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まずは監督の話から始めよう。カロリーヌ・シャンプティエ。聞いたことのない名前だ。カロリーヌ? 女性か? そうなのである。こんな人だ。
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1954年生まれというから、既に60過ぎ。この写真は多少若い頃のものかと思うが、まあそれにしても、フランス人女性芸術家らしく、小粋な雰囲気だ。本作品が長編監督第一作とのこと。ところがこの人、ただのオシャレおばちゃんではないのである。もともとカメラマンで、なんとなんと、ゴダールの「右側に気をつけろ」「ゴダールの決別」や、レオス・カラックスの「ホーリー・モーターズ」や、その他ジャック・ドワイヨン、諏訪敦彦、河瀬直美等々の監督のもとで撮影監督を務めてきたという経歴を持つ。なんということ。私は昨年、「ホーリー・モーターズ」を見て、かつて神童と呼ばれたカラックスの今を知ることができ、大変に興味深いマニアックな映画であると思ったが、あの映画で撮影監督を務めたとは恐れ入る。そんな人が、並の映画を撮るわけがない。これがこの映画に対するまず第一の大きな期待。

さて、ベルト・モリゾである。最近の美術の本には、印象派唯一の女性画家などと紹介されるようになって来ているが、一般的にはまだ、マネが数々の肖像を描いたことによって、より知られていると言ってよいだろう。この有名な「バルコニー」という作品の左手前に描かれているのがその女性だ。
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あるいは、この絵をご存じだろうか。
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「すみれの花をつけたベルト・モリゾ」。5年前に三菱一号館美術館が開館した際の特別展、「マネとモダン・パリ」に出展されたのをご覧になった方も多いと思う。実際の本人の写真は以下の通り。
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なるほど、黒目黒髪の美人である。マネは彼女の肖像を 11点描いたらしいが、この二人の関係は謎 (画家とモデル? 師弟? 愛人? 友人?) で、ベルト自身はマネの弟と結婚しているため、余計にややこしいことになっている。

と、ここまでが映画を取り巻く歴史的事実。肝心の映画の出来はどうだろうか。一言で言えば、多くの発見に満ちた佳作であると、私は思う。ただ、恐らくは故意にであろう、流れの悪い編集がストーリーを時にぶつ切りにしてしまう点に難があり、また台詞が多くを語らない割りにはカメラワークは必要以上に凝っており、それが若干鬱陶しいということも否めないため、万人受けするような映画にはなっていない。それから、もしかすると、テレビのワイドショーを見慣れている方は、「それで、結局ベルト・モリゾとマネの関係はどうだったのよ!!はっきりしなさいよ!!」とイライラされる向きもおありかと思う。おっしゃる通り。この映画ではその結論は出ていない。ただ、見る人に想像力さえあれば、個々人で結論を出すことはできるはず。私の解釈では、この二人は、芸術を通してのみコミュニケーションのできる恋人たちだったのだ。描かれているのは、未だ画家という仕事が男性だけのものだった時代における女性の自立という単純なテーマではなく、天才画家からの刺激によって自らも才能を開花させて行く一人の女性の成長の姿であると思う。だからここには普通の意味の色恋沙汰はない。ワイドショーを見たい方は、この映画を見ない方がよい。

主演のマリーヌ・デルテリムの過去の出演作の中に、「ココ・シャネル」(2009年) というものがあるようだが、調べたところ、主演はシャーリー・マクレーン (ええっ、年取りすぎじゃないの???) で、この女優はココ・シャネル役ではないらしい。ということは、これまで主役級を務めたことはあまりないのかもしれないが、この映画では、抑えた演技ながらリアリティのあるベルト・モリゾを演じていて、好感が持てる。いい女優を見つけてきたものだ。
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映画の舞台になっている時代について書いておきたい。1865年、マネが傑作「オランピア」を発表、モリゾはその作品に刺激を受ける。これは、普仏戦争の 5年前。荒れるヨーロッパは不穏な空気に満ち満ちていたはず。一方、パリやロンドンやウィーンや、新興のベルリンなどは、それぞれに本格的な近代都市の形成が始まっていたわけだ。このブログで度々関連事項の出てくる、エッフェル塔が建てられたパリ万博は 1867年。実際にマネとモリゾが出会ったのは、その翌年、1868年だ。そして、第 1回印象派展は 1874年。つまりその間に普仏戦争と、フランスの敗北 (及び新興国プロイセン・ドイツの台頭) があったわけだ。ということは、多くの人々が美術の最高峰のように思っている印象派 (ちなみに私は違います) は、戦争の敗北による挫折感と、同時に戦争終結による解放感とがないまぜになった複雑な時代に誕生したことになる。普仏戦争終結の 1871年から第一次対戦勃発の 1914年までがベル・エポック (= 良き時代) と呼ばれるのは、そのような、戦争と戦争の間の時代という背景があるからなのだ。この映画には、時代背景を克明に描いたシーンはないが、戦死することになる兵士とのふれあいや、ともに絵を学んだ仲であった姉との死別など、モリゾの体験した戦争の悲惨さの断片が、ごく淡々と描かれている。

