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ダークタワー (ニコライ・アーセル監督 / 原題 : The Dark Tower)

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スティーヴン・キングは日本でも人気の、一般的にはホラー作家と呼ばれている人。過去 40年くらいの間、映画化作品が異様と言ってもよいほど多い作家であるが、1947年生まれであるから、実は未だ 70歳。まだまだバリバリの現役なのである。この作品はそのスティーヴン・キングの原作による映画であるが、正直なところ、私はその原作に関しては全く知識がない。もちろん私とても、キング作品自体を全然知らないわけではなく、リヴァー・フェニックスの演技が忘れがたい映画をヴィデオで見る前に夢中になって読んだ傑作、「スタンド・バイ・ミー」や、先般も映画化されて結構評価が高かった、単行本ハードカバー 2冊構成の「IT」、その他、短編集を含む数冊は読んでいる。だが、この作品の原作である「ダークタワー」シリーズが、1982年から 22年に亘って書き継がれた彼のライフワークであるとは、寡聞にして知らなかったのである。上記の通り、私はキングを「一般的にはホラー作家と呼ばれている人」と表現したが、その理由はやはり、本当に感動的な「スタンド・バイ・ミー」に見られる通り、何か人間の本質的な部分を抉り出す彼の手腕を知っているからで、この作家を「ホラー作家」と決めつけてしまうことで、随分と偏狭な見方に堕ちてしまうような気がしてならない。それはつまり、私が原作に何の知識もなくこの映画を見て、そこで扱われているテーマが、例えば「スタンド・バイ・ミー」と共通していることを感じたという事実だけによっても、証明できるような気がする。そのスティーヴン・キングはこんな人。ホラー作家という顔はしていないでしょ? (笑)
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この映画のストーリーは至って単純。少年が夢の中で、世界の中心に聳え立つタワーと、それを守る拳銃の名手 (ガンスリンガーと呼ばれ、本名はローランド) と、魔術をもってタワーを崩壊させようとする悪い奴 (ウォルター) が争っているのを何度も見る。少年は現実世界において敵に追われることになり、別の世界に入って行くと、そこには実在のローランドとウォルターがいて・・・というもの。要するに純然たるファンタジーであって、ホラー的な要素は全くない。この映画の原作は上記の通り、キングが 22年の長きに亘って書き続けた物語。日本語で手軽に手に入るのは新潮文庫だが、それはなんと全 16巻という、超がいくつもつく大作なのである。そうなるときっと、私が生きているうちに読み通すことはないであろうと確信するのだが (笑)、ではこの映画は 3時間も 4時間もかかる作品かというとそうではなく、実はたったの 95分なのである。ということは、原作がその長さにかかわらずエッセンスは単純であるか、またはこの映画が原作のほんの一部しかカバーしていないかのどちらかであろう。これが世界の中心に聳えるというダークタワー。
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さてここからは原作は忘れて、純粋に映画だけについて考察したい。一言、この映画は面白いか? 恐らくその答えは、昨今の、映像もストーリーも凝りに凝った映画に慣れていると、「否」になるのではないか。善と悪の対決は極めて単純だし、最後の決着も、「あれれ。これだけ?」という感想を抱くほどシンプル。なので、本当にこの映画だけ見ると、大して記憶にも残らない作品ということになってしまうかもしれない。だが、私にはなぜか、この映画のシンプルさが心地よく思えたのである。多分それは、夢見る少年が主人公で、彼の妄想が実際に存在していて、巨大悪と、それと闘う善がともに必死にしのぎを削っているという設定に、人間の想像力の原点を見るからではないか。その点において、上記の通りこの作品の精神は「スタンド・バイ・ミー」と共通するものであると思うし、そこに溢れるファンタジーこそ、何か人間の奥深いところに訴えかける切実さのあるものなのだと思う。うまく言葉にできないが、スティーヴン・キングがこれだけ世界中で多くの人々に愛されるのは、何かそこに、人間の本性の点で根源的なものがあるからであろうと思うのである。

そしてこの映画では、善玉悪玉、それぞれの役者がよい。実際、プログラムに掲載されている原作者キングのインタビューにおいて、二人とも絶賛されている。まず善玉ローランドを演じるのは、イドリス・エルバ。なかなか精悍な俳優で、ポスト・デンゼル・ワシントンの呼び声も高いという。
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調べてみて分かったことには、「マイティー・ソー」シリーズでヘイムダルという役を演じているらしい。役名だけではピンと来ないが、この役であれば、はいはい、よく分かりますよ。
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一方、悪役ウォルターを演じるのは、マシュー・マコノヒー。彼は多くの映画に出ている割には、もうひとつ代表作がないように思う。だが、「ダラス・バイヤーズクラブ」という映画でアカデミー賞を取っているし、最近で記憶にあるのは「インターステラー」の主役であろうか。ちょっと若い頃のクリストファー・ウォーケンを思わせるクールさで、このような悪役がよくあっているので、同様の役でまた見たい。
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ひとつ気づくのは、我々は最近の様々な映画で、強大な力を持つ悪役によって世界が崩壊に瀕するという設定にお目にかかるが、その多くは荒唐無稽なもの。その意味では、この映画におけるタワー崩壊の危機という設定も、やはりある種荒唐無稽ではあるものの、なぜそのタワーがそんなに大事であるのかは説明されず、それゆえにかえってファンタジーの世界で完結するゆえ、リアリティのなさによって観客がしらけるということにはならない。現実世界ではない、いわばパラレル・ワールドの危機であり、そこには自由なファンタジーがある。そのような遊び心が分かる人には、この映画は決してつまらないものではないだろう。

ここで脚本・監督を務め、スティーヴン・キングの長大な原作を凝縮して映画にしたのは、ニコライ・アーセルという 1972年生まれのデンマーク人。最近このブログでご紹介する映画には、北欧出身でハリウッド映画の監督を務めるケースがいくつもあるが、彼もそのひとり。これまでの監督作でメジャーなものはないが、スウェーデン映画「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」の脚本を務めているらしい (因みにその作品の監督は、先日記事を書いた「フラットライナーズ」の監督、やはりデンマーク人のニールス・アルデン・オプレヴだ)。今後の予定としては、マット・デイモンを主役として、ロバート・ケネディの伝記映画を撮るらしいので、注目だ。
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この記事を書いていたら、無性にスティーヴン・キングの小説が読みたくなってきた。我々に様々なファンタジーを提供してくれるその作家を、決してホラーだけの人と思わないことで、見えてくることが沢山あると思う。まあ、このように長い「ダーク・タワー」は、やっぱり読まないと思うが (笑)。でも人生何が起こるか分からない。もし読んだら、もちろん記事を書くこととします。
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by yokohama7474 | 2018-02-18 00:32 | 映画 | Comments(0)  

嘘を愛する女 (中江和仁監督)

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この映画の予告編は、かなり頻繁に劇場にかかっていた。もちろん、今を時めく高橋一生と、今や日本を代表する女優のひとりに成長した長澤まさみの共演であるし、実話に基づく物語ということであったので、人生において起こりうる奇妙な出来事のリアリティという点で、なかなか興味を引くものであった。予告編で明らかになったストーリーは、ある日街中で気分が悪くなった女性を、男性が助ける。それが縁でその二人は同棲を始める。ところがある日男性は失踪し、警察が男の免許証を持ってやってきて、女性に対して、同棲相手が住所以外の情報を偽造していたことが分かる。そして女性は、自分が愛した男の素性を求めて、旅に出る・・・というもの。見終わってみるとこの予告編、全編のそれなりに要領のよい要約になっていることが分かる。だが、だがである。予告編で見ることのできる映像には、間を抜いている部分があって、本来ならつながっていない場面が、あたかもつながっているような作りになっていることがある。ネタバレにならない範囲で言うと、この映画には、恋愛もの、サスペンス、そして実は、ホラーの要素まで入っている。なので予告編は、本編のダイジェストと言える要素は確実にありながら、本編のエッセンスとは違う内容を示唆している。正直なところ、私には、わざわざそんなことをする理由が分からない。観客をミスリードすることで、何か新しい価値がこの映画に生まれるならよいのだが、どうもそんな気がしない。・・・という私の不満表明を神妙に聞いて頂いて、ありがとうございます (笑)。
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だが、ここでの高橋一生の演技は、称賛を捧げるに値しよう。特に後半の、感情が漲るシーンでの迫真の演技は、さすがのものがある。彼は 1980年生まれだから既に 37歳。決して若くはない。私にとっては、「シン・ゴジラ」で彼の演技を見たときに、その低い美声が印象に残った役者なのであるが、経歴を調べてみると、1990年に子役としてデビューを果たしているので、既に長いキャリアを持っているわけである。なんとあのタランティーノの「キル・ビル」にもチョイ役で出ていたようだ。なるほど、あまり目立たないが着実な活動をしてきたおかげで今があるということなのであろう。これが子役のときの写真。
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映像で見ると彼は大変な長身に見えるが、実は 175cmと、さほどでもない。そのあたりからも、演技自体や美声の前に、役者としての見栄えのよさが、まずは彼の武器になっていることが分かる。実は私にはひとつの大きな誤解があり、そのことを巡って、彼の大ファンである家人と議論になったことがある。それは、東急系列の 109シネマズで映画をご覧になる方にはおなじみの、東急の CM である。あ、一応私の住んでいる場所も、多摩川沿いということで東急沿線なので、その CM には多少の思い入れがある (まぁ、二子玉川のような高級なところではないが。笑)。その CM には若い夫婦と幼いお嬢さんが出てきて、奥さんの方は一瞬顔が映るのだが、旦那の方はどういうわけか、はっきり映るシーンがない。だが私は、そのスタイルや声の質、髪形からも、これは高橋一生に違いないと何度も主張し、その説に同意しない家人との間で、いつ果てるともしれない (?) 論争を続けていた。だがその論争にも、ついに終止符が打たれる日が来たのである。それは、昨年の大みそかに、広上淳一指揮の東京フィルが、東急 Bunkamura オーチャードホールで行ったカウントダウン・コンサートの中継番組である。その番組の CM の中に、普段はスクリーンでしか見たことのないその CM が含まれていたので、ここぞとばかりに録画を再生し、家人と 2人で画像を停めて、テレビに顔をつけるようにして男性を観察した。実は高橋一生には鼻に傷の跡があるらしいのだが、その CM の男性の顔が少し見えるカットをチェックしても、そのような傷の跡は見当たらない。それゆえ、家族内の口論は、家人の勝利宣言によって終わったのである。うーん、本当にそっくりな人もいるものだ (笑)。

