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現代ハリウッドを代表する俳優、マット・デイモンが主演を務める「ジェイソン・ボーン」シリーズの新作。当然大ヒット間違いなしと思っていた。ところが、このブログでは同様の例を何度も書いているような気がするが(笑)、ふと気が付くと、封切1ヶ月にして既に上映している劇場は都内でも数えるほど。そんなはずはないだろうと思いながら、ほかの予定との兼ね合いを懸命に考え、ちょっと無理をしてなんとか見ることができた。実際に見てみると、あまりヒットしなかったのもなんとなく分かるような気もするし、一方で、それはもったいないという気もする。たまたま似たようなタイプの映画で、こちらはトム・クルーズ主演の「ジャック・リーチャー NEVER GO BACK」の封切も始まったという事情も関係しているのだろうか。だが、私がこの「ジェイソン・ボーン」を鑑賞した際には、そこそこ人が入っており、やはり私と同じように「そんなはずはない」と呟きながら劇場に急いだ人たちもそれなりにいたということだと思う。

さて、「ボーン・アイデンティティ」(2002)に始まるこのシリーズ、「ボーン・スプレマシー」(2004)、「ボーン・アルティメイタム」(2007)の3作に加え、監督・主演は異なるものの、同時進行する物語として「ボーン・レガシー」(2012)がある。私は最初の3作は見ているが、正直なところ、作品と作品の間に時間が空きすぎたきらいがあり、主人公ボーンが過去の記憶を失い苦悩する場面はもちろん覚えているものの、なんとか計画という固有名詞までは覚えておらず、シリーズ物の場合はそのような点がどうしてもネックになるケースがある。現代人はなかなか忙しく、実に多くのログインIDやパスワード(しかも業務に関係するものはそれを定期的に変えて行く)を、いちいち覚えていなくてはならない。それに加えて加齢という不可避の要因もあり、15年近くに亘って続く映画のシリーズの内容詳細までは、どうしても覚えていられないのが厳粛な事実である(笑)。なので、映画の冒頭に出てきてかなり暴れまくるニッキー・パーソンズという女性(演じるのはジュリア・スタイルズ)が、やけにボーンとなれなれしいと思ったら、後で調べてみて過去3作すべてに出演しているキャラクターであったと判明。でも本当に覚えていませんでした!!
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この映画のある意味で潔いところは、過去のシリーズを冒頭でおさらいするという気遣いのない点であるとも言える。こういう時代だから、過去の作品について調べ、必要あれば作品本編を鑑賞することも極めて簡単なことだ。でも、やはり作り手としては、過去のシリーズがどうであれ、この作品で勝負しようという思いは当然あるであろうから、ここはひとつこちらも、この作品だけをじっくり見てみようではないか。

というわけで、私の期待は、今回初登場するキャラクター、CIAのサイバー部門を束ねる若きエージェント、ヘザー・リーに集まるのである。
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この女優は誰だろう。実は、私もこのブログにおいて「コードネーム U.N.C.L.E.」や「エクス・マキナ」の演技を絶賛したスウェーデン出身のアリシア・ヴィキャンデルだ。私は見ていないが(そして今度も多分見ないだろうが)、「リリーのすべて」でオスカーの助演女優賞を獲得した実績を持つ。
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だが、正直なところここでの彼女は、役柄上、溌剌としたところを出すシーンがなく、本来の持ち味が出ていない上、カッコいい女性エージェントで新境地を開いているようにも思われない。クールでありながら実はハートがあり、でもそれも本当のところは出世欲によるものかもしれない、という複雑な役柄であるが、笑顔を見せるシーンは一度もない。映画全体にセットされたハードボイルドなトーンにおいてはそうなるのかもしれないが、もし複雑な役柄を表現したかったら、監督のポール・グリーングラスは、彼女を一度くらい笑わせてみてはいかがだったろうか。

その点、彼女の上司を演じるトミー・リー・ジョーンズはさすがである。この人独特の人間味と、社会の中で責任を全うしようとするがゆえの冷酷性をよく表現していて、見事。
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それから、敵役のスナイパーを演じるのは、フランスを代表する名優、ヴァンサン・カッセル。
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フランス人の英語は通常、大変な癖があるので、ハリウッド映画では「フランス人」としての役を演じる場合が多いが、この映画の場合は国籍はあまり関係なく、心なしか彼の英語も、以前より上達したように聞こえる(笑)。まあ、スナイパーだから、ベラベラ喋りまくるという設定にはなってはいないのですがね。ここでの彼の演技は、狂人的な要素はそれほどなく、主人公が迎え撃つ最強の敵という圧倒的な存在、ということでもない。だがもちろん、ヴァンサンの演技はなかなか渋くてリアリティがあることは確か。

そんな役者陣の中で、相変わらず役のイメージをクリアに伝える演技をするのが、主役のマット・デイモンだ。彼も既に46歳。このシリーズの最初の頃よりは、この役を演じるための肉体的ハードルは上がっているのは確実だろう。実際インタビューの中で、久しぶりのボーン役について、お気に入りのキャラクターだから役作りは苦にはならないが、自分の年齢で鍛え上げた肉体を作るのは大変なことだったと白状している。だが、このようなシーンにおいて、肉体美そのものというよりは、全身から発する「気」のようなものでその人物の強さを表現できる俳優は、そうそういないと思う。
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そしてこの映画、銃撃戦にカーチェイス、それに肉弾戦と、ある意味ではお定まりのアクション映画の要素が一通り詰め込まれているのであるが、ひとつ新味があるとすると、ITを駆使して、ハッキングがどこで行われているか、目指す相手がどこに潜んでいてどこに向かっているか、そういったことが遠くのオペレーションルームからすべて手に取るように分かるということだ。これをされてしまうと、逃走する主人公たちが絶体絶命の状態にあると感じることができて、その点では効果的であったといえる。だが、振り返って考えてみるとこの映画、かなり地味な内容なのである。CIAのなんとか計画がどんなものであれ、そこで明かされる謎に驚天動地ということにはならないし、善悪が大きく逆転することもなく、「ああ、こういう組織ならそういうこともありそうだね」くらいであると言ってもよいだろう。そして、CGを使いまくる昨今の映画における敵役が、クライマックスでど派手な最期を用意されているのに対し、その点もこの映画は古典的かつ、本当に決着がついたか否かすらも判然としないくらい、あっさりしている。そういった要素を考えると、あまりヒットしない理由も分かるような気がしてくるのだ。

ただ、この時代になってくると、誰のために戦うのか、世界をどう変えられるのか、悪に立ち向かうにはいかなる決断が必要なのか・・・そういった事柄について、大勢で同じ価値観を共感できるような楽天性は、もう描けないのかもしれない。そういえば、上で触れたアリシア・ヴィキャンデル以外でも、ここに出ている俳優には、おしなべて笑顔がない。上のポスターによると「新章始動」とあるので、ここからまたジェイソン・ボーンの新たな戦いのシリーズが始まるのであろう。しょうがない、このボーンの真剣な表情に免じて、その戦いにお伴するとしよう。でも、またあまり間を空けての制作になると、今回の内容を忘れてしまいます!!早く次を撮って欲しい。
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by yokohama7474 | 2016-11-17 00:41 | 映画 | Comments(0)

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気が付くと今年も残り2ヶ月を切ってしまっているが、後世から見て、2016年は一体どういった年であったと評価されるであろうか。今これを書いている11月9日深夜から半日ほど前に決定した米国大統領選の結果は、間違いなくこの年の大事件であると記憶されるであろうし、それに数ヶ月先立って世界に衝撃を与えたBREXITも、もちろん後世に語り継がれる大事件であろう。このブログは私の政治的信条を述べる場ではないので、これらの点について深入りはしないが、今世界で一体何が起こっているのかという、名状しようのない不安に駆られることは事実である。それはトランプ大統領の誕生が不安だという単純な意味ではなく、先進国における民衆の判断が、「まさかこんなことが」と思う結果になること自体が不安だという意味だ。世界の人口は73憶。富の分配はどうなっているのか。安定的な国際秩序は取り戻せるのか。そして将来の世界はどのようになって行くのか。

