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パーヴォ・ヤルヴィ指揮 NHK 交響楽団 (ピアノ : デニス・コジュヒン) 2017年 9月23日 NHK ホール

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NHK 交響楽団 (通称「N 響」) が首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィと取り組む今月の定期演奏会の 2つめのプログラム。最初のプログラムであったショスタコーヴィチ 7番の壮絶な演奏については既にご紹介した。そして今回も、ショスタコーヴィチと同じロシアの作曲家たちによる曲目が組まれたのである。
 グリンカ : 幻想的ワルツ
 ラフマニノフ : ピアノ協奏曲第 4番ト短調作品40 (ピアノ : デニス・コジュヒン)
 スクリャービン : 交響曲第 2番ハ短調作品29

これはなんとも渋い曲目だ。誰もが知る有名曲はひとつも含まれていない。これでは会場はガラガラかと思いきや、なんのことはない、かなりの混雑である。ヤルヴィと N 響の演奏は、曲目が何であれ聴衆が集まるのか。あるいは東京の聴衆は有名曲には既に食傷気味で、このような珍しい曲にこそ興味を惹かれるのであろうか。思えば会場の NHK ホールでは、つい 9/21 (木) にバイエルン国立歌劇場の「タンホイザー」が上演されたばかり。今回の N 響の演奏会は、その翌日と翌々日、9/22 (金) と 9/23 (土) に開かれたもの。逆に言うと N 響の定期公演があるがゆえに、「タンホイザー」の週末公演はなかったということだろう。あ、これは N 響への非難でもなんでもなく、何年も前から決まっていたはずのその日程を、バイエルンの公演が回避できなかった不運を思う。
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ともあれ、ヤルヴィと N 響の好調を、このような渋い曲目で再確認するのは興味深い経験であった。最初のグリンカの幻想的ワルツであるが、一般的な知名度はほとんどゼロであるとは言え、どこかで聴いた記憶があると思ったら、今年のラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンにおけるドミトリー・リス指揮ウラル・フィルの演奏会であった (今年の 5月 6日の記事ご参照)。10分足らずの小曲であるが、もともとはピアノ曲で、グリンカ (1804 - 1857) が恋した女性に捧げるために 1839年に作曲したもの。ヤルヴィはこの曲を子供の頃から愛好しているという。また、あるロシアの音楽評論家は、「ロシアのワルツはすべてこの曲の中に含まれている」と述べているらしい。そう言えばロシアを代表するチャイコフスキーは、バレエ曲から管弦楽曲から、果ては交響曲まで、素晴らしいワルツを沢山書いたが、なるほどその源流がこの、ロシア音楽の父と呼ばれるグリンカにあったとは。短い中にも曲想の変化が何度も現れる曲で、今回も N 響の多彩な表現力がヤルヴィの棒の下、大変な洗練度を伴って発揮された。こういう佳曲があるとは、本当にクラシック音楽は奥が深い。

さて、2曲目も興味深い。通常なら 2番と 3番しか演奏されないと言って過言ではないラフマニノフのピアノ協奏曲であるが、今回演奏されたのは 4番である。この作曲家の最後のピアノ協奏曲で、作品番号 40ということは、彼の全作品の中でも最後から 6番目ということだ。但し、このブログでは過去にも何度か触れてきているが、ラフマニノフは後年に至って作曲のペースが落ちてしまったので、この曲も 1926年、作曲者 53歳のときの作品で、晩年の作ではない (但しその後改訂され、1941年に決定稿が完成)。だが、世の中のこの曲への評価は厳しく、ほとんど演奏されないのが実情だ。かく言う私も、CD で聴いたことはあっても、実演を聴いた記憶はない。そして今回の注目は、ソリストである。最近立て続けにロシアの若手ピアニストの演奏に触れてきたが、今回もまたまた若手ロシア人ピアニスト、1986年生まれのデニス・コジュヒンの演奏に初めて接することとなった。経歴を見ると、2010年のエリーザベト王妃国際コンクールの優勝者である。日本には既に 2011年に初来日を果たしているという。
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このコジュヒンのピアノは、明晰かつ抒情的なものだと聴いた。このラフマニノフの 4番のコンチェルトは、全体を見てみると決して傑作とは言い難いが、時にこの作曲家特有の抒情性と劇性が聴かれ、また時にはジャズを思わせるようなリズミカルな部分も登場して、駄作としてしまうのはもったいない。コジュヒンはごく自然にこの曲に接し、新たな魅力を発見させるというよりは、曲の持ち味を最大限引き出そうとしていたように思われた。テクニックも安定しており、最近聴いたほかのロシアの若手ピアニストたちと比べても遜色ない。あえて難を言うとすると、もっと奔放に踏み外してもよいようにも思ったが、いかがであろうか。アンコールは、両手で口の回りにメガホンを作り、「スクリャービン、エチュード」と説明した。かつてホロヴィッツもレパートリーとしていた、スクリャービンの練習曲嬰ハ短調作品 2-1。これは、後半のプログラムがスクリャービンの交響曲であったことと関係しているのであろう。怪しさよりも懐かしさの聴かれるスクリャービンであった。

そして後半は、これまた珍しいスクリャービンの 2番。どうも東京では最近、スクリャービンと、それからラフマニノフの交響曲を聴く機会が増えているように思うが、これは世界的な傾向なのであろうか。以前の記事にも書いた通り、この 2人はモスクワ音楽院で同期であった仲。その後作曲家としての個性は随分と異なるものになってしまったが、どこかに共通する部分があるのかもしれない。この 2番は 1901年、スクリャービン 29歳のときの作で、5楽章からなる大作。演奏時間は 50分程度である。私などは、スクリャービンの 2番と言えば、副題が「悪魔的な詩」だよねと反射的に思うのだが、今回のプログラムによると、その名称には根拠がなく、作曲者の命名ではないので、最近では使われなくなっているらしい。まぁ確かにこの作曲家の後年の神秘主義とは異なり、後期ロマン派風の作風なので、何も悪魔的などというおどろおどろしい副題は不要ということだろうか。でも、副題があった方が親しみやすいとも言えると思うが。ともあれここでのヤルヴィと N 響はまた、見事に充実した演奏を聴かせた。音が隆起して引いて行くような箇所では、その力感と余韻の双方を味わうことができたし、金管の迫力も木管のニュアンスも、そしていつもながらに美しい弦も、一体となって音の流れを作り出していた。この曲も、CD ではともかく、実演では多分初めて聴いたと思うが、なじみのない曲であっても、このような水準の演奏をしてもらえば、東京の聴衆の耳もさらに進化して行くことは間違いない。レパートリーの点でも、ブルックナーやマーラーの大曲は既に演奏し尽された感があり、それらに続く大規模なシンフォニックレパートリーとして、このスクリャービンやラフマニノフが選ばれているのかなぁと漠然と考えるが、彼らの作品は、決してすべてが傑作ではない。しかしながら、鳴るべき音が鳴っている今回のような演奏で聴くことで、19世紀末から 20世紀にかけてのロシア音楽についてのイメージを持つことができ、例えばそれを、それこそマーラーやシュトラウスや、あるいはドビュッシーやラヴェルと比較することによって、聴衆の知性と感性は大いに刺激されるのである。その意味では、ヤルヴィのような広いレパートリーと卓越した技術を持った指揮者によって、まだまだ東京の音楽界は面白くなることが期待できる。今月彼の振る N 響定期の残りのプログラムはオール・バルトーク。私は残念ながら聴きに行くことはできないが、これまた切れのよい名演、間違いなしだろう。

by yokohama7474 | 2017-09-24 01:32 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ワンダーウーマン (パティ・ジェンキンス監督 / 原題 : Wonder Woman)

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昨年このブログでも採り上げ、散々にけなした映画「バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生」において、突然登場した謎のスーパー美女。どうやら名前をワンダーウーマンというらしいことはその時に知ったのだが、この役を演じていたガル・ガドットという女優が単独の主人公を演じる映画がこれだ。バットマン、スーパーマンと同じく、DC 社のアメリカン・コミックに登場するキャラクターである。現時点ではマーヴェルのアベンジャー・シリーズには遅れを取っているが、DC もヒーロー集団であるジャスティス・リーグを主人公としたシリーズ映画を今後制作して行くようである。この「ワンダーウーマン」のあとには、やはりベン・アフレックがバットマンを演じる「ジャスティス・リーグ」という映画が控えていて、既に劇場に予告編もかかっている。

そもそもこのワンダーウーマンというキャラクターは、最近になって登場してきたものではなく、DC のアメコミの世界では非常に古く、1941年に初登場しているという。私が知らなかっただけで、既に 75年以上の歴史があるばかりか、DC のキャラクターとしては、バットマン、スーパーマンと並ぶ 3大重要キャラクターであるというのだ。それはまたお見それしました。
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そもそも私がこのキャラクターを知らなかったのは、バットマンやスーパーマンと違って、映画化されていなかったことによる。アニメ映画は制作されたことがあるが、実写は今回が初めてという。コミックの世界でそんなに人気者なら、もっと早く映画化されてもよかったように思うが、そもそも女性のヒーロー自体が数が少ないので、現代に至ってようやく強い女性のキャラクターが抵抗なく受け入れられるようになったということなのだろうか。

