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メシアン : 歌劇「アッシジの聖フランチェスコ」(演奏会形式) シルヴァン・カンブルラン指揮 読売日本交響楽団 2017年11月26日 サントリーホール

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これから私が語り始めるのは、フランスの名指揮者シルヴァン・カンブルランが、自ら常任指揮者を務める読売日本交響楽団 (通称「読響」) を指揮して行った、オリヴィエ・メシアン (1908 - 1992) の超大作オペラ「アッシジの聖フランチェスコ」の全曲日本初演についてである。最初に言ってしまうと、ここで読響は間違いなく楽団史上屈指の大イヴェントを成功させたばかりか、日本のオーケストラ史上に残る大きな業績を打ち立てたのである。しかもそれが、名だたる世界の名オーケストラがひっきりなしにやってくる時期の東京でとなると、やはりその意義には最大限の敬意を表する必要がある。東京の音楽文化のレヴェルを、我々自身が再認識する素晴らしいきっかけとなった演奏会であった。

今回の演奏会は、サントリーホールで 11/19 (日) と、その一週間後の 11/26 (日) の 2回、そして、このプロジェクトを共同企画したびわ湖ホールで 11/23 (木・祝) にと、合計 3回開かれた。私が聴いたのはその最後のものであったが、通常の公演よりも高い価格設定であったにもかかわらず、東京公演は 2つとも完売で、このような珍しい曲目に対する東京の聴衆の好奇心がそれだけからも伺いしれて、実に興味深い。この日の演奏は、14時に開始して、35分の休憩を 2回挟んで、終了は 19時40分。実に 5時間半を超える大スペクタクルであった。ではまず、この曲について簡単に触れ、私自身の思い入れ (以前も書いたことがあり、繰り返しで恐縮なるも) についても少し語らせて頂く。これが 11/19 のサントリーホールでの演奏風景。
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メシアンはもちろん、フランス 20世紀を代表する真に偉大な作曲家であり、敬虔なカトリシズムに依拠し、しばしば鳥たちの声を題材として、神秘的な曲の数々を書いた人。このオペラ「アッシジの聖フランチェスコ」は、12世紀から 13世紀にかけてイタリアのアッシジで活躍し、鳥の声を解したという聖人で、キリストと同じ箇所に傷 (聖痕 = スティグマ) を受けたという伝説のある聖フランチェスコを主人公とした、メシアン唯一のオペラである。1983年11月にパリ・オペラ座で世界初演されたのであるが、その時に指揮を取ったのが、ほかならぬ小澤征爾であった。当時そのことはかなりのニュースになって、この正味 4時間半を超える超大作を小澤が全曲暗譜で指揮したとか、そもそもメシアンは作曲の過程で小澤の音を常に念頭に置いていたとか、あるいは、宗教的な題材を扱うならなぜキリスト本人についての作品を書かないのかと質問を受けたメシアンが、「それは恐れ多い」と答えたとか、様々な情報があった。実は、その世界初演において小澤が指揮をする様子を映した鬼気迫る動画が、我が家のアーカイブのどこかにあるはずなので探してみたが、残念ながら見つけることができなかった。だがこの作品の世界初演は、明らかに偉大なる音楽史の 1ページであり、小澤という音楽家の記した歴史的な足取りであることは間違いない。その時のライヴ録音は、今や入手困難になっているようなので、ここで私が所有するセットの写真を掲載しておく。4枚組 CD が、写真下部にある灰色の紙ケースに入っている。
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その小澤はまた 1986年 3月に新日本フィルを指揮して、目白の東京カテドラル聖マリア大聖堂にて、この作品の一部 (全曲 8景のうち 3景) をオラトリオとして日本初演している。実はこのコンサート、私のこれまでのコンサート歴において未だに 5指に入る、まさに鳥肌ものの超名演であり、正直なところ、私が今でもクラシックコンサートに足繁く通うのは、この日の演奏会で音楽の素晴らしさを実感したから、と言っても過言ではないくらい、私にとっては重要な出来事であったのだ。カーテンコール時に、真っ赤に紅潮した作曲者メシアンが、ステージで小澤を抱擁しているところを、若い私も紅潮しながら呆然と見ていたことを、鮮明に覚えている。そのときの新聞記事から、メシアン、彼の夫人であるイヴォンヌ・ロリオ、そして小澤の写真。当日のプログラムと、サイン会もなかったのに、興奮した私が会場でメシアンにボールペンを渡してプログラムに無理矢理書いてもらったサイン。
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実は私は幸運にも、このとき以外にも 2回、この作品の実演に触れる機会があった。ひとつは 1999年11月マドリッドにて、アントニ・ヴィト指揮スペイン国立管弦楽団による抜粋版の演奏。もうひとつは 2008年 9月ロンドンのプロムスにて、インゴ・メッツマッハー指揮のハーグ・フィルで、このときは演奏会形式ながら全曲の演奏であった。そして今回も、演奏会形式ではあるがこの超大作が、カンブルランと読響によって全曲日本初演されるという歴史的な場に立ち会うことができたのである。今回のプログラムに、この演奏会に寄せる小澤征爾のコメントが載っていて、それは、「自分が敬愛する作曲家メシアン先生が唯一作曲したオペラの指揮を私に任せてくれたことを今でも懐かしく思い出します。今回、日本で全曲が演奏されると聞いて、とても嬉しいです」というシンプルなものだが、小澤らしくてよいではないか。

さて、今回はいつも以上に前置きが長いが (笑)、それはこの演奏会の意義を再確認しておきたかったからである。読響の常任指揮者を務めるカンブルランは、現代音楽も得意にしていて、このメシアンも、既にトゥーランガリラ交響曲や「彼方の閃光」などの大作を読響で指揮している。そして彼は、1992年にパリ・オペラ座で再演されて以来何度もこの作品を手掛けており、世界で最も多くこの作品を指揮した実績のある人なのである。
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そのことは、彼の指揮ぶりを見ていてよく分かった。この作品、上述の通りワーグナーの大作並の演奏時間を持つのであるが、実は内容は決してとっつきにくくもしんねりむっつりもしておらず、ワーグナーほどの重量感や冗長感もない。何度も何度も出て来る主人公聖フランチェスコのテーマや、炸裂しては沈黙するオーケストラ、百花繚乱の鳥の声、そして、ひたすら木琴類 (シロフォン、シロリンバ、マリンバ) が複雑なリズムで鳴りまくる箇所が、不思議な陶酔感を醸し出すのであるが、カンブルランは木琴類だけが鳴り渡る数分間でも、休むことなく強い集中力をもって指揮棒で空間を切り裂くという正確な指揮を続け、それはそれは圧巻である。よい意味での職人性を持つ彼の指揮は、過たず作品の本質を突き、ただひたすら核心に向かってひた進む。この作品で 3台も使われている電子楽器オンドマルトノは、ステージ奥のオルガン横、そして左右、ホールの真ん中あたりに位置しており、何度も何度も奇妙な音響を立ち昇らせるが、あたかもそれが何かの典礼のようにも聞こえてくる。そしてもちろん、大団円での想像を絶する大音響では、まるで音の勢いが爆風さながらにホール全体を揺らすような圧力を持ち、キリスト教徒ではない我々の前にも、あたかも神が顕現したかのようなヴィジョンを見せてくれた。まるで 4時間半が一連の壁画であるような演奏であったと言ってもよい。この作品は 3幕、8景でできていて、その内容は以下の通り。
 第 1幕
  第 1景 : 十字架
  第 2景 : 賛歌
  第 3景 : 重い皮膚病患者への接吻
 第 2幕
  第 4景 : 旅する天使
  第 5景 : 音楽を奏でる天使
  第 6景 : 鳥たちへの説教
 第 3幕
  第 7景 : 聖痕
  第 8景 : 死と再生

