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獣は月夜に夢を見る (ヨナス・アレクサンダー・アーンビー監督 / 原題 : NÅR DYRENE DRØMMER (When arimals dream)

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前回の「マジカル・ガール」の記事でもご紹介した、ヒューマントラストシネマ有楽町では、シネコンでは見ることができないような佳作をあれこれ見ることができて、その活動は本当に意義深いと思う。実際、例えば米国に住む人たちが通常見ることができるのはほとんどがハリウッド映画であろうし、その他の地域の大都会でも、東京に匹敵するほど見ることのできる映画の選択肢が多い街は、ちょっとないのではないか。それはコンサートや美術展 (や、レストラン) と同様で、その気にさえなればかなりハイレヴェルの文化的生活を送るための要件が、東京では整っているということができる。

この映画はデンマークとフランスの合作だが、宣伝に使われているイメージは完全に北欧のものだ。なにせ原題 ("NÅR DYRENE DRØMMER") に、通常のアルファベットでは使われない丸とか斜線が入っているのだ!! 北欧、スカンディナヴィア 3国とはもちろん、スウェーデン、ノルウェイ、デンマークだが、私はノルウェイ以外の 2国に主として仕事で数回行っただけで、そのノルウェイが実は EU にも加盟していないということを数年前まで知らなかった。そもそもこれらの国それぞれの首都名くらいは常識として言えるにせよ、その民族・宗教・歴史等々の面からの違いを認識することは日本人には非常に難しい。なぜにそんなことを書くかというと、この映画で使われている言語が何語であるか分からないからだ (笑)。恐らくはデンマーク語なのであろうが、ノルウェイ出身の役者も出ているし、そもそもこれらの国の間で言葉の違いがどのくらいあるものなのだろうか。日本でも最近紹介されたデンマークの画家、ハンマースホイの最後の「ホイ」の表記は "ØI" なので、やはりデンマーク語なのか。このようなハンマースホイの作品は、フェルメールが異常な人気を持つ日本では、かなりツボにはまるタイプであろうと思う。
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それはともかく、私がこの映画を見たいと思ったのは、やはりこの北欧のイメージに包まれたホラーという点であった。「僕のエリ 200歳の少女」というスウェーデンの吸血鬼映画が以前話題になったらしい。私はそれを見ていないが、最近ではノルディック・ホラーなどという言葉もあるようだし、ちょっと楽しみだ。上のポスターの宣伝文句、「僕は君のそばにいる。たとえ君が "何者" でも ---」を見て、そして題名に月夜とあるし、また、血圧の低そうないかにも北欧人らしい主演女優の唇から血が流れているので、これは人狼 (最もすっきりする用語は「狼男」であろうが、ここでは出ているのが女性であり、「狼女」とはあまり言わないので・・・) ものであろうという推測は大体つく。真偽のほどはここでは明らかにしないが、いずれにせよ通常の人間と違う女性と、彼女を守ろうという男の恋の物語だとは申し上げておこう。尚、この映画の海外版のポスターは以下の通りである。
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おっと、これでは私がせっかく秘密にしておいた映画の設定がバレバレではないか!! 全く西洋人は、こういう直接的なメッセージでないと理解できないのだろうか。日本版のポスターのニュアンス溢れるそこはかとなさを、私としては支持したい。画家ハンマースホイもきっと賛同してくれるに違いない (笑)。

映画は、期待通り寒々とした北欧の雰囲気が一杯だ。まず最初のシーンは、このように夕闇に浮かぶ漁村の映像で始まる。
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ここに住む 19歳のマリーは、最近自分の体にできた発疹のような異変に気付きつつ、荷揚げした魚を裁く仕事につき、そこでいじめにあったり、恋心を感じる男性との出会いを経験する。
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彼女は、意識がなく車いすを利用している母親と、意志の強そうな父親との三人暮らし。画面は飽くまで静謐感を湛えたまま、この家族の抱える謎を秘めてストーリーは進行する。やがて起こる悲劇にマリーは反応し、自らその正体を認識した上で、人生の選択をする・・・。まあそんな感じで、ストーリーとしてのひねりはさほどあるわけではなく、ホラー特有のわっと驚かせるシーンは何度かあるものの、それほどショッキングな作りにはなっていない。つまりここで観客が対峙するのは、飽くまで静かに運命に立ち向かう若いマリーの姿なのである。そのマリーを演じるのは、1994年にデンマークのユトランド北部の小さな島、本作のロケ地の近郊で漁師の娘として生まれ育ったというソニア・ズー。今回がスクリーン・デビューだ。
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映画のプログラムに記載されているインタビューによると、幼い頃から映画に出たいと願っていたがチャンスがなく、この映画で一気に道が拓けたとのこと。演技をするにあたっては、日本の暗黒舞踏を習ったりして、「身体の意識を高めて、自分自身のより攻撃的で動物的な性質に近づく」努力をしたそうな。うーむ。日本では様々な文化に触れるチャンスがあると冒頭に書いたが、このあたりはヨーロッパの文化のあり方とはちょっと違いますな。日本で映画デビューする若い女優が、こういうことを考えたりするであろうか。ええっと、例えば「ちはやふる」という初主演作を撮影するにあたって、広瀬すずが暗黒舞踏を習っただろうか・・・。まぁ、いい悪いと言える問題ではないでしょうが、絶対にないなぁ、それは (笑)。

あ、そうそう。この映画では死者を教会で弔うシーンが出てくるが、この地域のキリスト教はカトリックかプロテスタントか、はたまた何か特殊な宗派であるのか、興味があった。劇中では映像でそれを確認できるシーンはないものの、ヒントがあった。それは、バッハの「マタイ受難曲」の第 15曲 (そして以下、第 17曲、第 44曲、第 54曲と繰り返される) のコラールが葬儀のシーンで合唱で出てきて、それに続くお通夜 (?) のシーンでも同じ曲が数人で演奏されたことだ。つまりデンマークはルター派プロテスタントなのか。バッハの曲は以下の通り。
https://www.muzikair.com/jp/track/8zmnnn

このように、雰囲気満点の映画ではあったのだが、正直なところ、作品全体の出来としてはもうひとつという印象。印象的なカットがあれこれある割には、ストーリー自体のひねりは皆無に等しく、もう少ししたたかに観客を驚かせる要素があった方がよかったと思う。ホラーという範疇を前提として考えれば、見る人の神経をぞわっと逆撫でするような恐怖心をいかにして呼び覚ますかという工夫が欲しかったところ。この作品の監督は、(奇しくも前の記事で南欧スペインの新人監督をご紹介したが) こちらは北欧の新人監督、デンマークのヨナス・アレクサンダー・アーンビー。もともと同国の先輩監督、あのラース・フォン・トリアー監督の「奇跡の海」「ダンサー・イン・ザ・ダーク」で美術アシスタントを務めた人。フォン・トリアーは、もしかしたら天才なのかもしれないが、ちょっと最近はどうなってしまったのか知るのが怖いような気がする、ある意味で良識を超えてしまった監督。そのような人の下で働くと、返って実務屋としての能力が磨かれたかもしれない。デンマーク特有の人間ドラマを作り続けて行って欲しい。
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ハンマースホイからも沢山ヒントがあると思いますよ。
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最後に、これだけユニークな映画を上映しているヒューマントラストシネマへの応援メッセージとして、この劇場に行くと必ずスクリーンで見ることになる宣伝をご紹介しよう。これ、一度見たら忘れないでしょう。人狼よりも怖いかも (笑)。
https://www.youtube.com/watch?v=v4_7hc2ma2k

by yokohama7474 | 2016-05-07 22:55 | 映画 | Comments(0)

マジカル・ガール (カルロス・ベルムト監督 / 原題 : MAGICAL GIRL)

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この映画はスペイン映画で、日本が大好きという監督は、この作品がデビュー作。実は、私はこの映画の予告編も見ておらず、このポスターを見てもそれほど心惹かれるということでもなかったのであるが、以前の記事で採り上げた「アイヒマンショー 歴史を映した男たち」を見るためにヒューマントラストシネマ有楽町という小劇場に行ったときのこと。たまたまトイレに入ったら、この映画の宣伝がいろいろ貼ってあったのである。どんな忙しい人間、あるいは偏狭な人間でも、トイレでは必ず静止するわけで、そうなると視線の届く範囲に貼ってある広告はいやでも目に入ってきてしまう。この映画の広告は、いろんな人がこの映画への賛辞を捧げているもので、スペインの大監督であるペドロ・アルモドバルが褒めているのはまあよしとして、目に留まったのはこれだ。誰もいなかったので写真撮ってしまいました (笑)。
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あー、慌てて撮ったので、ちょいとピンボケですなぁ。なになに、「感情移入するべき対象が刻々と変化し、何度も裏切られた気持ちになるのに、最後は、"暖かい気持ち" に強引に着地させられる。悔しいけれど、私はこの映画が大好きだ」と書いてある。発言者は、現代日本を代表する美術家である、あの束芋 (たばいも) だ。常日頃、束芋のアートに魅了されている私 (って、まさか変な人とは言いませんよね???) としては、この映画は見るべきだとの結論に至ったのである。