設定は、女性だけの島に育ったダイアナという女性が、その島の習慣に従って日々武道の鍛錬に明け暮れていたところ、ある日海に流れついた男と出会い、その男とともに悪い奴らをやっつけるというもの。予告編を見ていたときには、シックな格好をして男をなぎ倒すシーンしか出てこなかったので、彼女の敵がいかなる存在であったのかが判然としなかった。実際に見てみると、ここでもナチスが敵なのである。最近だけでも、ナチス・ドイツが悪として登場する映画を何本見ていることか。現代を舞台にした巨悪を描くと、時に救いのない内容になってしまうが、ナチスの場合には、やったことは誰がどう見ても絶対的に悪く、しかも史実として最後は敗北しているわけであるから、悪として描きやすいという面はあるのだろう。ともあれこのワンダーウーマン、いわゆるアマゾネスの一員、いやその中でも特別な存在なのである。そんな役を演じる女優、1985年生まれでイスラエル出身のガル・ガドットが、なんと言っても素晴らしい。もともとモデルで、かつて「世界で最も美しい顔 100人」の第 2位に選ばれたこともあるという。また、彼女はこれまで「ワイルド・スピード」シリーズに出ているらしいが、私は残念ながら一本も見たことがないので、このワンダーウーマンの役で初めてお目にかかるのである。
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彼女がこの役を演じていることに好感を持てるのは、顔やスタイルがよいということだけでない。それは、過度にセクシーすぎず、優しさや知的なものも感じさせるピュアな雰囲気を、常に持っているからだろう。もちろん、CG に大いに助けられているとはいえ、派手なアクションもスマートに決めている。これは、できそうでなかなかできない演技だと思う。上のポスターにある通り、「美しくぶっ飛ばす」ワンダーウーマンは、見ていてスカッとすること受け合いだ。ストーリー展開は明快で、敵もはっきりしている・・・はず。もちろん、意外性も仕組まれているので、誰もが面白く見ることができるだろう、

相手役は私の好きな俳優、クリス・パインであるが、正直なところ、この映画ではガル・ガドットに食われてしまっている感がある。英国のスパイ活動に従事する米国人の役なのだが、「スタートレック」シリーズや「エージェント : ライアン」に比べると、役柄自体が少し優等生的であり、印象が薄いことは否めない。
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それから、今や英国を代表する俳優であるデヴィッド・シューリスが凄い。何がどう凄いかは書けないが、私はここでの彼の演技に敬服する!!
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この映画は世界で興行成績が好調であるようだが、監督はパティ・ジェンキンスという女流で、今回が長編映画 2作目。1作目は、あのシャリーズ・セロンが醜い殺人鬼を演じた「モンスター」(2003年) であった。なかなかの手腕であると思うし、2年後に公開予定のこの「ワンダーウーマン」の次回作の監督にも決定しているようだ。
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まぁ所詮はアメコミの映画化であり、荒唐無稽な設定も多々あるのだが、戦時中から現代まで、年を取らないワンダーウーマンの活躍は、ちょっと新しいタイプの映像体験を可能にしてくれる。最後には敵と一騎打ちになり、新たな武器もなく、気合と根性だけでそれを乗り切るワンダーウーマンであるが (笑)、まあよいではないか。このようなご時世、単純に映画に入り込むことは、本当に幸せな体験なのであると思う。

by yokohama7474 | 2017-09-23 00:58 | 音楽 (Live) | Comments(0)

バイエルン国立歌劇場来日公演 ワーグナー : 歌劇「タンホイザー」(キリル・ペトレンコ指揮 / ロメオ・カステルッチ演出) 2017年 9月21日 NHK ホール

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ドイツ南部、バイエルン州の州都ミュンヘンにあるバイエルン国立歌劇場は、ドイツ国内はもちろん、世界的に見てもその歴史と実績において、まぎれもなくトップクラスのオペラハウスである。もちろん、ワーグナーはここバイエルンの国王ルートヴィヒ 2世の庇護を受けたわけだし、リヒャルト・シュトラウスはここミュンヘンの出身である。なので、この 2人の作曲家の作品群は、この歌劇場の宝である。指揮者陣も、ブルーノ・ワルター、ハンス・クナッパーツブッシュ、クレメンス・クラウス、ゲオルク・ショルティ、ウォルガンク・サヴァリッシュなどの歴史的巨匠たちが大きな貢献を果たして来た。私はこれまでにミュンヘンは 2回訪れていて、アルテとノイエの両ピナコテーク (要するに新旧の絵画館)、レーンバッハ・ハウス、画家フランツ・フォン・シュトゥックの旧宅などは訪問したが、残念ながらオペラもオーケストラコンサートも、ここでは経験したことがない。一度は、スメタナの「売られた花嫁」という、誰もが垂涎の超人気オペラとは思えない作品を見ようと思い、当日気軽にボックスオフィスに出向いたところ、既にソールドアウトで愕然とした。すると、当時このオペラハウスの音楽監督に任命されたばかりだった (と思う) 指揮者ケント・ナガノが、ボックスオフィスのすぐ横を関係者と話しながら通り過ぎて行ったのである。この話、特にオチはないが (笑)、そんなバイエルン国立歌劇場、通称ミュンヘン・オペラの 6年ぶり 7度目の来日公演が始まった。今回の目玉はなんと言ってもこの人、現在の音楽監督であるロシア人、キリル・ペトレンコである。
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既に、9月17日 (日) に東京文化会館で行われた、マーラー 5番をメインとするオーケストラコンサートの様子はこのブログでもご紹介したが、2019年秋にベルリン・フィルの首席指揮者・芸術監督に就任することが決まっているこの指揮者の初来日には、クラシック・ファンなら誰もが興味津々であろう。今回彼が指揮するオペラは、ワーグナーの比較的初期の作品「タンホイザー」である。今回私が聴いた 9/21 (木) が初日で、9/25 (月)、9/28 (木) と 3回の公演が開かれるが、実はすべて 15時開演。ホールと関係者のスケジュールの都合で、平日ばかりになったのは致し方なかったのだろうか。だが、平日のこの時刻ということは、勤め人には非常にきつい。事前に調べると、恐らく週末公演がないという事情であろう、どの日もチケットは完売ではなかった。いかにペトレンコの話題性をもってしても、平日に大入り満員とはならなかったわけである。もちろん、海外一流オペラハウスの引っ越し公演の常で、チケットが高額であることも苦戦の要因であることは確かだろう。私はなんとか最安に近い席のチケットをゲットし、前広に有給休暇を取得することで、この公演に出かけることができた。現場に行ってみると、それはこの巨大な NHK ホールのこと、多少席が空いていても、充分多くの聴衆が集まっている。

今回上演される「タンホイザー」は、今年の 5月にミュンヘンでプレミア上演されたばかりの新演出。1960年生まれのイタリア人、ロメオ・カステルッチが、演出のみならず、美術、衣裳、照明まで一手に手掛けるという才人ぶり。なのでこの舞台が面白くなければ、その責任はこの人が一身に背負うことになるのである (笑)。もともと舞台デザインと美術を学んだ人で、1981年から自らの劇団をイタリアで率いていて、オペラ演出を手掛けるようになったのは比較的最近のことらしい。この、ちょっとエゴン・シーレを思わせる (?) 風貌から、何かやってくれそうな気がするではないか。
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このあたりで私の今回の上演についての感想を一言で述べると、ちょっと戸惑った、ということになるだろうか。演出を面白かったと手放しで絶賛する気はないが、つまらなかったと一蹴する気もない。また、歌手陣、それからペトレンコ指揮するオーケストラも、すべて完璧ということではなかったと思うが、興味深い箇所はあれこれあった。全体として成功と評価すべきか失敗と評価すべきか、ちょっと難しいというのが私の率直な感想なのである。

まず演出は、ちょっと驚く場面には枚挙にいとまがない。冒頭、序曲のシーンから動きがある。舞台全面に白い布が下がっているのだが、そのほんの一部分だけ、よく見るとシミのようなものがある。これは実は、その布の向うにある何かのシルエットであるのだ。その後、バッカナール (ワーグナーが本作をパリで上演する際に作曲した、序曲から続くバレエシーン) では、その「何か」が大量に現れて、ほとんどの観客がのけぞるだろう。映画の記事と同じく、ここはネタバレなしで行きたいのだが、ネット上やコンサートのチラシでも、既にこのようなヴィジュアル・イメージがあちこちにばら撒かれている。
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イタリアのデザイナー、フォルナゼッティを思わせる人の顔の一部アップに、何やら針灸のようなものが突き立っている!! と思うと、舞台前面には、弓を引いている女性たちがズラリと並んでいる。しかも、舞台から遥か遠くの私の席からは見えなかったが、彼女らは上半身裸?!とも見える写真がある。ここで印象づけられるこの上演の舞台設定は、神話の世界か、あるいは古代の祭祀 (例えばドルイド教) の世界であって、キリスト教やヨーロッパ中世というイメージとは程遠い。それから、最近の演出で重要な要素になっているのは、機動性というか、有体に言えば、舞台装置をなるべく簡素にすることであるようだが、その点でもこの演出は模範的。舞台装置はほとんどなく、今回もミュンヘンからのセットの運搬費は、それほど高くついていないだろう (笑)。だが、ヴィジュアルの作り方は非常に凝っていて、上の写真で写っている巨大な目は、気が付いたら耳になっているし、そのあとは、木の枝にも見える単色の絵画に変わって行くのである。その流れで行くと、第 2幕のこの映像がすごい。
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1幕の冒頭では月の象徴かに見えた背後の円形に、ここでも何か人体の一部のような映像が投影されているのだが、それが回転して、血のような赤い色が同心円を描いて流れて行く。私が見た線の描かれ方は、上の写真とは違っていたので、何らかの偶然性に任されているのであろう。どのような仕掛けなのか皆目分からないが、視覚的なイメージとしては強烈である。その他の忘れられない映像をいくつか挙げると、このジャバ・ザ・ハットをもっとヌメヌメさせたような (?) ヴェヌス。因みにこのシーンでは舞台前面に紗幕がかかっていて、紗幕を嫌悪する私としては、この点ばかりは苛立たしいことこの上ない。
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第 2幕では、「マグマ大使」に出て来る人間モドキ (古い!!) のような全身タイツの黒子が大勢現れ、一糸乱れぬ組体操 (?) を見せるのだが、これはどうも、バラエティ番組におけるコントのようで、ちょっとどうかと思ったものだ。大きなレースのカーテンが舞台上で何枚も動きながらそよいでいるというイメージは美しいのだが、その前で、こらこらアナタたちは一体何をしているの??? という感じ。せっかくの歌の殿堂での大行進曲が台無しではないか!!
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第 3幕は一転して終始暗い中で展開するのだが、なんとも奇妙なことに、タンホイザーやエリーザベトの背後で、2つの台にとっかえひっかえ、死体らしきものが一対ずつ置かれて行く。私の席からは詳細は見えなかったが、これはどうやら、日本でいう九相図のようなものではないか (興味のある方は、是非谷崎潤一郎の「少将滋幹 (しょうしょうしげもと) の母」を読まれたい)。最初は死後間もない死体に始まり、徐々に肉体が崩壊して行って、最後はこの写真のように骨になるまで。無常感を覚える。
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さあ、非常に限定的な舞台装置で展開するこれらの視覚イメージは、いかがであろうか。ひとつ言えることは、ドイツの劇場でのワーグナー上演にありがちな (あるいは、かつてはありがちだった?)、過剰かつ不必要に原作の設定から遠ざける、いわゆる読み替え演出というものとも少し違っていて、音楽の流れを邪魔するには至らないということだ。個々の場面の意味はよく分からないが、そうであっても何か刺激的なものを見ているという感覚はある。なので、その点は評価できるだろう。あとは、この「タンホイザー」という作品のメッセージをどう受け止めるかということではないか。上で見た通り、ここではヴェヌスは美しい魅惑的な女性ではなく醜悪だし、歌の殿堂はさっぱり盛り上がらないし、タンホイザーがローマから失意のうちに戻ってくるときには、既に誰も希望を抱いておらず、友人ヴォルフラムによる「夕星の歌」は、あたかも夜の闇の中で過去を惜しむように響く。どこか常に現実感を欠く印象となってしまっている。だから、面白くない演出とは言わないが、目から鱗ということにも、少なくとも私の場合はならなかった。

