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パイレーツ・オブ・カリビアン 最後の海賊 (ヨアヒム・ローニング/エスペン・サンドベリ監督 / 原題 : Pirates of Caribbean : Dead Men Tell No Tales)

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「パイレーツ・オブ・カリビアン」は言うまでもなく、現代ハリウッドを代表する人気シリーズ。もともとディズニーランドのアトラクション「カリブの海賊」からの映画化という珍しいパターンで、アメリカンコミックや過去のキャラクターを活用していることが多いほかのシリーズとは一線を画している。2003年に第 1作が公開され、今回が 5作目となるわけだが、実のところ私はこのシリーズは、最初の作品「パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊たち」しか見ていないことに気がついた。なので今回はこの最新作を見に行くことにしたのであるが、正直なところこのシリーズでは、深い意味での人間の生きる意味とか、身を引き裂かれるような強い感動というものはあまり期待できないし、する方が無理というものなので (笑)、まあ半ば義務感であった点は否めない。こんなことを言うと、このシリーズのファンに怒られてしまうかもしれないが、それが偽らざる私のこの映画に対する姿勢であったのだ。

とは言うものの、主演のジョニー・デップは私としても大変にお気に入りの俳優であって、彼の数々のコスプレはいつも楽しいのであるが、ふとここで冷静に考えてみると、彼が普通の恰好で熱演を披露するという映画を見た記憶があるだろうか? ここでも実に楽しそうに当たり役ジャック・スパロウを演じていて、私にとってはその点こそこの映画の第一の価値である。
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彼がこのジャック・スパロウ役について語る言葉がプログラムに掲載されているので、一部引用しよう。

QUOTE
彼は不遜な奴だけど、それは無邪気さから生まれるもの。つまり、ジャックには純粋さがあるんじゃないかと思う。思ったことをそのまま口にしてしまい、その後で言ったことに対処しようとするようなところがあるね。おそらく彼は、頭の中がゴチャゴチャだから、言ってから 5.5秒後に自分が何を言ったか気づいているんだよ。観客は、この男は何でもなんとか乗り切ってしまう奴だぞ、と思っているんだろうけど、誰だって物事をうまく乗り切る様子を見るのは好きなはずさ。
UNQUOTE

面白いことを言うものだ。そもそも「5.5秒」の根拠は一体どこにあるのだろう (笑)。だがこのとぼけ方がいかにもジョニー・デップらしい。名実ともに今日のハリウッドを代表する俳優でありながら、このとぼけっぷり。まさにジャック・スパロウよろしく、観客に支持されるゆえんであろう。ちなみにこの映画の予告編では、かなりのサービス精神で、本編における重要なシーンの映像があれこれ流れているが、そのひとつが若き日のジャック・スパロウだ。こんな感じで、雰囲気あるではないか。演じている俳優の紹介はプログラムに見当たらないが、まさかジョニー・デップ本人の顔の CG 加工ではあるまいな。エンド・タイトルでは "Young Jack Sparrow" という役名があったような気もするが、定かではない。
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だが、予告編にない驚きのシーンももちろんあって、ひとつは、冒頭の銀行の金庫をジャックらが強奪するシーン。いや正確に言うと、雰囲気は予告編にも出ているのだが、これだけ大掛かりにやられるとは予想していなかった。ある意味で、無声映画時代のスラップスティック・コメディのようでもある。それから視覚的に瞠目すべき映像は、クライマックス、ポセイドンの槍 (作中では "Trident" と言っている。これは三又の槍のこと) を巡る攻防シーンに出て来る。詳細の記述は避けるが、海があのようになり、人や船が水にあのように翻弄され、そして海中のはずなのに断崖絶壁での絶体絶命のシーンが現れるとは、まさに意想外。それから全編を通して、敵である「海の死神」サラザールとその手下たちの動きの不気味なこと。呪いをかけられ、死してなおジャックに恨みを抱き続ける彼らは、髪はまるで海の中で漂うように空中を揺らめき、人によっては顔が半分ない。こんな奴らに襲われたら本当に怖いに違いない (笑)。
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もちろん随所に最新の CG を駆使しているわけだが、まあその技術の高度なこと。さすがに人気シリーズだけある。と、このように映像を誉めておいてから言ってしまうのも若干気が引けるが、映画として抜群に面白いかと訊かれれば、正直なところ、そうとも思えない。ストーリーにはそれほど意外性があるわけではなく、気の強いヒロインも最近のお決まりだし、親子の情を描く作品も、ほかに枚挙にいとまがない。また、何かあるひとつのモノ (この場合はポセイドンの槍) だけがすべての鍵を握っているという設定も、ひねりがない。だから私はこの映画を絶対にお薦めと申し上げるつもりはない。やはり、このシリーズが好きな人や、あるいはジョニー・デップのファン以外にとっては、もうひとつインパクトのない作品にとどまっているのではないだろうか。

その一方で、ジョニー・デップ以外にもユニークな役者が出ている点は評価すべきだろう。シリーズの常連である英国の名優ジェフリー・ラッシュも、当然よい味を出しているし、サラザール役のスペイン人、ハビエル・バルデムも怪演である。この人は「ノーカントリー」でアカデミー助演男優賞を受賞しているほか、最近では「007 スカイフォール」でこんな憎い敵を演じていたことが記憶に新しい。もともと悪役だけ演じていたわけではないのでしょうがね (笑)。
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ヒロインを演じるカヤ・スコデラリオは、どこかで見た顔だと思ったら、私がこのブログで絶賛した「メイズランナー」シリーズのヒロイン役であった。キャリアを見ると、その前にも「月に囚われた男」や「タイタンの戦い」などに出ていたようだが、全く覚えていない。未だ 25歳という若さなので、まだまだこれから活躍することであろう。
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それから、ジャックの叔父役で意外なビッグスターが特別出演している。この人である。
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なんと、ポール・マッカートニーである。登場シーンはごくわずかだが、どう見てもこれは喜んでやっている。なんでもジョニー・デップ本人がダメモトでお願いしたら、面白そうだと言って乗ってきたらしい。実際の撮影現場でも、ジョニーが少しリハーサルと違ったことをやると、ポールの方もそれに反応して違うことをやったりと、創造性あふれる現場であったらしい。なお、ポールが劇中で口ずさんでいるのは「マギー・メイ」というリヴァプールの民謡で、ビートルズもアルバム「レット・イット・ビー」の中で歌っているらしい。今度聴いてみよう。また、役者としては、最初の 3作に出演していて、今回 10年ぶりに出演している人たちがいる。
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もちろん、劇中で夫婦を演じるオーランド・ブルームとキーラ・ナイトレイである。だが、彼らの出演シーンは極めて限定的で、上に見る通り、オーランド・ブルームは既に死して海中で呪いをかけられている身であるため、フジツボつきの姿で最初は登場するし (笑)、一方のキーラ・ナイトレイは最後の方にだけ出て来るが、こちらはセリフなしである。ちょっと残念な気がしないでもない。

このように、映像や役者の点で、興味を惹く点がいろいろありながら、作品の充実度という点ではもうひとつという印象なのである。とまとめようとして、監督について一言も触れていないことに気がついた。なじみのない 2人の名前が監督としてクレジットされているが、この 2人はノルウェイ人で、小さな街で育った幼馴染であるらしい。本作が長編 4作目であるが、第 1作はリュック・ベッソン脚本、ペネロペ・クロスとサルマ・ハエック共演のコメディ・ウェスタン「バンディダス」、第 2作は実在したノルウェイ人のレジスタンス活動を描いた「ナチスが最も恐れた男」で、この 2本は日本未公開。第 3作目は、筏で太平洋横断に成功した冒険家ヘイエルダールを描いた「コン・ティキ」であるらしい。なるほど、全く違ったタイプの作品を作ってきた 2人であるが、ここでは海洋ドラマ「コン・ティキ」での実績を買っての起用であったのか??? ともあれ、このような大作の監督に起用されることで、また次へのステップとなるだろう。この作品の場合にはやはり、制作過程でジョニー・デップの強い発言力があったものと思われるが、そのジョニー・デップと監督たちの仲よさそうな写真もある。
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そうそう、本作は邦題が「最後の海賊」とあって、シリーズ最終作かと思わせるが、どうやらそういうことではないようだ。実は原題は "Dead Men Tell No Tales" で、日本語ではちょうど「死人に口なし」となるのだろうか、劇中で敵役であるサラザールが口にする言葉である。まあ、邦題が「パイレーツ・オブ・カリビアン 死人に口なし」ではやっぱりちょっと変なので、直訳でないことも理由があるとは思いつつ、もうちょっとよい題はなかったのかなぁ・・・と思う次第。

by yokohama7474 | 2017-08-15 18:25 | 映画 | Comments(0)

ウィッチ (ロバート・エガース監督 / 原題 : The Witch)

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新宿武蔵野館という映画館をご存じであろうか。新宿東口すぐ近くの一等地のビルに入っている小さな劇場で、私は学生時代からお世話になっているのだが、時間がたっぷりあった学生時代はともかく、社会人になればこのような場所に足繁く通うことは難しくなる。私の場合も、ある時期は長らくこの劇場と全く疎遠になった時期もあったが、久しぶりに足を運んでみると、見違えるほどきれいに生まれ変わっており、そこにかかっている作品も、地味ながら見逃せないものが多い。そんなことで、社会人歴四半世紀を超えたここ数年、またこの劇場から目が離せなくなっているのだ。比較的最近では、メル・ギブソン主演の「ブラッド・ファーザー」をこの劇場で見たのだが、その際に予告編を見て気になったのが、この映画である。何やらアーリー・アメリカン調の雰囲気であり、欧州からの入植間もない米国において、ウィッチ、すなわち魔女が人々を恐怖に叩き込む、そんな映画であるようだ。よくこのブログで言及する通り、私にとって予告編は、本編の内容を占う重要な情報源。もちろん、予告編のイメージ通りの映画もあれば、全く違うものもあって、一概には言えないが、少なくとも映画をストーリー第一ではなく、映像と音響のアマルガムとして楽しむタイプの私としては、予告編で目にする映像と音楽・セリフだけで、期待感の程度が異なる。この映画ではどうであったろうか。