一方の長澤まさみ。若い頃に比べると、ちょっと線が太くなってきている点は若干残念であるが、大変な活躍ぶりであるし、ここでも頑張ってはいると思う。特に、以前「散歩する侵略者」の記事でも書いたが、常に怒ったり不平不満を言っている女性を演じることが多いようで、今回もその要素はある。そして、愛する人の過去の真実に迫るために奔走する姿にも、けなげさがあって、それはよいと思う。ただその一方で、ここで彼女の演じているバリバリのキャリアウーマンという設定にリアリティがあるかと問われれば、申し訳ないが全然ないとしか言いようがない。これは脚本や演出にも当然原因はあると思うが、この役の意外な複雑さを彼女が演じきっているようには、どうも思えないのである。その点が残念であった。
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それにひきかえ、探偵役の吉田綱太郎はさすがである。その飄々とした人間的な態度の裏にあるプロフェッショナリズム、そしてまた、個人生活におけるナイーブさなど、うまく演じていて、彼の存在によって映画全体が引き締まっていることは確かであろう。監督の言によると、韓国映画「殺人の追憶」におけるソン・ガンホのイメージであるらしい。これは私も大好きな映画だが、うーん、どうでしょう。この映画の設定との差異は非常に大きいと思う。
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ここでまた、私が本作に感じた不満に戻ると、まず、男性の心の痛みを、もう少し出す手段はなかったかということ。あるいは、このカップルの幸せな様子を示すために、なにか具体的なエピソードを入れることができなかっただろうか。それから、私にとって決定的であったのは、ラストシーン。以前「三度目の殺人」の記事でも似たようなことを書いたが、「結末は観客ひとりひとりが考えて下さい」という制作態度には、私は賛成しかねる。余韻のある終わり方ではあっても、ストーリーの切実さを活かすことにはなっていないと思うのである。

この脚本、事実に基づくものだとは既に予告編から明らかにされているが、プログラムに掲載されている監督インタビューによると、辻仁成のエッセイで採り上げられていたエピソードにヒントを得、その事実を調べて判明したことがベースになっているとのこと。つまり、実際に自らの存在を偽り、偽名を使って暮らしていた男が亡くなり、内縁の妻がその遺品の中から、男が書いていた長い小説を見つけたということがあったらしい。但し、この映画のように、2011年の東日本大震災の頃の話ではなく、もっと以前 (1980年代か 90年代?) の話であるようだ。ともあれ、実話に基づいているか否かは、この際あまり重要な要素ではないだろう。もともとこの脚本は、「TSUTAYA CREATOR'S PROGRAM (TCP) FILM 2015」というコンテストで、474本のシナリオの中からグランプリを受賞したものらしい。そしてここで共同脚本も手掛けている本作の監督、中江和仁は、もともと CM の演出をしていた人で、メジャーな長編としては、本作がデビューのようである。上ではちょっと厳しいことを書いているが、いろいろ工夫が見られることは確かなので、今後の作品には注目したい。
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そんなことで、私としてはあれこれ課題を感じる作品ではあったが、ひとつの発見はあった。それは、高橋一生は、上記の東急の CM でもそうだが、妙に似た人が世の中に存在する、あるいはそのような設定がなされる俳優なのだなということ。本作をご覧になれば、私の言っていることの意味がお分かり頂けようが、それにしても、東急の CM は、役者の顔をはっきり映さないという、なんとも人の悪い作りであって、何やら依然として謎めいているような気がするのである。本当に似た人なのだろうか・・・。

by yokohama7474 | 2018-02-16 00:41 | 映画 | Comments(2)  

スター・ウォーズ / 最後のジェダイ (ライアン・ジョンソン監督 / 原題 : Star Wars : The Last Jedi)

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誰もが知る「スター・ウォーズ」シリーズの第 8作。これに先立つ、いわゆるエピソード 7に当たる「スター・ウォーズ / フォースの覚醒」をこのブログで採り上げたのはいつのことだったか調べてみると、それはほぼ 2年前。2016年 1月31日のことだ。今回の記事を書くにあたって、その記事を読み返してみたが、いろいろな感慨があった。そのひとつは出演者である。前作では、記念すべきシリーズ第 1作の「スター・ウォーズ」、つまり今では「エピソード 4 新たなる希望」と呼ばれているものであるが、その作品の主要な 3人のキャラクター、つまりルーク・スカイウォーカー、レイア姫、ハン・ソロが、40年近くの年を経て同じ役者で揃い踏みという、貴重な事態が達成された。映画の歴史において、こんなことがほかにあるだろうか。役者たちの顔にはそれぞれ、実生活によって刻まれた皺が、そのまま劇中においても過ぎ去った年月を実感させたのであった。そして、その 3人の揃い踏みは前作が最後であり、この作品や、次に作られるであろうエピソード 9においては成立しない。ハン・ソロは役の上で既に死を迎え、またレイア姫は実際に演じた女優が既にこの世の人ではないからだ。なのでまずこの記事では、作品のエンドタイトルにある文句と同じく、レイア姫 (エンド・タイトルでは "Our Princess" となっている) を演じたキャリー・フィッシャーに哀悼の意を捧げよう。この作品の米国での公開が 2017年 12月 15日。キャリー・フィッシャーが飛行機の中で倒れ、着陸後病院に搬送されたのも虚しく世を去ったのは、そのほぼ 1年前の 2016年12月27日。そしてまた、彼女の母であるデビー・レイノルズも翌日に死去したという恐ろしい因縁。人はやはり、あまり大きな栄光 (率直なところ、彼女の女優人生そのものというよりは、レイア姫を演じたというその事実のみで、そう言えるだろう) に浴すると、不幸な人生になるのであろうか。
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前作についての私の記事の流れでいうと、反乱軍において重きをなす人たちが女性・黒人・ヒスパニックであることに、今日の米国の状況が表れていたのが前作なら、今回はそこに中国人までが加わる。それは大変に分かりやすいことだ。それから、前回思いつきで、「まあ、マスクに隠れて顔の見えない帝国軍側の兵士も、こうなると実は女性が多いのかもしれないが (笑)」と書いたのだが、なんと驚いたことに、今回は本当にマスクをかぶった女性将軍が登場する。キャプテン・ファズマという役で、演じる女優はグウェンドリン・クリスティ。
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と書きながら、手元で調べて自分でも気づいていることには、このキャラクターは、実は既に前作でも登場していたらしい。正直、全く覚えていないのだが、反乱軍の弾圧に躍起になる帝国側のファースト・オーダーにおいて、カイロ・レン、ハックス将軍と並ぶ「三執政官」のひとりらしい。それは重要な役だ。覚えていなくて大変申し訳ないのだが、率直なところ、こんなコスチュームで顔も出さないキャラクターを明確に覚えているほど、現代人は暇ではないと思うのだ。それ以外の登場人物について書き始めるときりがないのだが、例えば、カイロ・レン役のアダム・ドライヴァー、久しぶりに見たトロ様ことベネチオ・デル・トロや、「ファウンダー ハンバーガー帝国の秘密」での堅実な奥さん役から転じて、今回は提督を演じる (かなり年を感じる) ローラ・ダーン、それから、「エクス・マキナ」や「バリー・シール アメリカをはめた男」でも印象深い演技を見せ、ここでは悪役ハックス将軍を演じているドーナル・グリーンなど、かなり多彩な顔ぶれである。だが私としては、是非この人 (? なのかな) については書いておきたい。
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これは、日本の妖怪「ぬらりひょん」ではありません。強いフォースの持ち主で、カイロ・レンをダークサイドに引き込んだ、ファースト・オーダーの最高指導者、スノークである。この役は CG によって作られているようだが、その動きを提供している俳優がいて、彼の名はアンディ・サーキス。その名は以前も触れたことがあるが、「猿の惑星」シリーズのシーザーであり、また、今回のスノークのグロテスクなイメージと直接連想で結びつくのは、「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズにおけるゴラムである。なるほど、それは納得性充分だ (笑)。ただ、このスノークが斃されるシーンは、あまり納得性を感じない。強力なフォースの持ち主なら、相手の心の中も読めるだろうから、自分を攻撃することを予測して、このように無防備にはならないはずだ。それとも、そんなことを読ませないほど、相手のフォースが強かったということか。まあその辺は、都合よく出来ているわけである。

