カテゴリ:音楽 (Live)( 285 )

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足掛け 3年に亘って開催されてきた期待の若手指揮者、山田和樹と日本フィル (通称「日フィル」) によるマーラーの交響曲の全曲演奏も、第 9回である今回が最後。演奏されたのは、以下のような曲目である。
 武満徹 : 弦楽のためのレクイエム
 マーラー : 交響曲第 9番ニ長調

クラシック音楽をよくご存じの方には、この日の曲目には死の影が色濃く浮き立っていることが見て取れよう。マーラー・ツィクルスのフィナーレは華やかなものではなく、暗い死の影と隣り合わせなのである。この日も開演前に山田が登場して (通常はすぐ演奏会に入れるように燕尾服での登場だが、今回はタイなしのスーツ姿である)、プレトークを始めたところによると、8番までは感じることのなかった「これで終わり」という寂しさを今回は感じるという。この武満の曲 (1957年作曲) はこの作曲家の出世作であり、ストラヴィンスキーらに称賛された、という有名な話が披露されたあと、ほぼ専らマーラー 9番について語られることとなった。山田によると、この曲が採用しているニ長調という調性は、音楽史を見渡しても不思議と死と縁があるとのこと。ベートーヴェンがハイリゲンシュタットの遺書を書いた頃に書いていた晴朗な交響曲第 2番がこの調性だし、ハイドンの最後の交響曲、第 104番もしかり。ニ「短」調に視野を広げると、モーツァルトのレクイエムやブルックナー 9番が入ってくると。また山田は、この曲において重要なのは第 2ヴァイオリンであるという。このシリーズにおいて前回までは、指揮者の左手、第 1ヴァイオリンの奥に第 2ヴァイオリンが陣取り、指揮者の右手にはヴィオラがいたところ、今回だけヴィオラと第 2ヴァイオリンを入れ替えて、ヴァイオリンの左右対抗配置とした。それには明確な理由があり、この曲での第 2ヴァイオリンは、モーツァルトやベートーヴェンの曲での役割のように、第 1ヴァイオリンと一緒に演奏してその演奏を支えるという役割を超え、独自の動きをして、その動きが重要だからだという。例えば第 1楽章の冒頭のテーマ (マーラーが既に前作「大地の歌」の最後で「永遠に (ドイツ語で "Ewig")」という歌詞につけた音型を流用) は、通常なら主旋律を担う第 1ヴァイオリンではなく第 2ヴァイオリンが弾くものだし、最終楽章の荘重この上ない終結部も、第 1ヴァイオリンが沈黙したあとも最後まで第 2ヴァイオリンが演奏を続けるということが説明された。もしかすると、第 1ヴァイオリンが現世なら、第 2ヴァイオリンはあの世を表しているのかもしれないとも語られた。そして山田が最後に総括して言うことには、マーラーの楽譜には細かい指示が大変多いが、だからといってどんな指揮者の演奏もそれに忠実に従うあまり、同じような演奏になるかというと、全くそうではなくて、非常に多様である。ある意味でマーラーは、多様な価値を包含する世界性を持っている音楽であり、それこそ、多様な価値観の衝突が起こりがちな現代において必要とされているものではないか、と締めくくり、ともに「戦って来た」日フィルをはじめとする本シリーズの関係者への謝意が述べられた。今回のトークは、一見いつもの通りの飄々とした語り口でありながら、あまり脱線したりジョークを絡めることもなく、この稀代の交響曲に挑む緊張感を感じさせるものであった。
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前半の「弦楽のためのレクイエム」は、文字通り弦楽器 5部からなる 10分弱の曲。当時 27歳の武満が東京交響楽団からの委嘱を受けて書かれたものである。その厳しい音楽は後年の武満の美麗さと通底しながらも反撥しあう。往々にして、暗い絶望の中で揺蕩うように演奏されるが、山田の手にかかるとそれは重苦しい音楽というよりは、様々な線の絡み合いから立ち昇り、どこまでも続いて行く音の連なりのようであり、繊細さの表現に細心の注意を払いながらも時に大胆に聴き手に迫りくる、積極的な音楽であるかのように響いたのではないか。これは小澤征爾とサイトウ・キネン・オーケストラによる録音のジャケット。
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そしてメインのマーラー 9番こそ、この畢生の大作に若き指揮者が果敢に挑んだことの結果が大きな説得力とともに鳴り響く、充実の名演となったのである。上記でご紹介した通り、この曲における第 2ヴァイオリン・セクションの重要性は明白である。このブログでも、昨年 11月28日の記事で、マリス・ヤンソンスとバイエルン放送響による同じ曲の演奏を採り上げたが、奇しくもその記事で私は、第 2ヴァイオリンの充実を素晴らしい成果として指摘した。この曲においてマーラーが描き出した、ある意味で単純明白な要素 (死への恐怖、現世への別離) を強調するために、様々に複雑な要素が盛り込まれているというと逆説的だが、今回の山田と日フィルの演奏はその逆説性を仮借なく抉り出した。演奏時間 80分になろうかというこの曲の全体を見通してみると、恐ろしいほどの音響が渦巻く両端楽章と、諧謔味がさく裂する中間 2楽章との間の対比が重要であるところ、今回は中間の第 2・第 3楽章での山田の快刀乱麻ぶりが際立っていたからこそ、もう逃げも隠れもできないほど激しいエモーションを必要とする両端楽章が、強い説得力を持ったのであろう。例えば第 2楽章は三拍子のレントラー舞曲であるが、通常のテンポ、速いテンポ、遅いテンポという切り替えが見事で、快速な場面でのティンパニの強調も決まっていたと思う。第 3楽章ロンド・ブルレスケは、中間部のノスタルジックなトランペット以外は常に動き回る音楽であり、日フィルの技術が大変な冴えを聴かせた。翻って第 1楽章は、私の耳には冒頭が少し硬いかなという気もしたが、丁寧な第 2ヴァイオリンの演奏が陰影を紡ぎ出していたし、終楽章は出色の出来で、中間部で弦楽合奏だけで壮大になる部分では鬼気迫るものを感じた。そして、長い長い時間をかけて「死んで行く」ように終わって行く終結部。このツィクルスを最初から聴いて来た私としては、その最後の最後の音が消えて行く現場に立ち会えたことを、本当にありがたく思ったことである。

東京のマーラー受容には既に充実した歴史があるが、ここに、30代の日本人指揮者として恐らく初めて、9曲の交響曲の全曲演奏を成し遂げた山田和樹は、忙しい海外での活動の傍ら、日本でも意欲的なプログラムが今後目白押しだ。もちろん、年を経ればまた音楽が変わって行くことも充分あるであろうから、同時代に生きる者として、そのような彼の創生・深化・昇華 (今回のマーラー・ツィクルス三期それぞれのテーマ) を是非見て行きたい。ツィクルス完走、まずはお疲れ様でした!!

by yokohama7474 | 2017-06-25 21:55 | 音楽 (Live) | Comments(2)

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しばらく出張に出て慌ただしい時間を過ごしていたが、こうして週末のコンサートや映画に出かけることによって、何か日常の自分のペースが戻ってきたような気がする。あ、そう言いながらも、そのような個人の趣味の時間も、出張に負けないくらい実は慌ただしいのであるが (笑)。ともあれ、今回読売日本交響楽団 (通称「読響」) の指揮台に初めて登場するのは、今や世界で大活躍のオーストラリア人、シモーネ・ヤングである。昨年 11月には、こちらは東京交響楽団 (通称「東響」) を初めて指揮して、オーケストラ・コンサートを開くほかに、リヒャルト・シュトラウスのオペラ「ナクソス島のアリアドネ」を演奏しており、私も記事でそれらを採り上げた。2015年まで務めたハンブルク歌劇場及びハンブルク・フィルの音楽監督を退いてからは、決まったポストはないのであろうか。このような優れた指揮者が日本の複数のオケに客演してくれることで、またまた日本の音楽シーンが楽しくなる。今回はそれを実感できるコンサートであった。
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今回の曲目は以下の通り。
 プロコフィエフ : ピアノ協奏曲第 3番ハ長調作品26 (ピアノ : ベフゾド・アブドゥライモフ)
 リヒャルト・シュトラウス : アルプス交響曲作品64

おめあてはもちろん、シュトラウスの大作、アルプス交響曲なのであるが、この曲は本来そうそう演奏されるものではないはずだが、東京ではやはり昨年 11月、あろうことか、クリスティアン・ティーレマン指揮のシュターツカペレ・ドレスデンと、マリス・ヤンソンス指揮のバイエルン放送交響楽団という世界一流のコンビが数日の差を開けて相次いでこの曲を演奏した。それから半年余り。東京を代表するオケのひとつである読響も、負けじと是非ここでその真価を見せて欲しいものである。だがその前に、前半に演奏されたプロコフィエフでも、なかなかに活きの良い若手ピアニストが登場して会場を沸かせることとなった。1990年生まれのウズベキスタン人、ベフゾド・アブドゥライモフ。様々な民族が暮らす中央アジアの人らしく、ちょっと東洋系の顔立ちである。
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私は今回彼を初めて聴いたが、このプロコフィエフの慌ただしい曲を、少し猫背になりながら集中して弾く姿には、自分をカッコよく見せようという邪心がなく、好感が持てた。さらに技術を誇示してもよいのではないかと思うくらいであったが、見ていて面白かったのはヤングの伴奏で、この人、指揮ぶりはあまり器用には見えないのだが、時折ピアニストに目をやりながらあちこちのパートに指示を出し、第 1楽章や第 3楽章の追い込みではかなりの突っ走り方でピアノと競り合っていた。やはりプロコフィエフの 3番はこうでないと (あ、宇野功芳入ってしまいました。笑)。もちろん、ピアノに異常な迫力があるというわけではなかったので、例えばアルゲリッチの演奏のような白熱には至っていなかったものの、これはこれで優れた演奏と言ってよいであろう。アンコールは私の知らない曲であり、ショパン風に聴こえる瞬間もあるが、さらに抒情的で切ないメロディであったので、何かと思えば、チャイコフスキーの「6つの小品」作品 19の第 4曲、夜想曲であった。プロコフィエフの喧騒のあとの口直しとしては最適であったろう。