まず目についたのは主演のアニヤ・テイラー=ジョイ。
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この、一見美形のようでいて、よく見ると目と目が離れた、表情豊かで個性的な顔立ちの女優さんは、どこかで見覚えがある。そう、M・ナイト・シャマランの最新作「スプリット」である。このブログでも、その映画における彼女の演技を称賛したが、一度見たら忘れない顔であり、神秘性を重要な要素とするホラー系の映画においては、非常に貴重な存在であろう。1996年マイアミ生まれ。アルゼンチンで育ったので母語はスペイン語だが、幼少期にはロンドンに住んでいたこともあるという。実は、日本では公開の順番が逆になってしまったが、この映画 (2015年) の成功でシャマランの目にとまり、「スプリット」の主役に抜擢されたそうだ。私としては、これから述べるように、予告編で予感した通りにこの「ウィッチ」はなかなかの映画だと思うのであるが、やはり最大の功労者は彼女であろう。まあ行きがかり上、後半の方ではこういうことにもなるのであるが (笑)。
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この映画、とびきり怖いかと訊かれれば、いわゆるホラーとして気の利いたストーリー展開にはなっていないものの、画面からジワジワとにじみ出る人間というものの怖さに気づけば、相当に怖い映画であると感じることになるだろう。それには、感性を駆使すること、つまりは目を開き、耳を澄ますことだ。そう、特に音響において凝った演出が頻繁に見られて、その繰り返しの中で奇妙な感覚が醸成されて行く。例えばいきなり冒頭の場面、主人公一家が神父やほかの信者たちに弾劾され、集団を離れて森の中に棲み処を見つける決意をする場面。画面に映っている人物と、言葉を語っている人物が明らかに異なっており、人物関係が把握できないため、人は不安な気持ちになる。結局、家族が土地を追い出される理由は明確に説明されないのだが、もしかすると、そこでは既に魔女裁判が行われていたのか・・・??? ともあれ、見ている人たちは理不尽な気持ちの中で、家族が森の中に小屋を建てて暮らし始めるのを目撃する。夫婦の間には、長女である主人公のトマシンを含め、子供が 5人。そのうち 2人は男女の双子で、末の子は未だ赤ん坊の男の子だ。1630年の話で、家族は英国ヨークシャー地方から大西洋を越えて米国ニューイングランドにやってきたという設定になっている。もちろん電気もガスも水道もない場所である。敬虔な清教徒である家族であり、新天地を求めてともに苦労した人たちであれば仲はよいはずだが、なぜか家族の間には常に何か微妙なすれ違いがあり、その関係は不気味というか不穏というか、とにかく、愛情と団結心いっぱいのアドヴェンチャーファミリーという雰囲気ではない (笑)。そんな中、次々と事件が発生するのだが、そこで音響的に恐怖を増幅するのは、今度は男女の双子の歌や喋りである。童謡を歌ったり、姉トマシンを非難したりからかっているのであるが、なぜだろう、滔々と歌われたり繰り返し交互に喋られたりする彼らの言葉は、常に何か本能的な恐怖に訴えかけるのである。何気ない日常と隣り合わせの、恐ろしい非日常を想起させる部分がある。
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父親は、家族への愛情を持ち合わせた人物だが、寡黙であり、その愛情が快活に表面に出て来ることはない。家族のリーダーというイメージはほぼゼロである。演じるのはラルフ・アイネソンという英国の俳優。
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それから母親は、その神経質な喋り方や、不愉快さをあらわにした行動や、情け容赦ない絶叫などによって、もしかするとこの映画の登場人物の中で最も怖いかもしれない (笑)。ケイト・デッキーという、やはり英国の女優が演じている。
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前述の通り、あの手この手で見る者を怖がらせるタイプの映画ではない。それどころか、劇中で起きる事件の充分な説明もなされないまま、クライマックスを迎えるという印象だ。だがそれでもここには、人間という存在の真の怖さが描かれていると思う。長男のケイレブが森から帰ってきたあとの凄まじいシーン (そこではまた双子も奇妙な反応を起こして、これまた凄まじいのだが) など、鳥肌なしに見ることはできない。自然への恐怖心や、閉鎖的な村社会への嫌悪や、日常の不便への不満や、家族との距離感や、もしかすると芽生え始めた性的な欲情という要素もあるのかもしれないが、人間心理の奥底に潜む複雑な何かが作用してのことであろうか。普段は充分に豊かな感情と行動力を持つ少年が、まるで悪魔に魅入られたかのような言動を示せば、人々は何かが憑りついたと思ったことであろう。まさに日常が裂けて、その裂け目から邪悪なものが覗く瞬間である。その恐怖の表現をこそ、見逃してはならないのである。また、ウサギやヤギやカラスといった物言わぬ動物たちの不気味なこと。この映画のプログラムには、"Evil takes many forms" とあるが、まさに邪悪なものは、様々な姿かたちをとって我々人間のすぐ近くに存在する。どの動物が魔女の正体だなどと、ヤボなことを考えてはいけない。ここに登場する動物で信用できるのは、人間の忠実なしもべである犬だけであるのだ。そう思って見るとこのウサギも怖いでしょう?
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それから、これも音響の要素のひとつと言ってよいであろうが、喋られている英語が全然分からない。映画の最後に、ここでの言葉は 17世紀のニューイングランドで実際に話されていた言葉の再現を試みたという注釈が出てくるが、いわばその言葉は、私たちの知らない世界を表現するための重要なツールになっている。実際には英国北部訛りということなのであろうが、2人称の "thou"、その所有格 "thy" という言葉が何度も使われているのが聞き取ることができ、その古臭い言葉はもちろん、現在でも聖書で使われているものであるゆえ、宗教的なイメージがつきまとい、その点がまた映画の不気味な雰囲気を冗長するのである。考えてみれば、17世紀とはシェイクスピアの生きた時代。人々の感情表現のツールとしての言葉は、現代と違う点が多々あった (もちろん共通点も多々あったろうが) はずだ。そのことをリアルに感じるから、この映画は怖いのか。このような、人間の感覚に鋭く訴える映画を撮ったロバート・エガースという監督は、実はこれが長編デビュー作で、本作の脚本も手掛けている。この作品、インデペンデンス系映画の祭典であるサンダンス映画祭で監督賞を受賞したのをはじめ、多くの賞に輝いている。その実績によって、あのドイツ表現主義によるホラー映画の元祖「吸血鬼ノスフェラトゥ」(1922年、F・W・ムルナウ監督) のリメイク版の監督に抜擢されたという。ホラーファンとしては今後の活躍に目が離せない監督である。
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尚、ここで題材になっている魔女というものがいかなる存在であったかについては、かなり以前、名古屋で見た大変興味深い展覧会の記事を書いたが、実際に過去に起こった魔女事件で有名なニューイングランドの場所がある。それは、マサチューセッツ州のセイラムだ。私はもちろんその場所を訪れたことがあり、それは忘れることができない思い出だ (ニューヨークから車で行けるホラー色の強い場所としては、スリーピー・ホロウと並ぶか、むしろそれ以上の場所だと言ってもよい)。そこでは 1692年に起こった魔女事件が未だに観光収入源になっていて面白い。もちろん、日本美術のファンとしては、岡倉天心とともに明治期における日本の古美術発見に大きな足跡を残したアーネスト・フェノロサがこの街の出身であることも重要だし、それから、私が住んでいる東京都大田区は、実はセイラムと姉妹都市なのである!! (なぜかは知らないが・・・) そんなセイラムの思い出を私がいかに大事にしているかについてのひとつの証拠は、自宅の鍵用に使用しているキーホルダーである。
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これ、今では真ん中の魔女の姿だけになってしまっているが、もともとは周りの円状の部分と下の長方形の部分に、"Salem" "1692" などと記されたプレートが嵌まっていたのである (笑)。こんな状態になってもこのキーホルダーを使い続けている魔女ファンの私としては、人間心理に興味を持たれる文化的な方に、是非この映画をお薦めしたい。新宿武蔵野館での上映は、しばらく前までは「8月中旬まで」となっていたのが、今調べると、「8月下旬まで」となっている。これは朗報です。遠からずホラーの女王として世界に君臨するかもしれない (?) アニヤ・テイラー=ジョイも、このように大入り満員を神に祈っているようだし。
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by yokohama7474 | 2017-08-09 00:33 | 映画 | Comments(0)

忍びの国 (中村 義洋監督)

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和田竜の小説「忍びの国」は、以前からちょっと気になっていて、実は、家人が処分しようとした読了済の本の中にそれを見つけたとき、「これ読むから売らないで」と頼んで、その本を自分の書棚に移したものである。だが、例によって例のごとく、未読の本がどんどん積み上がって行く中、なかなか手をつける間もなく、そのうち、同じ作者による「のぼうの城」が映画化された。その映画 / 小説の舞台となっている、埼玉県行田市に存在した忍城 (おしじょう) の跡には私もでかけ、このブログでも記事にしたが、今でも「のぼうの城」を読んだり見たりしていないことは、実はかなり気になっているのである。そうこうしているうち、「忍びの国」までが映画化されるという。人気グループ嵐のメンバー、大野智の主演であり、予告編を見ると、そのとぼけた味わいがなかなかよろしい。今後ばかりは見に行かねばと、劇場に走ったのである。ええっと、これはフリー素材サイトから。
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もともと私は忍者には結構興味のある方で、もちろん伊賀にも甲賀にも根来にも行ったことがあるし、金沢にあって忍者寺と呼ばれる妙立寺も大好きだ。「仮面の忍者赤影」ともなると幼時の思い出で、さすがにちょっと古すぎるが、実はそのイメージは私の中では未だに鮮烈であり、「豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎であった頃」というナレーションなど、長じるに及んでの戦国時代のイメージ形成の一部をなしていることを否定できない。またテレビアニメでは、「サスケ」はちょっと甘ったるいイメージでなじめなかったのに対し、「カムイ外伝」のハードタッチに魅了されたのも少年時代。その後学生時代には、それらのアニメの原作者白土三平の忍者もの、とりわけ「カムイ伝」に心底ほれ込み、漫画雑誌「ガロ」に一時期のめり込んだのも、その流れであった。だがまあ、この映画はそのような私の個人的な忍者経験 (?) とは別に、万人が楽しめるものとなっているので、ご安心を。これが主人公の無門 (むもん)。自他ともに認める (はずの) 伊賀一の忍びで、彼の行くところ門がないに等しく、どこにでも忍び込めることに因む名前である。
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時は天正 4年 (1576年)、織田信長の次男、信雄 (のぶかつ) は、伊勢の国司であり自らの義父でもある北畠具教 (とものり) を、手下を使って殺害。伊勢の国の実権を握り、その 3年後に隣国伊賀、つまりは忍びの国を攻める。その時には大敗を喫するが、翌年再び総大将として伊賀を攻めて勝利する。この映画はその史実に、数々の架空のキャラクターを加えてストーリーが構築されているもの。これが信雄の肖像。
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この映画にはいくつかのテーマがある。思いつく限り列挙してみよう。
・偉大なる父を持った若者、織田信雄の葛藤
・北畠の旧臣たちの戦乱の世における処世術と、武士としての矜持
・十二人衆を中心とする伊賀という忍者の国の特殊性 (子供たちに至るまで死と隣り合わせという意味において)
・その伊賀の特殊性に対する個々の忍者の反応 (特に織田に寝返る下山平兵衛の思い)
・主人公無門のクールさと、飄々としたその姿の裏にある人間性
・無門の妻お国の勇気と優しさ

