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この映画の本質は、上のポスターにある通り、「現代の戦争 その衝撃の実態」ということに尽きる。ストーリーは至ってシンプル。ケニアの首都ナイロビのある家において、イスラム過激派が自爆テロの準備を進めている。米軍のミサイルを積んだ無人ドローン機 ("Eye in the Sky" である) や、鳥型やさらに小さな虫型と言った飛行する動物のかたちをした隠しカメラ、また現地の協力スタッフの手によって、その情報をつぶさにつかんだ英国諜報機関が、自爆テロを未然に防ぐためにテロリストたちのアジトにミサイルの標的を定める。だがその時、隣家の貧しい少女がそのアジトの塀に沿った路上に机を置いて、パンを売り始めた。このままテロリストたちを放置すれば、ほどなく数十人規模の死傷者が出ることは確実。だが今ミサイルで攻撃すれば、無実の少女の命は明らかに危険にさらされる・・・。さあ、いかなる決断がくだされるのか。この子は、普段の通りの生活をしているのであろうが、まさかこの日、遠く遠く離れたロンドンのオフィス及び諜報機関の司令部、米国の空軍基地やホワイトハウスから自分が見られており、また自分の命が危険にさらされていることを夢にも知るわけがない。
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これは決して甘い内容の理想主義的な反戦映画ではなく、見る者全員、今この瞬間にはいかなる意味でも戦争に無縁の者たちに対してすら、当事者さながらの決断を迫る、実に実に厳しい内容の映画なのである。昨今は戦争を極めてリアルなドキュメンタリータッチで描く映画が多くなっており、問題作は数多い。だが本作は、ドキュメンタリー風ではないにも関わらず、容赦なく観客の心に深く入ってくる仮借ないもので、極限状態における人間の尊厳を描いたフィクション映画として、ほかの作品にはない高い価値を持つものである。それ以上私には綴る言葉もないが、願わくば自分が何か重要な決断を迫られる状況に置かれたとき、誰か他人の責任で自分は関係ないとか、組織の命令でしょうがないとか、そういったことを考えることのない人間、いわば思考を停止することのない人間でありたいと、切に思う。この映画に「パイロット」として出てくる兵士 (演じるのはアーロン・ポールという俳優) は、パイロットと言っても空中で航空機を操縦するのではなく、要するにナイロビ上空を飛んでいるドローン兵器を遠く離れた米国ネヴァダ州で操縦しているのであるが、息の詰まるような極限状態においても、思考する人間であることをやめなかった。なんという素晴らしいことか。もちろん、そのことがすぐに少女の命を救うか否かは、誠に痛々しいことに、別問題であるのであるが。
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この映画の製作者のひとりは、英国の名優コリン・ファース。彼が出演した近作ではなんといっても、このブログでも絶賛した「キングスマン」が素晴らしいが、あの映画にあふれる自由に羽ばたく遊び心だけではなく、極めてリアルな問題意識を世の中に問うだけの度量がある人であると実感する。
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そして、この作戦を英国諜報部で指揮するキャサリン・パウエル大佐を演じるのは、これも英国を代表する名女優、ヘレン・ミレン。ここでの彼女は、いつも通り素晴らしいとしか言いようがない。決断力と正義感と合理性と、そして強引な手腕を持ちながらも、人間的な面を維持している、このような軍人がもし多ければ、世界はまだ少しは信頼できるような気がする。
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そして、ロンドンの国家緊急事態対策委員会で画面を見ながらパウエル大佐に指示を出すフランク・ベンソン中将を演じるのは、69歳にして昨年膵臓癌で亡くなった名優、アラン・リックマンである。以前も書いたが、ハリー・ポッターシリーズのみならず、「ラブ・アクチュアリー」などの作品でも渋い味を出していた。この作品は、声の出演だけであった「アリス・イン・ワンダーランド / 時間の旅」に先立つもので、演技を伴う出演作としてはこれが遺作であり、エンドタイトルにおいて、彼に捧げるとのメッセージが出てくる。ここでの演技はまさにこの役柄にふさわしい複雑なものであるだけに、改めて惜しい俳優を亡くしたものであると思う。この映画における彼の最後のセリフは大変に重いので、これからご覧になる方は是非その重みを味わって頂きたい。
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この映画の副題、「世界一安全な戦場」とは、現地ナイロビからの映像を見ながら少女の命を危険にさらす、英米の軍人や政治家たちのいる場所を指す。確かに現代の戦争の多くは、テレビゲームさながらの遠隔操作による爆撃によって遂行されていることくらいなら、我々もマスコミ報道によって既に知っている。そして、時には誤爆による民間施設への攻撃も耳にすることがある。無差別自爆テロによる被害も悲惨なものであるが、テロとの戦いに一般市民が巻き込まれるということも、これはもう、言葉がないほどに悲惨な事態である。そんなことは分かっているつもりであったが、だがこの映画を見ると、世界の現実はそれほど単純なものではないということが分かる。ミサイル発射の是非を巡って交わされる様々な会話は、さながら奔流のようにあちらに流れこちらに流れ、ついにはシンガポールで下痢に苦しむ英国外務大臣や、中国で卓球による親善を試みる米国国務長官など、首脳たちの居場所を求めて世界を走る。軍の幹部や政府首脳たちは、それぞれの大義と職掌に基づき、時にはリスクヘッジを企図して発言をし、議論は議論を呼んで結論はなかなか出ない。その様子には本当に手に汗握るものがあるのだが、ビジネスマンの方々には、是非彼らの英語を注意して聞いて頂きたい。日本語で果たして、このような議論ができるであろうか。それは何も軍事上の議論ではなく、日常のビジネス活動における議論に置き換えてみてもよいと思うのであるが、ともすれば責任が不明確だと言われがちな日本のシステムは、(「シン・ゴジラ」を思い出すまでもなく) 一般人の命のかかった場面に対処できるのであろうかと思ってしまうのである。一例を挙げると、「シン・ゴジラ」における何度も聞かれた言葉は、「総理! ご決断を!!」であった。これは政府の緊急会議において大勢が総理を取り囲んだ状況において発される言葉であり、江戸時代であればこの「総理!」の部分がそのまま「殿!」であっただけで、きっと同じような光景があちこちで繰り広げられていたであろう (笑)。ここではあくまでも決断するのは殿であり総理という「個人」であるが、案を提言するのは合議を経た「集団」である。ところがこの「アイ・イン・ザ・スカイ」でしばしば見られるのは、指令を出すべき「個人」 (軍人) が、その指令を許可する権限を持つ「個人」 (政治家) に対し、"Do I have permission?" (しかも英国式に語尾を下げたイントネーションで) と尋ねるシーンである。つまりここで「許可」を与えられるべき主体は飽くまで発言者個人、"I" なのであり、個人の責任が明確な欧米式意思決定である。この違いは大きい。これは「シン・ゴジラ」において大杉漣演じる苦悩の首相。
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だがもちろん、私は欧米流のやり方が常に正しいと主張するつもりは毛頭ない。戦争とは所詮人間のやっていることであるという限界は、言語やシステムを問わず冷厳に存在していると思わざるを得ないし、この映画は実際にそこまでズカズカと入り込んで行く内容になっているのであり、その点こそがこの映画の素晴らしい点である。私はこの展開にハラハラドキドキし、納得したり心の中で反対の声を上げたり、巻き込まれそうになっている無垢な女の子がかわいそうで涙が出そうになったり、本当に椅子に座っているのがつらいような時間を過ごすこととなった。このような素晴らしい作品をまとめ上げたギャヴィン・フッド監督は 1963年、南ア生まれ。
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過去の作品としては、「ウルヴァリン : X-MEN ZERO」や「エンダーのゲーム」があるが、あまり知られていない名前である。南ア出身の映画監督と言えば、「第 9地区」「エリジウム」「チャッピー」のニール・ブロムカンプがいるが、このギャヴィン・フッドよりは一回り下。だがどちらもこれから期待できる名前である。

この映画は見るものに何か強烈なものを突き付ける。それは戦争の真実であるとともに、映画という文化の一分野の持つ素晴らしい表現力であると思う。なかなかそのように思える映画に出会えることは少ないので、是非一見をお薦めする。

by yokohama7474 | 2017-01-31 00:16 | 映画 | Comments(0)