さて、最後に書いておきたいのは、この邦題だ。「画家モリゾ マネの描いた美女 名画に隠された謎」・・・長すぎません? 原題は、ただの「ベルト・モリゾ」だ。それで充分ではないか。しかも、やたら印象派だなんだと、宣伝文句がチラシやポスターにズラズラ書いてある。日本人は充分に知的なのだから、もっと大人の文化を作りたいものだ。

by yokohama7474 | 2015-07-11 01:07 | 映画 | Comments(5)

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初めてマッドマックスが日本で公開されたときの衝撃は、今でも鮮烈だ。私は中学生だったと思うが、封切から少し時間を経て、いわゆる名画座 (もう死語ですな) で、何かと二本立てで見たのだったと思う。無法者がはびこる近未来の荒廃ぶりの描き方がなんとも絶望的で、そこで活躍するはずの主人公も、善玉なのか悪玉なのか判然としない無法者ぶり。オーストラリア映画という珍しさもあって、自分たちのよく知っているヒーロー像というものが通用しない得体の知れなさに恐怖を感じたものだった。その後日本で「北斗の拳」がブームになったときも (私はマンガは読まない方なのだが)、その舞台設定や悪役のコスチュームなどを見て、「なんだ、北斗の拳ってマッドマックスのパクリじゃん」というのが第一印象であった。しかし、マッドマックスシリーズの第 3作からはや 30年。恐らくは、「マッドマックスって北斗の拳のパクリじゃん」という世代が増えてきているものと思う。そこでこの新作である。目にも見よ、若者連中!! 北斗の拳がマッドマックスのパクリであって、その逆ではないのだ。あ、すみません、北斗の拳って何? という世代も多くなってきていることでしょうね。歴史の語り部はそのあたり、冷静に対応しなければいけません。

何より評価すべきなのは、この作品の監督が、以前の 3作と同じ、ジョージ・ミラーだということだ。おぉ、まだ生きていたのか。フィルモグラフィーを調べると、「イーストウィックの魔女たち」「ロレンツォのオイル / 命の詩」「ベイブ / 都会へ行く」、それからアニメの「ハッピーフィート」などがあって、それなりに知名度の高い作品を監督してはいるが、如何せん、マッドマックスシリーズとは毛色が違い過ぎる。メル・ギブソンがこのシリーズで一躍スターダムに躍り出た (最近では酒癖や人種差別発言等の問題も起こしているようだが、彼の監督作のうち、「ブレイブハード」と「パッション」は間違いなく映画史に残るだろう) のとは対照的だ。

ともあれこの新作、新たな三部作の一作目になるとのことだが、いやなんとも凄まじい。監督自身が、過去 30年間の鬱憤を晴らすかのように、狂気じみたのめり込みようだったのだろう。ストーリーはないに等しい。映画開始前にこれこれの事件があったという設定がいくつか、イメージ映像や言葉で少し説明されはするものの、そんなものはどうでもいい。冒頭、遥かな砂漠を望む風景で、奇形のトカゲが出てくるが、それに対してマックスが取る行動に仰天させられた後、それがこの映画の設定した荒涼とした世界観であることに気づく。そして、ある意味で奇形性をテーマとした人間たちののっぴきならない生き様が絶望的かつ過酷に描かれたあとは、もうほぼ全編、大型トラック (?) がただひたすら爆走。悪漢どもが追走。激闘。爆走。追走。激闘・・・。その連続だ。ただ、広大な砂漠をどこまでも進んでしまうと、お話は終わらないので (笑)、うまく途中で U ターンされるようにできているのだ。その間、まあそれはそれは見ていて血圧の上がること。

悪役の親玉、イモータン・ジョーは、こんな外見だ。既にコミックで登場しているキャラクターのようだが、これは誰がどう見ても、手が付けられない極め付けのワルだ。近くに寄っただけで理由もなく八つ裂きにされそうで、絶対友達にしたくないタイプの人だ。核戦争後の地球が舞台であり、人々はいろんな疾患を持っていて、この人は、マスクをつけないと生きていけないという設定である由。水や食料を牛耳っており、狂信的な若者集団を手下として、英雄的な行為によって死ねば、勇者の殿堂ヴァルハラ (おお! 北欧神話だ! ワーグナーだ!) に行けると言ってはそそのかす。その若者集団、ウォーボーイズは、日本の暗黒舞踏にヒントを得たのだろう、全員スキンヘッドに白塗りだ。なんとも禍々しい。
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役者では、何よりシャリーズ・セロンが素晴らしい。壮絶と言ってもよい。こんなハードな役をここまでこなせる女優は、そうそういるとは思えない。なにせ、こんな人が
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こうですからね。こりゃすごい。
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主役のトム・ハーディ。マッドマックスとしては、ちょっと優しい表情が気になるかなぁ。いい役者とは思うものの。
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さて、たぶんこれは私の勝手な思い込みかもしれないが、この映画には、「七人の侍」へのオマージュではないかと思われるシーンが、少なくとも 2つはあると思う。ひとつは、絶体絶命の危機をかいくぐった登場人物が、あっけなく命を落とす場面。もうひとつは、複数の敵を倒すために単身乗り込んで行き、舞い上がる砂埃の中、平然と生還する場面。そう、どちらも宮口精二の演じたシーンだ。「七人の侍」が世界映画史上に打ち立てている地位に鑑みれば、このようなことも特に騒ぐには当たらないのですがネ。冷静に対応しなければ。

