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ドクター・ストレンジ (スコット・デリクソン監督 / 原題 : Dr. Strange)

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とある人から、「今日は何の映画を見るんですか?」と訊かれて、「『ドクター・ストレンジ』ですよ」と答えると、「ええっ?! あの白黒映画、どこかの劇場でやっているんですか???」との反応。一体何かと思ったら、原題 "Dr. Strangelove"、日本公開名「博士の異常な愛情」のことであったようだ。ちなみに原題も邦題も実際にはもっと長いのだが、普通はこの題名で通っている。それは言うまでもなく鬼才スタンリー・キューブリック監督、ピーター・セラーズ主演の古い作品。いえいえ違います。この「ドクター・ストレンジ」は、「ドクター・ストレンジラヴ」とは全く違った映画で、「アベンジャーズ」シリーズで知られるアメリカンコミックのマーヴェル社のキャラクターが主人公。今回初めて、英国の名優ベネディクト・カンバーバッチ主演で映画化されたもの。少なくとも私は今回の映画で初めてそのキャラクターの存在を知ったが、調べてみると、マーヴェル社のアメコミのキャラクターとして初めて登場したのは、なんと 1963年と古いのである。
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ところが奇妙なことに、キューブリックの "Dr. Strangelove"、つまり「博士の異常な愛情」も、やはり同じ 1963年の制作なのである。ここには何か不思議な魔術的連関があるのであろうか。そう、これはアメコミにしては珍しい、魔術をテーマにした物語なのである。冷戦真っ只中の 60年代にこのような東洋的魔術や傲慢さへの戒めといった内容が受けていたとすると、当時米国が直面していた切迫した危機と、その裏腹の虚無感が、その背景にあるのかもしれない。もっともキューブリックの映画の方は、明確に冷戦の産物でありながら、こちらは魔術とは関係なさそうであるが (笑)。ともあれ、このストレンジな題名は一体どういう意味かというと、スティーヴン・ストレンジという名前の医者が主人公だということである。分かりやすすぎる (笑)。大抵の人は、「ストレンジ」などという文字通りストレンジな苗字を持つ人なんているわけないよと思うかもしれないが、いやいや、人生長く生きてくるといろんなことがある。私が仕事で関係のある人で、Strange という苗字を持つ人がちゃんと実在するのだ。それも、全くストレンジな人ではなく、業界の一流会社のニューヨーク本社にお勤めのエリートだ。今度会ったら、魔術を使うか否か確認してみよう。

などと、本編と関係ないことをウダウダ書いている理由はただひとつ。私には、この映画は面白いとは思えないからだ。せっかくカンバーバッチほどの名優を主演とし、このブログの過去の記事でも絶賛した、私が深く敬愛するデレク・ジャーマンのミューズであった女優ティルダ・スウィントンまで起用しながら、全くもったいない話である。しかも彼女、これは本当に頭を剃っているのではなかろうか。
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アメコミを原作とする映画がすべて「所詮マンガだろ」という評価にとどまるものではないことは自明で、このブログでも、「シビル・ウォー / キャプテン・アメリカ」などは高く評価したものである。だがこの「ドクター・ストレンジ」に対しては残念ながら、「所詮マンガだろ」という憎まれ口を叩きたくなってしまうのだ。何やらクルクル手を回すだけで空間に黄色い炎のようなものが現れ、別の場所に移動できたり敵を攻撃したり自分を防御したりできる。のみならず後半では時間を操るようにまでなってしまう。これができるなら、亡くなってしまったり怪我をした登場人物 (自分を含め) に対しては、全部時間を戻せば事なきを得るではないか。昔クリストファー・リーヴが演じた「スーパーマン」の 1作目で、恋人の死に慟哭したスーパーマンが地球の周りを渾身で高速飛行し、自転を逆回りさせて時間を戻すシーンがあったが、あのような切実で素朴なシーンが懐かしい。
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ネタバレは避けるものの、魔術によって時間を逆行させることで、壊れた建物が原状回復して行くシーンは、最近「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」でも出て来た。それゆえ、この映画のラストのラストに出てくる「魔法使いが多すぎる」というセリフは、もしや、ハリー・ポッター・シリーズにケンカを売っているのではないかと思いたくもなるのである。一方、予告編でも明らかであったこの映画のウリになる見事なシーンは、建物がグニャグニャと動き、重力が自在に変化するところ。
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このパターンでは、非常に手の込んだシーンもいくつかあり、手間暇かかった映像であることは認めるが、これらのイメージも既に、「インセプション」とか「スタートレック Beyond」で使われているものの延長であり、現在の CG 技術をもってすれば、それほど驚くべきものとも思われない。まあ、予告編でもう見てしまっていますしね。

再び役者に関しては、主人公の恋人 (なのであろうか) 役のレイチェル・マクアダムスは最近大活躍であるが、ここではコスプレをしない (あ、医者の白衣をコスプレと認定しないならだが) 一般人の役を自然に演じている。
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一方、コスプレを楽しんでいる気配であるのは、敵であるカエシリウス役のミッツ・ミケルセン。デンマーク人で、実は「ローグ・ワン / スターウォーズ・ストーリー」では、主人公の父親、デススターの設計者ゲイレン・アーソ役を演じていた俳優だ。全然気づかなかった。なるほどこうして比べてみると、今回は目の周りのお肌が随分と荒れておられるが、確かに同一人物とも見える (笑)。
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監督のスコット・デリクソンは 1977年生まれの若手で、サスペンスやホラー系を中心に映画を作ってきた人。私が見たいと思って結局見ることができなかった「NY 心霊捜査官」なども監督している。今回はこの大作に大抜擢ということだろう。
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この映画、エンドタイトル終了後にもシーンがあり、今後マーヴェル社のほかのアメコミ・キャラクターとの共演があることはほぼ明らかだし、続編の制作が明示されて終わる。アベンジャー関係も何やらややこしいことになっており、スパイダーマン (マーヴェル社にとっては新顔だ) がアイアンマンに弟子入り (?) する次回作の予告編も、既に劇場で流れている。あまり複雑にキャラクターを錯綜させるのもどうかと思いますがね・・・。ともあれこの映画、突っ込みどころには事欠かないストレンジな映画ではありました。

by yokohama7474 | 2017-02-15 01:05 | 映画 | Comments(0)

スノーデン (オリヴァー・ストーン監督 / 原題 : Snowden)

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未だ記憶に新しい、スノーデン事件。米国が国民のプライヴァシーを犯して携帯電話や E-メール、SNS を傍受・監視していたという事実を、その行為に関わっていた当事者が暴露した衝撃は大きかった。それは 2013年 6月のこと。国家機密を暴露し、その後ロシアに逃亡したエドワード・ジョゼフ・スノーデン、現在 33歳。この映画はそのスノーデンが社会人として世に出てから、大きな決断をするまでの様々な経緯を克明に辿って行くもの。なんといっても監督があのオリヴァー・ストーンであるから、期待できようというものだ。
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「プラトーン」「JFK」など、米国の抱える闇に光を当てる作品を多く発表してきた彼のことであるから、この現代の大事件を題材とすることに、なんら不思議はない。とはいえ、これはほんの 4年前に起こったことであり、依然として進行中のケース。過去の事件を扱うのとは緊張感が違うであろう。そして実際この映画においては、現在でも健在であろう人たちの役が多く登場する。もちろんすべてが現実の再現ではないかもしれないが、いわば国への反逆者を扱うに際し、どのように描くかという点には細心の注意が必要だし、大変リスクのあることであることは明らかだ。なので私はまず、この監督の勇気に称賛を捧げたい。だが興味深いことに、監督自身のインタビューによると、「正直に言うと、この映画には関わりたくなかった。これまでに論争を呼ぶ作品は十分やっているし、マーティン・ルーサー・キング牧師の映画に関わったものの、結局は実現には至らなかった苦い経験があった」とのこと。なるほど、ストーンほどの実績と発言力のある映画人をもってしても、なんでもかんでも企画を実現できるわけではないのだ。あるいは、既に実績と発言力があるからこそ、権力者側から見ると危険であるということにもなりうる。そのことをまず認識する必要があるだろう。

