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このブログで採り上げるのは初めてになると思うが、私は韓国映画が大好きである。と言っても、いわゆる韓流ドラマや K-Pop というものには一切知識・関心がなく、ただ「JSA」「シュリ」で日本の観客にも驚愕を持って迎えられたドラマティックな韓国映画の流れにガツンと脳天をやられたということなのである。私の場合、恋愛映画は好奇心のレーダーには入って来ないので、スリラー、サスペンス、ホラー系が中心ということになるが、忘れられない韓国映画がいくつもある。その中で、もちろん「ブラザーフッド」も異常なくらい素晴らしい出来であると思うが、なんと言ってもカンヌでグランプリを獲得した「オールドボーイ」に全身総毛立った観客のひとりである。その作品の監督は、パク・チャヌク。既に上に名前の出た映画では「JSA」の監督でもある。その後、「親切なクムジャさん」は DVD で見て、それはもう、のたうち回って悶絶するくらい痺れたのであるが (笑)、その次に見た彼の作品は、ハリウッドに進出してニコール・キッドマンとミア・ワシコウスカを起用した「イノセント・ガーデン」。その作品は、だが、残念ながら彼にしては若干大人しいかな、という印象であった。そこに 3年ぶりの新作登場である。しかもこの映画、上にある通り、「成人指定で全世界、異例の大ヒット」なのだそうだ。確かに日本でも R18+ という指定になっている。ええっ、そうなんだ。私は劇場で、「18歳以上ですか?」とは訊かれなかったけどなぁ (笑)。これが監督のパク・チャヌク。松尾貴史ではありません。
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実際に内容を見てみると、なるほど R18+ 指定はやむないだろう。だがそれは、別に性的な意味でアダルトということだけでなく、この映画の面白みを本当に楽しむことができるのは、よほどの早熟な天才でない限り、18歳以上の人たちだけだと言ってもよいと思うからなのである。舞台は 1939年、日本統治下の韓国。ある日本人の富豪のところにお手伝いでやってくる若い韓国人女性が、彼女が仕えるお嬢さんと、お嬢さんに言い寄る男性との間で陰謀に巻き込み、巻き込まれるという話。145分の大作で、全体は 3部からなるが、それぞれの部分で違った角度から経緯が描かれ、観客の感情移入を手玉に取るような狡猾な作り。見ていて飽きるということは全くなく、ストーリーを追うだけで充分面白い映画である。ここで主役のスッキ = 日本名珠子を演じるのは、1990年生まれのキム・テリ。この作品のためのオーディションで 1500人から選ばれたとのことで、これまで演技経験はほとんどないらしい。劇中では非常に素朴に見える役柄を演じているが、そこは女優。きれいにメイクすると、それはそれはきれいなのである。
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一方のお嬢さん役を演じるのは、キム・ミニ。1982年生まれで、高校時代から活躍している韓国のスターであるらしい。彼女がこの映画の中で見せる表情は実に多彩。おー、女は怖いのぅ (笑)。この感想はまさに、この映画の感想自体でもあるのだが。
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この映画の成功は、ひとえにこの二人の凄まじい女優魂に負っているものと思う。よく日本では女優がエロティックな場面を演じることを、体当たりの演技などというが、なんのなんの、本物の女優たるもの、体当たりは当たり前なのではないか。あるいは、女優がヌードになるに際し、「必然性があれば」などと言うこともあるが、なぜにそんな言い訳が必要であるのか。この映画を見ていると、女優たちの渾身の演技に圧倒され、我が国と彼の国の芸能界の成熟度の違いに思いを致すのである。劇中とオフステージでの二人。まるで姉妹のようではないか。
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ストーリーの面白さは上述の通りだが、この映画には美術を含めた細部の演出に監督の才能が光っている。現実にはあり得ないような、大広間の畳を部分的に上げるとそこに水がたたえられていて、巨大な盆栽や、ミニチュアの枯山水の庭を置くことができる構造も、映画ならではの虚構空間としてよくできているし、あるいは、二人の女優がそれぞれに大きな荷物を持って、屋敷の中の障子を順々に開けて行くシーンのリズム感なども、まさに映画的としか言いようがない。そしてつまるところ、この映画のストーリーにおけるミスダイレクション自体にはそれほど驚かないが、細部に宿る貪欲な制作意欲が、二人の女優を最高に輝かせていることに気づく。それから何と言っても、「オールドボーイ」の目をそむけたくなるような残虐シーンに常にユーモア精神が表れていたように、この映画におけるエロティックなシーンにも、必ずユーモアがある点にも注目しよう。これらすべて、パク・チャヌクの非凡な手腕であると思う。

ユニークなことに、この映画における使用言語は、設定上やむを得ない面もあるのだが、かなりの部分が日本語なのである。なにせキム・ミニは突然東北弁を喋ったりするのである!! 主要な役柄の人たちには日本人はいないので、正直、我々日本人から見ると言葉の点ではちょっと無理があると感じざるを得ないのだが、それはこの映画の持つ価値においては些細なこと。また、日本語の使用にもうひとつの意味があるとすると、主人公が朗読をする場面で、日本の放送禁止用語が沢山出て来ることであろう。これ、日本の映画では絶対できません (笑)。そのような言葉と、後半頻繁に出て来る日本製の春画の映像は、根がうぶな私 (?) にとっては、若干苦痛であったことは正直に告白しよう。だが、繰り返しになるが、そのような面を笑いに絡めている点こそ、この映画がポルノとは一線を画している明確な理由なのである。だからこの映画をご覧になる方は、エロティックなシーンで大いに笑って頂きたい。それが大人の視点でこの映画を楽しんでいる証拠になると思うし、人間の生き様の尊さと馬鹿馬鹿しさを同時に感じる瞬間になると思いますよ。

実はこの映画、原作は英国のサラ・ウォーターズの「荊の城」という小説である。日本で「このミステリーがすごい!」で 1位になったらしい。私がこれまでに読んだ彼女の小説は「半身」という作品だけで、詳細は覚えていないが、かなり面白かったと記憶する。なぜ私がその本を読んだかというと、その表紙に、私が溺愛するイタリア・ルネサンスの画家、カルロ・クリヴェッリの作品を使用していたからだ (そのことは、昨年 11月 3日付の、「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」展に関する記事においても触れた)。この「荊の城」も翻訳が日本で出ていて、上下二巻のうち上巻は、このような表紙である。これは誰の作品だろうか。さすがに手だけでは分からないが、スペインかイタリアの肖像画であろう。
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私としては、久しぶりに見た韓国映画の素晴らしさに大満足。今後公開が予定されている面白そうな韓国映画がいくつかあるので、また時間を見つけて見に行ってみたいと思っている。

by yokohama7474 | 2017-03-16 01:00 | 映画 | Comments(0)

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今日のハリウッドでは CG を総動員したり大規模なセットが作られたり、世界各地でのロケがあったりと、巨額の資金を投入して複雑に映画が作られるのが通例になっており、加えてもともと各自の責任分野を明確にするのが米国式であるので、一本の映画を制作するにあたっても、全体の責任者としての監督の意向が、果たしてどの程度作品に明確に反映されることになるのか分からない。そんな中、明確な監督の個性を刻印した作品群を送り出し続けて成功しているのがティム・バートンである。もともと、自分はどうやらほかの人たちとは違うらしいという内向的な思いを創作の原点としている人であるから、華やかなハリウッドの世界で生きて行くこと自体にもいろいろ苦労もあるであろうに (よって、居住地はロンドンらしい)、2 - 3年に一本のペースでコンスタントに監督作品を世に問うていること自体が驚異的である。
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その一貫したユニークな趣味性のみならず、やはりストーリーテリングの手腕が優れていることが彼の成功の第一の理由であろう。それは、彼の旧作の続編であり、一見するといかにもティム・バートン風であったが別人が監督した「アリス・イン・ワンダーランド / 時間の旅」の出来の悪さを見てもよく分かる (昨年 7月30日の記事ご参照)。今回のこの作品は、監督作としては「ビッグ・アイズ」以来。冒頭に掲げたポスターにある通り、「ティム・バートン史上、最も奇妙」とあって、期待が募る。

