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ロイヤル・コンセルトヘボウ オーケストラがやって来る (エディ・ホニグマン監督 / 英題 :Around the World in 50 Concerts)

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たまたま前回の記事でオランダ 17世紀の絵画を通じてこの国の文化的伝統について考えてみたが、この映画についての記事では、同じ国の音楽について考えてみることとしよう。オランダが誇る世界有数の名オーケストラ、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団が 2013年に創立 125周年を祝って世界ツアーを行ったときのドキュメンタリー映画だ。アムステルダムにある、たとえようもなく美しい響きのホール、コンセルトヘボウ (なんのことはない、「コンサートホール」というそのものズバリの意味だ!) を本拠地とするこのオケについては、既にこのブログでも、昨年 11月の来日公演の様子を、しかも名古屋と東京の両方のものについて書いたし (決してユジャ・ワンについてだけ書いたのではないですよ!!)、音楽好きの方には今更説明の必要もあるまい。だが、やはり日本における知名度から言えば、ベルリン・フィルやウィーン・フィルにはひけをとっていると言うしかないだろう。この映画も、全国で東京・渋谷のユーロスペースと、大阪のシネ・リーブル梅田の 2館でのみの上映となっている。この手の映画こそ早く見ないと終わってしまうと思い、NHK ホールに行く前に、12:20 の回を見ようと出かけたのだが、時計を見ると劇場到着は上映開始寸前。まあ、クラシック音楽に興味のある人しか見ない映画であろうし、世の中ではクラシック音楽ファンなんて、大変にマイナーな存在であるから、どうせガラガラだろうと思いきや、あにはからんや、劇場はほぼ満席の大盛況。ここでまた常套句を繰り返そう。恐るべし、東京。

さてこの映画は、世界 32都市 (当然そこには東京と、それから川崎が含まれる) で行われたツアーの中から、アルゼンチン、南ア、ロシアでの演奏会の様子やそれぞれの土地の人たちの音楽との関わりを伝えており、そこに本拠地アムステルダムでの光景、楽団員のインタビューやホテルでの様子などを加えた構成だ。オケの現在と、聴き手にとって音楽がいかなる存在でありうるかという点に焦点を当てているので、楽団の歴史とか、音楽監督マリス・ヤンソンスのインタビューなどはない。もちろん音楽ファンとしては、ヤンソンス以外に指揮を取っているシャルル・デュトワや、ソリストのデニス・マツーエフやジャニーヌ・ヤンセン (彼女はオランダ人で、もうすぐ来日してリサイタルと N 響との共演があるはず) から、何か言葉を聞けないものかなぁと思ってしまうが、その期待は満たされない。だがその代わり、音楽をするという行為が人々の心を動かし、人々の生活を豊かにするものなのだという、言葉にするとちょっと恥ずかしくなるようなことを改めて実感させる、そんな映画である。
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面白いのは、映画が始まる前にフルート奏者とファゴット奏者がインタビューに応じているシーンが挿入されているが、そこでこのオケの特色を語る際に、楽員の間で家族のような一体感があるという話が出て来る。いわく、「ここではミスをしても許し合える寛大さがある」と。これ自体はよく分かる話だが、私が昨年 11月の記事で採り上げた通り、名古屋と東京で起こったことは以下の通りだった。
・まず、名古屋での「シェエラザード」の演奏で、ファゴットのパートが 1か所抜け落ちてしまった。
・その演奏会のカーテン・コールで指揮者のグスタヴォ・ヒメノ (もとこのオケの楽員出身) は、そのミスをしたファゴット奏者を最初に起立させた。
・数日後、東京での同じ「シェエラザード」の演奏では、ファゴットは無事ミスなく演奏。
・その日のカーテン・コールでも、ヒメノは (華麗なソロを吹くはずもなく、普通は最初に起立することはない) ファゴット奏者を最初に起立させた。ファゴット奏者は苦笑。
この映画の冒頭で語っているうちのひとりは、件のファゴット奏者だ。そうすると私が目撃した上記の光景は、図らずもこのオケの特色を表す貴重な機会であったわけだ。・・・と思って画像検索などしてみると、この写真を発見。どうやら雑誌「モーストリー・クラシック」の取材時のものらしい。
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記憶は定かではないが、この服装は冒頭のインタビューのシーンと同じではないだろうか。「モーストリー・クラシック」の取材??? そうすると上記の発言は、日本での「事件」の直後のものなのかもしれない。確証はありませんが・・・。因みにこのファゴット奏者、ウルグアイ出身のグスタヴォ・ヌニェス・ロドリゲスで、プログラムに掲載されているオーボエの宮本文昭の文章によると、サイトウ・キネンで一緒に演奏したこともあるとのこと。尚、昨年の日本公演の指揮者であったグスタヴォ・ヒメノも、打楽器奏者としてちらっとこの映画で映っていて、コンサート終演後に仲間とスペイン語で何やら話している。

映画の中で取材されている一般の人々は、クラシック音楽が精神の均衡を保つために必要と語るブエノスアイレスのタクシー運転手、昔メニューインを聴いたと語る、子供に楽器を教えている南アの黒人男性や、太鼓を叩いて音楽に歓びを見出す貧しい少女、また、名家の出身ながらスターリン、ヒトラーによって運命を翻弄されたロシア人の老人など。特に、その表情が誠に印象的な南アの少女は、コンセルトヘボウとは直接関係はないものの、未だに各地に残る大きな貧富の差という現実の中で、音楽がいかに平和で平等なものであるかを示すことで、音楽の意義を再認識させてくれるのだ。
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数々の楽曲が出て来て、音楽ファンは当然楽しめるが、大詰めでロシアの老人がその長い人生でなめてきた辛酸を語り、そしてマーラーの「復活」交響曲のクライマックスが高らかに鳴り響くシーンは、音楽ファンならずとも、冷静ではいられないだろう。きれいごとではなく、音楽から勇気をもらうことがいかに感動的であるのか、平和ボケの日本にいてはなかなか実感できないことを、この映画を見る観客は実感することができるのである。

監督のエディ・ホニグマンは、ドキュメンタリー専門で、1951年ペルーのリマ生まれの女流監督だそうだ。あ、そうすると、映画の中でインタビューする女性の声は、この監督のものだったのか。山形国際ドキュメンタリー映画祭でも何度も賞を取っているらしい。なるほど、通りいっぺんのオケの紹介ではなく、上に書いたような、深いところでの人々にとっての音楽の必要性を描く点からも、優れたドキュメンタリー映画の制作者としての知見が光っている。ヤンソンスとかデュトワが、このオケの美点をいかに語ろうとも、それはクラシック音楽ファンという狭い層にしかアピールしないが、南アの貧しい少女が音楽に没頭するシーンは、より広い観客に対する強いメッセージになる。
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本当はヤンソンスのこととか、このオケの今後のことなどを書こうかと思ったが、映画を見て、それはやめようと思い直した。この写真が彼らの本拠地コンセルトヘボウだが、私の残りの人生において、またこのホールで音楽を聴くとき (できる限り多く実現するよう頑張ります)、この映画で描かれた人々のことを思い出さずにはいられないなぁ、と思うと、いつになくセンチメンタルな思いにとらわれてしまうのであります。
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by yokohama7474 | 2016-02-07 22:00 | 映画 | Comments(0)

ザ・ウォーク (ロバート・ゼメキス監督 / 原題 : The Walk)

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私はもともと 3Dには懐疑的で、映画を見たあとの残像 (映像のことだけではなく、映画の評価自体も含めて) は、2D だろうが 3D だろうが関係ないと思っている。いやむしろ、下手な 3D映画では、本来の映像の必然性と関係なく、これみよがしに手前で何かが動いているのを見ることになり、なんとも姑息な感じがすることもある。だがその一方、もし 2Dと 3Dと両方選択肢があるとすると、どうせなら 3Dで見たいと思うのもまた人情。というわけでこの映画もしかり。どうせなら 3Dで見て、思い切りクラクラしてみたい。

というのも、この映画のクライマックスはこんな感じだからだ。
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な、何をしているのだコイツは一体。はい。1974年、完成したばかりのニューヨークのワールド・トレード・センターの 2本のタワーの間を、命綱なしに一本のワイヤーの上を歩いて渡っているのだ。実際にそれをやったバカがいて、この映画はその事実に基づいて作られている。上のポスターにある通り、高さは 411m、ワイヤーの幅は 2.2cm。そのどうしようもないバカの名前はフィリップ・プティ。フランス人だ。彼が本当にこのバカなことを成し遂げたときの写真はこれだ。これはドヤ顔というのとはちょっと違うが、どことなくミック・ジャガーを思わせるこのふてぶてしさはどうだ。
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恥ずかしながら私は高所恐怖症。だからこのような映画を見に行くのは、ド M な行為にほかならないのだが、ちょっと待て。我々はこの実在のバカ、フィリップ・プティが今も存命なのを知っている。なので、この映画の中で彼が空中から真っ逆さまに落ちることはないのだ。加えて、こちらの方がより重要だが、これは映画である。よしんば劇中で主人公が落っこちようと、それは映画の中の話であって、私の無事は保障されているのだ。こんな安全な話はない。ということで私は勇み立って IMAX 3D でこの映画を見たのである。

IMAX とは、通常よりも巨大なスクリーンを使い、しかも最高の音響を実現するシステム。これは IMAX 社の登録商標で、国外でも共通のロゴが使われているが、日本では 109シネマズでのみ IMAX を見ることができるのだ。なので、109 シネマズで映画を見ると、予告編の前に上映される宣伝の中で、いかに IMAX がすごいかを口々に語る人たちがいて、その熱狂ぶりが笑えるのであるが、ある女性は「多分よけちゃったもん、私」と笑いながら語っている。私はこれまで何度も IMAX で映画を楽しんでいるが、「なにを大袈裟な」と冷ややかにその宣伝を見てきた。画面に何かが飛んできて、それを思わずよけてしまったことはない。いや、なかった。この映画を見るまでは・・・。正直に白状する。この映画で主人公が綱渡りの練習中に失敗して落ちてしまうシーン、バランスを保つ棒だか何かが、すごい勢いで振ってきて、ああなんたること、私はそれを思わずよけてしまったのである・・・。

