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この映画の評判を耳にしたのはごく最近のこと。初期のデヴィッド・リンチを思い出させる作風と聞いて興味を持った。予告編も見ることができたが、なるほど怪しい雰囲気だ。なんでも、女性と子供しか暮らしていない島で起こる神秘的な出来事を描いているとのこと。調べてみると、渋谷のアップリンクという芸術系ミニシアターで既に1ヶ月以上上映している。危ない危ない。こういう映画を見落としては文化ブロガーの名がすたる。そう思って実際に足を運んでみると、年の暮れも近いというのに、60名ほど収容の劇場が満員の盛況だ。皆さん年末の大掃除もしないで、こんな妙な映画を見ていてもよいのでしょうか。あ、もちろん自分のことは棚に上げています(笑)。

これは81分と比較的短い映画であるが、上映回によっては同じ監督の18分の短編「ネクター」(2014年制作)が併映されることもあり、お得と言えばお得。この「ネクター」はフランス映画であるが全くセリフがない。「女王蜂とメイド蜂たちの密やかな儀式を艶めかしく幻想的なタッチで描いた作品」との説明をサイトで見ていたが、まさにその通りで、あまり家族揃ってニコニコ見るようなタイプの映画ではない(笑)。印象に残るシーンもいくつかあって、芸術性は高いが、ただ若干個々の画面のイメージに依存しすぎで、流れが悪いような気がしないでもない。以下はこの「ネクター」から。
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本編の「エヴォリューション」について語ろう。これは、短編「ネクター」よりも洗練度が高いと言えるだろう。もちろん同じ作家の手になる映画であるから、共通するイメージもあるにはあるが、こちらはなかなかに手の込んだ作りになっている。作風がデヴィッド・リンチに似ているかと訊かれれば、まあ確かに「イレイザーヘッド」を思わせるシーンはある。ご存知の方はそれだけでなんとなく分かってしまうかもしれないが、なんというかその、ウネウネ、ピチピチ感が・・・。プログラムに掲載されている監督のインタビューを見ると、実際にその映画から影響を受けたと語っている。もちろんリンチだけではなく多くの映画や文学からの影響があるようだが、中でも面白いのは、この作品を撮るときの参考として撮影監督に見せた映画は、中川信夫の「地獄」であったということ。あの毒々しい色彩感覚とこの映画の耽美性はちょっと違っていると思うが、でもまあ、あのようなキッチュでグロテスクな映像がイメージの原点にあったと想像すると面白い。また、島で起こる物語であるゆえ、陸地の映像には大変な閉塞感がある点が顕著な特色である。室内の撮影においては、ほとんど照明を使っていないと思われるし、また、例えば茶色いシーツに茶色いシャツとか、緑色の壁に緑色の食べ物とか、あえて同系色を組み合わせることで、余計逃げ場のない息苦しい雰囲気を作り出している。一方、海のシーンは美しいのだが、ストーリーを追って行くうちに、何か水が生きて意思を持っているかのような不気味さも感じることとなった。
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撮影は5週間に亘り、スペインのカナリア諸島のランサローテ島という場所で行われ、多くのキャストを現地で見つけなくてはならなかったとのこと。全体的にセリフ(フランス語)は少ないとはいえ、そのような現地でのキャスト探しの苦労を思わせないような統一感のある耽美性は充分で、その点は称賛に価する。大人の女性と男の子たちしかいないという異様な光景は、それだけで確かに奇妙な怪しさを帯びていて、ここで少年たちが出会う運命には、何か本能的な恐怖を感じるような作りになっている。従って、登場する女性たちが素人っぽければ雰囲気が壊れてしまうだろう。その点でのこの作品の作りは非常に丁寧だ。
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主役のニコラを演じるのは、2001年ベルギー生まれのマックス・ブラバン。映画初出演だが、なかなか初々しくてよい。ベルギー出身のブラバン(フランス語発音で最後の"t"を発音しないとすると)ということは、あのブラバント公の子孫なのだろうか。気になるところである。ブラバント公とは、今のベルギーとオランダにまたがる地域を治めた公爵家のことで、音楽好きにとってはワーグナーの「ローエングリン」でおなじみである。
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監督の語るところによると、前作(未見だが「エコール」という、これは少女たちについての映画らしい。写真を見るとこれも大変に怪しそう 笑)から10年の間、この作品の資金集めに奔走したが、内容が理解できないとコメントされることが多く、難航したとのこと(まあそれはそうでしょうな・・・)。だが最終的にフランス、スペイン、ベルギーからの資金を取り付けて制作されたらしい。10年間の資金集めの間にも、監督のイメージが凝縮して行ったような、怪我の功名という面があるのかも、と想像したくなる。これだけ趣味性の高い映画を、多くの人々を巻き込んで制作するのは大変なことで、強い信念と、転んでもただでは起きない逞しさが必要であろう。

ここで監督監督と何度も繰り返しているが、どのような人であるのか。ルシール・アザリロヴィック。1961年生まれの55歳の女性。フランス人だがモロッコで育ったという。こんな普通な感じの人で、とてもこのような怪しい映画を撮る女性とは思えない!!
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そして、興味深いのは、このルシールさんは、1998年の「カノン」という個性的な作品で日本でも話題になった映画監督、ギャスパー・ノエと結婚しているのだ。彼もフランスで活動しているが、もともとはアルゼンチンの人らしい。最近あまり名前を聞かないと思ったら、あぁ、そうか、今公開されている「LOVE 3D」というのが彼の新作だ。夫婦の新作が同時に日本で公開されているという珍しいパターンだ。
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もう一度この「エヴォリューション」に戻ると、この題名は生物学上の「進化」の意味と解釈しよう。ネタバレは避けるが、この映画をご覧になると、その意味が明確になるはず。だがここで描かれた進化は、果たして本当に進化なのか。一風変わったラストシーンでは、説明も語りもセリフも何もなく、静止画のようでいて静止画ではない、変化のない映像が流れ続ける。それは何の変哲もない夜景であり、そには確かになんらかの生命体がいて、文明があり、近代的な経済活動を行っているはずだが、遠くから響いてくる人間(なのかそうでないのか知らないが 笑)の営みを示す効果音のリアルさが、それまでの夢幻的な風景とは打って変わって、現実的で冷たい感覚を見る者に与える。驚愕のラストという言葉は似合わないが、一度見たらなかなか忘れることはないだろう。

最後に音楽について少し。ここでは、フランスで1920年代に発明された電子楽器、オンド・マルトノが頻繁に使用されている。空間を漂うような不思議な音を出すので、夢幻的な雰囲気を表すにはうってつけの楽器だ。この楽器を使用したクラシック音楽というと、なんといってもメシアンの「トゥーランガリラ交響曲」が有名で、オネゲルの「火刑台上のジャンヌ・ダルク」でも効果的に使われている。
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プログラムに掲載されている監督のインタビューによると、メシアンの "Oraison" (1937年)という曲を映画の中で使いたかったが、著作権の問題で難しかったので、よく似た曲を作ったとある。この曲は聴いたことがないので、早速手元にあるメシアン作品全集(全32CD)を取り出して来て調べてみたが、どういうわけか採録されていない。そこでネット検索したところ、日本語では「祈祷」と訳される、オンド・マルトノのアンサンブル(!)のための曲らしい。またこの曲の旋律を、第二次大戦中の捕虜として悲惨な状況にあったメシアンが書いた傑作「世の終わりのための四重奏曲」でも使っていることが判明。なるほど、このアザリロヴィックのこだわりが理解できるような曲である。

このように、大変趣味性の高い映画であり、見終ったあとのカタルシスもないので、この手の映画が感覚的に好きだという人にしかお薦めできないが、既に上映1ヶ月を経ても細々ながら観客動員が続いているようなので、もしかするとこの手の映画を好む人は案外多いのかもしれない。こんな映画を見る選択肢を与えられている我々はラッキーだと考えることにしよう。

by yokohama7474 | 2016-12-31 00:59 | 映画 | Comments(0)

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この映画の予告編を見て、これは見るべきものという内なる声を聞いた。それは、テレンス・マリックの脚本監督、クリスチャン・ベイル主演、ケイト・ブランシェットとナタリー・ポートマン共演という名前の羅列でも充分であるが、気になったのはその題名だ。「聖杯たちの騎士」・・・なんだかあまり語呂がよくない。それを言うなら、「聖杯の騎士たち」ではないのか。もちろんこれは、音楽好きならワーグナーの最後の作品、舞台神聖祝典劇と名付けられた「パルシファル」を思い浮かべる言葉であり、そうでない人も、アーサー王伝説やモンティ・パイソンによるそのパロディ映画、あるいは小説や映画の「ダ・ヴィンチ・コード」などが頭に浮かぶことであろう。原題を見てみると、"Knight of Cups"とある。Cupとはまた、なんとも普通の英語である(笑)。確かにゴルフなら、○○カップのことは○○杯というので、"Cup"が「杯」であることは間違いないが、「聖」の字はどこに行った?「聖杯」を指すのなら、まさにモンティ・パイソンの映画の題名にあるごとく、"Holy Grail"というべきではないのか。それから、百歩譲って"Cup"を「聖杯」と訳すとしても、その複数形"Cups"を「聖杯たち」と訳すのはどういうことだろう。「たち」がつくのは普通は人である。なので、「聖杯の騎士たち」とは言うが、「聖杯たちの騎士」とは、日本語では言わないだろう。・・・予告編で流れる美しい映像を見ながらも私は、まずは邦題へのハテナマークで頭の中が一杯になってしまったのである。

