カテゴリ:演劇( 15 )

このブログをご覧の方なら先刻ご承知のことかと思うが、世界の都市で、ミシュランの星付きレストランが最も多く存在するのはどこか。パリ ? ニューヨーク ? ロンドン ? いえいえ、東京なのです。それもそのはず、ここ東京には、フレンチやイタリアンやスペインバルに加え、中華や各種エスニック、そして、すき焼きから寿司に至る和食の店がゴマンとあるからだ。それは文化面でも同じこと。ただ単に、オーケストラコンサートや舞台での芝居の上演、しかも質を考慮に入れるということなら、東京はロンドンに及びもつかないが、伝統芸能を数に入れれば、間違いなく東京は世界一の舞台芸術の街だ。そう、能や歌舞伎、文楽の公演が目白押し。中でも歌舞伎は、近年の相次ぐ名優の死去にも関わらず、相変わらず盛況に見える。最近、日本のオーケストラの演奏会に足を運ぶ必要があって時間的に余裕がないとはいえ (いやいや、誰にも強制されたわけではなく、自分で勝手に行っているわけだが 笑)、年に数回は日本の伝統芸能を見たい。そんなわけで、赤坂 TBS 本社に隣接した赤坂 ACT シアターで興行中の、赤坂大歌舞伎を覗いてみた。
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この赤坂大歌舞伎、2008年に、故中村勘三郎の発案で始まったらしい。勘三郎が 2012年に世を去ってからは、2013年、今年 2015年と、二人の息子、勘九郎と七之助が中心となって継続されている。私は歌舞伎マニアでは全然ないが、勘三郎は、コクーン歌舞伎を始めたときの「東海道四谷怪談」や、ニューヨークでの平成中村座「夏祭浪速鑑」など、忘れられない舞台に何度か接していて、志半ばにして逝ったこの名優の無念に思いを馳せることがままある。勘九郎、七之助の兄弟は、彼の血を受け継いで活発な活動を行っていて嬉しい限りだが、まだまだ清濁併せ呑む迫力には及ばないように思う。いやしかし、このような伝統と格式とは違う新たな舞台での活動が、芸の引き出しを増やして行くことはまず確かなことであろう。上のポスターの右側、勘九郎の額には、くっきりと「赤坂」の文字が。
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今回、赤坂 ACT シアターには初めて足を運んだ。こんな感じのモダンな外見だが、敷地内には、べっ甲や根付けや彫り細工など、江戸時代以来の伝統工芸の店が軒を連ねて、芝居へのワクワク感を否が応にも盛り上げる。
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今回の出し物は 2演目。最初が、長唄囃子連中、「操り三番叟 (あやつりさんばそう)」。メインが、「東海道四谷怪談」で知られる四世 鶴屋 南北 (1755 - 1829) の、「於染久松色読販 (おそめひさまつうきなのよみうり)」、通称「お染の七役」だ。
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最初の「操り三番叟」の主役は兄の勘九郎。もともと祝いの場で舞われる儀式舞踊「三番叟」が様々な形態に発展したうちのひとつで、見せ場は、等身大の人形、三番叟が後見の手によって活発に踊り出す場面。操り人形さながらの動作で派手に舞う勘九郎の技は見事だ。これはコミカルで軽々とした動きでないと観客は楽しめなが、これだけ動ければ非の打ちどころがない。しかも黄色い靴下を履いているあたりがモダンだ (笑)。
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「お染の七役」は、上演時間正味 2時間15分。ストーリーは若干複雑で、何組ものカップルや横恋慕や悪人の悪巧みやとぼけた丁稚や大立ち回りが出てくる。登場人物も多くて、ストーリーを追うのがなかなか骨だが、実はその必要はそれほどない。というのも、七之助演じる 7役の早変わりを楽しんでいるだけでも充分だからだ。この戯曲、もともと大阪で実際に起こった質屋の娘、お染と奉公人、久松との心中事件が題材になっていて、1813 年の初演時 (なんと、200年以上前か!!) に大当たりを取ったらしい。正式な題名よりも、「お染の七役」で知られているのが、主役のお染役の役者がほかにも 6つの役を演じ、合計 7つの役になるからだ。しかもこの 7人には、お染本人とその恋人 久松、さらには久松の許嫁 お光、また久松の姉 竹川、その他、芸者あり、質屋の後家あり、やさぐれた悪女ありと、なんとも凄まじいバラエティ。立ち姿や声色もたちどころにして変える必要のある難役だ。しかも冒頭の方では、ひとつの役で舞台から去った数秒後には全く違う恰好で出てくるのだから恐れ入る。また大詰めでは、なんと寄り添うカップルを一人で演じる !! という離れ業。
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そんなわけでこの兄弟、清濁併せ呑む存在目指して、これからまだまだ芸域を広げて行くであろう。鑑賞する我々も、日本人ならではの特権を味わいつつ、東京にはこんなにすごい伝統芸能があるということを誇りに思おう。ミシュランの演劇編ってできないものだろうか。

