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ラ・ラ・ランド (デミアン・チャゼル監督 / 原題 : La La Land)

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私は元来、少々へそ曲がりなところがあって、映画はもちろん人並に好きなのであるが、米国のアカデミー賞なるものにはさほど興味がない。世の中の敏感に流行じゃないや流行に敏感な人たちは、毎年その時期 (そもそも、いつ頃アカデミー賞の発表があるかも知らないといういい加減さ) になると、今年はあの作品だあの俳優だとソワソワされているようだが、その点私は、泰然としたものだ (笑)。賞が発表されてから、ニュースで仔細ありげにリストを眺め、ふーんと他人事のように(まぁ、他人事ですな、実際)つぶやくことが多い。そして賞の発表後も、「アカデミー賞受賞作だから」という理由で映画を見に行くことは少なく、その映画が面白そうか否かだけが、私の判断基準なのである。

だがそんな私も、今年のアカデミー賞における異常事態には驚いた。もちろん、作品賞発表時の間違いである。「ムーンライト」に行くべき作品賞が、「ラ・ラ・ランド」と発表され、関係者のスピーチの途中で訂正されるという前代未聞の事態。
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そもそも、上記のポスターのように、この作品が今年の大本命と言われていることは知っていたが、史上最多タイの 14部門にノミネートされ、実に 6部門 (主演女優賞、監督賞、作曲賞、主題歌賞、撮影賞、美術賞) を受賞し、あまつさえ、作品賞までもう少しで受賞するところ (?) だったのであるから、この作品は大勝利を収めたと言ってよいわけである。もちろん、もしこの珍事がなくとも、私はこの作品に興味を持ったであろうと思う。それはなぜなら、監督がデミアン・チャゼルであるからだ。
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今回彼は、32歳で史上最年少のオスカー受賞監督となったわけだが、それも当然。なぜなら彼の前作「セッション」(原題 : Whiplash ・・・これは劇中で演奏される曲の題名) が、実に素晴らしい出来であったからだ。もし私が今、過去 5年間の間に見た映画の中でベスト 5 を挙げろと言われば、そのときの気分や記憶の状況、あるいはアルコール分の摂取量によって答えは異なるだろうが、この「セッション」はまず必ず入るだろうと思うのである。そして今回、この「ラ・ラ・ランド」を見て思うことは、この作品は単体で良し悪しを語るよりも、きっと後年、この監督の事績を振り返ったときに、その価値がよりよく分かるものではないだろうか。いやもちろん、この映画を見て感動した人も沢山おられるであろうから、私がここで言っていることが否定的に響くのを恐れるのであるが、換言するとこの監督、もっとすごい映画を将来撮る可能性もあるのではないか、と思うのである。

まず最初に確認しておきたいのは、これはミュージカル映画であるということ。昨今のミュージカル映画は、ディズニーのアニメ系を除くと、「オペラ座の怪人」「マンマ・ミーア」「レ・ミゼラブル」にせよ、これから公開される「美女と野獣」にせよ、舞台の映画化が主流であろうが、これはオリジナル。どのように構成されているのかと思いきや、歌と踊りのシーンはかなり限定的で、通常の演技のシーンが大半だ。だからこれは、フレッド・アステアやジンジャー・ロジャースの古きよきスタイルのミュージカルとは異なり、現代において説得力を持つべくして作られた、新たなスタイルのミュージカルなのである。
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ここで主演女優を務めているエマ・ストーンについて、私はこのブログで何度か言及しているが、「アメイジング・スパイダーマン」シリーズで出て来たときには、やたら目の大きい女の子という以上の印象はなかったが (ただ、その前のシリーズで同じ役を演じたキルスティン・ダンストが苦手であった私は、彼女に好感を持ったことは間違いない)、最近のウディ・アレン監督作品での彼女にはまさに脱帽。もちろん「バードマン」での演技もなかなかのもの。未だ 28歳にして、オスカー女優の仲間入りとは恐れ入る。
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ここで彼女が演じている、女優を目指してロサンゼルスで頑張っている女性、ミアの姿は、きっと 10年ほど前までの彼女自身の姿でもあるのではないか。その意味で、この映画を見る人たちがリアルに、夢を追うことの素晴らしさを実感できるような等身大の演技を、彼女は披露していると言えるように思う。だから、と言ってよいのか分からないが、予告編を見たときから彼女のダンスは、決して惚れ惚れするようなものではなかったし、本編を見てもその感想は変わらないのであるが (笑)、その点にこそ、この映画が人々の心に訴えかける力があるのかとも思う。金髪碧眼の美形のようでいて、額には皺は多いし、目以外の顔の要素が弱い (?) ようにすら思われることもある、一種不思議な女優さんである。このようなシーンにも、なぜかセクシーさは皆無 (笑)。
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一方のライアン・ゴズリングも、決してイケメンでダンディというわけではなく、古風で不器用な男を絶妙に演じている。なにせ彼が演じるセブは、クラシックでいかにも燃費の悪そうなアメ車でカセットを聴き、自宅ではアナログレコードを聴いていて、妄想シーンは懐かしの 8mmフィルムだ (笑)。古き良きジャズを信奉し、やはり夢を追う人という役柄だ。この役者さんは、過去にアカデミー賞やゴールデン・グローブ賞にノミネートの実績があるようだが、私が知っているのは、「マネー・ショート」だけである。このブログの記事でも採り上げたが、その作品では語りとともに、バリバリのウォール・ストリート野郎を演じていた。この「ラ・ラ・ランド」では、以前から習いたかったというピアノを 3ヶ月間特訓したとのことで、劇中の演奏シーンは、かなりサマになっている。
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だが私がこの映画で驚嘆したのは、何と言っても冒頭のシーンである。カリフォルニアでは鉄道網が発達していないため、人々は車で移動するしかないのであり、私自身もロス近辺を自分で運転して移動したことが何度かあるが、渋滞になると、それはそれはひどいのである (一度運転中に電話がかかってきて、込み入った話をしているうちに空港に向かう高速の出口を逃してしまい、次の出口から渋滞の中を戻るのに、大変な目にあった。あ、「込み入った話」と言っても男女の話ではなく、仕事です)。それを知っている人にとっては、この冒頭シーンは何とも胸のすくものである。実際にロス近郊の高速道路で撮影したものらしく、都会と砂漠の広大なミックスであるこの地域でしかありえないような、ユニークなシーンである。カメラは、渋滞の車から抜け出て踊り出す運転手たちの動きを克明に追って、縦横無尽に動き回る。その楽しさは、考え抜かれているに違いないのにスムーズなこのワンシーンワンショット (途中でシーンをつないでいる箇所は、きっとあるのだろうが) によって、いきなりマックスに達するのである。オーソン・ウェルズの「黒い罠」の冒頭シーンと比較するのはちょっと突飛であろうし、実際、画質も映画の性質も全く異なるが、その衝撃度においては遜色ないと言ってもよいだろう。あ、あと、映画の冒頭に流れる車の BGM は、チャイコフスキーの序曲「1812年」です。
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さてこの映画、夢を追う男女の切ない恋の物語なのであるが、簡単にまとめてしまうと、同じ夢を追う人たちであっても、男はロマンティスト、女はより現実的で逞しく、順応力が高いという、そんな描き方になっている。まさに込み入った話が描かれているわけだが (笑)、万人受けするように、細心の注意が払われていると思う。例えば車だが、セブの乗っているクラシック・カーに引き換え、ミアの車は、トヨタ・プリウスだ。しかもこの車種は米国でも人気であることを示すシーンもある。まさにトランプ政権下の日本の自動車メーカーの今後の課題が、ここに表れている。・・・というのはもちろん冗談で、ミアが経済性に優れたコンパクトな日本車を選ぶ点に、この男女の指向の違いが表れているのである。それから、何度も出て来る、二人が議論するシーンは、いかにも米国人同士の会話であり、ある意味大人、ある意味自己正当化のロジックに長けたもの。ここでも等身大カップルの姿がヴィヴィッドに描かれている。
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大詰めでは、まるでパラレル・ワールドのような描き方がされて、人によってはそこで涙腺が刺激されることであろうが、私は結構冷静に見ていて、やはりこの監督の創造の原点にある音楽的なものへの指向が、ここで具体的なストーリーの形を取っているのだなと理解した。その意味で、前作「セッション」から本作へは、ある種の継続性も確保されており、そして、また次へ向かって飛翔する音楽的感性が、充分に感じられるのだ。上述の通り、それゆえに、この作品を将来また振り返ったときに、デミアン・チャゼル監督の表現したかったことや、その表現方法について、きっと納得するものがあると思う。