ここには、日本の歴史を大上段から語ろうという姿勢よりも、歴史を補う想像力の重要性に重きをおいた作劇が見られる。なかなかに多岐に亘るテーマを、後で振り返ってみればうまく映画の中に織り込んでいて、何の気なしにストーリーを追った人でも、冷静に考えてみれば、かなりよくできた映画であることに気づくだろう。そのひとつの秘訣として私が気づいたのは、この映画のセリフの高い質である。大野の個性をよく表した無門の言葉は、全くの気楽な現代語なのであるが (「あるよあるよ」とか「なんで?」とか)、周りの時代がかった言葉とも対立せずによく流れて行くし、武士の言葉や子供の言葉、あるいはお国の言葉も、古臭くなりすぎない微妙なバランスによって成り立っている。このセリフを書いた人は只者ではないだろうと思って確認すると、なんのことはない、原作者の和田竜自身が脚本も手掛けている (実は「のぼうの城」もそうであったらしい)。もしこの映画のストーリーだけを見て、大して面白くないと思った人がいれば、次の機会にもう一度セリフをよく聞いて頂きたい。これはなかなかよく練れた日本語なのであり、細部に宿る人間の思いをよく表した秀逸な言葉たちである。これが和田竜。1969年生まれで、早稲田大学政治経済学部出身という経歴。
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細部に関して言うと、この手の映画では戦闘シーンが非常に重要であるところ、前半にはもうひとつかなと思う箇所もあったが、無門たちが参戦を決意してからのシーンは、CG にも冴えがあって面白かったと思う。もしかすると、ジャンプの高さや速さその他の無門の荒唐無稽な戦いぶりにウソくささを感じる人もいるかもしれないが、このような映画では、誇張を笑って見ることができるか否かが大事。私としては、少なくとも後半の戦闘シーンの数々を楽しく見たのであった。だがその裏には、このようなスタッフの苦労があったようだ。
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大野もよく走り回っていい味を出しているが、その他の役者もそれぞれに個性的。下山平兵衛を演じた鈴木亮平は大変な熱演で、これなら来年の大河での西郷隆盛も期待できようというもの。日置 (へき) 大膳を演じた伊勢谷友介は、作品によっては、時に気合が空回り気味のこともあって気になっていたが、ここではかなり強い印象。そしてお国役の石原さとみは、目力のある落ち着いた演技に好感が持て、私としては「進撃の巨人」や「シン・ゴジラ」における彼女よりも、数段よいと思ったものである。
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その他、癖の強い脇役陣も豊富であるが、考えてみれば昔の黒澤映画などにおいても、多くの個性豊かな脇役がいたからこそ、素晴らしい映画表現が可能になったわけである。人気者である大野智の主演によってこのような映画がヒットすれば、日本映画はもっともっと充実して行くであろう。この映画の監督、中村忠義は 1970年生まれ。自主映画出身で、以前にも大野と組んだ「怪物くん」を撮っているほか、「奇跡のリンゴ」「予告犯」「殿、利息でござる!」などを監督している。

さて、改めてこの作品のストーリー展開における私の整理は以下のようなもの。まず、伊賀の国という「虎狼」の土地における、命の価値を理解しない残虐な人々、あるいは金のことしか頭にない愚かな人々の姿は、極端ではあるものの、現代にも通じる人間の本性を表しているということ (この点については、劇中でも明確に示される)。だがそんな環境でも人は、何か強い思いを持つ経験があれば、ラストシーンにおける無門のように、新しい世界に入って行くことができるということ。これは、素直に受け取ってもよいメッセージなのではなかろうか。

そんなわけで、書棚からこの映画の原作を引っ張り出し、読み始めた私であった。この文庫本、表紙が私の好きな画家である山口晃によるものであり、久しぶりにスムーズに読めそうな本のようだ。パラパラ見てみると、無門とお国の最初の会話などは映画と全く同じであるが、その一方で、映画には出てこないキャラクターも登場しており、映画とはまた違った、小説としての面白みを味わえそうである。読み終えればまた感想をアップすることにしますが、まあ、気長にお待ち下さい (笑)。
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by yokohama7474 | 2017-08-07 22:38 | 映画 | Comments(0)

ジョン・ウィック : チャプター 2 (チャド・スタエルスキ監督 / 原題 : John Wick : Chapter 2)

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キアヌ・リーヴスという役者をどのように評価しようか。1994年の「スピード」で大ブレイクしたとき、彼は 30歳。決して若すぎはしないが、それでも未だ若手俳優であったわけである。その後の代表作はなんと言っても「マトリックス」シリーズ。その 3部作の最後の作品は、2003年の制作だ。それから既に 14年。彼のキャリアがその後さらなる高みに達したか否かを考えると、かならずしもそうではないというのが大方の意見ではないか。例えば年下のレオナルド・ディ・カプリオやマット・デイモンと比べても、彼のハリウッドにおけるキャリアはそれほど注目すべき作品を含んでいないように思う。そして最近は、例えばこのブログで採り上げた怪作「ネオン・デイモン」のように、なんだかだらしない役柄も演じていて、もはや昔年のキアヌ・リーヴスの精悍さは望めないのかと思ったものである。彼の風貌はハリウッド俳優としてはかなり個性的であるが、それもそのはず、レバノンに生を受けた彼は、ハワイ系中国人の父と英国人の母の血をひいているのである。キアヌという聞き慣れないファーストネームは、ハワイの言葉で「山からの涼風」または「絶えず神の意識に集中するもの」という意味らしい。この 2つのフレーズが 1つの言葉で表現されることから、ハワイの人たちが自然に対する畏怖の念を持っていることが分かるというものである。

そんな複雑な血を持つキアヌの新作がこれである。ジョン・ウィックとは、キアヌ演じるところの凄腕の殺し屋。この映画はその殺し屋を主人公にしたシリーズ物の第 2作。1作目は 2014年の公開であるが、私はそれを見ていない。この作品はその 1作目に続くストーリーなのであるが、これ単独で楽しめるようになっている。なんでも前作では、亡くなった妻が残して行った子犬を殺されることに怒った主人公ジョンが、殺し屋からの引退を撤回して復讐に走る物語らしい。その子犬の犬種はビーグル。ここで私の心はグッと来るのであるが、その理由は、我が家でも一昨年 10月まで 18年近く飼っていた犬がビーグルであったからだ。ビーグルはとんでもないいたずら者であるがゆえに、かかった手間の分、愛情が増すのである。これが前作の中のシーン。ビーグル好きとしては、もうたまらん!! こんな子犬を殺されれば、それはもうジョン・ウィックならずとも復讐の鬼と化すであろう。
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今回のシリーズ 2作目でも、ジョン・ウィックは犬を飼っている。だが犬種はかなり違っていて、今回はアメリカン・ピット・ブルテリア。ネタバレを避けるのがこのブログのポリシーであるが、犬好きの方のために明言すると、安心して下さい、今回は犬は死にません。これはほぼラストのシーン。
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どうやらここでジョンと愛犬は走っているようであるが、それもそのはず。ジョンが置かれることになる立場は、こういうものであるから、もう逃げるしかないのである。
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誤解なきよう、このようなシーンは実際の映画には出てこない。これはあくまでもイメージであり、世界中の殺し屋から命を狙われていることを表現している。いやそれにしてもこの映画においてキアヌ・リーヴスは、それはもう殺すわ殺すわ、映画の大半が彼による殺しのシーンであり、もしかすると、ハリウッド映画における単独での殺人件数において、ギネスものではないか。その殺しっぷりは、まさにちぎっては投げちぎっては投げ (笑)。プログラムによると、一対一の戦いにおいてかかせないカンフーに加え、格闘と銃撃をミックスさせた「ガン・フー」、自動車を武器にする「カー・フー」、そしてナイフを使った「ナイフー」が観客を圧倒する。そんなことができる役者は誰だ。ゲス・フー。
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まあ正直、このような映画を傑作として称揚するのは気がひける。いかに自分の身を守るためとはいえ、ここまで殺しまくることはないのではないか、と思うのが通常人の感覚であろう。だから我々はこの映画を反面教師として、いかなる場合にも気安く他人の命を奪ってはいけないのだということを、胆に銘じよう。私が少なからず気になるのは、ジョン・ウィックは自身殺し屋であるゆえに、迫り来る殺し屋たちを退治し続けるのであるが、ではその行きつく先に何か心が安らぐ世界があるかというと、残念ながらそれは全くないということなのである。ひと昔前なら、個人として闘うヒーローの姿には、最後にはカタルシスがあるのが通例であったが、この映画には徹頭徹尾カタルシスがない。もちろん、犬の存在によって多少の人間らしさは表現されているとはいえ、この映画で展開されるあまりにも多くの殺人の前では、それも虚しい。なので私はこの映画を多くの人に広くお薦めすることはしない。だが、例えば、ひとりの人間が聴きに瀕したときに、いかに知恵と技術と体力を使ってその危機に対処するかという観点では、見る人の人生にとって有意義な映画であるということはできよう。説得力ないか (笑)。
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主役のキアヌ・リーヴス以外にも何人も優れた俳優が出ている。例えばローレンス・フィッシュバーン。考えてみれば、彼とキアヌは「マトリックス」での共演仲間なのである。
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それから、口がきけない女性の殺し屋、アレスを演じるルビー・ローズ。このようにボーイッシュなカッコよさを持つ、もともとはモデルなのであるが、そう言えばこのブログでも採り上げた「バイオハザード・ザ・ファイナル」にも出ていた。カミングアウトしたレズビアンで、この映画では服装に隠れているが、全身タトゥーだらけだという。いやいや、やはりこの映画は万人にはお薦めしませんよ (笑)。
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この映画の監督チャド・スタエルスキは、大変珍しいことに、スタントマン出身であるらしく、前作「ジョン・ウィック」で監督デビューを飾っている。実は「マトリックス」でキアヌ・リーヴスのスタントマンを務めて注目されたらしい。この映画の演出がとびきり素晴らしいと言う気はないが、少なくともノン・ストップ・アクションのツボを心得た演出とは言えるだろう。これは、この映画のプロモーションでキアヌとともに来日した監督。
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それから、この映画で興味を惹くのはそのロケ地で、ローマではカラカラ浴場を使っている。主要な舞台のもうひとつはニューヨークであるが、セントラルパークも面白いのだが、ちょっと見慣れない風景が出て来る。ロケ地は明らかにニューヨークの地下鉄なのだが、あの古くて汚くて臭い地下鉄に、こんなモダンで清潔な駅があるのだ。
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私は知らなかったのだが、これは実はワールド・トレード・センター駅。なるほど、同時多発テロのあと、グラウンド・ゼロ (爆心地) とも呼ばれた場所で、以前は地下鉄もその手前で長らくストップしていたが、今や新しいビルも建ち、このような駅ができているわけだ。殺し屋ジョン・ウィックは、いかなる場所でも、その高い殺しの能力を発揮するのである。

