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ジャングル・ブック (ジョン・ファヴロー監督 / 原題 : The Jungle Book)

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「ジャングル・ブック」と言えばディズニーの古いアニメが有名であるが、この映画は、同じディズニーによる最新の実写版。この映画の予告編を見たとき、先端CG技術を駆使した映像に、きっと何か新しい発見があるに違いないと興味を持った。昔のアニメは見ていないが、ここで描かれる野生の少年と動物たちの交流や対立は、普段忘れていることを思い出させてくれるに違いない。

この「ジャングル・ブック」の同名の原作は、英国の作家ラドヤード・キプリングが1894年に発表した短編小説集である。私はこの作家の名前を覚えていて、それはなぜというに、昔サイモン・ラトルが、確か当時の手兵であるバーミンガム市交響楽団との演奏会で、シャルル・ケクランというフランスの作曲家による交響詩「ジャングル・ブック」という作品を演奏したFM放送を聴いた際に、原作者の名前を聞いたからである。要するに「キプリング」に「ケクラン」という似たような響きが耳に残ったというわけなのであるが、調べてみると実はこのキプリング、1907年に41歳でノーベル文学賞を、史上最年少かつ英国人としては初めて受賞したという大作家なのである。生まれはインドのムンバイで、この「ジャングル・ブック」が書かれた背景はそのような点にもあるのであろう。見る人にはすぐに分かることだが、この映画におけるジャングルでは、ライオンではなくトラが王者なのであって、アフリカではなくインドのジャングルが舞台なのである。

ストーリーは至って簡単。ジャングルの中でクロヒョウに見つけられ、狼に育てられた人間の子供モーグリが、人間世界に戻るべきか否かで迷いながら、自分をつけ狙う敵と戦うという話。
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だからこの映画に登場する人間は、このモーグリ少年だけなのである。だが、ほとんどの動物は言葉を喋り、感情も個性もある。非現実的な設定ではあるものの、これが大人も楽しめるエンターテインメントとして成立しているのは、それら動物たちの「人間的な」(?)感情の描写と、それを可能にしている高度なCG技術のおかげである。要するにCGというものは手段にしか過ぎないので、それを使っていかなる世界を描けるかが映画の成否を分けるところ、この映画の作り手はその点においてかなりの手腕を持っており、「へぇー、どうやってこの映像を作るんだろう」という驚きはいつしか、主人公たちへの感情移入へと変わって行くのである。なかなかよい映画だと思う。

主役のモーグリは、全く演技経験のない2003年生まれのニール・セディという少年が2,000人の候補者の中から選ばれて演じた。走り方や飛び方はなかなかに野性的で、ごく自然な少年の感情も表現できていたので、見ていて好感が持てる。そして、沢山出てくる動物たちは、多くの名優たちがその声を演じている。まず、モーグリの師匠役にあたるクロヒョウのバギーラは、ベン・キングズレー。未だにあの「ガンジー」の、という形容詞で呼ぶのがしっくり来るが、様々な映画で活躍中だ。
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また、気のいいクマのバルーの声は、ビル・マーレイ。昔の「ゴースト・バスターズ」や、近年(でもないか)の「ロスト・イン・トランスレーション」の演技が忘れがたい。
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森の中でモーグリに父の死の真相を教えながら、彼を一飲みにしてしまおうとする大蛇カーの声は、スカーレット・ヨハンソン。ワンシーンのみの登場ながら、彼女らしい色気と多彩な表現力を見せて、いや、聞かせてくれる。
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それから、密林の中に大サル帝国を築いているキング・ルーイの声はクリストファー・ウォーケン。私はこの人の癖のある人相が大好きなので、最近出演作を見ることが少ないのを淋しく思っている。声だけでなく、本当は顔も出して欲しかったところだが・・・。この写真の髪型など、キング・ルーイそっくりではないか(笑)。
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と、このように豪華俳優陣は声だけなのであるが、やはりその点でも人選に手抜きがないがゆえに、動物たちのキャラクターが活きているのであろうと思う。それにしても、本当に動物たちの動きは驚異的によくできていて、ちょっとした仕草にもいちいちリアリティがあって引き込まれる。映画のプログラムに、撮影方法の一部が紹介されているが、例えば川でモーグリがバルーの腹に乗って移動する場面。ブルーバックのスタジオにプールを作り、モーグリはバルーの腹を模した毛の塊のようなものの上に乗っており、劇中でバルーの顔が来るあたりに監督がいて、それに向かって演技したらしい。これが撮影風景。
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完成したシーンはこんな感じ。なんと見事な。
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こうは書いたものの、大柄な監督さんが水に入って熱血指導したからと言って、よいシーンができるとは限るまい。回りの風景や水の動きなど、気が遠くなるような膨大な作業を多くのスタッフがこなしたに違いない。そして、ひとつひとつのシーンの出来もさることながら、全体を通してクリアなメッセージが観客に伝わるようにしなければならない。これはいかに技術が進歩しても、容易なことではないだろう。ちなみに監督のジョン・ファヴローは、「アイアンマン」シリーズや「カウボーイ&エイリアン」(変な映画だった)などを監督し、「アベンジャー」シリーズの製作総指揮も務めているとのこと。

このように、大変楽しめる映画なのであるが、重い問題提起もなされている。主人公モーグリは、狼たちとジャングルで暮らして行きたいと思っているものの、最後に人間としての戦いをする、つまり道具を使い火を使うことで、危機を脱するのだ。1894年に発表された原作にどこまで描かれているのか知らないが、その時代、近代文明の矛盾が表れて、未開の地への憧れも生まれることになった19世紀末ヨーロッパにおいては、人間だけが持つ力を強調することは、支持と反感をともに巻き起こすことであったに違いない。人間だけが兵器を作り、兵器を使って戦争をする。19世紀から戦争ばかり繰り返していた人類は、20世紀に入ってからはついに、大規模な戦争を繰り広げることになるのである。それこそは、この地球上で人間だけが行うことであったのだ。実はこの映画では、言葉を喋らない動物が二種類登場する。ひとつは、崇拝すべき森の賢者たち、象である。そしてもうひとつは、これは最も人間に近いはずの、サルの群れである。他を超越した存在と、自分たちは他を超越していると思っている存在、ということであろうか。別に深読みする必要もないだろうが、ただCGの見事さだけに感嘆するのではなく、なにか私たちの深層心理に働きかける要素を感じるべきであると思う。あ、でもこの絵では、象はとても超越した存在には見えないなぁ・・・(笑)。
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by yokohama7474 | 2016-08-28 14:47 | 映画 | Comments(0)  

ハイ・ライズ (ベン・ウィートリー監督 / 原題 : High-Rise)

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先般、公開中の映画をざっと調べているときに、この映画のタイトルが目に入った。おぉこれは、J・G・バラード原作の、あの「ハイ・ライズ」ではないか。原作そのままの題名にしてくれてよかった。もしそうでなければ、見逃していたかもしれない。しかも、主演はトム・ヒドルストンにジェレミー・アイアンズ。これは必見だろうと思ったのだが、映画館の予告編やチラシでは、この映画を見た記憶がない。調べてみると、あろうことか、全国で5つの劇場でしか上映されておらず、東京でも単独館上映である。まあ今時J・G・バラードだなどと喜ぶ人もほとんどいないということだろうか。8/6(土)に公開されたので未だ二週間しか経っていないが、危ない危ない、この手の映画には早く行っておくに限ると思って出かけてみたところ、あにはからんやかなりの混雑。もちろん、上映している劇場が小さいせいもあるが、東京の文化度をなめてはいけない。願わくは、もう少し上映を継続して欲しいものだ。

なぜ私がこの映画の原作を知っているかというと、もう随分前に読んだからだ。なぜ読んだかというと、答えは簡単。同じ作家の原作による「クラッシュ」を鬼才デイヴィッド・クローネンバーグが映画化したのを見て(当時、「裸のランチ」「M・バタフライ」と問題作を立て続けに世に問うていた)、この奇妙な作品世界を作り出したJ・G・バラードとはどんな作家だろうと思い、購入したのがこちらのハヤカワ文庫。もうかれこれ20年くらい前になるわけである。
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今調べてみると、J・G・バラード(この呼び方が響きがよくて好きだが、本名はジェームズ・グレアム・バラードだそうだ。意外と普通の名前 笑)は、1930年生まれで2009年没なので、「クラッシュ」が映画化されたときには未だ現存作家であったわけだ。「クラッシュ」は、自動車の破壊に性的興奮を覚える人たちの話で、笑えるような恐ろしいような内容。でも、機械に淫するある種のモダニズムをあのようなかたちで表現する点、なんともユニークだと思ったものであった。そしてこの「ハイ・ライズ」は、上記のような超高層マンションにおいて上層階と下層階で対立・紛争が起きるという、これまたシュールな内容で、この原作を読んだときのなんとも言えない居心地の悪さは、絶対に忘れない。細部にリアリティがあるものの、全体が夢の中の話のようである。実は、前項で「都市と都市」という作品を採り上げた1972年生まれの小説家チャイナ・ミエヴィルも、尊敬する作家のひとりとして同じ英国のJ・G・バラードを挙げており、なるほどと理解できる反面、私の個人的な感覚では、やはりバラードの研ぎ澄まされた簡潔さの方が、饒舌なミエヴィルよりも数段上であると思うのだが、いかがなものだろうか。

この小説の発表は1975年。当時でもニューヨークとか香港には超高層マンションは既にあったと思うが、バラードの出身国である英国には、ロンドンですら未だにそれほど高いビルは存在しないし、ましてや住居となると、ほとんど(全く?)ないのではないか。従ってここで描かれる超高層マンションの生活は、何やら近未来じみたまさにSF的な設定であり、それゆえに、生活の場として人々が毎日出入りする場所でありながら、上層階と下層階で違う世界が混在する不思議な場所としての超高層マンションは、シュールな感覚に満たされている。そのような原作のシュールさを、よく映像化していると思う。尚、ここで描かれている時代設定は、車の外見からも、原作が描かれた1970年代のようだ。従ってインターネットも携帯電話も、ここには登場しない。