by yokohama7474 | 2015-09-23 23:42 | 演劇 | Comments(0)

2日前に英国ロイヤル・オペラの来日公演でヴェルディ作曲の歌劇「マクベス」を見たばかりだが、なんの因果か、今日は演劇の「マクベス」を見ることに。「NINAGAWA マクベス」、その題名で明らかな通り、日本を代表する演出家、蜷川 幸雄の手になるものだ。蜷川は今年 80歳。最近の写真では、酸素を鼻から入れており、灰皿を投げて芝居に情熱を傾けて来た人としては、なんとも弱々しく見えてしまう。
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だが、その活動は大変に活発だ。私自身、つい 1ヶ月ほど前に、寺山修司脚本による「靑い種子は太陽の中にある」を見たばかり。今回、17年ぶりにこの「マクベス」の再演が行われるそうだが、今後も、「海辺のカフカ」の世界巡演を含め、あれこれ予定が目白押しである様子。実は私にとっては高校の大先輩でもあるのだが、このなんとも頑固な面構えの爺さん、まだまだ衰えを知らないようだ。

さて、上記の通り、この演出は 17年ぶりの再演。ポスターには、「仏壇マクベス集大成」とあるが、一体どういうことか。
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それは、この舞台が巨大な仏壇になっており、冒頭で 2人の老婆がヨタヨタと舞台に上ってきて、その大きな扉を開くことから始まるからだ。この写真は、美術担当の妹尾河童作成による模型。
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この演出、1980年に初演されて以来、1998年まで、国内に加えてアムステルダム、エディンバラ、ロンドン、オタワ、ニューヨーク、シンガポールという海外でも上演されてきた。マクベス役は、平 幹二朗、津嘉山 正種、北大路 欣也と変わっているが、マクベス夫人役はこれまで一貫して栗原 小巻であった。今回の上演では、市村 正親と田中 裕子のコンビによる。

蜷川のシェイクスピア演出では、舞台が日本に置き換えられ、歌舞伎をはじめとする日本固有の芸能が取り入れられることで知られる。この「マクベス」は、その意味では蜷川の面目躍如と言ってよいであろう。老婆が仏壇を開けるときには、大音響で日本の梵鐘の音が鳴り響き、否が応でも不気味な怨念の世界に引き込まれる。蜷川自身の言によると、実家で仏壇に線香をあげていたとき、仏壇を開けて位牌と対話するということは、シェイクスピアの作品が自分たちの物語になるということだと直感したらしい。それは、「日本人がシェイクスピアをやる意味が見つかった」ということであったとのこと。私自身はこの考えに、賛同半分、疑問半分だ。それは、日本風の衣装を纏った瞬間に、それは演劇以外の何物か (日本の文化のデロリ性) を負ってしまうということで、その感覚は、西洋式生活を送る現代の日本人自身にとっても決して日常の身近なことではなく、いわゆる日本人自身にとってのエキゾチックジャパーン!ということになるであろうからだ。従って、このような演出が海外で受けまくるのは想像に難くない。問題は、虚心坦懐に見てこの舞台が人の心を動かすか否かという点だ。

