カテゴリ:映画( 133 )

e0345320_23114352.jpg
この映画の題名は、主人公である夫婦のうち、妻の方のファーストネームである。ところが原題はそれとは似ても似つかぬ、"Allied" という言葉。うーん。これはどう見ても人の名前ではないし、そもそも「マリアンヌ」と「アライド」は、響きが違いすぎるではないか!! それもそのはず、"Allied" とは、「同盟を組んだ」という意味の形容詞であって、人の名前ではありません (笑)。つまりは、ここで登場する男女が志をともにし、ともに闘う関係であるか否かを問う題名ということであろうか。もちろん、第二次世界大戦でナチス・ドイツと闘ったのは連合国、つまり Allies であった。映画の内容に鑑みると、二人とも連合国側の人間であったのか否かという点を題名で問うているのかもしれない。これはなかなかに凝った題名であり、まさか邦題を「同盟」とするわけにもいかないし、「絆」などと訳してみても、やはり違う。実に日本の配給会社泣かせの題名であり、そうすると「マリアンヌ」というフランス女性の名前を題名にする案には、一理あるかと思います (笑)。

予告編によると、愛する妻がスパイであるとの情報を受けた夫が疑心暗鬼にとらわれるという内容であると理解されるが、だが観客は、冒頭から間もない場面でこの女性が、そのようなイメージにふさわしい一般のかよわい人ではないことをすぐに知ることになる。そして訪れるこのシーン、この程度はネタバレではないと勝手に自分に言い聞かせるが (笑)、なかなかカッコよかったですよ。
e0345320_23365500.jpg
ブラッド・ピットとマリオン・コティヤールというビッグな組み合わせを主役に据えた映画であるし、監督が名匠ロバート・ゼメキスであるから、まず大きく期待を外れることはないだろうと思って見たのだが、見終わったあとの感想は若干複雑だ。あまりストーリーをひねりすぎない点には好感が持てるが、その一方で、戦争という特殊な状況におけるスパイ活動という設定において、個人が持つ感情に、どこまで思い入れをすべきであるのかよく分からないきらいがある。つまり、現実の世界ではこれに近い話はもしかすると実際にあったかもしれないし、それはそれは切ない物語なのではあるが、数知れない命が犠牲になった痛ましい大戦争の中で、愛という個人の感情が人間の行動を支配するファクターになりえたか否か、ということである。多くの場合、現実はもっともっと悲惨であったのではないか。すなわち、自分たちの敵と判断すると容赦なく相手の命を奪うその同じ人間が、自らの愛する家族の命については、絶対に奪われてはならないかけがえのないものと実感するということは当然あったろうが、21世紀の我々がそれを見て、主人公たちが絶対的に正しいと言えるのかどうかと、私は考え込んでしまったのであった。もちろんそのような違和感さえ拭ってしまえば、感動的な映画であることは間違いない。冒頭のモロッコの砂漠にブラピが落下傘で降り立つシーンのテンポ感と高低差の表現は素晴らしかったし、砂漠の車の中のラブシーンでは、現実を超えて砂嵐が命を燃え立たせるという描き方になっていて、映画的感興があった。慌ただしいネットも携帯電話もない戦時中、迫りくる危機に全身でぶつかっていく主人公たちの姿には、余計なものがなく、好感が持てる。つかの間のパーティのシーンでは、奇しくも昨年公開された「マダム・フローレンス! 夢見るふたり」のシーンと同じく、ベニー・グッドマンの「シング・シング・シング」が高らかに流れる。だが違いは、かの映画でこの音楽に乗って踊るのは夫ひとりであったが、ここでは夫婦揃ってのダンスになる点である。
e0345320_00145015.jpg
魔法も使えず超人的な力もない個人としては、歴史の大きな歯車に逆らって個人的な思いで国に楯突くことは、極めて難しい。だからこそ、そのような主題が映画になりうるとは言えるだろう。勇気ある行動は、たとえそれが最終的に悲劇に終わっても、人の心を動かすものである。その一方で、では個人的な正義感さえあれば、同じ人間である敵の命を情け容赦なく奪うことは果たして許されるのか? これは重い問いである。私の見るところ、この映画では、夫はそのような非情さを持ち合わせていて、目的のためには手段を選ばないが、妻の方はそうではなく、敵に対するなんらかの哀れみの情を持ち、自己犠牲をも辞さない潔さがある。さて、人間としてどちらが正しいと言えるのだろう。そして、果たしてふたりの間には同盟は成立しているのだろうか。
e0345320_22431723.jpg
この二人の俳優、どちらも私はファンなのである。ブラピは私生活のトラブル (?) とは関係なく、一貫して問題作に出ているし、一方のマリオン・コティヤールは、フランス人にしては異例なくらい英語がうまい人であり、それゆえに多くの映画で活躍している。実際今も、この映画以外に「たかが世界の終わり」(これはフランス映画であり、彼女は珍しく (?) フランス語を喋っている) が公開中だし、もうすぐ公開される「アサシンクリード」にも出演している。昔の女優のような気品があり、芯のある女性を演じられる得難い女優であると思う。

監督のロバート・ゼメキスについては触れるまでもないと思うが、1952年生まれの 64歳。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズで名を上げ、「フォレスト・ガンプ / 一期一会」でアカデミー賞を受賞。現代ハリウッドを代表する監督であり、前作の「ザ・ウォーク」はこのブログでも絶賛したし、その前の「フライト」も素晴らしかった。ただ、彼の作品には本当の意味でのドク、じゃないや毒はなく、その作風には過激さは皆無であるが、その真摯な制作態度には好感が持てる。彼のフィルモグラフィを見ていて気付いたのだが、この作品は彼としては恐らく初めての歴史ドラマ。手堅い手腕を発揮していると思う。
e0345320_22585901.jpg
平和な時代に暮らしている我々、いや正確には現代でも戦乱はあちこちで起こっているので、平和な地域に暮らしている我々というべきか、その我々がつい忘れがちな、平和を獲得し守るための代償。そんなことに思いを致すことになる映画である。上に書いたような疑問を疑問のままにしておける日常生活に、我々は深く感謝しなければならない。それゆえの複雑な感想である。

by yokohama7474 | 2017-02-28 23:04 | 映画 | Comments(0)

e0345320_23464850.jpg
このブログで何度か言及してきた通り、19世紀末ウィーンの文化はなにか私の根源的なものに触れてくる異様な力があって、私は心の底からその文化に惚れ込んでいるのである。もちろん音楽ファンにとっては、まさにウィーン世紀末を代表するグスタフ・マーラーが、音楽史上におけるかけがえのない偶像というケースも多いだろう。一方美術の面では、多彩な才能がひしめく中で、グスタフ・クリムトとエゴン・シーレの名前こそが、一段高く燦然と輝く歴史的なものとなっていることは疑いない。この映画は、そのような世紀末ウィーンの頽廃文化を代表する天才画家エゴン・シーレの生きざま、いや、死にざまを描いている。オーストリアとルクセンブルクの資本による映画で、あえて原題をドイツ語で記した通り (上のポスターではその英訳が見える)、ドイツ語による映画なのである。もちろん、全国のシネコンで大々的に公開中というわけではないが、このような映画を見ることができる日本は、文化的にかなり高度な環境であるとは言ってよいと思う。これがシーレの肖像写真。
e0345320_22172361.jpg
私が画家エゴン・シーレ (1890 - 1918) の名前を知ったのは恐らく、高校生のとき (調べてみるとそれは 1983年) に封切られた映画、「エゴン・シーレ 愛と陶酔の日々」によってであったと思う。私はその作品を劇場に見に行く勇気がなかったのであるが、それは、何やら怪しいエロスを放つエゴン・シーレなる画家に、近寄りがたいものを感じたせいであったろうと思う。実はあとから知ったことには、新宿歌舞伎町にあったアート系映画を上映する映画館、シネマスクエアとうきゅうが 1981年にこけら落としとして上映した、ニコラス・ローグ監督、アート・ガーファンクル主演の映画「ジェラシー」も、世紀末ウィーンを題材にしていたのである。その映画は当時どこかの劇場で予告編を見た記憶はあるものの、やはり本編は見ていない。そして私の場合はその後すぐ、マーラーに熱狂してからウィーン世紀末に深入りした高校生時代、興味は容易にクリムトにまではたどり着いたが、そこからシーレまでは未だ遠かった。そして、今書庫を調べて手元に引っ張り出してきた本は、1986年 3月号の「美術手帖 特集シーレとウィーン」である。
e0345320_23395193.jpg
私はこの雑誌を、大学時代に東京から実家のある大阪まで帰省するため、学生の特権で東海道線の夜行の各駅停車、大垣行に乗り、その車中で夢中になって読んだことを昨日のことのように覚えている。多少大げさに言えば、これは私の文化面での指向を決定的にした雑誌である。今めくってみても、飯田善國、瀧本誠、千足伸行らの碩学が刺激的な文章を寄せているし、シーレだけでなく、世紀末ウィーンについての網羅的な情報が記載されている。そしてこの特集、当時新宿に存在した伊勢丹美術館での「エゴン・シーレとウィーン世紀末展」に関連した特集であったのである。従って私がシーレの本物に初めて接したのは、この1986年の展覧会ということになる。伊勢丹美術館はその後も類似の展覧会を何度も開き、私はそれらに必ず足を運んだし、その後起こったウィーン世紀末ブームの中で、主要な展覧会には恐らく全部足を運んだと思う。映画への言及に入る前に長々と書いているが (笑)、これが私のシーレに対する強い思い入れの源泉なのである。

