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この映画は、東京のヒューマントラストシネマ渋谷と、大阪のシネ・ルーブル梅田で開催中の「未体験ゾーンの映画たち 2017」という特集上映に含まれるというかたちで公開されているものである。いや、正しくは「公開されていた」というべきか。なかなか面白そうだぞと思って調べたときには既に東京での上映は終了しており、大阪でしか見ることができない。そこで、別項で書いたあべのハルカス美術館に行くついでに見ることにした。常々このブログでは、日本で見ることのできる映画のヴァラエティの広さを正しく認識すべきとのメッセージを発しているが、この特集にかかっている数々の映画 (今年は実に 62本!!) などはまさにその好例である。以下、劇場のサイトからの説明。

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『未体験ゾーンの映画たち』は、日本未公開作品ばかりが集結する劇場発信型映画祭です。
様々な理由から劇場公開が見送られてしまう傑作・怪作映画を、映画ファンの皆様にスクリーンでご鑑賞いただくべく、ヒューマントラストシネマ渋谷をメイン会場に2012年より開催しています。第6回目となる2017年も、各国のあらゆるジャンルから選び抜かれた未体験ゾーンの映画たちを、新年の幕開けとともに一挙上映いたします!
ぜひ、自分だけの隠れた名作を映画館で見つけ出す喜びを、この映画祭で体験してください。
UNQUOTE

私のように映画は基本的に劇場で鑑賞すると決めていて、しかもゲテモノ映画に偏見のない人間 (?) としては、願ってもない特集上映だ。但し、これでも勤め人の身であるし、「普通の」映画を見たりコンサートや美術館に出掛けることでかなりの時間を取られているため、そうそう何本も見に行くことはできないが、だがせめてこの一本でも見れば、どのような内容の特集上映であるかについてのイメージを持つことができ、自分なりの文化の諸相の発見に資するであろう・・・と思ったのである (笑)。

さてこの作品、オーストラリア映画である。脚本・監督のケアンズ (おっと、そのままオーストラリアの都市名ですね) 兄弟は、これが長編 2作目。前作の「モーガン・ブラザーズ」はホラー・コメディで、同作でシッチェス映画祭ミッドナイトエクストリーム・グランプリなる賞を受賞した新鋭であるとのこと。ここでも低予算の手作り感満載ながら、「次はどうやって観客を怖がらせ、驚かせてやろうか」とにんまりしながらあれこれ試行錯誤する彼らの姿が目に浮かぶようだ。ストーリーは以下のようなもの。テレビの人気番組「スケア・キャンペーン」は、いわばホラー仕立てのドッキリ・カメラ。実在の恐ろしい施設に一般人を入れ、そこにニセの怪奇現象を起こしてその一般人を怖がらせる。だが、今やネットにはあらゆる映像が溢れ返る時代。カルト集団が殺人シーンを YouTube にアップして話題を呼んでいる中、テレビとしても刺激を高めないといけないと、放送局内で檄が入る。そこでスタッフは知恵を絞るが、その撮影現場に本物の殺人鬼が・・・という話。「どこまでが真実 (リアル) で、どこからがヤラセ (フェイク) なのか!?」というキャッチフレーズの通り、ストーリーは二転三転で、なかなかに気が利いている。正直なところ、ここに出ている役者はひとりとして知った顔がないが、以前も書いたがこの種のホラーでは、それはむしろ重要な要素になると思う。作り物と分かっていても、やはりこういう恰好をされると、それはそれは怖いもの。
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だがホントはこうであったりするわけで、ちょっと安心する (笑)。
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だから、こんなシーンが出て来ても、悲鳴を上げたり目をつぶる必要はありません!!
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・・・と、果たして言ってよいものか否か。後半の展開の意外さにはかなり乗せられるものがある。もしこの映画をご覧になる場合には、どのシーンが本当か嘘かをあまり考えず、映画のテンポに自然に身を委ねるのがよいと思う。そうすると、段々展開が読めてくるし、最後のオチも予測できようというものだ。だがそうすると今度は、不満が頭をもたげてくる。最後に黒幕は分かっても、実行犯の素性は最後まで分からないまま。ここまでドンデン返しをするなら、そのあたりも回答を用意するのが作り手のマナーではないのかと、少し思ってしまうのである。あるいは、この映画が好調なら続編を作ろうという意図のもと、あえてそういう作りにしているのかもしれない。そうであっても、私としてはこのラストは少し残念だと思ってしまった。

一方、この映画が一般の劇場で公開されないとすると、やはりその描写に一部刺激が強すぎる部分があるからだろう。それは、上記のようなスプラッターシーンではなく、殺人シーンをネットに上げるというカルト集団の描き方だ。この点にも私はあまりよい気持ちがしなかった。狂気を孕んだ現代世界は、このような事態を絵空事と言えない状況になっているので、少なくとも、見ていて楽しい気分にはならない。だから私はこの映画を第一級のホラーと呼ぶには躊躇を覚えてしまうのだ。ホラーにはどこかユーモアがあることが望ましく、ここではその点があまり上質とは言えないと思う。こらこら、こっちに来るなって!!
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だが、見た人の評判は結構よいらしく、ヒューマントラストシネマ渋谷では追加上映が決まったようである。2/12、14、16 の各 21:10 から。「なんだ、『川沿いのラプソディ』ではあまり誉めていなかったけど、面白いじゃん!!」と思われる方もおられよう。それこそまさに、このブログの標榜する文化の多様性を証明する事態である。ではしっかり目を開けて、Enjoy!!
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by yokohama7474 | 2017-02-07 01:28 | 映画 | Comments(0)

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この映画の邦題は「トッド・ソロンズの子犬物語」。「子犬物語」だけなら可愛いのだが、そこに何やら人の名前がついている。そもそもこのトッド・ソロンズとは何者かというと、この映画の監督なのである。最近の邦画の題名には、監督名を入れることは稀になっているが、以前は「フェリーニの」とか「ゴダールの」とかを冠した邦題名がいろいろあったし、渋いところでは「ヤコペッティの大残酷」などという映画もあったものだ。監督のトッド・ソロンズはアメリカン・インディペンデント界の鬼才であるそうで、私は見たことがないが、「ハピネス」「ストーリーテリング」などの作品で様々なタブーに触れながら人生のバカバカしさ、人間の愚かさをブラックユーモアたっぷりに描いてきた監督だという。なるほど、これでこの映画について語るべきことの半分は終わってしまった (笑)。監督はこんな人。確かに、大変爽やかそうとは、お世辞にも言えない人相だ。
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ネットの評判などを見ると、「可愛い題名に惹かれて見に行ってみるとビックリ!!」などというトーンのコメントがあるが、さもありなん。題名のみならず、ポスターを見てもこれは明らかにダックスフントを主人公とした映画であり、可愛らしい内容を連想しても不思議ではない。だが、予告編を一度でも見れば一目瞭然。これはかなりブラックな映画である。そして私がこの映画を見ようと思ったのは、まさにその点によってであった。ブラックな映画であるゆえに、上映館は限られているが、私が見に行ったヒューマントラストシネマ渋谷では、トイレがこんなことに。
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ちなみに原題である "Wiener Dog" であるが、この "Wiener" というのは、ドイツ語で「ウィーンの」という意味。そしてこれは英語では、日本語のウィンナーと同じで、ソーセージという意味らしい。ダックスフントという名称はもともとドイツ語で、英語圏では「ソーセージドッグ」や「ウィンナードッグ」とも呼ばれているらしい。その茶色くて細長い体がソーセージを連想させるからだろう。なのでこの映画の題名は、そのものずばり、主人公である犬の種類なのである。劇中の「インターミッション」に出てくる主人公のさすらいのシーン。これはとぼけた味わいがあって面白い。
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さぁ、そんな映画の内容はいかなるものなのであろうか。話は簡単。一匹のダックスフントが 4人の飼い主の間を転々とする間に起こる、様々な事件を描いている。最初の家では、少年の愛を受ける。結果的にであるが、私は 4つのエピソードの中でこれが最も印象に残った。あまりきれいでないシーン (笑) もあるが、ドビュッシーの「月の光」を、最初はフルートソロが主導するオーケストラ編曲で、続いてオリジナルのピアノで聴かせるあたり、写っている対象の汚さとの対照によって、曲の美しさを再認識させることとなった。ちなみに少年の母を演じるのはフランスの名女優ジュリー・デルピーだが、疲れた表情や体形を含めて、年を取ったなぁと思わせるのもまた、監督のブラックな意図なのだろうか。
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2人目の飼い主は、獣医の助手の女性。この女性は、ペットフードを選んでいるときにばったり出会った男のクラスメイトとともに、車で旅に出る。途中、ヒッチハイカーに出会ったり、同行の男友達の弟夫婦を訪ねたりする。
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次に犬の飼い主になるのは、落ち目の脚本家。彼は映画学校で教えているが、全く尊敬を得られず、ついに大変な事態を巻き起こす。ここで脚本家を演じているのは、最近ちょっとご無沙汰であったダニー・デヴィート (シュワルツェネッガーと共演した「ツインズ」で知られるが、ほかにも多くの映画に出演している)。さすがにいい味出している。だが、ここでの「大変な事態」(以下の写真参照) においては、落ちがイマイチ。
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そして最後は、エレン・バースティン演じる偏屈ばあさん。生活が安定せず小遣いをせびりに来る若い孫娘は、アーティストだという黒人の恋人を連れている。祖母の冷たい対応に焦ってベラベラ喋る孫娘は、彼を「ダミアン・ハーストみたいなアーティスト」と紹介するが、このアーティスト、私も名前は知っているが作品にあまり明確なイメージがなかったところ、後日ネット検索して納得。この映画をご覧になった方は、このアーティスト名で画像検索してみるとよいと思う。なるほど、ちゃんと意味のあるセリフなのだなと理解されることだろう。逆に、ダミアン・ハーストを知っている人には、それがどこのシーンに関係するのか、ワクワクしながらこの映画を見るという特権がある。
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私は映画に限らずほかの文化の分野や、果てはコーヒーまでブラックなものが好きなので、この映画を楽しむ素地はあると自負する。だが、この映画のラストは支持しない。ここで詳細を書けないのは残念だが、これはブラックというよりも、ただの嗜虐趣味である。この映画のエンドタイトルには、よくある動物愛護協会の「この映画においては動物は傷つけられていません」というステイトメントが出てくるし、監督はプログラム掲載のインタビューの中で同じことを述べている。だが、そういう問題ではなくて、散々描いてきたブラックな出来事、つまりは監督が弄んできた様々な登場人物の人生の決着をつけるために、もっとひねった結末を考えることはできなかったのか、動物愛護者の私としては、やはり残念に思うのである。

