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黄金のアデーレ 名画の帰還 (サイモン・カーティス監督 / 原題 : Woman in Gold)

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今公開中の映画でどうしても見たいものが少ない中、この映画がシネコンでも上映していることを知り、見に行くことにした。ところが今日12月18日は、「スター・ウォーズ」の新作の封切日である。いや、日どころか、18時30分という封切時刻まで全国一斉。私がとあるシネコンでこのアデーレの映画を見ようと思ったのはその時刻の直前で、劇場はごった返しており、ライトセーバーを構えて写真を撮る人などが実に楽しそうにしていた。混雑を蛇より嫌う私としては、まあいつかどこかでスター・ウォーズは必ず見るが、今日この時ではないだろう。ということで、集団を潜り抜けて到達した劇場は、予想に反してそれなりの入りだ。

今月の自分のブログの記事一覧を見ると、やたら金色が多いことに気づく。オペラ「金閣寺」、デュトワ / N 響の「サロメ」、美術展「黄金伝説」といった具合だ。まあそうなると映画分野でも黄金が欲しくなるということで (笑)、まさに題名に黄金が含まれているこの作品を採り上げることになった。たまたまとはいえ、黄金続きはゴージャスな感じがしてなかなか気分がいい。ところがこの映画が扱っている題材は、気分がいいどころではない。ナチがユダヤの裕福な家庭から強奪した絵画。それを法的な手段で取り戻す婦人とその弁護士の話。うーん、そういう意味では、やはり最近のこのブログで採り上げたジョージ・クルーニーの「ミケランジェロ・プロジェクト」とは見事にテーマが一致する (もちろん、ナチの暴挙への対応という方法論では大いに異なるが)。そして、私にとっては尋常でなく興味のあるテーマ。というのも、ここで扱われている名画とは、グスタフ・クリムトの「アデーレ・ブロッホ・バウアーの肖像 I」(I とついているからには、ほかに II も存在する) なのである。クリムトは私が敬愛する画家。もちろん彼の活躍した世紀末ウィーンの文化全般こそが、私が生涯かけて研究し味わって行きたい分野であるからで、これは好きとか嫌いとかいうレヴェルの問題ではない。ともあれ、この絵画を見て頂こう。
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この記事は飽くまでも映画を対象としているので、この絵についてあれこれ語りたいのをグッとこらえて、簡単に触れるにとどめよう。この絵は現在ニューヨークのノイエ・ギャラリー (ドイツ語の Neue は英語の New という意味) に展示されているが、このギャラリーがオープンした 2006年、私はたまたまニューヨーク駐在で、もちろんこの絵を見に行ったものだ。セントラルパークにほど近い場所のごく小さいスペースだが、それほど混雑もしておらず、じっくり鑑賞することができた。この絵の来歴について、New York Times にも詳しく書かれていたが、私にとっては来歴よりも作品そのものに興味があった。もちろん、ニューヨークに移される前は、ウィーンにおける世紀末絵画の宝庫、ベルヴェデーレ宮殿に飾られていたので、その時にも何度も対面していたわけであるが。

映画は、この作品が米国にやって来るまでの経緯を、奪還に向けた行動が開始される1998年以降の状況と、主人公であるマリア (絵画のモデルであるアデーレ・ブロッホ・バウアーの姪) の幼時からナチの迫害を逃れて故国オーストリアを脱出する頃の状況とを交えて描いている。あえて言ってしまえば、半ばドキュメンタリーに近いくらいの淡々とした描き方で、戦争が巻き起こした悲劇という社会的メッセージが必ずしも常に表面に出てきているわけではない。だが、マリアの弁護士がウィーンのホロコースト慰霊碑を見たあとの場面で、感情の高まりが描かれる。ただ、そこはまだ比較的冷静な表現であるが、ラスト近くの回想シーンでマリアが両親と今生の別れをする場面では、断腸の思いが観客の心にストレートに入ってくる、強い表現力が発揮されている。その結果、劇場内では鼻水をすする音がそこここで聞かれるという次第だ。このイギリス人監督、なかなかの手腕である。

主役マリアを演じるのは英国の名優、ヘレン・ミレン。
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私がこれまでに見た彼女の映画は、「ヒッチコック」の妻役くらいで、その昔「コックと泥棒、その妻と愛人」に出ていたと言っても、ちょっと覚えていないし、エリザベス女王役でアカデミー賞を取った「クイーン」は見ていない。この映画では、どことなく気品がありながらも素朴な面もある可愛らしいおばあちゃんであり、一方で大変頑固で、かと思うとユーモアのセンスにあふれる人物像が求められている。この場合の「頑固」には、自らが家族とともに体験した幸福な幼時と、それゆえに一層悲惨な戦争への絶望的な思いが根底にあって、納得できないことにはおかしいと声高に言う勇気がありながらも、前向きになろうとするほどに過去の悲惨な思いを極力封じ込め、祖国のことなど忘れてしまおうとする、複雑な感情が渦巻いている。このような大変難しいキャラクターを自然体で演じるヘレン・ミレンはさすがである。

彼女の弁護士、ランドル (ランディ)・シェーンベルクを演じるのは、ライアン・レイノルズ。
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「ウルヴァリン X-Men Zero」でデッドプールという悪役を演じたマッチョ派のようであるが、ここでは若い真面目な弁護士役に大変好感が持てる。ところで実在のこのシェーンベルク弁護士が、この名画のオーストリアからの奪還に大きな力を発揮したようである。彼があたかもこの感動的な逸話の語り部のようで、この映画の前に製作されたドキュメンタリー映画には、本人が出演している模様。このシェーンベルクという名前。あの世紀末から両大戦間のウィーンを彩る超ビッグネームのひとつ、作曲家アーノルト・シェーンベルクの孫だそうだ。うーむなるほど。シェーンベルクはユダヤ人で、米国に亡命してカリフォルニアに住んでいた。この映画でも主要な舞台は陽光あふれるカリフォルニアだ。ランディはそのカリフォルニアで生まれ育った人間として過去のナチの悪行など興味の範囲外であったが、クリムトの絵画の金銭的価値に惹かれてマリアの弁護を引き受ける。だが、交渉に赴いたウィーンで自らのルーツに目覚め、むしろマリアを強引にリードして最後には勝利を勝ち取るのだ。劇中には、ランディがウィーンの主要なコンサートホールのひとつであるコンツェルトハウスで祖父の初期の代表作、「浄夜」の演奏 (オリジナル通り弦楽六重奏だ!) を聴くシーンもあり、音楽の分かる人なら、この映画の Emotion の大きな要素をそこに感じることができるだろう (結局シェーンベルクは、このように叙情溢れる音楽を生涯二度と書かなかった)。ほかの出演者では、「ラッシュ / プライドと友情」でニキ・ラウダ役を演じたダニエル・ブリュールがいい味を出している。ランディの妻役は、実生活での前の旦那のおかげで有名になった (?) ケイティ・ホームズだが、私はこの人はちょっとどうも・・・

音楽の話題が出たので、ついでにもうひとつ、どうでもよいことを書こう (興味のない方は読み飛ばして下さい)。映画の中でマリアが旦那とともにオーストリアを脱出するシーンは 1938年のことだが、空港の係員に、「ケルンで歌手のキャンセルが出たから急に行く。カラヤンの指揮だ」と告げるシーンがある。1938年と言えば、カラヤン 30歳。アーヘンの音楽監督には就任していたものの、未だそれほど知名度があるわけではなかったろう。それに、ケルンには当時オペラハウスがあったのだろうか。確か今あるものは戦後にできた劇場であるはず。また、カラヤンは当時ナチ党員であったかもしれないが、そのこと自体が広く知られてはいなかっただろう。という意味で、ここの発言は係員をケムに巻くという以上の意味はないようだ。・・・と言いながら、気になるとどうしても調べないではいられないたちの私の目の前には、カラヤンの生涯全演奏記録 (John Hunt 編纂) がある。1938年はと・・・。オペラ上演はもっぱらアーヘンだ。それ以外の活動で目立つのは以下の通り。
 1月23日 アムステルダムでコンセルトヘボウ管を指揮 (曲目不明)
 2月1日・7日 ストックホルム放送響を指揮。7日の曲目は、なんとシベリウスの 6番と、Ulfrstad というノルウェイの作曲家 (1890 - 1968) のピアノ協奏曲 
 2月20日 ブリュッセルでアーヘン歌劇場管とバッハのマタイ受難曲
 4月 8日 ベルリン・フィルにデビュー! 曲目はモーツァルト33番、ラヴェル「ダフニスとクロエ」第2組曲、ブラームス4番
 6月24日 アーヘンでR・シュトラウスの「エレクトラ」
 9月30日 ベルリン国立歌劇場にデビュー! 曲目は「フィデリオ」
 12月 初のレコーディング 曲目は「魔笛」序曲
それ以外にもいろいろ活動しているが、こうして見てみると、カラヤンのキャリアにとって飛躍の年であったことが分かる。一方、この近辺の年でカラヤンがケルンで演奏した記録はというと・・・お、1935年から36年にかけて、ケルン放送響を指揮して「カルメン」とか「リゴレット」を演奏している。してみると、この映画の台詞も、あながち見当はずれというわけではないかもしれない。

