カテゴリ:音楽 (Live)( 260 )

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つい 2日前のアラン・ギルバート指揮東京都交響楽団の記事で、会場となった大阪のフェスティバルホールに私は何度か言及し、「次のフェスティバルホール体験はいつになるだろうか・・・」とつぶやいて記事を終えたが、あろうことか、その舌の根も乾かぬうちに同ホールを再訪している私 (笑)。全く人が悪いというか悪運が強いというか、一体なんなんだと思われる方もおられよう。種明かしをすると、前回の演奏会で聴くことのできたこのホールの音響が非常に気に入ったので、帰りがけにチケット売り場によって、ほとんど売切れに近かったこの公演のチケットを購入したというのが真相。ちょっとほかに大阪に用があり、有給休暇を取れる算段だったという事情もあるが、第一の理由はもちろん、期近のこのホールでの公演を調べて、おっと思うような魅力的なコンサートが見つかったからである。つまり、私の敬愛するマエストロ大植英次が、かつて音楽監督を務め、現在では桂冠指揮者という地位にある大阪フィルハーモニー交響楽団 (通称「大フィル」) を振る。最近大植を東京で聴く機会がなかった (去年府中で東京交響楽団を指揮するなどの機会もあったが、聴けなかった) ので、これは本当に貴重な機会。しかも後述の通り、その曲目が特別なのである。
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さて、新フェスティバルホールの第 2回の経験だが、前回は 14時からのコンサートであったところ、今回は 19時開演。ホワイエは薄暗く、なかなかにシックな感じだ。その名も中之島という、川と川の間の中州に建っているホールであり、建物に何本も刻まれたスリットから外を見ると、川とオフィスビルの組み合わせも都会的。大阪という大都会ではあるが、いつも見慣れた東京のホールの雰囲気とはまた違っていて、なんだか楽しくなってくる。以前からの私の夢は、定年退職したら、欧米各地に加えて日本でも、各都市にあるホールでその土地のオーケストラを聴いて回りたいというもの。その意味では、ここ大阪でその練習をしていると言ってもよい (笑)。コーヒーを飲むためのテーブルには、ロウソク風の卓上照明があり、目を上げるとホワイエに設置された電球が星々のようで美しい。
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では、私としては久しぶりに聴くこととなったこのコンビの今回の曲目、一体いかなるものであったのか。
 ベートーヴェン : 交響曲第 7番イ長調作品 72
 オルフ : 世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」

うーん、これは凄い。熱狂的な力を持つ大植の音楽が、最初から最後までリズムに乗って躍動するのが聞こえるようだ。そもそも、超のつく名曲であって、普通はメインに置かれるベートーヴェン 7番を前座にするとはなんと大胆な。もちろん、過去にも例えばマタチッチの最後の NHK 交響楽団への登壇の際 (メインはブラームス 1番) とか、確かシノーポリとフィルハーモニア管の来日公演でも (メインは「英雄」) 例があったと記憶するが、いずれにせよ大変異例。メインの曲目によほど自信がないとできない選曲であろう。もちろんベートーヴェンはこのオケにとって、育ての親であった朝比奈隆が生涯真摯に向き合った重要なレパートリーのひとつであるが、既に時代は移り、あのような重厚な音でベートーヴェンを演奏することはもはやなくなってしまった。だが、実際に充実した音が鳴っている限りは、演奏スタイルなど些末なこと。とにかく説得力のある音楽を聴きたい。その点今回の大植の演奏は、このコンビの持ち味を充分出したものであったと言えると思う。冒頭の和音からして弦楽器の響き合いが美しく耳をとらえ、そしてとにかく、この曲に必要な推進力に重点が置かれて演奏が進んで行った。編成はコントラバス 6本で、ヴァイオリンの左右対抗配置を取るという、昨今のスタンダードというべきスタイルであり、過剰な情緒を排してテンポも堅実であった。だが、そこには常に前に進む意志が感じられ、第 1楽章・第 4楽章とも提示部の反復がなされなかったのは、昨今では珍しいくらいだが、それも音楽の推進力を維持するためだったと解釈したい。それから興味深かったのは、第 1楽章の後半、リズムに乗りながら音楽が熱して行く箇所で、大植が指揮棒を使わず、素手で指揮したことだ。そもそもこの人、演奏中に突然指揮棒が姿を消したりまた現れたりと、魔術的なことがよく起こるのであるが (笑)、きっとあの独特の上着の袖の部分に、指揮棒が収納できるスペースが設けてあるのだろう。いずれにせよ、通常なら、リズムが勝った箇所ではなく、歌をオケから引き出すべき箇所において、指揮棒を使わない指揮者が多い (例えば小澤征爾は、現在では全く指揮棒を使わなくなってしまったが、若い頃は、オケから歌を引き出す箇所では必ず素手で指揮していたものだ)。その意味では今回大植が素手で指揮した箇所は、若干異例であったと思うが、オケから出る音全体を、なんというか、より高みに引き上げたいという意図の現れであったのではないか。それとは対照的に、指揮棒なしで演奏したくなるような、それこそ歌が必要な箇所である第 2楽章冒頭など、中音域を担うヴィオラのよく練れた表情を、きっちりと指揮棒を持って引き出していた。全体を通して、ホルンなどに若干の課題がないではないと思ったが、冒頭の和音から終楽章のヴァイオリンの手に汗握る掛け合いまで、大植の強いリードが、現在の大フィルの、これはこれで大変充実したベートーヴェンを実現していたと思う。

そして後半、ドイツのカール・オルフ (1895 - 1982) の「カルミナ・ブラーナ」(1937年初演) であるが、これはまた本当に血沸き肉躍る傑作なのである。中世ラテン語の歌から作曲者が歌詞を集めてきており、大規模な混声合唱と児童合唱を縦横に駆使した作品なのであるが、そのいちばんの特徴は、執拗なリズムなのである。炸裂する大オーケストラと合唱の音響を彩るそのリズムは、一度聴いたら絶対に忘れないし、何か呪術的なものさえ持ち合わせる曲。私はリッカルド・ムーティが若い頃に録音した、これ以上ないほどキレのよい演奏でこの曲に親しんだのだが、そのジャケットが曲のイメージをよく伝えているので、ここに写真を掲げておく。
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このメインの大曲で大植は、ベートーヴェンでの配置と異なり、第 1ヴァイオリンと第 2ヴァイオリンを向かって左に並べ、指揮者の右側にはヴィオラが陣取った。このような劇的な曲は前半のベートーヴェン以上に大植のテンペラメントに合っていると私は思うし、実際、最初の「おお、運命の女神よ」から流れ出た音の奔流には、圧倒されるばかり。細部にまで目の届いた実に輝かしい名演で、ここでは大胆にテンポを落としたり少し煽ったりする箇所も聴かれて、明らかにベートーヴェンを演奏するスタイルとは異なっていた。そのような違ったスタイルを使い分けることができるのも、気心のあったオケであるからだろう。そして、大フィル専属の大阪フィルハーモニー合唱団も、この曲に必要な野性味を充分に発揮して素晴らしかったし、暗譜で歌った大阪すみよし少年少女合唱団も熱演。さらに加えて、3人のソリスト、すなわち、ソプラノの森 麻季、カウンターテナーの藤木 大地、バリトンの与那城 敬も、それぞれ達者で、楽しめた。特に森の変わらぬ高音の美声には拍手。ただ、髪はこの写真よりもはるかにキンキンで、まるで人形の金髪のようであったが (笑)。
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振り返ってみて、まさにリズムの饗宴という曲目ではあったものの、残ったイメージはむしろ、何か大きな山が動いたような充実感だ。オーケストラ音楽の場合、リズムはリズムだけで終わらず、つまりその場で飛び跳ねるのではなく、常に前に進んで行くパワーとなる。今回のこのコンビの演奏で、そのことに気づかされたような気がする。そしてもうひとつ。「カルミナ・ブラーナ」の歌詞には下品であったりエロティックであったり、あるいは自暴自棄や皮肉などの、人間的な感情があちこちに散りばめられている。なにせ歌詞が中世ラテン語という特殊言語だから、子供たちでも照れずに歌えるという面もあるかもしれない (笑)。だが私はこの曲がこの大きなホールで響いているのを聴いていて、個々の人々の人生の集合がここで響いているのだなぁと思うと、なんとも高揚した気分になったのである。大阪の街で、大阪の人たち (と、若干数 ? の訪問者たち) が音楽に耳を傾けることの意義。教養とか文化とかいう能書きはなくとも、その音楽を楽しむことはできるが、平和や一定の経済力がないとそうはいかない。だから、このような音楽を実際に体験できる我々は、本当に幸せなのである。そしてこのホールは、大阪の人々にそのような幸せを与える、貴重な場所なのだ。

この大フィル、今後も素晴らしい指揮者陣が登場する。これが会場に貼ってあったポスターだが、左から、5月に登場するウラディーミル・フェドセーエフ (チャイコフスキー 5番など)、6月の準・メルクル (「ペトルーシュカ」など)、7月のエリアフ・インバル (マーラー 6番!!)、そして、写真では暗くて見えないが、9月はユベール・スダーン (シューベルト) だ。錚々たる顔ぶれではないか。
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普段なかなか体験できない大フィルの定期演奏会を堪能したので、ちょっと味をしめて、また次回はどうしようなどと考え始めている私。首尾よく行けば、またこのブログでご紹介します。井上道義体制から尾高忠明体制への音楽監督移行も注視したい。

by yokohama7474 | 2017-04-25 23:29 | 音楽 (Live) | Comments(2)

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4月19日の記事で、米国の名指揮者アラン・ギルバートと東京都交響楽団 (通称「都響」) との意欲的な演奏をご紹介したが、このコンビが今回取り組んだもうひとつのプログラムは、東京では昨日、4月22 (土) に東京芸術劇場で行われた。あいにく私はそのとき、NHK ホールでファビオ・ルイージ指揮の NHK 交響楽団の演奏会を聴いていたので、聴くことができなかった。だが、物事やはり様々な可能性を試してみることが何よりも大事である。今回、同じ曲目でのコンサートが大阪で開かれると知って、では大阪まで行くしかないでしょうと、実に単純な決断をしたのである。会場は中之島にあるフェスティバルホール。この名称は、大阪国際フェスティバルという音楽祭の会場になることによっており、このフェスティバルでは、なんと言っても 1967年にバイロイト音楽祭の引っ越し公演が実現したことや、1970年の大阪万博の際には、カラヤンとベルリン・フィル、バーンスタインとニューヨーク・フィル、ジョージ・セルとクリーヴランド管弦楽団などが登場し、そのことは、日本の西洋音楽史に燦然と輝く業績なのである。但し、これは本当の意味で欧米のいわゆる音楽祭のように、短い期間に集中的に世界的な音楽家が登場するという催しではなく、少なくとも現在では、数ヶ月のうちにいくつかの公演があるという形態であり、フェスティバルというよりも、個々の演奏会の内容で勝負している印象がある。実は今回のアラン・ギルバートと都響の演奏会も、フェスティバル提携公演という位置づけである。そうそう、書き忘れたが、このホールは、もともと大きい (2,700席) 割には音がよいと言われていたが、老朽化のために建て替えられ、現在のものは 2012年にオープンした新しいもの。私は以前のホールには何度か行ったことがあったが、新しく建て替えられてからは今回が初めてで、その興味も大きかったのである。これが現在フェスティバルホールの入っている中之島フェスティバルタワー。
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さて、現在ニューヨーク・フィルの音楽監督という、音楽界における世界トップの地位のひとつにいる指揮者アラン・ギルバートが採り上げた曲目は以下の通り。
 ベートーヴェン : 劇付随音楽「エグモント」序曲 作品84
 ラフマニノフ : パガニーニの主題による狂詩曲 作品43 (ピアノ : イノン・バルナタン)
 ベートーヴェン : 交響曲第 3番変ホ長調「英雄」作品55