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昨年末からどちらかというとマニアックな映画に重点を置いて鑑賞して来た。どうしても、すぐに上映終了となってしまう映画に優先度を置いているきらいはあるものの、私は何もマイナーなものにしか価値を見出さないひねくれ者ではなく、一般に人気のある映画も、自分の興味と一致するものである限り、極力見に行くようにしている。この映画は誰もが知る通り、出光興産の創始者、出光佐三 (いでみつ さぞう 1885 - 1981) をモデルとした百田直樹の同名のベストセラー小説 (手元にあるが私は未だ読んでいない) を映画化したもので、同じ原作・監督・主演による「永遠の 0」もそうであったが、かなり世間の注目を集めている映画である。だが、最近になっていくつかの話題作の公開が始まっており、そろそろ見ておかないと上映終了になってしまうかもと思って、ようやく見に行ったもの。これが実際の出光佐三の肖像。修羅場をくぐった人だけが持つ、いい笑顔ではないか。
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この種のポピュラーな映画は、出張に出かけるときの飛行機の中で見ることができる可能性が高いと思うが、実は「永遠の 0」の場合はそのようにして見ることとなった。ところが飛行機の中では、航空の安全に不安を覚えさせるシーンはカットとなるので、当然ながら「永遠の 0」などは大変に不適な内容であったのだ。実際、岡田准一の墜落シーンがなかったことで、その後の染谷将太の行動に疑問を覚えたものだ (笑)。その点、この「海賊とよばれた男」は、海のシーンはあっても空のシーンはないだろうから、飛行機で見てもよいのだがな、と思っていたら、なんのことはない。この映画でも、飛行機の中では絶対カットされるであろう重要なシーンがある。つまり、ここでは逆に、染谷将太に関するそのシーンがなければ、その後の岡田准一の行動に疑問を覚えるということになるはず (笑)。
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映画の冒頭に英語で、"based on true events" と出る。日本語では「実際に起こった出来事に基づく」となるが、そうするとどうも説明くさくなってしまう。なのでこの英語表記は一見識であろうと思う。そしてこの映画の素晴らしい点をまず一言で述べるならば、岡田准一の老け役と言ってもよいのではないか。ここでは主人公國岡 鐡造 (くにおか てつぞう) の若い頃の荒くれぶり (と言っても、私生活ではなく仕事に関してのことだ) から始まり、戦中、戦後、そして高齢で亡くなるまでが描かれているが、それぞれのシーンの設定年齢に応じて白髪の数も変わるという凝り方である。岡田は 1986年生まれなので、未だ 36歳。でもこれ、どう見ても老人だ。彼の演技はすべての箇所で完璧とは思わないが、それでも、彼の演技を貫く熱意にほだされることは事実。最後の老人ホームのシーンなど、その目力に感服した。
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昨今の日本の状況に鑑みて、戦後の復興から目覚ましい経済発展を遂げた昭和の時代を懐かしむには充分な理由があると思う。まあ、この映画を見ていると、既に過去のものとして過ぎ去ってしまった昭和という時代に思いを馳せることにはなってしまうが、だが、時には我々は思い出す必要がある。かつて昭和と呼ばれる汗と涙にまみれた時代があり、国民は皆必死であって、それだけまっすぐに前を向いていたのだということを。これが劇中の國岡商店の人たちの写真だが、50代以上の人なら、幼少の頃にこのような景色があちこちで見られたことを忘れてはいまい。左端で革ジャンを着ているのが監督の山崎 貴である。
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実はこの写真には、肝心の店主である國岡 鐡造が欠けている。きっと体を張って、どこかで切った貼ったの勝負に出ているのであろう (笑)。ここで興味深いのは、店主を演じる岡田准一の実年齢が 36歳であるのに対し、その番頭役、無口な甲賀治作を演じる小林薫の実年齢が、親子ほども違う 65歳であるということだ。劇中で寡黙な番頭役を演じる小林は、実に円熟の演技であると思う。
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この映画の長さは「永遠の 0」とほぼ同じ、145分。その長さにもかかわらず、見ていて飽きることはないが、何よりこれが実話に基づくストーリーであることが興味深い。石油会社のメジャーを敵に回し、今日ではありえないような乱暴な方法でイランに向かうところなど、まさに血沸き肉躍るものがある。いつの時代も、非難を恐れない勇気ある者が未来を拓く。これはイランから石油を運んできた日章丸の実際の映像。乗組員たちがイランに向かっていると知らされたとき、一体いかなる感情であったろうか。この映画を見て我々は、既に忘れてしまった何かの思い出を取り返す機会にしたいものだと思う。
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またここで國岡の妻を演じる綾瀬はるかは、そのごく限られた出演シーンにもかかわらず、いつもの自然な佇まいで、映画に何か安らぐものを与えている。
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現在、実社会での出光は、昭和シェル石油との合併に創業家が反対して頓挫している状態。そのひとつの理由は、現在出光美術館が所有する驚くべき日本美術のコレクションの散逸を、創業家が恐れていることも一因であるようだ。経済合理性はどうなのか分からないが、文化に対する妥協ない姿勢を見せた出光創業家は、さすがに海賊の子孫 (?) である。稀代の日本美術のコレクターであった出光佐三には、美術品に対する殺気立つほどの愛着があったようだ。この映画の中で國岡商店は、石油メジャーと丁々発止渡り合い、そのしっぺ返しを受けて会社が困窮のどん底に落ちてしまう。そのために起死回生の策として日章丸がイランに向かったわけであるが、私の疑問は、では現在の出光美術館のコレクションのうち、会社がどん底にあった状態でも散逸を免れたものが、どのくらいあったのかということだ。昨年開業 50周年を記念して出光美術館が開いた「美の祝典」3回シリーズについては、このブログでもそれぞれ記事を書いたが、今でこそ実に素晴らしい日本美術の宝庫である出光美術館がいかにして維持され発展して来たのか、知りたい衝動に駆られる。出光佐三の最初のコレクションは 19歳のとき。江戸時代の画僧、仙厓の作品であった。そして現在ではこの美術館は仙厓の大コレクションで知られる。劇中の國岡のように熱い人であったろう出光佐三は、恐らくそのコレクションにも命を賭けたのであろう。この映画の中で、國岡の執務室にはいくつかの美術品が飾られているが、中でも背景に見える、墨で描いたいかにも仙厓風の洒脱な作品 (時間の経過に応じて 2種類が確認できる) が気になる。私の手元にある 1989年の出光美術館での仙厓展の図録を見てみて、近いものを以下に掲げる。
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この映画のリアリティは脱帽ものであり、監督の山崎貴の細部に亘るこだわりが伝わってくる。けだし人間は、何事であれ大事なことにはこだわりを持つべきであろう。これからの時代、我々が頑張って生きて行くためのヒントをこの作品から得ることはそう困難なことではないと思う。飛行機の中ではなく、劇場で見ることができて本当によかった!!

by yokohama7474 | 2017-01-29 23:05 | 映画 | Comments(0)

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うーん。この映画を表現するのに、どのような言葉を使おうか。まず予告編を見た印象では、近いタイプの映画は「ブラックスワン」であろう。すなわち、予告編によるとどうやらこの映画は、ファッション界にデビューした若く初々しい女の子が、才能を見出されてめきめき頭角を現し、周りの女性たちの燃えるような嫉妬と競争心を煽り立てることとなる。そして初々しかった彼女自身、成功するにつれて悪魔的傲慢さを発揮し始める。その結果段々見えてきたことには、彼女らが居場所を見出している、明るい照明の輝く華やかな世界は、実はネオンの光に潜む恐ろしいデーモンの巣窟なのである・・・とまあ、そのようなストーリーであると思われるからだ。見終わった今、この映画を反芻してみると、もちろん「ブラックスワン」との共通点もあるにはあるが、より強烈に人間の影の部分に光を当てる、心底恐ろしい映画であると思う。誰が見ても面白いかと問われれば、多分首を横に振るだろう。だが、見る価値はあったかと問われれば、渋々首を縦に振るだろう。

まず導入部が非常に凝っている。ザラザラしたガラスのような表面に様々な色が当たり、タイトルが出たあと、本編の冒頭に登場するのは、ソファに身を寄りかかったまま、どうやら首を切られて息耐えた血まみれの若い女性。上のポスターにも含まれている、このような画像だ。私の記憶では、映画の中では腕も血まみれだったように思う。
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だがどうやらこれは作り物であるらしい。なぜなら、真剣にシャッターを切る男の映像が、切り返しで次に現れるからだ。カメラは一旦ソファから引いたあと、再度男のショットとなり、そしてまたソファに戻るが、そこには既に女性の姿はなく、カメラはただ空しく対象物であるソファに寄って行くだけ。次のシーンでは、場面が変わって、首と両手におびただしくこびりついた血糊をティッシュで拭き取る、この青い服の女性。彼女は鏡に向かっており、多くの照明で明らかな通り、どうやらそこは撮影のためのメイクをする部屋だ。女性の前には大きな鏡があり、血糊を拭き取る彼女はどこか上の空である。すると、部屋の反対側、そこにもメイク用の鏡が沢山並んでいるのであるが、そこにはショートカットのもうひとりの女性がいて、二人はポツポツと会話を交わす。本物の人間と、その鏡像が、交錯してコミュニケーションを始める。そして血糊の拭き取りを手伝いにショートカットの女性が寄ってきて、二人が向かい合って喋るときには、その短いセリフのいちいちで、カメラはいわゆるピン送りという手法を使うことで、ただの何気ない会話シーンに不思議な感覚が与えられている。つまり、喋っている人物の顔にピントが合ったと思うと、話し手の交代とともに別の人物にピントが移り、会話の進行とともにそれが交互に繰り返されるという手法である。これにより、喋っている人物の表情にはピントは合っているが、聞いている方の人物の表情はピンボケで伺い知れないということになる。
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記憶だけで書いているので、細部が違っていてもご容赦願いたいが、私がここで言いたかったことは、冒頭のこの流れだけで、この映画の映像のスタイリッシュな凝り方は、単に技法を弄んでいるのではなく、ここで描かれる人間像やその関係と密接に関係していることがはっきり分かる、ということなのだ。私の見るところ、この映画の大きな特徴は 2つ。ひとつは、全編を通してあらゆる場面で鏡が多用されることで、これにより真実と虚像の境界が曖昧になっていること。もうひとつは、無音の場面が多いがゆえに流れに緊張感があり、音楽や音響の入る場面では、必ず何か重要な事態が発生するということだ。そのような監督の手練手管にまんまとはめられた観客は、その先を読めない展開に身を乗り出し、そして後半では何度か、その身をのけぞらせるだろう。実際、私が見たレイトショーでは観客が 10名ほどであったが、大詰め近くのあるシーンでは、何人かが「うえっ」だが「ぎょえっ」だか、何やら得体の知れない声を思わず口から漏らしていたものだ (笑)。監督のインタビューを読むと、ホラーやメロドラマやコメディや SF などのあらゆる要素の混じった映画を撮りたいと言っていて (そう言えば、先に大絶賛した「ドント・ブリーズ」のフェデ・アルバレス監督も同じようなことを言っていた)、なるほどとは思うのである。このセンスは只者ではない。ただ、相当にグロテスクなシーンもいくつか出て来て、それらは本当に強烈であるので、拒否反応を示す人も多いだろう。とはいえ私自身は、それらを汚いとは全然感じなかった。あ、これでは監督は満足しないかな。では訂正して、汚いとは思ったけど、人間の真実の狂気を抉り出す仮借ないシーンとして強く印象に残った、という言い方にしましょう (笑)。

こんな凝った作品を撮ったのは、1970年デンマーク生まれの、ニコラス・ウィンディング・レフン。この映画の原案・脚本・監督である。美女演じるところの死体の横に登場してもらいましょう。
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残念ながら私は見ていないが、2011年の「ドライヴ」という作品がカンヌ映画祭で見事監督賞を受賞したことで、一躍名を上げた監督である。因みに「ネオン・デーモン」は、やはり昨年 2016年のカンヌのコンペティション部門で上映され、絶賛の拍手と非難の嵐の双方を巻き起こしたらしい。いやー、きっと審査員の人たちも、「うえっ」とか「ぎょえっ」とか声を上げたに違いない (笑)。このようにスキャンダラスな要素を持っている監督だが、これだけのセンスの持ち主なら、今後の活躍も必ずや期待できると思う。

