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ピクニック (1936年 ジャン・ルノワール監督 / 原題 : Partie de Campagne)

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ジャン・ルノワールの 1936年の中編 (上映時間 40分) が、デジタルリマスターされ、渋谷のイメージ・フォーラムで公開されている。解説によると、撮影半ばで頓挫してしまった企画を、製作者が執念で完成に漕ぎ着けようとしたものの、ポジ・プリントはドイツ占領中に破壊されてしまった。戦後になってようやく、密かに保存されていたネガ・プリントをもとに編集され、既に米国に亡命していたルノワール自身の承認を経て (本人は 1979年まで米国で存命)、1946年にパリで公開されたという経緯があるとのこと。助監督として参加している顔ぶれがすごい。ルキノ・ヴィスコンティ (いわずとしれた後年のイタリアの巨匠)、ジャック・ベッケル (ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちに敬愛された監督)、そしてアンリ・カルティエ・ブレッソン (最初はロベール・ブレッソン (世代的には近い) かと思いきや、有名な写真家の方のブレッソンだ)。また、台詞作成には、「枯葉」の作詞や「天井桟敷の人々」の脚本で知られる、ジャック・プレヴェールが参加している。

原作はモーパッサンの短編。1860年のフランスの郊外を舞台に、家族とともに休暇を楽しみに来た婚約中の若い女性が、地元の男性と寸時の恋に落ちるというもの。ストーリー自体は大したものではないが、その映像の作り方の手の込んだこと。例えば冒頭、川面の上を移動する釣竿が画面を横切り、橋の上をやってくる馬車がフレームにとらえられる、そのリズム感。またその馬車の中で会話をする家族は、橋の欄干の外からのショットで描かれる。さらには、その後のストーリーの展開で、モノクロなのに美しく感じられる陽光や、動きとして実感される風、また頻繁に表現される木洩れ日、豊かに流れ続ける川、そこに激しく降る大雨等々が、観客の感覚を次々と刺激する。また、この映画で最も有名であるらしいシーンは、上のポスターにも使われている、主演女優がブランコに乗るシーンであるとのこと。これはさながらヒッチコックの映画のように、思わぬアングルで運動性をかなり思い切って表現したシーンだ。

ただ、この映画は、そのような感覚性のみで語られるべきであろうか。私はむしろ、そのような冴えた映像が表そうとしているのは、人間の感情であろうと思う。時代の制約もあってラブシーンは控えめなものだが、そこに至る男女のせめぎあいには、何やらただならぬものがあり、この短い映画でも観客が感情を動かされる要素があるとすれば、やはり、優れた映像の積み重ねこそがその理由であろう。この監督は、高名な画家の息子だから云々と評価するのではなく、一人の映画監督としてその手腕を評価すべきである。

いや実際、私も大概の有名画家にはそれぞれの美点を見つけるものの、どういうわけか、オーギュスト・ルノワールだけはダメなのだ。大嫌いなのだ。だから、ジャン・ルノワールが彼の息子という事実には、重きを置かないようにしております。もっとも、ジャン自身、きっとそれを誇りにしていたであろうことは分かる。以前見たジャン・コクトーのドキュメンタリー映画で、彼がコクトーに、「画家の息子として言うが、君の色彩感覚は素晴らしいよ」というシーンがあったのを思い出す (確かコクトーがデザインした教会の装飾についての発言だったと思う)。でも、理屈ではない。私はオーギュスト・ルノワールが嫌いだ。

映画が作られた時代と、映画の舞台となった時代を比較してみよう。舞台となっているのは 1860年。フランスでは、1848年の二月革命の後、ルイ・ナポレオンによる第 2共和政に続き、ナポレオン 3世の第 2帝政に入っている。普仏戦争の 1870年まであと10年だ。とにかく 19世紀のヨーロッパは、戦争に次ぐ戦争。その勢いが、やがてそのまま世界大戦にまで転がり込んで行くわけだが、さて、1860年は、大きな戦争の間に当たっている。一方、映画の作られた 1936年。言うまでもなく、2つの世界大戦の間である。3年経てば第 2次世界大戦が勃発。フランスは簡単に占領されてしまうのだ。そう考えると、この映画を作ったスタッフに、戦争の予感がなかったわけがない。それでいながら、時に下品なまでのこの台詞である。迫りくる戦争の足音に気づいているがゆえに、フランス人らしい刹那的な快楽の謳歌に生きる意義を見出したとも言えるだろう。ナチ時代のドイツの美学 (健全な肉体に健全な精神が宿ると称した、極めて不健全な時代) を考えれば、ドイツ占領時代にこの映画のフィルムが破壊されたのもむべなるかなと思われる。