ところでチャゼルの過去の経歴を見てみると、なんと、私が昨年 7月 2日の記事で採り上げた、「10 クローバーフィールド・レーン」の脚本を書いているのだ!! な、なんだよ、せっかく音楽つながりという整理をしたのに、全く違う持ち味のエイリアン映画が、ここで紛れ込んでしまった (笑)。これぞまさに、この監督の懐の深さを示す例であると牽強付会して、この記事を〆ることとしよう。さすがアカデミー賞 6部門受賞、見る価値ありです。もちろん使用されている音楽も、リズミカルな部分から抒情的な部分まで、一度聴いたら忘れられませんよ!! ご夫婦でカップルで、こんな感じでどうぞ。等身大で。
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by yokohama7474 | 2017-04-05 01:23 | 映画 | Comments(2)

パッセンジャー (モルテン・ティルドゥム監督 / 原題 : Passengers)

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この広大な宇宙の中に、たった一人。あるいは二人。果たしてそんな事態に、人間は耐えられるだろうか。最近では、「ゼロ・グラビティ」や「オデッセイ」という映画でそのようなテーマが扱われていた。そしてここにもう一本、なかなかよくできた映画が加わった。題名は「パッセンジャー」で、上記のポスターの題名の英語表記にも "Passenger" とあるが、実際の原題は "Passengers"、つまり単数形ではなく複数形である。冒頭の問いの中で、「たった一人。あるいは二人」と書いたが、実際のところ、一人と二人では大変な違いである。いやそれはもう、決定的な違いなのである (笑)。会話する相手がいるか否か。協力する相手がいるか否か。それによって、生きようとする意志も全く変わってくるだろう。

この映画の予告編は何度も見たが、要するに地球の人口増加や環境破壊によって、別の星に移住する手段を考えた人類が、巨大な宇宙船でその星に向かうのだが、カプセルの中で冬眠していた主人公たちが、どういうわけか予定よりも早く目覚めてしまう、というストーリーだ。目的地到着まで 90年。ということは、ここで危機に見舞われる男女二人は、何もしなければ船内でそのまま死を迎えることになる。この設定は実に残酷で逃げ場のないものであるが、その設定自体はそれほど奇抜ではなく、映画にする場合には、どのように決着をつけるかという点こそが見もの、ということになるだろう。脚本はオリジナル。ハリウッドでは、未制作の優秀脚本のリストを「ブラック・リスト」と呼んでいるらしいが、この作品はそこに載っていたものらしい。脚本を手掛けたジョン・スペイツは、ほかには「プロメテウス」や、「ドクター・ストレンジ」も手掛けているとのこと。なるほど、この作品に出てくる医療用のポッドは「プロメテウス」と共通するし、宇宙的なスケールは「ドクター・ストレンジ」と共通するが、後者については、私はこのブログで散々厳しいことを書いてしまった手前、この「パッセンジャー」での脚本の出来には、ちょっと慎重に接する必要ができてしまうのである (笑)。加えて、実は「プロメテウス」もそれほどよい出来の映画とは思っていないゆえに、なおさらだ。さて、この二人の運命やいかに。
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さて、これが件の宇宙船、アヴァロン号。自身が回転しながら、障害物に対するバリアを作ったり、あるいは光線でそれを壊したりする機能を備え、目的地まで 120年の道のりを進んで行く。なかなかに奇抜なデザインだ。
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私はこの宇宙船の設定のあれこれを、大変に気に入った。もちろん船内では重力が作り出されていて、人が自由に歩けるのみならず、豪華客船さながら、大広間や落ち着いたバーやプールや、各種エンターテインメント設備も備わっている。もちろん CG は駆使されているであろうが、プログラムによると、グランド・コンコースと呼ばれる、人々が集うためにある場所は、巨大なセットが作られたという。
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先端的なデザインに見える一方、床が緩やかな円弧を描く船内の通路の様子などは、「2001年宇宙の旅」を思わせるような、いわば古典的な様相もあって、映画史的な記憶を呼び覚ます。
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このようなアールデコ調の装飾を持つバーにいるバーテンダーは、この程度はネタバレにならないと思うので言ってしまうと、アーサーという名前のアンドロイドなのである。演じるのは英国の名優、マイケン・シーン。宇宙船で過ごす人間に対して、非常に洒落たセンスで反応するようにプログラミングされているようだが、その気の利いたところが裏目に出ることになってしまう。ところで、後で気付いたのだが、この宇宙船の名前、アヴァロンとは、伝説のアーサー王の墓がある場所。そのことと、このアンドロイド、アーサーの名前とは関係があるのだろうか。
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この映画の出演者は、このアーサー役を除くと、船内で目覚める主人公の男女と、それからもう一人の、計 3名のみだ。その意味では、これは巨大な規模の室内劇である。最初に目覚めるジムは技術者、次に目覚めるオーロラ (もちろん、「眠りの森の美女」の主人公から来ているのだろう) は、ニューヨークの著名な作家の娘で、自分も作家・ジャーナリスト。従ってこの 2人は、いわば違う階級に住む人たち。それゆえこの映画を、「宇宙版『タイタニック』」と呼ぶ声もあるようだ。うーん、私は「タイタニック」は、もちろん嫌いという気はないが、歴史的な悲劇を個人の観点で描いたという点に、美点も欠点もある映画だと思っている。その点この映画は、飽くまでフィクションゆえ、個人間の関係に立脚することに焦点が合ってもよいと思う。設定は壮大ではあるが。

ジムを演じるクリス・プラットはなかなかよい。最初に一人で悪戦苦闘する場面で、T-シャツは汚れ、髭は伸び放題、体もだらしなく膨張するところをリアルに演じている。実在感のある演技のできる俳優であろう。彼は「ジュラシック・ワールド」で主役を務めたほか、近く続編が公開される「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」でも主役、「マグニフィセント・セブン」にも出ていた。
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一方のオーロラを演じるジェニファー・ローレンスは、なんといっても「ハンガー・ゲーム」シリーズのヒロイン役で知られ、また、「X-メン」シリーズにも (青塗りで分かりにくいが 笑) 出演している。そして、私にとってはレーダー外の映画だが、2012年の「世界にひとつのプレイブック」で、弱冠 22歳でアカデミー主演女優賞を獲得している。正直、それほど美形にも見えないこともあるが、なんとも表情豊かな女優である。この映画では、宇宙船の中という極限的に限られた世界の中で、実に多彩な衣装で演じるという逆説的方法により、人間はどんな環境でも、生きて呼吸して生活して、感情もあるのだということを強く表現している。
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このように見てくると、主役の 2人はこの映画の設定にピッタリの役者さんたちではないだろうか。そして第 3の男、ガスを演じるのは、ローレンス・フィッシュバーン。なんと言っても「マトリックス」シリーズで知られているであろうが、私にとっては、未だ若い頃の「地獄の黙示録」での狂気の演技が忘れがたい。ハリウッドにとって、なくてはならない名バイプレーヤーだと思う。
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さて、この映画にはほかにも地球で撮られた映像などが登場するが、本当に上記以外に人間が出てくるシーンはほとんどない。ところが、エンドタイトルを注意深く見ていると、上記 4名以外にもう一人、名前の出てくる俳優がいる。それはこの人。
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あのアンディ・ガルシアだ。ここではあえて若い頃の写真を掲載したが、「ゴッドファーザー パート III」の頃の勢いに比べて、残念ながら最近は少し影が薄いような気もするし、リメイク版の「ゴーストバスターズ」でのニューヨーク市長役も、こう言ってはなんだが、大したことのない役だった。そしてこの映画では、本当に一瞬だけしか出ていないので、人によっては見逃す可能性大である。彼の出演シーンを見たときに私は、この人と混同してしまった。そう、スペインの偉大なるヴィオラ・ダ・ガンバ奏者、ジョルディ・サヴァールである。ここで笑ってもらえる人が何人いるか分からないが・・・。
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監督のモルテン・ティルドゥムは、1967年ノルウェー生まれ。長編監督デビューは 2003年であるが、それ以降自国内での映画制作を行ってきて、初の英語作品は、2014年の「イミテーション・ゲーム / エニグマと天才科学者の秘密」である。なるほど、あのベネディクト・カンバーバッチ主演のあの映画か。飛行機で見たため、このブログで記事として採り上げてはいないが、なかなか面白かった。このような才能をしっかり見出すのが、ハリウッドの懐の深さであると実感する。
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さあ、この映画の結末をどのように評価しようか。なるほどそう来たかという感じはあって、好感を持つことはできる。人間の、またそれ以外の生物の命の尊さについて、何か感動的なものを感じることもできる。その一方で、設定の壮大さに比して、ちょっと控えめなようにも感じる。上述の通り、歴史的にも日常的にもリアリティのない設定における話の展開なので、個人の物語の結末をそこに見るべきであろうが、ブラックさがない分、ゾッとする切実さもない点が、評価の分かれ目になるだろう。とはいえ、いろんなシーンを思い出すと、様々に想像が膨らむ映画であり、その点ゆえに、私はこれを、なかなかよくできた映画であると評価したい。

by yokohama7474 | 2017-04-01 23:17 | 映画 | Comments(0)