さてここで、そのように世紀末ウィーンに対する思い入れを持つ私の、勝手な持論を披露しよう。この説は、これまでに読んだいかなる美術書歴史書の類にも載っていない。だが私が過去 30年間に亘って信じているのは、世紀末ウィーン文化を体現した人々のうち主要な人物は、誰一人として第一次世界大戦を生き延びることができなかったということだ。もちろん例外はあるだろう。だが、奇しくもクリムトとその弟子であるシーレが、ともに 1918年に他界していることは象徴的だ。西欧先進諸国がナショナリズムと帝国主義に導かれた挙句、ついに人類初の世界大戦に突入したという激動の歴史の中、芸術家たちはその命を削って創作活動に勤しんだ。そのギリギリと軋む命の音が、永遠の表現力をたたえているのであるが、彼らの体は束の間の平和の到来まで持たなかった。これは 1912年にシーレが描いた自分とクリムトの肖像 (「隠者たち」)。
e0345320_22520639.jpg
この映画は、シーレが 28歳の若さでスペイン風邪で亡くなる (身重の妻が旅立った数日後に) 直前の情景を追いながら、そこに過去の様々な回想が積み重なるという構造になっている。一言で片づけてしまえば、大変僭越ながら、独立した映画としてはそれほど発見に満ちた作品とは思われない。例えば、劇中やたらと鏡が多いことに気付くが、それは例えば、先般このブログで採り上げた怪作「ネオン・デーモン」(ちなみにこの映画の余韻が、日が経つほどに大きくなってくるのはどういうわけか???) における鏡の多用とは全く異なり、人の心の裏側を覗き込むような怪しい雰囲気の醸成にまでは至っていない。際立った映画的瞬間は、残念ながらそれほど多くは訪れないのである。ただ、ウィーンにあって演劇 (もちろんその周辺芸術分野である音楽) のファンにはなじみある名前、マックス・ラインハルトの名を冠したゼミナールで演技の修練を積んだ役者が多く出ていて、彼らの演技自体には見るべきところもあり、何よりシーレの人生を忠実に辿ることで、その孤高の魂のありかを考えさせるような出来にはなっていると思う。題名の「死と乙女」(1915年) は、このようなシーレの代表作のひとつ。
e0345320_23004615.jpg
この作品を描くシーンが映画に登場する。やがて遥かアフリカの地で死を迎えるモデルであり愛人であったヴァリを抱きしめるシーレ自身が、死神なのであったのか。
e0345320_23090996.jpg
ところでその愛人ヴァリの肖像はこちら。なるほど、今回の女優さんには共通した雰囲気がありますな。
e0345320_23300539.jpg
題名になっている「死と乙女」とは、これは常識に属することであろうが、シューベルトの歌曲の題名であり、死の床に臥す乙女と死神との対話が題材になっている。シューベルトはこの歌曲の主題を弦楽四重奏曲にも転用していて、その曲も「死と乙女」と呼ばれる。それを弦楽オーケストラ版に編曲したのは、ほかならぬグスタフ・マーラーだ。つまりこの「死と乙女」というテーマは、世紀末ウィーンのひとつのキーワードなのである。
e0345320_23115914.gif
そんなわけで、結局ほとんど映画については語っていないことに気付いたが (笑)、この映画は、シーレに興味のある人 (よく知らないが知ってみたいと思う人を含む) にとっては興味深いものであることは請け合いだ。だがその次は是非ウィーンに飛んで、ベルヴェデーレ宮殿に展示されているシーレやクリムトの実物を見、そして、かつて伊勢丹美術館等に何度もやってきたシーレ作品の一大コレクションを展示するレオポルト美術館に足を運ぶことを心からお薦めする。もしかすると、それによって人生が変わる人もいるかもしれないが、その責任は取りかねるので何卒ご容赦を。
e0345320_23242856.jpg

by yokohama7474 | 2017-02-17 23:48 | 映画 | Comments(0)

e0345320_23435644.jpg
織田信長が明智光秀によって討たれた本能寺の変は、日本史上屈指の大事件であることは論を俟たないが、上のポスターにある通り、日本史上最大の謎と言っても過言ではない。このブログでも、光秀の子孫だという明智憲三郎著の「本能寺の変 431年目の真実」という大変面白い本をご紹介した (因みにその私の記事は、大変驚いたことに、著者明智憲三郎さんの公式ブログでも言及されました)。この映画は、その本能寺の変を目撃する現代女性を描いたもの。綾瀬はるか主演ということで、すぐに思い出す類似の映画は、「プリンセス・トヨトミ」であるが、あちらが小説の映画化であるのに対してこちらはオリジナル脚本。また設定は随分違っていて、こちらは現代と過去がはっきり断絶しているところ、ひょんなことからその二つの時間帯を往復することになる女性主人公を描いている。実はこの映画の監督は、「プリンセス・トヨトミ」と同じ鈴木雅之。シャネルズ = ラッツ & スターの歌手とは同姓同名で、全くの別人だ (笑)。もともとはテレビの演出家らしい。
e0345320_23571055.jpg
物語は、綾瀬はるか演じる結婚を控えた女性が、婚約者の親に会いに彼の実家のある京都に泊まるが、予定していたホテルには手違いで入れない。途方に暮れているときに目に入った古風な「本能寺ホテル」というホテルに転がり込むことになるが、そのホテルのエレベーターは、ある条件が整うと、1582年 6月 1日、つまりは大事件発生の 1日前の本能寺にタイムスリップする。そのことを知った女性は、なんとか信長に危機を伝えようとするというストーリー。
e0345320_22160520.jpg
信長には堤真一、森蘭丸には濱田岳が扮していて、主演の綾瀬はるかともども、最初から彼らが演じることを想定しての、いわゆる「あて書き」である由。その他、婚約者の父親が近藤正臣、ホテルの支配人は風間杜夫と、それぞれの個性に合った役は、なかなか気が利いている。
e0345320_22115033.jpg
e0345320_22125786.jpg
e0345320_22172497.jpg
e0345320_22175791.jpg
だがやはりこの映画で最も存在感を発揮しているのは、綾瀬はるかであることは間違いないだろう。もちろん、大河ドラマの主役をはじめ、シリアスな役柄も演じているとはいえ、その天然ぶりには他の追随を許さない (?) ものがあり、ここではさすがにあて書きだけあって、とてもよい味を出している。作品そのものは、ひとりの女性が当たり前の日常にわずかな疑問を持ち、タイムスリップを経験する中で、信長からの刺激を受け、新たな人生観を得て成長するという流れがあって、それほど易しい役ではないと思う。こんな感じで戦国時代にも平気で入って行ける肝っ玉のある役柄でもある。
e0345320_22223358.jpg
そして演出も、かなり細かい部分の呼吸に気配りがなされていて、あれこれの工夫が面白い。例えば、主人公が最初のホテルに入れないことが判明する場面のとぼけぶり、金平糖をかじるときのカリッという食感など、印象的である。それから、美術も結構手が込んだ作りで、スタッフの苦労がしのばれる。ただその一方で、この映画のメッセージが何か現代人の感性と鋭く切り結ぶかと言えば、残念ながらそこまでの成果は出ていないように思う。例えば冒頭に引用されているビルマルクの言葉「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」は、作品の基調トーンとしてどこまで活きているであろうか。タイムスリップとは、まさに経験ではないか。この映画の中で経験から学ぶ主人公は、では愚者ということになるのかな。そのあたりの中途半端感が大変残念である。