ところでもうひとつの驚きは、この主演女優だ。シルヴィア・バタイユというらしいが、なんとなんと、あのジョルジュ・バタイユの夫人だという!! 家庭的な面を想像することすら全く困難なあのバタイユが、あろうことか、女優と結婚していたとは!! いやはやなんともガッカリだ (笑)。なお驚くべきことにこの女優、バタイユと別れたあとには、ジャック・ラカンと再婚したというのだから、恐れ入る。それから、主人公を口説く男は、ジョルジュ・サン・サーンスという名前の役者である。珍しい苗字だし、あの大作曲家、カミーユ・サン・サーンスの親族か? また、プログラムを仔細に見ると、監督自身が宿のオヤジ役として出演していたらしい。こんな顔だ。
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うーん。でもね、この方、有名なお父さんが幼い頃に絵に描いているらしいのですよ。これです。
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時の流れとともに人間は成長するもの。可愛い赤ん坊も立派な大人になり、そして死後 35年も経って、極東の妙なブログにこんな紹介をされてしまう。まこと、時の流れとは恐ろしい。この映画の冒頭の川の流れは、そういう人間生活の流転を象徴しているのかもしれません (強引)。

by yokohama7474 | 2015-06-28 19:12 | 映画 | Comments(0)

ハイネケン誘拐の代償 (ダニエル・アルフレッドソン監督 / 原題 : Kidnapping Freddy Heineken)

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のっけから細かい話で恐縮だが、この映画の原題、プログラムによると、"Kindnapping Mr. Heineken" であり、米国公開もそのタイトルであったようだが、実際映画を見ると、"Kidnaping Freddy Heineken" がタイトルになっている。
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まあいずれにせよ、実話に基づくと冒頭で謳われる映画である。1983年に発生したオランダのビール会社ハイネケンの経営者、フレディ・ハイネケンの誘拐事件の内幕とその顛末を描いている。なんと言ってもフレディ・ハイネケン役がアンソニー・ホプキンスである。見るなという方が無理であろう。

ただ、今回も予告編と本編の間にギャップを感じた。予告編では、囚われの身になったアンソニー・ホプキンスが、青二才の犯人たちを愚弄し、その人生経験で圧倒するというストーリー、例えて言えば、大人版「ホーム・アローン」のように、人質に手を焼いた犯人たちの哀しくもおかしい状況が描かれるのかと思われた。まあそれはひとえに、ハイネケン役がアンソニー・ホプキンスであったことに拠るであろう。なぜなら、レクター博士は、どんな過酷な囚われの境遇でも、その牙を収めることはないからだ。この映画を見る人は、そして気づくのだ。この俳優がもはやレクター博士ではないことを。ここで描かれているのは、まんまと犯罪を完遂したにもかかわらず、理不尽にも (?) 追いつめられる男たちの物語だ。疑心暗鬼、仲たがい、家族愛・・・。とんでもないことをしてしまった人間たちの、人間である所以が丁寧に描かれて行く。

この映画の美点を一言で表すとすると、一滴も血が流れないことだ。犯罪映画でこれは稀有なこと。製作者側の深い配慮もさることながら、恐らくは実在の犯人たちも、血を見るのが嫌いな人たちであったのではなかろうか。実際は分からない。ただこの映画には、「そうであって欲しい」と思わせるような人間的要素が流れていて、それゆえにこそ、これほど大それた犯罪を犯した若者たちの心情に何かピュアなものを見出してしまうのだろう。実際、せっかく犯罪自体をうまくやりおおせたにも関わらず、どこへ逃げようと息詰まるような環境となり、永遠にそこから抜け出ることができない。いかに巨額の金を手にしたとしても、人間はそんな環境に耐えることはできない。ある者はまた犯罪の世界に舞い戻り、引き返せない人生を送り、謎の死を遂げる。何が彼らをしてそのような深い業を抱かしめたのか。