そしてメインのアルプス交響曲。冒頭の朝日が昇る場面からして、音が重々しく荘厳だ。そして蠢く低音から徐々に盛り上がり、ついに輝かしい光を放つ箇所では、早くも鳥肌立つような広がりのあるオケの音が全開となった。そしてそれから切れ目なしの 50分、各場面の精妙な描写が連続する中で、常に美しくまた広がりのある音が聴かれ、自然やそれに対峙する人間を描いたこの曲の真価を、存分に楽しむことができた。今回の会場である東京芸術劇場は、概して響きはよいものの、時に木管楽器の音の輪郭が鋭さを欠くように思う。今回もその点が少し気になる瞬間は何度かあったものの、木管も金管も、演奏自体は素晴らしいレヴェルであったし、改めて実感したのは、この曲における弦楽器の滔々たる流れであり、ヴァイオリンの左右対抗配置 (プロコフィエフでもそうだったが) が絶大な効果を発揮していたと思う。上記の通り、ヤングの指揮ぶりはさほど器用なものとは思えないものの、実はここぞというときにはくっきりと音を描き出す技術を持っていて、きっと楽団員もあれなら演奏しやすいのではないだろうか。以前東響で指揮したブラームス 4番では、かなり緩急自在であったと記憶するが、今回のシュトラウスではむしろ堅実に音を引き出している印象であった。高揚感を漲らせる山頂のシーンや、迫力溢れる嵐の場面でも、必要以上にオケを煽り立てることはなく、しかるべき道筋を順々に辿って、楽員が遭難しないように (?) うまく誘導していたと思う。それでいて作為性を感じさせることなく、ごく自然な音楽的感興を常に聴くことができた点、やはり非凡な演奏であったと思う。
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今回のシュトラウスを聴きながら思ったことには、この指揮者は意外とストラヴィンスキーやバルトーク、あるいはラヴェルが面白いのではないか。もちろん前半のプロコフィエフにその適性の片鱗が見えたが、「春の祭典」「管弦楽のための協奏曲」「ダフニスとクロエ」といったレパートリーを聴いてみたい。これまでのレコーディングではブラームスやブルックナーなどのドイツ物が中心だが、この手腕であれば何でもできてしまいそうだ。

そんなわけで、今後東京で再会するのが楽しみな指揮者である。あ、もしかすると、ヤングが女性指揮者として世界有数の実績を誇るということに触れないのかと思う方もおられるかもしれないが、それは以前の記事でも書いたし、写真を見れば女性であることは一目瞭然なので (笑)、そのことには触れる必要はないだろう。性別を話題にする必要もなく、その優れた手腕をこそ、今後も聴いてみたいものだと思っている。

by yokohama7474 | 2017-06-25 02:30 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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以前もこのブログで触れたことであるが、東京におけるコンサートのメッカであるサントリーホールは現在改修中。通常定期演奏会をここで行っているオケはそれぞれに、それぞれにほかの会場で定期演奏会を継続中だが、ひとつだけ、本来サントリーホールで行っているべき定期演奏会を取りやめたオケがある。NHK 交響楽団 (通称「N 響」) である。もちろん東京 No.1 オケとしての存在感は未だ健在であるものの、昨今のほかのオケの充実ぶりには目を見張るものがあり、その意味では、このオケが行っている 3つの定期プログラムのうち 2つが、あの巨大な NHK ホールでの演奏であることは、今後 10年の N 響を占う上では、由々しきことなのではないかと私はいつも思っている。なので、サントリーホールが改修中、サントリーホールでの定期を取りやめ、代わりにその NHK ホールでの 3ヶ月だけのシリーズ (と、同じ内容でのミューザ川崎シンフォニーホールでの木曜 15時からのシリーズ) になったことに、複雑な思いを抱くファンは多いことだろう。この 3回シリーズ、上のポスターにある通り、4月は広上淳一、5月はウラディーミル・フェドセーエフが指揮台に立ち、そして今月 6月の最終回は、オランダ出身の古楽専門指揮者、トン・コープマンの登場である。今年73歳。「渋谷・大人の寄り道」をどのように演出してくれるのであろうか。
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実はこの演奏会、発表当初は英国の名指揮者、ネヴィル・マリナーの指揮で予定されていた。だがマリナーは昨年 10月、残念ながら 92歳で大往生。そして代役として選ばれたのがコープマンである。これはなかなかに興味深い。というのも、マリナーはモーツァルトを得意にしていたとはいえ、(研究はともかく実際の演奏活動においては) 飽くまで現代楽器オケを指揮する演奏家であったのに対し、このコープマンは一徹なまでの古楽指揮者。チェンバリスト、オルガニストでもある彼は、1979年に自ら設立したアムステルダム・バロック管弦楽団との演奏活動を積極的に展開して来た。実は彼とそのアムステルダム・バロック管とは、1991年の 5・6月と11月に、開場間もない池袋の東京芸術劇場で、モーツァルトの全交響曲 (番号付き 41曲、もとい 40曲 <なぜなら 37番は欠番なので> + 番号なし数曲) とレクイエムを、全 11回の演奏会で踏破しているのである。それも今となってはバブル時代の歴史的イヴェントと言えようが、加えてすごいのは、そのすべてを 1993年に NHK が BS で放送したこと。当時私はがんばって全 11回をビデオに録画したのだが、実は 1度だけ緊急番組が放送されたために録画し損ねたのである。それは今回調べてみると、第 4回。何の緊急番組であったかというと、元総理大臣、竹下登の証人喚問である (笑)。これもまたバブル時代末期のイヴェントであった。

ともあれそのような古楽のスペシャリスト、コープマンは、その経歴を見ると、王立コンセルトヘボウ管やベルリン・フィル等の一流モダンオケにも客演の実績があるとのこと。今回は N 響との初共演であるが、果たしていかなる結果になるのであろうか。今回の曲目はすべてモーツァルトで、以下の通り。
 歌劇「魔笛」K.620序曲
 フルートとハープのための協奏曲 K.299 (フルート : カール・ハインツ・シュッツ、ハープ : シャルロッテ・バルツェライト)
 交響曲第 41番ハ長調K.551「ジュピター」

実はコープマンと N 響は、同じ曲目で翌 15日 (金) は (しつこいようだが平日の 15時から!!) 川崎で、また 17日 (土) は上田市で、18日 (日) は豊川市で演奏会を開く。私の野心は、そのような地方公演を聴きに行くことであったが、今週土曜日から出張が入ってしまったので、やむなく今回、NHK ホールでの「水曜夜のクラシック」シリーズの一環であるコンサートに出かけることとした。ひとつ興味深いのは、今回もともとマリナーが予定していた曲目は、最初が「フィガロの結婚」序曲、それから 25番の交響曲、次に、これは同じフルートとハープのための協奏曲を経て、最後は 36番「リンツ」というプログラムであったのだ。つまりコープマンに指揮者が変更になって、協奏曲以外の曲目は総入れ替えになってしまった。理由は判然としないが、勝手に解釈すると、協奏曲以外は後期のウィーン時代の作品で揃えたかったということではないのか。その推測には理由があり、今回のフルートとハープのソリストは、いずれもウィーン・フィルの首席奏者。
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それに加え、今回客演コンサートマスターを務めるのは、元ウィーン・フィルのコンサートマスターとしておなじみの、あのライナー・キュッヒルなのである。つまりこのコンサートの主要な演奏家たちは、みなウィーン・フィルの一部ということになる。ウィーンで生まれた曲を演奏したくなるのも無理はない (笑)。
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さて、コンサートの内容であるが、私としてはいくつかの点で複雑な思いを抱くことになった。まずひとつは、やはり会場の大きさ。最近 NHK ホールの音響は、私の気のせいか、以前よりもよくなったような気がするのだが、とはいえ、多分に想像力でその響きを補って聴く必要があるケースが依然として多い。ほかのオケが響きのよいホールで自発性溢れる演奏を自在に展開している今、やはりこの環境が N 響の 10年後にとって重要な意味を持つだろうと、繰り返したい。今回の演奏では、前半がコントラバス 2本、後半が 4本という小さな編成であり、その微妙なニュアンスを聴きとるには、残念ながらこのホールは大きすぎる。それから、キュッヘルであるが、例によってひとりだけ、本当に冒頭の「魔笛」序曲から、音がビンビンと響いてくるのである。これはもちろんよい面もあると思うが、指揮者の志向する音楽はノン・ヴィブラートの古典的プロポーション。ウィーン的な蠱惑的音楽とはかなり異なっている。もっとも、ウィーン・フィルとても最近は多くの古楽系指揮者を指揮台に迎えてはいるものの、「これぞウィーン・フィル」という音はやはりロマン的なものであると思う。だから、キュッヒルの音が飛び出して聴こえてくることは、音楽のスタイルという観点からは、やはりちょっと違和感があったのである。但し、後半の「ジュピター」でキュッヒルの手元をよく見ていると、前半とは異なり、わずかにヴィブラートをかける場面もあるように見受けられ、実際に聴こえてくる音も、尻上がりに均一性が改善したように思えた。音楽とは本当に生き物なのであって、一流のプロといえども、すべて思ったように行くとは限らず、それこそが生演奏の醍醐味だと思うのである。コープマンの指揮自体は、予想した通り、鳥肌立つような霊感に満ち溢れたものとは言えない実直なものであったが、その小柄なからだをせっせと動かし、指揮棒を持たない両手でオケをリードする姿には真摯さが見られて、好感を持つことはできた。その一方で、モーツァルトの交響曲でも「ジュピター」くらいになると、少しはロマン性、と言って悪ければ、音楽の「味」が必要な箇所も多い。これは、以前も例えば、クリストファー・ホグウッドとエンシェント室内管の実演でも感じたことである。今回の演奏では、もう少しその「味」が欲しいような気がした。そしてコープマンが演奏会終了後の拍手に応えて、客席に向かって「モーツァルト!!」と叫んで指揮し始めたのは、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の第 1楽章。アンコールでありながら、提示部をきっちり反復するあたりも真面目な印象だが、これは「ジュピター」よりもしっくり来る、N 響のアンサンブルがよく響いた演奏であった。あ、それから、フルートとハープのための協奏曲のソリストたちに関しては、もちろんきっちりとまとまっていたものの、正直、ちょっとおとなしいかなという気がしないでもなかった。彼らはアンコールとして、結果的にこの日唯一のモーツァルト以外の曲目 (笑)、ジャック・イベールの間奏曲を演奏し、これも洗練された優れた演奏であった。

上で書いたことはちょっと否定的に響くかもしれないが、でも私はこの演奏会を結構楽しんだことも事実。いわゆる古楽系の指揮者では、N 響はロジャー・ノリントン (私は彼のことを真の天才だと思う) との共演は多く果たしてきたが、ノリントンは病気も患ったし、既に高齢。この系列の指揮者で新たな可能性を発掘するには、コープマンのような人はなかなかに面白い選択だと思う。N 響の挑戦ということになるものと思うので、また再演があってほしい。やはり、次はバッハではないでしょうかね。まぁまずはその前に、土曜の上田でのコンサート、頑張って頂きたい。どうやら音響のよさそうなホールがあるようだ。上田の人たちが羨ましい (笑)。
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by yokohama7474 | 2017-06-15 00:28 | 音楽 (Live) | Comments(5)

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注目のコンビが来日だ。私が深く尊敬する指揮者、ステファヌ・ドゥネーヴが音楽監督を務めるブリュッセル・フィル。この指揮者については、このブログを始めて未だ日も浅かった頃、2015年 6月 8日の記事において、NHK 交響楽団を指揮した演奏会で採り上げて絶賛した。当時の記事は未だ短いものであったのだが、この川沿いブログはその後膨張しており (笑)、様々な寄り道をしながらも、東京で接することのできる文化の隆盛を地方に海外に、また将来に伝えるべく、心してこの記事を書くこととしよう。