私が劇場に行ったときには、特典でポストカードがもらえたのだが、そのデザインはこれだ。
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主人公、医師ロバート・ラングを演じるのはトム・ヒドルストン。このブログでも、彼の出演作「クリムゾン・ピーク」をご紹介したし、「マイティー・ソー」シリーズの悪役ロキでも知られるし、ジム・ジャームッシュの近作「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ」でも忘れられない演技を披露していた。1981年生まれなので今年35歳。これから様々な役を演じてますます映画を面白くしてくれる逸材であろうと思う。プログラムの紹介欄を見て知ったが、彼は貴族の血筋を引いていて、しかもケンブリッジを首席で卒業しているという!! ご覧の通り引き締まったからだで、オバサマたちの視線を釘づけという感じであろう。だがその一方で、巧まざるユーモアも表現できるし、段々歯車が狂って行く閉鎖社会の中で、その狂気を楽しむかのような達観した態度が、医師ラングの演技としては万全だ。
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一方、このマンションを設計した建築家アンソニー・ロイヤルを演じるのは、今や英国の宝の域に近づきつつある、ジェレミー・アイアンズだ。
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この人も幅広い役を演じているが、以前のカフカ役や「ロリータ」(1997)での演技などから、不思議でシュールなキャラクターを演じる才能はよく知られている。バットマンの執事役よりは、よっぽどこちらの方が似合っている。もちろん1948年生まれだから既に70近い年齢に至ってはいるものの、端正な顔立ちと贅肉のない痩躯は変わりなく、役者の中にも、こんな風に年を取ることのできる人はそうはいないだろう。

この映画には、女優もあれこれ出てはいるものの、正直なところ、あまり印象には残らない。もともと女性の描き方にあまり興味のない原作であり、演出であると言ってしまうと言い過ぎだろうか。そもそも、顔も誰が誰だか時々分からないこともあり、後半で女たちが共同で作業するような部分にも、何か新しい展開というイメージはない。実際この映画は、ストーリーテリングとしてはちょっといかがなものかという点もあり、多くの人が難解で退屈と思うであろうが、それにはこのような女優の使い方も影響しているかもしれない。原作から外れたキャラクターの想像には、作り手はあまり興味がないのかもしれない。

ただ、この映画で提示されるヴィジュアル・イメージは、なかなかに面白い。1970年代の設定ということで、マンションのあちこちも何かガッチリ大柄にできているように思われる。上の写真でもある通り、テラスは荒い模様の石でできていて、ロンドンに実際にあるバービカン・センター(ロンドン交響楽団の本拠地であるホールや劇場、ギャラリー等のある場所だが、居住棟もある)を思い出したものである。なのでこの映画は、ストーリー展開が何を意味しているとか、登場人物たちの行動原理はこうだろうとか、英国の階級社会がどうできているとかいうことはあまり考えずに、シュールな雰囲気とビジュアルを楽しめばそれでよいのではなかろうか。下手にストーリーを深読みすると、大変退屈になるものと思いますよ(笑)。こんなシーンでは、感性が試されるような気がする。
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この映画の監督、ベン・ウィートリーは私にはなじみのない名前だが、1972年生まれで、最近活躍が目立つ英国の監督であるとのこと。また、製作のジェレミー・トーマスは聞いたことのある名前だと思ったが、「戦場のメリークリスマス」や、「ラストエンペラー」「シェルタリング・スカイ」「魅せられて」等のベルトルッチ作品、また「クラッシュ」を含むクローネンバーグ作品や、上で触れた、トム・ヒドルストン出演のジム・ジャームッシュの「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ」も製作している。大製作者ではないか。
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最後に、この映画に関連する音楽と美術について。冒頭すぐに髭を生やしたラングがサヴァイヴァル生活を送る様子に使われているのは、バッハのブランデンブルク協奏曲第4番。リコーダーが明るく楽しく、凄惨な状況とのギャップを強調する。この音楽は終結部近くでも、同じ場面に回帰するときにも使われていた。それから、建築家ロイヤルの住まうペントハウスには様々な美術品が展示されていて、詳細映像は出てこないが、ひとつは明らかだ。壁面を飾る大作は、ゴヤの「黒い絵」の中の「魔女の夜宴」である。
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この作品はプラド美術館に収蔵されているので、ここで出てくるのは当然複製ということになるが、ラングが「あれって美術館にある絵だよね」と言うセリフがあり、その意図はよく分からない(ほら、だからストーリーを考えてはいけないと言ったでしょう 笑)。もっともその言葉は、エレベーターのすぐ左にかかっていた作品について出たもののようでもあった。そちらはよく見えなかったが、マックス・エルンストではなかったろうか。もし再度この映画を見ることがあれば、再確認しよう。

J・G・バラードの作品世界に久しぶりに触れることができたことはなかなか楽しかったが、今回調べて初めて知ったことを恥を忍んで告白すると、実はスピルバーグが映画化した「太陽の帝国」の原作もバラードなのだ!! 自伝的な小説らしい。なるほど、なかなか一筋縄ではいかない作家である。短編集でも買って読んでみたくなった。
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by yokohama7474 | 2016-08-21 01:17 | 映画 | Comments(0)  

シン・ゴジラ (庵野秀明総監督)

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昨年9月20日の記事で、大田区が主催した区内の歴史的な場所を巡る徒歩ツアーをご紹介したが、その記事に、私のツアー参加の数日前に、蒲田駅前でゴジラ映画のロケが行われたことを書いた。その時撮影されていたのが、ほかならぬこの「シン・ゴジラ」である。この映画は街で相当話題になっているので、それを思うと、妙なご縁で、からこの映画が制作されていることをかなり早い時期実感できた私は、ラッキーであった。

言うまでもなくゴジラは日本が生んだ怪獣キャラクターの王者であり、ハリウッドでも"Godzilla"として2度映画化されている。だが私自身、幼少時からの怪獣好きであり、ゴジラというキャラクター自体には魅力を感じながらも、実は映画館でゴジラ映画を見たことはほとんどない。1954年の最初の「ゴジラ」(もちろんリバイバル上映の際)と、1984年、できたばかりのマリオンが破壊されてしまう「ゴジラ」(これは封切で)がほぼすべてである。その理由は、このゴジラというキャラクターがどうしても「子供用」という位置づけだと思われてならなかったことだ。つまり、妙なガキであった私は、自分自身が子供の頃ですら、いかにも子供用に作られた映画には興味がなかったことになる(テレビの怪獣ものは別)。その意味で上記2作は、シリーズの中では子供用の要素が少ないと見受けられたので、劇場で見たわけである。ハリウッド版ゴジラも、子供用ではないようだったので劇場で見たのだが、これらハリウッド版はどちらも日本のゴジラとは異質なキャラクターとなっており、その点に違和感があったことも事実。その流れで言えば、今回の「シン・ゴジラ」は、久しぶりの国産ゴジラ映画であり、大人の鑑賞に堪えるという謳い文句であったので、自然と期待を抱くことになったわけである。からだが赤く手が小さくて、尾が異常に長いのが今回のゴジラのユニークな造形であるが、さて、どのような展開の映画となったのか。
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結論を急いでしまうと、この映画は怪獣映画というよりはむしろ、災害映画である。ここで改めて気づくことには、このような大怪獣が人間世界に危害を加える場合、人間は当然その対応に追われるわけで、それは取りも直さず、災害発生時の危機対応ということになる。日本ほど数多い天災に見舞われた経験のある国も、そうはないであろうし、そのうちの幾つかは、まさに甚大な被害をもたらす恐ろしい災害であったのだ。なので、今の日本人がこのような怪獣による攻撃をリアリティをもってとらえるには、やはり災害という観点に立たざるを得ないということになるのだろう。実際この映画の製作過程では、東日本大震災発生時の政府の対応などが詳しく調査されたという。このポイントが既に、この映画を支持するか否かの分かれ道になるだろう。私としては、いわゆる日本のお家芸たる特撮空想科学物を、伝統芸能のごとく継承して行くためには、やはりファンタジーこそが最重要であると思う。酷な言い方かもしれないが、災害対応を描きたければ、実際の災害に関するドキュメンタリーを作ればよい。そこにはきっと、言葉が追い付かない凄まじい悲劇があるだろう。ゴジラではない、現実による痛ましい災禍があるだろう。所詮作り物では、そこに到達するのは不可能であろう。そもそも日本政府の中枢に、このような優秀で献身的でしかもGood Lookingな人、どのくらいいるだろう(決してゼロとは言いませんが!)。
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怪獣映画を作るとは、所詮は絵空事の世界なのだろうか。これは難しい根本問題である。人間があれこれ悩んでゴジラを倒そうとするにはストーリー展開に限界があり、ここはひとつ、モスラでもラドンでもキングギドラでもよい。ゴジラに相対する敵役の怪獣がいれば、ストーリー展開はぐっと楽になる。それゆえに、過去のほとんどのゴジラ映画ではその手段が取られ、結果として子供用映画に堕してしまったというのが真相ではなかろうか。この「シン・ゴジラ」、それに気づかせてくれただけでも、かなりの問題作であることは確かである。だが、本当に怪獣物は子供用にしかならないのだろうか? 何か違うアイデアがあってもよさそうなものだ。本作は大人の鑑賞に堪えるという触れ込みであったがゆえに、この点になんとも居心地の悪い思いをするのである。