軽口三昧の私がいつになく神妙に書いているのは、つい最近この映画を見たせいでもある。「ダ・ヴィンチ・コード」「天使と悪魔」に続くダン・ブラウン原作、ロン・ハワード監督、ロバート・ラングドン教授を演じるトム・ハンクス主演のミステリー、「インフェルノ」。この言葉はもちろん「地獄」という意味で、古くからのホラーファンなら、1980年のダリオ・アルジェント監督のホラーと同じ題名であることを知っているかもしれない。だがこれは、そのホラー映画とは全く違う内容である。既によく知られていることと思うが、この「インフェルノ」は、ダンテの「神曲」の「地獄篇」を意味するからだ。なるほど、ロバート・ラングドン物にふさわしい題材ではないか。これはボッティチェリ描くところのダンテ。
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ダンテは1265年生まれ、1321年没だから、ボッティチェリらルネサンスの時代からでもざっと150~200年ほども前の人。因みに私よりもぴったり700歳年上だ(笑)。だが彼の代表作「神曲」はルネサンス文化に大きな影響を与えたほか、さらに後世のロマン主義音楽においても、リストやチャイコフスキーなど、文学的素養のある作曲家の手によって音楽化されている。まさに西洋文明の根幹をなす文学作品であると言えるだろう。この映画では、そのダンテに関連するイメージを使いながら、ラングドン教授がフィレンツェ、ヴェネツィア、イスタンブールを舞台に駆け巡るという内容。登場する場所はかなり有名なものが多く、例えば「ダ・ヴィンチ・コード」のサン・シュルピス教会やロスリン礼拝堂などのマニアックな場所は出て来ない。その意味で、この映画に刺激を受けてロケ地を旅行するのはさほど難しくない。尚、私はこの映画の原作本をしばらく前に購入しているが、ほかの沢山の本と同様、未だ手をつけておらず、床に積んであるのだが、その本は普通の版ではなく、「ヴィジュアル愛蔵版」なのだ。
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文化好きならこの雰囲気に興味を惹かれない人はいないだろう。実際この本は、「神曲」に関係する絵画作品や、小説の舞台になっている場所のなど、オールカラーで写真が沢山入っており、パラパラ見ているだけでも悦に入ってしまうのである。その他私の手元には「神曲」が二種類あって、ひとつはギュスターヴ・ドレの挿画による抜粋版、もうひとつは「完全版」と称するもので、やはりドレの挿画が入っている。ドレの挿画はドレもみな、素晴らしいのである。
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そしてこの映画で謎の鍵を握る絵画として出てくるのが、ボッティチェリが描いた「地獄の見取り図」(ヴァチカン図書館蔵の「神曲」の挿画のひとつ)である。
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これだけでは分かりにくいかもしれないが、地獄の各層にいる死者や怪物を描いている。私はこのボッティチェリの手になる「神曲」の挿画について詳しく知るところではないが、この画家のいつもの精緻で華麗な筆遣いはあまり感じられず、むしろ稚拙なまでに惨たらしいヴィジョンを描いていて、それが却って鬼気迫るものになっている。映画の中では、壁に投影されるこの絵の中に最初のヒントが隠されていて、それをもとにラングドンと、彼と病院で知り合った女医であるシエナ・ブルックスの決死の冒険が始まるのである。
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いつもの通りネタバレは避けるが、ストーリー自体はさほど複雑ではない。人口が膨れ上がり、温暖化が進み、社会不安が募り、絶滅する動物種が急増しているこの地球において、現時点で人口を半分にすれば、むしろ人類の滅亡は防げるのだ、という過激な思想の持主の科学者が生物兵器を作り、それを巡って起こる争いを描いている。突然襲撃されたために過去48時間の記憶が明確でないラングドンに、容赦なく襲い掛かる危機また危機、そして深まる謎また謎というわけだ。クライマックスに至るまでに、いくつかのミスダイレクションが鮮やかに解きほぐされ、真相に驚愕のあまり呆然とするほどではないが、「お、なるほどそう来たか」と思わせる展開が心地よい。誰が敵で誰が味方なのか、見ている方は映画の描写に素直に沿って考えて行けばよいだろう。騙されるのも楽しいくらいの余裕を持って見るべきだ。

それにしても、この映画でラングドンは最初から最後まで、かなりひどい目に遭うのだが、最近「ハドソン川の奇跡」で重厚かつ存在感のある演技を見せたばかりのトム・ハンクスが、ここでは一転して、知的でもあり人間味あるユーモアも持つラングドン教授を喜々として演じているのを見るのは楽しい。いや、繰り返しだが、かなりひどい目には遭うのであるが(笑)。
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共演のシエナ役のフェリシティ・ジョーンズは、英国出身の33歳。どこかで見た顔だと思ったら、今劇場で予告編が流れている「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」のヒロイン役だ。このシエナ役、大変に難しいと思うのだが、なかなか頑張って演じている。それほど美形ではないが、何か一生懸命さを感じさせて、印象は悪くない。
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そして私が感心するのは、名匠ロン・ハワードのスピーディかつ要領を得た演出である。上記の通りのミス・ダイレクションの数々を活かすには、登場人物たちの細かい表情や仕草が重要になり、また、カット割りを含めた全体の大きな流れが出来ていないと成功しないと思うが、この監督の優れた手腕によって、非常に手慣れた感じに仕上がっている。時にはアップを多用し、また時には観光名所を美しく撮り、主人公たちが襲撃されるシーンの迫真性も素晴らしい。ハードなシーンも多い映画だが、きっと撮影現場にはこんな感じで和やかさもあったのではないかと推測する。でも、トム・ハンクスは本当にひどい目に遭うんですけどね(笑)。
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このように、高く評価できる作品であったのだが、さて、私の憂鬱はまた戻ってくる。実際の世界は、これから一体どうなるのか。まさか本当に人類の半分を殺してしまうような超強力な生物兵器が簡単にできるとは思わないが、すべての人が幸福に暮らせるユートピアの実現もまた難しい。だが、ともあれ絶望に打ちひしがれるのではなく、未来に希望を持つことがまず大事であろう。唐突な例かもしれないが、私は、高校生の頃に新聞の不鮮明な写真でイスタンブールのシスターン(地下貯水池)にある、柱の下に刻まれたメデューサの像を見て、まさに鳥肌立つ興奮を感じ、いつかそれを見たいと念じていたところ、幸いにもこれまでの人生で2度、その地を訪れることができた。希望を持てば叶うこともあるのだ。そのメデューサ像の神秘的な雰囲気は、まさに期待通りであって、私の心に深く刻まれている。「007 ロシアより愛をこめて」でもロケ地として使われているが、この「インフェルノ」でも、映画の雰囲気作りに大きく貢献する場所として登場するのである。以下の写真で、手前のメデューサの首はさかさまに、奥のものは横向きになっていて、その理由は未だ判明していない。なんという神秘。
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世界にはこのような神秘的な歴史遺産が数多く残されている。政治の世界がどうであれ、このような場所にこれからも行くことを励みにすると、人生に希望が持てようというものだし、またそのような刺激を与えてくれる映画を、これからも見て行きたい。恐ろしい内容の「インフェルノ」から希望を探すという無謀な試みも、実際に現実世界で起こっている奇想天外さに比べれば、さほど奇異なものではないはずだ!!

by yokohama7474 | 2016-11-10 01:48 | 映画 | Comments(2)

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最近のハリウッド映画では、古典的なキャラクターやアメリカン・コミックのヒーローたちを主人公としたシリーズ物が多く作られている。そのうちの幾つかの例はこのブログでも採り上げているが、ざっくりとした印象では、成功作と失敗作がある程度分かれる傾向があるようにも思う。巨額の資金をつぎ込み、超弩級のCGを駆使した映画ばかりで、エンドタイトルには長々とスタッフの名前が載る。いつの頃か知らないが、組合との協定で、関わった人たち全員の名前を載せる必要あることから、この現象は致し方ない。エンドタイトルが少ないのは、ウディ・アレンの映画くらいではないか(笑)。だがそのような大人数が関わって膨大な分業体制の中で完成する昨今の映画においては、本来は総責任者であるべき監督や、あるいはプロデューサーの手腕を本当に発揮できる要素がどのくらいあるのだろうか、と考えることが多い。

この映画は、言うまでもなく昔のSFテレビドラマ「スタートレック」をもとにしている。これが昔懐かしい、白黒番組の中の、とんがり耳のミスター・スポックとカーク船長。
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対して、現在のキャストはこんな感じだ。スポック役は髪型と耳のかたち、それから隠れたポイントとして眉を作れば結構似てくるが(笑)、カーク役の雰囲気もなかなかよいではないか。この役者については後で語ろう。
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このシリーズは2009年から始まっており、これが3本目。私はもともと白黒ドラマの「スタートレック」には大した思い入れもないが、最近のシリーズものは、この3作目の「BEYOND」まですべて見ている。そして、どれも大変楽しんでいる。私の見るところ、それはやはりこの男の力に依っているところが多いだろう。
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J・J・エイブラムス。最近の業績としては、「スター・ウォーズ フォースの覚醒」の監督がもちろん最大のものであろうが、実はCGを駆使した超大作だけではなく、このブログでも採り上げた「10クローバーフィールド・レーン」の製作や、私が愛してやまない「SUPER 8 / スーパーエイト」の脚本・監督も手掛けているのである。それらの流れから、決して巨額資本ありきの発想で映画を作っているのではなく、いわゆる空想物に対する本気度を持つクリエーターであることが分かるし、だからこそ、この人が関与したものなら期待できるのではないかと思わせる、現代のカリスマなのである。私がこの新しい「スター・トレック」シリーズに注目するのも、最初の2作はエイブラムス自身の監督、本作では製作を手掛けているからなのである。