だから私は言おう。初めてリアルにゾクゾクする IMAX 3D を経験したと。だが、この映画の特徴がそこだけにあると思ったら大間違い。実は、このようなバカなウォーキングに至るまでの紆余曲折と、ギリギリまで様々な困難とアクシデントにつきまとわれた主人公たちの信念と実行力こそが、この映画の大事な点なのである。この映画の予告編を見たとき、ワールド・トレード・センターの 2本のタワーの間を歩いたバカがいたことは分かったが、それがどのようにして成し遂げられたのかは、全くヒントがなかった。考えてみれば、こんな命にかかわるパフォーマンスを、当局が許すわけはない。ではどうしたか。ゲリラである。共犯グループを結成し、入念な下調べをし、そして当日はビルの屋上に不法侵入し、ちゃんと写真を撮るカメラマンも身内で用意し、それから最も重要なことに、ちゃんと渡れるワイヤーを張るために 2本のタワーの間に補助ワイヤーも通し、万全の準備を徹夜で行って、そして夜明けを待ってコトに及んだわけである。なのでこの映画のひとつの大きな見どころは、手に汗握る事前の準備の描写なのだ。いや実際、何度も挫折が訪れかける。仲間内でも確執が起こり、計画は困難に次ぐ困難に直面するのだ。この過程は、繰り返すが、本当にスリリングで面白い。こんな破天荒なことを企んだ男に、よくぞこれだけのサポートがあったものだ。これがその共犯チームだ。あ、その意味では、1974年当時のニューヨークを見事に再現したこの映画のスタッフも、立派な共犯者と言えよう。
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なにせ監督があのロバート・ゼメキスである。クライマックスの空中ウォークに至るまでの紆余曲折を、無類の語り口で描いていて素晴らしい。手に汗握りながら、安心して見ていられるというこの矛盾。かくして私は、落ちてくる棒を思わずよけてしまうのだ (笑)。
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役者たちも素晴らしい。主役のフィリップを演じるのは、ジョゼフ・ゴードン・レヴィット。カリフォリニア生まれのアメリカ人だが、フランスの台詞も多く、またフランス語なまりの英語もなかなかリアルであった。彼の顔は一見特徴がないようでいて、一度見ればなぜか忘れない顔だ。ブルース・ウィルス主演の「Looper」での演技が印象深かった。これからもどんどん活躍するだろう。
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彼の恋人、アニーを演じたのは、こちらはモントリオール生まれできっとフランス語も母国語として喋るはずの、シャルロット・ルボン。
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素直なキャラクターを素直に演じていたと思う。どこか、まだ若くて初々しかった頃のウィノナ・ライダーを思わせるところもある。まあ、美形という意味ではウィノナ・ライダーの後塵を拝しているかもしれないが、自分に合った役柄をこなしていけば、いい女優になると思う。

さて、もうひとり、ビッグな俳優が出演している。サーカスを率いる座長で、フィリップを指導するパパ・ルディを演じる、あのベン・キングズレーだ。
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あの「ガンジー」から何年経っただろう。あの頃既におじいさんと思ったので、今や相当な年かと思いきや、まだ今年 73歳。このような、とぼけていながらある点で大変頑固、でも実は心根の優しいキャラクターを演じたらピカイチだ。英国人のくせに、チェコ出身の男という役柄で、妙な東欧なまりの英語を喋る。

そんなわけで、なかなかに充実した映画であって、決して高い場所でのクラクラするシーンのみを楽しむべきではない。いやそれどころか、この一大イヴェントを成功させるまでの主人公グループの苦労が多いだけに、クライマックスシーンは静粛で感動的なものになっている。人は彼を無謀なバカ者と呼ぶであろうが、想像するに、彼が空中 411mのワイヤーの上にいたときほど、生きているという深い実感を抱いたことはなかろう。普通の人には経験できない、究極の生を生きたわけである。そんな経験をすれば、きっと人生が変わる。本当に命をかけることで、命の尊さが分かるであろう。まあ私の場合は、そこまでして生を実感したくはないが、でも、想像の翼を働かせて、フィリップの思いをこの映画を通して追体験するのだ。ワイヤーの上のシーンは結構長く、やってくる警官やヘリ、地上の群衆、そして神の化身かとすら思われる鳥、吹いてくる風、揺れるワイヤー、そういったものたちに対するフィリップの思いが語られることで、ただの見世物でない彼の行為が、なんとも素晴らしいものに思われてくるのだ。

この写真は、現在のフィリップと、主演のジョゼフ・ゴードン・レヴィット。多分、この二人の間だけで通じる言語があるのであろう。
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この映画では、ワールド・トレード・センターがその後どうなったかについての言及はないし、ノスタルジアやテロへの警鐘も見当たらない。ただ、そんな要素を入れずとも、この映画を見る百人が百人とも、その後のこのビルの運命に思いを致すであろう。世界は不安に満ちている。だからこそ、411mの空中でワイヤーの上に寝そべったフィリップの行為が、もはや永遠にかなわない人類のひとつの特別な行為として、人々の感覚を強く刺激するのだろう。この場所で何千もの命が散ることになることを、その時命をかけたたったひとりの男は知る由もないが、一本の細いワイヤーの上で輝いたひとりの命こそ、本当に尊いものであったと思い知るのだ。過剰さや感傷を避けたゼメキスの演出が、そのことを雄弁に語っている。・・・ただ、IMAX 3D でこれを見たあと、まるで中空で宙ぶらりんのような気がして、一晩中船酔いのような気持ち悪さにとらわれたことも、正直に告白しておこう (笑)。絶対忘れることのない映画になった。

by yokohama7474 | 2016-02-04 00:19 | 映画 | Comments(0)

クリムゾン・ピーク (ギレルモ・デル・トロ監督 / 原題 : Crimson Peak)

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ニューヨークに住んでいた 2007年頃、何やら私の琴線に触れる不気味な映画のポスターが私の目をとらえた。それはスペイン映画で、"Pan's Labyrinth" という題名。日本での公開もそのまま「パンズ・ラビリンス」であったようだが、ここでのパンとは、手のひらに目のある不気味な妖怪のような存在。ラビリンスはもちろん、迷宮という意味だ。結局私はこの映画を、廉価で購入してきた DVD で英語字幕とともに自宅で見たのだが、少女の見る幻影が不気味でありながらなんとも切なく、大変感動して、ラストではかなり涙腺が危なくなってしまった。こんなイメージだ。感動の超大作という感じがするでしょう (?)。
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今回の映画、「クリムゾン・ピーク」は、その「パンズ・ラビリンス」と同じギレルモ・デル・トロ (メキシコ出身) の脚本、製作、監督による作品。しかも上のポスターを見ると、なにやら不気味なゴシックホラー風だ。これは見るべき映画であろう。そもそもクリムゾンと名の付く映画は、「クリムゾン・リバー」「クリムゾン・タイド」など、タイプは違えどなかなか優れた映画が多い。クリムゾンとは、濃い赤色のことだから、毒々しい血のイメージと通じるし、言葉の響き自体がなんとも不気味で重々しくて、なかなかよい。もちろん、ロックバンド、キング・クリムゾンの名称もこの色に因むものであろう。このような屋敷が丘 (ピーク) の上に建っていて、冬に雪が積もったときに粘土質の土が浮き出て血のように雪を染める現象を、クリムゾン・ピークと呼んでいるという設定だ。
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この映画の舞台は 20世紀初頭の米国と英国。新旧両国の当時の微妙な関係が物語のひとつの大きな背景になっている。英国の旧家は没落し、準男爵という称号を持つ男が新たなビジネス機会を求めて姉とともに米国へ渡り、そこで知り合った女性と結婚して英国の古い屋敷に戻ってくるというストーリー。その花嫁イーディスを演じるのは、ティム・バートンの「アリス・イン・ワンダーランド」のアリス役を務めた、ミア・ワシコウスカ。
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1989年生まれだから、2010年作のアリスの映画では当時既に21歳。正直、アリスというイメージとは違ったし、全然可愛らしいとも思わなかったが、その不思議ちゃんな雰囲気だけはよかった。そのアリスも第 2弾の予告編が今劇場でかかっており、さすがに 20代後半のアリスはどうかとも思うが、ジョニー・デップやヘレナ・ボナム・カーターが相変わらず嬉々として演じているので、きっとそれも、公開されたらやむなく見に行くことになるのだろう。ともあれこの映画でのワシコウスカは、時代もののコスチュームが意外によく似合っており、恐怖に怯えながらも真実を求める勇気を持つ女性を、巧く演じている。ニコール・キッドマンと共演した「シークレット・ガーデン」でも不気味な少女を演じており、役柄のイメージが固定して来ているきらいはあるが、この作品の雰囲気にはぴったりでしょうと言われれば、まあそうかな。でもいつか、明るい女性を演じる日が来るでしょうかね。

その相手役、トーマス・シャープ準男爵を演じるのは、トム・ヒドルストン。
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「マイティーソー」での悪役ロキが強烈な印象を残した彼であるが、私にとってはもうひとつ忘れがたい映画があって、あのジム・ジャームッシュの近作「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ」なのだ。この映画、あまりヒットしなかったと思うが、共演のティルダ・スウィントン (あのデレク・ジャーマンの鳥肌立つ素晴らしい作品群を飾った女優だ) とともに、哀しい吸血鬼の姿をリアルに描いてみせた、上質な映画であった。今調べてみると、ミア・ワシコウスカもあの映画に出ていた。おー、そうでしたそうでした。そして、上の写真と同じ男女の俳優がこんな風に全く違う共演をしていたということがすぐに分かってしまう、ネット社会の恐ろしさ (笑)。
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そしてもうひとり重要な役柄は、トーマスの姉、ルシール・シャープ。演じるのはジェシカ・チャステイン。彼女は誰あろう、キャスリン・ビグロー監督のハードな作品、「ゼロ・ダーク・サーティ」の主役だ。その変貌ぶりをご覧あれ。
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このように豪華な役者陣を配しているこの映画、出来栄えはというと、残念ながらもうひとつと言うしかない。前半のテンポは悪くないし、例えば作家志望のイーディスを皮肉る中年の婦人との間で、ジェーン・オースティンとメアリー・シェリーが引き合いに出されるやりとりがあるシーンなど、なかなかにウィットが効いていて、時代の雰囲気もよく出ていた。ところが舞台がシャープ家の古い屋敷に移ってからは、話の展開は鈍くなり、ラストに向かって明かされる謎の内容も、別になんということもない。そもそも、登場する幽霊たちのメッセージがよく分からないし、それらの人たちが残した惨劇の証拠を犯人側がそのまま置いているという設定も、いかにも説得力がない。あの「パンズ・ラビリンス」が持っていた切なさが、ここには決定的に欠けているのはどうしたことか。のみならず、あろうことかひとりの幽霊は床の上を這ってキリキリと音を出し、あの「呪怨」の伽椰子の真似までなさるのだ (笑)。もちろん、幽霊さんたちの登場シーンに怖さがないわけではない。でも、怖さの裏にはかなさとか切なさがあってはじめて、映画としての奥行が出ると思うのに、ここではまるでお化け屋敷の幽霊たちになってしまっている。ミア・ワシコウスカが冒頭に呟き、ラストでも繰り返す、"Ghosts are real." (幽霊は実在する) という言葉が宙に浮いてしまった感じである。こうやって一生懸命スタッフが作ったみたいなんですけどね。そういえばこの幽霊の顔、作っている二人の顔を足して二で割ったようですな (笑)。
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考えてみればこの監督、「パンズ・ラビリンス」のあとにハリウッドの大作を監督している。それは、「パシフィック・リム」。日本の怪獣ものに影響された Kaiju 映画であったが、期待して見た私の評価は No Tnank You な映画で、記憶から既にほとんど消去してしまった。うーむ、これはまずい傾向だ。この監督、自らの美点をうまく発揮できない方向に向かっているのでなければよいが。その意味で、一貫してずっと自分の持ち味を活かしているティム・バートンなどをもう少し見習ってはどうか。あるいは、もう少し低予算で趣味性の高いものに回帰してはいかがか。映画のプログラムには、「完璧なキャストがもたらしてくれるのは、大胆になるためのチャンスだ。勇気を持ち、実験的になるためのチャンス、さらに馬鹿げたことを試みるためのチャンス。映画はときに馬鹿げたことをやってみていいときがある」という監督の言葉が載っているが、その言葉の通りであれば、次は是非もっと馬鹿をやって欲しい。まあこの表情は子供の純真さをまだ持っているとでも評価しておきましょうか (笑)。
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by yokohama7474 | 2016-02-02 23:30 | 映画 | Comments(0)