この映画のプログラムを見ても、題名の意味は書いていないが、チラシには一応解説がある。なんでもこれはタロットカードのうちの一枚で、「カードが正位置に出ると"ロマンチスト、心優しい、優雅、積極的、成功"、逆位置に出ると"口が達者、女たらし、嘘つき、失敗、挫折"といったイメージを表すと言われる」とのこと。これがそのカード。
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ただ、ネット検索してみると、このカードの呼び名は「カップの騎士」「杯のナイト」等であって、Cupのことを「聖杯」と訳している例は見当たらなかった。従ってまず私は、この邦題への強い違和感を表明せざるを得ないのである。

この映画は普通の劇映画とは違っていて、ストーリーが分かりやすく展開されることはない。クリスチャン・ベイル演じるところのリックという男が、過去の様々な女性との巡り合いを回想するという設定なのであるが、記憶の断片が行き交うような作りであり、起承転結がない。主人公がどうやらハリウッドに関係して成功している男であることだけは分かるが、その職業や、過去に彼の弟にいかなる悲劇があったのか、父親との関係はどうなのか、そして、それぞれの女性とはいつ関係があったのか、いずれも明確に描かれることはないのである。
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プログラムの解説によると、リックはサンタモニカに暮らすコメディ作家であるらしい。だが、チラシによると脚本家とある。後者の方がよりもっともらしいが、劇中で明確に示されない以上、どちらでもよいのかもしれない。それから、やはりチラシには、「迷える脚本家が巡り会う、6人の美しい女たち」とあって、ケイト・ブランシェットもナタリー・ポートマンもその6人の一部なのであるが、主人公はニヒル(死語?)に振舞いながらも多くの女性と関係を持つので(時にはあろうことか、同時に複数を相手にしたり)、はたして誰と誰が6人であるか、特定は若干難しいのだ(笑)。とはいえ、私は最初から主要な女性を数えていったので、終盤でかなり深刻な状況を作り出すナタリー・ポートマンに至ってもまだ5人目あるのに焦ったのであるが、最後の6人目は、ラスト近くに登場する、顔が映らない女性であるとの確信に至り、これでめでたく6人と相成ったのである。
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さあそんな映画なので、評価をするとなると正直難しい。映画を映像と音響のアマルガムと認識していて、いかなる映画の評価においてもストーリーの果たす優先順位がかなり低いこの私でも、手を叩いてこの映画を絶賛する気には正直なところ、なれないのである。もちろん題名の意味が分かってしまうと、主人公があっちを向いたりこっちを向いたりする(?)生活の中で、優しく優雅な成功者である場合と、女たらしで惨めな落伍者になる場合があることは理解できる。だが、残念ながらそれが人間の生き様として強く訴えかけてくることはなかった。もちろん、映像は時に息を呑むほど美しく、明らかに即興性を持って演出されていると見て取れる名優たちの演技も素晴らしい。ほかの美点を挙げれば、音楽だろう。例えば映画の冒頭で雄大な景色の中を主人公が歩くときに流れるのは、ヴォーン・ウィリアムズの名曲「タリスの主題による幻想曲」だ。この曲の叙情性をこよなく愛する人間としては、この導入部には痺れるような魅力を感じる。この曲はその後も何度も現れ、グリークの「ペール・ギュント」の「オーセの死」や「ソルヴェイグの歌」など、よりポピュラーなメロディとともに、透明な抒情性を画面に与えている。度々現れる水の映像(朝に夕に、水面の上から下から、泳ぐのも人あり犬あり)もそれぞれに美しいかと思うと、しばしば手持ちカメラで慌ただしい運動性が立ち現れる。なかなかに凝った作りである。だが、それらの映像と音楽の総合体として、私の人生にこの映画が何か新しいものを加えてくれたかというと、残念ながらそうは思えない。マリックはゴダールではないのだ。もう少し人間像の具体性を見せて欲しいものだと思ったのである。

脚本・監督を手掛けたテレンス・マリックは1943年生まれの73歳。寡作家であるが、しばしば巨匠と呼ばれることもある、非常に個性的な監督だ。伝説的な「天国の日々」を監督したあと20年間沈黙し、1998年に「シン・レッド・ライン」で監督復帰。当時は大きな話題となったものだ。その後「ツリー・オブ・ライフ」や「トゥー・ザ・ワンダー」という作品を世に問うているが、マスコミでの露出度は低く、世間一般に知られた名前というよりも、通好みの映画作家と言ってよいだろう。
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私がこれまでに見た彼の作品は、「シン・レッド・ライン」と「ツリー・オブ・ライフ」だけであるが、今回の「聖杯たちの騎士」を見て、それら過去の作品の作風を思い出すとともに、さらに作風の抽象化が進んでいるなと思った。上に思い付きでゴダールとの比較をしてしまったが、実際、強いて近い作風の映画作家を探すとすれば、ゴダールになってしまうのではないか。だが、決定的な違いもある。永遠の前衛作家ゴダールの場合には、作品の中で教訓じみた言説はまず弄さないところ、この映画には最初から最後まで語りが入っており、それは、真珠を求めてエジプトに向かった王子が、現地に到着して接待を受けるうちに自らの役割も自分自身のことも忘れて深い眠りに落ちるという内容なのである。つまり見ている人は、クリスチャン・ベイル演じる主人公がこの王子であると認識し、彼の「堕落」を批判的に見るし、王である父との間の確執を想起し、何やら道徳的なにおいを感じてしまう。だから、マリックは本当の意味での尖がった前衛作家ではないのであると私は思う。ただ、彼の名前があるからこそ、このような特殊な映画でもこれだけの俳優が集まったのであろう。ここには実はアントニオ・バンデラスも出演しているし、また、不可解なことにプログラムにもチラシにも一切記載ないが、私がエンドタイトルでのみ確認できたことには、上記のような王子の物語を語っているのは、あのベン・キングズレーなのである!!ゴダールの映画ではこれだけの顔ぶれにはならないでしょう(笑)。

このように書きながら、でもこの映画の美しいシーンの数々が思い出されて、否定的なことも書きながら、結構私の脳にはこの映画の体験が残ってしまっているようだ。そんな中の思い付きだが、冒頭で文句を垂れた邦題について。ここで「聖杯たち」と複数形になっているのは、もしかして、"Cup"とはここに出て来る女性たちを指しているからなのかもしれない。あ、もちろん、カップと言ってもブラジャーのことを言っているのではありませんよ(笑)。もう少し高尚です。つまり、西洋の文化的コンテクストでは、キリストの血を受け止めた聖杯は女性、キリストの肉を切り裂いた聖槍は男性を象徴する。「ダ・ヴィンチ・コード」のテーマもそうであった。なのでこの映画の題名においては、ただの杯ではなく聖杯というイメージがあてはまるという解釈である。この邦題を考えた配給会社の人は、そのような教養の持ち主であったのかもしれない。あ、それから、クリスチャン・ベイルがバットマンを演じた素晴らしい作品のひとつは「ダークナイト」、つまりDark Knightである。この役者のイメージに、"Knight"があることも、題名のニュアンスには関係しているかもしれない。・・・などと勝手な思いは尽きないが、ともあれ、聖杯の神秘的なイメージは素晴らしいもの。これは、スペインのレオンというところにある、もしかしたら本物の聖杯ではないかと言われているらしい杯。優雅で女性的ではないか!!
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テレンス・マリックはこの作品の後、"Voyage of Time"という、宇宙の誕生と死を追求するという壮大なドキュメンタリーを制作したらしいし、2017年には"Weightless"なる作品が予定されているようだ。さて、一体どのような作品「たち」なのか、大変気になるところである。やはり、無視することはできない監督なのである。

by yokohama7474 | 2016-12-27 02:11 | 映画 | Comments(0)

