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私の手元には、かれこれ20年以上に亘り、1冊の大部な本がある。タイトルは、「ヒッチコック / トリュフォー 映画術」。タイトルの上にはデカデカと「定本」と書かれている。これは映画好きなら誰でも知っている本であるが、もし映画にあまり興味のない方でも、アルフレッド・ヒッチコックとフランソワ・トリュフォーという二人の映画監督の名前は知っているだろう。この「映画術」という書物は、そのトリュフォーがヒッチコックに対して行った長時間インタビューをまとめたもの。
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この本はハードカバーの大判、写真掲載も多いとはいえ、3段組で350ページを超える大部な書物であるので、実は私も冒頭の部分以外は網羅的に読んだわけではなく、ヒッチコックの作品を見たときに都度その作品に関係するページを開いて見て、そこで展開される詳細な技術論に、まぁ訊く方も訊く方だが、特定のシーンの細部に至るまで撮影方法を覚えている方も覚えている方だな、と感心する(笑)、そんな用途で付き合ってきた。面白いのは、英国人ヒッチコックはフランス語を解さず、フランス人トリュフォーは英語を解さないのに、これだけの量の会話が成立したということ。無類の映画好きのフランス育ちの米国人女性が通訳を務めたらしいが、インタビューする方もされる方も、ともに映画にかける人並はずれた情熱があったからこそ、このような書物が成立したのであろう。そしてここで私が記事を書こうとする映画は、この書物に採録されたインタビューの一部の音声と、関連するヒッチコック映画の数々のシーン、そして現在活躍中の映画監督 10人のヒッチコック映画に関する思いを語るインタビューからなるドキュメンタリー映画。監督・脚本は1960年生まれの米国人で、評論家、脚本家、そしておもにドキュメンタリーの監督でもある、ケント・ジョーンズ。これは、昨年の東京国際映画祭でこの作品が上映された際に舞台に登壇したそのジョーンズと、この作品の中で語る 10人の映画監督のひとり、黒沢清。
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この映画の見どころはなんと言っても、書物に採録されたトリュフォーとヒッチコックの生の会話を、残されたテープの再生によってそのまま聴けるということに尽きるだろう。本当にトリュフォーが喋るフランス語を、通訳が同時に英語に訳し、それにヒッチコックが英語で答えることで、ほとんど時間のロスなく会話が継続している様子がよく分かる。それから、ヒッチコックは明らかにここではゆっくりと言葉を喋っており、淀みがない。もちろん、使われているのが、日本語に比べて論理性の高い英語であることも関係はあると思うものの、この場合においては使用言語にかかわらず、発言すべきことが明確に頭の中で整理されている証拠であると思う。映画監督という、自らの趣味性を保ちつつ多くの人々を束ねる立場の職業の人はそうでなければならない。ただ、宗教に話題が及ぶとノーコメントの態度を取るところや、俳優について結構侮蔑的な表現を使うところ、また、品のない内容を説明するところなどには、人間ヒッチコックの赤裸々な姿が出ていて興味深い。現代の監督たちのインタビューを含め、この映画はすべてヒッチコック映画の何たるかを様々な角度から再認識する内容で、その意味では、ヒッチコックに興味のない人には無縁の映画であろうが、既にヒッチをよく知っている人、あるいはこれからヒッチの映画を見てみたいと思う人には、大変面白い内容に間違いない。映画史において並ぶ者のないサスペンスの巨匠が残した世界は、まさに汲めども尽きぬイメージの宝庫である。彼の映画の中では、人間の持つ根源的な恐怖、その裏にある人間の弱さ、あるいは運命のいたずらや、犯罪を犯す人間の心理、等々が渦巻くドラマ性を生み出しているわけで、ある意味で、それは過ぎ去ってしまった過去の時代の産物でありながらも、いつまでも色褪せない永遠の映画術(まさに!!)の成果であるとも言えるだろう。

ヒッチコックの残した映画作品 (テレビ用は除く) は56本。かつてトリュフォーがこのインタビューを行った1960年代 (書物では、1966年の「引き裂かれたカーテン」までが対象となっている) においては、見たい作品があっても、封切を逃せば二番館にかかるまでは見ることができない環境であり、いかにパリにはシネマテーク・フランセーズという専門施設があると言っても、そう簡単にヒッチコック作品の数々を頻繁に見ることはできなかったはず。それに比べれば現代はなんとも恵まれた時代で、例えば私の手元にある DVD は、サイレント映画を含めたヒッチの全 56作中、数えてみると実に 52作をカバーしているのである。ないのは、処女作の「快楽の園」(1925年)、2作目の「山鷲」(1926年)、11作目の「エルストリー・コーリング」(1930年)、17作目の「ウィーンからのワルツ」(1933年) の 4本のみ。だが調べてみるとこのうち「山鷲」は、数枚のスチール写真しか現存していないとのこと。そんなわけで、残りの 3作もいずれは手に入れたいが、問題 (?) は、後期の主要作品はほぼ見ているものの、それでも穴があり、前期のイギリス時代の作品に至っては、半分も見ていないということだ。人間、便利な環境に甘やかされるものである。このドキュメンタリー映画を見たことをきっかけに、改めてヒッチコック映画の豊穣な世界に浸りたい!! と切に感じている。しかも彼の誕生日はたまたま私と同じ、8月13日。ヒッチコック、あなたはサイコーだ。
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ついでにと言ってはなんだが、トリュフォーについても少し個人的な思いを述べておこう。私が封切で見ることのできた彼の映画は、遺作となった「日曜日が待ち遠しい!」(1983年) だけである (ファニー・アルダンのコツコツという靴音の鮮明だったこと!!)。実際のところ、私の文化面での趣味は幼時からもっぱら幻想性や怪奇性にあったので (笑)、そのような要素からほど遠いヌーヴェル・ヴァーグに興味を持ったのは大人になってからなのである。トリュフォーという人がいると初めて認識したのは、あの「未知との遭遇」(1977年) の学者役で、どうやら彼が有名な映画監督らしいと聞いてから。
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実際に私は、今に至るもそれほど熱心なトリュフォー・ファンとは言い難いが、唯一忘れられない思い出がある。それは、1984年のある日。当時19歳で浪人生であった私は、とある大学の講義に紛れ込んでいた。今となっては時効であろうから白状すると、それは当時映画評論で時代を席巻していた、フランス文学者で後の東京大学総長、蓮實重彦の映画論の講義であったのだ。入ってきた蓮實先生は、大柄な人であるが、実に悄然と教壇に立っていた。そして彼が学生たちに向かって最初に発した言葉は、「先刻連絡を受け取ったばかりですが、フランソワ・トリュフォーが亡くなりました」というものであった。聴講する学生たちの中から、「えっ」という絞り出すような声があちこちで響いたのをよく覚えている。今調べてみると彼の命日は10月21日。脳腫瘍であったらしい。蓮實重彦はこのトリュフォーやゴダールやエリック・ロメールら、「カイエ・デュ・シネマ」誌に集った映画人たちを称揚し、彼らを積極的に日本に紹介した最大の功労者。当時、自らも「リュミエール」という映画誌を創刊した頃であった。なので、トリュフォーの死を蓮實重彦の口から聞いたという事実は、今となっては歴史的なイヴェントである。そして、トリュフォーたちカイエ・デュ・シネマの論客が強い尊敬の念を表明した監督たちのひとりがヒッチコックであり、上で触れた大部な書物「ヒッチコック / トリュフォー 映画術」も、蓮實と、いわばその同志である山田宏一との手になる翻訳によって日本に紹介された。山田宏一に至っては、今回の映画の字幕まで担当しているという、今に続く深い関与ぶりである。それもそのはず、彼は1960年代にパリに在住し、カイエ・デュ・シネマの同人であったのである。
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蓮實は1936年生まれ、山田は1938年生まれであるが、ともに、ただ映画マニア、あるいは評論家という狭い範疇に留まる人たちではなく、紛れもない第一級の文化人である。1980年代に多感な時代を過ごした我々の世代は、その時代に満ちていた文化的刺激を広く深く享受したし、そのことを一生忘れることがないだろう。だが一方で、あの日あの教室でともにトリュフォーの死を知った人たちは、今どのくらいそのことを覚えているのか、ちょっと知りたくなるのである。日常生活にまみれて、文化にかける若き日の情熱を維持できないことがあっても非難はできないが、現在では気骨ある老人たち (笑) となったこのような文化人たちの背中を見て、少しでも文化的な刺激を思い出したいものだ。これは昨年、三島由紀夫賞の受賞記者会見で、マスコミを手玉に取った蓮實。いや実に見事な快刀乱麻ぶりでした(笑)。
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便利な時代であるからこそ、ヒッチコックの映画のような過去の素晴らしい文化遺産が衰えぬ生命力を保っていることと、それをフランスに日本に、また世界に紹介する情熱を持った先人たちに感謝し、我々の世代にも、文化体験の意義を後世に伝えて行く義務があるのだと、この映画を見て珍しく気分が高揚している私であった。

by yokohama7474 | 2017-01-07 00:41 | 映画 | Comments(0)

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ほかの人のことは分からないので私自身の話をするが、よく何かに襲撃される夢を見る。そのような夢においては大抵、目の前に迫る危機を知恵と勇気と運で切り抜けようと自分に言い聞かせて、要は逃げまどうのであるが(笑)、ジ・エンドとなる前に必ず目が覚めて、自分が安全な世界に戻ってくることができた幸運に酔いしれる。そう、夢というものは、最高にして絶対安全なエンターテインメントなのである。その一方で、映画を見ていると、迫る危機に立ち向かう主人公が、絶体絶命のピンチにおいてハッと目が覚め、おっとそれは夢でしたという安易な設定もままあるが、私はそれを支持しない。現実に見る夢であるからこそ目覚めたときの爽快感が素晴らしいのであって、そもそも作り事である映画の中でそれをしてしまうのは全くアンフェアではないか。真摯な映画の作り手なら、そのような禁じ手に頼ってはいけない。

なぜにそんな話でこの記事を始めるかというと、理由はふたつ。たまたま今年の初夢が、どこかの都市の地下鉄で私自身が銃撃戦に巻き込まれるというスリル溢れるものであったことがひとつ(もちろん、途中で目が覚めて、無事生還しましたよ 笑)。そしてもうひとつは、この映画、夢だのという安易な手を使わず、最初から最後まで恐怖体験を尋常ならぬ迫力で描き切った壮絶な作品であることだ。今年はまだ始まってから5日しか経っていないわけだが、なるほど、私は初夢で、既にこの映画との出会いを予知していたのかもしれない!!