スター・ウォーズ / フォースの覚醒 (J.J. エイブラムス監督 / 原題 : Star Wars The Force Awakens)

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これは世間で言うところの常識であろうが念のために書いておくと、スター・ウォーズは全 9作構成になっていて、1977年に製作された最初のものは、エピソード 4。「新たなる希望」という副題が後になってつけられた。最初の三部作はエピソード 4・5・6。それからエピソード 1・2・3 の順に製作されてきた。直近の製作になるエピソード 3 は 2005年の作。なんでも、エピソード 1~3 はアナキン三部作、4~6 はルーク三部作、そしてこれから始まる 7~9 はレイ三部作だそうだ。レイとは、上のポスターで真ん中左側にいる若い女性。彼女がこれからの主人公ということになる。今回のエピソード 7は昨年、2015年公開だから、最初の作品から既に 38年。前回の作品、エピソード 3 からでも 10年の期間を経たことになる。実に息の長いシリーズである。私は特に熱狂的なスター・ウォーズ・ファンということでもないけれども、もちろんすべてのシリーズを見てきている。また随分以前だが、このシリーズの美術に関連する展覧会にも出かけたことがあって、もとはといえばジョージ・ルーカスというひとりのクリエーターの頭の中の構想が、何百人、何千人という作業者の手を経て映画になり、それが世界何億人の人たちに発信されているのだということを考えるとクラクラしたものだ。今回の作品の世間の評価がどうなのかはよく知らないが、私の回りの人たちの中には、これを天下の名作と思っている人はいなさそうだ。劇場は充分混雑してはいるが、正月映画として「妖怪ウォッチ」に興行成績が負けてしまったと聞いたが、さて、その中身やいかに。

私の期待の第一は、監督が J.J. エイブラムスであるという点であった。現在進行中の「スタートレック」シリーズもよいが、スピルバーグ製作による「スーパー 8」がファンタジーあふれる素晴らしい作品であったからだ。スター・ウォーズ・シリーズの新作ともなると、世間の期待も大きなプレッシャーになり、知名度による動員もあらかじめ相当見込めるとはいえ、いわば成功して当たり前。もし面白くなかったら大変なことになる。今回の脚本は、監督自身と、それから、「シルバラード」等の映画が封切られたときには名監督と評価されたローレンス・カスダンも名を連ねている。

多分この映画に不満を覚える人は、以前のシリーズを見ていれば、「なんだ、前のと同じじゃん」と思う人であろうし、以前のシリーズを知らないなら、「クライマックスのサスペンスが最近の映画にしてはイマイチ」という人なのではないだろうか。だが、私としては、だからこそこの映画は評価に値すると考えたい。例えば、3-CPO と R2-D2 がほとんど出てこない代わりに、BB-8 というロボット (劇中ではドロイドと呼ばれる) が出て来て、観客を楽しませてくれる。下のボールの部分が転がり、上部の顔のような部分は水平に保たれているという構造。CG ではなく実際にそのような動きをするものを作ったらしい。これが人の会話に様々反応し、なんとも可愛らしいのだ。
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それから、酒場のシーンを中心にワサワサ出て来るクリーチャーたちは、これも CG 全盛時代に、あの昔ながらの手作り感満載だ。
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それから、主人公たちの乗り物。レイが颯爽と砂漠の中を走り抜けるこのアイスキャンディのような乗り物も、第 1作の乗り物からしてそうであったように、停まっているときも自然に宙に浮いていて、懐かしささえ覚える。
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そのように、明らかに作り手の意図は、昔ながらのスター・ウォーズの世界、あるいは第 1作のエピソード 4 への回帰にあるように思う。正直、アナキン三部作と呼ばれるらしい、エピソードの 1から 3は、あまり面白くなかった。アミダラ姫を演じたナタリー・ポートマンがどこかのインタビューで、CG や合成が多くて、撮影のときに完成作を想像もできず、実際に作品を見たときに、「行っていない旅行の写真に自分が写っている感じだった」と語っていたが、いやいや、それはよく分かる。もちろんこの作品も CG・合成満載であるが、クローン大戦が起こるわけでなし、役者の体が大きな実在感を持っている。

題材に関しても、過去を思い出させる要素が様々ある。黒いマスクをかぶって声のこもった悪役。繰り返される親子の確執。引き離された家族。目覚めていくフォース。そして大詰めは、巨大な敵の要塞を攻撃するシーンで、これはデススター破壊と同じではないか。だが、これって何かちょっとほっとしませんか。例えば最近のスーパーマンシリーズを考えてみよう。力の強い者同士が殴り合うシーンをリアルに表現しようとすると、地面は砕けビルは壊れ、うるさいことこの上ない。X-Men やアベンジャーズも、なんだかよく分からない強敵が現れ、どうやって地球を危機に陥れるかを考えることに作り手が汲々としている様子が伺える。その点スター・ウォーズ・シリーズなら、原点に戻るという選択肢があるのだ。これは、エピソード 4 でハン・ソロとチューバッカが乗っていたミレニアム・ファルコン。本作ではレイが、「長年放置されているおんぼろ船」として脱出に利用する。カッコいいじゃないですか。なんとも効率的な廃品利用であり、技術の伝承だ (笑)。
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その一方で、第 1作から 40年近い時の流れを感じる点も多々ある。象徴的なのは主人公たち。レイア、ルーク、ハン・ソロという 3人はいずれも白人であった。今回新たに出て来るキャラクターの中心 3人は、女性、黒人、ヒスパニック。レイアは勇敢に戦う女性ではあったかもしれないが、男性を励まし、ついて行く女性であった。だが今回の主役レイは、男に手を引かれると引きはがし、自らバッタバッタと敵をなぎ倒すのだ。まあ、マスクに隠れて顔の見えない帝国軍側の兵士も、こうなると実は女性が多いのかもしれないが (笑)。演じるデイジー・リドリーは 1992年生まれの英国人。これが本格的な映画デビューのようだ。新時代のフォース覚醒にふさわしい素晴らしい女優ではないか。
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この、女性、黒人、ヒスパニックが救うアメリカ合衆国、あ、違った、共和国であるが、しかし、第 1作と決定的に違うのは、そのエンディングだ。今でも明確に覚えている、祝祭感覚あふれるあのエピソード 4の華やかで和やかなラストシーンと異なり、今回の勝利には笑顔はない。犠牲になった命への哀悼と、まだまだ続く戦いへの緊張感が支配しているのだ。これこそ、1977年時点の米国 (ソ連崩壊も、湾岸戦争も、9・11 テロも、黒人大統領も、IS の台頭も知らない米国) と 2015年時点の米国の明らかな差ではないか。この映画にはその時々の米国の在り方が、如実に反映されているのだ。

またこの映画の美点は、以前の 3人、レイア・オーガナ役のキャリー・フィッシャー、ルーク・スカイウォーカー役のマーク・ハミル、ハン・ソロ役のハリソン・フォードが揃って出演していることだ。その間に過ぎ去った時間をそれぞれリアルに顔に刻印して。ハリソン・フォードは近年自家用飛行機の墜落事故に遭っており、ヒヤリとしたが、皆健在でよかった。もっともこの 3人のうちで立派にハリウッドのトップ俳優としてキャリアを築いたのは彼だけなのであるが、そのキャリアに恥じない、とても 73歳には見えない素晴らしいハン・ソロぶりであった。マーク・ハミルの場合は、以前「キングスマン」の記事でも紹介した通り、なんとも老けた感じになってしまって、この映画にはもう出られないのかと思っていた。しかしながら、本当に最後の最後、孤島に隠遁するルーク・スカイウォーカーとしてほんの少しだけ登場するのだ。こんな感じ。なるほどこれはこれで、悪くはない。よく見ると面影があるし。
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それにしても、ほんの数カットにしか出てこないのに、この映画のエンドタイトルで、彼の名前は役者として 2番目に登場するのはいかがなものか。効率的なギャラの稼ぎ方である (笑)。そういえばエンドタイトルでもうひとり、驚きの役者名を発見。マックス・フォン・シドー。実に 86歳のスウェーデンの名優だ。往年のベルイマン映画で歴史に名をとどめる伝説的俳優だが、あの「エクソシスト」のときですらお爺さんだと思ったのに、まだご健在とは!! ロア・サン・テッカという役で少しだけ出ていて、正直なところ私も見終ったあとで彼と気づいた次第。これは本作のワールドプレミエのときの写真だ。帝国軍の兵士と一緒とは、天国のベルイマン監督が見たら腰を抜かすんじゃないかな (笑)。
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さてさて、このようにこの作品は過去に学び、原点の偉大さに敬意を払いながらも周到に現代の要素を取り入れているのであるが、嬉しかったのは音楽だ。ここでは、ジョン・ウィリアムズの手になるあのメインテーマが高らかに使われていることに加え、音楽担当者として彼の名前がクレジットされているので、実際に新たに作曲したものも入っているのだろう。実は、「ブリッジ・オブ・スパイ」では当然盟友スピルバーグと組んで音楽を担当するはずであったのが、体調不良で果たせなかったとのこと。もしかすると、本作で疲れ切ってしまったのかもしれない。彼も既に 83歳。映画音楽というハードワークに耐えるだけの体力維持がなかなか難しいのかもしれないが、是非、まだまだ頑張って欲しいものである。
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では最後に、音楽ファンの方々にとっておきのネタをご提供しよう。これはウィキにも、映画のプログラムにも書いていないことだ。これだけの規模の映画では、エンドタイトルに目を凝らすのも大変なのだが、ひとつ目に入った情報がある。この映画の音楽は、作曲は上記のジョン・ウィリアムズ。そして劇中に使われている演奏を指揮しているのは、作曲者自身と、もうひとり知らない名前があった。フーン知らないなと思った次の瞬間、その下に、Special Guest Conductor というタイトルで、あっと驚くある有名指揮者の名が登場。それはこの人だ。
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なんと、今をときめくあの天才指揮者、グスタヴォ・ドゥダメルではないか!! 一体どの部分の音楽を指揮しているのか知らないが、Special Guest ということは、場合によってはメインテーマだったりするかもしれない。もしかするとこの役目は、彼が今、ハリウッドのおひざ元 LA のロサンゼルス・フィルの音楽監督であることと関係しているのだろうか。そういえば、第 1作が封切られたときに同じロス・フィルの音楽監督であったズービン・メータ (今年 80歳) は、サントラとは別に、ロス・フィルとともにこの曲のテーマを録音していたものだ。その意味でもこの作品は原点回帰、そして世代交代を意識した製作態度を通しているように思う。どんな天才鬼才も、年は取って行く。だが、あらゆるかたちでその経験や技術が伝承されているところに文化のよさがある。素晴らしいことではないか。

by yokohama7474 | 2016-01-31 23:15 | 映画 | Comments(0)