そんなわけで、可愛い子犬ちゃんの大冒険を見たい方には、全くお薦めできません (笑)。テイストの違いによって裏切られるリスクを覚悟の上で、とにかくブラックなものを見たいというもの好きな方には、特に見るなと止めることもしません。88分の短い映画ですしね (笑)。

by yokohama7474 | 2017-02-03 23:43 | 映画 | Comments(0)

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「スター・ウォーズ」シリーズの第 7作、エピソード 7 となる「フォースの覚醒」を見てからちょうど 1年ほどが経過した。最初この「ローグ・ワン」の予告編を劇場で見たとき、もうエピソード 8が完成したのかと早とちりしたが、これは、"A Star Wars Story" とある通り、シリーズに付属するものであって、全 9作のメインのエピソードには入らない。だが、これは例えば「イウォーク・アドベンチャー」のようなサイド・ストーリーではなく、実はシリーズの第 1作目、エピソード 4「新たなる希望」が始まる 10分前までを描いた物語なのである。つまり、
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いやだから、イウォークじゃないですって (笑)。ローグ・ワン、ローグ・ワン。この「ローグ」という言葉、昨年の「ミッション・インポッシブル / ローグ・ネーション」でも使われていたもので、「ならず者」という意味。この作品においては、帝国軍に従わないならず者たちの活躍が描かれているのである。ネタバレはいつものように避けるが、まぁ公開後 1ヶ月以上を経て、この作品の上演頻度も落ちてきていることだし、ごく簡単に言ってしまえば、エピソード 4 の大詰めで、帝国軍の強力極まりないデススターが、一ヶ所を攻撃されただけで大破してしまうという、考えてみれば不思議な出来事があったが、本作はその背景を描いているのである。
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この映画、世間の評価を見ているとなかなか高いようだが、正直に白状してしまうと、残念ながら私はあまり乘れなかった。それは、この直前 (同じ日) に見た映画が、先の記事でも採り上げた「アイ・イン・ザ・スカイ」であったことも関係していよう。現代の世界で実際に起こっていることを再現したようなあの映画の筆舌に絶する切実感に比べれば、この映画の中で起こっている戦争は、どこまで行っても架空の世界。もちろん架空の世界は大いに結構なのだが、今思い出せばエピソード 4で帝国軍兵士が銃で撃たれて倒れるところなど、いかにもどこかのどかなものであった。この映画で頻出するそのようなシーンを見ていると、何か胸が悪くなるような気がして来てしまう。これは私がいけないのであろうか。
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主役を演じるフェリシティ・ジョーンズは、「インフェルノ」での演技も記憶に新しい英国の女優である。ここでも「スター・ウォーズ」シリーズ特有の父と子の葛藤が描かれるが、この場合の設定はそれほど屈折もなく、ストレートな彼女の演技には好感が持てる。だが、いわゆる色気は皆無であると申し上げておこう (笑)。
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私の好きなフォレスト・ウィテカーも重要な役で出演している。彼はいい味を出していると思う。
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その一方、ほかのキャラクターにはあまり感心しなかった。この 2人は頑張っているものの、突き抜けたものまでは感じられなかったのは私だけだろうか。
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盲目の武術者チアルート・イムウェを演じるドニー・イェンと、その仲間であるベイズ・マルバスを演じるチアン・ウェン。実はともに 1963年生まれの中国人で、母国の映画で過去 2回共演しているという。と思ったら、後者はなんと映画監督でもあり、あの香川照之が出演した、日中戦争を舞台とした厳しい作品「鬼が来た!」の監督・主演なのである。それは面白い。だが、例えば「七人の侍」の大詰めシーンのような容赦なく観客に迫ってくるような迫力は、彼らの熱演によっても感じられなかった (比較するのも酷だとは思うものの)。

監督のギャレス・エドワーズは、2014年の「Godzilla」でメジャーテビューした英国人で、41歳。これだけの大作ともなると監督の持ち味を出すのは困難であると思うが、そうですねぇ、「Godzilla」もそれほどすごい映画とも思わなかったし、今後の活躍を期待することとしよう。
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恐らく「スター・ウォーズ」ファンとしては、ちゃんとダース・ベーダーが出てくるところとか、C3-PO や R2-D2 も 1シーンだけ出てくるところに喜びを見出すであろう。その他あれこれのトリビア楽屋落ちが沢山入っていることは、ネット検索すれば情報が得られる。だが私が面白いと思ったのは、この人の出演だ。
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昔のホラー映画におけるフランケンシュタインやドラキュラ役でも知られる名優ピーター・カッシング。ここでは、エピソード 4と同じ、デススターの司令官、ターキンを演じている・・・、いやちょっと待て。彼は随分以前に亡くなったのではなかったか。そう、彼は 1994年に死去している。実は今回のこのシーン、別の俳優の演技に昔のカッシングの顔をはめ込んだ CG 合成なのだそうである。うーん、全く違和感を感じない出来であった。同じような例はこの人にも。
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キャリー・フィッシャー演じるレイア姫が、デススターの設計図を受け取るシーンで出て来るのだが、これも明らかに CG 合成だと思われる。エンドタイトルを見ていると、Special Thanks のところに彼女の名前が出ていたので、撮影に当たって何かアドバイスでもしたのであろうか。だが、そのキャリー・フィッシャーは昨年 12月27日、まさに日本でこの映画が封切られた数日後に突然死去。未だ 60歳であったという。しかも、エピソード 4撮影時に共演していたハリソン・フォードと不倫関係にあったという衝撃事実を記した自伝をその直前に販売、そのプロモーションのためにロンドンを訪れた帰り、ロサンゼルスの空港で飛行機を降りたあと倒れたということだ。しかも彼女の死去の翌日、母親のデビー・レイノルズ (ミュージカル「雨に唄えば」でジーン・ケリーの相手役を務めた) も 83歳で死去。なんとも痛ましいことではないか。私がこの「ローグ・ワン」を見ても乗れなかったもうひとつの理由は、この一連の出来事が起こった後に見たことにもあるかもしれない。

それにしても、爽快感のない「スター・ウォーズ」だ。そもそも冒頭で "A long time ago in a galaxy far, far away..." と来て、ジャジャジャーン、パララッタッタッタタタタタタタタタと、ジョン・ウィリアムズによるあの勇壮なメインテーマが鳴り響くのがこのシリーズのワクワク感を醸成するのに、ここではそれがない。一方、本編終了後にはいつものエンドテーマが元気よく流れてやれやれと思うが、それもつかの間、すぐに暗い曲調に変わってしまうのだ。音楽の使用に関しては、何か契約上の問題でもあったのかと勘ぐりたくなってしまう。私はエピソード 2 の封切を 2002年にニューヨークで見たのだが、有名なテーマ曲が出て来るとヤンキーたちはヒューヒュー言って大騒ぎであった。さて今回の作品、そのようなヒューヒュー騒ぐ瞬間を奪われているわけで、米国の観客の反応はどうだったのであろうか。

ここで私が考え込んでしまうのだ。世界には暗く深刻な出来事が溢れていて、それは例えば「アイ・イン・ザ・スカイ」のような作品で仮借なく描かれている。その一方で、本来暗い世界を勇気づけるような希望を描くべき「スター・ウォーズ」が、戦争の描き方には切実感がない一方で、爽快感まで失ってしまっているとは、いかなることか。もはや時代は、胸のすく爽快な活劇というものを生み出せなくなってしまったのであろうか。彼らローグ・ワンによってつながれたはずの「新たなる希望」には、一体世界に対するどのようなメッセージが込められているのだろうか。
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by yokohama7474 | 2017-02-03 00:24 | 映画 | Comments(0)