予告編を見たのでストーリーは分かっていた。それは至って簡単で、若い三人組がある家に泥棒に入ったところ、その家の住人は盲人であり、盗みは楽勝かと思いきや、あにはからんや、盲人の逆襲に遭ってしまい、"Don't Breathe" つまり、盲人の攻撃を避けるためには息もしてはいけない、という絶体絶命の危機に陥ってしまうというお話。例えばこんな感じとか、
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あるいはこんな感じ。
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「い、息をするな!!」
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おー、こわ。と思うでしょう? でも、きっとこの映画を見ていない人は、この恐怖を本当に理解することはできず、過小評価するだろう。私もこの映画を見るまではそうだった。しかしこの映画、本当に本当に怖いのだ。嘘だと思う人は、是非劇場に足を運んで頂きたい。冒頭に掲げたポスターにも、「20年に一本の恐怖作品」とある。その表現が適正であるか否かは分からないが、これを見てつまらないと思う人がいるとは、私には思われない。

という感想を持つには明確な理由がある。演出が冴えているのだ。多分もう一度見てみれば、また怖い怖いと思いつつ、この作品に張り巡らされたきめ細かい恐怖の演出のあれこれに気づくだろう。ネタバレを避けてその点について語るのは難しいが、そう、例えば、盲人特有の用心深さが密室のリアリティを増していることは挙げられるだろう。ここで主人公たちはあの手この手で家から出ようとするのであるが、それができない理由がいちいちあって、言葉の説明がなくとも、画面だけでそれがストレートに伝わってくるのである。また、様々な危機を乗り越えてなんとか窮地から逃れようとする彼らに、幸運の女神が微笑みかけると思われる瞬間も何度もあるのだが、あぁなんたること。そうは問屋が卸さないのである。この絶望感は尋常ではない。なんと残酷なことに、映画の中で主人公たちが向かい合っているのは現実であって、夢ではない。暗闇でこんな風になってしまうのも、むべなるかな。
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それ以外にも様々な演出の妙が効いているのだが、この種の映画が成功するもうひとつの条件は、登場する俳優たちの顔があまり知られていないことだろう。例えば「13日の金曜日」とか、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」、あるいは「SAW」でもよい。恐怖のマックス値は、危機に遭ったり命を落とす人物たちが、我々の見慣れた役者でないことによるリアリティが作り出すのである。だが、後で調べて分かったことには、私はここで凄惨な恐怖に立ち向かう若い女性ロッキーを演じるジェイン・レヴィの出演作を、以前見たことがあるのだ。それは、サム・ライミのデビュー作「死霊のはらわた」(1981年) を2013年にリメイクした版 (原題 "Evil Dead") だ。
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この映画、正直なところちょっとやり過ぎで、怖いを通り越して笑ってしまうくらいのエグさであったのだが、これは文化ブログであるからして、この映画においてこの女優の顔がどんな風に変形したかをご紹介することは避けよう(笑)。ご興味おありの方はネットで画像検索されるとよい。ここではこの女優さんの素顔のみご紹介しておく。
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さあここからがこの作品の作り手の紹介である。本作の生みの親、監督・脚本・製作を手掛けたのは、1979年ウルグアイ生まれのフェデ・アルバレス。
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実はこれは彼の2本目の長編作品であって、そのデビュー作がほかならぬ上記の「死霊のはらわた」リメイク版なのだ。なるほどなるほど。そういうことだったか。そうすると、同じ女優を使って、1作目から2作目に大きな飛躍を成し遂げたと言ってもよいのではないだろうか。それから、もし私の見間違えでなければ、エンド・タイトルにおいて、弦楽四重奏のオリジナル音楽の演奏者の中で、ヴィオラ奏者がこの人の名前であった。もしそうなら大変興味深いことだ。隅から隅までこの映画は彼のものだということだ。彼の経歴を見てみると、2009年に彼が YouTube に投稿した 5分弱のロボットムーヴィー 「パニック・アタック」を評価した件のサム・ライミが、「死霊のはらわた」のリメイク版の監督に抜擢したというもの。この作品、私も見てみたが、確かによくできている。既にアクセスが766万回を上回っており、人気のほどが伺えるし、何よりもここで街がロボットの襲撃を受けるシーンは、まさに彼の原点であることが納得できて、大変面白い。まぁ、ピコ太郎にはアクセス回数は負けているが(笑)、しかしこんなところから映画作りの才能が発掘されるのだから、すごい時代になったものだ。
https://www.youtube.com/watch?v=-dadPWhEhVk

一応補足すると、ここで何度か名前の出ているサム・ライミとは、1981年に最初の「死霊のはらわた」で衝撃的デビュー、その後1985年の「XYZマーダーズ」(日本では「クリープショー」と二本立てで公開されたのを、当時私も見に行ったものだ)などでちょっとマニアックに知られたホラー監督であったが、その後2002年から2007年にかけてのスパイダーマンの3作を監督してメジャーな名前になった人。未だ57歳ということは、デビューの時は弱冠22歳だったことになる。この「ドント・ブリーズ」でも製作者に名を連ねているが、彼自身の監督作も今後楽しみなのである。
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尚、エンドタイトルには一見してハンガリー人と分かる名前が沢山並んでいたが、プログラムの情報によると、本作のセットはブダペストに作られたとのこと。なるほど、人件費も節約できるし、何やら国策として映画のロケを誘致しているらしい。そういえばハンガリーの映画監督にはイシュトヴァン・サボーという人もいたが、最近はどうしているのだろうか。いずれにせよ、このような映画がヒットすれば、今後もハンガリーでの映画制作が盛んになるかもしれない。

さてこのように、本年最初の大絶賛映画となっているのだが、ここで表現されているリアリティの源泉において、さらに2点追加で指摘しておこう。ひとつは、物語の舞台がデトロイトであること。言わずと知れた自動車産業の街デトロイトは、私は訪れたことはないが、現在ではかなり荒廃した地域もあるとのことで、その街を舞台として設定したことが、この物語において欠かせないリアリティをもたらしている。つまり、すさんだ街では若者が犯罪に走り、また、盗みに入った家で銃をぶっ放そうがドタドタ走ろうが、周囲に人が住んでいないので他人に聞こえることはないわけだ。もうひとつは、襲撃される盲人(演じるのは「アバター」にも出演していたスティーヴン・ラング)が、湾岸戦争の退役軍人であるということ。戦争における負傷で失明したという設定であるが、聴覚だけで侵入者をここまで追い詰められるのも、武器の扱いに慣れ、肉弾戦にも優れた元軍人ならではである。そして、その彼も決して善良な市民ではなく、後半にあっと驚く仕掛けがしてあって、もう本当によくできたキャラクター設定なのだ。あー、今思い出しても怖い(笑)。だがそのような設定が、ある意味では現在の米国のリアルな姿を示していると思うと、この映画があながち荒唐無稽なものとも思われず、本当に怖いのはその点ではないかと思われてくる。
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そのリアリティを実感したら、さぁ、気を取り直して、何の気兼ねもなく深呼吸できる幸せを、胸いっぱいに実感しようではないか。
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by yokohama7474 | 2017-01-06 01:04 | 映画 | Comments(2)

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この映画、しばらく前から劇場でかなりの頻度で予告編が流れていて、あのハリー・ポッターシリーズに続く新たな作品、しかも原作者のJ.K.ローリング自身が脚本を担当するということで、話題になっていたものである。ファンタジーものは私としても興味ある分野であり、ハリー・ポッター全8作もすべて劇場で見ているので、やはりこれは見ておこうと考えたもの。英国からニューヨークにやってきた若い魔法使いのカバンから魔法動物たちが逃げ出して街は大騒動、というストーリーは予告編からもはっきりしていて、イメージを持ちやすい。実際に見てみると、過度なひねりがあるわけでもなく、凝り過ぎた作りにもなっていない作品であり、事前のイメージ通りという印象。