この手の映画はそのように、現実を考える手段として位置づけられるのは致し方ないが、まずは純粋に映画として見てみよう。すると、まず素晴らしいと評価できるのは、主演のジョゼフ・ゴードン = レヴィッド。
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このブログでも記事を書いた「ザ・ウォーク」の演技も記憶に新しい彼が、その前作と同じくここでも、ある人並外れた能力を持ち、また強い信念に導かれて自らの道を進む主人公を、強い説得力を持って演じている。一見、淡々としているというか飄々としているその一方で、国家機密を扱っている重圧を常に感じているという、いわば引き裂かれた若者像を巧みに描いていると言えるだろう。スノーデンの個人生活も赤裸々に描かれ、恋人との亀裂や再会もストーリーの大きな比重を占めているが、その演出も実に巧みであり、普通の若者が前代未聞の国家への反逆を決意するまでの過程には、フィクションであるとノンフクションであるとを問わないサスペンスが感じられる。私としては、このように純粋に映画として流れがうまく行っている点をもって、これは充分に価値のある作品であると思うのである。共演者の中には、「スタートレック」シリーズで印象的なミスター・スポックを演じているザカリー・クイントとか、私としては久しぶりに見るニコラス・ケイジ、あるいはクリント・イーストウッドの息子であるスコット・イーストウッドがいる。それぞれに個性的で面白い。
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そして映画の大詰めでは、モスクワにいるスノーデンがテレビ番組で人々に語り掛けるシーンがあり、ここでついにゴードン = レヴィット演じるスノーデンは本人と一体になる。いや、これはどう見ても本人である。調べてみると、このラストシーンは実際にモスクワで撮影されており、ここで語っているのは本人なのである。これは映画の実際のシーンではなく、スノーデンの肖像写真。
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実際にこの映画の撮影中には当のスノーデンが以前所属していた NSA (National Security Agency = 国家安全保証局) から目をつけられ、制作に当たっては情報や素材は手渡しされ、オフィスでは盗聴器の存在を常に警戒していたという。そのようにしてできた映画であるから、やはり作り手たちにとっては特別な思い入れがあるであろうし、またこれを見る機会を持つ我々も、現代人の生活についての様々な感慨を抱くことになる。我々は後戻りすることはできない。かつては存在した中心が失われ、これからも世界で人々は、張り巡らされた網の目の上で生きて行くように、さらになって行くだろう。何年か経ってまた、スノーデンの行ったことや、この映画が訴えていたことを思い出すとき、我々はどんな問題意識を抱えているのであろうか。その答えは誰にも分からないが、ともあれ少なくとも問題意識くらいは持ち続けなくてはならない (笑)。オリヴァー・ストーンは語っている。「世界を変革しようだなんて思っていない。映画にできることには限界があるし、活動家のゲームを追いかけるつもりもない。ただ私は自分の中の良心と情熱に従っているだけなんだ」・・・なるほど、含蓄深い言葉である。

ところでオリヴァー・ストーンは、2013年に NHK でも放送された「もうひとつのアメリカ史」という全 10回のテレビシリーズを制作している。私はそれを見逃したので、後日出版された 3冊の書物を購入したが、最初の 1冊を以前読み終えただけで止まってしまっている。ほかにも未読の本が沢山あるという事情もあるが、それは言い訳で、このシリーズは内容が重くて、なかなか次に進み気が起こらないのが実情だ。だが、この偉大な映画監督の「良心と情熱」について行くため、残りの 2冊にも近く手をつけたいと考えている。
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by yokohama7474 | 2017-02-11 23:17 | 映画 | Comments(0)

沈黙 - サイレンス - (マーティン・スコセッシ監督 / 原題 : Silence)

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自らがキリスト教徒であった遠藤周作の代表作「沈黙」。過去、私の敬愛する篠田正浩によって 1971年に映画化されており、その際の題名は今回と同じ「沈黙 Silence」であった。残念ながら私はその映画を見ていないが、原作はもちろん読んでいるし、1993年に若杉弘によって初演された松村禎三のオペラも、初演時に見ている (ええっと、あまり面白くありませんでした・・・笑)。加えて、以前書いた長崎旅行の記事でも述べた通り、隠れキリシタンは私にとって大変に興味のあるテーマ。従って私には、この映画を見るに当たっての充分な思い入れが既にあったのである。ところが、この映画の鑑賞後のある日に交わされた、私と家人の会話は以下の通り。
 私「うーん、この映画イマイチだったねぇ。」
 家人 (驚いて) 「なに言ってんの。すごい映画だよ。」
 私「まぁ、そういう評価も分からんではないけどね、世界には悲惨な歴史が満ち溢れていて、日本での切支丹迫害だけが痛ましい悲劇じゃないんだよ。」
 家人 (軽蔑の眼差しで) 「心の曇った人にはそう見えるのね。私は感動して涙を流したわ。」
 私 (家の外を見て)「・・・。ええっと、明日の天気はどうだろう。寒いのかなぁ。」

このブログの記事のあれこれで私は、最低限の礼儀は守りながら、面白いものは面白い、面白くないものは面白くないと正直な思いをつづってきている。それゆえ、コメントを頂く方から、時にはネット上でさらし者になるような厳しい評価も浴びせられてきた。だがそれは自ら引き受けた道。匿名の度を越えた卑劣な罵詈雑言でないと私が判断する限り、そのようなコメントは別に隠すことでもなんでもない。というわけで、期待を込めて見たこの映画、私にとっては残念なことにイマイチであったということから始めよう。これは監督のマーティン・スコセッシと、本作に出演している浅野忠信、窪塚洋介の写真。日本でのプロモーション用。
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未だ衰えぬ勢いで新作を発表し続けるスコセッシは、今年 74歳。まだまだこれから深みのある映画を撮って行ってくれるであろう。ただ、作品による出来のむらがある人だと思うので、これから丁寧な映画作りをしてくれることを望みたくなる。なんでもこの作品は、スコセッシが初めて原作を読んで以来、過去 28年に亘って映画化が彼の悲願であったらしい。映画化がなかなか実現せず、製作会社との間で訴訟沙汰にまでなったらしい。その意味では、スコセッシの悲願を達成する記念すべき映画であるということだ。

原作は大変有名であるが、念のためにあらすじを述べておくと、江戸時代初期、キリスト教禁制から未だ日も浅い頃、マカオにあるイエズス会の拠点で 2人の若い神父が意外な話を聞く。それは、自身日本でも活発な布教活動を行ったあのヴァリニャーノが語る話だ。それによると、布教のために日本に渡ったフェレイラ神父という人物が、キリスト教を棄教して、のうのうと日本に住んでいるということである。若い 2人は、自分たちがかつて師事したフェレイラに限ってそんなことがあるわけないと激昂し、真実を確かめようと、果敢にも日本に渡ってくる。だがそこで彼らは、長崎の隠れキリシタンとともに、筆舌に尽くしがたい残酷な弾圧を受ける。敬虔な信者たちがこれほど苦しんでいるのにもかかわらず、救済すべき神の顕現はない。これほどの危急な場面において沈黙を守っている神の意思は、一体いかなるものなのだろうか、という重い重い命題が扱われているのである。

まず印象に残ったシーンを述べると、切支丹であると摘発されたのに、踏み絵を踏まずに処刑された人たちの最期。そのうちのひとりは、あのピーター・ブルックの劇団で長年活躍する笈田ヨシ。彼はもうすぐ小川里美主演のプッチーニ作曲「蝶々夫人」の演奏会形式の演出も手掛けるが、残念ながら私はそれを見ることができない。今年既に 83歳の高齢でありながら、ここでも全身全霊で演技する彼の姿には感動を禁じ得ないのである。
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それから、「シン・ゴジラ」での演技も記憶に新しい、映画監督の塚本晋也。あの田口トモロヲ主演のパンクな「鉄男」から既に 30年近く。時代は移り変わり、人々はその時々で感性に合うものを選ぶ。願わくばこの映画における彼の体を張った熱演が、多くの人に感銘を与えますように。十字架から降ろされる彼の姿は、さながらイエス・キリストのようでしたよ。熱演に拍手!!
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ストーリー自体が感動的であるのはもともと分かっているし、隠れキリシタンがいかなる過酷な目に遭わされたのかも一定の知識はある。従ってポイントは、この映画が映画自体としてどの程度の完成度に達しているかということであろう。その観点から、私が覚えた不満をいくつか挙げてみよう。

・イエズス会の宣教師は、反宗教改革の旗印のもと、異常なまでの情熱で布教に携わったゆえに、日本語を喋るべく死にもの狂いの努力をしたはず。なぜなら、キリスト教の信仰の証は言葉で語られるべきであるからだ。異文化である日本の習慣や日本人の発想に戸惑いは覚えたであろうが、一方で言葉の重要性を実感したはず。この映画にはその観点が欠けている。
・英語。もちろん、米国資本の映画である以上はやむない設定なのであろうが、江戸時代の長崎の農民たちが英語を喋ることなどあり得ない。もしその設定にするなら、片言の英語ではなく、完璧な英語を喋るという設定にした方がまだよかった。もちろん、遥か昔の銀河の彼方の物語である「スター・ウォーズ」で英語が使われていることを思うと、特に目くじらを立てるまでもないのかもしれないが (笑)。
・拷問の描き方はこれで充分か。私は別に残酷趣味があるわけではないが、実際の拷問はもっともっと悲惨なものであったと思う。
・宣教師のひとりは、なぜに溺死するのか。海の中で泳いでいれば助かったのではないか。それとも金槌だったのか (笑)。
・夏のシーンであっても、日本の夏の雰囲気が出ていない。オープニングとエンドタイトルに一切音楽を使わず、蝉の声や波の音に終始したという着眼点を思えば、実際の夏のシーンの出来は若干残念である。