ストーリーは、白血病で余命いくばくもない少女アリシアが抱く希望を叶えようと、その父、もと教師で失業中のルイスが大胆なことを試みて、物事が意外な方向に転がり出し、最後は悲劇に終わるというもの。題名のマジカル・ガールとは、アリシアが心酔する架空の日本のアニメに出てくる魔法使いユキコのことだが、もちろんこの映画を最後まで見た人にはダブル・ミーニングであることが分かるだろう。このアリシア役の女の子がいい味出していて、普段は物静かなくせして、興が乗ると、こんなコスチュームで日本の歌に合わせて踊るのだ。その歌とは、長山洋子のデビュー曲らしい、「恋は SA-RA SA-RA」という曲。う、うーん。長山洋子が元アイドルであることは知っているが、デビュー曲はこれまでに聴いたことのないものだ (笑)。あ、でもこのシーンは、映画の後半にしか出てこない、大変シリアスな内容なのです。見た人だけが分かる。
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そして、本当の魔女であるべきなのは、映画のポスターで額から血を流している女性、バルバラである。演じるのは劇中の役と同じファーストネームを持つ、バルバラ・レニー。1984年マドリードに生まれ、両親の故郷であるアルゼンチンで育ち、マドリード王立演劇学校で学んだとのこと。アルモドバルの「私が、生きる肌」(アントニオ・バンデラス主演のあれだ) にも出ていたそうだが、覚えていない。この映画では、ある理由でこのように額の真ん中に傷ができるのだが、これは決して彼女がインド系の女性という意味ではない (ハズ)。
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宣伝文句の通り、この映画の特色は、先の読めない展開なのである。また、あるシーンと別のシーンの間に、実際に起こっているはずの事柄のあんなことやこんなことが、映像の説明としては出てこないことが多く、人と人の関係にも不明な点が多い。そのような説明不足の中で起こる悲劇は、まあ確かに予想を超えたものにはなっていると言えるだろう。この映画の説明を見て私が連想したのは、コーエン兄弟の名作「ファーゴ」であった。だが、「ファーゴ」とこの映画を比べると、私としては全く迷うことなく「ファーゴ」に軍配を上げる。「ファーゴ」には、本当にちょっとした悪事から坂道を転がり落ちるような悪夢的展開が本当に悲劇的に描かれ、悲劇的であるがゆえにこの上なく滑稽であったのだ。その点この映画には、それだけの滑稽さはなく、申し訳ないが私には、束芋が言っているような "暖かい気持ち" は、最後まで訪れず、なにやらいやーな感じで見終わったのである。奇妙な雰囲気を出そうとする監督の工夫は随所に感じた。例えば、アリシアとその父が話している食卓で、手前の 2脚の椅子が大きく画面を占めていて、何やら息苦しい感じを与えたこと。バーバラの守護天使 (?) である老人ダミアンが自宅で電話を取るとき、大きなオレンジ色のソファーの前にオレンジ色の飲み物が置かれ、その色彩に閉塞感を覚えたこと。同系色であるが微妙に異なる青い服を着た人物が二人並んだ横に真っ赤な照明の笠が来るシーンでは、原色の対置に落ち着かない思いを抱いたこと。だがそれらの要素はあくまで添え物であって、本質的ではないかもしれない。もっともっと、早いテンポで運命の歯車がギリギリ回るところを出して、またときにはもっと笑いを求めた方がよかったのではないか。そうすれば、濃淡が現れることで観客の感情移入も容易になったはず。使われている音楽については、ラジオ番組でバッハのギター編曲が流れているのには、なかなかクリアな感覚を覚えたが、バーバラが決意を込めて車で移動するときにサティのグノシェンヌを使うのは、ちょっと月並みではなかったろうか。

それにしてもこのカルロス・ベルムト監督、日本が本当に大好きのようだ。とは言っても、わびさびとか江戸時代の日本とかではなく、1960年代頃以降の日本だ。プログラムに掲載されているインタビューでは、映画に関しては小津や黒澤も好きだが、新藤兼人、寺山修司、大島渚、今村昌平に、それから勅使河原宏 (特に「砂の女」はベスト 5 に入る映画だそうだ!!) がお気に入りと。また、園子温、岩井俊二、塚本晋也らの名前も出ていて、その変化球ぶりがよく分かる (笑)。面白いのは江戸川乱歩へのこだわりで、映画の中に出てくる検索サイトは "RAMPO!!" という名前だし、怪しげな館のマークの黒いトカゲは、「黒蜥蜴」へのオマージュだそうだ。ご丁寧にも、エンドタイトルに流れる音楽は、美輪明宏が作詞作曲した「黒蜥蜴の唄」のスペイン歌手によるカバーだそうだ。

とまあ、監督の趣味がどぎついまでに出た映画であるゆえ、見る人によってどのくらいのめり込めるかが変わってくるような気がする。私としては、正直なところ期待通りとは行かなかったが、日本には毎年 4ヶ月も滞在するという、このカルロス・ベルムトという監督の名前は覚えておく価値があるように思う。次回は、さらに研ぎ澄まされてしかもテンポよく楽しめる映画を期待したい。
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by yokohama7474 | 2016-05-07 17:16 | 映画 | Comments(0)

スポットライト 世紀のスクープ (トム・マッカーシー監督 / 原題 : SPOTLIGHT)

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既にこのブログでも何度か告白 (?) している通り、私は実に自分勝手な人間で、世の中で流行っているものとか、何かの賞を取って話題になっているものとかに、とんと興味のない人間なのである。その意味で、お願いしたわけでもないのに毎年発表されるアカデミー賞の各賞の受賞作品は、まぁ、どんな作品が受賞したのかは多少気になるにせよ、受賞したというだけで見に行こうと思うことはまずない。実際に予告編などで映画のイメージに触れて面白そうだと思うか、さもなくば誰か信用できる知人友人から面白いと聞かされるようなことがないと、実際に劇場に足を運ぶことはないのである。

この映画、上のポスターにもある通り、今年のアカデミー賞の作品賞と脚本賞を受賞した話題作である。だが私はオスカーの発表前に予告編を見て、何やら興味を引かれたので、見ようと思ったのである。既にご存じの方も多いと思うが、ボストンにおける聖職者による児童 (多くは少年) への性的虐待をスクープした新聞社の人たちの物語。2002年の 1月に地元紙ボストン・グローブが報道した記事によって、カトリック教会が長年に亘り組織ぐるみでこの犯罪を隠蔽していたことが発覚、その後の調査で、米国内だけでも 6,500人近い神父が 17,000人以上を性的に虐待したとされるに至ったというもの。私は 4月28日の記事で、ナチス高官の裁判のテレビ放映に死力を傾ける人たちを題材にした映画「アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち」を採り上げたが、真実を伝えようとするジャーナリストたちの熱意という点で、この映画とテーマが共通する。かたや戦争、かたや聖職者のスキャンダルと、一見その歴史的重みに違いがありそうであるが、なんのなんの、ジャーナリストたちが情熱を傾けたこと、それはとりも直さず、人間の暗黒面に光を当てる試みなのであるが、その点において両者に大きな差はない。いやそれどころか、戦争という国家の犯罪に比して、より個人レヴェルの問題であるがゆえに、こちらの題材の方がより深刻であると言ってもよいのではなかろうか。

そもそも映画を語るのに、作品としての完成度ではなく、描かれている事態の深刻さに唸るというのは、映画の鑑賞態度としていかがなものであろうか。と言いながらも私は、「マネー・ショート」の記事でも既に同じことをしてしまっている。何かもっとクールに決めることはできないものか。そうだ、役者について語ろう (笑)。