何より、主人公ニュート・スキャマンダーを演じるエディ・レッドメインの好演が光る。このような少しとぼけた味わいと、魔法動物たちへの愛がよく表現されていると思う。
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彼のこれまでの主要主演作は、「博士と彼女のセオリー」と、「リリーのすべて」だが、私はどちらも見ていない。だが調べてみると、私の見た映画の中でも、「レ・ミゼラブル」に脇役で出ていたし、ウォシャウスキー兄弟の「ジュピター」では悪役を演じていたとのこと。なるほど、既に幅広い役柄を演じている役者なのである。英国人で、もうすぐ35歳。名門イートン校ではウィリアムズ王子と同級生。ケンブリッジの美術史学科卒業。さすが英国の役者らしい高学歴だ。でも、この「ジュピター」の悪役姿はどうだろう。2015年、あの最低の映画に贈られるゴールデン・ラズベリー賞の最低助演男優賞を獲得するという栄光に輝いた(笑)。
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ほかの役者で印象に残るのは、ニューヨークに本拠を置く架空の組織、アメリカ合衆国魔法議会(MACUSA)の長官を演じるコリン・ファレルだろうか。
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それ以外にも数名、男女それぞれに主要な役を演じる俳優が出ているが、知名度のあるのはジョン・ヴォイト(今更アンジェリーナ・ジョリーの父と紹介するのは失礼だろうか)くらいで、ほかはあまりなじみのない人たち。そして正直、私としてはそれほど印象に残る役者はいなかった。ただ、一人だけ例外がいる。これはハリウッド有数の大物俳優であり、その出演作なら本来大々的に名前が出るはずが、どういうわけかこの映画の宣伝にはカケラも名前が出てこないし、プログラムにも載っていない。そして、登場シーンでも、若干メイク過多だ(笑)。だがそうであっても、そこでいかにも楽しそうに演じているこの役者、誰もが一目見て彼だと分かるだろう。エンドタイトルでは、メインキャストにはやはり彼の名前がなかったが、出演順に出て来る全キャスト表の最後の方を目をを凝らして見ていると、しっかり彼の名前がクレジットされていた。こんな目をした人だ。すぐ分かりますよね。
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思うに、本作は上のポスターでも「新シリーズ」と銘打っていることから、今後シリーズ化されるのであろう。そう言えば、主役ニュートにも何やら明かされないつらい失恋経験があるような描き方になっていた。なので、そのあたりのネタを次回作以降に取ってあるのだろうし、この有名俳優も、次回作から堂々と登場してくるのではなかろうか。

とまぁ、そんな突っ込みどころもあり、数々の魔法動物もCGを駆使してそれぞれに愛嬌がある描き方にはなっていて、ハリー・ポッターシリーズのうち4作を監督したというデヴィッド・イェーツの演出も、いかにもファンタジー物のツボを心得ているように見受けられる。
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その意味で、本作は誰でも楽しめる映画ということはできるだろう。だが、この映画はただ明るいだけではなく、主人公たちの前に立ちはだかる魔術のDark Sideも描かれている。もし私にこの作品への不満があるとすると、そのDark Sideの描き方ということになるであろうか。これはハリー・ポッターシリーズも一貫してそうであったのだが、誰を敵としてどのような闘いが展開されているのか、切実さをもって実感することが難しい。そもそも魔法って何なのだろう。例えば、主人公たちがどこにでも瞬時に移動できる手段を持っているなら、街を歩いたり地下鉄を使う必要はないではないか(笑)。魔法の杖を持ってビビビと光線を出し合って闘うが、その物質は何であって、どのような破壊力を持つのであろうか。世の中にはエセ科学ムーヴィーも溢れていて、超常現象について荒唐無稽な説明がつく映画もある。なにもそれがよいと思うわけでも必ずしもないが、何か少しはもっともらしい説明がないと、鑑賞者が主人公にあまり感情移入できないという結果になってしまう。換言すれば、敵として闘っているDark Sideに、本当に恐ろしいものを感じないということになってしまうわけだ。それは映画の説得力に直結するのである。それとも、そういうことを考えること自体、私という人間が既に魔法の力を信じる純真な心を失ってしまったからなのでしょうか・・・(笑)。

ともあれ、新シリーズということなので、この作品の舞台である1926年のニューヨークから、今後はどこに話は進んで行くのであろうかが気になる。以前も何かの記事に書いたが、私にとって両大戦間の文化は強い関心の的。Roaling Twenties (狂乱の1920年代)に沸いた米国は、やがて1929年の株の大暴落に始まる大恐慌時代に沈んで行く。それは魔法の杖を振りかざしてビビビとやるだけではどうしようもない、厳しい現実であった。果たして原作者J.K. Roaring、じゃなかった、Rowlingは、どこかで現実と魔術をのっぴきならない方法で対峙させるのか、それとも、徹底的に架空の魔術をこれからも描き続けるのか。そして21世紀の観客は、彼女が示す世界観を、どこまで受け入れ、喝采するのであろうか。21世紀のTwenties(20年代)に向けて、これから注意して見て行きたいと思う。
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by yokohama7474 | 2017-01-04 23:37 | 映画 | Comments(0)

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この映画の評判を耳にしたのはごく最近のこと。初期のデヴィッド・リンチを思い出させる作風と聞いて興味を持った。予告編も見ることができたが、なるほど怪しい雰囲気だ。なんでも、女性と子供しか暮らしていない島で起こる神秘的な出来事を描いているとのこと。調べてみると、渋谷のアップリンクという芸術系ミニシアターで既に1ヶ月以上上映している。危ない危ない。こういう映画を見落としては文化ブロガーの名がすたる。そう思って実際に足を運んでみると、年の暮れも近いというのに、60名ほど収容の劇場が満員の盛況だ。皆さん年末の大掃除もしないで、こんな妙な映画を見ていてもよいのでしょうか。あ、もちろん自分のことは棚に上げています(笑)。

これは81分と比較的短い映画であるが、上映回によっては同じ監督の18分の短編「ネクター」(2014年制作)が併映されることもあり、お得と言えばお得。この「ネクター」はフランス映画であるが全くセリフがない。「女王蜂とメイド蜂たちの密やかな儀式を艶めかしく幻想的なタッチで描いた作品」との説明をサイトで見ていたが、まさにその通りで、あまり家族揃ってニコニコ見るようなタイプの映画ではない(笑)。印象に残るシーンもいくつかあって、芸術性は高いが、ただ若干個々の画面のイメージに依存しすぎで、流れが悪いような気がしないでもない。以下はこの「ネクター」から。
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本編の「エヴォリューション」について語ろう。これは、短編「ネクター」よりも洗練度が高いと言えるだろう。もちろん同じ作家の手になる映画であるから、共通するイメージもあるにはあるが、こちらはなかなかに手の込んだ作りになっている。作風がデヴィッド・リンチに似ているかと訊かれれば、まあ確かに「イレイザーヘッド」を思わせるシーンはある。ご存知の方はそれだけでなんとなく分かってしまうかもしれないが、なんというかその、ウネウネ、ピチピチ感が・・・。プログラムに掲載されている監督のインタビューを見ると、実際にその映画から影響を受けたと語っている。もちろんリンチだけではなく多くの映画や文学からの影響があるようだが、中でも面白いのは、この作品を撮るときの参考として撮影監督に見せた映画は、中川信夫の「地獄」であったということ。あの毒々しい色彩感覚とこの映画の耽美性はちょっと違っていると思うが、でもまあ、あのようなキッチュでグロテスクな映像がイメージの原点にあったと想像すると面白い。また、島で起こる物語であるゆえ、陸地の映像には大変な閉塞感がある点が顕著な特色である。室内の撮影においては、ほとんど照明を使っていないと思われるし、また、例えば茶色いシーツに茶色いシャツとか、緑色の壁に緑色の食べ物とか、あえて同系色を組み合わせることで、余計逃げ場のない息苦しい雰囲気を作り出している。一方、海のシーンは美しいのだが、ストーリーを追って行くうちに、何か水が生きて意思を持っているかのような不気味さも感じることとなった。
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撮影は5週間に亘り、スペインのカナリア諸島のランサローテ島という場所で行われ、多くのキャストを現地で見つけなくてはならなかったとのこと。全体的にセリフ(フランス語)は少ないとはいえ、そのような現地でのキャスト探しの苦労を思わせないような統一感のある耽美性は充分で、その点は称賛に価する。大人の女性と男の子たちしかいないという異様な光景は、それだけで確かに奇妙な怪しさを帯びていて、ここで少年たちが出会う運命には、何か本能的な恐怖を感じるような作りになっている。従って、登場する女性たちが素人っぽければ雰囲気が壊れてしまうだろう。その点でのこの作品の作りは非常に丁寧だ。
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主役のニコラを演じるのは、2001年ベルギー生まれのマックス・ブラバン。映画初出演だが、なかなか初々しくてよい。ベルギー出身のブラバン(フランス語発音で最後の"t"を発音しないとすると)ということは、あのブラバント公の子孫なのだろうか。気になるところである。ブラバント公とは、今のベルギーとオランダにまたがる地域を治めた公爵家のことで、音楽好きにとってはワーグナーの「ローエングリン」でおなじみである。
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監督の語るところによると、前作(未見だが「エコール」という、これは少女たちについての映画らしい。写真を見るとこれも大変に怪しそう 笑)から10年の間、この作品の資金集めに奔走したが、内容が理解できないとコメントされることが多く、難航したとのこと(まあそれはそうでしょうな・・・)。だが最終的にフランス、スペイン、ベルギーからの資金を取り付けて制作されたらしい。10年間の資金集めの間にも、監督のイメージが凝縮して行ったような、怪我の功名という面があるのかも、と想像したくなる。これだけ趣味性の高い映画を、多くの人々を巻き込んで制作するのは大変なことで、強い信念と、転んでもただでは起きない逞しさが必要であろう。

ここで監督監督と何度も繰り返しているが、どのような人であるのか。ルシール・アザリロヴィック。1961年生まれの55歳の女性。フランス人だがモロッコで育ったという。こんな普通な感じの人で、とてもこのような怪しい映画を撮る女性とは思えない!!
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そして、興味深いのは、このルシールさんは、1998年の「カノン」という個性的な作品で日本でも話題になった映画監督、ギャスパー・ノエと結婚しているのだ。彼もフランスで活動しているが、もともとはアルゼンチンの人らしい。最近あまり名前を聞かないと思ったら、あぁ、そうか、今公開されている「LOVE 3D」というのが彼の新作だ。夫婦の新作が同時に日本で公開されているという珍しいパターンだ。
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もう一度この「エヴォリューション」に戻ると、この題名は生物学上の「進化」の意味と解釈しよう。ネタバレは避けるが、この映画をご覧になると、その意味が明確になるはず。だがここで描かれた進化は、果たして本当に進化なのか。一風変わったラストシーンでは、説明も語りもセリフも何もなく、静止画のようでいて静止画ではない、変化のない映像が流れ続ける。それは何の変哲もない夜景であり、そには確かになんらかの生命体がいて、文明があり、近代的な経済活動を行っているはずだが、遠くから響いてくる人間(なのかそうでないのか知らないが 笑)の営みを示す効果音のリアルさが、それまでの夢幻的な風景とは打って変わって、現実的で冷たい感覚を見る者に与える。驚愕のラストという言葉は似合わないが、一度見たらなかなか忘れることはないだろう。

