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新感染 ファイナル・エクスプレス (ヨン・サンホ監督 / 英題 : Train to Busan)

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最近は、メジャー大作からちょっと渋めの文芸映画、ドキュメンタリー、また邦画も含めて、見たいと思う映画が目白押しである。日常生活の中であれこれの些事に時間を取られる身としては、それらの映画を極力多くを見るために、まずは優先度を決めてから具体的予定を立てる必要がある。もちろん、いつもうまく行くわけではないのは致し方ないのだが、最近では最も強く見たいと思ったこの映画は、なんとか見ることができた。そして、期待通りのクオリティに、もう感涙が止まらない。いや、もちろん、本当に泣いているわけではない。だが、もしこれがゾンビ映画とご存じない方はそのまま誤解をもって劇場に向かって頂きたいし、もしご存じの方は、新しいタイプのゾンビ映画がこれほどの面白さで実現したことを、とりあえず身近のどなたかと喜んで頂きたい。劇場で見た予告編で、女子高生たちが、途中まで顔を手で覆いながら怖がっていたにも関わらず、ラストではまさかの号泣!! ということになっていた。そういう映画なのである。何があっても、守り抜け!!
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私がゾンビ映画の大ファンであることは以前も書いた。もちろん、世の中のありとあらゆる分野でマニアの方々が存在し、ゾンビ映画に関する私の知識も経験も、その道のマニアには足元にも及ばないのであるが、ただそれでも、ゾンビ映画の様々な設定や表現が、人々の感性や社会意識にいかに強く訴えかけて来るかということについての認識は、人後に落ちるものではないと思っている。そんなわけで、この韓国製ゾンビ映画に対して、ただならぬ期待感がいっぱいであったのである。ゾンビとは、謎のウィルスに感染することで死者が甦って歩き出し、そのゾンビに噛まれた者はそのウィルスに感染して生者を襲い始めるというのが、この分野のお定まりの設定である。題名については当然、日本では新幹線とかけて「新感染」という言葉をあてはめているわけである。ここで舞台になっているのは、韓国の高速鉄道、KTX であって、日本の新幹線ではない。ともあれ、疾走する高速鉄道の中でゾンビたちが大量発生。いわば縦長の密室である。さあ主人公はいかにして家族や仲間を守ることができるのか!! という重い課題を背負った映画である。舞台となる KTX には私も随分以前に一度乗ったことがあって、ソウルから慶州 (キョンジュ) に向かうのに、東大邱 (トンテグ) まで利用したのであった。この KTX の終点は釜山 (プサン)。よってこの映画の英題は、"Train to Busan" なのである。この映画には KTX とその運営会社である Korail のロゴが随所に出て来るので、この鉄道会社の協力のもとで撮影されたものであろう。
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ストーリーは、単純と言えば極めて単純。ソウルで証券会社のファンドマネージャーをしているソグは、仕事熱心なあまり家庭を顧みず、妻とは別居状態。だが、ひとり娘スアンの誕生日に、スアンをプサンに住む妻のもとに連れて行くため、KTX に乗り込む。だがその列車には、謎の病原菌に感染した若い女性が飛び乗り、彼女が乗務員に襲い掛かることで、狭い列車の中での集団感染が始まる。時速 300kmで疾走する KTX の中、どこにも逃げ場はない。果たしてソグは娘スアンを守れるのか? というもの。これがすべての始まり。
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繰り返しだが、これは本当によくできた映画なのである。予告編では列車の中をゾンビたちが折り重なって迫ってくるシーンが見られ、それは本当に「ヤバい」映像であったが、なんのことはない、そのシーンは列車内の感染開始シーンからほどなくして出て来る。もし自分がその場に居合わせたなら、いかにして逃れようかと思うと、本当に絶望的な思いに駆られるのである。
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列車はただ走るだけだから、何もしなければ各車両順番にゾンビたちに占拠されて一巻の終わりなのであるが、そこはよく考えられていて、ゾンビたちにはある限界と習性がある。生存者たちはそこに目をつけ、あらゆる知恵と勇気を振り絞って、何両か離れたところにいる家族や友人のもとへ、決死の移動をするのだ。この設定は本当によく考えられていて、今思い出しても面白い。見ているうちに絶望から少しずつ希望が湧いて来るのである。そして、運転手のところにまでゾンビたちは辿り着かないので、列車は途中で停まることとなる。なんだ、そこで舞台は列車から街に移るのかと思いきや、その駅 (テジョン) ではこんなことに。そして列車は再び走り出すことを余儀なくされるのだ。
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私はこの手のゾンビ物のパニック性が大好きで、夢でも時々時々何かに追われることがあるのだが、いつも夢の中で蛮勇を振り絞って敵と戦い、逃げるしかないと思うと全力で逃げて (笑)、そして目が覚めて、夢で本当によかったと安心するとともに、朦朧とした意識のまま、いつの日か自分がそんな目に遭ったときにどのようにして生き残るかに、漠然と思いを致すのである。この映画はさしずめ、ゾンビに襲われる、または類似の事態に出くわした際に、いかに生き残るかについてのヒントに満ちていると言えるだろう。もちろん、そんな事態に出会うことがなければそれに越したことはないのだが・・・。ともあれ、多忙な毎日を送るとともに、富裕層に属して様々なコネを持っている主人公ソグは、自分と娘だけは生き残ろうと知恵と体力の限りを尽くすのだが、結局何人かの仲間とともにゾンビたちと対決することを決意。抜け駆けしてでも自分と愛する娘だけは守るという思いは、徐々に、たまたま同じ列車に乗り合わせた仲間たちとともに戦おうという強い連帯感に変わって行く。そのような点は、まさに人間ドラマであり、ゾンビ物という極端な設定になっているので見落としがちかもしれないが、危機に瀕した人間にとって一体何が重要なのか、という重い問いかけになっているのだ。
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次から次へと襲い来る危機と、それへの主人公たちの対処は本当によく考えられていて、なるほどその手があったか、と唸らされる。もちろん、仲間たちは徐々に減って行ってしまうのだが、その描き方も秀逸。また、生き残った人たちの中には、最後まで自分だけ逃げられればよいと思う人もおり、せっかくゾンビたちの間を抜けて彼らのところに辿り着いても、感染を恐れる人たちから隔離を命じられたりする。そのあたりには人間の本性が呵責なく描かれており、本当に心に刺さってくるのである。そしてそして、このような絶体絶命の危機に。
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これ以上書くとネタバレになるのでやめておくが、まあとにかく、大変に創意工夫に富んだ映画であるとともに、人間や社会についていろいろなことを考えさせられる映画でもあるのである。それゆえ、ラストで大号泣は無理もないこと。私が見たときも、劇場で何人もの人たちが鼻をすすっていた。人間とゾンビを隔てるものは何か。最後に生き残る人たちはそれぞれ、期せずしてそのことを体現するのであり、それに気づくと、生きていることの尊さに気づくことになる。これほど感動的なゾンビ映画が、未だかつてあっただろうか。こんなすごい映画を作ったのは、1978年生まれのヨン・サンホという監督。
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彼の経歴を見ると、もともとアニメの監督で、これまでにアニメ長編を 3本監督しており、この映画が実写長編デビューなのである。これからが本当に楽しみな監督だ。実は彼の 3本の長編アニメ作品のうちの一本、「ソウル・ステーション / パンデミック」は、この「新感染 ファイナル・エクスプレス」の前日譚にあたるらしい。日本でも 9月30日に公開になるので、これも必見だろう。
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まあそれにしても、この映画に学ぶゾンビ虐待法はよくできている。よくできているのだが、もしこれが日本の新幹線で起こったらどうしよう。日本では至るところが自動ドアであり、韓国の KTX と違って、新幹線も当然自動ドアなのである。ということは、ゾンビたちが車両の前まで迫ったところで、ドアがそれこそ自動的に奴らを中に入れてしまう。もし車両に入って来るゾンビを防ぐためにドアを締め切りたいと思ったらどうすればよいのだろう。きっと新幹線のドアも、どこかをいじれば手動式になるのではないかと思うが・・・。今度新幹線に乗ったらまじまじと調べてみよう。不審者と思われて職務質問を受けたら、「車内でゾンビ感染が発生した際、人間たちがともに戦えるように準備しているんです」と答えよう・・・。いやいや、良識ある社会人なら、それは空想にとどめて、そんな日が来ないことをひたすら祈るしかない (笑)。

by yokohama7474 | 2017-09-24 00:08 | 映画 | Comments(2)

三度目の殺人 (是枝裕和監督)