さてさて、あえてこれまで全く触れてこなかったのであるが、演出以外のこの映画の最大の見どころは、もちろん主演女優である。エル・ファニングだ。
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彼女は 1998年生まれだから、未だ 18歳。昔は、天才子役ダコタ・ファニング (最も有名なのは「アイ・アム・サム」とか「宇宙戦争」であろうか) の 4つ下の妹という位置づけであったが、今や素晴らしい女優である。ダコタの近況は知らないが、成功した子役にしては珍しく、ドロップアウトせずにまっとうな大人になって女優業を続けているようだ。だがこのエルの場合、姉よりもファンタジー系での活躍が多く、私自身も、以前もほかの記事に書いたが、J・J・エイブラムスの低予算の傑作「SUPER 8 / スーパー 8」での彼女に驚嘆し、そして、なぜか全く話題にならなかったコッポラの近作「ヴァージニア」で狂喜したのである。その後「マレフィセント」を経て、このブログでも採り上げた「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」では素顔の演技を披露したと思ったら、今度はこの映画である。ここでの主役ジェシーは大変な役柄であって、ただ演じ上げるだけでも極めてハードであるが (血まみれにもなるし)、何より様々な設定での千変万化の表情を求められるので、この若さで充分な演技経験を持つ彼女の強みが活きている。そして、いくつのシーンでは本当に彼女のプロ魂を感じることができるのだ。この映画では完璧な美を持つ女性という役であり、ただの美形という感じとは少し違う彼女の顔だちは、設定と少しずれがあるかもしれないが (監督自身もそう認めている)、何より女優エル・ファニングの多くの可能性をここで見て取ることができるだろう。こういう写真の数々を引っ張ってきても、どういう映画であるか、さっぱり分からないでしょうが・・・。彼女の魔力を秘めた眼球は、永遠にその存在を主張し続けるのである。
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尚、この映画で久しぶりにキアヌ・リーヴスを見たが、ここでは、「さあ、どうする?」という悪漢の挑発に敢然と立ち向かうヒーロー・・・ではなく、怠惰で無礼で怪しげな安モーテルの経営者を演じて、なかなかいい味を出している。
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振り出しに戻って、うーん。この映画を表現するのに、どのような言葉を使おうか。「女性の恨みは本当に恐ろしい」という単純な言い方は避け、「人間が根源的に持つ狂気や暴力性を助長する要素としての、女性の恨みは本当に恐ろしい」と総括しておこうか。そう、この映画は人間存在の深いところを描いているのである。でも、グロテスクの向こうにそれを見るだけの眼球を持つ人にしかお薦めしないと言っておこう。その意味で、「ブラックスワン」のような多くの観客に受け入れられる映画とは、少し違ったものになっているのである。

by yokohama7474 | 2017-01-26 01:25 | 映画 | Comments(0)

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このブログの持ち味は、様々な文化分野を思いのままに逍遥することであり、鈴木大拙を語り武満やブルックナーを語った同じ人間がゾンビ物を語ることは、ここでは至極当然の流れなのである。というわけで、ゾンビ好きの私は、既に封切り後 1ヶ月を経ているこの映画をようやく見に行ったのだ。だが調べてみるとこの映画、日本先行公開であり、米国では 1月27日の公開であるとのこと。ということは今でもまだ、全米の人々よりも先んじているわけである。

さて、このブログで何度もゾンビ好きと公言している私であるが、実はそれほどマニアックにゾンビ物を渉猟しているわけでもない。もちろん、ゾンビ映画の巨匠ジョージ・A・ロメロは尊敬していて、なかなか見る機会がないと言われる同監督の「マーティン / 呪われた吸血少年」(ゾンビ物ではないが) も昔特集上映の際に劇場で見ているし、また比較的最近では「ゾンビ大陸アフリカン」という作品もやはり劇場で見て、実に社会性あふれる問題提起に満ちた傑作であるということも知っているが、実はこの「バイオハザード」シリーズにはさほど熱心ではないのである。1作目は見たことをはっきり覚えているが、それ以降、6作目である今回の「ザ・ファイナル」まで、見た記憶がない。今調べてみると、1作目は 2002年の作品。それから、2004年、2007年、2010年、2012年と来て、2016年のこの映画ということになり、コンスタントにほぼ 2 - 3年おきにシリーズが製作されてきたことになる。これはなかなかのことである。作り手の意図と興行成績が両立しなければ、そういうことにはならないだろう。私はゲームはしない人間なので、もともとゲームとして人気の出たこの「バイオハザード」の映画版が、果たしてゲーム人気にどれほどリンクしているのかは、全く知らないのだが。これが 1作目のディスクのジャケット。
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ともあれこの映画のよいところは、ゲームのことを知らなかったり、過去のシリーズ物の映画を見ていなくても、これ単独で充分楽しめる点である。冒頭、非常にコンパクトにこれまでのあらすじが主役によって語られ、いきなりストーリーが始まったと思うと、最初から最後までお化け屋敷とジェットコースターのコンビネーションとなり、ノンストップで駆け抜ける。率直に言うと、これはゾンビ物としての必然性をもはやかなぐり捨てた映画であり、敵がなんであろうと、世界の終わりにひとりで立ち向かう勇敢で強靭な女性の闘いを描いた問題作なのだ。なにしろ、冒頭から荒廃したワシントンの光景が出て来て、その絶望感は実に深い。考えてみれば、ほぼ半世紀近く前の「猿の惑星」第 1作では、ラストシーンで倒れた自由の女神が出て来ることで、その土地が変わり果てたニューヨークであることが分かり、それが衝撃であったわけであるが、21世紀の映画ともなると、米国の中心地の荒廃は、既に冒頭から容赦なく観客に迫ってくるのだ。時代のテンポは変わったのである。

さて、主役のアリスを演じるのはもちろんミラ・ジョヴォヴィッチ。現在 41歳。私は「フィフス・エレメント」や「ジャンヌ・ダルク」といった、当時のパートナー、リュック・ベッソン監督の映画で初めて彼女の演技に接したのであるが、頑張っているのは分かっても、当時はそれほど魅力的だとは思わなかった。リュック・ベッソンの作としても、この 2作 (もう 20年近く前になるわけだが) の出来には諸手を挙げて大絶賛ということにはならないし、ついでに言ってしまえば、その後のベッソンの監督作品には、さてどれほど見るべきものがあるだろうか。などと考えてくると、この「バイオハザード」シリーズ映画版の生みの親であるポール・W・S・アンダーソンと公私ともにパートナーシップを組んだことが、ミラ・ジョヴォヴィッチにとっては正しい選択であったのではないかと思われてくる。このブログでも何度か触れているヴィム・ヴェンダースの素晴らしい作品「パレルモ・シューティング」に、ジョヴォヴィッチが妊婦姿で出て来るが、それはこのアンダーソンとの間の子であるわけで、調べてみると既に子供が 2人。なるほど、このハードなシリーズをコンスタントに製作しながらも家庭生活も充実させるとは、本当に素晴らしくも逞しい活動ぶりだ。
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いやしかし、この映画でのジョヴォヴィッチは、上の写真のように旦那にデレデレしている女性ではなく、それはそれはもう、とてつもなく厳しく強く、そしてとんでもなくカッコよい。その姿からは常にただならぬ緊張感が漂い、その闘志はあらゆる敵を圧倒する。女優がアクションを演じる映画は昨今では枚挙にいとまがないが、これほどカッコよいヒロインは、ちょっとないのではないか。ゾンビ物を怖いと思う人でも、この演技を見ることで、かなり心が強くなること受け合いだ (笑)。また、スタイリッシュでスピーディなカット割りや、凝った動きの殺陣によっても、効果的にそのアクションが活きている。
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ただ一方で、彼女以外の役者は、残念ながらあまり印象に残らない。悪役の男性俳優陣も頑張ってはいるのだが、たとえ肉弾戦で殴り合いになって、途中まで有利に戦いを進めていても、アリスに勝てるようにはどうも思えない (笑)。この映画は、もう完全にジョヴォヴィッチの一人舞台なのである。日本からはモデルのローラが端役で出演しており、セリフもひとつあるが、どのような意図で設定されたのか理解に苦しむような残念な役柄であり、それ以上に、日本の CM ではあれだけ輝いている彼女が、ジョヴォヴィッチの姿・表情・動き・セリフ回しの前では、まざまざと格の違いを見せつけられてしまうのだから、映画とは本当に厳しいものだ。
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このように考えてくると、役者という職業には、自らの信念を維持しながら、巡って来る運をいかにつかむかということが大事なのだということが分かる。その役者 (これは音楽家でも画家でも小説家でも同じであろうが) の表現力のピークが人生のどこでどのように達成されるかは、誰にも分らない。年を経て表現力を失ってしまうアーティストもいれば、若い頃にはない表現力を長じるとともに身に着けるアーティストもいる。ミラ・ジョヴォヴィッチの場合、この「バイオハザード」シリーズでひとつの頂点を作ったわけだが、シリーズが今回で本当に終わってしまうのなら (一応そういう説明になっているようだが)、今後はまた違ったテイストの作品で、新たな表現の場を切り拓いて行くことだろう。大変楽しみである。・・・が、まだこのシリーズ、続けてみてはいかがでしょうかね。もうちょっと見たいなあ。

by yokohama7474 | 2017-01-25 01:22 | 映画 | Comments(0)

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世の中には様々な映画が存在して、テーマや言語や描き方のタッチや予算のかけ方や、まあいろんな要素を観客は目にするのであるが、場合によってはたまたま近い時期に似たようなテーマの作品が作られていたり、同じような俳優が出ていることがあって、それらを比較したり、多少こじつけでもよいのでその理由を考えたりするのは、興味深い知的試みである。この映画を知ったとき、まずそのような感想を持った。なぜなら、最近公開される映画には、ナチズムや独裁者を題材としたものが結構多いからである。このブログでも例えば「帰ってきたヒトラー」、「アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち」、「シークレット・オブ・モンスター」といった比較的最近の映画を採り上げた。中でも「アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち」は、ここで採り上げる映画と似た題名になっているし、それから、今後公開される映画でも、正確な題名は忘れたが、アイヒマンの名前を使った新作もある。このような傾向は、世界各国で見られる右傾化と何か関係があるのであろうか。