最後に音楽について少し。ここでは、フランスで1920年代に発明された電子楽器、オンド・マルトノが頻繁に使用されている。空間を漂うような不思議な音を出すので、夢幻的な雰囲気を表すにはうってつけの楽器だ。この楽器を使用したクラシック音楽というと、なんといってもメシアンの「トゥーランガリラ交響曲」が有名で、オネゲルの「火刑台上のジャンヌ・ダルク」でも効果的に使われている。
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プログラムに掲載されている監督のインタビューによると、メシアンの "Oraison" (1937年)という曲を映画の中で使いたかったが、著作権の問題で難しかったので、よく似た曲を作ったとある。この曲は聴いたことがないので、早速手元にあるメシアン作品全集(全32CD)を取り出して来て調べてみたが、どういうわけか採録されていない。そこでネット検索したところ、日本語では「祈祷」と訳される、オンド・マルトノのアンサンブル(!)のための曲らしい。またこの曲の旋律を、第二次大戦中の捕虜として悲惨な状況にあったメシアンが書いた傑作「世の終わりのための四重奏曲」でも使っていることが判明。なるほど、このアザリロヴィックのこだわりが理解できるような曲である。

このように、大変趣味性の高い映画であり、見終ったあとのカタルシスもないので、この手の映画が感覚的に好きだという人にしかお薦めできないが、既に上映1ヶ月を経ても細々ながら観客動員が続いているようなので、もしかするとこの手の映画を好む人は案外多いのかもしれない。こんな映画を見る選択肢を与えられている我々はラッキーだと考えることにしよう。

by yokohama7474 | 2016-12-31 00:59 | 映画 | Comments(0)

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この映画の予告編を見て、これは見るべきものという内なる声を聞いた。それは、テレンス・マリックの脚本監督、クリスチャン・ベイル主演、ケイト・ブランシェットとナタリー・ポートマン共演という名前の羅列でも充分であるが、気になったのはその題名だ。「聖杯たちの騎士」・・・なんだかあまり語呂がよくない。それを言うなら、「聖杯の騎士たち」ではないのか。もちろんこれは、音楽好きならワーグナーの最後の作品、舞台神聖祝典劇と名付けられた「パルシファル」を思い浮かべる言葉であり、そうでない人も、アーサー王伝説やモンティ・パイソンによるそのパロディ映画、あるいは小説や映画の「ダ・ヴィンチ・コード」などが頭に浮かぶことであろう。原題を見てみると、"Knight of Cups"とある。Cupとはまた、なんとも普通の英語である(笑)。確かにゴルフなら、○○カップのことは○○杯というので、"Cup"が「杯」であることは間違いないが、「聖」の字はどこに行った?「聖杯」を指すのなら、まさにモンティ・パイソンの映画の題名にあるごとく、"Holy Grail"というべきではないのか。それから、百歩譲って"Cup"を「聖杯」と訳すとしても、その複数形"Cups"を「聖杯たち」と訳すのはどういうことだろう。「たち」がつくのは普通は人である。なので、「聖杯の騎士たち」とは言うが、「聖杯たちの騎士」とは、日本語では言わないだろう。・・・予告編で流れる美しい映像を見ながらも私は、まずは邦題へのハテナマークで頭の中が一杯になってしまったのである。

この映画のプログラムを見ても、題名の意味は書いていないが、チラシには一応解説がある。なんでもこれはタロットカードのうちの一枚で、「カードが正位置に出ると"ロマンチスト、心優しい、優雅、積極的、成功"、逆位置に出ると"口が達者、女たらし、嘘つき、失敗、挫折"といったイメージを表すと言われる」とのこと。これがそのカード。
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ただ、ネット検索してみると、このカードの呼び名は「カップの騎士」「杯のナイト」等であって、Cupのことを「聖杯」と訳している例は見当たらなかった。従ってまず私は、この邦題への強い違和感を表明せざるを得ないのである。

この映画は普通の劇映画とは違っていて、ストーリーが分かりやすく展開されることはない。クリスチャン・ベイル演じるところのリックという男が、過去の様々な女性との巡り合いを回想するという設定なのであるが、記憶の断片が行き交うような作りであり、起承転結がない。主人公がどうやらハリウッドに関係して成功している男であることだけは分かるが、その職業や、過去に彼の弟にいかなる悲劇があったのか、父親との関係はどうなのか、そして、それぞれの女性とはいつ関係があったのか、いずれも明確に描かれることはないのである。
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プログラムの解説によると、リックはサンタモニカに暮らすコメディ作家であるらしい。だが、チラシによると脚本家とある。後者の方がよりもっともらしいが、劇中で明確に示されない以上、どちらでもよいのかもしれない。それから、やはりチラシには、「迷える脚本家が巡り会う、6人の美しい女たち」とあって、ケイト・ブランシェットもナタリー・ポートマンもその6人の一部なのであるが、主人公はニヒル(死語?)に振舞いながらも多くの女性と関係を持つので(時にはあろうことか、同時に複数を相手にしたり)、はたして誰と誰が6人であるか、特定は若干難しいのだ(笑)。とはいえ、私は最初から主要な女性を数えていったので、終盤でかなり深刻な状況を作り出すナタリー・ポートマンに至ってもまだ5人目あるのに焦ったのであるが、最後の6人目は、ラスト近くに登場する、顔が映らない女性であるとの確信に至り、これでめでたく6人と相成ったのである。
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さあそんな映画なので、評価をするとなると正直難しい。映画を映像と音響のアマルガムと認識していて、いかなる映画の評価においてもストーリーの果たす優先順位がかなり低いこの私でも、手を叩いてこの映画を絶賛する気には正直なところ、なれないのである。もちろん題名の意味が分かってしまうと、主人公があっちを向いたりこっちを向いたりする(?)生活の中で、優しく優雅な成功者である場合と、女たらしで惨めな落伍者になる場合があることは理解できる。だが、残念ながらそれが人間の生き様として強く訴えかけてくることはなかった。もちろん、映像は時に息を呑むほど美しく、明らかに即興性を持って演出されていると見て取れる名優たちの演技も素晴らしい。ほかの美点を挙げれば、音楽だろう。例えば映画の冒頭で雄大な景色の中を主人公が歩くときに流れるのは、ヴォーン・ウィリアムズの名曲「タリスの主題による幻想曲」だ。この曲の叙情性をこよなく愛する人間としては、この導入部には痺れるような魅力を感じる。この曲はその後も何度も現れ、グリークの「ペール・ギュント」の「オーセの死」や「ソルヴェイグの歌」など、よりポピュラーなメロディとともに、透明な抒情性を画面に与えている。度々現れる水の映像(朝に夕に、水面の上から下から、泳ぐのも人あり犬あり)もそれぞれに美しいかと思うと、しばしば手持ちカメラで慌ただしい運動性が立ち現れる。なかなかに凝った作りである。だが、それらの映像と音楽の総合体として、私の人生にこの映画が何か新しいものを加えてくれたかというと、残念ながらそうは思えない。マリックはゴダールではないのだ。もう少し人間像の具体性を見せて欲しいものだと思ったのである。

脚本・監督を手掛けたテレンス・マリックは1943年生まれの73歳。寡作家であるが、しばしば巨匠と呼ばれることもある、非常に個性的な監督だ。伝説的な「天国の日々」を監督したあと20年間沈黙し、1998年に「シン・レッド・ライン」で監督復帰。当時は大きな話題となったものだ。その後「ツリー・オブ・ライフ」や「トゥー・ザ・ワンダー」という作品を世に問うているが、マスコミでの露出度は低く、世間一般に知られた名前というよりも、通好みの映画作家と言ってよいだろう。
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私がこれまでに見た彼の作品は、「シン・レッド・ライン」と「ツリー・オブ・ライフ」だけであるが、今回の「聖杯たちの騎士」を見て、それら過去の作品の作風を思い出すとともに、さらに作風の抽象化が進んでいるなと思った。上に思い付きでゴダールとの比較をしてしまったが、実際、強いて近い作風の映画作家を探すとすれば、ゴダールになってしまうのではないか。だが、決定的な違いもある。永遠の前衛作家ゴダールの場合には、作品の中で教訓じみた言説はまず弄さないところ、この映画には最初から最後まで語りが入っており、それは、真珠を求めてエジプトに向かった王子が、現地に到着して接待を受けるうちに自らの役割も自分自身のことも忘れて深い眠りに落ちるという内容なのである。つまり見ている人は、クリスチャン・ベイル演じる主人公がこの王子であると認識し、彼の「堕落」を批判的に見るし、王である父との間の確執を想起し、何やら道徳的なにおいを感じてしまう。だから、マリックは本当の意味での尖がった前衛作家ではないのであると私は思う。ただ、彼の名前があるからこそ、このような特殊な映画でもこれだけの俳優が集まったのであろう。ここには実はアントニオ・バンデラスも出演しているし、また、不可解なことにプログラムにもチラシにも一切記載ないが、私がエンドタイトルでのみ確認できたことには、上記のような王子の物語を語っているのは、あのベン・キングズレーなのである!!ゴダールの映画ではこれだけの顔ぶれにはならないでしょう(笑)。