一方、歌手たちにも少し課題があったのではないか。なんと言っても主役を歌うクラウス・フロリアン・フォークトは、現在活躍中のテノールで、昨年の新国立劇場でも「ローエングリン」を歌っており、また、来年 4月の東京・春・音楽祭でも再び同じ役を歌うようだ。だが私はどうも彼の線の細い歌唱が苦手で、時に音程までもが怪しくなるように聴こえてならないのだ。美しい箇所もいろいろあるのだが、昔聴いたルネ・コロのような説得力は、残念ながら感じない。エリーザベトのアンネッテ・ダッシュは標準の出来で、まあこれも、バイロイト音楽祭の来日公演 (ジュゼッペ・シノーポリ指揮) でこの役を演じたシェリル・ステューダーが第 2幕で登場したときの衝撃を覚えていると、さすがに分が悪い。よかったのは、もちろんヴォルフラム役のマティアス・ゲルネ (そう言えば先日のマーラー 5番の演奏会では客席で聴いていた) と、領主ヘルマン役のゲオルク・ツェッペンフェルトといった、バス・バリトン陣であったろうか。

そしてペトレンコの指揮するオーケストラであるが、これも正直、ちょっと評価が難しい。冒頭はもっと重く始まるかと思いきや、ハーモニーを重視した意外とスムーズな流れであり、その後バッカナールに入っても、狂乱のイメージはそれほど沸き立ってこない。オーケストラが鳴っていないわけではないのだが、流れをうまくコントロールしようという意図のように聴こえた。また、上記の通り、第 2幕で大いに盛り上がるはずの大行進曲も、視覚的な要素も関係しているのか、推進力に圧倒されるには至らなかった。ただ、第 3幕の暗い舞台を這って行くようなオケの音には、何やら鬼気迫るものがあったと思う。ここには「パルシファル」や「トリスタン」を先取りする雰囲気があって、ペトレンコの指揮は、そのような深い表情に聴くべきものがあったのではないか。

我々は未だこの指揮者を充分体験できていない。今後様々な彼の演奏に触れてから、また今回の「タンホイザー」を思い出すこともあるかもしれない。演出を含め、「あ、あれはこういうことだったのか」と思う日が来るかもしれない。なので、この日の印象を心に留めておきたい。これは今回の記者会見の際の写真であるが、5月に本拠地で初演されたばかりのホヤホヤの演出を、現地と同じメンバーで 4ヶ月後にいながらにして聴くことができる我々東京の聴衆は、実に恵まれていると、改めて思うのである。だからと言ってすべて大絶賛ということではなくて、つまり、過度に有り難がることなく、問題意識をもって見ることができるのが、オペラの醍醐味なのである。あーあ、現地でも見たいなぁ。
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by yokohama7474 | 2017-09-22 01:42 | 音楽 (Live) | Comments(2)

チョン・ミョンフン指揮 東京フィル (ピアノ : イム・ジュヒ) 2017年 9月18日 Bunkamura オーチャードホール

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東京フィルハーモニー交響楽団 (通称「東フィル」) の指揮台を今月、首席指揮者のアンドレア・バッティストーニと分け合うのは、このオケの名誉音楽監督のチョン・ミョンフンである。7月に彼がこのオケと行ったマーラー「復活」の名演についてはこのブログでもご紹介したが、9/15 (金) にはサントリーホールでまたその「復活」を演奏、今回 9/18 (月・祝) と 9/21 (木) の 2回に亘って彼が振るのはベートーヴェンである。
 ベートーヴェン : ピアノ協奏曲第 3番ハ短調作品37 (ピアノ : イム・ジュヒ)
 ベートーヴェン : 交響曲第 3番変ホ長調作品55「英雄」

チョンと東フィルは、2002年にベートーヴェンの交響曲全曲を演奏し、それはライヴ録音になっているが、その初日のメインの曲目がこの「英雄」(エロイカ) であったようだ。そのライヴ録音自体は、私の記憶では、それほど瞠目の名演という印象でもなかったが、それから 15年を経て、この多忙な世界的名指揮者がこれだけ頻繁に東フィルの指揮台に立ってくれている事実や、最近何度も実際に耳にしたこのコンビの充実ぶりから推して、今回の演奏には大変期待ができる。そしてその期待は十二分に満たされたのだが、今回もまた若い優れたピアニストについてまず語ることをお許し頂きたい。今回日本デビューを飾ったピアニストの名前はイム・ジュヒ。名前とこのような外見から、若い韓国の女流ピアニストであることは分かったが、事前に何の情報もないままに会場に足を運んだ。
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そしてプログラムに掲載されたバイオを見てびっくり!! 2000年10月生まれとある。ということは、来月の誕生日でようやく 17歳になるという若さなのである。なんと 9歳のときにゲルギエフとマリインスキー劇場管と共演、2012年にはロンドン響の韓国ツアーのサプライズゲストとして登場、そしてチョン・ミョンフンとは既に何度も共演しているという、天才少女である。プログラムに掲載されている彼女の言葉を引用しよう。

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ベートーヴェンのピアノ協奏曲第 3番は、マエストロ (注 : もちろんチョン・ミョンフンのこと) と 13歳の時に初めて共演しました。沢山の思い出があります。皆さんに楽しんでいただき、思い出を共有していただけたらと思います。
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16歳の少女から思い出について言及あるとは、ちょっと早い気もするが (笑)、ともあれ 10代の音楽家にとって、チョン・ミョンフンとコンチェルトのソリストとして共演するということは、考えられないほどの名誉であろうし、韓国人ピアニストであればなおのこと、通常なら相当緊張するような事態だと思う。だが彼女の今回の演奏ぶりには緊張のかけらも感じられず、驚いた。いや、音楽を行う場に何国人とか何歳だとか性別がどうだとかいう区別が必要ないことは、いつもこのブログで私が主張していることであり、つまりはただその音楽の清冽な生命力に感銘を受けたということである。イムのピアノは本当に溌剌としていて臆するところがなく、明るい音で実にのびのびと音楽を楽しんでいて、このベートーヴェンとしては唯一の短調で書かれたピアノ協奏曲を、その悲劇性よりも生命力に重点を置いて表現した。もちろんミスタッチなど皆無であるだけでなく、この箇所はどう表現しようという迷いすら、一切見られない。これは非凡な演奏であったと言えるであろう。一方のチョンの伴奏は、これまた一切手加減のない強烈なもので、通常の協奏曲演奏なら、指揮台の手すりを取って、ソリストに顔を向けられるように指揮台自体を斜めにすることが多いが、今回はそれらはなく、後半の「エロイカ」と同じ指揮台の位置で、しかも指揮者は譜面台すら置いていない。若いソリストを優しく包むということではなく、丁々発止の勝負である。終楽章の大詰め間際の決め所でのティンパニの連打など、聴いたことのないくらいの迫力だ。そのようにして演奏を終えたイムは、ステージマナーだけは、未だ初々しい 10代のアーティストという感じで微笑ましく、ほんの 2度ほどステージから戻ってきたかと思うと、やおらアンコールを弾き出した。ヨハン・シュトラウスの「トリッチ・トラッチ・ポルカ」であるが、なんともド派手なピアニズムを持った超絶技巧の曲に編曲されている。これはかつての名ピアニストであるジョルジュ・シフラが編曲したものであると後で知ったが、まさに伸び盛りのピアニストがその腕を存分に見せるという意味で、ここでは演奏者の若さを大いに称賛するべき内容の演奏であったと思う。これは、今回に先立つ文京シビックホールでの、同じプログラムでの演奏会のリハーサルの一コマ。自身名ピアニストであるチョンの薫陶を、若いイムは充分に受けたことであろう。彼女の思い出はまだまだこれから、偉大なものになって行くことは確実である。
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後半の「エロイカ」は、一言でいうと、疾走する荒馬のような音楽に仕上がっていて、凄まじい推進力を持つチョンの音楽が、献身的なオケの努力によって、まざまざとその威力を発揮した。そもそも彼の指揮ぶりには強い集中力があり、その指揮棒が空を切るうちに、徐々に熱を帯びて来るとすら感じられる時がある。今回のような、逃げも隠れもできない名曲において、チョンのような指揮者の真っ向勝負を聴くことは、そのまま音楽の持つ強い力を実感することにほかならない。彼の指揮ぶりは決して愛想のよいものではなく、場合によっては、昔のカラヤンのように、目を閉じてオケと目を合わせないように見えることもある。だが、その凝縮力、推進力は常にマックスに保たれているどころか、流れゆく音楽の場面場面で、オケのメンバーのインスピレーションを強く刺激していることは明らかだ。そして、ここぞという時には、グッと音楽の流れを引き寄せて、あたかも川の底を抉るようにして強い表現力を打ち出すことで、明らかに音楽の視野を広げてみせるのである。やはり、よほどお互いの意思の疎通がよくできる指揮者とオケの関係でなければ、そのような演奏は成立しないと思う。例えば今回の「エロイカ」では、第 1楽章展開部の後半や、第 2楽章後半で、弦が短い音を何度か強く奏する際に、ちょっと驚くような強調がなされることで、この 19世紀初頭に書かれた異形の大シンフォニーの神髄を聴くことができた。そう、この曲は 200年以上前に書かれたもので、オケの編成も至ってシンプル。木管はスタンダード (オーボエ、フルート、クラリネット、ファゴットが各 2本ずつ)、金管は、ホルンは 3本だがトランペット 2本で、当然ながらトロンボーンもチューバも (まだ) ない。打楽器はティンパニだけである。つまり、ハイドンやモーツァルトのシンフォニーと変わらない編成である (弦は、今回の演奏ではコントラバス 6本)。それなのに、音の勢いや、そこに込められた感情も、古典派としては異常なほどの域に達しているわけである。これまでに文字通り数限りなく聴いている曲であるにも関わらず、改めてそんなことを思わせる演奏には、音楽を聴く醍醐味を深く感じることができるとしか言いようがない。
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終演後にはすぐにブラヴォーがかかり、数人のファンはスタンディングオヴェーションを送るに至った。快演に対してチョンも満面の笑みであり、オケの全力演奏を労っていた。プログラムに載っているチョンのインタビューが感慨深い。