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この映画の本質は、上のポスターにある通り、「現代の戦争 その衝撃の実態」ということに尽きる。ストーリーは至ってシンプル。ケニアの首都ナイロビのある家において、イスラム過激派が自爆テロの準備を進めている。米軍のミサイルを積んだ無人ドローン機 ("Eye in the Sky" である) や、鳥型やさらに小さな虫型と言った飛行する動物のかたちをした隠しカメラ、また現地の協力スタッフの手によって、その情報をつぶさにつかんだ英国諜報機関が、自爆テロを未然に防ぐためにテロリストたちのアジトにミサイルの標的を定める。だがその時、隣家の貧しい少女がそのアジトの塀に沿った路上に机を置いて、パンを売り始めた。このままテロリストたちを放置すれば、ほどなく数十人規模の死傷者が出ることは確実。だが今ミサイルで攻撃すれば、無実の少女の命は明らかに危険にさらされる・・・。さあ、いかなる決断がくだされるのか。この子は、普段の通りの生活をしているのであろうが、まさかこの日、遠く遠く離れたロンドンのオフィス及び諜報機関の司令部、米国の空軍基地やホワイトハウスから自分が見られており、また自分の命が危険にさらされていることを夢にも知るわけがない。
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これは決して甘い内容の理想主義的な反戦映画ではなく、見る者全員、今この瞬間にはいかなる意味でも戦争に無縁の者たちに対してすら、当事者さながらの決断を迫る、実に実に厳しい内容の映画なのである。昨今は戦争を極めてリアルなドキュメンタリータッチで描く映画が多くなっており、問題作は数多い。だが本作は、ドキュメンタリー風ではないにも関わらず、容赦なく観客の心に深く入ってくる仮借ないもので、極限状態における人間の尊厳を描いたフィクション映画として、ほかの作品にはない高い価値を持つものである。それ以上私には綴る言葉もないが、願わくば自分が何か重要な決断を迫られる状況に置かれたとき、誰か他人の責任で自分は関係ないとか、組織の命令でしょうがないとか、そういったことを考えることのない人間、いわば思考を停止することのない人間でありたいと、切に思う。この映画に「パイロット」として出てくる兵士 (演じるのはアーロン・ポールという俳優) は、パイロットと言っても空中で航空機を操縦するのではなく、要するにナイロビ上空を飛んでいるドローン兵器を遠く離れた米国ネヴァダ州で操縦しているのであるが、息の詰まるような極限状態においても、思考する人間であることをやめなかった。なんという素晴らしいことか。もちろん、そのことがすぐに少女の命を救うか否かは、誠に痛々しいことに、別問題であるのであるが。
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この映画の製作者のひとりは、英国の名優コリン・ファース。彼が出演した近作ではなんといっても、このブログでも絶賛した「キングスマン」が素晴らしいが、あの映画にあふれる自由に羽ばたく遊び心だけではなく、極めてリアルな問題意識を世の中に問うだけの度量がある人であると実感する。
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そして、この作戦を英国諜報部で指揮するキャサリン・パウエル大佐を演じるのは、これも英国を代表する名女優、ヘレン・ミレン。ここでの彼女は、いつも通り素晴らしいとしか言いようがない。決断力と正義感と合理性と、そして強引な手腕を持ちながらも、人間的な面を維持している、このような軍人がもし多ければ、世界はまだ少しは信頼できるような気がする。
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そして、ロンドンの国家緊急事態対策委員会で画面を見ながらパウエル大佐に指示を出すフランク・ベンソン中将を演じるのは、69歳にして昨年膵臓癌で亡くなった名優、アラン・リックマンである。以前も書いたが、ハリー・ポッターシリーズのみならず、「ラブ・アクチュアリー」などの作品でも渋い味を出していた。この作品は、声の出演だけであった「アリス・イン・ワンダーランド / 時間の旅」に先立つもので、演技を伴う出演作としてはこれが遺作であり、エンドタイトルにおいて、彼に捧げるとのメッセージが出てくる。ここでの演技はまさにこの役柄にふさわしい複雑なものであるだけに、改めて惜しい俳優を亡くしたものであると思う。この映画における彼の最後のセリフは大変に重いので、これからご覧になる方は是非その重みを味わって頂きたい。
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この映画の副題、「世界一安全な戦場」とは、現地ナイロビからの映像を見ながら少女の命を危険にさらす、英米の軍人や政治家たちのいる場所を指す。確かに現代の戦争の多くは、テレビゲームさながらの遠隔操作による爆撃によって遂行されていることくらいなら、我々もマスコミ報道によって既に知っている。そして、時には誤爆による民間施設への攻撃も耳にすることがある。無差別自爆テロによる被害も悲惨なものであるが、テロとの戦いに一般市民が巻き込まれるということも、これはもう、言葉がないほどに悲惨な事態である。そんなことは分かっているつもりであったが、だがこの映画を見ると、世界の現実はそれほど単純なものではないということが分かる。ミサイル発射の是非を巡って交わされる様々な会話は、さながら奔流のようにあちらに流れこちらに流れ、ついにはシンガポールで下痢に苦しむ英国外務大臣や、中国で卓球による親善を試みる米国国務長官など、首脳たちの居場所を求めて世界を走る。軍の幹部や政府首脳たちは、それぞれの大義と職掌に基づき、時にはリスクヘッジを企図して発言をし、議論は議論を呼んで結論はなかなか出ない。その様子には本当に手に汗握るものがあるのだが、ビジネスマンの方々には、是非彼らの英語を注意して聞いて頂きたい。日本語で果たして、このような議論ができるであろうか。それは何も軍事上の議論ではなく、日常のビジネス活動における議論に置き換えてみてもよいと思うのであるが、ともすれば責任が不明確だと言われがちな日本のシステムは、(「シン・ゴジラ」を思い出すまでもなく) 一般人の命のかかった場面に対処できるのであろうかと思ってしまうのである。一例を挙げると、「シン・ゴジラ」における何度も聞かれた言葉は、「総理! ご決断を!!」であった。これは政府の緊急会議において大勢が総理を取り囲んだ状況において発される言葉であり、江戸時代であればこの「総理!」の部分がそのまま「殿!」であっただけで、きっと同じような光景があちこちで繰り広げられていたであろう (笑)。ここではあくまでも決断するのは殿であり総理という「個人」であるが、案を提言するのは合議を経た「集団」である。ところがこの「アイ・イン・ザ・スカイ」でしばしば見られるのは、指令を出すべき「個人」 (軍人) が、その指令を許可する権限を持つ「個人」 (政治家) に対し、"Do I have permission?" (しかも英国式に語尾を下げたイントネーションで) と尋ねるシーンである。つまりここで「許可」を与えられるべき主体は飽くまで発言者個人、"I" なのであり、個人の責任が明確な欧米式意思決定である。この違いは大きい。これは「シン・ゴジラ」において大杉漣演じる苦悩の首相。
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だがもちろん、私は欧米流のやり方が常に正しいと主張するつもりは毛頭ない。戦争とは所詮人間のやっていることであるという限界は、言語やシステムを問わず冷厳に存在していると思わざるを得ないし、この映画は実際にそこまでズカズカと入り込んで行く内容になっているのであり、その点こそがこの映画の素晴らしい点である。私はこの展開にハラハラドキドキし、納得したり心の中で反対の声を上げたり、巻き込まれそうになっている無垢な女の子がかわいそうで涙が出そうになったり、本当に椅子に座っているのがつらいような時間を過ごすこととなった。このような素晴らしい作品をまとめ上げたギャヴィン・フッド監督は 1963年、南ア生まれ。
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過去の作品としては、「ウルヴァリン : X-MEN ZERO」や「エンダーのゲーム」があるが、あまり知られていない名前である。南ア出身の映画監督と言えば、「第 9地区」「エリジウム」「チャッピー」のニール・ブロムカンプがいるが、このギャヴィン・フッドよりは一回り下。だがどちらもこれから期待できる名前である。

この映画は見るものに何か強烈なものを突き付ける。それは戦争の真実であるとともに、映画という文化の一分野の持つ素晴らしい表現力であると思う。なかなかそのように思える映画に出会えることは少ないので、是非一見をお薦めする。

by yokohama7474 | 2017-01-31 00:16 | 映画 | Comments(0)