なるほど、ドイツ古典派のベートーヴェンの名作 2曲 (当初発表では「エグモント」序曲は入っていなかったところ、追加されたらしい) の間に、ロシアロマン派のラフマニノフが挟まっているという構成だ。これは私の勝手な想像だが、この真ん中のラフマニノフは、ギルバートが、日本では未だになじみのない今回のソリストの本領を発揮させるレパートリーとして、あえて挟んだものではないのか。そう思った理由は後述する。

さて、最初の「エグモント」序曲だが、颯爽と駆け抜けるというよりも、かなり重心の低い音色による堂々たるベートーヴェンであったと思う。冒頭の長い和音から音楽はドクドクと息づき、不安や情熱を絡みつかせながら、悲劇的な様相を帯びて進んで行く。都響の弦は明らかにほかのパートをよく聴きながら、有機的に伸びていた。実に素晴らしい反応力。ギルバートほどの実績ある指揮者にも臆することなく (むしろオケを臆させない点こそがギルバートの持ち味と言ってもよいのかもしれない)、持てる力をフルに音楽に乗せたという印象。コントラバス 6本 (これはメインの「エロイカ」でも同じ) で、今日のベートーヴェン演奏の基準というべき通常の規模であったが、ヴァイオリンの対抗配置は取らず、ヴィブラートも過剰にならない程度にはかかっていて、昔風という言うと当たっていないだろうが、古楽の影響を過度に受けた教条的な演奏とは全く異なる、活きたベートーヴェンであった。

そして、2曲目のラフマニノフを弾いたソリストは、イスラエルのピアニスト、イノン・バルナタン。1979年生まれというから、今年 38歳。既に、若手というより中堅というべき年齢である。
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経歴を見ても、○○コンクール優勝という説明がない。実際、最近の若手や中堅の演奏家は、コンクール歴がなくとも素晴らしく個性的な人が多くいるので、特に驚かない、というよりも、コンクール歴なしで世界で活躍しているとするなら、むしろその才能が本物である証拠ではないかと思いたくなる。実際彼は、ギルバートが音楽監督を務めるニューヨーク・フィルの初代アーティスト・イン・アソシエーション (日本語にするとつまり、ともに音楽を作り上げるパートナーとしての音楽家ということか) に指名されているという。ニューヨーク・フィル以外にも米国の名門オケの数々と共演していて、ヨーロッパにも活動を広げているようだ。実は都響にも過去に一度出演していて、それは、2016年 1月、やはりギルバートの指揮で、曲はベートーヴェンの 3番のコンチェルトであった。そのときのメインはやはりベートーヴェンの 7番で、うーん、そんなコンサートに私はなぜ行かなかったのかと思って調べてみると、山田和樹指揮日本フィルのマーラー・ツィクルスの第 4番と重なっていたのであった。それはそれでやむなかったのであるが、それにしても今回聴けてよかった。彼は、ちょっとないような素晴らしく個性的なピアノを弾く音楽家であることが分かったからだ。きっとその実力を知るギルバートが、前回のベートーヴェンとは異なるレパートリーで日本に再度紹介したかったのではないか。大変小柄な人なのであるが、その音楽の自由闊達なことは無類。そもそもこのラフマニノフの曲は、狂詩曲 (そう、このブログの題名と同じ、「ラプソディ」です!!) というだけあって音楽は勝手気ままに流れ、途中に誰もが知る超絶的に美しい抒情的な箇所 (第 18変奏) がある以外は、ピアノがのべつ好き勝手に飛び跳ねているような曲。もちろん、パガニーニが使用し、ラフマニノフ自身も様々な作品で引用したグレゴリオ聖歌の「怒りの日」(死者を弔う音楽の一節) をテーマとしている以上、そこに終末的な思想があるわけだが、むしろ死をあざけ嗤うような曲なのである。だがこの音楽は正直なところ、すべての小節が心に響いてくることにはならず、実演では結構退屈するようなこともある。それなのに、今回のバルナタンの演奏は実に見事で、聴いていて飽きることがない。もしこのような音楽を奏でるピアニストをほかに探すとすると、クラシックのピアニストではなく、例えばキース・ジャレットではないか。都会的な美音でありながら、そこに安住せず、常に自由さを忘れずに飛翔する。そのようなイメージである。もちろんそのピアノの質の高さによって、有名な第 18変奏では、ギルバートが唸りながら引き出した弦楽合奏の美しさがより一層増したことは言うまでもない。素晴らしい演奏であり、聴衆の拍手はなかなか鳴りやまなかったが、アンコールは演奏されずに休憩に入った。

そしてメインの「エロイカ」も、冒頭の「エグモント」と同様、実に堂々たるベートーヴェンで、もしかするとギルバート自身が新たな次元に入っているのではないかと思わせるような充実感を感じることとなった。ここでも都響の弦はいつもの芯のあるずっしりしたもので、もともとベートーヴェンへの適性はあると思うが、その音を充分に引き出した指揮者の手腕もさすがのものである。解釈において奇をてらったところは皆無であり、まさに正攻法。やはりよい音楽は、このようなストレートな表現によって活きるのだということを改めて実感した。終演後、既に聴衆たちの退場が始まっているときに、客席から「コントラバス、本当にうまかったぞ!!」と大きな声を舞台にかけた男性がいて、ちょっとびっくりではあったが (笑)、いやいや実にその通り。コントラバスが安定していたからこそ、弦全体のうねりが生まれたものと思う。

都響の大阪公演はさほど頻繁に行われているとは思えないが、この 2,700席のホールがきっしり満員。今後も、例えば音楽監督の大野和士とも大阪公演を行ってみてはいかがか (先日名古屋公演は行っていることでもあり)。私が今回聴いたのは 1階席のかなり前の方であったが、その音響は大変満足のできるものであり、大阪のホールとして、あの素晴らしいザ・シンフォニーホール (収容人数 1,700人) を忘れることはできないが、このフェスティバルホールでも充分素晴らしい音楽体験ができることを理解した。私の場合は、東京の音楽活動だけで既に手一杯状態ではあるものの、極力時間を作って、ほかの都市でも頑張って音楽を聴きたいものだ。さて、次のフェスティバルホール体験はいつになるだろうか・・・。
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by yokohama7474 | 2017-04-23 23:14 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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イタリアの名指揮者、ファビオ・ルイージ指揮による今月の NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の定期演奏会の 2つ目のプログラム。今回の曲目は以下の通り。
 ベートーヴェン : ピアノ協奏曲第 1番ハ長調作品 15 (ピアノ : ベアトリーチェ・ラナ)
 ブラームス : 交響曲第 4番ホ短調作品 98

なるほど、今回は王道のドイツ音楽一本で勝負するルイージである。但し、4月16日にご紹介した前回のルイージと N 響の演奏会も、実はすべての演目がドイツ・オーストリアの曲目であったのである。なるほどなるほど。今回彼が採り上げた 2つのプログラムは、すべてドイツ・オーストリア系。これまでのキャリアでドイツ語圏のシュターツカペレ・ドレスデンやウィーン交響楽団を率いてきたルイージと、元来ドイツ物をバリバリ弾くという持ち味で勝負して来た N 響。これは面白いことになりそうだ。

まず 1曲目、ベートーヴェンの 1番のピアノ・コンチェルトを弾いたのは、イタリアの若手女流、弱冠 24歳のベアトリーチェ・ラナ。N 響には初登場だ。
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日本のオケには様々なソリストが登場して、大家もいれば中堅もおり、若手もいる。このような機会に新たな演奏家と出会うことは、コンサート愛好者の特権なのである。さしずめ今回のラナなどは、そのような特権を感じさせてくれる素晴らしいピアニストであったと言えると思う。彼女の経歴を見てみると、2011年、18歳でモントリオール国際コンクールで優勝、2013年にはヴァン・クライバーン国際コンクールで 2位ということで、これはこれで素晴らしいのだが、どのようなピアニストであるのかは、実際に聴いてみないと分からない。そして、実際に聴いてみて分かったことには、非常にクリアな音で鍵盤を駆け抜ける素晴らしいピアニストだということだったのである。このベートーヴェンのコンチェルトは、本当に溌剌とした元気の出る曲であり、それをこのように演奏してもらえれば、聴き手としてはまず第一に、曲の素晴らしさを感じることができるわけで、それこそが音楽の醍醐味なのだと思う。第 2楽章で彼女のピアノは、まるでバッハを弾くかのような透明感をもって、感傷的になることなく、だが大変に美しくて平穏な世界を紡ぎ出した。この楽章の終盤に出てくるクラリネットとの絡みも実に見事で、本当にいい音楽なのだと実感したのである。いつも私がこのブログで主張していることは、演奏家が若いか年寄りかは、音楽を聴く上では重要な要素ではなく、それぞれの演奏家はそれぞれのキャリアがあるのであって、若い時にピークを迎える人もいれば、老年に至って真価を発揮する人もいる。さらに言えば、何をもってその演奏家のキャリアのピークであるかは、誰にも分からないのである。その意味で今回のラナは、今の彼女の持てる力を巧まずして発揮することで、ベートーヴェンの若書きの音楽の素晴らしさを表現したと言えると思うし、彼女の音楽がまた今後変わって行くことがあるにせよ、今の彼女の音楽は充分に魅力的だということだ。そして彼女が演奏したアンコールは、ドビュッシーの「ピアノのために」の第 1曲。うーん、ベートーヴェンの後にドビュッシーを弾ける感性は素晴らしいと思うし、実際、常に輝きを保ちながら鍵盤を縦横に駆け巡った彼女には、聴衆が聴き惚れるものがあった。因みに、以前誰かが書いていたが、ドビュッシーは「ピアノのために」という曲をフォルテで始めているのである (笑)。ラナの溌剌とした演奏を聴くと、そんなこともどうでもよくなって来るのである。