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東京フィルは適応性があってフレキシブル。アンサンブルが驚異的に素晴らしい。何度も言っていますが、東京フィルは私の日本の家族です。(中略) 今は、プロの指揮者として働くのではなく、個人的な理由で活動していきたいと思っています。そのオーケストラと特別に温かな関係があるとかでないと、そこには行きません。
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なんという素晴らしいコメントか。これだけの指揮者がこれだけの思い入れをもって東京にやって来て、東フィルを指揮してくれていることには、東京の一聴衆として、本当に感謝したい気持ちである。次のチョンの東フィルへの登場は、来年 1月。モーツァルトの「ジュピター」とベルリオーズの幻想交響曲だ。来年には 3月にインバルと都響も幻想を演奏するので、またまた東京の音楽界には活気が漲ることでしょう!! あ、もちろん、そこに至るまでにも、東京の音楽界は、それはもう大変なことになりますので、なんとか記事にして行きたいと思っています。思い出作りと言うには凄すぎる内容ですよね (笑)。

by yokohama7474 | 2017-09-19 01:29 | 音楽 (Live) | Comments(0)

キリル・ペトレンコ指揮 バイエルン国立管弦楽団 (ピアノ : イゴール・レヴィット) 2017年 9月17日 東京文化会館

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通常このブログでコンサートを採り上げるときには大抵、そのコンサートのチラシやポスターを冒頭に利用させてもらうのであるが、今回はそれが思うようにできない。というのも、一応チラシはあるにはあるが、このようなモノクロの地味なものなのである。
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これは、都民劇場という音楽サークルの主催によるコンサートであり、シリーズ券のほかに一回券も発売されたわけであるが、ご覧の通りあまり派手な宣伝にはならなかった。だがなんのことはない、会場に足を運んでみると完売御礼だ。その盛況の理由のほとんどは、冒頭に写真を掲げた指揮者にあるだろう。クラシックファンは先刻ご承知であろうが、このブログのポリシーに従って、一般の方でも分かるように説明すると、この 1972年生まれのロシア人指揮者、キリル・ペトレンコは、2018年からサイモン・ラトルの後任としてベルリン・フィルの首席指揮者・芸術監督に就任するのである。ベルリン・フィルの首席とは、音楽界広しと言えども、オーケストラのポジションとしては文字通り、世界に冠絶する最高のもの。今から 2年前の 2015年に決定したものだが、確かにペトレンコの名前は候補者のひとりに挙がっていたものの、何分録音も少ないし、日本に来たこともないので、私なども全くイメージがなく、全く想定もしていなかった。それゆえ、楽員による 2度の投票を経て彼が選ばれたのを知って、本当に驚いたものである。今回彼は、現在音楽総監督を務めるドイツ有数の名門オペラハウスであるバイエルン国立歌劇場 (ミュンヘン・オペラ) との公演で、初来日に臨むわけであるが、彼の指揮するワーグナーの「タンホイザー」は、9/21 (木) を初日として3回の上演。それ以外にアッシャー・フィッシュの指揮するモーツァルトの「魔笛」が 4回あるが、それら一連のオペラ公演の前と後に 1回ずつ、オーケストラコンサートが開かれる。今回私が出かけたのは最初のもの。つまり、記念すべきペトレンコの、日本での初めてのコンサートということになる。そして、曲目がまたすごい。
 ラフマニノフ : パガニーニの主題による変奏曲 (ピアノ : イゴール・レヴィット)
 マーラー : 交響曲第 5番嬰ハ短調

つい先日も、上岡敏之指揮の新日本フィルのユニークな演奏を聴いたばかりのマーラー 5番は、私を含めたマーラー・ファンが皆大好きな、マーラーらしさが随所に溢れた傑作であり、ペトレンコの手腕を聴くには最高の曲目だろう。私自身は、このブログの初期に書いた通り、2015年のバイロイト祝祭音楽祭で「ニーベルングの指環」全 4部作という巨大な作品をペトレンコの指揮で聴いており、彼の音のイメージはそれなりにあるが、実際、録音でも実演でも、彼のシンフォニーは聴いたことがないので、本当に今回は楽しみな機会なのであった。尚、このオケの表記はドイツ語で Bayerisches Staatsorchester で、日本語ではバイエルン国立管弦楽団という名称が一般的だ。ベルリンやドレスデンのように、シュターツカペレという名称ではないが、同じオペラハウスのオーケストラである。因みにこれが、2015年、ベルリン・フィルとの契約にサインするペトレンコ。
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さて今回の演奏会、期待通り大変充実した内容であったのであるが、ペトレンコの前に今回もまた、素晴らしいピアニストとの邂逅があったことを喜びたい。彼の名はイゴール・レヴィット。1987年生まれのロシア人。ちょうど 2日前も、同じロシアの素晴らしい若手ピアニスト、ダニール・トリフォノフを聴いたばかりであったが、このレヴィットは彼より 4歳上、今年 30歳の若手である。コンクール歴を見るとトリフォノフほど派手ではないものの、既にベルリン・フィル、バイエルン放送響、シュターツカペレ・ドレスデン、ロンドン響、クリーヴランド管など、数々の名門オケと共演しているという実績の持ち主。
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彼が今回弾いたのは、たまたま先日の読響のコンサートでトリフォノフの CD を購入して聴いたばかりの、ラフマニノフのパガニーニの主題による変奏曲だ。録音と実演の違いこそあれ、たまたまロシアのこれら俊英ピアニストの聴き比べになったが、私の印象では、トリフォノフは大玉の水晶のようなキラキラした音を奏でるのに対し、レヴィットの音はもう少し小粒で、光をより複雑に反射する。より情緒があると言ってもよいかもしれない。細部まで彫琢されたその音の進みには常にドラマがあって、ともすれば有名な第 18変奏 (今回も実に美しい!!) 以外は退屈しがちなこの曲を、大変に面白く聴かせてくれる。そしてペトレンコの指揮も最初から丁寧に音の流れを作り出す姿勢が明確で、冒頭間もない箇所での木管楽器のフレーズを、片手をヒョロヒョロと上げて表情豊かに導くなど、その音楽の特性が早くも見えたのである。その意味で、この指揮者とこのピアニストは、ともにロシア出身ということを除いても、曲の持つ情緒の表現という点において、類似したものがあるように思った。そしてラフマニノフの演奏終了後、カーテンコールを経て、レヴィットがピアノの前で集中してから弾き出したアンコールは、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の終曲、「愛の死」であった。その繊細かつ怪しく燃える情緒の表現には舌を巻いた。そう、その点でも、プロコフィエフをバリバリ弾くタイプのトリフォノフとは、よい対照をなしていたと言えるであろう。