私の不満はほかにもいくつかあって、例えば、ゴジラの攻撃によって壊滅する東京の描き方に、どこにも逃げ場はないという絶望的な終末感がないこと。あえて終末感を避けたということなら、ゴジラにどこか動物としての感情が描いてあれば、少し奥行きも出たであろうが、それもない。加えて、被害に遭う人たちの個人レヴェルでの悲劇が全く描写されていない。だから、一体ゴジラが何のために上陸して来て、なぜ変態を繰り返してまで日本を襲うのか、そしてそれはいかなる悲劇を人々の中に巻き起こしたのか、全く迫って来るものがない。もっと言うと、米国の出方も妙でしょう。世界全体に脅威を与えるわけでなく、とりあえずは東京だけしか攻撃していない怪獣に、核爆弾を使うなんて言い出しますかね。つまりは、災害としてのリアリティを追求しても、必ずストーリーのどこかに破綻が生じてしまうのである。あ、それから、悪役不在という設定は、リアリティは出てもドラマ性を犠牲にせざるを得ない。もちろん、重いテーマとして、日本という国は今後どうなるのか、こんな集団無責任体制では没落する一途ではないのか、という危惧が描かれているのは分かる。そして、それに対していくつかの改善のヒントが描かれているのも認めよう。でも、いちばん見たかったファンタジーは、一体どこに行ってしまったのか。
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この映画には有名無名、沢山の俳優が出ていて、さすが超大作という感じはあるのだが、正直、個々に採り上げてここで論じたい俳優はほとんどいない。キャラクターとしてユニークであったのは石原さとみで、祖母が日系人のバイリンガルという設定に多少の無理を感じながらも、さすが英会話学校で鍛えただけあって(?)、英語の発音はなかなかよかったし、加えて、米国人の喋る日本語も、それらしくてよかったと思う。
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でも、この役は一体何のために出て来たのか、正直、もうひとつよく分からない。ゴジラに攻撃された東京で、ビルが次々と壊されて行く中、「NOVA」という看板を掲げたビルは無事に立っているシーンがあったと記憶するが、それがきっと石原さとみの宣伝なのだろう・・・とその時思ったが、あれ、後で気づくと、彼女が宣伝に出ているのは違う会社だったような・・・(笑)。考えすぎでした。

ところで、この題名の「シン・ゴジラ」とはいかなる意味か。先の「ゴジラ Final Wars」でもうゴジラ映画は作らないと宣言したはずの東宝がまたこの映画を作ったからには、「新ゴジラ」というタイトルがふさわしかろう。だが私は、「神ゴジラ」という意味も込めていると解釈する。映画の中には確かにそのような会話がある。ただそうすると、ゴジラを神にしてしまってよいのか。私の疑問はここでも続いて行くのだ・・・。庵野監督の代表作であるエヴァンゲリオンには私は全く知識がないのだが、「シン・エヴァンゲリオン」という作品もあるようですな。すみません、そちらは何も知りません。

エンドタイトルを見て気づいた点が2つ。ひとつは、出演者(役名記載なし)の中に、岡本喜八(写真)というものがあったこと。岡本喜八はもちろん有名な映画監督であるが、写真での出演となると、失踪したとして本作には登場しない謎の科学者、牧教授しかないだろう。恐らく庵野の岡本へのオマージュということなのだろうし、ネット検索するといくつかの説が見当たるものの、庵野本人の説明はないようだ。
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それから、エンドタイトルでズラリと並んだ多くの役者の最後に出て来た名前にびっくり。よく知られたその役者の顔は、どう思い出してもこの映画には見当たらなかったからだ。実はこのネタについても、ネットでは多くの情報を取ることができるので、今更秘密でもないのだが、ここではネタバレを避けておこう。ラストに名前が出て来るくらいだから極めて重要な役のはずなのに、顔が出てこない。とすると・・・。答えは簡単だ。この姿勢にヒント萬斎、いや満載だ(そうでもないか 笑)。
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庵野のコメントによると、これ一作きりという条件で引き受けたとあるが、この映画の終結部にはカタルシスは全くない。当然のように次回作ができるように、私は思う。ご覧になった方は合意して頂けようが、あのままでは2020年の東京オリンピックのときにどうなりますか。物珍しさで外人が大挙してやってくるか、または危険と感じて敬遠するか、さてどちらであろう。そんな与太話をしながらも、もはや今日では無邪気な怪獣物も成り立たなくなっている現実に向かい合いながら、でもやはりファンタジーとしての映画作りを、映画人の皆さんには是非とも期待しています。もっと面白い映画、絶対できると思いますよ。

by yokohama7474 | 2016-08-17 21:15 | 映画 | Comments(0)  

トランボ ハリウッドに最も嫌われた男 (ジェイ・ローチ監督 / 原題 : TRUMBO)

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東西冷戦体制が崩れてからはや四半世紀。映画の世界においても、冷戦時代にテーマを求める作品が多くなっているように思う。今すぐに思いつくだけでも、スピルバーグの「ブリッジ・オブ・スパイ」やコーエン兄弟の「ヘイル、シーザー!」がそうであり、いずれも質の高い役者を起用した最近の映画である。そんな中、この映画も、やはり非常に質の高い役者陣によって、今後ハリウッドの赤狩りを考えるに当たっては無視できないであろう映画になった。いや、訂正しよう。どこの誰であれ、冷戦期を専門として研究している学者でもない限り、「ハリウッドの赤狩りを考える」機会そのものが、日常の生活の中では極めて稀であろう(笑)。ではこの映画は極めて稀な人にしかアピールしないのか。全くそんなことはない。個々人では抗えない大きな社会の流れの中で、人はいかなる発想をもっていかに行動すべきなのか、その難しい問いかけに対するひとつの答えを提供する映画であり、様々な人間像をリアリティをもって描き切った秀作である。シネコンでは大作お盆映画のいくつかに押されて上映回数は極めて限定的になってしまっているが、私が見た数日前時点で、日比谷のTOHOシネマズシャンテでは、一日に数回の上映が継続しており、しかも私の見た回は、最前列にまで人が座る超満員状態。やはりこの映画館は、現代日本における映画の良心の生き続ける場所。まだこの映画をご覧になっていない方は、是非シャンテにお急ぎ下さい。

そもそも題名のトランボとは何かと言えば、人の名前である。ダルトン・トランボ(1905 - 1976)。まさに赤狩りの時代、1950年代を中心としてハリウッドで活躍した脚本家である。あの名作「ローマの休日」と、それから日本ではあまり知られていない(私も見たことがない)「黒い牡牛(原題 : The Brave One)」とで2度、アカデミー脚本賞に輝いている。但し、共産党員であることを公言して憚らなかったトランボは、刑務所に収監された時期もあり、脚本家としての才能は明らかなのに仕事を得ることができず、アカデミー賞受賞作品においても、偽名を使わざるを得なかった。この映画では、そのトランボの1947年から1970年代までの激動の生涯が描かれている。まず、本物のトランボさんの写真からご紹介する。このようにバスタブに入って構想・執筆する習慣があったらしく、映画の中でもそのまま再現されている。また、エンドタイトルでは、本人の肉声を聴くことができる。
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様々な民族が集まって形成されているアメリカ合衆国においては、自らの属する集団の利益のため、いかなる方法で他の集団と共存して行くのか、あるいは共存しない選択肢を取るのか、というテーマは極めて重いものであり、それゆえに、1950年代にハリウッドを席巻した赤狩りという現象は、いかにも米国らしい汚点と言えるように思う。第二次大戦終結とともに、それまでの同盟国から直接的な敵となったソヴィエト・ロシアの脅威のもと、まずは1950年に勃発した朝鮮戦争で東西陣営の激突が起こったわけであるが、そのような世界の動きの中で、夢を売るのが商売であったはずのハリウッドで、共産主義者の摘発・迫害が激化したわけである。そもそも、共産主義者はスパイだから国家への裏切り者であるという定義がなされたのに対して、国益のためと称して同志を売った共産主義者もまた、裏切り者との汚名を着せられたわけである(エリア・カザンの例が有名だ)。これはなんとも複雑なことではないか。戦争中にはファシズムをあれだけ嫌悪した自由の国で、ファシズムまがいのことが起こってしまったことを、21世紀の我々はいかに評価すべきであろうか。これは間違いなく誰にとっても難問なのであるが、上に書いた通り、この映画で描かれているトランボの考えや行動に多くのヒントを与えられるということは、取りも直さず、この映画では「人間」という存在の尊さと危うさが充分に描かれているということだ。

このブログは政治史についてのゴタクを書くのが趣旨ではないので、映画の話に戻すと、まず主役を演じるブライアン・クランストンの存在感が素晴らしい。
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もともとテレビドラマで人気を博した役者のようで、最近の出演作のリストには私が見た映画も何本かあるが、いずれも思い出すことができない。つまり、それなりの規模の映画で、主役としてこれだけ重要な役を演じたことは、これまであまりないのではないか。この役は、例えば最近のゲイリー・オールドマンならうまく演じるだろうし、実際、映像を見ていても彼そっくりに見えるシーンも多々ある。だが、ゲイリー・オールドマンには既に数々のヒット作でのイメージができてしまっているので、実在の人物を描くこの映画においては、このブライアン・クランストンの起用の方が新鮮だし、実際に成功であったと思う。ここでのトランボ像には、娘であるニコール・トランボ(エンドタイトルには、この映画のコンサルタントとして名前がクレジットされている)の目を通した父親像が基本にあることは明白である。共産主義者であることを隠すこともないが、過激な行動に出ることもないトランボ、また、友人には温かく接するが、友人の行為に対しては冷ややかに見ることもできるトランボ、家族を何より大事に思っているが、ここぞというときには仕事の鬼と化すトランボ。ユーモアと深刻さが錯綜するそのような複雑な人格を、本当にリアルに描いていて素晴らしい。