ブリッジ・オブ・スパイ (スティーヴン・スピルバーグ監督 / 原題 : Bridge of Spies)

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スピルバーグの名前は現代映画界においてヒットを約束する魔法の呪文であり、製作作品ではなく彼自身が監督した作品は、ロングラン間違いなしと思っていた。この映画の封切は 1月 8日 (金)。まだ 3週間しか経っていない。まだ全然大丈夫だと思っていたある日、私がよく行くシネコンでは、あろうことか 2月 4日 (木) で上映終了とあり、慌てて見に行く羽目になったのである。もちろん、映画好きたるもの、スピルバーグの新作を封切で見逃すようなことはあってはならないのだ。

実際に見てみて、あまりヒットしない理由もなんとなく分かるような気がした。それにはいくつかの理由があるので、以下で考えてみたいと思う。まず、予告編では、「普通の人に重要な使命が与えられた。さあどうする?」というイメージで宣伝されていた。ところが、トム・ハンクス演じる実在の弁護士ジム・ドノヴァンはいかなる意味でも凡庸な人ではない。日本はともかく、米国では明らかに最も重要な職業である弁護士であり、しかも凄腕であり、第二次大戦後のドイツの戦犯を裁いたニュルンベルク裁判では検察官を務めた実績もあるのだ。だから「普通の人」云々はこの際忘れよう。次の理由。これはスパイを題材にした映画である。最近のスパイ映画はこのブログでも採り上げてきたが、「ミッション・インポッシブル ローグ・ネイション」「キングスマン」「コードネーム U.N.C.L.E.」「007 スペクター」に比べてこの映画の娯楽的要素はいかがか。1950 - 60 年代に実際に起こった事件をもとにしたこの映画、人間ドラマではあっても、決して超絶的な能力を持っているスパイの映画ではない。この点においてのみ、主役のジム・ドノヴァンを普通の人と呼んでもよい。そして第 3の理由。日本ではスピルバーグは未だ子供向けの映画の監督だと思われているのではないか。だが普通に映画の好きな人なら、この監督が随分以前から娯楽作品とシリアス作品との両方を撮ってきたことを知っているはず。
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そして彼の撮るシリアス映画は、どれひとつとして現代と切り結ばないものはない。この映画もそのひとつで、ユダヤ人であるスピルバーグが戦後のドイツ分裂を扱っている点に、既に歴史的な価値が生じている。だからこの映画は、面白いとか面白くないとかいうレヴェルで見てはならない、人類の宝なのだ。加えて脚本があのジョエルとイーサンのコーエン兄弟だ。これまたユダヤ人の兄弟だが、私の見るところ、スピルバーグと同レヴェルの、現在を代表する最高の映画監督である。
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それからもうひとつの課題は邦題だ。そこには表れていないが、上に見る通り、原題は "Bridge of Spies" と、「スパイ」という語が複数形なのだ。この映画のクライマックス、お互いの人質を交換するシーンはベルリンの西の郊外に実在する橋、グリーニッケ橋が舞台となっているので、その橋が題名になっているとの解釈は可能だ。だが私には、これは Double Meaning であると思われる。主役のジム・ドノヴァンこそが、スパイとスパイをつなぐ橋になっているのだろう。上に掲げた日本語のチラシでは、「オブ」の上下に赤い線が引かれているが、英語版では以下の通り、"i" (アイ) の文字が二つ、赤くなっている。これこそ、「I = 私 = ドノヴァン」が橋渡し役であるという意味でなくてなんであろう。そして、2箇所の赤は二人という意味で、コーエン兄弟の象徴でもあるのだろう。
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そんなわけで、この映画が一般受けしない理由はそれなりに分かった。では私自身の評価はというと、グッと親指を立てるのだ。まずはそのリアリティ。映画の性格上、英語のみならず、ドイツ語、ロシア語が出てくるが、それらには字幕が出てこない。誰のアイデアかは分からないが、この時代特有の緊張感ある敵愾心を表すには、効果的な手段である。それから、時間の経過の描き方。漫然とスクリーンを見ていただけでは、この映画の中で何年時間が経ったのか分からないが、数年を経た交渉であったことを、これから私が証明しよう。

まず冒頭の設定が 1957年であることが明らかにされる。米国でソ連のスパイとして逮捕されるルドルフ・アベルが、彼の弁護士を務めることになったジム・ドノヴァンと相対する場面でラジオから音楽が流れている。恥を忍んで言えば、最初私も、緩やかな弦楽合奏を聴いて、それが何の曲であるか分からなかった。だが、ピアノソロが入ってきたところではっきりした。ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第 2番だ。この曲は作曲者が息子マクシム (その後指揮者となり、父の最後の交響曲、第 15番を初演する。最近の活動ぶりは聞かないが、未だ現存のはず) のために書いた、軽やかでパロディ感覚あふれる曲だ。その初演はまさに 1957年。映画の中でアベルとドノヴァンがショスタコーヴィチについて会話を交わす。この楽しい協奏曲を私は大好きで、バーンスタインが弾き振りした CD で過去 25年以上楽しんできた。実はこの年、ショスタコーヴィチは交響曲第 11番も作曲、初演している。スターリンの死後書かれた謎めいた第 10番のあと、11番と 12番は、ロシア近代の歴史を題材としている。この映画で描かれているシーンでは、この壁画的な大交響曲でなく、優しく穏やかな協奏曲の緩徐楽章を使用することで、この 2人の間の交流が巧まずして立ち現われる。
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もうひとつ私が注目したシーンは、トム・ハンクスが東ベルリンの電話ボックスから妻に電話するシーン。カメラがパンするうち、どうやら映画館らしい建物が映るが、そこにはっきり読み取れる「スパルタカス」の文字。この題名は、ハチャトゥリアンのバレエ音楽にも存在するが、映画である以上は、あのスタンリー・キューブリックの初期の作品、カーク・ダグラスが取り仕切って撮影されたというあの映画しかありえない。調べてみるとこの映画の公開は 1960年。アメリカ映画が東ベルリンで上映されていたのか否か分からないが、ここでは明らかに時間の経過が表されているのだ。

この映画で描かれる執念は凄まじい。トム・ハンクス演じる主役は、巧みな交渉術で、米国政府の思惑を超えた次元での解決策を実現する。ビジネスマンたるもの、これを見習わずしてどうするか。愛とか平和とか、そんなぬるま湯では御しきれない、非常時に試されるその人の真価である。映画の最後に、実在のドノヴァン弁護士が、この映画の時代のすぐ 2年後、1962年にキューバに囚われた米国の人質を解放するため、カストロ議長との交渉に当たり、結果的に 9,700人 (!) を超える人々を助け出したという実績が説明される。これは並大抵のことではない。この映画のラストシーンは、雪のベルリンの橋の上で人質交換を無事終えてはるばる自宅に帰ってきたドノヴァン弁護士が、ベッドの上に倒れ込んで眠っているわけであるが、私がここに見るのは、仮想の死としての眠りである。ドノヴァンは 1970年、54歳の若さで死亡している。これが過労死でなくてなんであろう。

もうひとつ、印象に残ったシーンを書いておこう。トム・ハンクスがベルリンの列車の窓から見る残酷な風景。建設後まもないベルリンの壁を越えようとして東側の兵士に無残にも撃ち殺される市民たち。それに対してニューヨークのブルックリンでは、子供たちが自由に柵を越えている。平和が尊いことは言うまでもない。だが私が心震えるのは、戦後 70年を経た現代、東西ドイツ合併が果たされてからでも四半世紀を経た今でも、ベルリンを訪れると、壁こそもはや存在せず、銃殺は起こらないものの、この映画で描かれているのと大差ない、寒々とした風景を列車から見ることになるのだ。戦争の爪痕は、70年程度の時間では治癒しない。全く人類という奴はとんでもない大馬鹿者の集合だ。
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またこの映画の冒頭まもない箇所では、スピルバーグとしては珍しい、実際の場所でのゲリラ風撮影が、ニューヨークの地下鉄を舞台に展開する。このあたりにも、彼の真摯な思いが結実した映画であるとの思いを抱く。2つの大国が世界の秩序を二分する時代は過去のものとなったが、いつの時代にも異質なもの同士の架け橋は必要なのだ。この映画からはそのようなメッセージこそを受け取ろうではないか。
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by yokohama7474 | 2016-01-30 23:05 | 映画 | Comments(0)

フランス組曲 (原題 : Suite Française / ソウル・ディブ監督)

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音楽好きの方はこの題名を見て、当然バッハの音楽との関連を思うことであろう。バッハには、イギリス組曲とかフランス組曲という鍵盤楽器のための組曲があるからだが、この映画はそれとは一切関係がない。その証拠に、原題がフランス語である。むむ。バッハはドイツ人で、その作品の題名はドイツ語だ。フランス語で綴られたフランス組曲とは一体いかなるものか。一方、原作を通してこの映画をご存じの方もおられよう。私の場合は、原作が書店に並んでいるのを見て、また、同じ作者、イレーヌ・ネミロフスキーのほかの作品も翻訳がきれいな装丁で出ているのを見て、まずは興味を惹かれたものだ。そしてどこかの記事で、この作者がユダヤ人女性で、戦時中の 1942年にアウシュヴィッツ収容所で亡くなっていることを知り、また、この「フランス組曲」の原作は、彼女の死後 60年以上トランクの中に眠っていた未完の作品を、娘たちが 2004年に発表して世界的なベストセラーになったのだということを知った。上のポスターにもそのようなことが書いてある。この映画を見る人のほとんどが、そのような予備知識を持って見ることになるだろう。それではストーリーはいかなるものか。第二次世界大戦の初期である1940年、ドイツ軍占領下のフランスで、ドイツ人兵士に恋するフランスの人妻の話。これだけでは月並みなメロドラマのようだ。でも、私の中の勘が呟くのだ。この映画は見ておいた方がよいと。