予告編でもストーリーの流れはよく分かったが、これは少年が人里離れた屋敷に住むミス・ペレグリンという女性のもとに集う奇妙なこどもたちと触れ合う物語である。だが、そこで伏せられていたのは、ただ触れ合うだけなのか、それとも恋に落ちたり何かと戦ったりするのかということで、答えは両方ともイエス。正直なところ、ティム・バートン好みの「人と違う」こどもたちを使って彼が本当にやりたいことをここで出来たのか否か判然としないところはあり、若干、最近はやりの魔術性とか時間をコントロールする能力とかいう点を取り入れて、大衆性を狙っているのかとも思いたくなるのであるが、それでもほかの映画に時に感じる苛立ちをこの映画に覚えないのは、やはり監督の手腕か、それとも贔屓の引き倒しという奴だろうか。最高の出来で誰にでもお薦めしたいとは言わないが、罪のない映画として、ファンタジー好きなら見て損はないと思う。これがミス・ペレグリンのところに集った奇妙な (Peculiar) 能力を持つ子供たち。
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この中には、のべつまくなしにその能力を見せている人もいれば、最後の最後まで何の能力を持っているのか分からない人たち (おっとこれだけでネタバレに近い。失礼) もいて、それぞれの役柄はよく考えられている。そして、特殊能力発揮の場面は、昨今ありがちな超リアルな特殊映像というよりも、何か昔ながらの手作り感があって、それがこの映画を見て安心していられる理由なのかもしれない。例えば透明人間の活躍など、いかにも「透明人間がやっています」というぎこちなさをわざと出しているように見える。また、クライマックスで骸骨たちが戦うシーンは、もちろんレイ・ハリーハウゼンのクレイメーションによる「アルゴ探検隊の大冒険」へのオマージュであろう。これがその映画のシーン。いいですねぇ、骸骨軍団。
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それから、主人公は祖父の殺害をきっかけにタイムスリップして 1943年のこの屋敷に入って行くのであるが、その彼がなぜこのような特殊能力者たちの仲間になれるのかという点も徐々に明らかにされ、なるほどそれは大した能力ではないようで、実は大変重要な能力なのだと理解することになる。ほら、よくいるではないですか。集団の中で何の役にも立っていないように見える人が、実は集団にとって死活的に重要な存在だということが (笑)。そのような子供たちを演じるのはもちろん若い俳優たちだが、興味深く見たのは、蜂を体内に飼っている少年ヒューを演じるマイロ・パーカー。私は昨年 3月31日の「Mr. ホームズ 名探偵最後の事件」の記事でその名演技を絶賛して、その際に「次回作はなんとティム・バートンの新作であるそうな」と書いたが、それがこの映画である。ただ、これは偶然なのかどうなのか、前作でも彼は養蜂家の息子を演じていた。ハチと何か縁があるのだろうか (笑)。
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このような特殊能力の持ち主の集合は、よくある設定で、「ファンタスティック・フォー」とか「X-Men」もそうだし、日本でも昔の「サイボーグ 009」という例がある。つまりそのような能力を持つ人たちは、敵と戦う場合にその能力を最もよく発揮できるわけで、ここでも手ごわい敵が現れる。予告編には出てこなかったが、海外版のポスターにはちゃんと姿が出ている。
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そう、サミュエル・L・ジャクソンだ。このような怪役を演じさせたら、右に出る者がない (笑)。今回も本当に楽しそうに演じている。それから、主役のエヴァ・グリーン、祖父役のテレンス・スタンプ (1965年の伝説の映画「コレクター」の主役として未だに知られる) など、充実したキャストである。あ、そうそう、充実したキャストと言えば、これはびっくりの英国の大女優ジュディ・デンチが出演している。オープニングタイトルで彼女の名を見て、いつ出てくるのかと楽しみにしていると、後半に確かに出て来る。だが、出て来てすぐに、なんともあっけなくいなくなってしまう (笑)。このあたりのもったいない役者の使い方も、ティム・バートン一流のシニカルな面なのであろう。

それにしても、魔術とタイムスリップ (ここではループと言って、ある特定の一日が繰り返される設定) は、最近の映画には多い。その一方、リアリティ溢れる現代の戦争もののドキュメンタリー風の映画もあって、両極端を構成している。ファンタジーの世界に遊ぶことは平和である証拠だから、前者にはそれなりの意義はあり、その一方で、現実から目を背けないためにも、後者も必要だ。いずれにせよ、あまりに絵空事やあまりに深刻なことは人々の共感を得られないであろうから、現実とファンタジーを結びつける感性が必要であろうと思います。ティム・バートンは意外にしたたかで、そのあたりの現実性も持ち合わせた人なのだろうと思う。これからも期待しております。

尚、私はまた今日から出張に出てしまうので、一週間ほどブログの更新はお休みします。

by yokohama7474 | 2017-03-05 11:39 | 映画 | Comments(0)

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これは低予算の、いわゆるインディーズ系の映画であるが、上のようなポスターを目にした瞬間、これは見る価値ありと判断した。このイラストの乾いた感覚はどうだろう。最近ご無沙汰だが、まるで大友克洋の作品の一場面のようではないか。この映画のチラシを見てみると、このようなコピーが。「理不尽に囚われた楽屋 (グリーンルーム) からの決死の脱出劇 --- 内臓で感じろ! 新世代の傑作アクション・スリラー」・・・なるほど面白そうではないか。また、「全米初登場第 1位」とある。これはますます期待が高まる。

さらに、このようなインディーズ系の映画であるにもかかわらず、ハリウッドのメジャーなシリーズ物に出ている俳優が 2人、ここには出演している。まず一人は、この映画の主演俳優、アントン・イェルチン。
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彼が出ている (いや、残念ながら「出ていた」と過去形にする必要があるのであるが) ハリウッド映画は「スター・トレック」シリーズで、そこで彼はパヴェル・チェコフというロシア系乗組員を演じていた。この役者自身、もともとロシア出身であるらしい。
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なぜに「出ていた」と過去形にする必要があるかというと、彼は既にこの世の人ではないからだ。昨年 6月、自宅で車と門の間に挟まれて死亡しているのが発見された。享年 27歳。この「グリーンルーム」の撮影は 2015年で、日本では先に公開された「スター・トレック BEYOND」の方が後で撮影されている。そしてその「スター・トレック BEYOND」が彼の遺作となってしまった。正直なところ、「スター・トレック」シリーズでは脇役であるが、この「グリーンルーム」では堂々の主役。私はここでの彼の演技は素晴らしいと思う。これから大ブレイクかというときに逝ってしまったことは、残念でならない。

そしてもうひとり、メジャー映画に出ているのは、パトリック・スチュワート。ここでは悪の親玉を演じている。
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この顔はおなじみ。言わずと知れた「X-Men」シリーズのプロフェッサー X 役である。一度見たら忘れまい。
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そのような俳優たちを擁したこのインディーズ映画、ストーリー自体は至って単純で、売れないパンクロックグループがドサ回りをしていて出演することになったライブハウスが、実はネオナチの巣窟で、メンバーたちはそこから脱出すべく努力するが、敵に阻まれるというもの。因みに題名の「グリーンルーム」とは、楽屋と舞台の間にある出演者たちの控えのスペースのことを指すらしいが、上のポスターでも明らかな通り、文字通りグリーン系の色彩が、室内外を問わずあらゆるところに出て来て、見る者を不安にさせるのである。設定はなかなかうまくできている。
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この映画のひとつの特徴は、かなりエグい殺戮シーンが頻繁に出て来ることであり、その手の映画が苦手な人は見ない方がよいだろう。脚本・監督を担当したのはジェレミー・ソルニエという 1976年生まれの新鋭で、これが長編 3作目。どこかで「現代のサム・ペキンパー」という表現を目にしたことがある。うーん、だが私の見るところ、かのヴァイオレンスの巨匠とは未だ格段の差があると言わざるを得ない。むしろこの映画を比較するなら、最近日本でも公開された「ドント・ブリーズ」(フェデ・アルバレス監督) がよいだろう。今年の 1月 6日付の記事で私が絶賛した映画である。この 2つの映画には設定に共通点があり、それは、ある場所に閉じ込められた若者たちがそこから脱出するために命を賭けるという点。最後の方で犬を使っている点も似ている。だが、明らかにこの「グリーンルーム」の完成度は「ドント・ブリーズ」に遥か及ばない。それにはいくつかの理由があるが、例えば、登場人物が多いがその個性が充分に描かれていないばかりか、敵・味方ともに、人の区別すらつきにくい点があること。また、若者たちが敵に立ち向かうための方策に、なるほどっと唸るような工夫がないこと。それから、ネオナチとされている敵の集団が取る行動の理由が説明されず、見ているうちに不気味さを感じなくなること。そして何より、ラストの決着のつけ方。納得がいかないばかりか、多分に拍子抜けである。「ドント・ブリーズ」の息をもつかせぬ展開と、最後の最後まで安心して見ていられないサスペンスは、この映画にはないと言わざるを得ない。時に感覚の冴えを覚えさせるシーンがあるだけに、全体の仕上がりがこの程度であることは、大変に残念である。