メインのマーラー 5番は、これまた大変な力演。バイロイトの「指環」体験で感じた彼の音楽の推進力はここでも全開であり、ヴァイオリンを左右対抗配置とし、きっちりと譜面を見、指揮棒を持っての指揮だが、スコアに書いてある音が太字で次々と宙に浮かんでくるような印象と言えばよいだろうか。ペトレンコは小柄な人なのであるが、まさに全身で音楽を奏でるタイプの指揮者であり、出て来る音楽は実にスケールが大きい。個々の場面では奇をてらったところは全くないが、それでいてどの部分も説得力が強い。例えばこの曲の第 2楽章のコーダ手前の盛り上がりは、実は全曲の大団円である第 5楽章の終結部手前と同じ音楽であり、暗い中から突然日の光が差して、勝利の凱歌が響こうとするところで、また闇に戻ってしまい、光は一旦閉ざされてしまうという風情なのだが、今回の演奏ほど、その第 2楽章での盛り上がりが強く強調されたことはあまりないだろう。これはつまり、音楽の彫琢方法として、葛藤は乗り越えられる、だがそれは今ここではなく、さらに試練を経てからだという曲のメッセージを伝えるには有効な方法であると思う。それはほんの一例で、ほかにも、マーラーが書いた複雑な音の絡みの数々を、骨太なリードで見事な劇性を持って描いてみせた。このオケの音は、ウィーン・フィルとかシュターツカペレ・ドレスデンなどとは違って、幾分硬いと言えるような気がするが、それがプラスに作用し、ペトレンコの忙しい指示に必死に食らいつくオケの音たちは、凝縮力があって見事であった。だから聴き終わったときの満足感はもちろん大変なものであったのだが、もしあえて難点を探すとすると、ちょっと聴き疲れたかなということか。場面によってはもっと遊びがあってもよいとは思ったのである。これだけ力強く明晰な音楽を聴けるのは稀有なこととは思いつつも、盛大な拍手に応えるペトレンコを見ながら、早くベルリン・フィルとのフランス音楽なども聴きたいなぁと思ったことである。欲張りすぎか ? (笑)
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さて今回の会場には、バイエルン国立歌劇場自身で用意したとおぼしい日本語の小冊子が置いてある。よく海外の観光名所で、写真入りのローカルな案内書を売っていて、私はその種の本が大好きなのであるが、翻訳の問題で、日本語版には意味不明な内容が多々ある点も、愛嬌である (笑)。今回の小冊子は、活字などちょっとそんな雰囲気で手作り感満載。ペトレンコのコメントも載っている。
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いわく、ラフマニノフは常に身近にある作曲家で、自身もピアニストとして勉強していた 12歳のときにこの作曲家の「音の絵」を好んで弾いていたし、ピアノ協奏曲も何度も聴いていたとのこと。今回採り上げる「パガニーニの主題による変奏曲」も好きで、レヴィットとともに新しい解釈を提示することに、心引き締まる思いであるとのこと。一方のマーラーについては、この 5番には声楽は使われていないが、周到に考えられた多声音楽の様式である。作曲者自身、新しい様式は新しい技術を必要とすると語っている通りで、声楽を使ったり、音以外の情景を表現することの多い 1番から 4番までとは異なる、「楽曲の性格や印象を包括した交響曲の傑作です」とある。うーん、最後の部分は、まさにローカルの観光名所案内のように、分かりにくい日本語だが (笑)、言わんとすることは分かるような気がする。視覚に訴える情景や、文章によって表現される情緒ではない、マーラーとして初めて取り組んだ純器楽の交響曲ということだろう。だから私のように、情景によって音楽をたとえることは、本当は控えなければならないのだろうが、いずれにせよ、説得力のある音楽だけが聴き手に様々な印象を与えるのであるから、それはそれでよいと思うこととする。45歳にして世界のトップに躍り出たこの指揮者の今後に期待したい。

by yokohama7474 | 2017-09-18 02:39 | 音楽 (Live) | Comments(4)

パーヴォ・ヤルヴィ指揮 NHK 交響楽団 2017年 9月16日 NHK ホール

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快進撃を続けるパーヴォ・ヤルヴィと NHK 交響楽団 (通称「N 響」) であるが、先に採り上げた NHK 音楽祭での「ドン・ジョヴァンニ」に続き、定期演奏会の 3プログラムに臨む。今回その最初の A プログラムで演奏されたのは、ショスタコーヴィチの交響曲第 7番ハ長調作品60「レニングラード」である。この曲が初演されたのは独ソ戦の真っただ中、1942年である。ナチス・ドイツによる言語に絶する壮絶なレニングラード (現サンクト・ペテルブルグ) の封鎖によって疲弊した人々を鼓舞し、人道的見地から、欧米でも争うように演奏されることになった大作交響曲。このブログの過去の記事では、2016年 6月 3日の、ユーリ・テミルカーノフ指揮サンクト・ペテルブルグ・フィルによるこの曲の凄絶な演奏を採り上げ、私が読んだレニングラード封鎖についての本もご紹介した。この曲が書かれた背景についてはその記事に譲るが、人類が犯してきた愚行の中でも、このレニングラード封鎖は実に鳥肌立つような悲惨な出来事であり、この交響曲を考えるに当たっては、いかに音楽のみ虚心坦懐に楽しもうと思っても、それはなかなかできない相談なのである。

今回の演奏の、練習場でのリハーサル写真はこれである。
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おや、何やらコンサートマスターを務めているのは、モジャモジャ頭の外人のようである。そう、今回の客演コンサートマスターは、1992年以来ミュンヘン・フィルのコンマスを務めるロレンツ・ナストゥリカ=ヘルシュコヴィチ。大変に長い名前で、なかなか覚えられないが、1992年以来ということは、チェリビダッケ時代からのミュンヘン・フィルのコンマスなのである。
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ステージを見渡すと、弦楽器はコントラバス 10本の大編成で、金管の別動隊 (トランペット 3、ホルン 4、トロンボーン 3) は、舞台いちばん奥の、打楽器群の後ろに位置している。これはティンパニ奏者にとっては、かなり苦痛だったのではないか (笑)。ともあれこの大編成によるショスタコーヴィチ 7番の演奏、事前に自分の中であらかじめ音のイメージがあった。長身のヤルヴィが背筋をピンと張り詰め、その長い両腕を前に伸ばしてタクトを一閃すると、いきなり重々しい音楽が、強い推進力をもって鳴り始める・・・。そして実際に響いてきた音は、事前にイメージした通りの、見事に密度の高いものであったのだ。80分に及ぶこの大曲には様々な聴かせどころがあって、最強音から最弱音まで、隅々まで張り詰めた音で表現する必要があるのだが、さすがにヤルヴィと N 響である。それぞれの音楽的情景の説得力には、間然するところがない。曲の冒頭から終結まで、大きな太い一本の棒であるかのような雄渾さ。細部について語る気がしないのである。特に弦楽器の強い集中力は圧巻で、全曲の終結部では客演コンマスのナストゥリカ=ヘルシュコヴィチはほとんど席から立ち上がり、渾身の力を込めて音を炸裂させた。オーケストラ音楽の醍醐味ここに極まれりと言いたくなるような水準の演奏であった。

ふと思い立って、私の手元にあるこの曲の初期の西側での録音を再確認することとした。以下左から、セルジュ・チェリビダッケ指揮ベルリン・フィル (1946年)、アルトゥーロ・トスカニーニ指揮 NBC 交響楽団 (1942年 7月)、レオポルド・ストコフスキー指揮 NBC 交響楽団 (1942年12月) である。
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この曲の西側初演が、トスカニーニ、ストコフスキーと、セルゲイ・クーセヴィツキーの 3者で争われたことはよく知られている。それだけ、ドイツに苦しめられている連合国の一員、ソ連に対する人道的な面での同情があったということだろう。戦後すぐに、ソ連を苦しめた当事者であるドイツを代表するベルリン・フィルがこの曲を演奏したというのも大変に興味深い (ライヴではなくスタジオ録音である)。実は日本初演も意外に早く、1950年に上田仁指揮東宝交響楽団によってなされている。今、平和な日本でこのショスタコーヴィチの 7番がこのようなクオリティで壮大に鳴り響いていることには大変に価値があることは、間違いない。その一方で、歴史を知ることで純粋に音楽以外の要素を考えることも、たまにはよいかもしれない。私の手元にはまた、この曲の誕生を描いたこんな本もある。実は数年前に買ったまま、未だ読んでいないのであるが、そのうち時間を見つけて読むこととしたい。愚かなことをするのも人間なら、尊いことができるのも人間。歴史から学ぶことは無限にある。
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by yokohama7474 | 2017-09-17 02:07 | 音楽 (Live) | Comments(4)

コルネリウス・マイスター指揮 読売日本交響楽団 (ピアノ : ダニール・トリフォノフ) 2017年 9月16日 東京芸術劇場

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昨今の東京のオケのコンサートでは、およそ期待外れというものがほとんどないばかりか、世界的な音楽都市の面目躍如というべきであろう、老年の巨匠から若きライジング・スターまで、あらゆる音楽家が競い合っている。今回、世界的活躍を始めて未だ日の浅い若手指揮者と若手ピアニストの興味尽きない共演が、読売日本交響楽団 (通称「読響」) の演奏会で実現した。指揮は 1980年生まれのドイツ人、コルネリウス・マイスター。ピアノは 1991年生まれのロシア人、ダニール・トリフォノフ。曲目は以下の通りである。
 スッペ : 喜歌劇「詩人と農夫」序曲
 プロコフィエフ : ピアノ協奏曲第 2番ト短調作品 16
 ベートーヴェン : 交響曲第 6番ヘ長調作品 68「田園」