これは、実に呵責なく人間の本質を描いた作品である。ここで描かれる恋愛は、平常時の安穏なものではなく、明日の命をも知れない人たちの、生きる意味を求めての切実なものであり、何の比喩でもなく、命がけのものだ。もちろん、恋愛だけでなく、他人へのいたわりや共存への希求、あるいは社会的なつながりの中での処世術や裏切り、レジスタンスへの熱意、嫉妬、怒り、恐怖、またその反証としての自尊心等々の人間の感情が様々に渦巻くさまが描かれている。原作を読んではいないが、プログラムの解説によると、ストーリーは原作の後半をかなり忠実に辿っているらしい。そうすると、この作家が描いているものは、当時実際に起こっていた世界大戦に翻弄される人々の生々しい姿である。実際にドイツ軍に占領されているフランスで、ドイツ軍兵士に恋するフランス女性を描くということは、どういうことか。後世の人間が想像力でストーリーを作ったものではなく、リアルタイムで戦争の時代を描いていることは大きな驚きだ。現代の我々は、その後連合国軍がドイツ軍を壊滅させてパリを解放したことを知っている。しかし、原作者のネミロフスキーがこれを書いていたとき、いや彼女がその生を終えるときでさえ、その後の世界が一体どうなるのか、誰にも皆目分かっていなかったわけだ。そのような時代にこれだけ深い人間描写ができたことに心底驚く。ナチに捕まる直前の彼女は、以下のようなメモを残しているらしい。

QUOTE

決して忘れてはならないのは、いつか戦争は終わり、歴史的な箇所のすべてが色あせる、ということだ。1952年の読者も 2052年の読者も同じように引きつけることのできる出来事や争点を、なるべくふんだんに盛り込まないといけない。

UNQUOTE

やはり、彼女の視線は目の前の悲惨な出来事を超えて、人間の真実の姿に向けられていたのだ。また上記のメモは、ただ単なる夢物語としての決意表明ではなく、小説執筆に関する極めて実務的な視点での発言であるように思う。感傷のない透徹した思いに、ただ感嘆する。ネミロフスキーのこの写真がいつ頃のものか分からないが、1903年ウクライナ生まれで、ロシア革命時にフランスに移住。既に 1920年代から人気のある作家だったという。
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さてこの映画は、そのようなネミロフスキーの原作の精神をかなり忠実に再現しながら、随所に細かい気配りのある名作となった。劇中、もちろん敵がドイツ人であることは明示されるものの、普通の映画なら頻出するはずのナチの鉤十字が画面に出て来る場所は、もし私の記憶が正しければ、処刑の場面の俯瞰ショットだけだ。もちろん戦時下の恋は描かれているものの、物語は意外な展開を見せ、後半はまさに息詰まるサスペンスとなって行くなど、ただの恋物語ではない。上述のように、人それぞれに様々な感情にさいなまれて必死に生きる姿には、凄まじいリアリティがあるのだ。戦争という存在が人の真実を暴くためのひとつの大きな装置になっていて、その装置を使って人間の行動を冷静に書き留めるネミロフスキーのペンが、現実を超えたドラマを創り出している。映画化にあたっては、その点が充分認識されていると思う。

主役の恋人たちの描き方にも細心の注意が払われている。占領地の名家の嫁で、戦役中の夫の留守を義母とともに守っているリュシルと、その家に宿泊所と書斎を求めて住みつくが、リュシルとその義母に対して非常に礼儀正しいドイツ人中尉、ブルーノ。
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二人が恋仲になってからのショットがこれだが、もちろん物理的な距離が近くなっているのは当然として (笑)、注目すべきはリュシルの髪型である。リュシルはこの映画の中で、自分に目覚めた瞬間から、それまで束ねていた髪を下ろすのだ。
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そして彼女は様々な誤解を受けながらも、危険を冒して人の命を守る。だが彼女の守る命は、敵方であるブルーノにとっては、奪うべきものなのだ。この映画の描写の細かい点は、例えばブルーノが徹夜で山狩りをした翌日のシーンでは、うっすらと無精ひげが疲れとともに彼の顔を覆っているあたりにも表れている。このようなリアリティの積み重ねが、原作の本質を逃さずに映画全体にリアリティをもたらしている。この映画は全編、フランスとベルギーでのロケで撮影されているとのこと。また、今時珍しい 35mm フィルムによる撮影だそうだ。このリアリティの創出には、そういった点も貢献しているに違いない。

つまりこの映画は、原作の素晴らしさを映画に置き換える才能をもった監督の手に委ねられたのである。1968年生まれの英国人監督、ソウル・ディブの名前は初めて聞くが、ドキュメンタリー出身で、劇映画ではキーラ・ナイトレイ主演の「ある公爵夫人の生涯」という作品を 2008年に撮っている。原題 "the Duchess (公爵夫人)" というこの映画のポスターは、当時ロンドンに住んでいた私はしょっちゅう目にしたものの、作品は見ていない。これがその撮影風景だ。
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この「フランス組曲」においては、特になじみの俳優は出ていないが、主役のリュシルを演じたミシェル・ウィリアムズは、「ブロークバック・マウンテン」でアカデミー賞助演女優賞にノミネートされた実績があり、同作品で共演したあの故ヒース・レジャーと一時婚約して、娘を設けているとのこと。正直、とびきりの美人とは思えないが、繊細な役柄を誠実に演じている。
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相手のブルーノ役はベルギー人のマティアス・スーナールツ。かなり逞しい感じだが、戦争前は作曲家という役柄設定が、意外性のある優しさ (?) を見せる結果となっている。彼の弾くオリジナル曲が、「フランス組曲」だ。自分の書斎に忍び込んだリュシルを叱り飛ばすシーンがあるが、彼女が軍の秘密を知ることを恐れるのでなく、彼女の夫についての悪い情報を知ることを恐れてのこと、つまり、リュシルを思いやってのことであると分かる。職務に忠実であろうとしながら、人間的な思いを一貫して持っているという複雑な人間像が描かれている。
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もうひとり、リュシルの義母、アンジェリエ夫人役のクリスティン・スコット・トーマスの抑えた演技も素晴らしい。厳格な姑でありながら、後半にはこちらも意外性ある優しさ (笑) を見せる。少しマドンナを思わせるシャープな顔だちだが、気品も備わっている。
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ところでこの映画、原作は当然フランス語であるが、劇中では英語がベースとなっていて、フランス語はラジオ放送とか街に貼ってある宣伝とかに限られている。また、ドイツ人同士はドイツ語で喋っている。この点はスタッフが協議しての決定とのことだが、全体の雰囲気からすると、本当はフランス語をベースにして欲しかったような気もする。もちろん、役者の能力の問題もあるし興行の容易さの問題もあるので、現実的な判断ということだろうが。

それから、原作は未完のままであるので、この作品の結末も、語りで終わっている。それは、現代から過去を見ての主人公の語りであり、物語の本当の終結を告げるものではない。だが、それはそれでよいのではないだろうか。ネミロフスキー自身の言葉にある通り、どんな悲惨な戦争にもいつかは終わりは到来し、その一方で、人間の文化活動の持つ力は、世代を超えて生き残って行くものであるから。ネミロフスキーが戦争の終結を知っていても知らなくても、彼女の描く人間像は、既に充分描きつくされているのだ。

一時期はシネコンでも上映されていたこの作品、今では東京では TOHO シャンテでのみ上映中だ。だが、私の見たときにはかなりの混雑であった。もしこれをただのメロドラマだと勘違いしている方がおられたら、是非だまされたと思って劇場に足を運んでみることをお奨めする。様々な予備知識を一旦忘れて、映画の流れに身を委ねればよいと思う。

by yokohama7474 | 2016-01-24 23:47 | 映画 | Comments(0)

アンジェリカの微笑み (マノエル・ド・オリヴェイラ監督 / 英題 : The Strange Case of Angelica)

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昨年の 4月、実に 106歳で亡くなったポルトガルの巨匠監督、マノエル・デ・オリヴェイラの 2011年の作品である。この監督が日本に紹介されたのは、1990年前半くらいであったであろうか、私の世代の芸術映画好きなら避けては通れない存在、というよりも、崇拝者模倣者追随者 (髭だけマネするとか 笑) を多く生んだ、かの蓮實 重彦 (はすみ しげひこ) の功績であった。この方、フランス文学者であり文芸評論家であり映画評論家であり草野球のプレイヤーであり、後には (これはびっくりだったが) 東京大学総長にまで登りつめた人物である。ここで詳述は避けるが、私にとっても大変に影響を与えて下さった方。だが蓮實先生と呼ぶのではなく、仲間とともに「ハスミ」と呼び捨てにするのが、我々世代の彼への屈折したリスペクトの表現であったと言ってもよいだろう。因みに「ヒコ」の字は旧字体でないと本人が怒るのだと、中学 1年のときのクラス担任の現国教師が、蓮實の初期の代表作「反=日本語論」を教材として使用したときに言っていたのを昨日のことのように覚えているが、この映画のプログラムに寄せている文章の名前表記には、通常の「彦」が使用されており、さすがの硬骨漢ハスミ先生も、今年 80歳というお年になり、少しは丸くなられたのかと思ってしまうが、その一方で、飛行機の機内誌でさくらんぼの宣伝に出ているのなどを見ると、笑ってよいのか否か、複雑な気持ちになるのである。ハスミ節健在ということか。

おっと、映画の紹介前に雑談が長くなってしまっているが、私自身のオリヴェイラの映画との出会いはあまり幸運なものではなく、昔ヴィデオで「神曲」「アブラハム溪谷」「メフィストの誘い」などを録画して見ようとしたが、ちょっと見るとどうも面白くなくて、なかなか自宅での鑑賞が続かなかったのだ。ハスミ先生には、お前には映画を語る資格などないとお叱りを受けるだろうが、それでも本当のことだから仕方ない。「コロンブス 永遠の海」などは劇場で見たような気がするのだが、さっぱり思い出せない。それどころか、これは劇場で見たことをはっきり覚えている「リスボン物語」がてっきりこの監督の作品かと思いきや、それはヴィム・ヴェンダース (この人もハスミが熱心に日本に紹介したのだが) 監督で、オリヴェイラは特別出演しているだけであった。これは 2008年、オリヴェイラ 100歳の頃の写真。元気そうだなぁ。
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さて、そろそろこの映画について語ろう。いや実に素晴らしい。現実と幻想の境が曖昧となり、人間の感情の錯綜があり得ない現象を引き起こすのだが、それを描くオリヴェイラの手腕は自然そのもの。ある意味魔術的な作品と言ってもよいだろう。ストーリーは単純で、アンジェリカという若い女性が亡くなり、その死に顔を写真に撮ったイザクというユダヤ人のアマチュア写真家が彼女の魅力に憑りつかれるというもの。これはその「出会い」のシーン。この映画を通して言えることだが、室内でも恐らくは実際に天井や床に備え付けられている照明以外を使わずに撮影しているように思われる。つまり、薄暗い室内のシーンは本当に薄暗く、多くの場合には逆光になったりもするのだが、空は南欧のイメージとは異なる曇天ばかりだ。また、音楽が使用されているシーンも本当に限定的だ。
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そういう映画は陰湿な内容かというとさにあらず。上のポスターにあるアンジェリカの表情をご覧頂きたい。まさに微笑みを浮かべており、映画の中では、まずイザクが覗くファインダー (いつの設定であるかの明示はないが、デジカメではなくフィルム式カメラである--- 尚、このオリヴェイラ自身による脚本の構想は 1950年代に遡るという) の中で、彼女はぱっちりと目を開けて微笑むのだ。そして、イザクの魂はアンジェリカの (今も近辺に漂っているらしい) 魂と同調を始める。このようなモノクロの幻想的なシーンもある。これは、スーパーマンやスパイダーマンが彼女を抱きかかえて宙を飛ぶのとは大違い (笑)。本来飛ぶ力などないはずの男が、憧れの女性と魂の同調を起こすことで初めて生まれるシーンなのである。ある種甘美でありながら、でも実はかなり危ない精神の均衡状態であると言えよう。ワーグナーを俟たずともヨーロッパ文明において時折見られる「愛と死」の観念が感じられる。
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前回の歌舞伎の記事で、亡くなった遊女夕霧の亡霊と踊る男の話を書いたが、設定はかなり異なるものの、このようなヨーロッパの愛と死の観念も、日本の情念も、共通する部分はあるのではないか。明らかな共通点は、このような超常現象の中で当事者たちは本当に恍惚としていることだ。主人公イザク (オリヴェイラの孫が演じている) は実際、アンジェリカに入れあげるにつれ、下宿での奇行が目立つようになり、いわば現実の中に暮らすことが困難となって、ひたすらアンジェリカとの夢の世界に漂って行くのである。プログラムに記載されているオリヴェイラのインタビューによると、もともとこの脚本が構想された 1950年代には当然ながらユダヤ人虐殺の記憶が生々しく残っていたので、主人公イザクはそこからくる精神的苦痛から逃れることを求めていて、アンジェリカがその苦痛から解放してやるのだとのこと。