ここで再度ペキンパーの名前を出さずとも、映画には鮮血の美学というものがあり、いわゆるスプラッター映画にも (私の感覚では) 美しい作品は数多くある。この作品はそのような美学を目指していることは分かるし、評価できる面もある。また、アントン・イェルチンの鬼気迫る演技が、かなり全体の出来を引き上げているとは思う。だが、残念ながら全体を貫く美学というものまでは感じられなかった。やはり夭逝したヒース・レジャーが、「ダークナイト」での凄まじい演技によって、死後、アカデミー助演男優賞に輝いたようなことがここで起こらなかったことは全く残念だが、致し方ない。

ともあれ、もし自分がどこかに閉じ込められ、決死の脱出を図るときに、一体いかなる心構えで臨めばよいのかについては、なにがしかのヒントが得られたものと思う。・・・そんな目に遭わないことを心から願っておりますが (笑)、いざというときはこんな感じで敵に立ち向かおう。
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by yokohama7474 | 2017-03-02 00:29 | 映画 | Comments(0)

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この映画の題名は、主人公である夫婦のうち、妻の方のファーストネームである。ところが原題はそれとは似ても似つかぬ、"Allied" という言葉。うーん。これはどう見ても人の名前ではないし、そもそも「マリアンヌ」と「アライド」は、響きが違いすぎるではないか!! それもそのはず、"Allied" とは、「同盟を組んだ」という意味の形容詞であって、人の名前ではありません (笑)。つまりは、ここで登場する男女が志をともにし、ともに闘う関係であるか否かを問う題名ということであろうか。もちろん、第二次世界大戦でナチス・ドイツと闘ったのは連合国、つまり Allies であった。映画の内容に鑑みると、二人とも連合国側の人間であったのか否かという点を題名で問うているのかもしれない。これはなかなかに凝った題名であり、まさか邦題を「同盟」とするわけにもいかないし、「絆」などと訳してみても、やはり違う。実に日本の配給会社泣かせの題名であり、そうすると「マリアンヌ」というフランス女性の名前を題名にする案には、一理あるかと思います (笑)。

予告編によると、愛する妻がスパイであるとの情報を受けた夫が疑心暗鬼にとらわれるという内容であると理解されるが、だが観客は、冒頭から間もない場面でこの女性が、そのようなイメージにふさわしい一般のかよわい人ではないことをすぐに知ることになる。そして訪れるこのシーン、この程度はネタバレではないと勝手に自分に言い聞かせるが (笑)、なかなかカッコよかったですよ。
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ブラッド・ピットとマリオン・コティヤールというビッグな組み合わせを主役に据えた映画であるし、監督が名匠ロバート・ゼメキスであるから、まず大きく期待を外れることはないだろうと思って見たのだが、見終わったあとの感想は若干複雑だ。あまりストーリーをひねりすぎない点には好感が持てるが、その一方で、戦争という特殊な状況におけるスパイ活動という設定において、個人が持つ感情に、どこまで思い入れをすべきであるのかよく分からないきらいがある。つまり、現実の世界ではこれに近い話はもしかすると実際にあったかもしれないし、それはそれは切ない物語なのではあるが、数知れない命が犠牲になった痛ましい大戦争の中で、愛という個人の感情が人間の行動を支配するファクターになりえたか否か、ということである。多くの場合、現実はもっともっと悲惨であったのではないか。すなわち、自分たちの敵と判断すると容赦なく相手の命を奪うその同じ人間が、自らの愛する家族の命については、絶対に奪われてはならないかけがえのないものと実感するということは当然あったろうが、21世紀の我々がそれを見て、主人公たちが絶対的に正しいと言えるのかどうかと、私は考え込んでしまったのであった。もちろんそのような違和感さえ拭ってしまえば、感動的な映画であることは間違いない。冒頭のモロッコの砂漠にブラピが落下傘で降り立つシーンのテンポ感と高低差の表現は素晴らしかったし、砂漠の車の中のラブシーンでは、現実を超えて砂嵐が命を燃え立たせるという描き方になっていて、映画的感興があった。慌ただしいネットも携帯電話もない戦時中、迫りくる危機に全身でぶつかっていく主人公たちの姿には、余計なものがなく、好感が持てる。つかの間のパーティのシーンでは、奇しくも昨年公開された「マダム・フローレンス! 夢見るふたり」のシーンと同じく、ベニー・グッドマンの「シング・シング・シング」が高らかに流れる。だが違いは、かの映画でこの音楽に乗って踊るのは夫ひとりであったが、ここでは夫婦揃ってのダンスになる点である。
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魔法も使えず超人的な力もない個人としては、歴史の大きな歯車に逆らって個人的な思いで国に楯突くことは、極めて難しい。だからこそ、そのような主題が映画になりうるとは言えるだろう。勇気ある行動は、たとえそれが最終的に悲劇に終わっても、人の心を動かすものである。その一方で、では個人的な正義感さえあれば、同じ人間である敵の命を情け容赦なく奪うことは果たして許されるのか? これは重い問いである。私の見るところ、この映画では、夫はそのような非情さを持ち合わせていて、目的のためには手段を選ばないが、妻の方はそうではなく、敵に対するなんらかの哀れみの情を持ち、自己犠牲をも辞さない潔さがある。さて、人間としてどちらが正しいと言えるのだろう。そして、果たしてふたりの間には同盟は成立しているのだろうか。
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この二人の俳優、どちらも私はファンなのである。ブラピは私生活のトラブル (?) とは関係なく、一貫して問題作に出ているし、一方のマリオン・コティヤールは、フランス人にしては異例なくらい英語がうまい人であり、それゆえに多くの映画で活躍している。実際今も、この映画以外に「たかが世界の終わり」(これはフランス映画であり、彼女は珍しく (?) フランス語を喋っている) が公開中だし、もうすぐ公開される「アサシンクリード」にも出演している。昔の女優のような気品があり、芯のある女性を演じられる得難い女優であると思う。

監督のロバート・ゼメキスについては触れるまでもないと思うが、1952年生まれの 64歳。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズで名を上げ、「フォレスト・ガンプ / 一期一会」でアカデミー賞を受賞。現代ハリウッドを代表する監督であり、前作の「ザ・ウォーク」はこのブログでも絶賛したし、その前の「フライト」も素晴らしかった。ただ、彼の作品には本当の意味でのドク、じゃないや毒はなく、その作風には過激さは皆無であるが、その真摯な制作態度には好感が持てる。彼のフィルモグラフィを見ていて気付いたのだが、この作品は彼としては恐らく初めての歴史ドラマ。手堅い手腕を発揮していると思う。
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平和な時代に暮らしている我々、いや正確には現代でも戦乱はあちこちで起こっているので、平和な地域に暮らしている我々というべきか、その我々がつい忘れがちな、平和を獲得し守るための代償。そんなことに思いを致すことになる映画である。上に書いたような疑問を疑問のままにしておける日常生活に、我々は深く感謝しなければならない。それゆえの複雑な感想である。

by yokohama7474 | 2017-02-28 23:04 | 映画 | Comments(0)