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昨年末からどちらかというとマニアックな映画に重点を置いて鑑賞して来た。どうしても、すぐに上映終了となってしまう映画に優先度を置いているきらいはあるものの、私は何もマイナーなものにしか価値を見出さないひねくれ者ではなく、一般に人気のある映画も、自分の興味と一致するものである限り、極力見に行くようにしている。この映画は誰もが知る通り、出光興産の創始者、出光佐三 (いでみつ さぞう 1885 - 1981) をモデルとした百田直樹の同名のベストセラー小説 (手元にあるが私は未だ読んでいない) を映画化したもので、同じ原作・監督・主演による「永遠の 0」もそうであったが、かなり世間の注目を集めている映画である。だが、最近になっていくつかの話題作の公開が始まっており、そろそろ見ておかないと上映終了になってしまうかもと思って、ようやく見に行ったもの。これが実際の出光佐三の肖像。修羅場をくぐった人だけが持つ、いい笑顔ではないか。
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この種のポピュラーな映画は、出張に出かけるときの飛行機の中で見ることができる可能性が高いと思うが、実は「永遠の 0」の場合はそのようにして見ることとなった。ところが飛行機の中では、航空の安全に不安を覚えさせるシーンはカットとなるので、当然ながら「永遠の 0」などは大変に不適な内容であったのだ。実際、岡田准一の墜落シーンがなかったことで、その後の染谷将太の行動に疑問を覚えたものだ (笑)。その点、この「海賊とよばれた男」は、海のシーンはあっても空のシーンはないだろうから、飛行機で見てもよいのだがな、と思っていたら、なんのことはない。この映画でも、飛行機の中では絶対カットされるであろう重要なシーンがある。つまり、ここでは逆に、染谷将太に関するそのシーンがなければ、その後の岡田准一の行動に疑問を覚えるということになるはず (笑)。
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映画の冒頭に英語で、"based on true events" と出る。日本語では「実際に起こった出来事に基づく」となるが、そうするとどうも説明くさくなってしまう。なのでこの英語表記は一見識であろうと思う。そしてこの映画の素晴らしい点をまず一言で述べるならば、岡田准一の老け役と言ってもよいのではないか。ここでは主人公國岡 鐡造 (くにおか てつぞう) の若い頃の荒くれぶり (と言っても、私生活ではなく仕事に関してのことだ) から始まり、戦中、戦後、そして高齢で亡くなるまでが描かれているが、それぞれのシーンの設定年齢に応じて白髪の数も変わるという凝り方である。岡田は 1986年生まれなので、未だ 36歳。でもこれ、どう見ても老人だ。彼の演技はすべての箇所で完璧とは思わないが、それでも、彼の演技を貫く熱意にほだされることは事実。最後の老人ホームのシーンなど、その目力に感服した。
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昨今の日本の状況に鑑みて、戦後の復興から目覚ましい経済発展を遂げた昭和の時代を懐かしむには充分な理由があると思う。まあ、この映画を見ていると、既に過去のものとして過ぎ去ってしまった昭和という時代に思いを馳せることにはなってしまうが、だが、時には我々は思い出す必要がある。かつて昭和と呼ばれる汗と涙にまみれた時代があり、国民は皆必死であって、それだけまっすぐに前を向いていたのだということを。これが劇中の國岡商店の人たちの写真だが、50代以上の人なら、幼少の頃にこのような景色があちこちで見られたことを忘れてはいまい。左端で革ジャンを着ているのが監督の山崎 貴である。
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実はこの写真には、肝心の店主である國岡 鐡造が欠けている。きっと体を張って、どこかで切った貼ったの勝負に出ているのであろう (笑)。ここで興味深いのは、店主を演じる岡田准一の実年齢が 36歳であるのに対し、その番頭役、無口な甲賀治作を演じる小林薫の実年齢が、親子ほども違う 65歳であるということだ。劇中で寡黙な番頭役を演じる小林は、実に円熟の演技であると思う。
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この映画の長さは「永遠の 0」とほぼ同じ、145分。その長さにもかかわらず、見ていて飽きることはないが、何よりこれが実話に基づくストーリーであることが興味深い。石油会社のメジャーを敵に回し、今日ではありえないような乱暴な方法でイランに向かうところなど、まさに血沸き肉躍るものがある。いつの時代も、非難を恐れない勇気ある者が未来を拓く。これはイランから石油を運んできた日章丸の実際の映像。乗組員たちがイランに向かっていると知らされたとき、一体いかなる感情であったろうか。この映画を見て我々は、既に忘れてしまった何かの思い出を取り返す機会にしたいものだと思う。
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またここで國岡の妻を演じる綾瀬はるかは、そのごく限られた出演シーンにもかかわらず、いつもの自然な佇まいで、映画に何か安らぐものを与えている。
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現在、実社会での出光は、昭和シェル石油との合併に創業家が反対して頓挫している状態。そのひとつの理由は、現在出光美術館が所有する驚くべき日本美術のコレクションの散逸を、創業家が恐れていることも一因であるようだ。経済合理性はどうなのか分からないが、文化に対する妥協ない姿勢を見せた出光創業家は、さすがに海賊の子孫 (?) である。稀代の日本美術のコレクターであった出光佐三には、美術品に対する殺気立つほどの愛着があったようだ。この映画の中で國岡商店は、石油メジャーと丁々発止渡り合い、そのしっぺ返しを受けて会社が困窮のどん底に落ちてしまう。そのために起死回生の策として日章丸がイランに向かったわけであるが、私の疑問は、では現在の出光美術館のコレクションのうち、会社がどん底にあった状態でも散逸を免れたものが、どのくらいあったのかということだ。昨年開業 50周年を記念して出光美術館が開いた「美の祝典」3回シリーズについては、このブログでもそれぞれ記事を書いたが、今でこそ実に素晴らしい日本美術の宝庫である出光美術館がいかにして維持され発展して来たのか、知りたい衝動に駆られる。出光佐三の最初のコレクションは 19歳のとき。江戸時代の画僧、仙厓の作品であった。そして現在ではこの美術館は仙厓の大コレクションで知られる。劇中の國岡のように熱い人であったろう出光佐三は、恐らくそのコレクションにも命を賭けたのであろう。この映画の中で、國岡の執務室にはいくつかの美術品が飾られているが、中でも背景に見える、墨で描いたいかにも仙厓風の洒脱な作品 (時間の経過に応じて 2種類が確認できる) が気になる。私の手元にある 1989年の出光美術館での仙厓展の図録を見てみて、近いものを以下に掲げる。
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この映画のリアリティは脱帽ものであり、監督の山崎貴の細部に亘るこだわりが伝わってくる。けだし人間は、何事であれ大事なことにはこだわりを持つべきであろう。これからの時代、我々が頑張って生きて行くためのヒントをこの作品から得ることはそう困難なことではないと思う。飛行機の中ではなく、劇場で見ることができて本当によかった!!

by yokohama7474 | 2017-01-29 23:05 | 映画 | Comments(0)

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うーん。この映画を表現するのに、どのような言葉を使おうか。まず予告編を見た印象では、近いタイプの映画は「ブラックスワン」であろう。すなわち、予告編によるとどうやらこの映画は、ファッション界にデビューした若く初々しい女の子が、才能を見出されてめきめき頭角を現し、周りの女性たちの燃えるような嫉妬と競争心を煽り立てることとなる。そして初々しかった彼女自身、成功するにつれて悪魔的傲慢さを発揮し始める。その結果段々見えてきたことには、彼女らが居場所を見出している、明るい照明の輝く華やかな世界は、実はネオンの光に潜む恐ろしいデーモンの巣窟なのである・・・とまあ、そのようなストーリーであると思われるからだ。見終わった今、この映画を反芻してみると、もちろん「ブラックスワン」との共通点もあるにはあるが、より強烈に人間の影の部分に光を当てる、心底恐ろしい映画であると思う。誰が見ても面白いかと問われれば、多分首を横に振るだろう。だが、見る価値はあったかと問われれば、渋々首を縦に振るだろう。

まず導入部が非常に凝っている。ザラザラしたガラスのような表面に様々な色が当たり、タイトルが出たあと、本編の冒頭に登場するのは、ソファに身を寄りかかったまま、どうやら首を切られて息耐えた血まみれの若い女性。上のポスターにも含まれている、このような画像だ。私の記憶では、映画の中では腕も血まみれだったように思う。
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だがどうやらこれは作り物であるらしい。なぜなら、真剣にシャッターを切る男の映像が、切り返しで次に現れるからだ。カメラは一旦ソファから引いたあと、再度男のショットとなり、そしてまたソファに戻るが、そこには既に女性の姿はなく、カメラはただ空しく対象物であるソファに寄って行くだけ。次のシーンでは、場面が変わって、首と両手におびただしくこびりついた血糊をティッシュで拭き取る、この青い服の女性。彼女は鏡に向かっており、多くの照明で明らかな通り、どうやらそこは撮影のためのメイクをする部屋だ。女性の前には大きな鏡があり、血糊を拭き取る彼女はどこか上の空である。すると、部屋の反対側、そこにもメイク用の鏡が沢山並んでいるのであるが、そこにはショートカットのもうひとりの女性がいて、二人はポツポツと会話を交わす。本物の人間と、その鏡像が、交錯してコミュニケーションを始める。そして血糊の拭き取りを手伝いにショートカットの女性が寄ってきて、二人が向かい合って喋るときには、その短いセリフのいちいちで、カメラはいわゆるピン送りという手法を使うことで、ただの何気ない会話シーンに不思議な感覚が与えられている。つまり、喋っている人物の顔にピントが合ったと思うと、話し手の交代とともに別の人物にピントが移り、会話の進行とともにそれが交互に繰り返されるという手法である。これにより、喋っている人物の表情にはピントは合っているが、聞いている方の人物の表情はピンボケで伺い知れないということになる。
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記憶だけで書いているので、細部が違っていてもご容赦願いたいが、私がここで言いたかったことは、冒頭のこの流れだけで、この映画の映像のスタイリッシュな凝り方は、単に技法を弄んでいるのではなく、ここで描かれる人間像やその関係と密接に関係していることがはっきり分かる、ということなのだ。私の見るところ、この映画の大きな特徴は 2つ。ひとつは、全編を通してあらゆる場面で鏡が多用されることで、これにより真実と虚像の境界が曖昧になっていること。もうひとつは、無音の場面が多いがゆえに流れに緊張感があり、音楽や音響の入る場面では、必ず何か重要な事態が発生するということだ。そのような監督の手練手管にまんまとはめられた観客は、その先を読めない展開に身を乗り出し、そして後半では何度か、その身をのけぞらせるだろう。実際、私が見たレイトショーでは観客が 10名ほどであったが、大詰め近くのあるシーンでは、何人かが「うえっ」だが「ぎょえっ」だか、何やら得体の知れない声を思わず口から漏らしていたものだ (笑)。監督のインタビューを読むと、ホラーやメロドラマやコメディや SF などのあらゆる要素の混じった映画を撮りたいと言っていて (そう言えば、先に大絶賛した「ドント・ブリーズ」のフェデ・アルバレス監督も同じようなことを言っていた)、なるほどとは思うのである。このセンスは只者ではない。ただ、相当にグロテスクなシーンもいくつか出て来て、それらは本当に強烈であるので、拒否反応を示す人も多いだろう。とはいえ私自身は、それらを汚いとは全然感じなかった。あ、これでは監督は満足しないかな。では訂正して、汚いとは思ったけど、人間の真実の狂気を抉り出す仮借ないシーンとして強く印象に残った、という言い方にしましょう (笑)。

こんな凝った作品を撮ったのは、1970年デンマーク生まれの、ニコラス・ウィンディング・レフン。この映画の原案・脚本・監督である。美女演じるところの死体の横に登場してもらいましょう。
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残念ながら私は見ていないが、2011年の「ドライヴ」という作品がカンヌ映画祭で見事監督賞を受賞したことで、一躍名を上げた監督である。因みに「ネオン・デーモン」は、やはり昨年 2016年のカンヌのコンペティション部門で上映され、絶賛の拍手と非難の嵐の双方を巻き起こしたらしい。いやー、きっと審査員の人たちも、「うえっ」とか「ぎょえっ」とか声を上げたに違いない (笑)。このようにスキャンダラスな要素を持っている監督だが、これだけのセンスの持ち主なら、今後の活躍も必ずや期待できると思う。