このように書きながら、でもこの映画の美しいシーンの数々が思い出されて、否定的なことも書きながら、結構私の脳にはこの映画の体験が残ってしまっているようだ。そんな中の思い付きだが、冒頭で文句を垂れた邦題について。ここで「聖杯たち」と複数形になっているのは、もしかして、"Cup"とはここに出て来る女性たちを指しているからなのかもしれない。あ、もちろん、カップと言ってもブラジャーのことを言っているのではありませんよ(笑)。もう少し高尚です。つまり、西洋の文化的コンテクストでは、キリストの血を受け止めた聖杯は女性、キリストの肉を切り裂いた聖槍は男性を象徴する。「ダ・ヴィンチ・コード」のテーマもそうであった。なのでこの映画の題名においては、ただの杯ではなく聖杯というイメージがあてはまるという解釈である。この邦題を考えた配給会社の人は、そのような教養の持ち主であったのかもしれない。あ、それから、クリスチャン・ベイルがバットマンを演じた素晴らしい作品のひとつは「ダークナイト」、つまりDark Knightである。この役者のイメージに、"Knight"があることも、題名のニュアンスには関係しているかもしれない。・・・などと勝手な思いは尽きないが、ともあれ、聖杯の神秘的なイメージは素晴らしいもの。これは、スペインのレオンというところにある、もしかしたら本物の聖杯ではないかと言われているらしい杯。優雅で女性的ではないか!!
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テレンス・マリックはこの作品の後、"Voyage of Time"という、宇宙の誕生と死を追求するという壮大なドキュメンタリーを制作したらしいし、2017年には"Weightless"なる作品が予定されているようだ。さて、一体どのような作品「たち」なのか、大変気になるところである。やはり、無視することはできない監督なのである。

by yokohama7474 | 2016-12-27 02:11 | 映画 | Comments(0)

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劇場でこの映画の予告編を見たとき、私は「おぉ、なるほど。この話か」と頷いたのである。というのも、この映画は事実に基づいていて、その事実は結構有名だからである。簡単に言うと、ニューヨーク在住の金満家のマダムが、財力にものを言わせ、世界有数のコンサートホールであるカーネギーホールを借り切って、自らが歌うソプラノ・リサイタルを開催したはよいものの、彼女は残念ながら大の音痴で、世間の笑いものになったという話。私がこの話をよく知っていたのは、クラシック音楽を趣味とする者が必ず興味を持つ録音があって、それがこのマダム、フローレンス・フォスター・ジェンキンス(1868-1944)の歌声なのである。最近の事情は知らないが、私がクラシックを本格的に聴き始めた35年ほど前の入門書には、必ずと言ってよいほど、通常のクラシックの範疇、つまり、交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲、器楽曲、オペラ、現代音楽、音楽史に加えて、「その他」という分類があった。その「その他」は、例えばパロディ音楽の大家P・D・Q・バッハやスパイク・ジョーンズ、冗談音楽を盛んに取り上げたホフナング音楽祭、当時は未だ最先端の音楽であったシンセサイザーの分野ではワルター(後に性転換してウェンディ)・カーロスや冨田勲のアルバムが並んでいたが、そこに加えて、「F・F・ジェンキンス / 人間の声の栄光????」というアルバムも紹介されていることが多かったからだ。今試みに我が家の書庫をゴソゴソ漁って手元に持ってきたのは、1980年音楽之友社発行の「名曲名盤コレクション2001」という特集雑誌。この「2001」とは、恐らくはキューブリックの映画に因んで、「来るべき21世紀」という意味であったろうかと思われる。因みにこの表紙はザルツブルク祝祭大劇場で、カラヤンとベルリン・フィルによるリヒャルト・シュトラウスの「家庭交響曲」のレコードのジャケット写真を転用したものだろう。
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この中に紹介されているのが、件のアルバムである。
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私は昔からどう転んでも優等生的な音楽ファンではなく、このようなゲテモノには目がないたちなので、「その他」に分類されたレコードも次から次へと購入した。なのでこのレコードも、未だに実家の戸棚に眠っているはずである。確かにこれはなかなかに凄まじい歌声で、夜の女王のアリアなど、聴いていて椅子から転げ落ちそうな音痴ぶりなのである。これが実在のジェンキンスの写真。なかなかに雰囲気のある感じである(笑)。
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さて、そのような予備知識を持って鑑賞したこの映画なのであるが、正直なところ、これまで笑っていたこの女性の音痴ぶりを、もう笑えなくなってしまった。邦題の副題には「夢見るふたり」とあって、カーネギーホールという音楽の殿堂での演奏という夢のような目標に向かって二人三脚で頑張る夫婦という、いわばアメリカン・ドリームの体現者という意味であろうが、とんでもない。ここで描かれている真実は、苛烈この上ないもので、私はのんきに楽しむことができなかった。例によってネタバレを避けるので、映画をご覧になっていない方にはチンプンカンプンかもしれないが、要するに、このフローレンスさんの抱えていた大変な事情と、それを支えた夫の行動には、決してお気楽な人生のBright Sideのものではない。その意味で、誰もが楽しめる夢あふれる映画ではないためか、メジャーなシネコンではもうすぐ上映終了となってしまうのである。

この映画の主演はメリル・ストリープであり、彼女を支える英国出身の夫(ということにしておこう。ややこしい話を避けるために 笑)はヒュー・グラント。この二人の素晴らしい役者が演じているがゆえに、この映画には見る価値があるとは思う。逆に言うと、この二人でなければ、もう陰鬱で見るに耐えない映画になってしまったかもしれないと思わせるのである。
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舞台は第二次世界大戦末期の1944年。フローレンスと、もと一人舞台の俳優である夫のシンクレア・ベイフィールドは、その財力にものを言わせて、ニューヨークの上流階級の人たちを会員とするヴェルディ・クラブなる組織を作り、夫はシェークスピアなどの朗読を行い、妻は様々な衣装を着て舞台に立っている。フローレンスはアマチュアながらかつては歌のリサイタルを行っていたようであるが、年齢的・体力的な問題もあり、最近では歌は披露していない。この二人の財力は当時最高の指揮者、いや歴史を通しても最高の指揮者のひとりであるアルトゥーロ・トスカニーニも無視できず、パトロンとして友好関係を保っている。フローレンスは、そのトスカニーニが伴奏するリリー・ポンス(当時メトロポリタン歌劇場を席巻したコロラトゥーラ・ソプラノ)の歌うラクメの「鐘の歌」を聴いて刺激を受け、メトロポリタンの副指揮者のレッスンを受けて舞台に復帰、ご本人はそれに気をよくして、ついに音楽の殿堂、カーネギーホールを借り切るという暴挙に出る。
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ここでメリル・ストリープが披露する歌声は、実にリアルに音痴である(笑)。ミュージカル映画「マンマ・ミーア!」では見事な歌声を披露していたので、ある意味では、実際に歌える人だからこそこのような音痴ぶりを演じることができるのであろう。最後の方で夢の中でフローレンスが綺麗に歌うシーンがあって、それは見事であったものの、歌い方はクラシックのそれではなかった点は致し方ないだろうか。一方のヒュー・グラントは、妻への深い愛に裏打ちされた献身ぶりが終始描かれているのであるが、実は彼の本心は分からない。真実と虚偽の境目が、本人も分からなくなっているのかもしれない。決して彼の妻への愛に対する疑問を起こさせるような作りにはなっていないものの、ここでのヒュー・グラントの演技は、見る人の解釈を許すものであると見た。また、ピアニスト役のサイモン・ヘルバーグ、もう一人の重要な役柄を演じるレベッカ・ファーガソン(このブログでも、「ミッション・インポッシブル / ローグ・ネーション」や「ガール・オン・ザ・トレイン」の記事でご紹介した)らもいい演技を披露していて、全体の演技のレヴェルは非常に高い。監督のスティーヴン・フリアーズは私にとってはなじみのない名前だが、1941年生まれの経験豊富な英国人で、「マイ・ビューティフル・ランドレット」「危険な関係」「クィーン」などを手掛けた人。手堅い演出手腕である。
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また、1944年当時のニューヨークの様子が活き活きと再現されている点も面白い。その当時の日本の悲惨な状況を考えると、こんな国と戦争をしてしまった我が日本が、なんとも恥ずかしくなってきてしまうのである(実際に、人々が読む新聞の見出しが、「日本、制海権を失う」であったりする)。私が興味深く見たのは、ヴェルディ・クラブの出し物がワーグナーの「ワルキューレ」であったり、ある女性が欧州の戦線で行方不明になったパイロットの息子に捧げる音楽として、ブラームスの子守歌をラジオでリクエストするなど、敵国の文化に対する驚くべき寛容度である。もちろん、移民の国である米国にはドイツからの移民も多くいたわけであり、日本が鬼畜米英などと喚いていた状況とは全く異なるわけだが、要するに確立したヨーロッパの文化への尊敬の念が存在していたということであろう。その一方で、ベニー・グッドマンの「シング・シング・シング」(身震いするほど大好きな曲だ!!)に人々が踊り狂う享楽的な様子もリアルで、実に大人の雰囲気なのである。