だが私がこの映画を思い出すときに気づくのは、森羅万象に息づく命を、監督が実に自然に映像として形象化していることだ。あるシーンでは、床の上を歩いて来た猫が、壁際の高いところにぶら下がったかごの中の小鳥を見て狙いを定め、座り込んで静止するが、しっぽはゆっくりと左右に振られている。役者たちが台詞を終えて退場しても、カメラはその情景を捉え続ける。すると屋外から犬の吠える声が聞こえて、猫は一瞬それに反応して視線を外に向けるが、すぐに小鳥に興味を戻し、またしばらく静止した後、やがてあきらめて動き出すのだ。すべてが計算づくの映像ではなく、即興性あるシーンであろうが、その場面には人工的な照明も音楽も何もなく、ただ過ぎて行く時間だけが淡々と描かれている。またあるシーンでは、金魚鉢に大きく映る金魚であり、ほかのシーンでは幻想の中を飛び回り、現実世界では命を落としてしまう小鳥なのだ。ここではオリヴェイラが命を司る神のような存在なのだと言ってもよいと思う。

イザクの撮影対象にはほかに、ブドウ畑で働く農夫たちがある。実はこの映画の撮影地、ポルトガルのドウロ川上流 (同じ川の河口にあるのがオリヴェイラの出身地ポルト) はポートワインの産地で、「アルト・ドウロ・ワイン生産地域」として世界遺産に登録されているらしい。ここでは農夫たちが素朴な歌を歌い、昔ながらの方法で畑を耕している。アンジェリカの象徴する甘美な死の世界とは対照的な、無骨な生きる力の世界がここにある。この映画での限定的な音楽使用については前述したが、実は 2種類の音楽が使われている (上記の飛行シーンのような、金属的な効果音の使用は別として)。ひとつがこの農民の歌。もうひとつは全く対照的に、ポルトガルの偉大な女流ピアニスト、マリア・ジョアン・ピリスの弾くショパンのピアノ・ソナタ第 3番と、マズルカ作品 59-1 だ。オリジナル録音ではなく CD 使用であろうが (エンドタイトルの「協力」の最初に彼女の名前があったので)、よく知られるようにこのピアニストは本当にピュアで繊細な音を奏でる人で、この映画の抒情性の多くを、「沈黙」とこの人のピアノが分け合って貢献していると言えるだろう。
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イザクが写真を現像して部屋の中に干しているときにも、アンジェリカの優しい死に顔と、農夫たちの逞しい姿とが入り混じっていて、この対照性において森羅万象に潜む様々な力が表現されているように思う。

このように、ポピュラーなタイプの映画作品に慣れた人にはとっつきにくいところがあると思うが、芸術性という点では極めて高いレヴェルにある映画で、これを 101歳で撮ってしまった監督に、今更のように深い尊敬を覚える。全国で 5館でしか上映していない (東京では Bunkamura ル・シネマ、大阪では梅田リーブル、名古屋では名演小劇場と、いずれも芸術系ミニシアターだ) 点、少し不便だが、映画によって芸術を体験できる機会はどんどん減っているので、私としてはお奨めしておきたい。

プログラムに掲載されているオリヴェイラのインタビューには興味深い発言がいろいろあるが、この映画の一面である鬼気迫る雰囲気と共通する発言を引用しよう。101歳でこんなことを喋れる頭脳って一体・・・。

QUOTE

絶対的な愛とは両性具有になりたいと望むこと。ふたつの存在がひとつになりたいと切望すること。不可能な欲望だが、それが真実だ。この映画ではすべてが暴力的だ。非常に暴力的な映画で、私の戦争映画よりもずっと暴力的だ。戦争映画は多少計算された暴力を描いているからね。この映画はリアルであり、人を殺す。個人、つまり人物が殺す。映画を撮る行為・・・撮影そのものが暴力的なんだ。監督は殺人者のようだと、かつて私は言ったことがある。そして殺人者が殺人をやめられないように、監督は映画撮影をやめられない。

UNQUOTE

なんとも物騒な発言で、私が上で繰り返したこの映画の静謐さが嘘のように思えてしまうではないか (笑)。でも、何やら分かる気がする。ハスミ先生、さくらんぼの宣伝も結構ですが、オリヴェイラ監督の紹介も引き続きお願いします!!
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by yokohama7474 | 2016-01-05 01:00 | 映画 | Comments(0)

杉原千畝 スギハラチウネ (チェリン・グラック監督)

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子供の頃から他人の押しつけが嫌いで、文部省特選映画など、最も敬遠するひねくれ者であった私である。大人になった今でも、まあ社会通念上の常識はあるものの、美談とか教訓といったものにはまず一旦距離を置くのが習慣となっている。従って、このような映画を見に行く予定は、本来なかったのである。劇場で予告編も何度か見たが、正直それほど食指を動かされずにいた。しかし、どういう風の吹き回しか、ほかに見たい映画もないし、まあこれでも見るかと思ってある朝、劇場に行ってみたのであった。

上のポスターにもある通り、杉原千畝 (スギハラ チウネ) は、第 2次世界大戦中の外交官で、ユダヤ人にヴィザを発行することでナチの迫害から命を守った人物である。「日本のシンドラー」とも呼ばれて、近年ではマスコミで紹介される機会も多いので、昔に比べて知名度は格段に上がっている。いや、実はシンドラーよりも救ったユダヤ人の数は多いのだとも聞いたこともある。この映画は、戦時下においてそのようなことがいかにして可能になり、またこの杉原という人物がどのような人であったのかについて、史実に基づいた作劇がなされている。

まず気づいたのは、タイトルに杉原千畝の四文字が浮かび上がったときに、その間に見えた文字。"PERSONA NON GRATA" である。ペルソナ・ノン・グラータ。これは、国際関係において他国が分類する「好ましからざる人物」のことだ。その意味が分かる人は、このタイトルを見て最初におやっと思うはずだ。何千人もの命を救った立派な人が、好ましからざる人物だなんて、一体どういうことだ。そして、ここからドラマが進むにつれ、世間に流布する聖人君子としての杉原のイメージは実に皮相的な通り一遍のものであって、実際には複雑な事情が絡み合っていたことを、観客は理解することになる。杉原自身にも心の動揺があり、また危険を冒して彼の判断に従った人たちもいて、彼らがいかに呻吟したかも描かれている。そして、歴史の歯車の冷酷さとその中の人間の非力さを思うとき、人は大きく心を揺さぶられるのだ。もちろんそれを観客に感じさせるには、映画としてのテクニックが必要で、その点でもこの作品は高い水準をクリアしている。

まず諸国が戦争をしている時代の外交官の役割を考えてみよう。まさに自国の命運のかかった極限の緊張状態で取るべき道を知るには、まずは他国の動向をよく知る必要がある。その意味で、母国を離れて他国に暮らす外交官とは、スパイに近いか、またはスパイ顔負けの諜報活動を行う必要が、多少なりともあったものと思う。この映画でまず明確にされるのは、1934年時点における、諜報活動に長けた、かつかなり際どいところで危険に身をさらすこともいとわない、杉原のしたたかな行動力だ。同僚であるロシア人女性との関係も、なにやらいわくありげだ。これはとても聖人君子とは言えまい。実際、そのインテリジェンス能力を警戒したソ連政府は、彼をペルソナ・ノン・グラータ、つまり好ましからざる人物と認定して、在モスクワ日本大使館への赴任に際して入国を拒否。一旦日本に帰国する。その後 1939年になって、バルト三国のひとつ、リトアニアに新設される領事館に総領事として派遣されることとなる。この映画のプログラムに載っている当時のヨーロッパの地図は以下の通り。当時のドイツの勢力と、ソ連の位置に鑑みれば、なんとも危険な国に派遣されたことが分かろう。彼の帯びた使命は、「複雑怪奇」な欧州事情をつぶさに観察・分析することであったろう。
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ストーリー (及び史実) を追うことはこのあたりでやめにするが、私が言いたかったことは、この杉原という人物、何も伊達や酔狂、あるいは根拠のない正義感に駆られてユダヤ人たちにヴィザを発給したわけでないということだ。この危険な環境に身を置いて、日本の取るべき道について考えた人物であり、諸々の事情の錯綜の中、あえて言ってしまえば行きがかり上、ユダヤ人たちからあてにされることになる日本が行うべきことを、政府の命令ではなく自らの信念に従って行った人物。そのように考えるのが妥当であろうかと思う。主演の唐沢寿明は、大変真摯にこの人物像と向かい合っているように思われる。ただ、ないものねだりであえて言えば、さらに狂気を含んだ表情が見えてもよいようにも思った。実在の杉原という人物は、一筋縄ではいかない人物であったに違いない。以下、映画の中の唐沢と実際の杉原の写真。
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誤解を受けないよう、もう少し説明しよう。杉原千畝は信念の人であり、人間の命を救うという人道的な使命に燃えた人でもあったことは事実であろう。だがそれは、慈善事業を行ったということではなく、日本の誤った方向 (すなわち、独ソ不可侵条約締結により、ドイツはソ連と事を構えて消耗することを避け、日本をサポートしてくれるだろうという期待をもって、アジア太平洋地域に進攻すること。つまりアメリカとの正面衝突回避の後ろ盾をドイツに求めたこと) に異議を申し立てても聞き入れてもらえないことから、憤懣やるかたなく、政府の指示ではなく、自分の信念を貫いたということだ。しかも、リトアニア領事館が近く閉鎖されることを見込み、ヴィザの例外規定の解釈を故意に多様化しながらの、いわば土壇場での頭脳的な作戦を取ったわけである。つまり、決して単純な正義感だけに駆られてやみくもに政府に背いたわけではないのだ。杉原が発給したヴィザは、日本を最終目的地とするものではなく経由地としているものであり、もちろんそれだけでも政府の方針に反する危険な反逆行為であったわけだが、日本に難民が定住することを前提としたものではない。そして映画の中で彼はユダヤ人たちに、「これはただの紙切れで、あなたたちの身の安全を保障するものではない」と警告するのだ。なんという現実主義。そして、その現実主義を貫ける、なんという勇気!