ところで、本能寺の変が起こったのは、言うまでもなく本能寺という寺院なのであるが、信長が討たれたときになぜここに滞在していたかというと、この寺院を宿泊所としていたからだ。その意味では、まさに信長の宿泊場所が「本能寺ホテル」であったわけだ。調べてみるとこの本能寺は、法華宗、つまりは日蓮宗の寺院で、信長はこの宗派に帰依していたこともあって、上洛時にはこの寺を定宿としていたようだ。周知の通り信長は一向宗 (この時代は浄土真宗ではなく浄土宗を指したらしい) とは血みどろの対決をしているし、天台宗の総本山、比叡山を焼き討ちしているわけであるが、既存の仏教のすべてを否定したわけではなかったのである。ただ、ただである。この映画の中に、まさに歴史を大事に思う人には我慢できないシーンがある。それは、本能寺という設定の寺院の建物に、デカデカと「方丈」という額がかかっているのだ (ロケ地は南禅寺だろうか)。私の理解では、これは禅寺特有の住職の居室の呼び名であり、明らかに法華宗の寺院たる本能寺の景色ではない。どうでもよいことという見方もあると思うが、歴史に学ぶ賢者であれば、もうひと工夫欲しかったところ。こんな感じの建物。
e0345320_23094328.jpg
それから、明らかなロケ地がひとつあって、それは兵庫県の書写山円教寺だ。
e0345320_22481494.jpg
この場所で信長と家臣が球技をして遊ぶのであるが、ここは寺院にしては珍しく、建物によって囲まれた土地で、球技用のコートのような閉鎖空間になっているので、その着想は理解できる。ただ、シーンの流れとしては、閉塞感があってあまりよくないと思う。もっと広々した河原でのロケの方がよくはなかっただろうか。映画の印象は、個々のシーンの積み重ねによって決まる。細部においては、上に書いたような気の利いたシーンもある一方で、この種の時代物に欠かせないロケ地の組み合わせについては、ちょっと課題があるようにも思うが、いかがなものか。

そういえば、この映画は日本史上最大の謎である本能寺の変に迫るとの触れ込みであったが、信長の最期について、何か目から鱗の大発見が描かれていただろうか。ネタバレは避けるが、なんだろう、例の「人生五十年」という幸若舞を舞うシーンはなく、その点が新味と評価すべきだろうか。つまり、信長の生は 50年どころか、遥かな時を超えて、今に至る 400年以上も続いているということか。うーむ、まさかヴァンパイアものではあるまいな・・・。いやいや、そんな心配はないので (笑)、まだご覧でない方は、私のように重箱の隅をつっつくことなく、ごく自然に楽しんでもらえる映画だと思って見に行かれればよいものと思う。でも、本当に信長の最期ってどんな感じだったのであろうか。永遠に真相が分からない歴史のロマンである。
e0345320_22561300.jpg

by yokohama7474 | 2017-02-16 23:02 | 映画 | Comments(0)

e0345320_23102220.jpg
とある人から、「今日は何の映画を見るんですか?」と訊かれて、「『ドクター・ストレンジ』ですよ」と答えると、「ええっ?! あの白黒映画、どこかの劇場でやっているんですか???」との反応。一体何かと思ったら、原題 "Dr. Strangelove"、日本公開名「博士の異常な愛情」のことであったようだ。ちなみに原題も邦題も実際にはもっと長いのだが、普通はこの題名で通っている。それは言うまでもなく鬼才スタンリー・キューブリック監督、ピーター・セラーズ主演の古い作品。いえいえ違います。この「ドクター・ストレンジ」は、「ドクター・ストレンジラヴ」とは全く違った映画で、「アベンジャーズ」シリーズで知られるアメリカンコミックのマーヴェル社のキャラクターが主人公。今回初めて、英国の名優ベネディクト・カンバーバッチ主演で映画化されたもの。少なくとも私は今回の映画で初めてそのキャラクターの存在を知ったが、調べてみると、マーヴェル社のアメコミのキャラクターとして初めて登場したのは、なんと 1963年と古いのである。
e0345320_23291153.jpg
ところが奇妙なことに、キューブリックの "Dr. Strangelove"、つまり「博士の異常な愛情」も、やはり同じ 1963年の制作なのである。ここには何か不思議な魔術的連関があるのであろうか。そう、これはアメコミにしては珍しい、魔術をテーマにした物語なのである。冷戦真っ只中の 60年代にこのような東洋的魔術や傲慢さへの戒めといった内容が受けていたとすると、当時米国が直面していた切迫した危機と、その裏腹の虚無感が、その背景にあるのかもしれない。もっともキューブリックの映画の方は、明確に冷戦の産物でありながら、こちらは魔術とは関係なさそうであるが (笑)。ともあれ、このストレンジな題名は一体どういう意味かというと、スティーヴン・ストレンジという名前の医者が主人公だということである。分かりやすすぎる (笑)。大抵の人は、「ストレンジ」などという文字通りストレンジな苗字を持つ人なんているわけないよと思うかもしれないが、いやいや、人生長く生きてくるといろんなことがある。私が仕事で関係のある人で、Strange という苗字を持つ人がちゃんと実在するのだ。それも、全くストレンジな人ではなく、業界の一流会社のニューヨーク本社にお勤めのエリートだ。今度会ったら、魔術を使うか否か確認してみよう。

などと、本編と関係ないことをウダウダ書いている理由はただひとつ。私には、この映画は面白いとは思えないからだ。せっかくカンバーバッチほどの名優を主演とし、このブログの過去の記事でも絶賛した、私が深く敬愛するデレク・ジャーマンのミューズであった女優ティルダ・スウィントンまで起用しながら、全くもったいない話である。しかも彼女、これは本当に頭を剃っているのではなかろうか。
e0345320_00243226.jpg
アメコミを原作とする映画がすべて「所詮マンガだろ」という評価にとどまるものではないことは自明で、このブログでも、「シビル・ウォー / キャプテン・アメリカ」などは高く評価したものである。だがこの「ドクター・ストレンジ」に対しては残念ながら、「所詮マンガだろ」という憎まれ口を叩きたくなってしまうのだ。何やらクルクル手を回すだけで空間に黄色い炎のようなものが現れ、別の場所に移動できたり敵を攻撃したり自分を防御したりできる。のみならず後半では時間を操るようにまでなってしまう。これができるなら、亡くなってしまったり怪我をした登場人物 (自分を含め) に対しては、全部時間を戻せば事なきを得るではないか。昔クリストファー・リーヴが演じた「スーパーマン」の 1作目で、恋人の死に慟哭したスーパーマンが地球の周りを渾身で高速飛行し、自転を逆回りさせて時間を戻すシーンがあったが、あのような切実で素朴なシーンが懐かしい。
e0345320_00295974.jpg
ネタバレは避けるものの、魔術によって時間を逆行させることで、壊れた建物が原状回復して行くシーンは、最近「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」でも出て来た。それゆえ、この映画のラストのラストに出てくる「魔法使いが多すぎる」というセリフは、もしや、ハリー・ポッター・シリーズにケンカを売っているのではないかと思いたくもなるのである。一方、予告編でも明らかであったこの映画のウリになる見事なシーンは、建物がグニャグニャと動き、重力が自在に変化するところ。
e0345320_00405978.jpg
このパターンでは、非常に手の込んだシーンもいくつかあり、手間暇かかった映像であることは認めるが、これらのイメージも既に、「インセプション」とか「スタートレック Beyond」で使われているものの延長であり、現在の CG 技術をもってすれば、それほど驚くべきものとも思われない。まあ、予告編でもう見てしまっていますしね。