そして、妻を演じるダイアン・レインが、失礼ながら予想外に素晴らしい!! というのも、最近のスーパーマンシリーズ(私が酷評した「バットマンvsスーパーマン」を含めて)でのクラーク・ケントの母親役は、なんとも疲れた田舎のオバチャンという感じであるところ、この映画では、献身的に夫を支えながらも自己の内部で葛藤を抱えるクレオ夫人を、美しく、しかも気品と味わいをもって演じている。昔の子役時代から長い時間を経て、年相応の役を演じることができる女優に大きく成長したわけである。因みに私と同い年である(笑)。
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そして、強硬な反共産主義者としてトランボの敵となる役でありながら、不思議と憎めないジャーナリストを演じるヘレン・ミレンがまた素晴らしい。この人ならこう演じてくれるだろうという期待そのままだ。
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そしてそして、この人を忘れてはいけない。トランボの娘ニコラを演じる、エル・ファニング。
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日本ではどの程度知名度があるか分からないが、かつてスピルバーグの「宇宙戦争」などで子役として活躍したダコタ・ファニングの妹である。姉ダコタは1994年生まれで、このエルは1998年生まれ。今でも多分姉の方が有名であると思うが、私は2011年公開のJ・J・エイブラムスの「Super 8」で、これは姉よりすごい子役かも、と思い、同じ年のコッポラの「ヴァージニア」(どういうわけか、公開にあたってはあまり大々的に宣伝されなかったが、今日に至ってもコッポラの最近作だ)で、ほほぅこれはやっぱり、と思ったものである。その後「マレフィセント」などにも出演していたが、今回のような等身大の女性を演じるのは珍しいのではないか。上記の通り、ここで彼女の演じるニコラは、映画全体におけるトランボの人間像に大きく影響する重要な役だ。エル・ファニングについて実在のニコラ・トランボは以下のようにコメントしている。

QUOTE
ファニングはとても強い人です。10代の頃の自分がアイデンティティを探りながらどう感じていたかを彼女に伝えました。私が想像する当時の私を、ファニングは正確にとらえてくれました。当時の私を生き返らせたようでした。
UNQUOTE

役者として、自分がその役を演じた実在の人物からこんなコメントをもらえるとは、冥利に尽きることだと思う。因みにファニングは別インタビューで、「ニコラはとても強い人」とコメントしていて、お互いの強さをたたえ合っているのが面白い(笑)。この映画でのニコラは、父トランボに似て、居丈高にまた声高に何かを主張するわけではなく、自制心と客観性をもって自らの信念を貫く人として描かれているが、そういう人が本当に強い人なのでしょう。

それから、私の大好きなジョン・グッドマンが、いつもの通りここでも面目躍如であり、もう何も言うことはありません(笑)。
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こんなに素晴らしい映画を作った監督はジェイ・ローチという1957年生まれの米国人。経歴を見ても、これまであまりメジャーな映画を監督しているようには思えないが、唯一の例外は、「オースティン・パワーズ」の3作。あの下品なパロディ・スパイ映画には全く良識がない、全くけしからん、と怒りながらも、3本とも喜んで劇場で見ている私としては、何やら複雑な思いである(?)。
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脚本家をめぐるこの映画の脚本を書いたのは、本作の製作も手掛けたジョン・マクナマラという人物であるが、彼の師匠はイアン・マクラレン・ハンターという脚本家であったらしい。実はこのハンターという人物の名前が、「ローマの休日」には脚本家としてクレジットされているのだ。ハンターはマクナマラに、実際にこの名画の脚本を書いたのは自分ではなく、トランボであると告げたという。つまりこの映画には、赤狩りをめぐって実際に起こったことの残照があるということだ。それは何か特別なことではないだろうか。

さて、映画自体から少し外れて、書いてみたい話題が2つ。ひとつは、この映画の後半で重要な役割を果たす「スパルタカス」という映画について。言うまでもなくこれは、あの天才スタンリー・キューブリックの監督作ではあるものの、とても彼らしくない歴史物の大作で、キューブリック自身は自らの作品として終生認めていなかったと言われているのは周知の事実。実質的には、主役と製作総指揮も担当したカーク・ダグラスが仕切った映画であったのだが、この脚本には、ダグラスの決断で、トランボ自身の名前がクレジットされた。これは1960年のことで、この映画にも描かれている通り、同じ年に公開されたオットー・プレミンジャー監督の「栄光への脱出」とともに、いわばハリウッドにおける赤狩り時代の終焉を世間に告げることとなった作品のようである。もちろん、裏切り者扱いされていた共産党員の実名を出すことには大変な勇気が必要であったはずであるが、そのカーク・ダグラスの作品にかける思いは、この「スパルタカス」からヒシヒシと伝わってくるのである。私がこの映画を劇場でのリバイバルで見たのは、もう25年前の1991年であったが、大変な感動を覚えたのをつい昨日のように思えている。手元に当時のプログラム(1968年の最初のリバイバル時のものの復刻)を持ってきたので、見て頂きたい。
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ここに見られる「文部省選定」というお墨付きは、私にとっては「じゅげむじゅげむ」という呪文以上の意味は持たないが(笑)、このカーク・ダグラスの精悍な表情はどうだ。因みに映画「トランボ」の中でも、大変よく似た俳優に演じさせていて、なかなかよい。このプログラムには、映画評論と音楽評論の双方を手掛けていた岡俊雄による1968年当時の文章が載っているが、「スタンリー・キューブリック」のことを「スタンリイ・カブリック」と表記してあって、何やら時代がかっている。
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チェックしてみたところ、この岡俊雄の文章の中に、脚本のトランボについて触れた部分もある。「アメリカの左翼的歴史文学者として有名なハワード・ファストの原作をとりあげ、脚本を一時ハリウッドの赤追放にひっかかっていたダルトン・トランボの手にゆだねた」ことが、奴隷革命映画としての史劇スペクタクルになった原因だと述べられている。やはり、カーク・ダグラスのやったことの意味は非常に大きかったのだ。ちなみに今回調べて分かったことだが、このカーク・ダグラス、未だ現存しているのだ!!今年実に100歳になる。今や、息子のマイケル・ダグラスでさえ癌にかかったりしている中、すごい生命力だ。改めて敬意を表しよう。

もうひとつの話題は、トランボの友人でありながら、仲間の共産主義者たちの名前を公聴会で明らかにする「裏切り者」の俳優、エディ・ロビンソンが所有する絵画について。彼は実在の人物であるそうだが、裕福な家庭の出身なのであろう。劇中で仲間内が会合する彼の邸宅には、印象派を中心とする美術コレクションが飾られているのだが、ゴッホの有名な「タンギー爺さん」が一旦売りに出されて、「裏切り行為」の後、エディの羽振りがよくなるとまた戻ってくるというシーンがある。今回、帰宅して手元のゴッホの画集を調べてみると、ゴッホの描いたタンギー爺さんの肖像は2点あって、ひとつはパリのロダン美術館蔵。もうひとつは「個人蔵」とある。この絵だ。
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本当にこの絵をハリウッドの俳優が所有していたことがあるのだろうか。ちなみに、私が画集で調べた以上のことを今はネットでホイホイと簡単に調べることができる。なんとWikiでは、ゴッホの全作品を、その多くは画像つきで見ることができるのだ!!おまけにサイズや制作年や所有者も記載されていて、いや全く、こんなに便利だと人間、バカになってしまう(笑)。それによるとこの「タンギー爺さん」はギリシャの海運富豪であるスタブロス・ニアルコスのコレクションに入っていたらしいが、現在ではそれも実は明確ではないらしい。もしこの愛すべき作品が数奇な運命を辿っているとするなら、その発端は、もしかするとハリウッドの赤狩りの間接的な影響なのだろうか・・・。

と、毎度のごとく快調に脱線したので(?)、もうこのあたりで「トランボ」について語るのはやめておこう。ひとつ確かなことは、考えるヒントが沢山含まれた作品であるということだ。映画史に知識のない人であっても、一見の価値ありと思います。

by yokohama7474 | 2016-08-16 00:36 | 映画 | Comments(0)  

インデペンデンス・デイ リサージェンス (ローランド・エメリッヒ監督 / 原題 : Independence Day : Resurgence)

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地球全体が危機に陥り、世界の、そして人類の滅亡が目前に迫ったとき、人間はいかに戦うべきであり、どのように愛する人を守れるか。ハリウッド映画は繰り返しそのようなテーマを描いてきた。世界が破滅の危機に瀕する理由は、エイリアンの来襲であったり、自然現象であったり、あるいは地球上の悪党や超人の仕業であったり様々だが、映画を文化的なひとつの表現行為と考えたときには、荒唐無稽な中にも人間心理のリアリティが描かれているとか、切なくなるような終末感が漂っているとか、そのような面が評価の対象になると私は考えているのだが、そういう意味でガッカリさせられる出来のこの手のカタストロフ作品を、これまで数多く見て来た。正直なところ、1996年に公開された「インデペンデンス・デイ」は、私にとってはそのような作品の代表例であって、同作品の監督ローランド・エメリッヒは、この映画と、その次の作品「ゴジラ (Godzilla)」によって、私の中ではダメな監督の範疇に勝手に分類してしまったのであった。この「インデペンデンス・デイ」の1作目は何より、お定まりの米国が世界の中心であるという大前提(つまり、メインの登場人物がすべて米国人で、物事の解決も勇気と知恵のある米国人が行うという設定)だけならまだ我慢しても、自国の実際の独立記念日である7月4日を人類の独立記念日にしようと高らかに宣言するあたりの傲慢さが、なんともいやであったし (まあもっとも、監督のみならず脚本、製作総指揮を務めたエメリッヒ自身はドイツ人なのだが)、「オレは空の男だ」と言って戦闘機に乗って行ってしまうビル・プルマン演じる大統領の人物描写のぶっとんだ単純さには、座席からずり落ちそうになったのを覚えている。そんなわけで、この2作目も見に行くか否か迷ったのだが、一応どんなところに物事を考えるヒントが見つかるか分からない。予告編で見た以上には何の予備知識のない状況ではあったが、本作の鑑賞のために劇場に向かったのである。