この映画、決して救いのない内容とは言えないが、なにより悪役連中の禍々しさがあまりにも強烈だったので、鑑賞後に帰宅しても、なんともささくれだった気分であった。そこで、バロック音楽の中から、カンプラ (1660 - 1744 フランス) のレクイエムの CD を取り出して、心を浄化した。まあ人それぞれ、癒しの音楽を持っていると思うので、もしこの映画をご覧になる場合は、カンフル剤としてそのような音楽のご用意をお奨めしておこう。とにかく、侮るべからざる凄まじい映画である。

by yokohama7474 | 2015-07-10 01:02 | 映画 | Comments(0)

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この映画は、ウォルト・ディズニーが生前考えていた未来都市構想に想を得て、新たに制作されたものである。見る側にとっては、この手の映画にはリスクがあって、あまりにも楽天的で幼稚な内容であるかもしれない。一方、どうやら何か変わったものを見ることができそうだという予感もしないでもない。さて、その実態やいかに。

感想は複雑だ。1964年のニューヨーク万博に始まり、超未来都市トゥモローランドや現代の米国、あるいはパリなど、3人の主要登場人物が時空を駆け巡る。かつて未来とは希望あふれるものであったが、今や人類滅亡に向けたカウントダウンをしなければならない状況。そんな感傷もつかの間、追手が現れ、逃走や格闘や、あらゆる発明品による対決がスピーディに繰り広げられる。何やら陰謀論めいたテーマもあり、また、人工物と人間の間の恋情というテーマも垣間見える。その意味で、一粒で何度でもおいしいとも言えるが、ストーリーで映画を見る人には、若干もどかしい思いもあるかもしれない。私の場合は、映画におけるストーリーは二の次三の次の要素であるので、理解できない点はそのまま受け流したが、鑑賞後しばらく経ってからあれこれのシーンを思い出すことで、何やら新たな思いが沸いてくる。それが嫌味なものにならない点、やはりよい映画と評価できるものと思う。

ニューヨーク、クイーンズの JFK 空港近くのフラッシング・メドウズ。テニス好きなら、全米オープンの会場としておなじみだろう。今でもそこに行くと、1964年の万博開催時に作られた銀色の巨大な地球儀のモニュメントが存在している。
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ディズニーのアトラクション、It's a Small World は、この万博で初めて作られたという。物語は、少年がそのアトラクション設備の中から、超未来都市に招待されることから始まる。1964年というと、もちろんアメリカが平和であった時代とは言えない。ケネディ暗殺はその前年だし、ヴェトナム戦争の泥沼の真っ最中だ。それにもかかわらず、いや、もしかするとそれゆえに、当時アメリカの人々が夢見た未来とは、本当にワクワクするものだったのかもしれない。日本の場合は事情が全く異なるものの、「人類の進歩と調和」がテーマとなった大阪万博はその 6年後。やはり、未来は素晴らしいものと誰もが信じられた時代だったと言えるだろう。

昔はワクワクすべきだった未来に、人類は今や夢を持てないというテーマは、特に目新しいものではない。世界の終りを扱う映画は、911 後には激減したものの、最近はまた増えてきている。そんな中でこの映画の一味違う点は、その世界を救う努力が、ある団体によってなされているという設定だ。夢を持つこと、絶対あきらめないこと。そんな陳腐な謳い文句を、うまく料理していると思う。その一方で、トゥモローランドの基礎を作った偉人として、エディソン、ジュール・ヴェルヌ、エッフェルと並んで出てくるイコンが、ニコラ・テスラであるなど、陰謀好きにとってはたまらない設定だ。テスラについてご存じない方はネットで調べて頂くのがよいと思うが、私の頭の中に飛来したのは、デヴィッド・ボウイがテスラを演じた映画があったなぁ・・・ということ。そうだ。あのクリストファー・ノーラン監督の「プレステージ」だ。あれは面白い映画だった。まあともあれ、この謎めいたカルト的人物を、素晴らしき未来の創造者の一人として位置付けるこの「トゥモローランド」、なかなかどうして、子供向きであるわけがない。そのような隠し味を好む人たちには、是非ご覧下さいとお奨めしておこう。


by yokohama7474 | 2015-07-09 00:40 | 映画 | Comments(0)