ともあれ、ここで名前が言及されている「アイヒマン」とは、ナチスの親衛隊中佐で、ユダヤ人虐殺において指導的な立場にあったとされるアドルフ・アイヒマン (1906 - 1962)。戦後行方をくらまし、1960年にアルゼンチンに潜伏しているところを捕縛され、イスラエルで裁判にかかり、1962年に絞首刑になった極悪人。
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「アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち」は、このアイヒマンがイスラエルで裁判にかけられる様子をテレビで世界に中継するために奔走した人たちの物語であったが、この映画はその前の時点、潜伏しているアイヒマンがいかにして捉えられたかという経緯を映画化している。いずれも実話に基づく物語である。「アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち」は BBC の系列会社による制作で、言語も英語であったが、こちらはドイツ映画で、言語もドイツ語。よくドイツ人はナチズムの反省は自主的に行っていると言われるが、昨今の実情は分からないものの (ネオ・ナチの台頭など)、自国の恥部を赤裸々に映画化するこの自己批判精神には感服する。

だがこの映画を見ていると、そのようなドイツの自己批判精神が一体本当なのか分からなくなるし、戦後の世相によっても様相は変遷してきたものであるようにも思えてくる。つまり、この映画の主人公、実在の人物であるヘッセン州検事長フリッツ・バウアーが、自国の罪深い犯罪者であるアイヒマンの居場所を執念で追い求めるのに対し、様々な抵抗勢力がそれを阻もうとする様子が描かれていて、それが大変にショッキングであるからだ。なのでこの映画のドイツ語の原題をそのまま英訳したとおぼしき、"The Peope vs Fritz Bauer" という英題にはかなりストレートなメッセージが込められているのだ。中学校で習う英語の知識によると、People の前に定冠詞 the がついているということは、不特定多数の一般大衆ということではなく、特定の人々のことを指しており、その特定の人々がバウアー検事長の前に立ちふさがったということが示されている。これが実在のバウアー検事と、この映画でバウアーを演じるブルクハルト・クラウスナー。実によく雰囲気が似ている。
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このバウアーさんはドイツ生まれであるが実はユダヤ人で、戦前からドイツで判事の仕事をしていたが、戦争中はナチスの迫害を逃れて、デンマーク、さらにスウェーデンに逃れていた。戦後ドイツに帰国して地方の判事長として重きをなしたが、とりわけナチスの戦争犯罪を強く弾劾した。ところが当時のドイツ政府には未だに親ナチス勢力 (題名でいうところの "the people" だ) が密かに実権を握っており、あろうことかバウアーの努力を国家反逆罪とみなそうとしている。また若者たちは、ナチズムも戦争も大人たちが無責任に引き起こしたものとして批判的な考えを持ち、国家予算を使ってナチスの残党を探そうという努力には冷ややかだ。そんな環境においてバウアーは、まさに執念と勇気と機知をもって粉骨砕身、ついにアイヒマンを捉えることに成功するのである。但し、アルゼンチンでアイヒマンを捕縛したのはイスラエルの諜報機関であるモサドであって、実は裏でバウアー検事が画策していたということは、バウアー本人の死後 10年が経過した 1978年まで知られていなかったという。この映画で描かれるバウアー像は、全力で犯罪人を追いかける執念の人でありながら、どこか自虐的なところもあり、決して聖人君主ではない。そうなのだ。立派な業績を成し遂げる人は、別に聖人君主である必要はない。ただ人間の弱さを理解し、かつ理不尽なことを容認できないことを原動力として行動を起こす人であるべきだ。バウアーはまさにそういう人であったのだろう。また、実在のバウアーは室内装飾に関しては大変モダンな感覚の持ち主で、ル・コルビュジェによる壁紙やシンプルな家具を使用していたという。確かにこのシーンに見える壁紙は、上の本物のバウアーの写真の背景と同じ模様である。
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この映画の中でリアリティをもって描かれているバウアーの人となりを示すひとつの例として、バウアーが同性愛者であったことを挙げよう。そのようなシーンがあるわけでなく、セリフで表されるだけであるが、ご本人はこの点についてはかなり開き直っている (笑)。舞台となっている1960年代といえば、これもつい最近記事として採り上げたばかりの「ストーンウォール」で描かれている通り、米国でも同性愛者が増え、それゆえに世間から迫害された時代。また「スカラ座 魅惑の神殿」についての記事でも触れた通り、文化人の中にも同性愛者が多く出始めた時代。そうするとやはり、悲惨な戦争の後の解放感と、新たに勃発した世界秩序の危機が、個人的な愛に依拠する同性愛者の増加と、反動としてのそれへの抵抗を生み出したという事情があるのかもしれない。この点については、今後機会あればまた考えて行くこととしたい。

同性愛といえば、劇中に登場するアイヒマンの部下、ロナルト・ツェアフェルトという俳優演じるカール・アンガーマンは架空の人物であるが、重要な役回りである。彼はバウアーと同様、人間らしい面を持っているが、一見飄々としたバウアーが実は非常に強靭な人であるということを、あるトラブルによって結果的に証明することになる。巧みな役柄設定であると思う。
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もうひとり重要な役、ヴィクトリアを演じるのはリリト・シュタンゲンベルク。やはり現在公開中の映画で、ちょっと気になっている「ワイルド 私の中の獣」の主役を演じている女優である。ここでは全く違った役柄であるが、充分に美しい。
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監督のラース・クラウメは 1973年イタリア生まれのドイツ人。主としてテレビドラマで演出を行ってきた経歴の持ち主で、長編映画は未だ数本しか撮っていない。だが本作では脚本も担当し、この作品のテーマに対する相当な思い入れを感じさせる。
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このように歴史のドラマを力強く描いた映画であり、作り手の情熱も感じられて、見応えは充分である。あえて難を言うとすると、娯楽性という点ではあまりサービス精神のあるタイプの映画ではなく、最初から最後まで手に汗握る展開ということではない。また、この映画の現代における意義を考えるには、ある程度ナチズムに対するイメージが必要かもしれず、バウアーという人物の本当の凄みは、ただ漫然と映画を見ているだけでは感じ取れないという人もいるかもしれない。あの忌まわしい世界大戦が終結してから既に 70年以上が経過するが、まだまだ語られていない視点があるはず。その意味で、歴史ドラマの分野においては、今日的な意義を持つ作品が今後も現れてくることを期待してもよいと思う。歴史に学ぶことの意味を認識しながら、これからの世界の動向を注視すること。文化はそのための強いツールになるのである。

by yokohama7474 | 2017-01-13 00:20 | 映画 | Comments(0)

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誰もが知る世界に冠たるイタリアオペラの殿堂、ミラノ・スカラ座。この映画はその魅惑のオペラハウスに関するドキュメンタリーである。2014年12月 7日、当時の音楽監督であったダニエル・バレンボイムの指揮によりベートーヴェンの「フィデリオ」でシーズンを開幕する準備を軸に、このオペラハウスの歴史を縦横無尽に辿り、歴代音楽監督のインタビューやリハーサル映像、錚々たる歌手やバレエダンサーたち、そして芸術監督から裏方に至るまで、様々な人々が、この場所がいかに特別であるかを語る。そしていくつかのシーンでは、役者が過去の人物に扮して過去の事柄をリアルタイムで語るという演技もある。オペラが好きな人には必見のフィルムと言ってよい。以下の出演者紹介は、この映画の公式サイトからコピペさせてもらったもの。いや実に豪華豪華 (但し私はバレエには疎いので、ここに含まれる 2人のダンサーについての知識はありません)。

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カルラ・フラッチ

ヨナス・カウフマン

アルトゥーロ・トスカニーニ

ルチアーノ・パヴァロッティ

グレース・ケリー

クラウディオ・アバド

ダニエル・バレンボイム

ヘルベルト・フォン・カラヤン

ロベルト・ボッレ

リッカルド・ムーティ

プラシド・ドミンゴ

レナータ・テバルディ

アーカイヴ映像・写真での出演を含みます。
UNQUOTE


あ、あれ? なんかちょっと変だぞ。明らかに同じ人物が 2回 (撮影時点はかなり違うようだが) 写っていて、しかもそのうちひとつは、明らかに名前が違っていますねー(笑)。公式サイトであるからには、やはり間違いは訂正した方がよいと思います。もし関係者の方がご覧になっていれば、よろしくお願いします。どの表記が間違っているかは常識の範囲なのであえてここでは指摘しませんが、本来なら上で載っているべき人の写真をここに掲げておきます。

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この映画、音楽ファンにとっては実に見ごたえ充分なのであるが、それは言葉を換えて言えば、オペラに関心のない人たちにとっては、残念ながら見ても内容がよく分からない可能性大であるということだ。それゆえか、全国的にも限られた数の劇場でしか上映されていない。東京では、私の見た渋谷の Bunkamura ル・シネマは満員の盛況であったが、もう 1軒の上映館である昭島のシネコンでは、どのくらいの動員が見込まれるだろうか。と書きながらも私は、是非この映画を、クラシックに未だなじみのない人たちにも見て欲しいと思っているのである。というのも、このブログで東京のクラシック音楽シーンを熱く語っている私は、実はヨーロッパの一流オペラハウスの持つ極め付けの価値をよく知っていて、そこには日本人がいくら逆立ちしても獲得できない歴史の積み重なりがあることを実感しているからだ。一方で、西洋音楽の懐の深さに鑑みて、ヨーロッパ人にはできないがむしろ日本人にはできることというものも、きっとあると信じている。すなわち、西洋音楽に敬意を表するなら、いわゆる本場の一流がいかなるものかを知る必要あり、だがそれを盲信または過剰に崇拝することなく、冷静に日本人のできる音楽の可能性を考えることができるはずだと考えている。

ところで、上に掲げたこの映画のポスターでデカデカとその写真が使われている人物は、マリア・カラスである。なるほど、ここでトスカニーニの写真を使うと、怖くて敬遠されてしまうかもしれない (笑)。カラスこそは、オペラ歌手として最も一般的に知られた名前であることは確かだろう。だがこの映画の中ではカラスについての言及は過剰にならずにほどよいバランスに留まっており、その点は大衆に迎合しない姿勢が窺われて好感が持てる。そして、未だ存命の歌手たち、例えばライナ・カバイヴァンスカ (1934年生まれ)、フィオレンツァ・コッソット (1935年生まれ)、ミレッラ・フレーニ (1935年生まれ) らがあれこれ語る内容が滅法面白い。特にフレーニは最近まで活躍していたわりには、ここでの映像を見ると大変太ってしまって (もともと痩せた人ではなかったものの) ちょっと複雑な思いだが、いわばイタリアの人間国宝のような人だから、画面に出てくるだけで感動してしまう。もちろんコッソットもそうだし、カバイヴァンスカはちょっと知名度は落ちるが、ドミンゴともパヴァロッティとも「トスカ」を共演した映像を見たことがあり、やはり大ソプラノなのである。ドミンゴと言えば、ここで少しだけ出てくる当たり役「オテロ」の歌唱に本当に鳥肌が立つし、やはりインタビューで語る現在の彼の姿を見ると、老いたりとはいえ、そこで喋っているだけで心が躍るのである。今年のルネ・フレミングとの来日ジョイント・コンサートには行かないつもりであったが、うーん。心が動くなぁ・・・。