まず役者を見て行こう。20年前の1作目における米国大統領役、ビル・プルマンだ。
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それから20年が経ち、この2作目の映画の中で描かれている世界では、その間に様々な変化が起こっている。エイリアンとの戦争で人類の半分は死んでしまったが、世界の各国は団結して平和を維持。また、エイリアンの技術を応用した戦闘機や武器が開発されており、今や月と地球の間は、東京-大阪間(?)のごとき気楽な往来がなされている。そんな中、同じビル・プルマン演じる元大統領は、前半ではこのような、いささか変人じみた風体だ。あっ、でも、ネクタイを緩めているのは前作からそうだったのですな(笑)。
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前作で英雄的なパイロットであったウィル・スミス演じるヒラー大尉は今はなく(プログラムの記載によると、2007年に新型戦闘機の試験飛行における異状によって墜落死との設定)、その息子が活躍する。また、ビル・プルマンの娘役とその許嫁はともに優秀なパイロットであり、加えて、中国人の女性パイロットと、その叔父の月面基地のリーダーも登場。これらが新顔だ。その一方、前作でエイリアン撃退案を考案した中心人物であるエンジニアを演じたジェフ・ゴールドブラムが今回も登場。この人は「ザ・フライ」の頃から基本的に変わらない。二枚目ではない点に独特の味わいがあるのだ。
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そして、何の予備知識もなく見た中で、驚いたキャスティングがあった。フィールドワークを通してエイリアンとの交信を研究する女性学者を演じているのは、なんとなんと、あのシャルロット・ゲンズブールではないか!! 最近では、性描写が極めてショッキングだった「アンチクライスト」に続いて、既に違う世界に行ってしまったようなラース・フォン・トリアー監督の猥褻な作品世界(?)に閉じ込められているのかと思っていたので、このようにハリウッドのメジャー作品への初出演は、誠にめでたいことである。さすがにお年は隠せませんが・・・。
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それから、なかなかよかったのは、主役級のパイロットのひとり、ジェイク・モリソンを演じる、オーストラリア出身のリアム・ヘムズワース。
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顔と名前ですぐ分かるのは、マイティー・ソー役その他で現代を代表する若手俳優にのし上がったクリス・ヘムズワースの弟である。彼、そういえば「ハンガーゲーム」シリーズにも出ていましたな。実は長兄のルークも俳優だそうである。これが3兄弟。長男がいちばん背が低いのですな。きっといろんなところで言われ続けているのだろうが(笑)。
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それから、大変フレッシュな演技を見せてくれる女優として、ビル・プルマンの娘役のマイカ・モンローを挙げておこう。カイトボーディングというウォータースポーツのプロ選手でもあるという。
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このように、なかなか面白い役者陣による映画であったわけであるが、私が1作目に対して抱いたある種の嫌悪感は、ここではどうであったか。それが実は、あまりなかったのである。もちろん、世界の終末を耽美的に描いた芸術的大作と言うつもりはないが、映画の中で描かれたこの20年間と、現実におけるこの20年間との微妙な関係を考えると、大変興味深い内容であったと思うのである。誰でもすぐに分かる通り、20年前の現実世界は、未だ911 同時多発テロも知らないし、サブプライム問題もリーマンショックも知らないし、ましてやIslamic Stateなどという存在は知る由もない。また、当時は黒人大統領も女性大統領もまだいなかったし(もっとも後者はこの映画の中では実現しているが、現実でどうなるかは今年11月にならないと分からない)、中国は未だ改革開放路線などと言っていた頃だ。また、我々日本人にとっては、東日本大震災の未曾有の被害は、当時は未だ想像もできなかったわけである。そして現実と架空の交差する映画の中の2016年には、前作と同じ7月4日に人類はエイリアンとの対決を行うにも関わらず、もはや今回は「独立宣言」はなされないのだ。また、エイリアンの撃退方法も、前作のようなちょっとしたアイデアから来る人類の知恵の勝利ということではなく、もっともっと単純かつ、他力本願な面もある。つまり、前作ほど能天気な作品にはなっていないということだ。もちろん、カタストロフ映画であるゆえに、こんなことや
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こんなことが起こってしまうのだが。
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だが、世界各地が絶望的なまでに壊滅状態になる様子が描かれているかと言えば、さほどでもない。それはやはり、既に我々は過去20年間、現実世界の中で、絵空事ではない絶望的な事柄に直面して来たからではないか。一方で、これだけのスケールの出来事が起こるにしては、偶然必然の家族の邂逅が、大変沢山起こる映画である(笑)。もちろん、非常時に愛する人たちを守れるかというテーマはハリウッド映画の中心的テーマではあるし、ここでも、いつもいつも全員が生き残るように描かれているわけではないので、素直に家族愛についてのメッセージを受け取ればよいのであろう。だが、現実世界で本当に絶望的な思いを抱いている人たちが多くいるがゆえに、今の時代の映画の作り手も、家族の大切さをことさらに強調しなければすまないような気がしているのかなぁ・・・と考えてしまったものである。米国が世界の中心で、家族を守って戦えば正義は必ず勝つという単純な信念は、映画作りにおいて既に過去のものになってしまっているのであろうか。

そういえばローランド・エメリッヒ監督の近作で、「もうひとりのシェイクスピア」という、大変よくできた面白い歴史ものの映画(2011年)があった。あれを見て私は、そろそろ「インデペンデンス・デイ」の悪口を言うのをやめようかと、実は密かに思っていたのだ。今回の映画を見て、また今後の彼の行く末が楽しみになった。自分なりに映画監督の持ち味に対するイメージを築くことには意味はあるが、先入観をもって接するのは極力排除するようにしたい。その方が、いろいろ楽しめたり考えたりする余地がありえますからね。
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因みに本作の題名に含まれる"Resurgence"とは馴染みのない言葉だが、農業用語で、「害虫駆除のために農薬を散布すると、かえってその前よりも害虫が増えてしまうこと」という意味らしい。なるほど、面白い言葉もあるものだ。予告編には全く現れないし、ネットでの画像検索でもなかなか出てこないが、この映画では実はエイリアンたちはわんさか登場して、その醜い姿を惜しみなく(?)さらしており、まあそのあたりの分かりやすさも、今回は素直に見ることができたので、私としては結構楽しんだと申し上げておきましょう。ところで現実にこんなエイリアンの襲撃が起こると、人間のあらゆる経済活動、例えば工場などにも大きな被害が出るものと思うが、それによる製品の納期の遅れはやむを得ない。製品の売買契約交渉のときに、そんな事態まで想定する法務部の人がいたら面白いだろうなぁ。そんな現実と架空の交差を楽しむ法務マン、いるわけないか(笑)。

by yokohama7474 | 2016-08-01 01:31 | 映画 | Comments(0)  

アリス・イン・ワンダーランド 時間の旅 (ジェイムズ・ボビン監督 / 原題 : Alice through the Looking Glass)