正直に白状しよう。私はこの映画で杉原がヴィザの発給を決意する静かなシーンで、胸からこみあげるものを我慢することができなかった。「命のヴィザ」などという言葉はあまりに陳腐すぎる。杉原自身が劇中で言う通り、ヴィザなどはただの紙切れにすぎないのだ。問題は、そんなただの紙切れに翻弄されてしまう人間の命の儚さと、政治の責任の重さということにある。だからこれは、勇気あるひとりの男の、特殊な物語なのではない。人間の愚かさについての、普遍的な物語なのだ。いつの時代でもなくなることのない、戦争という人間の愚かさについての。

役者に関して。妻役の小雪は、激動の時代を杉原に寄り添って生きた女性像を優しく静かに演じていたが、ちょっと優しすぎるような気がしないでもない。その点、男性の脇役陣 (石橋凌、滝藤賢一、板尾創路、濱田岳ら) にはリアリティがあってよかったと思う。そして、外人俳優たちも、それぞれいい味を出していた。
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外人役者のほとんどはポーランド人。それもそのはず、この映画はほとんどがポーランドでのロケで撮影されているのだ。エンドタイトルには延々とポーランド人スタッフの名前が連なっている。私はワルシャワを 3度訪れたことがあり、ユネスコ世界遺産の中で最も新しい建造物である旧市街を散策したこともある。この旧市街、実は戦後にできたものなのである。ナチス・ドイツが完全に破壊した街を、壁紙やそこにかかっている時計に至るまで、完全に復元したものなのだ。ナチの暴虐を見返す、人間の生きる力を示す町並みなのだ。それゆえポーランドでは、ナチの迫害から多くのユダヤ人を守った杉原の伝記映画撮影への惜しみない協力があったと聞く。

さて、この映画の監督はチェリン・グラック。
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初めて聞く名前だが、1958年、アメリカ人の父と日系アメリカ人の母の間に和歌山に生まれたとのこと。映画人としてのキャリアは、なんと 1980年、寺山修司監督の「上海異人娼館」というから恐れ入る。その後、リドリー・スコットの「ブラック・レイン」、シュワルツェネッガー主演の「ラスト・アクション・ヒーロー」や、ジョディ・フォスター主演の「コンタクト」、あるいは「トランスフォーマー」まで、多岐に亘る映画で助監督を務めた由。助監督と言っても、監督に次ぐエラい人ではない。音楽の世界における副指揮者と同じで、要は雑用係である。つまり、かなり長い苦労の末に監督になることができた、たたき上げの人なのであろう。この映画の演出は、これみよがしなきれいごとにならない点、なかなかよかったと思う。杉原が妻となる女性と出会って公園でデートを重ねる間に季節が移り変わるシーンは大変美しかったし、上記の通り、杉原がヴィザの発給を決める瞬間の静かな時の流れもよかった。名前を覚えておいて損のない監督であろう。

ほかには、佐藤直紀の音楽が印象に残った。大河ドラマ「龍馬伝」や「るろうに剣心」シリーズそのままに、情緒のある箇所は映像の邪魔をしないように美しく、風雲急を告げる箇所ではうねり上がる音が緊張感を演出していた。

というわけで、この映画はその外見ほど単純ではない。正直なところ、文部省推薦タイプの予告編の作り方には問題があって、潜在的な観客を確保できないような気がしてならない。本当に信念を貫くのなら、誰に対してもよい顔などすることはできない。重大事を成し遂げるには、誰かから「好ましからざる人物」というレッテルを貼られる覚悟を持たなければならない。あ、会社の出世などは世界の重大事ではないので、ニコニコとして誰からも好まれる人物であった方が成果はあると思いますがね (笑)。まあ程度問題だが、基本は各人の生き方の問題になってきますな。人間誰しも、日常生活で杉原千畝になる必要はなく、ここという大一番で彼の勇気を思い出すというのが、平和な時代に生きる我々の心構えではないでしょうか。

by yokohama7474 | 2015-12-29 00:38 | 映画 | Comments(4)

007 スペクター (サム・メンデス監督 / 原題 : Spectre)

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007 シリーズの第 24作。ある時期から街に上のようなポスターが貼り出され、その原題、SPECTRE を見て、「スペクトレ」って何だ? と思われた方もいるかもしれない。英国の英語は、米国の英語と違って、時に RE を ER の発音で読むのである。よってこれは「スペクター」と発音する。ま、日本語表記もあるから余計な心配は無用ですが (笑)。

私はこのブログでいろいろなことを問わず語りに白状しているが、ここで新たに白状すると、007 シリーズをほとんどまともに見たことがない。それは、幼時より怪獣・幽霊・物の怪の類が登場する超常現象の方が、現実世界で人と人、あるいは国と国が争い合う話よりも興味があったからだ。それからもうひとつ。初代ショーン・コネリーは胸毛とポマードのバタくさい印象で子供心に親近感を覚えず、またロジャー・ムーアやピアーズ・ブロスナンは甘いマスクのために、どうにも精悍さが足りないような気がしていたのだ (すぐ女を口説くのもけしからんと思っておりました 笑)。その点、今回が 4作目となるダニエル・クレイグには、なんというか、危ないまでの精悍さがみなぎっていて、世の中の正統派ジェームズ・ボンド・ファンと逆行するかたちで (?)、彼によって初めて 007 物に興味を持ち始めたのである。前作「スカイフォール」はボンドの生い立ちに遡りつつ、なんとも陰鬱な色調の映画に仕上がっていたが、今回のこの「スペクトレ」、じゃなかった「スペクター」もストーリーはつながっていて、やはりボンドの幼少期に立ち入って行く。既に冷戦の存在しない時代、敵の見えない環境において、スパイ映画はこのような展開を示すしかないのかもしれない。その意味では、相変わらず終末感に終始伴われた映画であるとも言える。

映画はメキシコの「死者の日」の風景から始まる。
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「The Dead are alive. 死者は生きている」というモットーが画面に出て来て、この強烈なラテンの祭の雰囲気を文字で伝えてくるが、監督のインタビューによると、「ほこりまみれの暑くエキサイティングな場所に観客を放り込もうと考えた。死者の祝福というのがこの映画のテーマにつながっている」とのこと。なるほど、映画を見終った今となってはそれはよく理解できる。いやそれにしてもこの「死者の日」、行ってみたいなぁ。以前から大変興味がある。エイゼンシュテインの「メキシコ万歳」などという古い映画もありました。

映画のテンポは非常によく、このメキシコのシーンからローマ、アルプス、モロッコと舞台が移り変わり、その一方でロンドンの MI-6 での諜報戦略の転換が描かれて行く。これは「ミッション・インポッシブル」も同じだが、旧態然とした諜報組織 (ここでは 00 = ダブルオー = Project) は時代遅れとして、実戦を行っているスパイの活動が止められてしまう。まあもちろんスパイ映画である以上は、そのような敵対勢力は最後には手痛いしっぺ返しを食うのであるが。ところでこれが MI6 のビルという設定。これ、ロンドンのテムズ川沿いに実在するビルで、ヴィクトリア駅から南の方のガトウィック空港方面に向かう際に、へぇー、何のビルだろうと思ってよく眺めていたものだ。
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ここでストーリーを追うのは避けることにして、印象的なシーンをいくつか。ロケ地という意味では、「ミッション・インポッシブル ローグ・ネーション」の記事でもご紹介した、オックスフォード近くの世界遺産、ブレナム宮殿が今回も登場する。悪の組織スペクターの会合が開かれる場所の入口という設定だ。もっとも映画ではそれはローマにあるという設定である。ローマのシーンでの中心はなんといってもカーチェイスなのであるが、ここでボンドの乗る車は、いわゆるボンド・カーを提供してきたアストン・マーチンが、市販用ではなくこの映画のために開発した DB10 という車種。私は車の知識はまるっきりないが、おー、こりゃカッコいい。子供みたいな感想ですみません。
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そこでチェイスをする相手とは、モロッコを走る長距離列車の中でも格闘することになる。
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このシーンは、何気なく見ていればまあ普通のアクションシーンと言えるだろうが、私の目には、この凄まじい肉弾戦の感覚こそが、ダニエル・クレイグの非凡さを如実に表していると思えた。列車という狭い場所を選んだ点も効果的で、映画がカット割りという技術で断片をつないで行くということを忘れさせるほど、迫真力に満ちたシーンである。これを見ると、もし自分が人生のどこかの時点で運悪く悪漢と素手で取っ組み合うような事態に陥っても (まぁ、あまりないとは思うが 笑)、このように戦えば勝てるのではないかと思われてくるから不思議だ。この立ち姿、精悍ではないですか。
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さて、ジェームズ・ボンドと言えばボンド・ガールだが、今回はフランス人女優、レア・セドゥ。ウッディ・アレンの「ミッドナイト・イン・パリ」や、「ミッション・インポッシンブル ゴースト・プロトコル」などにも出ていたようだが、全然記憶にない。今回は予告編で、濡れた瞳で「スペクター」と悪の組織名を告げるシーンが印象的であったが、全編を見てみると、うーん、どうかなぁ。英語にフランスなまりが全然ないのはよかったが、役柄が自立した女性という点を中途半端にしか描いておらず、またコケティッシュな雰囲気というより少し線が太い感じで、意外性 (例えば、か弱い女性が必要に迫られて逞しく活躍するといった設定... 少しその要素はあるが) をあまり強く感じられなかったのが残念。
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それよりも、少ない出番で強い印象を残すのは、こちらはイタリアの至宝 (?)、モニカ・ベルッチだ。今年 51歳と、さすがにちょっと年取りましたがね。
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もちろん女優だけでなく、ボンドの上司役であるレイフ・ファインズなど、いい味出している。それにしてもこの映画、主要登場人物全員のポスターを作っているのか?!
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ポスターには顔の出ていない (笑)、監督についても触れておこう。サム・メンデス。名前はなんとなく聞いたことがあるような気がする。監督デビューはケヴィン・スペイシー主演の「アメリカン・ビューティー」で、それ以外でも「ロード・トゥ・パーディション」の監督でもあり、この 007シリーズの前作「スカイフォール」も彼の手になるものだ。実はダニエル・クレイグは「ロード・トゥ・パーディション」に出ていて (そうでしたかね?)、それ以来のつきあいであるようだ。なかなか腕の立つ監督であると思う。1965年生まれだから私と同い年のイギリス人の監督だ。
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さて、全編 148分に及ぶ大作であったが (007 シリーズで最長である由)、全く退屈することなく見ることができた。強いて言えば、いくらオメガがスポンサーとは言え、その時計を活用するシーンでは、おいおい、このシチュエーションだと時計外すだろうと思ったことは否めないことくらいか。ありえない設定も許せてしまう、流れのよさがある映画だ。