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よく、メジャーなシネコンで上映していないような映画をどうやって見つけるのですかと訊かれるのだが、答えは簡単。メジャーなシネコンでない映画館で予告編を見ることだ。私の場合、その方法の補完として、とあるサイトで日本で公開される全映画を封切日別に定期的にチェックすることで、監督、出演俳優、そして全体的な雰囲気で見たい作品を絞り、上映が早く打ち切られそうなものに優先順位を置く。あとは時間を作るのみ。そう、この映画を見たときのように、新幹線で移動後、タクシーに飛び乗って劇場に直行、ちょっと走って、なんとか膀胱を緩ませてから席に着くと同時にブザーが鳴り上映開始という、いささかタイトなスケジュールでもこなす必要がある。でも、そんな積み重なりが人生を彩って行くと思えば、タイトスケジュールもまた楽しだ。

この映画、予告編を見て、「これは」と思ったのである。邦題にある通り、86分の上映時間、主人公はひたすら夜のハイウェイを走っている。登場人物はたったの一人、このドライバーのみだ。彼が延々運転中に電話で話を続けるだけという、前代未聞の構成である。このような制約が多いシチュエーションほど制作者のイマジネーションの余地が多くなるわけで、これはきっと面白いだろうと思ったのだった。

私のごく限られた経験だが、英国人は車内で電話をするのを好む。完璧にハンズフリーで電話できる設備を車内に完備し、通勤途中に電話で仕事の話をする。その習慣を持っている英国人を、私は複数人知っている、のみならずそのうちの一人などは、実際に車内で、ニッという満面の笑顔で運転席から後部座席を振り返り、その設備を私に自慢したものだ。な、なぜなのだ、これは。よく分からないが、ともあれこの映画、冒頭、夜のシーンで主人公が右ハンドルの車に乗り込んだと思うと、左側の車線を走り出し、あ、英国の映画かと思う間もなく、そのままいろんな人に電話をかけ始めるのだ!! 恐らく英国人にとっては日常の風景という認識になるものと思う。ところがである。その電話の内容たるや、嗚呼主人公の大ピンチ!! 私生活で、仕事上で、彼の人生は、まさに土俵際徳俵だ。おいおいおい、そんな人生の一大事を電話で話してもよいのか。でも仕方ない。彼はそれらのことを話さないわけにはいかないし、理由があって移動しているわけであり、おまけに、嗚呼なんと不幸なことか、車に電話の設備が完備していると来ている。そうして主人公の人生の危機的瞬間が、夜のハイウェイの中でギリギリときしり始め、観客はそれにつきあわされる羽目になる。なんという迷惑な映画であろう。

でも、これは面白い映画だ。どの人も、それぞれの人生において、あられもないパンツ一丁崖っぷちという瞬間がある。この映画のような極端なシチュエーションでなくとも、そのような危機的瞬間はきっとある。そんな時、この映画の主人公を思い出そうではないか。彼の決意や責任感、いや実はそこには、やぶれかぶれの要素は大いにあるのだが、それでもいいのだ。4文字言葉の連射を浴びせられようと、会社の冷酷な原理に落胆しようと、あるいはわがままな女の態度にムカつこうと、時間はひたすら車とともに前に進み、決して後ろには戻らない。そして、最後はどこかでなんとかなるものなのだ。そういうものなのだ。この映画の 86分間、観客は主人公の遭遇する不幸不運のオンパレードに、「自分じゃなくてよかった」というずるい安堵を覚え、その次の瞬間には自己嫌悪にとらわれる。その繰り返しの末、ラストシーンに、「え、これだけ?」と思いながらも、無事に地面に足が着いている自分に、また新しい安堵を覚えるのだ。なかなかよくできた映画である。

原題の Locke は、主人公のファミリー・ネームである。Ivan Locke (アイヴァン・ロック) というのが主人公の名前。演じるのはトム・ハーディという役者である。あ、今確認すると、なんと、これから見る予定の「マッドマックス 怒りのデスロード」や「チャイルド44」の主演だ。おーそうだったのか。それはそれは。この作品が躍進のきっかけとなったものか。実際ここでの演技は素晴らしく、彼の躍進も頷ける。そうすると、この作品に何かの匂いを感じた自分の直感に、少しは信頼を置きたくなるというもの。

実に手の込んだことには、電話で声だけ登場する人物のうち、アイルランド人という設定の人物 (Donal) だけが本当にアイルランド人で、ほかはみな実際に英国人だ。この電話の会話、多分日本語では映画にならないだろう。あの鼻につく独特のアクセントと、アメリカ英語にはないもったぶった言い回し。人生の崖っぷちを表現する言語としては、British English は適性を持っていると、勝手に納得してしまった私であった。あの満面の笑みで車の電話装備を自慢した英国人よ、願わくば無事に人生の危機を乗り切らんことを。

by yokohama7474 | 2015-07-08 00:03 | 映画 | Comments(0)