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劇場でこの映画の予告編を見たとき、私は「おぉ、なるほど。この話か」と頷いたのである。というのも、この映画は事実に基づいていて、その事実は結構有名だからである。簡単に言うと、ニューヨーク在住の金満家のマダムが、財力にものを言わせ、世界有数のコンサートホールであるカーネギーホールを借り切って、自らが歌うソプラノ・リサイタルを開催したはよいものの、彼女は残念ながら大の音痴で、世間の笑いものになったという話。私がこの話をよく知っていたのは、クラシック音楽を趣味とする者が必ず興味を持つ録音があって、それがこのマダム、フローレンス・フォスター・ジェンキンス(1868-1944)の歌声なのである。最近の事情は知らないが、私がクラシックを本格的に聴き始めた35年ほど前の入門書には、必ずと言ってよいほど、通常のクラシックの範疇、つまり、交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲、器楽曲、オペラ、現代音楽、音楽史に加えて、「その他」という分類があった。その「その他」は、例えばパロディ音楽の大家P・D・Q・バッハやスパイク・ジョーンズ、冗談音楽を盛んに取り上げたホフナング音楽祭、当時は未だ最先端の音楽であったシンセサイザーの分野ではワルター(後に性転換してウェンディ)・カーロスや冨田勲のアルバムが並んでいたが、そこに加えて、「F・F・ジェンキンス / 人間の声の栄光????」というアルバムも紹介されていることが多かったからだ。今試みに我が家の書庫をゴソゴソ漁って手元に持ってきたのは、1980年音楽之友社発行の「名曲名盤コレクション2001」という特集雑誌。この「2001」とは、恐らくはキューブリックの映画に因んで、「来るべき21世紀」という意味であったろうかと思われる。因みにこの表紙はザルツブルク祝祭大劇場で、カラヤンとベルリン・フィルによるリヒャルト・シュトラウスの「家庭交響曲」のレコードのジャケット写真を転用したものだろう。
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この中に紹介されているのが、件のアルバムである。
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私は昔からどう転んでも優等生的な音楽ファンではなく、このようなゲテモノには目がないたちなので、「その他」に分類されたレコードも次から次へと購入した。なのでこのレコードも、未だに実家の戸棚に眠っているはずである。確かにこれはなかなかに凄まじい歌声で、夜の女王のアリアなど、聴いていて椅子から転げ落ちそうな音痴ぶりなのである。これが実在のジェンキンスの写真。なかなかに雰囲気のある感じである(笑)。
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さて、そのような予備知識を持って鑑賞したこの映画なのであるが、正直なところ、これまで笑っていたこの女性の音痴ぶりを、もう笑えなくなってしまった。邦題の副題には「夢見るふたり」とあって、カーネギーホールという音楽の殿堂での演奏という夢のような目標に向かって二人三脚で頑張る夫婦という、いわばアメリカン・ドリームの体現者という意味であろうが、とんでもない。ここで描かれている真実は、苛烈この上ないもので、私はのんきに楽しむことができなかった。例によってネタバレを避けるので、映画をご覧になっていない方にはチンプンカンプンかもしれないが、要するに、このフローレンスさんの抱えていた大変な事情と、それを支えた夫の行動には、決してお気楽な人生のBright Sideのものではない。その意味で、誰もが楽しめる夢あふれる映画ではないためか、メジャーなシネコンではもうすぐ上映終了となってしまうのである。

この映画の主演はメリル・ストリープであり、彼女を支える英国出身の夫(ということにしておこう。ややこしい話を避けるために 笑)はヒュー・グラント。この二人の素晴らしい役者が演じているがゆえに、この映画には見る価値があるとは思う。逆に言うと、この二人でなければ、もう陰鬱で見るに耐えない映画になってしまったかもしれないと思わせるのである。
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舞台は第二次世界大戦末期の1944年。フローレンスと、もと一人舞台の俳優である夫のシンクレア・ベイフィールドは、その財力にものを言わせて、ニューヨークの上流階級の人たちを会員とするヴェルディ・クラブなる組織を作り、夫はシェークスピアなどの朗読を行い、妻は様々な衣装を着て舞台に立っている。フローレンスはアマチュアながらかつては歌のリサイタルを行っていたようであるが、年齢的・体力的な問題もあり、最近では歌は披露していない。この二人の財力は当時最高の指揮者、いや歴史を通しても最高の指揮者のひとりであるアルトゥーロ・トスカニーニも無視できず、パトロンとして友好関係を保っている。フローレンスは、そのトスカニーニが伴奏するリリー・ポンス(当時メトロポリタン歌劇場を席巻したコロラトゥーラ・ソプラノ)の歌うラクメの「鐘の歌」を聴いて刺激を受け、メトロポリタンの副指揮者のレッスンを受けて舞台に復帰、ご本人はそれに気をよくして、ついに音楽の殿堂、カーネギーホールを借り切るという暴挙に出る。
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ここでメリル・ストリープが披露する歌声は、実にリアルに音痴である(笑)。ミュージカル映画「マンマ・ミーア!」では見事な歌声を披露していたので、ある意味では、実際に歌える人だからこそこのような音痴ぶりを演じることができるのであろう。最後の方で夢の中でフローレンスが綺麗に歌うシーンがあって、それは見事であったものの、歌い方はクラシックのそれではなかった点は致し方ないだろうか。一方のヒュー・グラントは、妻への深い愛に裏打ちされた献身ぶりが終始描かれているのであるが、実は彼の本心は分からない。真実と虚偽の境目が、本人も分からなくなっているのかもしれない。決して彼の妻への愛に対する疑問を起こさせるような作りにはなっていないものの、ここでのヒュー・グラントの演技は、見る人の解釈を許すものであると見た。また、ピアニスト役のサイモン・ヘルバーグ、もう一人の重要な役柄を演じるレベッカ・ファーガソン(このブログでも、「ミッション・インポッシブル / ローグ・ネーション」や「ガール・オン・ザ・トレイン」の記事でご紹介した)らもいい演技を披露していて、全体の演技のレヴェルは非常に高い。監督のスティーヴン・フリアーズは私にとってはなじみのない名前だが、1941年生まれの経験豊富な英国人で、「マイ・ビューティフル・ランドレット」「危険な関係」「クィーン」などを手掛けた人。手堅い演出手腕である。
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また、1944年当時のニューヨークの様子が活き活きと再現されている点も面白い。その当時の日本の悲惨な状況を考えると、こんな国と戦争をしてしまった我が日本が、なんとも恥ずかしくなってきてしまうのである(実際に、人々が読む新聞の見出しが、「日本、制海権を失う」であったりする)。私が興味深く見たのは、ヴェルディ・クラブの出し物がワーグナーの「ワルキューレ」であったり、ある女性が欧州の戦線で行方不明になったパイロットの息子に捧げる音楽として、ブラームスの子守歌をラジオでリクエストするなど、敵国の文化に対する驚くべき寛容度である。もちろん、移民の国である米国にはドイツからの移民も多くいたわけであり、日本が鬼畜米英などと喚いていた状況とは全く異なるわけだが、要するに確立したヨーロッパの文化への尊敬の念が存在していたということであろう。その一方で、ベニー・グッドマンの「シング・シング・シング」(身震いするほど大好きな曲だ!!)に人々が踊り狂う享楽的な様子もリアルで、実に大人の雰囲気なのである。

このマダム・フローレンス、カーネギーホールでリサイタルを開いたのが1944年10月25日、76歳のとき。その僅か5日後の10月30日に心臓発作で倒れ、11月26日に死去している。そうしてみると、彼女のリサイタルは本当に、命を振り絞った白鳥の歌だったのである。恐らくは自分が音痴であるという自覚なしに舞台に立ち、愛する夫を信頼しながらこの世を去ったものであろう。そのピュアな精神と、前向きに生きる力に心を動かされることは事実。だが一方で、ここで描かれた真実には、手放しで美談と評価するには多少の躊躇がある。財力の持つ力や人々のへつらい、上流階級の現実感のなさ、偽善・・・等々が婉曲的に描かれたこの作品、見る人をして考えさせる要素を多々もっているのである。これを見てしまったら、もう無邪気に音痴を笑うわけにはいかないというのは、そういうわけなのである。フローレンスさん、次はあなたの歌声を真剣に聴くことにしますよ!
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by yokohama7474 | 2016-12-21 02:07 | 映画 | Comments(2)

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ドイツの映画監督ヴィム・ヴェンダース(1945年生まれの71歳)は、我々の世代にとっては、カンヌのパルムドールを獲得した名作「パリ、テキサス」(1984)で初めてその名を知り、「ベルリン・天使の詩」(1987)に感嘆し、それ以前の彼の作品群、例えばロード・ムービーの代表作である「都会のアリス」や「まわり道」、また「アメリカの友人」や「ハメット」などの佳作も日本で見る機会が出来たことにより、一種特権的な名前となった人である。もちろんそれには、当時映画評論の分野で盛んに活躍していた文化のアジテーター(?)、蓮實重彦の影響力が極めて大きかったわけであるが、向かうところ敵なしかに思われたヴェンダースが「夢の涯てまでも」(1991)で大コケしたときに、いわゆるハスミ世代の私の周りの映画好きたちは口々に「低予算に慣れた監督が、高額製作費を手にして堕落した」とののしっていて、遺憾ながら私もそれに同感だったのである。それ以降、ヴェンダースの作品には時々触れることはあっても、本当に感動したという覚えが少ない。今彼のフィルモグラフィーを見てみると、それなりに知名度があるだろう「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」や、小津を題材にした「東京画」を含めて、かなりの本数のドキュメンタリーも監督している。そしてこの作品は彼の7年ぶりの劇映画。実はこの前の劇映画は「パレルモ・シューティング」という映画で、このブログでもどこかで触れた記憶がある(映画そのものとは全く異なる文脈で 笑)。デニス・ホッパーの最晩年の作でもあり、映画史的にも貴重なものであろうが、何よりも人の命の有限性を巧まずして描いた監督の手腕を再認識し、ヴェンダースの映画としては久しぶりに感動したものだ。なので、この映画「誰のせいでもない」が細々と上映されているのを最近になってようやく知った私は、ヴェンダースの新境地を期待し、万難を排して劇場に走ったのである。これは近年のヴェンダース。
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上のチラシにある通りこの映画は、雪道で起こったある交通事故が巻き起こす、一人の男と三人の女の複雑な関係を描いたものである。もちろん、複雑な関係と言っても、惚れた腫れた、離れたくっついた、できた別れたという三面記事的な男女の事件を題材にする映画でないことは、監督の名前が保証している。いや、もしお望みなら、「一人の男と三人の女」に追加して、「もう一人の若い男と一匹の犬」まで加えてもよいだろう(笑)。一言でまとめてしまえば、何の予告もなしにやってくる運命の歯車の軋みの中でそれぞれの生を生きる人間たちの(あ、それから動物も)、その生き様を、大変美しい四季の中で描いた映画ということになるだろうか。その意味で私は、映画をストーリーとかカッコよさだけで見ない人には、この映画を強く推薦しよう。少なくとも私にとっては、これは「パレルモ・シューティング」に続いて忘れがたい映画になるだろう。