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このブログで何度か言及してきた通り、19世紀末ウィーンの文化はなにか私の根源的なものに触れてくる異様な力があって、私は心の底からその文化に惚れ込んでいるのである。もちろん音楽ファンにとっては、まさにウィーン世紀末を代表するグスタフ・マーラーが、音楽史上におけるかけがえのない偶像というケースも多いだろう。一方美術の面では、多彩な才能がひしめく中で、グスタフ・クリムトとエゴン・シーレの名前こそが、一段高く燦然と輝く歴史的なものとなっていることは疑いない。この映画は、そのような世紀末ウィーンの頽廃文化を代表する天才画家エゴン・シーレの生きざま、いや、死にざまを描いている。オーストリアとルクセンブルクの資本による映画で、あえて原題をドイツ語で記した通り (上のポスターではその英訳が見える)、ドイツ語による映画なのである。もちろん、全国のシネコンで大々的に公開中というわけではないが、このような映画を見ることができる日本は、文化的にかなり高度な環境であるとは言ってよいと思う。これがシーレの肖像写真。
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私が画家エゴン・シーレ (1890 - 1918) の名前を知ったのは恐らく、高校生のとき (調べてみるとそれは 1983年) に封切られた映画、「エゴン・シーレ 愛と陶酔の日々」によってであったと思う。私はその作品を劇場に見に行く勇気がなかったのであるが、それは、何やら怪しいエロスを放つエゴン・シーレなる画家に、近寄りがたいものを感じたせいであったろうと思う。実はあとから知ったことには、新宿歌舞伎町にあったアート系映画を上映する映画館、シネマスクエアとうきゅうが 1981年にこけら落としとして上映した、ニコラス・ローグ監督、アート・ガーファンクル主演の映画「ジェラシー」も、世紀末ウィーンを題材にしていたのである。その映画は当時どこかの劇場で予告編を見た記憶はあるものの、やはり本編は見ていない。そして私の場合はその後すぐ、マーラーに熱狂してからウィーン世紀末に深入りした高校生時代、興味は容易にクリムトにまではたどり着いたが、そこからシーレまでは未だ遠かった。そして、今書庫を調べて手元に引っ張り出してきた本は、1986年 3月号の「美術手帖 特集シーレとウィーン」である。
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私はこの雑誌を、大学時代に東京から実家のある大阪まで帰省するため、学生の特権で東海道線の夜行の各駅停車、大垣行に乗り、その車中で夢中になって読んだことを昨日のことのように覚えている。多少大げさに言えば、これは私の文化面での指向を決定的にした雑誌である。今めくってみても、飯田善國、瀧本誠、千足伸行らの碩学が刺激的な文章を寄せているし、シーレだけでなく、世紀末ウィーンについての網羅的な情報が記載されている。そしてこの特集、当時新宿に存在した伊勢丹美術館での「エゴン・シーレとウィーン世紀末展」に関連した特集であったのである。従って私がシーレの本物に初めて接したのは、この1986年の展覧会ということになる。伊勢丹美術館はその後も類似の展覧会を何度も開き、私はそれらに必ず足を運んだし、その後起こったウィーン世紀末ブームの中で、主要な展覧会には恐らく全部足を運んだと思う。映画への言及に入る前に長々と書いているが (笑)、これが私のシーレに対する強い思い入れの源泉なのである。

さてここで、そのように世紀末ウィーンに対する思い入れを持つ私の、勝手な持論を披露しよう。この説は、これまでに読んだいかなる美術書歴史書の類にも載っていない。だが私が過去 30年間に亘って信じているのは、世紀末ウィーン文化を体現した人々のうち主要な人物は、誰一人として第一次世界大戦を生き延びることができなかったということだ。もちろん例外はあるだろう。だが、奇しくもクリムトとその弟子であるシーレが、ともに 1918年に他界していることは象徴的だ。西欧先進諸国がナショナリズムと帝国主義に導かれた挙句、ついに人類初の世界大戦に突入したという激動の歴史の中、芸術家たちはその命を削って創作活動に勤しんだ。そのギリギリと軋む命の音が、永遠の表現力をたたえているのであるが、彼らの体は束の間の平和の到来まで持たなかった。これは 1912年にシーレが描いた自分とクリムトの肖像 (「隠者たち」)。
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この映画は、シーレが 28歳の若さでスペイン風邪で亡くなる (身重の妻が旅立った数日後に) 直前の情景を追いながら、そこに過去の様々な回想が積み重なるという構造になっている。一言で片づけてしまえば、大変僭越ながら、独立した映画としてはそれほど発見に満ちた作品とは思われない。例えば、劇中やたらと鏡が多いことに気付くが、それは例えば、先般このブログで採り上げた怪作「ネオン・デーモン」(ちなみにこの映画の余韻が、日が経つほどに大きくなってくるのはどういうわけか???) における鏡の多用とは全く異なり、人の心の裏側を覗き込むような怪しい雰囲気の醸成にまでは至っていない。際立った映画的瞬間は、残念ながらそれほど多くは訪れないのである。ただ、ウィーンにあって演劇 (もちろんその周辺芸術分野である音楽) のファンにはなじみある名前、マックス・ラインハルトの名を冠したゼミナールで演技の修練を積んだ役者が多く出ていて、彼らの演技自体には見るべきところもあり、何よりシーレの人生を忠実に辿ることで、その孤高の魂のありかを考えさせるような出来にはなっていると思う。題名の「死と乙女」(1915年) は、このようなシーレの代表作のひとつ。
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この作品を描くシーンが映画に登場する。やがて遥かアフリカの地で死を迎えるモデルであり愛人であったヴァリを抱きしめるシーレ自身が、死神なのであったのか。
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ところでその愛人ヴァリの肖像はこちら。なるほど、今回の女優さんには共通した雰囲気がありますな。
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題名になっている「死と乙女」とは、これは常識に属することであろうが、シューベルトの歌曲の題名であり、死の床に臥す乙女と死神との対話が題材になっている。シューベルトはこの歌曲の主題を弦楽四重奏曲にも転用していて、その曲も「死と乙女」と呼ばれる。それを弦楽オーケストラ版に編曲したのは、ほかならぬグスタフ・マーラーだ。つまりこの「死と乙女」というテーマは、世紀末ウィーンのひとつのキーワードなのである。
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そんなわけで、結局ほとんど映画については語っていないことに気付いたが (笑)、この映画は、シーレに興味のある人 (よく知らないが知ってみたいと思う人を含む) にとっては興味深いものであることは請け合いだ。だがその次は是非ウィーンに飛んで、ベルヴェデーレ宮殿に展示されているシーレやクリムトの実物を見、そして、かつて伊勢丹美術館等に何度もやってきたシーレ作品の一大コレクションを展示するレオポルト美術館に足を運ぶことを心からお薦めする。もしかすると、それによって人生が変わる人もいるかもしれないが、その責任は取りかねるので何卒ご容赦を。
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by yokohama7474 | 2017-02-17 23:48 | 映画 | Comments(0)