再び役者に関しては、主人公の恋人 (なのであろうか) 役のレイチェル・マクアダムスは最近大活躍であるが、ここではコスプレをしない (あ、医者の白衣をコスプレと認定しないならだが) 一般人の役を自然に演じている。
e0345320_00502087.jpg
一方、コスプレを楽しんでいる気配であるのは、敵であるカエシリウス役のミッツ・ミケルセン。デンマーク人で、実は「ローグ・ワン / スターウォーズ・ストーリー」では、主人公の父親、デススターの設計者ゲイレン・アーソ役を演じていた俳優だ。全然気づかなかった。なるほどこうして比べてみると、今回は目の周りのお肌が随分と荒れておられるが、確かに同一人物とも見える (笑)。
e0345320_00550012.jpg
e0345320_00560442.jpg
監督のスコット・デリクソンは 1977年生まれの若手で、サスペンスやホラー系を中心に映画を作ってきた人。私が見たいと思って結局見ることができなかった「NY 心霊捜査官」なども監督している。今回はこの大作に大抜擢ということだろう。
e0345320_01024908.jpg
この映画、エンドタイトル終了後にもシーンがあり、今後マーヴェル社のほかのアメコミ・キャラクターとの共演があることはほぼ明らかだし、続編の制作が明示されて終わる。アベンジャー関係も何やらややこしいことになっており、スパイダーマン (マーヴェル社にとっては新顔だ) がアイアンマンに弟子入り (?) する次回作の予告編も、既に劇場で流れている。あまり複雑にキャラクターを錯綜させるのもどうかと思いますがね・・・。ともあれこの映画、突っ込みどころには事欠かないストレンジな映画ではありました。

by yokohama7474 | 2017-02-15 01:05 | 映画 | Comments(0)

e0345320_00402469.jpg
未だ記憶に新しい、スノーデン事件。米国が国民のプライヴァシーを犯して携帯電話や E-メール、SNS を傍受・監視していたという事実を、その行為に関わっていた当事者が暴露した衝撃は大きかった。それは 2013年 6月のこと。国家機密を暴露し、その後ロシアに逃亡したエドワード・ジョゼフ・スノーデン、現在 33歳。この映画はそのスノーデンが社会人として世に出てから、大きな決断をするまでの様々な経緯を克明に辿って行くもの。なんといっても監督があのオリヴァー・ストーンであるから、期待できようというものだ。
e0345320_22392979.jpg
「プラトーン」「JFK」など、米国の抱える闇に光を当てる作品を多く発表してきた彼のことであるから、この現代の大事件を題材とすることに、なんら不思議はない。とはいえ、これはほんの 4年前に起こったことであり、依然として進行中のケース。過去の事件を扱うのとは緊張感が違うであろう。そして実際この映画においては、現在でも健在であろう人たちの役が多く登場する。もちろんすべてが現実の再現ではないかもしれないが、いわば国への反逆者を扱うに際し、どのように描くかという点には細心の注意が必要だし、大変リスクのあることであることは明らかだ。なので私はまず、この監督の勇気に称賛を捧げたい。だが興味深いことに、監督自身のインタビューによると、「正直に言うと、この映画には関わりたくなかった。これまでに論争を呼ぶ作品は十分やっているし、マーティン・ルーサー・キング牧師の映画に関わったものの、結局は実現には至らなかった苦い経験があった」とのこと。なるほど、ストーンほどの実績と発言力のある映画人をもってしても、なんでもかんでも企画を実現できるわけではないのだ。あるいは、既に実績と発言力があるからこそ、権力者側から見ると危険であるということにもなりうる。そのことをまず認識する必要があるだろう。

この手の映画はそのように、現実を考える手段として位置づけられるのは致し方ないが、まずは純粋に映画として見てみよう。すると、まず素晴らしいと評価できるのは、主演のジョゼフ・ゴードン = レヴィッド。
e0345320_22273404.jpg
このブログでも記事を書いた「ザ・ウォーク」の演技も記憶に新しい彼が、その前作と同じくここでも、ある人並外れた能力を持ち、また強い信念に導かれて自らの道を進む主人公を、強い説得力を持って演じている。一見、淡々としているというか飄々としているその一方で、国家機密を扱っている重圧を常に感じているという、いわば引き裂かれた若者像を巧みに描いていると言えるだろう。スノーデンの個人生活も赤裸々に描かれ、恋人との亀裂や再会もストーリーの大きな比重を占めているが、その演出も実に巧みであり、普通の若者が前代未聞の国家への反逆を決意するまでの過程には、フィクションであるとノンフクションであるとを問わないサスペンスが感じられる。私としては、このように純粋に映画として流れがうまく行っている点をもって、これは充分に価値のある作品であると思うのである。共演者の中には、「スタートレック」シリーズで印象的なミスター・スポックを演じているザカリー・クイントとか、私としては久しぶりに見るニコラス・ケイジ、あるいはクリント・イーストウッドの息子であるスコット・イーストウッドがいる。それぞれに個性的で面白い。
e0345320_22453702.jpg
e0345320_22465441.jpg
e0345320_22470781.jpg
そして映画の大詰めでは、モスクワにいるスノーデンがテレビ番組で人々に語り掛けるシーンがあり、ここでついにゴードン = レヴィット演じるスノーデンは本人と一体になる。いや、これはどう見ても本人である。調べてみると、このラストシーンは実際にモスクワで撮影されており、ここで語っているのは本人なのである。これは映画の実際のシーンではなく、スノーデンの肖像写真。
e0345320_22495127.jpg
実際にこの映画の撮影中には当のスノーデンが以前所属していた NSA (National Security Agency = 国家安全保証局) から目をつけられ、制作に当たっては情報や素材は手渡しされ、オフィスでは盗聴器の存在を常に警戒していたという。そのようにしてできた映画であるから、やはり作り手たちにとっては特別な思い入れがあるであろうし、またこれを見る機会を持つ我々も、現代人の生活についての様々な感慨を抱くことになる。我々は後戻りすることはできない。かつては存在した中心が失われ、これからも世界で人々は、張り巡らされた網の目の上で生きて行くように、さらになって行くだろう。何年か経ってまた、スノーデンの行ったことや、この映画が訴えていたことを思い出すとき、我々はどんな問題意識を抱えているのであろうか。その答えは誰にも分からないが、ともあれ少なくとも問題意識くらいは持ち続けなくてはならない (笑)。オリヴァー・ストーンは語っている。「世界を変革しようだなんて思っていない。映画にできることには限界があるし、活動家のゲームを追いかけるつもりもない。ただ私は自分の中の良心と情熱に従っているだけなんだ」・・・なるほど、含蓄深い言葉である。

ところでオリヴァー・ストーンは、2013年に NHK でも放送された「もうひとつのアメリカ史」という全 10回のテレビシリーズを制作している。私はそれを見逃したので、後日出版された 3冊の書物を購入したが、最初の 1冊を以前読み終えただけで止まってしまっている。ほかにも未読の本が沢山あるという事情もあるが、それは言い訳で、このシリーズは内容が重くて、なかなか次に進み気が起こらないのが実情だ。だが、この偉大な映画監督の「良心と情熱」について行くため、残りの 2冊にも近く手をつけたいと考えている。
e0345320_23170989.jpg

by yokohama7474 | 2017-02-11 23:17 | 映画 | Comments(0)

e0345320_22232304.jpg
自らがキリスト教徒であった遠藤周作の代表作「沈黙」。過去、私の敬愛する篠田正浩によって 1971年に映画化されており、その際の題名は今回と同じ「沈黙 Silence」であった。残念ながら私はその映画を見ていないが、原作はもちろん読んでいるし、1993年に若杉弘によって初演された松村禎三のオペラも、初演時に見ている (ええっと、あまり面白くありませんでした・・・笑)。加えて、以前書いた長崎旅行の記事でも述べた通り、隠れキリシタンは私にとって大変に興味のあるテーマ。従って私には、この映画を見るに当たっての充分な思い入れが既にあったのである。ところが、この映画の鑑賞後のある日に交わされた、私と家人の会話は以下の通り。
 私「うーん、この映画イマイチだったねぇ。」
 家人 (驚いて) 「なに言ってんの。すごい映画だよ。」
 私「まぁ、そういう評価も分からんではないけどね、世界には悲惨な歴史が満ち溢れていて、日本での切支丹迫害だけが痛ましい悲劇じゃないんだよ。」
 家人 (軽蔑の眼差しで) 「心の曇った人にはそう見えるのね。私は感動して涙を流したわ。」
 私 (家の外を見て)「・・・。ええっと、明日の天気はどうだろう。寒いのかなぁ。」