さてさて、あえてこれまで全く触れてこなかったのであるが、演出以外のこの映画の最大の見どころは、もちろん主演女優である。エル・ファニングだ。
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彼女は 1998年生まれだから、未だ 18歳。昔は、天才子役ダコタ・ファニング (最も有名なのは「アイ・アム・サム」とか「宇宙戦争」であろうか) の 4つ下の妹という位置づけであったが、今や素晴らしい女優である。ダコタの近況は知らないが、成功した子役にしては珍しく、ドロップアウトせずにまっとうな大人になって女優業を続けているようだ。だがこのエルの場合、姉よりもファンタジー系での活躍が多く、私自身も、以前もほかの記事に書いたが、J・J・エイブラムスの低予算の傑作「SUPER 8 / スーパー 8」での彼女に驚嘆し、そして、なぜか全く話題にならなかったコッポラの近作「ヴァージニア」で狂喜したのである。その後「マレフィセント」を経て、このブログでも採り上げた「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」では素顔の演技を披露したと思ったら、今度はこの映画である。ここでの主役ジェシーは大変な役柄であって、ただ演じ上げるだけでも極めてハードであるが (血まみれにもなるし)、何より様々な設定での千変万化の表情を求められるので、この若さで充分な演技経験を持つ彼女の強みが活きている。そして、いくつのシーンでは本当に彼女のプロ魂を感じることができるのだ。この映画では完璧な美を持つ女性という役であり、ただの美形という感じとは少し違う彼女の顔だちは、設定と少しずれがあるかもしれないが (監督自身もそう認めている)、何より女優エル・ファニングの多くの可能性をここで見て取ることができるだろう。こういう写真の数々を引っ張ってきても、どういう映画であるか、さっぱり分からないでしょうが・・・。彼女の魔力を秘めた眼球は、永遠にその存在を主張し続けるのである。
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尚、この映画で久しぶりにキアヌ・リーヴスを見たが、ここでは、「さあ、どうする?」という悪漢の挑発に敢然と立ち向かうヒーロー・・・ではなく、怠惰で無礼で怪しげな安モーテルの経営者を演じて、なかなかいい味を出している。
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振り出しに戻って、うーん。この映画を表現するのに、どのような言葉を使おうか。「女性の恨みは本当に恐ろしい」という単純な言い方は避け、「人間が根源的に持つ狂気や暴力性を助長する要素としての、女性の恨みは本当に恐ろしい」と総括しておこうか。そう、この映画は人間存在の深いところを描いているのである。でも、グロテスクの向こうにそれを見るだけの眼球を持つ人にしかお薦めしないと言っておこう。その意味で、「ブラックスワン」のような多くの観客に受け入れられる映画とは、少し違ったものになっているのである。

by yokohama7474 | 2017-01-26 01:25 | 映画 | Comments(0)

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このブログの持ち味は、様々な文化分野を思いのままに逍遥することであり、鈴木大拙を語り武満やブルックナーを語った同じ人間がゾンビ物を語ることは、ここでは至極当然の流れなのである。というわけで、ゾンビ好きの私は、既に封切り後 1ヶ月を経ているこの映画をようやく見に行ったのだ。だが調べてみるとこの映画、日本先行公開であり、米国では 1月27日の公開であるとのこと。ということは今でもまだ、全米の人々よりも先んじているわけである。

さて、このブログで何度もゾンビ好きと公言している私であるが、実はそれほどマニアックにゾンビ物を渉猟しているわけでもない。もちろん、ゾンビ映画の巨匠ジョージ・A・ロメロは尊敬していて、なかなか見る機会がないと言われる同監督の「マーティン / 呪われた吸血少年」(ゾンビ物ではないが) も昔特集上映の際に劇場で見ているし、また比較的最近では「ゾンビ大陸アフリカン」という作品もやはり劇場で見て、実に社会性あふれる問題提起に満ちた傑作であるということも知っているが、実はこの「バイオハザード」シリーズにはさほど熱心ではないのである。1作目は見たことをはっきり覚えているが、それ以降、6作目である今回の「ザ・ファイナル」まで、見た記憶がない。今調べてみると、1作目は 2002年の作品。それから、2004年、2007年、2010年、2012年と来て、2016年のこの映画ということになり、コンスタントにほぼ 2 - 3年おきにシリーズが製作されてきたことになる。これはなかなかのことである。作り手の意図と興行成績が両立しなければ、そういうことにはならないだろう。私はゲームはしない人間なので、もともとゲームとして人気の出たこの「バイオハザード」の映画版が、果たしてゲーム人気にどれほどリンクしているのかは、全く知らないのだが。これが 1作目のディスクのジャケット。
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ともあれこの映画のよいところは、ゲームのことを知らなかったり、過去のシリーズ物の映画を見ていなくても、これ単独で充分楽しめる点である。冒頭、非常にコンパクトにこれまでのあらすじが主役によって語られ、いきなりストーリーが始まったと思うと、最初から最後までお化け屋敷とジェットコースターのコンビネーションとなり、ノンストップで駆け抜ける。率直に言うと、これはゾンビ物としての必然性をもはやかなぐり捨てた映画であり、敵がなんであろうと、世界の終わりにひとりで立ち向かう勇敢で強靭な女性の闘いを描いた問題作なのだ。なにしろ、冒頭から荒廃したワシントンの光景が出て来て、その絶望感は実に深い。考えてみれば、ほぼ半世紀近く前の「猿の惑星」第 1作では、ラストシーンで倒れた自由の女神が出て来ることで、その土地が変わり果てたニューヨークであることが分かり、それが衝撃であったわけであるが、21世紀の映画ともなると、米国の中心地の荒廃は、既に冒頭から容赦なく観客に迫ってくるのだ。時代のテンポは変わったのである。

さて、主役のアリスを演じるのはもちろんミラ・ジョヴォヴィッチ。現在 41歳。私は「フィフス・エレメント」や「ジャンヌ・ダルク」といった、当時のパートナー、リュック・ベッソン監督の映画で初めて彼女の演技に接したのであるが、頑張っているのは分かっても、当時はそれほど魅力的だとは思わなかった。リュック・ベッソンの作としても、この 2作 (もう 20年近く前になるわけだが) の出来には諸手を挙げて大絶賛ということにはならないし、ついでに言ってしまえば、その後のベッソンの監督作品には、さてどれほど見るべきものがあるだろうか。などと考えてくると、この「バイオハザード」シリーズ映画版の生みの親であるポール・W・S・アンダーソンと公私ともにパートナーシップを組んだことが、ミラ・ジョヴォヴィッチにとっては正しい選択であったのではないかと思われてくる。このブログでも何度か触れているヴィム・ヴェンダースの素晴らしい作品「パレルモ・シューティング」に、ジョヴォヴィッチが妊婦姿で出て来るが、それはこのアンダーソンとの間の子であるわけで、調べてみると既に子供が 2人。なるほど、このハードなシリーズをコンスタントに製作しながらも家庭生活も充実させるとは、本当に素晴らしくも逞しい活動ぶりだ。
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いやしかし、この映画でのジョヴォヴィッチは、上の写真のように旦那にデレデレしている女性ではなく、それはそれはもう、とてつもなく厳しく強く、そしてとんでもなくカッコよい。その姿からは常にただならぬ緊張感が漂い、その闘志はあらゆる敵を圧倒する。女優がアクションを演じる映画は昨今では枚挙にいとまがないが、これほどカッコよいヒロインは、ちょっとないのではないか。ゾンビ物を怖いと思う人でも、この演技を見ることで、かなり心が強くなること受け合いだ (笑)。また、スタイリッシュでスピーディなカット割りや、凝った動きの殺陣によっても、効果的にそのアクションが活きている。
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ただ一方で、彼女以外の役者は、残念ながらあまり印象に残らない。悪役の男性俳優陣も頑張ってはいるのだが、たとえ肉弾戦で殴り合いになって、途中まで有利に戦いを進めていても、アリスに勝てるようにはどうも思えない (笑)。この映画は、もう完全にジョヴォヴィッチの一人舞台なのである。日本からはモデルのローラが端役で出演しており、セリフもひとつあるが、どのような意図で設定されたのか理解に苦しむような残念な役柄であり、それ以上に、日本の CM ではあれだけ輝いている彼女が、ジョヴォヴィッチの姿・表情・動き・セリフ回しの前では、まざまざと格の違いを見せつけられてしまうのだから、映画とは本当に厳しいものだ。
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このように考えてくると、役者という職業には、自らの信念を維持しながら、巡って来る運をいかにつかむかということが大事なのだということが分かる。その役者 (これは音楽家でも画家でも小説家でも同じであろうが) の表現力のピークが人生のどこでどのように達成されるかは、誰にも分らない。年を経て表現力を失ってしまうアーティストもいれば、若い頃にはない表現力を長じるとともに身に着けるアーティストもいる。ミラ・ジョヴォヴィッチの場合、この「バイオハザード」シリーズでひとつの頂点を作ったわけだが、シリーズが今回で本当に終わってしまうのなら (一応そういう説明になっているようだが)、今後はまた違ったテイストの作品で、新たな表現の場を切り拓いて行くことだろう。大変楽しみである。・・・が、まだこのシリーズ、続けてみてはいかがでしょうかね。もうちょっと見たいなあ。

by yokohama7474 | 2017-01-25 01:22 | 映画 | Comments(0)