と書きながら思い出すのは、この映画で極めて重要な役割を演じているあと二人の俳優、すなわち、イッセー尾形とリーアム・ニーソンである。まずは前者であるが、当時の領主がこれほど英語がうまかったか否かは別として、さすがに米国でも一人芝居で好評を得ている人だ。その表情や身振りのひとつひとつに、残酷さと温かさが同居する人間の不可思議さを体現する何かがある。
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そしてリーアム・ニーソン。転びのバテレンとは、実は悟りの境地に至っていた人なのかもしれない。これは未だそこに辿り着く前の、苦悩に満ちた神父の表情。
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またもうひとつの発見は、切支丹であっても、日本人である限り、信仰を続けるためには何か目に見える崇敬の対象が欲しいということ。私は先日、東京国立博物館で春日大社の展覧会を見ており、いずれ記事もアップするが、その展覧会で感じたものと同じものがここにはある。フェレイラの語るように、西欧諸国によって植民地化されたアジアのほかの国々と異なり、日本はまるで沼であって、そこに植物が根を張るのは極めて困難であるのだ。そのことをこの映画が皮膚感覚を持って描いているかというと、残念ながら私にはそうは思えない。もっともっと宣教師の内面に迫り、切支丹たちの複雑な思いに迫って欲しかった。いや、もちろんそうは言っても、このようなシーンには私も心動かされたのであるが。
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我々日本人が神仏に期待するのは何であろうか。この国では、自然そのものが信仰の対象となる。そこでは、神はそもそも最初から沈黙しているのではないか。この映画の中で神の沈黙を問いかけるのが、日本人ではなく、ポルトガル人であることに注目しよう。聞こえない声に耳を傾けるのは日本人の習性だ。そして忍耐強く、残酷な境遇にも忍従するのである。イエズス会が危機感に駆られて日本に派遣した宣教師たちは、そのような日本人を見てどのように思ったであろうか。彼我間の隔たりゆえ、理解できないものがある一方で、この国の持つ揺るぎない独自性もきっと理解したに違いない。その衝撃をこそ、この映画では描いて欲しかった。というわけで、私と家人の議論は延々続いて行くのである。

by yokohama7474 | 2017-02-09 23:47 | 映画 | Comments(6)

ザ・コンサルタント (ギャビン・オコナー監督 / 原題 : The Accountant)

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表の顔は社会生活を営む一般人。裏の顔は腕利きの戦闘員。そのような設定の映画はままあるものだ。もちろんスーパーマンやバットマンやスパイダーマンといった米国の伝統的なヒーローはみなそうであり、日本の怪獣・怪人ヒーローものも軒並みそうである。人には変身願望があり、日常の自分以外になることに、誰しもが漠然とした憧れをもつもの。だが、その願望も、実は変身する対象次第とも言える。ここで私は「戦闘員」という言葉を使ったが、それは正義のヒーローであるかもしれないが、場合によっては上のポスターのように 「殺し屋」である場合もあるのだ。殺し屋とはなんとも物騒であり、そんな変身ならしたくないと思う人がほとんどであろう。だが、ここにそのいやな役を引き受けた男がいる。ベン・アフレック演じるところの会計士、クリスチャン・ウルフ。現代音楽好きなら、あのジョン・ケージの親友でもあった同名の作曲家 (もっとも、苗字は Wolff なので、ウォルフという発音が正しいようだが) を思い出すかもしれない・・・まぁそんな人は世の中にごくごく少数かと思うけれども (笑)。ともあれ、ベン・アフレックである。
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私はこの映画を大変素晴らしい作品であると思うが、その最大の功労者はやはりこの人、ベン・アフレックであろう。これまで様々な役を演じてきた、今やハリウッドを代表する俳優であるが、このブログではその出来に苦言を呈した最近の「バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生」における似合わないバットマン役から一転、素晴らしいニューヒーローを演じている。ここでのアフレックの演技の本質を一言で表せば、「目の光を消す演技」ということになるだろうか。天才的な能力を持つにもかかわらず、いや、それゆえであろうか、他人とのコミュニケーションが下手な人物像を、その顔の表情や立ち姿からいかんなく表現しきっていて、その象徴が、光を持たない、焦点の合わない目なのである。いや、焦点が合わないという描写は正確ではない。昼には会計士として立派に仕事をし、危ない裏社会にも通じているのであるから、常に周りを見ていないと務まらないはずである。むしろその視線は、焦点が合っていないのではなく、目の前にあるものを越えた何かを常にとらえている、ということではないか。それは、危険を察知する能力でもあろうが、それ以外に、現実ではない数字の世界であったり、幼い頃の記憶であったりして、この男は常にそれらのイリュージョンに苛まれているのである。なのでこのヒーローは、もちろん伝統的なそれとは異なる特異なもので、よくバットマンに使われるダークヒーローとかアンチヒーローというものとも違っている。それは、殺し屋として攻撃する対象が、世界の平和を乱す者ということではなく、個人として許せない者であるという点。それから、日常の顔は知的職業でありながら自閉症であって、バットマンの正体である大富豪ブルース・ウェインのようには、「暗」に対する明確な「明」となっていない点。つまり、昼の顔と夜の顔は、ある意味でそれほど隔たっていないとも言える。だが一方で、知的職業である会計士がなぜにこんなに強いのかという点での意外性 (笑) は、やはりあるのである。こんな複雑なヒーローを演じられる俳優が、そうそういるとは思えない。

この映画の映像は、概してそれほどクリアであるとは言い難い。室内のシーンでも多くは平板な印象で、ライティングにあまり凝っていないのではないかと思われる (話の都合上、シルエットが写るというシーンのライティングは別だが)。その一方で、映像のリズムという点では面白い箇所が沢山ある。例えば、四角形と円形のせめぎあい。主人公の自宅では、壁の一部にが四角い穴があいているのが大変印象的で、それの場所以外にも、私の頭にあるその前後のシーンの残像には、四角形が多い。だが次のシーンでは主人公が料理をしていて、丸い皿の上に乗せるのは、丸い目玉焼きと丸いパンケーキなのである。このような視覚上の仕掛けが見る者の潜在的な不安感を呼び覚まし、主人公の偏執的な面を強調する。例えばこんなシーンもそうである。
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この映画においては沢山の人が殺されてしまうので、途中少々うんざりするのは否めない。だが、大詰めのシーンは言ってみれば昔の東映ヤクザ映画のクライマックスのようなもので、いわば単身での殴り込み。最後には (もちろん意外な・・・と言いながらも途中でそれと分かるが、それでも好感を持ってみることができる、想定外のシーンもあり) カタルシスが得られるようになっている。そのカタルシスは、一匹狼であるはずの主人公に、携帯電話によって指示を出したり情報を与える女性の正体が最後に判明することで、一層高まる。大変によく出来た脚本であると思う。

ベン・アフレック以外で印象に残った役者は、まず、あの名作「セッション」での鬼教師役、J・K・シモンズ。ここでも実にいい流れを作り出している。つまり強面の捜査官でありながら、その内面には臆病さも狡さも優しさも同居しているのである。
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そして、彼の指示でウルフを追う分析官を演じるシンシア・アデイ=ロビンソンがよい。そもそもこの役が設定されていることで、ストーリーに複雑なウェイヴがかかる結果となり、緊迫感も生まれている。本筋のストーリーが縦に走っているとすると、そこに鋭い横線が加わるようなものである。
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その他、久しぶりに見るジョン・リスゴーは年を取ったがそれなりにいい味を出しているし、敵 (?) 役のジョン・バーンサルは、大変特徴的な顔であるが、あとで調べてみて、戦争映画「フューリー」に出演していたことを思い出した。それ以外にも充実したキャストに恵まれ、この映画は一本筋の通った、かつこれまでにないヒーロー物となったのである。大いに見る価値ありと申し上げておこう。監督は 1964年生まれの米国人、ギャビン・オコナー。これまでの作品に私はなじみがないが、この映画の前にナタリー・ポートマン、ユアン・マクレガー共演の「ジェーン」という西部劇を撮っていて、日本でも昨年 10月に公開されたようだが、完全に見逃してしまった。悔しい・・・。やはりまだまだ、多くの映画を見逃しているのである。
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最後に、美術に関連するネタについて少し触れてみよう。主人公ウルフは、反社会勢力を顧客として危ない橋を渡る仕事をしているおかげで金回りがよいのだが、ある場合には美術品の現物支給で報酬を受け取っている。あとで気づいたが、これは、足がつかないように盗品をあてがわれているのかもしれない。彼の隠れ家にかかっているのは、ルノワールとポロック。だがこのルノワールは、本人はどうやら本物と思っているようだが、どう見てもニセモノ。それに対し、米国抽象表現主義の巨匠ポロックの作品は、どうやら本物のようだ。こんな作品であった。
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主人公ウルフとともに命を狙われることになる女性 (アナ・ケンドリック演じるデイナ・カミングスという役) は、もともと学生の頃に美術を専攻したかったというセリフがあるが、彼女はルノワールには目もくれず、このポロックにのみ興味を示す点、なかなか説得力のある凝った作りになっている。また、もし私の記憶が正しければ、ウルフはこの絵をこんな風に見ていなかっただろうか???
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うーん、まあ確かに、縦でも横でも、どっちでもよいような気がする (笑)。でもポロックの絵には何かがあるから不思議である。それから、「ポーカーをする犬」という絵画についてのセリフもある。私はこの絵を知らなかったが、ちゃんと Wikipedia もあるから面白い。20世紀初頭にクーリッジという画家が描いた油絵のシリーズで、タバコ会社の広告用だという。
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このように、様々な切り口のある映画であり、私としては大満足だ。どうやらシリーズ化するらしいが、さて、今後もこのレヴェルを保つことができるであろうか。注目しよう。