この手の映画は、名も知らぬ俳優が体を張って演技するというイメージがあるが、犯行グループのリーダー各の一人は、超メジャー作「アバター」の主役を演じたサム・ワーシントンだ (「タイタンの戦い」「タイタンの逆襲」でも熱演だった)。ただしかし、彼の顔は決してスターらしくは見えない。昔のスター (例えばポール・ニューマンとかロバート・レッドフォードとか) なら、こんな風な目立たぬ顔を撮る監督とは仕事をしなかったのではないだろうか。この映画、役者にとってもなかなかのチャレンジだったものと想像する。

by yokohama7474 | 2015-06-27 23:11 | 映画 | Comments(0)

リピーテッド (ローワン・ジョフィ監督 / 原題 : Before I Go to Sleep)

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製作総指揮リドリー・スコット、主演ニコール・キッドマン、共演コリン・ファース。大した顔ぶれである。にも関わらず、多くのシネコンのスクリーンからは既に消えており、上映している劇場を見つけるのに苦労してしまった。世間の人たちの評価と私自身の評価は一致しないことが多いので、もしや浮かばれない傑作ではないかと期待したが (笑)、実際に見てみて、今回ばかりはヒットしないのもやむなしと呟いてしまった。

主人公が同じ場面を繰り返すという設定は、ある種ありがちであって、よほど驚愕のトリックが仕掛けてあるか、映像と音響の織り成す流れが卓越しているかでなければ、今日びの観客は満足しない。ニコール・キッドマンの綺麗なブルーの瞳の横に真っ赤な毛細血管が走る接写によって始まるこの映画は、その冒頭の流れにはなかなか謎めいた雰囲気があってよい。ところが、その後段々と失望に駆られるようになる。絵が汚いのだ。手持ちカメラで不安定な心理を表すつもりかもしれないが、映画とは不思議なもので、細部の集積がうまく行かないと、このような映像表現に説得力がまるで生まれて来ない。そして観客は思うのだ。・・・最近の映画にしては、随分と低予算だなぁ・・・。2人の有名俳優へのギャラだけで、予算がつきてしまったのかなぁ・・・。しかし、リドリー・スコットが製作総指揮なのである。資金不足などあってもよいものか。

いやいや、映画の良しあしは、使われた金の多寡ではない。この映画、やはり流れを欠いている。低予算はよしとしよう。これはほとんど主役 2人の室内劇に近い。ニコール・キッドマン主演の室内劇・・・おお、あの変人監督ラース・フォン・トリアーの「ドッグヴィル」があるではないか。思い出してみると、そもそも演技力抜群というわけではないこの女優から、なんという表現力をあの映画は引き出していたことか。また、主人公が目覚めて同じシーンを繰り返す映画と言えば、ニコール・キッドマンのかつての伴侶、トム・クルーズの「オール・ユー・ニード・イズ・キル」があったではないか。あの映画の持っていた、有無をも言わせぬ迫力は、残念ながらここにはない。あるいは、コリン・ファースの近作、ウッディ・アレン監督の「マジック・イン・ムーンライト」を思い出してみようか。あの映画でのこの俳優とここでの彼の役柄は大きく異なる。でも、どうだろう。あの映画のラストでエマ・ストーンが呼びかけに答えるシーンに溢れる万感の思いと、それを表す彼の表情のカケラでも、この映画にあるだろうか。それから、主人公が記憶をなくす映画には、クリストファー・ノーランの出世作「メメント」もあれば、寺山修司の「さらば箱舟」もあった。これらの映画と比べて、さてどうだろう。

私にとっては、やはり映画とは監督のものなのだ。演出が冴えなければ、どんな俳優も力を発揮できない。この作品のラストシーンで、監督は何をどのように表現したかったのか。私にはそれを理解することができず、観客がたったの二人だけだった劇場を後にした。

by yokohama7474 | 2015-06-24 23:32 | 映画 | Comments(0)

チャッピー (ニール・ブロムカンプ監督 / 原題 : CHAPPIE)