そして後半、天下の名曲ブラームス 4番。これは事前の予想通り、ルイージらしいタメの効いた演奏。冒頭の滴り落ちるような音型は、うぅーんっとカーブを描いて絞り出されたが、そこはさすが N 響。ルイージの要求によく応え、音楽的情景の移り変わりを実に充実した音で描き出していた。弦楽器が重層的で深い音色を出していたのは当然で、また木管奏者のそれぞれが、実によい音で鳴っていたのである。だがルイージの音楽は、昔のドイツの巨匠のような重い音にはならず、第 2楽章で深々と歌う箇所でも、推進力のあるキレのよい音で一貫していた。終楽章ではオーボエが入りを間違えるハプニングもあったものの、その後見事に挽回。寂しげなフルートも実に表情豊かで、終演後に指揮者が真っ先に立たせたのも納得できよう。なるほどこれが、イタリアの魂を持ったドイツ音楽なのである。美しくも爆発力のある音楽は、まさにルイージの明確な個性であると思う。ルイージと N 響には今後も長い共同作業を続けてもらい、日本において新時代のクラシック音楽の水準を打ち立ててもらいたい。先頃発表された N 響の来シーズン (今年 9月から) の定期演奏会の指揮者陣にはルイージの名前はないが、またその次のシーズンを心待ちにしている。この写真は、上に掲げた今回のプログラムで使われたルイージの写真。眠そうに見えないこともないが、大丈夫。ひとたび指揮を始めると、マジカルな手腕が発揮されるのである (笑)。
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by yokohama7474 | 2017-04-22 23:22 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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世界に冠たる名門オーケストラ、ニューヨーク・フィルの音楽監督。それが今日の指揮者が現在持つタイトルである。米国では文句なしにナンバーワンの輝かしい栄光の歴史を誇り、設立もあのウィーン・フィルと同じという古さを持つニューヨーク・フィルの音楽監督ともなれば、それはそのままで世界超一流を意味する。その指揮者の名前はアラン・ギルバート。ともにニューヨーク・フィルの楽員であった米国人の父と日本人の母の間に生まれた 50歳。今まさに脂の乗り切った世代であるわけだが、2017-18年のシーズンでニューヨーク・フィルのポストを降りることが決定しており、その後の去就が注目されるところ。そんな中、昨年に続き今年も来日して、東京都交響楽団 (通称「都響」) の指揮台に立つ。このブログでも、昨年 1月26日と 7月25日の同じコンビによる演奏をご紹介したが、今回は 2種類のプログラムによる 4回の演奏会 (うち 1回は大阪でのもの) が実現する。私が敬愛するギルバートと都響の組み合わせは、実のところこれまでは、課題もちらほら感じるような出来が多かったと個人的には思っているが、とにかく共演を重ねることで、関係を練り上げてもらい、東京の音楽界に大いなる刺激を与えてもらいたい。その意味で今回の演奏は、何かこのコンビとしても大きな飛躍のきっかけとなるようなものだったと言えるのではないか。
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曲目は以下の通り。
 ラヴェル : バレエ音楽「マ・メール・ロワ」全曲
 ジョン・アダムズ : シェエラザード .2 - ヴァイオリンと管弦楽のための劇的交響曲 (ヴァイオリン : リーラ・ジョセフォウィッツ、日本初演)

なるほど、前半には 20世紀前半を代表する精緻を極めるフランス音楽、メインには現代を代表する米国作曲家の近年の大作という、かなり意欲的なプログラムである。まず前半の「マ・メール・ロワ」は、マザー・グースを題材にしたメルヘン物で、まさにラヴェルならではの繊細でキラキラしたオーケストレーションを聴くべき曲。冒頭の木管のハーモニーにごく僅かなずれを感じたが、その後音色は修正されて、スムーズな進行のうちに 30分の演奏を終えた。もともと都響の弦楽器は、このブログでも再三述べているように、何か芯が入ったような重量感のある音が鳴り、得意のマーラー等の後期ロマン派ではその音色が最大限生きるのであるが、この「マ・メール・ロワ」の終曲の最後の和音の響きには、そのずっしりとした音が中空にすぅっと伸びて行くような感覚があり、これはこれで実に後味のよい演奏であった。都響がマーラーの響きのみに偏っているという気は毛頭なく、当然ながら、フランス音楽にも柔軟性を持って対処できる優れたオケであることを再確認できて、大変有意義であった。さて今回私は、舞台を見渡せる席に座ったのであるが、チェレスタの横に、もう少し小型のやはり鍵盤楽器があるのに気が付いた。終曲のキラキラした響きの中に、奏者がこの楽器を懸命に叩いている音が含まれていることを知ったが、これは一体何という楽器だろう。プログラムを見て分かった答えは、ジュ・ドゥ・タンブル。
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これは鍵盤の形態を取ったグロッケンシュピール (いわゆる鉄琴ですな) であるそうな。珍しい楽器なので、通常のグロッケンシュピールで代用することも多いようだが、今回はオリジナル通りの編成での演奏であったわけだ。指揮者のこだわりが分かる。

さて、今回のメインは一風変わった曲。上記のポスターにもある通り、「世界各地で話題の新作、待望の日本初演」なのである。また、これは会場で撮影した別のポスター。現在短髪にしているギルバートの姿と、後ろには東京オペラシティのオープン 20周年のシールも見えて、将来見返したら貴重な写真になりそうだが (笑)、ここにも、「世界中で初演ラッシュ! 待望の日本初演」とある。
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作曲者のジョン・アダムズ (1947 - ) は、このブログでも何度かは名前に触れたが、一般的にはミニマル音楽に分類されることが多い米国の作曲家。だが最近の作品はいわゆるミニマルの範疇には入らない語法の作品を書いていて、これもそのひとつ。もちろん、ミニマル風な要素が皆無というわけではなく、例えば、寄せては返す音の波のような劇的な箇所が多く聴かれるのは、その名残りではないだろうか。いずれにせよ、私にとっては大変になじみ深く、興味を惹かれる作曲家なのである。だがその私も、この作品が「世界で初演ラッシュ」とは知らなかった (笑)。どんな作品なのだろう。これがジョン・アダムズの肖像。
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題名の「シェエラザード」はもちろん、ロシアのニコライ・リムスキー=コルサコフの手になる絢爛豪華な交響組曲が有名だが、そう言えばほかに、ラヴェルの歌曲もある。題材はアラビアン・ナイトで、荒れ狂う王を前にして面白い話を毎晩語り続けたことで命をつないだ賢い王妃、シェエラザードの物語。今回のアダムズの作品は、作曲者自身の発音によれば、「シェラザード・ドット・ツー」ということになるらしい。この作品では、アラブの男性社会で虐げられている女性の姿をシェエラザードになぞらえているとのこと。なるほど、社会派の顔も持つアダムズらしい発想だ。2015年 3月に、今回のソリスト、リーラ・ジョセフォウィッツとアラン・ギルバート指揮ニューヨーク・フィルによって世界初演されたこの曲は、実質的なヴァイオリン協奏曲で、全 4楽章、演奏時間 50分に達する大作だ。これが、近現代のレパートリーを得意とするカナダのヴァイオリニスト、ジョセフォウィッツ。2015年 9月25日の記事で、オリヴァー・ナッセンが指揮するやはり都響との共演を採り上げた。
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この曲の印象は、上記の通り、寄せては返す波のようで、静かで瞑想的な部分と、激しく高揚する部分とが交互に現れる。初めて聴く人にも耳になじみやすい曲だとは思うが、R=コルサコフの「シェエラザード」のように、女主人公を表す独奏ヴァイオリンが時々入るのではなく、最初から最後まで、ほぼのべつまくなしに近い状況で演奏し続けるのだから大変だ。ジョセフォウィッツは、その大変なヴァイオリンソロを全曲暗譜で弾き通し、場面場面で曲想に応じて、時にのびやかにまた時に激しく、全身で音楽を表現し尽くした。オケの音に自らの体を投げ込むような仕草で挑んで行く姿は、あたかも野生動物のようで、彼女のこれまでの音楽家人生の集大成ではないかとすら思われた。これは推測だが、初演者として、きっと作曲過程にも深く関与したのではないか。そうだとすると、それほど演奏家冥利に尽きることもないだろう。つまり今回我々は、米国を代表する作曲家の力強い新作を、その初演者たちによる渾身の演奏で聴くことができたわけである。いわば芸術音楽の世界における最前線を体験できたわけだ。これは、モーツァルトやベートーヴェンやブルックナーやマーラーの名演を体験すること以上に、現代を生きる我々にとっての社会的な意味を感じさせる体験だ。もちろん都響も集中力のある熱演で、指揮者とヴァイオリニストに応えたのであり、そのことも大変素晴らしいことだと思う。尚ジョセフォウィッツは既にこの曲を、デイヴィッド・ロバートソン指揮のセント・ルイス交響楽団と録音している。
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さて、最後にこの曲の楽器編成について少し書いておこう。ヴァイオリンと並んでソロとしてフルに活躍するのは、ハンガリーでよく使われる楽器、ツィンバロン。ハンマーで弦を叩く構造で、いわばピアノの元祖だが、独特の郷愁を感じさせる音が鳴る。クラシックのレパートリーでは、コダーイの「ハーリ・ヤーノシュ」が有名である。
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今回は生頼 (おうらい) まゆみというマリンバとツィンバロンの専門奏者が演奏した。いやーお疲れ様でした。
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その他、興味深い奏法もいくつかあって、例えば、グロッケンシュピールの横の部分を弦楽器の弓ですーっと擦る奏法。だがこれは実際には時々見る。それよりも珍しかったのは、一人の奏者がドラの表と裏を同時に叩くというもの。これはちょっと見たことないですねぇ (笑)。それから、楽器としては、大小様々なドラ (?) を沢山吊るしたものが大変面白かった。あれだけ巨大な楽器は、運搬も演奏も大変だろう (昔見た、中国古代の「曽侯乙墓」から出土した巨大な鐘を沢山吊るした楽器を思い出してしまった)。かと思うと実はこの曲、ティンパニは使っていないのだ。通常ティンパニに委ねられる、いざというときに音楽のベースとなるべきリズムは、弦楽器が激しく刻むことで表現されていたということか。ところで客席で、日本の作曲界の大御所を 2人発見。一人は一柳慧で、もう一人は池辺晋一郎だ。いずれの作曲家の作品も、このブログで紹介したことがあるが、彼らはこのアダムズの作品をどのように聴いたのだろうか。実は、休憩時間のあと (アダムズの作品の演奏前)、前者が後者に何やら話しかけているのが見えた。芸術音楽と現代社会の厳しい切り結び方についての議論であったのか、はたまた、ただの世間話であったのかは、知る由もない (笑)。

このような、様々な刺激に満ちた演奏会であった。ギルバートと都響の演奏が、これを機会に一層の深まりを見せてくれることを祈りたい。このコンビが演奏するもうひとつのプログラムは、これは名曲中の名曲、ベートーヴェンの「英雄」をメインに据えたもの。そちらにもなんとか出かけたいものだと考えているが・・・。果たせるか否か、乞うご期待。

by yokohama7474 | 2017-04-19 00:56 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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今月の NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の指揮台に立つのは、イタリアの名指揮者、ファビオ・ルイージ。1959年生まれなので、今年 58歳という、指揮者として最も脂の乗る世代。このブログでも、毎年夏に開かれるセイジ・オザワ松本フェスティバルの記事で一昨年、昨年と、マーラーの演奏などをご紹介している。ルイージはまさに世界の第一線での活躍を続ける素晴らしい指揮者なのであるが、N 響とも 2001年の初共演以来何度も顔を合わせている。今月も 2つのプログラムでこのオケの定期に登場するが、まずその 1つめの今回の演奏会、曲目は以下の通り。
 アイネム : カプリッチョ 作品 2
 メンデルスゾーン : ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品 64 (ヴァイオリン : ニコライ・ズナイダー)
 マーラー : 交響曲第 1番ニ長調「巨人」