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このブログで映画の記事を書いていることで、自分の好みを全世界にさらけ出していることになっているとは、以前から気づいている。一部芸術映画もあるものの、ホラー、アクション、SF、サスペンスものがほとんどなのである。そんなことだから、映画監督是枝裕和が名声を獲得して行く過程を知りながらも、彼の採り上げる題材は私にとってそれほど興味をそそるものでないケースが多く、ちょっと面白そうかなと思っても、劇場に足を運んで彼の作品を見るという経験は、これまでになかったのである。だがこの映画は、是非見てみたいと思った。30年前に殺人の前科のある男が、またしても殺人犯として捕えられる。なんとかして減刑を勝ち取ろうとする弁護士をあざ笑うかのように、供述をコロコロと変える男。真相究明の過程で微妙に絡んでくる、陰のある被害者の娘。上のポスターにある通り、役所広司、福山雅治、広瀬すずの 3人が中心人物たちを演じる。ポスターのコピーにある「犯人は捕まった。真実は逃げつづけた」とは、一体どういう意味なのか。この写真の左端が是枝監督。
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様々な意味で、非常に丁寧に作られた映画であると思う。音響、映像、語られる言葉、「逃げつづける」ストーリー。だがそのストーリーの逃げ方には、役者の力が大きく貢献している。冒頭の殺人のイメージ以降は、多くは獄中の犯人を弁護士たちが訪問して面会するシーン、弁護士が様々な関係者を訪問するシーンや、仲間で議論するシーン、そして法廷のシーン。それらが映画の大部分を占めており、一部幻想シーンでは広い屋外が出て来るものの、基本的には室内劇の組み合わせでできているような映画である。その流れの中で、繰り返し出て来る犯人との面会シーンの息詰まる迫力には、まさに瞠目する。役所広司の演技はここで鬼気迫るものを帯びており、対する福山雅治も、役所に触発されるような緊張感を漲らせてくる。この一連のシーンを見るだけでも価値のある映画と言ってもよいだろう。
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役所の演技を鬼気迫ると表現したが、実はここで彼の演じる謎の「犯人」、三隅は、とても凶悪犯とは思えないような落ち着いた人間であり、その目は優しく、語り口は穏やかで、弁護士に接する態度にも気遣いが見られる。その一方で、一旦意に添わぬ話題に入ると激昂することもあり、弁護士たちの行ったことを激しく非難する。なので、この演技が展開される場所の狭さにも関わらず、実は微妙な感情の動きや、突然の興奮まで、範囲が広く多様であり、セリフのひとつひとつ、仕草の細部に至るまで、一瞬たりとも目が離せない。そして観客は、固唾を飲んでその演技を見守りながら、この男の語ることの一体何が嘘で何が真実であるのか、当惑しながら映画に引き込まれて行くことになる。ここで私が感心したのは、セリフである。日本語とはなかなかに厄介な言語であって、常に相手との相関関係によって、トーンや表現が変わるのである。端的な例が、一人称の多さ。相手や環境によって「おれ」「ぼく」「わたし」を使い分ける経験は、日本人男性にとって日常のことであり、また、二人称として一般的であるはずの「あなた」よりも、相手の名を呼んで「○○さん」という方が座りがよい。英語では一人称は "I"、二人称は "you" であるという単純さとの対照は著しい。そこにはさらに、敬語というこれまたややこしいものが介在し、かくして日本人同士の会話には、忖度と遠慮による不明瞭さが、常につきまとうこととなるのである。この室内劇においては、その日本語の曖昧さの裏にある相手への気遣いというものが、セリフのトーンを変えることで、大変巧妙に描かれている。例えば終盤近くで福山が、「頼むよ、本当のことを言ってくれよ」と、敬語をかなぐり捨てて声を張り上げるシーンがあるが、エリートでありプロフェッショナルである弁護士が、クライアントとの対話という職務を越えて、人間として上げた声である。このセリフが流れる瞬間、見る者は登場人物たちの感情を、実感を持って理解することとなる。ほかの例を挙げよう。吉田綱太郎が福山の友人役の弁護士として出ていて、これも大変にいい味を出しているのであるが、どう見ても年は吉田が上なのに (実年齢では 10歳違い)、二人はため口をきいているのだ。設定では彼らは司法修習生の同期ということで、実際にそのようなため口が普通なのか否かはさておいて、日本における集団の中の「同期」という特別な関係を思わせる。その他、家主のおばちゃんとかスナックの経営者とか、脇役の人たちのセリフも実にリアルであり、随所に日本語によるコミュニケーションへの敏感な感性を感じさせる。実はこの映画、是枝は監督だけでなく、原案・脚本・編集まで手掛けている。なるほどこの感性が、彼の映画の持ち味なのであろう。
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さらにこの映画の美点は、その空気感の表現とでも言おうか。室内劇がメインで展開する作品であり、登場人物たちの顔のアップが多いだけに、一旦彼ら登場人物たちがどこか外部を訪問するとなると、その場所の空気感が際立ってくる。殺人事件という陰惨な出来事の真相解明の過程で地道な努力を続ける弁護士たちであるが、その間も世界では淡々と時間が流れている。それぞれの場所に吹いている風、どこからともなく聞こえてくる音、時間とともに変化する光。もしかしたら、漂っているかもしれないドブの悪臭や、夕げの支度の懐かしいにおい。そんなものを感じる瞬間が多く現れ、様々な人間がこの地上に生活しているのだという、そののっぴきならない事実を感じさせるのである。やはりこれも、作り手の感性が紡ぎ出す世界の様相なのであろう。ラストシーンには、そのような空気感が凝縮されている。
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このようなよくできた劇中の世界において、素晴らしい俳優たちの演技が輝いている。広瀬すずは CM でもおなじみの顔であり、もはや日本の若手女優を代表する存在だが、この映画を見て、私は彼女を天才であると思った。足に障害を持つ被害者の娘であり、秘密を抱えて暮らしている高校生。なかなかに複雑な感情表現を必要とされる役柄であるが、広瀬の演技には、考え考え口にする言葉の重みがあり、なぜそのようなセリフが必要であるのかを完全に理解していると思われる。ただ若いだけとか、ただ演技がうまいだけではとても達成できない水準に達している。何もこのような緊張感のある映画だけではなく、幅広く活躍して行くであろうが、このように丁寧に作られた映画での経験が、必ずや今後も彼女の演技に結実するだろう。
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それから、福山の父親のもと裁判官役で出ている橋爪功も見事なら、「シン・ゴジラ」でのクールな役人役で思わぬ人気 (?) を得た市川実日子が、検察官として同様のテイストで演技しているのも面白い。それから、斉藤由貴が被害者の妻役を演じているが、かなり癖のある役であり、たまたまなのかなんなのか、最近世間を騒がせた不倫騒動を思わせる内容もあって、若干鼻白む感を否めない。あ、もちろん、個人の感想です。音楽担当は、珍しいことにルドヴィコ・エイナウディというイタリア人作曲家で、繊細な映像を邪魔しない静謐な音楽はなかなかの出来であったと思う。是枝監督のたっての希望での参加ということらしい。これがその 2人のツーショット。
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このように大変よくできた映画であり、多くの人に感銘を与えるものであると思うが、2つだけ留保点を書いておこう。ひとつ、まあこれはウケ狙いのジョークであるが、弁護士を演じているはずの福山雅治が、法廷のシーンで「証人」の発音を「商人」と同じ発音としていたこと。しかも一度ならず二度ほども。これはやはり、ちょっとおかしいのではないか。あるいは法曹界には、そのような発音もあるのであろうか。それからもうひとつ。これはひとつめとは比較にならない、映画の根本にかかわることであるが、本件の結末である。要するに、犯人がはっきりと明示されることなく終わるのだ。もちろん、示されたヒントだけで犯人は明らかだろうと感じる人もいるかもしれないし、そもそも題名がなぜに「三度目」の殺人とされているかに、大きなヒントがあるとも言えるだろう。つまり、三度目はもちろん死刑を指しているのであろうが、ということは二度目もあるということだ。だが、私にとってはそんなことはどうでもよい。この感性豊かな作品において、その豊かな感性があればストーリー上、犯人を明確に示さずともよいという発想がもしあるなら、それにはちょっと異議があるということなのだ。映画にせよ小説にせよ、結末は見る者の想像力に任せるという方法もあることは先刻承知ではあるが、私としてはやはり、鑑賞者がその作品との出会いをきっちりと胸にしまうためには、作り手は勇気を持って犯人を明確にすべき (あるいは、完全に明確でなくとも、もう少し分かりやすくすべき) ではないかと思うのである。優れた作品を作る手腕を持つ芸術家なら、その点を避けて通ることは、いわば「言わぬが花」という日本的曖昧さの中に埋もれてしまうことではないだろうか。この作品は今年のヴェネツィア国際映画祭のコンペティションに出品されたらしく、その評価は寡聞にして知らないのだが、国際的に見れば、この終わり方はちょっと議論の余地のあるところだと思われてならない。どんな作品も完璧ではないが、今後の日本映画の発展に向けて、より海外にも通じる内容の映画を目指す方がよいのではないかと思ったことであった。

by yokohama7474 | 2017-09-23 12:56 | 映画 | Comments(2)

ダンケルク (クリストファー・ノーラン監督 / 原題 : Dunkirk)

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映画を見る際にこだわるポイントは、もちろん人によって様々であろうが、以前からこのブログで述べている通り、私の場合は、見るべき映画の選択において最も重要な要素は、監督なのである。その意味でこの映画は、もちろん必見であることは論を俟たない。なぜなら監督は、あのクリストファー・ノーランであるのだから。私にとって、いや、映画が好きなあらゆる人にとって、彼は間違いなく現代最高の映画監督のひとりである。2000年の出世作「メメント」に驚嘆して以来、私は彼の監督作をすべて見てきたが、およそ失望させられたことがない。これは実に驚異的なことなのであるが、さらに驚くのは、彼が未だ 47歳であること。これからの 30年、40年は、私自身があと何年生きるかは別として (笑)、ノーランの映画が一体どこまで進化するのか、本当に見ものであると思う。
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既に大々的に予告編で上映されていた通り、この作品は、ノーラン監督初の実話もの。1940年、第二次世界大戦の未だ初期、ナチスドイツが破竹の快進撃を続けているときに、フランス北部、ドーヴァー海峡に面した港街ダンケルクに追い詰められて逃げ場を失った 40万人の連合国 (もちろん、英国とフランスがメイン) 兵士たちが体験した絶体絶命のピンチを描いている。これも散々予告編で見たことであるが、この監督は CG は基本的に使わない主義で、本当に病院の建物一棟を爆破したり、空中に吊るした航空機を途中で輪切りにしたり、無重力空間を作り出すために巨大な部屋のセットを作ってそれを回転させたり・・・。そんな監督が戦時中の実話に挑むと、一体どういうことになるのであろうか。桟橋にひしめきあって救援を待つこのような夥しい数の兵士たちは、ダンケルクに追い詰められた全体の人数の中の、ほんの一握りなのである。
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私が見たのは、今時珍しい 35mm フィルムによるヴァージョン。もちろんデジタル映像に慣れた目には、ピントが甘く見える。最初はそれが気になったのであるが、徐々にそれに慣れてくると、あたかも戦場で撮影したようなリアルさがひしひしと感じられ、それによって、見ているのが苦しくなってきた。それにはほかにも理由があって、この映画には気の利いたストーリーテリングはなく、セリフや音楽は最小限。また、時計が時を刻むようなチクタクいう音が最初から最後まで聞こえるのである。ここに登場する兵士たちは、自分たちが大きな危機にさらされていることは皮膚感覚で分かっても、では、いついかなるかたちで絶対的な危機が訪れるのか、あるいは、いかなる手段で自分たちが救出されうるのか、そういったことに想像力を巡らせることができない。それは全くの極限状態であり、人間の生存本能が剥き出しになる状況であろう。今、平和な時代の平和な国に住む我々には、そのような極限状態を理解できると言うなら、それはおこがましいというものだ。だからこそ、この映画で疑似体験することには意味があろうと思うのである。世に言うダンケルク救出作戦の、実際の写真がこれだ。もし自分がこの中にいたら、果たしてどのように行動していただろうかと自問する。
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この映画の顕著な特色のひとつは、敵であるドイツ軍の人間を一切映像で見せていないことだ。メッサーシュミットの戦闘機が飛んだりしている映像はあっても、そこで操縦しているパイロットは映らないし、それ以外のいかなる箇所でも同じこと。つまりここでは、迫り来る敵軍ドイツという想定はあっても、それが人間であるのか、はたまた抽象的な「敵」であるのかすら描かれていない。つまり監督の意図は、敵には敵の事情なり、命を賭けた戦いがあるという事実を描くのではなく、連合国軍兵士たちにとっての、顔の見えない敵の脅威を描くということであったと思う。戦争映画において、敵をいかに描くかは重要な問題であるが、この映画のように、敵を一切描かないことで、兵士の抱いた恐怖をリアルに表現する手法はなかなかに思い切っている。ここで観客は、当日その場にいた兵士たちと同じように、顔も見えず、いつ現れるか分からない敵に怯えつつ、早く戦場を抜け出したい!! と切望するのである。見ていて苦しくなるようなこのリアリティ、さすがクリストファー・ノーランである。