と、なにやら否定的なことを書きながら、私は確信するのだが、この演出、滅法面白い!! それはすなわち、シェイクスピアの戯曲がそれだけ多様性を受け入れるということであろうと思う。実際、ここで展開する人間たちのドラマは、別に中世のスコットランドで起こらなくても、江戸時代の日本でも現在の日本でも、いや世界のどこの時代のいかなる場所でも起こり得ることだからだ。見れば見るほど、恐ろしい普遍性だ。ちょっと想像してみてもらいたい。もしあなたの上司があなたに胸襟を開き、あなたのことを誉めそやしたら、その上司がいなくなった暁には自分が後任になるという野心を抱くことは、全く普通のことではなかろうか。殺人を犯すことは極端な事態であって、そこまで至る人はほとんどいないわけであるが、ちょっと魔がさすということくらいなら、人間誰でもあるものではないか。そうだ、先に歌劇「マクベス」に関して、主人公が悪漢と書いたが、原作では決してそうではなく、英雄的な活躍をした人間が、ふとした出来心で転落して行くという、人間の弱さがここに示されているのだ。悪女の代名詞のように言われるマクベス夫人にしても、見方を変えれば、旦那の出世のために献身的な努力をするけなげな妻ということになる。単純な悪が描かれているのではない点、400年の時を超えてシェイクスピア劇がその生命を保っている理由であろう。その人間洞察の深さ。

主役の市村正親と田中裕子は、いずれもさすがの演技だ。舞台における演技のなんたるかを知悉している。それから、私が大きな感銘を受けたのが、マクダフ役の吉田 鋼太郎だ。この役がしっかりするか否かで、全体の印象が随分と違うはず。ここでは、まさに堂に入った舞台での発声で、ときに軽快な他者への信頼感を表すと思えばまた主君を質す勇気を示し、また、妻子を失った断腸の思いを振り絞る。素晴らしい。
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蜷川の演出は、理屈っぽいこねくり回しは皆無で、大変ストレートに観客に迫ってくる。ただ、欧米の演出家であれば、もう少し自分の演出を知的な言葉で語るはずで、正直その点だけが、日本を代表する演出家としては物足りない気がする。それから、音楽の使い方。一般によく知られた曲のイメージにかなり依拠している点が気になった。ここで使われている名曲とは、フォーレのレクイエム ニ短調作品48、ブラームスの弦楽六重奏曲第 1番 変ロ長調作品18、そしてバーバーの弦楽のためのアダージョだ。それぞれに文句なしの名曲であるゆえ、舞台での効果も抜群ではあったが、既に出来上がっているイメージに頼っている点には、冒険心の欠如が感じられるような気がして、少し残念であった。

ところで、蜷川演出の「マクベス」を見るのはこれが初めてではない。2002年、ニューヨークのブルックリンで、唐沢 寿明と大竹 しのぶのコンビで見ているのだ。それはやはり舞台を日本に置き換えたものではあったが、今回の仏壇マクベスとは異なるものであった。プログラムを引っ張り出してきた。なるほど、これは埼玉の彩の国で進行中のシェイクスピア・シリーズにおける演出で、仏壇マクベスとは別物であったようだ。
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あ、それから、スコットランドを旅行した時に、コーダー城に行ったこともある。マクベスが王になる前に領主になった地域の城だ。マクベスは実在の人物であったようだが、このコーダー城は戯曲とは実際は全く無関係らしい。それでも世界中のシェイクスピアファンがこの地をひっきりなしに訪れるのだ。
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ともあれ、蜷川が日本の演劇を大変面白くしてくれたのは紛れもない事実。今後も変わらぬ活躍を期待しよう。

by yokohama7474 | 2015-09-21 00:06 | 演劇 | Comments(0)