さて、ルイージについて語りたいのをぐっと抑えて、まずはソリストのズナイダーから話を始めたいと思う。1975年デンマーク生まれ。だが、今回初めて知ったことには、両親はポーランド人なのだそうだ。国際的なコンクール歴としては、1997年、エリーザベト王妃コンクールに優勝している。だが、もうそんなことはどうでもよい。経歴が何であれ、彼こそ、今世界で最も傾聴すべき素晴らしいヴァイオリニストであるからだ。
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以前このブログでも、ギリシャのレオニダス・カヴァコスと並んでこのズナイダーを、現代の最も優れたヴァイオリニストとして挙げたことがあるが、今回久しぶりに実演に触れて、そのことを再認識した。今回彼が演奏したメンデルスゾーンのコンチェルトは、演奏によってはなんとも甘ったるい調子となってしまうのだが、冒頭のズナイダーの節回しは、つっけんどんにすら聞こえるほどそっけないもの。だが、よく耳を澄ませると、昔の巨匠たち、例えばハイフェッツやオイストラフをすら思わせるような、素晴らしく艶やかな美音なのである!! つまり、その音は文句なく美しいのだが、聴き手に媚びることが全くないので、その表面上の美しさではなく、音楽そのものの純粋な力だけが、巧まずして聴き手に迫ってくると言えばよいだろうか。だから私はこの演奏を聴いているうちに、ヴァイオリン協奏曲というよりは、メンデルスゾーンの無垢な魂が歌として響いているような気がしてきて、危うく涙すら浮かべそうになってしまった。この曲でこのような経験は少ない。彼はかなりの長身であり、ヴァイオリンを弾く姿には余裕すら漂っているが、当然ながら大変な研鑽を積んでこの境地に達したのであろう。演奏家における天才とは、練習せずに音をうまく弾ける人のことを言うのではない。血の出るような努力をして、自分の持てる表現力を誰にでも分かるかたちで音にできるようになった人、それを天才というのである。このズナイダーは、まさにそのような天才であり、曲の個々の部分の音色がどうの音程がどうのテンポがどうの、ということは気にならない。なかなか出会うことのない、実に素晴らしい演奏であった。アンコールでは、指揮者ルイージもステージ奥の椅子に腰かける中、「アリガトウゴザイマス」と日本語で聴衆を笑わせ、「2つめの知っている日本語は、コンニチハ。3つめは、『バッハ』です」(と、"Bach" の独特な日本語での発音のことを言っていると想像した。舞台近くの人しか聞き取れないほどの小さな声だったが) と言って、バッハの無伴奏パルティータ第 2番のパルティータを演奏した。これまた、感傷もなく誇張もない、とにかくまっすぐなバッハであり、演奏する長身の立ち姿が神々しくすら思われる、崇高な音楽であった。今回ズナイダーは、4月18日 (火) に浜離宮朝日ホールで、4月20日 (木) には横浜のフィリアホールで、それぞれリサイタルを開くが、私は聴きに行くことができない。この記事をご覧の首都圏の方々には、是非にとお勧めしておこう。

さて、1曲目に戻って、オーストリアの作曲家ゴットフリート・フォン・アイネム (1918 - 1996) の、「カプリッチョ」である。アイネムと言えば、私がクラシックを聴き出した 40年近く前でも、代表作であるオペラ「ダントンの死」は、いろんな書物に採り上げられていたし、若き日のズービン・メータがウィーン・フィルを指揮したフィラデルフィア交響曲 (もともとはユージン・オーマンディとフィラデルフィア管弦楽団のために書かれた曲) の録音で、その名はある程度知られていた。それ以外にも、ザルツブルク音楽祭で重要な役割を果たしたということも、一応知識としては知っている。だが、名前が有名な割にはその作品を聴く機会は少なく、この「カプリッチョ」(もちろん「奇想曲」 = 「気まぐれ」という意味だ) も今回初めて耳にした。1943年、作曲者 25歳のときの作品で、作品 2という若い番号が示す通り、実質的な楽壇デビュー曲であるらしい。めまぐるしく曲想が変わる曲だが、なかなかモダンで楽しめる (書かれているのは戦争中なのだが)。ここでのルイジは、ギアをしきりと切り替えながら、素晴らしい精度で曲の持ち味を表現したと思う。この「ギアの切り替え」、あるいは「アクセルとブレーキの踏み替え」という言葉が私のルイージ感を表していて、昨年、一昨年の松本での彼の演奏についての自分の記事を読み返してみても、同じようなことを何度も言っている。なんだ、じゃあもう一度感想を言う必要ないじゃないの (笑)。だが実際のところ、これだけ自在に音楽をコントロールできれば、いかなる曲にも対処できようし、その指揮者の要求に鮮やかに応える N 響も素晴らしい洗練度である。これは比較的若い頃のアイネムの写真。
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そして最後の「巨人」である。ルイージは夏のセイジオザワ松本フェスティバルでもマーラーのシリーズを連続で手掛けていて、5番・2番に続いて今年は大作 9番を振るが、今回の N 響では 1番と、比較的取り組みやすい (?) 作品だ。実際私もつい先週、シルヴァン・カンブルランと読響の名演に接したばかりであり、その比較が楽しみであった。結果的には、ここでもルイージの緩急を心得た自在な音楽運びが顕著であり、イタリア風に歌心があるというのとは一味異なる多彩な表情が聴かれ、そして例によって最後に起立するホルン奏者全員 (と、トランペット、トロンボーン各 1人) の姿を見て、鳥肌立ってしまった。実はこの箇所でホルンが起立しても、曲が終わる前にまた座ってしまう演奏も多いのだが、今回は最後まで起立。大いに盛り上がる演奏であった。但し、細部を見て行くと、それなりに課題もあったかなという気もする。管楽器のごくわずかなミスには目くじら立てる必要はないだろうが、マッスとして鳴っているオケの音自体に、N 響ならさらに緊張感が出せるのではないかと思う瞬間が何度かあった。例えば第 2楽章冒頭の頻繁な「ギアの切り替え」では、指揮者の指示を待ちきれない部分もあったように思い、さらに凄みが出るとよいのに、と感じてしまったものである。一方、第 3楽章では途中で曲想の変化に応じたテンポの変化が誇張され、ここでは面白い効果が出ていた。全体を通した燃焼度は、また今後の共演を経て上がって行くものと期待したい。

ところで今回の演奏では、第 3楽章の冒頭のコントラバスがソロではなく合奏であり、最近時々そのような演奏を聴くなぁと思って調べたら、1992年に出版された新全集版ではそうなっているとのこと。慣れの問題もあるかもしれないが、個人的にはここは、ちょっと調子が外れたようなソロで聴きたいものである。そうそう、この第 3楽章の冒頭部分は、黒澤明の「乱」の予告編で使用されていた。「乱」本編の音楽における黒澤と、音楽担当の武満徹の確執など、面白い話はいろいろとあるし、黒澤ファンとして「乱」という作品自体について語りたいこともいろいろあるが、長くなるので割愛し、懐かしのイメージのみ掲げておく。
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例によって話があらぬ方向に行ってしまったが (笑)、ルイージのような名指揮者を日本で頻繁に聴けるのはありがたいこと。今年の松本には行けるか否か分からないが、N 響とは是非、密なる共演を重ねて頂きたい。その巧みなギアの切り替えに、今後一層磨きがかかりますように!!
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by yokohama7474 | 2017-04-16 22:36 | 音楽 (Live) | Comments(2)

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フランスの名指揮者シルヴァン・カンブルランと、彼が常任指揮者を務める読売日本交響楽団 (通称「読響」) の演奏会は、先週のマーラー「巨人」をメインに据えたものをご紹介したばかりだが、今回はまたなんとも意欲的な曲目で勝負をかけてきた。以下のようなものである。
 メシアン : 忘れられた捧げ物
 ドビュッシー : 「聖セバスティアンの殉教」交響的断章
 バルトーク : 歌劇「青ひげ公の城」(演奏会形式)

今の東京でこのような曲目を演奏するコンビとして最も期待できるのは、やはりカンブルランと読響ではないか。このブログでなるべくタイムリーにご紹介している在京の 7つのメジャー・オケの動向はますます面白くなって来ており、登場する指揮者の顔ぶれも、楽団ごとにかなり住み分けができているので (コバケンのような例外もいるが 笑)、各楽団とも、主要指揮者陣の個性に合わせた非常に意欲的なチャレンジができていると思う。やはり競争があるのは、聴き手にとっては歓迎すべきことである。時間のやりくりだけは、なかなか厳しくなって来ているが (笑)、今回のような演奏を聴くと、今後もなんとか時間をやりくりして、できるだけ多くの生演奏に触れたいと切に思う次第である。
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さて今回のプログラム、大変によく考えられている。前半のメシアンとドビュッシーはフランス音楽であるが、同じフランス音楽とは言っても、ラヴェル的、あるいは六人組的な明快さや洒脱さはなく、神秘的、瞑想的な雰囲気をたたえた曲であり、組み合わせて聴いてみると、書かれた時代は異なる (メシアンが 1930年、ドビュッシーが 1911年で、その間には第一次世界大戦が起こっている) ものの、その精神には近いものがあることが分かる。その意味では、後半に演奏されたバルトークの傑作「青ひげ公の城」は、宗教性こそないものの、おとぎ話の中にある残酷さや、人間心理の不可思議さを覚えさせるという点で、やはり作品の精神には共通点があるのである。また、大変興味深いことに、この「青ひげ公の城」が書かれたのは、前半で演奏されたドビュッシーの「聖セバスティアンの殉教」と同じ 1911年。この 2作品に世紀末的、象徴主義的な雰囲気が共通するには、同時代性という理由があるのだ。

まず最初の「忘れられた捧げ物」は、今年 1月にも秋山和慶指揮東京交響楽団で聴いていて、それも見事な演奏であったが、今回のカンブルランと読響の演奏も、甲乙つけがたい名演であった。カンブルランの手にかかると読響の柔軟性は最大限発揮され、金管の輝きや木管の点滅も、素晴らしいニュアンスである。全く何の不安もなく聴いていられる演奏で、小品、かつ作曲者の実質的なデビュー曲ながら、メシアンの音宇宙はそこに紛れもなく存在していた。