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ジャン・ルノワールの 1936年の中編 (上映時間 40分) が、デジタルリマスターされ、渋谷のイメージ・フォーラムで公開されている。解説によると、撮影半ばで頓挫してしまった企画を、製作者が執念で完成に漕ぎ着けようとしたものの、ポジ・プリントはドイツ占領中に破壊されてしまった。戦後になってようやく、密かに保存されていたネガ・プリントをもとに編集され、既に米国に亡命していたルノワール自身の承認を経て (本人は 1979年まで米国で存命)、1946年にパリで公開されたという経緯があるとのこと。助監督として参加している顔ぶれがすごい。ルキノ・ヴィスコンティ (いわずとしれた後年のイタリアの巨匠)、ジャック・ベッケル (ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちに敬愛された監督)、そしてアンリ・カルティエ・ブレッソン (最初はロベール・ブレッソン (世代的には近い) かと思いきや、有名な写真家の方のブレッソンだ)。また、台詞作成には、「枯葉」の作詞や「天井桟敷の人々」の脚本で知られる、ジャック・プレヴェールが参加している。

原作はモーパッサンの短編。1860年のフランスの郊外を舞台に、家族とともに休暇を楽しみに来た婚約中の若い女性が、地元の男性と寸時の恋に落ちるというもの。ストーリー自体は大したものではないが、その映像の作り方の手の込んだこと。例えば冒頭、川面の上を移動する釣竿が画面を横切り、橋の上をやってくる馬車がフレームにとらえられる、そのリズム感。またその馬車の中で会話をする家族は、橋の欄干の外からのショットで描かれる。さらには、その後のストーリーの展開で、モノクロなのに美しく感じられる陽光や、動きとして実感される風、また頻繁に表現される木洩れ日、豊かに流れ続ける川、そこに激しく降る大雨等々が、観客の感覚を次々と刺激する。また、この映画で最も有名であるらしいシーンは、上のポスターにも使われている、主演女優がブランコに乗るシーンであるとのこと。これはさながらヒッチコックの映画のように、思わぬアングルで運動性をかなり思い切って表現したシーンだ。

ただ、この映画は、そのような感覚性のみで語られるべきであろうか。私はむしろ、そのような冴えた映像が表そうとしているのは、人間の感情であろうと思う。時代の制約もあってラブシーンは控えめなものだが、そこに至る男女のせめぎあいには、何やらただならぬものがあり、この短い映画でも観客が感情を動かされる要素があるとすれば、やはり、優れた映像の積み重ねこそがその理由であろう。この監督は、高名な画家の息子だから云々と評価するのではなく、一人の映画監督としてその手腕を評価すべきである。

いや実際、私も大概の有名画家にはそれぞれの美点を見つけるものの、どういうわけか、オーギュスト・ルノワールだけはダメなのだ。大嫌いなのだ。だから、ジャン・ルノワールが彼の息子という事実には、重きを置かないようにしております。もっとも、ジャン自身、きっとそれを誇りにしていたであろうことは分かる。以前見たジャン・コクトーのドキュメンタリー映画で、彼がコクトーに、「画家の息子として言うが、君の色彩感覚は素晴らしいよ」というシーンがあったのを思い出す (確かコクトーがデザインした教会の装飾についての発言だったと思う)。でも、理屈ではない。私はオーギュスト・ルノワールが嫌いだ。

映画が作られた時代と、映画の舞台となった時代を比較してみよう。舞台となっているのは 1860年。フランスでは、1848年の二月革命の後、ルイ・ナポレオンによる第 2共和政に続き、ナポレオン 3世の第 2帝政に入っている。普仏戦争の 1870年まであと10年だ。とにかく 19世紀のヨーロッパは、戦争に次ぐ戦争。その勢いが、やがてそのまま世界大戦にまで転がり込んで行くわけだが、さて、1860年は、大きな戦争の間に当たっている。一方、映画の作られた 1936年。言うまでもなく、2つの世界大戦の間である。3年経てば第 2次世界大戦が勃発。フランスは簡単に占領されてしまうのだ。そう考えると、この映画を作ったスタッフに、戦争の予感がなかったわけがない。それでいながら、時に下品なまでのこの台詞である。迫りくる戦争の足音に気づいているがゆえに、フランス人らしい刹那的な快楽の謳歌に生きる意義を見出したとも言えるだろう。ナチ時代のドイツの美学 (健全な肉体に健全な精神が宿ると称した、極めて不健全な時代) を考えれば、ドイツ占領時代にこの映画のフィルムが破壊されたのもむべなるかなと思われる。