さて今回指揮を務めるマイスター (ドイツ人でこの苗字ということは、きっと何代も続く職人の家系の生まれなのだろうか) は、現在ウィーン放送響の首席指揮者として名を馳せているが、この読響とは 2014年に初共演、R・シュトラウスのアルプス交響曲を指揮したらしい。そして今年 4月、読響の首席客演指揮者に就任。今回は就任後初の演奏会となる。また彼は既にロイヤル・コンセルトヘボウ管、バイエルン放送響、パリ管や、ウィーン国立歌劇場、ドレスデン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座、英国ロイヤル・オペラなどで指揮を取っており、若手指揮者としてメキメキと頭角を現している人。2018年からは、読響常任指揮者シルヴァン・カンブルランのあとを受けて、シュトゥットガルト歌劇場の音楽総監督に就任するらしい。まさに今、旬の指揮者である。こんな指揮者を首席客演指揮者として迎える読響は、さすがであると思う。
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最初の「詩人と農夫」序曲は、ウィーンでオペレッタの作曲家として人気を博したフランツ・フォン・スッペ (1819 - 1895) の代表作のひとつ。彼の残した数多いオペレッタは、現在では全曲が上演されることはほとんどないが、その数々の序曲は、それはもう楽しく、未だに大変な人気なのである。私の場合は、カラヤンが録音したスッペ序曲集のアナログ・レコードを聴きまくったことで、「軽騎兵」やこの「詩人と農夫」をはじめとする彼の序曲にはとことん親しんだ。だが彼の作品は最近の東京ではあまり耳にすることができないので、今回は非常に貴重な機会なのである。今回初めて知ったことには、このスッペはイタリア・オペラの巨匠ドニゼッティと親交があり、そのドニゼッティの代表作のひとつ「愛の妙薬」のドゥルカマーラ役を 1842年に歌っているらしい。この写真は後年のものであるが、あの軽妙な序曲の数々を書いた人にしてはいかめしい外見だ。
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さて、コンサート冒頭のこの「詩人と農夫」序曲を聴くだけで、マイスターの素晴らしい才能は明らかだ。もちろん、昨今絶好調の読響の音のソノリティも大きく貢献しているのであるが、このマイスターのように大きな呼吸で音楽を作る人には、オケとしてもついて行きやすいのではなかろうか。冒頭の厳粛な金管に続く抒情的なチェロのソロの素晴らしい音!! 大きな身振りで表情豊かに、心から音楽を感じていることが明らかな演奏をしたのは、このオケの首席チェロ、遠藤真理である。もともとはソリストであるが、マイスターの首席客演指揮者就任と同じ今年 4月に、読響に入団した。
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それにしてもマイスターのマイスターぶり (?) はどうだ。すっきりとした指揮ぶりからはおよそ想像しにくいほどの、充実した音が流れて来る。それはあたかも清い水をたたえた川の流れのようであり、どこをとっても音楽の喜びが溢れている。素晴らしい指揮者である。

そして 2曲目のコンチェルトに登場したピアニストは、2010年のショパン・コンクール第 3位、2011年のチャイコフスキー・コンクールで優勝した若手の逸材、ダニール・トリフォノフ。私もその名前しか聞いたことがなかったので、今回は大変楽しみにしていたのだが、予想を上回る素晴らしい才能だ。そのプロコフィエフの 2番のコンチェルトは、ロシア・アヴァンギャルドの雰囲気を持つ野性味あふれる自由闊達な曲で、私が心から惚れている曲。特に第 1楽章の最後の方で、目まぐるしく動くピアノに触発されるように、オケが堰を切ったように狂気の絶叫を聴かせる箇所は、何度聴いても鳥肌が立つ。トリフォノフのピアノは、音量は大きく、かつその音質はクリアであり、隅々まで曖昧なところは皆無。このプロコフィエフの 2番には最適なピアニストであろう。伴奏のマイスターと読響も、なんとも充実したサポートぶりで、申し分ない。トリフォノフがアンコールで弾いた、やはりプロコフィエフのバレエ音楽「シンデレラ」のガヴォットを含め、この作曲家のとんがった感覚をよく出していた。彼の CD はドイツ・グラモフォンから何枚も出ているが、こんなことは昨今珍しいはずである。ちなみに彼は現在、髭を蓄えていて、この写真よりはワイルドな印象だ。
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そしてメインの「田園」も、マイスターの個性がくっくりと浮き出た名演であった。音のひとつひとつに、生きる喜びが溢れているという印象である。また彼は、楽章と楽章の間でも指揮台に立ったまま緊張感を保ち、弛緩することは決してない。大きな音楽の流れを作り出す手腕を持った人なのであろう。気負うこともなく、スムーズな指揮ぶりであるが、マイスターの非凡な才能は誰の耳にも明らかだ。奇をてらうことは一切なく、名曲との堂々たる真っ向勝負である。今回改めて思ったことには、この「田園」においては、ヴァイオリンをはじめとする弦楽器が、ほぼ全編に亘って (鳥の鳴き声の箇所は除く) 旋律を紡いで行くのだということ。今回の読響の弦楽器の響きには素晴らしい充実感があって、マイスターの丁寧な指揮のもと、自然の中の人間というこの曲のテーマを、実に美しく描き出したのである。
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繰り返しだが、読響は本当に素晴らしい若手指揮者を首席客演指揮者に迎えたものである。今回の演奏会のプログラムには、マイスターの就任の辞が掲載されているが、以下のような言葉に嘘はないものと思う。

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日本のお客様の卓越した能力と知識に、私はいつも感動しています。音楽の持つ、国境を越えて文化を結ぶ力をともに楽しめる時、私は心が温まり幸せな気持ちになります。
UNQUOTE

終演後には指揮者とピアニストによるサイン会があったので参加した。トリフォノフのピアノが素晴らしかったので、ラフマニノフの変奏曲を集めたアルバム (トリフォノフ自身の作品「ラフマニアーナ」を含む。また「パガニーニの主題による変奏曲」での共演は、ヤニック・ネゼ = セガン指揮のフィラデルフィア管だ) を購入した。 和気あいあいとしたサイン会の様子と、私がもらったサインは以下の通り。
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さて、その輝かしい才能に触れることができたマイスター、12月にはまた読響の指揮台に戻ってきて、マーラーの大作、第 3番を指揮する。冬に聴く夏の交響曲ということになるが、今から本当に楽しみなのである。

by yokohama7474 | 2017-09-17 00:29 | 音楽 (Live) | Comments(0)

上岡敏之指揮 新日本フィル (ピアノ : デジュー・ラーンキ) 2017年 9月14日 サントリーホール

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新日本フィルハーモニー交響楽団 (通称「新日本フィル」) のシーズンは 9月から始まる。このコンサートはその新シーズンを開始する定期演奏会である。指揮をするのはもちろんこのオケの音楽監督、上岡 (かみおか) 敏之。1960年生まれで、来週の誕生日で 57歳になる。これまでドイツを中心に地歩を築いてきた人であり、素晴らしく個性的な指揮者である。このブログでも過去何度もこの上岡と新日本フィルのコンビの演奏会を採り上げているが、私には常にこの指揮者への期待がある。それは、それぞれの演奏が一般的な意味で成功していようがそうでなかろうが、彼の個性が常に表れているということによる。実は、個性を常に聴き取ることができる指揮者というものは、さほど多くない。そんなわけで、私は上岡のコンサートに何度も足を運んでいるのである。前回記事で採り上げた彼の演奏会は、7月29日、すみだトリフォニーホールでのオルフ「カルミナ・ブラーナ」を中心とするプログラムであり、その終演後に開かれたサイン会で、「9月のマーラー、楽しみにしています」と私が無遠慮にもマエストロに声をかけたと書いた。そして今回、その楽しみにしていた「9月のマーラー」を聴きに行くことができたのである。
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上岡と新日本フィルの 2シーズン目の最初を飾る演奏会の曲目は、以下の通り。
 ベートーヴェン : ピアノ協奏曲第 4番ト長調作品58 (ピアノ : デジュー・ラーンキ)
 マーラー : 交響曲第 5番嬰ハ短調

少し演奏時間が長めのプログラムであるが、非常によい内容である。ベートーヴェンの 5曲のピアノ協奏曲の中でも、楽章構成 (第 1楽章だけで演奏時間半分以上) や、ピアノソロとオケの関係 (第 1楽章はオケが沈黙しピアノソロで始まり、第 2楽章はピアノは沈黙しオケだけで始まる)、孤独感と喜遊感の交錯がユニークな持ち味を示している傑作。そして、マーラーにとっての 20世紀を告げるファンファーレで始まり、多彩な音の饗宴にノスタルジックなアダージェットが入る、大交響曲。上岡の手腕に期待である。まずベートーヴェンのコンチェルトでソロを弾いたのは、ハンガリー出身の名ピアニスト、デジュー・ラーンキだ。
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彼は 1951年生まれで、つい先週 66歳になったばかり。私の世代では、1980年代頃に「ハンガリー三羽烏」と呼ばれた昔の若手ピアニストのひとりとして、もう随分以前からおなじみの人なのである。若いときはこんな感じで、そのハンガリー三羽烏の中では、ルックスはいちばんというもっぱらの評判であったものだ。
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ちなみにこの三羽烏、その後の道のりはそれぞれで、感慨深い。出世頭はなんといってもアンドラーシュ・シフ。彼は今や、押しも押されぬ現代最高のピアニストである。このブログで採り上げたことは未だないが、それは、昨年の来日公演ではチケットを買ってあったのに、所用で行けなかったという痛恨の事態による。私の深く尊敬する大ピアニストであり、いずれまた採り上げることがあるだろう。そして、三羽烏の残るひとりは、ゾルタン・コチシュ。彼は結構以前から指揮にも取り組んでいたらしく、小林研一郎の後任として 1997年以降ハンガリー国立交響楽団 (現ハンガリー国立フィル) の音楽監督を務めたが、昨年のこのオケとの日本公演直前に、惜しくも亡くなってしまった。優れた音楽家もまた人間。活動内容も様々なら、芸風も移り変わり、与えられた時間にも宿命的なものがある。なので、流れ行く時間の中、その時々の音楽家の演奏に耳を傾けることこそが重要だ。そのような思いを持って耳を傾けた今回のラーンキのベートーヴェン、円熟の境地を感じさせながらも、永遠の青年という印象をも併せ持つ、興味深い演奏であったと思う。上記の通りこの曲は、ピアノとオケの会話にユニークなところがあり、静かに呟くようなピアノで始まる第 1楽章では、そのうち決然たる音楽も登場して、聴き手を飽きさせないのであるが、ラーンキのピアノの呟きには粒立ちのよさがあって美しいが、同時に絶望的な孤独よりは前向きな姿勢が感じられるもの。感動のあまり身動きできないということにはならないが、音楽を聴いている充実感をそこここで味わうことができた。一方、上岡指揮の新日本フィルの伴奏は、どうだろうか、冒頭のピアノに応える弦楽器からして、もう少し純度の高い音楽を聴きたかったような気がする。その後のマーラーでも感じたことだが、本拠地のすみだトリフォニーホールで聴くこのオケと、今回の久しぶりのサントリーホールでの演奏とでは、少し印象が違っていたようにも思うのである。