そしてこの映画のキャストは、そのほぼ全員が男性。当然それも、歴史的事実に基づくリアルな設定であろう。ここに登場する様々な兵士たちや、彼らを迎えに行く民間の船に乗った人たちが、それぞれに直面する危機に立ち向かう。時には複数の人物の複数の危機のシーンが同時並行で描かれる。そこにはもちろんノーランの演出の妙はあるのであるが、その地獄絵図の凄まじさに、観客はただスクリーンに釘付けとなるのである。それからもうひとつさすがだと思ったのは、若い兵士たちに新人俳優を多く起用し、観客にとっても、見知らぬ兵士の経験する危機という点でのリアリティが存在することである。しかも、どの俳優も本当に精悍だし、素晴らしい存在感がある。きっと彼らの中から明日のスターが生まれてくるのではないか。これはトミーを演じるフィン・ホワイトヘッド。
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それから、何人かの実績のある俳優たちが、互いに共演することなく、それぞれが素晴らしい存在感を発揮している。まずなんと言っても、使命感に燃え、クールに敵を撃破する空軍パイロット、ファリアを演じるトム・ハーディが最高だ。そして、海から救出される謎の英国兵を演じるキリアン・マーフィー。加えて、もともとのシェイクスピア劇から活動の幅を広げ、今や英国を代表する偉大なる監督 / 俳優であるケネス・ブラナーの演じる海軍中佐。いずれも素晴らしい。繰り返しだが、これらの俳優同士がこの映画の中で出会うことは、決してないのである。
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またここでは、極限状態に置かれた人間たちの弱い部分も仮借なく描かれている。そのような弱い人間を責めるのは簡単だが、自分の命が危ない状況で、一体どこまで命を捨てる覚悟ができるのであろうか。戦争の真実が、結局は人間の真実を赤裸々に暴くのだということは、人間の持って生まれた宿命なのであろうか。決して万人が楽しめる娯楽作にはなっていないこの映画が訴える虚無感には、現代に生きる我々がしっかりと受け止めなくてはならない要素が多々ある。眼と心を大きく開いて、過去の戦争の凄惨な歴史と、立派な行いをした人々の姿を、自らのうちに取り込みたいと思う。そんなことをストレートに思わせる監督の手腕に脱帽しながら。

by yokohama7474 | 2017-09-19 23:56 | 映画 | Comments(0)

エル ELLE (ポール・ヴァーホーヴェン監督 / 原題 : ELLE)

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映画の世界で「エル」と言えば、誰もが思い浮かべるのはもちろん、ルイス・ブニュエルがメキシコで制作した映画であろう。って、本当かどうか知らないが (笑)、この映画はそれとは違う。なぜなら、ブニュエルの映画は "El" だが、この映画は "Elle" であり、前者における主人公は男性であるのに対し、ここでの主人公は女性であるからだ。もちろん "Elle" とはフランス語で「彼女」という意味であり、有名なファッション雑誌の名前もここからきているのであろう。そう、この映画の主役の「彼女」は、実に危険な人物であるがゆえに、題名も多くを語ることなく、ただ「彼女」となっていて、なかなかに含蓄深いのである。

この映画の監督は、オランダのポール・ヴァーホーヴェン。ヴァーホーヴェンと言えば、「ロボコップ」「トータルリコール」「氷の微笑」といったハリウッド映画で知られる人だ。それから、私にとっては忘れがたい衝撃の超傑作 SF 映画、「スターシップトゥルーパーズ」も彼の作品である。だがここで彼は、フランスの役者たちを起用した全編フランス語の、文字通りのフランス映画を監督した。最近の活動をあまり耳にしなかっただけに、若干意表をつくかたちでの再登場は、実に興味深い。このヴァーホーヴェン、今年 79歳という高齢であるのだが、このように人間の生きざまを仮借なく描くだけのパワーを未だ保っているとは素晴らしい。
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この映画にまつわる言説を見てみよう。上のポスターには、「犯人よりも危険なのは、"彼女" だった」とあるし、この映画のプログラムには、「異色のサスペンスにして、世界初の気品あふれる変態ムービーが誕生した!」という、なんだかよく分からない表現が載っている (笑)。見終わった今、冷静に考えて、それらの表現を理解することはできるものの、この映画には決してポルノ的な部分はなく、極めて真摯に、のっぴきならない人生の残酷さを描いているように思われる。確かに煽情的な場面はそれなりにあり、彼の旧作「氷の微笑」に通じるところもあると思うが、ストーリーの複雑性は際立っており、そして登場人物たちの、これまた複雑な人間関係には、まあそれはびっくり仰天なのであった (笑)。フランス人って、みんな本当にこうなんだろうかと思ってしまうが、自分の知っているフランス人を何人か思い浮かべてみると、ちょっと納得できるような気もする。とにかくこの映画に出て来る人たちの間には、ああなんということ、あっちもこっちも仮借ない (?) 肉体関係が張り巡らされているのである・・・。これは、物語の発端となる主人公の女性がレイプされる場面を演出している監督と主演女優。
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ストーリーは一見分かりやすいのだが、劇中で描かれていない背景について想像力を巡らせると、なんとも鳥肌立つ内容なのである。すなわち、ビデオゲーム会社の社長を務める女性 (設定は 50代?) が、ある日自宅に侵入して来た黒装束の男にレイプされてしまう。当然警察に駆け込むかと思いきや、単独で犯人探しをする主人公。実は彼女にはトラウマがあって、子供の頃に自らの父親が近所の子供たちを何人も殺したという忌まわしい経験を持つのである。彼女は非常に我の強い人であり、好き嫌いをはっきり主張するタイプ。そしてまた、自らの欲望に正直で、時に極めて大胆な行動に出ることもある。そうこうするうち、レイプ犯が特定されるのだが、その後彼女は・・・という物語。まず圧巻なのは、主役を演じる名女優、イザベル・ユペール。
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劇中では息子に子供が生まれ、お婆さんになる年齢。だがそのルックスは、せいぜい 30代かと見まがうほどの美しさ。そして実年齢を知ってびっくり!! 1953年生まれなので、今年実に 64歳!!!! ここで彼女が見せる演技は、いろんな意味で決然たるもので、キャリアウーマンでありながら情熱家であり、一方で大人の分別もわきまえており、ペットの猫は大事にするが家族には概して冷淡で、ええっと、あえて言ってしまえば、変態なのである (笑)。こんな演技ができる女優は日本には絶対いないし、ハリウッドでもちょっと想像できない。彼女を巡る男性女性、いろいろいるのであるが、もうひとりの圧巻は、このイザベル・ユペールの母親役を演じているジュディット・マーグルという女優。ルイ・マルの「恋人たち」でジャンヌ・モローの友人役を演じたという。
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ええっと、ちょっと待てよ。フランスの人間国宝的女優であったジャンヌ・モローは、つい先日、7月31日にその生を閉じたばかり。享年 89歳であった。その友達を演じたって、この女優は一体何歳なのか。上の写真から、何歳だと思われるだろうか。60歳? 70歳? いえいえ、答えは 1926年生まれ。つまりは今年実に 91歳ということになる!!! それでいて劇中での彼女は、若いツバメを捕まえて結婚するという快挙に出るのである。なんだかもう、クラクラして来てしまうのだ (笑)。