ところでもうひとつの驚きは、この主演女優だ。シルヴィア・バタイユというらしいが、なんとなんと、あのジョルジュ・バタイユの夫人だという!! 家庭的な面を想像することすら全く困難なあのバタイユが、あろうことか、女優と結婚していたとは!! いやはやなんともガッカリだ (笑)。なお驚くべきことにこの女優、バタイユと別れたあとには、ジャック・ラカンと再婚したというのだから、恐れ入る。それから、主人公を口説く男は、ジョルジュ・サン・サーンスという名前の役者である。珍しい苗字だし、あの大作曲家、カミーユ・サン・サーンスの親族か? また、プログラムを仔細に見ると、監督自身が宿のオヤジ役として出演していたらしい。こんな顔だ。
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うーん。でもね、この方、有名なお父さんが幼い頃に絵に描いているらしいのですよ。これです。
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時の流れとともに人間は成長するもの。可愛い赤ん坊も立派な大人になり、そして死後 35年も経って、極東の妙なブログにこんな紹介をされてしまう。まこと、時の流れとは恐ろしい。この映画の冒頭の川の流れは、そういう人間生活の流転を象徴しているのかもしれません (強引)。

by yokohama7474 | 2015-06-28 19:12 | 映画 | Comments(0)

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のっけから細かい話で恐縮だが、この映画の原題、プログラムによると、"Kindnapping Mr. Heineken" であり、米国公開もそのタイトルであったようだが、実際映画を見ると、"Kidnaping Freddy Heineken" がタイトルになっている。
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まあいずれにせよ、実話に基づくと冒頭で謳われる映画である。1983年に発生したオランダのビール会社ハイネケンの経営者、フレディ・ハイネケンの誘拐事件の内幕とその顛末を描いている。なんと言ってもフレディ・ハイネケン役がアンソニー・ホプキンスである。見るなという方が無理であろう。

ただ、今回も予告編と本編の間にギャップを感じた。予告編では、囚われの身になったアンソニー・ホプキンスが、青二才の犯人たちを愚弄し、その人生経験で圧倒するというストーリー、例えて言えば、大人版「ホーム・アローン」のように、人質に手を焼いた犯人たちの哀しくもおかしい状況が描かれるのかと思われた。まあそれはひとえに、ハイネケン役がアンソニー・ホプキンスであったことに拠るであろう。なぜなら、レクター博士は、どんな過酷な囚われの境遇でも、その牙を収めることはないからだ。この映画を見る人は、そして気づくのだ。この俳優がもはやレクター博士ではないことを。ここで描かれているのは、まんまと犯罪を完遂したにもかかわらず、理不尽にも (?) 追いつめられる男たちの物語だ。疑心暗鬼、仲たがい、家族愛・・・。とんでもないことをしてしまった人間たちの、人間である所以が丁寧に描かれて行く。

この映画の美点を一言で表すとすると、一滴も血が流れないことだ。犯罪映画でこれは稀有なこと。製作者側の深い配慮もさることながら、恐らくは実在の犯人たちも、血を見るのが嫌いな人たちであったのではなかろうか。実際は分からない。ただこの映画には、「そうであって欲しい」と思わせるような人間的要素が流れていて、それゆえにこそ、これほど大それた犯罪を犯した若者たちの心情に何かピュアなものを見出してしまうのだろう。実際、せっかく犯罪自体をうまくやりおおせたにも関わらず、どこへ逃げようと息詰まるような環境となり、永遠にそこから抜け出ることができない。いかに巨額の金を手にしたとしても、人間はそんな環境に耐えることはできない。ある者はまた犯罪の世界に舞い戻り、引き返せない人生を送り、謎の死を遂げる。何が彼らをしてそのような深い業を抱かしめたのか。

この手の映画は、名も知らぬ俳優が体を張って演技するというイメージがあるが、犯行グループのリーダー各の一人は、超メジャー作「アバター」の主役を演じたサム・ワーシントンだ (「タイタンの戦い」「タイタンの逆襲」でも熱演だった)。ただしかし、彼の顔は決してスターらしくは見えない。昔のスター (例えばポール・ニューマンとかロバート・レッドフォードとか) なら、こんな風な目立たぬ顔を撮る監督とは仕事をしなかったのではないだろうか。この映画、役者にとってもなかなかのチャレンジだったものと想像する。

by yokohama7474 | 2015-06-27 23:11 | 映画 | Comments(0)

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製作総指揮リドリー・スコット、主演ニコール・キッドマン、共演コリン・ファース。大した顔ぶれである。にも関わらず、多くのシネコンのスクリーンからは既に消えており、上映している劇場を見つけるのに苦労してしまった。世間の人たちの評価と私自身の評価は一致しないことが多いので、もしや浮かばれない傑作ではないかと期待したが (笑)、実際に見てみて、今回ばかりはヒットしないのもやむなしと呟いてしまった。

主人公が同じ場面を繰り返すという設定は、ある種ありがちであって、よほど驚愕のトリックが仕掛けてあるか、映像と音響の織り成す流れが卓越しているかでなければ、今日びの観客は満足しない。ニコール・キッドマンの綺麗なブルーの瞳の横に真っ赤な毛細血管が走る接写によって始まるこの映画は、その冒頭の流れにはなかなか謎めいた雰囲気があってよい。ところが、その後段々と失望に駆られるようになる。絵が汚いのだ。手持ちカメラで不安定な心理を表すつもりかもしれないが、映画とは不思議なもので、細部の集積がうまく行かないと、このような映像表現に説得力がまるで生まれて来ない。そして観客は思うのだ。・・・最近の映画にしては、随分と低予算だなぁ・・・。2人の有名俳優へのギャラだけで、予算がつきてしまったのかなぁ・・・。しかし、リドリー・スコットが製作総指揮なのである。資金不足などあってもよいものか。

