音楽。かたや運転手 (ドライヴァー)、かたやポピュラー音楽家 (ポップ)。かたやカップルの物語、かたや男のグループの物語。それから、共通するのは、時折画面に手書きの字が挿入されること。それは、語りを基調にした映画である点に共通点があるからだ。あまりこじつける必要はないだろうが、ジム・ジャームッシュという優れた才能の中に、何か異なるものを、時期を接して (並行して?) 作りたいという欲求があったとすると、興味深いことではある。
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最後にもうひとつ。作中でイギーが、パフォーマンス中にノッてくると、客席に飛び込んで転げまわったりした若い頃のことを語る場面がある。そのようなエピソードとして紹介される笑える話があって、それは、ステージから見えた数人が自分を抱きかかえてくれるだろうと思って観客の中に飛び込んだら、さっと引かれてしまい、床に激突して前歯を何本か折ってしまったという話であった。やはり、気がふれたように熱狂的なパフォーマンスを繰り広げても、彼はどこか冷静であって、人と人の間に飛び込むことは、彼にとっては一種のコミュニケーションであったのかもしれないと思う。
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私の仕事上のお客さんで、業界でも結構重鎮の米国人がいるのだが、彼 (自身アマチュアミュージシャンでもある) いわく、大勢の群衆の中に飛び込むと、誰かによって支えられ持ち上げられ、そのことで自分は宙に浮くことができる。その一方、他人を宙に浮かせることもできる。このような人と人との支えあいこそ、ビジネスの極意であって、だから業界の多くの人たちと良好な関係を築かないといけない、とのこと。それって、このイギー・ポップが比喩ではなく実際に体で表現していたことと、同じではなかろうか。なるほど彼は、ビジネスマンになっても成功していたのかもしれませんね。だてにきれいな英語を喋ってはいないわけだ (笑)。そんなこんなで、様々なことを考えさせてくれる、よい映画でした。

by yokohama7474 | 2017-11-18 01:28 | 映画 | Comments(0)

アウトレイジ最終章 (北野武監督)