いや、映画全体の出来を悪いという気はない。だが、「スター・ウォーズ」シリーズは今やディスニー映画。家族で見ることができないような表現は排除されていて、本当に邪悪なものと正義が対決するという仮借なさは、あまり感じないという限界があることも事実。これは私の考えに不適なところもあるかもしれないが、世界では未だに戦乱やテロで命を落としている無実の人たちが多くいて、また、我々の近隣国のように、戦争をいとわないという危険な姿勢を示している国もある中で、架空の世界の中とはいえ、敵を攻撃してドンパチやるシーンを見たいと思う人が、果たして世界でどのくらいいるものだろうか。たかが SF 映画とはいっても、このシリーズくらい影響力があれば、派手な戦闘シーンを描くべきか否か、考える必要があるように思うが、いかがだろうか。それから、ジェダイが滅びると発言するルークの真意は何なのか、クライマックスで彼が渾身の力でフォースを駆使することの意味は何なのか、また、今更のようにヨーダが出て来るのはなぜなのか、私には明確な答えが見出せなかった。だが、むしろそれゆえだろう、主役レイを演じるデイジー・リドリーのまっすぐな頑張りには、大変好感を持つことができたのである。
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それから、映画の潤滑油としてのサイド・キャラクターもいい味を出している。前作に続いて登場の BB-8 はここで、大変重要な役割を何度も果たして、もはや C3-PO と R2-D2 を顔色なからしめている。あ、もともとドロイドには顔色 (かおいろ) はないか (笑)。まさに八面六臂の活躍と言いたいが、実際にはこの BB-8 には、顔は一応有るのかもしれないが、「臂」、つまり腕は一本もないのである。
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今回新たに登場した動物キャラクターもいくつかあるが、既に予告編にも登場していたのが、ポーグである。このように、目が黒くて歯のある鳥で、宇宙船の中でこのようにキーキーわめくが、船が向きを変えると窓に張り付いたりして、なんともかわいい。明らかに、闘いをメインに据えた映画の中で、ちょっとほっとするキャラクターになっている。
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これは私の勝手な解釈で、もしかしたらほかに誰もそんなことは言っていないかもしれないが、構わずに自説を披露すると、このポーグのヒントはこれではないか。
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美術好きには説明の必要もない、ブリューゲルの作品に時折登場する、奇妙な空飛ぶ魚である。この作品は、私が昨年ブリュッセルを訪れたときに、ベルギー国立絵画館でオリジナルと対面した、「反逆天使の転落」の一部。

さて、そんなこんなで盛り沢山な内容のこの映画、脚本・監督を任されたのは、1973年生まれのライアン・ジョンソン。
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もともとインディーズ系の人であるようだが、この超大作を任されるとは大抜擢である。製作者のキャスリーン・ケネディからオファーを受けたときは、「顎が床に落ちるくらい」ビックリしたという。なかなか面白い比喩を使う人だ。これは名古屋名物、ナナちゃんの顎が落ちたところ。
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「スター・ウォーズ」といえば、もともとジョージ・ルーカスは 9作を構想したことは、常識の部類に入る情報だろう。つまり、残りはあと 1作のみということになる。だが私が知らなかったことには、どうやらこの監督は、今回の「最後のジェダイ」を最初とする新たな 3部作を監督すると発表されているようだ。それから、日本でも既に宣伝が始まっているロン・ハワード監督によるハン・ソロの若き日の物語など、スピン・オフ作品もこれからいろいろと作られて行くのであろう。あまりストーリーが複雑に絡み合って収拾がつかなくなることだけは避けて欲しいと思う。あ、そうそう、「フォースの覚醒」の記事でも書いたが、今回も音楽担当にジョン・ウィリアムズの名前がクレジットされており、劇中音楽の一部を自ら指揮したことが、エンド・タイトルで確認できた。この不世出の映画音楽の大家も既に 86歳。彼の音楽が鳴り響くか否かだけで、このシリーズの命運には大きな影響があると思う。彼のさらなる長寿を期して、フォースとともにあれ!!
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by yokohama7474 | 2018-02-10 00:58 | 映画 | Comments(0)  

キングスマン ゴールデン・サークル (マシュー・ヴォーン監督 / 原題 : Kingsman : The Golden Circle)

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本作と同じマシュー・ヴォーン監督の手になる前作「キングスマン」の記事を書いたのは随分前だ。今調べてみると、それは 2015年 9月23日。私はその映画を大いに楽しみ、その年のベストを争う出来であると激賞したのであるが、その続編となると、これは必見の映画なのである。だが実は、私はその記事の締めくくりで、以下のように書いた。

QUOTE
プログラムによると、本作の好評により、次回作の噂も出ているとか。私としては、それは若干の不安材料だ。だって、次回作でしゃあしゃあとコリン・ファースが出てくると、ちょっと興醒めですよね。なので、まずこの作品はこの作品として、一旦完結としたい。いやお見事。
UNQUOTE

おっと、これはちょっとまずいことになったぞ。上に掲げたポスターでも、前作で主要な役を演じながらも凶弾に倒れた (が、その決定的な死亡シーンは登場しなかった) コリン・ファースが、片目を黒く塗った眼鏡をかけて写っているし、予告編では実際に動くコリン・ファースを見ることができた。やはり「しゃあしゃあと」出てきましたね (笑)。だが、私ならずとも、1作目を見た人は、きっとこれは続編が作られて、コリン・ファース演じるハリー (コードネームはガラハッド --- もちろんアーサー王伝説によるネーミングだ) がまた登場するのではないか、と予想しただろう。だからここはひとつ、興醒めなどと言わず、見に行こうよと、2年 4ヶ月前の自分に言い聞かせながら、劇場に足を運んだのである。
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感想を先に記してしまうと、この映画はやはり只者ではなく、様々な工夫を持った、凝った作りになっていることは確か。ただ残念ながら、1作目ほどの衝撃はなかったように思う。以下、その感想の背景を徒然に綴って行こう。まず、前作で映画デビューを果たした主演のタロン・エガートンは、その後はこのブログでもご紹介した「レジェンド 狂気の美学」などを経て、ここでも颯爽とエグジー役を演じている。プログラムに載っている本人のインタビューによると、前作ではいつ監督にクビになるかとヒヤヒヤしていたが、今回はギヴ・アンド・テイクの対等な立場になったとのこと。そして、演劇学校 (国立王立演劇学校だ) を卒業して 4年も経たないうちに、初出演した映画の続編に出ることができる自分は、世界で最高にラッキーな男であると思うと語っている。確かにその通りだが、それはやはり、前作のクオリティと、ユーモア表現を含めた彼の清新な演技によるものであり、これからの活躍に期待できる若手であることは間違いない。
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そして物語は、いやそれはもう、大胆なペースで進んで行く。予告編で、悪役を演じるジュリアン・ムーアが、英国の私設諜報組織であるキングスマンを攻撃し、キングスマン側は、これまで未知の米国の組織に助けを求める内容であることは明らかであったが、冒頭からほどなくして、かなりインパクトの大きいシーンが出て来る (主役エグジーのスウェーデン滞在中に起きる大事件のこと)。私は、映画における作劇法について、自分なりの評価基準をそれなりに持っているつもりだが、それにしてもこの映画の急展開の大胆さには、かなり驚いた。だが冷静に考えてみれば、この時点で観客のキングスマン構成員個々人への思い入れはさほどなく (つまり、この時点ではコリン・ファース演じるガラハッドの生死は確かではなく、マーク・アームストロング演じるマーリンは、その後すぐに生存が確認されるからだ)、実は描かれている事態の深刻さに比して、観客の受ける心理的衝撃はさほど大きくないようにできている。そしてストーリーの展開は強引なまでに急速だ。このあたりのテンポのよさは、なかなかに見事。それから、これは CG の発達ぶりを考えるとそれほど驚くことではないかもしれないが、アクションシーンは様々に考えられていて、やはり流れがよい。それから、悪役との対決の内容や、その決着ぶりが意外とあっさりしているという肩透かしも、この映画ならではの考えられたものだと思う。そもそも悪役がこんな普通のオバチャン (?) という点からして、かなり観客の意表を突いている。いやもちろん、演じるのはその辺のオバチャンではなく、れっきとしたオスカー女優、ジュリアン・ムーアなのであるが。
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予告編で想定していたのと異なるのは、チャニング・テイタム演じるテキーラの役柄だ。てっきり、米国諜報組織の中心人物として、快刀乱麻の活躍を見せるのかと思いきや、かなりの時間、冷凍睡眠に費やすのである。だがラストシーンは大いに意味深であり、これは明らかに、第 3弾が作られて、そこでは彼が主要な役柄を演じるということなのだろう (エグジーも本作の最後には違う身分になってしまうので)。
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それ以外にもこの映画には、ジェフ・ブリッジスやハル・ベリーという有名俳優が出ているが、正直あまり見せ場もなく、ちょっともったいないような気がしたものだ。あと、どういうわけかプログラムに名前も載っていないが、エミリー・ワトソンが大統領補佐官を演じていて、これも若干もったいない使い方。ただ、さすがに年を取ったなぁと思わせた (あ、念のため、エマ・ワトソンではありません。笑)。あ、それから、これはどうかなぁと思ったキャスティングは、エルトン・ジョンだ。
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ここで彼は、犯罪者集団に誘拐された有名歌手エルトン・ジョン、つまり彼自身を演じている。彼は既に 70歳、しかも Sir の称号を持つ VIP であり、いかなる経緯でこの映画に出演することになったのか分からないが、ここで Sir Elton は、歌を披露するだけでなく、演技をする。いや、それもただの演技ではない。アクションまでこなしているのである。多分本国英国では、彼の出演シーンではきっと拍手喝采だったのかもしれないが、映画の質という点では、どのくらい貢献があったのかと言えば、ちょっと返事に窮するだろう。

このように、課題もありながら、一方でかなりひねった箇所には評価すべき点が少なからずあり、決して面白くない映画とは言わない。ただ、前作の勢いを思い出すと、ちょっと守りに入ったかなぁ・・・という感想が正直なところ。だがまぁ、次回作が出来れば、当然見に行くことにはなるだろう。

そうそう、評価すべきこの映画らしさのもうひとつの点は、キングスマンの基地のあるサヴィル・ロウ (仕立て屋が軒を並べる通り) をはじめ、ロンドンの情景がいろいろ出て来る点である。例えば、起死回生をかけたエグジーとマーリンが向かう先は、このような古めかしいワイン・ショップなのである。
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この Berry Bros. & Rudd は 1698年設立、英国王室御用達の有名な店で、Green Park 近辺にある。私もワイン好きの後輩に連れられてこの店に行ったことがあるが、それはそれは、大変雰囲気のある場所である。面白いのは、キングスマンたちがこの古色蒼然たるワイン・ショップの地下で出会う酒が、あろうことか、米国のバーボンであるというその皮肉。この記事では米国の諜報機関 Statesman について詳しく述べることはしないが、英米の習慣や物の考え方の明らかな違いが分からないと、この映画の本当の面白みは分からないのかもしれない。かく言う私も偉そうなことは言えない。ロンドンでこの映画を見ると、間違いなく、周りの爆笑の意味が分からずに困惑することになるだろう。