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この作品は、劇作家、詩人であった寺山 修司の没後 30年を経過した 2013年に見つかった未刊行の戯曲 (1963年作) を、蜷川 幸雄が採り上げたものである。上のチラシの写真にあるように、寺山も蜷川も 1935年生まれで、今年生誕 80年を迎える。それにしても、蜷川は有名な演出家だし、寺山の人気は一部で根強いものの、あの 2,000人規模の大ホール、オーチャードホールで、実に 21日間で 24回の上演をするだと? そりゃムチャよ。きっと劇場カラガラよ。と思って会場のトイレに行くと、ほら言わんこっちゃない。1階の何十人も使える広い男性トイレが、ほぼ私の貸切だ。何十回もこのホールに来ているが、こんなことは初めてだ。まあ、ゆったりした気分で用を足せるのは何よりだが、あーあ、こんな集客でどうする!! ・・・と心配する私はなんと愚か者か。この芝居の主役は、今を時めくジャニーズの亀梨 和也なのだ。
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いや私も、まさかこのブログで、亀梨のアップを使おうとは夢にも思っていなかったが (笑)、このブログを愛読頂いている方で、彼を絶対知らないだろうという人も何人かいることから、決意した次第。まあともかくこの芝居は、何の誇張もなく、98%は女性客だ。先のハインツ・ホリガーの演奏会を老若男女と表現したが、この芝居は、老若女だ。凄まじい女性集客力 (かく言う私自身、家人へのサービスでこの観劇に至ったという要素がないわけではない)。ただ。ただである。寺山 修司のアングラ性について、この観客たちは理解しているのか。見てみてびっくり、卒倒するようなことにはならないか。開演前、ソワソワしていたり、ニコニコしていたり、または「なんだか緊張するわぁ」と、あまり根拠がない緊張感 (心配せずとも、亀梨君は君のところには来ないって!!) を口にしていたり、いやそれぞれの女性客の期待感の膨れ上がり方たるや、尋常ではないのだ。特に、1階の最前列に陣取った女性たちは、もうすぐ達成される亀梨との至近距離での邂逅に有頂天で、もはや究極の勝ち組、人生の頂点の風情。並み居る後列の人たちを、憐みと優越感の混じった視線で振り返っていた (やや誇張)。

私にとって寺山も蜷川も、若干微妙なところのある存在だ。寺山の映画は、封切で見た「さらば箱舟」以外にも、代表作である「書を捨てよ街へ出よう」や「田園に死す」も名画座で見たし、彼の前衛映画 (「トマトケチャップ皇帝」とか「一寸法師を記述する試み」とか) は、全作品の市販ビデオを、未だに大切に持っている。また、句集、詩集を含めた著作も何冊か読んでいるし、青森に旅行したときには、当然、寺山修司記念館に足を運んだ。従って、彼の創作活動についてのイメージは明確に持っているのだが、ではそれを好きかと問われると、若干言葉に窮してしまう。グロテスクさや土俗性が、時に本能的な反感を起こすこともある。また、寒い東北の地で母の愛を求める少年像という、ある種の閉塞感に、うんざりすることもあるのである。また、どこかの誰かに、「寺山修司好きですか? えー、私も大好きなんですよー」と明るく話しかける気にならない、そういうタイプの芸術家だと思う。でもまぁ、やっぱり心のどこかに響くものがあるのは事実。
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さて一方の蜷川だが、それほど多くの作品を見たことがあるわけではないし、ほとんどがシェイクスピア劇だが、正直、あまりいい出会いをしていない。最悪だったのはオペラの演出で、小澤征爾の指揮するワーグナーの「さまよえるオランダ人」の演出がひどくて、目の前がクラクラしたのだった (あれ以来オペラは手掛けていないのではなかろうか)。さて、今回、寺山の戯曲という異色作品の演出を、いかに捌くのだろう。