ヴェンダースらしく、たとえ登場人物たちの感情が剥き出しになるときがあっても、妙にサラッとした感覚の映像で常に包まれている。役者たちはしばしば、窓の外から、ある場合は明るい外光の反射越しに、ある場合は夜間の遠景でその姿を写されていて、Emotionがぐっと観客に迫る作りにはなっていない。どの場合も、爽やかな朝の光や淋しい夕焼けや、また、吹雪や秋の黄色い穂や川辺の緑や曇天の住宅地はいずれも、まさに人がそこに生きて有限の時間を過ごしているという切なさに満ちているのである。そのセンスたるや実に素晴らしいもの。
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だがこれはただきれいごとを並べた映画ではない。音楽は時にプロコフィエフ風またはバルトーク風、ときにミニマル音楽風に映像を彩り、よくあるハリウッド映画に慣れた我々は、もしやここで新たな惨劇が起こったらどうしよう・・・と、手に汗握ってドキドキする瞬間が何度も訪れるのである。かと思うと、上にも書いた通り、残酷な運命は何の予告も、ましてやBGMなどなしにやってくる。この映画で描かれていること自体は一般人が体験することではないにせよ、これに似たような体験は、多かれ少なかれ誰でも経験する、そのようなリアリティを持った映画であると言ってよいと思う。原題の "Every thing will be fine" は、冒頭まもなく主人公が男の子の手を引いて自宅に帰る途中で口にする言葉。実はその前に、"Every thing is fine"とも言っているから、「もう大丈夫(今のこと)」から「もーう大丈夫だからね(これからのこと)」という流れで男の子をより強く励ましている言葉なのだ。これがこの映画の重要なエッセンス。つまり、彼が何の気なしに「大丈夫」と言ったことが本当に大丈夫だったのか、ということだ。「誰のせいでもない」という邦題は、まあ気持ちは分かるが、ちょっとニュアンスが違うと思う。もちろん、誰かが誰かに責任を問う場面のある映画だが、ヴェンダースの練達の手腕は、美しい景色の中で展開する運命の機微の描写にこそ活かされていて、誰かがほかの誰かの不幸に責任があるか否かは問うていないと思う。実際、不幸な境遇の責任が、「誰のせいでもない」と言っているその人自身に、実はあることもあるわけだから・・・。また、演出手腕という点では、例えば主人公があるきっかけで出会う女性と、数年を経て生活をともにするようになる流れなど、「あ、なるほど彼女ね」と思わせるから恐れ入る。些細なことのようではあるが、観客のイメージをこのようにうまく誘導できる演出は、そうそうできるものではないだろう。

演出もさることながら、特筆すべきは役者陣だ。まず主役はジェームズ・フランコ。サム・ライミ監督のスパイダーマン・シリーズで敵役として登場したときには、その軽薄さを漂わせた二枚目ぶりが一種の紋切り型であったが、あの素晴らしい「127時間」や「猿の惑星 創世記(ジェネシス)」での演技は忘れがたく、どんどん進化している俳優だ。最近ではプロデューサー、監督としてのみならず、本作の役柄同様、作家としても活躍しているらしい。この映画での彼の表情は時に陰鬱、時に恐怖にさいなまれ、時に冷め切っているが、最後に近づくにつれ、優しくしかも深みのあるものになって行く。
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前半でその妻を演じるのがレイチェル・マクアダムス。このブログでも「スポットライト 世紀のスクープ」を採り上げたほか、ガイ・リッチーの「シャーロック・ホームズ」シリーズやウディ・アレンの「ミッドナイト・イン・パリ」の演技が忘れがたい。彼女も一作ごとに表情が豊かになっている、現在進化中の女優である。
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そして、運命によって巡り合う寡黙なイラストレーターの女性を演じるのは、シャルロット・ゲンズブール。15歳の頃の「なまいきシャルロット」の頃と、下ぶくれの表情は変わらないが、最近はちょっと危ない世界に行ってしまったかと思っていたので(笑)、「インデペンデンス・デイ;リサージェンス」に続いて(撮影の順番はそちらが本作より後のようだが)この作品で繊細な演技をしていることには好感が持てた。
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それから、脇役ではあるが、久しぶりにピーター・ストーメアを見ることができて大変嬉しい。出演作一覧を見ると本当に作品を選ばない人だと思うが(「ファニーとアレクサンデル」「レナードの朝」から「アルマゲドン」「ゾンビ・ホスピタル」まで 笑)、私にとっては「ファーゴ」「ビッグ・リボウスキ」のコーエン兄弟作品で忘れがたい役者だ。この映画での出演シーンの写真が見当たらないので、私の大のお気に入り、「ファーゴ」におけるスティーヴ・ブシェーミ(彼も最近見ないなぁ)との名コンビの写真を掲載しておこう。もちろん左側の人です。
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さてこの作品、プログラムを読んで知ったことには、ヴェンダースの意図は3D作品とすることであった由。私が見たのは2D上映であり、それどころか日本で3D上映した劇場があったのかどうか知らないが、スペクタクルの要素がほとんどないこの映画は、果たして3Dに向いているのであろうか。実は私は3Dにはほとんど思い入れのない人間で、鑑賞後にある映画を思い出す際も、2Dだったか3Dだったかすら覚えていないことも多い(例外はこのブログでも採り上げた「ザ・ウォーク」くらいか)。だがこの映画を2Dで見ながら私は、もし3Dだったらどうなっただろうかを想像していた。素晴らしく多様な光を捉えたこの映像は、確かに3Dであればさらに鮮やかに見えたのかもしれない。また、この映画で多用されている唐突な暗転や、カメラが寄りながらのズームダウン(あるいはカメラが引きながらのズームアップ?)などは、普通ならちょっと素人っぽい手作り感が出るところ、もしかすると3Dとの折り合いをつけるためのヴェンダース一流の手法であったのかもしれない。

繰り返しだが、映画をハラハラドキドキのストーリーだけで見る人には、この作品の真価は伝わらないだろう(ラストシーンはなんだ!!と怒るかもしれない 笑)。一方、派手さはなくとも人間の実像を映画で見たいという人には、一見の価値ありだと思う。但し、飽くまで私個人の意見なので、お気に召さなくても、誰のせいでもありません。もし映画を気に入らずとも、願わくば "Every thing will be fine"と自分に言い聞かせて頂かんことを。
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by yokohama7474 | 2016-12-14 01:12 | 映画 | Comments(0)

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たまたま近くのTOHOシネマズで上映中の映画を調べていて目についたのが、この映画だ。これまで予告編はおろか、全くこの映画に関する情報を得たことはない。だが、いわく傑作「羊たちの沈黙」のジョナサン・デミ監督が大絶賛したとか、昨年のヴェネツィア映画祭で観客・審査員の多大なる指示を得て、新人監督賞を獲得したとか、なかなかに注意を引く情報が目に入る。そして、原作はジャン=ポール・サルトルの「一指導者の幼年時代」という短編である由。どうやら、第一次大戦後を舞台に、架空の独裁者の幼年時代を描いた映画らしい。このような作品がシネコンにかかっているというのは珍しいこと。これは早めに見ておこうと思い立ち、レイトショーに出掛けることにした。