もうひとつ、これもどうでもよいことだが、冒頭近くで、サヴィル・ロウにある何かの建物に、ブルー・プラーク (Blue Plaque) が掲げられているのが目に入った。Blue Plaque とは、過去に歴史的な実績を残した人の旧居がロンドンにある場合に、そのことを記念して掲げるもので、文字通り、青くて丸い札である。日本人では唯一、夏目漱石だけがその栄誉に浴している。この映画の画面にその Blue Plaque がチラリと写ったときに、この人の名前は知らないなと思ったのだが、この記事を書くにあたり、私が書棚から手元に取り出してきたのは、この大部な本だ。
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大型ハードカバーで 600ページを超えるこの本には、ロンドンのすべての Blue Plaque が掲載されている。もちろん、これをつぶさに読むことは考えもしないが (笑)、こんなところで役に立つとは、買った甲斐があるというもの。中を見てみると、サヴィル・ロウには、短い通りであるにも関わらず、4つも Blue Plaque がある。私の記憶では、この映画で映っていたのは、確かこれではなかったか。
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このリチャード・ブライトは、上に「内科医」とあるが、調べてみると、腎臓病研究の先駆者だそうである。だが実は、博士論文では伝染病をテーマとしたらしい。むむ、伝染病? それってこの映画の悪役が企むことと、関係があるではないですか。あるいは、これは偶然の一致で、作り手にはそのような深い意図はないのかもしれないが、映画のトリヴィアとして、ここに書いておくこととする。

あ、もうひとつ。これからこの映画をご覧になる方は是非、コリン・ファースの眼鏡にご注目頂きたい。これは私の見間違いではないと思いたいのだが、いくつかのシーンで、黒く塗ってある方のレンズが違っていはしまいか。つまり、上の写真にある通り、黒レンズは本人の左目を覆っているはずなのに、時として、右目を覆っているシーンがあったように思うのだ。もしこれが私の勘違いでなく、なんらかの意図があるなら、それは一体なんだろう。3作目があるなら、それもひとつのテーマになるかもしれないので、また後日に備えて、このこともここで記録しておきましょう。その意味では、突っ込みどころ満載の映画であることは間違いない。

by yokohama7474 | 2018-02-08 01:17 | 映画 | Comments(0)  

ダンシング・ベートーヴェン (アランチャ・アギーレ監督 / 原題 : Beethoven par Bejart)

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ブログも記事が増えてくると、以前書いたことを全く忘れてしまっていることがよくある。以前書いたことと違うことを書くというのも、できれば避けたいことなのであるが、私の場合は多分それよりも、同じことを繰り返して書くことを避けた方がよいなといつも思っているのである。実生活で「もう分かったよ。聞いた聞いた」と言われることは結構厳しい体験であり、しかも、熱意を込めて何かを語ろうとしていた矢先にこの言葉を聞くと、かなりこたえると言ってよい。と、こんなことを冒頭から言い訳するには理由があって、私がここで言いたいことは、「クラシックバレエにはほとんど興味なし。だが前衛性を含むダンス・パフォーマンスは大好き」という私の指向を書きたかったからである。ええっと、以前も書きましたよね (笑)。そんな私にとって、天才振付師モーリス・ベジャール (1927 - 2007) は、その悪魔的な容貌も相まって、かなり尊敬する人物なのである。おっとベジャール、ネコ派だったか。
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私が彼の名を知ったのは、中学生の頃。当時論評活動も積極的に行っていた作曲家の諸井誠の気楽なクラシック関係の本の中で、何度もその名が言及されていたのがきっかけであった。そこでは特に「春の祭典」の振付についての高い評価が印象的であった。そして、映画「愛と哀しみのボレロ」(クロード・ルルーシュ監督、1981年) においてジョルジュ・ドンの踊るボレロを見て、強烈な印象を受けた。だが実のところ、ベジャールの振付による実際の舞台上演を見た経験は、今に至るも、多分一度もないように思う。最もチャンスがありそうだったのは、1990年にパリの旧オペラ座 (ガルニエ宮) でかかっていたワーグナーの「ニーベルングの指環」の抜粋であったが、一週間ほどのパリの滞在中、何度も物欲しげに会場の前を行ったり来たりしたが、すべての公演が Sold Out。1枚たりともチケットが手に入る様子はなかったのである。もちろんその前後には日本の東京バレエ団で、三島由紀夫をテーマとした「M」とか、忠臣蔵をテーマにして黛敏郎の音楽に振り付けた「ザ・カブキ」などが上演されたのは知っていたが、会場に見に行くことはせず、ただテレビで見たのみだ。思えば当時は未だベジャールその人が生きていた時代。それらの舞台に接することができなかったことを今更悔やんでも遅いのである。これは、ジョルジュ・ドンの踊る「ボレロ」。
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さて、前置きが長くなったが、この映画は、そのベジャールが振り付けた、西洋音楽畢生の大作、ベートーヴェンの第 9交響曲の上演に関するドキュメンタリーなのである。これはつい最近、つまりはベジャールの死後、東京で上演され、あのズービン・メータ指揮イスラエル・フィルが舞台に合わせて第 9の生演奏を行ったことも記憶に新しい。スイスのローザンヌに本拠地を置くモーリス・ベジャール・バレエ団と、東京バレエ団の共同企画として 2014年に上演された。だがやはりこのときも私は、実演を見ることはなかった。メータは私にとっては大変になじみのある指揮者だし、このときのイスラエル・フィルとの日本での別の演奏会には 2度足を運んだにもかかわらず、である。そんなことなので、この映画はちょっと見てみたいと思ったのだ。前項で採り上げたヴェンダースの「アランフエスの麗しき日々」の翌日、同じ恵比寿ガーデンシネマでの鑑賞であった。
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解説によると、もともとベジャールが第 9に振付をしたのは 1964年、ブリュッセルでのこと。その後世界各地でステージにかかり、日本でも 1999年に上演された。だが、ベジャールの死後、再演すら危ぶまれる状態であったものを、上記の通りベジャール自身とも縁の深かった東京バレエ団の創立 50周年の記念シリーズの一環として、ダンサー、オーケストラ、合唱団総勢 350名で上演された。そのときの写真を見ると、オケは、オーケストラピットではなく、ステージ奥に陣取っている。これはつまり、音楽がダンスに合わせるのではなく、ダンスが音楽に合わせるという方式で上演されたということだろう。因みに歌手のうちメゾ・ソプラノは藤村実穂子、テノールは福井敬である。
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この映画の面白さは、もちろん、この大作に挑む人々の挑戦が描かれていることにあると言ってもよいのだが、より正確に表現すると、人類の共和を歌ったこの作品の精神を表現するために努力する人々の、まさに「人間」としての営みとでも言おうか。準備過程における成功もあれば失敗もあり、戸惑っての試行錯誤あり、思わぬハプニングあり、また一流のプロもあればアマチュアも入っているという混成部隊に沸き起こる微妙な空気まで、極めてヴィヴィッドにとらえられている。この第 9という作品の持つとてつもないスケールは、これまでもこのブログでこの曲の演奏を採り上げる度に言及して来ているので、「もう分かったよ。聞いた聞いた」と言われないためにここでは繰り返さないが、それはもう、これだけ多くの人々が汗をかいて表現するだけの価値があるものなのである。

ここでインタビュアーを務めるマリヤ・ロマンがなかなかよい。
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そう、この写真にある通り、この映画の中で彼女はしばしばガラスの向こうから、ダンサーたちの練習を見つめている。彼女は女優であるため、自身踊りはしないのだが、そのダンサーたちを見つめる表情の澄んだこと。それもそのはず、映画が進むうちに、彼女の両親もやはりダンサーであり、しかも、このベジャールの第 9とも深く関わっていることが明らかになるのである。これはちょっとした演出なのであるが、冒頭から彼女の表情が大変によいことから、真相が分かったときに何か解放されたような気になるという印象。ドキュメンタリー映画とは、このような気の利いた演出の積み重ねが結構大事な分野だと思い当たる。これによって、たとえ第 9にあまりイメージのない人、あるいはベジャールのことをよく知らない人 (まあ、そんな人がこの映画を見るのか否かという問題はあるが 笑) でも、心地よい映画としての流れを感じることができるであろうから、この映画は一般的な意味でもお薦めであると思うのだ。監督のアランチャ・アギーレはスペインの女流監督で、ペドロ・アルモドバル、カルロス・サウラという同国の巨匠たちのもとで助監督を務めたという経歴を持ち、以前にもベジャール・バレエ団のドキュメンタリーを手がけているようだ。
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と、ここまで映画自体を称賛して来たが、では、音楽ファンの目から見た、本作におけるベジャールの振付自体はどうだろう。この映画ではその一部しか見ることができず、この断片のつなぎ合わせの印象だけで判断するのは危険かもしれないが、ある意味で、この曲の聴き手が抱くヴィジュアルなイメージを明確に辿って行くので、かなり納得して見ることができるように思う。そして、曲の細部を知っていればいるほど、「なるほど、ここでこうくるか」という楽しみもある。劇中で指揮者のメータも、そのような評価を口にしていたと記憶する。だが、ではベートーヴェンの破天荒なシンフォニーの本質に迫りたいと思った場合、ベジャールのバレエを見ることで、舞踊ならではのなにか新しい発見があるだろうか。視覚は常に最も強烈な感覚であり、聴覚を圧倒するのが通例だ。その意味で、もしこのバレエを見ることで、「なるほど、第 9ってそういう曲ね」と分かったような気になるとすると、それはあまりよいことではないかもしれない。要するにポイントは、音楽と舞踊という異なった、だが隣接する分野の芸術活動において、鑑賞者が一体どこに真価を見出すかということだろうと思うわけである。私は、やはり音楽を虚心坦懐に味わうことこそが、価値あることなのだと考えてしまうのだが、音楽に過度に毒されてしまっているのだろうか。