このブログの記事のあれこれで私は、最低限の礼儀は守りながら、面白いものは面白い、面白くないものは面白くないと正直な思いをつづってきている。それゆえ、コメントを頂く方から、時にはネット上でさらし者になるような厳しい評価も浴びせられてきた。だがそれは自ら引き受けた道。匿名の度を越えた卑劣な罵詈雑言でないと私が判断する限り、そのようなコメントは別に隠すことでもなんでもない。というわけで、期待を込めて見たこの映画、私にとっては残念なことにイマイチであったということから始めよう。これは監督のマーティン・スコセッシと、本作に出演している浅野忠信、窪塚洋介の写真。日本でのプロモーション用。
e0345320_22261714.jpg
未だ衰えぬ勢いで新作を発表し続けるスコセッシは、今年 74歳。まだまだこれから深みのある映画を撮って行ってくれるであろう。ただ、作品による出来のむらがある人だと思うので、これから丁寧な映画作りをしてくれることを望みたくなる。なんでもこの作品は、スコセッシが初めて原作を読んで以来、過去 28年に亘って映画化が彼の悲願であったらしい。映画化がなかなか実現せず、製作会社との間で訴訟沙汰にまでなったらしい。その意味では、スコセッシの悲願を達成する記念すべき映画であるということだ。

原作は大変有名であるが、念のためにあらすじを述べておくと、江戸時代初期、キリスト教禁制から未だ日も浅い頃、マカオにあるイエズス会の拠点で 2人の若い神父が意外な話を聞く。それは、自身日本でも活発な布教活動を行ったあのヴァリニャーノが語る話だ。それによると、布教のために日本に渡ったフェレイラ神父という人物が、キリスト教を棄教して、のうのうと日本に住んでいるということである。若い 2人は、自分たちがかつて師事したフェレイラに限ってそんなことがあるわけないと激昂し、真実を確かめようと、果敢にも日本に渡ってくる。だがそこで彼らは、長崎の隠れキリシタンとともに、筆舌に尽くしがたい残酷な弾圧を受ける。敬虔な信者たちがこれほど苦しんでいるのにもかかわらず、救済すべき神の顕現はない。これほどの危急な場面において沈黙を守っている神の意思は、一体いかなるものなのだろうか、という重い重い命題が扱われているのである。

まず印象に残ったシーンを述べると、切支丹であると摘発されたのに、踏み絵を踏まずに処刑された人たちの最期。そのうちのひとりは、あのピーター・ブルックの劇団で長年活躍する笈田ヨシ。彼はもうすぐ小川里美主演のプッチーニ作曲「蝶々夫人」の演奏会形式の演出も手掛けるが、残念ながら私はそれを見ることができない。今年既に 83歳の高齢でありながら、ここでも全身全霊で演技する彼の姿には感動を禁じ得ないのである。
e0345320_22571672.jpg
それから、「シン・ゴジラ」での演技も記憶に新しい、映画監督の塚本晋也。あの田口トモロヲ主演のパンクな「鉄男」から既に 30年近く。時代は移り変わり、人々はその時々で感性に合うものを選ぶ。願わくばこの映画における彼の体を張った熱演が、多くの人に感銘を与えますように。十字架から降ろされる彼の姿は、さながらイエス・キリストのようでしたよ。熱演に拍手!!
e0345320_22590135.jpg
ストーリー自体が感動的であるのはもともと分かっているし、隠れキリシタンがいかなる過酷な目に遭わされたのかも一定の知識はある。従ってポイントは、この映画が映画自体としてどの程度の完成度に達しているかということであろう。その観点から、私が覚えた不満をいくつか挙げてみよう。

・イエズス会の宣教師は、反宗教改革の旗印のもと、異常なまでの情熱で布教に携わったゆえに、日本語を喋るべく死にもの狂いの努力をしたはず。なぜなら、キリスト教の信仰の証は言葉で語られるべきであるからだ。異文化である日本の習慣や日本人の発想に戸惑いは覚えたであろうが、一方で言葉の重要性を実感したはず。この映画にはその観点が欠けている。
・英語。もちろん、米国資本の映画である以上はやむない設定なのであろうが、江戸時代の長崎の農民たちが英語を喋ることなどあり得ない。もしその設定にするなら、片言の英語ではなく、完璧な英語を喋るという設定にした方がまだよかった。もちろん、遥か昔の銀河の彼方の物語である「スター・ウォーズ」で英語が使われていることを思うと、特に目くじらを立てるまでもないのかもしれないが (笑)。
・拷問の描き方はこれで充分か。私は別に残酷趣味があるわけではないが、実際の拷問はもっともっと悲惨なものであったと思う。
・宣教師のひとりは、なぜに溺死するのか。海の中で泳いでいれば助かったのではないか。それとも金槌だったのか (笑)。
・夏のシーンであっても、日本の夏の雰囲気が出ていない。オープニングとエンドタイトルに一切音楽を使わず、蝉の声や波の音に終始したという着眼点を思えば、実際の夏のシーンの出来は若干残念である。

と書きながら思い出すのは、この映画で極めて重要な役割を演じているあと二人の俳優、すなわち、イッセー尾形とリーアム・ニーソンである。まずは前者であるが、当時の領主がこれほど英語がうまかったか否かは別として、さすがに米国でも一人芝居で好評を得ている人だ。その表情や身振りのひとつひとつに、残酷さと温かさが同居する人間の不可思議さを体現する何かがある。
e0345320_23131186.jpg
そしてリーアム・ニーソン。転びのバテレンとは、実は悟りの境地に至っていた人なのかもしれない。これは未だそこに辿り着く前の、苦悩に満ちた神父の表情。
e0345320_23185557.png
またもうひとつの発見は、切支丹であっても、日本人である限り、信仰を続けるためには何か目に見える崇敬の対象が欲しいということ。私は先日、東京国立博物館で春日大社の展覧会を見ており、いずれ記事もアップするが、その展覧会で感じたものと同じものがここにはある。フェレイラの語るように、西欧諸国によって植民地化されたアジアのほかの国々と異なり、日本はまるで沼であって、そこに植物が根を張るのは極めて困難であるのだ。そのことをこの映画が皮膚感覚を持って描いているかというと、残念ながら私にはそうは思えない。もっともっと宣教師の内面に迫り、切支丹たちの複雑な思いに迫って欲しかった。いや、もちろんそうは言っても、このようなシーンには私も心動かされたのであるが。
e0345320_23310101.jpg
我々日本人が神仏に期待するのは何であろうか。この国では、自然そのものが信仰の対象となる。そこでは、神はそもそも最初から沈黙しているのではないか。この映画の中で神の沈黙を問いかけるのが、日本人ではなく、ポルトガル人であることに注目しよう。聞こえない声に耳を傾けるのは日本人の習性だ。そして忍耐強く、残酷な境遇にも忍従するのである。イエズス会が危機感に駆られて日本に派遣した宣教師たちは、そのような日本人を見てどのように思ったであろうか。彼我間の隔たりゆえ、理解できないものがある一方で、この国の持つ揺るぎない独自性もきっと理解したに違いない。その衝撃をこそ、この映画では描いて欲しかった。というわけで、私と家人の議論は延々続いて行くのである。

by yokohama7474 | 2017-02-09 23:47 | 映画 | Comments(6)

e0345320_19150217.jpg
表の顔は社会生活を営む一般人。裏の顔は腕利きの戦闘員。そのような設定の映画はままあるものだ。もちろんスーパーマンやバットマンやスパイダーマンといった米国の伝統的なヒーローはみなそうであり、日本の怪獣・怪人ヒーローものも軒並みそうである。人には変身願望があり、日常の自分以外になることに、誰しもが漠然とした憧れをもつもの。だが、その願望も、実は変身する対象次第とも言える。ここで私は「戦闘員」という言葉を使ったが、それは正義のヒーローであるかもしれないが、場合によっては上のポスターのように 「殺し屋」である場合もあるのだ。殺し屋とはなんとも物騒であり、そんな変身ならしたくないと思う人がほとんどであろう。だが、ここにそのいやな役を引き受けた男がいる。ベン・アフレック演じるところの会計士、クリスチャン・ウルフ。現代音楽好きなら、あのジョン・ケージの親友でもあった同名の作曲家 (もっとも、苗字は Wolff なので、ウォルフという発音が正しいようだが) を思い出すかもしれない・・・まぁそんな人は世の中にごくごく少数かと思うけれども (笑)。ともあれ、ベン・アフレックである。
e0345320_23480973.jpg
e0345320_23482648.jpg
私はこの映画を大変素晴らしい作品であると思うが、その最大の功労者はやはりこの人、ベン・アフレックであろう。これまで様々な役を演じてきた、今やハリウッドを代表する俳優であるが、このブログではその出来に苦言を呈した最近の「バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生」における似合わないバットマン役から一転、素晴らしいニューヒーローを演じている。ここでのアフレックの演技の本質を一言で表せば、「目の光を消す演技」ということになるだろうか。天才的な能力を持つにもかかわらず、いや、それゆえであろうか、他人とのコミュニケーションが下手な人物像を、その顔の表情や立ち姿からいかんなく表現しきっていて、その象徴が、光を持たない、焦点の合わない目なのである。いや、焦点が合わないという描写は正確ではない。昼には会計士として立派に仕事をし、危ない裏社会にも通じているのであるから、常に周りを見ていないと務まらないはずである。むしろその視線は、焦点が合っていないのではなく、目の前にあるものを越えた何かを常にとらえている、ということではないか。それは、危険を察知する能力でもあろうが、それ以外に、現実ではない数字の世界であったり、幼い頃の記憶であったりして、この男は常にそれらのイリュージョンに苛まれているのである。なのでこのヒーローは、もちろん伝統的なそれとは異なる特異なもので、よくバットマンに使われるダークヒーローとかアンチヒーローというものとも違っている。それは、殺し屋として攻撃する対象が、世界の平和を乱す者ということではなく、個人として許せない者であるという点。それから、日常の顔は知的職業でありながら自閉症であって、バットマンの正体である大富豪ブルース・ウェインのようには、「暗」に対する明確な「明」となっていない点。つまり、昼の顔と夜の顔は、ある意味でそれほど隔たっていないとも言える。だが一方で、知的職業である会計士がなぜにこんなに強いのかという点での意外性 (笑) は、やはりあるのである。こんな複雑なヒーローを演じられる俳優が、そうそういるとは思えない。