いつも以上に脱線しまくりになっていますが、ともあれこの映画、戦争の悲劇という大きなテーマを扱ってはいるものの、描かれている人間像にリアリティがあるので、大仰に作られたお涙ちょうだいものとは一線を画している。それゆえに、上で触れたような感情が爆発するシーンは数えるほどしかないものの、そのようなシーンが心に迫るようにできている。クリムトに興味のある人もない人も、見ればきっと感動すると思うし、1938年のカラヤンの活動に知識がなくても大丈夫!!

by yokohama7474 | 2015-12-19 01:14 | 映画 | Comments(2)

Foujita (小栗康平監督)

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このブログではこれまでにも何度か、画家 藤田 嗣治 (ふじた つぐはる 1886 - 1968) について触れる機会があった。私にとっては、日本と西洋の関係を考える上でも大変重要な画家であり、まあそれほど構えずとも、その繊細な作風に心惹かれると単純に言ってしまってもよいであろう。この映画は、その藤田が署名にも使った Foujita という名前の表記を題名にしており、文字通り藤田の人生の二つの側面を描く作品で、主演はオダギリ・ジョー、脚本・監督は小栗康平だ。まずは、本当の藤田の写真、そしてこの映画におけるオダギリ・ジョー演じる藤田の写真をご覧頂こう。
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小栗の作品と言えば、高校生の頃、現国の教師に、「今晩テレビで放送があるから是非見るように」と薦められて見たデビュー作「泥の河」しか知らない。暗い内容であったが、そのセピア色の静謐な画面では人間の営みのやるせなさが淡々と描かれており、「貧乏くさいなぁ」と思いつつ (笑)、なんとも心に残る映画であったことは間違いない。だが、その後の「伽倻子のために」「死の棘」「眠る男」「埋もれ木」は見る機会なく、彼の 6本目の作品である本作は、私が初めて劇場で見る小栗監督の映画であるのだ。30年以上経っても未だにはっきりと記憶している「泥の河」で見られた静謐さが、この映画においても全編を貫いていることが印象深い。冒頭の数ショットは動きのない風景 (パリの藤田のアトリエ) であるが、かつての小津映画すら想起させる画面の安定感と静けさ、そして何よりも、いるべきものがそこにいない神秘感を感じさせるのだ。そして約 2時間の全編のうち、前半は華やかな 1920年代パリ、後半は何もかもが戦争に巻き込まれている 1940年代の日本が舞台である (従ってオダギリ・ジョーの台詞の半分はフランス語だ)。中間部ではパリの喧騒や軍部の焦燥感が描かれるが、最後の部分ではタルコフスキーすら思わせる水の流れが現れ、戦争を浄化するような、やはり非常に静謐な画面に回帰して終わる。ここで描かれているのは藤田の画業の全貌ではなく、その評価についての説教じみた箇所もなければ、画家自身がが独白で胸中を吐露するシーンもない。従ってこれは決して藤田の伝記映画ではなく、藤田という芸術家に対する小栗監督のオマージュと呼ぶべきだろう。

とは言いながら、やはり藤田の芸術を愛する者にとっては、映画を見ながらやはり藤田という画家がいかなる人であったのか、またいかなる思いで絵を描き続けたのかということを考えてしまうのもまた、無理からぬことだろう。11月22日の記事で藤田の戦争画について採り上げたが、この映画においては、戦時中の彼の行動が淡々と描かれていて、物事を考えるヒントになる。ひとつのシーンで藤田とともに出て来る画家は宮本三郎。彼は山下奉文がシンガポールを占領したときに英国の司令官パーシヴァルと講和交渉をした際の絵で有名だ。
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この絵は戦争画として最も有名なものであるし、この映画の中でも、模範的な戦争画として軍部から称揚される。だが劇中の宮本と藤田たち自身は、一体戦争画として何を描くのべきなかについて、心の奥底では迷っている状況で描かれている。その時代の画家たちにとって、戦争画との関わりは様々だが、一見時流におもねていても、実際には持てる技術の発揮の場という思いが強かったのではなかろうか。ちなみにこの宮本三郎の作品だけを集めた小さな美術館が、世田谷美術館分館として東急九品仏駅近くに存在している。そこへ行くとこの画家のより本質的な特色を知ることができるので、戦争画のみで宮本をご存じの方には、一度行ってみることをお奨めする。あ、上記の戦争画は近代美術館の保管であり、その美術館には展示していないので念のため。

さて、前半のパリの喧騒とは異なり、この映画の後半は、ひたすら沈んだ色調だ。室内でもライティングをせずに撮影しているシーンがほとんどで、暗さに段々目が慣れていくような気がする。そして舞台は、藤田が疎開する日本の郊外になる。史実では疎開先は相模湖近くの藤野村だそうだが、この映画ではどこか架空の村のような印象だ。ラスト近く、切り通しにおける奇抜なライティングの変化などを使って、小栗は藤田を幻想の土地に踏み込ませる。そこは現実か夢かも分からない霞のかかった山の中で、キツネが人をばかすのである。海外での盛名も画家としての矜持も、また巧まずして身に着けた処世術も、そこではただ霞の中でどこかに消えて行ってしまう。そこでの藤田は、なんとも幸福そうなのである。
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音楽を担当している佐藤聰明 (さとう そうめい) は、昔アジアン・テイストのレコードなど聴いたことがあり、いわゆる現代音楽の作曲家としても、堅苦しい芸術然としたものでない、むしろサブカルチャー的な前衛音楽の作り手というイメージがある。この映画では、武満徹を思わせる静謐な弦の響きが見事だ。大概この種の映画では、音楽に関して東京コンサーツという団体がクレジットに出て来るものだが、今回もあたりだ。これは音楽マネジメント会社のようですな。

このように、なかなかに手の込んだ作りであり、芸術的雰囲気は大変よいのだが、強いて多少の違和感を挙げるとすると、実在の芸術家を採り上げる際には、何かもうひとつ、その芸術家の精神に肉薄する方が感銘が深まるのではないか。藤田の目は狂乱の 1920年代パリをエトランゼとしてどう見ていたのか。戦争の歯車に巻き込まれる 1940年代の日本を当事者としてどう感じていたのか。この映画はそれらの点において語ることがなく、あまありにもイマジネーションに頼り過ぎのようにも思われる。それから、前半のパリのシーンに出て来る女優たち。私が大変興味を持っていて、以前伝記まで読んだことのあるキキの役にしても、藤田の伴侶たちの役にしても、残念ながら輝くものを感じない。プログラムを調べると、それなりに実績のあるちゃんとした役者さんたちのようであるが、やはり言葉の壁があったのか、それぞれの役柄に求められる個性を感じることができない。後半に出て来る中谷 美紀が素晴らしい出来なので、その対照でよけいそのように感じたのかもしれないが。