この映画の設定はこのようにちょっと破天荒なのであるが、ひとつ言えるのは、人間の本性を深い部分で描いていることで、設定のわりには過剰な性的描写が少ない点、好感が持てるのである (もちろん、家族での鑑賞に適するような穏便な描写にはなっていないが。笑)。愛憎渦巻く人間関係は、極端なかたちを取りながらも結構なリアリティがある。これぞフランス映画。ハリウッド時代のヴァーホーヴェンとは一味違っている。だが、このめくるめく人間関係をどのように整理しよう。劇中で描かれていない過去の惨劇の真相は、一体いかなるものであるのだろうか。そこには明確な回答は示されず、見る者の想像力に任されることとなる。ここに登場する男優女優は私の全く知らない人ばかりであるのだが、それぞれが役柄に応じたリアリズムを体現していて、いやそれは、実に素晴らしいのである。人間同士には様々なご縁による様々な関係が成立しうる。この映画の人物たちは、そのようなご縁にうまく乗りながら、それぞれにのっぴきならない生を送っているのである。黒猫も、そのような主人公の生のひとつの要素なのだ。
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主人公の性格描写において重要な役割を担っているのが音楽である。彼女がレイプされるシーンと、自動車で災難に遭うシーンで流れているのは、いずれもモーツァルト。前者はディヴェルティメント K.136 の第 2楽章。後者は「魔笛」の後半、タミーノが試練を受ける場面の音楽だ (エンドタイトルで、後者はクラウディオ・アバド指揮のマーラー室内管弦楽団の演奏であると確認)。これらは劇中の BGM ではなく、主人公がその場面で実際に聴いている曲である。つまりは彼女はモーツァルトの愛好者という設定なのであろう。それは、主人公には変態性があるとはいえ、自分に正直なピュアな人であることを表しているのだろう。ほかには、会食の場面でラフマニノフのピアノ協奏曲第 2番の第 2楽章が流れていた。あ、それから、母親の病室で流れている映像は、サイモン・ラトルとベルリン・フィルが 2013年のヨーロッパ・コンサートで演奏したベートーヴェンの「田園」で、場所はプラハ城だ。
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このような特殊な映画であるゆえ、人によっては嫌悪感を感じるかもしれない。だがそんな人でも、いかに真摯にこの映画が作られているかを感じることはできると思う。万人にお薦めできる映画でないことは確かだが、人間の深い部分を見たいと思う人にとっては、大きな価値を持つ映画であると思う。老境に至ったヴァーホーヴェン監督が、これからも強い表現力を持った映画を撮ってくれることを期待したいと思う。

by yokohama7474 | 2017-09-16 02:15 | 映画 | Comments(0)

スパイダーマン : ホームカミング (ジョン・ワッツ監督 / 原題 : Spider-Man : Homecoming)

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昨年の 5月28日に記事を書いた「シビル・ウォー / キャプテン・アメリカ」において、マーヴェル社のヒーロー・キャラクターの集団であるアベンジャーズが内輪もめする中、「新人」として登場してキャプテン・アメリカの盾を奪ってしまうスパイダーマンに触れた。これには背景があって、もともとスパイダーマンもコミックにおいてはマーヴェル社のキャラクターであったようだが、映画の権利はソニー・ピクチャーズが持っていた。それが、この両社の協力によって、スパイダーマンがマーヴェルとキャラクターたちと共演することが可能になったわけである。そんなわけで、この作品は飽くまでもスパイダーマンが主役であるが、「シビル・ウォー / キャプテン・アメリカ」のストーリーと一部関連があるし、例のキャプテン・アメリカの盾を奪う回想シーンも出てくる。ちなみにそのシーン、アイアンマンを演じるロバート・ダウニー Jr. が、このように両手でおにぎり型🍙を作って、「アンダールース」と聞こえる言葉を叫ぶとスパイダーマンが出て来るのだが、その場面の字幕は「新人!!」となっている。
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この言葉が分からなかったので調べてみたところ、"Underoos" とは子供用の下着メーカーであるようだ。このようなヒーロー物に特化しているのだろうか。ということはつまり、アイアンマンの表すおにぎり型は、パンツの上下逆さま状態を示しているのか? (笑)
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いずれにせよここから分かることは、既にアベンジャーズの中心的存在として活躍している実績のあるアイアンマンから見れば、スパイダーマンなどまだまだガキなのだということである。そしてこの映画のテーマはそこにある。

スパイダーマン単体の映画としてはこれが 6本目になるが、私はこれまでの 5本はすべて劇場で見てきた。最初の 3本はサム・ライミ監督、トビー・マグワイヤ主演。次の 2本は「アメージング・スパイダーマン」のタイトルを持ち、アンドリュー・ガーフィールドとエマ・ストーンという、その後大出世するコンビを主役に据えていた。ひとつひとつの作品には長短あるかもしれないが、クイーンズとマンハッタンを舞台として強大な敵と戦うスパイダーマンの活躍、特にビルの合間での胸のすく跳躍と、その反動としての、正体を隠して戦う宿命や、愛する人たちを守り切れない絶望感に、これぞスパイダーマンというヒーローの特徴が明確であったと思う。さてその意味では、今回は新たなスパイダーマン像が描かれるのではないかという期待感がある。そして見終わった感想は、まさにその期待感の充足。これまでのファンにも受け入れられるように工夫しているとも思われ、なるほど作り手側の苦労が偲ばれるようにも思われる。真っ二つに裂けたフェリーを懸命に支えるスパイダーマン。
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極度のネタバレにならないように留意しながら、本作の特徴を思いつくまま列挙しよう。
・過去 5本における憧れの人、メリー・ジェーン・ワトソン (MJ) やグウェン・ステイシーは、今回出ていない。その代わりにスパイダーマン = ピーター・パーカーが憧れるのは、ちょっと肌の色の黒い美人の同級生である。その他、アジア系やヒスパニックが周囲の友人たちであるという設定に、米国のリアリティがある。
・これまでは、孤独なヒーローとしてその正体をひた隠しにして来たスパイダーマンが、ここでは最初から親友に正体がばれてしまっている。だがそのことにより、たったひとりで宙を飛んで敵に立ち向かうというワンパターンを越えたスケールの大きい仕掛けが可能になっている。
・ここに登場する敵役は、世界制覇をもくろむ悪党ではなく、ただビジネスとその結果としての金銭にしか興味のない男である。だが彼にはアイアンマンを憎む理由があり、その点で、アイマンマンの弟子筋という設定のスパイダーマンとの対決という必然性が存在する。
・その一方で、この敵役、鳥の怪物のような姿をしたヴァルチャーは、その人物像の設定に、最初のシリーズにおけるグリーン・ゴブリンを思わせる要素もある。むむ、ということはこの次の作品では、ヴァルチャーの子供がスパイダーマンに牙を剥くのであろうか?! もしそうなら、それこそ新機軸である!!
・ピーターのおばさんであるメイは、以前のお婆さんという設定ではなく、ここでは「シビル・ウォー / キャプテン・アメリカ」と同じく、アクティヴでセクシーな人として描かれている (女優も同じで、マリサ・トメイ)。
・スパイダーマンのピッタリしたスーツは、そんなものかと思って気にもかけていなかったが、ここではアイアンマン = トニー・スタークが設計したことになっていて、どのようにピッタリするのかの説明があり、また、スーツに仕込まれた AI が斬新だ。その一方、蜘蛛の糸を出すことと身軽であることがその身体能力のほとんどであるスパイダーマンは、スーツには過度に依拠していることはなく、いざとなれば生身にダボダボの服装でも戦えることが表されている。
・ニューヨークのような高層ビルが立ち並ぶ中ではなく、森の切れ目で広大な空き地になっている場所では、さすがのスパイダーマンもどこにも糸を飛ばせず、もはやなす術ないとばかりに地上を走る点が笑える。だが、走っている車になんとか飛び乗りさえすれば、不屈の追跡劇の再開は可能なのである。
・そして、最近そのような映画が多いのだが、これは絶対に飛行機の中で見ないこと。肝心のシーンがカットされて、ストーリーを追えなくなりますよ。
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そう、「シビル・ウォー」に続いてここでも主役を演じるのは、英国出身の若手、トム・ホランド。以前も書いたが、私がビジネスでお世話になったことのある英国人弁護士、ホランドさんの甥っ子なのである!! 彼にはこの役柄に適性があると思うし、「シビル・ウォー」のときには精悍さを見せるシーンがほとんどなかったのに対して今回は様々な顔を披露し、なかなかの成果を挙げている。彼は、人間味のあるキャラクターを演じて行ける役者であろうと思うので、この役に安住することなく挑戦して行って欲しいものだ。ホランドおじさんも期待していることだろうし (笑)。それにしてもこのワシントン・モニュメントのシーン、思わぬ展開で大変面白かった!!
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それから忘れてはならないのは、敵役を実に楽しそうに演じている、マイケル・キートンだ。
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マクドナルドをフランチャイズ化した伝説の実業家を生々しく演じた「ファウンダーズ」での見事な演技も記憶に新しいが、かつてのバットマン俳優は、「バードマン」の怪演を経て、ここでは本当に、妄想ではなく自身が化け物のような、鳥型の巨大な金属製スーツを着た悪者を演じているのである。こういう悪役が出てこないと映画は締まらないし、マイケル・キートンはこれからますます期待の俳優になってきた。それから、最後の方のシーンでは、「アイアンマン」絡みの女優が出て来るが、プログラムにもそのことは記載されていないので、あえて名前を出すのは控えよう。だが、そのほんの僅かな登場シーンにも関わらず、エンドタイトルでは確か 4人目に名前が出て来るという、ハリウッドの大女優である。最近あまり仕事をしていないように思うので、そろそろまた活発に働いてほしいと思う。

このようなビッグネームのシリーズ物で、巨額の予算を投じる作品であるから、監督は、恐らくは冥利に尽きる一方で、大変な緊張感を持って制作に臨んだことであろう。そんなプレッシャーの中、上記のような、なかなか気の利いた作品に仕立て上げたのは、1981年生まれのジョン・ワッツ。これが長編 3作目ということだから、今後も期待できる才能であるだろう。
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エンドタイトルの最後に、「スパイダーマンは帰ってくる」というメッセージが出るので、また新たなシリーズとして継続するのであろう。長く愛されてきたヒーローのキャラクターを使って、新機軸や世相を取り入れながら多くの人たちに支持されるような作品に仕上げることはなかなか簡単ではないだろうが、是非今後のシリーズに期待したい。マーヴェルのシリーズではまたほかにも、マイティ・ソーやブラックパンサーをそれぞれ主役にした映画の予告編を見ることができる。あまりキャラクターが多すぎると、複雑になりすぎるきらいがあるものの、現代人の生活における空想の必要性はますます増している。それゆえ、是非是非、今後もいろいろなヒーロー・キャラクターを楽しんでみたいと思っているのである。

by yokohama7474 | 2017-09-13 00:53 | 映画 | Comments(0)