牯嶺街 (クーリンチェ) 少年殺人事件 (エドワード・ヤン監督 / 英題 : A Brighter Summer Day)

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3月20日 (月・祝) に記事を書いて以来、中 4日に亘ってブログを更新しなかった。出張に出たわけでもないのに、また、プロ野球のローテーション・ピッチャーではあるまいし、こんなに間を空けてしまって、いつも読んで頂いている方々には誠に申し訳ない。書くネタがなかったわけではない。それどころか、貯まってしまっている。それにもかかわらず更新を怠ってしまったのは、いずれも人事異動に関することが理由である。ひとつは人事異動のシーズンで壮行会が結構あり、ベロベロに酔っぱらう日があったこと (まぁそれは普段からという説もあるが)。もうひとつは、身近で起こった人事異動に納得できず、各種調整を行っていたこと。私は思うのであるが、いかなる組織も人間の集合体。文化に自らの居所を見出した私は、いついかなる場面でも、他人の痛みが分かる人間でいたい、そして、それを堂々と人に語れる人間でありたいと切に願うのである。

まぁともあれ、この映画である。もちろん映画好きなら誰もが知っている台湾映画。だが私にとっては、長らく「名のみ高い映画」であったのだ。1991年に制作され、日本でも公開されたが、私はその頃評判を耳にしながら (もう一本の台湾映画、「悲情城市」と並んで) 見逃してしまい、そしてそれ以来 DVD 化されることもなく (どうやらレーザーディスクは出たようだが)、見る機会がなかった映画なのである。この度、マーティン・スコセッシが設立したフィルム・ファウンデーションのワールド・シネマ・プロジェクトと米クライテリオン社との共同で、オリジナル・ネガからデジタル・リマスター版が制作されたものである。上映時間は実に 3時間56分で、これがオリジナル。最初の日本公開時には 3時間 8分であったが、今回初めて、監督の意向通りの上映が叶うことになったわけだ。この映画の監督は、そう、エドワード・ヤン (楊德昌) だ。台湾では英語教育が進んでいて、皆欧米風のファーストネームを持っている。私も仕事上、かなりの数の台湾の人たちと関わったが、おしなべて親日であり、だが歴史的に屈折を余儀なくされてきた人たちの、毅然とした生きる姿勢に感銘を受けたものである。これが監督のエドワード・ヤン。
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ほぅ、今どんな映画を撮っているの、と思う人もいるだろう。だが残念なことに、彼は 2007年、59歳の若さで、癌で亡くなっている。2000年に「ヤンヤン 夏の思い出」でカンヌの監督賞も受賞しているが、その頃には既に癌に犯されていたらしい。従ってこの「牯嶺街少年殺人事件」は、彼が映画史に残した貴重な作品なのである。今年は彼の生誕 70年であり、没後 10年なのである。私はつい昨日これを見ることができたのであるが、その日は自宅の近くのシネコンでの上映終了日。この長い上演時間であるから、1日に 1回のみの上映で、文字通り最後の回の上映をなんとか見ることができたもの。上映劇場自体はそれほど広くはなかったものの、ほぼ全席売り切れ。しかも、この長丁場なら、昔はインターミッションと称するトイレタイムがあったものだが、この作品にはそれがなく、鑑賞者たちの膀胱はかなり限界に挑戦する状態であったに違いないのに、誰一人として上映途中で抜ける人はいなかったのである。このような場に立ち会うと、あぁ、面白くないことはいろいろあれど、日本は未だ捨てたものではない、と思えるのである。

さて、ここに面白い言葉がある。ヤヌス・フィルムズという会社によるこの映画の評価。「『ゴッドファーザー』と小津安二郎の間に位置する、家族についての完璧な映画」・・・なるほど、見終った今、これは言い得て妙だと思う。因みにこのヤヌス・フィルムズのウェブはこちら。これまた、映画ファンなら狂喜するような内容である。ちなみにこのヤヌスとは、もちろんあの「ヤヌスの鏡」のヤヌスであろう。あ、いや、昔のテレビドラマではありませんよ (笑)。
http://www.janusfilms.com/

この映画を見てすぐに分かる特色は、音楽が全くないこと。いやもちろん、劇中で音楽が演奏される場面では音楽が流れるものの、いわゆる BGM のようなものはなく、ひたすら人々の立てる物音だけがスピーカーを通ってくる。いや、だがしかし、私が覚えている限りにおいて、この長い映画の中でただ一ヶ所だけ、BGM が流れる。それは映画のほぼ終わりに近い箇所で、プレスリーのカバー演奏 (英題になっている "A Brighter Summer Day" はその歌詞の一部) を録音したオープンリール・テープが預けられる場面。きっとそこでは、人の思いが現実を超えて、音楽として空気の中に流れ出たということを表現したかったのではないか。それにしても、音楽のないこの映画、画面もまた暗いシーンが多い。1960年前後の台湾を舞台にしているのであるが、頻繁に停電が起こる様子が描かれている。主人公、小四 (シャオスー) は多くの場面で長い銀色の懐中電灯を手にしており、そこに彼は人生の指針を見出しているように見えるが、彼がその懐中電灯を手放したとき、取返しのつかない悲劇が起こるのだ。そして、冒頭に掲げたポスターにある「この世界は僕が照らしてみせる」というコピーは、まさにそのことを示しているのである。これがそのシャオスーと、恋人の小明 (シャオミン)。そして、懐中電灯を手にした小四。
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この映画の不思議なところのひとつは、出てくる若い女性のほとんどが、申し訳ないが全く魅力的には見えないということだ。一方、男の子たちはなかなかに美形もいるのであり、もしかしてこれは監督の指向のなせるわざかとも思いたくなるが、まあそれはどうでもよい。音楽のないシーンの連続で成り立っているこの映画、もちろん主人公たちが断腸の思いをあらわにする瞬間もあれこれあるのだが、思い返す映画全体の印象は、極めて平板。この静けさ、どこかで覚えがある。そう、小津安二郎の一連の映画群である。あの、家族の姿を描きながらもどこか別の世界の人たちのような登場人物たちと、この映画の登場人物たちの印象はかなりダブるのである。また、主人公の家 (かなり日本風であるので、きっと戦前の日本人の家に、戦後台湾人が住み着いている設定なのであろうと解釈した) のある狭い部屋のシーンが何度か出て来て、そこに何本も空き瓶が並んでいるのが小津的であるし、シーンによってその瓶の並び方が違う点にも、監督のこだわりが見える。そしてこの映画の平板さは、不良グループたちの描き方にもはっきり出ている。要するに、出てくる不良たちの誰もが全然怖くないのである (笑)。極め付けは、「台北中が恐れた男」として、途中でフラッと帰ってくるハニーという男。このように、海兵隊の恰好をして、コートには袖を通していない。
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彼は敵対する不良グループに喧嘩を売るのであるが、「おぅ、やるか」と言って繰り出すパンチの、見るからに弱っちいこと (笑)。そうだなぁ、「あしたのジョー」の中で、パンチドランカーになってしまったカルロス・リベラが「ミーのパンチ、強いネ」と言って繰り出すヨレヨレのパンチにそっくりとでも言おうか。そうしてこのハニーさん、その後あっという間に退場になるのだが、本当に台北中が恐れた男なら、簡単にそんな風にはならんでしょう。そのあたりのクサさになんとも言えない味があるのである。それ以外にも、まさに「ゴッドファーザー」ばりの大量虐殺のシーンがあるが、その前後の成り行きがよく分からないシュールさがある。そうそう、シュールと言えば、この映画には何度か、集団が思い思いのポーズで静止しているシーンが出てくる。そのあたりの静けさは、一度見たら忘れられないものであり、それから、殺戮シーンで出てくる蝋燭の光が、まるでジョルジュ・ラ・トゥールの絵画のような美しさである。その画家の名前を知らない人でも、この作品は見たことがあるだろう。
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それ以外にも、1960年頃の台湾の情勢を思わせる、ケネディ、プレスリー、ジョン・ウェインへの憧れを示すシーンもあり、戦後に本土から台湾に移住してきた主人公一家 (実は監督のエドワード・ヤンも上海から移住した、いわゆる外省人であるらしい) の苦難も描かれている。そのようにごった煮感満載の 4時間、膀胱の膨張に耐えて見るだけの価値はあるものであり、まさに小津映画と「ゴッドファーザー」の両方に思い入れのあるような映画好きなら、見逃してはならないものだと思う。但し、もう一回見ろと言われたら、ちょっと躊躇するかもなぁ・・・

by yokohama7474 | 2017-03-25 23:32 | 映画 | Comments(0)