それぞれの場においては、聖フランチェスコの独白や弟子たちとの対話、また、重い皮膚病患者の接吻による治癒という奇跡や、旅人を装って弟子たちと会話する天使、そして、聖フランチェスコが聖痕を受ける場面と、最後に天に召される場面などが出てくる。つまり、物語として一貫性のあるものではなく、それぞれのシーンにおける神秘性や法悦性が曲の重点なのであり、オペラと言いながらも、序曲もなければ重唱やアリアもない。それゆえ、下手をすれば単調になる恐れのある作品だが、ひたすら強い集中力によって統率するカンブルランに、その手兵である読響が充分すぎるくらいの反応を示すことで、大変説得力のある演奏になったことを、とにかく喜びたい。それから、新国立劇場合唱団とびわ湖ホール声楽アンサンブルによる合唱も、過酷な長丁場の要所要所を素晴らしい内容でこなしており、最大限の敬意を表したい。歌手陣では、主役の聖フランチェスコを歌ったヴァンサン・ル・テクシエ (バリトン) は安定した出来であったし、天使役のエメーケ・バラート (ソプラノ) は、高音部の力強さがあればもっとよかったが、非常に美しい歌唱。それから、重い皮膚病を患う人を歌ったペーター・ブロンダー (テノール) は、その表現から「指環」のミーメを思わせたが、実際にバレンボイムの指揮でその役を歌った実績があるという。さらに、少ない出番ながら、兄弟エリアを歌ったジャン=ノエル・ブリアン (テノール) は張りのある美声で印象的だったし、兄弟ベルナルド役の妻屋秀和 (バス) も、日本を代表するバス歌手として貫禄充分であった。これはリハーサル風景。
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このような曲が演奏される 2回のコンサートが完売になる東京は、やはり本当に文化的な街である。我々は、今回の演奏の成功に惜しみない拍手を送るとともに、それを享受できる東京の文化的状況を誇りに思いたい。だが、最後にひとつだけ、気になることを書いてみよう。それは、聴衆の年齢層である。そもそも東京は、欧米のほかの大都市に比べて、クラシックのコンサートにやってくる聴衆の年齢層が若いという評価であったはずだ。それが今回、かなり年齢層が高いことに気がついた (私などは、もしかしたら平均年齢以下かもしれないと思われるほど・・・ちょっと誇張かな 笑)。これは若干奇異ではないか。しばらく前までなら、このような伝統的でない曲目のコンサートには、ちょっとユニークな服装をした若者も、少しは姿を見せていたように思う。全身黒づくめで血圧の低そうな女性とか、「オレのロック魂がメシアンの鳥たちと鳴きかわすぜ」とうそぶくロッカーとかが、本来会場にいるべきではなかったか。これからますます高齢化社会となり、コンサート会場で若者の姿を見ることが減って行くことになるのだろうか。それはクラシック音楽の将来にとっては、あまりよくないことだと思うのである。だからといって私に今すぐ何ができるわけでもないが、今回のような特別な曲の特別な演奏は、別に黒づくめやロッカーでなくてもよい、普通の若者にもっと聴いて欲しかった。31年前の私も、そんな若者であったわけで、若き日の感動が一生残るという意味では、それはかけがえのない経験であるはずなのだ。この記事を読まれる若い方々 (どのくらいおられるのか正直全く分からないが) には、是非この言葉を参考にして頂きたいものだと考えております。

by yokohama7474 | 2017-11-27 23:04 | 音楽 (Live) | Comments(2)

秋山和慶指揮 東京交響楽団 (ヴァイオリン : 佐藤玲果) 2017年11月25日 東京オペラシティコンサートホール

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このところしばらくは、贅沢この上ない世界最高クラスのオーケストラをとっかえひっかえ聴いてきたわけであるが、さて、それだけで本当によいのであろうか。もちろん、世界のトップオケの演奏には必ず何か発見があるもの。だがしかし、21世紀の東京に暮らす身としては、やはり「おらが街の」オーケストラもじっくり聴いてみたい。それこそが、東京が世界に発信できるはずの価値あるものであるべきだからだ。ただ問題は、この東京における「おらが街の」オーケストラは、フル編成のものだけで実に 9団体も存在するのだ!! これは間違いなく世界一であろうし、しかもそれぞれが独自の指揮者陣によって高度な活動を展開しているわけであるから、東京でおらが街のオケをフォローするだけでも、それはなかなかに大変なことなのである。だが、このコンサートなどはさしずめ、私のような人間にとっては必聴のものだ。なぜなら、私の敬愛する、今年 76歳になる巨匠、秋山和慶が、長年天塩にかけた東京交響楽団 (通称「東響」) を指揮して、何やら面白いプログラムを演奏するというのだ。どのくらい面白いかというと、このくらい面白いのだ。
 ロッシーニ : 歌劇「ウィリアム・テル」序曲
 シベリウス : ヴァイオリン協奏曲ニ短調作品47 (ヴァイオリン : 佐藤玲果)
 オッフェンバック : 喜歌劇「天国と地獄」序曲
 サティ (ケネディ編) : スポーツと気晴らし
 マルティヌー : ハーフ・タイム
 オネゲル : 交響的運動第 2番「ラグビー」

どうです、面白いでしょう? 上のチラシにある通り、このコンサートのテーマは「スポーツと音楽」。つまり、運動会で使われる曲や、スポーツそのものをテーマにした曲を集めてあるのである。私なりにもう少し分析を加えると、前半と後半、それぞれの冒頭に、「ウィリアム・テル」序曲と「天国と地獄」序曲を配したのは、この 2曲の作りが似ているからである。そして、前半では 20世紀初頭に書かれたシベリウスのコンチェルト (終楽章がまるで運動会のような曲)、後半ではやはり 20世紀初頭、1910 - 20年代のパリに因む曲なのである。大変に考え抜かれたプログラムであり、さすが名伯楽秋山の面目躍如たるものがある。
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いや実際、この演奏会の楽しかったことと言ったら!! 「ウィリアム・テル」序曲とか「天国と地獄」序曲といった曲は、あれこれ出て来るソロが巧くなくてはならず、そして何より、オケのメンバーが真面目に、かつ楽しく演奏しないといけない。今回はまさにそのような、真面目かつ楽しい演奏であったのだが、オケにおける最大の功労者はこの人だろう。
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2013年からこの東響のコンサートマスターを務める、水谷晃。1986年生まれというから、今年 31歳。実は既に 2010年に、群馬交響楽団に国内最年少のコンマスとして入団している。東響には長らく大谷康子という素晴らしいコンマスがいたが、彼女が退団しても、このように素晴らしいコンマスが後を継ぐのだから、東京のオケは侮れない。今回のコンサートにおいて水谷は、終始笑顔を絶やさずにオケをリードし、「天国と地獄」における自身のソロも完璧な出来。実に心強い。もともと日本人は顔の表情があまり豊かでない人が多いが、この水谷の演奏から、これから日本人に必要な資質を学びたいと思う。それから、このオケのオーボエのレヴェルは、以前音楽監督ジョナサン・ノットの指揮する「コジ・ファン・トゥッテ」の演奏会の記事でも書いたが、それはそれは素晴らしいもの。2人の若い女性首席奏者がいて、その名は荒絵理子と荒木奏美 (今回のトップは後者)。アラアラコンビだが、全くアラアラと思うほど、その演奏は素晴らしい。今後東響の演奏を聴く機会のある方は、是非オーボエに注目して頂きたい。
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そこに加わったのが、秋山の絶賛を得てソリストとして登場した、ヴァイオリンの佐藤玲果。1999年生まれで、現在東京藝術大学音楽学部附属音楽高校の 3年生。
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ステージマナーも初々しい佐藤は、シベリウス初期の傑作であるヴァイオリン協奏曲を弾いたのだが、やはり、フレッシュな音楽家の演奏はいいものだと思わせる内容であった。技術的には申し分なく、伸び伸びと弾いているところに好感が持てた。もちろんこの曲にも陰影があり、その表現は、佐藤が今後経験を積むにつれ、さらに深いものになって行くだろう。