最後に、これぞ藤田という作品をご紹介しよう。この映画の中に製作風景の出て来る「五人の裸婦」(1923)。東京国立近代美術館所蔵である。
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これは藤田がパリのクリュニー美術館にある有名な一角獣のタペストリーからヒントを得て、五感のそれぞれを表す女性たちを描いたもの。このタペストリーについては、この映画の中でも、それを鑑賞する藤田が描かれるし、このブログでも 6月21日の記事で触れている。興味深かったのは、映画の中で藤田は、モデルを前にしながら、手元では歌麿の浮世絵を見ながら筆を走らせていたことだ。彼がパリで大人気を博したのは、西洋にはなかったこの女性の白い肌の表現によるところが大きい。もちろん日本的なイメージとしての浮世絵に倣うという作戦はしたたかだと言えるが、その乳白色をいかに出したかという点は長らく謎であったらしい。ところが、やはり藤田の作品を多く所蔵する箱根のポーラ美術館に行った際に、その色の秘密についての解説展示を見ることができた。どうやら、ベビーパウダーを絵の具に混ぜていたらしいのだ。さーすが、女性の美を追求する高級化粧品会社の美術館の展示であると感心したものだ (笑)。決定的な証拠は、あの偉大な写真家、土門 拳が撮った藤田の製作現場の写真に写っていたことらしいので、この藤田という人、自分の企業秘密に関して、神経質に見えて意外と大らかだったのかもしれない。まだまだ知らない藤田の顔が沢山あるので、この映画は映画として評価しつつも、藤田の絵画作品は絵画作品として坦懐に見ることで、自分なりの理解を深めたいと思う。

by yokohama7474 | 2015-12-09 00:39 | 映画 | Comments(2)

ラストナイツ (紀里谷 和明監督 / 原題 :Last Knights)

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あるとき映画館で、クライヴ・オーウェンとモーガン・フリーマンの写真を掲載した薄暗いポスターを発見。明らかにハリウッドの新作だ。近づいてみると、何やら漢字が書いてある。なになに、紀里谷和明? キリヤカズアキ? お、あの「新造人間キャシャーン」の監督ではないか。あれから随分時間が経ったが、ハリウッドのトップ俳優を使った映画を撮ることができるという大出世を果たしたわけだ。その間に撮ったという「Goemon」は、私が海外在住中の公開なので、どのような映画であるのか全く分からない。しかし、これはやはり見るべき映画であろう。前回の記事で採り上げた「コードネーム U.N.C.L.E.」は、もとマドンナの旦那が監督であったが、この映画は、もと宇多田ヒカルの旦那が監督だ。だからなんだと言われても困るのだが。

前回の記事に倣って、まず題名から行こう。「ラストナイツ」とは、きっと Last Night (昨夜) の複数形であろう。とすると、自堕落な生活を送っているプレイボーイが、様々な夜を過ごすものの、「昨夜のことは忘れたよ」とうそぶいて夜な夜な遊びまわるというストーリーだろう。なんちゅうけしからん映画だ。そもそもその内容なら、クライヴ・オーウェンとモーガン・フリーマンという役者は明らかにミス・キャストではないのか。・・・と思ってよく見ると、題名の後半は Nights ではなく Knights だ。つまり、ラストナイトは、「最後の騎士たち」ということだ。でも、このカタカナの題名を見ただけでは、とてもそこまで思いつかないですよ。それは、「ラストサムライ」や「ダークナイト」なら分かる。まあ公平に言えば後者は「暗い夜」と思った人がいたかもしれないが、バットマンのイメージがもともとあるので、タイトルの意味は想像できる。その点この映画は、観客は全く先入観ゼロで見るわけだから、この邦題は厳しいだろう。

で、タイトルの意味は分かったのだが、ストーリーについて何の情報もないまま劇場に入ったのだ。そして途中から極めて明確になるのは、これは日本人が大っ好きなある歴史的な物語の翻案であるのだ。年末にはちょっと早いが、大詰めのシーンでこんな感じの雪の中の攻撃となると、大概の方々にはもう明らかであろう。モーガン・フリーマンが義憤に駆られて殿中で刀を抜く役。クライヴ・オーウェンが昼行燈の役である。
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さてここで疑問を呈そう。この監督、自分の骨肉の中に、この仇討ちストーリーがどの程度入っているだろうか。何か日本的なものが作品を作る原動力になったのであろうか。この疑問に対する答えは、映像を見るだけではなかなか難しいものがあるが、どうやら原案が日本発であっても、世界のどこでも通用する物語を描きたかったようだ。プログラムに載っているインタビューによると、黒澤明がシェイクスピアを翻案して日本を舞台にした作品を作った、ちょうどその逆をやりたかったとのこと。なるほど。では、日本的なものを描きたいわけではないということで、ここは整理しよう。そもそも脚本はカナダ人によるものらしく、始まりからして大変インターナショナルな作品なのだ。実際、この映画の設定はどこの国でもない。登場人物も、様々な肌の色の人たちがいて、特定の国の特定の民族の話ではないということが大前提である。

さて、次に気になるのは映像である。上記ポスターや写真で見る通り、この映画は終始薄暗い空の下で進行する。監督の意図は、西洋絵画を意識した画を作ることであり、カラヴァッジオやレンブラントやフェルメール、あるいは西洋絵画的な小津安二郎の映画を念頭に置いたらしい。だがその点は正直、どの程度成功したかは疑問だ。絵画と映画は全く別物。それは、絵画と違って映画には、動きと、それ以上に時間が関係してくるからだ。画の作り方に凝った割には、見終った印象は残念ながら単調なイメージで、実際に屋内のシーンはもちろん、どんなに壮大な野外のシーンが出て来ても、あたかもすべては屋根の下で行われる室内劇という印象だ。小津の映画は、よく畳に腹ばいになって撮った映像が特徴と言われるが、屋外のシーンを含めて、実は様々なヴァリエーションがある。この映画はその点、画から広がりを感じることは、残念ながらあまりない。以下のようなシーンもその例に漏れない。
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だが、ストーリーにはいろいろ伏線もあり、なかなか面白い。主役の 2人以外は知らない俳優ばかりだが、唯一、クライヴ・オーウェンの敵役として、伊原剛志が頑張っている。ハリウッド映画の日本人俳優というと、渡辺謙がダントツで、真田広之や浅野忠信が時々出ているくらいであり、組合の制約だか何かがあるらしく、高い壁が存在している。ここでの伊原は、日本人という設定には必然性はなく、不気味な雰囲気を持った、いわば「敵ながらあっぱれ」な役柄であり、いい演技をしていると思うので、今後の活躍に期待したいものだ。ハリウッド第 1作かと思ったら、クリント・イーストウッドの「硫黄島からの手紙」で馬に乗るバロン西を演じていた。あれも印象に残る役であった。
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役者の演技では、まあやはりクライヴ・オーウェンとモーガン・フリーマンは大したものだ。前者は、昼行燈の状態から最後の討ち入りに向けてシャキッとするあたりの変貌ぶりが目覚ましいし、一旦シャキッとしてしまうと、この上なく頼もしい。男の理想ですなぁ (笑)。
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モーガン・フリーマンも、一本気に正義を貫徹する姿にリアリティがあり、素晴らしい存在感。こんな役者を使うことのできる監督は幸せだろう。
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ひとつ気づくのは、この映画、悪い奴は、かたきとなる大臣くらいしか出てこないことだ。下の写真の右端の人物。ただこの人物とても、過激な悪ではなく、保身に汲々としている弱い人間であり、決して積極的に悪を実行しない。極悪人なら、クライヴ・オーウェン役を野放しにして観察するのではなく、問答無用に暗殺するだろう。そのあたりが、この映画がもうひとつ臓腑をえぐる衝撃を与えてくれない理由かもしれないと思う。
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この映画のエンドタイトルを見ていると、チェコ人の名前と韓国人の名前が沢山出て来る。ロケは全編チェコの各地で行われたらしく、韓国資本に相当頼って製作されたことが原因のようだ。例えばラストシーンが撮影されたのは、チェコで最も美しいと言われるフルボカー城であるらしい。こんなところだ。おーなんと素晴らしい。行ってみたい!!
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あれこれ勝手なことを書きつらねているものの、もともと我々日本人のよく知っているストーリーでもあり、うるさいことを言わなければ結構楽しめる。少なくとも、夜な夜な遊びまわるプレイボーイの話かと思って見に行くと、意外な展開で面白いと思うこと必定 (笑)。頑張っている紀里谷監督を応援しよう!!

by yokohama7474 | 2015-12-03 00:22 | 映画 | Comments(0)

コードネーム U.N.C.L.E (ガイ・リッチー監督 / 原題 : The Man from U.N.C.L.E.)