アサシン クリード (ジャスティン・カーゼル監督 / 原題 : Assassin's Creed)

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今回の記事は短くなりそうだ。理由のひとつは、明朝は早く起きる必要あること。もうひとつの理由は、残念ながら私はこの映画を面白いとは思わなかったことだ。だがまぁ、どのような映画であったのか、記録のために書いておこう。まず題名だが、「アサシン」とは暗殺者のこと。「クリード」は宗教上の信条のことで、クラシック音楽を聴く人なら、ラテン語のミサ曲に「クレド」(Credo) という曲が必ずあって、よく「信仰告白」などと訳されているのをご存じだろうが、きっとその言葉が Creed の語源だろう。15世紀スペインの暗殺者の子孫が、先祖の記憶を辿る特殊な装置によって時間を遡ることを強制される物語であることは予告編で明らかだが、見てみるとこれは、アサシン教団 (これは実在した集団のようだ) と、陰謀論ではおなじみのテンプル騎士団の確執を描いたもの・・・のようだが、正直なんだかよく分からない (笑)。身も蓋もない言い方をすると、このストーリーはあまり私の人生に関係ないという思いが、映画の最初から最後までついて回り、時にウトウトと夢の世界に落ちて行くことになってしまったのだ。だが、何を隠そう、私は陰謀論は大好きで、テンプル騎士団についての本は真面目なものから与太話本まで何冊も読んでいるし、ロンドンのテンプル教会も大好きなのである。その私が感情移入できないのだから、やはり内容に問題があるのではないだろうか。アサシン教団の戦士たちは、あたかもこのワシのように空からダイブするのだが・・・。
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実はこの映画、ゲームに基づく作品らしい。私はゲームをしない人間なので全く知識がないのだが、ゲームの主人公にもともとイメージのある人なら、この映画に対して、また違った見方ができるのであろうか。
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映画には様々な設定があるが、どこまで行っても所詮は虚構の世界。最近はリアルなドキュメンタリータッチの秀作も数々あれど、それらとても、あるいはさらに言えば、ドキュメンタリー映画ですら、映画である以上、そこには虚構の要素が色濃く存在しているものというのが私の考えだ。だから、見る者がその嘘に浸っていられるか否かという点が、良い映画と悪い映画を区別する分かれ道であると思う。その点、この映画のそこここに、嘘が嘘として放り出されているのを私は感じる。例えば、主人公を祖先の世界に戻すというアニムスなる巨大な機械が主人公をガッチリと抱えることになるのだが、過去の世界で主人公の祖先が敵と戦う動きを、そのまま現実世界でアニムスにつかまれた主人公が再現することになる。ここで現代の主人公の戦う姿を映す理由は何であろうか。正直ちょっと煩わしいし、また、俊敏に動く主人公の祖先は、当然ながらでんぐり返りなどもするのであるが、おいおい、背中にはアニムスを背負いながら、どうやってそれを現実世界で再現するのか!! (笑) なにせこんな感じなんだから。
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このような嘘が気になる映画は、残念ながら私は評価できないのである。ストーリーもさしてひねりはなく、敵味方が奪い合う対象物も、一体なぜそんなに価値があるのか、その説得力に乏しい。それから、アサシン教団、テンプル騎士団双方の仲間うちの結束や人間同士の感情、歴史的使命等についての説明が少なすぎる。戦闘シーンは玉石混淆という感じで、カッコよく敵をなぎ倒すシーンもあるが、あまりカッコよいと思えない殺陣もある。主役のマイケル・ファスベンダーは、ドイツ人とアイルランド人の間に生まれた人らしく、私は過去にもいくつか彼の出演作を見ているはずだが、正直あまり印象にない。ここでも、惚れ惚れする快演か否かは、意見の分かれるところではないか。
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ただ、ほかの役者陣はなかなかに豪華である。まず、先に見た「マリアンヌ」の演技も記憶に新しい、マリオン・コティヤール。ここでは全く違った顔を見せる。そして、さすがに年老いたと思うが、あのジェレミー・アイアンズがその父親役を演じている。
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そして、おぉこれはなんと久しぶり、テンプル騎士団の幹部を演じているのは、あのシャーロット・ランプリングではないか!! 既に 70を超えているが、ご健在で何より。ただこの映画での彼女の役柄には、それほど印象的なシーンはない。
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それから、ロケ地で 2ヶ所、私の好きな場所が出てきたので簡単にご紹介。ひとつはセヴィリアの大聖堂。これは非常に規模の大きい建物で、「後世の人たちが、アイツらは気でも狂ったのかと思うくらいデカい聖堂を建てよう」という意図で作られたという。だが、広い場所に面していないので、現地を訪れてもなかなか雄大な姿の全容を見ることができない。ただ、中には有名な場所がある。そう、コロンブスの墓所である。4人の王の彫刻が棺を担いでいる。またその横には、巨大な聖クリストバル (もちろん、コロンブスのファーストネーム、クリストファーと同じ名前) の壁画があって、これも忘れがたい。私がこの地を訪れて既に 20年が経つが、その感動は忘れがたい。
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もうひとつは、ロンドンにあるフリーメーソンのグランド・ロッジ。映画の中ではテンプル騎士団の集会場という設定になっているが、イメージ的にはぴったりだ。私はこの建物の前を何十回も通ったことがあって、それは、ホルボーン界隈からコヴェントガーデンのロイヤル・オペラに向かう途中にあるからだ。内部の見学もできるようだが、そう言えば中に入ったことはないなぁ。もしかすると、この映画でのテンプル騎士団の集会のシーンも、ここで撮影しているのだろうか。それとも、さすがにあんなに広いホールはないのかな。今度ロンドンに行く機会があれば覗いてみたいものである。
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さてこの映画、終わり方はいかにも次回に続くといった風情である。もし次があるなら、映画単体として楽しめるクオリティで作って欲しいと、心から願うのであります。...結局あまり短い記事にはならなかったなぁ(笑)。

by yokohama7474 | 2017-03-17 01:26 | 映画 | Comments(0)

お嬢さん (パク・チャヌク監督 / 英題 : The Handmaiden)

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このブログで採り上げるのは初めてになると思うが、私は韓国映画が大好きである。と言っても、いわゆる韓流ドラマや K-Pop というものには一切知識・関心がなく、ただ「JSA」「シュリ」で日本の観客にも驚愕を持って迎えられたドラマティックな韓国映画の流れにガツンと脳天をやられたということなのである。私の場合、恋愛映画は好奇心のレーダーには入って来ないので、スリラー、サスペンス、ホラー系が中心ということになるが、忘れられない韓国映画がいくつもある。その中で、もちろん「ブラザーフッド」も異常なくらい素晴らしい出来であると思うが、なんと言ってもカンヌでグランプリを獲得した「オールドボーイ」に全身総毛立った観客のひとりである。その作品の監督は、パク・チャヌク。既に上に名前の出た映画では「JSA」の監督でもある。その後、「親切なクムジャさん」は DVD で見て、それはもう、のたうち回って悶絶するくらい痺れたのであるが (笑)、その次に見た彼の作品は、ハリウッドに進出してニコール・キッドマンとミア・ワシコウスカを起用した「イノセント・ガーデン」。その作品は、だが、残念ながら彼にしては若干大人しいかな、という印象であった。そこに 3年ぶりの新作登場である。しかもこの映画、上にある通り、「成人指定で全世界、異例の大ヒット」なのだそうだ。確かに日本でも R18+ という指定になっている。ええっ、そうなんだ。私は劇場で、「18歳以上ですか?」とは訊かれなかったけどなぁ (笑)。これが監督のパク・チャヌク。松尾貴史ではありません。
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実際に内容を見てみると、なるほど R18+ 指定はやむないだろう。だがそれは、別に性的な意味でアダルトということだけでなく、この映画の面白みを本当に楽しむことができるのは、よほどの早熟な天才でない限り、18歳以上の人たちだけだと言ってもよいと思うからなのである。舞台は 1939年、日本統治下の韓国。ある日本人の富豪のところにお手伝いでやってくる若い韓国人女性が、彼女が仕えるお嬢さんと、お嬢さんに言い寄る男性との間で陰謀に巻き込み、巻き込まれるという話。145分の大作で、全体は 3部からなるが、それぞれの部分で違った角度から経緯が描かれ、観客の感情移入を手玉に取るような狡猾な作り。見ていて飽きるということは全くなく、ストーリーを追うだけで充分面白い映画である。ここで主役のスッキ = 日本名珠子を演じるのは、1990年生まれのキム・テリ。この作品のためのオーディションで 1500人から選ばれたとのことで、これまで演技経験はほとんどないらしい。劇中では非常に素朴に見える役柄を演じているが、そこは女優。きれいにメイクすると、それはそれはきれいなのである。
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一方のお嬢さん役を演じるのは、キム・ミニ。1982年生まれで、高校時代から活躍している韓国のスターであるらしい。彼女がこの映画の中で見せる表情は実に多彩。おー、女は怖いのぅ (笑)。この感想はまさに、この映画の感想自体でもあるのだが。
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この映画の成功は、ひとえにこの二人の凄まじい女優魂に負っているものと思う。よく日本では女優がエロティックな場面を演じることを、体当たりの演技などというが、なんのなんの、本物の女優たるもの、体当たりは当たり前なのではないか。あるいは、女優がヌードになるに際し、「必然性があれば」などと言うこともあるが、なぜにそんな言い訳が必要であるのか。この映画を見ていると、女優たちの渾身の演技に圧倒され、我が国と彼の国の芸能界の成熟度の違いに思いを致すのである。劇中とオフステージでの二人。まるで姉妹のようではないか。
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ストーリーの面白さは上述の通りだが、この映画には美術を含めた細部の演出に監督の才能が光っている。現実にはあり得ないような、大広間の畳を部分的に上げるとそこに水がたたえられていて、巨大な盆栽や、ミニチュアの枯山水の庭を置くことができる構造も、映画ならではの虚構空間としてよくできているし、あるいは、二人の女優がそれぞれに大きな荷物を持って、屋敷の中の障子を順々に開けて行くシーンのリズム感なども、まさに映画的としか言いようがない。そしてつまるところ、この映画のストーリーにおけるミスダイレクション自体にはそれほど驚かないが、細部に宿る貪欲な制作意欲が、二人の女優を最高に輝かせていることに気づく。それから何と言っても、「オールドボーイ」の目をそむけたくなるような残虐シーンに常にユーモア精神が表れていたように、この映画におけるエロティックなシーンにも、必ずユーモアがある点にも注目しよう。これらすべて、パク・チャヌクの非凡な手腕であると思う。