この映画の映像は、概してそれほどクリアであるとは言い難い。室内のシーンでも多くは平板な印象で、ライティングにあまり凝っていないのではないかと思われる (話の都合上、シルエットが写るというシーンのライティングは別だが)。その一方で、映像のリズムという点では面白い箇所が沢山ある。例えば、四角形と円形のせめぎあい。主人公の自宅では、壁の一部にが四角い穴があいているのが大変印象的で、それの場所以外にも、私の頭にあるその前後のシーンの残像には、四角形が多い。だが次のシーンでは主人公が料理をしていて、丸い皿の上に乗せるのは、丸い目玉焼きと丸いパンケーキなのである。このような視覚上の仕掛けが見る者の潜在的な不安感を呼び覚まし、主人公の偏執的な面を強調する。例えばこんなシーンもそうである。
e0345320_00294606.jpg
この映画においては沢山の人が殺されてしまうので、途中少々うんざりするのは否めない。だが、大詰めのシーンは言ってみれば昔の東映ヤクザ映画のクライマックスのようなもので、いわば単身での殴り込み。最後には (もちろん意外な・・・と言いながらも途中でそれと分かるが、それでも好感を持ってみることができる、想定外のシーンもあり) カタルシスが得られるようになっている。そのカタルシスは、一匹狼であるはずの主人公に、携帯電話によって指示を出したり情報を与える女性の正体が最後に判明することで、一層高まる。大変によく出来た脚本であると思う。

ベン・アフレック以外で印象に残った役者は、まず、あの名作「セッション」での鬼教師役、J・K・シモンズ。ここでも実にいい流れを作り出している。つまり強面の捜査官でありながら、その内面には臆病さも狡さも優しさも同居しているのである。
e0345320_00441645.jpg
そして、彼の指示でウルフを追う分析官を演じるシンシア・アデイ=ロビンソンがよい。そもそもこの役が設定されていることで、ストーリーに複雑なウェイヴがかかる結果となり、緊迫感も生まれている。本筋のストーリーが縦に走っているとすると、そこに鋭い横線が加わるようなものである。
e0345320_00512155.jpg
その他、久しぶりに見るジョン・リスゴーは年を取ったがそれなりにいい味を出しているし、敵 (?) 役のジョン・バーンサルは、大変特徴的な顔であるが、あとで調べてみて、戦争映画「フューリー」に出演していたことを思い出した。それ以外にも充実したキャストに恵まれ、この映画は一本筋の通った、かつこれまでにないヒーロー物となったのである。大いに見る価値ありと申し上げておこう。監督は 1964年生まれの米国人、ギャビン・オコナー。これまでの作品に私はなじみがないが、この映画の前にナタリー・ポートマン、ユアン・マクレガー共演の「ジェーン」という西部劇を撮っていて、日本でも昨年 10月に公開されたようだが、完全に見逃してしまった。悔しい・・・。やはりまだまだ、多くの映画を見逃しているのである。
e0345320_01193439.jpg
最後に、美術に関連するネタについて少し触れてみよう。主人公ウルフは、反社会勢力を顧客として危ない橋を渡る仕事をしているおかげで金回りがよいのだが、ある場合には美術品の現物支給で報酬を受け取っている。あとで気づいたが、これは、足がつかないように盗品をあてがわれているのかもしれない。彼の隠れ家にかかっているのは、ルノワールとポロック。だがこのルノワールは、本人はどうやら本物と思っているようだが、どう見てもニセモノ。それに対し、米国抽象表現主義の巨匠ポロックの作品は、どうやら本物のようだ。こんな作品であった。
e0345320_01024036.jpg
主人公ウルフとともに命を狙われることになる女性 (アナ・ケンドリック演じるデイナ・カミングスという役) は、もともと学生の頃に美術を専攻したかったというセリフがあるが、彼女はルノワールには目もくれず、このポロックにのみ興味を示す点、なかなか説得力のある凝った作りになっている。また、もし私の記憶が正しければ、ウルフはこの絵をこんな風に見ていなかっただろうか???
e0345320_01040763.jpg
うーん、まあ確かに、縦でも横でも、どっちでもよいような気がする (笑)。でもポロックの絵には何かがあるから不思議である。それから、「ポーカーをする犬」という絵画についてのセリフもある。私はこの絵を知らなかったが、ちゃんと Wikipedia もあるから面白い。20世紀初頭にクーリッジという画家が描いた油絵のシリーズで、タバコ会社の広告用だという。
e0345320_01091046.jpg
このように、様々な切り口のある映画であり、私としては大満足だ。どうやらシリーズ化するらしいが、さて、今後もこのレヴェルを保つことができるであろうか。注目しよう。

by yokohama7474 | 2017-02-09 01:20 | 映画 | Comments(0)

e0345320_00454804.jpg
この映画は、東京のヒューマントラストシネマ渋谷と、大阪のシネ・ルーブル梅田で開催中の「未体験ゾーンの映画たち 2017」という特集上映に含まれるというかたちで公開されているものである。いや、正しくは「公開されていた」というべきか。なかなか面白そうだぞと思って調べたときには既に東京での上映は終了しており、大阪でしか見ることができない。そこで、別項で書いたあべのハルカス美術館に行くついでに見ることにした。常々このブログでは、日本で見ることのできる映画のヴァラエティの広さを正しく認識すべきとのメッセージを発しているが、この特集にかかっている数々の映画 (今年は実に 62本!!) などはまさにその好例である。以下、劇場のサイトからの説明。

QUOTE
『未体験ゾーンの映画たち』は、日本未公開作品ばかりが集結する劇場発信型映画祭です。
様々な理由から劇場公開が見送られてしまう傑作・怪作映画を、映画ファンの皆様にスクリーンでご鑑賞いただくべく、ヒューマントラストシネマ渋谷をメイン会場に2012年より開催しています。第6回目となる2017年も、各国のあらゆるジャンルから選び抜かれた未体験ゾーンの映画たちを、新年の幕開けとともに一挙上映いたします!
ぜひ、自分だけの隠れた名作を映画館で見つけ出す喜びを、この映画祭で体験してください。
UNQUOTE

私のように映画は基本的に劇場で鑑賞すると決めていて、しかもゲテモノ映画に偏見のない人間 (?) としては、願ってもない特集上映だ。但し、これでも勤め人の身であるし、「普通の」映画を見たりコンサートや美術館に出掛けることでかなりの時間を取られているため、そうそう何本も見に行くことはできないが、だがせめてこの一本でも見れば、どのような内容の特集上映であるかについてのイメージを持つことができ、自分なりの文化の諸相の発見に資するであろう・・・と思ったのである (笑)。