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織田信長が明智光秀によって討たれた本能寺の変は、日本史上屈指の大事件であることは論を俟たないが、上のポスターにある通り、日本史上最大の謎と言っても過言ではない。このブログでも、光秀の子孫だという明智憲三郎著の「本能寺の変 431年目の真実」という大変面白い本をご紹介した (因みにその私の記事は、大変驚いたことに、著者明智憲三郎さんの公式ブログでも言及されました)。この映画は、その本能寺の変を目撃する現代女性を描いたもの。綾瀬はるか主演ということで、すぐに思い出す類似の映画は、「プリンセス・トヨトミ」であるが、あちらが小説の映画化であるのに対してこちらはオリジナル脚本。また設定は随分違っていて、こちらは現代と過去がはっきり断絶しているところ、ひょんなことからその二つの時間帯を往復することになる女性主人公を描いている。実はこの映画の監督は、「プリンセス・トヨトミ」と同じ鈴木雅之。シャネルズ = ラッツ & スターの歌手とは同姓同名で、全くの別人だ (笑)。もともとはテレビの演出家らしい。
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物語は、綾瀬はるか演じる結婚を控えた女性が、婚約者の親に会いに彼の実家のある京都に泊まるが、予定していたホテルには手違いで入れない。途方に暮れているときに目に入った古風な「本能寺ホテル」というホテルに転がり込むことになるが、そのホテルのエレベーターは、ある条件が整うと、1582年 6月 1日、つまりは大事件発生の 1日前の本能寺にタイムスリップする。そのことを知った女性は、なんとか信長に危機を伝えようとするというストーリー。
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信長には堤真一、森蘭丸には濱田岳が扮していて、主演の綾瀬はるかともども、最初から彼らが演じることを想定しての、いわゆる「あて書き」である由。その他、婚約者の父親が近藤正臣、ホテルの支配人は風間杜夫と、それぞれの個性に合った役は、なかなか気が利いている。
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だがやはりこの映画で最も存在感を発揮しているのは、綾瀬はるかであることは間違いないだろう。もちろん、大河ドラマの主役をはじめ、シリアスな役柄も演じているとはいえ、その天然ぶりには他の追随を許さない (?) ものがあり、ここではさすがにあて書きだけあって、とてもよい味を出している。作品そのものは、ひとりの女性が当たり前の日常にわずかな疑問を持ち、タイムスリップを経験する中で、信長からの刺激を受け、新たな人生観を得て成長するという流れがあって、それほど易しい役ではないと思う。こんな感じで戦国時代にも平気で入って行ける肝っ玉のある役柄でもある。
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そして演出も、かなり細かい部分の呼吸に気配りがなされていて、あれこれの工夫が面白い。例えば、主人公が最初のホテルに入れないことが判明する場面のとぼけぶり、金平糖をかじるときのカリッという食感など、印象的である。それから、美術も結構手が込んだ作りで、スタッフの苦労がしのばれる。ただその一方で、この映画のメッセージが何か現代人の感性と鋭く切り結ぶかと言えば、残念ながらそこまでの成果は出ていないように思う。例えば冒頭に引用されているビルマルクの言葉「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」は、作品の基調トーンとしてどこまで活きているであろうか。タイムスリップとは、まさに経験ではないか。この映画の中で経験から学ぶ主人公は、では愚者ということになるのかな。そのあたりの中途半端感が大変残念である。

ところで、本能寺の変が起こったのは、言うまでもなく本能寺という寺院なのであるが、信長が討たれたときになぜここに滞在していたかというと、この寺院を宿泊所としていたからだ。その意味では、まさに信長の宿泊場所が「本能寺ホテル」であったわけだ。調べてみるとこの本能寺は、法華宗、つまりは日蓮宗の寺院で、信長はこの宗派に帰依していたこともあって、上洛時にはこの寺を定宿としていたようだ。周知の通り信長は一向宗 (この時代は浄土真宗ではなく浄土宗を指したらしい) とは血みどろの対決をしているし、天台宗の総本山、比叡山を焼き討ちしているわけであるが、既存の仏教のすべてを否定したわけではなかったのである。ただ、ただである。この映画の中に、まさに歴史を大事に思う人には我慢できないシーンがある。それは、本能寺という設定の寺院の建物に、デカデカと「方丈」という額がかかっているのだ (ロケ地は南禅寺だろうか)。私の理解では、これは禅寺特有の住職の居室の呼び名であり、明らかに法華宗の寺院たる本能寺の景色ではない。どうでもよいことという見方もあると思うが、歴史に学ぶ賢者であれば、もうひと工夫欲しかったところ。こんな感じの建物。
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それから、明らかなロケ地がひとつあって、それは兵庫県の書写山円教寺だ。
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この場所で信長と家臣が球技をして遊ぶのであるが、ここは寺院にしては珍しく、建物によって囲まれた土地で、球技用のコートのような閉鎖空間になっているので、その着想は理解できる。ただ、シーンの流れとしては、閉塞感があってあまりよくないと思う。もっと広々した河原でのロケの方がよくはなかっただろうか。映画の印象は、個々のシーンの積み重ねによって決まる。細部においては、上に書いたような気の利いたシーンもある一方で、この種の時代物に欠かせないロケ地の組み合わせについては、ちょっと課題があるようにも思うが、いかがなものか。

そういえば、この映画は日本史上最大の謎である本能寺の変に迫るとの触れ込みであったが、信長の最期について、何か目から鱗の大発見が描かれていただろうか。ネタバレは避けるが、なんだろう、例の「人生五十年」という幸若舞を舞うシーンはなく、その点が新味と評価すべきだろうか。つまり、信長の生は 50年どころか、遥かな時を超えて、今に至る 400年以上も続いているということか。うーむ、まさかヴァンパイアものではあるまいな・・・。いやいや、そんな心配はないので (笑)、まだご覧でない方は、私のように重箱の隅をつっつくことなく、ごく自然に楽しんでもらえる映画だと思って見に行かれればよいものと思う。でも、本当に信長の最期ってどんな感じだったのであろうか。永遠に真相が分からない歴史のロマンである。
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by yokohama7474 | 2017-02-16 23:02 | 映画 | Comments(0)

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とある人から、「今日は何の映画を見るんですか?」と訊かれて、「『ドクター・ストレンジ』ですよ」と答えると、「ええっ?! あの白黒映画、どこかの劇場でやっているんですか???」との反応。一体何かと思ったら、原題 "Dr. Strangelove"、日本公開名「博士の異常な愛情」のことであったようだ。ちなみに原題も邦題も実際にはもっと長いのだが、普通はこの題名で通っている。それは言うまでもなく鬼才スタンリー・キューブリック監督、ピーター・セラーズ主演の古い作品。いえいえ違います。この「ドクター・ストレンジ」は、「ドクター・ストレンジラヴ」とは全く違った映画で、「アベンジャーズ」シリーズで知られるアメリカンコミックのマーヴェル社のキャラクターが主人公。今回初めて、英国の名優ベネディクト・カンバーバッチ主演で映画化されたもの。少なくとも私は今回の映画で初めてそのキャラクターの存在を知ったが、調べてみると、マーヴェル社のアメコミのキャラクターとして初めて登場したのは、なんと 1963年と古いのである。
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ところが奇妙なことに、キューブリックの "Dr. Strangelove"、つまり「博士の異常な愛情」も、やはり同じ 1963年の制作なのである。ここには何か不思議な魔術的連関があるのであろうか。そう、これはアメコミにしては珍しい、魔術をテーマにした物語なのである。冷戦真っ只中の 60年代にこのような東洋的魔術や傲慢さへの戒めといった内容が受けていたとすると、当時米国が直面していた切迫した危機と、その裏腹の虚無感が、その背景にあるのかもしれない。もっともキューブリックの映画の方は、明確に冷戦の産物でありながら、こちらは魔術とは関係なさそうであるが (笑)。ともあれ、このストレンジな題名は一体どういう意味かというと、スティーヴン・ストレンジという名前の医者が主人公だということである。分かりやすすぎる (笑)。大抵の人は、「ストレンジ」などという文字通りストレンジな苗字を持つ人なんているわけないよと思うかもしれないが、いやいや、人生長く生きてくるといろんなことがある。私が仕事で関係のある人で、Strange という苗字を持つ人がちゃんと実在するのだ。それも、全くストレンジな人ではなく、業界の一流会社のニューヨーク本社にお勤めのエリートだ。今度会ったら、魔術を使うか否か確認してみよう。