ユニークなことに、この映画における使用言語は、設定上やむを得ない面もあるのだが、かなりの部分が日本語なのである。なにせキム・ミニは突然東北弁を喋ったりするのである!! 主要な役柄の人たちには日本人はいないので、正直、我々日本人から見ると言葉の点ではちょっと無理があると感じざるを得ないのだが、それはこの映画の持つ価値においては些細なこと。また、日本語の使用にもうひとつの意味があるとすると、主人公が朗読をする場面で、日本の放送禁止用語が沢山出て来ることであろう。これ、日本の映画では絶対できません (笑)。そのような言葉と、後半頻繁に出て来る日本製の春画の映像は、根がうぶな私 (?) にとっては、若干苦痛であったことは正直に告白しよう。だが、繰り返しになるが、そのような面を笑いに絡めている点こそ、この映画がポルノとは一線を画している明確な理由なのである。だからこの映画をご覧になる方は、エロティックなシーンで大いに笑って頂きたい。それが大人の視点でこの映画を楽しんでいる証拠になると思うし、人間の生き様の尊さと馬鹿馬鹿しさを同時に感じる瞬間になると思いますよ。

実はこの映画、原作は英国のサラ・ウォーターズの「荊の城」という小説である。日本で「このミステリーがすごい!」で 1位になったらしい。私がこれまでに読んだ彼女の小説は「半身」という作品だけで、詳細は覚えていないが、かなり面白かったと記憶する。なぜ私がその本を読んだかというと、その表紙に、私が溺愛するイタリア・ルネサンスの画家、カルロ・クリヴェッリの作品を使用していたからだ (そのことは、昨年 11月 3日付の、「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」展に関する記事においても触れた)。この「荊の城」も翻訳が日本で出ていて、上下二巻のうち上巻は、このような表紙である。これは誰の作品だろうか。さすがに手だけでは分からないが、スペインかイタリアの肖像画であろう。
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私としては、久しぶりに見た韓国映画の素晴らしさに大満足。今後公開が予定されている面白そうな韓国映画がいくつかあるので、また時間を見つけて見に行ってみたいと思っている。

by yokohama7474 | 2017-03-16 01:00 | 映画 | Comments(0)

ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち (ティム・バートン監督 / 原題 : Miss Peregrine's Home for Peculiar Children)

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今日のハリウッドでは CG を総動員したり大規模なセットが作られたり、世界各地でのロケがあったりと、巨額の資金を投入して複雑に映画が作られるのが通例になっており、加えてもともと各自の責任分野を明確にするのが米国式であるので、一本の映画を制作するにあたっても、全体の責任者としての監督の意向が、果たしてどの程度作品に明確に反映されることになるのか分からない。そんな中、明確な監督の個性を刻印した作品群を送り出し続けて成功しているのがティム・バートンである。もともと、自分はどうやらほかの人たちとは違うらしいという内向的な思いを創作の原点としている人であるから、華やかなハリウッドの世界で生きて行くこと自体にもいろいろ苦労もあるであろうに (よって、居住地はロンドンらしい)、2 - 3年に一本のペースでコンスタントに監督作品を世に問うていること自体が驚異的である。
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その一貫したユニークな趣味性のみならず、やはりストーリーテリングの手腕が優れていることが彼の成功の第一の理由であろう。それは、彼の旧作の続編であり、一見するといかにもティム・バートン風であったが別人が監督した「アリス・イン・ワンダーランド / 時間の旅」の出来の悪さを見てもよく分かる (昨年 7月30日の記事ご参照)。今回のこの作品は、監督作としては「ビッグ・アイズ」以来。冒頭に掲げたポスターにある通り、「ティム・バートン史上、最も奇妙」とあって、期待が募る。

予告編でもストーリーの流れはよく分かったが、これは少年が人里離れた屋敷に住むミス・ペレグリンという女性のもとに集う奇妙なこどもたちと触れ合う物語である。だが、そこで伏せられていたのは、ただ触れ合うだけなのか、それとも恋に落ちたり何かと戦ったりするのかということで、答えは両方ともイエス。正直なところ、ティム・バートン好みの「人と違う」こどもたちを使って彼が本当にやりたいことをここで出来たのか否か判然としないところはあり、若干、最近はやりの魔術性とか時間をコントロールする能力とかいう点を取り入れて、大衆性を狙っているのかとも思いたくなるのであるが、それでもほかの映画に時に感じる苛立ちをこの映画に覚えないのは、やはり監督の手腕か、それとも贔屓の引き倒しという奴だろうか。最高の出来で誰にでもお薦めしたいとは言わないが、罪のない映画として、ファンタジー好きなら見て損はないと思う。これがミス・ペレグリンのところに集った奇妙な (Peculiar) 能力を持つ子供たち。
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この中には、のべつまくなしにその能力を見せている人もいれば、最後の最後まで何の能力を持っているのか分からない人たち (おっとこれだけでネタバレに近い。失礼) もいて、それぞれの役柄はよく考えられている。そして、特殊能力発揮の場面は、昨今ありがちな超リアルな特殊映像というよりも、何か昔ながらの手作り感があって、それがこの映画を見て安心していられる理由なのかもしれない。例えば透明人間の活躍など、いかにも「透明人間がやっています」というぎこちなさをわざと出しているように見える。また、クライマックスで骸骨たちが戦うシーンは、もちろんレイ・ハリーハウゼンのクレイメーションによる「アルゴ探検隊の大冒険」へのオマージュであろう。これがその映画のシーン。いいですねぇ、骸骨軍団。
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それから、主人公は祖父の殺害をきっかけにタイムスリップして 1943年のこの屋敷に入って行くのであるが、その彼がなぜこのような特殊能力者たちの仲間になれるのかという点も徐々に明らかにされ、なるほどそれは大した能力ではないようで、実は大変重要な能力なのだと理解することになる。ほら、よくいるではないですか。集団の中で何の役にも立っていないように見える人が、実は集団にとって死活的に重要な存在だということが (笑)。そのような子供たちを演じるのはもちろん若い俳優たちだが、興味深く見たのは、蜂を体内に飼っている少年ヒューを演じるマイロ・パーカー。私は昨年 3月31日の「Mr. ホームズ 名探偵最後の事件」の記事でその名演技を絶賛して、その際に「次回作はなんとティム・バートンの新作であるそうな」と書いたが、それがこの映画である。ただ、これは偶然なのかどうなのか、前作でも彼は養蜂家の息子を演じていた。ハチと何か縁があるのだろうか (笑)。
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このような特殊能力の持ち主の集合は、よくある設定で、「ファンタスティック・フォー」とか「X-Men」もそうだし、日本でも昔の「サイボーグ 009」という例がある。つまりそのような能力を持つ人たちは、敵と戦う場合にその能力を最もよく発揮できるわけで、ここでも手ごわい敵が現れる。予告編には出てこなかったが、海外版のポスターにはちゃんと姿が出ている。
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そう、サミュエル・L・ジャクソンだ。このような怪役を演じさせたら、右に出る者がない (笑)。今回も本当に楽しそうに演じている。それから、主役のエヴァ・グリーン、祖父役のテレンス・スタンプ (1965年の伝説の映画「コレクター」の主役として未だに知られる) など、充実したキャストである。あ、そうそう、充実したキャストと言えば、これはびっくりの英国の大女優ジュディ・デンチが出演している。オープニングタイトルで彼女の名を見て、いつ出てくるのかと楽しみにしていると、後半に確かに出て来る。だが、出て来てすぐに、なんともあっけなくいなくなってしまう (笑)。このあたりのもったいない役者の使い方も、ティム・バートン一流のシニカルな面なのであろう。