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私にとってティム・バートンは、現存する映画監督の中では指折りのお気に入りのひとり。彼の映画に必ず出てくる内気な、だけど自分の世界を持つキャラクターが監督自身の投影であると理解しながら、実はしたたかに映画の商業的成功も可能にする手腕を持つ点に、いつも感心するのである。2010年に彼が監督した「アリス・イン・ワンダーランド」もそのような作品のひとつであった。ただ、いきなりの賛辞保留で恐縮だが、もともとルイス・キャロルの創造したアリスという、既によく知られたキャラクターを利用することの意義に若干ならぬ疑問を抱いたことも事実。加えて、その後も様々な映画で大活躍している主役のミア・ワシコウスカが、当時既にアリス役にしては年が行っていることに、どうしても納得が行かなかったものである。そして今回、6年を経て公開される2作目も、その主役に加え、ジョニー・デップ、アン・ハサウェイ、ヘレナ・ボナム=カーターらの主要出演者も軒並みそのままに製作された。これはそのミア・ワシコウスカをフィーチャーした英語のポスター。
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この映画の予告編を見たときに、「あぁ、2作目か。まあ、ティム・バートンだから一応見ないとなぁ」と思ったものであるが、その後判明したことには、これはティム・バートンの監督作ではないのである!! 彼の次回監督作は、日本でも既に予告編を上映しているが、「ミス・ペレグリンと奇妙な子供たち」という作品。うーん、そちらに注力するあまり、このアリス第2作の監督は手掛けなかったものであろうか。一応本作の製作者には名を連ねているものの、やはり監督でなければ細部の趣味性には口を出すことはできまい。結論を急いでしまうと、その時点でこの映画の内容は多かれ少なかれ決まってしまったものであろうと思われる。やはり私は、監督としてのティム・バートンには敬意を表するが、残念ながら、製作に関わった作品すべてに敬意を表するわけには行かないのだ。ティムさん、聴いていますか???
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今回の映画では、いきなり荒波の航海シーンで始まるが、そこではアリスが船長なのである。これってルイス・キャロルのイメージのどこかにあるものであろうか。アリスの人生航路ということか?責任者出て来ーい(笑)。そうなのだ、ここではティム・バートンはもはや責任者ではないのだ!! 既に忘れている前作のあらすじを紐解くと、どうやら貿易商の父の遺志を継いでアリスが船に乗るところまで描かれていたようだ。そうでしたかね。調べてみると、前作も本作も、脚本家は同じリンダ・ウールヴァートンという人で、もしかすると最初から連続したストーリーを構想していたのかもしれない。まあそれはよいのだが、この作品における問題は、「なぜアリスが船乗りか」「なぜ彼女はアンダーランド = ワンダーランドに戻って行くのか」「なぜ彼女はマッド・ハッターにそれほど感情移入するのか」「彼女は何を求めて時間旅行するのか」「彼女はなぜ世界全体の存続に直接影響するクロノスフィアの扱い方を知っているのか」等々、この映画のストーリーの根幹に関わる点の数々が、説得力のある形では全く描かれていないことではないか。つまり、見ていてハラハラドキドキの感情移入ができないもどかしさから、最後まで抜け出ることができないのである。そもそも原題は、「鏡を通り抜けるアリス」という意味なのに、邦題は「時間の旅」などと置き換えているが、なぜにアリスが時間の旅に出かける必要があるのか、申し訳ないが私にはさっぱり分からない。それなのにマッドハッター役を喜々として演じるジョニー・デップ。
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繰り返しだが、ここでティム・バートンが監督を務めていないことが、決定的にこの映画の性格を決めてしまった。なぜだろう。私が思うに、カット割りが細かすぎるのではないか。頻繁な短い切り返しは、もともと想像力を羽ばたかせるに充分な説得力のないストーリー展開に、さらにうるさいほど余計な説明性を加えてしまっていないだろうか。普通の映像がほとんどなく、コンピューターによって作られた映像の果てしない連続によって著しく情報量が多くなっているこの映画では、過剰でいながら説得力のないカット割りは、イマジネーションを阻害すること甚だしい。少々ウンザリである。加えて、すっかり性格女優としての貫禄を身に着けた、ティム・バートンの私生活におけるもと伴侶、ヘレナ・ボナム=カーターの演技も過剰気味。それから、顔がデカい。あ、それは役柄なのだが、ちょっとうるさい(笑)。まだ可愛らしかった「フランケンシュタイン」の頃が懐かしい。
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そして、未だ美貌衰えぬ(と思って調べたら、未だ33歳と若い)アン・ハサウェイ。演劇好きなら誰もが知る、シェイクスピアの妻の名前だが、これは本名であるようだ。
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この映画での新顔としては、怪優サシャ・バロン・コーエンがいるが、彼の演技はここではそれほど印象的ではない。それよりもむしろこの映画の価値として挙げられるのは、アラン・リックマンの遺作であるという点であろう。と言っても、本人が役者として演じているのではなく、CGキャラクターの声の出演なのであるが。アブソレムという、アリスを導く蛾である。
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プログラムで彼がこの役の声を受け持っているのを見て、果たして彼の遺作であるのか否か知りたくなったのであるが、本編終了後のメインキャストのアニメーションによる紹介(正直、あまり面白くない)のあと、長いエンドタイトルに入る前に、「我々の友人アラン・リックマンに捧ぐ」という献辞が目に入り、少し心が安らかになった(?)気がしたものだ。やはり一般には「ハリー・ポッター」シリーズで知られているであろうが、その声を聴くだけで独特の奥深さを感じさせる俳優であった。
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まあ、あれこれ文句は言っているものの、ティム・バートンの次回作における挽回を期待するという意味においては、なかなか突っ込みどころ満載の映画ではあったと思います。

by yokohama7474 | 2016-07-30 23:52 | 映画 | Comments(0)  

レジェンド 狂気の美学 (ブライアン・ヘルゲランド監督 / 原題 : Legend)

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1960年代ロンドン。人々がビートルズに熱狂した時代。ジェームズ・ボンドが活躍した冷戦の時代。今やノスタルジーをもって語ることしかできないそんな時代のロンドンで、双子のギャングが幅を利かせていた。この映画はその双子のギャングを主人公としている。兄のレジナルド(レジー)は切れ者でカリスマ的。演じるのはトム・ハーディだ。
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そして弟のロナルド(ロン)はカミングアウトした同性愛者で、カッとなると手の付けられない乱暴者だ。演じるのはトム・ハーディだ。
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あ、あれっ。私は今、何か変なことを言ってしまっただろうか。この兄弟、双子とはいえ別々の人物であり、このような共演シーンもあるというのに、演じるのは同じトム・ハーディだというのか。同姓同名か?
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いやいや、そんなわけはなくて、ここで私が一人でボケとツッコミをやらずとも(笑)、今や飛ぶ鳥を落とす勢い、このブログでも過去の出演作を大絶賛してきた絶好調のトム・ハーディが、一人二役でとことん双子のギャングを演じてみせるのだ。まずこの点がこの映画の最大の売りであることは間違いない。この二人の「共演」シーンには、取っ組み合いの喧嘩まであるという念の入り用だ。トム・ハーディの役作りは明確で、まずレジーを演じるときには、ある意味快活で、表情自体をめまぐるしく替え、恋人の前ともなると、時にはこのような笑顔も見せる。もちろん、獣のように豹変する瞬間はかなり怖いが。
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一方のロンを演じるときには一貫して陰気で、口の中に詰め物をしているのであろう、顎の線にシャープさがないし、モゴモゴと不明瞭に喋り、口を開いても下顎の歯がほとんど見えない。彼はこのままの表情で平然と殺人を犯すのだ。
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このような対照が全編にこの映画独特の色合いを醸し出しており、それは見事なものだ。時代の空気が伝わってくる。実在のクレイ兄弟はこんな感じで、まあこの種の映画では、必ずしも本物ソックリな映像を作ることが重要だとは思わないが、多分演じている役者たちが、実物に近いことによってリアリティを出したいという心理的効果はあるだろう。うーん、確かにこの実物、今回のトム・ハーディの役作りと近い雰囲気がある。本当に双子でも顎の線が違いますな(笑)。ただ、強いて言うとレジーは実物の方がさらに線が細いようにも見える。
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一人二役も、今日技術的にはそれほど難しくないだろうが、本作の撮影方法を調べてみると、ごく素朴な方法がメインであったことが分かる。つまり、双子が共演するシーンでは、トム・ハーディのそっくりさんを代役に立てて芝居をしたとのことだ。だが、その代役はただのそっくりさんではない。ジェイコブ・トマリというスタントマンで、「マッドマックス 怒りのデスロード」や「レヴェナント 蘇りし者」でもハーディのスタントを務めたとのこと。ハーディは様々なインタビューでこのスタントマンをジェイコブと名前で呼んで感謝の意を表明しているらしい。うーん、男っぽい。
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レジーの恋人フランシスを演じるのは、オーストラリア出身のエミリー・ブラウニング。決して素晴らしい美形というわけではないが、なかなかに表情豊かであり、等身大の女性を自然に演じてみせた。
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彼女はどこかで見たことあると思ったら、ザック・スナイダー監督の佳作「エンジェルウォーズ」の主役でした。そうでしたそうでした。昔「ゴーストシップ」にも子役で出ていたらしいが、それは覚えていない。あ、あと、「ポンペイ」か。なるほど。こんな感じでした。
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その他の出演者ではデイヴィッド・シューリスが最も知名度が高いとは思うが、私としてはやはり、あの「キングスマン」で颯爽と主役を務めたタロン・エガートンの姿を見ることができて嬉しい。ただ、ロンの愛人役という役どころだが・・・。
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そんなことで、役者陣の充実は大したもの。あとは、時代の裏側を駆け抜けた双子のギャングを巡る物語が、どういった現代的な意味を持ちうるかということであるが、この点については若干課題が残ったのではないか。これは「ゴッドファーザー」でもなければ「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」でもない。特徴的であるのは、一人称で物語を語るのがレジーの恋人のフランシスであるということ。これによって特にレジーの人間的内面を描くことはできたと思うものの、ギャング同士の抗争の中で、いかに二人が策略や蛮勇をもってのし上がって行ったかという点の迫力には、いささか不足していたように思う。もちろん抗争のシーンや警察を手玉に取るシーンも少しはあるが、物語を大きくうねらせるようなものではなかった。社会の激動の中で、彼らが何を見てどこを目指して活動したのかを、さらに実感をもって感じられればよかったのにと思う。この作品の脚本・監督を務めるブライアン・ヘルゲランドは、あの素晴らしい「L.A.コンフィデンシャル」とか「ミスティック・リバー」、「ボーン・スプレマシー」等の脚本を書いた人らしいので、もうひとつ、ひねりが欲しかったという気がする。

ところでこれは、カラーで残っている実際のクレイ兄弟とフランシスの写真。上のモノクロの写真もそうだが、どうも彼らは自らを被写体として意識しているのではないだろうか。まるで映画のワンシーンのような写真である。
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事実は小説よりも奇なり。最近の映画は実話に基づくものが多く、それはそれでよいのだが、純然たるフィクションが荒唐無稽になりすぎて、想像力の翼を気持ちよく広げることができない場合が多い。それゆえに、この映画のような事実に基づくもの、しかも実在の人物たちがそれなりの情報を残してくれている場合には、時代と正面から切り結ぶようなリアルな社会性が欲しいと、私は考えるのであります。

by yokohama7474 | 2016-07-24 00:27 | 映画 | Comments(0)  

帰ってきたヒトラー (デヴィッド・ヴェンド監督 / 原題 : Er Ist Wieder Da)

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最近の街の話題は、なんと言ってもポケモンGOであろう。日本先行かと思いきや、米国で開発されたゲームで、他国に続いて日本でもつい昨日、7/22(金)から配信開始となった。私はゲームをしない人間なのであるが、その理由は、きっとゲームにはまったら最後、仕事も家庭も放り出してのめり込んでしまうことを恐れるからである(笑)。ただ、報道で見るところのこのゲーム、スマホやタブレットを通して見る現実の風景の中にポケモンが現れ、それを捕獲するもののようだが、私としては幸か不幸か、それほど遊興心を煽られるようなことにはなっていない。というのも、古今東西の歴史的な場所や文化的イヴェントにわが身を置くだけで、残りの人生すべてを費やしても時間が足りないという思いに満たされているからで、架空の動物を捕まえる遊びには、私の心は正直なところ、さほど動かないのである。