この映画で誰が主演かというとなかなか難しいが、以下のボストン・グローブの記者たち 3名が中心となろう。まずは、特定の話題に焦点を当てて徹底的に取材をする「スポットライト」というコーナー (これが題名の由来) のリーダー、ウォルター・ロビンソンを演じるマイケル・キートン。言うまでもなくティム・バートン監督のバットマン・シリーズの主役で知られるが、最近では (なぜかこのブログで言及する機会の多い?) 「バードマン」での演技が記憶に新しい。ここでも、爽やかさはあまりないとはいえ (笑)、若い記者との意見の対立をも辞さない熱血リーダーを渋く演じている。
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そして、記者マイク・レゼンデスを演じるマーク・ラファロ。この役者もあまり爽やかなイケメンというわけではない。だが、見て行くうちにその行動力と機動力に、応援したくなってくるのだ。そう、彼の当たり役はあの超人ハルク。ああ、そうでしたそうでした。そう思うと、ここでの不器用ながら体当たり取材をする記者役など、適役ではないか (笑)。
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それから紅一点、サーシャ・ファイファーを演じるレイチェル・マクアダムス。カナダ人で、ガイ・リッチーのシャーロック・ホームズシリーズで怪しげな敵の女を演じていたほか、ウッディ・アレンの素晴らしい名作「ミッドナイト・イン・パリ」では、オーウェン・ウィルソンの奥さん役で笑わせてくれた。ここでは、とびきり優秀な女性というわけではないものの、寡黙な旦那のもとで家事をこなしながら、一旦外に出ると体当たりの取材を続けて行く果敢な記者の役を、リアリティを持って演じている。
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その他、ボストン・グローブ側にも教会側にも多くの登場人物がいて、弁護士も多く登場する。つまりここで記者たちが相手にしているのは、バットマンが闇夜の中で成敗する悪の親玉でもなく、ハルクが力任せに叩き潰す悪の乗り物でもなく、れっきとした現実社会、しかも西洋社会において最も信頼すべき存在であるはずの、カトリック教会であるのだ。そこには多くの関係者がいて、もちろん被害者もいるのであるが、人間対人間の息づまる攻防であるから、物事はそれほど単純には動かない。真実は、その切れ端を見せながらもなかなか現れて来ないのである。映画を見ながら観客は、真実と対峙することへの恐怖を覚えるようになる。

このような真実の物語を切れ味よく演出した監督、トム・マッカーシーのことを私はよく知らない。1966年ニュージャージー生まれ。これが 5本目とのこと。今回のアカデミー作品賞受賞で、CG 満載の派手なハリウッド映画を撮るようになるのかもしれないが、できればこの映画のような、いい役者をじっくり使った社会性の高い作品を撮っていってもらいたい。
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それにしても、冒頭からアカデミー賞なんて気にしないと言いながら、やはりアカデミー賞の話題に戻っているのは矛盾だというご指摘もあろう (笑)。だが、正直なところ、そうでもしないとここで描かれている内容の救いのなさにやりきれない思いがするからなのだ。例えば以下の写真は、この映画のプログラムに載っている、「『スポットライト』報道後に神父による児童への性的虐待が判明した全米の都市と州名並びにそれ以外の国と地域名」のリストだ。ざっと数えてみたところ、米国内で 105都市。それ以外で 101都市。これは一体どういうことか。カトリック教会に一体何が起きているのか・・・???
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上記は細かくてよく見えないが、米国外でリストに挙がっている都市はほとんど、北中南米、ヨーロッパとオーストラリア、ニュージーランドと、そしてアフリカである。アジアは、フィリピンとインドのみしか含まれていない。もちろん、これが全貌を表しているか否かは知る由もないが、アジアで被害が少ないことに何か理由はあるのだろうか。ここで宗教論への深入りは避けようと思うが、この映画が突き付けてくる事実は、限りなく重い。この映画を見る人たち自身が、やはり真剣にその重さを実感してみる必要はあるだろう。そんな映画にアカデミー賞を与えるとは、米国という国も度量が広い。勝手気ままな私も、こうなると今後はアカデミー賞の動向を気にせざるを得ない!! それが結論かい (笑)。

by yokohama7474 | 2016-05-07 15:01 | 映画 | Comments(0)

アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち (ポール・アンドリュー・ウィリアムズ監督 / 原題 : The Eichmann Show)

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映画にもいろいろあって、気軽に笑って見ていられるものもあれば、何か重い事柄を考えざるを得ないものもある。私は前者のタイプも好きであるが、たまには後者のタイプも見て、ついお気楽に流れがちな人生を少しでも軌道修正しなくてはならない。そう、この映画はまさにそのような認識を強いるタイプ。大変重い題材を扱っている。

題名にあるアイヒマンとは、ナチス・ドイツの親衛隊の将校で、ユダヤ人虐殺を推進した責任者であるアドルフ・アイヒマンのこと。戦後連合軍に逮捕されたが、偽名を用いて正体を隠し、捕虜収容所から脱走。その後アルゼンチンに潜伏しているところを発見され、イスラエルに移送の上、同国のエルサレムにて裁判にかけられることとなる。時は戦争終結から 16年を経た 1961年。ちょうど発展途上にあったテレビという新たな媒体を使って、その戦争犯罪を裁く法廷の様子を世界に届けようと奮闘する男たちを描いたノン・フィクションが、この映画だ。

映画はまず、米国のテレビプロデューサーとしてどうやらエルサレムに家族とともに駐在しているらしい米国人、ミルトン・フルックマンが車の中で、この裁判を撮影するにあたって監督として起用する人物のことを語るところから始まる。言葉が途中で短く切れて繰り返される演出がなかなかスピーディでよい。ミルトンが白羽の矢を立てたのは、敏腕ドキュメンタリー監督でありながら、当時米国映画界で吹き荒れた赤狩りの嵐 (時代背景がよくイメージできるではないか) によって仕事をほされていた、レオ・フルヴィッツ。映画は、彼らの家族も少し出て来るとはいうものの、その心理に深く入って行くというよりは、実際にアイヒマンを巡る裁判のテレビ放映がどのように準備されて行ったのか、また、ホロコーストの被害者が歴史上初めて公の場でその無残な体験を語った出来事となったこの裁判がいかに進んで行ったのかを、淡々と描いている。この映画自体はドキュメンタリーではないのだが、アイヒマン自身や法廷での証言者の映像は実際のものを使用し、さながら疑似ドキュメンタリーの様相を呈している。これは戦争中のアイヒマンの写真。いかにもナチの将校という冷酷なイメージであるのみならず、その後の裁判の場ではついぞ見せなかった笑みをうっすらと浮かべているではないか‼ この笑みの意味するところは何か。
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そしてこれが 1961年の裁判の際のアイヒマン。神経質そうであるが、裁判の被告としては服装はきっちりしている。
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この映画の中では、何度も実際の裁判のときのアイヒマンの様子が映るが、これがなんとも無表情で、見ているうちに背筋が寒くなってくる。被害者たちの証言と、通常人ならとても正視できない収容所の様子を収めたフィルムにも、彼の表情は全く変わることがない。そして罪状認否においては、自分は無罪であると繰り返すのだ。この映画のテーマは、果たしてアイヒマンは人間ではない異常な怪物なのか、それとも人間は、任務を遂行するためにこれほど非道なことを平然とやってのけるほど残酷な存在なのであろうか、ということに絞られて行く。その過程では、劇中の映画製作者たちも精神的に追い詰められ、苛立ち、困惑、肉体的な疲弊、そして仲間うちでの確執が巻き起こるのだ。結論をここで記述するのは避けるが、見終わったあとこの映画には、カタルシスはない。だがその一方で、絶望だけの映画にもなっていない。人間というこの不可解なものを考えるためのヒントが、ストレートに描かれているからだろうか。

ここでプロデューサー役を演じているのは、マーティン・フリーマン。
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この役者、BBC が製作したテレビシリーズのシャーロック・ホームズ物でワトソン役を演じ、ホームズ役のベネディクト・カンバーバッチとともに大ブレイクしたとのこと。このシリーズは面白いと耳にするが、私は未だに見たことがない。こんな感じ。
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ところが、調べてみてびっくり。ほかにも、あの「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズに属する「ホビット」三部作での主役、ビルボ・バギンズ役を演じていたのだ!! 順番でいうとワトソン役が先で、その演技が認められてこの大作シリーズに出演したということのようだ。もっともこの三部作、映画好きの義務として一応すべて見たが、私はあまり面白いとは思いませんでしたがネ・・・。なるほど、よく見るとこの役者さんですな。
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監督のポール・アンドリュー・ウィリアムズは英国人で、1973年生まれだから若手と言ってもよいだろう。2012年に撮影した「アンコール!!」という映画の評判はよいようだ。なんと、テレンス・スタンプとヴァネッサ・レッドグレイヴという英国の重鎮男女優の共演。もしかすると今後伸びる監督かもしれない。尚、私が鑑賞した回の終映後、製作者のローレンス・ボウエンという人が舞台挨拶に出て来て、この映画についての質問に答えていた。史上有名なこのアイヒマン裁判の放送の裏でこのような苦労をした人たちがいたことを知って、それを描いてみようと思ったが、ドキュメンタリーにしてしまうと見る側も構えてしまうので、劇映画にしたと語っていた。それから、音楽の観点から言うと、現代の交響楽作品としては異例によく知られた、ポーランドのヘンリク・グレツキ (1933 - 2010) の交響曲第 3番「悲歌のシンフォニー」が使われていた点がなるほどという感じ。この曲の第 2楽章は、ナチスの収容所の壁に書かれた言葉を歌詞にしているので、この映画にはふさわしいのである。大変美しい曲である。エンドタイトルによると、この演奏はポーランドのアンソニ・ヴィット指揮によるもの。一方、もともとこの曲が世界で大ヒットしたのは、米国の名指揮者デイヴィッド・ジンマンの指揮とドーン・アップショウの歌唱による CD が人気を博したことにあるのだが、そのジンマンが今年の 11月、NHK 交響楽団でこの曲を採り上げる。貴重な機会になろう。その美しい第 2楽章はこんな曲。
https://www.youtube.com/watch?v=brotY-aMCBE