それにしても、魔術とタイムスリップ (ここではループと言って、ある特定の一日が繰り返される設定) は、最近の映画には多い。その一方、リアリティ溢れる現代の戦争もののドキュメンタリー風の映画もあって、両極端を構成している。ファンタジーの世界に遊ぶことは平和である証拠だから、前者にはそれなりの意義はあり、その一方で、現実から目を背けないためにも、後者も必要だ。いずれにせよ、あまりに絵空事やあまりに深刻なことは人々の共感を得られないであろうから、現実とファンタジーを結びつける感性が必要であろうと思います。ティム・バートンは意外にしたたかで、そのあたりの現実性も持ち合わせた人なのだろうと思う。これからも期待しております。

尚、私はまた今日から出張に出てしまうので、一週間ほどブログの更新はお休みします。

by yokohama7474 | 2017-03-05 11:39 | 映画 | Comments(0)

グリーンルーム (ジェレミー・ソルニエ監督 / 原題 : Green Room)

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これは低予算の、いわゆるインディーズ系の映画であるが、上のようなポスターを目にした瞬間、これは見る価値ありと判断した。このイラストの乾いた感覚はどうだろう。最近ご無沙汰だが、まるで大友克洋の作品の一場面のようではないか。この映画のチラシを見てみると、このようなコピーが。「理不尽に囚われた楽屋 (グリーンルーム) からの決死の脱出劇 --- 内臓で感じろ! 新世代の傑作アクション・スリラー」・・・なるほど面白そうではないか。また、「全米初登場第 1位」とある。これはますます期待が高まる。

さらに、このようなインディーズ系の映画であるにもかかわらず、ハリウッドのメジャーなシリーズ物に出ている俳優が 2人、ここには出演している。まず一人は、この映画の主演俳優、アントン・イェルチン。
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彼が出ている (いや、残念ながら「出ていた」と過去形にする必要があるのであるが) ハリウッド映画は「スター・トレック」シリーズで、そこで彼はパヴェル・チェコフというロシア系乗組員を演じていた。この役者自身、もともとロシア出身であるらしい。
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なぜに「出ていた」と過去形にする必要があるかというと、彼は既にこの世の人ではないからだ。昨年 6月、自宅で車と門の間に挟まれて死亡しているのが発見された。享年 27歳。この「グリーンルーム」の撮影は 2015年で、日本では先に公開された「スター・トレック BEYOND」の方が後で撮影されている。そしてその「スター・トレック BEYOND」が彼の遺作となってしまった。正直なところ、「スター・トレック」シリーズでは脇役であるが、この「グリーンルーム」では堂々の主役。私はここでの彼の演技は素晴らしいと思う。これから大ブレイクかというときに逝ってしまったことは、残念でならない。

そしてもうひとり、メジャー映画に出ているのは、パトリック・スチュワート。ここでは悪の親玉を演じている。
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この顔はおなじみ。言わずと知れた「X-Men」シリーズのプロフェッサー X 役である。一度見たら忘れまい。
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そのような俳優たちを擁したこのインディーズ映画、ストーリー自体は至って単純で、売れないパンクロックグループがドサ回りをしていて出演することになったライブハウスが、実はネオナチの巣窟で、メンバーたちはそこから脱出すべく努力するが、敵に阻まれるというもの。因みに題名の「グリーンルーム」とは、楽屋と舞台の間にある出演者たちの控えのスペースのことを指すらしいが、上のポスターでも明らかな通り、文字通りグリーン系の色彩が、室内外を問わずあらゆるところに出て来て、見る者を不安にさせるのである。設定はなかなかうまくできている。
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この映画のひとつの特徴は、かなりエグい殺戮シーンが頻繁に出て来ることであり、その手の映画が苦手な人は見ない方がよいだろう。脚本・監督を担当したのはジェレミー・ソルニエという 1976年生まれの新鋭で、これが長編 3作目。どこかで「現代のサム・ペキンパー」という表現を目にしたことがある。うーん、だが私の見るところ、かのヴァイオレンスの巨匠とは未だ格段の差があると言わざるを得ない。むしろこの映画を比較するなら、最近日本でも公開された「ドント・ブリーズ」(フェデ・アルバレス監督) がよいだろう。今年の 1月 6日付の記事で私が絶賛した映画である。この 2つの映画には設定に共通点があり、それは、ある場所に閉じ込められた若者たちがそこから脱出するために命を賭けるという点。最後の方で犬を使っている点も似ている。だが、明らかにこの「グリーンルーム」の完成度は「ドント・ブリーズ」に遥か及ばない。それにはいくつかの理由があるが、例えば、登場人物が多いがその個性が充分に描かれていないばかりか、敵・味方ともに、人の区別すらつきにくい点があること。また、若者たちが敵に立ち向かうための方策に、なるほどっと唸るような工夫がないこと。それから、ネオナチとされている敵の集団が取る行動の理由が説明されず、見ているうちに不気味さを感じなくなること。そして何より、ラストの決着のつけ方。納得がいかないばかりか、多分に拍子抜けである。「ドント・ブリーズ」の息をもつかせぬ展開と、最後の最後まで安心して見ていられないサスペンスは、この映画にはないと言わざるを得ない。時に感覚の冴えを覚えさせるシーンがあるだけに、全体の仕上がりがこの程度であることは、大変に残念である。

ここで再度ペキンパーの名前を出さずとも、映画には鮮血の美学というものがあり、いわゆるスプラッター映画にも (私の感覚では) 美しい作品は数多くある。この作品はそのような美学を目指していることは分かるし、評価できる面もある。また、アントン・イェルチンの鬼気迫る演技が、かなり全体の出来を引き上げているとは思う。だが、残念ながら全体を貫く美学というものまでは感じられなかった。やはり夭逝したヒース・レジャーが、「ダークナイト」での凄まじい演技によって、死後、アカデミー助演男優賞に輝いたようなことがここで起こらなかったことは全く残念だが、致し方ない。

ともあれ、もし自分がどこかに閉じ込められ、決死の脱出を図るときに、一体いかなる心構えで臨めばよいのかについては、なにがしかのヒントが得られたものと思う。・・・そんな目に遭わないことを心から願っておりますが (笑)、いざというときはこんな感じで敵に立ち向かおう。
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by yokohama7474 | 2017-03-02 00:29 | 映画 | Comments(0)

マリアンヌ (ロバート・ゼメキス監督 / 原題 : Allied)

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この映画の題名は、主人公である夫婦のうち、妻の方のファーストネームである。ところが原題はそれとは似ても似つかぬ、"Allied" という言葉。うーん。これはどう見ても人の名前ではないし、そもそも「マリアンヌ」と「アライド」は、響きが違いすぎるではないか!! それもそのはず、"Allied" とは、「同盟を組んだ」という意味の形容詞であって、人の名前ではありません (笑)。つまりは、ここで登場する男女が志をともにし、ともに闘う関係であるか否かを問う題名ということであろうか。もちろん、第二次世界大戦でナチス・ドイツと闘ったのは連合国、つまり Allies であった。映画の内容に鑑みると、二人とも連合国側の人間であったのか否かという点を題名で問うているのかもしれない。これはなかなかに凝った題名であり、まさか邦題を「同盟」とするわけにもいかないし、「絆」などと訳してみても、やはり違う。実に日本の配給会社泣かせの題名であり、そうすると「マリアンヌ」というフランス女性の名前を題名にする案には、一理あるかと思います (笑)。