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世の中には様々な映画が存在して、テーマや言語や描き方のタッチや予算のかけ方や、まあいろんな要素を観客は目にするのであるが、場合によってはたまたま近い時期に似たようなテーマの作品が作られていたり、同じような俳優が出ていることがあって、それらを比較したり、多少こじつけでもよいのでその理由を考えたりするのは、興味深い知的試みである。この映画を知ったとき、まずそのような感想を持った。なぜなら、最近公開される映画には、ナチズムや独裁者を題材としたものが結構多いからである。このブログでも例えば「帰ってきたヒトラー」、「アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち」、「シークレット・オブ・モンスター」といった比較的最近の映画を採り上げた。中でも「アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち」は、ここで採り上げる映画と似た題名になっているし、それから、今後公開される映画でも、正確な題名は忘れたが、アイヒマンの名前を使った新作もある。このような傾向は、世界各国で見られる右傾化と何か関係があるのであろうか。

ともあれ、ここで名前が言及されている「アイヒマン」とは、ナチスの親衛隊中佐で、ユダヤ人虐殺において指導的な立場にあったとされるアドルフ・アイヒマン (1906 - 1962)。戦後行方をくらまし、1960年にアルゼンチンに潜伏しているところを捕縛され、イスラエルで裁判にかかり、1962年に絞首刑になった極悪人。
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「アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち」は、このアイヒマンがイスラエルで裁判にかけられる様子をテレビで世界に中継するために奔走した人たちの物語であったが、この映画はその前の時点、潜伏しているアイヒマンがいかにして捉えられたかという経緯を映画化している。いずれも実話に基づく物語である。「アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち」は BBC の系列会社による制作で、言語も英語であったが、こちらはドイツ映画で、言語もドイツ語。よくドイツ人はナチズムの反省は自主的に行っていると言われるが、昨今の実情は分からないものの (ネオ・ナチの台頭など)、自国の恥部を赤裸々に映画化するこの自己批判精神には感服する。

だがこの映画を見ていると、そのようなドイツの自己批判精神が一体本当なのか分からなくなるし、戦後の世相によっても様相は変遷してきたものであるようにも思えてくる。つまり、この映画の主人公、実在の人物であるヘッセン州検事長フリッツ・バウアーが、自国の罪深い犯罪者であるアイヒマンの居場所を執念で追い求めるのに対し、様々な抵抗勢力がそれを阻もうとする様子が描かれていて、それが大変にショッキングであるからだ。なのでこの映画のドイツ語の原題をそのまま英訳したとおぼしき、"The Peope vs Fritz Bauer" という英題にはかなりストレートなメッセージが込められているのだ。中学校で習う英語の知識によると、People の前に定冠詞 the がついているということは、不特定多数の一般大衆ということではなく、特定の人々のことを指しており、その特定の人々がバウアー検事長の前に立ちふさがったということが示されている。これが実在のバウアー検事と、この映画でバウアーを演じるブルクハルト・クラウスナー。実によく雰囲気が似ている。
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このバウアーさんはドイツ生まれであるが実はユダヤ人で、戦前からドイツで判事の仕事をしていたが、戦争中はナチスの迫害を逃れて、デンマーク、さらにスウェーデンに逃れていた。戦後ドイツに帰国して地方の判事長として重きをなしたが、とりわけナチスの戦争犯罪を強く弾劾した。ところが当時のドイツ政府には未だに親ナチス勢力 (題名でいうところの "the people" だ) が密かに実権を握っており、あろうことかバウアーの努力を国家反逆罪とみなそうとしている。また若者たちは、ナチズムも戦争も大人たちが無責任に引き起こしたものとして批判的な考えを持ち、国家予算を使ってナチスの残党を探そうという努力には冷ややかだ。そんな環境においてバウアーは、まさに執念と勇気と機知をもって粉骨砕身、ついにアイヒマンを捉えることに成功するのである。但し、アルゼンチンでアイヒマンを捕縛したのはイスラエルの諜報機関であるモサドであって、実は裏でバウアー検事が画策していたということは、バウアー本人の死後 10年が経過した 1978年まで知られていなかったという。この映画で描かれるバウアー像は、全力で犯罪人を追いかける執念の人でありながら、どこか自虐的なところもあり、決して聖人君主ではない。そうなのだ。立派な業績を成し遂げる人は、別に聖人君主である必要はない。ただ人間の弱さを理解し、かつ理不尽なことを容認できないことを原動力として行動を起こす人であるべきだ。バウアーはまさにそういう人であったのだろう。また、実在のバウアーは室内装飾に関しては大変モダンな感覚の持ち主で、ル・コルビュジェによる壁紙やシンプルな家具を使用していたという。確かにこのシーンに見える壁紙は、上の本物のバウアーの写真の背景と同じ模様である。
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この映画の中でリアリティをもって描かれているバウアーの人となりを示すひとつの例として、バウアーが同性愛者であったことを挙げよう。そのようなシーンがあるわけでなく、セリフで表されるだけであるが、ご本人はこの点についてはかなり開き直っている (笑)。舞台となっている1960年代といえば、これもつい最近記事として採り上げたばかりの「ストーンウォール」で描かれている通り、米国でも同性愛者が増え、それゆえに世間から迫害された時代。また「スカラ座 魅惑の神殿」についての記事でも触れた通り、文化人の中にも同性愛者が多く出始めた時代。そうするとやはり、悲惨な戦争の後の解放感と、新たに勃発した世界秩序の危機が、個人的な愛に依拠する同性愛者の増加と、反動としてのそれへの抵抗を生み出したという事情があるのかもしれない。この点については、今後機会あればまた考えて行くこととしたい。

同性愛といえば、劇中に登場するアイヒマンの部下、ロナルト・ツェアフェルトという俳優演じるカール・アンガーマンは架空の人物であるが、重要な役回りである。彼はバウアーと同様、人間らしい面を持っているが、一見飄々としたバウアーが実は非常に強靭な人であるということを、あるトラブルによって結果的に証明することになる。巧みな役柄設定であると思う。
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もうひとり重要な役、ヴィクトリアを演じるのはリリト・シュタンゲンベルク。やはり現在公開中の映画で、ちょっと気になっている「ワイルド 私の中の獣」の主役を演じている女優である。ここでは全く違った役柄であるが、充分に美しい。
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監督のラース・クラウメは 1973年イタリア生まれのドイツ人。主としてテレビドラマで演出を行ってきた経歴の持ち主で、長編映画は未だ数本しか撮っていない。だが本作では脚本も担当し、この作品のテーマに対する相当な思い入れを感じさせる。
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このように歴史のドラマを力強く描いた映画であり、作り手の情熱も感じられて、見応えは充分である。あえて難を言うとすると、娯楽性という点ではあまりサービス精神のあるタイプの映画ではなく、最初から最後まで手に汗握る展開ということではない。また、この映画の現代における意義を考えるには、ある程度ナチズムに対するイメージが必要かもしれず、バウアーという人物の本当の凄みは、ただ漫然と映画を見ているだけでは感じ取れないという人もいるかもしれない。あの忌まわしい世界大戦が終結してから既に 70年以上が経過するが、まだまだ語られていない視点があるはず。その意味で、歴史ドラマの分野においては、今日的な意義を持つ作品が今後も現れてくることを期待してもよいと思う。歴史に学ぶことの意味を認識しながら、これからの世界の動向を注視すること。文化はそのための強いツールになるのである。

by yokohama7474 | 2017-01-13 00:20 | 映画 | Comments(0)

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誰もが知る世界に冠たるイタリアオペラの殿堂、ミラノ・スカラ座。この映画はその魅惑のオペラハウスに関するドキュメンタリーである。2014年12月 7日、当時の音楽監督であったダニエル・バレンボイムの指揮によりベートーヴェンの「フィデリオ」でシーズンを開幕する準備を軸に、このオペラハウスの歴史を縦横無尽に辿り、歴代音楽監督のインタビューやリハーサル映像、錚々たる歌手やバレエダンサーたち、そして芸術監督から裏方に至るまで、様々な人々が、この場所がいかに特別であるかを語る。そしていくつかのシーンでは、役者が過去の人物に扮して過去の事柄をリアルタイムで語るという演技もある。オペラが好きな人には必見のフィルムと言ってよい。以下の出演者紹介は、この映画の公式サイトからコピペさせてもらったもの。いや実に豪華豪華 (但し私はバレエには疎いので、ここに含まれる 2人のダンサーについての知識はありません)。

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カルラ・フラッチ

ヨナス・カウフマン

アルトゥーロ・トスカニーニ

ルチアーノ・パヴァロッティ

グレース・ケリー

クラウディオ・アバド

ダニエル・バレンボイム

ヘルベルト・フォン・カラヤン

ロベルト・ボッレ

リッカルド・ムーティ

プラシド・ドミンゴ

レナータ・テバルディ

アーカイヴ映像・写真での出演を含みます。
UNQUOTE


あ、あれ? なんかちょっと変だぞ。明らかに同じ人物が 2回 (撮影時点はかなり違うようだが) 写っていて、しかもそのうちひとつは、明らかに名前が違っていますねー(笑)。公式サイトであるからには、やはり間違いは訂正した方がよいと思います。もし関係者の方がご覧になっていれば、よろしくお願いします。どの表記が間違っているかは常識の範囲なのであえてここでは指摘しませんが、本来なら上で載っているべき人の写真をここに掲げておきます。