また、もうひとつ、どうしても書いておきたいことがある。本作において、評論家の三浦雅士がインタビューを受け、この第 9の振付に見られるベジャールの美学について、禅などを引き合いに出しながら大いに語るシーンがある。これは別のところから引っ張ってきた三浦の写真。
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この人は、私が若い頃から、主として舞踊分野のハードな批評活動で知られている有名な評論家である。だが、この映画では、彼を巡って若干不思議なシーンを目にすることになる。それは、英語で自らの思いを語っていた三浦が、インタビュアーのマリア・ロマンから、「日本語でどうぞ。あとで字幕をつけますから」と言われて、何十秒かの間、目を白黒させて沈黙し、最後にガハハと笑うシーンである。「急に日本語でと言われても、困ったなぁ」と彼はそこで英語でコメントするのであるが、これを見た人は誰しも、奇異な感覚を持つものと思う。ここでの彼の心情は分からないものの、正直な感想を言うと、鳩が豆鉄砲を食らったような顔を見せずに、是非堂々と英語で、もしくは日本語で、語って欲しかった。要するに使用言語などはどうでもよく、自らの思考を、言語という論理に基づく形態で相手に伝えることこそ、評論家の役目であると思うからだ。実は、これは評論家だけではなくて、ビジネスマンも同じである。相手と面と向かって喋っている間に数十秒間目を白黒させてしまうと、ビジネスチャンスはしぼんでしまうのではないか。我々日本人は、コミュニケーションにおける道具としての言葉の意義をもっと認識すべきであると、私はいつも思っているのだが、このシーンによってその思いを新たにしたのであった。

そのように、見ていて飽きることのない映画であると言えると思う。原題はフランス語であるが、"par" は英語でいう "by" のようであるから、「ベジャールによるベートーヴェン」という意味であろうか。なるほど、ベジャールは振付師であったがゆえに、言語で語ることが本職ではなかったが、彼の解釈するところのベートーヴェンを、ここでは舞踊によって表現しているということであろう。もちろんそれぞれの振付師には好みもあるので、ほかの作品と似た箇所もあるだろう。だが、上で書いた我々通常人の言葉による表現の場合に比べて、身体表現の場合は、たとえ似た動作が出てきても、「もう分かったよ。見た見た」と言われることは、ないであろう。従って、他者との言葉によるコミュニケーションの際に、「あれ? これ、前も言ったかな」と思った場合には、言葉だけではなく身振り手振りを交えてみると、もしかすると相手も、以前その話を聞いたことを思い出せずに、コミュニケーションが円滑になるかもしれない。そうか、その結果が、このような群舞による全人類の賛歌になるなら、ダンスというのも、平和の手段として、なかなかよいものかもしれませんね (笑)。
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言葉が必要なところでは言葉で。言葉が届かないところはそれ以外の手段で。人間のコミュニケーションは実に複雑なのである。ええっと、前に同じこと言っていませんよね?

by yokohama7474 | 2018-01-30 23:46 | 映画 | Comments(0)  

アランフエスの麗しき日々 (ヴィム・ヴェンダース監督 / 原題 : Les Beaux Jours d'Aranjuez)

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あのヴィム・ヴェンダームの新作が上映されていると知って、見に行かないわけにはいかない。だが、調べてみると何やらヒットしておらず、あろうことか上映終了寸前。そう思って恵比寿ガーデンシネマにこの映画を見に行ってから一週間ほどが経っている。今調べてみると、既にその恵比寿での上映は終了しており、唯一、立川のシネマ・ワンというところで細々と上映されているだけである。私のヴェンダースへの思いは、彼の前作「誰のせいでもない」を採り上げた 2016年12月14日の記事に書いておいたが、なんといっても青春時代に見た「パリ、テキサス」と「ベルリン・天使の詩」によって、私の中ではこの監督は本当に特別な名前なのであり、彼の前作「誰のせいでもない」が結構よい映画であったので、やはりここはこの最新作を見ておかねば・・・と思った次第。だが、回りくどいことはやめて単刀直入に言うと、この映画はちょっとびっくりするくらいひとりよがりの作品で、正直なところ、たった 97分の上映時間の、長く苦痛に満ちていたこと!! これではヒットしないのもむべなるかなである。

まず題名であるが、アランフエス (通常は「アランフェス」と、「フ」のあとは小さい「ェ」なのであるが、ここでは通常の「エ」となっている。まぁ、原語表記を見ると、これが正しいと思われるが) とはもちろん、スペイン王家の夏の離宮があった場所で、クラシック音楽ファンにとっては、ロドリーゴのギター協奏曲であるアランフェス協奏曲によって広く知られている。私はそのアランフェス宮殿には一度だけ行ったことがあり、美術の観点で見るべきものはさほどなかったと記憶するが、南国の日差しを葉陰で避けながら、通り過ぎ行く風を肌で感じることのできる、なかなか素晴らしい場所である。ただ、私が行ったときには、アランフェス協奏曲の有名な第 2楽章がスピーカーから流れていて、まあ、アランフェスにおけるアランフェスなので、別にそれをけしからんと言う筋合いにはないだろうが、だがそれにしても、ちょっと気恥しいような気がしたものだ。そしてこの映画、舞台となっているのがそのアランフェスであるのか否かの明確な説明はなく、多分そうではないのだろうが、私の記憶の中にあるアランフェス同様、陽光の中を吹き過ぎる風の心地よさという点では、アランフェスと共通するような場所で撮影されている。より具体的には、そのような場所において、男女がずっと語らっているのである。
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既に否定的なことを言ってしまっている手前、ここでフォローしても既に遅いかもしれないが (笑)、公平に見て、この映画の導入部はなかなかに素晴らしい。冒頭には、よく知られたパリの数ヶ所の映像が、恐らくは早朝に撮られたのであろう、誰もいない沈黙の風景として提示される。そして舞台は、上の写真にあるような、街を見晴るかす丘の上に建っている家の庭に移る。そこでカメラはまず、窓を開け放ってあって風が心地よく吹く抜けるこの家の内部を映し、アナログレコードによるジュークボックスを映す。ちなみにこのジュークボックスは、劇中において何曲かの英語の歌を流す (ひとつの曲は、幻想シーン的として、歌手がピアノの弾き語りをする)。この冒頭場面の映像の美しさと自然な流れは、実に素晴らしい。正直、ここで期待が高まったところで劇場を後にすればよかったと思われるほどである (笑)。そしてそこに、何やら深刻めいた表情をした、だがいかにも清廉なイメージを抱かせる作家役の俳優が出てきてタイプライターの前に座り、視線を宙に泳がせつつ、上記のような男女の会話を書き始めるのである。作家の後ろにはドガとかマネとかモネの画集の地味な背表紙が見えていて、そのさりげなさがなかなかによい。これは、その作家役を演じるイェンス・ハルツというドイツ人俳優に演技指導をするヴェンダース (オバサンのように見えるが男性です)。
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この映画は、ただひたすら、タイプライターを打つ作家の姿と、その作品の中の登場人物とおぼしい男女が会話をすることのみによって成り立っているに等しい。面白いことに、男女の会話はフランス語でなされるのに、作家がひとり呟いているのは、最初は英語かと思いきや、ドイツ語なのである。そして、見て行くうちに明らかになってくることがあって、これはネタバレということにはならないと思って書いてしまうが、何やらここでの男女、世界最後の日を生きているように見えるのである。そう、世界最後の日。あなたならどんな会話をしますか。それはもしかすると、巡りくることがもはや絶望的に難しい明日の予定かもしれないし、人類について、世界について、あるいは歴史についてかもしれない。あるいはもっと個人的な事柄、例えば、それまでの人生で楽しかったこと、嬉しかったこと、あるいは苦しかったことや辛かったことかもしれない。その日で世界が終わると思うと、存外人間という奴は、くだらないことを喋るのかもしれない。だが私は、申し訳ないがこの映画での「世界最後の会話」は、全く支持したいと思わない。単純な好みの問題もあろうが、語り合う男女が口にするいかなるフレーズも、何か私の心に深く訴えかけるということは、残念ながらついになかったのである。それは、会話内容 (個人に関する性的なことや尾篭なことを、まるでスペインハプスブルク家の栄光と没落についての歴史的評価を語るように ? 語っている) もそうなら、役者たちの顔、表情、姿勢、すべてが私の感情移入を拒むものであったと言ってもよい。もしこの役者たちの会話を見たり聞いたりして、人生が変わるような感動を覚える人がいるなら、その人の意見にじっくり耳を傾けたいものだが、さていかがなものだろう。

ストーリーの展開がないので、これ以上感想を書き連ねることには困難が伴う。ところがひとつ不可解なことがあって、監督のヴェンダースはこの作品について、「100% 思いのままに撮った生涯で初めての映画」と語っているのである。プログラムには彼の結構長いコメントが掲載されていて、ざっと目を通してみたが、やはり何やら、この映画の内容に満足している気配が横溢している。そうするとやはり、私の鑑賞眼に問題があるのだろうか・・・。あるいは、ヨーロッパ人と日本人の感性の違いなのだろうか。今この文章を書きながらも、なんとも居心地の悪い思いをする私であった。