そのメインのマーラー 5番であるが、多くのマーラー・ファンと同じく、この曲の大の愛好者である私は、それはもう数多くの実演・録音でこの曲に親しんできたが、今回ほどユニークな演奏は、ちょっと記憶にない。まず冒頭のトランペットには細かい表情づけをしていて、それは予想通りであったのだが、その後大音響を経てから、足を引きずるような呻吟の葬送行進曲のメロディが奏されるところでは、コントラバスのピツィカートが異様に大きく響く。それからウネウネと続くことになる音楽は、随所に通常と異なるバランス設定やテンポ設定が聴かれることとなった。狂乱の箇所では、まさに狂ったようなテンポによるささくれだった音となり、鋭い音の切れ込みが現れる。脱力感が支配する場所では、間延びするすれすれのところまで音楽の足取りが落ちる。面白いのは、このような変幻自在の音楽が、アクセルとブレーキという、私がよく使う比喩とは今回違った印象であったことだ。自分で書いたこのコンビによる同じマーラーの 6番の記事 (3月12日付) を読み返すと、そのアクセルとブレーキという比喩を使っているので、やはり今回の印象は、そのときと若干異なったのだと分かる。今回の場合、なんというべきか、音楽の内なる欲求に基づく表情づけという要素がより強く感じられ、加速する部分は、アクセルというよりは、自然に坂道を転げ落ちる感じとでも言おうか。自在にテンポを揺らしても、恣意性を感じることは少なかったのである。それから、例えば第 4楽章アダージェットから第 5楽章ロンドに移るとき、ホルンの信号音のあとに弦楽器が未だアダージェットの陶酔の余韻を込めて、長い弱音を奏するが、そこのテンポの異様な遅さは、ちょっと聴いたことがないようなもの。喩えて言えば、白昼夢に漂う青年が、遠くから響いてくる現実の音に対して、夢うつつのまま「もう少し寝ていたい」と呟いているように思えた。だが第 5楽章に入ると音楽は精力的に動き出し、それはもう上がっては下がり、押しては引いての音の大冒険になるのであり、その移行の妙には感嘆した。夢幻の境地にいた青年は、大地の上で躍動し、そして、諧謔味を帯びながらも、高らかに勝利を宣言したのである。大詰めの弦の細かい動きの波を聴きながら、マーラーが世紀のはじめに頭の中で描いた勝利のシーンはいかなるものだったのかと想像してみた。ショルティとシカゴ響によるこの曲の録音のジャケットには、世紀末のアルプスの画家セガンティーニの鳥肌立つ名作「悪しき母親たち」が使われていたことを、ふと思い出したりもした。
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このように、今回のマーラー 5番の演奏は極めてユニークなもので、まさに上岡の面目躍如といった印象であったが、だが、あえて難を言うと、弦楽器の厚みがもうひとつ充分でないという点が残念だった。私の記憶では、すみだトリフォニーホールで聴くこのオケの弦には、いつももっと輝きがあるように思うのだ。もともと上岡の指揮ぶりは、決して分厚い音でブカブカ鳴らすわけではないのであるが、このような壮大な作りの曲では、やはり音の厚みは欲しいところ。これが実際にホールの違いなのか、あるいは私の気のせいなのか、また次のこのコンビの演奏に接して考えてみたいと思っている。

プログラムには、音楽監督就任 1年を経た上岡のインタビューが掲載されている。いわく、オケがオープンになってきて、自分の音で音楽を正直に伝える作業が広がってきたと感じているとのこと。また、演奏会とはお客とともに作り上げるもの、という持論が展開されている。興味深いのは、「僕はあがり症の上にオペラのピットで演奏する生活が長かったせいか、ステージ上の指揮台に一人立つのは、いまだに緊張するんですね」と述べていること。いやいや、あがり症にはとても見えませんよ (笑)。これだけ自分独自の音楽を追求できるとは素晴らしいこと。だから私はこのコンビを、これからも応援したいのである。
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by yokohama7474 | 2017-09-15 01:28 | 音楽 (Live) | Comments(0)

大野和士指揮 東京都交響楽団 2017年 9月11日 サントリーホール

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ちょうど一週間前のオール・ラフマニノフ・プログラムに続く大野和士と東京都交響楽団 (通称「都響」) の演奏会は、このコンビにしては若干異色のレパートリーと言ってよいだろう、上のポスターにもある通り、ハイドンのオラトリオ「天地創造」である。まさに何もない混沌の状態の描写から始まり、神による天地と動物、そして人類の創造の 7日間が描かれ、そして最初の人類であるアダムとイヴが愛の語らいをするという壮大な内容を、実に気の利いた音楽で表現した 2時間近い大曲。都響の定期公演のプログラムは毎月 1種類であることが多いが、今回、この曲は 2回演奏された。私が聴いたのはその 2回目。大野と都響の採り上げるレパートリーには近現代曲が多いというイメージがあるが、もちろんこのような古典派のレパートリーに関しても期待は大である。しかも今回の演奏には、ちょっと驚きの団体も登場する。
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これは、世界一の合唱団という評価を不動のものとしているスウェーデン放送合唱団。合唱の神様と異名を取ったエリック・エリクソン (2013年に 95歳で他界) が 1952年から首席指揮者としてそのレヴェルを世界トップに押し上げた。現在の首席指揮者は、上の写真左側のペーター・ダイクストラ。1978年生まれのオランダ人で (道理で背が高いはずだ 笑)、合唱だけではなくオーケストラの指揮者としても活躍している。今回はこの合唱団 (男女合わせて 30名ほどの規模) が来日ツアーを行っている機会をとらえ、この都響の演奏会に出演することとなったわけである。プログラムには、都響との共演は 2015年10月以来とある。残念ながら私はそれを聴いていないので、どのような曲目であったのか調べると、実に渋く、リゲティのルクス・エテルナ、シェーンベルクの「地には平和を」、そして、モーツァルトのレクイエムというもの。指揮はダイクストラ自身であった。これがそのときのポスター。
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私が初めてこの合唱団を知ったのは、リッカルド・ムーティ指揮ベルリン・フィルによるヴェルディの聖歌四篇のアナログレコード (1982年録音) によってであった。当時その盤における合唱団の異様なレヴェルの高さは、大変評判になった。私はこの聖歌四篇という曲に、今に至るもあまり親しめないのであるが、だがそれにしても当時初めて聴くその曲における合唱の美しさには、深く感動したものである。そして実演では、1996年のクラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィル来日公演におけるサントリーホールでのマーラーの「復活」。そのときのクライマックスの感動は未だに記憶に鮮明で、合唱団が大きく盛り上がるところでアバドは指揮の身振りをむしろ小さくすることで、ちょっと信じられないような壮大な音響を作り上げていた。

さてこのような特別な合唱団が登場した今回の演奏会であったが、やはり私はこの合唱団の特別な歌いぶりに、またまた感動させられたのである。なんと表現すればよいのだろう、弱音では地を這う霧のように無重力感を持って漂い、音量が増すと、繊細な織物が広がって行くように拡張し、大きな音に至ってもその美感は一向に変わらないのである。それでいて、合唱が全曲を支配するイメージではなく、うまくオーケストラと寄り添っている。東京のステージに登場する日本の数々の合唱団も、もちろんレヴェルは高いとは思うのだが、今回のような歌唱を聴くと、やはり世界最高とはこういったものか、という感を強くするのである。

大野の指揮は、いわゆる古楽風の教条的アプローチではなく、この曲の大らかな人間性を表現しようとしていたように思う。もちろん、古楽風な要素が皆無というわけではなく、彼にしては珍しくヴァイオリンは左右対抗配置にしていたし、通奏低音にはチェロだけでなくチェンバロも使用していたが、一方で、弦のサイズはコントラバス 5本 (チェロ 6本) と小さすぎず、ティンパニもトランペットも、通常の現代楽器を使っていた。もちろん都響であるから、いつものような芯のある音でニュアンス豊かに演奏していたが、今回は特に木管のセンスのよさが随所で光っていたと思う。このオラトリオには凝った描写やユーモラスな描写が目白押しだが、冒頭、天使ラファエル (バリトン) が「はじめに神は天と地を作られた」と静かに歌い出し、合唱がそれに次いで神秘的に歌い、「光あれ!」という歌詞に至って音楽が盛り上がるまでは、ソリストも合唱も譜面を手に取らなかった点も興味深かった。それぞれの情景を表情豊かに描き分ける大野の手腕は大変に見事なものであり、ハイドンの音楽の人間性を充分に表していた。ふと思ったのは、このようなヒューマニティ溢れる音楽が、宗教性を越え、また貴族のための音楽という範疇を越えて、例えばベートーヴェンの 9番のような曲の前触れになったのではないかということ。いかなる文化芸術も、先人の業績なしにはあり得ないものであり、連綿と続く音楽の伝統を感じることには大いに意味があるだろう。