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北野武の最新作である。「アウトレイジ」(2010年)、「アウトレイジ ビヨンド」(2012年) に続くシリーズ完結作。監督デビュー作の「その男、凶暴につき」(1989年) 以来、基本的には彼の映画は見る価値ありと思っているが、残念ながらこれまですべての作品を見ているわけではなく、手っ取り早いところ、実は「アウトレイジ ビヨンド」は見ておりません!! 初期から映画監督としての名声が高く、海外でも極めて高く評価されるようになってからは、一時期、今から思えば外国人にも受けやすい作風に転じたようなこともあったと私は考えているが、この作品を見ていると、もう好きなものを撮っていますという感じで、その方が本来の北野らしいように思う。だがこれは、ヴェネツィア国際映画祭の栄えあるクロージング上映作品であったのだ。このブログでは、「世界のキタノ」などという陳腐な言葉は絶対に使わないが、ただ彼の作品が世界中で愛されていることを素直に喜びたい。これがヴェネツィアの北野と、一貫して北野作品を製作してきたプロデューサーの森昌行。
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このアウトレイジ "Outrage" という言葉は、極悪行為とでも訳せばよいのだろうか。形容詞の "Outragerous" は、ビジネスの場でもそれなりによく使う言葉である。だからといってこの映画が、国際ビジネスの場の話題にふさわしいかと言えば、さて、それはちょっと。なにせ、登場人物のほぼ全員が「コノヤロウ」「バカヤロウ」という怒号を連発するのであるから、無理もあるまい (笑)。だがそれが北野の映画である。ヴァイオレンスの連続に潜む不思議な人間性を見逃さないようにしたい。主人公大友を演じるのは北野自身であり、気がつくと既に 70歳になっているこの、稀代の映画監督であり芸人であり、ついでに画家でもある人物が、相変わらず奇妙な (?) 演技を披露するのを見ることに、人はもう慣れたであろうか。実のところ私は、彼の演技が苦手である。誰か、いい役者が代わりに主役を務めてくれないか、と思うほどだ (笑)。こんなことを言うと、「ナンダト、コノヤロー!!」と、撃たれてしまうのだろうか。
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だが、やはりこの演技も北野映画の得難い魅力だ、ということも言えるだろう。この役があまりカッコよすぎると嫌味だし、かといって、あまりに優柔不断では迫力がない。何を考えているか分からず、キレると見境がない非常に不気味な男でありながら、義理のある親分には忠実で、自らの命の危険も顧みない。そんな人間像を実在感をもって描くのは存外難しいことだ。そう思うと、ここでの役者ビートたけしのやり方は (本人にほかのやり方ができるか否かは別にして)、それなりに説得力があるのである。それからここでは、有名無名の夥しい数の役者たちが出ているのだが、その割にストーリーにはクリアな動きがある。もちろん、2作目の「アウトレイジ ビヨンド」を見ていない私のような人間には判別できない人物や、登場人物間の複雑な人間関係などもあちこちにあるのだが、細部にこだわる必要はなく、大まか誰と誰が通じていて、誰が誰を裏切ろうとしているのかさえ押さえておけば、充分ストーリーを楽しめるのだ。実はここでは、韓国と日本で強大な存在であるフィクサーと、日本最大勢力の暴力団とが緊張関係に陥るという流れがあるのだが、今振り返ってみると、昔の東映ヤクザ映画のような、派手な対立によるドラマ性は、あまりないように思う。これだけの数の主要キャラクターについての細部をあまり描かずに、だが対立の構図をちゃんと観客に提示できるという点、北野による脚本・監督の手腕は、確かであるといえよう。この、左から塩見三省、西田敏行、大杉漣はみな、なにやら叫んでいるが (笑)、彼らの人間関係をしっかり認識することが重要である。
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ひとつ面白いと思ったのは、これだけ夥しい数の人々が殺される映画の中で、最後の力を振り絞って何かのメッセージを伝えるとか、見送る人が死に行く人に涙ながらに訴えるシーンが皆無であることだ。この映画で命を落とす人は、それはもう、あっけないほどあっさりとやられて行くのである。ちょっとは生き残ろうと努力しろよという感じ (笑)。そう言えば、1作目では、あの手この手でいかに相手を残酷に殺すかという手段の数々が描かれていたものだが、本作ではあまりそこには意外性はないように思う。大物の処刑にしても、「え? これだけ?」と思った人もいるだろう。例によってネタバレは避けるが、上の写真の 3人のうちのひとりです。そうなると、この映画においては、個々の人物の死 (それは、最終的には主人公も含めてということになるのだろう) に、それほど興味が払われていないということになるのではないだろうか。ひとつの典型的なシーンは、主人公大友と、その手下である市川 (大森南朋) とが、パーティ会場に殴り込んで、片っ端から敵を片付けるシーンではないか。このあとにくるシーンだ。
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映画のプログラムをパラパラ見てみると、そのシーンについては触れられているものの、特定の映画作家へのオマージュの言及は見受けられない。だが、映画好きにはこれは極めて明らか。そう、サム・ペキンパーである。ここで北野が、ある意味で荒唐無稽な設定において再現しようとしたのは、ペキンパーの「死のダンス」である。この「死のダンス」においては、もちろん個々の人間が死ぬ前に思いを語ることは許されない。そう思うと、この作品でどんどん死んで行く登場人物たちは、それぞれに「死のダンス」を踊っているのであろう。そのダンスは最後には・・・あ、ここでやめておこう。いやいや白竜さん、だから危ないって!!
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このように、私としては、大変に質の高い映画であると思うことは間違いないのだが、ここでひとつ保留をしておこう。どうもこの記事は、褒めているのか貶しているのか分からないような振れ幅がありますが (笑)、基本的には優れた点はよく理解できながら、細部における違和感が払拭されないということなのであります。大きな違和感は、もう実名で書いてしまうが、西田敏行と、それからピエール瀧の関西弁だ。この二人とも、既に予告編から明らかであったが、関西ヤクザにあるまじき関東風イントネーションで「ボケ」とか「ナンジャワレ」とか「ナメトンノカ」とか「ヤッタロウヤナイケー」とか、怒鳴っているのである。これはいけない。方言指導を怠ったのなら、それはやはり監督の責任ではないだろうか。特に西田ほどの名優なら、きっと指導があれば本物の関西弁を喋れたはずではないか。例えば、隣にいた岸部一徳の迫力ある本物の言葉を聞くだけで、かなり違ったはずだと思うのだが・・・。本当に惜しいことだ。ジロリ。
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繰り返しだが、これは多くの役者の出ている映画であり、その点での突っ込みどころはいろいろあるが、上で触れた人たち以外にも是非触れておきたいのはこの人、松重豊だ。正義感溢れる警察官を演じているが、その飄々としながらも、一挙手一投足から人生がにじみ出る演技 (?) は、その一度見たら妙に印象に焼き付く風貌とともに、最近の CM や映画で、一気に親しいものになった。1963年生まれで、蜷川幸雄のスタジオにいた経歴を持っているらしい。誰か、彼を主役に映画を撮ってもらえないものだろうか。
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さて、これからの北野映画、「コノヤロウ」「バカヤロウ」が、どのくらい聞かれるか。それが楽しみと言うには、私には良識がありすぎるが (?)、ともかくも北野武には、観客の期待を一方で満たしながら、他方では良い意味で裏切る芸術家であって欲しいと、願うのである。

by yokohama7474 | 2017-11-17 01:40 | 映画 | Comments(0)