このマダム・フローレンス、カーネギーホールでリサイタルを開いたのが1944年10月25日、76歳のとき。その僅か5日後の10月30日に心臓発作で倒れ、11月26日に死去している。そうしてみると、彼女のリサイタルは本当に、命を振り絞った白鳥の歌だったのである。恐らくは自分が音痴であるという自覚なしに舞台に立ち、愛する夫を信頼しながらこの世を去ったものであろう。そのピュアな精神と、前向きに生きる力に心を動かされることは事実。だが一方で、ここで描かれた真実には、手放しで美談と評価するには多少の躊躇がある。財力の持つ力や人々のへつらい、上流階級の現実感のなさ、偽善・・・等々が婉曲的に描かれたこの作品、見る人をして考えさせる要素を多々もっているのである。これを見てしまったら、もう無邪気に音痴を笑うわけにはいかないというのは、そういうわけなのである。フローレンスさん、次はあなたの歌声を真剣に聴くことにしますよ!
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by yokohama7474 | 2016-12-21 02:07 | 映画 | Comments(2)

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ドイツの映画監督ヴィム・ヴェンダース(1945年生まれの71歳)は、我々の世代にとっては、カンヌのパルムドールを獲得した名作「パリ、テキサス」(1984)で初めてその名を知り、「ベルリン・天使の詩」(1987)に感嘆し、それ以前の彼の作品群、例えばロード・ムービーの代表作である「都会のアリス」や「まわり道」、また「アメリカの友人」や「ハメット」などの佳作も日本で見る機会が出来たことにより、一種特権的な名前となった人である。もちろんそれには、当時映画評論の分野で盛んに活躍していた文化のアジテーター(?)、蓮實重彦の影響力が極めて大きかったわけであるが、向かうところ敵なしかに思われたヴェンダースが「夢の涯てまでも」(1991)で大コケしたときに、いわゆるハスミ世代の私の周りの映画好きたちは口々に「低予算に慣れた監督が、高額製作費を手にして堕落した」とののしっていて、遺憾ながら私もそれに同感だったのである。それ以降、ヴェンダースの作品には時々触れることはあっても、本当に感動したという覚えが少ない。今彼のフィルモグラフィーを見てみると、それなりに知名度があるだろう「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」や、小津を題材にした「東京画」を含めて、かなりの本数のドキュメンタリーも監督している。そしてこの作品は彼の7年ぶりの劇映画。実はこの前の劇映画は「パレルモ・シューティング」という映画で、このブログでもどこかで触れた記憶がある(映画そのものとは全く異なる文脈で 笑)。デニス・ホッパーの最晩年の作でもあり、映画史的にも貴重なものであろうが、何よりも人の命の有限性を巧まずして描いた監督の手腕を再認識し、ヴェンダースの映画としては久しぶりに感動したものだ。なので、この映画「誰のせいでもない」が細々と上映されているのを最近になってようやく知った私は、ヴェンダースの新境地を期待し、万難を排して劇場に走ったのである。これは近年のヴェンダース。
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上のチラシにある通りこの映画は、雪道で起こったある交通事故が巻き起こす、一人の男と三人の女の複雑な関係を描いたものである。もちろん、複雑な関係と言っても、惚れた腫れた、離れたくっついた、できた別れたという三面記事的な男女の事件を題材にする映画でないことは、監督の名前が保証している。いや、もしお望みなら、「一人の男と三人の女」に追加して、「もう一人の若い男と一匹の犬」まで加えてもよいだろう(笑)。一言でまとめてしまえば、何の予告もなしにやってくる運命の歯車の軋みの中でそれぞれの生を生きる人間たちの(あ、それから動物も)、その生き様を、大変美しい四季の中で描いた映画ということになるだろうか。その意味で私は、映画をストーリーとかカッコよさだけで見ない人には、この映画を強く推薦しよう。少なくとも私にとっては、これは「パレルモ・シューティング」に続いて忘れがたい映画になるだろう。

ヴェンダースらしく、たとえ登場人物たちの感情が剥き出しになるときがあっても、妙にサラッとした感覚の映像で常に包まれている。役者たちはしばしば、窓の外から、ある場合は明るい外光の反射越しに、ある場合は夜間の遠景でその姿を写されていて、Emotionがぐっと観客に迫る作りにはなっていない。どの場合も、爽やかな朝の光や淋しい夕焼けや、また、吹雪や秋の黄色い穂や川辺の緑や曇天の住宅地はいずれも、まさに人がそこに生きて有限の時間を過ごしているという切なさに満ちているのである。そのセンスたるや実に素晴らしいもの。
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だがこれはただきれいごとを並べた映画ではない。音楽は時にプロコフィエフ風またはバルトーク風、ときにミニマル音楽風に映像を彩り、よくあるハリウッド映画に慣れた我々は、もしやここで新たな惨劇が起こったらどうしよう・・・と、手に汗握ってドキドキする瞬間が何度も訪れるのである。かと思うと、上にも書いた通り、残酷な運命は何の予告も、ましてやBGMなどなしにやってくる。この映画で描かれていること自体は一般人が体験することではないにせよ、これに似たような体験は、多かれ少なかれ誰でも経験する、そのようなリアリティを持った映画であると言ってよいと思う。原題の "Every thing will be fine" は、冒頭まもなく主人公が男の子の手を引いて自宅に帰る途中で口にする言葉。実はその前に、"Every thing is fine"とも言っているから、「もう大丈夫(今のこと)」から「もーう大丈夫だからね(これからのこと)」という流れで男の子をより強く励ましている言葉なのだ。これがこの映画の重要なエッセンス。つまり、彼が何の気なしに「大丈夫」と言ったことが本当に大丈夫だったのか、ということだ。「誰のせいでもない」という邦題は、まあ気持ちは分かるが、ちょっとニュアンスが違うと思う。もちろん、誰かが誰かに責任を問う場面のある映画だが、ヴェンダースの練達の手腕は、美しい景色の中で展開する運命の機微の描写にこそ活かされていて、誰かがほかの誰かの不幸に責任があるか否かは問うていないと思う。実際、不幸な境遇の責任が、「誰のせいでもない」と言っているその人自身に、実はあることもあるわけだから・・・。また、演出手腕という点では、例えば主人公があるきっかけで出会う女性と、数年を経て生活をともにするようになる流れなど、「あ、なるほど彼女ね」と思わせるから恐れ入る。些細なことのようではあるが、観客のイメージをこのようにうまく誘導できる演出は、そうそうできるものではないだろう。

演出もさることながら、特筆すべきは役者陣だ。まず主役はジェームズ・フランコ。サム・ライミ監督のスパイダーマン・シリーズで敵役として登場したときには、その軽薄さを漂わせた二枚目ぶりが一種の紋切り型であったが、あの素晴らしい「127時間」や「猿の惑星 創世記(ジェネシス)」での演技は忘れがたく、どんどん進化している俳優だ。最近ではプロデューサー、監督としてのみならず、本作の役柄同様、作家としても活躍しているらしい。この映画での彼の表情は時に陰鬱、時に恐怖にさいなまれ、時に冷め切っているが、最後に近づくにつれ、優しくしかも深みのあるものになって行く。
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前半でその妻を演じるのがレイチェル・マクアダムス。このブログでも「スポットライト 世紀のスクープ」を採り上げたほか、ガイ・リッチーの「シャーロック・ホームズ」シリーズやウディ・アレンの「ミッドナイト・イン・パリ」の演技が忘れがたい。彼女も一作ごとに表情が豊かになっている、現在進化中の女優である。
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そして、運命によって巡り合う寡黙なイラストレーターの女性を演じるのは、シャルロット・ゲンズブール。15歳の頃の「なまいきシャルロット」の頃と、下ぶくれの表情は変わらないが、最近はちょっと危ない世界に行ってしまったかと思っていたので(笑)、「インデペンデンス・デイ;リサージェンス」に続いて(撮影の順番はそちらが本作より後のようだが)この作品で繊細な演技をしていることには好感が持てた。
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それから、脇役ではあるが、久しぶりにピーター・ストーメアを見ることができて大変嬉しい。出演作一覧を見ると本当に作品を選ばない人だと思うが(「ファニーとアレクサンデル」「レナードの朝」から「アルマゲドン」「ゾンビ・ホスピタル」まで 笑)、私にとっては「ファーゴ」「ビッグ・リボウスキ」のコーエン兄弟作品で忘れがたい役者だ。この映画での出演シーンの写真が見当たらないので、私の大のお気に入り、「ファーゴ」におけるスティーヴ・ブシェーミ(彼も最近見ないなぁ)との名コンビの写真を掲載しておこう。もちろん左側の人です。
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さてこの作品、プログラムを読んで知ったことには、ヴェンダースの意図は3D作品とすることであった由。私が見たのは2D上映であり、それどころか日本で3D上映した劇場があったのかどうか知らないが、スペクタクルの要素がほとんどないこの映画は、果たして3Dに向いているのであろうか。実は私は3Dにはほとんど思い入れのない人間で、鑑賞後にある映画を思い出す際も、2Dだったか3Dだったかすら覚えていないことも多い(例外はこのブログでも採り上げた「ザ・ウォーク」くらいか)。だがこの映画を2Dで見ながら私は、もし3Dだったらどうなっただろうかを想像していた。素晴らしく多様な光を捉えたこの映像は、確かに3Dであればさらに鮮やかに見えたのかもしれない。また、この映画で多用されている唐突な暗転や、カメラが寄りながらのズームダウン(あるいはカメラが引きながらのズームアップ?)などは、普通ならちょっと素人っぽい手作り感が出るところ、もしかすると3Dとの折り合いをつけるためのヴェンダース一流の手法であったのかもしれない。

繰り返しだが、映画をハラハラドキドキのストーリーだけで見る人には、この作品の真価は伝わらないだろう(ラストシーンはなんだ!!と怒るかもしれない 笑)。一方、派手さはなくとも人間の実像を映画で見たいという人には、一見の価値ありだと思う。但し、飽くまで私個人の意見なので、お気に召さなくても、誰のせいでもありません。もし映画を気に入らずとも、願わくば "Every thing will be fine"と自分に言い聞かせて頂かんことを。
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by yokohama7474 | 2016-12-14 01:12 | 映画 | Comments(0)