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デビュー作の「第9地区」、2作目の「イリジウム」と、問題作を世に送り出してきた南アの若手監督、ニール・ブロムカンプの 3作目である。私はこれまでの 2作を見て、その一貫して荒廃した世界のイメージ (どのくらいヨハネスブルクの真実を反映しているのだろうか) と、必ずどこかに表されている希望に、強く印象づけられてきた。今回の「チャッピー」の予告編では、ロボットに知能を持たせて、あたかも子供のように育てるという内容に重点が置かれていて、若干子供向けかと思ったのであるが、実際に本編を見てみると、なんのことはない、これまでの 2作以上に深刻な内容だ。ただ、例によって希望はある。だがその希望は思いもよらない形をしていて、容易に受け入れられるものではない。

最近の映画には、人間の潜在能力とコンピューターの結合というテーマが時折見られる。だが、例えばスカーレット・ヨハンソンの「ルーシー」とか、ジョニー・デップの「トランセンデンス」だが、いずれも荒唐無稽過ぎて、全くリアリティがなかった。その点、この映画においては、何か空恐ろしくなるようなリアリティがある。人間の Mortality が、ある手段によって克服されること。それは本当に幸せなことなのだろうか。あるいは、そうなってしまえば、今の人間に見えない何かが見えてくるのだろうか。この映画の真のテーマはそこにある。なんとも仮借ない映画だ。

そのような、これまでの映画にない深い内容を持つものの、個別のキャラクターの描き方が大変秀逸であるため、エンターテイメントとしても充分に高いレヴェルに達している。チャッピーの可愛らしい仕草や、彼の受けるひどい仕打ち、また、正義感に駆られて暴力をふるう姿に、観客は感情移入を禁じ得ないし、どこからどう見ても札付きのワルが、実は大変な仲間思いであったり、自分の命を懸けて他人の命を守る勇気を持っているということも、説得力あるかたちで示される。そして、あのヒュー・ジャックマンが悪役を演じ、ロボットにボコボコにされるシーンなど、なかなか見られませんね。でもこのシーン、大変カタルシスを感じられること受け合い (笑)。さらには、シガニー・ウィーヴァーが、軍需産業の女性経営者の役を嬉々として演じているのも楽しい。このような有名俳優たちが出演することを取ってみても、この監督が映画界において大きな期待を受けている存在であることが実感される。

繰り返しだが、この映画は決して子供向きではなく、映画好きなら必見と言ってもよいだろう。日本での広告内容を、もう少しなんとかできなかったものだろうか。手腕のある監督の作品は、必ず見る人に訴えかける力を持っているのだから、その内容の深さをうまく広告すれば、興行成績も上がると思うのだが・・・。

by yokohama7474 | 2015-06-22 00:28 | 映画 | Comments(0)

イニシエーション・ラブ (堤 幸彦監督)

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予告編に興味を惹かれたし、「あなたは必ず 2回観る」という宣伝文句も気になって観てみた。いやなるほど。「6 センス」並とまでは行かないが、なかなかのどんでん返しだ。この映画の美点は、考えようによっては大変恐ろしい結末を、しかし心地よい後味で振り返ることができる点だ。役者の持ち味がそれぞれ出ていて、それが隠し味になっていると思う。例えば前田敦子は、彼女自身のキャリアの中で、想像もできないほど数限りなくカメラの視線を浴びてきた女優であるが、それを知っていても騙される (?) ような可憐さをうまく演じている。また、誰しもが多かれ少なかれ経験するであろう、恋愛の甘酸っぱさや、男女のすれ違い、確執、その反動の愛おしさといった要素をうまく散りばめて描いていて、嫌味がない。

また、1980年代を舞台にした点も、なかなかに面白い。登場人物が電話をかけるシーンのやたら多い映画だが、黒電話がプッシュホンにまではなるが、携帯電話にまでは到達しない。もちろんインターネットも存在しない。いや、コンピューターさえ、オフィスの中での共有物としてのみ存在しているのだ。今の若い人たちには、どのようにして人々が生活していたのか、想像すらできないに違いない。でもそういう時代に青春を過ごした人たちがいて、そういう人たちの様々な思いは、存外今の若者と大して違わないのだろうなと思う。場面場面に対応する歌詞を持つ当時の音楽が随所に使われていたのは、若干うるさい気がしないでもなかったし、その時代を知らない若者に対してはアピールできないとも思うが、時代のリアリティを描くという意味では、よい雰囲気を映画に与えていたような気がする。