そして、このコンサートの醍醐味は、なんと言っても最後の 3曲。いずれもスポーツに関係する曲だ。サティの「スポーツと気晴らし」はもともとピアノ曲で、この作曲家のファンである私は、高橋アキの録音でそれなりに聴いてきたが、ここではトーマス・ケネディ (1953 - 2007) の編曲による、全 21曲から 14曲を抜粋して曲順を入れ替えたヴァージョンでの演奏。14曲もありながら、演奏時間はわずか 10分ほど。いかにもサティらしい、皮肉でとぼけた味わいの曲で、まあそもそもサティとスポーツほど遠いイメージもないように思うが、この曲の中では、男性打楽器奏者が細長い木の棒をゴルフのクラブ代わりにしてスウィングし、その後膝の上で真っ二つにするというパフォーマンスもあり、生演奏ならではの面白みがあった。次のマルティヌーの曲は、名前はそれなりに知られているが、実際に演奏されることはかなり稀な作品。マルティヌーはもちろんチェコの作曲家であるが、1920年代にパリで学び、洒脱なモダニズムを身に着けた。この「ハーフ・タイム」はまさにその頃、1924年の作。彼はサッカー・ファンであり、ハーフ・タイム中の観客の喧騒や、サッカー選手の身のこなしを音楽にしたという。冒頭からいきなり、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」を思わせるような、色彩が明滅する面白い曲。これもわずか 10分弱の短い曲であるが、秋山と東響の演奏は、その持ち味を充分に出したもので、マルティヌーという作曲家をもっと知りたいと思ったことであった。そして最後はオネゲルの「ラグビー」である。これは交響的運動第 2番 (という訳が正しいのか否かよく分からない。なぜなら英語の "Movement" は、日本語では「運動」であると同時に、音楽における「楽章」でもあるからだ) と題されている。では、その交響的運動第 1番は何かというと、有名な「パシフィック 231」。疾走する機関車を描写しながら、実はバッハのコラール前奏曲へのオマージュでもあるこの作品に比べて、この「ラグビー」の知名度は若干低い。録音もあまり多くなく、私はジャン・マルティノンの録音でしか聴いたことがない。また、チューリヒ・トーンハレ管が、当時の音楽監督であった若杉弘と来日した際に聴いた記憶があって、調べてみるとそれは 1990年のこと。気がつけば随分前のことだが、多分生演奏でこの曲を聴くのはそれ以来だろう。ここでも秋山と東響の演奏は切れもあり愉悦感もありで、素晴らしい。曲自体も、ラグビーの運動性を描写していて派手であるが、よく見ると打楽器が全く使われていない。これは意外であった。ラグビーのイメージ写真を掲載しよう。
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そして、どうやらアンコールがありそうだったので期待して見ていると、打楽器奏者がゾロゾロ入ってきて、始まったのは、あの有名なカバレフスキーの「道化師」から「ギャロップ」だ。誰でも聴いたことのある賑やかな曲で、コンサートの締めくくりを大いに盛り上げた。改めてこの秋山という指揮者の活動の多様性を思う。やはり、東京の文化を実感するには、来日オケを聴いているばかりではなく、このようなおらが街のオケの意欲的な試みを体験する必要があるだろう。会場では、今回の曲目とは全く異なる曲、ベートーヴェンの第九の新譜 CD を売っていたので購入した。昨年の年末のライヴ録音である (私もその演奏を生で聴いた)。このコンビの第九の録音は以前もあったと思うが、また新たに期すところがあるのだろう。今後もこのコンビは極力聴いて行くことにしたい。
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by yokohama7474 | 2017-11-27 00:51 | 音楽 (Live) | Comments(0)

サイモン・ラトル指揮 ベルリン・フィル (ピアノ : ユジャ・ワン) 2017年11月24日 サントリーホール

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サイモン・ラトル & ベルリン・フィル、最終章。いよいよ東京での演奏会である。11/24 (金)、25 (土) の 2回、サントリーホールで開催されるこのコンビのコンサートは、今年の数々の一流オケの来日の中でも、最もチケット争奪戦の激しかったもの。会場前には、「チケット求む」の紙を持って佇む人の姿が、どうだろう、6 - 7人はいただろうか。ただ、その方法ではなかなかチケットをゲットするのは難しかろう。その一方で会場には、「招待券受付」という窓口があって、スポンサーである TDK の関係者や得意先の方々は、そちらを利用したのであろう。もちろん、オーケストラコンサートにとって、スポンサーは不可欠な存在で、そのスポンサーが招待券を配布することには全く問題がない。だが、一方で純粋に音楽を聴きたくてもチケットが手に入らない人と、必ずしも音楽に興味がなくとも招待されたから会場に赴くという人とがいるだろうことは、なんとも皮肉なことではある。かく言う私も、なんとか最安席を 2次マーケットで (もちろん定価で買えるわけはない) 入手した口なので、純粋にこのコンサートを聴きたかった人たちの気持ちはよく分かる。いや、正確には今回、当日券をゲットできるかもしれないチャンスがあったのだ。その経緯は以下の通りだ。前回の記事で書いた通り、もともとこのコンサートのソリストとして予定されていたピアニスト、ラン・ランは来日中止となり、その代役としてユジャ・ワンが登場することとなった。そこで主催者は、ラン・ランのキャンセルによるチケットの払い戻しを認め、そこで返されたチケットを、当日希望者に抽選で販売するという策に出たのである。これはかなり良心的なことではあると思うのだが、ラン・ランなら聴きたいがユジャ・ワンには興味がないからチケットを払い戻すという判断をした人がどのくらいいたのか、大変興味があるのである。それにしても、この左手首が腱鞘炎とは・・・。やはりラン・ランも人間だったのである (笑)。
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この日の曲目は以下の通り。
 リヒャルト・シュトラウス : 交響詩「ドン・ファン」作品20
 バルトーク : ピアノ協奏曲第 2番 (ピアノ : ユジャ・ワン)
 ブラームス : 交響曲第 4番ホ短調作品98

なるほど、前日は真ん中に現代曲を置いたロシア音楽プロ、今回は真ん中に協奏曲を置いたドイツ音楽プロである。さて、それが関係しているのか、コンサートが始まる前に舞台を見渡して気づいたことには、前日の川崎でのコンサートはそうではなかったのに、今回は、ヴァイオリンが左右対抗配置になっているのである!! つまり、前日は指揮者の左手から右回りに、第 1ヴァイオリン、第 2ヴァイオリン、チェロ、そして指揮者の右側がヴィオラ、その奥がコントラバスであったのに対し、今回は第 2ヴァイオリンとヴィオラの位置が入れ替わっていたのである。うーん、今回の曲目で、ブラームス 4番の第 1楽章あたりにはヴァイオリンが交互に歌う箇所もあるから対抗配置が効果的ともいえ、またバルトークのコンチェルトの第 1楽章では弦楽器が完全に沈黙するので、対抗配置であろうとなかろうと関係ない部分もあるので、前日と違う配置でも問題ないという判断だろうか。そう思って彼らの演奏風景の写真を見てみると、ヴァイオリンが対抗配置になっているものも、そうでないものもある。また、ヴィオラとチェロの位置が逆のときもある。やはり、ホールの特性やメインの曲目によって、配置を替えているということだろうか。
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ともあれ、音楽を聴いてみよう。最初の「ドン・ファン」はもちろん天下の名曲で、このような高性能のオケによるコンサートのオープニングには最適なのであるが、プログラムに掲載されているラトルのインタビューによると、この曲は自分がベルリン・フィルの首席に着任した頃に採り上げ、今回は久しぶりだが、カラヤン (この曲を得意とした) の死後、あまりこのオケで演奏されていなかったという。なるほど。だがやはりベルリン・フィルほどこの曲を演奏するのに相応しいオケもちょっとないだろう。いきなり突風のように吹き抜ける弦楽器はまさに一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルだし、オーボエのソロ (今日はマイヤーではなかったが) も実に繊細。ラトルの指揮はいつもの通り、グイグイ進めるところと抒情的に歌うところを微妙に (決して強引にではなく) 色分けして、曲の持ち味を最大限に引き出すもの。ほんのわずか、ホルンに不揃いの箇所があったようにも聞こえたが、それを除けば、まずは完璧の出来である。

そして 2曲目にユジャ・ワン登場だ。この驚異のピアニストについてはこのブログでは以前散々書いているので、詳細は省くが、次にその演奏を日本で聴けるのは来年 3月のニューヨーク・フィルの来日まで待つ必要あると思っていた私のような人間にとっては、もちろんラン・ランも聴きたかったが、その代役をユジャ・ワンが務めるという事態に、まさに快哉を叫びたくなる。彼女のベルリン・フィル・デビューは 2015年 5月。パーヴォ・ヤルヴィの指揮でプロコフィエフの 2番のコンチェルトを弾いた。今回は野性味の強いバルトークのコンチェルトであるだけに、期待が高まる。これは、楽団のサイトから拝借した、日本公演に先立つ中国ツアーにおける武漢でのリハーサルと本番の模様。あっ、この衣装は今回のものと同じものではないか。
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今回のバルトーク、私の席からは残念なことにピアノの音が聴こえにくく、全体としてちょっとオケの音量が大きかったような気がする。だが、ユジャ・ワンの超絶的な腕の動きを見ていると、ピアノを打楽器として使っているようなこの曲の本質が見えてくるような気がした。前述の通り、第 1楽章は弦楽器は一切登場せず、オケは打楽器と管楽器だけなのであるが、第 2楽章に入ると、遠い夕焼けに溶けて行く景色のような微妙な色合いが、弦楽合奏によって示される。美しい瞬間だが、まるでアイヴズの「宵闇のセントラルパーク」の冒頭のような浮遊感や神秘性があり、ベルリン・フィルの弦の音は実に素晴らしい。この楽章では今度は金管楽器が登場しない。第 3楽章は慌ただしく変転する音楽で、ここでは様々な楽器が鳴り響く。そんな多彩な音楽的情景の中を泳いで行くユジャのピアノは、もちろん技術的に完璧であるだけでなく、確固たる自信を感じさせるもの。ただ惜しむらくは、打鍵の強さがもっとあれば、私のような安い席の聴衆にまで、その強い音楽が届いたのに、と思う。そして、演奏終了後はラトルとともに何度か舞台に登場したが、ラトルが舞台奥のハープ奏者の席 (ここが空いていたのは、「ドン・ファン」ではハープは使われたが、バルトークでは使われなかったからだ) に座って舞台上の一聴衆となり、アンコールとしてラフマニノフのヴォカリーズが演奏された。冒頭はちょっとコントロールしすぎで流れが悪いように思ったが、その後は抒情性をよく表現していた。そして 2曲目は、指揮者とコンサートマスター (今日も樫本大進) の方に、「まだ時間大丈夫かしら」という物問いたげな視線を向け、「まっ、やっちゃいますか」とばかり弾き出したのは、昨年のリサイタルのアンコールでも弾いた、プロコフィエフの 7番のソナタの終楽章。これはいつもと変わらぬ完璧な演奏で、ラトルもしきりに拍手をしていた。