海底 47m (ヨハネス・ロバーツ監督 / 原題 : 47 Meters Down)

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この映画、題名そのままである。海の中、深さ 47m。そこで一体何があったのか。予告編を見る限り、この映画の設定は以下のような単純なもの。
・姉妹とおぼしき女性 2人組が、異国のマリンリゾートで、海の中にケージを沈め、そのケージの中から迫力満点のサメを見るというアトラクションに参加することとする。
・ところがそのケージを船につないでいるワイヤーの強度が充分でなく、あわれワイヤーはぶっつり切れ、ケージの姉妹は海底まで落ちて行く。
・海底は水深 47m。急いで自力で水面まで上がろうとすると、脳の中に気泡ができる潜水病にかかる恐れがある上、どこで巨大サメに狙われるか分からない。かと言って海底に留まっていると、遠からぬうちに酸素ボンベが切れてしまう。

うーん、さぁ、どうする!! これだけシンプルな設定において、一体どんなストーリーが可能というのか。ええっと、(1) 海底で座して死を待つ。(2) 脱出を試みてサメに食われる。(3) 幸いにしてサメには食われないけど、慌てて浮上して潜水病で一巻の終わり。それ以外の選択肢があるというのか。そして、それらの選択肢を映画化して、何か面白いのか (笑)。このようなシンプルな設定ゆえか、この映画は日本ではかなり冷遇されていて、劇場に行ってもこの作品のプログラムは売っていない。なぜなら、本来この映画は劇場公開なしにネット配信だけという予定であったからだ。それがいかにして劇場公開にこぎつけたのか、私の知るところではないのであるが、ひとつフェアでない点は、通常の劇場公開作品に比して宣伝が限られているということだろう。私の場合はたまたま何かの映画を見に行った際に予告編を見て、そのシンプルな設定に興味を惹かれたがゆえに、是非この映画を見てみたいと思ったものである。うぉー、こわ。これはイメージです。
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そもそも私の世代は、物心ついて初めての大ヒット映画は、あのスピルバーグの「ジョーズ」であった。当時小学生の私は、この死んだ魚のような (?) 無表情な目をした巨大な魚が、その強力なキバと顎の力で、人間を含むあらゆるものを食いつくすという野蛮さに魅せられ、学校で詩を書けという課題が出たときに、そのような非情なサメを題材にしたのであった。それゆえ、サメに襲われる人間というこの映画の設定は、どこか私の琴線に触れる部分があったのである。私と同じ世代でなくとも、サメの凶暴性に興味を惹かれる人は多いのではないだろうか。そして私は思うのである。この映画を劇場公開に持って行った人は、なかなかモノが分かった人に違いない。ところが実態は残念ながら、この間の週末、お台場で私がこの作品を見たとき、観客がたったの 5人 (!) であったのである。だが実際のところ、この映画は結構面白く、見た人は誰でもそれなりに楽しめるものだと思うのだ。いや、それだけではない。まず冒頭のシーンが洒落ている。水中からとらえた、浮き袋で水面に浮かんでいる女性。そして何物かがその女性をめがけて水中から突進する。あっと思う間もなく浮き袋から水中に投げ出される女性。そして水はみるみる赤く染まる・・・。あぁっ、いきなり惨劇か!! と思うとそれは、メキシコでバカンスを楽しむ姉妹で、メランコリックな性格の姉を冷やかす活動的な性格の妹のいたずらであったのである。水を赤く染めたのは、姉がグラスで飲んでいたワインであったのだ。私はこの冒頭のシーンのセンスに感心した。そうそう、サメの襲撃を偽装したこのシーンに、姉妹の運命が暗示されているのである。これが主役の姉妹。右が姉、左が妹である。
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彼女らは、旅先で知り合った男たちが薦めるアトラクション、つまりは沖合までボートで行き、海底 5mのところに沈めるケージに入り、そこに鮮血をしたたらせた魚の切り身を投じることでやってくる巨大ザメを観察するというツアーに参加する。慎重な性格の姉は躊躇するが、冒険好きの妹の後押しによって、海に入る決心をする。このあたりの姉妹のスタンスの違いと、メキシコの男たちとの逢瀬の楽しみ方は、シンプルでありながら、なかなかよく描けていたと思いますよ。そしてここから先を書くとどうしてもネタバレになってしまうので、さて一体何を書こうか迷うところではあるのだが、ひとつ言えるのは、このように誰がどう考えても絶望的な状況においても、知恵を絞って、たとえリスクがあっても、取りうる手段を講じることが大事だということだろう。その点は冗談ではなく、この映画から生きる上でのヒントを得ることができると思う。例えば、海底に落ち、無線も通じない状況であれば、サメがやってくるリスクを犯してでも、ケージから出て頑張って浮上して、水面にいるクルーたちに無線で呼びかけることがどうしても必要であろう。それをしなければ、本当に座して死を待つわけで、同じ死ぬなら、サメに食われるリスクを犯してでも、水上からの助けを待つべきである。うーん、もし私がいつかこのような危機的状況に追い込まれたときには、リスクを取って生き残る道を模索することとしよう。いやもちろん、そんな目に遭わないに越したことはないのだが・・・。
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この映画においては、極限状態において人間が取るべきリスクが表現されている。残念ながら現実世界には、巨大な力を持って弾よりも速く空を飛ぶ異星人もいなければ、種々の乗り物を駆使して悪と闘う大富豪もいなければ、念力でモノを遠隔操作できるミュータントもいなければ、通常は車の形をしたロボット生命体もいない。人間が直面する危機は、人間の力によって切り抜けるしかないのである。人間の能力には限界があるゆえに、その限界に挑戦することには大いなる意義があるのである。実際のところこの映画においては、少し希望が出て来たと思ったら、それをあざ笑うようにその希望が潰えてしまう。こういう展開でこう来たか!! という裏切られ感が心地よい。だから、宣伝が不足しているがゆえに公開されている劇場も少ないということは、フェアではないと思うのである。うわー、目が合ったけど、来るな、来るな!!
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極限状態においては、それぞれの人のサバイバル能力が試される。ここで描かれている対照的な性格の姉妹は、さて、この危機にどう対処して、果たして生き残ることができるのであろうか。この映画は海洋映画というよりも、緊急事態における人間の能力を描いているという点で、普遍性を持つものであると思う。だから、これを見たら怖くて海に行けないと恐れる必要はない。もしかしたら明日、普通に地上で生活している人が、このような危機に襲われないという保証はないのだから。危機を前にしても冷静に、勇気を持って行動しようではないか!!

最後に、この映画の結末について言及したい。この結末、見る人によってはなんだこれだけか、と思うかもしれないが、人間の孤独に鋭く迫っている部分もあるのではないか。ネタバレはしないが、クラシックファンにだけ分かる方法で少しヒントを書くと、これは、あの不世出の演出家ジャン=ピエール・ポネルが 1980年代にバイロイトで演出した「トリスタンとイゾルデ」のラストに似ている。分からない人にはチンプンカンプンであろうが、このシーンのあとに来る衝撃のラストである。
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そんなわけで、「ジョーズ」と「トリスタン」の交わるところ、人間の可能性を知ることができる、と大袈裟なことを言わずとも (笑)、この映画、素通りするにはもったいない。もうあまり長く劇場にかかっていないと思うので、興味をお持ちの方は、急いだ方がよいと思います。

by yokohama7474 | 2017-09-08 00:20 | 映画 | Comments(0)

ハイドリヒを撃て! 「ナチの野獣」暗殺作戦 (ショーン・エリス監督 / 原題 : Anthropoid)

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ナチスについての映画は、昨今でも枚挙にいとまがない。このブログでも、フィクションながら現代と切り結ぶ問題作や、実話に基づきながら課題の残る内容の作品などをご紹介して来たが、ここにまた、実話に基づいてナチスへのレジスタンス活動を描いた力作が登場した。これは 1942年 5月、ナチス支配下のチェコスロヴァキアの首都プラハで実際に起こった、ナチス親衛隊大将ラインハルト・ハイドリヒの暗殺事件をテーマにしている。ハイドリヒについて私は詳しく知るものではないが、悪名高きナチの親衛隊 (SS) で、冷酷非道なハインリヒ・ヒムラーに次ぐ No.2 であったそうだから、まさにナチス政権の中枢にいた人物。実際にユダヤ人虐殺計画の首謀者のひとりであったが、ナチの要人として戦時中に暗殺された唯一の人物となった。これがそのハイドリヒ。そう思って見るせいか、冷酷に見える。
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英国政府とチェコ亡命政府の司令を受けた 2人の軍人、ヨゼフ・ガブチークとヤン・クビシュ (2人とも名前の響きから、チェコ人であろう) がパラシュートでチェコ国内に降り立ち、秘密裡にプラハのレジスタンスの人たちと連携して、暗殺計画を練る。暗殺当日、思わぬアクシデントに見舞われて射殺には失敗するが、結果的にハイドリヒは数日後に病院で死亡。結果的にナチに一矢を報いることとなった。だが、このような反逆をナチスが放置しておくわけもなく、血も涙もない取り締まりを容赦なく行い、報奨による密告制度を設定し、ついに暗殺を遂行したレジスタンスたちを追い詰める・・・。このような内容であるから、見ていて楽しい映画ではないことは間違いない。映画のメッセージは、平和な現代であるからこそ、また、平和な日本 (隣国が核実験やミサイル実験を頻繁に行っている状態で平和と言うのも、気がひけるものの・・・) であるからこそ、強く響いてくる。シネコンでは上映しておらず、非常に限られた規模の劇場でしか見ることができないのは、大変に残念だ。尚、原題の「エンスラポイド」とは類人猿のことで、この暗殺作戦のコードネームである。この暗殺対象は人にあらずという意味が込められているのであろうか。これが劇中のハイドリヒ。雰囲気はよく似ている。
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さて、映画の重大なメッセージは理解した。では、純粋に映画として見てみるとどうであろうか。私の評価は、残念ながら映画としての水準には課題が多いというもの。そのひとつの理由は、手持ちカメラを多用し、室内のシーンでもあまり照明を使っていないように見えることだ。短いカット割りでサスペンスを演出するシーンの意図は分かるが、慌ただしことこの上ないし、画像がお世辞にもキレイとは言い難い。あえて言ってしまえば、室内も屋外も同じような黄色がかったトーンの映像で、単調に陥ってしまっていると思う。私の持論は、映画はとにかくまずはキレイな映像を丁寧に撮るべきというもので、もちろん、ゴダールとかウディ・アレンなどになると、決して丁寧には撮っていないかもしれないが、不思議な映像の力が常にある。それは特別な天才的才能によるもので、通常の監督は (いや、天才でないとよい映画を撮れないわけではなかろうから、「通常の監督」で充分である)、やはり絵の作り方には、じっくりと取り組んで欲しいものである。それからこの映画、ストーリーのどこまでが史実であるのか分からないが、こんな緊張の中でレジスタンス同士が恋に落ちてよいのかという疑問を覚えるし、最終的に立てこもる闘士たちは主役の 2人だけでなく、10人前後いるので、ここは 2人に焦点を絞らず、さらにほかの闘士たちのキャラクターも描く方が、奥行きが出たのではないかと思う。あえて言ってしまえば、主役の 2人を中心に据えて迫力ある映画を撮ろうという作り手の情熱が、少し空回りしているように思い、残念であったのである。実は監督のショーン・エリスは、脚本も手掛け、さらには撮影まで担当している (もともとカメラマンのようだ)。そのことが裏目に出てしまったのかもしれない。