まあそれにしても、人間、女と男とどちらが純情か。言うまでもありませんよねー。

by yokohama7474 | 2015-06-13 23:50 | 映画 | Comments(0)

天才バカヴォン 蘇るフランダースの犬 (FLOGMAN 監督)


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別に、「観ないやつは死刑なのだ」と言われたから見に行ったわけではない。見たかったから見たのだ。もちろん、赤塚不二夫のマンガは子供の頃にそれなりに読んでいたし、子供心に馬鹿馬鹿しいと思いつつ、なぜか気になる存在ではあった。ただ、別に熱狂的なファンではなかったし、これまでもこの種の映画を劇場で見たことはほとんどない。では今回、なぜこの映画を見たか。その理由は、FLOGMAN (蛙男商会) の作品であったからだ。なぜなら、私は FLOGMAN が作り出したキャラクター、秘密結社鷹の爪が大好きだからだ!!
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ということを言うと、熱狂的な FLOGMAN ファンに怒らてれしまうだろう。というのも、私が知っている秘密結社鷹の爪は、TOHO シネマズで見ることができる範囲のものだけなので。

ともあれ、この映画、なんともバカバカしい。期待通りバカバカしいと言ってもよい。原作マンガにおける不条理の文化史的意義を説いたり、現代の抱える様々な制約から限りなく自由なバカボンのパパの姿に仏教的な性格を見たり、そういうことはしません (ちょっとしようかと思ったけど 笑)。ただ、鷹の爪の総統と吉田君の関係をなぞる、ここでのダンテとレスターの関係が、ただそれだけの理由で笑えるし、内閣情報局の神田職員と戸川課長の顔も、ただただ、その「FLOGMAN らしさ」に、もっと画面に出ていて欲しい!! とすら思える。
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一応、私の本来の (?) 興味から来るコメントを 2つ。

ひとつは、これはプッチーニのオペラ「トゥーランドット」と共通のテーマを持つ作品だ。一人の人物の名前が分からないことによって、集団が大きな試練を迎えることになり、その名前が分かった瞬間に、大団円に至る (あ、この映画では、バカボンのパパの名前は何かということを巡って大騒動が起こります・・・うーん)。試しに一度、「トゥーランドット」の最後の合唱を、「これでいいのだ」に変えてみてはいかがだろう。・・・熱狂的プッチーニファンに殺されてしまいますね。賛成の反対なのだってか・・・。あ、写真はイメージです。これはゼッフィレッリの演出ですね。でも、これがバカボンの映画のワンシーンだと思うと、人生なんだか楽しくなってくるじゃないの。
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もうひとつ。エンドタイトルを極力丹念に見るのが私流の映画鑑の締めくくりなのだが、今回は驚いた。音楽の演奏者に、打楽器奏者の高田みどりの名前があったのだ!! 現代音楽の世界では非常に有名な方で、私もいくつか録音を聴いたことがある。いわゆる、忘れようとしても思い出せない人だ。うーむ、そうと知っていれば、劇中音楽をもっと真剣に聴くべきであった。まさかバカボンの音楽に参加しているとは・・・。恐れ入りました。高田先生。

さらに付け足し。ウィキを見ると、バカボンの名前の謂れがあれこれ書いてあるが、今回の「バカヴォン」は、実はどれにもあてはまらない。これは意外と深いかもしれませんぞ。



by yokohama7474 | 2015-06-10 23:05 | 映画 | Comments(0)

ゼロの未来 (テリー・ギリアム監督 / 原題 : The Zero Theorem)

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東京という街はすごいところで、ありとあらゆる文化に触れることができる。映画に関してもしかり。シネコンだけ追っていては見逃してしまうような作品も、こまめに探せば、あるわあるわ、まさに百花繚乱の感がある。テリー・ギリアムの新作、「ゼロの未来」も、うっかりすると知らないうちに上映終了してしまうところであったが、なんとか見ることができた。なにせ、東京で上映しているのが、恵比寿ガーデンシネマと新宿武蔵野館というのだから面白い。後者も好きな映画館だが、今回は上映時刻の関係で、前者で見ることとした。おー、なんとも懐かしい。昔はもっと頻繁に足を運んだものだったが、最近ではトンとご無沙汰だった。