総合的に見て、必見の映画とは思えないものの、主人公の個性が明確に表れているという点では評価できるだろう。カンフー、ガンフー、カーフー、ナイフー。その威力は、いつか来ると言われている南海トラフー並であろうか。

by yokohama7474 | 2017-08-03 23:56 | 映画 | Comments(0)

残像 (アンジェイ・ワイダ監督 / 英題 : Afterimage)

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前回の記事で採り上げた「セールスマン」は、いくつかの劇場で公開されたが、最後は Bunkamura ル・シネマのみでの上映となってから終了した。一方この映画は、正真正銘、最初から単館ロードショーであり、しかも上映終了は今日、7/28 (金)。これはさすがにギリギリでのご紹介で、大変に申し訳ない。だが、ちょうど今日は、日本政府が旗振りするプレミアム・フライデーである。最後の上映に間に合うかもしれないではないか!! もしこの記事をご覧になって劇場に走る方が一人でもおられれば、ブロガー冥利に尽きようというもの。是非そうあって欲しいものである。さてそれではこの映画を上映している劇場はどこか。答えは、神保町の岩波ホール。なるほど、長らく存続している芸術映画のメッカである。昔は同様の芸術系映画の単館ロードショーを行う劇場は幾つかあったものの、もう今ではこの岩波ホールくらいになってしまった (上記の Bunkamura ル・シネマは、そこでしか見られない作品の上映もあると思うが、すべての作品が単館上映というわけではない)。なので、この岩波ホールの硬派さは、現代において非常に貴重なのである。だが、かく言う私も、最近この劇場に足を運ぶ機会がめっきり減ってしまった。学生時代はなんといってもルキノ・ヴィスコンティの映画はこの劇場の独壇場であったし、ブニュエル、タルコフスキー、あるいはアンゲロプロス、ベルイマン、そして、そうだ、アンジェイ・ワイダ。この映画「残像」も、昨年 10月に 90歳で亡くなったポーランドの巨匠監督で、日本でもよく知られたアンジェイ・ワイダの遺作なのである。岩波ホールで見るには、まさに恰好の芸術映画であると言えるだろう。岩波ホールの壁には、開場した 1974年以降ここで上映された映画のチラシがすべて貼ってあって壮観である。
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この映画は、実在のポーランド人アーティスト、ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキが、第二次大戦後のスターリン時代に反骨精神を発揮し、様々な苦難に遭遇して壮絶な人生を送るという内容。実際のところ私は、特に熱心なワイダ・ファンではないものの、90歳、全く死の直前にしてこれだけの力作を作ったこの監督の力量と情熱に、完全に脱帽である。これはただものではない映画なのである。これが実在のストゥシェミンスキ (1893 - 1952) の肖像。
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そしてこれが、ポーランドの映画スターであるらしいボグスワフ・リンダの演じるストゥシェミンスキ。
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一見して分かることには、本人の写真にも役者の写真にも、左手は映っていない。また、役者の写真では松葉杖が映っているのである。実はこの画家、左手右足を失っているのである。その理由について劇中では多くは語られず (画家本人が語りたがらないという設定)、詳細は不明ながら、劇中のセリフによって、第一次大戦に従軍した際の負傷によるものだと判明する。このようなハンディが事実である以上、作中でこの設定がいかなる意味を持っているかを検索する意味はあまりないものと思うが、彼の芸術家としての矜持、また不屈の闘志が、背負ったハンディを生きる活力に転化せしめていたということだろう。私は寡聞にしてこの作家の作品を知らなかったのであるが、どうやらこのような鮮やかな色遣いの、ちょっとバウハウスの潮流を組むような前衛性を帯びた作品を制作したようである。また、劇中でも触れられる通り、離婚した妻もまた芸術家であり、共同製作なども行っていたらしい。
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映画では、スターリン体制下において、今となっては悪名高い社会主義的リアリズムを強制される芸術家たちの中で、頑として自らの信念を変えることなく制作を続けたストゥシェミンスキの姿が描かれている。主役であるボグスワフ・リンダの熱演によって、ストゥシェミンスキの激しい闘いが非常にリアルに描かれていて、圧巻である。実際、ワイダが 90歳を迎えても、これだけ破綻のない映像の蓄積を行う手腕を持っていたことは驚異的だ。ここにはいくつもの印象的なシーンがある。例えば冒頭ではこんなのどかな風景の中で、ストゥシェミンスキが学生たちを教えているのであるが、ここに登場する女性の紹介の仕方によって、その女性のその後のストーリー展開における重要性が理解できるし、また、この後ストゥシェミンスキが見せる思わぬひょうきんな行為から、いかに彼が学生たちに慕われているかが示されるのである。鮮やかな手腕ではないか。
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この映画は、見ていて決して楽しいものではなく、むしろスターリン時代の共産圏に存在した息詰まるような陰鬱さと、人々が生きるために取らねばならなかった手段の様子から、何か常に重いものを感じながらの鑑賞となる。だがしかし、上記の戸外のシーンを含め、主人公の人間性の発露に触れてほっとする部分もあって、決して陰鬱さ一辺倒ではない、複雑な味わいがある。例えば主人公の娘ニカは、決して可愛らしさがないわけでなく、性格も悪いわけではないのだが、両親の離婚というつらい環境において、自分を過度に主張することのない、陰のある女の子になっている。彼女はまた、相当な父思いの娘ではあるものの、父に甘える術を知らないかわいそうな子で、父に思いを寄せているらしい女性の学生の様子を見て、突発的な行動に出たりもする。2002年生まれのブロニスワヴァ・ザマホフスカは、実際の両親ともに俳優らしく、その若さに似ない成熟した演技を見せている。ワイダの遺作にこれだけ重要な役で出演したことは、きっと今後の彼女の役者人生において大きな糧となるだろう。
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平和な日本に住む我々は、もちろん様々なレヴェルの問題を抱えた社会に身を置いているとは言えるものの、この映画で描かれているような、自由闊達な思想や行動を阻む社会で懸命に生きていた人たちの生活を、到底理解できないだろう。舞台がポーランドという、歴史的な悲劇に何度も見舞われた国であればなおさらだ。ヒトラーに蹂躙されたあと、スターリンの統制下に置かれたこの国の国民の真情を、現代日本の我々がどうやって理解できるというのか。だが、この映画のように社会的良心に裏打ちされ、技術的にもしっかりした作品に触れることで、その歴史的事実に対する切実なイメージを持つことはくらいはできるだろう。この映画は、今後長きに亘って人々に強いメッセージを発し続けるはずで、それこそワイダの映画が持つ生命力なのだと思う。願わくば、ポーランドでもほかの国でもよいが、彼の業績を受け継いで行くような社会性の強い映画作家が、今後も出てきますように。いつもは軽口を叩く私も、このような映画の前では厳粛な気分になるのであった。

ところで、この映画のプログラムを見ていると、音楽担当者としてアンジェイ・パヌフニクの名前があった。パヌフニクは私もそれなりに知っているポーランドの現代音楽作曲家であるが、さすがにもう死んでいるはず。プログラムにも、1914年生まれ 1991年没とある。ということは、この映画で使われている音楽はオリジナルではなく、既存のものであろう。私がこの作曲家に出会ったのは既に 35年も前。1982年、ボストン交響楽団が創立 100周年を祝って彼に作品を委嘱し、当時の音楽監督小澤征爾が初演したシンフォニア・ヴォティヴァによってである。この曲は同じ機会に作曲されたロジャー・セッションズの管弦楽のための協奏曲とともに録音され、私の手元には未だにそのアナログ盤がある。
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だが、作曲者がパヌフニクであることは分かっても、劇中に流れるピアノソロや、そこに小編成のオケが絡む音楽 (どうやらピアノ協奏曲か?) や、陰鬱な情緒の弦楽器の曲などは、なじみのないものであった。プログラムにも曲名は記載されていない。そこでエンドタイトルで英語表記があることを期待してよく見ていると、出て来た出て来た。英語で 4 - 5曲の作品名がそこにあり、ひとつは確かにピアノ協奏曲。それ以外に見えたのは「夜想曲」とか「秋の音楽」などのタイトル。そこで帰宅してから我が家の CD 棚を確認すると、あったあった。パヌフニクの作品集が 2枚。1枚はヤッシャ・ホーレンシュタインと作曲者自身の指揮。もう 1枚は作曲者のみの指揮である。この 2枚に、ピアノ協奏曲も「夜想曲」も「秋の音楽」もすべて含まれていた。手元の CD のジャケットの写真を掲げるので、ご興味おありの方は (・・・いないかも 笑)、是非ご参考に。
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例によって映画の本質から離れたところに行ってしまったが (笑)、とにかく私はこれを偉大な映画だと思うので、歴史や文化に関心のある方々には、今回岩波ホールでの鑑賞は無理でも、今後なんらかの方法で、是非ご覧頂きたいのである。そして、パヌフニクの音楽なども聴いてみてはいかがだろうか。岩波ホールが今後も文化的な良心に基づいて貴重な映画を上映して行ってくれることを切に願いながら。

by yokohama7474 | 2017-07-28 00:46 | 映画 | Comments(0)