猿の惑星 聖戦記 (グレート・ウォー) (マット・リーヴス監督 / 原題 : War for the Planet of Apes)

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前回の記事で少し触れた通り、しばらく旅行に行っていた。10/27 (金) に出発して11/4 (土) に帰国した私は、自分が不在の間の日本で、台風 22号が通過し、日本シリーズが進み、気分が悪くなるような猟奇連続殺人が発覚し、イヴァンカ米国大統領補佐官が滞在して既に帰国したことを知っている。一方で、その間にこのブログの総訪問者数が 15万人を超えたことは、ネットの大海の中の一滴の水のような微細なことであれ、私にとっては大きな出来事であった。だが、残念なことには、見ようと思ってリストアップしていた映画のうち数本は既に上映が終了しており、美術の分野では、出光美術館の江戸琳派展と、サントリー美術館の狩野元信展に行くことができなかった。ま、過ぎたことを悔やんでも仕方ない。音楽の分野ではこれから重要なコンサートが目白押しで非常に忙しくなるし、ここは自分に鞭打ち、未だアップできていない多くの記事と、これから体験する文化的イヴェントの記事とを、並行的に書き進めて行くこととしたい。

そんなわけで、帰国後最初に見た映画がこれである。つい最近公開されたばかりと思っていたが、実際、10/13 (金) の公開からわずか 3週間で、自宅近くのシネコンでは既に 1日 1回の上映のみという事態に陥っている。昔のシリーズは 1作目しか知らないが、今世紀に入ってからの「猿の惑星」シリーズ 3本すべてを見てきている身としては、やはりこの作品はどうしても見なくてはならない。ところで、上に今世紀に入ってから制作された「猿の惑星」シリーズを 3本と書いたが、実はその中で最初のもの (ティム・バートン監督の 2001年の作品) は孤立していて、その次の作品から今回までの 3本のみがシリーズを構成している。つまり、「猿の惑星 創世記 (ジェネシス)」、「猿の惑星 新世紀 (ライジング)」と、この「猿の惑星 聖戦記 (グレート・ウォー)」の 3本である。このシリーズでは人の言葉を喋る猿のリーダー、シーザーが主人公であり、猿と人との壮絶な闘いが描かれてきたわけである。これがそのシーザー。
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この映画を見て誰もが、このシーザーの表情のリアルなことに驚くだろう。作品中で実際に、敵である大佐がそのような言葉を口にするし、そもそも冒頭近く、猿のアジトで姿を現す彼を見るだけで、その堂々たるリーダーぶりは明らかだ。もちろん猿のことであるから、リーダーであることを示す勲章や冠はつけておらず、ただその雰囲気だけで観客に分からしめる必要があり、その点実にうまくできている。予告編でも見られたシーンだが、彼が登場したときに、捕虜として対面する人間の射手 (のちのちストーリーに大きく関係することになる) が、「あなたがシーザーですね。探していましたよ」と口にするのも印象的だ。この部分の和訳は、「お前がシーザーだな。探していたぜ」とすることも可能であろうが、その場で囚われの射手がシーザーの存在に圧倒されていることから、やはりこのような敬語を入れた訳がふさわしい。この作品の成功にはいろいろ理由があると思うが、ひとつにはこのシーザーの「演技」であると言えるだろう。3作を通じてこの役を演じているのは、アンディ・サーキスという英国の俳優。こんな風に、実際に人間が演技をした画像を CG で猿に変えて行くようだ。
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この俳優、なじみがないので調べてみると、様々な作品に出演しているが、代表作はなんと、「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズのゴラムであるそうだ。おー、マイ・プレシャス!!
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そんな堂々たるシーザーはここで、実に厳しい状況に置かれて、悲しんだり怒ったりする。その人間的なこと!! あ、まずい。ここで猿は人間と闘っているのであった。猿のことを人間的と表現するなんて、不適ではないか。いやいや、それがそんなことはないのである。人と猿と、一体どちらが野蛮であるのか。また、人は人で、猿は猿で、一致団結した行動を取っているだろうか。そのあたりを考え始めると、この作品のメッセージの奥深さに気づくのである。もしこれを荒唐無稽な作品であると整理している人がいれば、それは誤解であるとはっきり申し上げよう。これは、人間という存在の愚かさを仮借なく描き出した作品である。別に、ここで猿が強制労働で作らされている壁から、現在来日中の米国大統領の公約を連想する必要はあるまい。また、猿の存在を、かつて白人たちに虐げられたアジアやアフリカの人たちになぞらえる必要もないだろう。ただ、猿たちの行動や発想に、「人間的」に価値のあるもの、つまりは愛情や団結や勇気といったものを見出し、それと対照的に、人間たちは内輪もめを含む戦争ばかりしているという、この逆説の意味をよく考えてみたい。そしてさらに、そうは言っても猿の中にも卑劣な奴らがいることや、人間の側にも複雑なロジックがあるのだということに思い至ろう。これは現実に存在する、大きな矛盾を抱えた人間社会の善悪そのものではないか。だから私は、最初から最後までこの映画を、「痛み」をもって見ることとなった。そうだ、これはこの上なく痛ましい映画である。ただ、邦題の「聖戦」という言葉は、ちょっとどうだろうか。これではイスラムのいわゆるジハードを連想させて、ちょっと不適ではないだろうか。実際、前作では猿と人の激しいバトルが展開したと記憶するが、今回は戦闘シーンは多くないのである。いやむしろ、人間同士の殺し合いがメインと言ってもよいのである。原題の "War for the Planet of Apes" とはむしろ、人間の性としてやめることのできない「戦争」を指しているのではないだろうか。つまり、それだけ痛ましい映画であるということである。ソウセイキ、シンセイキと来て、語呂を踏んでセイセンキという苦肉の策であることは分かるものの、語呂優先で、映画の本質から外れるのはいかがなものか。