ストーリーは以下の通り。スラム街にマンションができることとなり、その建築現場で朝鮮人の人夫が墜落死してしまうのだが、その死体がマンションのコンクリートに埋められ、事故は隠蔽されてしまう。それを目撃した若い男、賢治は、人夫の埋められた場所の壁にチョークで太陽を描き、コンクリートから死体を取り出そうと周りの人々に訴えても取り合ってもらえず、恋人の弓子 (高畑 充希) との仲もギクシャクする。最後はスラムの人たちの気持ちを動かすことができるが、死体の掘り出しには至らず、弓子が不慮の死を遂げてしまう。スラム街でのマンション建設を政治の道具にする代議士や、日々の生活に退屈する肉感的なその娘などが少し絡んでくるものの、非常に簡単なストーリーだ。おっと忘れていたが、音楽劇の体裁を取っており、今回はなんと松任谷 正隆が全編に曲を書いていて、ジンタ調でがなりたてられるスラム街の人たちの歌から、賢治のもどかしい思いを表すドラマ性のある歌、恋人たちの抒情的なメロディまで、なかなかそつなくこなしていたと思う。

さて、この芝居をどのように受け止めるべきか。私に分からないのは、1963年の寺山の真意がいずこにあったかということだ。もちろん、権威に対する反抗心はあったであろうし、社会の底辺の人たちへの共感もあったに違いない。でも、だからと言って、人知れず葬られた人夫の弔いを本気でしようとする若者、そんな素朴すぎるテーマを描いたのだろうか。少し思い込みかもしれないが、例えば、賢治だけが目撃したその墜落事故も、その人夫の存在自体も、賢治の幻想であったという解釈は成り立たないものだろうか。「靑い種子は太陽のなかにある」というタイトルは、寺山らしい非常に詩的な雰囲気があって、それは何も、正義を貫けとか、勇気をもって巨悪に立ち向かえという社会的なメッセージではなく、人間の生の哀しみを抒情的に描いているだけではないか。なので、私にとっては、そこに人夫の死体が埋められているか否かは重要ではなく、それを巡って賢治の思いが駆け巡っていることこそが重要なのだと思う。その観点から見ると、賢治役の亀梨の演技は、少し単純すぎたように思う。また、これはやむないのかもしれないが、明らかに舞台の発声が充分にできておらず、大声がただの大きな声で、少し枯れかけていた。それに引き替え、弓子役の高畑は、もともと舞台出身とのことらしく、明朗で舞台らしい発声であった。

この作品、封印されてしまった理由は不明だが、寺山自身は、大きな劇場でプロの役者が演じることすらも、あまり想定していなかったのではないだろうか。彼本来の土俗性があまり発揮されていない点、必ずしも「隠れた名作」とまでは言えないであろう。まあそう考えると、普段寺山のことなど全く知らない観客層に、新しい世界への入り口を示すという意味で、このような芝居の意義もあるのかもしれない。あ、すみません、亀梨ファンの方、どうぞお許しを!!


by yokohama7474 | 2015-08-24 00:38 | 演劇 | Comments(0)

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「兵士の物語」は言うまでもなく、ストラヴィンスキー作曲による 1時間程度の曲。語り手がいて、小編成 (7名) のオーケストラがいて、登場人物たちは音楽に合わせて踊るのだ。「語られ、演じられ、踊られる」と作曲者は副題をつけた。このような曲であるがゆえに、通常のオーケストラコンサートで取り上げられるレパートリーではなく、小劇場での役者やダンサーによる公演が、日本でも様々に行われて来た。今回、スターダンサー、アダム・クーパー (奇抜な演出家マシュー・ボーンが「白鳥の湖」に起用して大人気となった) の主演で、以前英国ロイヤル・オペラで上演されたプロダクションの、日本独自の再演として今回上演された。主役たちは全員、ロイヤル・バレエ出身者だ。