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この映画、音楽ファンにとっては実に見ごたえ充分なのであるが、それは言葉を換えて言えば、オペラに関心のない人たちにとっては、残念ながら見ても内容がよく分からない可能性大であるということだ。それゆえか、全国的にも限られた数の劇場でしか上映されていない。東京では、私の見た渋谷の Bunkamura ル・シネマは満員の盛況であったが、もう 1軒の上映館である昭島のシネコンでは、どのくらいの動員が見込まれるだろうか。と書きながらも私は、是非この映画を、クラシックに未だなじみのない人たちにも見て欲しいと思っているのである。というのも、このブログで東京のクラシック音楽シーンを熱く語っている私は、実はヨーロッパの一流オペラハウスの持つ極め付けの価値をよく知っていて、そこには日本人がいくら逆立ちしても獲得できない歴史の積み重なりがあることを実感しているからだ。一方で、西洋音楽の懐の深さに鑑みて、ヨーロッパ人にはできないがむしろ日本人にはできることというものも、きっとあると信じている。すなわち、西洋音楽に敬意を表するなら、いわゆる本場の一流がいかなるものかを知る必要あり、だがそれを盲信または過剰に崇拝することなく、冷静に日本人のできる音楽の可能性を考えることができるはずだと考えている。

ところで、上に掲げたこの映画のポスターでデカデカとその写真が使われている人物は、マリア・カラスである。なるほど、ここでトスカニーニの写真を使うと、怖くて敬遠されてしまうかもしれない (笑)。カラスこそは、オペラ歌手として最も一般的に知られた名前であることは確かだろう。だがこの映画の中ではカラスについての言及は過剰にならずにほどよいバランスに留まっており、その点は大衆に迎合しない姿勢が窺われて好感が持てる。そして、未だ存命の歌手たち、例えばライナ・カバイヴァンスカ (1934年生まれ)、フィオレンツァ・コッソット (1935年生まれ)、ミレッラ・フレーニ (1935年生まれ) らがあれこれ語る内容が滅法面白い。特にフレーニは最近まで活躍していたわりには、ここでの映像を見ると大変太ってしまって (もともと痩せた人ではなかったものの) ちょっと複雑な思いだが、いわばイタリアの人間国宝のような人だから、画面に出てくるだけで感動してしまう。もちろんコッソットもそうだし、カバイヴァンスカはちょっと知名度は落ちるが、ドミンゴともパヴァロッティとも「トスカ」を共演した映像を見たことがあり、やはり大ソプラノなのである。ドミンゴと言えば、ここで少しだけ出てくる当たり役「オテロ」の歌唱に本当に鳥肌が立つし、やはりインタビューで語る現在の彼の姿を見ると、老いたりとはいえ、そこで喋っているだけで心が躍るのである。今年のルネ・フレミングとの来日ジョイント・コンサートには行かないつもりであったが、うーん。心が動くなぁ・・・。

指揮者に関しては、当時の音楽監督バレンボイムがイタリア語で (ただこの人は、どの言語でも滑舌が悪いのは困ったものだが・・・) スカラ座がいかに特別であるかを語り、その後次代音楽監督に指名されたリッカルド・シャイーの物静かなインタビューもある。そしてもちろん、クラウディオ・アバドとリッカルド・ムーティの登場シーンにもそれぞれ興味深いものがあるのだ。中でも、1981年にスカラ座が初めて来日したときの模様が、ミラノの放送局制作らしいニュース映像で出てくるのは、本当に嬉しい。「Tokyo」と書いた T シャツを着たクライバーや、ここでも「オテロ」を演じるためにメイクするドミンゴ、ギャウロフその他の歌手と、ヴェルディの「シモン・ボッカネグラ」のピアノリハーサルをするアバド。このときには全 4演目と合唱指揮者ロマーノ・ガンドルフィの指揮するロッシーニの小荘厳ミサ曲はすべて FM で生放送され、当時未だオペラは未知の分野であった高校生の私も、その生放送を聴き、テレビでの放映を見ては、興奮し驚愕し感激していたのだ。これはまさに日本の文化史に残る一大イヴェントであった。


それから、ヴェルディやプッチーニという大作曲家たちのこの劇場との関わりとともに、大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニ (1867 - 1957) の紹介も当然出てくる。彼こそはオペラにおける指揮者の役割を飛躍的に向上させた超人であり、そのヨーロッパにおける主たる活躍の場は、ほかならぬこのミラノ・スカラ座であった。
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彼は戦時中、ムッソリーニの独裁政権を嫌ってヨーロッパを離れ、もっぱら米国で指揮活動を行ったが、戦争中の爆撃によって破壊されたスカラ座が早くも 1946年に再建されたとき、そのオープニングを指揮するためにイタリアに戻って来た。この映画ではその時の到着の際の空港での映像が出てくるが、肝心の指揮のシーンは、これはどう見ても戦時中アメリカで撮影されたヴェルディの「諸国民の賛歌」のものではないだろうか。因みにそのスカラ座復帰演奏会では、ロッシーニ、ヴェルディ、プッチーニの作品が演奏され、締めくくりはアリゴ・ボーイトの歌劇「メフィストフェーレ」のプロローグであった (昨年ムーティが東京・春・音楽祭で演奏した曲)。これがその演奏会のポスターだ (John Hunt によるトスカニーニのディスコグラフィから撮影)。
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尚この演奏会のライヴ録音は CD 化されているので、私の手元にあるその CD からジャケット写真と、解説に載っている当時の新聞記事、そしてやはりイタリアの大指揮者で、当時のスカラ座の音楽監督、ヴィクトル・デ・サバタ (1892 - 1967) と客席で話しているトスカニーニ。
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さてこうなってくると、もう映画そっちのけで (笑)、新春特別企画。手元の資料から珍しい写真をご紹介して、音楽ファンの方々にサービスしよう。私が書棚の奥から採り出したのは、以前スカラ座を訪れた際にそこの売店で購入した、イタリアの Umberto Allemandi & C. という出版社の出しているカラヤンの写真集。2008年のカラヤン生誕100年を記念して出版されたものらしい。私はイタリア語は解さないが、"Lo stile di un Mestro" とは、「あるマエストロの流儀」とでもいう意味なのであろうか。あるいは「マエストロの品格」というニュアンスか。カラヤンは 1950-60 年代に様々な足跡をこの歌劇場に残したが、この写真集には、ミラノでの写真だけでなく、幼少時から晩年までの彼の貴重な写真が満載だ。
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この本の中から、カラヤンとスカラ座に関係する珍しい写真を幾つかご紹介しよう。まずこれは、上でトスカニーニと談笑している指揮者デ・サバタとカラヤン。そして左端は、なんとあのグィド・カンテルリではないか。彼についてはまた追って触れるが、1956年に死去しているので、撮られたのはその前。もしかすると、カンテルリの死に近い時期の写真かもしれない。
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次の写真でカラヤンの後ろに写っている痩身の眼鏡の音は、ドイツの作曲家カール・オルフ (1895 - 1982)。1953年 2月14日、スカラ座でカラヤンが演奏した彼の三部作、つまり、有名な「カルミナ・ブラーナ」に加え、「カトゥーリ・カルミナ」「アフロディーテの勝利」の際の写真である。このうち「アフロディーテの勝利」はこのときが世界初演である。カラヤンのオルフと言えば、1973年に珍しくケルン放送響を指揮してやはり世界初演、録音した「時の終わりの劇」が知られているが、私の知る限りこの三部作の録音はない。せめて「カルミナ・ブラーナ」だけでも後年録音して欲しかったものだと思うが・・・。カーテンコールから引き上げるところと見られるこの写真のカラヤンの表情には、充実感が漲っている。
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これは言わずと知れたマリア・カラス。1954年 1月、ドニゼッティの「ランメルモールのルチア」の、恐らくはゲネプロの時のものだろうか。
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これはイタリアの後年の巨匠指揮者、カルロ・マリア・ジュリーニ (1914 - 2005) と。撮影は 1955年 1月18日という日付で、調べてみるとその日カラヤンはビゼーの「カルメン」の抜粋をスカラ座で指揮している。カラヤンとジュリーニの接点はあまり思いつかないが、実は彼はこの頃 (1953年から 56年まで)、デ・サバタの後任としてちょうどスカラ座の音楽監督であったのである。ただこのジュリーニの厳しい表情はどうだろう。このほんの 1ヶ月前、1954年 12月にベルリン・フィルの終身音楽監督の地位を得たばかりのカラヤンを前にしての緊張か、それとも生涯ワーグナーを演奏しなかったという潔癖症のジュリーニには、戦時中ナチ党員であったカラヤンに対する複雑な思いでもあったのだろうか。ところで左端のくわえ煙草の人物は、ニノ・サンツォーニョというイタリアの指揮者 (1911 - 1983)。イタリア・マフィアではありません。
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これはまた極め付きの珍しい写真。戦後、一時期活動停止を余儀なくされたフルトヴェングラーの穴を埋め、ベルリン・フィルの実質的な音楽監督として積極的な活動を展開した、ルーマニア出身の、後の巨匠セルジュ・チェリビダッケ (1912 - 1996) とのツー・ショット。1954年10月23日の日付である。フルトヴェングラーの死去はこの 1ヶ月ほど後の 11月30日。なのでこれは 20世紀後半に、世界最高のオーケストラが誰の手に委ねられるか分からない時の運命的なショットである。因みにこの日、カラヤンがスカラ座で指揮したのはオペラではなく、ロンドンのフィルハーモニア管弦楽団を指揮してのオーケストラコンサート。ケルビーニの「アナクレオン」序曲、ブリテンの「フランク・ブリッジの主題による変奏曲」、R・シュトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、そしてベートーヴェン 5番というなかなかハードなプログラム。
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このように、カラヤンという指揮者にとってもミラノ・スカラ座での活動がいかに重要であったかは、一連の写真からも明らかだ。ではここで、スカラ座を離れて、昔のカラヤンの昔の写真をもう少しご紹介する。この 2枚の写真をご覧頂こう。
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上の写真は、あのフランスの詩人ジャン・コクトーと。1958年 6月にウィーンでウィーン・フィルとストラヴィンスキーの「エディプス王」(もちろん台本を書いたのはコクトーだ) を上演したときのもの。そして下の写真は、1959年のザルツブルク音楽祭にて、ギリシャの巨匠ディミトリ・ミトロプーロスと、その弟子筋にあたる、後年カラヤン最大の好敵手とみなされた、あの偉大なるレナード・バーンスタインだ。この 2枚、大変に面白い。というのも、ここに写っているカラヤン以外の 3名の芸術家は、皆ゲイ (またはバイ?) で知られているからだ。だがその彼らに対するカラヤンの仕草の親密なこと!! コクトーとのツー・ショットは、思わず「近い近い近い!!!」と叫びたくなるし、ミトロプーロスにはしっかり手をかけて、しかもその右手がミトロプーロスの右手とシンクロしている。前の記事でご紹介したニューヨークでのストーンウォールの乱の勃発はこの 10年後。もしかして、世界は LGBT に向かって大きく胎動していたのかも、と思いたくなる。