セールスマン (アスガー・ファルハディ監督 / 原題 : Forushande)

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最初にお断りしておくと、この記事で採り上げる映画は、もともと大々的に公開されていたわけではなく、私が見たときには既に単館上映となっていたが、それも既に終了していて、今この瞬間は見ることが叶わない映画である。だがそれでも、将来的にはネット配信や DVD / BD などで鑑賞の手段があるであろうから、ここに感想を記しておくのもあながち意味のないことではないだろう。もちろん映画好きの方なら既にご存じの映画であろうし、上のチラシにもある通り、今年のアカデミー賞で外国語映画賞を獲得しており、その前に昨年のカンヌ映画祭で脚本賞と男優賞を受賞したほか、多くの映画祭で様々な賞を得ている作品である。

まず興味を惹くのは、これがイランの映画であるということだ。イランは、国際ビジネスの観点からはなかなかに難しい国。つまり、米国の経済制裁は既に解除されているにもかかわらず、未だドル決済ができず、トランプ政権の態度もよく見えないため、ビジネスを展開するには不安定な要素が多い国なのである。とは言っても、イランからは我々にも既になじみのある大映画監督が輩出している。その名はアッバス・キアロスタミ。惜しくも昨年 76歳で亡くなったが、小津安二郎を心から尊敬すると言っていたこの監督の手腕は、国際的にも高く評価されていた。私が劇場で見ることができたのは「桜桃の味」だけであったが、なかなかブラックな面のある、一筋縄ではいかない大変な傑作であった。あとは、今調べてみて分かったのだが、「カンダハール」という面白い映画を撮ったのも、イラン人であるモフセン・マフマルバフ。なるほど、イランでは既にこのような傑作が生まれているわけで、この「セールスマン」が突然変異というわけではないわけだ。これが、この映画の監督アスガー・ファルハディがオスカーを受賞したところ。
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題名の「セールスマン」(原題の "Forushande" は、恐らくはこの言葉を意味するペルシャ語の、アルファベット表記であるように思われる) は、アーサー・ミラーの有名な戯曲「セールスマンの死」(1949年作) に由来する。この映画の主人公である夫婦は、ともに地元のアマチュア劇団に所属して、この戯曲の舞台上演に連日出演している。その上演期間中にあるトラブルが起こるので、映画の中では物語の進行とともに「セールスマンの死」の舞台が何度も登場する。その意味で、戯曲「セールスマンの死」はこの映画の発想となんらかの関係があるはずだ。私は若い頃素人演劇にかかわったこともあるので、この戯曲のことは当然よく知っている・・・はずなのであるが、恥ずかしながら、実際の上演を見たことはなく、また、以前手元にあったはずのアーサー・ミラー戯曲集も、今書棚に見つからない。なので、残念ながら「セールスマンの死」について知ったように語ることができない。そこでプログラムに掲載されている監督の言葉をここで要約すると、「セールスマンの死」は、ある社会階級が崩壊して行く時代の社会批判であり、急速な近代化に適応できない人々が崩壊する様子を描いている。その状況は今のイランの状況と似ており、急速な変化における選択肢は、「適応」か「死」である。本作の主人公であるエマッドとラナという夫婦は、舞台上でもセールスマンとその妻を演じていることから、実際の生活においても、セールスマンとその家族に直面して、運命の選択を迫られる。・・・なるほど、そういう発想でできた映画なのである。その点についてのイメージを持たないと、この映画にすっきりしないものを感じて本質を見失うことにもなりかねないだろう。ところでアーサー・ミラーはよく知られたように、一時期マリリン・モンローと結婚していて、彼女のために「荒馬と女」の脚本を書いている。このあたりについて語り始めると、またぞろ順調に脱線してしまうので (笑)、ここではモンローとミラーのツー・ショットだけ掲げておこう。
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この映画の感想を簡単に述べると、登場人物同士のかなり微妙で複雑な関係をなかなかうまく表現していて、面白い映画だと思う。ストーリーそのものだけ見ても、先を読ませない展開であり、その意味でもドラマとしての完成度は評価できる。その一方で、手持ちカメラを多用して動きのある映像が若干雑な作りに思えることもあって、緻密さを感じさせることがあまりない。そのために、せっかくうまく作られたドラマ性が、もうひとつ観客の心をわしづかみにしないもどかしさがあるのではないか。正直、主人公の男が、トラブルから一体何を感じ、それに対してどのように対処したいのか、分かりにくい作りになっていると思う。だが、そのような欠点を認めても、私としてはこの映画を高く評価したい。それは、舞台と実生活の間に存在する共通性と相違性を、生のままに描き出したというその創作態度によって、なにか人間の本質的なところを突いているからである。この夫婦は上の写真の夫婦とは異なり、世界的な意味での地位も名声も富もないが、様々な感情を持ち、自らが属する社会の中における確固たる位置を持っている。
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夫婦の間に起こるトラブルとは、こういうものだ。それまで住んでいた建物が、隣の土地の工事のために傾いてしまい、中古マンションへの転居を余儀なくされる夫婦であるが、ある日夫が帰宅してみると、妻が額から血を流してシャワーで倒れている。彼女がシャワーを浴びている間に呼び鈴がなり、てっきり夫だと思った彼女がロックを解除してシャワーに戻ったところ、入ってきたのは別の人物で、その人物に暴行を受けてしまったのだ。実はそのマンションの以前の居住者は、部屋に男を入れていかがわしい商売をする女性 (その女性は画面に登場しない点、評価したい) で、事件はどうやらそのことと関係しているらしい。二人はつらい思いを抱えながらも「セールスマンの死」への出演を続け、夫は真相解明に向けてひとりで動き出す、というもの。私が評価したいのは、この夫婦それぞれの人間像。夫は実は高校教師であり、生徒からはかなり慕われている。また、最初のシーンでは、傾いたマンションからの脱出の際、寝たきりの人の移動に手を貸すなど、良心を行動で表すタイプ。一方妻の方は、かなりおとなしい性格であり、自分がどんな被害に遭ったのかを語ろうとはしない (よって、彼女の受けた暴行が、ただ殴られただけなのか、性的なものを含んでいたのかは、最後まで明らかにならない)。後半に至って、その優しい性格から神経が参ってしまうシーンも出てくる。そしてこの 2人の間には、お互いへの遠慮に起因する気まずい雰囲気がつきまとい、少なくとも夫婦で揃って犯罪行為を糾弾するということにはならない。ほら、こんな感じで妻はこっそり夫の様子を見るのである (笑)。
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面白いのは、正義感が強く頼りがいのある男として描かれた夫が、犯人憎しの感情にとらわれ、かなり暴走してしまうという点である。これこそ人間の赤裸々な姿であり、これほど極端なケースでなくとも、誰にでも日常生活で起こりうることではないか。そして最後の展開は息詰まるものであり、ドラマは一気に渦を巻く。ネタバレはしないが、私はこのようなシーンを思い出すと、胸が苦しくなってしまうのだ。往々にして悲劇と喜劇が背中合わせになっており、難局を乗り切ったと思ったら次の難局が待っているのが人生。いつ何時、あなたがこの老人のように、ちょっとした過ちから危機的な状況に陥らないとは限らない。心してこのシーンを見る必要があるのである。
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その他印象に残ったシーンを挙げると、子供のいない夫婦が友人の息子を預かって、3人で夕食を取るシーンである。このメガネの少年がなんとも可愛らしく、この陰鬱なドラマの中で、何かちょっとほっとするシーンであるとともに、家族というもののあるべき姿を、疑似家族を通して表現している優れたシーンでもある。この少年がイノセントでピュアであればあるほど、現実世界で起こることの醜さが浮き彫りになる。そのようなことを、陳腐になることなく描き出す監督の手腕は、確かなものであると思った。可愛いでしょ? (笑)
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繰り返しだが、この映画の展開自体は洗練の極という感じではないので、流れの悪い映画だなと思われる方もおられよう。だが、「セールスマンの死」を題材として使用した点を含め、この映画のヴィジョンは非常に明快であるので、細部の不備にとらわれて映画全体の表現力を見ないことになると、大変にもったいないと思う。イランという、我々に日常なじみのない国から届いたこのような人間社会へのメッセージを、真摯に受け止めたいものである。また、小規模な公開であったとはいえ、このような映画を見ることができる東京の文化的環境を、誇りに思いたい。

by yokohama7474 | 2017-07-27 00:37 | 映画 | Comments(0)

キング・アーサー (ガイ・リッチー監督 / 原題 : King Arthur : Legend of the Sword)

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このブログで映画を採り上げる際には、つまり私が劇場で映画を見る際には、いくつかの見たいと思うポイントがあって、その中でも最大の要素は監督であるということは、ここで映画関連の記事を読んで頂いている方にはご理解頂けよう。例えばこの作品は、監督がガイ・リッチーであるがゆえに、私にとっては必見の作品であったわけである。この監督の作品としては、2015年12月 2日の記事で「コードネーム U.N.C.L.E.」を採り上げ、その際に私のこの監督への敬意を明確に表しておいたのであるが、今自分で読み返してみて、ちょっと興味深い表現を発見した。それは、その映画の入りがよくないことに触れた後の、「この監督の次回作、大丈夫だろうか・・・」というくだり。いや、大丈夫。ガイ・リッチーは無事、この新作を撮って世に問うた。だが。だがである。封切から 3週間くらいでほとんどの劇場からこの作品は姿を消し、現在でも上映しているのは、東京の丸の内ピカデリーと、それから長野の長野千石劇場というところの、全国でもたったの 2ヶ所だけなのである!! ネット上の評価を見てみても、そこそこ誉めているものもあれば、手抜きだの、ストーリーに必然性がないの、本当のアーサー王伝説とは違うのと、手厳しいものも多い。もちろん映画は見る人によって様々な見方があってしかるべきだし、それが映画の面白いところだから、私は他人様の評価をとやかく言う気はない。だが、もし映画を文化的文脈に沿って作家主義の立場で語るなら、ガイ・リッチーこそは現代における代表的な監督と位置づけ、何はともあれ劇場にかけつけるべきであろう。なので私は、どんな映画館か全く知らない長野千石劇場さんの英断を支持するし、東京の方には丸の内ピカデリーに駆けつけて欲しいのと同様、長野及び中部地方の方には、この作品が上映されているうちに千石劇場に駆けつけて欲しいと言わせて頂こう。