それから、この映画の面白いところは、疫病が蔓延して人類が滅びつつあるという設定だ。このことは、冒頭で字幕によって説明されるので、ネタバレではないと整理しましょう (笑)。ゾンビ物も通常、疫病が蔓延するという設定になっているが、この映画での疫病 (猿インフルと命名されている) によって起こる症状は、ゾンビ物ほど過激なものではない。だが、この地球が人間から猿の手に渡ってしまうということは、人間に何かが起こってしまうということだ。決して猿が暴力で人間たちを根絶やしにするという想定ではないのである。このような少女が出て来るが、彼女の名は「ノヴァ」。つまり、新しいということである。何がどう新しいのか、映画を見れば分かるのだが、なかなかよいネーミングである。もっとも、この名前の女性キャラクターは、オリジナルの「猿の惑星」シリーズにも登場していたらしい。
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また、映画の中に出て来る壁の落書きで、"Ape-pocalypse Now" という言葉があるが、これはもちろん、"Apocalypse Now"、つまり「地獄の黙示録」のパロディである。実際、この映画でシーザーの敵である人間たちを率いるのは、「大佐」と呼ばれるこのスキンヘッドの男である (演じるのはウディ・ハレルソン)。最後の方では明らかに「地獄の黙示録」を連想させるシーンもあり、もしかするとこの役名の「大佐」自体も、同作においてマーロン・ブランドが演じたカーツ大佐に因むあだ名のようなものなのかもしれない。役柄の性格にも近いものがある。
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それから、音楽がなんともストレートで、例えば緊張感のある場面では、ティンパニの緩やかな連打であったり、弦のトレモロであったり、いかにもそれらしい。そして大詰めの感動シーンでは合唱が入るなどして、ちょっと気恥しいような気もする (笑) が、まあ古典的な映画音楽という印象である。音楽担当は、J.J.エイブラムスと長年の協力関係にあるというマイケル・ジアッキーノ。そして本作の監督、マット・リーヴスは、前作に続いての登板だが、やはり J.J.エイブラムス制作の「クローバーフィールド / HAKAISHA」の監督なども務めている。

楽しい映画もいいものだが、このように考えさせられる映画も、やはり見ておきたいものである。シリーズの過去の作品を見ていなくても、舞台設定のイメージさえあれば、ストーリーを充分に理解できる点も、昨今では貴重であると思う。

by yokohama7474 | 2017-11-06 01:42 | 映画 | Comments(0)