ドビュッシーの「聖セバスティアンの殉教」はもちろん、ローマの親衛隊長で、木に縛り付けられて矢で射られて殉教する聖者、聖セバスティヌスを題材にしており、もともとは戯曲につけられた音楽である。前項で、ストラヴィンスキーの「ペルセフォネ」に触れた際にその名を挙げた伝説のバレエ・ダンサー、イダ・ルビンシュテインのために、イタリア人作家ガブリエーレ・ダヌンツィオが書いた戯曲。作曲には曲折あったようだが、上演時間 4時間以上と言われる戯曲において、音楽が使われる箇所は 1時間程度。今回演奏された交響的断章は、ドビュッシーの友人カプレによる編曲で、4曲からなり、演奏時間は 25分程度。今回はそこに、第 3幕のファンファーレが最初に演奏された (ファンファーレは 2曲と発表されたが、予定変更で 1曲のみ演奏)。この曲、私も CD (ミュンシュ盤とは長いつきあいだ) や実演 (確か若杉弘は音楽を全曲演奏した) で何度か聴いているが、あまり印象的なメロディもなく、さほど親しんでいるわけではない。だが、あの聖セバスティアヌスの殉教というストーリーにもともとある耽美性は音楽から立ち昇ってきて、聴いていて蠱惑的な気分に襲われることは事実。カンブルランと読響の演奏は常にクリアで、実に見事であった。ところでこのダヌンツィオのフランス語の戯曲を、フランス語が充分できないのに一生懸命和訳した人がいる。ヒントはこの絵だ。
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そう、グィド・レーニの描く「聖セバスティアンの殉教」。もちろん三島由紀夫が「仮面の告白」で採り上げている絵である。聖セバスティアヌスに魅せられていた三島はこのダヌンツィオの戯曲を、池田弘太郎というフランス文学者に教えを乞いながら、共訳した。今試みに、私の手元にある新潮社の三島由紀夫全集 (1975年刊行) を調べてみると、第 24巻「戯曲 (5)」に収録されていた。せっかくなので、ちょっと雰囲気だけでもどうぞ (笑)。
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さて、今回のメイン、バルトークの「青ひげ公の城」であるが、20世紀の名作オペラとされてはいるものの、上演には常に大きな問題がある。それは、歌詞がハンガリー語というマイナーな言語であることだ。その音楽はしかし、演奏者をしてそのようなハンディを乗り越えようと思わしめるに充分な、いかにもバルトークらしい夜の雰囲気たっぷりの深い味わいのもの。幸いなことに (?)、登場人物は主人公の青ひげとその妻ユディットの 2人だけなので、メゾ・ソプラノとバスの男女 2名の素晴らしい歌手さえいれば、成功の第一条件をクリアできる。そして今回舞台に立ったのは、ユディット役がドイツ人のイリス・フェルミリオン。青ひげ役はハンガリー人のバリント・ザボ。このうちフェルミリオンの方は、インバル指揮のマーラーの交響曲や歌曲でよく歌っているようだし、もともとアーノンクール指揮の「フィガロ」でケルビーノを、「コシ・ファン・トゥッテ」でドラベッラを歌って国際的に注目された歌手。一方のザボは、スカラ座やバイエルン国立歌劇場に出演歴もあり、中でもこの「青ひげ」は、ハンガリー語を母国語とするだけあって、当たり役にしているらしい。演奏会形式だったので、双方ともドレスやタキシードで登場したが、このザボは譜面を持ってくることもなく、全曲暗譜での歌唱であった。
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ここでもカンブルランと読響の演奏は極めて高度な水準を誇り、暗い城の中の不気味に濡れた壁の触感から、拷問道具の血のしたたり、財宝の輝き、広大な領土を見晴るかすさまなどが、縦横無尽に描きつくされた。第 5の扉を開けるシーンでは金管のバンダ (別動隊) が入って圧巻なのだが、実は今回初めて知ったことには、そこにはオルガンも入るのだ。またオルガンは、終結部近くでも登場する。千変万化するオーケストラの響きを視覚的にも追うことができるのは、演奏会形式ならでは。ベラ・バラージュ (映画の歴史に詳しい方なら、その名を映画理論家としてもご存じだろう) の書いた台本が不気味に物語を進めて行くに際し、オーケストラの表現力が不可欠な要素として随所に駆使されていることを、改めて思い知る。もちろん 2人の歌手も、オケと一体となった音響を作り出して、この不気味な物語を雄弁に語ったのである。いつ聴いても楽しい曲では全くないが (笑)、人間の根源的な何かに迫る、類例のない音楽である。当然聴衆の人々は、この演奏の価値を知っているから、客席は大いに沸いたものである。夜の音楽を書き続けたバルトークも、このような演奏を聴くと満足するであろう。
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カンブルランが読響の常任指揮者に就任して、早 8年目。よくよく検討してみると、東京の主要オケとそのシェフのコンビを考えたときに、このカンブルランと読響は、プログラムの明確なコンセプトや、音の鳴り方の個性、また、実現している演奏水準の点を総合的に勘案すると、もしかするとナンバー・ワンかもしれない。少なくとも、ナンバー・ワンの一角を占めていることは間違いないであろう。今シーズンも楽しみな演奏会が沢山あるので、ピリリと辛口で知性あるアプローチに、ますます期待である。

by yokohama7474 | 2017-04-16 02:31 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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このブログでも既に何度かご紹介している、フィンランドの若手指揮者ピエタリ・インキネンは現在、日本フィルハーモニー交響楽団 (通称「日フィル」) の首席指揮者。2016年 9月に始まったこの関係は未だ半年であるが、その前に同オケの首席客演指揮者であった関係で、既に日フィルとは気心の知れた関係にある。その彼が、手兵日フィルとともにこの春取り組むのは、ブラームス・ツィクルスだ。ブラームスは言うまでもなく、ドイツ音楽を代表する作曲家であるが、彼の残した 4曲の交響曲はいずれも密度の高い音楽で、オーケストラに最上の洗練を求めるなかなかの難物である。しかも、重さを伴う音楽で、若手指揮者にとっては相性の問題もありがちだ。インキネンと日フィルのこの挑戦に立ち会いたくて、会場に足を運んだのである。
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まず今回のツィクルスであるが、初回の今回は、交響曲第 3番ヘ長調作品90と、交響曲第 4番ホ短調作品98の 2曲。通常なら番号順に演奏することが多いブラームス・ツィクルスであるが、今回は後半の 2曲を先に持ってきた。実はツィクルスの残り 2回 (私は残念ながらいずれにも行けないのだが) は、次が交響曲第 2番をメイインとしたもの、最後が交響曲第 1番をメインとしたものと、段々遡ることになる。だがユニークなのは、組み合わされた曲目だ。第 2番の日には、同じブラームスの「悲劇的序曲」はよいが、もう 1曲はなんと、デンマークの作曲家ニールセンのフルート協奏曲。第 1番の日には、リストの交響詩「レ・プレリュード」と、同じリストのピアノ協奏曲第 1番。つまり、ブラームス・ツィクルスと銘打ってはいるものの、交響曲 4曲以外の組み合わせは非常に自由なのである。考えようによってはこれはなかなか面白い。つまり、ツィクルスとは言っても、何もブラームスばかり演奏しなくてもよい、むしろほかの曲があった方が変化があってよい、という考えなのであろうか。実は今回の演奏会、開演前に指揮者のプレ・トークがあったのだが、私は最後の 2 - 3分しか聞くことができず、そこで彼は来シーズン (今年 9月以降) のプログラムの話をしていたが、その前にはきっとブラームス・ツィクルスの話をしていたのではないか。聞き逃してしまったので、彼の今回のツィクルスに対する思いは、想像するしかない。

さて、今回の 2曲の演奏、私の感想を一言でまとめるなら、管楽器には若干の改善の余地はあったものの、弦楽器が上質な音質で音楽の流れを主導し、今のインキネンと日フィルが実現できる音楽の説得力を充分に示したものと言えると思う。この指揮者の持ち味として、熱狂という要素はあまり見当たらないものの、若さに似あわない着実な音楽の足取りは、確かにブラームスの本質のある面を表現していたと思う。例えば弦楽器がピツィカートで音の流れを支えるときには必ず、清流の流れを覗いた時に見える白い小石のように、実に揺るぎない存在感を持って響いていたし、第 3番の第 3楽章や第 4番の第 1楽章では、感傷に陥ることは注意深く避けながらも、紡ぎ出される重層的な音のつながりには瞠目すべきものがあった。力が入り過ぎると空回りする危険のある音楽であるから、このインキネンのやり方には周到な知性が感じられた。課題があるとすると、上記の通り、ここぞというときの熱狂 (第 4番第 1楽章や第 4楽章の大詰めでは、やはりその要素がもう少し欲しい) と、木管楽器のさらなる緊密な合奏ということになるような気がする。考えてみればインキネンは日フィルと、お国もののシベリウス (フィンランド人としてはこの作曲家を演奏するには宿命だ!! 笑) を除けば、マーラー、ブルックナー、ワーグナーといった後期ロマン派をかなり積極的に採り上げて来ている。彼の感性からすれば、バルトークやストラヴィンスキー、あるいはラヴェルやプロコフィエフといった近代の作曲家に、より適性があるようにも思うが、いかがであろうか。面白いのは、たとえそうであったとしても、ドイツ系の音楽の演奏を最初に重ねることで、その後の展開の素地が作られるように思われることだ。きっと彼は何年も先までレパートリーの展開を考えているのであろう。東京の音楽界はなかなかに競争が激しいが、日フィルならではの個性を作って行って欲しい。
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日フィルの 9月以降の新シーズンのプログラムが発表されている。定期演奏会の指揮者陣としては、インキネン自身と、桂冠指揮者であるアレクサンドル・ラザレフ以外には、正指揮者の山田和樹、小林研一郎、井上道義、下野竜也、広上淳一というユニークな日本人指揮者たちの登場が目立っている。いろいろ面白そうなレパートリーと指揮者の組み合わせの数々が見られるが、特筆すべきは、来年 5月、ラザレフによるストラヴィンスキーの「ペルセフォネ」(楽団の表記では「ペルセフォーヌ」) の演奏。これはなんと、日本初演なのである!! へぇー、ストラヴィンスキーのようなメジャーな作曲家の作品で、未だに日本で演奏されていなかったものがあったとは驚きだ。私は随分以前、多分学生時代に作曲者指揮のアナログ盤を購入したが、特に親しむほど曲を聴きこんではいない。時代は移り、セット物 CD がなんとも廉価で手に入ってしまう現在、私の手元には旧コロンビア・レーベルのストラヴィンスキー自作自演全集 56枚組がある。そのボックスを開け、この曲の CD のジャケットを撮影したのがこれ。ギリシャ神話に基づく物語であり、ボッティチェッリによく合う。
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実はこの曲、伝説のダンサー、イダ・ルビンシュテインの委嘱によるもので、語りの台本を書いているのは、なんとあのアンドレ・ジイドであるそうだ。日本初演が楽しみである。・・・とはいえ、それはこれから 1年以上先の話 (笑)。それまでにインキネンの薫陶を受けた日フィルがさらに進化を続けるのが楽しみである。

by yokohama7474 | 2017-04-16 00:59 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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この週末は、桜が満開だというのに、土曜も日曜も東京ではあいにくの天気。あぁ、今年も絶好の花見時を逃してしまった。だが、これも巡り合わせというもの。また来年を楽しみにしよう。来年の今頃桜が咲くことは、これはもう、まず確実なこと。なので、それを楽しめるように、まずは何よりも体調と、それから気持ちの余裕を持ち合わせるべく、来年に向けて準備しよう。春は必ずまた巡り来るのである。