まずはベルギーの首都であるブリュッセル。EU の本部がある都市でもあり、先の空港でのテロにも負けじとヨーロッパの誇りを保ち、文化の灯をともし続けて欲しいものである。
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ベルギーは、いわゆるベネルクス 3国 (ベルギー、ネーザーランド (= オランダ)、ルクセンブルク) のひとつ。もちろんドイツやフランスというメジャーな国とは異なり、文化的にも多様なのであるが、それゆえにこそ、真にヨーロッパらしい存在であると言えると思う。私はこれまでに 3回ブリュッセルを訪れており、そのいずれもが、当時かの地のオペラハウス、モネ劇場の音楽監督であった大野和士の指揮を聴くためのものであったのだが、この街の中心にあるグラン=プラスは、かのヴィクトル・ユーゴーが「世界で最も美しい広場」と絶賛した場所であり、そこに身を置くと、本当に時間を忘れるのである。
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さて、ブリュッセルはそのような素晴らしい街なのであるが、では、ベルギーと聞いて人は何を思い出すだろう。ビール。チョコレート。もちろん。だが人物についてはどうだろう。まず思い出すのは、アガサ・クリスティが創作した名探偵、「灰色の脳細胞」を持つエルキュール・ポワロ。それから実在の人物では、もちろんブリューゲルほかのルネサンス期のフランドル絵画の画家たちもおり、世紀末象徴主義のクノップフ、そしてシュールのマグリット。音楽の分野ではなんといっても作曲家セザール・フランク。それから指揮者では、アンドレ・クリュイタンス。こうして並べてみると、フランスでもないドイツでもない、またオランダとも異なる、ベルギーという国の一筋縄では行かない個性を感じることができる。そんな国のオーケストラとしては、もちろん上述のモネ劇場のオケも素晴らしいが、それ以外ではやはり、ベルギー国立管弦楽団に指を屈する必要があるだろう。上に名前の挙がったアンドレ・クリュイタンスが手塩にかけたこのオケは、2003年に、当時未だ 20代で天才ともてはやされた音楽監督ミッコ・フランクのもとで来日した。だが今回、ドゥネーヴとともに初来日を果たしたこのブリュッセル・フィルはそれらとはまた異なるオケであり、1935年にベルギー国立放送のオケとして発足した。ドゥネーヴは 2015年 9月からそこの音楽監督を務めているのである。

ではこのドゥネーヴ、いかなる指揮者であるのか。1971年生まれのフランス人。ゲオルク・ショルティ、ジョルジュ・プレートル、小澤征爾らのアシスタントを務め、このブリュッセル・フィル以外にも、昨年まで名門シュトゥットガルト放送響の首席指揮者を務めたほか、現在はあのフィラデルフィア管弦楽団の首席客演指揮者でもある。私が過去 2回、彼の演奏に接したところで断じてしまうと、この人こそ、時代を担う巨匠になるべき素晴らしい指揮者だ。
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そのようなドゥネーヴとブリュッセル・フィルが今回演奏した曲目は以下の通り。
 ギューム・コネソン (1970 - フランス) : フラメンシュリフト (炎の言葉)
 ベートーヴェン : ピアノ協奏曲第 5番変ホ長調作品73「皇帝」(ピアノ : モナ=飛鳥・オット)
 ベートーヴェン : 交響曲第 3番変ホ長調作品 55

今回このコンビは全国で 9回のコンサートを開く (東京以外には名古屋、札幌、金沢、姫路、広島、観音寺、福岡) が、そのいずれのコンサートでも、コネソンの「フラメンシュリフト」が冒頭に演奏される。ドゥネーヴとブリュッセル・フィルは最近ドイツ・グラモフォンからこの作曲家の作品集を発売したようで、会場にもその CD のジャケットをあしらったこのような自立式の宣伝が見られた。
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演奏に先立ってドゥネーヴは指揮台でマイクを持ち、このオケの第 2ヴァイオリンの首席である萩原 麻利の通訳で聴衆に語り掛けた。傑作だったのは、開口いちばん、萩原が "Ladies and Gentlemen, good afternoon!" と英語で呼びかけたのに続いて、ドゥネーヴが「ミナサン、コンニチハ」と日本語で喋ったことであった。私はこのようなユーモアのセンスが大好きなので、客席で声を挙げて笑ってしまいました。そしてドゥネーヴが解説することには、このコネソンの曲は、ベートーヴェンとドイツ音楽に捧げられたものであり、冒頭の音型はあの第 5交響曲と同じであるとのこと。そして自分たちが最近コネソンの CD を出したことが述べられ、「終演後にはサインします」との発言もあった (この箇所での萩原の通訳は「終演後に CD をお買い求め頂けます」であったが・・・)。それから、ドゥネーヴが語ることには、来日の直前に難関コンクールとして知られるエリザベート王妃コンクールがブリュッセルで開かれ、チェロ部門で日本人の岡本侑也が 2位に入り、協奏曲の伴奏を自分たちが行ったこと、それから、日本を代表する作曲家、細川俊夫の新作を初演したこと (これは、同コンクールでチェロの課題曲となった「昇華」という曲のことだろう) が述べられた。
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今回の演奏会のプログラムは、ベートーヴェンの作品と、そのベートーヴェンへのオマージュから成っているわけだが、私も今回初めて知ったことには、ベートーヴェンの祖父はブリュッセル近郊の生まれ。彼の名前に入っている van は、確かにオランダあたりに多いもので、生粋のドイツ人のものではない。なるほど、ヨーロッパは誠に一筋縄ではいかないのだ。そして演奏されたコネソンの「フラメンシュリフト」は確かに、フランス的な曖昧模糊としたものではなく、弦がザッザッとリズムを刻むドイツ風の音楽で、かつ華やかさも併せ持つ 10分程度の曲。終演後にドゥネーヴがスコアを抱えて指さしていたのが印象的であった。

次に演奏された「皇帝」では、若手ピアニスト、モナ=飛鳥・オットが登場。1991年生まれだから今年 26歳。3歳年上の姉、アリス=沙良・オットと同じく、ドイツ人の父と日本人の母の間に生まれている。これは姉妹のツーショットだが、向かって右がモナ。むしろ姉よりも大人びた風貌と言ってもよいのでは。
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だが今回の演奏は、率直なところ、姉アリスの演奏レヴェルにはごくわずか届かないような気がしたのは私だけであろうか。非常にきれいな音で長い指が鍵盤を駆け巡るのであるが、この曲であればもう少し力強さが欲しいし、それに伴う山っ気というか、緩急の使い分けがあった方がよかったと思う。その一方、若い音楽家が自らを信じて疾走することは何よりも素晴らしいことであり、今の彼女にできる演奏であったという点には気持ちよいものを感じさせてもらった。今後の活躍を楽しみにしたい。アンコールとして弾いたリストの「巡礼の年『ヴェネツィアとナポリ』」のカンツォーネは、一転して暗い情緒を感じさせる名演であったことから、このピアニストの様々な可能性を感じることができた。

そしてメインの「エロイカ」であるが、これは快速テンポで駆け抜ける爽快な演奏となった。「皇帝」でもそうであったが、ドゥネーヴは指揮棒を持ち、ヴァイオリンの左右対抗配置も取らないが、弦楽器 (コントラバス 6台編成) にはヴィブラートをかけさせず、キビキビとした現代的なベートーヴェンを描き出した。第 1楽章のコーダでトランペットが「行方不明」になる箇所も、この勢いで聴くと気にならないから不思議である。かと言って無味乾燥な演奏ではなく、時にはごくわずかテンポを落としてみたり、第 3楽章スケルツォの中間部のホルン 3重奏もほのぼのとした味わいのものであった。このオケの性能はかなり高く、この気持ちよい演奏の実現においてその性能はいかんなく発揮されたと思う。ただ 1箇所、第 2楽章葬送行進曲の冒頭すぐに弦が細かく刻む場所でずれてしまい、音楽がギザギザな感じになってしまった点が惜しまれた。

アンコールとして演奏されたのは、(ドゥネーヴの日本語まじりの紹介のあと) シューベルトの「ロザムンデ」間奏曲第 3番。ここでは一転して遅いテンポで極めて抒情的な演奏が聴かれ、いかにもロマン派という雰囲気が醸成された。弦楽器を見ていると、ヴァイオリンはヴィブラートなしだが、チェロの一部は朗々とヴィブラートをかけていた。味わい深い演奏だったので、次は是非ドゥネーヴのドイツ・ロマン派が聴いてみたいものだ。

終演後のサイン会は、ピアニストが先に準備していて、指揮者は遅れてやって来ることとなったが、和気あいあいという大変よい雰囲気であった。モナは姉アリスと同様、日本語には全く問題なく、サインを求める人たちに丁寧に応対し、時折やって来る知り合いの人たちとも楽しそうに会話していた。一方のドゥネーヴはまた、きっちりとファンの目を見てコミュニケーションを図っており、サインをしては「ヴォアラ」(フランス語で「はいどうぞ」の意味) などと言いながら、これまた楽しそうであった。これらの写真で、その楽し気な雰囲気が伝わるとよいのだが。
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ベルギーからの初来日のオケと若手ピアニストは、これから地方巡業となる。奏者たち自身、是非日本での演奏を楽しんで頂きたいし、ヨーロッパの現在を我々日本人の前で表現して欲しいものだと思う。

by yokohama7474 | 2017-06-11 23:34 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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東京初台の新国立劇場が、現在のオペラ部門の芸術監督である飯守泰次郎の指揮のもとで進めている、ワーグナーの超大作「ニーベルングの指環」4部作の 3作目、「ジークフリート」である。初回の「ラインの黄金」は私も見に行って、2015年10月 2日の記事で採り上げた。2作目の「ワルキューレ」は昨年 10月に上演されたが、残念ながら私は見ることができなかった。そして今回の「ジークフリート」である。尚、新国立劇場では来シーズン (2017 - 18) の開幕演目として、今年 10月に最後の「神々の黄昏」を上演し、飯守体制の締めくくり第一弾とすることになる。これについてはまた後で述べることとしよう。