ストーリーは単純と言えば至って単純。将来独裁者として君臨するひとりの男が、第一次大戦終結直後のパリ(ということは、1919年のヴェルサイユ条約に結実する戦後処理についての講和会議が行われていた場所だ)郊外に住む家族の一人息子として、いかなる少年時代を送ったかということを描いている。プログラムを読むと、サルトルの原作はヒトラーの幼年時代を題材にしているらしいが、この映画にはまた、ムッソリーニの少年時代の逸話なども盛り込まれているとのこと。監督は、「映画のタイトルをサルトルの作品から借りた」という表現をしていて、必ずしも原作であると明言はしていない。ちなみにこの短編、日本では新潮文庫の「水いらず」の中に収録されている。あ、私はこの本を持っているが、この短編については全く記憶がない(笑)。
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さてこの映画、昔のヨーロッパ映画のような陰影の濃い色調だと思ったら、35mmフィルムで撮影されているとのこと。共同脚本及び監督のブラディ・コーベットは1988年アリゾナ州スコッツデール生まれの米国人で、その未だ20代という若さや誕生地(何度か行ったことありますよ。砂漠です)は、とても格調高いヨーロッパ調というイメージとはほど遠いが、尊敬する映画監督として、ミヒャエル・ハネケとラース・フォン・トリアーをはじめ、カール・テホ・ドライヤーやロベール・ブレッソン、ジャン・ヴィゴ、小津安二郎といった芸術系の名前が並ぶ。もともと俳優で、件のラース・フォン・トリアーの「メランコリア」にも出演している。プログラムのモノクロ写真では髭を生やしているが、意外なことに、もともとこんな爽やか系の若者だ。
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それにしても、このような若者が監督した映画とはとても思えない、相当に仮借ない人間描写を含む映画であり、すべてを手放しで大絶賛しないとしても、少なくとも衝撃的な作品であるとは言えよう。その最大の理由は、主役であるプレスコットを演じる、映画初出演の男の子の素晴らしい演技だ。撮影時たったの9歳(!!)、英国人のトム・スウィート。
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ここで彼の見せる千変万化の表情にはつくづく驚かされるし、将来の独裁者の潜在的狂気をこれだけ自然に演じられると、本当にこの子は将来とんでもないことをしでかすのではないかと、心配になるほどだ(笑)。思春期と呼ぶにはまだ早い年頃で、劇中でもまるで少女のような少年という設定であるが、可愛らしい容姿の裏の悪魔的なものが何度も何度も出て来て、見ている者をとてつもなく不安にするのである。まさに空恐ろしいような「モンスター」の天才的な演技である。そして、この映画の中では、この「モンスター」によって最も不安に苛まれるのが母親であり、米国政府の要人としてパリ講和に参加している初老の父親も、立派な公的責務を負いながらも、個人生活ではやはり情けないまでに「モンスター」に翻弄されるのである。一方、彼を心から可愛がるお手伝いさんや、早すぎる少年の性的欲望まで喚起する家庭教師の女性まで、ほかの役者陣もそれぞれに芸達者である。正直、私が知っている名前はなかったのであるが、以下の写真で左上から右回りに、母親役のベレニス・ベジョ、父親の友人役のロバート・パティンソン、家庭教師役のステイシー・マーティン、父親役のリアム・カニンガム。
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この映画の演出は細部まで凝りに凝っていて、映画好きならかなり堪能できると思うが、また音楽好きにも興味深いシーンがいくつかある。例えばプレスコットが風呂に入れられるシーンで口笛で吹いているのは、(たった数秒だが)紛れもなくベートーヴェン7番の第2楽章だ。また、何度も蓄音機から流れる古いSP録音がBGMとなっているが、チャイコフスキーの「エフゲニ・オネーギン」の「手紙の場」であったり、ショパンのピアノ・ソナタ第2番の第2楽章(葬送行進曲)の中間部の旋律を英語のポピュラーナンバーに編曲したものであったりするのである(なお後者は、イースターのシーンに加え、晩餐会の重要なシーンでも再び登場する)。ただ、映像の凝り方には一部不要なこだわりを感じるときもあって、このあたりは若さゆえの表現意欲の表れかとも思う。一方で映画のオリジナル音楽は、スコット・ウォーカーという作曲家(デイヴィッド・ボウイに影響を与え、レオス・カラックスの「ポーラX」...懐かしい...の音楽も担当していた)によるもので、中規模編成と思われるオーケストラが使われている。この音楽も、まるでホラー映画であるかのように映画の不気味なトーンを本編中のあちこちで盛り上げるのであるが、正直なところ、私にはちょっとうるさかった。特にラスト・シーンは、むしろ静寂をうまく使った方がよほど効果的ではなかったろうか。

このように、優れた面とそうでない面をそれなりに認識することができる映画であり、一般には多くの人の支持は得られないかもしれないが、文化的刺激を求める人には、子役の演技を見るだけでも価値があると申し上げておこう。一方で、現実世界ではどの国の政治も内向きとなり、今後の国際社会がどうなって行くのか分からないこの不安の時代に、このような内容の映画を見ることの意味は、大いにあるだろう。歴史というものの一筋縄でいかないところは、独裁者なら独裁者だけが、戦争の時代に起こったことの何もかもに責任があるという単純なことにはどう転んでもならないところである。独裁者を支持した一般庶民が圧倒的多数であったことこそが、本当に人をして心胆寒からしめるのだ。少年時代の独裁者が美少年ということだけで、既に耽美的要素を帯びた映画ではあるが、ただの後ろ向きな美学ではなく、厳しく時代の現実と切り結ぶだけの覚悟が作り手の方にあることをヒシヒシと感じる。翻って、我が国の文化の担い手は、果たしてこのような厳しさを持っているだろうか・・・と、柄にもなく考え込んでしまった次第である。

過去の姿をした現在が、真剣な眼差しで我々に問いかけてくる。
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by yokohama7474 | 2016-11-30 01:39 | 映画 | Comments(0)

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この映画に出てくるのは、すべて弱い人間である。だから私はこの映画を見て全く楽しい気分にはなれなかった。実はこの思い、前項の平野啓一郎作の戯曲「肉声」を見て感じた問題意識とも通じるものがあるので、ここでこの映画を採り上げることに多少の意義はあるだろう。

以前も書いたが、この映画の主演であるエミリー・ブラントは私のお気に入りの女優である。彼女が主演して、しかも上に掲げたポスターに書いてある通り、たまたま電車の車窓から見た光景が殺人事件に発展して行くという設定が、ヒッチコックばりの巻き込まれ型スリラーになっているのではないかと考えたので、この映画に興味を持ったわけである。後で知ったことには、この映画の原作はポーラ・ホーキンズという英国の女流作家による小説で、既に40ヶ国語以上に翻訳されて世界的なベストセラーになっている由。原作はロンドン郊外を舞台にしているが、ここではニューヨーク郊外に変更されている。ただ、英国出身のブラントはここで、"can't"を「カーント」という英国式アクセントで発音するなど、異国からやってきてニューヨーク近郊に住んでいるという設定が分かるようになっている。舞台は、グランド・セントラル駅から北へ向かうメトロノース鉄道のHudson Line沿線(この線が通るウェストチェスター郡には日本人駐在員も多く暮らしている)。まさにハドソン川のすぐ横を鉄道が走っていて、雄大な風景である。これはイメージ。
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さて、この雄大なハドソン川を臨む沿線で、主人公の女性、エミリー・ブラント演じるレイチェルが毎日見ているのは、ハドソン川とは線路を挟んで反対側に並ぶ家のうちの一軒に住む若いカップル。彼女はそこに理想の夫婦像を見出すが、ある日その家に住む女性がほかの男性と不倫しているのを目撃。それが事件の発端になって行くというスリラーだ。どうです、面白そうでしょう(笑)。この映画を見る人が、だがすぐに目にするのは、前作「スノーホワイト/氷の王国」でのお姫様役(今年6月13日付の記事ご参照)とは似ても似つかない、カサカサに荒れた唇のアル中女なのである。
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先に述べておくが、ここでのエミリー・ブラントは大変な熱演である。それは認める。だが、その熱演が上質なスリラーに貢献しているか否かは別問題。ここでの主要な役は、彼女を含めた女性三人なのである。一人は、若い女性メガンを演じるヘイリー・ベネット。なかなかに色気のある危うい役柄であり、濡れた瞳がなんとも生々しいのであるが、後で調べて分かったことには、デンゼル・ワシントン主演の「イコライザー」に出ていたあの女優だ。うん、確かにあまり美形ではないのに、ちょっと気になる若手女優であった。
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対する落ち着いた人妻アナを演じるのは、スウェーデン人のレベッカ・ファーガソン。彼女は「ミッション・インポッシブル/ローグ・ネイション」(今年9月10日付の記事ご参照)に出ていた女優である。
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彼女らが直接間接に演じる、男を巡る愛憎劇が、この映画の本質だ。私の意見では、これはスリラーなどではない。洒脱な社会批判や、背徳的な殺人賛美はここにはない。ただ、すえた男女の関係がウネウネと続いているだけなのだ。関係する男のひとりは、「ドラキュラZERO」「ハイライズ」のルーク・エヴァンス。
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この映画が彼の男っぽい魅力に依拠しているかというと、そうでもない。じゃあなんなんだよこの映画(笑)。人間の弱い面汚い面を、現実よりも誇張して描いているのである。このような映画を面白いと思う人もいるのかもしれないが、でも、私は全然楽しめなかった。様々な社会の危機を生きる必要のある現代、こんな「あーどうしようどうしよう」という映画を見ていても、埒が明くまい。この時代には個々人の強固な信念が試されるし、特に文化の担い手は、人間としての尊厳をこそ描くべきではないか。そうでなければ、退廃に身を委ねて空笑いするか、もしくは知的なエンターテインメントを追求すべきではないか。この映画は、同じハドソン川を舞台としていても、あの「ハドソン川の奇跡」とは全く違った映画なのである。そして、あえて言ってしまえば、昨日見た芝居「肉声」と共通する物足りなさを感じてしまうのだ。

まあ、ひとつ印象に残るシーンがあるとすると、クライマックスで男が殺されるところだろう。なるほど、人を殺すのにこういう手があったかと思うことにはなると思う(笑)。今後はワインを飲むときに思い出してしまうかもしれない血しぶきだ。
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繰り返しだが、これからの時代、個人個人が強く生きなくてはいけない。この映画の題名で、「トレイン」の前についている冠詞は、"the"であって"a"ではない。つまり、主人公の女性が乗っているのは、なんでもよい、いつでもよい列車ではなく、特定の列車。人それぞれに運命づけられた列車というものはあるのかもしれない。それをよく認識しつつ、自由な思いを求めて、この映画の主役のように、時にはせめて列車の反対側に乗るだけの余裕を持ちたい。そうするとまた違った景色が見えてくるのであろう。こんな弱い人たちに乱されることのない平穏が存在する違った景色が。

by yokohama7474 | 2016-11-26 23:50 | 映画 | Comments(0)