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たまたま近くのTOHOシネマズで上映中の映画を調べていて目についたのが、この映画だ。これまで予告編はおろか、全くこの映画に関する情報を得たことはない。だが、いわく傑作「羊たちの沈黙」のジョナサン・デミ監督が大絶賛したとか、昨年のヴェネツィア映画祭で観客・審査員の多大なる指示を得て、新人監督賞を獲得したとか、なかなかに注意を引く情報が目に入る。そして、原作はジャン=ポール・サルトルの「一指導者の幼年時代」という短編である由。どうやら、第一次大戦後を舞台に、架空の独裁者の幼年時代を描いた映画らしい。このような作品がシネコンにかかっているというのは珍しいこと。これは早めに見ておこうと思い立ち、レイトショーに出掛けることにした。

ストーリーは単純と言えば至って単純。将来独裁者として君臨するひとりの男が、第一次大戦終結直後のパリ(ということは、1919年のヴェルサイユ条約に結実する戦後処理についての講和会議が行われていた場所だ)郊外に住む家族の一人息子として、いかなる少年時代を送ったかということを描いている。プログラムを読むと、サルトルの原作はヒトラーの幼年時代を題材にしているらしいが、この映画にはまた、ムッソリーニの少年時代の逸話なども盛り込まれているとのこと。監督は、「映画のタイトルをサルトルの作品から借りた」という表現をしていて、必ずしも原作であると明言はしていない。ちなみにこの短編、日本では新潮文庫の「水いらず」の中に収録されている。あ、私はこの本を持っているが、この短編については全く記憶がない(笑)。
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さてこの映画、昔のヨーロッパ映画のような陰影の濃い色調だと思ったら、35mmフィルムで撮影されているとのこと。共同脚本及び監督のブラディ・コーベットは1988年アリゾナ州スコッツデール生まれの米国人で、その未だ20代という若さや誕生地(何度か行ったことありますよ。砂漠です)は、とても格調高いヨーロッパ調というイメージとはほど遠いが、尊敬する映画監督として、ミヒャエル・ハネケとラース・フォン・トリアーをはじめ、カール・テホ・ドライヤーやロベール・ブレッソン、ジャン・ヴィゴ、小津安二郎といった芸術系の名前が並ぶ。もともと俳優で、件のラース・フォン・トリアーの「メランコリア」にも出演している。プログラムのモノクロ写真では髭を生やしているが、意外なことに、もともとこんな爽やか系の若者だ。
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それにしても、このような若者が監督した映画とはとても思えない、相当に仮借ない人間描写を含む映画であり、すべてを手放しで大絶賛しないとしても、少なくとも衝撃的な作品であるとは言えよう。その最大の理由は、主役であるプレスコットを演じる、映画初出演の男の子の素晴らしい演技だ。撮影時たったの9歳(!!)、英国人のトム・スウィート。
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ここで彼の見せる千変万化の表情にはつくづく驚かされるし、将来の独裁者の潜在的狂気をこれだけ自然に演じられると、本当にこの子は将来とんでもないことをしでかすのではないかと、心配になるほどだ(笑)。思春期と呼ぶにはまだ早い年頃で、劇中でもまるで少女のような少年という設定であるが、可愛らしい容姿の裏の悪魔的なものが何度も何度も出て来て、見ている者をとてつもなく不安にするのである。まさに空恐ろしいような「モンスター」の天才的な演技である。そして、この映画の中では、この「モンスター」によって最も不安に苛まれるのが母親であり、米国政府の要人としてパリ講和に参加している初老の父親も、立派な公的責務を負いながらも、個人生活ではやはり情けないまでに「モンスター」に翻弄されるのである。一方、彼を心から可愛がるお手伝いさんや、早すぎる少年の性的欲望まで喚起する家庭教師の女性まで、ほかの役者陣もそれぞれに芸達者である。正直、私が知っている名前はなかったのであるが、以下の写真で左上から右回りに、母親役のベレニス・ベジョ、父親の友人役のロバート・パティンソン、家庭教師役のステイシー・マーティン、父親役のリアム・カニンガム。
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この映画の演出は細部まで凝りに凝っていて、映画好きならかなり堪能できると思うが、また音楽好きにも興味深いシーンがいくつかある。例えばプレスコットが風呂に入れられるシーンで口笛で吹いているのは、(たった数秒だが)紛れもなくベートーヴェン7番の第2楽章だ。また、何度も蓄音機から流れる古いSP録音がBGMとなっているが、チャイコフスキーの「エフゲニ・オネーギン」の「手紙の場」であったり、ショパンのピアノ・ソナタ第2番の第2楽章(葬送行進曲)の中間部の旋律を英語のポピュラーナンバーに編曲したものであったりするのである(なお後者は、イースターのシーンに加え、晩餐会の重要なシーンでも再び登場する)。ただ、映像の凝り方には一部不要なこだわりを感じるときもあって、このあたりは若さゆえの表現意欲の表れかとも思う。一方で映画のオリジナル音楽は、スコット・ウォーカーという作曲家(デイヴィッド・ボウイに影響を与え、レオス・カラックスの「ポーラX」...懐かしい...の音楽も担当していた)によるもので、中規模編成と思われるオーケストラが使われている。この音楽も、まるでホラー映画であるかのように映画の不気味なトーンを本編中のあちこちで盛り上げるのであるが、正直なところ、私にはちょっとうるさかった。特にラスト・シーンは、むしろ静寂をうまく使った方がよほど効果的ではなかったろうか。

このように、優れた面とそうでない面をそれなりに認識することができる映画であり、一般には多くの人の支持は得られないかもしれないが、文化的刺激を求める人には、子役の演技を見るだけでも価値があると申し上げておこう。一方で、現実世界ではどの国の政治も内向きとなり、今後の国際社会がどうなって行くのか分からないこの不安の時代に、このような内容の映画を見ることの意味は、大いにあるだろう。歴史というものの一筋縄でいかないところは、独裁者なら独裁者だけが、戦争の時代に起こったことの何もかもに責任があるという単純なことにはどう転んでもならないところである。独裁者を支持した一般庶民が圧倒的多数であったことこそが、本当に人をして心胆寒からしめるのだ。少年時代の独裁者が美少年ということだけで、既に耽美的要素を帯びた映画ではあるが、ただの後ろ向きな美学ではなく、厳しく時代の現実と切り結ぶだけの覚悟が作り手の方にあることをヒシヒシと感じる。翻って、我が国の文化の担い手は、果たしてこのような厳しさを持っているだろうか・・・と、柄にもなく考え込んでしまった次第である。

過去の姿をした現在が、真剣な眼差しで我々に問いかけてくる。
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by yokohama7474 | 2016-11-30 01:39 | 映画 | Comments(0)

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この映画に出てくるのは、すべて弱い人間である。だから私はこの映画を見て全く楽しい気分にはなれなかった。実はこの思い、前項の平野啓一郎作の戯曲「肉声」を見て感じた問題意識とも通じるものがあるので、ここでこの映画を採り上げることに多少の意義はあるだろう。

以前も書いたが、この映画の主演であるエミリー・ブラントは私のお気に入りの女優である。彼女が主演して、しかも上に掲げたポスターに書いてある通り、たまたま電車の車窓から見た光景が殺人事件に発展して行くという設定が、ヒッチコックばりの巻き込まれ型スリラーになっているのではないかと考えたので、この映画に興味を持ったわけである。後で知ったことには、この映画の原作はポーラ・ホーキンズという英国の女流作家による小説で、既に40ヶ国語以上に翻訳されて世界的なベストセラーになっている由。原作はロンドン郊外を舞台にしているが、ここではニューヨーク郊外に変更されている。ただ、英国出身のブラントはここで、"can't"を「カーント」という英国式アクセントで発音するなど、異国からやってきてニューヨーク近郊に住んでいるという設定が分かるようになっている。舞台は、グランド・セントラル駅から北へ向かうメトロノース鉄道のHudson Line沿線(この線が通るウェストチェスター郡には日本人駐在員も多く暮らしている)。まさにハドソン川のすぐ横を鉄道が走っていて、雄大な風景である。これはイメージ。
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さて、この雄大なハドソン川を臨む沿線で、主人公の女性、エミリー・ブラント演じるレイチェルが毎日見ているのは、ハドソン川とは線路を挟んで反対側に並ぶ家のうちの一軒に住む若いカップル。彼女はそこに理想の夫婦像を見出すが、ある日その家に住む女性がほかの男性と不倫しているのを目撃。それが事件の発端になって行くというスリラーだ。どうです、面白そうでしょう(笑)。この映画を見る人が、だがすぐに目にするのは、前作「スノーホワイト/氷の王国」でのお姫様役(今年6月13日付の記事ご参照)とは似ても似つかない、カサカサに荒れた唇のアル中女なのである。
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先に述べておくが、ここでのエミリー・ブラントは大変な熱演である。それは認める。だが、その熱演が上質なスリラーに貢献しているか否かは別問題。ここでの主要な役は、彼女を含めた女性三人なのである。一人は、若い女性メガンを演じるヘイリー・ベネット。なかなかに色気のある危うい役柄であり、濡れた瞳がなんとも生々しいのであるが、後で調べて分かったことには、デンゼル・ワシントン主演の「イコライザー」に出ていたあの女優だ。うん、確かにあまり美形ではないのに、ちょっと気になる若手女優であった。
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対する落ち着いた人妻アナを演じるのは、スウェーデン人のレベッカ・ファーガソン。彼女は「ミッション・インポッシブル/ローグ・ネイション」(今年9月10日付の記事ご参照)に出ていた女優である。
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彼女らが直接間接に演じる、男を巡る愛憎劇が、この映画の本質だ。私の意見では、これはスリラーなどではない。洒脱な社会批判や、背徳的な殺人賛美はここにはない。ただ、すえた男女の関係がウネウネと続いているだけなのだ。関係する男のひとりは、「ドラキュラZERO」「ハイライズ」のルーク・エヴァンス。
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この映画が彼の男っぽい魅力に依拠しているかというと、そうでもない。じゃあなんなんだよこの映画(笑)。人間の弱い面汚い面を、現実よりも誇張して描いているのである。このような映画を面白いと思う人もいるのかもしれないが、でも、私は全然楽しめなかった。様々な社会の危機を生きる必要のある現代、こんな「あーどうしようどうしよう」という映画を見ていても、埒が明くまい。この時代には個々人の強固な信念が試されるし、特に文化の担い手は、人間としての尊厳をこそ描くべきではないか。そうでなければ、退廃に身を委ねて空笑いするか、もしくは知的なエンターテインメントを追求すべきではないか。この映画は、同じハドソン川を舞台としていても、あの「ハドソン川の奇跡」とは全く違った映画なのである。そして、あえて言ってしまえば、昨日見た芝居「肉声」と共通する物足りなさを感じてしまうのだ。