さて、この上演の意義については以前の「ラインの黄金」の記事に一通り書いておいたので、ここでは簡単に触れるにとどめる。ドイツ人ゲッツ・フリードリヒ (1930 - 2000) は、20世紀の後半において主にそのワ-グナー演出で世界を席巻したカリスマ演出家である。今回新国立劇場で上演されているツィクルスは、彼が晩年にフィンランド国立歌劇場で演出したもの。余談だが、先に来日したフィンランド人の名指揮者エサ=ペッカ・サロネンが近く同歌劇場で「指環」ツィクルスを上演するというニュースがあったが、その演出もこれになるのであろうか。そもそもフリードリヒの「指環」というと、ツィクルスとしての日本初演となった 1987年のベルリン・ドイツ・オペラのもの、いわゆる「トンネル・リング」と言われるものが知られている。以下、その「トンネル・リング」の一場面。全 4作を通じ、このようなトンネルが舞台奥にずっと存在しているというコンセプトであるようだ。今回初台で上演されているものは、これに比べれば随分と穏便な演出であると言える。
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この作品について指揮者飯守が語るところや、今回の上演のリハーサル風景などは、新国立劇場のウェブサイトで動画を見ることができるが、会場にもモニターが設置されてその映像が流れている。
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この飯守リング、世界一流のワーグナー歌手を集めた上演であり、その点こそまずは大きな意義を見出すことができるだろう。今回の主役ジークフリートを歌うのは、テノールのステファン・グールド。ワーグナーファンにとっては既におなじみの名前であろう。
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実はこの人、今回の「指環」4作にすべて出演する。実のところ、これは少し奇異である。「ジークフリート」と「神々の黄昏」でひとりの歌手がジークフリート役を歌うのは普通。また同じ歌手が「ワルキューレ」でジークムントを歌うのも大いにありである。だが、「ラインの黄金」は? そこにはいわゆる英雄的な役、ヘルデン・テノールは登場しないのだ。そしてこのグールドがそこで歌ったのはなんと、狡猾な策士である火の神、ローゲなのである!! 私は以前の「ラインの黄金」の記事でその違和感を述べておいたが、だがしかし、4作すべてに登場する役柄がないこの作品 (ヴォータンですら「神々の黄昏」には登場しない) で、世界的なヘルデンテノールがそのようにしてまで、すべての作品で歌唱を聴かせてくれる東京という街は、恵まれていると解釈しよう。その他の歌手としては、エルダのクリスタ・マイヤー、ブリュンヒルデのリカルダ・メルベートもバイロイト経験豊富なワーグナー歌手たち。
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それから、ミーメのアンドレアス・コンラッド、アルベリヒのトーマス・ガゼリ、さすらい人 (ヴォータン) のグリア・グリムスレイはいずれもこのシリーズで以前同じ役で出演していて、ツィクルス上演の一貫性があることになる。これは大いに意義のあることである。さてそのような恵まれたキャストを使った今回の公演、私の記憶にある 2年前の「ラインの黄金」よりもさらに優れた成果を挙げたものと高く評価したい。飯守はかつてバイロイトで助手を務めた経験から、日本ではワーグナー指揮者としての確固たる名声を保っているが、その彼も既に 76歳。円熟の年齢である。今回の東京交響楽団 (通称「東響」) を指揮しての演奏には、それぞれの示導動機 (ライトモティーフ) を丁寧に描き出そうという意図が明確に見え、オケの高い力量もあって、それが充分に成功していた。プログラムに掲げられた飯守自身の言葉 (これは奇しくも、やはりプログラムに載っているフリードリヒが残した言葉とも共通するのだが) によると、この「ジークフリート」は交響曲にたとえるとスケルツォ楽章であると。もちろん、古典的な交響曲の構成においては、第 3楽章は諧謔味のあるスケルツォなのであり、ワーグナー自身がどう考えていたかは知らないが、確かにこのオペラの第 1幕では、リズミカルで諧謔味のある個所が続く。だが、これも飯守自身が述べている通り、このオペラはまた同時に「指環」4作の中で最も抒情的な箇所も持つのであって、印象派に影響を与えたとされる「森のささやき」や、作曲者自身が「ジークフリート牧歌」として別の曲を書いた優しい主題は、「指環」のほかの 3作には聴かれないものだ。次作で神々が終末を迎える前に聴かれるこのユーモアや抒情性が、この作品を一筋縄でいかないものとしているのである。それゆえ、最後のジークフリートとブリュンヒルデの二重唱は、「まさに幸せの絶頂にあり、音楽的にもドラマにおいても『指環』四部作全体の一つの頂点である」と同時にまたそこには、「より深い意味を孕んだドラマ」があるとする飯守の解釈は納得性が高い。日本のワーグナー受容にも既に長い歴史があるが、東京の劇場でこれだけ音楽的にも知的にも刺激に満ちた上演がなされるようになったことは、一過性のものではない、東京の文化として将来につながるものになったと思うのである。

演出について少し触れておこう。第 1幕は、このような森の前にある鍛冶屋の小屋で展開する。メルヘン調もありながら、登場人物たち (さすらい人 = ヴォータンは上の森の方から現れ、ミーメと屋外のテーブルで対話する) がうまく動ける機動性もあって、よくまとまっている。
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第 2幕はなんといってもファフナーが変身した大蛇退治がメインだが、この大蛇にはおどろおどろしさは皆無。また、森の小鳥は黄、白、赤、緑、青と 5羽出てくる。このうち歌手が演じるのは 4羽 (日本の若手歌手による)、残りの 1羽、青い鳥だけはダンサーが演じた。
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第 3幕ではヴォータンとエルダ、ヴォータンとジークフリート、そしてジークフリートとブリュンヒルデというそれぞれの組み合わせの歌唱が、がらんとした空間で展開する。注目すべきはラストの二重唱であり、上記の飯守の言葉にある通り、これはただの幸せな歌ではなく、死に向かう自暴自棄の歌に変わって行くのであるが、そこで 2人の男女はブリュンヒルデの盾や鎧を放り投げ、その自暴自棄ぶりを明確にするのである。
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歌手の歌唱はいずれも危うげのないもので、特に出ずっぱりのジークフリート役、ステファン・グールドはさすがであったが、だがそれでもやはり彼も人間、大詰めでは少し疲れが見えたか。しかし、実際に舞台でこのような作品を見ると、むしろそのようなことは当たり前。上演全体を目で耳で味わうことが、オペラの醍醐味なのである。

超大作であるから、45分の休憩を 2回挟んで、5時間45分の上演時間。さすがにこれでは腹が減るので、会場には軽く食べられるものが売られていて、なかなか気が利いていた。ジークフリート限定、サンドウィッチ BOX (1,000円) なるものもあったが、私が食べたのはハッシュドビーフ。名前は「鍛冶屋の歌」。600円とリーズナブルだ。
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このオペラハウスは街中にあって敷地も限られているので、工夫して空間を作っているが、満員の聴衆が休憩時間に思い思いに過ごしているのを見ると、東京におけるオペラの楽しみも定着して来ているなと改めて感じた。来シーズンで開場 20周年。飯守体制最後の年となり、その後はいよいよ大野和士に芸術監督がバトンタッチされる。その飯守体制最後のシーズンのオペラ上演のラインナップは以下の通り。
 ワーグナー : 神々の黄昏
 ヴェルディ : 椿姫
 R・シュトラウス : ばらの騎士
 J・シュトラウス : こうもり
 細川俊夫 : 松風 (日本初演)
 オッフェンバック : ホフマン物語
 ドニゼッティ : 愛の妙薬
 ヴェルディ : アイーダ
 ベートーヴェン : フィデリオ
 プッチーニ : トスカ

なかなかバランスの取れた演目だが、この中で私にとっての注目は、細川の「松風」と、それから新演出の「フィデリオ」だ。この「フィデリオ」は飯守自身の指揮で、ノオノーレはリカルダ・メルベート。フロレスタンはステファン・グールド。そう、今回のジークフリートとブリュンヒルデのコンビである。そして演出はあの、カテリーナ・ワーグナー。むむむ。2015年のバイロイトでの「トリスタン」の演出には正直なところ閉口したが、今回はいかに。今からまだ 1年ほど先になるが、是非見てみたいと思う。あ、もちろん、既にチケットを購入している「神々の黄昏」では、ステファン・グールド以外にもペトラ・ラングのブリュンヒルデや、なんと新国立劇場初登場のヴァルトラウト・マイヤーが歌うヴァルトラウテ (端役だが・・・) も楽しみである。「オペラパレス」との名称を持ったこの新国立劇場が、今後ますます東京の音楽文化において欠かせない場所になって行くことを切に希望する。
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by yokohama7474 | 2017-06-11 11:34 | 音楽 (Live) | Comments(6)

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このブログでコンサートを採り上げるときには、どうしても私の好きな分野であるオーケストラ、しかもブルックナーやマーラーの大曲が多くなってしまう傾向がある。だが、たまにはそうでないものも聴きたいと思うのが人情。そこで出かけたのが、英国のア・カペラ合唱団、タリス・スコラーズの来日演奏会である。1973年にピーター・フィリップスによって設立され、ルネサンス期の宗教音楽を中心とした活動を展開している。私は Gimmel というレーベルから出ている彼らの CD (ジョスカン・デ・プレとかロシア正教の聖歌など) を何枚か持っているほか、昔エアチェックした FM 放送や BS 放送等のメディアによって、この合唱団が行う異様に美しい演奏にはそれなりに親しんできた。だが、今回実に 16回目の来日を果たす彼らを、これまで生で聴いた覚えがない。いつでも聴けると思ってはいけない。聴けるときに聴いておかないと。これが設立者兼指揮者のピーター・フィリップス。
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そもそもこの団体の名称はどこから来ているのか。タリスというのは、トマス・タリス (Thomas Tallis 1505頃 - 1585)、英国ルネサンス期の作曲家であろう。スコラーズとは Scholars、つまりは学者たちということか。つまり、タリスのようなルネサンス音楽を研究するグループという意味なのであろうか。だが、以前も少し触れたことがあるが、このタリス・スコラーズが本拠を置く英国は、オランダと並ぶ、いわゆる古楽のメッカであって、数々の演奏家が活動しているわけであり、やっている人たちの学歴も軒並み高く、知性は感じさせるのだが、彼らの演奏の内容は、学究的というよりは実に活き活きしていることが多い。とても学者さんの研究目的の音楽ではないのである。このあたりに英国特有の屈折というか、ユーモアがあるという見方もできるだろうが、何はともあれ、このタリス・スコラーズの歌唱を一度でも聴いてみれば、そこに音楽の喜びが溢れていることを感じない人はいないだろう。もし全くご存じない方がおられれば、手っ取り早く YouTube で検索頂くことをお勧めする。この合唱団の澄んだ歌声の宗教音楽が、日常生活に疲れた心と体を、存分に癒してくれることだろう。例えば、今回も歌われたアレグリの「ミゼレーレ」。
https://www.youtube.com/watch?v=xpzdB0G3TJU

今回彼らは西宮、東京、札幌、名古屋、長野で、2つのプログラムによる計 6回の演奏会を開く。今回私が聴くことができたのは東京での 1回目で、チケットは完売。曲目は以下の通り。
 トマス・タリス (1505頃 - 1585) : ミサ曲「おさな子われらに生まれ」
 ウィリアム・バード (1540頃 - 1623) : めでたし、真実なる御体 / 義人らの魂は / 聖所にて至高なる主を賛美もて祝え
 グレゴリオ・アレグリ (1582 - 1652) : ミゼレーレ
 クラウディオ・モンテヴェルディ (1567 - 1643) : 無伴奏による 4声のミサ曲
 ジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ (1525頃 - 1594) : しもべらよ、主をたたえよ