それにしても、平和な時代に生まれた人間としては、ナチス・ドイツのような極端な時代への真摯な興味はあるものの、もし実際自分がその時代にその場所に生きていたら・・・と考えるのはつらいことだ。人間性に完全に蓋をして、ただ単に組織の命令に(その命令がいかに理不尽だったり非人道的であっても)従って、いわば思考のスイッチを切ったまま生き永らえるなんて、できるものではないと思いたい。だが、これほど極端ではなくとも、どんな社会の組織の中にも、アイヒマン的思考停止型人間はいるはずだ。この映画について、カタルシスはないが決して絶望的なだけでもないと上で書いたが、そのことは、この映画を見る人が、感性と知性を働かせる必要があることを意味する。つまりここで促されているのは、イマジネーションを持つこと。そして思考を巡らせること。日常生活でもその習慣があれば、思考停止型になることはある程度防げるようにも思う。なのでこの映画を見た方は今後、「いかにして思考停止から脱却するか」という点に注意を払われたい。大きな問題に遭遇することは、どんな人にもあるだろう。でも、問題が大きすぎるからと言って思考を停止させては、組織が間違った方向に行くのを手助けすることになる。イマジネーションは何より大切だと思いますよ。サラリーマン社会の戒めでまとめては、ちょっとこの映画の製作者たちに申し訳ありませんが (笑)。

by yokohama7474 | 2016-04-28 00:30 | 映画 | Comments(0)

バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生 (ザック・スナイダー監督 / 原題 : Batman vs Superman : Dawn of Justice)

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他流試合という言葉は、日本独特のものなのであろうか。剣豪の時代ならいざしらず、20世紀に至ってもキングコング対ゴジラからアントニオ猪木対モハメド・アリまで、えっ、この人とこの人が闘うのか、という組み合わせを我々は楽しんできた (・・・ちと例は古いかもしれないが)。両雄並び立たずという言葉もある。クラシック音楽の世界でも、トスカニーニとフルトヴェングラー、カラヤンとチェリビダッケ、アバドとムーティなど、お互いの能力を認めるがゆえに不仲となってしまった指揮者たちがいた。さて、これはそのような流れにある映画、かどうかは見る人の判断として (笑)、いやはや、21世紀も進んで来ると、こんな対決を考える奴が出て来るのである。バットマンとスーパーマンが対決するったって、そんなのどう考えてもスーパーマンが勝つに決まっている。なぜなら、バットマンがいかに武装し、体を鍛えていようと、所詮は生身の人間だ。対するスーパーマンは遠くクリプトン星からやってきた宇宙人。そもそも、一体どういうわけでこの二人のヒーローが闘うことになるのか。これは見に行かないわけにはいかない。

ひとつの期待は、監督がザック・スナイダーであるということだ。「300」が代表作なのかもしれないが、残念ながらそれは見ていない。スーパーマンシリーズの前作「マン・オブ・スティール」は見ているが、まあそれほど印象的でもなかった。私が驚嘆したのは、彼が原案から手掛けた「エンジェル・ウォーズ」という映画 (原題は "Sucker Punch" = 不意打ちという全く違うものだ)。
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日本のオタク文化から想を得ながら、オタクを嫌悪する私にすらズシーンと来るなにかを投げかけた面白い映画である。この監督が採り上げる題材なら、何か筋の通ったものがあるかもしれない。しかも今回の作品、製作総指揮は今や巨匠監督となったクリストファー・ノーラン (バットマンの最近のシリーズを監督している) であると聞くと、これは期待しない方が無理というもの。

この映画のプログラムによると、実はコミックの世界ではバットマンとスーパーマンが「共演」することは多く、遥か 1952年にまで遡るという。そこで興味を持って、そもそもこれらのヒーローが最初に登場したのはいつかと調べてみた。すると、スーパーヒーローの元祖スーパーマンは 1938年に登場、一方のバットマンはその翌年 1939年に初めて発表されたことが分かった。そのイメージは陰と陽。なるほど、両大戦間の平和なアメリカに、この対照的なふたりのヒーローは相次いで登場したことになる。私が知らなかっただけで、コミック誌上での最初の共演から既に半世紀以上。スクリーンでの共演がなかった方が不思議なくらいだ (笑)。これは 1962年のコミック (両方のキャラクターが掲載されていた DC コミックだ)。"World's Finest"、つまり「世界最強」のコンビということだろう。どうやら、偽物スーパーマンが現れる話のようだ。
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ということで期待が大きく膨らんだ状態で劇場に向かったのであるが、うーむ。申し訳ないがこれは一言で言えば失敗作だ。その理由をネタバレしないように説明するのは難しいが、以下の要因が挙げられよう。
・両ヒーローとも社会から非難される事態に陥るが、その必然性が弱い。
・バットマンのスーパーマンに対する思いも、描き方が全然不足している。なんでそこまで???? と、誰しもが思うだろう。
・あー夢だったの繰り返しがしらける。素人の作品じゃないんだから。
・両ヒーローとも、既に周りの人たちに正体がばれている。スーパーマンに向かってクラークと呼んだり、バットマンに向かってブルースと呼んだりするのは反則だと思う。
・両者の対決のシーンからの展開が強引。ただの名前の一致だけで、あんな憎しみが瞬時に消えますか???
・そもそも両者が互角に闘える前提としての鉱物クリプトナイトの効力が弱すぎる。スーパーマンの回復早すぎ。その一方でラストでは効果てきめんで、説得力なし。
・上映時間が長いと思ったら、両者の対決以外に盛り込まれた要素があって、それが完全に余計。あんな再生ができるなら、クリプトン星人が死んでも再生できるはず。
・そして、題名にある「ジャスティス」もまた余計な要素。今後シリーズ化を前提としているのだということ以外に、必然性なし。

まあこんなに突っ込みどころ満載の映画もないだろう。152分の上映時間に客席から沢山のハテナが飛び散っているのが見えた気がする (笑)。

一方、これだけ豪華な役者陣を揃えた映画も珍しいだろう。後で気づいたことには、スーパーマンサイドは、完全に前作「マン・オブ・スティール」を踏襲していて、スーパーマンのヘンリー・カヴィルはもちろん、ロイス・レーン役のエイミー・アダムス、デイリー・プラネットの上司役のローレンス・フィッシュバーン、父親役のケヴィン・コスナー、母親役のダイアン・レインと、すべて同じ。
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驚きは一方のバットマンサイドだ。なんと言っても注目は、初めてバットマンを演じるベン・アフレック。ただ、ここでのバットマンはスーツも重々しげなら、アクションシーンにも切れがないと思う。それはなんらかの監督の意図によるものなのであろうと思うのだが、もしそうであれば、さてベン・アフレックほどの俳優を使う意味があったかどうか。
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それから、私にとっていちばんの驚きは、執事アルフレード役は、なんとなんと、細身の二枚目俳優 (であった?)、ジェレミー・アイアンズだ。いつものマイケル・ケインよりも精悍かつスリムな感じで、鈍重な印象のここでのバットマンとは好対照。これも何か意味があるのか???
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さらにもうひとり、議員の役を演じて久しぶりにスクリーンを飾るホリー・ハンター。あのジェーン・カンピオン監督の「ピアノ・レッスン」は私にとって生涯ベスト・テンに入る名作。随分年をとってしまったが、昔の面影はあるし、キャリアウーマン役がよく似合う。
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まあそれにしてもすごい俳優陣だ。加えて、敵役のジェシー・アイゼンバーグ、謎の美女役のガル・ガドットもよろし。
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とまあ、豪華俳優陣の演じるハテナ映画ということで、きっと将来的には珍品の部類に入ることだろう。ひとつだけトリヴィアネタを書くと、盛装のカクテル・パーティのシーンに流れているのは、ショスタコーヴィチのジャズ組曲第 2番の中の「ワルツ 2」だ。そう、あのキューブリックの遺作、「アイズ・ワイド・シャット」で使われていたあの曲。エンド・タイトルに目を凝らすと、リッカルド・シャイー指揮のコンセルトヘボウ管の演奏であった。
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このシーンだけ見ると、大変素晴らしい映画かと思いますな (笑)。ラストシーンは次回作に続くという意思表示であろうが、さてさて、次回作を作れるだけの興行成績を無事挙げられますかね。見ものです。

by yokohama7474 | 2016-04-19 00:06 | 映画 | Comments(0)

のぞきめ (三木康一郎監督)