などと、本編と関係ないことをウダウダ書いている理由はただひとつ。私には、この映画は面白いとは思えないからだ。せっかくカンバーバッチほどの名優を主演とし、このブログの過去の記事でも絶賛した、私が深く敬愛するデレク・ジャーマンのミューズであった女優ティルダ・スウィントンまで起用しながら、全くもったいない話である。しかも彼女、これは本当に頭を剃っているのではなかろうか。
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アメコミを原作とする映画がすべて「所詮マンガだろ」という評価にとどまるものではないことは自明で、このブログでも、「シビル・ウォー / キャプテン・アメリカ」などは高く評価したものである。だがこの「ドクター・ストレンジ」に対しては残念ながら、「所詮マンガだろ」という憎まれ口を叩きたくなってしまうのだ。何やらクルクル手を回すだけで空間に黄色い炎のようなものが現れ、別の場所に移動できたり敵を攻撃したり自分を防御したりできる。のみならず後半では時間を操るようにまでなってしまう。これができるなら、亡くなってしまったり怪我をした登場人物 (自分を含め) に対しては、全部時間を戻せば事なきを得るではないか。昔クリストファー・リーヴが演じた「スーパーマン」の 1作目で、恋人の死に慟哭したスーパーマンが地球の周りを渾身で高速飛行し、自転を逆回りさせて時間を戻すシーンがあったが、あのような切実で素朴なシーンが懐かしい。
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ネタバレは避けるものの、魔術によって時間を逆行させることで、壊れた建物が原状回復して行くシーンは、最近「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」でも出て来た。それゆえ、この映画のラストのラストに出てくる「魔法使いが多すぎる」というセリフは、もしや、ハリー・ポッター・シリーズにケンカを売っているのではないかと思いたくもなるのである。一方、予告編でも明らかであったこの映画のウリになる見事なシーンは、建物がグニャグニャと動き、重力が自在に変化するところ。
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このパターンでは、非常に手の込んだシーンもいくつかあり、手間暇かかった映像であることは認めるが、これらのイメージも既に、「インセプション」とか「スタートレック Beyond」で使われているものの延長であり、現在の CG 技術をもってすれば、それほど驚くべきものとも思われない。まあ、予告編でもう見てしまっていますしね。

再び役者に関しては、主人公の恋人 (なのであろうか) 役のレイチェル・マクアダムスは最近大活躍であるが、ここではコスプレをしない (あ、医者の白衣をコスプレと認定しないならだが) 一般人の役を自然に演じている。
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一方、コスプレを楽しんでいる気配であるのは、敵であるカエシリウス役のミッツ・ミケルセン。デンマーク人で、実は「ローグ・ワン / スターウォーズ・ストーリー」では、主人公の父親、デススターの設計者ゲイレン・アーソ役を演じていた俳優だ。全然気づかなかった。なるほどこうして比べてみると、今回は目の周りのお肌が随分と荒れておられるが、確かに同一人物とも見える (笑)。
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監督のスコット・デリクソンは 1977年生まれの若手で、サスペンスやホラー系を中心に映画を作ってきた人。私が見たいと思って結局見ることができなかった「NY 心霊捜査官」なども監督している。今回はこの大作に大抜擢ということだろう。
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この映画、エンドタイトル終了後にもシーンがあり、今後マーヴェル社のほかのアメコミ・キャラクターとの共演があることはほぼ明らかだし、続編の制作が明示されて終わる。アベンジャー関係も何やらややこしいことになっており、スパイダーマン (マーヴェル社にとっては新顔だ) がアイアンマンに弟子入り (?) する次回作の予告編も、既に劇場で流れている。あまり複雑にキャラクターを錯綜させるのもどうかと思いますがね・・・。ともあれこの映画、突っ込みどころには事欠かないストレンジな映画ではありました。

by yokohama7474 | 2017-02-15 01:05 | 映画 | Comments(0)

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未だ記憶に新しい、スノーデン事件。米国が国民のプライヴァシーを犯して携帯電話や E-メール、SNS を傍受・監視していたという事実を、その行為に関わっていた当事者が暴露した衝撃は大きかった。それは 2013年 6月のこと。国家機密を暴露し、その後ロシアに逃亡したエドワード・ジョゼフ・スノーデン、現在 33歳。この映画はそのスノーデンが社会人として世に出てから、大きな決断をするまでの様々な経緯を克明に辿って行くもの。なんといっても監督があのオリヴァー・ストーンであるから、期待できようというものだ。
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「プラトーン」「JFK」など、米国の抱える闇に光を当てる作品を多く発表してきた彼のことであるから、この現代の大事件を題材とすることに、なんら不思議はない。とはいえ、これはほんの 4年前に起こったことであり、依然として進行中のケース。過去の事件を扱うのとは緊張感が違うであろう。そして実際この映画においては、現在でも健在であろう人たちの役が多く登場する。もちろんすべてが現実の再現ではないかもしれないが、いわば国への反逆者を扱うに際し、どのように描くかという点には細心の注意が必要だし、大変リスクのあることであることは明らかだ。なので私はまず、この監督の勇気に称賛を捧げたい。だが興味深いことに、監督自身のインタビューによると、「正直に言うと、この映画には関わりたくなかった。これまでに論争を呼ぶ作品は十分やっているし、マーティン・ルーサー・キング牧師の映画に関わったものの、結局は実現には至らなかった苦い経験があった」とのこと。なるほど、ストーンほどの実績と発言力のある映画人をもってしても、なんでもかんでも企画を実現できるわけではないのだ。あるいは、既に実績と発言力があるからこそ、権力者側から見ると危険であるということにもなりうる。そのことをまず認識する必要があるだろう。

この手の映画はそのように、現実を考える手段として位置づけられるのは致し方ないが、まずは純粋に映画として見てみよう。すると、まず素晴らしいと評価できるのは、主演のジョゼフ・ゴードン = レヴィッド。
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このブログでも記事を書いた「ザ・ウォーク」の演技も記憶に新しい彼が、その前作と同じくここでも、ある人並外れた能力を持ち、また強い信念に導かれて自らの道を進む主人公を、強い説得力を持って演じている。一見、淡々としているというか飄々としているその一方で、国家機密を扱っている重圧を常に感じているという、いわば引き裂かれた若者像を巧みに描いていると言えるだろう。スノーデンの個人生活も赤裸々に描かれ、恋人との亀裂や再会もストーリーの大きな比重を占めているが、その演出も実に巧みであり、普通の若者が前代未聞の国家への反逆を決意するまでの過程には、フィクションであるとノンフクションであるとを問わないサスペンスが感じられる。私としては、このように純粋に映画として流れがうまく行っている点をもって、これは充分に価値のある作品であると思うのである。共演者の中には、「スタートレック」シリーズで印象的なミスター・スポックを演じているザカリー・クイントとか、私としては久しぶりに見るニコラス・ケイジ、あるいはクリント・イーストウッドの息子であるスコット・イーストウッドがいる。それぞれに個性的で面白い。
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そして映画の大詰めでは、モスクワにいるスノーデンがテレビ番組で人々に語り掛けるシーンがあり、ここでついにゴードン = レヴィット演じるスノーデンは本人と一体になる。いや、これはどう見ても本人である。調べてみると、このラストシーンは実際にモスクワで撮影されており、ここで語っているのは本人なのである。これは映画の実際のシーンではなく、スノーデンの肖像写真。
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実際にこの映画の撮影中には当のスノーデンが以前所属していた NSA (National Security Agency = 国家安全保証局) から目をつけられ、制作に当たっては情報や素材は手渡しされ、オフィスでは盗聴器の存在を常に警戒していたという。そのようにしてできた映画であるから、やはり作り手たちにとっては特別な思い入れがあるであろうし、またこれを見る機会を持つ我々も、現代人の生活についての様々な感慨を抱くことになる。我々は後戻りすることはできない。かつては存在した中心が失われ、これからも世界で人々は、張り巡らされた網の目の上で生きて行くように、さらになって行くだろう。何年か経ってまた、スノーデンの行ったことや、この映画が訴えていたことを思い出すとき、我々はどんな問題意識を抱えているのであろうか。その答えは誰にも分からないが、ともあれ少なくとも問題意識くらいは持ち続けなくてはならない (笑)。オリヴァー・ストーンは語っている。「世界を変革しようだなんて思っていない。映画にできることには限界があるし、活動家のゲームを追いかけるつもりもない。ただ私は自分の中の良心と情熱に従っているだけなんだ」・・・なるほど、含蓄深い言葉である。

ところでオリヴァー・ストーンは、2013年に NHK でも放送された「もうひとつのアメリカ史」という全 10回のテレビシリーズを制作している。私はそれを見逃したので、後日出版された 3冊の書物を購入したが、最初の 1冊を以前読み終えただけで止まってしまっている。ほかにも未読の本が沢山あるという事情もあるが、それは言い訳で、このシリーズは内容が重くて、なかなか次に進み気が起こらないのが実情だ。だが、この偉大な映画監督の「良心と情熱」について行くため、残りの 2冊にも近く手をつけたいと考えている。
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by yokohama7474 | 2017-02-11 23:17 | 映画 | Comments(0)