ネット上の評価を見るに、この映画については否定的な見解が多いように見受けられるが、私としては、この鬼才が未だに見事な職人魂と特殊なヴィジョンを保っていることが確認できて、こんなに嬉しいことはない。このような映画を作り上げるには、相当な体力、知力、忍耐力が必要に違いない。もちろん、資金力も。

主人公が暮らすのは廃墟そのものの教会で、ほとんどその中でストーリーは展開する。この教会以外のシーンと言えば、主人公の職場、パーティの会場と、一見ブレードランナー風、つまりアジア風だが、2階建てバスで明らかな通りのロンドンの風景くらいである。あ、それから、主人公の妄想世界。主演のクリストフ・ヴァルツは、まさに怪演、終始緊張感を保った演技が圧巻だ。あと、「グランド・ブダペスト・ホテル」にも出ていたらしい若手俳優、ルーカス・ヘッジズが素晴らしい。この映画のセリフはかなり手が込んでいて、字幕ではそれが充分伝わらない感がある。映画をストーリーでしか見ない人には、このような映画のセリフを逐一辿って欲しい。簡単な一例を挙げると、英語の一人称は単数と複数を区別するが、二人称にはその区別がないということだ。すなわち、主人公は自分を We と呼び、対する人たちは彼 (ら?) を You と呼ぶのだが、ここに英語のミステリーがある。個人が一人のときには意見の違いはないが、二人の集団になった瞬間に意見の違いが生じる。よって一人称の単数と複数は区別される。一方で、自分以外の世界という点では、他者はすべてひっくるめて一つの人格と考える理由がある。よって二人称はおおざっぱになり、単複の区別すらない (因みに三人称になると、今度は性別という細かい区別が生じる次第である)。主人公の人格が破たんしていると考える必要はないように思うが、電脳 (今やレトロな響きを帯びた言葉だ) とリアルという二つの人格を表しているのかもしれない。

映画のテイストとしては、もちろん「未来世紀ブラジル」を思わせるところもあるが、それよりもむしろ、「バートン・フィンク」ではないだろうか。電脳世界と現実世界とでどちらが奇妙キテレツかというテーマが描かれているが、そこには明らかに、主人公の汗がにじんでおり、なんとも人間的。その一方で、デヴィッド・シューリスの役柄などは、とんでもなくシュールで、そのギャップが面白い (パーティで「虎の衣装を着ている」と言いながら、実際にはほとんど狸の衣装だったのを見て、ケラケラと笑ってしまった)。その意味で、「バートン・フィンク」との共通点を見出すことができる。そう言えば、主人公の名前はコーエンだ (笑)。

昨年 NHK BS で、モンティ・パイソンの復活ライヴをやっていた。そのあまりにも下品なことに驚きつつ、1人を欠いたモンティ・パイソンのメンバーが、昔のネタを使いながら縦横無尽に動き回るのを見て、大層感動した。テリー・ギリアム。その下品な表現者としての人生に、拍手を送りたい。
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ところで、ひとつ気になることがある。この映画でマネジメントと呼ばれる経営者は、マット・デイモンではないのか。ところが、映画のプログラムを探しても、一言もそれに言及されていない。まさかそっくりさんか。いやいや、「インターステラー」の場合にも、思わぬところで思わぬ役柄で出ていた彼のこと。一流のジョークに違いない。エンドタイトルでは、出演者の表示は見逃したものの、"Assistant to Mr. Damon" という表記があったので、間違いないとは思うのだが・・・。

by yokohama7474 | 2015-06-08 00:31 | 映画 | Comments(0)

メイズ・ランナー (ウェス・ボール監督 / 原題 : The Maze Runner)

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これはすごい映画だ。予告編のイメージは「ハンガーゲーム」、見てみると雰囲気は「スターシップ・トゥルーパーズ」、ドンデン返しは「SAW」、そして続く次作は、これは絶対ゾンビ物だろう!! という勝手な想像を抱かせる、一粒で何度もおいしい作品だ。

全く先を読ませない展開、若手ばかりの個性的な俳優陣、スピーディで効果的なカット割り、どれを取ってもすばらしい。実に恐るべき手腕と言わねばならないこの監督は、これがデビュー作とのこと。今日のハリウッドシステムの中では、監督の個性を発揮することは難しく、作品がヒットして大作を任されるようになるほどその傾向が強いであろうが、このような輝く才能には、是非この個性を保って欲しい。