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飲み会もなく、業務過多でもない平日。終業後何か映画でも見ようかなと調べてみると、見たい見たいと思っている「バットマン vs スーパーマン」がちょうどよい時刻に IMAX 3D で上映されている。うーんしかし、上映時間が 3時間近い。ちょっと長いなぁと思ってほかを探してみて、目に留まったのがこの映画だ。元 AKB48 の板野友美主演のホラー。なるほど、「のぞきめ」ということは、何か珍しい魚の種類ではなく、覗いている目のことだな (って、当たり前だ)。なかなか怖そうだし、ひらがなの題名もなかなかよろしいではないか。邦画のホラーと言えば、先般公開された「劇場霊」を見逃した。ホラー好きとしては大変残念なことをした。この映画、まだ封切からわずか 4日目であるが、いつまで上映しているか分からない。というわけで、これを見ることとした。たおやかなイタリア・ルネサンス絵画や江戸時代の肉筆浮世絵や、はたまたフランスオペラについて語ると同時に、日本のホラー映画についても同様に語らずにはいられないのが、私の性なのである (笑)。

実は上のポスターの上部には、デカデカと宣伝文句が書いてあったのだが、あまりに禍々しいので勝手にそこを外してトリミングしてしまいました。関係者の方には申し訳ないが、でも、あらゆる人たちが見るブログにおいては、ちょっと適当でないと思ったのである。・・・などと書くと、何が書いてあったのか余計気になってしまいますね (笑)。この映画、身近に存在しているあらゆる隙間から不気味な目玉に覗かれると、その人間は呪い殺されてしまうという設定で、まあそんなようなことがコピーとして書いてあったのだ。おっと、こわ。
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私は別に AKB ファンでもないし、「ともちん」という愛称以外に板野友美について知っていることは何もないが、普通っぽい顔が多いメンバーの中では目立つ派手な顔だちだなぁと前から思っていたので、ホラー映画で恐怖に歪むにはなかな適性ある顔 (|д゚) なのではないかとの期待があった。彼女は今回が初主演映画。そういえば、前田敦子の初主演映画も「クロユリ団地」というホラーだった (もちろん劇場で見た)。さて、期待通りというべきか、この映画にはこんな感じのシーンが何度か。
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ただ。ただである。やはり演技力ということになると、うーん。まだまだ成長の余地ありということで、ここはさっと流してしまおう (笑)。さりげなさがいい味を出しているシーンがあったことは認めましょう。この映画の、特に後半ではその点がいい効果を出していたと思う。では、この映画がそんなに怖いかというと、さあどうだろう。結構早い段階で化け物の正体が分かるので、その点では得体の知れない恐怖は少ない。もちろん、出るぞ出るぞという雰囲気の箇所は、音響効果も定石通りという感じで、それなりに楽しめる、いや怖がれると言ってもよいだろう。だが、まあその点は、ホラー映画を作るに当たってもさほど難しいことではないだろう。私としては、もう少し登場人物に感情移入できる描き方がされていれば、さらに何か強いインパクトがあったのではないだろうかと思うのだ。映像として私が納得できなかったのは、主人公が恋人のアパートを訪れる幾つかのシーンで、なぜかライティングがほとんど施されていなかったこと。昼のシーンは自然光で撮っているようだったし、深夜のシーンも天井の灯りを消したままで展開した。何か意図があるのかもしれないが、全体として平板な情景になってしまった。ホラーは人間の感情の敏感なところに触れる分野。映像を通じて人間の情がしっかり描かれないと、恐怖そのものが活き活きと伝わってこない。

内容について全く予備知識なしにこの映画を見たわけであるが、上映前にプログラムを見て、原作が三津田 信三 (みつだ しんぞう) であることを知った。以前私は彼の「山魔の如き嗤うもの」という小説を読んだことがあって、なかなか怖かった記憶がある。そしてこの映画を見てみると、なるほどイメージには通じるところがある。映画の題材は日本の田舎に残る古い伝説であり、そのもととなった悲劇なのである(設定自体はもちろんフィクションだが)。こんな舞台挨拶の写真なら大してネタバレにはならないだろう。この目玉ギョロリの少女のキャラクターは、まあそうですな、うまく描けば情念の恐ろしさを喚起したかもしれないが・・・。ユルキャラになってしまってはどうにも締まらない。
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もっとも、気の利いた展開もあるにはあって、特に、主人公の恋人がどのように人生の活路を開くかという点に、ちょっとニヤリとする。それからラストシーンも、ちゃんと途中のセリフの中に伏線がある。決して膝をポンと打つほど鮮やかなラストとは思わないが、なるほどそう来たかという感じ。

ほかの出演者はほとんど知らない人たちばかりだが、ちょっとだけ出ているつぶやきシローが、化け物より怖い (笑)。それから、こんな役者も。
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吉田鋼太郎。テレビでの活躍はあまり知らないが、昨年 9月に記事を書いた蜷川幸雄演出の「マクベス」での演技が素晴らしかった。ただここでは正直、素晴らしい演技というには若干躊躇するものがある。冷やかしでホラーに出ていると断じる気はないが、キャラクター自体がちょっと中途半端な気がする。彼の最後の登場シーンはどういう意味なのか。主人公の運命を知っているということなのだろうか。そのあたりの腑に落ちない感じが、吉田の演技にも影響しているような気がするが、いかがだろうか。

それからもうひとつ気になった点。この映画では登場人物が電話をするとき、必ず右手にスマホを持っている (板野の数度のシーンに加え、東ちづるも) これは何か意味があるのだろうか。いや、実は従前から、電車の中で流れているテレビ CM で、なぜか役者が右手で電話をしているのを見て、不思議な気がしていた。もしかすると、スマホの場合は、右利きの人でも右手で通話をするのが世の中の常識で、私がそれを知らないだけなのか?! 終映後、私のほかに 6人しかいない観客の退場を何気なく見ながら、ふとそのことを思い、今見たばかりの映画よりも、ゾッとしましたよ (笑)。

by yokohama7474 | 2016-04-06 00:38 | 映画 | Comments(0)

マネー・ショート 華麗なる大逆転 (アダム・マッケイ監督 / 原題 : The Big Short)

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最近は見たいと思った映画を何本も見逃してしまって残念な思いをしていたが、おっと、1ヶ月ほど前に封切られたこの映画。調べてみるとまだ劇場にかかっているではないか。クリスチャン・ベールとかブラピも出演しているとなると、見ないわけにはいかんでしょう。しかも、何やらリーマン・ショックの裏を書いて大逆転した輩どもの痛快ストーリーであるらしい。このブログでは私個人のことを書くことは極力避けているが、何を隠そう、私も金融マンのはしくれ。どんな痛快ストーリーであるか、ちょいと見届けてやろう。監督のアダム・マッケイはコメディを多く手掛けてきた人らしいし、きっとゲラゲラ笑って胸のスカッとする映画に仕上がっているのではないか。
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まず、予備知識のない方々のために念のため、この映画の題名だが、「お金、短い」ではありません (笑)。この場合のショートは、英語の意味は「不足している」ということだが、この映画のキーとなっている「空売り」のこと (従って原題の Big Short とは、「大規模な空売り」という、そのものズバリの題名だ)。しかるべき担保の提供のもと、自分が持っていないポジションを売って将来買い戻すという約束のことで、リスクは大きいが、相場が下がったときに買い戻せば利益が出るということになる。この映画の内容は、全世界を震撼せしめたサブ・プライム問題とその結果としてのリーマン・ショックの裏で、その事態を見越した空売りによって、ウォール街の巨大金融機関を相手に立ち回った 4人の男たち (プラスアルファ) が描かれている。

見終わったあとの感想だが、いやー、痛快どころの話ではない。なんとも深刻な映画なのだ。これは言ってみれば、最近の米国の戦争を生々しく描いた「ゼロ・ダーク・サーティ」や「アメリカン・スナイパー」と同様の分類に属する映画と言ってしまってもよいだろう。登場人物の一部も組織も、多くの実名が使われていて、画面に頻繁に登場するあれこれの主要金融機関のロゴもすべて本物だ。当然当事者の許可あってのことであろうが、その描き方に少しでも行き過ぎがあればすぐに訴えられてしまう世界だ。最新の注意が払われているのであろう。その意味でこの映画は疑似ドキュメンタリーになっていて、明らかにアフレコではなく撮影場所で音声を拾っている箇所や、手持ちカメラが激しく揺れる画面などがあちこちにあり、あえて言えば、プロフェッショナルな映画技術をあまり感じさせないような仕上がりである。登場人物が鑑賞者にそのまま語りかける場面も多い。映画をストーリーではなく映像と音声 / 音響のアマルガムとして鑑賞する私にとっては、この作り方はかなり苦痛。いやそれ以上に、このストーリーの意味する現代社会の深刻な様相に、なんとも憂鬱な気分になったのである。痛快ストーリーだろうと思って劇場に行ったので、なおさらである。

こういうことを書いてしまうと身も蓋もないが、個々人が金を欲しいという素朴な欲求は健全なものであれ、その積み重なりである資本主義の行きつくところ、もはや肥大化して全体像の見えない醜い欲望の塊がうごめいている。世界の中で米国だけが、あるいはさらにニューヨークだけが突出していると言えようが、そのような資本主義の発達が人間にとって幸せなことであるのかどうなのか、この疑似ドキュメンタリーは容赦なく問いかける。それが私の感じた憂鬱の原因なのだ。我ながらあまりに素直な感想だと思うが (笑)、本当だから仕方ない。