そんな週末は、仕方がない。オーケストラでも聴きに行くか。あ、まぁ、どんな週末でも大体オーケストラを聴いているのが私の日常なのであるが (笑)。東京のオーケストラには、いわゆる日本の年度に合わせて 4月から新シーズンのところと、欧米に合わせて 9月から新シーズンのところがあるが、今回私が聴いた読売日本交響楽団 (通称「読響」) は前者。従って、4/8 (土)・9 (日) の 2日間に亘って行われた同じ曲目によるコンサートが、今シーズンのこのオケの開幕であったわけだ。指揮を取ったのはもちろん常任指揮者のシルヴァン・カンブルランで、曲目は以下の通り。
 ハイドン : 交響曲第 103番変ホ長調「太鼓連打」
 マーラー : 交響曲第 1番ニ長調「巨人」
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どこかの宣伝で、このコンサートの曲目を評して、「交響曲の最初と最後」とあるのを見たが、なるほど、番号付だけで 104曲の交響曲を書き、交響曲を器楽曲のメジャーな分野に押し上げたことで「交響曲の父」と呼ばれるハイドンと、19世紀末の頽廃の匂いを纏いながら、オーケストラ芸術の極限を実現し、伝統的な交響曲形式を破壊したマーラー。その意味では、確かにハイドンとマーラーは、交響曲の最初と最後ではあるのだが、さらに面白いのは、この「最初」のハイドンは、103番と、彼のほとんど最後の交響曲、「最後」のマーラーの方は 1番で、彼の最初の交響曲ということだ。だから「最初の最後と、最後の最初」という表現が正しい。

フランスの名匠カンブルランのレパートリーは広く、昨シーズンも今シーズンも、これぞフランス音楽の神髄という曲目も多い一方で、今回のようにドイツ系の音楽を振らせても、その鋭い切り口はそのままで、説得力のある音楽を聴かせるのである。そもそも、ハイドンの交響曲は、オーケストラの基礎となるべきアンサンブルを必要とする音楽であり、このようなレパートリーを愉悦感とともにきっちり弾きこなすことは、どのオケにとっても非常に重要なことであると思う。絵画に例えて言うならば、マーラーのような後期ロマン派の音楽が、色彩溢れる大作の油絵だとすると、ハイドンの交響曲はデッサンと言ってもよいだろう。画家が大作油絵をものするには、細部のデッサンが欠かせない。ともすると大作に圧倒されがちな鑑賞者ではあるが、その作品の裏にしっかりとしたデッサンが描かれているか否かによって、その大作への評価も変わって来ようというものだ。その意味で今回のハイドン、今の読響の充実を物語る、なんとも小股の切れ上がった素晴らしい演奏で、聴いていて本当に楽しかった。この曲はティンパニ (マーラーで使用されたそれとは異なる古いタイプのもので、サイズも小さく、バチも硬いもの) の連打で始まるために「太鼓連打」というあだ名があるのであるが、冒頭で太鼓だけがドコドコ鳴る部分は、なんとも祝祭的なイメージだ。これはシーズン開幕の祝砲であったのか。だが序奏では深いところで何かがうごめくような音楽になり、それがゆえに、主部に入ったときの溌剌感が強調される。すなわち、低音の充実が重要であるのだ。その点、チェロが 4本であったので普通なら 2本となるはずのコントラバスが 4本いて、しっかりと低音を支えていた。さすがカンブルラン、才気走っているようでいて、基本をきっちり抑えているのである。全 4楽章、読響の優れたアンサンブル能力がフルに発揮された、素晴らしい演奏であった。交響曲の最初と最後という観点でも、何か発見がないかと思って聴いていたのだが、この曲の終楽章には、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の大詰めの音楽に似た個所が現れる。また、第 1楽章の序奏では、ベートーヴェンの交響曲第 1番を思わせる部分があり、主部の勢いのある部分は、例えばシューマンの 2番を連想したくなる。うむ、そうなると、第 2楽章アンダンテはブルックナーの緩徐楽章に、第 3楽章メヌエットはマーラーのスケルツォ楽章に、つながっているような気がしてくるのである!!・・・まあさすがにちょっとそれは盛り過ぎですな (笑)。これが、「パパ」と呼ばれたハイドンの肖像。
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前半の演奏の充実になんとも楽しい気分になり、15分の休憩の後、後半のマーラーに入った。このような大作では、指揮者の持ち味が様々なところに出るものであるが、カンブルランの指揮は、決してオケを煽り立てることなく堅実に弾かせながらも、いざというところではテンポを落として溜めを作る。その自在な緩急が音楽に強い説得力をもたらしていたと思う。読響の音はここでも非常にクリアで、金管にほんのちょっとの課題が残った以外は、誰もが認める名演の域に達していたであろう。私はこれを聴きながら、昨今の東京のオケの充実に改めて思いを致していた。終楽章のコーダでスコアの指定通りホルン (と、トランペット、トロンボーン各 1人ずつ) が起立したのも、音の流れに乗った自然な行為と思われた。それを見ながら、日本のオケで日常的にこんなレヴェルの音楽が聴けるようになったことを改めて感じ、音の奔流に鳥肌が立ったものである。もちろん、この曲のクライマックスで鳥肌が立たなければ困るわけであるが (笑)。恐らくは西洋音楽の歴史において、少なくとも器楽曲の範疇でそれまでに達成された最大音量の記録を更新したであろうと思われるこの曲には、若きマーラーの青春が燃え立っているわけで、クライマックスに至るまでの長い長い道のりは、そのまま青春の炎なのである。私は今まで、実演及び録音・録画メディアを通して、何百回この曲を聴いたか分からないが、かれこれ 38年くらいに亘るこの曲とのつきあいの中で、控えめに見て年間平均 20回聴いたとすると、実に 760回!! ということになる。その中で、印象に残っているものそうでないもの、いろいろあるが、改めて今回の演奏に耳を澄ませてみると、演奏の達成度の高さが、曲の冗長さを排除しているように思う。思えば、朝比奈隆はブルックナーだけでなくマーラーにも造詣が深く、ほぼすべての交響曲を採り上げたが、唯一この「巨人」だけは採り上げなかった。その理由として、「いかに偉大なマーラー先生の作品とはいえ、終楽章が全くまとまっていない」という趣旨の発言をしていた。またクラウディオ・アバドは、ベルリン・フィルの音楽監督就任披露コンサートでこの曲を採り上げた際のリハーサルで、クライマックスで立ち上がったホルンに対し、確か「19世紀ではあるまいし、起立は不要」というような言い方で、着席での演奏を命じていた。だが時代は移り、ここ極東の地、日本では、聴衆はどんなに長くても終楽章の盛り上がりを楽しみに待っているし、ホルンの起立に鳥肌立っているのである。カンブルランもそのあたりの客席からの反応は、充分に感じていることだろう。これは若き日のマーラーの写真。
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さて、今回の演奏会の成功に重要な貢献をした人がいる。この 4月から新たに読響のコンサートマスターのひとりに就任した、荻原尚子 (おぎはら なおこ) である。
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私はこのコンサートに行くまで彼女のコンマス就任を知らなかったが、読響の 3月22日付の発表によると、これでこのオケのコンマスは、彼女と小森谷巧、長原幸太の 3人体制となり、日下紗矢子は、特別客演コンマスになった。この荻原さん、ベルリンやハンブルクで、豊田耕兒やコーリヤ・ブラッハーに師事、マーラー・チェンバー・オーケストラのメンバーを経て、2007年からケルン WDR 響のコンマスを務めたという。と書いていて、何か記憶の底がモゾモゾするので (笑)、自分のブログの過去の記事を調べてみると、おぉ、なんと、2015年12月 5日の記事で、オスモ・ヴァンスカ指揮の読響の演奏会で彼女が客演コンサートマスターを務めていたと書いていた。なるほど、しばらく準備期間を置いての就任であったわけである。もちろんこのオケの他の 2人のコンマスも素晴らしい人たちだから、刺激を受けることもあろう。思い出してみれば読響は、30年くらい前は弦楽器奏者は全員男性ではなかったか。それが今や、日下に続いてこの荻原のような才能豊かな人が率いることになっているのも、東京のオケの進化と言ってよいだろう。

このように、大変気持ちのよい演奏会であったのであるが、ひとつだけ不思議な現象を経験した。私の席はステージに向かって右側の方だったのだが、後半のマーラーの演奏中、ずっとどこかからほかの音楽が小さな音で響いていた。独唱や合唱が声を張り上げており、ひとつだけ判別できたのは、「グリーンスリーヴス」であった。私の周りの人たちは、もしかして自分の携帯から音が漏れているのかと、しきりにカバンを覗いていたものである (笑)。それにしてもあれは一体何であったのか。別の場所のリハーサルの音声だったのかもしれないし、ラジオのようにも聴こえた。いずれにせよ、熱演に水を差す忌まわしき雑音であって、聴衆としては許してはおけないものだ。もし関係者の方がご覧になっていれば、事実確認をお願いしたい。

カンブルランと読響の演奏、来週末も、もうヨダレが垂れそうな素晴らしい曲目を聴きに行くことになる。そのときにもしまたあのような騒音が聞こえれば、私は大声でわめいてしまうかもしれませんよ!!

by yokohama7474 | 2017-04-10 00:12 | 音楽 (Live) | Comments(2)

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このブログでコンサートをご紹介するときには、なるべくそのコンサートのチラシまたはポスターの写真を掲げることにしているが、今回、前代未聞のことが起こってしまっている。つまり、このチラシに写っている指揮者と、実際に演奏した指揮者とが違う人物なのだ。今回、予定されていた指揮者グスターヴォ・ヒメノが個人的な都合によって来日できなくなり、代役としてクリスティアン・アルミンクが登場することは、事前に発表された。しかし、チラシやポスターの摺り直しをする時間がなかったのであろう。指揮者アルミンクの名前を印刷したチラシは、ついに作成されることがなかったのだ。だが、曲目は同じであり、さらに、直前になってから発表されたことには、このコンサートのコンサートマスターは、とある有名なヴァイオリニストが務めるという。代役の指揮者、ソリストを含め、充分に聴く価値ありと期待して会場に出かけた。

もともと出演が予定されていた指揮者グスターヴォ・ヒメノは、上のチラシにある通り、2015年11月にオランダの名門、王立コンセルトヘボウ管弦楽団の来日に際してその指揮を取り、ソリストがピアニストのユジャ・ワンであったことにも助けられ、ツアーを成功させた人。私はその際に名古屋と東京で同じ曲目のコンサートを聴くことができ、大変面白い事件に遭遇したこと、そして、その事件に関連した発見が、その後見たコンセルトヘボウ管に関するドキュメンタリー映画の中にあったことなどを、かつて記事にした。詳しくは、2015年11月10日と14日、そして 2016年 2月 7日の記事をご参照。