数々あるこの映画の秀逸な点のうち、顕著なものをひとつ挙げるとすると、役者の顔の多彩さがあるだろう。前の記事で「龍三と七人の子分たち」で、役者の無名性に言及したが、この映画にあるのはその全く逆の、それぞれのキャラクターに合った、「もうこれしかない」という必然性すら感じさせる、それぞれの役者の顔だ。設定上、様々な人種が集まっているわけであるが、「思慮深く繊細な面を持つ黒人リーダー」、「強靭な肉体と精神を持つアジア系」、「鼻っ柱が強く自己中心的な白人」といったキャラクターを、まさにそれぞれの顔が雄弁に語っている。映画とは、映像と音声のアマルガム。観客の感情移入は、このような周到に用意されたキャラクター描写によって初めてなされると思う。

原作は三部作で、すべて映画化される予定とのこと。次回作が本当にゾンビ物なのかどうか知らないが (笑)、この展開ならそうならなければという思いこみを持って、楽しみに次回作を待ちたいと思う。実際、通常のシリーズ物では、1作目のクオリティをその後の作品が凌ぐことは非常に稀である。それは、継続するストーリーと、既に固まってしまった登場人物のキャラクターが既に所与のものになっているところ、スケールを求めるあまりにマンネリ化に陥り、結局何がテーマなのか分からなくなってしまうからだと思う。その点、三部作でそれぞれ全く異なる展開にすれば、マンネリ化を避けられると思うのだ。それゆえにやはり私は、この続きはゾンビ物 (まあ、自分の好きなジャンルであるからですが 笑) になって欲しいと切望する次第であります。余談だが、最近読んだストルガツキー兄弟の「ストーカー」(言わずと知れたタルコフスキー作品の原作) は、実はゾンビ物なのである。ロメロの映画のような、そのものズバリのゾンビ物ばかりではない。隠喩によるゾンビ物があってもよいではないか!

by yokohama7474 | 2015-06-06 01:31 | 映画 | Comments(0)

龍三と七人の子分たち (北野武監督)

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北野武作品は、監督の著名度や作品の受賞歴に比してあまりヒットしないという印象があるが、今回は比較的ロングランになっているような気がする (ひとえにイメージで、調べたわけではないので、間違っているかもしれないが)。ただ、映画の出来不出来とは関係なく、なぜにいつもこれほど「安い」雰囲気の映像になってしまうのだろう。今回の役者は、錚々たる面々というのは少しはばかられるものの、日本を代表する役者が何人も出演していて、それなりにきらびやかさがあってもよいはずなのに、まるで全員無名の人たちのようだ。そして、そこに本当に無名性を具現する人たち、例えば、藤竜也の息子の家族などが混じるので、全体の印象は、「なんだか知らない人たちだなぁ」となってしまう。これは当然監督の企図するところであろうし、作品全体を通して明らかに CG も少ないという事実が、画面の基本的なトーンを決めており、ハリウッド調を目指す邦画とは全く一線を画する。

私は北野映画のファンではあるが、今回の作品は、そこそこ楽しめたという程度に留まった。理由は、上記のような、なんとも言えない無名な雰囲気に加え、日本のジジイがあまりカッコよくないということであろうか。もちろん、藤竜也にせよ近藤正臣にせよ、達者だし、いい味出してはいると思う。ただ、描かれているジジイ像がなんとも情けない。いや、今日の老人像のリアリティが映画にあるとかないとかいう話ではない。なぜだか、映像に映っているジジイたちが、カリカチュアになっていないもどかしさがあるのだ。と言いつつも、何度も声を挙げて笑ったことを白状しよう。復讐を誓って仲間の死体とともに殴り込みをかけるのに、その死体を盾にするという、たけし一流のブラックユーモアも楽しかった。あらゆるところで京浜連合とバッティングする間の悪さも、よい呼吸で描けていた。それなのに、ひとえにジジイのカッコよさがビンビンと伝わって来なかったのが、いかにも残念であった。

次回作に期待。


by yokohama7474 | 2015-06-06 00:57 | 映画 | Comments(0)