by yokohama7474 | 2017-02-09 01:20 | 映画 | Comments(0)

スケア・キャンペーン (コリン・ケアンズ & キャメロン・ケアンズ監督 / 原題 : Scare Campaign)

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この映画は、東京のヒューマントラストシネマ渋谷と、大阪のシネ・ルーブル梅田で開催中の「未体験ゾーンの映画たち 2017」という特集上映に含まれるというかたちで公開されているものである。いや、正しくは「公開されていた」というべきか。なかなか面白そうだぞと思って調べたときには既に東京での上映は終了しており、大阪でしか見ることができない。そこで、別項で書いたあべのハルカス美術館に行くついでに見ることにした。常々このブログでは、日本で見ることのできる映画のヴァラエティの広さを正しく認識すべきとのメッセージを発しているが、この特集にかかっている数々の映画 (今年は実に 62本!!) などはまさにその好例である。以下、劇場のサイトからの説明。

QUOTE
『未体験ゾーンの映画たち』は、日本未公開作品ばかりが集結する劇場発信型映画祭です。
様々な理由から劇場公開が見送られてしまう傑作・怪作映画を、映画ファンの皆様にスクリーンでご鑑賞いただくべく、ヒューマントラストシネマ渋谷をメイン会場に2012年より開催しています。第6回目となる2017年も、各国のあらゆるジャンルから選び抜かれた未体験ゾーンの映画たちを、新年の幕開けとともに一挙上映いたします!
ぜひ、自分だけの隠れた名作を映画館で見つけ出す喜びを、この映画祭で体験してください。
UNQUOTE

私のように映画は基本的に劇場で鑑賞すると決めていて、しかもゲテモノ映画に偏見のない人間 (?) としては、願ってもない特集上映だ。但し、これでも勤め人の身であるし、「普通の」映画を見たりコンサートや美術館に出掛けることでかなりの時間を取られているため、そうそう何本も見に行くことはできないが、だがせめてこの一本でも見れば、どのような内容の特集上映であるかについてのイメージを持つことができ、自分なりの文化の諸相の発見に資するであろう・・・と思ったのである (笑)。

さてこの作品、オーストラリア映画である。脚本・監督のケアンズ (おっと、そのままオーストラリアの都市名ですね) 兄弟は、これが長編 2作目。前作の「モーガン・ブラザーズ」はホラー・コメディで、同作でシッチェス映画祭ミッドナイトエクストリーム・グランプリなる賞を受賞した新鋭であるとのこと。ここでも低予算の手作り感満載ながら、「次はどうやって観客を怖がらせ、驚かせてやろうか」とにんまりしながらあれこれ試行錯誤する彼らの姿が目に浮かぶようだ。ストーリーは以下のようなもの。テレビの人気番組「スケア・キャンペーン」は、いわばホラー仕立てのドッキリ・カメラ。実在の恐ろしい施設に一般人を入れ、そこにニセの怪奇現象を起こしてその一般人を怖がらせる。だが、今やネットにはあらゆる映像が溢れ返る時代。カルト集団が殺人シーンを YouTube にアップして話題を呼んでいる中、テレビとしても刺激を高めないといけないと、放送局内で檄が入る。そこでスタッフは知恵を絞るが、その撮影現場に本物の殺人鬼が・・・という話。「どこまでが真実 (リアル) で、どこからがヤラセ (フェイク) なのか!?」というキャッチフレーズの通り、ストーリーは二転三転で、なかなかに気が利いている。正直なところ、ここに出ている役者はひとりとして知った顔がないが、以前も書いたがこの種のホラーでは、それはむしろ重要な要素になると思う。作り物と分かっていても、やはりこういう恰好をされると、それはそれは怖いもの。
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だがホントはこうであったりするわけで、ちょっと安心する (笑)。
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だから、こんなシーンが出て来ても、悲鳴を上げたり目をつぶる必要はありません!!
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・・・と、果たして言ってよいものか否か。後半の展開の意外さにはかなり乗せられるものがある。もしこの映画をご覧になる場合には、どのシーンが本当か嘘かをあまり考えず、映画のテンポに自然に身を委ねるのがよいと思う。そうすると、段々展開が読めてくるし、最後のオチも予測できようというものだ。だがそうすると今度は、不満が頭をもたげてくる。最後に黒幕は分かっても、実行犯の素性は最後まで分からないまま。ここまでドンデン返しをするなら、そのあたりも回答を用意するのが作り手のマナーではないのかと、少し思ってしまうのである。あるいは、この映画が好調なら続編を作ろうという意図のもと、あえてそういう作りにしているのかもしれない。そうであっても、私としてはこのラストは少し残念だと思ってしまった。

一方、この映画が一般の劇場で公開されないとすると、やはりその描写に一部刺激が強すぎる部分があるからだろう。それは、上記のようなスプラッターシーンではなく、殺人シーンをネットに上げるというカルト集団の描き方だ。この点にも私はあまりよい気持ちがしなかった。狂気を孕んだ現代世界は、このような事態を絵空事と言えない状況になっているので、少なくとも、見ていて楽しい気分にはならない。だから私はこの映画を第一級のホラーと呼ぶには躊躇を覚えてしまうのだ。ホラーにはどこかユーモアがあることが望ましく、ここではその点があまり上質とは言えないと思う。こらこら、こっちに来るなって!!
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だが、見た人の評判は結構よいらしく、ヒューマントラストシネマ渋谷では追加上映が決まったようである。2/12、14、16 の各 21:10 から。「なんだ、『川沿いのラプソディ』ではあまり誉めていなかったけど、面白いじゃん!!」と思われる方もおられよう。それこそまさに、このブログの標榜する文化の多様性を証明する事態である。ではしっかり目を開けて、Enjoy!!
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by yokohama7474 | 2017-02-07 01:28 | 映画 | Comments(0)

トッド・ソロンズの子犬物語 (トッド・ソロンズ監督 / 原題 : Wiener Dog)