そして実際、このシリーズはどれも面白いし、今回も期待を裏切られることはなかったと申し上げよう。ストーリーは至って簡単。カーク船長率いる宇宙船エンタープライズ号は、救命ポッドに乘った異星人のSOSを受け、惑星アルミタッドに向かう。そこでエンタープライズ号は攻撃を受け、乗務員たちは地上に上陸。その星には、100年以上前に消息を絶った地球製の宇宙船が隠されていた。敵の親玉、クラールの企みを、カーク船長以下の活躍によっていかに打ち砕くのか。・・・といった具合。ここには、最近はやりの「実は」「実は」という隠し玉は、ある程度予想される以上は何もない。だが、それでも楽しめるのは、キャラクターの描き方がよい、役者がよい、ヴィジュアルのセンスがよい、ということが寄与していると思う。なんだ、どれも映画の基本じゃないか(笑)。

先にヴィジュアルについて語ろうか。CGというものはただの技術である。その技術をいかに使ってどのようなイメージを創り出すかということが大事。その点、この映画のヴィジュアルは、なんとも新鮮なものも沢山あり、見ていて本当に飽きるということがなかった。例えばこの、魚群のような敵の来襲。作り物と分かっていても、あぁ、もうダメだ、と思ってしまうこの感覚(笑)。
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その一方で、異星人のメイクなどは古典的な要素があって、CG疲れがしがちなこの手の映画においては、何やらほっとする要素になっていると思う。これが悪役クラール。
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これは、新キャラクターであるジェイラ。どうです、癒されるでしょう(笑)。演じる女優はソフィア・ブテラ。
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この女優さん、名前に何やら聞き覚えがあると思ったら、あっ!!!私にとって昨年のベスト映画「キングスマン」(昨年9月23日の記事ご参照)において、サミュエル・L・ジャクソンの秘書兼用心棒役を演じていたあの女優(もともとダンサーであり、モデル)ではないか!!!あー、素顔を見せないとは、なんとももったいない(笑)。
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そして、なんと言ってもこの映画の成功の立役者は、主役のカーク船長を演じるクリス・パインであろう。
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このシリーズの第1作、2009年の「スター・トレック」では、優れたキャプテンであった父のプレッシャーから逃れようとする、はぐれ者で屈折した自信満々の若きカークを、活き活きと演じていた。2013年の「スター・トレック イントゥ・ダークネス」を経て、また「エージェント : ライアン」のような意欲作でも主役を張って、この映画である。実際のところ、役者の成長が役柄の成長と一致しているように思われて、実に素晴らしい。これも、J・J・エイブラムスが仕組んだ業なのであろう。因みに監督のジャスティン・リンは、台湾生まれの43歳。「ワイルド・スピード」シリーズ(私は、主役のヴィン・ディーゼルが生理的にあまり好きでないので、見ていないのだが)を手掛けてきた監督だが、もともとはインディーズ系の人らしい。エイブラムスのお眼鏡にかなった人だということだろう。

これまでのスター・トレック物を見ていない人にとっても、かなり楽しめる内容であると思うが、できれば前2作を予習してから劇場に足を運べば、より一層楽しめるものと思います。

by yokohama7474 | 2016-11-02 01:07 | 映画 | Comments(0)

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見たい映画を結構頑張って見に行っているつもりであるが、それでももちろん、封切で見逃す映画は数多くある。だが、海外出張に出かけるときに飛行機の中で、見逃した映画や、あるいは絶対劇場には見に行かないような映画を見る機会もあって、なんとか埋め合わせをしている。ところがである。飛行機の中で絶対に見ることができないシーンがある。それは飛行機の墜落場面。だから、「永遠の零」も途中で重要なシーンがカットされていたし、最近見た日本未公開の "Criminals" (ケヴィン・コスナー主演、ゲイリー・オールドマン、トミー・リー・ジョーンズ共演) でも、最後の重要なシーンがなく、あれれ???ということになってしまっていた。その意味で言うと、この映画の場合、数年前に公開されたデンゼル・ワシントン主演の「フライト」とともに、もうそれは飛行機で見るなど絶望的だ(笑)。

だからというわけではないが、この映画はどうしても見たいと思っていた。2009年1月15日、乗員乗客155名を乗せてニューヨークのラガーディア空港を出発したUS AirwaysのA320(英仏独の共同出資会社エアバス社製)が、離陸後まもなく、いわゆるBird Strike(あ、これは鳥がストをするという意味ではなく、鳥の衝突のことです)によって両方のエンジンの出力を失い、あわや墜落というところ、機長のとっさの判断でハドソン川に着水し、全員の命が救われたという実話が題材になっている。実は私は、この事故が起こる1年2ヶ月前まで、ニューヨークのアッパーウェストサイド、まさにハドソン川沿いに住んでいたので(犬連れで)、自分のよく知っている場所で起こったこの事故は、大変衝撃的であった。ちなみにこのブログの題名「川沿いのラプソディ」は、私が今住んでいる多摩川沿いで、気まぐれに話題があっちこっちに散らばるブログを書いていることを自ら揶揄して命名したものであるが、実はニューヨークでもやはり川沿いに住んでいたということで、やはり、ある世界と違う世界の境界であって魔物が出没する、川沿いという場所に惹かれる私の性向は、以前から変わらないものと見える(笑)。ちなみにこのハドソン沿い、ご近所には、ドナルド・トランプが建てたアパート群が沢山建っておりましたですよ。

そんな個人的な思い入れもあり、しかもクリント・イーストウッド監督、トム・ハンクス主演とくれば、もうこれは、見るのが義務である。これはすごいツー・ショットではないか。ハンクスはイーストウッドの監督作品に主演するのはこれが初めてのこととなる。イーストウッドがリハーサルなしにいきなり撮影をする主義なので、役者たちはこっそり集まってリハーサルしていたとか(笑)。
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イーストウッドは1930年生まれだから、今年実に86歳!!なんとも信じがたいし、最近の「J・エドガー」や「アメリカン・スナイパー」などでは、夢物語とは一線を画し、現代にまで続く米国の歴史、あるいはつい最近の出来事に鋭く切り込んでいて、そのハードな制作姿勢には誠に恐れ入る。そして、この、ほんの7年間の出来事についての映画も、そのような系譜に入るものである。米国の映画で驚くのは、当事者たちが存命であっても、実際に起こったことを映画の中で忠実に再現することが多いということだ。ここでも、関係者は皆実名で出ているようだし、エンドタイトルで理解できたことには、映画の中の乗客の一部は、実際にこの事故を経験した乗客であるようだ(役名の横に"Himself"とか"Herself"と出ていた)。US Airwaysの機体塗装や、機内の様子もそのままで、何かというとすぐに「この映画はフィクションであり、実在の人物・団体とは何の関係もありません」と注釈をつける日本の映画とは大違いだ。これは実在のサリー。
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イーストウッドの映画の特徴は、あえてストーリーをこねくり回すことなく、冷徹なまでの視点で、淡々とした描き方をすることである。説明的なシーンはほとんどない。例えばこの映画では、主人公(Sullenbergerという苗字によるものだろう、"Sully"と呼ばれている)である機長が若い頃に経験した戦闘機での着陸が、この事故といかなるつながりがあるのか、明確に示されることはない。また、調査委員会の家庭問題についての質問にも、サリーは思わせぶりな回答をするが、実際に家庭に問題があるようには見えない一方で、二人の娘について詳細に描かれることはなく、家族で画面に出てくるのは専ら妻(ローラ・リニー)だけである。また、Co-pilotであるジェフ・スカイルズ(アーロン・エッカート)については、その個人生活は全く描かれないばかりか、サリーとの関係も、本人たち同士の会話でしか描かれない。これらの要素は、劇映画として娯楽性を追求するなら、欠点になるものばかりである。
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だが、それにもかかわらず、この映画のインパクトは並大抵のものではないのだ。恐ろしい映画だとさえ言えるだろう。見る人の多くは、乗員乗客全員の命を救った英雄であるサリーが、調査委員会によって、本当にラガーディア空港に引き返す、あるいはほかの空港にダイバートすることができなかったのかという点について追及を受けるのを見て、義憤にかられるであろう。今回はその追及する方の人たちがいかにも憎たらしく見えるので(笑)、その義憤がいかにも当然のこととなる。だが、事実としては、航空機を川に着水させるなどということは無謀極まりなく、乗員乗客の生命を危機にさらしたことは疑いない。だから、それが本当に最善の策であったのか否かを知るため、調査委員会がサリーたちを追及するのは当然のことであろう。そのあたりも、リアリティに徹するイーストウッドの演出で、切れ味よく描かれている。人生において厄介なことは、結果を知ってから「こんな英雄を責めるなんてけしからん」というのは簡単であって、実際には、英雄的な行為自体の定義が曖昧になることがあることではないか。前述のデンゼル・ワシントン主演、ロバート・ゼメキス監督の「フライト」では、フィクションとして、英雄的な行為を果たした機長の人間的な弱さを抉り出し、それゆえに尊さを持つ人間の克己心が描かれていたが、この「ハドソン川の奇跡」は、そんな気の利いたことはしてくれないのである。観客は事件の当事者さながら、固唾を飲んで物事の成り行きを見つめることとなる。