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ガイ・リッチーの新作と聞いて、何を置いても見に行こうと思ったのであるが、よく分からなかったのはこの題名だ。「コードネーム UNCLE」だと? Uncle とはもちろん、英語で叔父のこと。題名だけ見ると、なんのことやら分からない。そんなこともあってだろうか、11月14日に封切られたこの映画、それほどヒットしているようには思われない。私が見たときも、レイトショーとはいえ、観客は一桁の人数であった。どうも宣伝に問題ありではないかと思いつつ、今ここで私が騒いでもわめいても、時既に遅しなのであろうか。この監督の次回作、大丈夫だろうか・・・。せめてこの記事で、この映画の真価に少しでも迫りたい。

まず題名から行こうか。私も知らなかったのであるが、この U.N.C.L.E. は、邦題でもご丁寧にアルファベットの間にポツがついている通り、何かの略号だ。何の略号かというと、"United Network Command for Law and Enforcement"、つまり「法とその執行のための連合ネットワーク司令部」ということだが、まあ要するに悪と闘う陰の国際組織ということだろう。これは 1960年代のテレビドラマ、「0011ナポレオン・ソロ」のリメイクである。このドラマ、昔日本でも放送していたのは知っているものの、スパイ物という以上の知識は私にはない。今般改めて調べてみると、米国のエージェント、ナポレオン・ソロとソ連のエージェント、イリヤ・クリヤキンが、ともに悪と闘うという内容らしい。なるほど、こんな雰囲気でしたね。
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そもそも冷戦真っ只中の時代、米国とソ連がともに闘うという想定はなかなか大胆なものであったろう。あるいは、現実を描くのはあまりに過酷なので、少し夢物語調を追い求めてそのような展開になって行ったものか。いずれにせよ今は既に 2015年。ソ連崩壊から四半世紀を経て、そのような時代のドラマをどのようにリメイクすべきか。以前「キングスマン」の記事でも触れた通り、世界の大きな対立構図が消えてしまった今となっては、スパイが何を相手に闘うかという設定は非常に難しいものとなっている。この映画の脚本・製作・監督であるガイ・リッチーは、もともとのテレビドラマへのノスタルジーもあるのだろう、1960年代当時を舞台として設定した。そうすると、時代の制約によって、「キングスマン」や「ミッション・インポッシブル」に出て来るようなコンピューターハッキングや GPS や極小のハイテク器具などは使えない。そもそも携帯電話は世の中に存在せず、トランシーバーが主要な通信手段であり、部屋に仕掛ける盗聴器は虫みたいに大きいし、せいぜいが自動車に載っている巨大な移動電話が最新鋭機器だ。そんな設定で観客を楽しませるにはどうすればよいか。まずは演出、そして役者の演技、最後にストーリーということになろう。

ガイ・リッチーの名前が一般にどの程度浸透しているものかよく分からない。まあ、マドンナの元旦那ということで知られているとは言えるであろうか。だが、映画ファンにとっては、「ロック、ストック & トゥー・スモーキング・バレルズ」、「スナッチ」、そして、ロバート・ダウニーJr.とジュード・ロウのコンビによるシャーロック・ホームズ・シリーズによって、現代の最も注目すべき監督であるという認識がされているであろう。私も、上記の最初の 2作に完全にノックアウトされた口である。この監督の作品は、何が何でも見なければならないと思わせる、数少ない監督のひとり。今回の映画の映像においてまず注目すべきはその、昔のテクニカラーを思わせる若干毒々しい色彩であろう。一貫して何やらノスタルジックな雰囲気を作り出している。ただ、初期の 2作の強烈さに比べると、カメラワークや細部の演出の凝り方は少し大人しくなったかなと思う。彼の作品でおなじみの、人を食ったような超接写のスローモーションは、この映画ではあまり見られない。あるいは、マッドサイエンティストを倒す場面のとぼけたブラックさも、面白いけれども、かなりマイルドだ。もしかすると、そのあたりにこの映画の「中途半端さ」があるのかもしれない。

印象深かったのは、役者たちがいずれも性格の良さを感じさせる点で、ここにはスパイの非情な掟が取り返しのつかない悲劇を巻き起こすという事態は発生しない。主役のナポレオン・ソロは、このがっちりした爽やかさ (?) はどこかで見たと思ったら、現在進行中のスーパーマンシリーズの第 1作「マン・オブ・スチール」で主役を務めたヘンリー・カヴィル。来年は「バットマン vs スーパーマン」で、バットマンを演じるベン・アフレック (!) と対決する (?) らしい。考えてみれば、スーパーマンはこの映画のように銃を撃たないから、このような彼のショットは貴重かもしれない (笑)。
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イリヤ役のアーミー・ハマーは、本物のロシア人ではなくアメリカ人 (曾祖父がロシア系ユダヤ人とのこと) だが、ボソボソとロシア風の英語を喋り、その押し殺した感情の下から人のよさがにじみ出てくるキャラクターを演じて好感が持てる。
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この 2人のスパイと行動をともにするドイツ人女性、ギャビーを演じるのは、スウェーデン人のアリシア・ヴィキャンデル。初めて目にする女優だが、こんな感じなので、堅物のイリヤが心動かされるのも理解できるなぁ。カー・チェイスなどで実際の能力の片鱗を見せながらも、どこか初々しい役柄を巧みに演じている。
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そして、悪役であるイタリア人女性ヴィクトリア役は、オーストラリア人であるエリザベス・デビッキが演じていて、大変美しい。敵役はこうでなくてはと思わせるのだ。ところが、調べてびっくり。彼女は、「エベレスト 3D」で、ベースキャンプの心温かくも冷静な、髪を三つ編みにした医師を演じていた、あの女優なのだ。見ていて全く気付かなかった。さすが女優。化けています。あの名作、バズ・ラーマン監督の「華麗なるギャツビー」にも出ていたらしい。
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まあそんなわけで、それぞれにいい顔をした役者たちを見るだけでも、この映画には価値がある。ストーリーはどうかというと、私は結構面白いと思った。ノルタルジックな時代設定の中、趣向を凝らしたアクションが満載だが、敵をやっつけるのにそれほど奇抜なアイデアが出てくるわけではなく、素直に見ていればよいので、一般受けすると思う。ヒュー・グラントの役なども、別に驚くほどの内容ではないものの、嫌味もなく、ストンと落ちる感じ (?)。この方、ベテランの味が出てきましたね。これからが期待されますよ。
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この映画があまりヒットしなかったとするなら、なんとももったいない話。せめてこのブログでは、普通に見て面白いので、お奨めですと申し上げておこう。

by yokohama7474 | 2015-12-02 00:02 | 映画 | Comments(0)

ミケランジェロ・プロジェクト (ジョージ・クルーニー監督 / 原題 : The Monument Men)

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去年この映画の宣伝を見たとき、ジョージ・クルーニーが製作・監督・主演を務めた作品で、共演がマット・デイモンやジョン・グッドマンやケイト・ブランシェット、そして題材がナチスが戦時中に押収した美術品の奪回という史実であると知って、これはどうしても見なければと思ったものだ。ところが、封切前になって突然公開中止。前売り券の払い戻しにまで至る事態を見て、一体何事かと残念に思ったのである。もう日本では見ることができないのかと絶望的な思いをしていたところ、飛行機の中のプログラムでこの映画を発見し、狂喜しながらも、一体日本公開に差し障りのある内容がどこにあるのかと、ちょっとドキドキした。見てみると特に不都合な箇所は見当たらず、なぜあのような事態に至ったのか不思議だが、ともあれ今回無事劇場での日本公開が実現して本当によかった (どこかに契約の不備でもあったのだろうか???)。いずれにせよ、劇場で見るところ観客動員もそれなりの成績のようであるし、少なくとも美術に興味のある人々には是非ご覧頂きたい。

あらすじ自体は、その実際の中身の複雑さに比して大変単純だ。第二次大戦末期、ドイツの敗色濃厚となった中、連合国側では、欧州に残された貴重な芸術作品をナチの破壊や強奪から守るというミッションを、7人の男たち (原題の通り、モニュメント・メンと名付けられた) に託す。この 7人は、美術館の学芸員や歴史家や建築家、彫刻家らで、中には老人もいる。どうみても戦闘員ではないその彼らが、文字通り命を賭けて芸術品奪還に向けて危険な戦地に入っていくのだ。そこに絡むのが、占領下のパリで、ゲーリングがこ集めた美術品を保管した美術館の学芸員であるフランス人女性。ナチによって隠された美術品のありかを知っているのかいないのか、そもそも敵なのか味方なのか。史実に基づく物語だ。