そして、今回の指揮台に立ったアルミンクは、2003年から 2013年まで、新日本フィルの音楽監督を務めたことは記憶に新しい。1971年生まれで、このような端正なルックスも人気の秘密であろう。実物はもっと男前かもしれない。
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最近の新日本フィルについての記事は、いろいろと書いているが、それはすべて、彼が音楽監督の座を退いてからの演奏。昨今のこのオケの充実は目を見張るものがあるが、それはもちろんアルミンク時代の習練によるところ大であろう。ところが、私が経験した彼自身の指揮する新日本フィルの演奏会は、正直なところ、あまり感心しないものが結構あった。なんと表現すればよいのだろう。音の緊密度とでも言おうか、その点に課題があると思うことが多かったと記憶する。私が聴けたコンサートではたまたま巡り合わせが悪かったのかもしれないが、指揮者とオーケストラの関係は非常に不思議なもの。10年も音楽監督を務めたにも関わらず、私の記憶では、それ以降アルミンクは新日本フィルを振っていないのではないか。2011年に東日本大震災が発生したときに「ばらの騎士」をキャンセルしたことでオケとの関係が悪くなったという噂もあるようだが、実際のところはどうなのだろう。ほかのオケでは、音楽監督や首席指揮者を退任してもそのオケを振りに時々戻って来ることが多いが、どうやらアルミンクと新日本フィルの関係は、そうではないようだ。だがこのアルミンク、NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の指揮台には最近何度か立っているはずだ。但し、定期演奏会ではなく、ほかの機会である。今回の演奏会も、渋谷のオーチャードホールで開かれる、いわゆる「オーチャード定期」であって、またしても、N 響が毎月 3プログラムで行っている正規の定期演奏会ではない。だが、その相性を聴くには興味深い機会であろう。今回の曲目は以下の通り。
 ブラームス : ピアノ協奏曲第 1番ニ短調作品 15 (ピアノ : クリスティーナ・オルティーズ)
 リムスキー = コルサコフ : 交響組曲「シェエラザード」作品35

まず紹介したいのは、客演コンサートマスターを務めたライナー・キュッヒル。天下のウィーン・フィルの文字通り顔と言える元コンサートマスターであり、先の東京・春・音楽祭における「神々の黄昏」でも N 響を率いてコンサートマスターを務めていたが、それに続いての登場。しかも今回、後半の曲目は、ヴァイオリン・ソロが縦横無尽に活躍する「シェエラザード」だから、期待もひとしおだ。
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さて、1曲目のブラームスでソロを務めるのは、ブラジルの女流クリスティーナ・オルティーズ。
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もう随分以前には世界第一線のピアニストとして活躍していた人で、最近あまり名前を聞かなくなった印象だが、私の経験では、そのような音楽家は、久しぶりに聴くことで新たな発見があることも多い。これはたまたまなのであるが、割と最近、彼女が、母国の作曲家ヴィラ=ロボスのピアノ協奏曲全集やピアノ・ソロの作品を録音した CD 3枚組がタワーレコードのヴィンテージ・コレクションで発売されたので、購入して手元にある (名前の表記はオルティーズでなくオルティスである)。
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ところが今回彼女が弾くのは、お国物ではなく、ブラームスのコンチェルトだ。ブラームスは 2曲のピアノ協奏曲を書いているが、いずれも 50分を超える大作 (2番に至っては、通常の 3楽章制ではなく 4楽章である)。これは興味深いことなのであるが、歴史的に女流ピアニストがブラームスのコンチェルトを弾くことは稀である。例えば、現代最高の女流であるマルタ・アルゲリッチや、ドイツ物をレパートリーの中心に据える内田光子も、ブラームスのコンチェルトを弾いたとは聞いたことがない。ちょっと考えてみよう。昔の人では、ブルーノ・ワルターと録音しているマイラ・ヘスがいるが、ほかの女流は思いつかない。既に世を去った大女流ピアニストでは、アリシア・デ・ラローチャ。ベテラン組では、アンネローゼ・シュミット、エリザベート・レオンスカヤ、日本人では、朝比奈隆と協演した伊東恵。海外の若手現役では唯一、エレーヌ・グリモーの名が挙がる。もちろん調べもしないで書いているので、ほかにもまだまだいるかもしれないが、いずれにせよ、ブラームスのピアノ協奏曲を、しかも 1番を、女流の演奏で聴くことは極めて珍しいのだ。そしてこの 1番のコンチェルト、ブラームス 20代のときの若書きだが、私にとっては 2番以上に大好きな曲であり、その燃えたぎえる情熱 (緩徐楽章の第 2楽章だって静かな情熱の音楽だ) には、何度聴いても胸がカッと熱くなるのである。老年の髭面からは想像しにくいが、青年ブラームスはこんな美男だった。そんな青年の燃える思いが、音楽の中でメラメラしている、ピアノ協奏曲第 1番。
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今回、オルティーズはドレス姿ではなく、上下とも黒のパンツルックで現れた。1950年生まれなので既に今年 67歳ということになるが、技術的な衰えは聴かれず、音楽の流れに乗り、オケ・パートで炸裂する音をよく聴きながら、自分の音を紡いで行く。素晴らしい。ただやはり、この曲では強い打鍵が必要で、そうでなければオケと張り合うことができない。その点にこそ、女流が敬遠する理由があるのだろうか。だがしかし、女性でも強い音を出す人はいるし、男性でも弱い音しか出せない人もいる。21世紀の今日、男女で打鍵の強さを云々するわけにはいかないし、それこそユジャ・ワンなどはいずれこの曲を弾くのではないか。そして、もし彼女がこの曲を弾いたら・・・と想像すると、残念ながらオルティーズは少し分が悪いかもしれない。彼女の持ち味には、強い音でバリバリ弾きこなすというイメージがあまりなく、時として弱音部で美麗な音を聴くことがあっても、オケ・パートでブラームスの若い情熱が極度の盛り上がりを見せたときには、どうしても音量が不足してしまう。もしかすると、指揮者としても伴奏が難しいのだろうか (そう言えばカラヤンは、2番は演奏したが、この 1番は演奏しなかった)。アルミンクは強靭な音を N 響から引き出すことには成功していたが、ピアノを浮き立たせるようなオケの鳴らし方は難しいのかもしれない。ともあれ、オルティーズの演奏は自らの持ち味を出したものであり、演奏後、「ワーオ」と声を出して、大変な曲であったことを聴衆に訴えて笑いを取ったのも、本人としては精いっぱい弾いた解放感があったからだろう。そして彼女が弾いたアンコールは、今度は母国ブラジルの作品。フルトゥオーゾ・ヴィアナ (1896 - 1976) の「コルタ・ジャカ」という曲。1931年の作で、サンバのリズムすら思わせる軽快な曲でありながら、きっちりとまとまった曲で、ここではオルティーズの千変万化するピアノの音が大変に効果的。新たな作曲家との出会いであった。

そうして後半の「シェエラザード」であるが、ここでは、私が以前アルミンクの演奏において課題と感じることもあった音の緊密さも申し分なく、胸のすく快演となった。考えてみれば N 響は、2月末から首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィとともにヨーロッパへの演奏旅行に出かけ、帰国してからは超大作「神々の黄昏」に取り組むといいった、大変に充実した演奏活動を継続しているわけであり、今回の演奏はその流れを感じさせるものであった。この曲は冒頭の重々しさが全体のトーンを決めるようなところがあるが、今回のアルミンクと N 響は、充分な音量、かつその中に細かいニュアンスも含む、大変にいい音で演奏を開始した。そして、いきなりキュッヒルのソロ・ヴァイオリンが美麗の極致を聴かせる。まさに独壇場。面白かったのは、何度も出てくるヴァイオリン・ソロの表情はその時によって違っていて、少し早めであったり、逆にゆったり歌ったりと、自由自在である。また、彼の存在によって (前半のブラームスもそうであったが) 弦楽器全体がうねりを伴って音を響かせており、さすがだと思ったものだ。アルミンクはもともとスリムな人だが、登場したときには一層痩せたように見えてちょっと心配だった。しかしながら、指揮台では充分精力的に指揮をして、彼の長所である明晰さを持ちながらも、腹に響くような重々しさも聞かせるという成果を見せた。オケは全員一丸となってこの難曲を楽しんで演奏したと言ってよいと思う。そして、アンコールとして演奏されたブラームスのハンガリー舞曲 1番も、湯気が沸き立つような名演で、会場は熱気に包まれた。

今回のプログラムにキュッヒルのインタビューが載っているが、N 響のことを褒めている。東京・春・音楽祭での 4年間の「指環」演奏のほか、2011年には尾高忠明の指揮で「英雄の生涯」のコンサートマスターも務めたが、オケのメンバーと早くコンタクトが取れ、やりやすかったと。もちろん N 響はウィーン・フィルと奏法が違うし、それが当然なので、あるときは自分が合わせたり、曲目によってはウィーン風のやり方を伝えるようにしているとのこと。そして、N 響は継続してよくなっていると発言している。うーん、そういうことなら、このような特別興行的な関与ではなく、期間限定でもよいから、N 響でコンマス業務を続けて頂けないものだろうか。奥様は日本人だし、N 響には昔、もとウィーン・フィルメンバーのウィルヘルム・ヒューブナーというコンマスがいたという実績もある。・・・と思って調べてみると、なんとなんと、今年の 3月31日付で N 響が、4月からキュッヒルの客演コンマス就任について発表している。
http://www.nhkso.or.jp/news/17582/

なるほどこれは大変な朗報だ。どの程度の割合で演奏してくれるのか分からないが、パーヴォ・ヤルヴィとも早く N 響で協演して欲しいものだと思います。東京の音楽界から、また目が離せなくなりましたよ。

by yokohama7474 | 2017-04-09 02:14 | 音楽 (Live) | Comments(2)