そして、ここで描かれた出来事は、本当にフィクションよりも稀有なことである。正直なところ私は、機体が着水してから乗客が避難し、水が機内に入ってくるあたりで、体が震え始めてしまった。こんなことが実際起こったなどと、誰が信じようか。その後の救出劇も含め、人間の命の尊厳を深く感じる経験となった、と書くときれいごとのように響いてしまうが、もうそれしか言葉がない。映画にはこんなことができるのだ。

機体が着水している写真を掲載しようかと思ったが、やめておく。そんな光景、見たくもないし想像したくもない。その代わり、救出された後に乗員乗客を気遣うサリーの姿を載せておこう。韓国で船が沈没したときに真っ先に逃げて逮捕された船長がいたが、やはり人間、非常時には恐怖に駆られてしまう弱い存在なのである。だから、このサリーの勇気ある冷静な行動に、襟を正したくなるのである。
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飛行機の中では絶対に見られない映画ではあるが、また同時に、ほかの映画では絶対得られないような強いインパクトのある映画でもある。クリント・イーストウッドには、もっともっとすごい映画を作って欲しい。感動しました!!

by yokohama7474 | 2016-10-30 01:45 | 映画 | Comments(0)

真田十勇士 (堤幸彦監督)

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このところ戦国時代ネタが続いているので、それではということでこの映画を採り上げることとした。いや、正直なところ、そのような記事の流れを考えてから、慌ててこの映画を見に行ったわけである(笑)。いやもちろん、もともと見たかった映画であることは間違いないのだが。

あれはいつのことだったか、多分5年かあるいはそれ以上前だと思う。長野県の上田市に出掛けたとき、「真田の物語を大河ドラマに」という署名活動を目にした。もちろん、真田幸村のことは知っていたが、最強の敵である徳川家康を苦しめた勇敢な武将というイメージ以上に何か知識があるとすれば、子供の頃にNHKが人形劇で「真田十勇士」を放映していたことくらいであり、大河ドラマになるほどの材料があるのかなぁと、そのときは思ったものだ。そして数年を経て、今年放送している大河ドラマは「真田丸」。地元の人たちの思いが実ったのだとするとご同慶の至りではあるが、私自身はもともと大河ドラマにはそれほど思い入れのある方ではなく、この「真田丸」も時々見ているくらいなのである。だが、ひとつ私の心を虜にした真田幸村に関連する物語があったことを思い出した。それは村山知義の長編小説「忍びの者」だ。ここにはまさに真田の物語が大変面白く描かれていて、5分冊の長い作品を一気に読み切ったものである。忍者の親玉に関するあっと驚くトリックも最後に出て来るので、村山知義が日本のモダニズムにおいていかに重要な存在であったかを知らない人であっても、是非お読み下さいと推薦しておこう。岩波現代文庫版が中古で安く手に入る。市川雷蔵主演によってシリーズで映画化もされているが、私は残念ながらそれを見ていない。

さて、「真田十勇士」である。実は上にNHKの人形劇について書いたが、これは辻村ジュサブロー制作の人形を使ったもので、大当たりした「新八犬伝」に続くものであった。当時小学生の私はこの「新八犬伝」を毎日毎日食い入るように見ていたのだが、それは物語の悲惨さ(かわいそうな姫や、お互い兄弟であることを知らない犬士たち、そして不気味な玉梓の怨霊の出現)、そしてまさに、巡る因果は糸車という運命的な感覚に、子供ながらに強い呪術的なドラマ性を覚え、それに魅せられていたからであった。それに比べて「真田十勇士」の方は、同じ辻村ジュサブローの人形でありながら、ストーリーにロマン性を欠いているところがあると感じ、そのうち見なくなってしまった。白土三平の忍者ものに夢中になったのはそれよりかなり後、高校生から大学生の頃だったので、猿飛佐助や霧隠才蔵という忍者たちの登場にもあまりワクワクしなかったものだ。これが当時の主題歌のレコード。おぉ、あまり本編を見なかった割には大変に懐かしい(笑)!!
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まあそんな私と真田十勇士との過去の関係を長々と書くのはこのあたりでやめにして、この映画について語ろうではないか。今回、この映画と同じ6代目中村勘九郎主演で舞台でも上演されているのを知っていたが、実はこの映画、もともと2014年に制作された舞台作品がもとになっているのだ。私は最近はオペラ以外の演劇に出掛ける機会がめっきり減ってしまって淋しい限りなのであるが、この「真田十勇士」も、実は2年前に舞台にかかっていたとは知りませんでした。だが、この映画はあの堤幸彦(彼の「トリック」シリーズを私は結構好きなのである)の監督作品。彼が舞台版の演出家でもあるのだが(脚本も同じマキノノゾミ)、ここにはきっと、映画ならではの面白みがあるのではないか。
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映画の要点は、稀代の英雄と思われている真田幸村が実は腰抜けで、猿飛佐助や霧隠才蔵の知恵と後押しによって本当に立派な武士になり、後世に名を遺す大活躍をするというもの。嘘か真か。真か嘘か。その深遠な人生哲学(?)の機微を描いた大作映画である。このテーマは私にとってはなかなか共感できるもの。だって苦しいときに無理してでも楽し気な顔をしていると、そのうち本当に楽しくなって来て、苦労を乗り越えられますからね。芥川龍之介の小編「竜」ではないが、嘘から出た真には、ロマン性と現実性の双方がつきまとう。
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この映画、CGも多用しているが、かなりの数のエキストラを動員した群衆シーンが次から次へと出て来るし、殺陣にも凝ったものが多い(ちょっと雑然としすぎかとも思われるが)。役者も、松平健の家康(それと分からないほどの老け役)に、大竹しのぶの淀君。伊武雅刀が忍者の棟梁を演じるかと思えば、加藤雅也が情けない幸村を演じる。若手では、霧隠才蔵の松坂桃李に、その幼馴染のくのいち火垂(ほたる)は大島優子だ。豪華な役者の共演はかなり見応えがあることは間違いないのだが、率直なところ、主役の猿飛佐助を演じる中村勘九郎の演技があまりに歌舞伎風(あ、これは別に江戸時代のような抑揚でセリフを喋っているという意味ではなく、近代ものの歌舞伎に出て来るやんちゃな男のイメージ)で、その点の違和感を払拭することはできない。それから、もうひとつ率直なところで、役者ごとの演技の出来不出来には、明確に大きな差がある。なので、観客は映画の展開の中でいささか居心地の悪い思いをするのではないか。おっと、危ない危ない。あまり率直な感想を述べると、くのいちに命を狙われます。
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さて、私がここまで書いてきたことを悪口だと思う方は、試しに本編をご覧になるとよい。なぜここで大竹しのぶという稀代の女優が淀を演じているのか、なぜ勘九郎が歌舞伎の演技を引きずっているのか、なぜ脇役が目立たない演技をしているのか、分かる瞬間が来るだろう。そうすると私が上に書いたような点が、急にこの映画の美点に思われてくるものと思う。つまりこの映画の中で起こっていることは、すべてが嘘と真のつづれ織り。それこそ歌舞伎という日本が世界に誇る演劇の特性ではないか。その感覚の起爆剤として、大竹ほどの名女優が必要とされたということであろう。・・・うーん、見ていない人にはさっぱり分からない感想である(笑)。つまり私は思うのだ。堤監督自身が演劇で成し得た(であろう)ことを、CGに大群衆にクローズアップや効果音といった映画の特性を利用して達成したのが、この映画なのではないか。だからこの映画は舞台と表裏一体をなすものでありながら、映画としての独自の価値をも持つものだと言ってしまおう。勘九郎が嘘を真に変える瞬間のシーン、見事である。舞台なら当然、「中村屋!!」というかけ声が飛ぶだろう。