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この映画の邦題は「トッド・ソロンズの子犬物語」。「子犬物語」だけなら可愛いのだが、そこに何やら人の名前がついている。そもそもこのトッド・ソロンズとは何者かというと、この映画の監督なのである。最近の邦画の題名には、監督名を入れることは稀になっているが、以前は「フェリーニの」とか「ゴダールの」とかを冠した邦題名がいろいろあったし、渋いところでは「ヤコペッティの大残酷」などという映画もあったものだ。監督のトッド・ソロンズはアメリカン・インディペンデント界の鬼才であるそうで、私は見たことがないが、「ハピネス」「ストーリーテリング」などの作品で様々なタブーに触れながら人生のバカバカしさ、人間の愚かさをブラックユーモアたっぷりに描いてきた監督だという。なるほど、これでこの映画について語るべきことの半分は終わってしまった (笑)。監督はこんな人。確かに、大変爽やかそうとは、お世辞にも言えない人相だ。
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ネットの評判などを見ると、「可愛い題名に惹かれて見に行ってみるとビックリ!!」などというトーンのコメントがあるが、さもありなん。題名のみならず、ポスターを見てもこれは明らかにダックスフントを主人公とした映画であり、可愛らしい内容を連想しても不思議ではない。だが、予告編を一度でも見れば一目瞭然。これはかなりブラックな映画である。そして私がこの映画を見ようと思ったのは、まさにその点によってであった。ブラックな映画であるゆえに、上映館は限られているが、私が見に行ったヒューマントラストシネマ渋谷では、トイレがこんなことに。
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ちなみに原題である "Wiener Dog" であるが、この "Wiener" というのは、ドイツ語で「ウィーンの」という意味。そしてこれは英語では、日本語のウィンナーと同じで、ソーセージという意味らしい。ダックスフントという名称はもともとドイツ語で、英語圏では「ソーセージドッグ」や「ウィンナードッグ」とも呼ばれているらしい。その茶色くて細長い体がソーセージを連想させるからだろう。なのでこの映画の題名は、そのものずばり、主人公である犬の種類なのである。劇中の「インターミッション」に出てくる主人公のさすらいのシーン。これはとぼけた味わいがあって面白い。
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さぁ、そんな映画の内容はいかなるものなのであろうか。話は簡単。一匹のダックスフントが 4人の飼い主の間を転々とする間に起こる、様々な事件を描いている。最初の家では、少年の愛を受ける。結果的にであるが、私は 4つのエピソードの中でこれが最も印象に残った。あまりきれいでないシーン (笑) もあるが、ドビュッシーの「月の光」を、最初はフルートソロが主導するオーケストラ編曲で、続いてオリジナルのピアノで聴かせるあたり、写っている対象の汚さとの対照によって、曲の美しさを再認識させることとなった。ちなみに少年の母を演じるのはフランスの名女優ジュリー・デルピーだが、疲れた表情や体形を含めて、年を取ったなぁと思わせるのもまた、監督のブラックな意図なのだろうか。
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2人目の飼い主は、獣医の助手の女性。この女性は、ペットフードを選んでいるときにばったり出会った男のクラスメイトとともに、車で旅に出る。途中、ヒッチハイカーに出会ったり、同行の男友達の弟夫婦を訪ねたりする。
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次に犬の飼い主になるのは、落ち目の脚本家。彼は映画学校で教えているが、全く尊敬を得られず、ついに大変な事態を巻き起こす。ここで脚本家を演じているのは、最近ちょっとご無沙汰であったダニー・デヴィート (シュワルツェネッガーと共演した「ツインズ」で知られるが、ほかにも多くの映画に出演している)。さすがにいい味出している。だが、ここでの「大変な事態」(以下の写真参照) においては、落ちがイマイチ。
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そして最後は、エレン・バースティン演じる偏屈ばあさん。生活が安定せず小遣いをせびりに来る若い孫娘は、アーティストだという黒人の恋人を連れている。祖母の冷たい対応に焦ってベラベラ喋る孫娘は、彼を「ダミアン・ハーストみたいなアーティスト」と紹介するが、このアーティスト、私も名前は知っているが作品にあまり明確なイメージがなかったところ、後日ネット検索して納得。この映画をご覧になった方は、このアーティスト名で画像検索してみるとよいと思う。なるほど、ちゃんと意味のあるセリフなのだなと理解されることだろう。逆に、ダミアン・ハーストを知っている人には、それがどこのシーンに関係するのか、ワクワクしながらこの映画を見るという特権がある。
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私は映画に限らずほかの文化の分野や、果てはコーヒーまでブラックなものが好きなので、この映画を楽しむ素地はあると自負する。だが、この映画のラストは支持しない。ここで詳細を書けないのは残念だが、これはブラックというよりも、ただの嗜虐趣味である。この映画のエンドタイトルには、よくある動物愛護協会の「この映画においては動物は傷つけられていません」というステイトメントが出てくるし、監督はプログラム掲載のインタビューの中で同じことを述べている。だが、そういう問題ではなくて、散々描いてきたブラックな出来事、つまりは監督が弄んできた様々な登場人物の人生の決着をつけるために、もっとひねった結末を考えることはできなかったのか、動物愛護者の私としては、やはり残念に思うのである。

そんなわけで、可愛い子犬ちゃんの大冒険を見たい方には、全くお薦めできません (笑)。テイストの違いによって裏切られるリスクを覚悟の上で、とにかくブラックなものを見たいというもの好きな方には、特に見るなと止めることもしません。88分の短い映画ですしね (笑)。

by yokohama7474 | 2017-02-03 23:43 | 映画 | Comments(0)

ローグ・ワン / スター・ウォーズ・ストーリー (ギャレス・エドワーズ監督 / 原題 : Rogue One : A Star Wars Story)

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「スター・ウォーズ」シリーズの第 7作、エピソード 7 となる「フォースの覚醒」を見てからちょうど 1年ほどが経過した。最初この「ローグ・ワン」の予告編を劇場で見たとき、もうエピソード 8が完成したのかと早とちりしたが、これは、"A Star Wars Story" とある通り、シリーズに付属するものであって、全 9作のメインのエピソードには入らない。だが、これは例えば「イウォーク・アドベンチャー」のようなサイド・ストーリーではなく、実はシリーズの第 1作目、エピソード 4「新たなる希望」が始まる 10分前までを描いた物語なのである。つまり、
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いやだから、イウォークじゃないですって (笑)。ローグ・ワン、ローグ・ワン。この「ローグ」という言葉、昨年の「ミッション・インポッシブル / ローグ・ネーション」でも使われていたもので、「ならず者」という意味。この作品においては、帝国軍に従わないならず者たちの活躍が描かれているのである。ネタバレはいつものように避けるが、まぁ公開後 1ヶ月以上を経て、この作品の上演頻度も落ちてきていることだし、ごく簡単に言ってしまえば、エピソード 4 の大詰めで、帝国軍の強力極まりないデススターが、一ヶ所を攻撃されただけで大破してしまうという、考えてみれば不思議な出来事があったが、本作はその背景を描いているのである。
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この映画、世間の評価を見ているとなかなか高いようだが、正直に白状してしまうと、残念ながら私はあまり乘れなかった。それは、この直前 (同じ日) に見た映画が、先の記事でも採り上げた「アイ・イン・ザ・スカイ」であったことも関係していよう。現代の世界で実際に起こっていることを再現したようなあの映画の筆舌に絶する切実感に比べれば、この映画の中で起こっている戦争は、どこまで行っても架空の世界。もちろん架空の世界は大いに結構なのだが、今思い出せばエピソード 4で帝国軍兵士が銃で撃たれて倒れるところなど、いかにもどこかのどかなものであった。この映画で頻出するそのようなシーンを見ていると、何か胸が悪くなるような気がして来てしまう。これは私がいけないのであろうか。
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主役を演じるフェリシティ・ジョーンズは、「インフェルノ」での演技も記憶に新しい英国の女優である。ここでも「スター・ウォーズ」シリーズ特有の父と子の葛藤が描かれるが、この場合の設定はそれほど屈折もなく、ストレートな彼女の演技には好感が持てる。だが、いわゆる色気は皆無であると申し上げておこう (笑)。
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私の好きなフォレスト・ウィテカーも重要な役で出演している。彼はいい味を出していると思う。
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その一方、ほかのキャラクターにはあまり感心しなかった。この 2人は頑張っているものの、突き抜けたものまでは感じられなかったのは私だけだろうか。
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盲目の武術者チアルート・イムウェを演じるドニー・イェンと、その仲間であるベイズ・マルバスを演じるチアン・ウェン。実はともに 1963年生まれの中国人で、母国の映画で過去 2回共演しているという。と思ったら、後者はなんと映画監督でもあり、あの香川照之が出演した、日中戦争を舞台とした厳しい作品「鬼が来た!」の監督・主演なのである。それは面白い。だが、例えば「七人の侍」の大詰めシーンのような容赦なく観客に迫ってくるような迫力は、彼らの熱演によっても感じられなかった (比較するのも酷だとは思うものの)。

監督のギャレス・エドワーズは、2014年の「Godzilla」でメジャーテビューした英国人で、41歳。これだけの大作ともなると監督の持ち味を出すのは困難であると思うが、そうですねぇ、「Godzilla」もそれほどすごい映画とも思わなかったし、今後の活躍を期待することとしよう。
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恐らく「スター・ウォーズ」ファンとしては、ちゃんとダース・ベーダーが出てくるところとか、C3-PO や R2-D2 も 1シーンだけ出てくるところに喜びを見出すであろう。その他あれこれのトリビア楽屋落ちが沢山入っていることは、ネット検索すれば情報が得られる。だが私が面白いと思ったのは、この人の出演だ。
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昔のホラー映画におけるフランケンシュタインやドラキュラ役でも知られる名優ピーター・カッシング。ここでは、エピソード 4と同じ、デススターの司令官、ターキンを演じている・・・、いやちょっと待て。彼は随分以前に亡くなったのではなかったか。そう、彼は 1994年に死去している。実は今回のこのシーン、別の俳優の演技に昔のカッシングの顔をはめ込んだ CG 合成なのだそうである。うーん、全く違和感を感じない出来であった。同じような例はこの人にも。
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キャリー・フィッシャー演じるレイア姫が、デススターの設計図を受け取るシーンで出て来るのだが、これも明らかに CG 合成だと思われる。エンドタイトルを見ていると、Special Thanks のところに彼女の名前が出ていたので、撮影に当たって何かアドバイスでもしたのであろうか。だが、そのキャリー・フィッシャーは昨年 12月27日、まさに日本でこの映画が封切られた数日後に突然死去。未だ 60歳であったという。しかも、エピソード 4撮影時に共演していたハリソン・フォードと不倫関係にあったという衝撃事実を記した自伝をその直前に販売、そのプロモーションのためにロンドンを訪れた帰り、ロサンゼルスの空港で飛行機を降りたあと倒れたということだ。しかも彼女の死去の翌日、母親のデビー・レイノルズ (ミュージカル「雨に唄えば」でジーン・ケリーの相手役を務めた) も 83歳で死去。なんとも痛ましいことではないか。私がこの「ローグ・ワン」を見ても乗れなかったもうひとつの理由は、この一連の出来事が起こった後に見たことにもあるかもしれない。