指揮者に関しては、当時の音楽監督バレンボイムがイタリア語で (ただこの人は、どの言語でも滑舌が悪いのは困ったものだが・・・) スカラ座がいかに特別であるかを語り、その後次代音楽監督に指名されたリッカルド・シャイーの物静かなインタビューもある。そしてもちろん、クラウディオ・アバドとリッカルド・ムーティの登場シーンにもそれぞれ興味深いものがあるのだ。中でも、1981年にスカラ座が初めて来日したときの模様が、ミラノの放送局制作らしいニュース映像で出てくるのは、本当に嬉しい。「Tokyo」と書いた T シャツを着たクライバーや、ここでも「オテロ」を演じるためにメイクするドミンゴ、ギャウロフその他の歌手と、ヴェルディの「シモン・ボッカネグラ」のピアノリハーサルをするアバド。このときには全 4演目と合唱指揮者ロマーノ・ガンドルフィの指揮するロッシーニの小荘厳ミサ曲はすべて FM で生放送され、当時未だオペラは未知の分野であった高校生の私も、その生放送を聴き、テレビでの放映を見ては、興奮し驚愕し感激していたのだ。これはまさに日本の文化史に残る一大イヴェントであった。


それから、ヴェルディやプッチーニという大作曲家たちのこの劇場との関わりとともに、大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニ (1867 - 1957) の紹介も当然出てくる。彼こそはオペラにおける指揮者の役割を飛躍的に向上させた超人であり、そのヨーロッパにおける主たる活躍の場は、ほかならぬこのミラノ・スカラ座であった。
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彼は戦時中、ムッソリーニの独裁政権を嫌ってヨーロッパを離れ、もっぱら米国で指揮活動を行ったが、戦争中の爆撃によって破壊されたスカラ座が早くも 1946年に再建されたとき、そのオープニングを指揮するためにイタリアに戻って来た。この映画ではその時の到着の際の空港での映像が出てくるが、肝心の指揮のシーンは、これはどう見ても戦時中アメリカで撮影されたヴェルディの「諸国民の賛歌」のものではないだろうか。因みにそのスカラ座復帰演奏会では、ロッシーニ、ヴェルディ、プッチーニの作品が演奏され、締めくくりはアリゴ・ボーイトの歌劇「メフィストフェーレ」のプロローグであった (昨年ムーティが東京・春・音楽祭で演奏した曲)。これがその演奏会のポスターだ (John Hunt によるトスカニーニのディスコグラフィから撮影)。
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尚この演奏会のライヴ録音は CD 化されているので、私の手元にあるその CD からジャケット写真と、解説に載っている当時の新聞記事、そしてやはりイタリアの大指揮者で、当時のスカラ座の音楽監督、ヴィクトル・デ・サバタ (1892 - 1967) と客席で話しているトスカニーニ。
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さてこうなってくると、もう映画そっちのけで (笑)、新春特別企画。手元の資料から珍しい写真をご紹介して、音楽ファンの方々にサービスしよう。私が書棚の奥から採り出したのは、以前スカラ座を訪れた際にそこの売店で購入した、イタリアの Umberto Allemandi & C. という出版社の出しているカラヤンの写真集。2008年のカラヤン生誕100年を記念して出版されたものらしい。私はイタリア語は解さないが、"Lo stile di un Mestro" とは、「あるマエストロの流儀」とでもいう意味なのであろうか。あるいは「マエストロの品格」というニュアンスか。カラヤンは 1950-60 年代に様々な足跡をこの歌劇場に残したが、この写真集には、ミラノでの写真だけでなく、幼少時から晩年までの彼の貴重な写真が満載だ。
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この本の中から、カラヤンとスカラ座に関係する珍しい写真を幾つかご紹介しよう。まずこれは、上でトスカニーニと談笑している指揮者デ・サバタとカラヤン。そして左端は、なんとあのグィド・カンテルリではないか。彼についてはまた追って触れるが、1956年に死去しているので、撮られたのはその前。もしかすると、カンテルリの死に近い時期の写真かもしれない。
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次の写真でカラヤンの後ろに写っている痩身の眼鏡の音は、ドイツの作曲家カール・オルフ (1895 - 1982)。1953年 2月14日、スカラ座でカラヤンが演奏した彼の三部作、つまり、有名な「カルミナ・ブラーナ」に加え、「カトゥーリ・カルミナ」「アフロディーテの勝利」の際の写真である。このうち「アフロディーテの勝利」はこのときが世界初演である。カラヤンのオルフと言えば、1973年に珍しくケルン放送響を指揮してやはり世界初演、録音した「時の終わりの劇」が知られているが、私の知る限りこの三部作の録音はない。せめて「カルミナ・ブラーナ」だけでも後年録音して欲しかったものだと思うが・・・。カーテンコールから引き上げるところと見られるこの写真のカラヤンの表情には、充実感が漲っている。
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これは言わずと知れたマリア・カラス。1954年 1月、ドニゼッティの「ランメルモールのルチア」の、恐らくはゲネプロの時のものだろうか。
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これはイタリアの後年の巨匠指揮者、カルロ・マリア・ジュリーニ (1914 - 2005) と。撮影は 1955年 1月18日という日付で、調べてみるとその日カラヤンはビゼーの「カルメン」の抜粋をスカラ座で指揮している。カラヤンとジュリーニの接点はあまり思いつかないが、実は彼はこの頃 (1953年から 56年まで)、デ・サバタの後任としてちょうどスカラ座の音楽監督であったのである。ただこのジュリーニの厳しい表情はどうだろう。このほんの 1ヶ月前、1954年 12月にベルリン・フィルの終身音楽監督の地位を得たばかりのカラヤンを前にしての緊張か、それとも生涯ワーグナーを演奏しなかったという潔癖症のジュリーニには、戦時中ナチ党員であったカラヤンに対する複雑な思いでもあったのだろうか。ところで左端のくわえ煙草の人物は、ニノ・サンツォーニョというイタリアの指揮者 (1911 - 1983)。イタリア・マフィアではありません。
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これはまた極め付きの珍しい写真。戦後、一時期活動停止を余儀なくされたフルトヴェングラーの穴を埋め、ベルリン・フィルの実質的な音楽監督として積極的な活動を展開した、ルーマニア出身の、後の巨匠セルジュ・チェリビダッケ (1912 - 1996) とのツー・ショット。1954年10月23日の日付である。フルトヴェングラーの死去はこの 1ヶ月ほど後の 11月30日。なのでこれは 20世紀後半に、世界最高のオーケストラが誰の手に委ねられるか分からない時の運命的なショットである。因みにこの日、カラヤンがスカラ座で指揮したのはオペラではなく、ロンドンのフィルハーモニア管弦楽団を指揮してのオーケストラコンサート。ケルビーニの「アナクレオン」序曲、ブリテンの「フランク・ブリッジの主題による変奏曲」、R・シュトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、そしてベートーヴェン 5番というなかなかハードなプログラム。
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このように、カラヤンという指揮者にとってもミラノ・スカラ座での活動がいかに重要であったかは、一連の写真からも明らかだ。ではここで、スカラ座を離れて、昔のカラヤンの昔の写真をもう少しご紹介する。この 2枚の写真をご覧頂こう。
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上の写真は、あのフランスの詩人ジャン・コクトーと。1958年 6月にウィーンでウィーン・フィルとストラヴィンスキーの「エディプス王」(もちろん台本を書いたのはコクトーだ) を上演したときのもの。そして下の写真は、1959年のザルツブルク音楽祭にて、ギリシャの巨匠ディミトリ・ミトロプーロスと、その弟子筋にあたる、後年カラヤン最大の好敵手とみなされた、あの偉大なるレナード・バーンスタインだ。この 2枚、大変に面白い。というのも、ここに写っているカラヤン以外の 3名の芸術家は、皆ゲイ (またはバイ?) で知られているからだ。だがその彼らに対するカラヤンの仕草の親密なこと!! コクトーとのツー・ショットは、思わず「近い近い近い!!!」と叫びたくなるし、ミトロプーロスにはしっかり手をかけて、しかもその右手がミトロプーロスの右手とシンクロしている。前の記事でご紹介したニューヨークでのストーンウォールの乱の勃発はこの 10年後。もしかして、世界は LGBT に向かって大きく胎動していたのかも、と思いたくなる。

さて、最後に触れるのは夭折の天才指揮者、グィド・カンテルリ (1920 - 1956) だ。
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私は彼の音楽を熱狂的に愛する者であり、残された正規録音や放送録音を、可能な限り集めている。彼の故郷はミラノ郊外のノヴァーラという街。私は数年前にここを訪れ、街を歩いていてたまたま彼の生家前を通りかかり、狂喜したこともある。1956年11月24日に大西洋横断中に飛行機が墜落し、36歳でこの世を去ってしまった。もしその後も生き永らえていれば、音楽史を塗り替えていたであろう天才なのである。今回、この映画の中で、上に掲げたカラヤン、カンテルリ、デ・サバタの 3人の指揮者の写真と違う角度で撮られた写真が登場するが、1956年に、ジュリーニの次のスカラ座の音楽監督の座を継ぐことになったのがこのカンテルリであったのだ。このカンテルリ、生涯最後の演奏会は、スカラ座管弦楽団を指揮したもの。1956年11月17日。実はその前日に音楽監督就任が発表されたばかりであった。演奏会の場所はミラノではなく、カンテルリの出身地ノヴァーラ。これがそのときのポスターである。まさかこれが最後のコンサートになるとは、本人も楽員も夢にも思っていなかったであろうから、これから始まる新時代への期待感が込められたはずのポスターが、何やら物悲しい。
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いかに豊かな才能を持つ天才鬼才でも、様々な運命の糸に動かされている面は必ずある。ミラノ・スカラ座が今日でも世界のオペラハウスの最高峰のひとつとみなされるのは、上で見たようなダイナミックな歴史と、現在活躍する音楽家たち、そしてそれを支える大勢のスタッフやパトロン、聴衆のおかげである。この奥深さは、そう簡単に味わい尽くせるものではない。日本にいながらにして見ることのできるこのような映画を堪能しながら、またかの地でオペラを見る日に向けて、感性を磨いておきたいものだと思う。