さてこの映画についての基本を確認しておきたい。題名の通り、イングランドの伝説であるアーサー王の物語。この伝説はもちろん広く人口に膾炙したものであり、これまでにも様々なイメージが創造されてきた。映画においては、「エクスカリバー」や、クライヴ・オーウェンとキーラ・ナイトレイ共演の 2004年の「キング・アーサー」という作品があったし (あ、もちろん、「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル」もありました)、音楽においてはワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」や「パルシファル」がこの伝説と関連している。英国には実際、アーサー王とその妃グイネヴィアの遺骨が掘り出されたとも言われるグランストンベリや、アーサー王生誕の地とも伝わるティンタジェル城など、興味深い場所があれこれある。そのイメージは常になにやら神秘的なのであるが、その一方で、魔術との関係や、円卓の騎士のひとりランスロットとグイネヴィアとの恋愛関係など、アーサー王関連のイメージの神秘性は、輝かしさ一辺倒の英雄の姿でない点にもあると思う。だからまず、アーサー王の人物像とはもともと複雑であるという前提で、物事を考え始めよう。因みにこれが、ほかのサイトからお借りしてきた、コーンウォール半島 (ワーグナー好きにはおなじみですね!!) のティンタジェル城の写真。我が家もロンドンから犬を連れてドライブでこの地を訪れたことを懐かしく思い出すが、なんとも荒涼とした場所であった。なんでも昨年、この地域で 5~ 7世紀のものと見られる遺跡が新たに発見されたとかで、アーサー王伝説もあながち非現実的な話ではないと、専門家もコメントしているという。
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実はこのガイ・リッチーのアーサー王シリーズは全 6作の予定で、今回が第 1作。監督のみならず、製作・脚本もリッチー本人が担当している。ということは、彼としてもこの作品に相当な思い入れがあるに違いないし、今回興行成績がコケてしまうと、この先の製作に暗雲が垂れ込めるかもしれないという由々しき事態に陥る恐れがある。これは、マドンナと結婚していた頃のガイ・リッチー。
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では映画について語ろう。私の見るところ、確かにこれは、誰もが絶賛を惜しまない傑作とは言えないと思う。また、新たなアーサー王像を作ろうという意欲が空回りしている部分も、あるかもしれない。だが、素直に見て、ここにはあの長編デビュー先「ロック、ストック & トゥー・スモーキング・バレルズ」(1998年) から変わりない彼の冴えた映像センスが感じられて、ファンとしては嬉しい限り。もっとも、デビュー時期に比べると CG も当然格段に進化しているし、それをふんだんに使えるだけの予算を取れる監督になっているという事情もあろう。だがこの 360度回転カメラのシーンで、吹っ飛ぶ敵たち、舞い上がる小石、輝く刀身というイメージが時に速く時に遅く、ときにストップモーションとなって目まぐるしく動くのを見るのは、素直に楽しい。最新のオモチャで遊んでいるという印象もあるが、それこそガイ・リッチー。そうして彼の描き出す、まさに「スラムのガキから王になる人物」の成長ぶりは、やはり只者ではない。聖剣エクスカリバーを抜くシーンも遊び心いっぱいで、私はよいと思いましたよ。
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後で知ったことには、このシーンで悪役を演じているのは、あのベッカムなのだ。大根役者と酷評されているようだが、でもこのルックスは悪役でもイケると思う。
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もしこの映画で人々の共感を得られない点があるとすると、話の流れが分かりにくいことと、それから、ナポレオンへの言及などに見られる不可解な時代設定だ。前者の点は確かに致し方ないかもしれない。登場人物が多く、敵なのか味方なのか分からない人もいるし、なぜここでこの人がアーサーを助けるか、という点で納得いかないことも起こるからだ。だが、その一方で、アーサーが度々見る父の映像や、そこに佇む異形の者の姿は極めてイメージをつかむことが容易であり、物語は何かというとそこに返って行くので、細部に惑わされることなくアーサーの言動を中心に見て行くべきではないだろか。その一方、時代錯誤的なセリフについては謎なのだが、ネット上での評価の中に、これは 19世紀の英国に舞台を変えているというのだという解釈があって面白かった。後半に出てくる政府による娼婦の暗殺は、切り裂きジャック事件だというのだ。なるほど、その解釈もありかもしれない (私は切り裂きジャックには随分と興味があり、何冊も本を読んでいるばかりか、真犯人ではないかと言われる画家ウォルター・シッカートの画集まで、しっかーりと持っている)。だが、視覚的にはどう見ても舞台の設定は 19世紀ではなく、中世以前である。なのでこの時代錯誤にもあまり囚われることなく、部分的な設定にリッチーの遊び心が発揮されている例であると私は思いたい。

どうやらひいきの引き倒しの感も否めないが (笑)、私としてはこの小ネタ満載の映画を大変楽しんだということである。大規模な作品においてこれだけ自己のテイストを明確に盛り込む手腕を持つ監督が、現在何人いるだろうかと思うのである。また、上記のベッカムはさておき (笑)、主要な役を演じたのは素晴らしい役者たちである点は特筆できよう。まず主役のチャーリー・ハナム。ハリウッド製の怪獣 vs ロボット映画「パシフィック・リム」の主演であったとのことだが、はて、全く覚えていない。だがここでの役は、まさにスラム街に育った、どこの誰とも知れない男 (決して若者といえる年ではない) が、実は前王の息子であったという設定なので、あまりメジャーな役者でない方がよいし、その一方で、高い身体能力及び、陰のある英雄を演じられる演技力が必要。その意味では適役だったと思うし、身体性に富んだ凄みのある演技を見ることができる。
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それから、亡き父、前王を演じるエリック・バナが素晴らしい。昔ハルクを演じていた若者が、今や悲劇の王を堂々と演じているのは感慨深い。
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それから私が注目したのは、魔術師マーリンの部下として、様々な魔術を操るメイジを演じるアストリッド・ベルジュ=フリスベだ。スペイン人の父とフランス系アメリカ人の母を持つため、スペイン語やフランス語にも堪能とのこと。この不思議な役を演じるには適材適所だと思った。だが、ちょっとネットで調べてみると、この役がこのシリーズで今後重要になっていくらしいことが判明する。彼女の今後の変貌やいかに。
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あと、敵の王役にはおなじみのジュード・ロウ (というファミリーネームの表記が日本では定着しているが、綴りは "Law" なので、正しい表記は「ロー」だろう)。もちろん熱演であるとは思うものの、正直なところ、この役者はこれまでのキャリアの中で、その豊かな才能に見合うだけの重要な役柄を、未だほとんど演じていないように思う。この程度の悪役では、満足したとは言いたくないのが素直な感想である。今後の作品に期待したい。
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とまあ、私としても手放しで絶賛する傑作とは思わないものの、しつこい繰り返しで恐縮ながら、ガイ・リッチーの映画としてその捻りを楽しみたいという観客にとっては、見応えはかなりあるものだと思う。願わくば、予定されている 6作が無事すべて映画化されますように!! 遠い日本の地における長野千石劇場の英断に、作り手たちも是非報いて欲しいものである。

by yokohama7474 | 2017-07-25 23:49 | 映画 | Comments(2)

ライフ (ダニエル・エスピノーサ監督 / 原題 : LIFE)

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この映画の題名は「ライフ」、つまりは「生命」という意味である。なるほど、この地球上にあまた存在し、躍動するあの生命のことだ。つまりこの映画は、生命の尊さを訴え、この地上に平和で穏やかな日々が続くように祈ろうという内容なのか。あるいは、「ライフ」のもうひとつの意味である「生活」を意味するなら、新たな自分を求めて頑張ろうという積極的なメッセージを伝えるものなのかもしれない。または、貧しくつらい日々の生活の中にも笑いありペーソスありの、家族愛による心温まる物語なのであろうか。・・・でもそれなら、こんなポスターのはず。
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うーん、何かちょっと違うようだぞ。なぜなら、冒頭に掲げたポスターの謳い文句は、「人類の夢も未来も砕かれる」というなんとも物騒なものであり、どう見ても、地球上の生命や人々の生活の尊さを訴える内容ではなさそうだ (笑)。そう、正直なところ、私の意見としては、この映画の題名はよくない。私のように、ブラックで怪奇で邪悪なものを愛する人間にとっては、題名だけで映画をチェックするならば、見落としてしまうではないか。この、優れてブラックで怪奇で邪悪な映画を (笑)。実際、予告編も見る機会がなかったので、シネコンのスケジュールをチェックした時には危うくこの作品をスルーするところであったが、念のためと思って解説を見ることとし、その本質を理解すると、早速いつ見に行くかの検討に入ったのである。危うくこんな面白い映画を見落とすところであったのだ。危ない危ない。

ストーリーは簡単。6人の乗組員の乗る宇宙船が火星に到達し、そこで採取した土壌に原始的な生命体を発見する。最初はただの小さな細胞であったその生命体に対し、かつて地球で起こったような生命活動のための様々な要因を整える環境を作ると、それは徐々に活動を始める。そしてそのものは急速に成長・進化し、ついには人間を襲い始めるのである。そうして閉ざされた宇宙船の中は、逃げ場のない壮絶な闘いの場となる。この生命体を絶対に地球に届かせてはいけない!! というもの。うーん、これは面白い。もちろん昔の名作「エイリアン」とも共通する設定なのであるが、当時と比べて現在の映画技術における無重力表現のリアルさには、本当に舌を巻く。この迫真のリアリティあってこその、究極の密室ホラーなのである。
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もちろん、これからご覧になる方のためにいつもの通りネタバレは避けるが、培養によって育ってきた火星生物 (ここではカルヴィンと名付けられる) は、最初はこんな感じ。何やらイカの刺身のようである (笑)。
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さぁ、ここからいかに物語は進展するのか。白状すると、私はもう、心臓バクバクものでスクリーンに見入ることとなった。フィクションとは分かっていても、もし異星の生命体が発見されて、それが成長すれば、まさに完全な未知との遭遇であって、ドキドキするに決まっている。そして、もしあらすじを事前に知っていなくても、このイカの刺身がいずれ人間を襲うようになるという予感は、画面のそこここから漂っているので、なんとも息苦しく落ち着かないのである。この感じ、「エイリアン」を含むほかの映画ではこれまでに味わったことのないほど強烈な、何か人間の本能に訴えかける恐怖感だ。この生命体は高い知能を持っていて、道具を使ったり、あるいは何か物事が起こったらその結果として起こることも予測した上で行動を取る。最初の方こそゴキブリ退治感覚で見ていても、すぐにエイリアン的世界に突入、これはヤバいぞ、ヤバいぞ、と心の中でつぶやきつつ、拳を握りしめながら事の次第を見守ることとなる。もちろん乗組員たちの何人かは犠牲になるのだが、例えば船内に浮かぶ人物の口からゴボゴボッと出て来る血が大小の不定形な塊となって宙に漂うシーンや、生存者たちが無重力の船内を進んで逃げる際に、先に犠牲になったほかの乗組員の死骸が未だそこに浮いているシーンには、やはりそのリアリティによって、本能的な恐怖を掻き立てられたものである。だから本当にこの映画は怖い。そして、ストーリーが単純であればこそ、先の読めない展開に翻弄されてしまうのだ。ふとここで考えるのは、私の場合は題名によって本来パスすべきところを、内容をチェックしてから見ることにしたため、まだある程度の覚悟はできていたものの、その逆のケースはどうなるのかということだ。つまり、清く正しく美しい映画を好む人が、この題名だけを見て、これを清く正しく美しい映画だと勘違いして劇場に入った場合である。きっと驚きのあまり全身の毛は逆立ち、目は飛び出て、悶絶することであろう。それはまさにこの映画と同じくらい、怖い (笑)。