これが主役の 2人、ヨゼフ役のキリアン・マーフィ (左) と、ヤン役のジェイミー・ドーナン (右)。前者はアイルランド出身で、「ダークナイト」「インセプション」と、クリストファー・ノーラン映画の常連で、近く公開される「ダンケルク」にも出演している。後者は英国 (北アイルランド) 出身で、もともとはモデルである由。
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この 2人はなかなかに熱演であるとは思うものの、正直、諸手を挙げて大絶賛という感じでもない。というのも、上記のような決して美しくない画面の中での演技に、どこか切実さが乏しいと感じるからだ。セリフの抑揚も小さく、感情がほとばしるシーンは少ないが、それは監督の演出なのであろうか。そしてこの主演をはじめとして、ナチを除く登場人物が喋っているのは英語である。先に「ヒトラーへの 285枚の葉書」の記事の中で、セリフが英語であったことが不満だと書いたが、この映画にはそれはあてはまらない。なぜなら、ここでは、チェコ語という言語がマイナーであるがゆえに、それをそのまま英語に置き換えていると解釈すれば、納得が行くからだ。それゆえ、狡猾で冷酷な敵国人が、ドイツ語という異なる言語を喋る点に緊張感を感じることになる。その点は成功していると思った。だが、そういうことなら、ちゃんと英語を母国語とする、あるいはそれに等しい英語の能力を持つ役者で固めて欲しかった。私が気になったのは、レジスタンスの同士の女性たちの喋る英語。女優のひとりはチェコ人。もうひとりはカナダのモントリオール生まれ、つまりフランス語圏である。ここでの英語がチェコ語の代わりであれば、(ほかの脇役たちはともかく、主要な役の女優たちについては) これはまずかったのではないか。

ところでこの映画のチラシの裏面には以下のような宣伝文句がある。
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ラスト 30分間にどんなシーンが出て来るのかは、例によってネタバレを避けるためにここでは言及しないが、この一連のシーンは見応えがある。上記に書いた私のこの映画への不満のかなりの部分は、この終盤のシーンによってかなり消えてしまった。そのくらいのインパクトがあるのである。恐らくは実話をもとにしたのであろうが、舞台設定が非常に大胆で、え、こんな場所で本当にそんなことが?! と思うこと必至である。国のために命をかけて戦う人々の誇りと絶望が、徐々に胸を締め付けるのである。このシーンを見ていると、劇中で描かれていたレジスタンス同士の微妙な関係や、一体誰を信じればよいのか分からない緊張感といったものが甦ってきて、その意味するところは実に重い。もし自分がこのような境遇に置かれれば、一体どう振舞うだろうかと、自問自答するべき内容である。それゆえ、クライマックスに至るまでの技術的な不満を越えて、ズシリと胸に応える映画になっているのだ。

さてこのハイドリヒ暗殺事件、過去にも映画化されている。そのうちのひとつは、あのフリッツ・ラング監督の「死刑執行人もまた死す」である。私も随分以前、ラング作品の特集上映で劇場で見たが、詳細は全く覚えていない。今調べてみると、暗殺事件そのものを描いたものではなく、後日譚である。ラングと言えば、「メトロポリス」をはじめとして、ドイツで活躍した映画監督。ユダヤ系であったために米国に亡命したのであるが、今回初めて知ったことには、この「死刑執行人もまた死す」の原案は、このラング自身と、それからベルトルト・ブレヒトなのだ。ブレヒトもまたドイツから亡命して来ていたわけだが、およそイメージの異なるこの 2人の芸術家が、こんなところでコラボしていたとは。
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そしてもうひとつの余談は、このハイドリヒ暗殺に対するナチの報復として起こった有名な悲劇について。その舞台は、チェコの片田舎のリディツェという村だ。ハイドリヒ暗殺犯がここに潜んでいると見たナチスは、驚くべきことに、村全体を破壊した。村人 500人ほどのうち、15歳以上の男性約 200人は全員射殺。女性約 180人は強制収容所に入れられ、1/4 がそこで死亡。100人ほどの子供たちは、アーリア人と判別されてドイツに送られた 8人以外は全員強制収容所行きだったという。数々のナチの悪行の 1つの出来事に過ぎないかもしれないが、それにしても、その極悪非道さには言葉もない。音楽や美術が好きな人なら先刻ご承知の通り、チェコ人は非常に愛国心の強い人たちで、この破壊された村は戦後再建されているし、音楽の分野では、チェコ近代を代表する作曲家、ボフスラフ・マルティヌーの「リディツェへの追悼」という悲痛な管弦楽曲が知られている。この曲によって、ナチスの蛮行は永遠に語り継がれる。芸術の力は侮れないのである。

さて、ここで私が気づいたことには、この「死刑執行人もまた死す」も、マルティヌーの「リディツェへの追悼」も、ともに 1943年の作なのである!! つまり、ハイドリヒ暗殺の翌年で、未だ戦争真っ最中のことなのだ。この事実は、深く考えさせられることである。インターネットも国際中継もない時代であっても、勇気ある芸術家たちの創作活動は、ナチの悪行の同時代にあって、それを容認しなかったということである。蛮行を行うのも人間なら、それを非難する力も人間には備わっているのだ。

この写真は、ハイドリヒが実際に乗っていて襲撃された車である。アンディ・ウォーホルの事故のシリーズにでも出てきそうな感じだが、ここに残された弾丸の跡が動かした人類の負の歴史を、私たちは意識して学ぶ必要があると思う。
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by yokohama7474 | 2017-09-06 00:11 | 映画 | Comments(0)

トランスフォーマー 最後の騎士王 (マイケル・ベイ監督 / 原題 : Transformers : The Last Knight)

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ハリウッドの人気シリーズ、普段は車の姿をしたロボット生命体が活躍する「トランスフォーマー」の第 5弾。そういえば、先にシリーズ最新作についての記事を書いた「パイレーツ・オブ・カリビアン」も今回が 5作目。そのシリーズの開始は 2003年、対するこの「トランスフォーマー」シリーズの最初は 2007年。若干こちらの方がシリーズ化のペースが早いのであるが、奇妙な一致があって、あちらの最新作の日本での副題は「最後の海賊」、そしてこちらは「最後の騎士王」。どうしてこうも「最後」ばやりなのか (笑)。だが、あちらの方は原題は全く違うものであったのに対し、こちらの邦題は原題の直訳。さて、一体何が最後であるのか。