予告編によると、愛する妻がスパイであるとの情報を受けた夫が疑心暗鬼にとらわれるという内容であると理解されるが、だが観客は、冒頭から間もない場面でこの女性が、そのようなイメージにふさわしい一般のかよわい人ではないことをすぐに知ることになる。そして訪れるこのシーン、この程度はネタバレではないと勝手に自分に言い聞かせるが (笑)、なかなかカッコよかったですよ。
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ブラッド・ピットとマリオン・コティヤールというビッグな組み合わせを主役に据えた映画であるし、監督が名匠ロバート・ゼメキスであるから、まず大きく期待を外れることはないだろうと思って見たのだが、見終わったあとの感想は若干複雑だ。あまりストーリーをひねりすぎない点には好感が持てるが、その一方で、戦争という特殊な状況におけるスパイ活動という設定において、個人が持つ感情に、どこまで思い入れをすべきであるのかよく分からないきらいがある。つまり、現実の世界ではこれに近い話はもしかすると実際にあったかもしれないし、それはそれは切ない物語なのではあるが、数知れない命が犠牲になった痛ましい大戦争の中で、愛という個人の感情が人間の行動を支配するファクターになりえたか否か、ということである。多くの場合、現実はもっともっと悲惨であったのではないか。すなわち、自分たちの敵と判断すると容赦なく相手の命を奪うその同じ人間が、自らの愛する家族の命については、絶対に奪われてはならないかけがえのないものと実感するということは当然あったろうが、21世紀の我々がそれを見て、主人公たちが絶対的に正しいと言えるのかどうかと、私は考え込んでしまったのであった。もちろんそのような違和感さえ拭ってしまえば、感動的な映画であることは間違いない。冒頭のモロッコの砂漠にブラピが落下傘で降り立つシーンのテンポ感と高低差の表現は素晴らしかったし、砂漠の車の中のラブシーンでは、現実を超えて砂嵐が命を燃え立たせるという描き方になっていて、映画的感興があった。慌ただしいネットも携帯電話もない戦時中、迫りくる危機に全身でぶつかっていく主人公たちの姿には、余計なものがなく、好感が持てる。つかの間のパーティのシーンでは、奇しくも昨年公開された「マダム・フローレンス! 夢見るふたり」のシーンと同じく、ベニー・グッドマンの「シング・シング・シング」が高らかに流れる。だが違いは、かの映画でこの音楽に乗って踊るのは夫ひとりであったが、ここでは夫婦揃ってのダンスになる点である。
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魔法も使えず超人的な力もない個人としては、歴史の大きな歯車に逆らって個人的な思いで国に楯突くことは、極めて難しい。だからこそ、そのような主題が映画になりうるとは言えるだろう。勇気ある行動は、たとえそれが最終的に悲劇に終わっても、人の心を動かすものである。その一方で、では個人的な正義感さえあれば、同じ人間である敵の命を情け容赦なく奪うことは果たして許されるのか? これは重い問いである。私の見るところ、この映画では、夫はそのような非情さを持ち合わせていて、目的のためには手段を選ばないが、妻の方はそうではなく、敵に対するなんらかの哀れみの情を持ち、自己犠牲をも辞さない潔さがある。さて、人間としてどちらが正しいと言えるのだろう。そして、果たしてふたりの間には同盟は成立しているのだろうか。
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この二人の俳優、どちらも私はファンなのである。ブラピは私生活のトラブル (?) とは関係なく、一貫して問題作に出ているし、一方のマリオン・コティヤールは、フランス人にしては異例なくらい英語がうまい人であり、それゆえに多くの映画で活躍している。実際今も、この映画以外に「たかが世界の終わり」(これはフランス映画であり、彼女は珍しく (?) フランス語を喋っている) が公開中だし、もうすぐ公開される「アサシンクリード」にも出演している。昔の女優のような気品があり、芯のある女性を演じられる得難い女優であると思う。

監督のロバート・ゼメキスについては触れるまでもないと思うが、1952年生まれの 64歳。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズで名を上げ、「フォレスト・ガンプ / 一期一会」でアカデミー賞を受賞。現代ハリウッドを代表する監督であり、前作の「ザ・ウォーク」はこのブログでも絶賛したし、その前の「フライト」も素晴らしかった。ただ、彼の作品には本当の意味でのドク、じゃないや毒はなく、その作風には過激さは皆無であるが、その真摯な制作態度には好感が持てる。彼のフィルモグラフィを見ていて気付いたのだが、この作品は彼としては恐らく初めての歴史ドラマ。手堅い手腕を発揮していると思う。
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平和な時代に暮らしている我々、いや正確には現代でも戦乱はあちこちで起こっているので、平和な地域に暮らしている我々というべきか、その我々がつい忘れがちな、平和を獲得し守るための代償。そんなことに思いを致すことになる映画である。上に書いたような疑問を疑問のままにしておける日常生活に、我々は深く感謝しなければならない。それゆえの複雑な感想である。

by yokohama7474 | 2017-02-28 23:04 | 映画 | Comments(0)

エゴン・シーレ 死と乙女 (ディーター・ベルナー監督 / 原題 : Egon Schiele - Tod und Mädchen)

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このブログで何度か言及してきた通り、19世紀末ウィーンの文化はなにか私の根源的なものに触れてくる異様な力があって、私は心の底からその文化に惚れ込んでいるのである。もちろん音楽ファンにとっては、まさにウィーン世紀末を代表するグスタフ・マーラーが、音楽史上におけるかけがえのない偶像というケースも多いだろう。一方美術の面では、多彩な才能がひしめく中で、グスタフ・クリムトとエゴン・シーレの名前こそが、一段高く燦然と輝く歴史的なものとなっていることは疑いない。この映画は、そのような世紀末ウィーンの頽廃文化を代表する天才画家エゴン・シーレの生きざま、いや、死にざまを描いている。オーストリアとルクセンブルクの資本による映画で、あえて原題をドイツ語で記した通り (上のポスターではその英訳が見える)、ドイツ語による映画なのである。もちろん、全国のシネコンで大々的に公開中というわけではないが、このような映画を見ることができる日本は、文化的にかなり高度な環境であるとは言ってよいと思う。これがシーレの肖像写真。
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私が画家エゴン・シーレ (1890 - 1918) の名前を知ったのは恐らく、高校生のとき (調べてみるとそれは 1983年) に封切られた映画、「エゴン・シーレ 愛と陶酔の日々」によってであったと思う。私はその作品を劇場に見に行く勇気がなかったのであるが、それは、何やら怪しいエロスを放つエゴン・シーレなる画家に、近寄りがたいものを感じたせいであったろうと思う。実はあとから知ったことには、新宿歌舞伎町にあったアート系映画を上映する映画館、シネマスクエアとうきゅうが 1981年にこけら落としとして上映した、ニコラス・ローグ監督、アート・ガーファンクル主演の映画「ジェラシー」も、世紀末ウィーンを題材にしていたのである。その映画は当時どこかの劇場で予告編を見た記憶はあるものの、やはり本編は見ていない。そして私の場合はその後すぐ、マーラーに熱狂してからウィーン世紀末に深入りした高校生時代、興味は容易にクリムトにまではたどり着いたが、そこからシーレまでは未だ遠かった。そして、今書庫を調べて手元に引っ張り出してきた本は、1986年 3月号の「美術手帖 特集シーレとウィーン」である。
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私はこの雑誌を、大学時代に東京から実家のある大阪まで帰省するため、学生の特権で東海道線の夜行の各駅停車、大垣行に乗り、その車中で夢中になって読んだことを昨日のことのように覚えている。多少大げさに言えば、これは私の文化面での指向を決定的にした雑誌である。今めくってみても、飯田善國、瀧本誠、千足伸行らの碩学が刺激的な文章を寄せているし、シーレだけでなく、世紀末ウィーンについての網羅的な情報が記載されている。そしてこの特集、当時新宿に存在した伊勢丹美術館での「エゴン・シーレとウィーン世紀末展」に関連した特集であったのである。従って私がシーレの本物に初めて接したのは、この1986年の展覧会ということになる。伊勢丹美術館はその後も類似の展覧会を何度も開き、私はそれらに必ず足を運んだし、その後起こったウィーン世紀末ブームの中で、主要な展覧会には恐らく全部足を運んだと思う。映画への言及に入る前に長々と書いているが (笑)、これが私のシーレに対する強い思い入れの源泉なのである。