この演奏会にはタイトルがあって、「エリザベス 1世の英国国教会音楽の黄金時代と≪モンテヴェルディ生誕 450年記念≫」というもの。ここで簡単な頭の整理だが、西洋で「音楽の父」と呼ばれ、バロック音楽を集大成したヨハン・セバスティアン・バッハの生涯は 1685年から 1750年。ということは、上記の作曲家たちはバッハよりも 100年以上前に生まれた人たちばかりである。どれほど古い音楽であるかが分かろうというものだ。コンサートのタイトルにある通り、前半のタリスとバードは英国、エリザベス朝 (1558 - 1603) に活躍した作曲家たち。シェイクスピアと同時代人たちと言ってもよい。それに対して後半のアレグリ、モンテヴェルディ、パレストリーナはすべてイタリアの作曲家たち。実際に聴いてみると、やはりイタリアの作曲家たちの方が変化があって気が利いているように思える (笑)。

だが私は実は、トマス・タリスの音楽が大好きで、そのきっかけはもちろん、ヴォーン・ウィリアムズ作曲の美しい曲、「トマス・タリスの主題による幻想曲」であったのだが、私の手元には、10枚組の廉価なトマス・タリス全作品集という CD ボックスがある。
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これを見ると、CD ごとにタイトルがあって、例えば「ヘンリー 8世のための音楽」「宗教改革のための音楽」「メアリ女王のための音楽」「エリザベス女王のための音楽」等々とある。そうなのだ。このタリスは大変長生きで、英国の歴史を変えたあのヘンリー 8世による英国国教会設立 (ローマ・カトリックからの離別) の時代から、その息子で若くして亡くなったエドワード 6世、カトリックに復帰したメアリ 1世、そして、ヘンリー 8世の娘であり、英国国教会に戻ったエリザベス 1世にそれぞれ仕えた人なのだ。同じキリスト教でも、カトリックであれば典礼はラテン語だが、国教会になると英語が使われたらしい。なんとも忙しい時代であった。今回歌われたタリスの曲、そしてバードの曲はいずれもラテン語であった。そして後半の曲目はイタリアの作品だから、これらもすべてラテン語。

このタリス・スコラーズは 10名の歌手から成っている。普通、いわゆる古楽の団体でもア・カペラの合唱団だけというのは珍しいと思う。今すぐに思い出すのは、ほかにはヒリヤーズ・アンサンブルくらいしかない。この時代の音楽はいわゆるポリフォニーと言って、日本語では多声音楽というのだろうか、様々な声部がそれぞれに進行して行く音楽で、いわゆる主旋律と伴奏からなるホモフォニーとは異なる。この合唱団の歌を聴いていると、理屈でなくそのことが実感できる。なにせ、それぞれの歌手の声がすべて同時に響き、同時に聞こえるのだ。溶け合いが美しいとは言えるが、それぞれのパートがくっきりと伸びあがって行き、声の線と線が絡み合う点にこそ、この種の音楽の素晴らしさがある。その音の線の絡み合いを耳にすると、私のような不信心な人間でも、自然と宗教的な感興が沸いてくるのである。メンバー 10名の内訳は、ソプラノ 4名、アルト 2名、テノール 2名、バス 2名である。だが、これによって女 6名、男 4名と思うとさにあらず。舞台を見ると女と男がそれぞれ 5名ずつなのである。そのヒントは、6/3 (土) に聴いた鈴木秀美指揮新日本フィルの演奏についての記事で、北十字さんからのコメントを頂いて私も気づいたように、このような古い音楽においては、男がアルトパートを歌うことがある。いわゆるカウンターテナーの一種である。これがタリス・スコラーズの面々。指揮者のフィリップスを除くと、確かに男女 5人ずつなのである。
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今回の演奏会では、アンコールが 2曲演奏された。まず、指揮者のピーター・フィリップスが挨拶。いわく、この素晴らしい場所 (彼は "Hall" という言葉を使わず、"Building" と言った。つまり東京オペラシティ・コンサートホールという空間そのものを指していたのだろう) に戻って来ることができて大変嬉しい。明後日また違うプログラムでも歌いますし。と、そこで手に持った本を掲げ、タリス・スコラーズの活動の歴史について私は本を書きまして・・・。それはこのような本 (カバーを広げた写真) で、会場でも売られていたが、翻訳ではなく原書だけであった。タイトルは "What We Really Do"。つまり、「我々が本当にしていること」。
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それから唐突に、今年はモンテヴェルディ生誕 450年なので、アンコールとして、この作曲家の Cantate Domino という曲を歌いますと説明した。そして、鳴りやまぬ拍手に続いてもう 1曲。イタリアの作曲家、アントニオ・ロッティ (1666 - 1740) は、Crucifixus (十字架にかけられ) を何曲か作曲していて、2日後には 8声のものを歌うが、ここでは 10声のものを歌います、とのことであった。いずれも素晴らしい演奏であったことは言うまでもない。だが、ひとつ疑問があって、それは会場に掲げられていたアンコールの表記だ。写真を撮ったのでここに掲載するが、2曲目は明らかに舞台上でフィリップスの喋っていたことと違う!! これも英国人特有のおふざけで、急遽予定と違う曲を歌うことにしたのだろうか (笑)???
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と思って今、東京オペラシティコンサートホールのサイトを見てみると、そこに掲載されている同ホールのツイッターの写真では、ちゃんと訂正されている!!
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うーん、どうやら急いで書き直したのであろうか。いずれにせよ主催者の方々、誠にお疲れ様です!!

このような予期せぬアンコールの変更だかいたずらだか (?) があったにせよ、この合唱団の音楽を聴いて、心が澄んだという思いを抱かない人はいないだろう。煩雑な日常を忘れるためにも、このような演奏会は大変に貴重なもの。またタリス・スコラーズの CD を買い込みたくなって来た。

by yokohama7474 | 2017-06-06 00:34 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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このブログでは昨年の 4、5、6番以降をレポートして来ている、山田和樹と日本フィル (通称「日フィル」) によるマーラー・ツィクルスもいよいよ 8回目。今回の曲目は以下の通り。
 武満徹 : 星・島 (スター・アイル)
 マーラー : 交響曲第 8番変ホ長調「千人の交響曲」

このマーラー 8番という曲は、西洋音楽史上でも一、二を争う規模の巨大な作品。私はこのブログのたった 2年の短い歴史の間で既に 2回、この曲の記事を書いたので (2016年 7月 3日のハーディング / 新日本フィルの記事と、2016年 9月 9日のヤルヴィ / NHK 響の記事)、これで 3度目になる。以前も書いたことだが、この曲が平均して年一回は演奏されるようなことは恐らく、世界広しと言えども東京でしか起こらない。さて今回も、演奏前に指揮者である山田和樹のプレトークがあって、それがまた大変面白いものであった。まず冒頭は、前回の 7番のときと同じく、このマーラー・ツィクルスを続けてきたことで自分のマーラー観が変わったという率直な思いの吐露に始まった。そして、今回のツィクルスで唯一、同じ曲目で 2回の演奏会を開く (それゆえ、この記事に掲げたチラシは、ツィクルス本体とは異なり、この演奏会独自のものである) ことについて言及された。それから、前日の演奏会の途中で山田の指揮棒が客席に飛んでしまったことに触れて客席の笑いを取ったのであるが、そもそもこの曲が 2回演奏された理由 (のひとつ) はもちろん、この曲を演奏するために必要とされる資金である。そこで山田は、お金が今回のキーワードのひとつという、芸術家にあるまじき (笑) 発言をしたのだが、その話がつながったのは、この曲の後半のテキストが採られているゲーテの「ファウスト」なのである。山田いわく、今回の演奏を期として、ちょっと「ファウスト」を勉強してみたが、ここには錬金術というテーマがある。もともと金銭は、硬貨というそれ自体が価値のあるものから、紙幣という、集団がその価値を信じないと流通しないものへと発展した。だが人間の欲望は、何もないところから金を生み出すという発想に憑りつかれていたのである。そして山田の話は、ゲーテの戯曲においては錬金術の延長で人間 (ホムンクルス) までも作り出してしまうことに触れられ、その魔術を達成するのが、あろうことか、ワーグナーという名前の男であること、そのようなことは既に科学の発展の結果、現代では AI によって既に現実のものとなりつつあること、等が述べられた。このツィクルスにおける山田の語りは常に熱意のこもったもので、スタッフの人が時間がないことをリマインドしに来るのが通例であるのだが、今回は舞台下から何やら紙が差し入れられた。山田がそれを読んでいわく。「そろそろ武満のことも喋って下さい、ですって」・・・なるほど、それには意味があったのだ。今回マーラー 8番と組み合わされて演奏された武満徹の曲は、「星・島 (スター・アイル)」。これは 8分程度の短い曲で、早稲田大学の創立 100年を記念して作曲され、初演は 1982年10月21日、岩城宏之の指揮による早稲田交響楽団によって行われたのであるが、そのとき後半で演奏されたのが、ほかならぬマーラー 8番であった由。山田自身はそのことを全く知らずにこの 2曲の組み合わせを考えたらしい。うーん、芸術においては時折そのような奇妙な偶然が起こるものなのである。あ、それからもうひとつの素晴らしい偶然。この曲の冒頭はよく知られる通り、ラテン語で「ヴェニ・クレアトール」、つまり「来たれ聖霊よ」なのであるが、西洋には聖霊降臨祭 (ペンテコステ) というものがあり、毎年年に 1日だけなのであるが、今年はなんとなんと、今日なのである!! 芸術における偶然と言えば、こんな話がある。マーラーがこの曲を書いたとき、声楽が入らないオーケストラだけのパートを短くしようとしたが、どうしてもできない。そのように呻吟していると、なんとその箇所は印刷のミスで歌詞が抜け落ちており、本来は声楽のテキストが入るべき箇所であったらしい。その抜けていたテキストは、マーラーが削ろうとしてどうしても削れなかった場所にピッタリはまったという。何やら身の毛もよだつような不思議な話である。これは 15世紀に描かれた聖霊降臨祭の様子。
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さて、今回この大曲に挑んだ日フィルは、一週間ほど前には、首席指揮者ピエタリ・インキネンの指揮でワーグナーのたった (笑) 2時間半のオペラ、「ラインの黄金」を演奏していたわけである。それぞれの演奏会のリハーサルを入れると、このところ日フィルの楽員さんたちは大変ヘビーな生活を送ってきたのであろう。しかも今回の演奏、歌手の皆さんもその「ラインの黄金」から続いての出演である人たちがいる。ソプラノの林正子、アルトの清水華澄、そしてテノールの西村悟である。まあしかし今回の演奏、(昨日の「天地創造」と同じく)、オケの楽員のごく一部を除いた全員の演奏者が日本人であることは、なんともすごいこと。世界広しといえども、そんなことをひとつの国の人たちで成し遂げられるのは、もしかすると日本だけではないだろうか。