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このブログも記事を重ねるごとに、「もう聞いたよその話」という話題が増えてきていることは私も分かっている。だが、毎日のブログアクセスをチェックしていると、ある特定の記事でたまたまこのブログに遭遇する方々も日々おられるようであり、私があっちを向いたりこっちを向いたりして、これまで書きつらねてきたことに対するイメージのない方もおられるはずだ。そんなわけで、すみません、以前の言の繰り返しですが、私は封切間もない映画を見に行くことは、ほとんどないのである。だが、この映画は先週の金曜日、11月11日に公開されたばかりの最新作だ。そんな映画を今見るとは、一体どういう風の吹き回しかというと、昨夜、「ジェイソン・ボーン」の記事を書いていて、その映画の上映規模が早々に縮小された理由は、もしかしたらこの映画の公開にあるのかもしれない、と適当なことを言ってしまったときに、はたと気づいたのである。そうだ、「ジェイソン・ボーン」の記事に続いて、この映画の記事を書けば、その比較もできるし、後で振り返って、2016年11月時点でどのような映画が劇場にかかっていたかを振り返ることができるのも楽しいかもしれないと。実は、既に鑑賞したにもかかわらず未だ記事をアップできていない美術の展覧会は五指に余っていて、それらについての焦りもあるのだが、そこはそれ、気ままでラプソディックな文化逍遥を楽しむのがモットーのこのブログ。早速劇場に走ってこの映画を見てきたので、以下勝手気ままな感想を書きつらねます。あー、前置きが長い(笑)。

この映画の予告編を見たとき、もちろん私には、これが以前の作品の続編であることが分かった。「ジャック・リーチャー」はその第1作の原題であり、トム・クルーズ演じる主人公の役名であったはずだ。でも、その邦題が思い出せない。ええっと、「モーゲージ」、「プレッジ」、「コラテラル」・・・これらはすべて、国際金融に縁のある人ならおなじみの言葉であろうが(笑)、どれも違う。「コラテラル・ダメージ」でもないし、「ダメージ」でもないなぁ。ところでこれらは、「モーゲージ」以外は実際の映画の題名で、しかもそのうちひとつは同じトム・クルーズ主演である。だが、「ジャック・リーチャー」を原題とする映画は上記のいずれでもなく、調べてみて思い出したことには、2012年の「アウトロー」という映画であった。これが私の手元にあるその映画のプログラム。
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な、なんだよこれ。「ジャック・リーチャー」という題名じゃないの。どこが「アウトロー」ですか。シリーズ化するのが分かっていたのなら、最初から主人公の名前である「ジャック・リーチャー」を邦題にすればよかったのに(笑)。このブログで映画を題材に採り上げる際には、必ず原題を併記しているが、それはこのようなケースに有用だと思うからである。実はこの「アウトロー」という題名は、リー・チャイルドによる原作の邦題であることも知っているので、あまり深追いすることはしないが、やはり邦題だけ見ていると、何年も経ってからどのような映画であったかを覚えているのは難しいことの、ひとつの例であると思う。ところで、この主人公の左ほほの傷、本作でもずっと存在していたので、トレードマークなのであろうか。

さてこの映画、大変面白いひとつの特徴がある。それは、予告編が、本編の冒頭部分ほぼそのままになっている点だ。コーヒーショップで暴力沙汰を起こして逮捕される主人公が、すぐに立場を逆転させ、保安官が逮捕されるというエピソード。
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正直、このエピソードが、その後展開するリーチャーと女性少佐スーザン・ターナーの逃避行とどう関わるのか、映画を見ているだけでは判然としない点もあるが、導入部分としてはなかなかに鮮やかだし印象的である。映画の持ち味を最初の数分で設定してしまうのは、かなり巧みな手法であると思う。スーザン・ターナー役を演じるのはコビー・スマルダーズ。「アベンジャー」シリーズのマリア・ヒル役で知られる。
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この女優は、スタイルもよく、なかなかに精悍な感じなのであるが、ちょっと男勝りを表面に出し過ぎるキャラクター設定ではないか。男女の逃避行であるにも関わらず、ロマンティックなシーンは皆無。自立した女としてリーチャーを誘惑しているように見えるシーンもあるが、爽やかなまでに色気がない(笑)。今日の女性軍人像は、こんな感じにするしかないのでしょうかね。それから、ロマンティックな設定がないもうひとつの理由は、逃避行に若い女の子が一緒であることにもよる。15歳という設定のこの女性サマンサを演じるのは、ダニカ・ヤロシュという若い女優で、もともとダンサーからミュージカル女優という経歴の持ち主らしい。だが、うーん、正直、ここでも守ってあげたくなるキャラクターにはあまりなっていないのが、残念と言えば残念。ところでこの三人は疑似家族のようであり、それがこの巨悪を描く映画の寒々とした設定を、多少なりとも和らげている。いわば、昔の「妖怪人間ベム」みたいなものか???
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ここで「ジェイソン・ボーン」と少し比較してみよう。トム・クルーズはマット・デイモンよりも8歳年上の、今年54歳。だが、「ミッション・インポッシブル」シリーズでもハードな演技を自ら行っている。ここでも体を張った演技をしていて、さすがである。「ジェイソン・ボーン」でのマット・デイモンと同様、ここでのトム・クルーズも、上半身裸のシーンを何度も披露していて、女性ファン必見であるが(笑)、だがマット・デイモンの硬派なイメージに対してトム・クルーズは二枚目キャラであり、それゆえのユーモアのセンスもあるように思う。また、ここでも銃撃戦、カーチェイス、そして肉弾戦と、お定まりのアクションシーンがあれこれ出て来るが、敵がITを駆使して追跡してくる手法は、携帯電話の発信とか盗難クレジットカードの使用くらいで、「ジェイソン・ボーン」よりは古典的である。それ、走って逃げろ!!
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それにしても、「ジェイソン・ボーン」とこの映画の重要な共通点は、米国の巨大な権力が他国を巻き込んだ大きな不正に関与しており、邪魔者はどんどん消すという設定である。個人の力でそれに立ち向かうという設定も共通で、もちろんそれなりにカタルシスを感じる要素はあるものの、何か救いのなさが常につきまとうような気もする。もし高い地位にある者が不正を働いている場合、その部下としての自分は、一体いかに振舞えるのか。映画のように本当に殺人が頻繁に起こる極端なケースではなくとも、社会の中に生きていれば、日常にそれに似た性質のケースがないとはいえない。絶対的な悪を描くことが難しい時代だとは言えるであろう。

この映画の監督はエドワード・ズウィックという人で、フィルモグラフィーには本作を入れて11作品が並んでいるが、代表作は「ラスト・サムライ」だろう。トム・クルーズとは気が合うのだろうか。素晴らしい才能とまで言えるか否かは分からないが、手堅い手腕の持ち主ではあろうと思う。これは本作のプロモーションで来日したときのツー・ショット。
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ところで、本作もいずれ飛行機の中で見ることができるかもしれないが、その場合、恐らくカットされてしまうであろうシーンがある。だがそれは、飛行機の墜落シーンではなく、乗客に真似されては困ることなのだ。一体どんなシーンか、これからご覧になる方は是非ご注意を。あんなことすると、走って逃げるなんて無理だと思うけどなぁ・・・(笑)。だが、カットされてしまうときっと、映画としてのつながりが破綻してしまうので、やはり映画は劇場で見るべきであると改めて思います。

by yokohama7474 | 2016-11-18 01:13 | 映画 | Comments(0)

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現代ハリウッドを代表する俳優、マット・デイモンが主演を務める「ジェイソン・ボーン」シリーズの新作。当然大ヒット間違いなしと思っていた。ところが、このブログでは同様の例を何度も書いているような気がするが(笑)、ふと気が付くと、封切1ヶ月にして既に上映している劇場は都内でも数えるほど。そんなはずはないだろうと思いながら、ほかの予定との兼ね合いを懸命に考え、ちょっと無理をしてなんとか見ることができた。実際に見てみると、あまりヒットしなかったのもなんとなく分かるような気もするし、一方で、それはもったいないという気もする。たまたま似たようなタイプの映画で、こちらはトム・クルーズ主演の「ジャック・リーチャー NEVER GO BACK」の封切も始まったという事情も関係しているのだろうか。だが、私がこの「ジェイソン・ボーン」を鑑賞した際には、そこそこ人が入っており、やはり私と同じように「そんなはずはない」と呟きながら劇場に急いだ人たちもそれなりにいたということだと思う。

さて、「ボーン・アイデンティティ」(2002)に始まるこのシリーズ、「ボーン・スプレマシー」(2004)、「ボーン・アルティメイタム」(2007)の3作に加え、監督・主演は異なるものの、同時進行する物語として「ボーン・レガシー」(2012)がある。私は最初の3作は見ているが、正直なところ、作品と作品の間に時間が空きすぎたきらいがあり、主人公ボーンが過去の記憶を失い苦悩する場面はもちろん覚えているものの、なんとか計画という固有名詞までは覚えておらず、シリーズ物の場合はそのような点がどうしてもネックになるケースがある。現代人はなかなか忙しく、実に多くのログインIDやパスワード(しかも業務に関係するものはそれを定期的に変えて行く)を、いちいち覚えていなくてはならない。それに加えて加齢という不可避の要因もあり、15年近くに亘って続く映画のシリーズの内容詳細までは、どうしても覚えていられないのが厳粛な事実である(笑)。なので、映画の冒頭に出てきてかなり暴れまくるニッキー・パーソンズという女性(演じるのはジュリア・スタイルズ)が、やけにボーンとなれなれしいと思ったら、後で調べてみて過去3作すべてに出演しているキャラクターであったと判明。でも本当に覚えていませんでした!!
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この映画のある意味で潔いところは、過去のシリーズを冒頭でおさらいするという気遣いのない点であるとも言える。こういう時代だから、過去の作品について調べ、必要あれば作品本編を鑑賞することも極めて簡単なことだ。でも、やはり作り手としては、過去のシリーズがどうであれ、この作品で勝負しようという思いは当然あるであろうから、ここはひとつこちらも、この作品だけをじっくり見てみようではないか。