このブログは世界経済とか資本主義についての意見を開示する場ではないので (自分の経験から、少しそういうことを語りたい誘惑もあるものの 笑)、話題を変えると、ここで登場する 4人の主要キャラクターの描き方はそれぞれにユニークで、よくできている。特に、ロック好きのファンドマネージャーを演じるクリスチャン・ベール。
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ある種の自閉症であろうが、数字に対するこだわりやその実行力には並々ならぬものがあるというエキセントリックな役柄で、同じ「実業家」と言っても、バットマン・シリーズのブルース・ウェイン役とは大違いの演技である。実にリアリティがあって、見ているものを圧倒する。演技の幅に脱帽だ。

それから、もとバンカーだが現在では個人でブローカーを営むという役柄のブラッド・ピット。
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若い二人組を助ける役柄で、このようにひげを蓄えた物静かな男。登場場面はそれほど多くないが、その抑えた演技が、金融の世界で起こっている救いようのない事態の深刻さを、逆に実感させる。

もうひとり、躁鬱気味で、兄を自殺で失うという悲劇の記憶にとらわれ、周りの顰蹙を買う多動な人物でありながら、その一方で意外なほどの正義感の強さを持つファンド・マネージャーを演じるスティーヴ・カレルが面白かった。このような人物は存在すると思う。彼の行っていることは、周りの人たちにとって迷惑なことなのか、あるいは大いに意味のあることなのか。単純な割り切りでは済まない矛盾を抱えた現代の人間像だ。
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こうなると残りのひとりも紹介せねば (笑)。本作で語り役を務める銀行家役のライアン・ゴズリング。ウォール街の匂いがプンプンという役柄で、ちょっと憎たらしい人物像であるが、このように見てくると、主要キャラクターのバランスという点で、よく考えられていると思う。
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繰り返しだが、実話に基づくこのような物語を、たかだか数年後に映画にしてしまう米国は、本当に侮れない国である。日本にいてこの映画を見る我々は、さて一体これを対岸の火事として見るのか、自分たちもその一部をなしている現代世界の問題として見るのか。答えは見る人によって違ってこよう。だが、目をそむけたくなる戦争の真実を知るのと同様、金融の真実を知ることも、意味のあることではないか。まあでも、もうちょっと痛快ストーリーにしてくれた方がよかったなぁ・・・。なんとも憂鬱な気分に沈む私でありました。


by yokohama7474 | 2016-04-03 12:11 | 映画 | Comments(2)

Mr. ホームズ 名探偵最後の事件 (ビル・コンドン監督 / 原題 : Mr. Holmes)

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誰もが知る名探偵、シャーロック・ホームズ。英国の作家サー・アーサー・コナン・ドイル (1859 - 1930) が生み出したこのキャラクターは、21世紀の今日に至るも大人気で、ガイ・リッチーがロバート・ダウニーJr.とジュード・ロウを起用したシリーズがあるし、また最近、あの怪優ベネディクト・カンバーバッチ主演のテレビシリーズの映画化 (見たかったのに、気が付いたら上映終了していた!) もあった。そんな中で本作はかなりの異色作と言えるだろう。93歳になり、養蜂を趣味として田舎で引退生活を送るホームズ。彼が (ドイルのオリジナルシリーズには存在しない) 未解決の最後の事件を抱えており、そのトラウマに苦しんでいるという設定。普通ホームズと言えばロンドン、ベーカー街にある架空の住居にあるこの表示のように、鹿撃ち帽にパイプというイメージで知られる。
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ところがこの映画ではそれはワトソンの創作で、パイプは吸わないし、出かけるときは上のポスターのようにシルクハットをかぶっているという設定。この映画の原作は 2005年に出版されたミッチ・カリンという作家によるもの。従来にはない新たなホームズ像を描こうとしているようだ。

ここで主役のホームズを演じるのは、英国の名優、サー・イアン・マッケラン。今年 77歳になるベテランだが、一般的にはなんと言っても、「X-Men」シリーズのマグニートー役と、「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズのガンダルフ役でよく知られた顔だ。
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私はこの役者さんの顔がなんとも好きだし、ホームズ物も好き (熱狂的シャーロッキアンというわけではないが) なので、これは是非見たいと思って劇場に出掛けたものであった。だが残念なことに、映画の出来自体には少しばかり失望した。まず、従来と違うホームズ像を描き出すには、なるほどその設定は面白いねと思わせる何かがないといけないと思うのだが、さて、その点はどうだろう。要するに、主人公がホームズである必要があるかという疑問にどう答えるかということ。私には結局その疑問は解けずに終わってしまった。超人的推理能力は、93歳であろうと 103歳であろうと、ホームズならもっとあるはずだ。ラスト近く、傷ついた少年の母の批判をおさえつける推理というのが出てくるが、「えっ、それですか」と言いたくなるほどあっけないものだ。それから、この作品では日本とのかかわりが出てくるが、その必然性もあまり感じない。終戦直後の広島などという、かなり大胆なシーンもあるのであるが、さて、そこまで極端な設定が果たして必要であったか。エンドタイトルを見ると、実際に日本で撮影したシーンもあるようで、日本人スタッフの名前も多くあったが、ここで描かれている日本には、音楽の使い方を含めてリアリティがない。もちろん映画であるから、別に本当の日本を描く必要があるとも思わない。問題は、その描き方が映画の中でどこまで必然性があるかということなのだ。日本人であるべき登場人物の何人かが、どこからどう見てもほかのアジア人であるのはご愛嬌として (予算の問題もあるだろうから)、なぜにホームズが日本に来る必要があって、また日本がホームズにとってどういう意味があるのか、この映画からひしひしと感じられるものは何もない。因みに、原作者ミッチ・カリンは日本に住んでいたこともあるらしく、そうであれば、この作品における日本の描き方に違和感を感じたのではないだろうか。また、日本の俳優としては真田広之が頑張っているが、いつものことながら、「英語を喋る日本人 = 異文化に属してその異文化を体現するが、一応言葉でコミュニケーションできる人」という設定であって、ある意味で特殊な役であると言うしかない。
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この映画で真に見るべき演技は、家政婦の息子でホームズを慕う少年ロジャー役を演じたマイロ・パーカーであろう。
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2002年生まれながら、これが 3本目の出演映画で、次回作はなんとティム・バートンの新作であるそうな。決して美形ではなく、むしろ癖の強い顔立ちだが、自分がその場面でどのような感情を演じるべきかをよく分かっているようだ。映画のプログラムにインタビューが載っていて、そのコメントが面白い。

QUOTE

ロジャーとホームズは時々言い合いになるけど、二人は本当に親友だと言えると思う。僕が好きなのは、二人の友情の育み方。映画のはじめの方ではホームズはロジャーを煙たがっているけど、映画を通して絆ができていって、最後には親友になる。それがすごくいい。

UNQUOTE

撮影当時 13歳の少年の言葉と思えるだろうか。日本語では 10代の少年はこういうモノの言い方はしないだろう。それこそ日本と英国の文化の違いということだろうか。

誤解ないように申し添えると、カイル・マッケランの演技自体に不満があるわけではない。60代の回想シーンのホームズと、90代のホームズとの演じ分けもさすがであり、彼ならではの独特のユーモアも漂っていて、それは見る価値があるだろう。
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監督のビル・コンドンはアメリカ人で、同じイアン・マッケラン主演の「ゴッド・アンド・モンスター」(古典的ホラー映画「フランケンシュタイン」を監督したジェームズ・ホエールの生涯を描いた 1998年の映画) で脚本・監督を担当してアカデミー脚本賞を受賞。ほかにも、ビヨンセが出演した「ドリームガールズ」などの監督作がある。今回の作品はそれなりに丁寧な作りであるとは思うが、上に書いたような設定のそもそも論においては、残念ながら演出で脚本の欠点をカバーとまでは行っていないように思う。

最近では昔ながらのキャラクターを再利用するケースが増えていて、それだけ新しいキャラクターの創造にはリスクが伴うということだと思うが、作り手には、そのキャラクターが従来持っているイメージとどのように対峙するかを真剣に考える態度が求められる。なるほどこれならキャラクター流用の意味があるな!! と思える映画に出会うことを期待したい。

by yokohama7474 | 2016-03-31 22:58 | 映画 | Comments(0)

ヘイトフル・エイト (クエンティン・タランティーノ監督 / 原題 : The Hateful Eight)