武満の「星・島 (スター・アイル)」は、冒頭の金管がメシアンを思わせるもの。その後打楽器を含んだ強い音響も現れるが、全体的には弦楽器を中心とした美しい曲調なのである。今回の山田と日フィルの演奏は例によって丁寧なもので、武満ワールドを見事に現出した。大曲の前座の短い曲ではあったが、洗練された美しい演奏。未だ 30代の山田の世代は、このような日本の現代音楽をこれからも演奏し続けて行くことで、貴重な日本の文化遺産を後世につないで行ってくれることだろう。実は今回、私の手元にある武満徹全集の解説を見てみると、1987年に秋山和慶がチューリヒ・トーンハレ管弦楽団を指揮したこの曲の演奏について、興味深い批評が掲載されている。

QUOTE
気持ちのいい不協和音で耳をくすぐり、多少苦味のある音響世界がまれに爆発しても、ご機嫌をとるような弦の和音に包み込まれてしまう。武満にはこれよりももっとオリジナルなものがあるはずである。
UNQUOTE

なるほど、この頃から武満は曲の個性よりも自らの感性を重視し始めたような気がする。1980年代の世界は、もう少し苦いものを武満に求めていたのか。なんとなく分かる気もする。山田の柔軟な感性はしかし、21世紀の我々には、このような武満の美しい曲が必要であることを明確に示すのである。

そして今回のメインであるマーラー 8番。私は以前から山田のマーラーを、その音響の奇抜さに驚くのではなく、ごく当たり前に違和感なく受け入れ、また表現できる世代の演奏だと考えているのだが、今回もそのような鮮やかさを持つ、実に素晴らしい演奏であった。会場のオーチャードホールは、例えばサントリーホールと異なり、舞台の後ろと左右は閉ざされた空間。ゆえに、そこに陣取った 300人以上の合唱は、恐るべき力を伴ってまっすぐに客席を襲うのである。これは歌っている人たち自身も、クラクラと眩暈を覚えるほどの音響ではなかっただろうか。冒頭からして聴き手を驚かせるこの曲の大合唱は、今回の演奏では悠揚迫らざるテンポで始まったのであるが、そこで聴かれた様々な音たちのぶつかりあいを、なんとたとえよう。聖霊の降臨とはこのようなものであったのか。驚くべきは、前半がラテン語、後半がドイツ語で歌われるこの曲を、合唱団 (武蔵野合唱団と栗友会合唱団) 全員が暗譜で歌ったことである。これはすごいことなのであるが、この大規模な合唱を自在に操る山田の指揮を見ていると、彼の持つ多くの肩書のひとつが、東京混声合唱団の音楽監督兼理事長であることに思い至るのである。いわば、曲の最初から最後まで、もちろん第 2部前半のオケだけのパートを含め、人間の声が彩る宇宙の音 (マーラー自身が夢想したもの) が壮大に鳴り響いたと言ってしまいたい。今回は指揮棒を飛ばすこともなく (笑) 全曲を振り終えた山田は、客席から既にブラヴォーの声がかかっているにもかかわらず、終演後しばらくは指揮台で立ち尽くしていた。そうだ、後半に使われたゲーテの「ファウスト」の言葉を借りれば、「時よとどまれ、おまえは実に美しい」(私の手元にある池内紀の訳から)。もちろん、東京少年少女合唱隊 (楽譜を見ながらの歌唱) や、上記でご紹介した以外の歌手、ソプラノの田崎尚美と小林沙羅、アルトの高橋華子、バリトンの小森輝彦、バスの妻屋秀和、いずれも熱演であり、中でも「おいしい役」である栄光の聖母を歌った小林沙羅の声が天から降り注ぐことで、会場全体がマーラーの理想郷を具現したのである。ただ唯一惜しむらくは、合唱団の前に位置したソリストたちの声が合唱に埋もれがちであったことであろうか。ともあれ、この童顔の指揮者の今後が本当に楽しみである。
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この充実した演奏を聴くことができる東京の聴衆は幸せだと思うのであるが、今回隣り合わせで鑑賞した私の畏友、吉村さん (仮名???) と話し合って思い出したことには、この日フィルは随分昔にこのマーラー 8番を演奏している。それは、渡邊暁雄の指揮。日フィルの創設者である彼の指揮でこの曲が演奏されたのは、今を遡ること 36年、1981年のこと。実は私はその時の演奏を FM からカセットテープに録音していて、今でも手元にあるのだ。ちょっと恥ずかしいが、1982年 1月に放送されたその演奏を、当時 16歳の私が書いたカセットのカバーをお見せしよう。
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この写真で明らかな通り、私はこれを、当時から薄すぎて保存に問題ありと言われた 120分テープに録音したのだが、実は今日帰宅してから全曲聴いてみた。すると!! 結構いい音質で、全く保存上の問題もなく素晴らしい演奏が再現されて、心からビックリしたのである!! そもそも 21世紀も 17年経過している現在、カセットテープを聴くことができるとはなかなか希少なことかと思うが、私の手元の古い安物のミニコンポも、この演奏のクオリティにビックリしたのか、このようにフタが閉じなくなってしまった (笑)。もっともその後、なんとか押さえつけて閉めることができたのだが。後ろに見えるのは、バイロイトで買ってきた紙の袋と、2015年に国立西洋美術館で開かれたグエルチーノ展のポスターだ。
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ここでもう一度確認すると、武満の「星・島 (スター・アイル)」の初演時に岩城宏之の指揮でマーラー 8番が演奏されたのは 1982年10月のこと。そして上記の渡邊暁雄指揮日フィルで同じ曲が演奏されたのは、1981年 9月のこと。なんのことはない、東京では 35年も前から、この曲は毎年演奏されていたのである!! なお、上記のカセットテープには、このマーラー 8番の演奏の前に、尾高忠明 (当時 33歳) 指揮の東京フィル (通称「東フィル) によるモーツァルトの 1番と25番が収められている。このモーツァルトの演奏は、今ではありえないような分厚い音の演奏なのであるが、テープの余白に録音された放送時の解説によると、この年創立 30年を迎えた東フィルと、前年に創立 25年を迎えた日フィルの演奏を続けて放送したらしい。おっとここでもうひとつ思い出したが、当時何かの音楽雑誌に投稿した人がいて、そこには、「日本には誇るべき音楽が 2つある。ひとつは朝比奈隆指揮のブルックナー。そしてもうひとつは、渡邊暁雄指揮のマーラーだ」とあった。うーん、今この 8番の演奏を久しぶりに聴いてみて、その人の慧眼に思い至る。シベリウス演奏の世界的権威でもあった渡邊の業績を、今回の日フィルの素晴らしい演奏とともに思い出してみたい。そして東京の音楽界は、さらに先へと進んで行くのである。
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by yokohama7474 | 2017-06-04 23:58 | 音楽 (Live) | Comments(6)

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東京のオーケストラのあれこれの演奏会を採り上げているこのブログであるが、以前も少し書いた通り、昨今の東京のオケの指揮台に登る日本人指揮者の顔ぶれは、かなり固定化して来ているように思う。そんな中で、ほかの指揮者とは違うタイプでその地位を確かなものにしている人がいる。いや、人「たち」と言うべきであろうか。もともとは古楽器によるバロック音楽をレパートリーとしながらも、通常オケを指揮する人たち。その一人は、以前このブログでも東京交響楽団との演奏をご紹介したバッハの世界的権威、鈴木雅明。そしてもう一人はその弟、今回の指揮者、鈴木秀美 (ひでみ) である。
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この人は 1957年生まれだから今年 60歳になる。もともとはチェリストであり、兄雅明が主催するバッハ・コレギウム・ジャパンをはじめ、海外でも 18世紀オーケストラ、ラ・プティット・バンドといった名だたる古楽オケのメンバーとして活躍。ただ最近は指揮活動を活発に行っており、2001年には自らオーケストラ・リベラ・クラシカという古楽オケを結成、ハイドンの交響曲など、CD もあれこれ出している。今回はそんな鈴木が新日本フィルに客演し、採り上げる曲目はハイドンのオラトリオ「天地創造」である。東京という街が面白いのは、実際にステージで耳にできるレパートリーの多様性によるところ大である。古楽の世界で間違いなく世界トップクラスの指揮者が、このような宗教音楽の代表的作品を、通常オケで採り上げるのを聴くことができる意義は大きいのである。

この「天地創造」は、ハイドンのオラトリオとして最も有名であるだけでなく、上記の通り、西洋音楽における宗教音楽屈指の傑作として知られる。内容は文字通りキリスト教における天地創造の神話を扱っており、3部からなるうち、第 1部は天地創造の第 1日から第 4日「光、水、海と陸、すべての植物の誕生」を描いている。第 2部は第 5日と第 6日「すべての生物の誕生」、そして第 3部はアダムとイヴによる神の讃歌と愛がテーマ。全曲で 100分程度の曲で、通常は第 1部、第 2部が続けて演奏され、休憩の後に第 3部が演奏される。今回もそうであったのだが、その場合の時間配分は前半 70分、後半 30分という感じになる。だが内容に鑑みてこのアンバランスは致し方ないだろう。第 1部と第 2部は神による天地と生物の創造であるのに対し、第 3部は人間と、そこには明確なテーマの違いがあるからだ。今回も、ソプラノ歌手は前半と後半で衣装を変えて登場するという面白い趣向であった。そもそもハイドンの特色は、例えばモーツァルトと比較して明瞭であるのは、その人間性であろう。このような壮大な設定の音楽においても、常にどこか人間的な要素があるのであり、彼の音楽を演奏する際には、その点がやはりポイントとなってこよう。その点では今回の鈴木と新日本フィルの演奏、まさに万全とすら言える出来で、弦と管、合唱と独唱、独唱者同士、それぞれに呼吸をよく心得てニュアンス豊かな音がホールを満たしたのである。ヴァイオリンの左右振り分けと指揮棒の不使用は当然として、弦楽器が完全にノン・ヴィブラートであったのも説得力があり、何よりも各パートの活き活きしたこと!! 聴いていると心地よいばかりか、ちょっと大げさなようだが、この地球に生命が誕生したことへの感謝の念まで沸いてくるから不思議である。例えば最近記事にした、日原鍾乳洞の暗闇から出て明るい光のもとで小川の流れを見たときに五感が敏感に一気に反応したような、あの感覚を思い出してしまったのである。この地上に栄える命が、人間すらもが、絶対者の手による創造だという感覚は、どの宗教でも違和感なく共通するところがあるように思う。
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今回の演奏では、コーロ・リベロ・クラシコという合唱団が歌っていたが、これは、鈴木の結成したオーケストラ・リベラ・クラシカが 2015年 1月に大阪のいずみホールで行ったモーツァルトのハ短調ミサの演奏の際に結成された、プロ・アマ混在の合唱団であるらしい。もっとも、今回は陣容拡大の必要あり、合唱団名の最後に「アウメンタート」(拡張された) という語がついている。素晴らしい歌唱であったが、合唱指揮者がいないのか、演奏後にはメンバーのリーダーとおぼしき女性が、指揮者の紹介で拍手を受けていた。尚、通常の合唱団のメンバー配置は、女声と男声がはっきり分かれるものだが、今回の合唱団は、真ん中あたりでは男女が混淆していた。響きの効果と関係しているのであろうか。また、独唱者は、バス・バリトンの多田羅廸夫 (たたらみちお) は、ちょっとベテランの味が出すぎたきらいがないでもなかったが、ソプラノの中江早希やテノールの櫻田亮は、新鮮さに好感を持つことができた。このようにこの演奏、指揮者も独唱者も合唱団も、それからオケも (2名の外国人メンバーを除いては) 全員日本人。これはこれで、意義のあることには違いない。会場の入りはもうひとつであったが、これはまさに傾聴すべき名演であり、もっと多くの人に聴いて欲しいと思ったものである。