手っ取り早く話を進めると、私はこの映画を評して、「まるで夢のようだ」と言いたい。これは、まさに夢のような大傑作という意味では決してなく、なんだか知らないが切羽詰まった事態が次から次へと現れ、その間の脈絡もなければ、落としどころも見えないという、そういう点で、シュールなまでの荒唐無稽さを持っているという意味である。夢の中では、細部にリアリティがありながらも、つじつまの合わない部分のめくるめくパッチワークを体験することになるが、この映画の印象はまさにそのまま。いや実際、これは一体どんな映画だろう。ストーリーが子供向けかと言えばさにあらず。こんなものは刺激が強すぎて、とても子供たちには見せられない。では大人が楽しめるストーリーかと言えば、それも当たっていない。それから、過去の作品を見ていることが前提になっていて、その流れを知らない人には全く分からない内容なのだ。いや、実際には私は過去 4作のうち第 2作以外は見ているはずだが、現代人の常として、その内容をいちいち覚えているほど暇ではない。オプティマス・プライムとバンブルビーの関係もよく知らないし、ましてや、オートロック、じゃないや、オートボットとか、デカメロン、じゃないや、メガトロンとか、レデンプション、じゃないや、デセプションとか、サイババ、じゃないや、サイバトロンと言われても、なんのことやらさっぱりだ。だから勢い、信じられないほど鮮やかな CG に目を見張るところで、この映画のストーリーを追うのをやめてしまうこととなる。その一方で、映画の中では何やら、「あと 3日で人類は滅亡します」などと冷静に語っている学者 (?) はいるし、宇宙船に乗っている創造主なるものも登場するし、ロボット生命体とはおよそ縁がないと思われるアーサー王の聖剣エクスカリバーや、魔法使いマーリンの杖がどうしたという話題も出て来るし、世界がかつてひとつであったときの名称であるパンゲア大陸やストーンヘンジも出て来る。かと思うとキューバのシーンではチェ・ゲバラの大きな肖像画も出て来るし、回想シーンでナチも出て来る。いやもう、その食い合わせの悪さに気持ちが悪くなるほどだ。これがオプティマス・プライム。果たして彼は善玉なのか悪玉なのか。ネタバレはできないが、その立場は、おいおいと言いたくなるほど些細なきっかけで変わるのである。地球の命運がかかっているのに、全く人騒がせな (笑)。
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対するこちらがバンブルビー。未だ若くてやんちゃ者という設定のようだが、少なくとも顔を見る限りは、若いのかどうか判然としない (笑)。
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繰り返しだが、その CG の凄まじいこと。これまでのシリーズでもそうであったが、さらに進化しており、その点には見る価値はあろう。いや、それだけではなく、生身の役者もなかなか豪華である。まずは、前作「ロスト・エイジ」に続いての出演であるマーク・ウォールバーグ。最近ネット記事で見たのだが、昨年の彼の年収は日本円にして 75億円で、ハリウッド No. 1 であったそうだ。演じている役柄には地味なものが多いので、ちょっと意外な感じがする。だが、よい役者であることは間違いない。ここでは筋肉ムキムキの腕を見せているし、何より、実は大変に重要な人物であることが劇中で判明する。だがその割には、大団円ではそれほど活躍しないのが奇異である。すごい武器を手にしているはずなのに、一体何をしているのか、と言いたくなること必至である (笑)。あ、そのすごい武器とは、この写真 (上のバンブルビーの写真と同じポーズですな) の銃程度のものではないのだ。それはそれはすごい武器なのだ。それなのに・・・。
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それから、驚きの出演は、アンソニー・ホプキンス。英国で最高の名誉であるサーの称号を持つ、当年 79歳の稀代の名優が、なんとも楽しそうに謎の貴族を演じている。
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それから、私の好きな (昔のコーエン兄弟作品によって) ジョン・タトゥーロが出ているのも嬉しい。もっとも、調べてみると、このシリーズには 1作目から 3作目まで出演していたらしい。相変わらずいい味出していますな。
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まあこのように、ごった煮もいいところの、ある意味のトンデモ映画であり、まさに夢の世界を漂うような作品なのである。このシリーズを継続して監督して来ているマイケル・ベイは、ほかにも多くの大作を手掛けてきている実績を誇るが、こんなシュールな映画を撮ってしまうと、これから先どうなるのだろうと思わないでもない。ま、余計なお世話ですがね。
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さて、それでは映画の本質からちょっと離れて、いつもの脱線としゃれこもう。劇中で私がそれと判別できたロケ地を 3ヶ所ご紹介したい。まずひとつ、戦時中のナチの司令部が置かれているという設定の豪奢な建物。以前もこのブログでご紹介したことがあるが、これは世界遺産ブレナム宮殿だ。あのウィンストン・チャーチルの生まれた場所としても知られる。面白いのは、このシーンの前のシーンで、アンソニー・ホプキンス演じる貴族の館の中の部屋に、チャーチルの肖像写真が置いてあることだ。戦争中ナチとの戦いに心血を注いだチャーチルが、自分の生まれた家がナチの司令部になっているという設定を知ったら、驚きと怒りのあまり、墓から甦るのではないかとすら思われる。こんなシーンである。
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ふたつめは、これはほんのワンシーンしか出ないのであるが、女性学者ヴィヴィアン (演じるのはローラ・ハドック) の実家という設定のシーン。これはロンドンのホルボーン近くにある、ジョン・ソーン美術館。建築家サー・ジョン・ソーン (1753 - 1837) の邸宅をそのまま美術館としているもので、決して広いとは言えない邸内は、かつての主が収集した古代の美術品でいっぱいなのである。ロンドンにおいては、画家フレデリック・レイトンの邸宅であるレイトン・ハウスと並ぶ、個人の邸宅として面白い場所だと思う。私の尊敬する建築家磯崎新がいろいろな建築を縦横に語り、篠山紀信の美しい写真が掲載された「磯崎新の建築談義」の第 11巻で紹介されているので、強くお薦めしておこう。
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そして最後。ジョン・タトゥーロの連絡を受けたアンソニー・ホプキンスが、ある大事なものを探しに行く場所だ。これは、アイルランドの首都ダブリンにあるトリニティ・カレッジの図書館である。この大学の歴史は古く、あの「ガリバー旅行記」を書いたジョナサン・スウィフトがここで教鞭を取っていたことと、アイルランドの至宝で、8世紀に制作された聖書の写本である「ケルズの書」を所蔵していることで知られる。ダブリンなどなじみのない方も多かろうし、小さな街で娯楽も少ないのだが、このトリニティ・カレッジだけは見に行く価値がある。以下の 3枚は、私がそのトリニティ・カレッジの図書館を訪れたときにスマホで撮影した写真。こんな場所は世界にもそうそうあるものではなく、まさに知の殿堂。圧巻である。
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ええっと、何の記事でしたっけ。あ、そうそう、「トランスフォーマー」でしたね (笑)。上記の通り、CG 満載の夢のような映画であるが、それだけ関与している人の数は膨大であるはず。さぞかしエンドタイトルが長いだろうと思いきや、なんとなんと、最近のハリウッド映画の平均よりも随分短いのだ。その理由は、普通ならスクロールして行くはずの画面が、静止画像で 0.何秒ごとというペースでどんどん切り替わって進んで行ってしまうからだ!! 組合との合意で、関わった人すべての名を出さないといけないルールになっていると理解するが、これはなんともトリッキーな方法だ。これだけ早く画面が進んでしまうと、その内容を見ることはほとんどできない。いわばルールを骨抜きにした格好だが、それでよいのだろうか。これまた余計な心配でありながら、あのスピルバーグを製作総指揮のひとりに頂く作品で、こんなことをやってもよいのかと、ちょっと思ってしまいました。それとも、あれも夢だったのだろうか・・・。

by yokohama7474 | 2017-08-28 23:47 | 映画 | Comments(0)

ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ (ジョン・リー・ハンコック監督 / 原題 : The Founder)

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ファウンダーとはもちろん、創設者のこと。このポスターを見るに、どうやらあのハンバーガーショップ、マクドナルドの創設者の話らしい。・・・と思った瞬間にあなたは既に映画の作り手のペースにはまっている。邦題によると、そこには何か「ヒミツ」があるらしい。そもそも日本で「マクドナルド」と平坦なイントネーション、強いて言えば「マ」に若干の、「ナ」に明確なアクセントがある発音で呼ばれるこのハンバーガーショップ、英語でそのまま発音しても英米人には通じない (もちろん、関西で使われる「毎度」と同じ発音による「マクド」という名称では、絶対に通じない。笑)。英語では、「ド」の音に強いアクセントがあり、強いて日本語表記すれば、「マクッ、ドーーウナルズ」となるのである。それはそのはず、店名の英語の綴りは "McDonald's" である。これは、マクドナルドという苗字の人たちが、自分たちの苗字に因んだ店名としてつけたもの。因みにこの Mac または Mc という最初の音は、スコットランド系の名前において、"son of" (= ~の息子) を意味し、発音する際には決してそこにアクセントが来ることはない。この名前、なんとかバーガーという店に比べると、やはり何か印象に残るものがある。また、日本で (これまで営業上の浮沈はあったものの) 放課後の高校生たちも気軽に利用し、青春の舞台ともなるマクドナルドの店舗は、現代の米国ではちょっと雰囲気が違っていて、場所と時間帯によってはちょっと怖いくらいの荒れた感じのところもある。ともあれ、米国のファーストフード (最近時々使われる「ファストフード」という言葉には大変違和感ある。英語でも "fast" の発音は普通は「ファースト」だ) の文字通り代名詞であり、全世界の店舗数は実に 35,000 を超えるらしい。まさに一大ハンバーガー帝国。そのファウンダーとはいかなる人であり、どのようにしてこの大帝国を築いたのであるかを描いたのがこの映画である。