私は古典的なバレエにはとんと興味がなく、多少なりともコンテンポラリーな要素があるパフォーマンスのみ興味の対象としているので、この公演に足を運んでみた。2階席のチケットを購入していたが、演出の都合とのことで 2階は閉鎖され、1階の席に振り分けられた。中には客席ではなくステージ上に設けられた席を振り当てられた観客たちもいた。薄暗い劇場風のセットをしつらえた舞台上にも狭めの丸テーブルがいくつか置かれていて、その雰囲気に、昔ニューヨークで見たミュージカル「キャバレー」を少し思い出した。

さて、内容であるが、さすがにそれぞれのダンサーが無駄のない動きで見事な流れを見せる。特にアダム・クーパー。舞台における存在感は抜群だ。
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宣伝文句には、衝撃のラストと謳っているが、まあ原作通り。ただ、確かにその表現は若干刺激的だ。ここに出てくる悪魔は、西洋においてはおなじみの、人の希望に付け込んで魂を奪って行く邪悪な存在であって、人のよい兵士ヨセフは、案の定というべきか、悪魔にとらえられるということだ。とはいえ、それほど後味が悪いということもない。そのひとつの理由は、オケがあまりに小さい編成で、かつ新古典主義に入りつつあった当時の作曲者の洒脱な、あるいはとぼけた雰囲気が横溢しているからだろう。

というわけで、会場はアダム・クーパー人気で大混雑かと思いきや、意外とそうでもなかった。率直なところ、1時間と少しで休憩もなく終わってしまう短い上演にしては、チケットのお値段がいささか高い。そんなわけだろう。会場では、リピータ―割引と称して、別の日の公演を半額で売っていたが、うーん、残念ながら、ストーリーが複雑であるわけでなし、もう 1回観ようという人は限られてしまうのではないか。

優れた舞台芸術といえども、本拠地を離れて大成功続きというわけにはなかなか行くまい。ただその中で、東京で見ることのできる舞台芸術の選択肢は膨大で、そのことにはともあれ深く感謝しよう。金と時間は、かかってしまいますがネ。

by yokohama7474 | 2015-07-28 00:21 | 演劇 | Comments(0)

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元来、演劇に分類される伝統芸能 (能、文楽、歌舞伎) には興味のある方である。しかしながら、最近は特に日本のオーケストラを聴きに行く機会が増えたこともあり、残念ながらこちら方面にはなかなか足が向かない。今回、大阪訪問の機会に是非文楽を見たいと思いたち、久方ぶりに渇望を癒すことになった。調べてみると、前回の文楽鑑賞は、東京の国立劇場で平成 24年だから、実に 3年ぶりの文楽ということになる。

周知の通り、文楽 (人形浄瑠璃) は近年、橋下大阪市長の方針により、厳しい環境に置かれている。種々議論はあるだろうが、効率的な興業マネジメントの観点は、いかにユネスコ文化遺産であろうと必要であり、昨今の経緯によってさまざまな自助努力がなされたのなら、それは意義のあることだ。ただ一方で、1つの人形に 2人も 3人も人形遣いが必要で、かつ習熟にこれだけ時間のかかる人形劇というものも世界に例がないと思われ、要するに商業ベースに乗ることなど所詮は無理ではないか。オペラも大変な金食い虫なので、本場イタリアの歌劇場でも予算削減が深刻な問題になっている。経済のないところに文化はなく、もちろん人間の生活が最優先とはいえ、人間たるもの、文化なくしては生きて行けないのもまた真実。金額的なインパクトを冷静に考えながら、かけがえのない文化遺産を守って行きたいものだ。