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自らがキリスト教徒であった遠藤周作の代表作「沈黙」。過去、私の敬愛する篠田正浩によって 1971年に映画化されており、その際の題名は今回と同じ「沈黙 Silence」であった。残念ながら私はその映画を見ていないが、原作はもちろん読んでいるし、1993年に若杉弘によって初演された松村禎三のオペラも、初演時に見ている (ええっと、あまり面白くありませんでした・・・笑)。加えて、以前書いた長崎旅行の記事でも述べた通り、隠れキリシタンは私にとって大変に興味のあるテーマ。従って私には、この映画を見るに当たっての充分な思い入れが既にあったのである。ところが、この映画の鑑賞後のある日に交わされた、私と家人の会話は以下の通り。
 私「うーん、この映画イマイチだったねぇ。」
 家人 (驚いて) 「なに言ってんの。すごい映画だよ。」
 私「まぁ、そういう評価も分からんではないけどね、世界には悲惨な歴史が満ち溢れていて、日本での切支丹迫害だけが痛ましい悲劇じゃないんだよ。」
 家人 (軽蔑の眼差しで) 「心の曇った人にはそう見えるのね。私は感動して涙を流したわ。」
 私 (家の外を見て)「・・・。ええっと、明日の天気はどうだろう。寒いのかなぁ。」

このブログの記事のあれこれで私は、最低限の礼儀は守りながら、面白いものは面白い、面白くないものは面白くないと正直な思いをつづってきている。それゆえ、コメントを頂く方から、時にはネット上でさらし者になるような厳しい評価も浴びせられてきた。だがそれは自ら引き受けた道。匿名の度を越えた卑劣な罵詈雑言でないと私が判断する限り、そのようなコメントは別に隠すことでもなんでもない。というわけで、期待を込めて見たこの映画、私にとっては残念なことにイマイチであったということから始めよう。これは監督のマーティン・スコセッシと、本作に出演している浅野忠信、窪塚洋介の写真。日本でのプロモーション用。
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未だ衰えぬ勢いで新作を発表し続けるスコセッシは、今年 74歳。まだまだこれから深みのある映画を撮って行ってくれるであろう。ただ、作品による出来のむらがある人だと思うので、これから丁寧な映画作りをしてくれることを望みたくなる。なんでもこの作品は、スコセッシが初めて原作を読んで以来、過去 28年に亘って映画化が彼の悲願であったらしい。映画化がなかなか実現せず、製作会社との間で訴訟沙汰にまでなったらしい。その意味では、スコセッシの悲願を達成する記念すべき映画であるということだ。

原作は大変有名であるが、念のためにあらすじを述べておくと、江戸時代初期、キリスト教禁制から未だ日も浅い頃、マカオにあるイエズス会の拠点で 2人の若い神父が意外な話を聞く。それは、自身日本でも活発な布教活動を行ったあのヴァリニャーノが語る話だ。それによると、布教のために日本に渡ったフェレイラ神父という人物が、キリスト教を棄教して、のうのうと日本に住んでいるということである。若い 2人は、自分たちがかつて師事したフェレイラに限ってそんなことがあるわけないと激昂し、真実を確かめようと、果敢にも日本に渡ってくる。だがそこで彼らは、長崎の隠れキリシタンとともに、筆舌に尽くしがたい残酷な弾圧を受ける。敬虔な信者たちがこれほど苦しんでいるのにもかかわらず、救済すべき神の顕現はない。これほどの危急な場面において沈黙を守っている神の意思は、一体いかなるものなのだろうか、という重い重い命題が扱われているのである。

まず印象に残ったシーンを述べると、切支丹であると摘発されたのに、踏み絵を踏まずに処刑された人たちの最期。そのうちのひとりは、あのピーター・ブルックの劇団で長年活躍する笈田ヨシ。彼はもうすぐ小川里美主演のプッチーニ作曲「蝶々夫人」の演奏会形式の演出も手掛けるが、残念ながら私はそれを見ることができない。今年既に 83歳の高齢でありながら、ここでも全身全霊で演技する彼の姿には感動を禁じ得ないのである。
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それから、「シン・ゴジラ」での演技も記憶に新しい、映画監督の塚本晋也。あの田口トモロヲ主演のパンクな「鉄男」から既に 30年近く。時代は移り変わり、人々はその時々で感性に合うものを選ぶ。願わくばこの映画における彼の体を張った熱演が、多くの人に感銘を与えますように。十字架から降ろされる彼の姿は、さながらイエス・キリストのようでしたよ。熱演に拍手!!
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ストーリー自体が感動的であるのはもともと分かっているし、隠れキリシタンがいかなる過酷な目に遭わされたのかも一定の知識はある。従ってポイントは、この映画が映画自体としてどの程度の完成度に達しているかということであろう。その観点から、私が覚えた不満をいくつか挙げてみよう。

・イエズス会の宣教師は、反宗教改革の旗印のもと、異常なまでの情熱で布教に携わったゆえに、日本語を喋るべく死にもの狂いの努力をしたはず。なぜなら、キリスト教の信仰の証は言葉で語られるべきであるからだ。異文化である日本の習慣や日本人の発想に戸惑いは覚えたであろうが、一方で言葉の重要性を実感したはず。この映画にはその観点が欠けている。
・英語。もちろん、米国資本の映画である以上はやむない設定なのであろうが、江戸時代の長崎の農民たちが英語を喋ることなどあり得ない。もしその設定にするなら、片言の英語ではなく、完璧な英語を喋るという設定にした方がまだよかった。もちろん、遥か昔の銀河の彼方の物語である「スター・ウォーズ」で英語が使われていることを思うと、特に目くじらを立てるまでもないのかもしれないが (笑)。
・拷問の描き方はこれで充分か。私は別に残酷趣味があるわけではないが、実際の拷問はもっともっと悲惨なものであったと思う。
・宣教師のひとりは、なぜに溺死するのか。海の中で泳いでいれば助かったのではないか。それとも金槌だったのか (笑)。
・夏のシーンであっても、日本の夏の雰囲気が出ていない。オープニングとエンドタイトルに一切音楽を使わず、蝉の声や波の音に終始したという着眼点を思えば、実際の夏のシーンの出来は若干残念である。

と書きながら思い出すのは、この映画で極めて重要な役割を演じているあと二人の俳優、すなわち、イッセー尾形とリーアム・ニーソンである。まずは前者であるが、当時の領主がこれほど英語がうまかったか否かは別として、さすがに米国でも一人芝居で好評を得ている人だ。その表情や身振りのひとつひとつに、残酷さと温かさが同居する人間の不可思議さを体現する何かがある。
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そしてリーアム・ニーソン。転びのバテレンとは、実は悟りの境地に至っていた人なのかもしれない。これは未だそこに辿り着く前の、苦悩に満ちた神父の表情。
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またもうひとつの発見は、切支丹であっても、日本人である限り、信仰を続けるためには何か目に見える崇敬の対象が欲しいということ。私は先日、東京国立博物館で春日大社の展覧会を見ており、いずれ記事もアップするが、その展覧会で感じたものと同じものがここにはある。フェレイラの語るように、西欧諸国によって植民地化されたアジアのほかの国々と異なり、日本はまるで沼であって、そこに植物が根を張るのは極めて困難であるのだ。そのことをこの映画が皮膚感覚を持って描いているかというと、残念ながら私にはそうは思えない。もっともっと宣教師の内面に迫り、切支丹たちの複雑な思いに迫って欲しかった。いや、もちろんそうは言っても、このようなシーンには私も心動かされたのであるが。
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我々日本人が神仏に期待するのは何であろうか。この国では、自然そのものが信仰の対象となる。そこでは、神はそもそも最初から沈黙しているのではないか。この映画の中で神の沈黙を問いかけるのが、日本人ではなく、ポルトガル人であることに注目しよう。聞こえない声に耳を傾けるのは日本人の習性だ。そして忍耐強く、残酷な境遇にも忍従するのである。イエズス会が危機感に駆られて日本に派遣した宣教師たちは、そのような日本人を見てどのように思ったであろうか。彼我間の隔たりゆえ、理解できないものがある一方で、この国の持つ揺るぎない独自性もきっと理解したに違いない。その衝撃をこそ、この映画では描いて欲しかった。というわけで、私と家人の議論は延々続いて行くのである。

by yokohama7474 | 2017-02-09 23:47 | 映画 | Comments(6)