さてそれではここで、「川沿いのラプソディ」名物、脱線と行きましょう (笑)。まず、この鈴木秀美だが、私は以前、あるお寺の堂内で、彼のバロック・チェロの独奏を聴いたことがある。バッハの無伴奏の何曲かが演奏されたのだが、畳敷きの木造の部屋で聴くと、残響が全然なくて曲の持ち味が出てこず、閉口した。「あぁ、やっぱり西洋音楽は石造りの部屋で聴きたい」と思ったものだが、演奏の合間には鈴木のユーモラスな語りもあり、また終演後には直接会話させて頂く時間もあって、全体的にはなかなか楽しかった。バロック・チェロはこの写真のように、楽器を支える先端の金属部分がなくて、足で挟むから大変だと伺った。
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そのときにはまた、彼の「ガット・カフェ」というエッセイを購入して、そこにサインを頂いたのであった。
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さて今回の演奏会のプログラムを見ていて、彼が海外でそのメンバーとして演奏したという団体に、ラ・プティット・バンドがあるのを見て、ふと思い出したことがある。これは有名な古楽オケで、リーダーはシギスヴァルト・クイケン。私はこの団体の演奏を、もちろん日本でも聴いているが、一度海外でも聴いている。それはちょっと変わった場所なのだが、スペインの首都マドリードだ。その時にはバッハのカンタータなどを聴いたが、ソプラノが日本人であったことを覚えている・・・。と、そこまで思い出してから、急に私の脳髄を電流が走る。今思い出すとその歌手は、スズキさんではなかったか。もしそうなら、きっと鈴木美登里、つまりは鈴木秀美の奥さんである!!
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帰宅して書庫をあさったところ、プログラムが出て来た。1999年11月23日のこと。確かに Midori Suzuki とある。やはりそうだったか。そうするともしかして、そのときには秀美さんもオケでチェロを弾いていたのではないだろうか。そして、おっと、よく見るとアルトはなんとなんと、チェコの名花、マッダレーナ・コジェナーではないか!! 確かに彼女はバロックも歌うが、まさかこんなところに出演していたとは。
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因みこれがそのコジェナーとそのご主人。ん? この男性はどこかで見たことがあるぞ。確かクラシック界ではメチャクチャ有名な人ではないか (笑)。この人がベルリン・フィルと 11月に来日するようだが、そのチケットは現在、大変に高騰しているのである。もしご存じない方は、このブログの記事で「ベルリン・フィル」を検索してみて下さい。
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そんなわけで、様々な場所で様々な演奏家との巡りあわせがあるのも、文化逍遥の醍醐味と言える。そんな演奏家たちが入れ替わり立ち代わり登場する東京の音楽界、面白すぎる!!

by yokohama7474 | 2017-06-04 01:59 | 音楽 (Live) | Comments(4)

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数日前の記事でハインツ・ホリガーの自作自演の演奏会を採り上げ、その曲が 2時間半休憩なしでの演奏であったと書いた。その際にも引き合いに出した、ワーグナーとしては異例に短い、たった (笑) 2時間半、休憩なしで演奏されるオペラは「ラインの黄金」。既にこのブログではおなじみの、超大作「ニーベルングの指環」4部作の第 1作目で、「序夜」と題されている。今回は、日本フィル (通称「日フィル」) がその首席指揮者、フィンランドの若手ピエタリ・インキネンのもと、演奏会形式で採り上げた。上のチラシにあるごとく、インキネンと日フィルのワーグナー演奏は今回が第 3弾。ではこれまでの 2回はいかなるものであったかというと、最初は 2013年 9月、「ワルキューレ」第 1幕。次は 2016年 9月、「ジークフリート」と「神々の黄昏」からの抜粋。つまり、今回を含めた 3回の演奏会で、「指環」の抜粋をこのコンビで演奏したことになる。そして、来シーズンのプログラムを見ていると、来年の 4月にはロリン・マゼールが編曲した「言葉のない『指環』」という管弦楽曲集を演奏する。日フィルのこれまでのワーグナー演奏がどの程度のものか、あまりイメージがないが、同じ指揮者とこれだけ「指環」の音楽を演奏することは、オケのレパートリーの成熟に大きく貢献することだろう。実はインキネンは既に 2013年にシドニー・オペラで「指環」4部作を指揮したことがあり、その演奏は絶賛されたらしい。このプロダクションは昨年 11月から 12月にかけてもやはり彼の指揮で再演されているというから、インキネン自身の「指環」経験は既に確固たるものになっているわけであろう。
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それにしても、いつも同じ感想で恐縮だが、日本におけるワーグナー人気は異常はほど。このブログでも、2015年のバイロイト音楽祭をはじめとして、ワーグナー関連記事へのアクセスは常に継続していて、驚くほどだ。今回も、会場の東京文化会館はほぼ満席。2時間半休憩なしも承知の上なのだ。今回の上演は演奏会形式なのではあるが、歌手は一人も譜面を見ることなく、またそれなりの衣装 (但しそれほど凝ったものはなく、2人の巨人たちも着ぐるみではなく、半そでシャツの前をはだけてサングラスに山高帽という、チンピラ風 (?) の雰囲気) をつけ、舞台前面を活発に動き回る。従ってほとんど舞台上演に近いものであり、佐藤美晴というウィーンで学んだ演出家の名前がプログラムに載っている。また、照明もそれなりに凝っていて、最初のライン川のシーンでは青い光が、神々が集う場所では白系の光が、地下のニーベルハイムでは赤い光が、それぞれかなり派手に舞台天井に投影される。

まず指揮については、テンポ感のしっかりしたワーグナーであったとでも言おうか。このブログでこれまでインキネンの演奏会を採り上げた際には、激しい音楽での熱狂感に私は若干の留保をしてきているが、今回もその傾向は同じで、作品の特性から言って、さらに暴力的に鳴らしてもよいのではと思う部分が何度かあった。例えば、ファフナーがファゾルトを殺すシーンのティンパニの鋭さや、終曲の「ワルハラ城への神々の入場」の高揚感には、課題があったと思う。だが、非常に丁寧にオーケストラをリードするインキネンを見ていると、これはこれでなかなかに優れた指揮であろうという気がしてきた。それは、このオペラの千変万化のオーケストラ・パートを描き出すに際し、次にやってくるうねりに備えるというか、着実に音の線を描き出すことができていたからではないだろうか。そもそもこの曲は、暴力的に鳴らすだけではどうにもならないわけで、このようにテンポ感がしっかりしてこそ、ドラマ性が活きてくると思う。なので、インキネンの音楽性はよく発揮された演奏であったと言えるのではないかと思う。

歌手陣では、ヴォータンのユッカ・ラジライネンと、アルベリヒのワーウィック・ファイフェが印象に残った。前者はフィンランド人でヴォータン役を得意としており、東京の新国立劇場のツィクルスでもその役を歌っている。後者はオーストラリア人で、上述のシドニーでのインキネン指揮の「指環」で同じ役を歌っている。特にアルベリヒのファイフェは、冒頭のラインの乙女にからかわれる惨めさから、ニーベルハイムでは一転して独裁的権力を握る人物としての冷酷さと重厚さをうまく出していた。外人勢ではほかにフリッカ役のリリ・パーシキヴィも安定していた。この人もフィンランド人で、エクサン・プロヴァンス音楽祭でのサイモン・ラトルとベルリン・フィルによる「指環」にもこの役で出ているという実績の持ち主。そしてなんと驚いたことに、フィンランド国立歌劇場の芸術監督なのだそうだ。多彩な人である。それから、ローゲのウィル・ハルトマンはドイツ人で、ウィーンやミラノでも活躍している人。実はこの前日の同じ曲目の演奏会では体調不良で降板した (西村悟が代役を歌ったようだ) が、今回の公演では、演奏開始前に日フィルの常務が舞台に出てきて説明したことには、未だ体調は万全ではないが、是非皆さんに自分の声を聴いてほしいと志願しての出演であったようだ。実際、時に声が若干かすれたり、自分が歌わないところでは咳をしていたが、ローゲらしい策士ぶりをうまく表現しており、体調不良を技術でカバーしたというところか。日本人歌手はいつものようにみな二期会の人たちで、それぞれに健闘であったと思う。その中で私の印象に残ったのは、フライアの安藤赴美子。少ない出番ながら、強い声で表現力豊か。そう言えばこのブログでも、アンドレア・バッティストーニ指揮のヴェルディのレクイエムにおける彼女の歌唱について述べたことがある。主役で聴いてみたい人である。
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現在東京のメジャー 7楽団は、それぞれのシェフや関係の深い指揮者陣とともに、その楽団ならではの個性を育てつつあるような気がする。なので私としては今後も、個々の演奏会の出来不出来よりも、東京で起こっている文化イヴェントという文脈で見て行きたい。あ、ただそれよりも、演奏される曲のよさを感じられることが、音楽を聴くいちばんの喜びであり、例えば 20年前には聴いてがっかりするようなケースもままあった日本のオケも、今ではそのような事態はほとんどない。競争があることも大きくプラスに働いているわけであり、これからもそれぞれのオケの充実ぶりを享受して行きたいなぁと改めて思う、充実した演奏会でした。