ところでこの映画、冒頭はアニメで始まり、「七人の侍」よろしく十勇士のメンバーが順々に揃って行くことになるのだが、それが結構長く続くので、ちょっと驚く。「この映画はアニメ映画ではありません。本編は数分後に始まります」という注釈が画面に出るほどだ(本当です)。それから、エンドタイトルでは、松任谷由実がこの映画のために書き下ろした曲をバックに、画面の左の方で荒いタッチのモノクロの劇画調で後日譚が描かれる。この最初と最後の部分には少し妙な感覚が残るのだが、作り手の意図は一体なんだったのだろう。その点は腑に落ちない思いが残った。

さて、日本人の判官びいきに訴えるこの真田の物語だが、上記のNHKの人形劇など、今見るともしかすると新鮮な思いで接することができるのではないかと思って調べてみると、なんと当時の番組の録画はほとんど残っておらず、実に全445話中たったの4話のみしか現存しないという。私が夢中になった「新八犬伝」も同様で、全464話中、現存はやはり4本のみ。これはなんとも淋しいことだ。幼少の頃に見たあの人形たちは、嘘か真か。もし勘九郎演じる猿飛佐助なら、「どっちでもいいよー。おめぇが本当のことだと思えば、本当のことで、それでいいじゃねぇかー」と言いそうですな。そうそう、こんな感じでした。私の人格形成のどこかに、これらの人形が大いに関係していると本気で思っている。
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映像も情報も限りなく増幅し、容易に手に入る現代には、素晴らしい、また便利な面も多々あるが、限られた娯楽、限られた情報に一生懸命かじりついていた時代のことを、時に思い出す意味もあるように思う。嘘と真の交錯を楽しむ感性があれば、過度にノスタルジックになることも避けられるものと思っている。

by yokohama7474 | 2016-10-27 22:35 | 映画 | Comments(0)

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この映画は9月30日に公開された。そして私がこれを見たのは10月9日。いかなる映画でも、私が封切一週間や10日で見に行くことはかなり稀である。というのも、見たい映画をチェックして、終了間近のものを優先して見に行くのが通常であるからだ。最近ちょっとバタバタしている上、コンサートは情け容赦なく決まった期日に行われるし(いや、まあ、チケットを買わなければよいのだが・・・笑)、見聞きしたものは記事をアップせねばならん。若干睡眠時間を削ってでも、文化ブロガーとしての矜持を持って、毅然として文化の諸相に立ち向かわねば。というわけで、朝9時前から爽やかなゾンビ映画の鑑賞となったわけだ。

以前も書いたが、私はゾンビ映画が三度の飯と同じくらい好きなのであるが、和製ゾンビ映画の傑作「アイ アム ア ヒーロー」についての記事を書いたときに友人から、「ああ、コイツ『ウォーキング・デッド』を知らねぇなと思ったよ」と厳しいコメントをもらった。私は和洋を問わずテレビドラマはほとんど見ないし、自宅のテレビでディスクを見ることも最近はほぼ皆無だ。よって、この素晴らしく感動的らしい米国のゾンビ物テレビドラマのことを、残念ながら今に至るも全く知らないのである。だが、「高慢と偏見とゾンビ」なら知っている。なぜなら2010年に、この映画の原作を読んだからだ。
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この本、実は米国で200万部以上の大ヒットとなり、世界20以上の言語に訳されているという。伝統的な古典小説に奇妙なテイストを与えているとはいえ、ナポレオン戦争当時の人々の不安を、ゾンビへの恐怖へと絶妙に置き換えた手腕はなかなかのもの。モトネタがよく知られている英語圏では、パロディの意味がよく分かるのであろう。だが、とりあえず私にとって重要なのは、この本についている帯だ。私の手元の本から撮影したものがこれ。
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そう、この6年というもの、ナタリー・ポートマン主演のゾンビ物を、今か今かと待ちわびていたのである。なので、この映画の予告編を見たときに飛び上がって喜び、公開日を迎えたのだが、調べてみると、公開日からわずか一週間しか経っていないのに、近くのシネコンでは朝1回の上映しかしていない!!これはいかん。ボヤボヤするとすぐに上映終了となってしまうぞとの危機感にとらわれて、慌てて見に行ったというのが真相だ。

だが、もちろんこの作品は、もともとの「高慢と偏見」を全く知らないと、面白くもなんともない。そのあたりが鑑賞のハードルを上げているというのはどうしようもない事実。つまり、ジェイン・オースティン(1775-1817)を知っていてかつゾンビ好き、そんな人しか興味を持たないのであるが、はて、そんな人、世の中にどのくらいいるだろう(笑)。私の場合は、これはたまたま偶然なのであるが、悪魔的教示に満ちたエミリー・ブロンテの「嵐が丘」を読もうとして、実家で眠っていた昭和35年出版の筑摩書房の世界文學体系のうちの1冊を手に取ったところ、この作品が一緒に入っていたので、行きがかり上読んだもの(ちなみにそこでの邦題は「自負と偏見」)。正直私は、ロマンスとか恋愛ものには全然興味のない人間であって、そんな偶然でもなければこの作品を読むことはなかっただろう。だが読んでみて、200年以上も前に書かれた作品とは思えないほど人間の心情や社会のくびきを活写している点には瞠目した。要するに英国の片田舎で、没落の危機に瀕した家に5人の娘たちがいて、母親がなんとかして彼女らによい嫁入りをさせようとし、父親は愛情を持ちながら皮肉にそれを見ている中、何人かの男たちが求婚したり対立したりする人間ドラマである。設定は現代とはかけ離れたものであるが、描かれた人間心理には普遍的なものがあって、実に面白い。この映画の原作はその古風さにゾンビという異物を混入させることで、より強烈に人間のエゴとか、人間同士の愛の裏にある不可避の死といったテーマを浮き彫りにする、衝撃的な作品に仕上がっているのである。どうです、ゾクゾクするでしょう(?)。

では試みに、手元にあるオースティンの「高慢と偏見」と、それを米国の放送作家セス・グレアム=スミスが翻案した「高慢と偏見とゾンビ」の冒頭を比べてみよう。まずオースティン。

QUOTE
これは広く認められた真理であるが、独りもので金があるといえば、あとは細君を求めずにいられないものである。
UNQUOTE

次にゾンビ版。

QUOTE
これは広く認められた真理であるが、人の脳を食したゾンビは、さらに多くの脳を求めずにいられないものである。
UNQUOTE

もう可笑しくて仕方がない。このパロディ感覚、私の脳をつとに刺激するのである。その活性化した脳がゾンビに食われなければよいが・・・。とまあ、そんなことを考えて映画を見に行くと、映画の冒頭の語りが、上記の通りの小説の冒頭そのままで、ある屋敷のパーティがゾンビに襲撃される惨劇から話が始まるのを見てまずニヤリ。ゾンビ物のルールとして、感染によって死者が甦り、人間の脳を求める。ゾンビによって噛まれた者は、死して自らゾンビとなる・・・というものがあるが、ここでは、ゾンビと化した者が生者になりすまして社交界に紛れ込むという設定になっている。
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原作に登場する5人のベネット家の娘たちは同じ名前で全員出て来て、しかも全員が淑女のたしなみである(という設定の)東洋の武術を身に着けた、洗練された美女揃いなのである。
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だが待て。この映画、ナタリー・ポートマン主演ではなかったのか。いえいえ、実は私も、プログラムで名前を見て、そして映画で顔を見て思い出したのだが、これはリリー・ジェイムズ。あのケネス・ブラナー監督のディズニーの実写映画、「シンデレラ」の主演女優である。あれは大変よかった。これから大有望な素晴らしい女優だと思う。
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もちろんナタリー・ポートマンでもきっとうまく演じたと思うが、いかんせん、ちょっと年齢的に無理があっただろう(とはいえ、調べてみると、リリー・ジェイムズ27歳に対してナタリー・ポートマン35歳と、8歳しか違わないとも言えるのだが)。実はこの映画では、彼女は製作者のひとりに名を連ねている。いち早く原作を読んで映画化の権利取得に走ったようだが、自分を主演にしなかったのはむしろ懸命だと思う。