そしてメインのブラームス 4番は、言うまでもなく天下の名曲。この晩秋の雰囲気に相応しい、人間の孤独と暗い情熱を感じさせる曲である。ここでもラトルとベルリン・フィルは素晴らしい演奏を展開した。いつもの通り、弦楽器はからだ全体で分厚い音を出し、木管はクリア、金管は輝かしい。冒頭のため息のような音型はなかなかに情感豊かに演奏され、全曲の至るところで纏綿たる情緒が歌われた。だがそこはラトルで、決して重くなりすぎることはなく、なんというか、あまり凹凸のない平らな地面をグイグイ力強く進んで行って、気がつくと地面は摩擦で熱を帯びているという印象。これはなかなか言葉にしにくいのだが、私がいつも感じるラトルの音楽の特性だ。つまり、極端な緩急はつけず、また、鳴っている音たちの広がりや、その深さ高さというよりも、むしろ強固な平面としてのつながりを思わせる音作り、という印象なのである。このスタイルは、いかなる音楽にも対処できるので、ラトルの音楽が情緒的すぎたり、無味乾燥であることはまずない。それはもちろん見事な演奏なのである。だが、前日のラフマニノフの演奏について少し書いた通り、時にそれは、鳴っている音の圧力は感じても、心底感動する音楽にならない、ということはないだろうか。世界最高の指揮者と世界最高のオケのコンビをこんな風に書くと、気分を害される方もおられると思うが、1985年のフィルハーモニアとの初来日に始まり、バーミンガム市響、ウィーン・フィル、そしてベルリン・フィルとの組み合わせを日本で聴き、ロンドンでも、オペラや、古楽オケとの共演を聴いたこともあるこのラトルという指揮者の過去の印象から、どうも私にはその印象が抜けないのだ。過去の演奏でとりわけ心に残っているのは、東京オペラシティで聴いたバーミンガムとのマーラー 7番で、それは、大変熱心に練習をするオケを、波に乗る若手指揮者が強力に統率したという演奏だった。その時に持つこととなった、平面が摩擦でチリチリ燃え始め、ついにはそこで音楽が牙を剥くという印象は、今も変わらない。変わったのは、もとから世界一流のオケが相手であるということであり、ひたすら完璧を目指すことによって、逆に新たな境地が見えなくなるというジレンマが生じたことではないか。それを避けるため、あの手この手で曲目に工夫を凝らしてきたラトルであり、彼なりの進化は当然見て取れるものの、ベルリン・フィルとのコンビではもうこの先はないほどの境地に達してしまい、今後の展望が見えにくくなってしまったのではないか・・・。今回のブラームスを聴きながら、彼の過去の演奏も思い出し、少し複雑な気分を味わうこととなったのである。ただこれは、私の思い入れゆえの評価かもしれず、前日のラフマニノフ同様、今回のブラームスを名演と呼ぶことに、私は躊躇しない。その一方で、来年 9月にラトルが新たな手兵であるロンドン交響楽団を引き連れて来日する際、同じブラームス 4番を演奏するということが、私の中の大きな期待になっている。同じ曲を選んだことに何か意味があるのだろうか。自分の耳で確かめたい。...と書いた後に気づいたことには、それは間違いで、その演奏会、来年 9月29日(土) のメインは、ブラームス 4番ではなく、正しくはシベリウス 5番であること発見。演奏会の長さとしても、曲の座りとしてもその方が適当であろうから、最初の発表は、もしかすると誤りであったのかもしれない。大変失礼しました。

今回もラトルは日本語で、「ミナサン、ドウモアリガトウゴザイマス」と客席に呼び掛けたが、今回はそれ以上のコメントはなく、曲目紹介だけでアンコールが始まった。ドヴォルザークのスラヴ舞曲作品72-2。スローで抒情的な曲で、ブラームスの人間悲劇のあと、これは恰好のデザートとなった。この曲はちょうど、打楽器としてはティンパニ以外にはトライアングルしか使われておらず、ブラームス 4番のあとに演奏するにはちょうどよい編成であった。

東京公演はもう 1回、11/25 (土) にサントリーホールで開かれる。曲目は、既に川崎で聴いたものと同じなので、私は聴きに行かないが、ラトルとベルリン・フィルの最終章を、多くの聴衆が堪能することだろう。そして、オケ、指揮者それぞれの次のステップを期待しよう。たまたま上で、ラトルのバーミンガム時代のことに触れたので、青年指揮者ラトルへの多少のノスタルジーを持って、その頃に録音されたシベリウス 2番 (1984年) のジャケットを掲載して、この記事を終わりにしよう。
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by yokohama7474 | 2017-11-25 02:04 | 音楽 (Live) | Comments(0)

サイモン・ラトル指揮 ベルリン・フィル 2017年11月23日 ミューザ川崎シンフォニーホール

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さて。以前、ロイヤル・コンセルトヘボウ管の記事で予告した、アレの到来である。アレとはもちろん、クラシックファンには説明の必要もない。だがこのブログは、そうでない方々にも読んで頂ける内容を目指している関係上、改めて申し上げよう。世界最高峰のオーケストラ、ベルリン・フィルの来日である。これはこの秋の一流オケの連続襲来の中でも、間違いなくクライマックスをなすもの (だが誤解なきよう、この後にも大注目の来日オケが複数公演を控えている)。チラシを見ると、「ラトル & ベルリン・フィル、最終章。」とある。「アウトレイジ」ではあるまいし、一体何が最終章なのか。もちろんそれは、英国リヴァプールに 1955年に生まれた今年 62歳になる名指揮者、サー・サイモン・ラトルが 2002年以来続けてきたベルリン・フィルの首席指揮者・芸術監督の地位を、来年 2018年で退任するためである。今回の日本での演奏会は、川崎で 1回、東京で 2回の計 3回。ほかのオケよりもさらに高いその値段にもかかわらず、チケットは発売と同時に完売。今年注目度 No.1 のコンサートであることは間違いない。そうそう、これは今回のコンサートとは関係ないのだが、やはり書いておかねばならないのは、11/24 (金) のサントリーホール公演では現在最高のピアニストのひとり、日本でも大人気のラン・ランがソリストとして登場する予定であったが、左腕の腱鞘炎が完治しないために来日を断念。その代役は・・・実は私は、数百年前のことにはいろいろ興味があるくせに、何事によらず最新情報には疎い人間で、今回のコンサート会場でプログラムを買うまで知らなかったのだが、11/1 の時点で既に発表されていた情報によると、その代役の名は・・・なんとユジャ・ワンなのである!! ラン・ランの代役でユジャ・ワンとは、たまたま二人とも中国人と言っても何の意味もなく、とにかくすごいことになった。これについてはまた次の記事で書くことになろう。
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まずはこの日の曲目から。
 ストラヴィンスキー : バレエ音楽「ペトルーシュカ」(1947年版)
 陳銀淑 (チン・ウンスク) : ChorósChordón(日本初演)
 ラフマニノフ : 交響曲第 3番イ短調作品44

技術的にも音楽的にも、なんという難易度の高いプログラムだろう。オーケストラ音楽もこの時代になると、誰もが知るスタンダードな名曲ばかり繰り返し演奏していては刺激がない。ラトルが以前から展開してきた、クラシック音楽の新たな地平を切り拓く活動は、今でも変わらないし、今後も変わらないだろう。もちろん賛否両論であることは自身百も承知であろう。だがそれにしてもこのプログラム、私のような人間にとってはもう、よだれが出るほど興味深いものだ!!