戦争末期を描いた映画は、「プライベート・ライアン」や、最近では「フューリー」があった。また、戦争と美術に関するものでは、「ミケランジェロの暗号」という、滅法面白い映画もあった。あ、そうそう、「パリよ、永遠に」という最近の映画は、ナチがパリから退却する際に街の破壊を防いだ勇気ある政府高官や外交官の話を描いた優れた室内劇であった。だがこの映画は、それらのいずれとも異なる。そのユニークさは、戦争末期とはいえ戦地に赴く人たちの出会う過酷な運命を浮き彫りにしながら、人の命と芸術品と、どちらが重いかという命題を突きつけることではないだろうか。もちろんナチは絶対悪として登場するが、ヨーロッパの大国の美術館の展示品の多くは、他国からの戦利品であることを思うと、ヒトラーが生地リンツに建設を予定していた総統美術館構想も、それだけ取ってみれば、他国が非難する権利をどのくらい持っていると言えようか。まあアメリカだけは、武力ではなく金の力で美術品を集めたので、事情は違うという視点もあるにはあるが。いずれにせよ、美しいものが人の心を奪うことは素晴らしいことのはずなのに、その美術品が力づくで強奪されてしまうなどということは、やはり許されることではない。この映画には、その意味で観客をまず味方につけるという前提が存在している。

役者では、この作品のまさに中心人物、ジョージ・クルーニーがまさにいい味出している。1961年生まれだからまだ 54歳だが、メイクのせいもあって、さらに年上に見える。メトロポリタン美術館の学芸員役のマット・デイモンを口説いてモニュメント・メンに引き入れるシーンなど、それぞれの台詞がアメリカらしく乱暴で、それでいて洒落ていて、日本ではこういうことにはならんだろうなぁと思って見てしまう。
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コーエン兄弟の一連の作品を通じて私の好きな俳優、ジョン・グッドマンは、ここでは比較的おとなしい (笑)。それどころか、ふとしたことから命を落とすことになる同僚を最後まで助けようとする、巨体に似合わぬ優しい心を見せるのだ。
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それから、フランス的英語を喋る (笑) ケイト・ブランシェットは、いつもながら達者な演技だ。マット・デイモンとの間にロマンスが生まれかかるが、まあそのあたりも大人の描き方だ。
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さて、7人の男たちが危険の中に入って行く物語というと、もちろん誰しもが思い当たるのは、黒澤明の「七人の侍」だ。だが、この映画の劇的迫力は、さすがに「七人の侍」の域には遠く及ばない。それどころか、厳しい見方をすれば、作品全体を通して演出という点では、もうひとつ物足りないとも言える。なのでここではそれには深入りせず、残りのスペースでは、この映画を取り巻く興味深い事象を書くに留めよう。

まず、ここで出て来る美術品の数々。最近までナチがどのくらいの美術品を強奪したのかはっきりとは分かっていなかったようだが、なんと 500万点以上。ユダヤ人から没収したものは、未だにもとの持ち主が分からないものがあるというニュースを聞いたことがある。なんとも驚くべきだが、今日我々が見ることのできる素晴らしい美術品には、実在のモニュメント・メンが奪回したものが多いということを知ると、なんとも感慨深い。この映画でクローズアップされているのは、いずれもベルギーにある作品で、ひとつがファン・エイク兄弟によるヨーロッパ祭壇画の最高傑作と言われる、ヘントの祭壇画 (1432年作) だ。これは私も見たことがないが、生きているうちになんとしても見たい。劇中では、発見されたときに絵が 1枚足りず、ハラハラするが、それが思わぬところから出て来るのだ。
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もうひとつは、ミケランジェロの作になる、ブルージュにある聖母子像。私はブルージュにも行ったことがなく、ローデンバックの小説「死都ブルージュ」、またそこからヒントを得て作られたコルンゴルトの歌劇「死の都」、それからブルージュを描いたクノップフの絵画「見捨てられた町」などなどが大好きな者としては、これまたいずれ訪れなければならない街。そこに、イタリア以外の教会で唯一のミケランジェロの彫刻があるとは。なんとも心が浄化するような作品だ。作中で、この作品を守ろうとして命を落とすモニュメント・メンの一員の姿が描かれている。命を掛けるに値するなどと軽々しく言いたくはないが、犠牲になった命を慈しむような、素晴らしい聖母子像である。
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さて次に、音楽好きの方に教えたいトリヴィア。本作で占領中のパリでゲーリングの強奪した美術品を管理する親衛隊員、ヴィクトール・シュタールという役が出て来る。映画のプログラムにも載っていないし、ネットで画像検索しても出てこないその役を演じた俳優の名を、私はエンドタイトルでしっかりと見て、ピンと来たのだ。名前は、ユストゥス・フォン・ドホナーニ。これはと思って帰宅後に調べてみるとやはりそうだ、あの巨匠指揮者、クリストフ・フォン・ドホナーニの息子である。ドホナーニと言えば、往年の名ソプラノ、アニヤ・シリア (1960年代には美人ワーグナー歌手として一世を風靡した) と結婚していたことが有名であるが、この俳優はその前の奥さんとの間の子供らしい。

最後に、これも知らないともったいない話。この映画のプログラムを見ていると、マット・デイモン役のモデルになったのは、ジェームズ・ロリマーという当時のメトロポリタン美術館の学芸員で、その後彼は同美術館の館長になったという。むむ? メトロポリタン美術館館長のジェームズ・ロリマー??? 何やら古びた記憶の断片が、脳の底から叫んでいる。そこで心当たりを調べて、ポンと膝を打った。この人の次の代の館長がトマス・ホーヴィングという人で、作家としてフィクションのミステリーや、美術に関するドキュメンタリー物を書いているのだ。フィクションの「名画狩り」もまあまあ面白かったが、なんと言っても、ドキュメンタリーの「ミイラにダンスを踊らせて」や「謎の十字架」が滅法面白い。特に後者は、象牙の十字架を執念で追い求める実話なのだが、大美術館の館長がそんなことをしてもよいのかという犯罪スレスレ (いや、本当に犯罪???) の大冒険をあれこれ繰り広げるのである。私の記憶の奥底に引っかかっていたのは、そこに出て来る彼の前任の鬼館長の名前が、ジョームズ・ロリマーであるということだったのだ!! なるほど、このような戦争中の命がけのプロジェクトに参加した、逞しい人だったから、負けずに逞しいと想像されるホーヴィングにとっても、生き生きと描く対象になったわけだ。それにしても、人間の記憶力は本当に面白い。仕事上で何回会ってもどうしても名前を覚えられない人も多いのに (笑)、何年も前に読んだ本の印象が、全く別の機会にこのような記憶として、面識のない人の名前を浮かび上がらせるとは!! ご参考までにこの本の表紙を以下にアップしておこう。画像を取り込もうとアマゾンにアクセスしたところ、「お客様はこの本を 2007年 5月に購入しました」だと。ははは。さすがコンピューターは記憶が確かですなぁ。
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そんなわけで、いつも以上に脱線しまくりで、あえて映画自体の細かい批評は避けたが、いろいろな意味で見る価値のある映画だとお奨めしておこう。

by yokohama7474 | 2015-11-25 01:35 | 映画 | Comments(0)

ヴィジット (M・ナイト・シャマラン監督 / 原題 : The Visit)