さてこの映画、どうせろくでもないパロディ映画なのだろうと思われる方もいるかもしれないが、どうしてどうして、映像も凝っているし、歴史的建造物でのロケも行われていて、相当な資金がつぎ込まれているものと思われる、本格的な映画なのである。例えば、あるシーンを見て私には強い既視感があったので、うーんと考え込み、脳の活性化を試み、はたと思い出して自宅の書棚から取り出して来たのが、ロンドン西部の郊外にあるSyon House (サイオン・ハウス)で購入した現地作成の小冊子。
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私が覚えていたのはこのアポロン像のある広間だ。もし映画をご覧になる方は、是非このシーンに注意して頂き、次回ロンドンに行かれるときには現地に足を運んでみられてはいかが。
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本作の脚本・監督を手掛けたバー・スティアーズは、私と同じ年の1965年生まれ。米国人で、もともと俳優としてキャリアを始め、タランティーノの「パルプフィクション」などに出ていたらしい。この作品は非常に要領よくまとめられていて、原作の持ち味をよく出していたと思う。なかなかの手腕である。
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果たしてこの映画の質が「ウォークング・デッド」と比べてどうであるかは私には分からない。だが、文芸作品の高い精神性とそのパロディの可笑しさ、加えて戦争やゾンビという人間に根源的恐怖を与えるものに興味のある方にはお薦めだ。世の中にはそういう人、あまり多くないかもしれないが・・・。


by yokohama7474 | 2016-10-15 23:42 | 映画 | Comments(0)

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最近このブログで映画を採り上げる際にしばしば考察しているのは、空想につぐ空想によって成り立っているファンタジー映画と、現実に題材を求めてそこから信じられない物語を紡ぎ出している映画との違いである。改めて考えてみると、最近の映画にはその両極端が増えて来ているような気がする。そして大概の場合の私の結論は、前者のタイプにはあまりのめり込むことはなく、後者のタイプの映画に鳥肌立つ思いがするということなのである。映画はウソの世界であり空想物語であって大いに結構だが、この時代になると人はもう、どんな空想にも驚くことはほとんどないし、むしろ現実の世界に驚愕の思いを抱くことが多いのではないだろうか。換言すれば、ウソがウソとしてのリアリティを持ちにくい時代。人を食ったような表現だが、どうもそういう気がしてならない。

この映画は、既にメジャーな映画館での上映は終了しており、ちょっと遠出してようやく見ることができたもの。昔懐かしい、いわゆる名画座というタイプの映画館だ。このような劇場が未だ大都市圏には存在していることを嬉しく思う。やはり、見たいと思った映画がなんとかこの手の劇場にかかっているというのは、人生に夢と希望を与えてくれる。大げさと言うなかれ。一本の映画との出会いが、その人の人生を変えることはある。いつそのような映画と出会うかは、私たち自身ではコントロールできないのである。

さてこの映画は、最初に挙げた分類で言えば純然たる後者、つまり、現実に起こった信じられないような出来事を克明に描いているものだ。時は2004年、米国大統領選のさ中に、当時の現役大統領、ジョージ・ブッシュの軍歴詐称というスクープを追ったジャーナリストたちの物語。まず驚くことのひとつめは、描かれている事実が、ほんの10年ちょっと前の経緯であること。ふたつめは、放送局CBSも実名なら、そこで活躍したジャーナリストたちも実名がそのまま役名となっていること。「えっ、そ、そうなの???」
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このブッシュ大統領の時代は、911 同時多発テロが起こったこともあり、今後も映画で頻繁に描かれる時代となるだろう。私も随分とそのテロ関係の与太話を書いた本や、それに反駁する論説を読んだし、ブッシュを口汚く非難するマイケル・ムーアの映画や、逆にそのムーアをこっぴどくこきおろした本なども、あれこれ読んできた。この時代とそれを巡る言説については、後世が歴史的評価をするであろうが、その評価が本当に正しいか否かは分からないし、時とともに評価が変わることもありうる。ただ確かなのは、この映画のように真面目な態度でジャーナリストの戦いを描いた映画が作られることで、歴史において権力が作り出そうとするストーリー以外の側面が後世の人々に知られる、ということではないか。歴史評価はしょせん人間の作るもの。正しいか間違っているかなど、そう簡単に結論づけられるはずもない。その点、正しいと信じて行動する人間の思いは、誰の心にも訴えかけるものであろう。その意味で、昨年のオスカー受賞作「スポットライト 世紀のスクープ」に近い面を持った映画である。試みに、両作品の写真を比べてみよう。まずこの映画。
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そしてあの映画。
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チームで働く勇気が出てきますねぇ!!(笑)

まあ、そのような硬い話(?)は抜きにして、この映画の中身について語ろう。ポスターにある通り、見どころはまず、ハリウッドの大御所ロバート・レッドフォードと、今や現代最高の女優のひとりであることは間違いないケイト・ブランシェットの共演である。今年80歳になるレッドフォードは、若い頃の活躍ぶりに比べれば、キャリア自体の盛り上がりが後年はもうひとつという気がするが、それでも、未だ元気に映画に出ていることは嬉しい。この映画では、実在のキャスターを演じていて、なかなかに渋い。だが正直言えば、老境の演技に涙がこぼれる、という感じではない。言葉を選ばずに言ってしまうと、若い俳優がラバーで老けメイクをして演じているような不自然さを感じるのだ(笑)。でもそれが、デ・ニーロともダスティン・ホフマンともアル・パチーノとも違う、彼の持ち味なのかもしれない。これら3人の俳優たちとの違いは明確で、レッドフォードはアクターズ・スタジオ出身でないということだ。納得できる説明のように思われる。
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その一方で、彼を業務上の父と慕う役柄のケイト・ブランシェットの演技は素晴らしい。ジャーナリストの女性というと、芯の強さばかり強調されそうであるが、この映画では彼女の家庭生活も描かれており(亭主とのつかず離れず、あるいは言葉は無用といった関係は、「スポットライト 世紀のスクープ」におけるレイチェル・マクアダムスのそれと共通点がある)、ひとりの女性としての喜怒哀楽もリアルに描かれているのである。これは、書いていて思い出すのだが、彼女の出世作であった「エリザベス」での演技と共通点がある。もちろん、違った役柄を様々演じてきている人ではあるが、役者としての持ち味は一貫したものがあるのであろう。素晴らしい才能。
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監督のジェームズ・ヴァンダービルトはこれが初監督作であるが、もともと脚本家で、「アメイジング・スパイダーマン」の脚本と、同シリーズ2作目の原案などを手掛けている。なるほどそうか。エマ・ストーン演じるグウェン・ステイシーが地上に落下するのをスパイダーマンが防げないという、ヒーロー物にあるまじく絶望的で悲劇的な設定を作ったのは、この人なのだろうか。もしそうならば、この「ニュースの真相」のようなセミ・ドキュメンタリーには適性があるのかもしれない。実際、この映画の登場人物たちの描かれ方には、絶対的な悪も絶対的な正義もない。それこそが人生のリアリティではないか。落下するステイシーをスパイダーマンが救えない世界こそが現実なのだ。ところでこの監督、特徴的な苗字なので調べてみると、米国の鉄道王コーネリアス・ヴァンダービルトの子孫である由。ニューヨーク近郊、ロードアイランドにあるヴァンダービルト邸には行ったことがある。英国の貴族の館のようなすごい場所である。その名門の家系から、このようなハードな映画を手堅く作る手腕を持つ監督が出るとは面白い。1975年生まれだが、なかなか押し出しの強い面構えではないか。
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前半でジャーナリストの戦い云々と書いたが、この映画を見た感想は、実はいかなる組織にでもあてはめてみることができると思う。怪文書は一体誰が何の意図で作成したのか。人々はその怪文書の何を恐れたのか。謎が解明されることはない。空気で物事が決まって行くという日本的特性にうんざりすることも多い昨今だが、論理的でフェアプレイを建前とする米国でも、人の集まるところ、様々な力学が働く。なのでここでのジャーナリストたちは決してスーパーヒーローではなく、人間としての限界の中で懸命に生きている人たちなのであり、それこそが説得力あるこの映画のリアリティなのであろう。

空気で大事な物事が決められる前に、名画座で本作品をご覧になることをお薦めしておこう。

by yokohama7474 | 2016-10-05 00:37 | 映画 | Comments(0)

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マーヴェル社のアメリカン・コミックを原作とし、数々の超能力を持つミュータントたちがその能力を遺憾なく発揮するド派手な映画シリーズ、それが「X-MEN」である。2000年に最初の映画が公開されて以来、これまでに5作のシリーズと、それから、主要キャラクターであるウルヴァリンを主役とする作品が2本。加えて、先頃このブログでもご紹介した「デッドプール」もこのシリーズの派生作品である。私はその中の一部しか見ていないが、よく考えて見ると、最初の作品から16年間でこの「X-MEN アポカリプス」を含めて9本の作品が作られているというペースはなかなかにすごい。日本人になじみのあるキャラクターはそれほど多くないが、米国ではきっと、それぞれのキャラクターにファンがいるような状況なのであろうか。