さて、最後に触れるのは夭折の天才指揮者、グィド・カンテルリ (1920 - 1956) だ。
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私は彼の音楽を熱狂的に愛する者であり、残された正規録音や放送録音を、可能な限り集めている。彼の故郷はミラノ郊外のノヴァーラという街。私は数年前にここを訪れ、街を歩いていてたまたま彼の生家前を通りかかり、狂喜したこともある。1956年11月24日に大西洋横断中に飛行機が墜落し、36歳でこの世を去ってしまった。もしその後も生き永らえていれば、音楽史を塗り替えていたであろう天才なのである。今回、この映画の中で、上に掲げたカラヤン、カンテルリ、デ・サバタの 3人の指揮者の写真と違う角度で撮られた写真が登場するが、1956年に、ジュリーニの次のスカラ座の音楽監督の座を継ぐことになったのがこのカンテルリであったのだ。このカンテルリ、生涯最後の演奏会は、スカラ座管弦楽団を指揮したもの。1956年11月17日。実はその前日に音楽監督就任が発表されたばかりであった。演奏会の場所はミラノではなく、カンテルリの出身地ノヴァーラ。これがそのときのポスターである。まさかこれが最後のコンサートになるとは、本人も楽員も夢にも思っていなかったであろうから、これから始まる新時代への期待感が込められたはずのポスターが、何やら物悲しい。
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いかに豊かな才能を持つ天才鬼才でも、様々な運命の糸に動かされている面は必ずある。ミラノ・スカラ座が今日でも世界のオペラハウスの最高峰のひとつとみなされるのは、上で見たようなダイナミックな歴史と、現在活躍する音楽家たち、そしてそれを支える大勢のスタッフやパトロン、聴衆のおかげである。この奥深さは、そう簡単に味わい尽くせるものではない。日本にいながらにして見ることのできるこのような映画を堪能しながら、またかの地でオペラを見る日に向けて、感性を磨いておきたいものだと思う。

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by yokohama7474 | 2017-01-09 22:56 | 映画 | Comments(0)

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この映画の監督は、ローランド・エメリッヒ。そう、あの「インデペンデンス・デイ」シリーズや米国版「ゴジラ」など、ハリウッドのデザスター (災害) 大作映画で知られるドイツ出身の映画監督だ。1955年生まれの 61歳。
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そのようなメジャーな作品の監督作品が、日本でたったひとつのマイナーな劇場でしか見ることができないと、誰が信じられようか。でもそれは本当のことである。この作品を現在上映しているのは、新宿のシネマ・カリテのみ。なぜそんなことになるのだろうか。私は今この瞬間に正しい答えを持ち合わせているのか否か確信はないが、この映画の内容が関係していることは確かであろう。ではこの映画のプログラムから、監督自身の言葉を引用しよう。

QUOTE
この作品を撮ろうと思ったのは、自分自身がゲイだから、すべての疑問に自分が答えられると思ったからだ。自分の人生にも繋がることであり、実際にキャストの一部もゲイ。私たちは今も結婚する権利などを得るために闘い続けている。
UNQUOTE

そうだったのか・・・。芸術家の世界ではゲイは決して珍しいことではないが、やはり世間一般においては少数派。かく言う私も、男子校出身なのでそのような趣味の同級生がいたり、社会人になってからも、カミングアウトした同じ業界の米国人から「恋人」の話を聞いたことは一度にとどまらないものの、ただ申し訳ないことに、その感覚にはどうしても理解が及ばないのであると白状しておこう。だが、いわば文化のひとつとしての同性愛に興味はあるし (例えば「雨月物語」とか、南方熊楠や江戸川乱歩の研究など)、それは動物にはない人間ならではの愛の進化形であるということは、分かっているつもりである。何より、個人の嗜好が差別の対象になってはいけない。時代は既にそれを許さないし、それは人種差別や性差別と変わらないものだと認定されているのだ。

映画の内容に入る前にどうしてもこのような長々した能書きが必要であるという事実が、この映画の公開が限定的であることと関係していよう。だが、そんな予備知識は一旦脇に置いて、この映画について少し語ってみたい。題名のストーンウォールとは、ニューヨークのダウンタウン、グリニッジ・ヴィレッジに実在するバーの名前で、1969年にここでゲイたちが警察に対して暴動を起こしたとのこと。実はこの場所は昨年、オバマ政権のもと、米国のナショナル・モニュメント、日本風に言えばさしずめ「史跡」ということであろうが、それに指定されたのである。英語では LGBT (Lesbian、Gay、Bisexual、Transgender の総称) という言葉があるらしいが、この場所はその LGBT 関連施設として初めてそのような公式な史跡指定を受けたとのこと。これは現在の Stonewall Inn。
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物語の舞台は1960年代後半。まさに世界も米国も波乱に満ちた時代である。インディアナの田舎町からニューヨークに出てくる青年ダニーを演じるのは、あのスピルバーグの「戦火の馬」で少年役を演じたジェレミー・アーヴァイン。大人になったというか、この作品の難しい役柄を自然に演じるだけの成長を果たしたと思う。
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主人公ダニーは故郷で同性愛的指向が発覚することで様々な侮蔑の対象となり、そして当時 LGBT のメッカであったグリニッジ・ヴィレッジに出てくる。これは実話に基づくストーリーであるが、当時の世相を表す言葉が、ダニーの妹から発される。大都会ニューヨークに行ったこともない彼女は、兄からの電話を受けて、かの地の有名人に会ったかと兄に訊くのであるが、字幕に出てくるアンディー・ウォーホル以外に、実際にはジャクリーン・オナシスの名前もその会話の中に出ている。JFK の暗殺は 1963年で、ジャッキーのオナシスとの再婚は 1968年。ヴェトナム戦争がどんどん泥沼に入って行き、ヒッピー文化が盛んになって行く時代。つまりここでは、世界の大きな潮流と個々人の生きざまが激しく交錯していたわけであり、もし何か個人に信念があるとすると、それを堅く信じて暮らすのでないと、どっちを向いて生きて行けばよいのかすら分からないような、不安の時代だったということではないか。現代の感覚では LGBT はもう少し裾野が広がっていると思うが、当時としては本当に、黒人や女性が社会的権利を求めて立ち上がったのと同じ感覚であったのだろう。当時の若者たちは本当に懸命に生きていたのだ。これは映画のシーンと実際の写真の比較。
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ローランド・エメリッヒという監督に対する私自身の多少屈折した思いは、昨年 8月 1日の「インデペンデンス・デイ リサージェンス」の記事に記したが、かつての悪い印象から最近では変わりつつある。それはまず一義的には「もうひとりのシェイクスピア」(2011年) という大変面白い映画を見ていたことによるのであるが、今回の作品 (実は「インデペンデンス・デイ リサージェンス」よりもこちらを先に制作している) も、この監督の内部に渦巻く創造性を実感させるもの。ストーリーもよく練られているし、また大変強い熱意を持った演出になっているのである。なので、これが実話に基づくストーリーであるか否かに関わらず、映画としての見ごたえはかなりのものであると言ってよいと思う。上に何の気なしに書いたことだが、ゲイとは人間だけに可能な進化した愛のかたち。多分この時代の若者たちは、人と人の間のつながりを求めて懸命に生きる中で、このような愛の形に目覚めて行ったということではないか。社会的なムーヴメントとしてのゲイ解放運動には様々な解釈が可能であろうが、恐らくひとつ確かなことは、個性に目覚めた自由人たちが社会に対してアピールしたということだ。そう考えると、翻って現代の我々は、さらに進んだ自由を追い求めているであろうか。どの国でも社会の閉塞感は否定しがたいものがあるように思うし、先が見えにくい時代であると思う。だからといって同性愛に走るべしと唱えるつもりはさらさらないが (笑)、このような過去の事実に目を向けることで、自由とは何かを改めて考えるきっかけにはなると思う。

そういえば、グリニッジ・ヴィレッジと言えば、「最後の一葉」で有名なオー・ヘンリーも暮らした街。もう 100年以上前から芸術家たちが集まる場所であったのだ。でも彼がゲイであったという話は聞いたことがない (やはり短編の名手で 8歳年下の英国の作家サキはそうであったらしいが)。そうすると文化の中のある部分は、常に流行りすたりがあるということだろう。あ、そういえばヴィレッジ・ピープルなどというグループがいましたね。昔は「村の人々」かと思っていたが (笑)、今になって分かることには、この場合の「ヴィレッジ」は、紛れもないグリニッジ・ヴィレッジのことだろう。調べてみると 1977年の結成。今年が実に結成 40周年ということだ。今でも公式サイトがあるので、未だ活動を継続しているようである。こういう息の長いバンド活動を見ると、米国の大衆文化の逞しさを思い知るのである。これも文化の諸相のひとつ (笑)。
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新政権下でも皆さん是非頑張って下さい!!

by yokohama7474 | 2017-01-09 00:35 | 映画 | Comments(0)