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最近映画を見る機会がなく、コンサートについての記事を中心に書いてきた。私のブログは評論を主目的にしているわけではなく、文化芸術にあまり馴染みのない人でもそれなりに楽しんでもらえるようには書いているつもりであるが、やはりクラシック音楽の記事は、知識が全くない人に読んでもらうには限界があるようだ。愛読して頂いている知人からも、「映画の記事書かないんですか? ボクはコンサートのことは分からないので・・・」という婉曲的な非難の言葉 (?) を受けていたこともあり、映画か、あるいは美術のネタをそろそろ書かないと・・・と、私としても若干焦りを覚えていたのである。だが出張だったり仕事がバタバタしていたり、飲み会でしこたま酔っぱらったりして、なかなか映画を見る機会がなく、その間に見たいと思っていた映画の数本は既に上映を終了してしまった。だが、調べてみると、なんとおぉ、あのクエンティン・タランティーノの新作を上映しているではないか。しかも上記のポスターを見ると、これは面白そうではないか。と思って出かけたのがこの映画。上演時間実に 168分という大作である。タランティーノの映画は大好きだが、なにせ必ず血が盛大に出るので、体調の悪いときにはどうも気が進まないのだが、今回はこの長丁場を飽きることなく見通して、大変面白かった。
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今や押しも押されぬ大監督となったタランティーノだが、何本の映画を監督したかというと、実は未だにわずか 7本なのだ (公開が 2本に分かれた「キル・ビル」は 1本と数える。因みに私はそのうち、海外在住だったときとその前後に公開された「デス・プルーフ in グラインドハウス」と「イングロリアス・バスターズ」の 2本は見ていない)。そしてこの映画、冒頭のタイトルに、"the 8th film by Quentin Tarantino" と出る。そこで、なるほどこの題名の 8は、8本目という意味もあるのだなと分かるわけである。題名は「憎むべき 8人」という意味であるが、やはりこの邦題は、原題のカタカナで正解だろう。ヘイトとエイトの語呂がよいし、劇中に冗談でフランス語が出て来るので、H を発音しないフランス語では、ヘイトフルはエイトフルになるわけで、そうなると頭韻を踏んでいるというわけだ。

この映画は、今時珍しいワイドスクリーン用の 70mm フィルムでの撮影ということで、費用もかかっていると思うが、冒頭の雪景色など、本当に鮮やかかつ奥深い発色であると思う。下の写真のような屋外のキリスト磔刑像からカメラが引いて行って雪景色に移って行くのだが、私はいきなりこのシーンに胸が締め付けられた。この積もった雪 (しかも、この写真では分からないが、頭の上と、折り曲げた足の上では積もり方が違っていて非常にリアル) には、確実に雪の重さが感じられる。これから描かれる人間世界の業の重さを予感する。
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時代設定は 19世紀アメリカ。南北戦争直後だ。2人の客を乗せた馬車が、サミュエル・L・ジャクソン演じるバウンティー・ハンター (賞金稼ぎ) を乗せるところから物語は始まる。
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面白いのは、そのバウンティー・ハンターが運んでいるお尋ね者数名の死体は、結局馬車の上に乗せて運ばれるのだが、馬車がコテージに到着するまでのシーンでは、映る度に位置がずれたり雪が積もったり、手足が乱れたりして、事細かに移動時間の推移を示すのである。各シーンへのタランティーノのこだわりがはっきりと見て取れる。そして、馬車がコテージ、「ミニーの紳士服飾店」に到着してからは、いよいよ密室劇となるのであるが、このコテージはこんな感じ。これが猛吹雪に閉ざされると、まさに完璧な密室になるのだ。
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実はこの映画の美術を担当しているのは日本人だ。種田陽平という人で、学生時代から寺山修司の映画に参加、岩井俊二の「スワロウテイル」や、このタランティーノの「キル・ビル」を過去に担当している。彼の描いたコテージのスケッチは以下の通りだが、うーむ、この手の込んだ密室劇の美術とは、相当大変だったことは容易に想像できる。
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ここでは雪に閉ざされた中、一癖も二癖もある人々が題名通り 8人で人間模様を繰り広げるのだが、ちょっと待った。実は私が映画の途中で数えてみたところ、コテージ内にいるのは 9人ではないか!! そして、詳細はネタバレになるので避けるが、もう 1人を含めた 10人がここでは出てくる (うーん、説明しにくいが、時差をもってあと数人も)。なので、ここでタランティーノが 8という数字を使ったのは、上のポスターにある通り、「全員ウソつき」ということだろう。そう、含むアンタだよ、クエンティン!!

映画マニアのタランティーノのこと、いくつか手の込んだ設定をしているようだ。例えば、この作品がオマージュを捧げているのは、あのジョン・カーペンター監督「遊星からの物体 X」なのだ。原題 "The Thing" と言って、もともと昔の RKO 映画の「遊星よりの物体 X」のリメイクであるが、雪と氷に閉ざされた南極基地で宇宙からやって来た寄生生物が人間になりすましているところ、誰がそうなのか分からずに疑心暗鬼に陥るというストーリー。私にとっては未だに、生涯ベスト 10とは言わないまでも、ベスト 20だったら、そのときの気分によっては (?) 入るのではないかと思われるくらい、好きな映画である。その主演はカート・ラッセル。1982年当時、こんな感じだった。
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そして彼は、約 35年を経てこの「ヘイトフル・エイト」の主要人物、「首吊り人」ジョン・ルースを演じている。確かに同じ人物ですなぁ。
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それから、「遊星からの物体 X」と本作のもうひとつの共通点は、これはなかなかの驚きだが、音楽があのエンニオ・モリコーネなのだ。
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なんとなく、「ニュー・シネマ・パラダイス」「海の上のピアニスト」という感動路線の映画音楽作曲家のように思ってしまいがちだが、もともとマカロニ・ウェスタンに音楽をつけていて、暴力シーンとも縁が深い (?)。代表作のひとつ「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」は、名曲「アマポーラ」など、甘く切ないメロディに彩られていたが、そのマカロニ・ウェスタンの盟友、セルジオ・レオーネの作品であった。その彼が、実はこの「ヘイトフル・エイト」で今年のアカデミー作曲賞を受賞しているのだ!! エンド・タイトル (CG を使っていないせいか、昨今の映画にしては大変短い) に目を凝らすと、音楽として「エクソシスト 2」と件の「遊星からの物体 X」が触れられている。これはなんなのかと思って調べると、前者は、そのものズバリの「リーガン (悪魔に憑りつかれた少女の名前だ) のテーマ」がこの映画の冒頭に使われており、後者は、モリコーネが作曲したが映画の中では使われなかった曲をここで使用しているそうな。この点も、タランティーノのこだわりが炸裂だ (笑)。

さて、密室劇そのものの内容はいかがかというと、ネタが分かって驚天動地というよりは、それぞれのシーンの見せ方に感心する出来と言ってもよいだろう。凝ったライティングで、机の上だけ光っていたり、手前の人物がギターを弾いていて、後ろで場面が展開するときに、数分の一秒から数秒ごとに手前と奥でピントが移動したりする。上述の美術の凝り方と併せて、随所に人間の心理に訴える要素が満載で、トリック云々の前に、観客を密室劇に取り込んで行く周到さがすごい。そして、劇の展開自体がなかなか読めず、トリックで見せるのではなく心理劇 (血しぶきの中の!) として優れた作品になっている。

まあそれにしても、サミュエル・L・ジャクソンがここでも怪演である。冷酷で、自分で自分の身を守るための厳しさを持ち、処世術と悪知恵と推理力を操る策略家でありながら、姑息で、愉快なことが大好きで、実は隙のある点がどこか憎めない。そのような複雑な人物像をこれだけ演じられる役者が、そうそういるとは思えない。
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もうひとりスゴかったのが、女悪党を演じる、ジェニファー・ジェイソン・リー。よく知らない女優だが、最初からこのような痣つきで出てくる。それから、そりゃもうひどいことになって、クライマックスでは顔じゅう血だらけというかなんというか、とにかくすごいことになり、それはもう壮絶だ。女優魂とはこのようなことを言うのであろう (笑)。
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それから、あー、これは言っていいのかなぁ。もし丁寧に映画を見る方は、オープニングタイトルで役者の名前がずらずら出る最後に、最近人気上昇中の俳優の名前が出てくるのに気づくだろう。でも不思議なことに、映画のプログラムを見ても、全然彼の名前が出てこないのだ。そんなに隠すことないもと思うし、ネットで調べればいくらでも情報が出ているが、まあストーリー上、彼の出演が大々的に宣伝されていない理由はあるにはあるので (冒頭のポスターには写真が入っていない)、ここではもったいぶって、その俳優の写真だけ掲載しておこう。米国の大衆誌「ピープル」で2012年に「最もセクシーな男」に選ばれた人。ここでも印象的な演技をしているし、将来有望な役者だと思います。
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そんなわけで、鮮血ほとばしるタランティーノ・ワールドはますます広がりを見せている。彼は 10本作品を撮ったら引退すると言っているとどこかで読んだが、そんなもったいないことをせず、まだまだ血しぶきの中の人間の真実を追求して行ってもらいたい。

by yokohama7474 | 2016-03-17 00:08 | 映画 | Comments(0)