ただ、シリーズを重ねるごとに、時代を遡ったり進んだりするので、ちょっとまぎらわしいことが難点と言えば難点か。きっとマニアなら充分各キャラクターをフォローしていて、そのキャラクターに関するエピソードなどもそらんじているのであろうが、私はそこまでは全く到達していない。だが、そんな私とても、二人の主要キャラクターは分かる。これまでの作品でパトリック・スチュワートが演じてきたプロフェッサーX(チャールズ・エグゼビア)と、イアン・マッケラン演じるマグニートー(エリック・レーンジャー)だ。
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ところが今回の作品では、この二人は登場しない。いや、正確には、この二人の俳優は登場しない。だが、それぞれの役柄は今回も登場するのだ。どういうことかと言うと、今回の時代設定は1983年。若き日のチャールズとエリックが登場する。このような写真が分かりやすかろう。
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なぜこれを書いているかというと、私のようなのんき者は、映画の途中でこれらキャクターの若き日の姿であることに気づいたからである。遅いって(笑)。いや、もっと間抜けなことには、過去にハル・バリーが演じたストームの若き日の姿は分かったが、ファムケ・ヤンセンが演じたジーン・グレイについては、自宅で過去のプログラムを取り出してからハタと「あ、あれが」と気が付く間抜けぶり。ヒュー・ジャックマン演じるウルヴァリンは、今回は予告編でも少し出ていた通り、ごく一部しか出てこないが、そういえばほかの映画では、「ジーン」「ジーン」とうるさかったことを思い出した。すると、この映画には、ウルヴァリンとジーンの運命の出会いが描かれているということになる。
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今回若き日のジーンを演じるのは、ソフィー・ターナーという英国人の女優。1996年生まれというから、未だ20歳ということになるが、とてもそんなに若くは見えず、演技の質そのものはさておき、「若きジーン」を自然に分からせるような初々しさを感じさせる配役になっていない!!と、製作者側の責任にしてしまおう(笑)。
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劇中でジェニファー・ローレンス演じるミスティークが、このジーンに対して、「私がこの子ぐらいだった頃」というセリフを吐くが、正直、この2人の年の差がそれほど明確ではないので、予備知識のない方はあまり実感を持ってそのセリフが耳に入ってこないのである。こんなメイクをするのは誠にご苦労さんですなぁ。このキャラクター、私はあまり好きではないのだが、こういうメイクがたまらんっていう人もいるのだろうか。
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そんな中、今回強烈な印象を残すのは、なんと言っても強大な力を持つ敵役のキャラクター、アポカリプスである。聖書の「黙示録」を意味するこの言葉、この悪人にはピッタリなような大げさなような。
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演じるのは、以前映画「エクス・マキナ」の記事で称賛したオスカー・アイザックだ。素顔はこんな人だ。少し面影があるような、ないような。いずれにせよこの映画ではなかなかの存在感を発揮していて、悪役に存在感があると映画は面白くなるという鉄則に鑑みても、この作品は彼をこの役に得ただけで、既に面白い映画になることは確約されたようなもの。
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このように今回は、役者とそのメイクに焦点を当てた記事になっているが(笑)、その世界観とか細部の演出について、あまり語る必要を感じない。このシリーズの設定に特に思い入れのない私のような人は、例えば、世界のミュータントの意識が織りなす世界に入って行く巨大な機械、セレブロに冷ややかな目を向けてしまうのだ。現実に存在して、しかも我々の日常に入り込んでいるインターネットという奴でも、既に充分に気の遠くなるような複雑な世界だ。また、ユダヤ人のエリックがアウシュヴィッツで本格的に巨大な能力を発揮するあたりも、現実世界の狂気に拮抗する架空の設定としては、それほど衝撃的ではない。
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だがその一方で、これだけふんだんにCGを使って、普通我々が生きている実生活で目にすることがない(当たり前だが 笑)ような超常現象を、リアリティを持って見せられると、無条件に快感を覚えるのも事実。最近のヒーローもの映画の多くは、既に勧善懲悪では立ち行かないし、ヒーローであることの宿命に耐えかねて仲間割れを始めるなど、どうにもカタルシスのない作品が多いが、この映画はその点、もったいぶるシーンは少なく、単純に力と力が炸裂している。いかに現実離れしていても、これだけの映像を見るだけでも面白く見ることができる。あ、あと、登場人物のことをよく知らなくてもね(笑)。
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このシリーズ、来年ウルヴァリンの3作目が公開予定であるらしい。そのうちヒュー・ジャックマンの若い頃という設定の新進俳優でも出てくるのであろうか。これはシリーズ最初の作品「X-Men」での彼。さすがに若い。今やハリウッドの一流俳優に成長した彼も、この頃はどのように自分を発奮させて役作りに取り組んだのであろうか。
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功成り名を遂げたあとも、原点を大切にする人は立派である。どうやらヒュー・ジャックマンがウルヴァリンを演じるのは次回が最後とアナウンスされているようだが、「シン・ウルヴァリン」とかなんとか名乗って、またこの役に戻ってきてほしいものである。シリーズ自体もまだまだ継続してもらい、私はその度にストーリーを反芻させて頂きたいと思います(笑)。

by yokohama7474 | 2016-09-19 23:58 | 映画 | Comments(0)

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最近の日本映画においては、漫画の映画化が大変に目立つ。日本のヴィジュアルを主導しているのは漫画なのだろうか。もちろん私は、日本人が中世以来、漫画的なものを大変好んできたことを知っている。日本人の根源的な部分に、漫画的要素があるのだろうか。そしてこの映画も漫画を原作としているのである。ここであらかじめ断っておくと、私は昨今の漫画にはとんと疎く、一体どんなものが流行っているのか全く知識がない。ただこの映画については、映画館に貼ってあったポスターを見て、これは面白そうだなと思ったので、見に行くこととした。その大きな理由は、この映画の監督が「るろうに剣心」シリーズの監督、つまり2010年の大河ドラマ「龍馬伝」でチーフ演出家であった大友啓史であること、そして、音楽がその「龍馬伝」「るろうに剣心」双方で忘れ難い印象を残した佐藤直紀(なおき)であることだ。歴史の奔流が大変に劇的な渦を巻くあの雰囲気はなかなかに独特なもので、血沸き肉躍るものなのである。

この映画の上映時間は約2時間半。超大作である。役者の顔ぶれを見ても、なかなかのラインナップである。ただ、女優としては唯一栗山千明だけがなじみの顔で、ほかは皆男性の俳優なのであるが。実際この映画における男優のカテゴリーはかなり明確に2つに分かれる。すなわち、
 第1のグループ : 生田斗真、岡田将生、松坂桃李
 第2のグループ : 椎名桔平、リリー・フランキー、大友南朋
まあ要するに、若いイケメンと、それなりの年齢の幅広い芸風の役者ということである。まあここで明確にする必要もなく(?)、人間の心理の奥深さ、恐ろしさを描くために、このような2群の俳優が必要であったのであろう。ところがここに第3のカテゴリーの俳優がいる。
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ヒントは、私と同い年で(誕生日はたったの5日違い)、広島の修道高校出身。そう、この人、吉川晃司である。
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帝国重工の部長ならぬ彼のここでの役回りは、凶悪犯なのであるが、その正体は結局謎のまま。なんとも薄気味悪いのである。薄気味悪いと言えば、この映画自体がなんとも悪趣味で、死後すぐの人間の脳から視覚情報を取り出して、それを追体験することで殺人事件の真犯人を見つけようというもの。いやぁ、こんなことされたらたまらんですなぁ(笑)。
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その発想はそれなりには面白いと思うが、残念ながら映画としてはあまり成功していないと思う。その理由を遠慮なく列挙してみよう。
・悪役の女優に凄みが決定的に欠けている。この点は映画の生死を決する。
・イケメン俳優陣とベテラン俳優陣のギャップが大きすぎる。若いイケメンはなぜにかくも純粋で、くたびれたベテランはなぜにかくも醜いのか。椎名桔平はセリフなし。リリー・フランキーは偏執狂的に饒舌。大森南朋は情けなさすぎ。これって紋切型では?
・凶悪事件の当事者が脳外科医とされているのはリアリティなさすぎ。ストーリーを成り立たせるための設定であることが見え見え。
・観客に対するミスダイレクションが不充分。これでは誰も、「そうだったのか!!」という驚愕を覚えることはないだろう。
・そもそもの設定に無理あり。つまり、凶悪犯の記憶を辿るときに5時間をかける設定だが、そもそも何日か何ヶ月の記憶を辿るには、同じだけの時間が必要で、5時間など屁でもないはず。それとも、脳の記憶情報を辿る際に、早送りが可能とでもいうのだろうか。
・冷凍保存した死体の記憶が辿れるの??? しかもこの死体、涙まで流して(笑)。
・主人公の過去が充分描かれておらず、この映画だけでは明らかに完結していない。続編狙い?
・生田斗真と栗山千明の関係はなんなんだ!!!ちょっとなれなれしすぎないか。
・期待した佐藤直紀の音楽は、いつものうねり上がっていく迫力がない。唯一は、ラストのカタルシスを与えられる場面の音楽だけがそれらしい。