さてこの作品、オーストラリア映画である。脚本・監督のケアンズ (おっと、そのままオーストラリアの都市名ですね) 兄弟は、これが長編 2作目。前作の「モーガン・ブラザーズ」はホラー・コメディで、同作でシッチェス映画祭ミッドナイトエクストリーム・グランプリなる賞を受賞した新鋭であるとのこと。ここでも低予算の手作り感満載ながら、「次はどうやって観客を怖がらせ、驚かせてやろうか」とにんまりしながらあれこれ試行錯誤する彼らの姿が目に浮かぶようだ。ストーリーは以下のようなもの。テレビの人気番組「スケア・キャンペーン」は、いわばホラー仕立てのドッキリ・カメラ。実在の恐ろしい施設に一般人を入れ、そこにニセの怪奇現象を起こしてその一般人を怖がらせる。だが、今やネットにはあらゆる映像が溢れ返る時代。カルト集団が殺人シーンを YouTube にアップして話題を呼んでいる中、テレビとしても刺激を高めないといけないと、放送局内で檄が入る。そこでスタッフは知恵を絞るが、その撮影現場に本物の殺人鬼が・・・という話。「どこまでが真実 (リアル) で、どこからがヤラセ (フェイク) なのか!?」というキャッチフレーズの通り、ストーリーは二転三転で、なかなかに気が利いている。正直なところ、ここに出ている役者はひとりとして知った顔がないが、以前も書いたがこの種のホラーでは、それはむしろ重要な要素になると思う。作り物と分かっていても、やはりこういう恰好をされると、それはそれは怖いもの。
e0345320_01083700.jpg
だがホントはこうであったりするわけで、ちょっと安心する (笑)。
e0345320_01120399.jpg
だから、こんなシーンが出て来ても、悲鳴を上げたり目をつぶる必要はありません!!
e0345320_01125688.jpg
・・・と、果たして言ってよいものか否か。後半の展開の意外さにはかなり乗せられるものがある。もしこの映画をご覧になる場合には、どのシーンが本当か嘘かをあまり考えず、映画のテンポに自然に身を委ねるのがよいと思う。そうすると、段々展開が読めてくるし、最後のオチも予測できようというものだ。だがそうすると今度は、不満が頭をもたげてくる。最後に黒幕は分かっても、実行犯の素性は最後まで分からないまま。ここまでドンデン返しをするなら、そのあたりも回答を用意するのが作り手のマナーではないのかと、少し思ってしまうのである。あるいは、この映画が好調なら続編を作ろうという意図のもと、あえてそういう作りにしているのかもしれない。そうであっても、私としてはこのラストは少し残念だと思ってしまった。

一方、この映画が一般の劇場で公開されないとすると、やはりその描写に一部刺激が強すぎる部分があるからだろう。それは、上記のようなスプラッターシーンではなく、殺人シーンをネットに上げるというカルト集団の描き方だ。この点にも私はあまりよい気持ちがしなかった。狂気を孕んだ現代世界は、このような事態を絵空事と言えない状況になっているので、少なくとも、見ていて楽しい気分にはならない。だから私はこの映画を第一級のホラーと呼ぶには躊躇を覚えてしまうのだ。ホラーにはどこかユーモアがあることが望ましく、ここではその点があまり上質とは言えないと思う。こらこら、こっちに来るなって!!
e0345320_01245458.jpg
だが、見た人の評判は結構よいらしく、ヒューマントラストシネマ渋谷では追加上映が決まったようである。2/12、14、16 の各 21:10 から。「なんだ、『川沿いのラプソディ』ではあまり誉めていなかったけど、面白いじゃん!!」と思われる方もおられよう。それこそまさに、このブログの標榜する文化の多様性を証明する事態である。ではしっかり目を開けて、Enjoy!!
e0345320_01382549.jpg

by yokohama7474 | 2017-02-07 01:28 | 映画 | Comments(0)

e0345320_22064042.jpg
この映画の邦題は「トッド・ソロンズの子犬物語」。「子犬物語」だけなら可愛いのだが、そこに何やら人の名前がついている。そもそもこのトッド・ソロンズとは何者かというと、この映画の監督なのである。最近の邦画の題名には、監督名を入れることは稀になっているが、以前は「フェリーニの」とか「ゴダールの」とかを冠した邦題名がいろいろあったし、渋いところでは「ヤコペッティの大残酷」などという映画もあったものだ。監督のトッド・ソロンズはアメリカン・インディペンデント界の鬼才であるそうで、私は見たことがないが、「ハピネス」「ストーリーテリング」などの作品で様々なタブーに触れながら人生のバカバカしさ、人間の愚かさをブラックユーモアたっぷりに描いてきた監督だという。なるほど、これでこの映画について語るべきことの半分は終わってしまった (笑)。監督はこんな人。確かに、大変爽やかそうとは、お世辞にも言えない人相だ。
e0345320_22200168.jpg
ネットの評判などを見ると、「可愛い題名に惹かれて見に行ってみるとビックリ!!」などというトーンのコメントがあるが、さもありなん。題名のみならず、ポスターを見てもこれは明らかにダックスフントを主人公とした映画であり、可愛らしい内容を連想しても不思議ではない。だが、予告編を一度でも見れば一目瞭然。これはかなりブラックな映画である。そして私がこの映画を見ようと思ったのは、まさにその点によってであった。ブラックな映画であるゆえに、上映館は限られているが、私が見に行ったヒューマントラストシネマ渋谷では、トイレがこんなことに。
e0345320_22545510.jpg
ちなみに原題である "Wiener Dog" であるが、この "Wiener" というのは、ドイツ語で「ウィーンの」という意味。そしてこれは英語では、日本語のウィンナーと同じで、ソーセージという意味らしい。ダックスフントという名称はもともとドイツ語で、英語圏では「ソーセージドッグ」や「ウィンナードッグ」とも呼ばれているらしい。その茶色くて細長い体がソーセージを連想させるからだろう。なのでこの映画の題名は、そのものずばり、主人公である犬の種類なのである。劇中の「インターミッション」に出てくる主人公のさすらいのシーン。これはとぼけた味わいがあって面白い。
e0345320_23123958.jpg
さぁ、そんな映画の内容はいかなるものなのであろうか。話は簡単。一匹のダックスフントが 4人の飼い主の間を転々とする間に起こる、様々な事件を描いている。最初の家では、少年の愛を受ける。結果的にであるが、私は 4つのエピソードの中でこれが最も印象に残った。あまりきれいでないシーン (笑) もあるが、ドビュッシーの「月の光」を、最初はフルートソロが主導するオーケストラ編曲で、続いてオリジナルのピアノで聴かせるあたり、写っている対象の汚さとの対照によって、曲の美しさを再認識させることとなった。ちなみに少年の母を演じるのはフランスの名女優ジュリー・デルピーだが、疲れた表情や体形を含めて、年を取ったなぁと思わせるのもまた、監督のブラックな意図なのだろうか。
e0345320_23015717.jpg
e0345320_23061348.jpg
2人目の飼い主は、獣医の助手の女性。この女性は、ペットフードを選んでいるときにばったり出会った男のクラスメイトとともに、車で旅に出る。途中、ヒッチハイカーに出会ったり、同行の男友達の弟夫婦を訪ねたりする。
e0345320_23180470.jpg
次に犬の飼い主になるのは、落ち目の脚本家。彼は映画学校で教えているが、全く尊敬を得られず、ついに大変な事態を巻き起こす。ここで脚本家を演じているのは、最近ちょっとご無沙汰であったダニー・デヴィート (シュワルツェネッガーと共演した「ツインズ」で知られるが、ほかにも多くの映画に出演している)。さすがにいい味出している。だが、ここでの「大変な事態」(以下の写真参照) においては、落ちがイマイチ。
e0345320_23242694.jpg
e0345320_23244202.jpg
そして最後は、エレン・バースティン演じる偏屈ばあさん。生活が安定せず小遣いをせびりに来る若い孫娘は、アーティストだという黒人の恋人を連れている。祖母の冷たい対応に焦ってベラベラ喋る孫娘は、彼を「ダミアン・ハーストみたいなアーティスト」と紹介するが、このアーティスト、私も名前は知っているが作品にあまり明確なイメージがなかったところ、後日ネット検索して納得。この映画をご覧になった方は、このアーティスト名で画像検索してみるとよいと思う。なるほど、ちゃんと意味のあるセリフなのだなと理解されることだろう。逆に、ダミアン・ハーストを知っている人には、それがどこのシーンに関係するのか、ワクワクしながらこの映画を見るという特権がある。
e0345320_23321061.jpg
私は映画に限らずほかの文化の分野や、果てはコーヒーまでブラックなものが好きなので、この映画を楽しむ素地はあると自負する。だが、この映画のラストは支持しない。ここで詳細を書けないのは残念だが、これはブラックというよりも、ただの嗜虐趣味である。この映画のエンドタイトルには、よくある動物愛護協会の「この映画においては動物は傷つけられていません」というステイトメントが出てくるし、監督はプログラム掲載のインタビューの中で同じことを述べている。だが、そういう問題ではなくて、散々描いてきたブラックな出来事、つまりは監督が弄んできた様々な登場人物の人生の決着をつけるために、もっとひねった結末を考えることはできなかったのか、動物愛護者の私としては、やはり残念に思うのである。