ただ、今後このシリーズはどうなって行くのだろう。これだけボンドの幼少の頃に踏み込む一方で、明らかに敵の存在は見えなくなって来ている。また、最後のシーンでは、ボンドは MI6 を辞め、彼女を助手席に乗せた昔ながらのアストン・マーチン DB5 でいずこともなく去って行くのだ。過度にノスタルジックな雰囲気にはなっていないものの、やはりある意味での終末感は漂っている。
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ダニエル・クレイグの好調ぶりから言っても、ここでシリーズが終わってしまうことはないように願いたいが、でも、次は「ジェームズ・ボンド vs イーサン・ハント」なんていうのはやめて下さいや。ま、「ジェームズ・ボンド vs スパイダーマン」よりはいいかもしれないが・・・。私の方では以前、「スカイフォール」に先立つ 22作のセット DVD を買ってあるので、徐々にキャッチアップします。

by yokohama7474 | 2015-12-23 00:34 | 映画 | Comments(0)

黄金のアデーレ 名画の帰還 (サイモン・カーティス監督 / 原題 : Woman in Gold)

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今公開中の映画でどうしても見たいものが少ない中、この映画がシネコンでも上映していることを知り、見に行くことにした。ところが今日12月18日は、「スター・ウォーズ」の新作の封切日である。いや、日どころか、18時30分という封切時刻まで全国一斉。私がとあるシネコンでこのアデーレの映画を見ようと思ったのはその時刻の直前で、劇場はごった返しており、ライトセーバーを構えて写真を撮る人などが実に楽しそうにしていた。混雑を蛇より嫌う私としては、まあいつかどこかでスター・ウォーズは必ず見るが、今日この時ではないだろう。ということで、集団を潜り抜けて到達した劇場は、予想に反してそれなりの入りだ。

今月の自分のブログの記事一覧を見ると、やたら金色が多いことに気づく。オペラ「金閣寺」、デュトワ / N 響の「サロメ」、美術展「黄金伝説」といった具合だ。まあそうなると映画分野でも黄金が欲しくなるということで (笑)、まさに題名に黄金が含まれているこの作品を採り上げることになった。たまたまとはいえ、黄金続きはゴージャスな感じがしてなかなか気分がいい。ところがこの映画が扱っている題材は、気分がいいどころではない。ナチがユダヤの裕福な家庭から強奪した絵画。それを法的な手段で取り戻す婦人とその弁護士の話。うーん、そういう意味では、やはり最近のこのブログで採り上げたジョージ・クルーニーの「ミケランジェロ・プロジェクト」とは見事にテーマが一致する (もちろん、ナチの暴挙への対応という方法論では大いに異なるが)。そして、私にとっては尋常でなく興味のあるテーマ。というのも、ここで扱われている名画とは、グスタフ・クリムトの「アデーレ・ブロッホ・バウアーの肖像 I」(I とついているからには、ほかに II も存在する) なのである。クリムトは私が敬愛する画家。もちろん彼の活躍した世紀末ウィーンの文化全般こそが、私が生涯かけて研究し味わって行きたい分野であるからで、これは好きとか嫌いとかいうレヴェルの問題ではない。ともあれ、この絵画を見て頂こう。
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この記事は飽くまでも映画を対象としているので、この絵についてあれこれ語りたいのをグッとこらえて、簡単に触れるにとどめよう。この絵は現在ニューヨークのノイエ・ギャラリー (ドイツ語の Neue は英語の New という意味) に展示されているが、このギャラリーがオープンした 2006年、私はたまたまニューヨーク駐在で、もちろんこの絵を見に行ったものだ。セントラルパークにほど近い場所のごく小さいスペースだが、それほど混雑もしておらず、じっくり鑑賞することができた。この絵の来歴について、New York Times にも詳しく書かれていたが、私にとっては来歴よりも作品そのものに興味があった。もちろん、ニューヨークに移される前は、ウィーンにおける世紀末絵画の宝庫、ベルヴェデーレ宮殿に飾られていたので、その時にも何度も対面していたわけであるが。

映画は、この作品が米国にやって来るまでの経緯を、奪還に向けた行動が開始される1998年以降の状況と、主人公であるマリア (絵画のモデルであるアデーレ・ブロッホ・バウアーの姪) の幼時からナチの迫害を逃れて故国オーストリアを脱出する頃の状況とを交えて描いている。あえて言ってしまえば、半ばドキュメンタリーに近いくらいの淡々とした描き方で、戦争が巻き起こした悲劇という社会的メッセージが必ずしも常に表面に出てきているわけではない。だが、マリアの弁護士がウィーンのホロコースト慰霊碑を見たあとの場面で、感情の高まりが描かれる。ただ、そこはまだ比較的冷静な表現であるが、ラスト近くの回想シーンでマリアが両親と今生の別れをする場面では、断腸の思いが観客の心にストレートに入ってくる、強い表現力が発揮されている。その結果、劇場内では鼻水をすする音がそこここで聞かれるという次第だ。このイギリス人監督、なかなかの手腕である。

主役マリアを演じるのは英国の名優、ヘレン・ミレン。
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私がこれまでに見た彼女の映画は、「ヒッチコック」の妻役くらいで、その昔「コックと泥棒、その妻と愛人」に出ていたと言っても、ちょっと覚えていないし、エリザベス女王役でアカデミー賞を取った「クイーン」は見ていない。この映画では、どことなく気品がありながらも素朴な面もある可愛らしいおばあちゃんであり、一方で大変頑固で、かと思うとユーモアのセンスにあふれる人物像が求められている。この場合の「頑固」には、自らが家族とともに体験した幸福な幼時と、それゆえに一層悲惨な戦争への絶望的な思いが根底にあって、納得できないことにはおかしいと声高に言う勇気がありながらも、前向きになろうとするほどに過去の悲惨な思いを極力封じ込め、祖国のことなど忘れてしまおうとする、複雑な感情が渦巻いている。このような大変難しいキャラクターを自然体で演じるヘレン・ミレンはさすがである。

彼女の弁護士、ランドル (ランディ)・シェーンベルクを演じるのは、ライアン・レイノルズ。
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「ウルヴァリン X-Men Zero」でデッドプールという悪役を演じたマッチョ派のようであるが、ここでは若い真面目な弁護士役に大変好感が持てる。ところで実在のこのシェーンベルク弁護士が、この名画のオーストリアからの奪還に大きな力を発揮したようである。彼があたかもこの感動的な逸話の語り部のようで、この映画の前に製作されたドキュメンタリー映画には、本人が出演している模様。このシェーンベルクという名前。あの世紀末から両大戦間のウィーンを彩る超ビッグネームのひとつ、作曲家アーノルト・シェーンベルクの孫だそうだ。うーむなるほど。シェーンベルクはユダヤ人で、米国に亡命してカリフォルニアに住んでいた。この映画でも主要な舞台は陽光あふれるカリフォルニアだ。ランディはそのカリフォルニアで生まれ育った人間として過去のナチの悪行など興味の範囲外であったが、クリムトの絵画の金銭的価値に惹かれてマリアの弁護を引き受ける。だが、交渉に赴いたウィーンで自らのルーツに目覚め、むしろマリアを強引にリードして最後には勝利を勝ち取るのだ。劇中には、ランディがウィーンの主要なコンサートホールのひとつであるコンツェルトハウスで祖父の初期の代表作、「浄夜」の演奏 (オリジナル通り弦楽六重奏だ!) を聴くシーンもあり、音楽の分かる人なら、この映画の Emotion の大きな要素をそこに感じることができるだろう (結局シェーンベルクは、このように叙情溢れる音楽を生涯二度と書かなかった)。ほかの出演者では、「ラッシュ / プライドと友情」でニキ・ラウダ役を演じたダニエル・ブリュールがいい味を出している。ランディの妻役は、実生活での前の旦那のおかげで有名になった (?) ケイティ・ホームズだが、私はこの人はちょっとどうも・・・

音楽の話題が出たので、ついでにもうひとつ、どうでもよいことを書こう (興味のない方は読み飛ばして下さい)。映画の中でマリアが旦那とともにオーストリアを脱出するシーンは 1938年のことだが、空港の係員に、「ケルンで歌手のキャンセルが出たから急に行く。カラヤンの指揮だ」と告げるシーンがある。1938年と言えば、カラヤン 30歳。アーヘンの音楽監督には就任していたものの、未だそれほど知名度があるわけではなかったろう。それに、ケルンには当時オペラハウスがあったのだろうか。確か今あるものは戦後にできた劇場であるはず。また、カラヤンは当時ナチ党員であったかもしれないが、そのこと自体が広く知られてはいなかっただろう。という意味で、ここの発言は係員をケムに巻くという以上の意味はないようだ。・・・と言いながら、気になるとどうしても調べないではいられないたちの私の目の前には、カラヤンの生涯全演奏記録 (John Hunt 編纂) がある。1938年はと・・・。オペラ上演はもっぱらアーヘンだ。それ以外の活動で目立つのは以下の通り。
 1月23日 アムステルダムでコンセルトヘボウ管を指揮 (曲目不明)
 2月1日・7日 ストックホルム放送響を指揮。7日の曲目は、なんとシベリウスの 6番と、Ulfrstad というノルウェイの作曲家 (1890 - 1968) のピアノ協奏曲 
 2月20日 ブリュッセルでアーヘン歌劇場管とバッハのマタイ受難曲
 4月 8日 ベルリン・フィルにデビュー! 曲目はモーツァルト33番、ラヴェル「ダフニスとクロエ」第2組曲、ブラームス4番
 6月24日 アーヘンでR・シュトラウスの「エレクトラ」
 9月30日 ベルリン国立歌劇場にデビュー! 曲目は「フィデリオ」
 12月 初のレコーディング 曲目は「魔笛」序曲
それ以外にもいろいろ活動しているが、こうして見てみると、カラヤンのキャリアにとって飛躍の年であったことが分かる。一方、この近辺の年でカラヤンがケルンで演奏した記録はというと・・・お、1935年から36年にかけて、ケルン放送響を指揮して「カルメン」とか「リゴレット」を演奏している。してみると、この映画の台詞も、あながち見当はずれというわけではないかもしれない。

いつも以上に脱線しまくりになっていますが、ともあれこの映画、戦争の悲劇という大きなテーマを扱ってはいるものの、描かれている人間像にリアリティがあるので、大仰に作られたお涙ちょうだいものとは一線を画している。それゆえに、上で触れたような感情が爆発するシーンは数えるほどしかないものの、そのようなシーンが心に迫るようにできている。クリムトに興味のある人もない人も、見ればきっと感動すると思うし、1938年のカラヤンの活動に知識がなくても大丈夫!!

by yokohama7474 | 2015-12-19 01:14 | 映画 | Comments(2)