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M・ナイト・シャマランの映画を、「シックス・センス」以来何本見てきたことだろうか。ほとんど見ているはず。それにもかかわらず、この監督の名前をなかなか覚えることができず、「あのインド人」と呼んでいる私は、相当失礼な人間なのであろう。それにしても、名前の最初の M は何の略なのか。昔仕事で一緒だったマレーシアのインド系の人は、日系企業の現地店で部長にまで登りつめた人であったが、ファーストネームが、やはり M だったか N だったかで、「絶対他人に知られることはない」と豪語していたものだが、この監督の最初の M も、そういうことなのだろうか。インドの神秘。
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さてこの映画、ある一点をもってして私の注意を惹いたのである。それは邦題の、「ヴィジット」である。私はもともと、日本語表記の「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ」にうるさいたちであって、例えば「ベートーベン」とか「ベルディ」という表記には我慢がならないのである。もっとも、ビエロフラーヴェクとかグルベローヴァとか、B か V か分かりにくい、ちょっとややこしい名前もあるが (笑)。あ、ヴ音にこだわると言いながら、私は「テレビ」「カーブ」など、既に日本語として定着している語は「バ・ビ・ブ・ベ・ボ」音で妥協するのである。その点、「ビジット」ではなく「ヴィジット」と題されたこの作品、なかなかに期待を煽るのである。

ところでこのインド人監督、最近の映画は正直、あまりぱっとしない気がする。「エア・ベンダー」など、明らかに連作の一作目であったが、その後続編はできないでいる。まあそれは道理なような気もする。なぜなら、世界を驚愕させた「シックス・センス」のどんでん返しは、もはや超えようのない高みに達していたのだから。それでも、公開される度にこの監督の作品を見たいと思うのも、また道理だと思う。いつかまた、という期待感。

この映画の特色は、登場人物の少なさにあろう。主な役柄で言うと、主人公の姉弟、姉ベッカと弟タイラー、そして彼らの母と、祖父と祖母。以上である。全編、姉弟のいずれかが撮った映像という設定で構成されるこの映画、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」のような臨場感がある。ただ正直なところ、こんな恐怖のもとに置かれてこんな映像は撮れないだろうというシーンも散見される。とはいえこの映画、かなり怖いと言ってよい。だが、監督自身語るように、この作品は「僕の作品の中では一番恐ろしい! しかも終始笑ってしまうんだ!」という内容である。後半はひぃひぃ言いまくる姉弟。こんな感じで、確かにちょっと怖い。
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今まで会ったことのない祖父母を訪ねる姉弟が、その祖父母の奇怪な行動を目にし、最後にはその正体を見てひぃひぃ言う物語。
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さあでも、これ、ホラー映画として何か新しい要素はあるだろうか。私としては、この若い姉弟が劇中のカメラ = 本物の映画を撮るカメラの前で、役柄を超えた個性を出すシーンの方が、映画自体のストーリーよりもよほど面白かった。ここで「シックスセンス」以来のファンは、何かびっくりするようなどんでん返しを期待するのであるが、まあ普通に想定される以外の驚愕の設定は登場しない。このインド人監督、これで観客の注意を得ることができると考えているのだろうか。首をひねらざるを得ない。
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そして、この監督がその作品でずっと続けていること。それは、ヒッチコックばりに自作の中にチョイ役で必ず出ていることなのだ。今回もそのシーンを見ることができる。確かにちょっと怖いシーン。でも、しつこいようだがそれほどビックリしない。

このインド人、才能は相当にある方だと思うので、これからもその作品を見続けるものと思う。でも、名前の最初の文字、M ってなんやねん。いつの日にか明らかになるのであろうか。

by yokohama7474 | 2015-11-22 22:09 | 映画 | Comments(0)

メイズ・ランナー 2 砂漠の迷宮 (ウェス・ボール監督 / 原題 : Maze Runner The Scorch Trials)

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このブログを始めて間もない頃、6月 6日の記事で、このシリーズの 1作目、「メイズ・ランナー」を採り上げて絶賛し、しかも余計なことに (笑) 何度も同じ予言を繰り返した。今回、シリーズ 2作目を見て、私の予言が当たったか否かはさておき (ご興味おありの方は是非映画をご覧頂きたい)、今回も私にとっては Thums Up! な映画なのである。

世の中の 2作目の苦労は、1作目のヒーローやヒロインの活躍をいかに新鮮味を持って続けるかということや、新たな展開にどのくらい説得力があるかという点にあると思う。想定を拡散しすぎてリアリティを失うものや、とってつけたような展開で観客を白けさせる映画がいかに多いことか。その点、幸いなことにこの映画は、そのような轍を踏む愚から逃れている。まあ、内容を詰め込み過ぎという批判をする人はいるかもしれないが、では、あなた自身がこれより面白い展開を考えつくだろうか。私は完全に脱帽だ。これは一言、面白い。

前作の感想とオーバーラップするが、有名俳優を一切使わない中で、それぞれの役者の顔が本当に生きている。脱出する若者たちに関しては、前作で、沈思黙考する黒人リーダーや、いかにも鼻っ柱の強い白人や、そのとろくささが同情を誘う太っちょは、既に亡い。すなわちここで生き残っているのは既にして Best & Brightest のみである。
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うーむ、これでは優等生のみになってしまいはしないか? そんな私の危惧を嘲笑うように、この映画では次々と新しいキャラクターが登場する。しかも、なんと徹底したことか、顔を見たことのある俳優は皆無なのである!! これは非常に有用な方法だ。コストを抑えつつ、これで成功したら次のステップがあるというモチベーションを役者に与えつつ、もしこれでブレークする俳優が出てくれば、この映画自体の歴史的評価が上がるわけだ。これは、製作 / 監督によほどの自信があってのことであろう。

演出は今回も素晴らしいと思う。劇中で、主人公トーマスの、「もう走るのはうんざりだ (I'm tired of running)」というセリフがあるが、それは観客にとっても全く同じ感覚。とにかく、これだけ主役たちが走りまくると、見ているこちらも息切れするのだ。それゆえ、こんな目に遭っても、もしかしたら走らずに済むと思うとほっとするかもしれない (笑)。
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例えば狭い通路を主人公たちが逃げるシーン。カメラは手持ちで主人公たちを追いかけながら、しかもズームする。次のカットは切り返しで、追われる方から後ろを見る。この組み合わせによって、遠近を行ったり来たりということになり、なにやら分からぬが大変な目に遭っているのだということを、観客は肌で理解する。実に巧みな演出だ。

巧みな演出のもうひとつの例として、細部へのこだわりを挙げておこう。主人公たちが砂漠を逃げて彷徨い歩くとき、食事はどうしているのだろうという思いが頭をかすめるが、それへの答えは劇中に一切出てこない。それなのに、窓ガラスを割って逃げるシーンでは、窓枠に残ったガラスの破片で怪我をしないようにと、わざわざ窓枠に毛布をかけるのだ!! 多分人間は、本当に追われているときには、そんなことを考える余裕もないはず。だからこれは映画の嘘だ。嘘が嘘としてスムーズに流れるか否かが、よい映画を判断するひとつの条件。よって私はこのシーンを見て快哉を叫んだのだ。

まあそれにしても、これだけ変化の激しい展開をよくぞ一本の映画に押し込めたものだ。もともと三部作のこの映画、次回が最終編となり、この映画は露骨にそれを予告して終わる。さて、前回予言をしたこの私も、この後の展開は分からない。分からないながらも、適当に考えてみようか。主人公たちは敵陣に乗り込み、なんとか仲間の復讐を果たすが、そこにはまた新たな真実が。その真実とは・・・。うーむ。どうしよう。地球そのものが何者かの支配を受けており、疫病の蔓延もそれからのサバイバルも、絶対者の思うがまま、というのはどうだろう。今回はあまり自信はないが・・・。

by yokohama7474 | 2015-11-14 23:45 | 映画 | Comments(0)

エベレスト 3D (バルタザール・コルマウクル監督 / 原題 : EVEREST)

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私は山登りをしない人間ではあるが、そこそこの山であれば、「あぁ、登頂すると気持ちいいだろうなぁ」と思うことはある。とはいえ、まだ記憶に新しい御嶽山の噴火や、それほどの規模の悲劇でなくても、それなりの頻度でニュースになっている山での遭難のニュースを耳にすると、なんとも暗い気持ちになるものだ。人間が自然を御することは所詮不可能であり、一旦自然災害が起こってしまえばなすすべもない人間の身の危うさを思い知るからだ。特に、このエヴェレストのような、普通に考えて命を危険にさらすような無謀なことを、巨額の資金をかけてでもやろうという人がいることを、私は全く理解できない。この映画の冒頭にある通り、1953年にエドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイが初登頂を達成して以来、最初の頃はプロの登山家でも 4人に 1人が命を落としたという。うーん。理解できない。と言いながら、なぜかこの究極の登山には心惹かれるものがある。もう 10年以上前になるが、「そして伝説は残った」という本を読んだことがある。副題は、「伝説の登山家マロリー発見記」とあって、ヒラリーとテンジン (と普通言うが、なぜファーストネームとファミリーネームの組み合わせなのだろう?) よりも先、1924年にエヴェレスト登頂を目指して消息を絶ったジョージ・マロリーの遺体が 75年ぶりに発見されたことに関するドキュメンタリーであった。ここで私を惹きつけるのは、極限の世界で生還を目指すことのロマンということは多分できそうだ。