独唱歌手陣は、ソプラノが最近大活躍の林正子、テノールが吉田浩之、バリトンがディートリヒ・ヘンシェル。それぞれに熱演であったが、日本人 2人、特に林の歌唱は、ちょっとオペラ的すぎたような気もしないでもない。まあ、それとても、大野の手による壮大な生命賛歌のひとつの要素であったと思えば、目くじらを立てることもないと思う。それから、ひとつ気になったのは、休憩を第 2部の真ん中、第 5日終了後に入れたこと。以前、鈴木秀美指揮の新日本フィルによるこの曲の演奏を採り上げた際に書いたが、この曲は、天地創造の 7日間を描く第 1部・第 2部 (演奏時間約 90分) と、アダムとイヴが登場する第 3部 (演奏時間約 30分) に分かれていて、内容から言えば、当然第 2部終了後に休憩を入れるべきだ。だがそれでは、前後の演奏時間がアンバランスになってしまうので、今回のように、ちょうど半分ほどの箇所で休憩を入れたのであろう。それは理解できるのだが、やはり聴いてみて少し違和感もあった。これは前日、東京芸術劇場での演奏の様子。
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演奏全体として振り返ってみれば、極めて充実したものであったことは間違いない。多様な音楽を上質の演奏で聴くことができる東京は、やはり文化度の高い街なのである。そういえば、今出ている雑誌「東京人」10月号は、「クラシック音楽都市? 東京」と題した特集を組んでいる。「ホールもオーケストラの数も十分なのに・・・」とあって、その先にどんなメッセージがあるのか気になるので、買ってみた。大野和士と、やはり指揮者の広上淳一、ピアニストの小山実稚恵の鼎談に、東京の課題のいくつかが言及されている。音楽に興味のある方もない方も、ちょっと覗いてみてはいかがだろうか。
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by yokohama7474 | 2017-09-12 01:56 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ヴェルディ : 歌劇「オテロ」(演奏会形式) アンドレア・バッティストーニ指揮 東京フィル 2017年 9月10日 Bunkamura オーチャードホール

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ほんの前日、パーヴォ・ヤルヴィと NHK 交響楽団によるオペラ全曲の演奏会形式上演を見たばかりだが、この日もまたオペラ全曲の演奏会形式上演なのである。今回はまた違った楽しみでいっぱいだ。というのも、東京フィルハーモニー交響楽団 (通称「東フィル」) とその首席指揮者であるイタリア人、弱冠 30歳のアンドレア・バッティストーニが採り上げたのは、イタリアの血がたぎる名作であり、ヴェルディ後期の傑作である「オテロ」なのである。バッティストーニはこれまでにも東フィルと組んで「トゥーランドット」やマスカーニの「イリス」を演奏会形式で採り上げていて、私はそれらを大いに楽しんだが (「イリス」については 2016年10月16日の記事をご参照)、この「オテロ」は音楽の中身が濃いだけに、これまでにも増して楽しみだ。

前日のヤルヴィと N 響の「ドン・ジョヴァンニ」では、演奏会形式とはいえ、歌手たちはそれなりの衣装を着て、舞台上演さながらの演技を披露していた。それに対して今回は、衣装は完全にコンサートスタイル (男性は全員燕尾服) で、演技もほとんどない。とは言っても、歌手たちや、また合唱団 (新国立劇場合唱団と世田谷ジュニア合唱団) まで含めて、全員が暗譜での歌唱である。つまり、そのまま舞台上演が可能なほどの歌いぶりであったのだ。そして私が何より感動したのは、今回のバッティストーニと東フィルの演奏の驚くべき充実ぶりだ。このオペラは序曲も前奏曲もなく、いきなり嵐のシーンで始まるが、客席の照明とともに舞台の照明も暗くなって登場したバッティストーニは、聴衆の拍手も知らぬげに、指揮台に登るやいなやタクトを一閃、渦巻く音響が沸き起こったのである。その電撃的な冒頭から一貫してオーケストラは極めて雄弁であり、最強音から最弱音に至るまで随所にニュアンス満載だ。本来は新国立劇場の専属オケとなることを予定されていた、そして実際にそこでほかのどのオケよりも頻繁に演奏している、このオケの豊富なオペラ体験なくしてはあり得ないような、オペラ的音響をこれでもかとばかりに繰り出したのである。お見事。
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一方、歌手陣はいささか複合的であったと言えようか。主要な役柄は以下の通り。
 オテロ : フランチェスコ・アニーレ (イタリア)
 デズデーモナ : エレーナ・モシュク (ルーマニア)
 ヤーゴ : イヴァン・インヴェラルティ (イタリア)
 カッシオ : 高橋達也
 ロデリーゴ : 与儀巧
 エミーリア : 清水華澄
 ロドヴィーコ : ジョン・ハオ (中国)

まず主役のフランチェスコ・アニーレは、昨年の「イリス」でもオオサカ役を歌っていた人だ。そのときの美声には魅了されたが、所詮は脇役。今回のような出ずっぱりの主役となると、負担は段違いである。彼の歌唱、朗々と歌い上げる箇所は素晴らしい表現力であったが、ストーリーの流れにおいては重要な、低い声での朗誦にはちょっと課題が残ったか。演奏会形式でありながら、第 3幕と第 4幕の最後で指揮台に頭を乗せるような恰好で倒れるという熱演によって、このオペラの劇性を表現していた点は高く評価したい。
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デズデーモナのエレーナ・モシュクは今回初めてこの役を演じるらしいが、もともとのレパートリーは、夜の女王とか、「ホフマン物語」の 4役のようなコロラトゥーラが多いようだ。経歴は大変立派なもので、世界の名歌劇場で活躍している。今回彼女は第 4幕の「柳の歌」で聴衆を魅了することとなった。実はこのデズデーモナという役、細やかな心理描写を必要とする割には聴かせどころが少なく、その「柳の歌」にすべてが集約されていると言っても過言ではない。そんなことを再認識させる素晴らしい歌唱であった。
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ヤーゴのイヴァン・インヴェラルディも世界各地のオペラハウスで活躍しており、私としては今回の歌手陣の中の最大の功労者であったと思う。そもそもこの「オテロ」という作品は、ヤーゴがよくないと締まらないのだが、その意味では、彼の歌唱が上演全体の出来を押し上げていた。
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その他日本人、中国人歌手 (但しロドヴィーコのジョン・ハオは二期会会員) も要所要所を締めていたが、存在感のある歌唱を聴かせた歌手として一人挙げるとするなら、エミーリア役の清水華澄であろう。この役は、終幕の大詰めで真相が明らかになるきっかけを作るという重要な役。以前山田和樹と日本フィルの伴奏によるリヒャルト・シュトラウスの「4つの最後の歌」で見事な歌唱を聴かせたことは記事に書いたが (2016年 9月 4日の記事ご参照)、今回も実に素晴らしいと思った。やはりこのような脇役が充実すると、上演の質自体がぐっと上がるのである。
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と、音楽的にはかなり充実した公演であったのだが、ひとつ問題があった。それにはこの上演のポスターとして、冒頭に掲げたものとは異なるもうひとつのパターンのものをご紹介する必要がある。

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これは一体なんだろう。骨太な「オテロ」という作品には似つかわしくない、線の細い白黒の世界。そのヒントは、プログラムに掲載されたバッティストーニの文章に見られる。この若きマエストロいわく、自身優れた作曲家でもあり、この「オテロ」の台本を書いたアッリゴ・ボーイトには「二元論」という詩があり、それこそはこの「オテロ」の本質と関係しているとのこと。白と黒、つまりは白人であるデズテーモナと黒人であるオテロの間に存在する二元論。このポスターはどうやらそれを象徴しているらしい。そして今回の上演では、白と黒の織りなすプロジェクションマッピングがステージ上で展開した。こんな具合である。
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プログラムに掲載されている阿部一直というアート・プロデューサーの解説によると、これはライゾマティクリサーチなるアート集団によるもの。会場であるオーチャードホールの壁面を三次元モデリングで計測して立体空間情報化し、音楽の進行に合わせて映像を投影するという、世界初の試み。なんでも、「オテロ」を実際に聴いた人がどの場面でどのような感情を抱いたかというデータを取り、それをもとに投影する映像を作ったらしい。・・・うーん、申し訳ないが私には、そんなことをする意味が分からない。人間の感情は演奏される音楽によって移り変わるもの。それを舞台に投影することに一体いかなる意味があるのか。実際のところ、冒頭の嵐のシーンでの激しい映像は音楽の力を大いに邪魔していたし、その後、このオペラの全曲に亘って展開される人間感情の機微において、映像のあるシーンとないシーンがあり、見る者に余計な思考を強いたと思う。カーテンコール時にこのアート集団が姿を見せたときにはブーイングが起こっていたが、率直なところ、私も全く同感である。名作の持つ強い音楽の力は、それだけで充分なものなのだ。関係者の努力に敬意を払うのはやぶさかではないが、今回の聴衆の反応をよく理解して欲しいものである。その意味で、上記の阿部一直の文章も、私としては、申し訳ないが説得力のないものとしか思えないのだ。

この作品はヴェルディ 74歳の作で、この不世出のオペラの巨匠の、最後から 2番目のオペラである。台本作者のボーイトの励ましのもとに書かれた作品であることはよく知られている。まぁ、そこには白と黒の二元論は確かにあるかもしれないが、うねる音楽の迫力と、登場人物たちの複雑な感情表現こそが本質だ。そのようなことを実感できる上演を見たいと思う。今回の上演は、奇妙な映像の投影にもかかわらず、音楽的な成果には大いに見るものがあった。バッティストーニと東フィルには、今後も力強く多彩な音楽を奏でて欲しいと思う。さてこれは、本作の作曲を終えたヴェルディが、喜んでボーイトに送った手紙。「親愛なるボーイト 終わった! われわれに乾杯..... (そして彼にも) さようなら G・ヴェルディ」とある。ここで言う「彼」とは、主役オテロのことだろうか。この短い手紙に、大作曲家の自信と安堵感がにじみ出ている。願わくば、ハイテクに依存するのではなく、作曲家が心血を注いで作り出した音楽の力だけを感じるような上演を体験したい。
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by yokohama7474 | 2017-09-11 00:38 | 音楽 (Live) | Comments(2)