それにしても、爽快感のない「スター・ウォーズ」だ。そもそも冒頭で "A long time ago in a galaxy far, far away..." と来て、ジャジャジャーン、パララッタッタッタタタタタタタタタと、ジョン・ウィリアムズによるあの勇壮なメインテーマが鳴り響くのがこのシリーズのワクワク感を醸成するのに、ここではそれがない。一方、本編終了後にはいつものエンドテーマが元気よく流れてやれやれと思うが、それもつかの間、すぐに暗い曲調に変わってしまうのだ。音楽の使用に関しては、何か契約上の問題でもあったのかと勘ぐりたくなってしまう。私はエピソード 2 の封切を 2002年にニューヨークで見たのだが、有名なテーマ曲が出て来るとヤンキーたちはヒューヒュー言って大騒ぎであった。さて今回の作品、そのようなヒューヒュー騒ぐ瞬間を奪われているわけで、米国の観客の反応はどうだったのであろうか。

ここで私が考え込んでしまうのだ。世界には暗く深刻な出来事が溢れていて、それは例えば「アイ・イン・ザ・スカイ」のような作品で仮借なく描かれている。その一方で、本来暗い世界を勇気づけるような希望を描くべき「スター・ウォーズ」が、戦争の描き方には切実感がない一方で、爽快感まで失ってしまっているとは、いかなることか。もはや時代は、胸のすく爽快な活劇というものを生み出せなくなってしまったのであろうか。彼らローグ・ワンによってつながれたはずの「新たなる希望」には、一体世界に対するどのようなメッセージが込められているのだろうか。
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by yokohama7474 | 2017-02-03 00:24 | 映画 | Comments(0)

アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場 (ギャヴィン・フッド監督 / 原題 : Eye in the Sky)

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この映画の本質は、上のポスターにある通り、「現代の戦争 その衝撃の実態」ということに尽きる。ストーリーは至ってシンプル。ケニアの首都ナイロビのある家において、イスラム過激派が自爆テロの準備を進めている。米軍のミサイルを積んだ無人ドローン機 ("Eye in the Sky" である) や、鳥型やさらに小さな虫型と言った飛行する動物のかたちをした隠しカメラ、また現地の協力スタッフの手によって、その情報をつぶさにつかんだ英国諜報機関が、自爆テロを未然に防ぐためにテロリストたちのアジトにミサイルの標的を定める。だがその時、隣家の貧しい少女がそのアジトの塀に沿った路上に机を置いて、パンを売り始めた。このままテロリストたちを放置すれば、ほどなく数十人規模の死傷者が出ることは確実。だが今ミサイルで攻撃すれば、無実の少女の命は明らかに危険にさらされる・・・。さあ、いかなる決断がくだされるのか。この子は、普段の通りの生活をしているのであろうが、まさかこの日、遠く遠く離れたロンドンのオフィス及び諜報機関の司令部、米国の空軍基地やホワイトハウスから自分が見られており、また自分の命が危険にさらされていることを夢にも知るわけがない。
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これは決して甘い内容の理想主義的な反戦映画ではなく、見る者全員、今この瞬間にはいかなる意味でも戦争に無縁の者たちに対してすら、当事者さながらの決断を迫る、実に実に厳しい内容の映画なのである。昨今は戦争を極めてリアルなドキュメンタリータッチで描く映画が多くなっており、問題作は数多い。だが本作は、ドキュメンタリー風ではないにも関わらず、容赦なく観客の心に深く入ってくる仮借ないもので、極限状態における人間の尊厳を描いたフィクション映画として、ほかの作品にはない高い価値を持つものである。それ以上私には綴る言葉もないが、願わくば自分が何か重要な決断を迫られる状況に置かれたとき、誰か他人の責任で自分は関係ないとか、組織の命令でしょうがないとか、そういったことを考えることのない人間、いわば思考を停止することのない人間でありたいと、切に思う。この映画に「パイロット」として出てくる兵士 (演じるのはアーロン・ポールという俳優) は、パイロットと言っても空中で航空機を操縦するのではなく、要するにナイロビ上空を飛んでいるドローン兵器を遠く離れた米国ネヴァダ州で操縦しているのであるが、息の詰まるような極限状態においても、思考する人間であることをやめなかった。なんという素晴らしいことか。もちろん、そのことがすぐに少女の命を救うか否かは、誠に痛々しいことに、別問題であるのであるが。
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この映画の製作者のひとりは、英国の名優コリン・ファース。彼が出演した近作ではなんといっても、このブログでも絶賛した「キングスマン」が素晴らしいが、あの映画にあふれる自由に羽ばたく遊び心だけではなく、極めてリアルな問題意識を世の中に問うだけの度量がある人であると実感する。
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そして、この作戦を英国諜報部で指揮するキャサリン・パウエル大佐を演じるのは、これも英国を代表する名女優、ヘレン・ミレン。ここでの彼女は、いつも通り素晴らしいとしか言いようがない。決断力と正義感と合理性と、そして強引な手腕を持ちながらも、人間的な面を維持している、このような軍人がもし多ければ、世界はまだ少しは信頼できるような気がする。
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そして、ロンドンの国家緊急事態対策委員会で画面を見ながらパウエル大佐に指示を出すフランク・ベンソン中将を演じるのは、69歳にして昨年膵臓癌で亡くなった名優、アラン・リックマンである。以前も書いたが、ハリー・ポッターシリーズのみならず、「ラブ・アクチュアリー」などの作品でも渋い味を出していた。この作品は、声の出演だけであった「アリス・イン・ワンダーランド / 時間の旅」に先立つもので、演技を伴う出演作としてはこれが遺作であり、エンドタイトルにおいて、彼に捧げるとのメッセージが出てくる。ここでの演技はまさにこの役柄にふさわしい複雑なものであるだけに、改めて惜しい俳優を亡くしたものであると思う。この映画における彼の最後のセリフは大変に重いので、これからご覧になる方は是非その重みを味わって頂きたい。
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この映画の副題、「世界一安全な戦場」とは、現地ナイロビからの映像を見ながら少女の命を危険にさらす、英米の軍人や政治家たちのいる場所を指す。確かに現代の戦争の多くは、テレビゲームさながらの遠隔操作による爆撃によって遂行されていることくらいなら、我々もマスコミ報道によって既に知っている。そして、時には誤爆による民間施設への攻撃も耳にすることがある。無差別自爆テロによる被害も悲惨なものであるが、テロとの戦いに一般市民が巻き込まれるということも、これはもう、言葉がないほどに悲惨な事態である。そんなことは分かっているつもりであったが、だがこの映画を見ると、世界の現実はそれほど単純なものではないということが分かる。ミサイル発射の是非を巡って交わされる様々な会話は、さながら奔流のようにあちらに流れこちらに流れ、ついにはシンガポールで下痢に苦しむ英国外務大臣や、中国で卓球による親善を試みる米国国務長官など、首脳たちの居場所を求めて世界を走る。軍の幹部や政府首脳たちは、それぞれの大義と職掌に基づき、時にはリスクヘッジを企図して発言をし、議論は議論を呼んで結論はなかなか出ない。その様子には本当に手に汗握るものがあるのだが、ビジネスマンの方々には、是非彼らの英語を注意して聞いて頂きたい。日本語で果たして、このような議論ができるであろうか。それは何も軍事上の議論ではなく、日常のビジネス活動における議論に置き換えてみてもよいと思うのであるが、ともすれば責任が不明確だと言われがちな日本のシステムは、(「シン・ゴジラ」を思い出すまでもなく) 一般人の命のかかった場面に対処できるのであろうかと思ってしまうのである。一例を挙げると、「シン・ゴジラ」における何度も聞かれた言葉は、「総理! ご決断を!!」であった。これは政府の緊急会議において大勢が総理を取り囲んだ状況において発される言葉であり、江戸時代であればこの「総理!」の部分がそのまま「殿!」であっただけで、きっと同じような光景があちこちで繰り広げられていたであろう (笑)。ここではあくまでも決断するのは殿であり総理という「個人」であるが、案を提言するのは合議を経た「集団」である。ところがこの「アイ・イン・ザ・スカイ」でしばしば見られるのは、指令を出すべき「個人」 (軍人) が、その指令を許可する権限を持つ「個人」 (政治家) に対し、"Do I have permission?" (しかも英国式に語尾を下げたイントネーションで) と尋ねるシーンである。つまりここで「許可」を与えられるべき主体は飽くまで発言者個人、"I" なのであり、個人の責任が明確な欧米式意思決定である。この違いは大きい。これは「シン・ゴジラ」において大杉漣演じる苦悩の首相。
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だがもちろん、私は欧米流のやり方が常に正しいと主張するつもりは毛頭ない。戦争とは所詮人間のやっていることであるという限界は、言語やシステムを問わず冷厳に存在していると思わざるを得ないし、この映画は実際にそこまでズカズカと入り込んで行く内容になっているのであり、その点こそがこの映画の素晴らしい点である。私はこの展開にハラハラドキドキし、納得したり心の中で反対の声を上げたり、巻き込まれそうになっている無垢な女の子がかわいそうで涙が出そうになったり、本当に椅子に座っているのがつらいような時間を過ごすこととなった。このような素晴らしい作品をまとめ上げたギャヴィン・フッド監督は 1963年、南ア生まれ。
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過去の作品としては、「ウルヴァリン : X-MEN ZERO」や「エンダーのゲーム」があるが、あまり知られていない名前である。南ア出身の映画監督と言えば、「第 9地区」「エリジウム」「チャッピー」のニール・ブロムカンプがいるが、このギャヴィン・フッドよりは一回り下。だがどちらもこれから期待できる名前である。