というわけで、私の期待は、今回初登場するキャラクター、CIAのサイバー部門を束ねる若きエージェント、ヘザー・リーに集まるのである。
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この女優は誰だろう。実は、私もこのブログにおいて「コードネーム U.N.C.L.E.」や「エクス・マキナ」の演技を絶賛したスウェーデン出身のアリシア・ヴィキャンデルだ。私は見ていないが(そして今度も多分見ないだろうが)、「リリーのすべて」でオスカーの助演女優賞を獲得した実績を持つ。
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だが、正直なところここでの彼女は、役柄上、溌剌としたところを出すシーンがなく、本来の持ち味が出ていない上、カッコいい女性エージェントで新境地を開いているようにも思われない。クールでありながら実はハートがあり、でもそれも本当のところは出世欲によるものかもしれない、という複雑な役柄であるが、笑顔を見せるシーンは一度もない。映画全体にセットされたハードボイルドなトーンにおいてはそうなるのかもしれないが、もし複雑な役柄を表現したかったら、監督のポール・グリーングラスは、彼女を一度くらい笑わせてみてはいかがだったろうか。

その点、彼女の上司を演じるトミー・リー・ジョーンズはさすがである。この人独特の人間味と、社会の中で責任を全うしようとするがゆえの冷酷性をよく表現していて、見事。
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それから、敵役のスナイパーを演じるのは、フランスを代表する名優、ヴァンサン・カッセル。
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フランス人の英語は通常、大変な癖があるので、ハリウッド映画では「フランス人」としての役を演じる場合が多いが、この映画の場合は国籍はあまり関係なく、心なしか彼の英語も、以前より上達したように聞こえる(笑)。まあ、スナイパーだから、ベラベラ喋りまくるという設定にはなってはいないのですがね。ここでの彼の演技は、狂人的な要素はそれほどなく、主人公が迎え撃つ最強の敵という圧倒的な存在、ということでもない。だがもちろん、ヴァンサンの演技はなかなか渋くてリアリティがあることは確か。

そんな役者陣の中で、相変わらず役のイメージをクリアに伝える演技をするのが、主役のマット・デイモンだ。彼も既に46歳。このシリーズの最初の頃よりは、この役を演じるための肉体的ハードルは上がっているのは確実だろう。実際インタビューの中で、久しぶりのボーン役について、お気に入りのキャラクターだから役作りは苦にはならないが、自分の年齢で鍛え上げた肉体を作るのは大変なことだったと白状している。だが、このようなシーンにおいて、肉体美そのものというよりは、全身から発する「気」のようなものでその人物の強さを表現できる俳優は、そうそういないと思う。
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そしてこの映画、銃撃戦にカーチェイス、それに肉弾戦と、ある意味ではお定まりのアクション映画の要素が一通り詰め込まれているのであるが、ひとつ新味があるとすると、ITを駆使して、ハッキングがどこで行われているか、目指す相手がどこに潜んでいてどこに向かっているか、そういったことが遠くのオペレーションルームからすべて手に取るように分かるということだ。これをされてしまうと、逃走する主人公たちが絶体絶命の状態にあると感じることができて、その点では効果的であったといえる。だが、振り返って考えてみるとこの映画、かなり地味な内容なのである。CIAのなんとか計画がどんなものであれ、そこで明かされる謎に驚天動地ということにはならないし、善悪が大きく逆転することもなく、「ああ、こういう組織ならそういうこともありそうだね」くらいであると言ってもよいだろう。そして、CGを使いまくる昨今の映画における敵役が、クライマックスでど派手な最期を用意されているのに対し、その点もこの映画は古典的かつ、本当に決着がついたか否かすらも判然としないくらい、あっさりしている。そういった要素を考えると、あまりヒットしない理由も分かるような気がしてくるのだ。

ただ、この時代になってくると、誰のために戦うのか、世界をどう変えられるのか、悪に立ち向かうにはいかなる決断が必要なのか・・・そういった事柄について、大勢で同じ価値観を共感できるような楽天性は、もう描けないのかもしれない。そういえば、上で触れたアリシア・ヴィキャンデル以外でも、ここに出ている俳優には、おしなべて笑顔がない。上のポスターによると「新章始動」とあるので、ここからまたジェイソン・ボーンの新たな戦いのシリーズが始まるのであろう。しょうがない、このボーンの真剣な表情に免じて、その戦いにお伴するとしよう。でも、またあまり間を空けての制作になると、今回の内容を忘れてしまいます!!早く次を撮って欲しい。
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by yokohama7474 | 2016-11-17 00:41 | 映画 | Comments(0)

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気が付くと今年も残り2ヶ月を切ってしまっているが、後世から見て、2016年は一体どういった年であったと評価されるであろうか。今これを書いている11月9日深夜から半日ほど前に決定した米国大統領選の結果は、間違いなくこの年の大事件であると記憶されるであろうし、それに数ヶ月先立って世界に衝撃を与えたBREXITも、もちろん後世に語り継がれる大事件であろう。このブログは私の政治的信条を述べる場ではないので、これらの点について深入りはしないが、今世界で一体何が起こっているのかという、名状しようのない不安に駆られることは事実である。それはトランプ大統領の誕生が不安だという単純な意味ではなく、先進国における民衆の判断が、「まさかこんなことが」と思う結果になること自体が不安だという意味だ。世界の人口は73憶。富の分配はどうなっているのか。安定的な国際秩序は取り戻せるのか。そして将来の世界はどのようになって行くのか。

軽口三昧の私がいつになく神妙に書いているのは、つい最近この映画を見たせいでもある。「ダ・ヴィンチ・コード」「天使と悪魔」に続くダン・ブラウン原作、ロン・ハワード監督、ロバート・ラングドン教授を演じるトム・ハンクス主演のミステリー、「インフェルノ」。この言葉はもちろん「地獄」という意味で、古くからのホラーファンなら、1980年のダリオ・アルジェント監督のホラーと同じ題名であることを知っているかもしれない。だがこれは、そのホラー映画とは全く違う内容である。既によく知られていることと思うが、この「インフェルノ」は、ダンテの「神曲」の「地獄篇」を意味するからだ。なるほど、ロバート・ラングドン物にふさわしい題材ではないか。これはボッティチェリ描くところのダンテ。
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ダンテは1265年生まれ、1321年没だから、ボッティチェリらルネサンスの時代からでもざっと150~200年ほども前の人。因みに私よりもぴったり700歳年上だ(笑)。だが彼の代表作「神曲」はルネサンス文化に大きな影響を与えたほか、さらに後世のロマン主義音楽においても、リストやチャイコフスキーなど、文学的素養のある作曲家の手によって音楽化されている。まさに西洋文明の根幹をなす文学作品であると言えるだろう。この映画では、そのダンテに関連するイメージを使いながら、ラングドン教授がフィレンツェ、ヴェネツィア、イスタンブールを舞台に駆け巡るという内容。登場する場所はかなり有名なものが多く、例えば「ダ・ヴィンチ・コード」のサン・シュルピス教会やロスリン礼拝堂などのマニアックな場所は出て来ない。その意味で、この映画に刺激を受けてロケ地を旅行するのはさほど難しくない。尚、私はこの映画の原作本をしばらく前に購入しているが、ほかの沢山の本と同様、未だ手をつけておらず、床に積んであるのだが、その本は普通の版ではなく、「ヴィジュアル愛蔵版」なのだ。
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文化好きならこの雰囲気に興味を惹かれない人はいないだろう。実際この本は、「神曲」に関係する絵画作品や、小説の舞台になっている場所のなど、オールカラーで写真が沢山入っており、パラパラ見ているだけでも悦に入ってしまうのである。その他私の手元には「神曲」が二種類あって、ひとつはギュスターヴ・ドレの挿画による抜粋版、もうひとつは「完全版」と称するもので、やはりドレの挿画が入っている。ドレの挿画はドレもみな、素晴らしいのである。
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そしてこの映画で謎の鍵を握る絵画として出てくるのが、ボッティチェリが描いた「地獄の見取り図」(ヴァチカン図書館蔵の「神曲」の挿画のひとつ)である。
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これだけでは分かりにくいかもしれないが、地獄の各層にいる死者や怪物を描いている。私はこのボッティチェリの手になる「神曲」の挿画について詳しく知るところではないが、この画家のいつもの精緻で華麗な筆遣いはあまり感じられず、むしろ稚拙なまでに惨たらしいヴィジョンを描いていて、それが却って鬼気迫るものになっている。映画の中では、壁に投影されるこの絵の中に最初のヒントが隠されていて、それをもとにラングドンと、彼と病院で知り合った女医であるシエナ・ブルックスの決死の冒険が始まるのである。
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いつもの通りネタバレは避けるが、ストーリー自体はさほど複雑ではない。人口が膨れ上がり、温暖化が進み、社会不安が募り、絶滅する動物種が急増しているこの地球において、現時点で人口を半分にすれば、むしろ人類の滅亡は防げるのだ、という過激な思想の持主の科学者が生物兵器を作り、それを巡って起こる争いを描いている。突然襲撃されたために過去48時間の記憶が明確でないラングドンに、容赦なく襲い掛かる危機また危機、そして深まる謎また謎というわけだ。クライマックスに至るまでに、いくつかのミスダイレクションが鮮やかに解きほぐされ、真相に驚愕のあまり呆然とするほどではないが、「お、なるほどそう来たか」と思わせる展開が心地よい。誰が敵で誰が味方なのか、見ている方は映画の描写に素直に沿って考えて行けばよいだろう。騙されるのも楽しいくらいの余裕を持って見るべきだ。