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by yokohama7474 | 2017-01-09 22:56 | 映画 | Comments(0)

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この映画の監督は、ローランド・エメリッヒ。そう、あの「インデペンデンス・デイ」シリーズや米国版「ゴジラ」など、ハリウッドのデザスター (災害) 大作映画で知られるドイツ出身の映画監督だ。1955年生まれの 61歳。
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そのようなメジャーな作品の監督作品が、日本でたったひとつのマイナーな劇場でしか見ることができないと、誰が信じられようか。でもそれは本当のことである。この作品を現在上映しているのは、新宿のシネマ・カリテのみ。なぜそんなことになるのだろうか。私は今この瞬間に正しい答えを持ち合わせているのか否か確信はないが、この映画の内容が関係していることは確かであろう。ではこの映画のプログラムから、監督自身の言葉を引用しよう。

QUOTE
この作品を撮ろうと思ったのは、自分自身がゲイだから、すべての疑問に自分が答えられると思ったからだ。自分の人生にも繋がることであり、実際にキャストの一部もゲイ。私たちは今も結婚する権利などを得るために闘い続けている。
UNQUOTE

そうだったのか・・・。芸術家の世界ではゲイは決して珍しいことではないが、やはり世間一般においては少数派。かく言う私も、男子校出身なのでそのような趣味の同級生がいたり、社会人になってからも、カミングアウトした同じ業界の米国人から「恋人」の話を聞いたことは一度にとどまらないものの、ただ申し訳ないことに、その感覚にはどうしても理解が及ばないのであると白状しておこう。だが、いわば文化のひとつとしての同性愛に興味はあるし (例えば「雨月物語」とか、南方熊楠や江戸川乱歩の研究など)、それは動物にはない人間ならではの愛の進化形であるということは、分かっているつもりである。何より、個人の嗜好が差別の対象になってはいけない。時代は既にそれを許さないし、それは人種差別や性差別と変わらないものだと認定されているのだ。

映画の内容に入る前にどうしてもこのような長々した能書きが必要であるという事実が、この映画の公開が限定的であることと関係していよう。だが、そんな予備知識は一旦脇に置いて、この映画について少し語ってみたい。題名のストーンウォールとは、ニューヨークのダウンタウン、グリニッジ・ヴィレッジに実在するバーの名前で、1969年にここでゲイたちが警察に対して暴動を起こしたとのこと。実はこの場所は昨年、オバマ政権のもと、米国のナショナル・モニュメント、日本風に言えばさしずめ「史跡」ということであろうが、それに指定されたのである。英語では LGBT (Lesbian、Gay、Bisexual、Transgender の総称) という言葉があるらしいが、この場所はその LGBT 関連施設として初めてそのような公式な史跡指定を受けたとのこと。これは現在の Stonewall Inn。
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物語の舞台は1960年代後半。まさに世界も米国も波乱に満ちた時代である。インディアナの田舎町からニューヨークに出てくる青年ダニーを演じるのは、あのスピルバーグの「戦火の馬」で少年役を演じたジェレミー・アーヴァイン。大人になったというか、この作品の難しい役柄を自然に演じるだけの成長を果たしたと思う。
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主人公ダニーは故郷で同性愛的指向が発覚することで様々な侮蔑の対象となり、そして当時 LGBT のメッカであったグリニッジ・ヴィレッジに出てくる。これは実話に基づくストーリーであるが、当時の世相を表す言葉が、ダニーの妹から発される。大都会ニューヨークに行ったこともない彼女は、兄からの電話を受けて、かの地の有名人に会ったかと兄に訊くのであるが、字幕に出てくるアンディー・ウォーホル以外に、実際にはジャクリーン・オナシスの名前もその会話の中に出ている。JFK の暗殺は 1963年で、ジャッキーのオナシスとの再婚は 1968年。ヴェトナム戦争がどんどん泥沼に入って行き、ヒッピー文化が盛んになって行く時代。つまりここでは、世界の大きな潮流と個々人の生きざまが激しく交錯していたわけであり、もし何か個人に信念があるとすると、それを堅く信じて暮らすのでないと、どっちを向いて生きて行けばよいのかすら分からないような、不安の時代だったということではないか。現代の感覚では LGBT はもう少し裾野が広がっていると思うが、当時としては本当に、黒人や女性が社会的権利を求めて立ち上がったのと同じ感覚であったのだろう。当時の若者たちは本当に懸命に生きていたのだ。これは映画のシーンと実際の写真の比較。
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ローランド・エメリッヒという監督に対する私自身の多少屈折した思いは、昨年 8月 1日の「インデペンデンス・デイ リサージェンス」の記事に記したが、かつての悪い印象から最近では変わりつつある。それはまず一義的には「もうひとりのシェイクスピア」(2011年) という大変面白い映画を見ていたことによるのであるが、今回の作品 (実は「インデペンデンス・デイ リサージェンス」よりもこちらを先に制作している) も、この監督の内部に渦巻く創造性を実感させるもの。ストーリーもよく練られているし、また大変強い熱意を持った演出になっているのである。なので、これが実話に基づくストーリーであるか否かに関わらず、映画としての見ごたえはかなりのものであると言ってよいと思う。上に何の気なしに書いたことだが、ゲイとは人間だけに可能な進化した愛のかたち。多分この時代の若者たちは、人と人の間のつながりを求めて懸命に生きる中で、このような愛の形に目覚めて行ったということではないか。社会的なムーヴメントとしてのゲイ解放運動には様々な解釈が可能であろうが、恐らくひとつ確かなことは、個性に目覚めた自由人たちが社会に対してアピールしたということだ。そう考えると、翻って現代の我々は、さらに進んだ自由を追い求めているであろうか。どの国でも社会の閉塞感は否定しがたいものがあるように思うし、先が見えにくい時代であると思う。だからといって同性愛に走るべしと唱えるつもりはさらさらないが (笑)、このような過去の事実に目を向けることで、自由とは何かを改めて考えるきっかけにはなると思う。

そういえば、グリニッジ・ヴィレッジと言えば、「最後の一葉」で有名なオー・ヘンリーも暮らした街。もう 100年以上前から芸術家たちが集まる場所であったのだ。でも彼がゲイであったという話は聞いたことがない (やはり短編の名手で 8歳年下の英国の作家サキはそうであったらしいが)。そうすると文化の中のある部分は、常に流行りすたりがあるということだろう。あ、そういえばヴィレッジ・ピープルなどというグループがいましたね。昔は「村の人々」かと思っていたが (笑)、今になって分かることには、この場合の「ヴィレッジ」は、紛れもないグリニッジ・ヴィレッジのことだろう。調べてみると 1977年の結成。今年が実に結成 40周年ということだ。今でも公式サイトがあるので、未だ活動を継続しているようである。こういう息の長いバンド活動を見ると、米国の大衆文化の逞しさを思い知るのである。これも文化の諸相のひとつ (笑)。
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新政権下でも皆さん是非頑張って下さい!!

by yokohama7474 | 2017-01-09 00:35 | 映画 | Comments(0)

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私の手元には、かれこれ20年以上に亘り、1冊の大部な本がある。タイトルは、「ヒッチコック / トリュフォー 映画術」。タイトルの上にはデカデカと「定本」と書かれている。これは映画好きなら誰でも知っている本であるが、もし映画にあまり興味のない方でも、アルフレッド・ヒッチコックとフランソワ・トリュフォーという二人の映画監督の名前は知っているだろう。この「映画術」という書物は、そのトリュフォーがヒッチコックに対して行った長時間インタビューをまとめたもの。
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この本はハードカバーの大判、写真掲載も多いとはいえ、3段組で350ページを超える大部な書物であるので、実は私も冒頭の部分以外は網羅的に読んだわけではなく、ヒッチコックの作品を見たときに都度その作品に関係するページを開いて見て、そこで展開される詳細な技術論に、まぁ訊く方も訊く方だが、特定のシーンの細部に至るまで撮影方法を覚えている方も覚えている方だな、と感心する(笑)、そんな用途で付き合ってきた。面白いのは、英国人ヒッチコックはフランス語を解さず、フランス人トリュフォーは英語を解さないのに、これだけの量の会話が成立したということ。無類の映画好きのフランス育ちの米国人女性が通訳を務めたらしいが、インタビューする方もされる方も、ともに映画にかける人並はずれた情熱があったからこそ、このような書物が成立したのであろう。そしてここで私が記事を書こうとする映画は、この書物に採録されたインタビューの一部の音声と、関連するヒッチコック映画の数々のシーン、そして現在活躍中の映画監督 10人のヒッチコック映画に関する思いを語るインタビューからなるドキュメンタリー映画。監督・脚本は1960年生まれの米国人で、評論家、脚本家、そしておもにドキュメンタリーの監督でもある、ケント・ジョーンズ。これは、昨年の東京国際映画祭でこの作品が上映された際に舞台に登壇したそのジョーンズと、この作品の中で語る 10人の映画監督のひとり、黒沢清。
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この映画の見どころはなんと言っても、書物に採録されたトリュフォーとヒッチコックの生の会話を、残されたテープの再生によってそのまま聴けるということに尽きるだろう。本当にトリュフォーが喋るフランス語を、通訳が同時に英語に訳し、それにヒッチコックが英語で答えることで、ほとんど時間のロスなく会話が継続している様子がよく分かる。それから、ヒッチコックは明らかにここではゆっくりと言葉を喋っており、淀みがない。もちろん、使われているのが、日本語に比べて論理性の高い英語であることも関係はあると思うものの、この場合においては使用言語にかかわらず、発言すべきことが明確に頭の中で整理されている証拠であると思う。映画監督という、自らの趣味性を保ちつつ多くの人々を束ねる立場の職業の人はそうでなければならない。ただ、宗教に話題が及ぶとノーコメントの態度を取るところや、俳優について結構侮蔑的な表現を使うところ、また、品のない内容を説明するところなどには、人間ヒッチコックの赤裸々な姿が出ていて興味深い。現代の監督たちのインタビューを含め、この映画はすべてヒッチコック映画の何たるかを様々な角度から再認識する内容で、その意味では、ヒッチコックに興味のない人には無縁の映画であろうが、既にヒッチをよく知っている人、あるいはこれからヒッチの映画を見てみたいと思う人には、大変面白い内容に間違いない。映画史において並ぶ者のないサスペンスの巨匠が残した世界は、まさに汲めども尽きぬイメージの宝庫である。彼の映画の中では、人間の持つ根源的な恐怖、その裏にある人間の弱さ、あるいは運命のいたずらや、犯罪を犯す人間の心理、等々が渦巻くドラマ性を生み出しているわけで、ある意味で、それは過ぎ去ってしまった過去の時代の産物でありながらも、いつまでも色褪せない永遠の映画術(まさに!!)の成果であるとも言えるだろう。