いやいや、映画の良しあしは、使われた金の多寡ではない。この映画、やはり流れを欠いている。低予算はよしとしよう。これはほとんど主役 2人の室内劇に近い。ニコール・キッドマン主演の室内劇・・・おお、あの変人監督ラース・フォン・トリアーの「ドッグヴィル」があるではないか。思い出してみると、そもそも演技力抜群というわけではないこの女優から、なんという表現力をあの映画は引き出していたことか。また、主人公が目覚めて同じシーンを繰り返す映画と言えば、ニコール・キッドマンのかつての伴侶、トム・クルーズの「オール・ユー・ニード・イズ・キル」があったではないか。あの映画の持っていた、有無をも言わせぬ迫力は、残念ながらここにはない。あるいは、コリン・ファースの近作、ウッディ・アレン監督の「マジック・イン・ムーンライト」を思い出してみようか。あの映画でのこの俳優とここでの彼の役柄は大きく異なる。でも、どうだろう。あの映画のラストでエマ・ストーンが呼びかけに答えるシーンに溢れる万感の思いと、それを表す彼の表情のカケラでも、この映画にあるだろうか。それから、主人公が記憶をなくす映画には、クリストファー・ノーランの出世作「メメント」もあれば、寺山修司の「さらば箱舟」もあった。これらの映画と比べて、さてどうだろう。

私にとっては、やはり映画とは監督のものなのだ。演出が冴えなければ、どんな俳優も力を発揮できない。この作品のラストシーンで、監督は何をどのように表現したかったのか。私にはそれを理解することができず、観客がたったの二人だけだった劇場を後にした。

by yokohama7474 | 2015-06-24 23:32 | 映画 | Comments(0)

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デビュー作の「第9地区」、2作目の「イリジウム」と、問題作を世に送り出してきた南アの若手監督、ニール・ブロムカンプの 3作目である。私はこれまでの 2作を見て、その一貫して荒廃した世界のイメージ (どのくらいヨハネスブルクの真実を反映しているのだろうか) と、必ずどこかに表されている希望に、強く印象づけられてきた。今回の「チャッピー」の予告編では、ロボットに知能を持たせて、あたかも子供のように育てるという内容に重点が置かれていて、若干子供向けかと思ったのであるが、実際に本編を見てみると、なんのことはない、これまでの 2作以上に深刻な内容だ。ただ、例によって希望はある。だがその希望は思いもよらない形をしていて、容易に受け入れられるものではない。

最近の映画には、人間の潜在能力とコンピューターの結合というテーマが時折見られる。だが、例えばスカーレット・ヨハンソンの「ルーシー」とか、ジョニー・デップの「トランセンデンス」だが、いずれも荒唐無稽過ぎて、全くリアリティがなかった。その点、この映画においては、何か空恐ろしくなるようなリアリティがある。人間の Mortality が、ある手段によって克服されること。それは本当に幸せなことなのだろうか。あるいは、そうなってしまえば、今の人間に見えない何かが見えてくるのだろうか。この映画の真のテーマはそこにある。なんとも仮借ない映画だ。

そのような、これまでの映画にない深い内容を持つものの、個別のキャラクターの描き方が大変秀逸であるため、エンターテイメントとしても充分に高いレヴェルに達している。チャッピーの可愛らしい仕草や、彼の受けるひどい仕打ち、また、正義感に駆られて暴力をふるう姿に、観客は感情移入を禁じ得ないし、どこからどう見ても札付きのワルが、実は大変な仲間思いであったり、自分の命を懸けて他人の命を守る勇気を持っているということも、説得力あるかたちで示される。そして、あのヒュー・ジャックマンが悪役を演じ、ロボットにボコボコにされるシーンなど、なかなか見られませんね。でもこのシーン、大変カタルシスを感じられること受け合い (笑)。さらには、シガニー・ウィーヴァーが、軍需産業の女性経営者の役を嬉々として演じているのも楽しい。このような有名俳優たちが出演することを取ってみても、この監督が映画界において大きな期待を受けている存在であることが実感される。

繰り返しだが、この映画は決して子供向きではなく、映画好きなら必見と言ってもよいだろう。日本での広告内容を、もう少しなんとかできなかったものだろうか。手腕のある監督の作品は、必ず見る人に訴えかける力を持っているのだから、その内容の深さをうまく広告すれば、興行成績も上がると思うのだが・・・。

by yokohama7474 | 2015-06-22 00:28 | 映画 | Comments(0)