この作品の原作は、1942年オーストリア生まれのペーター・ヘントケという作家の手になるもの。実はヴェンダースとは、件の「ベルリン・天使の詩」を含む 5作において、脚本を提供しているという近しい仲である。この作品においてそのヘントケの原作を脚本化しているのは、ヴェンダース自身である。ヘントケさんはこんな渋い人。うーむ、この人があのような男女の会話に興味を持っているとは、なんとも意外である。
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もういちど、世界の終わりについて思いを馳せよう。それは遠い先かもしれないし、もしかすると明日かもしれない。その日が世界の最後の日であると認識したとき、人はどのように対処すべきであろうか。ヴェンダースはここに、社会的なメッセージは全く込めていない。あるいは、究極の個人についてのとりとめのない話に、現代における人間社会の危機意識のなさを読み取れというのだろうか。そして世界の終わりには、英語のバラードが響いているのであろうか。やはり私には、もうひとつピンと来ない。むしろ、題名にあるアランフェス宮殿の佇まいを思い、人間の刻んできた歴史を感じる方が、よほど世界の終わりに向けた心の準備ができようというものだ。ヴェンダースの次回作は、一体どこに向かって行くのであろうか。
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by yokohama7474 | 2018-01-30 01:09 | 映画 | Comments(0)  

オリエント急行殺人事件 (ケネス・ブラナー監督 / 原題 : Murder on the Orient Express)

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自分で言うのもちょっと気が引けるのであるが、私は結構悪運の強い方で、トラブルからラッキーなかたちで逃れることが時々ある。もちろん、それほど大げさなことではなく、車で出かけたときに雨が降っても、車から降りるときにはやんでいるとか、その程度のことであるが、それでも、地震や、あるときはちょっとした事故などから逃れられたときもあり、果たして祖先に感謝すればよいのか、はたまた自身の普段の行いのよさを誇りにすべきなのか (まぁ、後者はないでしょうな。笑)。そんなひとつの事例が、今週東京を襲った大雪である。私はたまたま今週は出張で日本にいなかったので、その間に東京で大雪が降ったことはネットニュースでしか見ておらず、帰ってきてから自宅の周りに残る雪を見て、これは大変だったんだろうなと実感している次第。

さて、冒頭にそんなことを書いたのは、この映画においても雪が大いに関係しているからである。舞台は 1930年代、トルコからフランスに向かう長距離列車、オリエント急行であるが、殺人発生の直後に、こんな雪の中で列車は立ち往生。この設定は、なかなかによくできている。つまり、列車が大雪で足止めを食ったことによって、複数の人間をその中に閉じ込める密室ができたことになり、犯人は必ずその中にいることになるわけで、しかもどこにも逃げるわけにはいかない。これはかなり極端な状況である。
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もちろん原作は英国のミステリーの女王、アガサ・クリスティで、この作品は既に 1974年にも映画化されている。実のところ、その映画が有名なせいか、この作品の原作を読んでいる人が私の周りにも結構いることが分かったのだが、恥ずかしながら私は、その映画も子供の頃少しテレビで見た記憶しかなく、原作も読んでいなかった。但し、クリスティの作品なら、名探偵エルキュール・ポワロが初めて登場する処女作「アクロイド殺し」や「ABC 殺人事件」、さらには「そして誰もいなくなった」や、ロンドンでの舞台上演の超ロングランで知られる「ねずみとり」、それからミス・マープルものなど、10冊ほどはこれまで読んでいたのだが、どういうわけかこの作品はそこから漏れていたということになる。そこで今回は、映画を見る前に原作を読んでみた。なるほどこのトリックは印象に残る。だが、一度ネタが分かってしまえば、新たな映画を見る価値が果たしてあるのだろうかということにもなる。その点、この作品の場合の期待は、その綺羅星のごとき出演者たちもさることながら、主演のポワロ役も務めているケネス・ブラナーが監督であるという点に、大きくかかってくることになるだろう。これが、そのブラナー演じるポワロ。
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この映画の予告編では、「全員名優」という言葉で検索せよと宣伝していたが、1ダースに及ぶ容疑者たち、つまりは列車の乗客たちであるが、この顔ぶれはすごい。順不同で挙げても、ジュディ・デンチ、デレク・ジャコビ、ウィレム・デフォー、ミシェル・ファイファー、ペネロペ・クロス、そして現在進行中のスターウォーズ・シリーズで主役レイを演じているデイジー・リドリーといった具合。これはその容疑者たちに車掌役を合わせた 13人。
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そうそう、それから、容疑者以外にも名優がいて、それはほかならぬジョニー・デップ。彼は容疑者ではなく被害者なので、自然と出演時間は少なくなってしまっているが、その存在感はさすがである。
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とは言っても、いくらなんでも全員が名優かと言われれば、そうでもない気がするが、まぁそれはそれとして (内容を知っている人にはしらじらしい物言いであることは、ここでは触れないことにして)、原作を読んでから映画を見た感想は、やはり少々物足りない。もちろん、一般的に小説の映画化の場合には、原作小説の方が映画よりも面白いということが通常であって、ここでもそのようなことになっていると言ってもよいだろう。登場人物の数を少し減らしていることや、一部人物の役柄を変更していること、いくつかの事件を飛ばしていること、それから、原作にはないアクションシーンを足していることなどは、別に映画だけ見て気にしなければよい話。だがそれらの点を除いても、この映画が見る人を熱狂させるかと言えば、ちょっと違うような気がして仕方がないのである。携帯電話もインターネットもない 1930年代、何かの事件についての情報を集めるのはなかなかに骨が折れ、また時間のかかること。そして、ある人の素性を解き明かすことも、現代では考えられないほど難しいことであったはず。それゆえ、この事件におけるポワロの独断的な推理が思わぬ真相を明らかにすることに、当時の人たちは感嘆したものであろう。だが残念ながら、もし現代において、ここでのポワロのように、飛躍した推理、と言って悪ければ、大胆な仮説によって捜査を進めるなら、必ずやどこかで行き当ってしまうだろう。つまりここでのトリックには、完全に外の世界での出来事が前提として必要であり、それなしには物語が成立しない。そして、あらゆる世界の出来事を瞬時にして知ってしまう我々としては、ここでの種明かしは、つまりは、あまりに少ない手がかりに基いてポワロが被害者の正体を見抜くことが、荒唐無稽に見えてしまうのである。その推理なくしては物語は成立しない。つまりはこの荒唐無稽な推理が物語の根幹にかかわっているわけなので、さすがのケネス・ブラナーもその設定を変えることはできなかった。まさかこれを現代に置き換えるというわけにもいかなかったろうし、せめて CG で現代風の映像を作るのが精一杯であったのかもしれない。そう考えると、並み居る名優たちも、やはりちょっともったいない。時代がかった演技の中で、窮屈に見える人もいた。12人の容疑者役の中で、私が最もよいと思ったのは、デイジー・リドリーである。ここでの彼女は、「スター・ウォーズ」での役と異なり、両大戦間のモダンな服装をして、喋る言葉も明確な英国アクセント。調べてみると彼女はロンドン生まれである。未だ 25歳という若さであるが、この映画で見ると、昔の女優のような気品を感じることができ、今後が楽しみなのである。
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ケネス・ブラナーの演出には特に奇をてらった部分はないのだが、上記の通り、ちょっとここでは彼の才気が発揮できることができなかったように思われてならない。ここで彼は、フランス語を母国語とするベルギー人のエルキュール・ポワロを演じて、英国人のくせに非常にリアルなフランス語アクセントの英語を披露するのみならず、かなり多くの場面でフランス語そのもの、そしてまたあるシーンではドイツ語まで喋っていて、その点には多才さの片鱗を見せているが、どうせ現代から遠く隔たった 1930年代のスタイルに則るのであれば、普通の英語で演じてもよかったような気がするのである。言ってみればそのようなことは映画の中の細部。だが細部が気になる映画とは、私の持論によれば、流れの悪い映画なのである。実はこの作品、ラストシーンでシリーズ化が示唆されており、そのことは既にこの作品の Wiki にも記されているので、ご興味おありの向きは、調べてみられてはいかが。次回作品でも同じようなポワロ像になるのだろうか。

さて最後に映画を離れて、この映画のヒントになった事件に少し触れてみたい。それは、あの空の英雄、チャールズ・リンドバーグに関するものである。
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単独で大西洋横断に成功した彼の後半生は必ずしも幸福なものでなく、特に戦争との関わりは、先に NHK で放送された「新・映像の世紀」のシリーズの中でも紹介されていたが、何とも悲壮感の漂うものであった。だが彼にとっての最大の悲劇は、1932年に息子が誘拐され、死体で発見されたことであった。実はアガサ・クリスティの「オリエント急行殺人事件」は、そのリンドバーグの息子の誘拐事件と、実際にオリエント急行が雪で立ち往生したことを結び付けて、1934年に書かれたものであるらしい。だが、このリンドバーグの息子の誘拐・殺人については、今日では諸説あるのである。陰謀論好きの私は、何冊かの本でそのような「諸説」の概要を読んだことがあって、その中には大きな説得力を感じるものもあるが、犯人として捕まった男が死刑にまでなっていることを思うと、冤罪説を興味本位で語るのは気がひける。今日ではネット検索でいくらでも情報が手に入るので、これもご興味おありの向きは、調べてみられることをお薦めしよう。そして、私自身も今回調べてみて知ったリンドバーグの言葉がある。それは、ニューヨークから大西洋横断に向けて旅立つ前のもの。

QUOTE
ヨーロッパ全航程に亘る完全無欠な好天候の確報なんか待っていられるもんか。今ことチャンスだ。よし、明け方に飛び出そう!
UNQUOTE

なるほど彼は、悪天候のリスクを取ってあの大冒険に出たわけである。そうするとこの映画でも、雪という悪天候を恐れていては何もできないことを知って、犯人 (日本語は単数と複数が明確でないのでこの言葉を使うが) は犯行を決意したものであろう。そう、春になるのを待っていては、この犯行のチャンスは絶対に巡って来なかったわけである。そうすると本当にこの作品には、リンドバーグの冒険者スピリッツが活きていることになる。来週東京でまた雪が降るときも、そのスピリッツ精神を標榜することとしよう。それを逃してはつかめないチャンスが、もしかすると屋外に待っているかもしれないではないか!! ただ、現実世界では、足元にくれぐれも気をつけたいものであります (笑)。
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by yokohama7474 | 2018-01-27 00:59 | 映画 | Comments(4)  

否定と肯定 (ミック・ジャクソン監督 / 原題 : Denial)