オデッセイ (リドリー・スコット監督 / 原題 : The Martian)

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最近 TOHO シネマズに行くと、MX4D という表示をよく目にするのみならず、劇場の予告編で、LiLiCo とかいうちょっと賑やかな女性が「スゴかったー」などと言いながら喜んでいる宣伝が流れ、一体どういうものか見てみたくなった。そこで選んだのがこの映画。3D メガネ持参でも通常の鑑賞料金よりも 1,500円を余分に払い、好奇心いっぱいで劇場に向かったのである。劇場では、身長 100cm以下の子供は入れないとか、地面にモノを置けないのでカバンはロッカーに預けて下さいとか、鑑賞中に椅子が揺れて飲み物がこぼれるかもしれないから注意して下さいとか、なにやら物々しい。実際に経験してみると、要するに画面に合わせて (?) 椅子は揺れるわ、ライトは目を射るわ、風は吹くわ、匂いはするわ、煙は出るわ、マッサージマシンのように背中をグイグイ押されるわで、見終わったらちょっと船酔いに近い状態になってしまった。ただ、私の持論からすると、これは映画を見る際の本質的な鑑賞態度とは縁のないアトラクションで、場合によっては煩わしいことこの上ない。例えば、映画の本筋と全然関係ない、脇役が滑って転ぶようなシーンで椅子が振動すると、見ている方はドキッとするが、さて、映画の作り手はそのような反応を望んでいるだろうか。そもそも、どのシーンでどのような効果を出すかについて、監督の了解を取っているのであろうか。そうでないとすると、ちょっと問題ではないだろうか・・・。まあ別に肩肘張るつもりはないが、この MX4D があるから人々が映画を見たいと思うかというと、多分そうではないであろう。そういえば私が子供の頃、「大地震」という映画があって、劇場が振動するということで話題になった記憶がある。テーマ曲のレコードも持っていた。今調べてみると (便利な時代になったものです)、「センサラウンド」という音響システムで、低周波の音波で観客に振動の感覚を与えるものだったらしい。だからこの MX4D とは根本的に異なっている。この設備を劇場に据え付けるのにいくらかかるのか知らないが、さて、そのコストを回収するところまで人々の興味を引き続けるか否か。

というわけで、映画自体について語ろう。まずはタイトルだが、オデッセイとは Odyssey、つまり、ホメロスの叙事詩から転じて、長い旅程を意味するあの言葉であろう (有名なところでは、「2001年宇宙の旅」は "2001 A Space Odyssey" である)。しかし、原題は、"The Martian"、つまり「火星人」である。しかも a ではなく the がついているということは、「あの」火星人、つまり、劇中で火星に取り残されたマット・デイモン演じるマーク・ワトニーその人のことを差しているのであろう。
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だがしかし、邦題を「火星人」にすると、「マーズ・アタック」のような映画と勘違いされるかもしれない (笑)。なのでこの「オデッセイ」という邦題にも苦労が偲ばれるが、でも内容を見ると決してよい題名とは思われない。なぜなら、オデッセイという言葉にふさわしいのは、長い試練の旅路であるところ、確かに彼の救出の際の長い旅路は描かれるものの、この映画の本質は、旅路以前に、遠い火星に一人取り残された男の、まさにその火星におけるサバイバル劇であるからだ。原作の小説は「火星の人」という題になっているようだが、そのままでもよかったのではないだろうか。
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なんでもこの映画の原作はネット上で発表された小説で、作者のアンディ・ウィアーは、もともとプログラマーだそうだ。この映画でリアルに描かれている通り、この小説では、火星に一人取り残された男のサバイバルとその救出劇を、あたかもドキュメンタリーのように詳細に描写したことが受け、それがハリウッドの目にとまったものであるらしい。この時代になると、主人公がサバイバルすべき場所は、どこかの未開の土地とか戦争が行われている場所ではなく、生命そのものがほとんど存在しない、隣の惑星なのである。実際この映画では、細部に至る隅々までが大変リアルに描かれていて、これは最近本当にあった話なのではないかと錯覚しそうになるくらいだ。まあそれにしても、主人公の生存能力は大したもので、手元にあるものを活用して植物を育て、水を作り、通信手段を発見し、メッセージを伝える方法を発展させ、移動手段を考案し、火星脱出のために乗り物に加工をし、そして最後には仲間のもとへと帰るために、宇宙空間で大きな賭けに出るのである。いや実際、優れた人物が窮地に追い込まれたとき、このような才覚と努力で道を切り拓いて行くことは人類の歴史でも繰り返されて来たことであると思う。そう考えると、ひょっとしてこの映画のメッセージは、火星に生物がいて (要するに火星人 = Martian だ)、彼らが何もないところから工夫して地球に辿り着くこともありうる、つまり、人類の勇気と叡智が、火星人にも影響を及ぼすこともありうる、ということなのかもしれない。そうすると続編は、マーク・ワトニーのサバイバルを真似た火星人たちが大量に地球にやって来るという展開なのかも・・・ちょっと違うか (笑)。これは火星でジャガイモの栽培に成功したワトニー。
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だが、この映画のリアリティは、実は適度な誇張によって成立している部分がある。例えば、ワトニーがジャガイモを育てるには、人の排泄物を肥料として使うのであるが、そのシーンでマット・デイモンは、両方の鼻の穴に詰め物をしている。これは、極限的な状況において発現する意外なユーモアと解してもよいが、私の見るところ、映画的誇張である。つまり、音を遮るなら耳栓は大いに意味があるが、臭いから鼻に栓をするという事態があるだろうか。音は物理的反応だが匂いは化学的反応である。そして鼻と口はつながっていて、呼吸に必要な器官である。だから、臭いときに人はどうするかというと、息を止めるのであって、それが最も有効的な手段だ。でも、画面上で登場人物が鼻に栓をしていると、なんとなくそれらしく見えるのである。さすが熟練のリドリー・スコット監督だ。あ、それから、ワトニーが自分で手術するシーンが出てくるが、この監督の「プロメテウス」の同様シーンのエグさを思うと、随分とかわいいものだ (笑)。

それから面白いのは、この究極のサバイバル劇においても、ワトニーとその仲間たちとの交信では、下品なまでのユーモアが常に存在していることだ。もちろん人にもよるが、確かに欧米人のユーモアの感覚は日本人とは異なっていて、危機的な状況を笑い飛ばす勇気には、見習うべきところがあると思う。なので私はビジネスの場では、なるべく下品なユーモアで外人に対抗すべく心掛けているのだ (笑)。これがワトニーと同僚のクルーたちだが、左から二番目、船長のルイスを演じるジェシカ・ジャスティン。先般も「クリムゾン・ピーク」での彼女の演技に触れたが、その映画よりも、やはり「ゼロ・ダーク・サーティ」とかこの映画のような精悍な役がよく合っている。
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このように興味深い点はいろいろある映画だが、全体としての出来は、うーん、実はそれほど素晴らしいとは正直思わない。それはやはり、数年前に公開された「ゼロ・グラビティ」(原題は "Gravity" で、Zero がつかないこちらの題の方がずっといい) と比較するからだろう。あの映画では、本当に地球の有難さ、つまりは重力の有難さが最後にぐぐーっと来たもので、それには、ジョージ・クルーニーの演じた役のような、やはり極限でもユーモアを忘れない、でも広大な宇宙の彼方に消えていってしまう存在が欠かせない。どんなに能力の高い人間も、宇宙の中では一個のチリに過ぎないという冷徹な事実が描かれていたからこそ、サンドラ・ブロックの最後の生還が感動的であったのだ。人間は希望を持つ生き物なので、そのような高い能力の人間は、実は宇宙空間でも生き残ってまた宇宙船に帰ってくると考えたいが、もちろん現実にはそんなことは起こりはしないのだ。でもそれだからこそ、生き残った生命がいとおしいのだ。それに比べるとこの映画は、大いなる知恵とちょっとの勇気があれば、宇宙の中でも人間の存在意義があるという描かれ方になっていて、ちょっときれいごとのような気がするのである。

この映画の監督、リドリー・スコットは既に 78歳。イギリス人で、サーの称号までもらっている。私としては、初期の「エイリアン」「ブレードランナー」が忘れられないので、やはり今でもかなり頻繁に公開される新作は、毎回どうしても見たいと思うのだが、本当に内容の良し悪しは、作品によって大きく違っている。近作の「悪の法則」も「エクソダス : 神と王」も、がっかりな内容であった。それらに比べればこの作品はまだ楽しめた方だが、上記の初期の 2作や、あるいは「ブラックレイン」「ハンニバル」のような独特の耽美性からは程遠く、いい年して、相変わらず作風の定まらない監督だ (笑)。しかしまあ、フィルモグラフィに一作でも素晴らしい作品があれば、常にその監督への興味は存在するもの。リドリー・スコットのオデッセイ、まだまだ続いて行くことであろう。
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by yokohama7474 | 2016-02-24 00:23 | 映画 | Comments(0)