この映画は見るものに何か強烈なものを突き付ける。それは戦争の真実であるとともに、映画という文化の一分野の持つ素晴らしい表現力であると思う。なかなかそのように思える映画に出会えることは少ないので、是非一見をお薦めする。

by yokohama7474 | 2017-01-31 00:16 | 映画 | Comments(0)

海賊とよばれた男 (山崎貴監督)

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昨年末からどちらかというとマニアックな映画に重点を置いて鑑賞して来た。どうしても、すぐに上映終了となってしまう映画に優先度を置いているきらいはあるものの、私は何もマイナーなものにしか価値を見出さないひねくれ者ではなく、一般に人気のある映画も、自分の興味と一致するものである限り、極力見に行くようにしている。この映画は誰もが知る通り、出光興産の創始者、出光佐三 (いでみつ さぞう 1885 - 1981) をモデルとした百田直樹の同名のベストセラー小説 (手元にあるが私は未だ読んでいない) を映画化したもので、同じ原作・監督・主演による「永遠の 0」もそうであったが、かなり世間の注目を集めている映画である。だが、最近になっていくつかの話題作の公開が始まっており、そろそろ見ておかないと上映終了になってしまうかもと思って、ようやく見に行ったもの。これが実際の出光佐三の肖像。修羅場をくぐった人だけが持つ、いい笑顔ではないか。
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この種のポピュラーな映画は、出張に出かけるときの飛行機の中で見ることができる可能性が高いと思うが、実は「永遠の 0」の場合はそのようにして見ることとなった。ところが飛行機の中では、航空の安全に不安を覚えさせるシーンはカットとなるので、当然ながら「永遠の 0」などは大変に不適な内容であったのだ。実際、岡田准一の墜落シーンがなかったことで、その後の染谷将太の行動に疑問を覚えたものだ (笑)。その点、この「海賊とよばれた男」は、海のシーンはあっても空のシーンはないだろうから、飛行機で見てもよいのだがな、と思っていたら、なんのことはない。この映画でも、飛行機の中では絶対カットされるであろう重要なシーンがある。つまり、ここでは逆に、染谷将太に関するそのシーンがなければ、その後の岡田准一の行動に疑問を覚えるということになるはず (笑)。
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映画の冒頭に英語で、"based on true events" と出る。日本語では「実際に起こった出来事に基づく」となるが、そうするとどうも説明くさくなってしまう。なのでこの英語表記は一見識であろうと思う。そしてこの映画の素晴らしい点をまず一言で述べるならば、岡田准一の老け役と言ってもよいのではないか。ここでは主人公國岡 鐡造 (くにおか てつぞう) の若い頃の荒くれぶり (と言っても、私生活ではなく仕事に関してのことだ) から始まり、戦中、戦後、そして高齢で亡くなるまでが描かれているが、それぞれのシーンの設定年齢に応じて白髪の数も変わるという凝り方である。岡田は 1986年生まれなので、未だ 36歳。でもこれ、どう見ても老人だ。彼の演技はすべての箇所で完璧とは思わないが、それでも、彼の演技を貫く熱意にほだされることは事実。最後の老人ホームのシーンなど、その目力に感服した。
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昨今の日本の状況に鑑みて、戦後の復興から目覚ましい経済発展を遂げた昭和の時代を懐かしむには充分な理由があると思う。まあ、この映画を見ていると、既に過去のものとして過ぎ去ってしまった昭和という時代に思いを馳せることにはなってしまうが、だが、時には我々は思い出す必要がある。かつて昭和と呼ばれる汗と涙にまみれた時代があり、国民は皆必死であって、それだけまっすぐに前を向いていたのだということを。これが劇中の國岡商店の人たちの写真だが、50代以上の人なら、幼少の頃にこのような景色があちこちで見られたことを忘れてはいまい。左端で革ジャンを着ているのが監督の山崎 貴である。
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実はこの写真には、肝心の店主である國岡 鐡造が欠けている。きっと体を張って、どこかで切った貼ったの勝負に出ているのであろう (笑)。ここで興味深いのは、店主を演じる岡田准一の実年齢が 36歳であるのに対し、その番頭役、無口な甲賀治作を演じる小林薫の実年齢が、親子ほども違う 65歳であるということだ。劇中で寡黙な番頭役を演じる小林は、実に円熟の演技であると思う。
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この映画の長さは「永遠の 0」とほぼ同じ、145分。その長さにもかかわらず、見ていて飽きることはないが、何よりこれが実話に基づくストーリーであることが興味深い。石油会社のメジャーを敵に回し、今日ではありえないような乱暴な方法でイランに向かうところなど、まさに血沸き肉躍るものがある。いつの時代も、非難を恐れない勇気ある者が未来を拓く。これはイランから石油を運んできた日章丸の実際の映像。乗組員たちがイランに向かっていると知らされたとき、一体いかなる感情であったろうか。この映画を見て我々は、既に忘れてしまった何かの思い出を取り返す機会にしたいものだと思う。
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またここで國岡の妻を演じる綾瀬はるかは、そのごく限られた出演シーンにもかかわらず、いつもの自然な佇まいで、映画に何か安らぐものを与えている。
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現在、実社会での出光は、昭和シェル石油との合併に創業家が反対して頓挫している状態。そのひとつの理由は、現在出光美術館が所有する驚くべき日本美術のコレクションの散逸を、創業家が恐れていることも一因であるようだ。経済合理性はどうなのか分からないが、文化に対する妥協ない姿勢を見せた出光創業家は、さすがに海賊の子孫 (?) である。稀代の日本美術のコレクターであった出光佐三には、美術品に対する殺気立つほどの愛着があったようだ。この映画の中で國岡商店は、石油メジャーと丁々発止渡り合い、そのしっぺ返しを受けて会社が困窮のどん底に落ちてしまう。そのために起死回生の策として日章丸がイランに向かったわけであるが、私の疑問は、では現在の出光美術館のコレクションのうち、会社がどん底にあった状態でも散逸を免れたものが、どのくらいあったのかということだ。昨年開業 50周年を記念して出光美術館が開いた「美の祝典」3回シリーズについては、このブログでもそれぞれ記事を書いたが、今でこそ実に素晴らしい日本美術の宝庫である出光美術館がいかにして維持され発展して来たのか、知りたい衝動に駆られる。出光佐三の最初のコレクションは 19歳のとき。江戸時代の画僧、仙厓の作品であった。そして現在ではこの美術館は仙厓の大コレクションで知られる。劇中の國岡のように熱い人であったろう出光佐三は、恐らくそのコレクションにも命を賭けたのであろう。この映画の中で、國岡の執務室にはいくつかの美術品が飾られているが、中でも背景に見える、墨で描いたいかにも仙厓風の洒脱な作品 (時間の経過に応じて 2種類が確認できる) が気になる。私の手元にある 1989年の出光美術館での仙厓展の図録を見てみて、近いものを以下に掲げる。
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この映画のリアリティは脱帽ものであり、監督の山崎貴の細部に亘るこだわりが伝わってくる。けだし人間は、何事であれ大事なことにはこだわりを持つべきであろう。これからの時代、我々が頑張って生きて行くためのヒントをこの作品から得ることはそう困難なことではないと思う。飛行機の中ではなく、劇場で見ることができて本当によかった!!