それにしても、この映画でラングドンは最初から最後まで、かなりひどい目に遭うのだが、最近「ハドソン川の奇跡」で重厚かつ存在感のある演技を見せたばかりのトム・ハンクスが、ここでは一転して、知的でもあり人間味あるユーモアも持つラングドン教授を喜々として演じているのを見るのは楽しい。いや、繰り返しだが、かなりひどい目には遭うのであるが(笑)。
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共演のシエナ役のフェリシティ・ジョーンズは、英国出身の33歳。どこかで見た顔だと思ったら、今劇場で予告編が流れている「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」のヒロイン役だ。このシエナ役、大変に難しいと思うのだが、なかなか頑張って演じている。それほど美形ではないが、何か一生懸命さを感じさせて、印象は悪くない。
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そして私が感心するのは、名匠ロン・ハワードのスピーディかつ要領を得た演出である。上記の通りのミス・ダイレクションの数々を活かすには、登場人物たちの細かい表情や仕草が重要になり、また、カット割りを含めた全体の大きな流れが出来ていないと成功しないと思うが、この監督の優れた手腕によって、非常に手慣れた感じに仕上がっている。時にはアップを多用し、また時には観光名所を美しく撮り、主人公たちが襲撃されるシーンの迫真性も素晴らしい。ハードなシーンも多い映画だが、きっと撮影現場にはこんな感じで和やかさもあったのではないかと推測する。でも、トム・ハンクスは本当にひどい目に遭うんですけどね(笑)。
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このように、高く評価できる作品であったのだが、さて、私の憂鬱はまた戻ってくる。実際の世界は、これから一体どうなるのか。まさか本当に人類の半分を殺してしまうような超強力な生物兵器が簡単にできるとは思わないが、すべての人が幸福に暮らせるユートピアの実現もまた難しい。だが、ともあれ絶望に打ちひしがれるのではなく、未来に希望を持つことがまず大事であろう。唐突な例かもしれないが、私は、高校生の頃に新聞の不鮮明な写真でイスタンブールのシスターン(地下貯水池)にある、柱の下に刻まれたメデューサの像を見て、まさに鳥肌立つ興奮を感じ、いつかそれを見たいと念じていたところ、幸いにもこれまでの人生で2度、その地を訪れることができた。希望を持てば叶うこともあるのだ。そのメデューサ像の神秘的な雰囲気は、まさに期待通りであって、私の心に深く刻まれている。「007 ロシアより愛をこめて」でもロケ地として使われているが、この「インフェルノ」でも、映画の雰囲気作りに大きく貢献する場所として登場するのである。以下の写真で、手前のメデューサの首はさかさまに、奥のものは横向きになっていて、その理由は未だ判明していない。なんという神秘。
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世界にはこのような神秘的な歴史遺産が数多く残されている。政治の世界がどうであれ、このような場所にこれからも行くことを励みにすると、人生に希望が持てようというものだし、またそのような刺激を与えてくれる映画を、これからも見て行きたい。恐ろしい内容の「インフェルノ」から希望を探すという無謀な試みも、実際に現実世界で起こっている奇想天外さに比べれば、さほど奇異なものではないはずだ!!

by yokohama7474 | 2016-11-10 01:48 | 映画 | Comments(2)

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最近のハリウッド映画では、古典的なキャラクターやアメリカン・コミックのヒーローたちを主人公としたシリーズ物が多く作られている。そのうちの幾つかの例はこのブログでも採り上げているが、ざっくりとした印象では、成功作と失敗作がある程度分かれる傾向があるようにも思う。巨額の資金をつぎ込み、超弩級のCGを駆使した映画ばかりで、エンドタイトルには長々とスタッフの名前が載る。いつの頃か知らないが、組合との協定で、関わった人たち全員の名前を載せる必要あることから、この現象は致し方ない。エンドタイトルが少ないのは、ウディ・アレンの映画くらいではないか(笑)。だがそのような大人数が関わって膨大な分業体制の中で完成する昨今の映画においては、本来は総責任者であるべき監督や、あるいはプロデューサーの手腕を本当に発揮できる要素がどのくらいあるのだろうか、と考えることが多い。

この映画は、言うまでもなく昔のSFテレビドラマ「スタートレック」をもとにしている。これが昔懐かしい、白黒番組の中の、とんがり耳のミスター・スポックとカーク船長。
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対して、現在のキャストはこんな感じだ。スポック役は髪型と耳のかたち、それから隠れたポイントとして眉を作れば結構似てくるが(笑)、カーク役の雰囲気もなかなかよいではないか。この役者については後で語ろう。
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このシリーズは2009年から始まっており、これが3本目。私はもともと白黒ドラマの「スタートレック」には大した思い入れもないが、最近のシリーズものは、この3作目の「BEYOND」まですべて見ている。そして、どれも大変楽しんでいる。私の見るところ、それはやはりこの男の力に依っているところが多いだろう。
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J・J・エイブラムス。最近の業績としては、「スター・ウォーズ フォースの覚醒」の監督がもちろん最大のものであろうが、実はCGを駆使した超大作だけではなく、このブログでも採り上げた「10クローバーフィールド・レーン」の製作や、私が愛してやまない「SUPER 8 / スーパーエイト」の脚本・監督も手掛けているのである。それらの流れから、決して巨額資本ありきの発想で映画を作っているのではなく、いわゆる空想物に対する本気度を持つクリエーターであることが分かるし、だからこそ、この人が関与したものなら期待できるのではないかと思わせる、現代のカリスマなのである。私がこの新しい「スター・トレック」シリーズに注目するのも、最初の2作はエイブラムス自身の監督、本作では製作を手掛けているからなのである。

そして実際、このシリーズはどれも面白いし、今回も期待を裏切られることはなかったと申し上げよう。ストーリーは至って簡単。カーク船長率いる宇宙船エンタープライズ号は、救命ポッドに乘った異星人のSOSを受け、惑星アルミタッドに向かう。そこでエンタープライズ号は攻撃を受け、乗務員たちは地上に上陸。その星には、100年以上前に消息を絶った地球製の宇宙船が隠されていた。敵の親玉、クラールの企みを、カーク船長以下の活躍によっていかに打ち砕くのか。・・・といった具合。ここには、最近はやりの「実は」「実は」という隠し玉は、ある程度予想される以上は何もない。だが、それでも楽しめるのは、キャラクターの描き方がよい、役者がよい、ヴィジュアルのセンスがよい、ということが寄与していると思う。なんだ、どれも映画の基本じゃないか(笑)。

先にヴィジュアルについて語ろうか。CGというものはただの技術である。その技術をいかに使ってどのようなイメージを創り出すかということが大事。その点、この映画のヴィジュアルは、なんとも新鮮なものも沢山あり、見ていて本当に飽きるということがなかった。例えばこの、魚群のような敵の来襲。作り物と分かっていても、あぁ、もうダメだ、と思ってしまうこの感覚(笑)。
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その一方で、異星人のメイクなどは古典的な要素があって、CG疲れがしがちなこの手の映画においては、何やらほっとする要素になっていると思う。これが悪役クラール。
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これは、新キャラクターであるジェイラ。どうです、癒されるでしょう(笑)。演じる女優はソフィア・ブテラ。
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この女優さん、名前に何やら聞き覚えがあると思ったら、あっ!!!私にとって昨年のベスト映画「キングスマン」(昨年9月23日の記事ご参照)において、サミュエル・L・ジャクソンの秘書兼用心棒役を演じていたあの女優(もともとダンサーであり、モデル)ではないか!!!あー、素顔を見せないとは、なんとももったいない(笑)。
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そして、なんと言ってもこの映画の成功の立役者は、主役のカーク船長を演じるクリス・パインであろう。
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このシリーズの第1作、2009年の「スター・トレック」では、優れたキャプテンであった父のプレッシャーから逃れようとする、はぐれ者で屈折した自信満々の若きカークを、活き活きと演じていた。2013年の「スター・トレック イントゥ・ダークネス」を経て、また「エージェント : ライアン」のような意欲作でも主役を張って、この映画である。実際のところ、役者の成長が役柄の成長と一致しているように思われて、実に素晴らしい。これも、J・J・エイブラムスが仕組んだ業なのであろう。因みに監督のジャスティン・リンは、台湾生まれの43歳。「ワイルド・スピード」シリーズ(私は、主役のヴィン・ディーゼルが生理的にあまり好きでないので、見ていないのだが)を手掛けてきた監督だが、もともとはインディーズ系の人らしい。エイブラムスのお眼鏡にかなった人だということだろう。

これまでのスター・トレック物を見ていない人にとっても、かなり楽しめる内容であると思うが、できれば前2作を予習してから劇場に足を運べば、より一層楽しめるものと思います。

by yokohama7474 | 2016-11-02 01:07 | 映画 | Comments(0)