今日、リアリティのあるイマジネーションでストーリーを創造することは難しくなっているのであろう。現実に起こっている事柄の方がよっぽど怖い。そしてそれを見る無垢な動物の目は、人間と異なるがゆえに癒しの要素があるのである。だから、もし続編が出来ても、動物が主人公でないと見に行かないかもしれない。動物の知る Top Secret は、人間の実際のありようであるのかもしれないので。

by yokohama7474 | 2016-09-11 00:34 | 映画 | Comments(0)

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出張に出ていたため、一週間ほどブログの更新をしなかった。そして、再開はこの映画だ。実は出張前にも映画を見ているし、この映画を見る前にコンサートにも行っているのであるが、たまたま前回の記事が似たような題材を扱った「ジャングル・ブック」であったので、私としては同時期に公開されているこの2本を続けて採り上げたいと思ったもの。実際には、この記事で初めてこのブログをご覧になる方もおいでであろうし、継続性に気を遣ってもあまり意味がないのかとは思いつつも、自分自身の妙なこだわりというか、頭の整理のためにそうしたいと思ったものなのであります。ただ、東京で起こっている文化イヴェントとしての映画を語る際に、どういう作品が同時に上映されていたかを考える点は、あながち無意味ではないでしょう。

さて、前項で採り上げた「ジャングル・ブック」とこの「ターザン REBORN」の共通点は、いずれも密林で野生動物に育てられた人間が主人公ということであり、つまりは、人間による文明社会と動物の社会との対比が自然と大きなテーマになると言えよう。だが、これは言うまでもないことであろうが、この2つの映画、全く異なる内容である。「ジャングル・ブック」のモーグリは、森の中を駆け巡るが、「アーアァ~」と雄叫びを上げて蔓を使っての振り子移動はしないし、「ターザン REBORN」のターザンは、熊と一緒に川に浮かんで気楽な歌を歌いはしない。いや、その前に、大きな違いが3つある。ひとつは、モーグリは子供であるのに対してターザンは立派な大人であること(当然ながら 笑)。ふたつめは、「ジャングル・ブック」の動物たちは劇中で人間の言葉を喋るのに対し、この映画ではその設定はないこと。そして3つめは、これは実は結構重要なことなのであるが、「ジャングル・ブック」の舞台がインドであるらしいのに対し、この映画の舞台はアフリカであると明示されていることだ。最後の点について補足すると、「ジャングル・ブック」の記事で書いた通り、そちらの映画では虎が王者であり、ライオンは姿を見せなかったのに対し、この映画ではライオンが登場し、このようにターザンと旧交を温め合うのである。
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最初の点に戻ると、今回のターザンは、立派な大人もよいところで、英国の貴族なのである。米国人作家である原作者のエドガー・ライス・バロウズ(1875-1950、ほかにも「火星のプリンセス」のようなSFシリーズを多く執筆)の作り出したターザン像(1914年に初の単行本「類人猿ターザン」発表)について詳しく知るものではないが、一種の貴種流離譚としての設定があるのだろう。最初の方ではこのような恰好で登場する。サミュエル・L・ジャクソン扮する米国の特使が、人権調査のために、ターザン、いや、グレーストーク卿の故郷であるベルギー領のコンゴに出向くことを依頼するシーン。
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そして早い話が、グレーストーク卿はコンゴの密林の中で惜しげもなく(?)こんないで立ちとなり、襲い来る危機に立ち向かうのであった。演じるのはスウェーデン人のアレクサンダー・スカルスガルド。既に40歳とは思えない素晴らしいその肉体美とは裏腹に、この映画では随所に深刻な表情で登場する。
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ターザンと言えば、昔のハリウッド映画でその役を演じた、もと水泳のオリンピック金メダリスト、ジョニー・ワイズミュラーが有名だが、上の写真と下の写真を比べてみると、まあなんというか、時代の変遷を感じますなぁ。
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つまり、これはどのヒーロー物も同じなのであるが、21世紀も15年以上経過した今日、古きよき時代のように、ただ単純に悪い奴をやっつければよいというわけにはいかないのである。ヒーローにも弱みがあり、深い悲しみや触れられたくない過去があり、そして、場合によってはこの映画のように、歴史的事実とののっぴきならない対峙という要素も出てくるのである。つまりこの映画の評価には、そのような製作態度自体への評価がまず関係して来よう。私自身としては、このブログでもいくつかの映画におけるリアリティのなさには憤慨を示してきたが、その点この映画のリアリティは、ある前提のもとにではあるが、説得力のあるものであると思う。つまり、ここでターザンが巻き込まれるのは、欧州の帝国主義の一端としてのベルギーのコンゴ支配であって、英国でもフランスでもオランダでもよい、近代においてヨーロッパ各国や米国が、アフリカやその他の植民地で何をしていたかについてのイメージが多少でもあれば、ターザンが「アーアァ~」と雄叫びを上げるだけではすまない深刻な内容であると分かるはず。だからこれは、「ジャングル・ブック」のようなファンタジーではなく、実に社会派な映画なのであって、その点が評価の分かれ目になるように思う。

リアリティという観点では、例えばターザンの顔の傷など、あらゆるシーンでご丁寧にも同じ場所に同じように存在していて、これだけのCGあり、エキストラの大量出演ありの大作の中で、そのような細かい気遣いには感心する。
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また、ターザンとその妻ジェーンとの出会いのシーンにおいては、数年前ということが分かるように、登場人物の表情が少し初々しいものに感じられた。そのような細部の積み重ねからリアリティが生み出される。本作の監督、デイヴィッド・イェイツは「ハリー・ポッター」シリーズを手掛けており、次回作は「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」であるそうだが、魔法の世界を表すにもリアリティは重要であるということだろう。

リアリティと言えば、サミュエル・L・ジャクソン演じるジョージ・ワシントン・ウィリアムズや、クリストファー・ヴァルツ演じるレオン・ロムは実在の人物であるらしい。前者は、このところこの役者が演じている癖のある人物像の数々に比べれば、まっとうな役柄とは言えようが、そのセリフで語られる南北戦争や米国ネイティブ狩りの悲惨さから、一筋縄ではいかない複雑な人物像であると分かる。そして、この映画で明確な悪役であるレオン・ロム。どこかで見た顔だと思ったら、「007 スペクター」でも憎たらしい悪役を演じていた。やはりこの種の映画では悪役は非常に重要であり、この人の場合、画面に出るだけで、チンピラにはない品性を伴った本物の悪の匂いが漂う。もう善人の役は演じられないのではないかと心配になる(笑)。
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ターザンの妻ジェーンを演じるのは、オーストラリア出身のマーゴット・ロビー。「ウルフ・オブ・ウォールストリート」でディカプリオの妻の役を演じていたらしい。なるほど。でもここでの役は、ターザンを慕いつつもアフリカの奥地で自分の身は自分で守るという芯の強い女性を演じていて、なかなかに気品があり、美しい。
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だが、彼女の次回出演作を知ってビックリ。日本でも随分以前から予告編が上映されており、もうすぐ公開になる「スーサイド・スクワット」の、この役だ!!ならず者を集めた部隊という設定でも、かなりワルそうな女の役。いやいや、役者とは本当に大変なお仕事ですなぁ。
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「ジャングル・ブック」との比較において挙げたもう一点の差、つまり、ここでは動物たちは喋らないという点だが、実はその点も大変に興味深い。つまり、ここでのメッセージは、近代において世界を牽引し、文明度を誇ったはずの欧米諸国は、アフリカ奥地の原住民たち、さらにはそこに住む動物たちと比べて、一体どちらが野蛮であったかということであるからだ。動物たちが人間のように喋ったりすると、私利私欲で奔走する人間と同程度の野蛮な存在に堕ちてしまうというメッセージではないだろうか。「ジャングル・ブック」との共通点は、ここでも象が森の中の神聖な存在として出てくることである。日本には、先頃69歳で大往生した、はな子の例もあるし、今後は動物園で象を見るときには、神聖なものとして接することとしよう。

by yokohama7474 | 2016-09-04 09:40 | 映画 | Comments(0)