だが、もし現代の街中に、アドルフ・ヒトラーがいたらどうしよう。これはちょっと見てみたいし、おそるおそる蹴ってみたり、冗談でハイル・ヒトラーの敬礼をして自尊心をくすぐってみたり、同盟国日本のことをどのくらい知っていたかについて日本語で問いかけてみたい。だがそれは、私の生きている時代も場所も、ヒトラーが生きていたところから遠く離れているから言えることだ。現代ドイツにおいては未だに、ヒトラーの存在がいかに複雑な影を投げかけていることか。本当に深いところは私には知る由もない。ただ、2008年、ということは終戦後60年以上経過したつい最近オープンしたばかりのベルリンのマダム・タッソー蝋人形館において、展示されたヒトラーの蝋人形の首が、早々にして執拗に何度も折られたという事件を聞いたときに、未だ消えることのない歴史の闇に震撼としたものだ。だがこの映画はあろうことか、お膝元のドイツにおいて現代にタイムスリップした本物のヒトラーが、物まね芸人として絶大な人気を博するという話。なんという大胆な企画。原題の"Er Ist Wieder Da"は、第2外国語がドイツ語であった私にとっては簡単だ。「彼がまたそこにいる」という意味だ(なんでもネットで調べられる便利な時代になったものだ 笑)。もともと小説としてベストセラーになったものの映画化である。これはヒトラーが現代に甦る瞬間。
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クラシック音楽を愛する者として、戦時中のドイツの音楽界の状況に多大な興味を持たないわけにはいかないので、その点からヒトラーの行状に対して思うところは多々ある。昨年の夏にはバイロイト音楽祭に参加し、ナチス党大会の会場であったニュルンベルクにも出かけた者として、フルトヴェングラーやブルーノ・ワルターやエーリヒ・クライバーやカラヤンやチェリビダッケの当時の行動に大きな興味を持つ者として、ヒトラーと音楽というテーマについては生涯研究して行きたいと考えている。だが、この映画の冒頭に流れる音楽がバリバリのドイツ音楽であるワーグナーやベートーヴェンではなく、イタリア音楽のロッシーニであるという皮肉は、なかなか面白いと思ったものだ。「泥棒かささぎ」序曲。この疾走感と愉悦感溢れる音楽ほど、ナチスドイツのイメージから遠いものもないだろう。だがこの後、映画の本編においては、数々の非ドイツ系音楽の断片が感性を刺激することとなったのだ。例えば、イギリス音楽であるエルガーの威風堂々第4番(あの有名な第1番ではない)。あるいは、フランス音楽であるオッフェンバックの「ホフマンの舟歌」(あの有名なメロディではなく、その前の序奏の部分だけ)。そして極め付けは、ドキュメンタリー風のラストシーンで流れる痛ましい音楽、イギリス音楽であるパーセルの「メアリー女王のための葬送音楽」だ。これらの音楽の組み合わせがこの映画に複雑な陰影を与えているし、「泥棒かささぎ」と「メアリー女王のための葬送音楽」が使われているとなると、映画好きには常識のこととして、もちろんあのスタンリー・キューブリックの「時計じかけのオレンジ」を連想することとなる。終末観と諧謔味。ヒトラーが起こした人類史上最大の悲劇は、もう笑うしかないという喜劇にも簡単に転じうる。その人間社会の危うさをうまく表現した音楽の使用法になっている。
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だが、私には分からない。果たしてヒトラーを笑いのネタにしてもよいものか。なるほど映画の歴史においてヒトラーは、未だ実際に勢いのあった1940年、早くもチャップリンがパロディ化しているし(ところでチャップリンの誕生日はヒトラーとわずか4日違いだということをご存知か。これは運命のいたずらとしか考えようがない)、その後も、例えばスピルバーグは「シンドラーのリスト」ではシリアスに、「レイダース」ではコミカルに非難しているように、ありとあらゆる映画でナチスは排撃されてきている。だがしかし、彼が実際に行ったことは人類史上稀に見る極悪非道なこと。その彼が現代のベルリンを闊歩するという発想自体、危険極まりない。この映画のしたたかなところは、そのような危うさを逆手にとって、ソックリ芸人としてのヒトラーを街に出してゲリラで人々の反応を見るという試みに結実する。親し気に挨拶する人。腹を抱えて笑う人。興味なさげに通り過ぎる人。中指を高らかに立ててののしる人。本気で怒りだす人。これが人々の率直な反応である。それというのも、このヒトラー役の役者、オリヴァー・マスッチの存在感、あえて言うならば、そのリアルな「ヒトラーぶり」が凄まじいからだ。
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現代ドイツの政治動向には詳しくないが、この映画においてはメルケル首相もあざけりの対象であり、ネオナチを含む怪しげな人々が沢山出てくる。そして驚くべきは、このヒトラー役の役者が、実際に演説をしたり、政党の党首と議論したりするシーンが、大変なリアリティを伴ってあれこれ出てくるのである。うーん、ヒトラー役に本当に何かが憑りついているように思えてくるのは、一体どういうことか。そして、笑いはいとも簡単に背筋も凍る人間の残虐さを思い知らせる要素となる。ラストに向けてヒトラーが観客に投げかける事実は、「ヒトラーは選挙で合法的に政権を取得した」ということだ。ナチスの残虐性は、人間社会の本質的な残虐性ということであり、その背筋を凍らせる危うさに、今度は笑うしかなくなってしまう。

この映画は、現実と虚構の入り子構造でできている。その意味では特殊な映画であって、決してテンポよい巧妙な演出とは思わない。だが、そのような演出であっても、題材によってこれだけの問題作ができてしまうのだ。ここには得体の知れない魔術がある。ヒトラー役を演じたオリヴァー・マスッチの言葉を借りよう。

QUOTE
いい映画には、心を掻き乱す瞬間があると思う。笑えるけれど、その笑いが凍りつく瞬間が何度もあるんだ。
UNQUOTE

上で何枚もヒトラー役の写真を掲げてきたこのマスッチの素顔はこれだ。
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な、なんだ。ヒトラーに生き写しかと思いきや、全然違う顔ではないか(笑)。再びマスッチの言葉を引用しよう。

QUOTE
(街中で撮影した際)僕がメイクをして衣装をつけた役者だということを完全に忘れている人たちもいて、彼らは真剣に僕に話しかけてきた。彼らとの会話で、人がいかに騙されやすいか、そして人がいかに歴史から多くを学んでいないかがわかったんだ。
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このようにして人間の歴史は行きつ戻りつするのだと思う。今日、移民問題やテロで揺れるヨーロッパに、もしヒトラーが再び現れたら何が起こるのだろう。それを考えると、ポケモンGOで街をほっつき歩く人々の生活は、平和なものなのだと思うのである。願わくば人々がゲームに夢中になるあまり、トラブルに巻き込まれないように。これは独裁者の扇動ではないので、自分の身は自分で守りましょう。

by yokohama7474 | 2016-07-23 22:01 | 映画 | Comments(0)  

マネーモンスター (ジョディ・フォスター監督 / 原題 : Money Monster)

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この映画の予告編は随分といろんなところで見たものであるが、米国の人気財テク (死語かと思ったが、上のポスターでも使われているので、まだ世間一般において通じるのだろう 笑) テレビ番組の生放送中に青年が拳銃を持ってスタジオに乱入、キャスターを人質にとり、そのキャスターの口車に乗ったがゆえに被ってしまった経済的損失の代償を求める。その危機に対して、オペレータールームの女性ディレクターが冷静に対処する。そんなストーリーがよく分かる予告編であった。だが、この危機が一体いかなる結末を迎えるのかは定かではなく、リアリティあるサスペンスとしての期待を高めるような予告編の作りであった。そして名女優ジョディ・フォスターが監督、主演がジョージ・クルーニーとジュリア・ロバーツと来れば、映画ファンとしては見に行かざるを得ないだろう。これは今年のカンヌ映画祭でのシーン。但しこの作品の出品は非コンペティション部門であったようだ。
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この映画、いろいろなところに工夫が凝らされていて、それなりに面白いし、また考えさせられる内容ではあると思う。だが率直なところ、いくつかの点でどうも納得できないところが気になって、残念ながら私にとっては、事前の期待感が充分に満たされたとは正直言い難い。以下、それらの点を考えてみたい。