そんなわけで、久しぶりに劇場で見た映画がこれである。1996年に実際に起きた遭難事件に基づいており、3D の威力もあって、その描写はかなりリアルだ。この時代だからほぼ全編 CG で作ったのだろうと思いきや、実際にエヴェレストやアルプスで大々的なロケを敢行しているという。いやー、3D カメラを抱えたスタッフの皆さんは大丈夫だったのだろうか。

この映画、登山の話だから、登場人物の顔が分かりにくいだろうと思ったら、ある程度思った通りであったが、そのキャストは非常に豪華だ。主役の登山会社の経営者には、先に「ターミネーター 新起動」でのジョン・コナー役をご紹介したジェイソン・クラーク。その妻役はなんとキーラ・ナイトレイだ。但し彼女は登山をしないので、ほかの俳優よりも安いギャラだっただろう (笑)。主人公を助けようとする仲間に、「アバター」の主役を務めたサム・ワーシントン。ベースキャンプでの頼りになる女性スタッフに、名女優 (最近あまり見なかったが) エミリー・ワトソン。その他、ジョシュ・ブローリンやジェイク・ギレンホールなど、充実の顔ぶれだ。但し、この映画の難点は、まさにその設定にある。山に登ってしまえば、顔や姿がよく分からないので、登山服の色などで人物を識別するしかなく、また、迫真の演技をしようにも、こんな吹雪の中では、見ている人に分かるように撮影するのは極めて難しい。おー、さむ。
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実際、このような高峰にとってみれば人間など、蟻んこのようなちっこい存在であり、いかに通信技術や装備が発達し、天候予報の精度が上がろうと、何千年何万年と当たり前のように起こり続けているちょっとした吹雪によって、人間の体力も知力も、あっという間に吹っ飛んでしまうことの絶望感。急峻な峰を辿る人々の姿を上空からとらえたカットは、そのような絶望感を存分に表現していて、それだけでもこの映画の価値はあると思う。ただ一方で、多くの登場人物がいる中で、その個人的な背景が描かれるのは 2人だけだ。主要キャストで唯一山に登らないキーラ・ナイトレイが、電話での会話という難しいシチュエーションで、なかなかの演技を見せてくれる。この映画でほぼ唯一の、人間の愛を描いたシーンだ。
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但し、改めて思うと、いわゆる実話に基づく壮絶なストーリーを持つ映画 (最近でいうと「アメリカン・スナイパー」とか) に比べると、この映画はもうひとつドラマとしての迫力に欠ける面がある。それは、登山における遭難には、もちろん人間の判断ミス等々の微妙な要素もあるものの、上に書いたような自然 vs 人間の、最初から話にならない無謀な対決が描かれてしまうと、ドラマ性を加えるのは所詮無理であるからだ。なので、この映画を見る際に、気の利いたストーリー展開を期待してはいけない。ただひたすら、自然の驚異と、微々たる力でそれに立ち向かおうとする人間の営為を見るしかない。

これから冬に入って行くので、雪山に登る皆さんはこの映画を見て、勇気ある決断が生死を分けるということを再認識されてはいかがでしょう。ご無事を祈ります!!

by yokohama7474 | 2015-11-14 09:59 | 映画 | Comments(0)

キングスマン (マシュー・ヴォーン監督 / 原題 : Kingsman The Secret Service)

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予告編を見てピンと来た映画は、極力見に行くことにしている。予感が外れることももちろんあるが、今回は大当たりだ。「キングスマン」、間違いなく今年見た映画の中で最高の一本だ!! 近々もう一度見に行ってしまうかもしれない。

ロンドンで高級オーダーメイド紳士服店が並ぶ場所、サヴィル・ロウ (Savile Row)。日本語の「背広」の語源になったというこの場所は、私も仕事で何度か行ったことがある。お客さんのオフィスがそこにあるからだ (私の仕事はアパレルではないのだが・・・)。どんなところかと思いきや、ロンドンではどこにでもある、狭い一方通行の道だ。
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映画の設定は、ここに並ぶ仕立て屋のうちの 1軒、キングスマンという店が、実はスパイ機関の本部になっているというもの。面白いのはこのスパイ機関、国には属しておらず、独立系だということだ。英国の誇る MI-6 所属のジェームズ・ボンドやそのパロディとしてのオースティン・パワーズ、または「Mr. ビーン」のローワン・アトキンソン演じるジョニー・イングリッシュは皆、国家あってのスパイであったが、21世紀の国際秩序においては、新たなスパイ・キャラクターは、豊富な資金を持つ個人であるという設定の方が面白い。対する敵は、これまた国家の範疇には収まらない、ゲリラ活動や IT テロだ。スパイではないが、バットマンもそのような発想でできており、そのシリーズで執事役を当たり役としているマイケル・ケインが、ここでもいかにも彼らしい役柄で出ているのを見ると、何やら信頼できそうな気がするのだ (笑)。
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何より、あの名優コリン・ファースが、きっちりとした着こなしでアクションに挑み、眼鏡をかけて傘を振り回している姿をチラリと予告編で見せるのがよい。ハリウッド流の単純なアクションものではなく、英国風の何か屈折したものがありそうだ。
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映画が始まってすぐに、「あ、これはやっぱりいける」と確信した。中東を舞台にしたミッションが描かれるのだが、旧型のラジカセのアップからカメラが引くと、地上戦闘員が攻撃を受け、さらにアジトになっている古い砦の爆撃へとずぅーっとカメラが昇って行き、爆撃によって砕け散る建物の破片がタイトルになって行くという、そのテンポ感が只者でない。すぐに似ている作風を頭の中で探すと、あったあった、私の大好きなガイ・リッチーだ。あとになって分かったことには、この映画の監督、マシュー・ヴォーン (やはり英国の振付師、マシュー・ボーンとは別人) は、「ロック、ストック & トゥー・スモーキング・バレルズ」や「スナッチ」といったリッチーの傑作のプロデューサーであるとのこと。「レイヤー・ケーキ」という作品でリッチーが監督を降りてしまったのでしょうがなく自分で監督し、それが好評だったのがきっかけでメガホンを取るようになった由。この映画は全く知らないが、調べてみると、主演がなんと、ダニエル・クレイグだ。その後、「キック・アス」という作品を監督していて、これは記憶にあるが、大して見たいと思わなかった。それから、「X-MEN ファースト・ジェネレーション」の脚本・監督、同じく「フューチャー & パスト」の製作・原案をこなしている。こうして見てくると、恐らくこの「キングスマン」は、これまでの作品とは一線を画した、彼自身にとっても新境地なのではないか。

とにかく、大変面白いのだ。若い主人公エグジー (今回が映画デビューとなるタロン・エガートン) がスパイとして逞しく成長して行くというストーリーなのだが、普通、お上品な男が、闘いの場で野生に目覚めるというパターンになるはずが、この映画では全く逆。まず、成長前がこれ。
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そして、成長後がこれだ。
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バッチリ決めた英国紳士が、並み居る敵をバッタバッタとなぎ倒す、そのギャップが面白い。このような方法を取る場合、作品にリズム感がなかったり、小ネタが不発であったりとかの状況で、見るも無残な企画倒れになるリスクがあるのだが、この映画は、まさに目の覚めるようなアイデアと表現方法、そして役者の呼吸で、大変見事だ。今、書きながら映画を思い出して、笑ってしまったり、爽快感を味わっている自分が何やら不気味である (笑)。実際、荒唐無稽なアイデアに対して観客が抵抗感を示すか示さないかは、細部の積み重ねによって決まるのだ。その意味で、いや全く見事な映画だ。