さて、伝統文化の継承には、その時代時代の観客にアピールすることがいちばん。大阪で文楽を見るのはかなり久しぶりではあったが、劇場も雰囲気が明るくなり、字幕導入をはじめとする様々な工夫により、客席はほぼ満員の大盛況だ。劇場には小さいながら資料館も併設されていて、なかなかためになる。
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また、客席に向かうエスカレーターを昇る際に、今回の演目「生写朝顔話 (しょううつしあさがおばなし)」の主要登場人物の写真が、垂れ幕として大きく展示されている。
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今回は、夏休み期間中に 3つの演目が上演されているうち、第 2部だけを見たのだが、上演時間は、2回の休憩を挟んで 3時間半近い。それでもこの「生写朝顔話」の、恐らくは半分程度の上演であろう。第 3部で続きが上演されるものの、最後の段がいくつか省略されるし、今回の第 2部も、その前の部分を省略しての上演だ。これはワーグナーも真っ青、全編上演は、文字通りまる一日仕事ということだ。もちろんそれだけ長い話なので、あれこれ複雑ではあるのだが、かいつまんでストーリーを説明すると以下の通り。儒学者 宮城 阿曽次郎 (みやぎ あそじろう) は、武士の娘 深雪 (みゆき) と出会い、扇に朝顔の歌をしたためて愛の証とする。ところがこの 2人、運命の波に弄ばれ、なかなか再開することができない。深雪に横恋慕する医者 萩の祐仙や、人買い 輪抜 吉兵衛などの脇役が聴衆の笑いや怒りを買うが、朝顔の歌が二人を結びつけるよすがとなり、曲折を経て最後は結ばれるというもの。飄々とした笑いの場もあり、まさに断腸の思いで登場人物たちが呻吟する情念の場もあり、まさに人生の様々な感情が凝縮された芝居である。どうやら中国の物語に想を得ているということらしいが、同じ題材による読本、歌舞伎の成立のあと、1832年 (天保 3年) に文楽として初演されたとのこと。

この日の上演のクライマックスは、浜松小屋の段である。矜持ある武士の娘たる深雪が人買いにさらわれ、郭に出ることを拒んで脱出するが、つらい運命に悲嘆の涙を流しすぎたあまり (!!) 失明し、子供たちからもいじめられる落ちぶれた境遇。そんな彼女をようやく探し出した乳母の浅香が、折から深雪を追ってきた人買いの輪抜 吉兵衛と刺し違えて絶命するのだが、その表現がすごい。吉田 蓑助の操る深雪の細微な動きから流れ出る情念たるや、尋常ではない。人間の演じる哀しみの表現とは異なり、ここにはより純化した感情が立ち現われていると思う。リアリティを越えた何かがあって、人の心の奥深くにそのまま食い込んでくる。私の周りでは何人もの人が、この場面でハンカチを目に当てていた。このような並外れた Emotion を表現できる演劇形態が、世界にどのくらいあるであろうか。まさに文楽、恐るべしである。

このブログをご覧の方で、もしまだ文楽経験のない方がおられたら、是非一度ご覧頂くことをお奨めする。人生変わるかもしれません。

最後に、文楽人気向上にかけた関係者の努力の例を 2つ。ひとつはこれ。大阪名物、くいだおれ人形である。なぜこんなところに、と思ってあとで調べてみると、なんとこの人形、文楽人形製作者の二代目由良亀 (淡路島出身で、谷崎の「蓼食う虫」の中にも登場するらしい) の手になるものらしい。なんとまあ、こんなところにも大阪の文楽の伝統が生きていたのだ。
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そして、次がこれ。ちょうど今公開されている、「ターミネーター 新起動」のパロイディだ。画面の反射で見にくくなってしまっているが、ターミネーターのポスターに書いてある文句を逐一パロディとしていて、なかなかに凝っている。
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このような前向きな発想によって、日本の誇るすばらしい伝統芸能が、より一層発展しますように!!

by yokohama7474 | 2015-07-26 22:45 | 演劇 | Comments(0)