まず全体的に、なんとなく映像の鮮明さを欠いていたこと。ストーリーのかなりの部分はテレビスタジオの中で展開するものの、疑惑の対象となるIbis Clear Capitalなる会社のCEOやその女性部下であるCCOの登場シーンには、オフィスビルや空港といったいろいろな場所が出てくるという対照は理解できた。だがそれなら一層、その対照を際立たせるため、スタジオ内の緊張をさらに高めるような強烈で息苦しいショットがあってもよかったのではないか。まず視覚から来る刺激という点で、私はどうもリズムに乗れなかった。これがIbis Clear Capitalのお二人。CEOウォルト・ギャンビーを演じるのはドミニク・ウェスト。COOダイアン・レスターを演じるのはカトリーナ・バルフ。あ、どうせこのような上司と部下の関係は何か意味深なのではないかと、すぐにそういう下世話な勘ぐりをする人、いると思います(笑)。ネタバレは避けるが、まあこの辺の設定の巧拙で映画の面白みはかなり違ってこよう。
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さらに言うなら、この男女と対照をなす二人、ジョージ・クルーニー演じるリー・ゲイツと、ジュリア・ロバーツ演じるパティ・フェンであるが、この二人の関係をどう見ようか。キャスターであるゲイツは、耳にイヤホンを仕込んでおり、そこからオペレータールームにいるフェンの指示を聞くことができる。そのおかげで、この非常事態においてもパニックにならずに犯人と対峙することができる。それぞれがプロであるからこそ可能なことだ。そんな二人が、果たして恋愛関係に陥るようなことがあるか否かについて下世話な勘ぐりをする人、いると思います(笑)。作品でもなんら明示はされないし、再びネタバレは避けるが、いずれにせよ、この二人の関係の描き方において、ポンと膝を打つリアリティは、正直あまり感じなかった。
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実際のところ私の最大の不満は、恐らくジョージ・クルーニーにある。軽薄な「財テク」番組のキャスターとしては、もっともっと軽薄に演じて欲しい。実はこの作品に限らず、最近の彼の出演作の中には、どうも「オーシャンズ11」の頃の、人を食ったような突き抜けた迫力がないような気がして、少し物足りないと思うのだが、いかがなものだろうか。そうそう、当時はこんな感じだった。おっとそういえばジュリア・ロバーツは、ここでも共演していましたね。この「マネーモンスター」でも、彼女の演技には好感が持てましたよ。
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私の不満の最後の点は、ストーリー展開である。犯人が意外とピュアで弱い面があるというのはよいし、人質に取られたリー・ゲイツが彼に感情移入する点には、ある程度予測できるところ。だが、ラストに至る場面で、街中を移動するなど、あまりにもリアリティが低く、緊張感が下がってしまう。「財テク」がらみの企てとして描かれるカラクリも、なんだかあまりビックリするような内容でもない。そうだ。我々は既に、リーマンショック時の実話に基づく「マネーショート」という恐ろしい映画を体験してしまった。あの作品で描かれていた仮借ない現代金融の闇の実像の恐怖のリアリティとは、この映画はついに無縁である。いやむしろ、フィクションとして楽しめるという意見もあるかもしれない。だが、ここで犯人カイル・バドウェル役を演じたジャック・オコンネルのインタビューを少し見てみよう。ジョディ・フォスターから脚本を受け取り、スカイプでオーディションに参加したが、それがフォスターとの初対面であった由。

QUOTE
物語については、リアルで説得力があるところに惹かれた。汚い世界の犠牲になったカイルに共感できたんだ。
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もちろんこれは素直な感想で大変結構だし、「リアルじゃないなぁと思いました」とはインタビューで言わないと思うが(笑)、演技の中に何かもっと狂気を感じるものがあれば、嘘からリアリティが生まれてきたかもしれない・・・と思ってしまうのはないものねだりか。
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このような現場でのジョディ・フォスターの写真を見ると、指導はきっと厳しいのであろうが、メガネにパーカーと、ラフないでたちでの熱血指導に、俳優たちもちょっと遠慮しているのかもしれないなと、余計なことを考えたりする。これまでの彼女の作品についてあまりイメージないものの、もちろんハリウッドの重鎮であることには誰も異論の余地のない存在であり、その彼女がメガホンを取ることの意義は大きいと思う。それだけに、もう少し丁寧かつイマジネーションあふれる内容の映画を見たかったというのが正直な感想なのであります。

と言いながら、この映画を見たときに劇場にサイン入りポスターが貼ってあったので写真に収めてしまった。ハートマークなんて書いている場合かい、と突っ込むのはやめにして、次回作に期待しましょう。
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by yokohama7474 | 2016-07-19 23:09 | 映画 | Comments(0)  

デッドプール (ティム・ミラー監督 / 原題 : Deadpool)

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上記はこの映画の米国でのポスターである。よって表記は当然英語だし、封切日も日本のそれとは異なっている。だが、なぜあえてそれを冒頭に掲げたかというと、日本のポスターだとこんな感じになってしまうからだ。
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うーん、なんかこの雰囲気、文化ブログにそぐわないんだよねぇ (笑)。スマホで記事の一覧を見るときなどには写真が並ぶので、あまりふざけていない方がよいと考えたもの。と、そんなこと誰も気にしないという説もありますが・・・。まあともあれこの映画の主人公は、上で明らかな通り、背中に刀を二本差している忍者風コスチュームのヒーローなのである。これは、スパイダーマンやX-Men シリーズ、あるいはアベンジャーズやトランスフォーマーなどで知られるアメリカン・コミックのマーヴェル社のキャラクター。設定は、特殊部隊出身のおしゃべりな傭兵であったウェイド・ウィルソンが不治の病に侵され、その治療と称して受けた医学的処置によって不死身の体になるというもの。通常のヒーロー物と異なる点は、まあなんとも下品かつ人間くさいこと。私はアメコミにおけるこのキャラクターの人気には全く疎いが、1991年の登場以来、かなり人気があるようだ。これが原作における姿。
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このキャラクター、実は2009年から映画化の話はあったとのこと。「ウルヴァリン : X-Men Zero」において、このデッドプールの前身であるウェイド・ウィルソン役を、本作でも主演を務めるライアン・レイノルズが演じていたのが始まりで、X-Men シリーズの派生作品として制作されるはずが一旦棚上げとなったところ、デッドプールのテスト映像がネットに流出し、ファンの大反響があったことから、今般映画化にこぎ着けられたとのこと。なるほど、熱狂的なファンの後押しあって初めて実現した映画であるわけだ。これが件の「ウルヴァリン : X-Men Zero」においてライアン・レイノルズが演じるウェイド・ウィルソン役。なんだ、意外に真面目にやっているではないですか (笑)。
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それから、「デッドプール」という名称だが、この言葉を題名にした映画が以前にもあった。それは「ダーティーハリー 5」の原題。
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実はこの「デッドプール」には様々な映画がコネタとして引用されており、面白いのであるが (言及されているのは、それほどマニアックでない映画が多いせいもあろう)、実は主人公がコスチュームを着て復讐に乗り出す際、名前を決めるときに、この「ダーティーハリー5」の原題に従うことが示される。この言葉の意味は、文字通り死人の掃きだめということであろうか、映画の中では、次に死ぬのは誰かという予想をするゲームのことを意味している。なんとも悪趣味なのであるが、この映画に次々と出てくるネタはお下劣で、文化ブログで扱うには若干気が引けることも事実だが、見ているときにガハハと笑っている自分を否定することなく (笑)、このまま記事を書き進めよう。

予告編でかなりストーリーにイメージが持てるような作りになっていたが、ここで描かれているのは、自分を不死身のヒーローにした代わりに醜い姿に変えてしまった科学者に対して復讐するデッドプールの姿である。このような顔はネタバレでもなんでもなく、予告編でも既に見ることができる。
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それはまぁ派手に敵の一群を撃ち殺しなぎ倒すのであるが、このスピード感あふれる切れ味よい殺陣には、何か特別な技術が使われているのだろうか。テンポ感やメリハリもあって、やけにカッコよい。こんな跳躍 + 銃撃もなかなか決まっている。
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それから、X-Men のメンバーが二人。実に対照的なのだが、一人は CG キャラのコロッサス。怪力で、ロシアなまりの英語がワイルドだ。
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もう一人は。ネガソニック・ティーンエイジ・ウォーヘッド (長い名前だなぁ)。身体の周りに膨大なエネルギーを溜めて放射することができる。若い女性だが、このスキンヘッドがなんとも印象的。
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上でこの映画を下品だ下劣だと貶めている割には、実は今、これを書いている私の気分は悪くない。それは、愛する人に対して示す態度や、デッドプールになる前のウェイド・ウィルソンが悪い奴を脅すエピソードにおいて、どうにも憎めないこのデッドプールのキャラクターがはっきり描かれているからであろう。つまりは優等生的なヒーロー像よりも、ダークサイドに入っているこのキャラクターの方が、なぜだか人は、より感情移入できるのだということだろう。うん、そうだ。この映画のような殺戮のような極端なケースではなくとも、ダークサイドの魅力は日常のいろいろなとことにあるものだ。予告編にも出てくる、デッドプールが復讐の殺戮に挑む前に、憎むべき敵のマンガ的肖像を描いているというこのシーンも興味深い。なんともとぼけていながら、一種の切迫感も感じさせる独特の雰囲気を持っているのである。
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それから、敵を取り逃がしたときのこの表情。マスクをしているのに、その慌てぶりがよく分かる (笑)。
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この作品の監督、ティム・ミラーは、これまで CM やゲームの分野で 20年以上の経験を積み、今回が長編映画の第一作。極端な架空のキャラクターを駆使しながらも、人間くささをあちこちに散りばめた面白い映画を作り上げた。最近この記事で採り上げている映画の監督には、たまたま未だキャリアの浅い人たちが多いが、それぞれに想像力を必要とする周辺分野から映画に移って来ているということだろう。所与のキャラクターや題材をもとに、いかに感情移入できる映像を作れるかという点が勝負であろうと思う。

この映画を見て、デッドプールに憧れる人というのはあまりないと思うが (笑)、一時だけでも自由な気分になれれば、それはそれで貴重な時間だと思う。このキャラは、原作でも読者に向かって話しかけるというが、この映画でも観客に話しかけるし、撮影しているカメラが汚れるようなシーンもある。そしてエンドタイトルの後にも人を食ったメッセージがあるのでお見逃しなく。ご存知ない方に申し上げると、ここでデッドプールが言っている「眼帯をしたサミュエル・L・ジャクソン」とは、アベンジャーシリーズに出てくるニック・フューリーのことだろう。出てこない出てこないと言っているが、それだけに次回作 (きっと作られるだろう) に出てくるのではないか・・・と思う次第。いい勝負になるのでは。
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by yokohama7474 | 2016-07-05 23:40 | 映画 | Comments(2)