by yokohama7474 | 2017-05-28 01:34 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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今回ご紹介する「コンポージアム」とは、東京オペラシティ財団が毎年開催している現代音楽のイヴェントである。この聞き慣れない "Composium" という言葉は、Compose (作曲する) と Symposium (シンポジウム) を合わせた造語であるらしい。うーむ。それなら「コンポージウム」ではないのだろうかという疑問はさておいて (笑)、このイヴェントが意義深いのは、毎年若手作曲家の新作に賞を与えていることである。その名は武満徹作曲賞。このブログでも何度も何度も名前が出てくる、日本を代表する作曲家であった故・武満徹 (1930 - 1996) の名を冠しているのだが、その理由は、このオペラシティコンサートホールの初代芸術監督はその武満であったことによる。なにせこのホールの正式名称は、最後に「タケミツ・メモリアル」とつくくらいであるのだ。この作曲賞は1997年から継続しており、今回は 19回目。審査員 (この賞の審査は極めて例外的なことに、複数の審査員ではなく、たったひとりの作曲家によってなされる) には、文字通り世界の名だたる作曲家が指名されるのであるが、今年はその審査員がハインツ・ホリガーなのである。ここで勘のよい人は察するであろう。1997年から毎年やっているなら、今年は 21回目のはず。なぜに 2回欠けて、19回目であるのか。それは、まず 2006年には武満の没後 10周年のイヴェントのために作曲賞の審査がなかったこと。そして、1998年には、審査員はハンガリーの大作曲家ジェルジ・リゲティであったのだが、入賞者なしという結果であったことによるのである。この 1998年のコンポージアムについては、たまたまつい最近、5/19 (金) のエサ=ペッカ・サロネン指揮のフィルハーモニア管の記事の中で触れているが、この年の入賞者なしとは、私も今回初めて知った。今手元にそのときのプログラムを再び出してきて読んでみると、なぜ 45曲の候補から入賞作を一作も選ばなかったかについての、リゲティの詳しい言明が掲載されている。ここではその点についての説明は割愛するが、まぁともあれ、作曲家という大変な職業を選択するのは大変なこと。そのような大変な職業を選んだ若い人にスポットライトを当てるこのような企画が継続していることは、何よりも文化的に大いに意義のあることである。主催・協賛の方々にここで最大限の敬意を表したい。このコンポージアムでは、武満作曲賞以外にも、審査員である作曲家自身の作品も演奏されるので、今後も聴衆として極力イヴェントに参加したいと思う次第である。

さて、前置きが長くなってしまったが、今回の主役ハインツ・ホリガーは、一般的な知名度はどうか分からないが、クラシック音楽の世界ではまさに知らぬ人のない、オーボエという楽器の神に等しい存在だ。1939年生まれだから今年 78歳になる。
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実は彼はオーボエを吹くだけではなく、活発な活動を続けてきた作曲家でもある。あまり日本ではそのことは知られていないように思うが、最近彼の作品に触れる機会が増えてきた。例えばこのブログでも、既に 2015年 8月23日の記事で、こちらはサントリー音楽財団のサマーフェスティバルにおける彼の作品の演奏会を採り上げたことがある。そちらは室内楽の楽曲であったのだが、今回は、コンポージアムのコンサートのひとつにおいて、小編成のオーケストラと合唱団による彼の作品の日本初演が行われた。曲名と演奏者をご紹介しよう。
 スカルダネッリ・ツィクルス (1975 - 91年作)
 指揮 : ハインツ・ホリガー
 フルート : フェリックス・レングリ
 ラトヴィア放送合唱団
 アンサンブル・ノマド

私がこの演奏会に興味を持ったのは、これが実に 2時間半の大作で、しかも休憩なしに演奏されるということを知ったからであった。それだけの長時間連続して行われる演奏に立ち会うことで、聴衆は何か特別なものを感じることができるのはないかと思ったからである。もちろん、通常のコンサートで、2時間半休憩なしということはまずない。ただ珍しい例としては、先般私がどうしても行くことができなかったアンドラーシュ・シフの来日リサイタルは休憩がなく、たくさん弾かれたアンコールまで含めるとそのくらいの時間であったというし、ワーグナーの「ラインの黄金」は、この作曲家にしては異例に短い作品だが (笑)、やはり 2時間半休憩なしだ。だがそれらは例外的で、普通のコンサートには休憩が入るものである。とはいえ、映画では 2時間半の大作も決して少なくなく、それらを見ている自分としては、膀胱破裂のリスクもそれほどあるとは思えない。頑張って聴いてみようではないか。

無駄口はこのあたりにして、作品について少し語ってみたい。題名の「スカルダネッリ」とは、ドイツ・ロマン派の詩人、フリードリヒ・ヘルダーリン (1770 - 1843) が署名時に使用した架空の人物名のこと。おー、ヘルダーリンか。もちろん名前は知っている。だが恥ずかしながら作品を読んだことはない。唯一思い出すのは、ブラームスの「運命の歌」の歌詞がこの詩人によるものだということだ。その作品を含むヘルダーリンに因む作品を集めた演奏会を、クラウディオ・アバドがベルリン・フィルで行ったことも知っているが、私の知識はその程度だ。これが彼の肖像。
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実はこのヘルダーリン、若い頃には哲学者のヘーゲルやシェリングと学友であり、古代ギリシャに傾倒した作品を創作したが、30代から精神を病み、後半生の 36年 (人生のほぼ半分) は、塔の中で生活を送ったという。ドイツのテュービンゲンなる都市には、今でも彼が過ごした「ヘルダーリン塔」が現存するらしい。行ってみたいなぁ。
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さてこのホリガーの作品は、実は 3つの異なる作品の部分部分が様々に組み合わされて演奏されるもの。その 3曲とは以下の通り。
 無伴奏混声合唱のための「四季」
 スカルダネッリのための練習曲集 (フルート・ソロ、磁気テープと小管弦楽のための)
 フルート・ソロのための「テイル」

これらは 1975年から 1991年までの間に、ワーク・イン・プログレスとして 1曲ずつ作曲されたものがまとめられている。この 3曲は合計で 22の部分から成り、以前は一定の条件のもと、演奏者が曲順を自由に設定できたが、2014年にルツェルン音楽祭で改訂版が初演されたときに、各部分の演奏順序が決められたらしい。全体は 3つに大別され、それぞれの中で「四季」が一巡する中、ほかの曲も適宜挿入されて演奏されて行く。ヘルダーリンの詩は「四季」の歌詞として使われているのだが、そこでは、春夏秋冬、ドイツ語で Der Frühling (フリューリンク)、Der Sommer (ゾンマー)、Der Herbst (ヘルプスト)、Der Winter (ヴィンター) のそれぞれの題名を持った詩が、3部を通して演奏されることにより、合計で三巡することになる。面白いのは、指揮を務める作曲者のホリガー自身が、それぞれの曲の最初に該当する季節を大きな声で唱え、合唱が歌い終わったあとに、ヘルダーリンが署名している部分もまたホリガーが唱えるのである。いわく、「1758年 5月24日 スカルダネッリ」「1842年 3月15日 スカルダネッリ」「1940年 3月 9日 スカルダネッリ」等々。だがこれは妙だ。ヘルダーリンは 1843年に死んでいるので、1940年はありえないはず。だがそれこそ架空の人物スカルダネッリによる日付なのである。

この 2時間半の超大作においては、大音響が聴かれることは皆無。ひたすら静謐で拍節感のない音が流れて行く。それはもちろん、ワーグナーの楽劇のようなドラマティックなものとは大違いである。だが、なぜか客席でうたた寝している人は少ないように見えた。そのひとつの理由は、様々に工夫された斬新な音響ではないだろうか。第 1部では 3つの異なる大きさの寺の鐘 (りんというのだろうか) がごーんごーんと響く。かと思うと途中でガサガサ合唱団 (20名) がステージから去るので何かと思えば、2階客席の左右奥とホールの真ん中あたりに陣取って歌い、その一方で、舞台では 4人がワイングラスに水を注いでそのふちを指でこする。いわゆるグラスハープである。ここではイメージを拝借する。
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それから、バッハのコラールの引用がなされる箇所もあるし、第 3部の最初の曲に至っては、紙を破ったりクシャクシャにする音、紐の先に何か重りをつけて振り回す音、チューブを振り回す音、ドラの表面を何かで擦る音、何やら水に浸けては引き出す音、これでもかと奇異な音が聴かれる。フルートソロの後には、ツーンという電子音が継続して響く。また終曲では、再び合唱団が 4パートに分かれて、何かを押しつぶしたような低い声で歌い、遠い世界に響く祈りのようなやまびこのような、不思議な音の交錯が聴かれた。このような様々な音の工夫がなされつつも、基本的には 2時間半、なだらかな音風景が続くわけで、聴いているうちに、これはあの世の風景かしらんとまで思えてきた。こればっかりは経験しないと分からない。演奏会に居合わせた人たちだけが、長い時間をともに過ごして音楽に耳を傾けているうちに、じわじわと沸いて来た感情の泡のようなものが、会場を満たしていたといった印象だ。宗教体験に近いと言ってもよいかもしれない。なるほどこれは、休憩を入れるわけにはいかないわけだ。そして上記の通り、時々指揮台で声を発するホリガーが、司祭のごとく聴衆を静かに先導する。2年前にサントリーホールブルーローズで聴いた彼の朗読も、きわめて音楽的でよかったが、今回も、彼の声は曲の重要な一部になっていた。特に「スカルダネッリ」という言葉の響き、何かの呪文のようではないか。ただ一か所、「夏」なのに「春」と言いかけてしまったのはご愛敬。弘法も筆の誤りということか (笑)。

演奏に関しては、現代音楽の専門集団、アンサンブル・ノマドも見事なら、2014年の初演時にも合唱を担当したラトヴィア放送合唱団も見事。だが中でも素晴らしかったのは、フルート奏者のフェリックス・レングリ。スイス人で、往年の巨匠フルーティスト、オーレル・ニコレの弟子である。恐らくは、同じ木管楽器であるオーボエの超絶的名手であるホリガー自身が、奏者の生理をよく理解した上で曲を書いていることも関係していよう。見事な演奏であった。
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このように、静かでありながら大変充実した 2時間半であったのだが、実はこの曲にはホリガー自身による CD もある。私はその存在を会場で初めて知ったので、買おうかなと手に取りかけたのだが、今回はやめることにした。上に書いた通り、何かの儀式のような実演で経験した静かな感動は、なかなか録音では味わえないからだ。もっとも、もう一度実演を聴いてみるかと言われれば、その長さを思い出すと、それにも若干の躊躇を覚えるかもしれない (笑)。これが CD のジャケットだ。
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さて最後に、この曲の印象と共通する視覚的なイメージをご紹介する。今回合唱団がやってきたラトヴィアは、言うまでもなくバルト三国のひとつ。私は行ったことがないのだが、そこにある「十字架の丘」には、いつか是非行ってみたいと思っている。生と死がその境も曖昧になるようなこのような風景を知っている人たちだからこそ、様々な技術的困難を乗り越えて、今回のホリガーの作品をリアリティを持って歌えるのではないだろうか。
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世の中まだまだ知らないことばかり。発見の喜び、学ぶ喜びがある人生は、なかなかに楽しいものである。

by yokohama7474 | 2017-05-26 01:42 | 音楽 (Live) | Comments(0)