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前回の記事で採り上げた「ユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命」に続いて、これもナチスに関連する映画で、やはり事実に基づいて制作されたものである。だがその内容は全く異なっており、舞台は 1994年から 2000年。つまり、戦争中の話ではなくて、戦後何十年も経ってからの話である。前回に続き、ここでも邦題をまず話題にすると、「否定と肯定」という邦題に対し、原題はただ「否定」だけである。これも確かにちょっと難しいところがあって、「否定」という題名はシンプルすぎて、なんだかよく分からない。「否定と肯定」と対立させた方が、何かと目を引くので、これはこれでよいのではないだろうか。では、ここで否定されたり肯定されたりしているのは何か。それは、ナチスによるユダヤ人の大量殺戮、つまりはホロコーストの存在である。この話題は、現地から遠く離れたこの日本の地で普通に考えて、すぐにはピンとこない。アウシュビッツをはじめとして、あれだけ収容所の施設や、戦後の解放時に撮影された被害者たちやその遺品の写真が残っているのに、ホロコーストがなかったというようなことが、果たしてどのように主張しうるのか、という感覚に囚われるのが普通であろう。だがそう言えば日本でも以前、ホロコーストはなかったという記事を載せて廃刊になった雑誌があった。今調べてみると、雑誌の名前は「マルコポーロ」。文藝春秋社の雑誌であり、廃刊は 1995年である。つまり、ちょうどこの映画の舞台となっている裁判が行われていた頃だ。この「マルコポーロ事件」については日本語でも詳しい Wiki があり、それを読めばいろいろ分かるのかもしれないが、それよりも映画自体について語ることとしよう。

この映画のストーリーは簡単と言えば簡単で、米国ジョージア州アトランタにあるエモリー大学というところで教鞭を取っている女性歴史学者デボラ・リップシュタットが、その著書で非難したホロコースト否定論者、歴史学者のデイヴィッド・アーヴィングから訴えられる。そしてそれから判決までの 6年間、デボラは弁護士たちと時に対立しながらも懸命に裁判を戦うというもの。ここでも主役を演じる女優が素晴らしい。レイチェル・ワイズである。
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どうしても「ハムナプトラ」シリーズのヒロインという印象が強く、それ以外には初期の「チェーン・リアクション」や「魅せられて」などの記憶はあっても、オスカーを取ったことがあるわけでもないので、正直なところ、女優としての活動が世界トップクラスかというと、なかなかそうだと言いきれないところがある。だが私は以前このブログで、「グランド・フィナーレ (原題 : Youth)」における彼女の演技を称賛した。そしてこの作品を見て、現在の彼女の充実ぶりに大変感銘を受けたのである。この映画の内容は実にハードで、色気は全くゼロなのだが、彼女が演じたがゆえに、モデルになっている女性のリアリティを超えて、主役は実在感のある人物に仕上がったと思う。いや、さらに言うならば、色気など入り込む余地などない弁護士とのやりとりにおいて、彼女が演じるがゆえに、なぜか品のよい色気まで漂っているような気がしたものだった。重い内容であるがゆえに、ただファイティングポーズを決めるだけの女優であればこうはならなかったはずで、やはりこのレイチェル・ワイズの起用が功を奏したものと思う。実在のデボラ・リップシュタットは実在で、このようにレイチェル・ワイズとのショットも公開されている。これはきっとロンドンの王立裁判所の内部であろうか。私はもちろん中に入ったことはないものの、外見はよく知っていて、それはそれは厳かな建物である。
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この映画を、ただ単に裁判でどっちが勝ったかだけ見ていては、もったいない。是非、弁護士たちの喋る英語を、そのトーンを含めてじっくり聞いてみて欲しい。我々日本人は、どうも言語で何かを語ることが苦手だといつも思うのだが (母国語であっても)、ここで法廷弁護士リチャード・ランプソンを演じるトム・ウィルキンソンと、事務弁護士アンソニー・ジュリアスを演じるアンドリュー・スコットが口にする言葉の数々は、人間社会の中で何か大きな問題が起こって、それに一致団結して立ち向かうという行為においては、どうしても必要となってくる、卓越した言語センスを強く感じさせるのである。この写真で、ワイズの向かって右がトム・ウィルキンソン、左がアンドリュー・スコット。
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ここで弁護団は、ユダヤ人虐殺という Emotional になりがちな争点を扱うにつき、極めて冷静に相手と論戦を交わすという筋立てを考えることで、Emotion を離れた作戦で勝利へのシナリオを書くことになる。それに対して異を唱える被告のリップシュタットの思いに、観客は感情移入するのであり、そもそもこの弁護士たちの手腕はどうなのかと不安になる瞬間が何度も訪れる。映画はそのあたりの観客の感情移入を巧みに利用しながら、アウシュビッツ現地での検証のシーン (ロケは一部で、俳優の演技はセットで行われたようだが) を設け、ホロコーストの生き残りの女性役を設定するなどの方法により、被告リップシュタットの勝利を願うのだが、判決は最後の最後まで明らかにならない。というのも、陪審制を排してひとりの判事による判決を選んだリップシュタットの弁護団が一連の法廷でのやりとりのあとに判事から聞く言葉は、ホロコーストの事実があったか否かはともかく、「なかった」と信じる歴史学者の表現の自由を示唆するものであるからだ。なるほど、これは観客が導かれる義憤からすると随分に意外なものであるがゆえに、もしかしたらそれが判決になるのでは、との大きな不安感を醸成するのである。
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これは実際にあった裁判に基づくものであるから、いかに映画と言えども、事実は事実として正確になぞる必要がある。今の時代はなんでもすぐにネットで調べれば情報を取ることができ、原告である実在のデイヴィッド・アーヴィングの顔写真や、判決後の彼の生活や行動までもが、日本語ですぐに判る。それはここでは引用することはせず、映画を映画として評価したい。つまりこの映画では、裁判の行方を辿ることだけが重要なのではなく、このような気の滅入る裁判の中において、正義を守るためにいかなることをすべきかに思いを致せば、私たちが日常直面する困難に立ち向かうためのヒントを得ることができると思うのである。そう思わせるのも、原告のアーヴィング役を演じたティモシー・スポールの演技が優れているからだろう。一度見たら忘れないこの風貌は、随分以前にこのブログでも採り上げた「ターナー、光に愛を求めて」のターナー役でも印象に残ったし、「ハリー・ポッター」シリーズでもおなじみだ。
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監督のミック・ジャクソンは英国人で、あまり耳に覚えのない名前であるが、ケヴィン・コスナーとホイットニー・ヒューストン共演の「ボディガード」の監督であるという。随分昔の映画だが、テレビの分野でも活躍している人であるらしい。既に 74歳のベテランである。なるほど、この映画で法廷弁護士役でもできそうな海千山千の人であるように見える (笑)。
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ホロコーストがあったのかなかったのかということが法廷闘争になること自体が、我々多くの日本人の想像力を超えているのであるが、それを 20年も経たないうちに実名入りで映画にしてしまうということも、なかなか日本にはないことである。つまりはそれだけ、ヨーロッパの人たちにとっての裁判の判決は決定的な事柄であり、また、ホロコースト自体がヨーロッパの根幹にかかわる問題だということなのだろう。極東の地でこの映画を見る我々は、せめてそのことに想像力を伸ばしながら、人間の生き方について、世界のどこでも、いつの時代でも、この映画から学べることを学びたいと思う。人間の本質を考えるにあたって、大変示唆に富んだ映画であると思うのである。

さて、年明けから 1日に 1件以上のペースで記事を書いてきたが、私は今日これから出張に出てしまうので、次のブログの更新は週末になります。それまで皆様、ごきげんよう。

by yokohama7474 | 2018-01-21 21:32 | 映画 | Comments(0)  

ユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命 (ニキ・カーロ監督 / 原題 : The Zookeeper´s Wife)

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相変わらずナチスを題材にした映画が、数多く制作されている。この映画と、それから、この次に採り上げる映画も、いずれもナチスに関連したもの。これは私のイメージだが、世界が未だ東西に分かれた政治体制によって秩序が保たれていた頃には、ナチスは絶対悪として、物語の中で善玉によって倒されるべき対象であったような気がする。その典型例はインディー・ジョーンズ・シリーズではないだろうか。だが昨今のナチスを題材とした映画には実話に基づくものが多く、そこでは大抵歴史的なドキュメンタリータッチによって、その時代の人々の苦しみや希望が描かれることになる。この映画の場合は、もうその邦題で内容がバッチリ分かってしまうのだが、戦時中のポーランドでユダヤ人たちを救った動物園が主題である。ただ、原題を直訳すると「動物園経営者の妻」ということになり、冠詞が "a" ではなく "the" であることから、特定の人のことを指していることが分かる。私はこのブログでよく邦題と原題を比較しているが、今回も、このような説明調のタイトルにしなければ気がすまなかった配給会社の意向に、やはり疑問を抱くものである。日本語の語感に限界があるとも言えるかもしれないが、説明調にするほどに観客の想像力に訴える要素が減ってしまうように思うのである。