今回は会場であるミューザ川崎 (ラトルのお気に入りのホールである) で、本番前の最終リハーサルに立ち会うことができたので、その様子をまず書こう。本番開始は 17時であったところ、リハーサルは 15時から約 1時間とのことであった。ホールの 2階 CB ブロックと 3階 Cブロックが開放され、自由席での見学となった。ラフな格好で思い思いに練習するメンバーであったが、この日の曲目であった「ペトルーシュカ」以外に、なぜか R・シュトラウスの作品の断片が聴こえてきた。サントリーホールでの公演曲目になっている「ドン・ファン」はまだ分かるとしても、家庭交響曲やホルン協奏曲第 1番など。あ、後者を吹いていたのはホルンです。やはりホルン奏者にとってはシュトラウスは、ちょっと吹きたくなるレパートリーなのだろうか (笑)。ラトルは 14時52分頃に登場。T-シャツ姿だと腹が堂々としていて、若い頃からこの指揮者を聴いてきた身としては、若干複雑な感情だ。彼は譜面台に乗っていた大きな木の板と、その上に置いてあったスコアを自らどけたのだが、もちろんそんな台を必要とする大きなスコアは、今日のチン・ウンスクの曲だろう。きっと午前中にもリハーサルがあって、その曲を練習したのだろう。楽員ほぼ全員が揃い、思い思いの音をさらっている中、14時58分にコンサートマスターの樫本大進が登場。その後 3人の女性スタッフが入れ代わりに恐らくは Housekeeping 事項を楽員に伝え(最初の挨拶は「メリークリスマス!」)、そしてリハーサルが始まった。結果的に、ラフマニノフ 3番を 40分、「ペトルーシュカ」を 10分練習して、15時50分頃の終了となったのだが、我々が座った場所はステージから遠いので、ラトルの指示はほとんど聞こえない。ただ、指示は英語で行っていて、練習番号のみドイツ語であったようだ。ラフマニノフは冒頭からだったが、最初にクラリネットとホルンが弱音で演奏したあとに弦楽器がダーッと入る箇所で、ヴァイオリン奏者たちはすり足をして、わざと床をざぁーっと鳴らし、そのドラマティックな音の雪崩れ込みをユーモラスに、また余裕をもって表現した。非常にまじめなイメージのベルリン・フィルであるが、リハーサルではこんな楽しげなこともあるのは面白い。その後ラトルはかなり頻繁にオケを停め、弦楽合奏の表情などに注文をつけていた。極めてロマンティックでハリウッド風の第 2主題を何度もやり直していたのが印象的であった。第 2楽章は主として中間部のマーチ風の部分、第 3楽章も途中から終結部までをさらった。そして、続く「ペトルーシュカ」は、ほんの数か所を確かめるように練習したのみで終了した (オーボエのアルブレヒト・マイヤーがラトルに対して英語で、ある部分のテンポについて質問していた)。それにしても、そこで響いてくる音は、我々のよく知っているベルリン・フィル・サウンドとしか言いようがなく、重みと輝きをもった、情報量の多いもの。リハーサルだけでも、既にしてかなりのごちそうだ。

そしてコンサート本体である。最近は有名オケのコンサートでも空席が目立つことは珍しくないが、そこはやはりベルリン・フィル。今回はぎっしり満席だ。そして、ラトルが譜面台も置かずに暗譜で指揮して始まった「ペトルーシュカ」。その立ち上がりは極めて安定していて、エマニュエル・パユのフルートが自在に歌う。このパユをはじめとして、今回の演奏での木管ソロは、かなり濃厚な表情づけをしていて、その音は決して重いとか流れが悪いというわけではないものの、もしかすると、もっと鋭い音響のストラヴィンスキーを好む人もいるかもしれないなと思ったが、だがいずれにせよ、この天下の難曲をこれほど易々とこなしていくスーパーオーケストラは、そうそうあるものではないだろう。音の輝き、推進力、各場面の描き方の明晰さ、それらはいずれも申し分なく、普通のオケならしばしば悲惨なことになる (笑) 何か所かの難所でのトランペットも、全く不安のない、実に見事なもの。本当に素晴らしい。

休憩後の最初に演奏されたチン・ウンスクの曲は、今月ベルリンで世界初演されたばかり。チンは 1961年生まれの韓国の女流作曲家で、ハンブルクにてジェルジ・リゲティに師事した。世界的な創作活動を行っており、私の場合は、以前放送を録画した (例によって視聴はできていないが・・・) ケント・ナガノの指揮によるオペラ「不思議の国のアリス」によって、その名は知識の中にあった。だが、作品を聴くのは今回が初めてだ。
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プログラムに掲載されたラトルのインタビューによると、これはベルリン・フィルが何人かの作曲家に委嘱している「タパス・シリーズ」のひとつ。このシリーズ名は、スペイン料理のタパスのような小品という意味らしい。現代音楽の普及のためには、これはなかなか面白い発想である。今回の作品の題名はギリシャ語で「弦の踊り」という意味で、演奏時間 10分ほど。題名通り、弦楽器が、より合わさった粗いひも (Strings) のようにウネウネと進む一方、木管や金管、それから打楽器もかなり刺激的な音響を作り出す。だが、決してしんねりむっつりした曲ではなく、難解さはあまりないどころか、美しい瞬間が何度も訪れる。打楽器奏者は紙をクシャクシャにすることまで求められるが、きっと演奏していて楽しいのではないだろうか。ラトル自身、「ペトルーシュカ」と共通性のある音響を持つと述べている通り、コンサートの流れとしては決して悪くない。

メインのラフマニノフであるが、これもまあ、なんともハイカロリーの美音が惜しげもなく流れる名演で、一言で要約すると圧倒的であった。繰り返しだが、これぞベルリン・フィルの音であり、そのアンサンブルは堅く深い。リハーサルを聴いていたせいか、各テーマの歌い方に強い集中力を感じ、決してすべての部分が上出来とは言えないこの作品を、聴衆を全く飽きさせることなく流して行くのを聴くだけでも、これは稀有な体験と言わねばならない。ラトルによると、今回のツアー (日本に来る前に、香港、中国、韓国を回ってきたようだ) や、それに先立つ本拠地での今シーズンでは、このオケがこれまであまり採り上げていない曲を中心に選曲したという。なるほど、ラフマニノフ 3番をこのオケがそれほど頻繁に演奏してきたことはない (ロリン・マゼールによる素晴らしい録音からかなり時間が経っているし)。それにもかかわらず、曲の隅から隅まで神経の行き届いた演奏を軽々とこなすオケの能力は驚異的だ。ただ、強いてネガティヴな点を探すとすると、これだけできれば、完璧すぎて演奏にスリルがないとも言える。もっと言うと、実は私がこれまでもこのコンビで時折感じてきたことだが、感嘆はするが、場合によってはそれほど感動しないという困った面があるようにも思う。もしかするとその点が、ラトルがベルリン・フィルを離れることを決意したひとつの理由ではないかとも思ってしまうのだが、いかがなものだろうか。