この映画はまた、出演している役者たちがよい。まずは、ジェイク・ギレンホール。様々な作品に出ていて、一度見たら忘れない顔だが、もうひとつ代表作と呼べるものがない (私が見ていない「ブロークバック・マウンテン」はきっと違うのだろうが) ように思う。ここでも少し特殊な役なのであるが、人生に対して少し投げやりな態度を示し、だが非常に真摯な情熱を持った人物像に仕上がっている。諦観とは表裏一体の、そこはかとないユーモアも見て取れる。この映画をこれからご覧になる方、是非彼の最後のセリフにおける、無限のニュアンスを聞いてみて頂きたい。それは、最高に悲劇的で、かつ最高に喜劇的なシーンなのである。なぜなら、人類の夢も未来も砕かれるなら、もう笑うしかないではないか。
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そして、レベッカ・ファーガソン。このブログで彼女の出演作をご紹介するのはこれで 3度目だが、スウェーデンの女優で、1作ごとに違った顔を見せてくれている。ここでは宇宙飛行士らしい凛とした強さを持ちながら、人間としての感情に溢れた難役を極めて印象深く演じていて素晴らしい。
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そして、ライアン・レイノルズ。言わずと知れた「デッドプール」の主役だが、その役にも通じる、軽口は叩くものの、いざというときには頼りになる役を演じている。ところで今調べて知ったことには、この人、一時期スカーレット・ヨハンソンと結婚していたらしい。
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それから、真田広之。もちろん、日本人の宇宙飛行士がいてもよいので自然な設定ではあるが、ここでもやはり、ハリウッド映画における「日本人」であることが前提の役で、それはつまり、寡黙で目立たないが、静かな情熱と家族への愛を持った人物ということなのである。その前提においては、なかなかよい演技を披露していると評価できるだろう。
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そして監督は、スウェーデン人のダニエル・エスピノーサ。このブログでは以前、トム・ハーディ主演の「チャイルド 44 森に消えた子供たち」をご紹介した。現在 40歳で、スウェーデン国外で国際的なキャストを使って撮った作品は、これがまだ 3作目。今回のような単純なストーリーを退屈せずに見せる手腕は大変なものだと思うので、今後も活躍の場を広げて行って欲しいものだ。
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この映画の大詰め、まさにこの異形で凶暴な地球外生命体が地球に到達するのか否かという瀬戸際の演出は、今思い出してもハラハラする。「ど、ど、どっちだ???」と叫びたくなるあの焦燥感。結末が分かっていても、もう一度見てみたい。それにしてもこの火星人カルヴィン、実に憎たらしいしグロテスクなのだが、実はちょっとかわいいところもあると思うのは私だけだろうか。そう、彼は必死に生き延びようとしているだけ。彼のライフにも、ほかの生物同様の尊い価値があるはずではないか。・・・とこう考えるだけで、既にブラックで怪奇で邪悪なものに毒されてしまっているのかもしれませんがね (笑)。

by yokohama7474 | 2017-07-24 21:48 | 映画 | Comments(0)

ハクソー・リッジ (メル・ギブソン監督 / 原題 : Hacksaw Ridge)

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つい最近このブログでご紹介した映画、「ブラッド・ファーザー」は、現代の名優メル・ギブソン主演のなかなか素晴らしい映画であったが、これは同じメル・ギブソンが監督としてメガホンを取った作品。もちろん彼は映画監督として高い名声を誇っていて、中でもアカデミー作品賞、監督賞ほかを受賞したスコットランドの独立運動の壮絶な物語「ブレイブハート」(1995年) は、見る者皆を圧倒する傑作であった。その後も「パッション」(2004年)、「アポカリプト」(2006年) という作品を監督したが、この映画は前作から 10年を経て彼が世に問う作品である。予告編で明らかであったことには、これは戦争映画であり、なんでも、武器を持たずに戦場に出て、傷ついた仲間たちを救った男の物語。驚くべきことに、実話に基づいているという。これは、私の席の隣のオジサンならずとも、是非に見るべき作品だと思って見に行ったのであるが、想像通り、いやそれ以上に重い内容の映画であり、これを見てしまうと、しばらくは虚脱感に見舞われて何もする気にならない人がいてもおかしくないと思うくらいである。これが昨年 9月にヴェネツィア国際映画祭で記者会見に臨んだギブソン。当時 60歳にしては皺が深くて、私が以前「ブラッド・ファーザー」の記事で彼の顔について書いた、「この皺はメイクだろう」という推測は、実は間違っていたようだ。
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この映画のタイトルの意味であるが、Hacksaw は弓状のノコギリのこと。Ridge は尾根のこと。つまり、ノコギリ状に切り立った断崖のことを指している。この写真は、左が実際のハクソー・リッジ。右が映画の中のハクソー・リッジ。
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映画の舞台は、このような断崖を登って攻める米国軍である。時代はどうやら第二次大戦中であるので、戦っている相手は当然日本軍であり、つまり戦いの舞台は太平洋のどこかだ。では、このハクソー・リッジなる断崖は、太平洋のどこにあるのだろう。フィリピンかサイパンか。いやいや、答えは沖縄。この映画は、沖縄戦に関する逸話を扱ったものであったのだ。沖縄戦と言えば、もちろん私たち日本人にとっては、終戦間際の追い詰められた状況での、多大な犠牲を出した凄惨極まりない戦いとして、常に痛恨の思いとともにある戦い。そんな戦いにおける米国軍を描いた映画を、果たして冷静に見ることができるであろうか。

ハクソー・リッジとはもちろん米兵のつけた名前であり、日本名は前田高地。首里城の北側であり、現在は浦添市というところにある。この前田高地の絶壁自体はその後の開発か何かで、現在は既に削られてしまっているようだが、ネット検索すると、沖縄戦の戦跡として訪れる人も結構いるような場所なのである。沖縄戦の悲惨なイメージからすると、日本軍の防御は米国軍 (いや、実際には連合国軍だ) によって軽々と突破されたのかと勝手に思っていたが、そうではなく、追い詰められた日本軍の攻撃は非常に激しくて、前田高地の攻略にあたり、連合国軍は何度も撤退を余儀なくされているのである。主人公デズモンド・ドスが現地に到着したとき、「6度攻めて 6度退却した」というセリフが出て来る。ということはつまり、連合国軍側にも多くの犠牲が出た戦いであったわけだ。そのことがこの映画を理解する大前提となる。どんな戦いにも勝者がいて敗者がいる。だが、勝者の場合にも、そこには必ず死者がいて負傷者がいる。そしてその死者たちや負傷者たちには、それぞれ家族がいて、かげがえのない生を送ってきているのである。いつの時代にも絶えることがない戦争の悲惨さの本質はそこにあるのだということを、この映画は仮借ないリアリティを持って描いているのである。
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主人公ドスは、その信仰上及び個人としての信条から、戦場に赴いても武器を持つことなく、衛生兵として傷ついた戦友たちを救うことを自らの使命にすることを誓う。だが軍隊の訓練においては、銃器を持たないことなど、兵士として許されるわけもない。ドスは周辺や上官からのいじめや罵りに耐え、軍法会議すらも思わぬ助けによって切り抜けて、本当に武器を持たない衛生兵として戦場に赴くのである。映画の前半では、ドスの幼少期に始まり、家族の間の微妙な関係や、ひとめぼれしてプロポーズする看護師との愛情が描かれ、これは実にテンポよくまた無駄がなくて、見ているときにはそれほど重要とは思わなかったが、今思い返してみると、ドラマの流れの中で必要な情報をきっちりと伝えている必要不可欠な部分であったのだ。もしこのようなシーンがなければ、ドスの戦場での行為は単なる美談としてしか描きようがないが、彼の人間としての弱さや家庭の事情、過去のトラブルといった要素が前半に描かれるからこそ、この映画のメッセージの重さ、つまりは人間は決して聖人君主ではないが、いくつかの条件が揃うと、想像もできないような勇気ある行動も取ることができるのだ、ということが理解できるのである。私としては、この前半部分があるゆえに、この映画は傑作であると言いたいのである。これはプロポーズするドス。
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そして後半には、とても正視できないような地獄絵図が延々展開する。上述の通り、ここでは敵が日本軍であることもあり、この戦場のシーンに嫌悪感を持つ人がいてもおかしくないだろう。実際、ここでの日本人は、獰猛であり姑息であり、攻撃を受けない建物の中では場違いなほどくつろいでいたり、一方で敗北を認めると自ら腹を切る、異様な人種として描かれている。その意味では、日本人はここでは米国人から見た「敵」という遠い存在という性格を明確に持っているのである。だが、それでも私は、それをもって日本人がこの映画の価値を低くみるとすれば、かなりもったいないことだと思うのだ。実際のところ、銃弾が縦横に飛び交い、鮮血と肉が激しく飛び散る戦場で、傷ついた味方を助けて避難させるという行為は、これはもうなんとも虚しい行為であるとしか言いようがない。そもそも大多数が死んで行く中で、ごく少数の命を救うことは、それだけで徒労に近い行為とも言えよう。たとえ発見したときに息があっても、次の瞬間にはその息は途絶えているかもしれないし、死ぬ運命の人を助けている間に、より生き残る可能性の高い人が苦しみ続けているかもしれない。あるいは、懸命に担いで救助している途中で、助けている仲間も自分自身も、敵に撃たれて死ぬかもしれない。そのような途方もない徒労感を表すには、敵が敵として脅威の存在である必要があり、何よりも、戦場で戦っていた兵士たち自身がそのように敵を見ていたであろうから、ここでの日本兵たちは、飽くまでそのような「敵」である必要がある。この映画が提示しているのは、だが、敵である日本兵を憎む感情では決してなく、敵も味方も悲惨な状況に陥ってしまうそのどうしようもなさ、つまりは、歴史が人間に強いる抗えない残酷な運命であろう。それゆえ彼が結果として実に 75人の味方の命を救ったという事実は、爽快感としてではなく、徒労感の果ての重い感動として、見る者の胸に迫る。尚、この映画では CG はほとんど使われておらず、爆発シーンは本物の火薬によるものらしい。
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このような役を演じる役者には、ヒーローを演じる力だけでなく、人間的なリアリティを出せる独特の個性が不可欠だ。ここでメル・ギブソンが選んだのは、つい先ごろの「沈黙 - サイレンス -」での熱演も記憶に新しい、アンドリュー・ガーフィールド。もちろん出世作は、「アメイジング・スパイダーマン」の 2作であるが、本当にいい役者に成長したものである。命を奪うためではなく、命を救うために戦場に赴き、途方もないことをやってのけた実在の人物を、このようなリアリティで表現できるとは、素晴らしいことだ。
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ひとつ興味深い偶然がある。彼の前作「沈黙 - サイレンス -」は、悲惨な状況においても敬虔な信者の前に姿を現さない神の「沈黙」をテーマにしたものであったが、実はこの「ハクソー・リッジ」においても、主人公ドスが、この悲惨な戦場において同じような感情に囚われるシーンがあるのである。違うところはその先で、ここでのドスは神の沈黙を跳ねのけるように、狂気とも思える戦場での奔走にその身を捧げるのである。