特筆すべき見事なシーンは 2つ。ひとつは、コリン・ファースが暴れる教会の場面。もうひとつは、主人公たちが敵 (これが IT 起業家にして悪党のサミュエル・L・ジャクソンなのだ!!) の本拠地で絶対絶命となり、主人公の教官 (最近いろんな映画、例えば「裏切りのサーカス」や「イミテーション・ゲーム / エニグマと天才数学者の秘密」で印象に残る演技連発の名バイプレイヤー、マーク・ストロング) の案で一か八かの勝負に出るシーン。前者は、あえて言うならば、殺戮シーンとして映画史に残るであろう (この映画が R15 指定になった一因もこのシーンだろう)。完璧に作られたリアリティに圧倒される。後者は、これはただ、腹を抱えて笑おう。エルガー作曲による行進曲威風堂々第 1番、英国の第 2国歌と言われる中間部の流れるシーンだ。劇場で手を叩きたくなるほどの素晴らしいシーンに、久しぶりに会った。

その他、出演者もいろいろ多彩であるが、例えば、敵役のサミュエル・L・ジャクソンの秘書兼用心棒 (?) 役のソフィア・ブテラはどうだろう。
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最近パラリンピックもメジャーとなり、足の不自由な選手の走りや跳躍も日常のものとなったが、このガゼルというキャラクターは、通常なら人の機能を補うべき義足によって、一般人を遥かに超える殺傷能力を持つ。この逆説がまさにこの映画にぴったりだ。演じるのは、世界的なダンサーであり、ナイキのブランド・アンバサダーであるソフィア・ブテラ。
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まあ、このようなイキのよいキャストが組めるというのも、この監督の実力のひとつなのであろう。あ、そうだそうだ、よいキャストと言えば、ひとり気になる役者が出ている。この人だ。
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アーノルド教授という役名で、途中で殺されてしまう脇役だ。さて、この俳優の名は? 誰あろう、マーク・ハミル。ほかでもない、「スター・ウォーズ」のルーク・スカイウォーカーだ。同じような角度の写真で、面影があると言えばあるような。
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さてさて。既に予告編の上映も始まっているスター・ウォーズの新作、「フォースの覚醒」(日米同時12月18日公開) でルーク・スカイオォーカー役に復帰とのこと。予告編では既に、ハリソン・フォードがチューバッカとともにハン・ソロ役として姿を見せているが、彼らに加え、レイア姫のキャリー・フィッシャーも出演するらしい。いやはや、どうなることやら。

話が例によって脱線してしまったが、この「キングスマン」、私の見たのはシルバーウィーク中のレイトショーだったが、かなりの混雑であった。映画の観客層の通ぶりを測るには、終映後のエンドタイトルでどのくらい人が出て行くかを見れば大体分かるが、この映画の場合、案の定、ほとんどの人が出て行かなかったのだ。さすが、日本も捨てたものではない。プログラムによると、本作の好評により、次回作の噂も出ているとか。私としては、それは若干の不安材料だ。だって、次回作でしゃあしゃあとコリン・ファースが出てくると、ちょっと興醒めですよね。なので、まずこの作品はこの作品として、一旦完結としたい。いやお見事。

by yokohama7474 | 2015-09-23 22:20 | 映画 | Comments(0)

進撃の巨人 エンド・オブ・ザ・ワールド (樋口 真嗣監督)

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先月 1作目を見た実写版「進撃の巨人」、今回はその続編 (現時点での完結編???)、「エンド・オブ・ザ・ワールド」である。見てみると、実際にこれは最初の映画の純然たる続きであって、本来ならまとめて 1編とすべき内容だ。一言で言ってしまえば、正体大暴露大会と、特撮怪獣映画への接近。その先に見えるのは、「これは連載マンガなのだ」という、映画好きにとっては軽い失望だ。

私は幼少の頃からそれほどマンガが好きであったわけではないが、それでもジャンプとかチャンピオンとか、ある場合にはサンデーまでも毎週読んでいた時期がある。その経験上、連載マンガは続けば続くほど、「実はこうでした」「本当はああでした」という設定に遭遇することになることがままあることを知っていて、それが私をマンガから遠ざけた一因にもなっている。最初は普通のスポ根ものだったものが、途中から宇宙の生成に関わる気宇壮大な物語になることもある (笑)。もちろん、「あしたのジョー」のような例外的な古典もあるわけだが、出版社側も読者の興味を惹きつけ続けるために、作者にいろいろと要求するのだろうな、と想像してみたりもする。

現在も連載中の「進撃の巨人」を読んだことがない私としては、純粋に映画としてこの作品を評価するしかないのだが、第 1作に出てきた巨人たちのヴィジュアル面での強いインパクトが、この作品では失われている。それもそのはず、この作品では、巨人たちに襲われる一般市民は登場せず、政府の一部の人たちと、巨人の打倒及び、巨人たちが外界から入ってくる壁の穴を塞ぐ使命を帯びた人たちだけが登場するからだ。もともと謎に満ちた巨人の出現は既に過去のものとなり、ストーリーは、「実は」「実は」のオンパレードに入って行くことになるのだ。そしてその「実は」は、正直に言おう。ちっとも面白くない。そのひとつの理由は、閉ざされた世界の秘密に関してどうのこうのと言われても、リアリティが全くないし、今実際に世界で起こっていることの方が、よっぽど "the end of the world" にふさわしい。この映画の設定から、例えば日本が置かれた実際の位置の比喩と見るのも不可能ではないかもしれないが、そんな説教はこの映画で聞きたくないよという人がほとんどだろう (笑)。

この映画の中で、大昔のものとして出てくるジュークボックス (あ、現在でも既に大昔のものですね 笑) から流れてくる音楽は、確かにいろいろなところで耳にしたことがあるオールディーズだ。スキーター・デイヴィスの歌う、"The End of the World"、邦題は「この世の果てまで」だ。
https://www.youtube.com/watch?v=b0cPsOa0Lfc
この曲は 1963年のヒット曲らしいが、雰囲気としては、昔デイヴィッド・リンチが使った「ブルー・ベルベット」のようなシュールな不気味さもあり、映画の中ではそれなりに効果も出ていた。だが、歌詞を見てみると、「なぜ太陽は昇り続けるの、なぜ波は岸に寄せるの、なぜ鳥は歌い続けるの、なぜ星は輝くの・・・。世界の終りが来たことを知らないの?」と来るところまではよいのだが、その後、「あなたはもう私を愛していないのに」とか「あなたの愛を失ってしまったのに」と来るのだ。要するに失恋の歌である。簡単に言ってみれば、「オマエにはもう飽きた。失せろ」と男から蹴りを入れられた女が、「ガビーン」とばかり、世界が真っ白になる、そういう状況を歌っているのである。飽くまで個人的な状況だ (笑)。とすると、この映画での使い方は、いかにも大仰だと言うしかないだろう。加えて、エンディングのテーマが SEKAI NO OWARI によるものだ。芸能界に疎い私でも、このバンドの名前くらいは知っているが、まさか彼らの曲を聴いて、本当に世界が終わることを考える人は、あまりいないのではないかと思う。特にこの日本では。

原作の諫山創が語るところによると、昔の東宝怪獣映画、「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」(1966) が本作品のイメージのひとつの源泉になっている由。1作目ではそれを感じることはなかったが、この 2作目ではよく分かる。これ以上言うとネタバレになる (もっとも、原作を読んでいる人には既にネタはばれているのだろうが) のでやめておくが、この怪獣映画感覚、嫌いではないが、どうしても子供っぽくなってしまう点は難点だ。
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だが、日本には怪獣映画の伝統があるわけであって、技術の保存伝承は必要だ。伊勢神宮が式年遷宮を継続してきたのと同じである (ま、ちょい大げさですかね)。本作のプログラムには、メイキング情報もあれこれ載っていて、こんな詳しい冊子をどの映画に対しても作ってしまうのは絶対日本人だけだと確信するが、技術伝承の観点からは意義深いことだ。
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あたかも諫山少年が大昔の怪獣映画を見てワクワクしたように、今の、あるいは将来の子供が「進撃の巨人を見て影響を受けました」という時代がきっと来るであろう。それまで世界が終わっていませんように。

by yokohama7474 | 2015-09-22 20:03 | 映画 | Comments(0)