ともあれ、この映画の見どころはまず、主演女優にある。ジェシカ・チャステインだ。
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つい先だっても彼女が主演した「女神の見えざる手」を絶賛した私であるが、その中で、「ゼロ・ダーク・サーティ」以来彼女は、自立心に富んだ女性を演じていると書いたのだが、ここでの彼女の役柄はちょっと違っていて、動物園経営者の妻として、旦那に従って行動する受け身の女性である。そして、「女神の見えざる手」では資本主義の究極の姿である現代米国の首都での、生き馬の目を抜く激しい生活を送る女性であり、その言葉はまるでマシンガンのようであったが、この映画では一転して 1930年代から 40年代のポーランドで動物たちを相手に暮らしている主婦。喋る英語も東欧訛りであり、戦争という抗えない過酷な運命に翻弄され、動揺したり泣いたり弱気になったりするのである。だが、この女性を「受け身」と書いてしまった私は恐らく間違っていて、「女神の見えざる手」のバリバリのロビイストにように自らの使命を力強く遂行するのではなくとも、容赦なく回る歴史の歯車の中で、ただ運命に翻弄されるのではなく、自らの信念を持って勇気ある行動を取る、そんな女性なのである。従ってここでは、このジェシカ・チャステインの演技がまず何よりも映画の見どころであると言ってしまおう。だがそれにしても、このようなシーンは、やはり動物が好きでないと、なかなか引き受けることはできないものではないだろうか (笑)。
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動物ものには時に偽善的な雰囲気がつきまとうことがある。つまり、人間世界は欲にまみれて腐っているが、動物たちはピュアな命を持っていて、汚れのない存在であるというメッセージが必要以上に強調されてしまうと、うさん臭さも出てきてしまうのだ。その点、この映画は巧みにできていて、前半では動物たちと平和に暮らす動物園のオーナー夫婦 (夫は動物学者である) の様子が描かれるが、戦争、つまりこの場合は、舞台となっているポーランドにドイツが侵攻してきたことを言うが、それが起こってしまったあとは、動物園はほぼ空になってしまうので、動物の汚れのなさに焦点が当てられず、人間の愚かさだけが描かれる。その愚かさがあるからこそ、そこで称揚されるべきは、尊厳をもって運命と闘う人たちの勇ましさが強調されるのである。従って、ここで描かれているのは徹頭徹尾、「人間」であると言ってよいであろう。

役者では、ナチスの高官でやはり動物学者である役柄を演じるダニエル・ブリュールが印象に残る。代表作は、ニキ・ラウダを演じた「ラッシュ プライドと友情」であろうが、このブログでも、「ヒトラーへの 285枚の葉書」におけるやはりナチの高官の演技を称賛した。ここで彼が演じるヘックは、まずは戦争が始まる前に動物学者としてポーランドに駐在しているようであり、戦争が始まってからも、動物たちを救おうとしたり、珍しい動物の繁殖に取り組んだり、好意的な態度を多かれ少なかれ保つ。だがそのうち主人公アントニーナに魅かれていってしまうことから、話はスリルを帯びることになり、そのあたりの機微を含んだ演技が見事。
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この物語が実話に基づくことは上に述べたが、ではいかにこの動物園が多くの (300人ほどと言われる) ユダヤ人を救えたかというと、ユダヤ人たちが閉じ込められたゲットーに豚の飼料として活用するゴミを取りに行った際に、トラックに隠してユダヤ人たち数人を救い出し、一時的に動物園の敷地内に匿い、そして様々な手段で逃がしたというもの。この映画では、実はナチス側にも人間的な人がいたり、逃がされるユダヤ人たちにもあまり自己を表現しない人がいたり、実に生々しい人間模様が描かれていて、きれいごとに留まらない時代の狂気と、その中で信じたい人間性の双方をよく表現していると思う。ナチを絶対悪として非難するのは簡単だが、では自分がそのときに生きていれば、どこまで勇気ある行動を取れただろうか・・・。誰しもがそのようなことを感じるに違いない。

このなかなかに優れた映画を監督したのは、1966年ニュージーランド生まれのニキ・カーロという女流監督。
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既に数本の監督作があるが、日本未公開作もあり、あまりなじみのない名前であるが、きっと本作を機会に日本でも注目されるのではないか。ネットで検索してみると、ディズニーの "McFarland, USA" という作品がよくヒットする。これも日本未公開であるが、ケヴィン・コスナー主演で、クロスカントリーを題材にした作品であるらしい。さらに、デビュー作の "Memory & Desire" は、日本人夫婦を主人公にしているらしい。どんな映画なのだろうか。

この映画の主人公である、ヤンとアントニーナの夫妻は、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」という称号を与えられたとのこと。そして、彼らが命を賭けてユダヤ人たちを匿ったワルシャワ動物園は、戦後再開し、現在でも営業しているという。いや、動物園だけでなく、この映画に登場するアントニーナが弾いたピアノや、ユダヤ人たちが隠れて暮らした地下室などは保存され、博物館として公開されているという。
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映画を評価するときに、そのもととなった事実の人道的側面だけに囚われる必要は、必ずしもないと思うが、この映画の場合には、極限状態における人間性の破壊や、それへの抵抗という点がよく描けているがゆえに、やはり現地を訪れてみたいという気になるというものだ。私はワルシャワは 3度ほど出張で訪れたことがあり、ナチスによって破壊されたが完全に復元した世界遺産の旧市街や、ショパンの心臓が眠る教会を見たが、まさか動物園にそんなものがあるとは知らなかった。今度は観光で訪れてみたいものである。

by yokohama7474 | 2018-01-21 18:25 | 映画 | Comments(0)  

フラットライナーズ (ニールス・アルデン・オプレヴ監督 / 原題 : Flatliners)

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前回の記事に続いて、期待外れの映画について語らなくてはならない点、誠に残念である。しかも前回に引き続き今回も、超常現象をテーマにしている点に共通点がある。ただ前回の「プラネタリウム」にはまだ、主演のナタリー・ポートマンの熱演等の見るべきものがあった。それにひきかえこの映画、ただただ残念な出来であると言うしかないのである。これはちょっとお薦めしません。予告編で明らかになったのは、医学生たちが死後の世界に興味を持ち、自分たちを実験台にして、自ら臨死状態となり、死後の世界を体験してから蘇生するという実験を行う。だが、その危険な実験の代償はあまりにも大きかった、というストーリー。そして、上のチラシにある通り、その臨死状態が 7分を超えることで、パンドラの箱が開き、何か恐ろしいことが起こるという設定のようであった。・・・もうネタバレでも何でもいいから書いてしまうと、本編の中では 7分を超えたらどうなるかという展開は出て来ず、ただ彼ら医学生 (1人を除く) の臨死実験が順番に描かれるのみである。なのでこの 7分云々は、多分日本での宣伝のために独自に作られたものであろう。ここで描かれているのは、要するにそのような不謹慎な真似をした医学生たちが、自らの深層心理に向き合うことで、恐ろしい体験をするという設定であり、それ以上でもそれ以下でもない。そもそも題名の「フラットライナーズ」の意味は何であろうか。私も本編を見てから気づいたのだが、これは Flat な Line、つまりは「平坦な線」、これである。
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私としても肉親を亡くした自らの過去の悲しい体験から、このような画像は見たいと思っておらず、本当に嫌な気分になるのであるが、人間につけた計器の反応がフラットになるとは、既に生命反応がないということで、この映画ではそのことを Flatline と呼んでいる。ここで 5人の医学生たちが行う臨床実験のことは、"Flatlining" という言葉で表現されている。誠に不謹慎だと思うのだが、まあ映画だからその設定は仕方ないとして、では、その先いかなる事態が待ち受けているのか。何か人間の感性に強く訴えかけるものがあるだろうか。いざ、臨死実験!!
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さて、人によってはこの後の展開を、もしかしたら「これはすごい」と思うこともあるのかもしれないが、申し訳ないが私は、ずっと白けたまま画面を見ていた。言ってみれば、いわゆる普通のホラー映画として、不気味なシーンがあれこれ出て来るのだが、まあそれだけだ。彼らが出会う事態には、彼ら自身の深層心理が大きく関係しているのだが、それはいずれも特殊な経験によるもの。鑑賞者たちが「あぁ、これは自分の身にも起こるかも」という切実な恐怖を感じることは金輪際ない。じゃあ、なんのためにそんな設定にしているのか? そう思うと、見ているうちにだんだんいらついてくる。ご存じの方にはヒントになるだろうが、邦画でも昔、「催眠」という映画があって、そこには「緑の猿」という謎の存在がいるという設定であったが、この「フラットライナーズ」もそれと同様の内容だ。だからなんなんだ (笑)。別に大して怖くもないし、人生の価値に対して何か新たな視点から問題提起するものでもない。おっと、悪口を言っていたら蘇生したか。
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私としては、この映画を語るのにこれ以上時間を費やすつもりはないが、ただ、ここに出演している若手俳優たちは、それぞれに今後の活躍が期待される人たちであるようなので、それには少し触れておこう。まず、上で写真を掲載した本作の実質的な主役であるコートニー役は、エレン・ペイジ。これまでの代表作は「X-Men」シリーズで、そのナイーヴな表情は、印象に残るものではある。
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また、レイという役を演じるのは、メキシコ出身のディエゴ・ルナ。メル・ギブソン主演の「ブラッド・ファーザー」でだらしない若者を演じていたのは覚えているが、それ以外にも、「ローグ・ワン / スターウォーズ・ストーリー」にも出演していたようだ。この映画では結構オイシイ役を演じている。
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その美形で注意を引くのは、マーロー役のニーナ・ドブレフ。ルーマニア出身らしい。
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そもそもこの映画、1990年制作の同名の映画を、最新の医学に基づいてリメイクしたものらしい。
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私はこの映画を知らなかったが、マイケル・ダグラス製作で、出演はジュリア・ロバーツ、ケヴィン・ベーコン、キーファー・サザーランドというなかなかに豪華なラインナップ。実は今回のリメイク版も同じマイケル・ダグラスの製作になり、前作で医学生のひとりを演じていたキーファー・サザーランドは、本作では医大の教授役で出演している。
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今回の監督はデンマーク出身のニールス・アルデン・オプレヴ。馴染みのない名前だが、「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」で名を上げた人らしい。最近は結構北欧からハリウッドに進出する監督が多いようであるが、また次回に期待しましょう。

このように、私としてはちょっと残念な出来という感想を持った映画であったが、死後の世界に対する根源的な興味は、確かに誰にでもあるものと思う。脳の研究から超常現象が解明される日がいずれ来るかもしれないが、でもやはり、分からないからこそ限りない興味の対象になるとも言える。そういった知見を持った映画であれば、喜んで見たいと思うのである。

by yokohama7474 | 2018-01-18 00:57 | 映画 | Comments(0)