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予告編に興味を惹かれたし、「あなたは必ず 2回観る」という宣伝文句も気になって観てみた。いやなるほど。「6 センス」並とまでは行かないが、なかなかのどんでん返しだ。この映画の美点は、考えようによっては大変恐ろしい結末を、しかし心地よい後味で振り返ることができる点だ。役者の持ち味がそれぞれ出ていて、それが隠し味になっていると思う。例えば前田敦子は、彼女自身のキャリアの中で、想像もできないほど数限りなくカメラの視線を浴びてきた女優であるが、それを知っていても騙される (?) ような可憐さをうまく演じている。また、誰しもが多かれ少なかれ経験するであろう、恋愛の甘酸っぱさや、男女のすれ違い、確執、その反動の愛おしさといった要素をうまく散りばめて描いていて、嫌味がない。

また、1980年代を舞台にした点も、なかなかに面白い。登場人物が電話をかけるシーンのやたら多い映画だが、黒電話がプッシュホンにまではなるが、携帯電話にまでは到達しない。もちろんインターネットも存在しない。いや、コンピューターさえ、オフィスの中での共有物としてのみ存在しているのだ。今の若い人たちには、どのようにして人々が生活していたのか、想像すらできないに違いない。でもそういう時代に青春を過ごした人たちがいて、そういう人たちの様々な思いは、存外今の若者と大して違わないのだろうなと思う。場面場面に対応する歌詞を持つ当時の音楽が随所に使われていたのは、若干うるさい気がしないでもなかったし、その時代を知らない若者に対してはアピールできないとも思うが、時代のリアリティを描くという意味では、よい雰囲気を映画に与えていたような気がする。

まあそれにしても、人間、女と男とどちらが純情か。言うまでもありませんよねー。

by yokohama7474 | 2015-06-13 23:50 | 映画 | Comments(0)


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別に、「観ないやつは死刑なのだ」と言われたから見に行ったわけではない。見たかったから見たのだ。もちろん、赤塚不二夫のマンガは子供の頃にそれなりに読んでいたし、子供心に馬鹿馬鹿しいと思いつつ、なぜか気になる存在ではあった。ただ、別に熱狂的なファンではなかったし、これまでもこの種の映画を劇場で見たことはほとんどない。では今回、なぜこの映画を見たか。その理由は、FLOGMAN (蛙男商会) の作品であったからだ。なぜなら、私は FLOGMAN が作り出したキャラクター、秘密結社鷹の爪が大好きだからだ!!
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ということを言うと、熱狂的な FLOGMAN ファンに怒らてれしまうだろう。というのも、私が知っている秘密結社鷹の爪は、TOHO シネマズで見ることができる範囲のものだけなので。

ともあれ、この映画、なんともバカバカしい。期待通りバカバカしいと言ってもよい。原作マンガにおける不条理の文化史的意義を説いたり、現代の抱える様々な制約から限りなく自由なバカボンのパパの姿に仏教的な性格を見たり、そういうことはしません (ちょっとしようかと思ったけど 笑)。ただ、鷹の爪の総統と吉田君の関係をなぞる、ここでのダンテとレスターの関係が、ただそれだけの理由で笑えるし、内閣情報局の神田職員と戸川課長の顔も、ただただ、その「FLOGMAN らしさ」に、もっと画面に出ていて欲しい!! とすら思える。
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一応、私の本来の (?) 興味から来るコメントを 2つ。

ひとつは、これはプッチーニのオペラ「トゥーランドット」と共通のテーマを持つ作品だ。一人の人物の名前が分からないことによって、集団が大きな試練を迎えることになり、その名前が分かった瞬間に、大団円に至る (あ、この映画では、バカボンのパパの名前は何かということを巡って大騒動が起こります・・・うーん)。試しに一度、「トゥーランドット」の最後の合唱を、「これでいいのだ」に変えてみてはいかがだろう。・・・熱狂的プッチーニファンに殺されてしまいますね。賛成の反対なのだってか・・・。あ、写真はイメージです。これはゼッフィレッリの演出ですね。でも、これがバカボンの映画のワンシーンだと思うと、人生なんだか楽しくなってくるじゃないの。
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もうひとつ。エンドタイトルを極力丹念に見るのが私流の映画鑑の締めくくりなのだが、今回は驚いた。音楽の演奏者に、打楽器奏者の高田みどりの名前があったのだ!! 現代音楽の世界では非常に有名な方で、私もいくつか録音を聴いたことがある。いわゆる、忘れようとしても思い出せない人だ。うーむ、そうと知っていれば、劇中音楽をもっと真剣に聴くべきであった。まさかバカボンの音楽に参加しているとは・・・。恐れ入りました。高田先生。

さらに付け足し。ウィキを見ると、バカボンの名前の謂れがあれこれ書いてあるが、今回の「バカヴォン」は、実はどれにもあてはまらない。これは意外と深いかもしれませんぞ。



by yokohama7474 | 2015-06-10 23:05 | 映画 | Comments(0)