この映画ではまた、父親役のエージェント・スミス、あ、違った、ヒューゴ・ウィーヴィングや、上官役のサム・ワーシントンなどの役者がそれぞれの味を出していて素晴らしい。妻役のテリーサ・パーマーは、まさに映画における紅一点である (あ、ドスの母親役もいるが・・・)が、目立ち過ぎず、よい存在感である。「聖杯たちの騎士」にも出ていたようであるが、あまり覚えておらず、申し訳ありません (笑)。
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それから、エンドタイトルを見ていて気付いたのは、"In memory of" (つまり、この映画によって追悼の意を捧げる故人) として 2人の名前が出ていたが、そのうちのひとりがジェームズ・ホーナーであった。彼は現代ハリウッドの映画音楽の大家であったが、2015年に 61歳で死去した。自ら操縦していた飛行機の墜落によるもので、私も当時、その死に驚いたものであったが、改めて、彼が音楽を提供した映画のリストを見ると、本当に多彩で素晴らしい。中でもメル・ギブソンとのかかわりは、「ブレイブハート」「アポカリプト」の 2本の監督作に加え、「身代金」のような出演作もある。その他、この映画の出演者であるサム・ワーシントンの出た「アバター」や、アンドリュー・ガーフィールドの出た「アメイジング・スパイダーマン」も含まれている。ホーナーの映画音楽は、例えばジョン・ウィリアムズのように誰の耳にも残るメロディは少ないかもしれないが、間違いなく、現代ハリウッドの映画作りの重要なパートを担った人物であった。私のようにオーケストラ音楽が好きな人間は、映画のタイトルに音楽担当として彼の名前が出て来ると、ワクワクしたものであった。この映画とは直接関係しないが、文化逍遥の一環として、ここで彼の写真を掲げておこう。
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さて、上で触れた通り、昨年のヴェネツィア映画祭でメル・ギブソンはこの作品に関連した記者会見を行ったが、そこでは大変興味深い発言が見られるので、少しだけ要約・引用しよう。

QUOTE
すべての能力のカギとなるのは、緊張を解いてくつろぐことだ。年齢と共に人は退屈していくから、リラックスする必要がある。自分の受け持つ領域を知ることだ。それが上手くいけば、良くなることができる。だがいつでもそれが起こるわけではなく、時には悪い方向に大きな一歩を踏み出してしまうこともある。私がそうだった。何か良いことをして、その後なぜか、良いとは言えないことをする。多分それが人生なんだ。

スクリーン上で戦闘シーンを描くときに大切なことは、明確であること。混乱しないようにすることだ。混沌と混乱の印象を与えるが、観客に見せたいもの、そして一連のシーンから何を取り出したいのかを、絶対的に明確にしなくてはならない。これが映画監督のすべてだ。演者が誰であるかを知ること。スポーツ競技のように取り組む必要がある。
UNQUOTE

前段は自らのそれと照らし合わせた人生における哲学、後半は映画監督の技術的な側面について語っている。内容は対照的ではあるが、いずれも虚飾のない、素晴らしい言葉ではないか。このような言葉を発することができる人であるから、これだけの内容の映画を作ることができるのである。是非近いうちに次回作を撮ってもらいたいものだと願わずにはいられない。

by yokohama7474 | 2017-07-13 23:37 | 映画 | Comments(0)

パトリオット・デイ (ピーター・バーグ監督 / 原題 : Patriots Day)

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世界各地でテロが起こっている今日、人々にはそのような事態への備えはできているだろうか。日本を歩いていると、あまりそういう感じがしないのであるが、そのことはここ日本が平和である証拠であると思っており、それは感謝しないといけないことなのだろう。そんなことを考えるのは、この映画が、未だ記憶に新しい 2013年のボストン・マラソンでの爆弾テロを扱っているからである。米国の場合、ほんの数年前に起こった事件を映画にすることは普通に行われていて、それはかなり思い切ったことであると思う。というのも、当事者たちがほとんどの場合は生きていて、英雄視するならまだしも、中には人間的な弱さを見せるキャラクターもいるからだ。この映画では、あまり悪い人たちは出てこない (犯人たちの描き方は後で触れよう)。だが、それぞれの立場の違いというものはどうしようもなく存在し、鑑賞者の中には、何人かのキャラクターに対して反感を抱く場合もありえよう。このような思い切った描き方は本当に米国ならではと思うのである。この映画においてテロ犯人に立ち向かった勇気ある人々はこんな感じ。
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主役及び製作は、今やハリウッドを代表する俳優のひとりであるマーク・ウォールバーグである。「トランスフォーマー」シリーズや「テッド」で見られるように、決して完全無欠のヒーローという役柄を演じてきたわけではなく、どこか人間的な弱さのある、だがいざというときには頼りになる、そんな役柄がメインであり、この映画もその例に漏れない。彼がここで演じているのはボストン警察巡査部長であるが、決して優等的な警官ではない上、別の事件の捜査過程で膝を痛めているのだが、その痛みを押して「パトリオット・デイ」(「愛国者の日」という意味)、つまり 4月の第 3月曜日に行われるボストン・マラソンの警備に当たる。以下が映画における爆発シーン及び本物の爆発シーン。映画が非常にリアルに作られていることが分かるのだが、後述の通り、このリアリティがこの映画の生命線であるのだ。
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そうなのだ。この映画で描かれるドラマは、ほとんどドキュメンタリーに近いと言ってもよい。そのリアリティゆえ、平和な日本に住んでいる我々には、まさに脳天をガツンとやられるほどの衝撃だ。というのも、映画はこのテロ事件に巻き込まれる、それぞれに全く無関係の人たちの前日からの様子を描いているからで、それはつまり、本人たちがあずかり知らない運命という奴が無慈悲に人間世界を翻弄する様子であるからだ。爆弾のすぐ近くにいることになる若いカップル、犯人たちに乗っ取られた車に同乗することになる中国人留学生、銃を求めた犯人に殺される未だ若い警官、逃亡した犯人が潜伏することになる田舎町のベテラン刑事、そして、犯人たちとその家族の生活すら、克明に描かれる。もちろん犯人たちは悪人であるというトーンではあるものの、彼らの犯行の動機については詳しく描かれておらず、狂信的なイスラム教徒というよりは、現実世界に埋もれることが嫌で、何か目立つことをしてやろうという未熟な若者たちというように見える。つまり犯人たちも人間であるということであり、そのような描き方は、この映画のひとつの見識であると思う。この世界においては、何かが絶対的に悪いという評価になることはむしろ稀であり、多様な価値観の混在こそが、クラクラするような現代社会の病巣でもあるという、極めて深刻な事態を見る者に突きつけるのである。これは映画の中でテロリスト兄弟を演じる役者たちであるが、かわいそうなことに、プログラムを見てもその名前は出ていない。二人とも、かなりの熱演であると思うのだが。
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このような仮借ないリアリティを映画にもたらしたひとつの要因はもちろん、役者たちの貢献であると思う。見よ、この豪華出演人。まず、FBI 特別捜査官を演じるケヴィン・ベーコン。そして、ボストン警察警視総監を演じるジョン・グッドマン。さらには、ウォータータウン署巡査部長を演じる J・K・シモンズ。いずれの役者も最高の出来である。
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この手の映画の最後には、劇中の人物の本物が出てきて語ることが多いが、この映画の場合も、事件がほんの 4年前ということで、主要登場人物全員がその姿を見せる。それがいちいち映画でその役を演じている役者とそっくりであることは驚くばかり。以下、左が本人、右が役者。
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このような徹底したリアリティによって凄まじい迫力で明らかになるのは、人間というものは危機に瀕したときには素晴らしい団結力と行動力が生まれるということ。吐き気を催すようなテロに対して、人間世界はまだまだ捨てたものでない強さを持っている。そのようなことを信じることができるこの映画を、平和に恵まれた我々日本人は心して見なくてはいけないと思うのである。この作品の監督ピーター・バーグは、その単純な名前にもかかわらず (笑)、様々に複雑な人生のひだを余すところなく描いていて素晴らしい。マーク・ウォールバーグとは既に「ローンサバイバー」「バーニング・オーシャン」でコラボしている。これがウォールバーグとバーグのツー・ショット。
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このようなリアルなテロの恐怖を味わうことは、やはり意味のあることだと思う。米国のすべてがよいとは全く思わないが、尊敬すべきところは尊敬したい。この映画の米国公開時のポスターに、彼らの強さを感じることができるのである。
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by yokohama7474 | 2017-07-10 00:16 | 映画 | Comments(0)