ヒッチコックの残した映画作品 (テレビ用は除く) は56本。かつてトリュフォーがこのインタビューを行った1960年代 (書物では、1966年の「引き裂かれたカーテン」までが対象となっている) においては、見たい作品があっても、封切を逃せば二番館にかかるまでは見ることができない環境であり、いかにパリにはシネマテーク・フランセーズという専門施設があると言っても、そう簡単にヒッチコック作品の数々を頻繁に見ることはできなかったはず。それに比べれば現代はなんとも恵まれた時代で、例えば私の手元にある DVD は、サイレント映画を含めたヒッチの全 56作中、数えてみると実に 52作をカバーしているのである。ないのは、処女作の「快楽の園」(1925年)、2作目の「山鷲」(1926年)、11作目の「エルストリー・コーリング」(1930年)、17作目の「ウィーンからのワルツ」(1933年) の 4本のみ。だが調べてみるとこのうち「山鷲」は、数枚のスチール写真しか現存していないとのこと。そんなわけで、残りの 3作もいずれは手に入れたいが、問題 (?) は、後期の主要作品はほぼ見ているものの、それでも穴があり、前期のイギリス時代の作品に至っては、半分も見ていないということだ。人間、便利な環境に甘やかされるものである。このドキュメンタリー映画を見たことをきっかけに、改めてヒッチコック映画の豊穣な世界に浸りたい!! と切に感じている。しかも彼の誕生日はたまたま私と同じ、8月13日。ヒッチコック、あなたはサイコーだ。
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ついでにと言ってはなんだが、トリュフォーについても少し個人的な思いを述べておこう。私が封切で見ることのできた彼の映画は、遺作となった「日曜日が待ち遠しい!」(1983年) だけである (ファニー・アルダンのコツコツという靴音の鮮明だったこと!!)。実際のところ、私の文化面での趣味は幼時からもっぱら幻想性や怪奇性にあったので (笑)、そのような要素からほど遠いヌーヴェル・ヴァーグに興味を持ったのは大人になってからなのである。トリュフォーという人がいると初めて認識したのは、あの「未知との遭遇」(1977年) の学者役で、どうやら彼が有名な映画監督らしいと聞いてから。
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実際に私は、今に至るもそれほど熱心なトリュフォー・ファンとは言い難いが、唯一忘れられない思い出がある。それは、1984年のある日。当時19歳で浪人生であった私は、とある大学の講義に紛れ込んでいた。今となっては時効であろうから白状すると、それは当時映画評論で時代を席巻していた、フランス文学者で後の東京大学総長、蓮實重彦の映画論の講義であったのだ。入ってきた蓮實先生は、大柄な人であるが、実に悄然と教壇に立っていた。そして彼が学生たちに向かって最初に発した言葉は、「先刻連絡を受け取ったばかりですが、フランソワ・トリュフォーが亡くなりました」というものであった。聴講する学生たちの中から、「えっ」という絞り出すような声があちこちで響いたのをよく覚えている。今調べてみると彼の命日は10月21日。脳腫瘍であったらしい。蓮實重彦はこのトリュフォーやゴダールやエリック・ロメールら、「カイエ・デュ・シネマ」誌に集った映画人たちを称揚し、彼らを積極的に日本に紹介した最大の功労者。当時、自らも「リュミエール」という映画誌を創刊した頃であった。なので、トリュフォーの死を蓮實重彦の口から聞いたという事実は、今となっては歴史的なイヴェントである。そして、トリュフォーたちカイエ・デュ・シネマの論客が強い尊敬の念を表明した監督たちのひとりがヒッチコックであり、上で触れた大部な書物「ヒッチコック / トリュフォー 映画術」も、蓮實と、いわばその同志である山田宏一との手になる翻訳によって日本に紹介された。山田宏一に至っては、今回の映画の字幕まで担当しているという、今に続く深い関与ぶりである。それもそのはず、彼は1960年代にパリに在住し、カイエ・デュ・シネマの同人であったのである。
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蓮實は1936年生まれ、山田は1938年生まれであるが、ともに、ただ映画マニア、あるいは評論家という狭い範疇に留まる人たちではなく、紛れもない第一級の文化人である。1980年代に多感な時代を過ごした我々の世代は、その時代に満ちていた文化的刺激を広く深く享受したし、そのことを一生忘れることがないだろう。だが一方で、あの日あの教室でともにトリュフォーの死を知った人たちは、今どのくらいそのことを覚えているのか、ちょっと知りたくなるのである。日常生活にまみれて、文化にかける若き日の情熱を維持できないことがあっても非難はできないが、現在では気骨ある老人たち (笑) となったこのような文化人たちの背中を見て、少しでも文化的な刺激を思い出したいものだ。これは昨年、三島由紀夫賞の受賞記者会見で、マスコミを手玉に取った蓮實。いや実に見事な快刀乱麻ぶりでした(笑)。
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便利な時代であるからこそ、ヒッチコックの映画のような過去の素晴らしい文化遺産が衰えぬ生命力を保っていることと、それをフランスに日本に、また世界に紹介する情熱を持った先人たちに感謝し、我々の世代にも、文化体験の意義を後世に伝えて行く義務があるのだと、この映画を見て珍しく気分が高揚している私であった。

by yokohama7474 | 2017-01-07 00:41 | 映画 | Comments(0)

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ほかの人のことは分からないので私自身の話をするが、よく何かに襲撃される夢を見る。そのような夢においては大抵、目の前に迫る危機を知恵と勇気と運で切り抜けようと自分に言い聞かせて、要は逃げまどうのであるが(笑)、ジ・エンドとなる前に必ず目が覚めて、自分が安全な世界に戻ってくることができた幸運に酔いしれる。そう、夢というものは、最高にして絶対安全なエンターテインメントなのである。その一方で、映画を見ていると、迫る危機に立ち向かう主人公が、絶体絶命のピンチにおいてハッと目が覚め、おっとそれは夢でしたという安易な設定もままあるが、私はそれを支持しない。現実に見る夢であるからこそ目覚めたときの爽快感が素晴らしいのであって、そもそも作り事である映画の中でそれをしてしまうのは全くアンフェアではないか。真摯な映画の作り手なら、そのような禁じ手に頼ってはいけない。

なぜにそんな話でこの記事を始めるかというと、理由はふたつ。たまたま今年の初夢が、どこかの都市の地下鉄で私自身が銃撃戦に巻き込まれるというスリル溢れるものであったことがひとつ(もちろん、途中で目が覚めて、無事生還しましたよ 笑)。そしてもうひとつは、この映画、夢だのという安易な手を使わず、最初から最後まで恐怖体験を尋常ならぬ迫力で描き切った壮絶な作品であることだ。今年はまだ始まってから5日しか経っていないわけだが、なるほど、私は初夢で、既にこの映画との出会いを予知していたのかもしれない!!

予告編を見たのでストーリーは分かっていた。それは至って簡単で、若い三人組がある家に泥棒に入ったところ、その家の住人は盲人であり、盗みは楽勝かと思いきや、あにはからんや、盲人の逆襲に遭ってしまい、"Don't Breathe" つまり、盲人の攻撃を避けるためには息もしてはいけない、という絶体絶命の危機に陥ってしまうというお話。例えばこんな感じとか、
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あるいはこんな感じ。
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「い、息をするな!!」
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おー、こわ。と思うでしょう? でも、きっとこの映画を見ていない人は、この恐怖を本当に理解することはできず、過小評価するだろう。私もこの映画を見るまではそうだった。しかしこの映画、本当に本当に怖いのだ。嘘だと思う人は、是非劇場に足を運んで頂きたい。冒頭に掲げたポスターにも、「20年に一本の恐怖作品」とある。その表現が適正であるか否かは分からないが、これを見てつまらないと思う人がいるとは、私には思われない。