そんなわけで、可愛い子犬ちゃんの大冒険を見たい方には、全くお薦めできません (笑)。テイストの違いによって裏切られるリスクを覚悟の上で、とにかくブラックなものを見たいというもの好きな方には、特に見るなと止めることもしません。88分の短い映画ですしね (笑)。

by yokohama7474 | 2017-02-03 23:43 | 映画 | Comments(0)

e0345320_22124691.jpg
「スター・ウォーズ」シリーズの第 7作、エピソード 7 となる「フォースの覚醒」を見てからちょうど 1年ほどが経過した。最初この「ローグ・ワン」の予告編を劇場で見たとき、もうエピソード 8が完成したのかと早とちりしたが、これは、"A Star Wars Story" とある通り、シリーズに付属するものであって、全 9作のメインのエピソードには入らない。だが、これは例えば「イウォーク・アドベンチャー」のようなサイド・ストーリーではなく、実はシリーズの第 1作目、エピソード 4「新たなる希望」が始まる 10分前までを描いた物語なのである。つまり、
e0345320_22375593.jpg
いやだから、イウォークじゃないですって (笑)。ローグ・ワン、ローグ・ワン。この「ローグ」という言葉、昨年の「ミッション・インポッシブル / ローグ・ネーション」でも使われていたもので、「ならず者」という意味。この作品においては、帝国軍に従わないならず者たちの活躍が描かれているのである。ネタバレはいつものように避けるが、まぁ公開後 1ヶ月以上を経て、この作品の上演頻度も落ちてきていることだし、ごく簡単に言ってしまえば、エピソード 4 の大詰めで、帝国軍の強力極まりないデススターが、一ヶ所を攻撃されただけで大破してしまうという、考えてみれば不思議な出来事があったが、本作はその背景を描いているのである。
e0345320_22511074.jpg
この映画、世間の評価を見ているとなかなか高いようだが、正直に白状してしまうと、残念ながら私はあまり乘れなかった。それは、この直前 (同じ日) に見た映画が、先の記事でも採り上げた「アイ・イン・ザ・スカイ」であったことも関係していよう。現代の世界で実際に起こっていることを再現したようなあの映画の筆舌に絶する切実感に比べれば、この映画の中で起こっている戦争は、どこまで行っても架空の世界。もちろん架空の世界は大いに結構なのだが、今思い出せばエピソード 4で帝国軍兵士が銃で撃たれて倒れるところなど、いかにもどこかのどかなものであった。この映画で頻出するそのようなシーンを見ていると、何か胸が悪くなるような気がして来てしまう。これは私がいけないのであろうか。
e0345320_23102513.png
主役を演じるフェリシティ・ジョーンズは、「インフェルノ」での演技も記憶に新しい英国の女優である。ここでも「スター・ウォーズ」シリーズ特有の父と子の葛藤が描かれるが、この場合の設定はそれほど屈折もなく、ストレートな彼女の演技には好感が持てる。だが、いわゆる色気は皆無であると申し上げておこう (笑)。
e0345320_23182781.jpg
私の好きなフォレスト・ウィテカーも重要な役で出演している。彼はいい味を出していると思う。
e0345320_23214238.jpg
その一方、ほかのキャラクターにはあまり感心しなかった。この 2人は頑張っているものの、突き抜けたものまでは感じられなかったのは私だけだろうか。
e0345320_23251391.jpg
e0345320_23252624.png
盲目の武術者チアルート・イムウェを演じるドニー・イェンと、その仲間であるベイズ・マルバスを演じるチアン・ウェン。実はともに 1963年生まれの中国人で、母国の映画で過去 2回共演しているという。と思ったら、後者はなんと映画監督でもあり、あの香川照之が出演した、日中戦争を舞台とした厳しい作品「鬼が来た!」の監督・主演なのである。それは面白い。だが、例えば「七人の侍」の大詰めシーンのような容赦なく観客に迫ってくるような迫力は、彼らの熱演によっても感じられなかった (比較するのも酷だとは思うものの)。

監督のギャレス・エドワーズは、2014年の「Godzilla」でメジャーテビューした英国人で、41歳。これだけの大作ともなると監督の持ち味を出すのは困難であると思うが、そうですねぇ、「Godzilla」もそれほどすごい映画とも思わなかったし、今後の活躍を期待することとしよう。
e0345320_23405050.jpg
恐らく「スター・ウォーズ」ファンとしては、ちゃんとダース・ベーダーが出てくるところとか、C3-PO や R2-D2 も 1シーンだけ出てくるところに喜びを見出すであろう。その他あれこれのトリビア楽屋落ちが沢山入っていることは、ネット検索すれば情報が得られる。だが私が面白いと思ったのは、この人の出演だ。
e0345320_23480257.jpg
昔のホラー映画におけるフランケンシュタインやドラキュラ役でも知られる名優ピーター・カッシング。ここでは、エピソード 4と同じ、デススターの司令官、ターキンを演じている・・・、いやちょっと待て。彼は随分以前に亡くなったのではなかったか。そう、彼は 1994年に死去している。実は今回のこのシーン、別の俳優の演技に昔のカッシングの顔をはめ込んだ CG 合成なのだそうである。うーん、全く違和感を感じない出来であった。同じような例はこの人にも。
e0345320_23582842.jpg
キャリー・フィッシャー演じるレイア姫が、デススターの設計図を受け取るシーンで出て来るのだが、これも明らかに CG 合成だと思われる。エンドタイトルを見ていると、Special Thanks のところに彼女の名前が出ていたので、撮影に当たって何かアドバイスでもしたのであろうか。だが、そのキャリー・フィッシャーは昨年 12月27日、まさに日本でこの映画が封切られた数日後に突然死去。未だ 60歳であったという。しかも、エピソード 4撮影時に共演していたハリソン・フォードと不倫関係にあったという衝撃事実を記した自伝をその直前に販売、そのプロモーションのためにロンドンを訪れた帰り、ロサンゼルスの空港で飛行機を降りたあと倒れたということだ。しかも彼女の死去の翌日、母親のデビー・レイノルズ (ミュージカル「雨に唄えば」でジーン・ケリーの相手役を務めた) も 83歳で死去。なんとも痛ましいことではないか。私がこの「ローグ・ワン」を見ても乗れなかったもうひとつの理由は、この一連の出来事が起こった後に見たことにもあるかもしれない。

それにしても、爽快感のない「スター・ウォーズ」だ。そもそも冒頭で "A long time ago in a galaxy far, far away..." と来て、ジャジャジャーン、パララッタッタッタタタタタタタタタと、ジョン・ウィリアムズによるあの勇壮なメインテーマが鳴り響くのがこのシリーズのワクワク感を醸成するのに、ここではそれがない。一方、本編終了後にはいつものエンドテーマが元気よく流れてやれやれと思うが、それもつかの間、すぐに暗い曲調に変わってしまうのだ。音楽の使用に関しては、何か契約上の問題でもあったのかと勘ぐりたくなってしまう。私はエピソード 2 の封切を 2002年にニューヨークで見たのだが、有名なテーマ曲が出て来るとヤンキーたちはヒューヒュー言って大騒ぎであった。さて今回の作品、そのようなヒューヒュー騒ぐ瞬間を奪われているわけで、米国の観客の反応はどうだったのであろうか。

ここで私が考え込んでしまうのだ。世界には暗く深刻な出来事が溢れていて、それは例えば「アイ・イン・ザ・スカイ」のような作品で仮借なく描かれている。その一方で、本来暗い世界を勇気づけるような希望を描くべき「スター・ウォーズ」が、戦争の描き方には切実感がない一方で、爽快感まで失ってしまっているとは、いかなることか。もはや時代は、胸のすく爽快な活劇というものを生み出せなくなってしまったのであろうか。彼らローグ・ワンによってつながれたはずの「新たなる希望」には、一体世界に対するどのようなメッセージが込められているのだろうか。
e0345320_00224881.jpg

by yokohama7474 | 2017-02-03 00:24 | 映画 | Comments(0)