だが、私は今回のラフマニノフに「感動しなかった」と言う気は毛頭ない。これは実に素晴らしい演奏で、まさに傾聴に値するものであった。そんなことを考えていると、ラトルが早々に聴衆の拍手を遮り、「ミナサン、ドウモアリガトウゴザイマス」と日本語で挨拶。それから英語で、「素晴らしい聴衆、素晴らしいホール。(そのあと、私の席からはよく聞こえなかったが、"in the World" と言っていたので、その前に来るのは "The best" か "One of the best" しかないだろう) これは音楽を演奏せずにはいられません」と告げて演奏したアンコールはなんと、プッチーニの「マノン・レスコー」間奏曲である。ラトルのプッチーニとは珍しいが、これはすごかった。洗練された音質が、情念の世界にまで昇華していた。そうだ、ラトルはもともと優等生でもなんでもなく、時に牙をむくような音楽をする人。そのことを久しぶりに思い出したような気がした。もちろん、この驚異的に美しい曲を、ベルリン・フィルは過去に録音している。これはカラヤンの全アルバムの中でも屈指の名盤と言われているもの。EMI の再録音もよいが、私としてはこの DG 盤こそ、オーケストラ音楽の奇跡のひとつと思っている。そんなことも思い出させる素晴らしいアンコールであった。
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実は今回、ある CD セットを購入すれば、終演後にコンサートマスターの樫本大進と、ホルンの首席であるシュテファン・ドールのサインがもらえるほか、ポスターやポロシャツなど、様々な特典があるという表示があった。
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その対象とは、ベルリン・フィルの演奏になる新発売のセット (CD 4枚、ブルーレイ 2枚) で、ジョン・アダムズの作品集だ。私がこの作曲家のファンであることは以前も書いたし、アラン・ギルバート指揮東京都響による彼の近作「シェヘラザード 2」の日本初演もレポートした。ベルリン・フィルは昨シーズン、このアダムズをアーティスト・イン・レジデンス (いわば座付き作曲家) に迎えたので、このセットはそれを記念して、ベルリン・フィルが演奏したアダムズ作品を集めている。作曲者自身の指揮もあれば、もちろんラトル、それから上記のアラン・ギルバート、グスタヴォ・ドゥダメル、それから、このオケの次期首席指揮者キリル・ペトレンコとの初の録音も含まれている豪華版だ。
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内容に注目しながらも、お値段はちと高いので、未だ購入はしていなかったが、この際購入してサイン会に出ようと決意、そしてゲットしたのがこのサインである。
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ジョン・アダムズ・エディションの値段を書くと、家人から怒られてしまいそうなので、ここでは明らかにしませんが (笑)、ベルリン・フィルの今をより深く知るため、コンサートの補完として最適のセットであろうと確信しております。さて、明日 (もう日が替わって、正しくは今日だが) はもう 1回ラトルとベルリン・フィルを、しかもユジャ・ワンとの共演を聴くことができる。なんとも楽しみなことである。

by yokohama7474 | 2017-11-24 01:31 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ダニエレ・ガッティ指揮 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 (ヴァイオリン : フランク・ペーター・ツィンマーマン) 2017年11月20日 サントリーホール

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前日の川崎公演に続く、オランダの名門ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団と、昨年からその新たな首席指揮者の任にあるイタリアの名指揮者ダニエレ・ガッティによるコンサートである。今回サントリーホールでは、上のチラシにあるように 2回のコンサートが開かれる。そのうち 11/21 (火) の曲目は、既にご紹介した 11/19 (日) の川崎での曲目と同じなのである。実は前回の記事に少し書いた通り、今回のコンセルトヘボウの来日公演の 2つのプログラムは、かなりシンプルなものになっているのだが、今回の曲目は以下の通り。
 ベートーヴェン : ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品61 (ヴァイオリン : フランク・ペーター・ツィンマーマン)
 ブラームス : 交響曲第 1番ハ短調作品68

名曲で真っ向勝負とも取れるし、ちょっと冒険心を欠くかなぁとも思われる。あるいは、未だ新しいコンビゆえに冒険を避けるという意図もあるのだろうかとも考えてしまう。だが、前日の川崎でのコンサートは、曲目のシンプルさなどどうでもよくなってしまうような、上質な演奏を聴かせてくれた。課題は集客である。前回の記事には書かなかったが、川崎公演は日曜日であるにもかかわらず、かなり空席が目立つ淋しい入りであった。そして今回、月曜日のサントリーホールはどうだったかというと、これが当日券の販売もない満席ぶり。まずはほっとしたのである。これがこのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の本拠地、その名もコンセルトヘボウ。英語でいう「コンサートホール」という、そのものズバリのシンプルなホールである。私の実感するところ、ヨーロッパ文化のひとつの頂点をなすと言ってもよい素晴らしいホール。
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さてこの演奏会でソロを務めたヴァイオリニストは、ドイツの中堅、フランク・ペーター・ツィンマーマン。私と同じ 1965年の生まれで、今年 52歳。1983年に若杉弘指揮のケルン放送響のソリストとして初来日してから既に 34年。常に世界の一線で活躍してきたヴァイオリニストであるが、いつまでも童顔というか、若々しさを保っている人である。
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同世代のドイツのヴァイオリニストでは、1歳下のクリスティアン・テツラフがいるが、以前このブログでもご紹介した通り、テツラフが寄らば斬るぞという雰囲気の禁欲的なイメージであるとすると、このツィンマーマンはもう少し親しみやすいキャラクターであり、超絶技巧を売り物にせず、飽くまでヒューマンな温かみを感じさせる人である。今回のベートーヴェンの演奏でも、そのことを再度認識することとなった。この曲はヴァイオリンソロの登場までが結構長いためか、あるいはモーツァルトのコンチェルトと同じく、書かれた時代の演奏スタイルを反映してか、ソリストがオケのヴァイオリンのパートを一緒に弾くことがある。今回はまさにそうで、ツィマーマンは冒頭からごく自然に、楽員たちとともに音楽に入って行った。このコンチェルトにおいては、このような冒頭の流れが重要で、コンチェルトとしては異例に長い作品だけに、冒頭に乗れないと、そのまま改善のきっかけを失う例もある。そのような場合、大抵は「妙に静かなベートーヴェン」になってしまうというのが私の経験則なのであるが、今回は最後までそのような妙な静かさは到来せず、相変わらず統一感のある絶妙の音色で一貫したコンセルトヘボウの美しい音を堪能することができた。さすがこのソリストとこのオケ (そういえば、前日ソロを弾いたチェロのタチアナ・ヴァシリエヴァも、今日はオケの一員として楽しそうに弾いていた)、そしてこの指揮者である。ガッティに関して言えば、冒頭のティンパニへの指示から、かなり丁寧な指揮ぶりで、音像の明確なイメージが常にある様子であった。時にファゴットやチェロの旋律がよく響くこともあり、この曲の持ち味を充分に引き出していたと思う。ツィンマーマンはアンコールとして、バッハの無伴奏ソナタ第 2番の終楽章を弾いた。運動性のある音楽だが、やはり彼のヴァイオリンは、ここでも温かい人間性を感じさせるものであった。

さて、メインは天下の名曲ブラームス 1番である。一言でいうと、これもまたこのコンビらしい、きめ細かくまた美しい音楽であったが、私としては最高の名演と評価するには若干の躊躇あり、という気がした。ここでガッティが目指したものは、やはりオケの音質の高さと、それを取りまとめて自らが作り出す流れであったと思う。このブログで何度も書いている通り、ブラームスの交響曲は、まず何よりも極めて洗練された質の高い音でないと成功しないのだが、その点では今回の演奏は、やはり素晴らしい出来ではある。だが一方で、飽くまで私の好みだが、作曲者が 20年間艱難辛苦を乗り越えて書いたこの曲においては、やはりどこかで、野蛮なまでの生命力が欲しいところ。その点には少し物足りないかなという気がしたのである。例えば弦楽器の編成であるが、前日のマーラーがコントラバス 7本、チェロ 10本であったのに対し、この日のブラームスは、コントラバス 6本にチェロ 8本。つまりブラームスはマーラーよりも早い時代という整理であって、ことさらにこの曲の重量感を強調する意図はなかったのだろう。それから、この曲は第 3楽章と第 4楽章が続けて演奏されることが多く、それによって、短い休息から一気にクライマックスに雪崩れ込むというイメージができるのだが、今回の演奏ではその箇所では明確に演奏を切り、その代わり、第 2楽章から第 3楽章に入る部分をつなげていた。これは珍しいが、第 2楽章の抒情を、第 3楽章の気軽な雰囲気で中和しようということか。それから、第 1楽章提示部の反復はなかった。これらを考え合わせると、やはりガッティの求めたものは、劇的な音楽よりも流れのよい音楽であったように思う。その点、どのパートも隅々まで美しさに満ちたオーケストラは、彼の目指す音楽を見事に音にしていたとは考えられる。音楽とは、様々な表現があるから面白く、どの演奏家も同じなら、わざわざ聴きに行く価値がない。今回の私の印象も、またこのコンビの今後の演奏を体験する中で、また変わって行く可能性もあるかもしれない。そして、今回もアンコールはなし。これはもしかすると、昔のカラヤンよろしく、ガッティのポリシーなのかもしれない。
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終演後、サイン会があるというので参加した。なんでも、高円宮 (宮様ご自身は既に亡くなっているので、今では久子妃殿下のことをこう呼ぶのだろうか。オランダ王室とは仲がよいらしい) が表敬訪問されているとのことで、少し時間がかかるとのスタッフの説明であったが、それほどひどく待たされることなく指揮者が登場した。プログラムにこのようにサインをもらい、今後のこのコンビの演奏への期待を高めたのである。
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さて、海外一流オーケストラ来襲シリーズが続いているが、次の音楽の記事は、いよいよアレである。私もアレが本当に楽しみだが、アレの記事をアップするまで、音楽好きの方も、是非、このブログの映画とか美術の記事をお楽しみ下さい。よろしくお願いします。

by yokohama7474 | 2017-11-21 00:59 | 音楽 (Live) | Comments(2)