いや、もう一度ここで明らかにしておこう。ここでファウンダーを自称しているのは、もともとミキサーのセールスマンであったレイ・クロックという人 (1902 - 1984) である。おや、ファウンダーの名は、マクドナルドさんではないのだな。そう、マクドナルドはもともと、カリフォルニアの砂漠地帯にあるサンバーナーディーノという街で、マックとディックというマクドナルド兄弟が始めた店を、このレイ・クロックがフランチャイズ化したもの。ということは、映画の題名にまでことさらに創業者であることが主張されているものの、その内実は、他人の作り出したものを広めたというに過ぎない。いや、「過ぎない」というにはあまりに巨大な業績を残した人なのである。その手腕、人間性なところと非人間的なところ、また彼が一大帝国を作り上げて行く様子を、非常に冴えた演出で見せてくれるのが、この映画なのだ。主演は、かつてのバットマン役であり、最近ではなんといっても「バードマン あるいは (無知がもたらす予期せぬ奇跡)」でのパンツ姿の熱演 (笑) が記憶に新しい、マイケル・キートン。これが彼の演じるところのレイ・クロックと、本物のレイ・クロックの写真。映画の役柄の方が、本物よりも少し賑やかな人間像になっているのかもしれない。
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まず何より、マイケル・キートンの演技を絶賛する必要があるだろう。ここでの実業家レイ・クロックの姿を見て、人はどう思うであろうか。自分の意志を貫く情熱家。目的のためには手段を選ばない冷徹な人間。冴えない中年男のようで、意外にもピアノの腕前が達者で、色恋沙汰にも無縁でない人物。そして、成功してもどこか憎めないところのある男。これらをすべて満たす複雑な人間像は、マイケル・キートンが演じているからこそ、十全に描き出されていると言ってもよいだろう。上記の通り、もしかすると実在のレイ・クロックは、もう少し面白みのない人間であったのかもしれない。あとで知ったことにはこのレイ・クロックは、現代日本を代表する実業家である孫正義や柳井正も尊敬するビジネスマンであるらしい。合理性と勤勉によってあれだけの大成功を収めた人であるから、そのビジネスのやり方には学ぶべきところが多々あるのであろう。最近の実話をもとにした映画ではしばしばそうである通り、この映画においても、末尾の部分で実在の人物の語る様子や、映画で描かれた時代のあとどのような人生を歩んだかが紹介される。そこでレイ本人の語る言葉の印象には、それほど面白みはないように思う。だからこの映画は、実話だから面白いということよりも、まずは役者の演技が素晴らしいから面白いと言ってもよいのではないだろうか。実際、米国の辣腕ビジネスマンのやり方を評して、血も涙もないと非難しても、あまり意味がない。というのは、そんなこと当たり前なのである。逆の言い方をすれば、ビジネスにおいて冷徹であっても、人間としては必ずしも血も涙もないということもないケースがあることだ。そして面白いのは、ビジネスで大きな成功を収めるためには、本人の才覚に加えて、いろいろな幸運に恵まれる必要があり、有能なスタッフも、いつどこでどんな偶然で現れるか分からないということ。この映画ではそのようなビジネスの世界の機微、そして人生の機微が大変うまく表現されている。監督であるジョン・リー・ハンコックの手腕が大いに冴えている。
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この監督は今年 60歳。もともと弁護士であるらしく、その風貌からも知性が読み取れるが、脚本家として頭角を現し、監督作としても「オールド・ルーキー」「アラモ」「しあわせの隠れ場所」等があるが、なんと言っても素晴らしいのは、「ウォルト・ディズニーの約束」である。エマ・トンプソンやトム・ハンクスが出演したこの映画、ミュージカル「メリーポピンズ」映画化の内幕を描いたものであったが、本当に素晴らしい作品であった。恥ずかしながら、普段は滅多にないことなのだが、この作品を劇場で見た私は、ボロボロ泣いてしまったことを白状しよう。今回の「ファウンダー」では泣きはしないものの、そのスピーディかつ要領を得た演出には完全に脱帽である。

マイケル・キートン以外の役者も、それぞれに個性的で素晴らしい。妻役のローラ・ダーンは久しぶりに見るが、うーん、昔のデヴィッド・リンチ映画に出ていた頃からすると、さすがに年齢を重ねたなぁという思いは禁じ得ない。
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印象的なシーンは幾つもあるが、やはり忘れがたいのは、終盤でマクドナルド兄弟の片割れとトイレであったときに彼の語る言葉。マクドナルドには、ほかのレストランにない絶対の強みがあると主張するレイ・クロック。それが一体何であるのか、ここで明らかにするのは避けるが、私などは、なるほどそうかと思ったものである。優れたビジネスマンの持つ、一種のインスピレーションのようなものが、いかに重要か。そしてまた、彼はそのインスピレーションを信じることで、誰も成し遂げたことのないことをやってのけた。それこそ "persistence"、忍耐の賜物なのである。忍耐なくしては、このような成功はあり得ない。
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そうして、この映画を見たあとは、日本式な「マクドナルド」ではなく、「マクッ、ドーーウナルズ」と、English - American な名前を口に出してみよう。もしかすると目の前に何か新たな人生のヒントが現れるかもしれない。そんなことを考えさせてくれる映画でした。

by yokohama7474 | 2017-08-26 02:06 | 映画 | Comments(0)

東京喰種 トーキョーグール (萩原健太郎監督)

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またしてもマンガを原作とする邦画である。昨今流行りのマンガを一切知らない私としては、原作がマンガであるか否かを問わず、映画として面白かったか否かだけしか感想を述べることができない。だからこのブログをご覧になる方で、この映画の原作に一家言ある方の場合、私がここでボソボソ呟くことについて、「コイツ、全然分かってねーなー」と思われるかもしれない。その前提で以下、感想を徒然に記そうと思う。

まず、この映画を先週見てから、試しに Wikipedia で「東京喰種」という項目を見てみると、その説明の、実に詳細に亘っていること。長さも誠に驚嘆するほどのもので、例えばバッハやモーツァルトやベートーヴェンのどんな名曲に関しても、こんなに長い Wiki の記事はないであろう。端的な話、日本国民を無作為に選別して、ベートーヴェンの交響曲第 5番を少しでも聴いたことある人と、「東京喰種」のマンガを少しでも読んだ人の人数を比べると、圧倒的に後者が多いのであろうと思う。まあそんなものであろう。「東京喰種」とは、そんなに大人気のマンガであるようだ。
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そう、この映画においては、もっぱら人間を食糧とする奇怪な怪物どもが喰種 (グール) と呼ばれ、ソイツらが人間に混じって生活しているところ、国家権力はそれを駆除するために血道をあげる。さて、追い込まれた喰種どもは・・・。という話。果たして正義はどちらにあるのか、人肉を喰らうという宿命を持つ喰種には生きる権利がないのか、という観点で進んで行く話の流れは、結構面白いと言ってよいと思う。だが、結構最近、やはりマンガを原作とした映画として、「寄生獣」の前後編があったではないか。人間世界に異形のものが紛れ込んで住んでいるという設定、本来はそこに属さない人間が、あるきっかけで板挟み状態となって苦しむこと、そして人間にはない触手のようなものをブンブン振り回すところもそっくりだ。もちろんここでは、「寄生獣」のような主人公の身近で味方になる存在は登場せず、主人公の肉親への愛も描かれず、それだけ仮借ないストーリーだとも言えるだろう。そう、「寄生獣」にあってここにないのは、ユーモアのセンスではなかろうか。登場人物たちは皆悩み、敵を憎み、ただその憎しみに身を委ねて敵対的になるか、または諦念に囚われてコソコソ生きる。そう言えばここでは、見ていてくすっと笑ってしまうようなユーモラスなシーンは、ほぼ皆無であったと言ってよいだろう。だがその一方で、身も世もない絶望感に囚われるかといえば、さにあらず。ここでは世界の終わりのような雰囲気は醸されておらず、焦点はあくまでも、特殊な生物である喰種たち個々人の悩みに絞られているせいだろう。上に原作マンガのキャラクターのイメージを掲載した主役のカネキは、この映画のイメージではこんな感じ。
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なるほど、この赤い左目とキバむき出しの仮面は、なかなか怖い。だがこの主人公、もともとは大変にナイーヴな青年であり、このような赤い片目を持つようになってからも、恐ろしい運命に全力で抗う。彼個人の思いには常に葛藤があり、時と場合によってはその正義心は熱く燃え上がるのである。演じるのは窪田正孝。私はあまりなじみがないが、最近テレビや映画で活躍しているようだ。この映画においては、正直なところ、すべてのシーンで素晴らしいとも思わないが、徐々に自分の正体と折り合いをつけようとするところや、クライマックスでの体当たりの熱演は見ごたえ充分。
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トーカという、単純なようでいてなかなか複雑なキャラクターを演じた清水富美加は、スキッとしていて、なかなかよい。
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それから、こんな人も。そう、元 Wink の相田翔子。Heart on Wave な感じがよく出ていた (?)。
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だが私が感心したのはなんと言ってもこの人。蒼井優である。登場シーンはほぼ前半に限られているが、これは見る価値ありである。本人もインタビューで「これまであまりやったことのないアクションを経験できて、とても楽しかったです。頑張れたのではないかと思います」と語っているが、いやいやその通り。頑張っていると私も思う。才能あふれる彼女にして、これは新境地であろう。何をどう頑張っているのかお見せできないのが残念だが (笑)。
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ここで喰種たちを追い詰める特殊警察のような組織、CGC (Commission of Counter Ghoul) の描き方は、ちょっとどうだろうか。そもそも喰種のような危険極まりない存在の捜査をこんな少人数で行い、しかも駆除の方法も一騎打ちという点、リアリティのない設定である。そして、彼らが喰種と一騎打ちで戦うときには、なぜか、拳銃等の通常の武器ではなく、喰種の持つ武器を転用したような触手用のものや、その加工品 (?) を使うのである。なになに、それを「クインケ」と呼ぶのですか? で、それは「金属質の素材『クインケ鋼』が用いられており、電気信号を送り込むと、喰種の赫包から赫子が出てくるように戦闘用の形態へと変わる」らしいのだけど、意味が分からん。そもそも「赫子」の読み方が分かりません。なになに、「かぐね」? だから知らないって (笑)。大泉洋が、残虐な CGC の捜査官を楽しそうに演じている。
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改めて思うのは、マンガを読んでいない人間にとっては入り口で疑問に思うことも幾つかあり、それは致し方ないのかもしれないが、単独の映画という観点からは、少し残念なような気もする。ストーリーから感じ取ることのできるメッセージは理解できるが、上記の通り、ユーモア感覚に乏しい一方で、絶望的な終末感もそれほど漂っていないので、見ていて心がわしづかみにされるような感動に巡り合うことはできなかった。演技の質においても、何人かの俳優には課題が残ったように思う。それから、映像自体の鮮明度にも時折不満が残ったことも事実。と書いていながら、ではそれほどつまらない映画かと問われれば、いやいや、それなりに面白いと答えるだろう。監督の萩原健太郎は、ロスの大学で映画を専攻し、これまで TV CM などを手掛けてきた人で、これが長編デビュー作。有名マンガが原作でやりにくかったこともあるのかもしれないと、勝手に考えてしまうが、また美的センスを発揮した作品を期待したい。

私がこの映画を見たのは先週であったが、劇場ではこんなものを配布していた。
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これは一体なんだろうと思って帰宅してから開けてみると、コースターだった。右下に "Sui Ishida" とあるので、原作者石田スイの手になるオリジナルデザインなのであろうか。うーん。こんな赤い目で見られると、喰種が好むというコーヒーも、だんだん人肉の味に思えてくるのではないかと思い、しまい込むことにした。「東京喰種」ファンの皆様、ごめんなさい。
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by yokohama7474 | 2017-08-22 22:23 | 映画 | Comments(0)