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表の顔は社会生活を営む一般人。裏の顔は腕利きの戦闘員。そのような設定の映画はままあるものだ。もちろんスーパーマンやバットマンやスパイダーマンといった米国の伝統的なヒーローはみなそうであり、日本の怪獣・怪人ヒーローものも軒並みそうである。人には変身願望があり、日常の自分以外になることに、誰しもが漠然とした憧れをもつもの。だが、その願望も、実は変身する対象次第とも言える。ここで私は「戦闘員」という言葉を使ったが、それは正義のヒーローであるかもしれないが、場合によっては上のポスターのように 「殺し屋」である場合もあるのだ。殺し屋とはなんとも物騒であり、そんな変身ならしたくないと思う人がほとんどであろう。だが、ここにそのいやな役を引き受けた男がいる。ベン・アフレック演じるところの会計士、クリスチャン・ウルフ。現代音楽好きなら、あのジョン・ケージの親友でもあった同名の作曲家 (もっとも、苗字は Wolff なので、ウォルフという発音が正しいようだが) を思い出すかもしれない・・・まぁそんな人は世の中にごくごく少数かと思うけれども (笑)。ともあれ、ベン・アフレックである。
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私はこの映画を大変素晴らしい作品であると思うが、その最大の功労者はやはりこの人、ベン・アフレックであろう。これまで様々な役を演じてきた、今やハリウッドを代表する俳優であるが、このブログではその出来に苦言を呈した最近の「バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生」における似合わないバットマン役から一転、素晴らしいニューヒーローを演じている。ここでのアフレックの演技の本質を一言で表せば、「目の光を消す演技」ということになるだろうか。天才的な能力を持つにもかかわらず、いや、それゆえであろうか、他人とのコミュニケーションが下手な人物像を、その顔の表情や立ち姿からいかんなく表現しきっていて、その象徴が、光を持たない、焦点の合わない目なのである。いや、焦点が合わないという描写は正確ではない。昼には会計士として立派に仕事をし、危ない裏社会にも通じているのであるから、常に周りを見ていないと務まらないはずである。むしろその視線は、焦点が合っていないのではなく、目の前にあるものを越えた何かを常にとらえている、ということではないか。それは、危険を察知する能力でもあろうが、それ以外に、現実ではない数字の世界であったり、幼い頃の記憶であったりして、この男は常にそれらのイリュージョンに苛まれているのである。なのでこのヒーローは、もちろん伝統的なそれとは異なる特異なもので、よくバットマンに使われるダークヒーローとかアンチヒーローというものとも違っている。それは、殺し屋として攻撃する対象が、世界の平和を乱す者ということではなく、個人として許せない者であるという点。それから、日常の顔は知的職業でありながら自閉症であって、バットマンの正体である大富豪ブルース・ウェインのようには、「暗」に対する明確な「明」となっていない点。つまり、昼の顔と夜の顔は、ある意味でそれほど隔たっていないとも言える。だが一方で、知的職業である会計士がなぜにこんなに強いのかという点での意外性 (笑) は、やはりあるのである。こんな複雑なヒーローを演じられる俳優が、そうそういるとは思えない。

この映画の映像は、概してそれほどクリアであるとは言い難い。室内のシーンでも多くは平板な印象で、ライティングにあまり凝っていないのではないかと思われる (話の都合上、シルエットが写るというシーンのライティングは別だが)。その一方で、映像のリズムという点では面白い箇所が沢山ある。例えば、四角形と円形のせめぎあい。主人公の自宅では、壁の一部にが四角い穴があいているのが大変印象的で、それの場所以外にも、私の頭にあるその前後のシーンの残像には、四角形が多い。だが次のシーンでは主人公が料理をしていて、丸い皿の上に乗せるのは、丸い目玉焼きと丸いパンケーキなのである。このような視覚上の仕掛けが見る者の潜在的な不安感を呼び覚まし、主人公の偏執的な面を強調する。例えばこんなシーンもそうである。
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この映画においては沢山の人が殺されてしまうので、途中少々うんざりするのは否めない。だが、大詰めのシーンは言ってみれば昔の東映ヤクザ映画のクライマックスのようなもので、いわば単身での殴り込み。最後には (もちろん意外な・・・と言いながらも途中でそれと分かるが、それでも好感を持ってみることができる、想定外のシーンもあり) カタルシスが得られるようになっている。そのカタルシスは、一匹狼であるはずの主人公に、携帯電話によって指示を出したり情報を与える女性の正体が最後に判明することで、一層高まる。大変によく出来た脚本であると思う。

ベン・アフレック以外で印象に残った役者は、まず、あの名作「セッション」での鬼教師役、J・K・シモンズ。ここでも実にいい流れを作り出している。つまり強面の捜査官でありながら、その内面には臆病さも狡さも優しさも同居しているのである。
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そして、彼の指示でウルフを追う分析官を演じるシンシア・アデイ=ロビンソンがよい。そもそもこの役が設定されていることで、ストーリーに複雑なウェイヴがかかる結果となり、緊迫感も生まれている。本筋のストーリーが縦に走っているとすると、そこに鋭い横線が加わるようなものである。
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その他、久しぶりに見るジョン・リスゴーは年を取ったがそれなりにいい味を出しているし、敵 (?) 役のジョン・バーンサルは、大変特徴的な顔であるが、あとで調べてみて、戦争映画「フューリー」に出演していたことを思い出した。それ以外にも充実したキャストに恵まれ、この映画は一本筋の通った、かつこれまでにないヒーロー物となったのである。大いに見る価値ありと申し上げておこう。監督は 1964年生まれの米国人、ギャビン・オコナー。これまでの作品に私はなじみがないが、この映画の前にナタリー・ポートマン、ユアン・マクレガー共演の「ジェーン」という西部劇を撮っていて、日本でも昨年 10月に公開されたようだが、完全に見逃してしまった。悔しい・・・。やはりまだまだ、多くの映画を見逃しているのである。
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最後に、美術に関連するネタについて少し触れてみよう。主人公ウルフは、反社会勢力を顧客として危ない橋を渡る仕事をしているおかげで金回りがよいのだが、ある場合には美術品の現物支給で報酬を受け取っている。あとで気づいたが、これは、足がつかないように盗品をあてがわれているのかもしれない。彼の隠れ家にかかっているのは、ルノワールとポロック。だがこのルノワールは、本人はどうやら本物と思っているようだが、どう見てもニセモノ。それに対し、米国抽象表現主義の巨匠ポロックの作品は、どうやら本物のようだ。こんな作品であった。
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主人公ウルフとともに命を狙われることになる女性 (アナ・ケンドリック演じるデイナ・カミングスという役) は、もともと学生の頃に美術を専攻したかったというセリフがあるが、彼女はルノワールには目もくれず、このポロックにのみ興味を示す点、なかなか説得力のある凝った作りになっている。また、もし私の記憶が正しければ、ウルフはこの絵をこんな風に見ていなかっただろうか???
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うーん、まあ確かに、縦でも横でも、どっちでもよいような気がする (笑)。でもポロックの絵には何かがあるから不思議である。それから、「ポーカーをする犬」という絵画についてのセリフもある。私はこの絵を知らなかったが、ちゃんと Wikipedia もあるから面白い。20世紀初頭にクーリッジという画家が描いた油絵のシリーズで、タバコ会社の広告用だという。
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このように、様々な切り口のある映画であり、私としては大満足だ。どうやらシリーズ化するらしいが、さて、今後もこのレヴェルを保つことができるであろうか。注目しよう。

by yokohama7474 | 2017-02-09 01:20 | 映画 | Comments(0)