by yokohama7474 | 2017-01-29 23:05 | 映画 | Comments(0)

ネオン・デーモン (ニコラス・ウィンディング・レフン監督 / 原題 : Neon Demon)

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うーん。この映画を表現するのに、どのような言葉を使おうか。まず予告編を見た印象では、近いタイプの映画は「ブラックスワン」であろう。すなわち、予告編によるとどうやらこの映画は、ファッション界にデビューした若く初々しい女の子が、才能を見出されてめきめき頭角を現し、周りの女性たちの燃えるような嫉妬と競争心を煽り立てることとなる。そして初々しかった彼女自身、成功するにつれて悪魔的傲慢さを発揮し始める。その結果段々見えてきたことには、彼女らが居場所を見出している、明るい照明の輝く華やかな世界は、実はネオンの光に潜む恐ろしいデーモンの巣窟なのである・・・とまあ、そのようなストーリーであると思われるからだ。見終わった今、この映画を反芻してみると、もちろん「ブラックスワン」との共通点もあるにはあるが、より強烈に人間の影の部分に光を当てる、心底恐ろしい映画であると思う。誰が見ても面白いかと問われれば、多分首を横に振るだろう。だが、見る価値はあったかと問われれば、渋々首を縦に振るだろう。

まず導入部が非常に凝っている。ザラザラしたガラスのような表面に様々な色が当たり、タイトルが出たあと、本編の冒頭に登場するのは、ソファに身を寄りかかったまま、どうやら首を切られて息耐えた血まみれの若い女性。上のポスターにも含まれている、このような画像だ。私の記憶では、映画の中では腕も血まみれだったように思う。
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だがどうやらこれは作り物であるらしい。なぜなら、真剣にシャッターを切る男の映像が、切り返しで次に現れるからだ。カメラは一旦ソファから引いたあと、再度男のショットとなり、そしてまたソファに戻るが、そこには既に女性の姿はなく、カメラはただ空しく対象物であるソファに寄って行くだけ。次のシーンでは、場面が変わって、首と両手におびただしくこびりついた血糊をティッシュで拭き取る、この青い服の女性。彼女は鏡に向かっており、多くの照明で明らかな通り、どうやらそこは撮影のためのメイクをする部屋だ。女性の前には大きな鏡があり、血糊を拭き取る彼女はどこか上の空である。すると、部屋の反対側、そこにもメイク用の鏡が沢山並んでいるのであるが、そこにはショートカットのもうひとりの女性がいて、二人はポツポツと会話を交わす。本物の人間と、その鏡像が、交錯してコミュニケーションを始める。そして血糊の拭き取りを手伝いにショートカットの女性が寄ってきて、二人が向かい合って喋るときには、その短いセリフのいちいちで、カメラはいわゆるピン送りという手法を使うことで、ただの何気ない会話シーンに不思議な感覚が与えられている。つまり、喋っている人物の顔にピントが合ったと思うと、話し手の交代とともに別の人物にピントが移り、会話の進行とともにそれが交互に繰り返されるという手法である。これにより、喋っている人物の表情にはピントは合っているが、聞いている方の人物の表情はピンボケで伺い知れないということになる。
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記憶だけで書いているので、細部が違っていてもご容赦願いたいが、私がここで言いたかったことは、冒頭のこの流れだけで、この映画の映像のスタイリッシュな凝り方は、単に技法を弄んでいるのではなく、ここで描かれる人間像やその関係と密接に関係していることがはっきり分かる、ということなのだ。私の見るところ、この映画の大きな特徴は 2つ。ひとつは、全編を通してあらゆる場面で鏡が多用されることで、これにより真実と虚像の境界が曖昧になっていること。もうひとつは、無音の場面が多いがゆえに流れに緊張感があり、音楽や音響の入る場面では、必ず何か重要な事態が発生するということだ。そのような監督の手練手管にまんまとはめられた観客は、その先を読めない展開に身を乗り出し、そして後半では何度か、その身をのけぞらせるだろう。実際、私が見たレイトショーでは観客が 10名ほどであったが、大詰め近くのあるシーンでは、何人かが「うえっ」だが「ぎょえっ」だか、何やら得体の知れない声を思わず口から漏らしていたものだ (笑)。監督のインタビューを読むと、ホラーやメロドラマやコメディや SF などのあらゆる要素の混じった映画を撮りたいと言っていて (そう言えば、先に大絶賛した「ドント・ブリーズ」のフェデ・アルバレス監督も同じようなことを言っていた)、なるほどとは思うのである。このセンスは只者ではない。ただ、相当にグロテスクなシーンもいくつか出て来て、それらは本当に強烈であるので、拒否反応を示す人も多いだろう。とはいえ私自身は、それらを汚いとは全然感じなかった。あ、これでは監督は満足しないかな。では訂正して、汚いとは思ったけど、人間の真実の狂気を抉り出す仮借ないシーンとして強く印象に残った、という言い方にしましょう (笑)。

こんな凝った作品を撮ったのは、1970年デンマーク生まれの、ニコラス・ウィンディング・レフン。この映画の原案・脚本・監督である。美女演じるところの死体の横に登場してもらいましょう。
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残念ながら私は見ていないが、2011年の「ドライヴ」という作品がカンヌ映画祭で見事監督賞を受賞したことで、一躍名を上げた監督である。因みに「ネオン・デーモン」は、やはり昨年 2016年のカンヌのコンペティション部門で上映され、絶賛の拍手と非難の嵐の双方を巻き起こしたらしい。いやー、きっと審査員の人たちも、「うえっ」とか「ぎょえっ」とか声を上げたに違いない (笑)。このようにスキャンダラスな要素を持っている監督だが、これだけのセンスの持ち主なら、今後の活躍も必ずや期待できると思う。

さてさて、あえてこれまで全く触れてこなかったのであるが、演出以外のこの映画の最大の見どころは、もちろん主演女優である。エル・ファニングだ。
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彼女は 1998年生まれだから、未だ 18歳。昔は、天才子役ダコタ・ファニング (最も有名なのは「アイ・アム・サム」とか「宇宙戦争」であろうか) の 4つ下の妹という位置づけであったが、今や素晴らしい女優である。ダコタの近況は知らないが、成功した子役にしては珍しく、ドロップアウトせずにまっとうな大人になって女優業を続けているようだ。だがこのエルの場合、姉よりもファンタジー系での活躍が多く、私自身も、以前もほかの記事に書いたが、J・J・エイブラムスの低予算の傑作「SUPER 8 / スーパー 8」での彼女に驚嘆し、そして、なぜか全く話題にならなかったコッポラの近作「ヴァージニア」で狂喜したのである。その後「マレフィセント」を経て、このブログでも採り上げた「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」では素顔の演技を披露したと思ったら、今度はこの映画である。ここでの主役ジェシーは大変な役柄であって、ただ演じ上げるだけでも極めてハードであるが (血まみれにもなるし)、何より様々な設定での千変万化の表情を求められるので、この若さで充分な演技経験を持つ彼女の強みが活きている。そして、いくつのシーンでは本当に彼女のプロ魂を感じることができるのだ。この映画では完璧な美を持つ女性という役であり、ただの美形という感じとは少し違う彼女の顔だちは、設定と少しずれがあるかもしれないが (監督自身もそう認めている)、何より女優エル・ファニングの多くの可能性をここで見て取ることができるだろう。こういう写真の数々を引っ張ってきても、どういう映画であるか、さっぱり分からないでしょうが・・・。彼女の魔力を秘めた眼球は、永遠にその存在を主張し続けるのである。
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尚、この映画で久しぶりにキアヌ・リーヴスを見たが、ここでは、「さあ、どうする?」という悪漢の挑発に敢然と立ち向かうヒーロー・・・ではなく、怠惰で無礼で怪しげな安モーテルの経営者を演じて、なかなかいい味を出している。
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振り出しに戻って、うーん。この映画を表現するのに、どのような言葉を使おうか。「女性の恨みは本当に恐ろしい」という単純な言い方は避け、「人間が根源的に持つ狂気や暴力性を助長する要素としての、女性の恨みは本当に恐ろしい」と総括しておこうか。そう、この映画は人間存在の深いところを描いているのである。でも、グロテスクの向こうにそれを見るだけの眼球を持つ人にしかお薦めしないと言っておこう。その意味で、「ブラックスワン」のような多くの観客に受け入れられる映画とは、少し違ったものになっているのである。

by yokohama7474 | 2017-01-26 01:25 | 映画 | Comments(0)