ダニエレ・ガッティ指揮 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 (チェロ : タチアナ・ヴァシリエヴァ) 2017年11月19日 ミューザ川崎シンフォニーホール

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オランダの首都アムステルダムに本拠地を持つ世界最高の楽団のひとつ、コンセルトヘボウ管弦楽団の来日公演である。2年前の前回の来日公演では、ユジャ・ワンをソリストに迎え、指揮を取ったのは、もともとこのオケの打楽器奏者であったグスタヴォ・ヒメノであった。その時の演奏会の様子や、コンセルトヘボウ管のドキュメンタリー映画、また、現地アムステルダムで聴いたコンサートなど、このブログでは様々な角度からこの世界有数のオケの活動を描いてきたが、今回の来日公演にはまた格別な意義がある。それは、大の人気者マリス・ヤンソンスを引き継ぎ、昨年から首席指揮者に就任したイタリアのダニエレ・ガッティ (1961年生まれ) との初の来日公演になるからである。
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既に前日京都での演奏会を済ませ、これが 3日連続の首都圏のコンサートの最初。その後は長崎と大阪での公演があり、計 6公演である。今月初旬からの海外オーケストラ襲来組のひとつであるが、ただ、今回のコンセルトヘボウ管の曲目を見てみると、この百戦錬磨のオケとしては、楽々こなせるような内容ではないかと思う。プログラムは 2種類あって、この日の川崎での演奏会では、以下の通り。
 ハイドン : チェロ協奏曲第 1番ハ長調 (チェロ : タチアナ・ヴァシリエヴァ)
 マーラー : 交響曲第 4番ト長調 (ソプラノ : マリン・ビルトレム)

ははぁ、なるほど。古典派というか、ほとんどバロックに近い小編成のコンチェルトと、演奏時間は 1時間を要するとはいえ、マーラーの交響曲の中で最も穏やかなものとの組み合わせである。そう、確かにそうなのであるが、実際に聴き終わってから振り返ってみると、音符の数やテンションの高さだけが音楽の密度ではないことに思い当たる。さすがガッティとコンセルトヘボウの組み合わせによる演奏だと、実感したのである。

最初のコンチェルトでソロを弾いたのは、ロシア人のタチアナ・ヴァシリエヴァ。コンセルトヘボウの首席チェロ奏者である。
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この長身とその名前で思い出したのだが、彼女は庄司紗矢香の親しい友人で、以前、ナントや東京のラ・フォル・ジュルネで、庄司と組んでブラームスの二重協奏曲を弾いていた人ではないか!! 知らない間にこの名門オケの首席に就任していたとは。
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このハイドンの演奏、コントラバス 2本の小編成で、ヴァイオリンは左右対抗配置だが、出て来る音は現代オケのそれである。実は冒頭は、ごくわずかソロとオケの呼吸が揃わなかったかと聴こえ、この先どうなるかと思いきや、もう第 1楽章の半ばには、コンセルトヘボウの美しい響きに魅了されていた。内輪のソリストを頂いたオケは、当然のようにソロと一体となった音楽を歌って行くし、指揮のガッティも、その流れを邪魔することなく、要所要所で響きをちょっと締めたり開放したりする。さすがに世界一流のオケであると思うのは、その音楽が、あたかも流れ行く川のようにキラキラと輝き、その場面場面で、微妙な光の反射を見せるのである。こういう音楽は、聴く人の心を豊かにする。そう、音符の数とは関係なく、聴く人の心を豊かにする音楽なのである。ただ、ヴァシリエヴァのチェロは、テンポもよく表現も鮮やかで、確かに巧いのだが、強いて言うと若干優等生的というか、真面目すぎて面白みを欠く面もあったように思う。それは、どちらかというと奔放なタイプの音楽家を好む私の独断であるのだが、ハイドンの愉悦の表現には、ちょっと踏み外しがあった方がよいような気もしたことを、正直に述べておこう。それはアンコールで弾かれたバッハの無伴奏チェロ組曲第 1番の第 1楽章でも変わらない印象であった。ただ逆に言えば彼女のチェロは、オケの流れに逆らわないものなので、オケの首席奏者の道を選んだのは妥当だったのかもしれない。

さて、指揮者ガッティについて書いてみよう。私はこの指揮者に対して、少し複雑な印象を持っている。日本でも、1998年のボローニャ歌劇場における「ドン・カルロ」の熱演を未だに記憶しているし、翌年にはロイヤル・フィルとも来日し、マーラー 5番などを演奏したのを聴いた。ところが、私がロンドンに住んでいた 2009年、ちょうど首席指揮者がこのガッティからシャルル・デュトワに代わるタイミングで、フェアウェルとして演奏されたベートーヴェンやマーラーの 9番という大作は、完全に空振りの凡演であったのだ。ところがその後デュトワが振るとロイヤル・フィルは活き活きしていたので、やはり相性というものがあるのかと思いながら、さてガッティの本当の力はどこに、と思ったのだが、同じころ、まさにこのコンセルトヘボウとともにロンドンで行ったコンサートで聴いたチャイコフスキー 5番は、実に鮮やかな名演であったのである。イタリアの若手指揮者のホープであった頃から時も経ち、今や名門コンセルトヘボウの首席指揮者として 56歳のガッティが聴かせてくれる音楽を、じっくり楽しみたい。そう思って聴いた今回のマーラー 4番。実はここでも、ハイドン同様、冒頭の鈴と木管の作り出すテンポが、ほんのわずか、いびつかと思った。だが今回も、彼らはすぐに体勢を立て直し、深い陰影に富んだ美しい演奏を繰り広げたのであった。改めて実感するガッティの指揮の特色は、イタリア人らしくよく歌うことと、緩急のバランスが素晴らしくよいことだ。うーん。これだけ情報量の多いマーラー 4番の演奏も、ちょっとないのではないだろうか。特に第 3楽章では、静かにうねり続ける音の流れが、秋の夕映えのように無限の情緒をたたえて、聴く者に強く迫ってきた。また第 4楽章は、かなりギアチェンジが必要な音楽であるのだが、バタバタする箇所は皆無。常にバランスがよく視野の広い指揮ぶりであったと思う。ところで、今回ソプラノ・ソロにはユリア・クライダーというドイツ人が予定されていたが、体調不良とのことで、急遽マリン・ビストレムというスウェーデン人歌手に変更になった。この歌手、私には知識はなかったのだが、以前 BS で放送された、アムステルダム歌劇場 (時折コンセルトヘボウがピットに入る) で上演されたガッティ指揮の R・シュトラウスの「サロメ」で主役を歌っていた人だ。その番組は録画して、もちろん (?) 見ていないのだが、悪魔的なサロメの世界から遠く離れた清浄な天国の生活を、今回は歌うことになったのである (笑)。正直、ドラマティックな歌唱の方がやはり合っているのではないかと思ったが、突然の代役として立派にその役を果たしたと思う。
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ところで、私が聴きながらツラツラ考えていたのは、マーラー 4番とシュトラウスの「サロメ」は、作曲は同じ頃ではないのかということ。今調べてみると、前者の初演は 1901年 1月。後者の初演は 1905年12月。5年ほどの差はあるが、音楽史的観点からは、同時代の作と分類してもよいであろう。マーラーとシュトラウスは、友人でもありライヴァルでもあったわけだが、血みどろの世界と清浄な世界は、実は近い感性でつながっていた時代だったのかもしれない。そんなことで、アンコールには (「サロメの 7つのヴェールの踊り」には打楽器が少ない編成だったので) シュトラウスの歌曲でもやってくれないかと思ったが、結局何も演奏されずに終わった。昨今の東京における来日オケの公演でアンコールなしは珍しいが、マーラー 4番の終結部、清澄な湖に沈んで行くようなハープの低音が未だに耳に残っており、それがそのままコンサートの終結部であったことに、ガッティの見識を思う。さて、このコンビが演奏するもうひとつのプログラムは、どうなることであろうか。

by yokohama7474 | 2017-11-20 00:21 | 音楽 (Live) | Comments(5)