さてここで、そのように世紀末ウィーンに対する思い入れを持つ私の、勝手な持論を披露しよう。この説は、これまでに読んだいかなる美術書歴史書の類にも載っていない。だが私が過去 30年間に亘って信じているのは、世紀末ウィーン文化を体現した人々のうち主要な人物は、誰一人として第一次世界大戦を生き延びることができなかったということだ。もちろん例外はあるだろう。だが、奇しくもクリムトとその弟子であるシーレが、ともに 1918年に他界していることは象徴的だ。西欧先進諸国がナショナリズムと帝国主義に導かれた挙句、ついに人類初の世界大戦に突入したという激動の歴史の中、芸術家たちはその命を削って創作活動に勤しんだ。そのギリギリと軋む命の音が、永遠の表現力をたたえているのであるが、彼らの体は束の間の平和の到来まで持たなかった。これは 1912年にシーレが描いた自分とクリムトの肖像 (「隠者たち」)。
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この映画は、シーレが 28歳の若さでスペイン風邪で亡くなる (身重の妻が旅立った数日後に) 直前の情景を追いながら、そこに過去の様々な回想が積み重なるという構造になっている。一言で片づけてしまえば、大変僭越ながら、独立した映画としてはそれほど発見に満ちた作品とは思われない。例えば、劇中やたらと鏡が多いことに気付くが、それは例えば、先般このブログで採り上げた怪作「ネオン・デーモン」(ちなみにこの映画の余韻が、日が経つほどに大きくなってくるのはどういうわけか???) における鏡の多用とは全く異なり、人の心の裏側を覗き込むような怪しい雰囲気の醸成にまでは至っていない。際立った映画的瞬間は、残念ながらそれほど多くは訪れないのである。ただ、ウィーンにあって演劇 (もちろんその周辺芸術分野である音楽) のファンにはなじみある名前、マックス・ラインハルトの名を冠したゼミナールで演技の修練を積んだ役者が多く出ていて、彼らの演技自体には見るべきところもあり、何よりシーレの人生を忠実に辿ることで、その孤高の魂のありかを考えさせるような出来にはなっていると思う。題名の「死と乙女」(1915年) は、このようなシーレの代表作のひとつ。
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この作品を描くシーンが映画に登場する。やがて遥かアフリカの地で死を迎えるモデルであり愛人であったヴァリを抱きしめるシーレ自身が、死神なのであったのか。
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ところでその愛人ヴァリの肖像はこちら。なるほど、今回の女優さんには共通した雰囲気がありますな。
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題名になっている「死と乙女」とは、これは常識に属することであろうが、シューベルトの歌曲の題名であり、死の床に臥す乙女と死神との対話が題材になっている。シューベルトはこの歌曲の主題を弦楽四重奏曲にも転用していて、その曲も「死と乙女」と呼ばれる。それを弦楽オーケストラ版に編曲したのは、ほかならぬグスタフ・マーラーだ。つまりこの「死と乙女」というテーマは、世紀末ウィーンのひとつのキーワードなのである。
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そんなわけで、結局ほとんど映画については語っていないことに気付いたが (笑)、この映画は、シーレに興味のある人 (よく知らないが知ってみたいと思う人を含む) にとっては興味深いものであることは請け合いだ。だがその次は是非ウィーンに飛んで、ベルヴェデーレ宮殿に展示されているシーレやクリムトの実物を見、そして、かつて伊勢丹美術館等に何度もやってきたシーレ作品の一大コレクションを展示するレオポルト美術館に足を運ぶことを心からお薦めする。もしかすると、それによって人生が変わる人もいるかもしれないが、その責任は取りかねるので何卒ご容赦を。
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by yokohama7474 | 2017-02-17 23:48 | 映画 | Comments(0)

本能寺ホテル (鈴木雅之監督)

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織田信長が明智光秀によって討たれた本能寺の変は、日本史上屈指の大事件であることは論を俟たないが、上のポスターにある通り、日本史上最大の謎と言っても過言ではない。このブログでも、光秀の子孫だという明智憲三郎著の「本能寺の変 431年目の真実」という大変面白い本をご紹介した (因みにその私の記事は、大変驚いたことに、著者明智憲三郎さんの公式ブログでも言及されました)。この映画は、その本能寺の変を目撃する現代女性を描いたもの。綾瀬はるか主演ということで、すぐに思い出す類似の映画は、「プリンセス・トヨトミ」であるが、あちらが小説の映画化であるのに対してこちらはオリジナル脚本。また設定は随分違っていて、こちらは現代と過去がはっきり断絶しているところ、ひょんなことからその二つの時間帯を往復することになる女性主人公を描いている。実はこの映画の監督は、「プリンセス・トヨトミ」と同じ鈴木雅之。シャネルズ = ラッツ & スターの歌手とは同姓同名で、全くの別人だ (笑)。もともとはテレビの演出家らしい。
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物語は、綾瀬はるか演じる結婚を控えた女性が、婚約者の親に会いに彼の実家のある京都に泊まるが、予定していたホテルには手違いで入れない。途方に暮れているときに目に入った古風な「本能寺ホテル」というホテルに転がり込むことになるが、そのホテルのエレベーターは、ある条件が整うと、1582年 6月 1日、つまりは大事件発生の 1日前の本能寺にタイムスリップする。そのことを知った女性は、なんとか信長に危機を伝えようとするというストーリー。
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信長には堤真一、森蘭丸には濱田岳が扮していて、主演の綾瀬はるかともども、最初から彼らが演じることを想定しての、いわゆる「あて書き」である由。その他、婚約者の父親が近藤正臣、ホテルの支配人は風間杜夫と、それぞれの個性に合った役は、なかなか気が利いている。
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だがやはりこの映画で最も存在感を発揮しているのは、綾瀬はるかであることは間違いないだろう。もちろん、大河ドラマの主役をはじめ、シリアスな役柄も演じているとはいえ、その天然ぶりには他の追随を許さない (?) ものがあり、ここではさすがにあて書きだけあって、とてもよい味を出している。作品そのものは、ひとりの女性が当たり前の日常にわずかな疑問を持ち、タイムスリップを経験する中で、信長からの刺激を受け、新たな人生観を得て成長するという流れがあって、それほど易しい役ではないと思う。こんな感じで戦国時代にも平気で入って行ける肝っ玉のある役柄でもある。
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そして演出も、かなり細かい部分の呼吸に気配りがなされていて、あれこれの工夫が面白い。例えば、主人公が最初のホテルに入れないことが判明する場面のとぼけぶり、金平糖をかじるときのカリッという食感など、印象的である。それから、美術も結構手が込んだ作りで、スタッフの苦労がしのばれる。ただその一方で、この映画のメッセージが何か現代人の感性と鋭く切り結ぶかと言えば、残念ながらそこまでの成果は出ていないように思う。例えば冒頭に引用されているビルマルクの言葉「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」は、作品の基調トーンとしてどこまで活きているであろうか。タイムスリップとは、まさに経験ではないか。この映画の中で経験から学ぶ主人公は、では愚者ということになるのかな。そのあたりの中途半端感が大変残念である。

ところで、本能寺の変が起こったのは、言うまでもなく本能寺という寺院なのであるが、信長が討たれたときになぜここに滞在していたかというと、この寺院を宿泊所としていたからだ。その意味では、まさに信長の宿泊場所が「本能寺ホテル」であったわけだ。調べてみるとこの本能寺は、法華宗、つまりは日蓮宗の寺院で、信長はこの宗派に帰依していたこともあって、上洛時にはこの寺を定宿としていたようだ。周知の通り信長は一向宗 (この時代は浄土真宗ではなく浄土宗を指したらしい) とは血みどろの対決をしているし、天台宗の総本山、比叡山を焼き討ちしているわけであるが、既存の仏教のすべてを否定したわけではなかったのである。ただ、ただである。この映画の中に、まさに歴史を大事に思う人には我慢できないシーンがある。それは、本能寺という設定の寺院の建物に、デカデカと「方丈」という額がかかっているのだ (ロケ地は南禅寺だろうか)。私の理解では、これは禅寺特有の住職の居室の呼び名であり、明らかに法華宗の寺院たる本能寺の景色ではない。どうでもよいことという見方もあると思うが、歴史に学ぶ賢者であれば、もうひと工夫欲しかったところ。こんな感じの建物。
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それから、明らかなロケ地がひとつあって、それは兵庫県の書写山円教寺だ。
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この場所で信長と家臣が球技をして遊ぶのであるが、ここは寺院にしては珍しく、建物によって囲まれた土地で、球技用のコートのような閉鎖空間になっているので、その着想は理解できる。ただ、シーンの流れとしては、閉塞感があってあまりよくないと思う。もっと広々した河原でのロケの方がよくはなかっただろうか。映画の印象は、個々のシーンの積み重ねによって決まる。細部においては、上に書いたような気の利いたシーンもある一方で、この種の時代物に欠かせないロケ地の組み合わせについては、ちょっと課題があるようにも思うが、いかがなものか。

そういえば、この映画は日本史上最大の謎である本能寺の変に迫るとの触れ込みであったが、信長の最期について、何か目から鱗の大発見が描かれていただろうか。ネタバレは避けるが、なんだろう、例の「人生五十年」という幸若舞を舞うシーンはなく、その点が新味と評価すべきだろうか。つまり、信長の生は 50年どころか、遥かな時を超えて、今に至る 400年以上も続いているということか。うーむ、まさかヴァンパイアものではあるまいな・・・。いやいや、そんな心配はないので (笑)、まだご覧でない方は、私のように重箱の隅をつっつくことなく、ごく自然に楽しんでもらえる映画だと思って見に行かれればよいものと思う。でも、本当に信長の最期ってどんな感じだったのであろうか。永遠に真相が分からない歴史のロマンである。
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by yokohama7474 | 2017-02-16 23:02 | 映画 | Comments(0)