まあ、ひとつ印象に残るシーンがあるとすると、クライマックスで男が殺されるところだろう。なるほど、人を殺すのにこういう手があったかと思うことにはなると思う(笑)。今後はワインを飲むときに思い出してしまうかもしれない血しぶきだ。
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繰り返しだが、これからの時代、個人個人が強く生きなくてはいけない。この映画の題名で、「トレイン」の前についている冠詞は、"the"であって"a"ではない。つまり、主人公の女性が乗っているのは、なんでもよい、いつでもよい列車ではなく、特定の列車。人それぞれに運命づけられた列車というものはあるのかもしれない。それをよく認識しつつ、自由な思いを求めて、この映画の主役のように、時にはせめて列車の反対側に乗るだけの余裕を持ちたい。そうするとまた違った景色が見えてくるのであろう。こんな弱い人たちに乱されることのない平穏が存在する違った景色が。

by yokohama7474 | 2016-11-26 23:50 | 映画 | Comments(0)

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このブログも記事を重ねるごとに、「もう聞いたよその話」という話題が増えてきていることは私も分かっている。だが、毎日のブログアクセスをチェックしていると、ある特定の記事でたまたまこのブログに遭遇する方々も日々おられるようであり、私があっちを向いたりこっちを向いたりして、これまで書きつらねてきたことに対するイメージのない方もおられるはずだ。そんなわけで、すみません、以前の言の繰り返しですが、私は封切間もない映画を見に行くことは、ほとんどないのである。だが、この映画は先週の金曜日、11月11日に公開されたばかりの最新作だ。そんな映画を今見るとは、一体どういう風の吹き回しかというと、昨夜、「ジェイソン・ボーン」の記事を書いていて、その映画の上映規模が早々に縮小された理由は、もしかしたらこの映画の公開にあるのかもしれない、と適当なことを言ってしまったときに、はたと気づいたのである。そうだ、「ジェイソン・ボーン」の記事に続いて、この映画の記事を書けば、その比較もできるし、後で振り返って、2016年11月時点でどのような映画が劇場にかかっていたかを振り返ることができるのも楽しいかもしれないと。実は、既に鑑賞したにもかかわらず未だ記事をアップできていない美術の展覧会は五指に余っていて、それらについての焦りもあるのだが、そこはそれ、気ままでラプソディックな文化逍遥を楽しむのがモットーのこのブログ。早速劇場に走ってこの映画を見てきたので、以下勝手気ままな感想を書きつらねます。あー、前置きが長い(笑)。

この映画の予告編を見たとき、もちろん私には、これが以前の作品の続編であることが分かった。「ジャック・リーチャー」はその第1作の原題であり、トム・クルーズ演じる主人公の役名であったはずだ。でも、その邦題が思い出せない。ええっと、「モーゲージ」、「プレッジ」、「コラテラル」・・・これらはすべて、国際金融に縁のある人ならおなじみの言葉であろうが(笑)、どれも違う。「コラテラル・ダメージ」でもないし、「ダメージ」でもないなぁ。ところでこれらは、「モーゲージ」以外は実際の映画の題名で、しかもそのうちひとつは同じトム・クルーズ主演である。だが、「ジャック・リーチャー」を原題とする映画は上記のいずれでもなく、調べてみて思い出したことには、2012年の「アウトロー」という映画であった。これが私の手元にあるその映画のプログラム。
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な、なんだよこれ。「ジャック・リーチャー」という題名じゃないの。どこが「アウトロー」ですか。シリーズ化するのが分かっていたのなら、最初から主人公の名前である「ジャック・リーチャー」を邦題にすればよかったのに(笑)。このブログで映画を題材に採り上げる際には、必ず原題を併記しているが、それはこのようなケースに有用だと思うからである。実はこの「アウトロー」という題名は、リー・チャイルドによる原作の邦題であることも知っているので、あまり深追いすることはしないが、やはり邦題だけ見ていると、何年も経ってからどのような映画であったかを覚えているのは難しいことの、ひとつの例であると思う。ところで、この主人公の左ほほの傷、本作でもずっと存在していたので、トレードマークなのであろうか。

さてこの映画、大変面白いひとつの特徴がある。それは、予告編が、本編の冒頭部分ほぼそのままになっている点だ。コーヒーショップで暴力沙汰を起こして逮捕される主人公が、すぐに立場を逆転させ、保安官が逮捕されるというエピソード。
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正直、このエピソードが、その後展開するリーチャーと女性少佐スーザン・ターナーの逃避行とどう関わるのか、映画を見ているだけでは判然としない点もあるが、導入部分としてはなかなかに鮮やかだし印象的である。映画の持ち味を最初の数分で設定してしまうのは、かなり巧みな手法であると思う。スーザン・ターナー役を演じるのはコビー・スマルダーズ。「アベンジャー」シリーズのマリア・ヒル役で知られる。
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この女優は、スタイルもよく、なかなかに精悍な感じなのであるが、ちょっと男勝りを表面に出し過ぎるキャラクター設定ではないか。男女の逃避行であるにも関わらず、ロマンティックなシーンは皆無。自立した女としてリーチャーを誘惑しているように見えるシーンもあるが、爽やかなまでに色気がない(笑)。今日の女性軍人像は、こんな感じにするしかないのでしょうかね。それから、ロマンティックな設定がないもうひとつの理由は、逃避行に若い女の子が一緒であることにもよる。15歳という設定のこの女性サマンサを演じるのは、ダニカ・ヤロシュという若い女優で、もともとダンサーからミュージカル女優という経歴の持ち主らしい。だが、うーん、正直、ここでも守ってあげたくなるキャラクターにはあまりなっていないのが、残念と言えば残念。ところでこの三人は疑似家族のようであり、それがこの巨悪を描く映画の寒々とした設定を、多少なりとも和らげている。いわば、昔の「妖怪人間ベム」みたいなものか???
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ここで「ジェイソン・ボーン」と少し比較してみよう。トム・クルーズはマット・デイモンよりも8歳年上の、今年54歳。だが、「ミッション・インポッシブル」シリーズでもハードな演技を自ら行っている。ここでも体を張った演技をしていて、さすがである。「ジェイソン・ボーン」でのマット・デイモンと同様、ここでのトム・クルーズも、上半身裸のシーンを何度も披露していて、女性ファン必見であるが(笑)、だがマット・デイモンの硬派なイメージに対してトム・クルーズは二枚目キャラであり、それゆえのユーモアのセンスもあるように思う。また、ここでも銃撃戦、カーチェイス、そして肉弾戦と、お定まりのアクションシーンがあれこれ出て来るが、敵がITを駆使して追跡してくる手法は、携帯電話の発信とか盗難クレジットカードの使用くらいで、「ジェイソン・ボーン」よりは古典的である。それ、走って逃げろ!!
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それにしても、「ジェイソン・ボーン」とこの映画の重要な共通点は、米国の巨大な権力が他国を巻き込んだ大きな不正に関与しており、邪魔者はどんどん消すという設定である。個人の力でそれに立ち向かうという設定も共通で、もちろんそれなりにカタルシスを感じる要素はあるものの、何か救いのなさが常につきまとうような気もする。もし高い地位にある者が不正を働いている場合、その部下としての自分は、一体いかに振舞えるのか。映画のように本当に殺人が頻繁に起こる極端なケースではなくとも、社会の中に生きていれば、日常にそれに似た性質のケースがないとはいえない。絶対的な悪を描くことが難しい時代だとは言えるであろう。

この映画の監督はエドワード・ズウィックという人で、フィルモグラフィーには本作を入れて11作品が並んでいるが、代表作は「ラスト・サムライ」だろう。トム・クルーズとは気が合うのだろうか。素晴らしい才能とまで言えるか否かは分からないが、手堅い手腕の持ち主ではあろうと思う。これは本作のプロモーションで来日したときのツー・ショット。
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ところで、本作もいずれ飛行機の中で見ることができるかもしれないが、その場合、恐らくカットされてしまうであろうシーンがある。だがそれは、飛行機の墜落シーンではなく、乗客に真似されては困ることなのだ。一体どんなシーンか、これからご覧になる方は是非ご注意を。あんなことすると、走って逃げるなんて無理だと思うけどなぁ・・・(笑)。だが、カットされてしまうときっと、映画としてのつながりが破綻してしまうので、やはり映画は劇場で見るべきであると改めて思います。

by yokohama7474 | 2016-11-18 01:13 | 映画 | Comments(0)