という感想を持つには明確な理由がある。演出が冴えているのだ。多分もう一度見てみれば、また怖い怖いと思いつつ、この作品に張り巡らされたきめ細かい恐怖の演出のあれこれに気づくだろう。ネタバレを避けてその点について語るのは難しいが、そう、例えば、盲人特有の用心深さが密室のリアリティを増していることは挙げられるだろう。ここで主人公たちはあの手この手で家から出ようとするのであるが、それができない理由がいちいちあって、言葉の説明がなくとも、画面だけでそれがストレートに伝わってくるのである。また、様々な危機を乗り越えてなんとか窮地から逃れようとする彼らに、幸運の女神が微笑みかけると思われる瞬間も何度もあるのだが、あぁなんたること。そうは問屋が卸さないのである。この絶望感は尋常ではない。なんと残酷なことに、映画の中で主人公たちが向かい合っているのは現実であって、夢ではない。暗闇でこんな風になってしまうのも、むべなるかな。
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それ以外にも様々な演出の妙が効いているのだが、この種の映画が成功するもうひとつの条件は、登場する俳優たちの顔があまり知られていないことだろう。例えば「13日の金曜日」とか、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」、あるいは「SAW」でもよい。恐怖のマックス値は、危機に遭ったり命を落とす人物たちが、我々の見慣れた役者でないことによるリアリティが作り出すのである。だが、後で調べて分かったことには、私はここで凄惨な恐怖に立ち向かう若い女性ロッキーを演じるジェイン・レヴィの出演作を、以前見たことがあるのだ。それは、サム・ライミのデビュー作「死霊のはらわた」(1981年) を2013年にリメイクした版 (原題 "Evil Dead") だ。
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この映画、正直なところちょっとやり過ぎで、怖いを通り越して笑ってしまうくらいのエグさであったのだが、これは文化ブログであるからして、この映画においてこの女優の顔がどんな風に変形したかをご紹介することは避けよう(笑)。ご興味おありの方はネットで画像検索されるとよい。ここではこの女優さんの素顔のみご紹介しておく。
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さあここからがこの作品の作り手の紹介である。本作の生みの親、監督・脚本・製作を手掛けたのは、1979年ウルグアイ生まれのフェデ・アルバレス。
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実はこれは彼の2本目の長編作品であって、そのデビュー作がほかならぬ上記の「死霊のはらわた」リメイク版なのだ。なるほどなるほど。そういうことだったか。そうすると、同じ女優を使って、1作目から2作目に大きな飛躍を成し遂げたと言ってもよいのではないだろうか。それから、もし私の見間違えでなければ、エンド・タイトルにおいて、弦楽四重奏のオリジナル音楽の演奏者の中で、ヴィオラ奏者がこの人の名前であった。もしそうなら大変興味深いことだ。隅から隅までこの映画は彼のものだということだ。彼の経歴を見てみると、2009年に彼が YouTube に投稿した 5分弱のロボットムーヴィー 「パニック・アタック」を評価した件のサム・ライミが、「死霊のはらわた」のリメイク版の監督に抜擢したというもの。この作品、私も見てみたが、確かによくできている。既にアクセスが766万回を上回っており、人気のほどが伺えるし、何よりもここで街がロボットの襲撃を受けるシーンは、まさに彼の原点であることが納得できて、大変面白い。まぁ、ピコ太郎にはアクセス回数は負けているが(笑)、しかしこんなところから映画作りの才能が発掘されるのだから、すごい時代になったものだ。
https://www.youtube.com/watch?v=-dadPWhEhVk

一応補足すると、ここで何度か名前の出ているサム・ライミとは、1981年に最初の「死霊のはらわた」で衝撃的デビュー、その後1985年の「XYZマーダーズ」(日本では「クリープショー」と二本立てで公開されたのを、当時私も見に行ったものだ)などでちょっとマニアックに知られたホラー監督であったが、その後2002年から2007年にかけてのスパイダーマンの3作を監督してメジャーな名前になった人。未だ57歳ということは、デビューの時は弱冠22歳だったことになる。この「ドント・ブリーズ」でも製作者に名を連ねているが、彼自身の監督作も今後楽しみなのである。
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尚、エンドタイトルには一見してハンガリー人と分かる名前が沢山並んでいたが、プログラムの情報によると、本作のセットはブダペストに作られたとのこと。なるほど、人件費も節約できるし、何やら国策として映画のロケを誘致しているらしい。そういえばハンガリーの映画監督にはイシュトヴァン・サボーという人もいたが、最近はどうしているのだろうか。いずれにせよ、このような映画がヒットすれば、今後もハンガリーでの映画制作が盛んになるかもしれない。

さてこのように、本年最初の大絶賛映画となっているのだが、ここで表現されているリアリティの源泉において、さらに2点追加で指摘しておこう。ひとつは、物語の舞台がデトロイトであること。言わずと知れた自動車産業の街デトロイトは、私は訪れたことはないが、現在ではかなり荒廃した地域もあるとのことで、その街を舞台として設定したことが、この物語において欠かせないリアリティをもたらしている。つまり、すさんだ街では若者が犯罪に走り、また、盗みに入った家で銃をぶっ放そうがドタドタ走ろうが、周囲に人が住んでいないので他人に聞こえることはないわけだ。もうひとつは、襲撃される盲人(演じるのは「アバター」にも出演していたスティーヴン・ラング)が、湾岸戦争の退役軍人であるということ。戦争における負傷で失明したという設定であるが、聴覚だけで侵入者をここまで追い詰められるのも、武器の扱いに慣れ、肉弾戦にも優れた元軍人ならではである。そして、その彼も決して善良な市民ではなく、後半にあっと驚く仕掛けがしてあって、もう本当によくできたキャラクター設定なのだ。あー、今思い出しても怖い(笑)。だがそのような設定が、ある意味では現在の米国のリアルな姿を示していると思うと、この映画があながち荒唐無稽なものとも思われず、本当に怖いのはその点ではないかと思われてくる。
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そのリアリティを実感したら、さぁ、気を取り直して、何の気兼ねもなく深呼吸できる幸せを、胸いっぱいに実感しようではないか。
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by yokohama7474 | 2017-01-06 01:04 | 映画 | Comments(2)

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この映画、しばらく前から劇場でかなりの頻度で予告編が流れていて、あのハリー・ポッターシリーズに続く新たな作品、しかも原作者のJ.K.ローリング自身が脚本を担当するということで、話題になっていたものである。ファンタジーものは私としても興味ある分野であり、ハリー・ポッター全8作もすべて劇場で見ているので、やはりこれは見ておこうと考えたもの。英国からニューヨークにやってきた若い魔法使いのカバンから魔法動物たちが逃げ出して街は大騒動、というストーリーは予告編からもはっきりしていて、イメージを持ちやすい。実際に見てみると、過度なひねりがあるわけでもなく、凝り過ぎた作りにもなっていない作品であり、事前のイメージ通りという印象。

何より、主人公ニュート・スキャマンダーを演じるエディ・レッドメインの好演が光る。このような少しとぼけた味わいと、魔法動物たちへの愛がよく表現されていると思う。
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彼のこれまでの主要主演作は、「博士と彼女のセオリー」と、「リリーのすべて」だが、私はどちらも見ていない。だが調べてみると、私の見た映画の中でも、「レ・ミゼラブル」に脇役で出ていたし、ウォシャウスキー兄弟の「ジュピター」では悪役を演じていたとのこと。なるほど、既に幅広い役柄を演じている役者なのである。英国人で、もうすぐ35歳。名門イートン校ではウィリアムズ王子と同級生。ケンブリッジの美術史学科卒業。さすが英国の役者らしい高学歴だ。でも、この「ジュピター」の悪役姿はどうだろう。2015年、あの最低の映画に贈られるゴールデン・ラズベリー賞の最低助演男優賞を獲得するという栄光に輝いた(笑)。
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ほかの役者で印象に残るのは、ニューヨークに本拠を置く架空の組織、アメリカ合衆国魔法議会(MACUSA)の長官を演じるコリン・ファレルだろうか。
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それ以外にも数名、男女それぞれに主要な役を演じる俳優が出ているが、知名度のあるのはジョン・ヴォイト(今更アンジェリーナ・ジョリーの父と紹介するのは失礼だろうか)くらいで、ほかはあまりなじみのない人たち。そして正直、私としてはそれほど印象に残る役者はいなかった。ただ、一人だけ例外がいる。これはハリウッド有数の大物俳優であり、その出演作なら本来大々的に名前が出るはずが、どういうわけかこの映画の宣伝にはカケラも名前が出てこないし、プログラムにも載っていない。そして、登場シーンでも、若干メイク過多だ(笑)。だがそうであっても、そこでいかにも楽しそうに演じているこの役者、誰もが一目見て彼だと分かるだろう。エンドタイトルでは、メインキャストにはやはり彼の名前がなかったが、出演順に出て来る全キャスト表の最後の方を目をを凝らして見ていると、しっかり彼の名前がクレジットされていた。こんな目をした人だ。すぐ分かりますよね。
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思うに、本作は上のポスターでも「新シリーズ」と銘打っていることから、今後シリーズ化されるのであろう。そう言えば、主役ニュートにも何やら明かされないつらい失恋経験があるような描き方になっていた。なので、そのあたりのネタを次回作以降に取ってあるのだろうし、この有名俳優も、次回作から堂々と登場してくるのではなかろうか。

とまぁ、そんな突っ込みどころもあり、数々の魔法動物もCGを駆使してそれぞれに愛嬌がある描き方にはなっていて、ハリー・ポッターシリーズのうち4作を監督したというデヴィッド・イェーツの演出も、いかにもファンタジー物のツボを心得ているように見受けられる。
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その意味で、本作は誰でも楽しめる映画ということはできるだろう。だが、この映画はただ明るいだけではなく、主人公たちの前に立ちはだかる魔術のDark Sideも描かれている。もし私にこの作品への不満があるとすると、そのDark Sideの描き方ということになるであろうか。これはハリー・ポッターシリーズも一貫してそうであったのだが、誰を敵としてどのような闘いが展開されているのか、切実さをもって実感することが難しい。そもそも魔法って何なのだろう。例えば、主人公たちがどこにでも瞬時に移動できる手段を持っているなら、街を歩いたり地下鉄を使う必要はないではないか(笑)。魔法の杖を持ってビビビと光線を出し合って闘うが、その物質は何であって、どのような破壊力を持つのであろうか。世の中にはエセ科学ムーヴィーも溢れていて、超常現象について荒唐無稽な説明がつく映画もある。なにもそれがよいと思うわけでも必ずしもないが、何か少しはもっともらしい説明がないと、鑑賞者が主人公にあまり感情移入できないという結果になってしまう。換言すれば、敵として闘っているDark Sideに、本当に恐ろしいものを感じないということになってしまうわけだ。それは映画の説得力に直結するのである。それとも、そういうことを考えること自体、私という人間が既に魔法の力を信じる純真な心を失ってしまったからなのでしょうか・・・(笑)。

ともあれ、新シリーズということなので、この作品の舞台である1926年のニューヨークから、今後はどこに話は進んで行くのであろうかが気になる。以前も何かの記事に書いたが、私にとって両大戦間の文化は強い関心の的。Roaling Twenties (狂乱の1920年代)に沸いた米国は、やがて1929年の株の大暴落に始まる大恐慌時代に沈んで行く。それは魔法の杖を振りかざしてビビビとやるだけではどうしようもない、厳しい現実であった。果たして原作者J.K. Roaring、じゃなかった、Rowlingは、どこかで現実と魔術をのっぴきならない方法で対峙させるのか、それとも、徹底的に架空の魔術をこれからも描き続けるのか。そして21世紀の観客は、彼女が示す世界観を、どこまで受け入れ、喝采するのであろうか。21世紀のTwenties(20年代)に向けて、これから注意して見て行きたいと思う。
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by yokohama7474 | 2017-01-04 23:37 | 映画 | Comments(0)