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今年も 4月に突入し、また春が巡って来た。結構寒い冬であったが、桜の開花の知らせを耳にしてから後、また寒い日が続いており、この日も、前日のみぞれ交じりの雨は弱まったものの完全にはやむことなく、終日曇り空の鬱陶しい天気であった。都内を代表する桜の名所である上野公園はこのような景色であり、桜は満開には程遠いにもかかわらず、人出は決して少なくない。さすが上野である。
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そんな中、今年も上野を舞台に繰り広げられる東京・春・音楽祭が既に開幕している。その目玉であるワーグナー作品の演奏会形式上演、今年は超大作「ニーベルングの指環」の 4作目にして最終作、楽劇「神々の黄昏」である。2014年から毎年 1作ずつ、足掛け 4年でこの 4部作のすべてを実演で耳にすることができたが、その成果は世界に問うことのできるレヴェルであり、改めて東京の音楽水準の高さを思い知る。最大の貢献者は、NHK 交響楽団 (通称「N 響」) を指揮したポーランド生まれのドイツ人指揮者、マレク・ヤノフスキであろう。1939年生まれであるから、現在 78歳。既に押しも押されぬ巨匠であると言ってよい。
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このシリーズ、昨年の「ジークフリート」の記事で、ヤノフスキの「指環」との関わりについて少し触れたが、レコーディング・デビューが名門シュターツカペレ・ドレスデンを指揮したこの超大作であったという衝撃ぶりであったものの、それからのヤノフスキの活動は、決して常に世界最前線の華やかなものであったとは言い難い。だが、ひとりの芸術家が生涯を掛けて世界を飛び回って音楽を追及して来た、その確かな足跡に思いを馳せるには、実際の演奏会に足を運ぶにしくはない。芸術家にはそれぞれ、活動期間に応じた環境の変化や自身の芸風の変化がついて回り、どの時点でその芸術家と巡り合うかという点も、聴衆にとっては予測できないもの。特に演奏芸術の場合は、その巡り合わせは大きな要素であると思うが、その意味で、この 4部作の実演を今のヤノフスキの指揮で聴くことのできた我々は、その幸運を感謝しなくてはならない。今回の会場には、シリーズ完結を記念したポスターが貼られており、同じ柄の A3 ポスターも売っていたので購入した。
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尚、このポスターの後ろには、今年の東京・春・音楽祭の一環として開かれる様々なコンサートのポスターが飾られている。世界で知られた有名演奏家たちが綺羅星のごとく並んでいるということでは必ずしもないが、だがしかし、音楽との接し方において、そのような点はさほど重要ではない。鳴っている音楽に虚心坦懐に耳を傾けることこそが、音楽の醍醐味であるはず。これらのポスターをひとつひとつ見て行くと、そのプログラムの妙から、演奏家たちの熱意までを感じることができ、そのいずれの演奏会にも足を運ぶことのない自分の怠慢を責めたくなるような思いに駆られるのである。その思いに耐えて (?)、ワーグナーの世界に入って行こう。
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まず、作品について少し語ってみたい。ステージ上で奏でられて耳にストレートに入ってくる上質の音楽を耳にしながら改めて気付いたことがある。ワーグナーが楽劇スタイルを確立して後のオペラ 7作品は、そのほとんどが正味演奏時間 4時間を超える大作ばかりだが、この「神々の黄昏」は不思議なことに、演奏時間の長さをさほど感じさせない作品なのである。例えば、この「指環」4部作中、恐らく最も人気の高い「ワルキューレ」でも、第 2幕のヴォータンとブリュンヒルデの二重唱や、終幕のヴォータンのモノローグなど、上演に接するたびに「長いよ!!」と言いたくなるのを抑えることができないし、刺激的な音楽が凝縮しているはずの「トリスタンとイゾルデ」でも、第 2幕で主役 2人が延々と歌い続ける箇所で、あくびをしないことは稀なのである (笑)。そんな私でも今回、この「神々の黄昏」を長いと思うことはなかった。15時開演で、30分×2回という短い (!!) 休憩時間のせいもあって、演奏終了は 20時10分。上演時間はほんの 5時間10分である・・・って、やっぱり普通に考えれば長いのであるが、その長さを感じさせない演奏であったのだ。ひとつには、作品自体において緩慢な箇所が少ないと言えるだろう。ワーグナーの作品で長くなりがちな二重唱としては、このオペラでも、序幕のジークフリートとブリュンヒルデ、第 1幕のヴェルトラウテとブリュンヒルデ、第 2幕のアルベリヒとハーゲン、等々あるが、いずれもストーリーを進めるために必要な長さ以上ではない。大詰めのブリュンヒルデのモノローグも適度な長さで、その意味では無駄のない作りと言えようし、またなんと言っても、「ジークフリートのラインの旅」「ジークフリートの葬送行進曲」「終曲」と言った、オーケストラの威力満開の曲もいくつかあり、また、「指環」4部作で唯一、合唱が入る作品でもある。ワーグナーは自作の脚本をすべて自分で書いた人だが、この「神々の黄昏」は、実は 4部作で最初にその台本の原型が書かれている。ということは、ワーグナーの芸術は、発展するとともに、ストーリーテリングの観点からは、どんどん肥大して行ったということだろうか。

そのような作品を、舞台上演ではなく、演奏会形式で聴く意味は大きい。ピットではなく舞台に並んだオーケストラが出す多彩な音を充分楽しむことができるし、音楽の構造も分かりやすく感じることができる。ヤノフスキはドイツ物をレパートリーの中心には置いているものの、決して、昔風の鈍重なワーグナーを奏でるのではなく、きめ細かくしなやかで、透明感もあり切れ味も鋭い音楽を鳴らす。これは大変な聴きものなのであるが、その指揮に応えているのが N 響であるというのが嬉しいではないか。かつて、サヴァリッシュやシュタイン、あるいはマタチッチといったワーグナーの大家のもとで演奏して来た楽団が、今また新たな成果をヤノフスキとともに達成する場に立ち会えることは、この上ない喜びだ。しかも、そこでコンサートマスターを務めるのは、先般ウィーン・フィルを定年退職したライナー・キュッヒル。いつもながら、全体を統率しながらも、彼自身のヴァイオリンだけが際立って艶やかに聴こえる瞬間が何度もあり、ここでもオーケストラ芸術の粋を堪能することができたのである。これは 2015年の「ワルキューレ」終演時の写真。
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ただ、今回会場で知ったショッキングなニュースがあったのだ。あろうことか、主役の 2人、ブリュンヒルデとジークフリート役の歌手が、揃って本番間近でキャンセルしてしまったのである!! ブリュンヒルデとして予定されていたクリスティアーネ・リボールはともかく、ジークフリート役のロバート・ディーン・スミスは、世界的な名声を誇るヘルデン・テノールであり、このシリーズでも、2015年の「ワルキューレ」でジークムントを歌っている、いわば上演の目玉歌手。そのキャンセルは痛い。主催者側の発表によるとこの 2人とも、既に来日してリハーサルに参加していたが、急な体調不良で舞台に立てなくなった由。だが、オペラとはいえショービジネス。The show must go on! 主催者はなんとしても代役を探さなくてはならない。そして本番 3日前、3/29 (水) に日本に到着したばかりの 2人の代役歌手たちが、その窮地を救った。ブリュンヒルデ役はレベッカ・ティーム。ジークフリート役はアーノルド・ベイズエン。
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会場で配布されていたプログラムにおいては、通常、歌手の紹介は写真なし、経歴 3行程度なのだが、この 2人はこのように、冊子に挿入された一枚ものの紙に、写真入りで非常に詳しい経歴が紹介されている。このあたりにも主催者の誠意が見えて好ましい。2人とも国際的に活躍している歌手のようである。
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とはいえ、あの超大作「神々の黄昏」の主要な役を、欧米から遥か離れた極東の地にまでやって来て、充分な準備時間もなしに、演奏会形式とはいえ全曲歌うということは、それだけで至難の業。急な代役でそんなことができる歌手が、世界に果たして何人いるだろうか。実際この日の歌唱で、この 2人の歌手は明暗を分けた。ブリュンヒルデのレベッカ・ティームは、細かい箇所で完璧でないことも何度かあったものの、技術を補うその強い声によって聴衆を圧倒した。その一方、ジークフリートのアーノルド・ズベイエンは、残念ながら、声量・音程・表現力とも課題ありで、何より、この役に必要な快活さ (それがないと悲劇が引き立たない) を聴くことができなかった。聴きながら私は、「同じ『指環』におけるテノールでも、この声なら、ジークフリートではなくてミーメとかローゲの方が合っているのでは?」と思っていたのだが、帰宅して調べると、なんとなんと、この東京・春・音楽祭では、2014年の「ラインの黄金」で、そのローゲ役を歌っていたのだ!! 舞台で「神々の黄昏」のジークフリートを歌った経験もあるようだが、役柄としては彼に適したものではないということだろうか。だが、上述の通り、突然の代役ではるばる日本まで飛んで来て、到着 3日後にこれやれと言われても、普通はできません!! 全曲歌いだけでも立派なもの。多くの聴衆も同じように感じたのだろう、カーテンコール時には、ブラヴォーも出なかったが、ブーを言う人もいなかった。日本のファンは思いやりがあるのである。

歌手陣の中で最も印象に残ったのは、ハーゲン役のアイン・アンガーであった。このブログでも、昨年 9月のパーヴォ・ヤルヴィ指揮 N 響のマーラー 8番、11月のウィーン国立歌劇場来日公演「ワルキューレ」のフンディング役、同じく 11月のティーレマン指揮シュターツカペレ・ドレスデン来日公演「ラインの黄金」のファフナーをご紹介した。エストニア人の素晴らしい歌手。
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また、今回グンターを歌ったマルクス・アイヒェ、アルベリヒのトマス・コニエチュニー (2014年のこのシリーズでの「ラインの黄金」でも同じ役を歌っており、また昨年のウィーンの来日公演の「ワルキューレ」ではヴォータンを歌っていた) 等、国際的キャストは大変に充実。また脇役では日本人歌手も健闘していて、ここでは、3人のノルンと、それからやはり 3人のラインの乙女が全員日本人。実はこのそれぞれの 3人組のうち 2人までは同じ歌手が演じたが、ノルンの 1人、ラインの乙女の 1人は、その役だけで出演。そのうち、ラインの乙女の 1人は、おっとびっくりの小川里美だ。日本を代表するソプラノのひとりで、イタリア・オペラのイメージが強い人だが、ここではアンサンブルながら完璧な歌唱を聴かせていた。帰宅して調べたところ、2014年の「ラインの黄金」でもやはり同じ役を歌っていた (3人の乙女は彼女以外の 2人も併せて全員、その時と今回で同じ歌手)。
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そのように大変充実した内容が、今回のツィクルスの掉尾を飾ることとなった。ヤノフスキは昨年からバイロイトでこの指環を指揮しているはずであり、いよいよワーグナー指揮者としての頂点を極めようとしている。その彼の日本における業績はこれでひとつの区切りであるが、是非是非これからも様々な作品を指揮して欲しい。今年11月には N 響定期に登場して、ベートーヴェンの「英雄」をメインとしたプログラムを指揮する。これから N 響とさらに近い関係を築いて欲しいものだと思っている。最後に、プログラムに掲載されているヤノフスキのインタビューから一部を引用したい。

QUOTE
ちょうど 3年前、東京での『リング』が始まる少し前に東京・春・音楽祭からインタビューを受けました。そのときに私は、「資本主義の国々は多くの問題を抱えており、その形態を変える試みが今、早急になされるべきだ。その際、エコロジーの問題と経済的な問題とが調和しなければならない」と答えました。当時はまだイギリスの EU 離脱や、今のアメリカの大統領を想像していませんでした。欧米の多くの国々が自国中心の考えに傾いており、それがいいことだとは決して思いません。世界における貧富の極端な格差を縮めることは、この時代ますます難しくなってきています。『神々の黄昏』の最後でワーグナーは未来への希望を託しましたが、彼がもし生きていたら、このような表現をするかどうか、私にはわかりません。
UNQUOTE

芸術とは、時を超えるものでありながらも同時に、その時代を映すもの。この時代、我々が芸術から学ぶものは限りなく多いと思う。音楽を聴いているだけで世界が変わるわけでは決してないが、古い音楽から目の前の現実へのヒントをもらうことはあるはず。過度に教養的になるのもよくないと思うものの、やはり、活きた音楽から現代社会や自らの人生へのなんらかの示唆を得たいものであります。

by yokohama7474 | 2017-04-02 01:42 | 音楽 (Live) | Comments(11)