トゥガン・ソヒエフ指揮 NHK 交響楽団 2017年11月18日 NHK ホール

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このブログで過去何度か、その高い能力を称賛してきた、北オセチア出身の名指揮者、トゥガン・ソヒエフが NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の指揮台に戻ってきた。今年 40歳になる彼は、トゥールーズ・キャピトル管弦楽団とベルリン・ドイツ交響楽団という 2つのオケを率いるほか、現在ではモスクワのボリショイ劇場の音楽監督も兼任しているという多忙な身である。私は以前から、この指揮者を初めて実演で聴いたときから、絶対に大成すると確信したと声高にふれ回っているが (笑)、実際、そのような自分なりの予感が的中し、その指揮者の活躍が活発化することは嬉しいし、何よりも、東京で実際に聴けるのがありがたいではないか。今回彼は、11月の N 響定期 3プログラムのうち 2つを指揮し、残る 1つのプログラムは、既にこのブログでご紹介した通り、マレク・ヤノフスキが担当した。ソヒエフの 2つのプログラムはすべてプロコフィエフ作品で、この指揮者を聴くには最適と言ってもよいと思うが、特にこの日の曲目は、大変興味深い。
 プロコフィエフ (スタセヴィチ編) : オラトリオ「イワン雷帝」作品 116

通常 N 響定期では、チラシが作られることはなかったが、最近は時々あるようで、このコンサートも、上に掲げたような派手なチラシが作成されている。もちろん、それだけ注目のプログラムであるということだろう。この作品、ご存じの方も多いと思うが、あの映画史上の巨匠、セルゲイ・エイゼンシュテインが監督した映画「イワン雷帝」にプロフィエフがつけた音楽を編集してオラトリオとしたもの。曲としての知名度はそれなりにあろうが、実際に演奏されることは決して多くない。その理由の第一は、やはり作曲者自身の手によって編曲されたものではないということではないだろうか。その点が、同じプロコフィエフが、やはりエイゼンシュテインの映画のために書いた音楽を、こちらはカンタータとして編曲した「アレクサンドル・ネフスキー」とは異なると言える。だが、実際に聴いてみると、いかにもプロコフィエフらしい音楽でありながら、極めて平明で、大変に親しみやすい曲である。だが、曲について語る前に、ここはどうしてもエイゼンシュテインについて触れなくてはならない。1898年に現在のラトヴィアのリガに生まれ、1948年に没した、ソ連時代の巨匠映画監督である。このような、一目見たら忘れない、個性の強い顔立ちであった人。
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映画史をかじる人なら誰でも、彼の唱えたモンタージュ理論を知ることとなり、その代表的な例として、「戦艦ポチョムキン」(1925年) の中の有名な「オデッサの階段」のシーンを知ることとなる。ここでそこに深入りすることはしないが、私も映画好きのご多分に漏れず、学生時代に彼の作品の多く、つまりは最初の「戦艦ポチョムキン」から最後の「メキシコ万歳」までを見た。もちろん「イワン雷帝」も、完成した第 1部 (1944年)、第 2部 (1946年) のみならず、スターリン政権の圧力によって部分的に撮影されて頓挫した第 3部の断片まで見たことがある (因みにその機会は何かの講座だったかもしれず、講師は明確に思い出せないが、篠田正浩だったような気がしないでもない)。私の場合は、映画の文脈だけではなく、ロシア・アヴァンギャルドへの強い興味もあり、それらはいずれも非常に興味深いものであった。「戦艦ポチョムキン」はサイレントであるが、後からショスタコーヴィチ 5番などを録音した版でも見たし、弁士付きの上映も見た。それに対して「イワン雷帝」の場合は、あの弦楽器が目まぐるしく動く中、金管が奏する雷帝のテーマがしっかり録音されていて、「あ、プロコフィエフだ!!」と思ったものだ。これがそのエイゼンシュテインの「イワン雷帝」からのワンカット。
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この「イワン雷帝」をコンサートで演奏するとき、今回のようなアブラム・スタセヴィチ (1907 - 1971) の編曲による版以外にもいろいろな版があり、私などは、昔ロストロポーヴィチが録音した (そして新日本フィルでも指揮した) マイケル・ランケスター版で親しんだ方であるが、このスタセヴィチは 1940年代の映画音楽の録音を実際に指揮した経歴のある人らしく、彼の手になるオラトリオ「イワン雷帝」は、1961年、プロコフィエフ生誕 70周年 (没後 8年) の記念演奏会で初演されたもの。それゆえ、ある意味でオーセンティックな版とは言えるのかもしれないが、実はこの曲がもうひとつポピュラーにならない理由として挙げたいのは、語りつきのこの版においても、イワン雷帝が何者で、いかなる敵にどのように戦ったかのストーリーが、よく分からないからである!! 今回の演奏では語りを歌舞伎役者の片岡愛之助が務めたが、あえて歌舞伎風の雰囲気で語ったのはよいにせよ、やはりストーリー展開が不明であるのは同じ。なお、愛之助の公式ブログを見てみると、奥様はドラマの撮影が雨で流れたので、この日急遽 NHK ホールに来ていたらしい。ほぅ。私の席からは見えませんでしたよ (笑)。
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余談だが、エイゼンシュテインは日本文化に興味があったらしく、若い頃は日本語も学んでいたらしい。実は、1928年に史上初の歌舞伎の海外公演がソ連で行われた際、二代目 市川左團次 (1880 - 1940) と面会している。映画「イワン雷帝」にも歌舞伎の影響があると言われている。これがその左團次とエイゼンシュテインの写真。
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このように、作品としての課題は避けがたくあれこれありながら、だがこの日の演奏の素晴らしかったことは疑いがない。もちろんソヒエフの指揮が、いつものように音楽の大きな流れを作り出していて、きめ細かくまた呼吸よくオケの力を引き出していたことは、圧倒的と言ってもよかったであろう。この指揮者と N 響との相性はかなりよいように思う。そして、一方の功労者は、東京混声合唱団であろう。さすがに譜面を見ながらの歌唱であったが、ロシア語というなじみのない言語で、これだけの長丁場を乗り切るだけでも大変なのに、その力強い歌には、きっとソヒエフも満足したことだと思う。例えば後半のある曲では、合唱が徐々にクレッシェンドして行くところがあるのだが、その音量の絶妙なコントロールには大変感動した。それから、この曲には児童合唱も含まれていて、今回は東京少年少女合唱隊であったが、70分ほどのこの曲の最後 1/4 ほどの部分にしか出番がないにも関わらず、ハミングやロシア語の歌詞を美しく歌っていて (最後の方には、チャイコフスキーの大序曲「1812年」の冒頭に使われているロシア正教の聖歌「神よ汝の民を救い」のメロディが出て来る)、これもまた特筆もの。ともにウクライナ出身の 2人のソリスト、つまりメゾソプラノのスヴェトラーナ・シーロヴァとバリトンのアンドレイ・キマチは、出番は少ないが、これも安定した出来であった。このように、総じて、曲の弱点を補ってあまりある奏者たちの熱演に、会場は沸いたのである。このような演奏頻度の低い曲が、このような水準の演奏で聴けることは、本当に貴重なことであると思う。ソヒエフの才能はとどまるところを知らない。
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次の彼の来日は、来年 3月。また手兵トゥールーズ・キャピトル管弦楽団との演奏である。彼が得意とするロシア物とフランス物が並んでいて、これまた聴き物であり、早くも待ち遠しい思いに駆られてしまうのである。

by yokohama7474 | 2017-11-19 22:53 | 音楽 (Live) | Comments(2)

ピエタリ・インキネン指揮 日本フィル 2017年11月17日 サントリーホール

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今月から来月初旬にかけて、数々の一流オーケストラが海外から来日する東京の音楽界であるが、こういうときであるからこそ、日本のオケにも頑張ってもらいたい。そして、その頑張りを目の当たりにすることで、外来オケの水準にため息をついたり興奮するだけではない、充実の音楽体験ができようというものだ。そのような期待をもって出掛けたこの演奏会は、日本フィルハーモニー交響楽団 (通称「日フィル」) とその首席指揮者である 37歳のフィンランド人、ピエタリ・インキネンによるもの。その意欲的な曲目は以下の通りである。
 ラウタヴァーラ : In the Beginning (日本初演)
 ブルックナー : 交響曲第 5番変ホ長調

今回の演奏会は途中休憩なしで行われた。それは、前半のラウタヴァーラの曲が 7分程度と短いこともあるが、もうひとつ、その自然への共感が、メインのブルックナーとも近似する要素があるからだろう。いや実に意欲的な試みだ。このインキネン、その華奢な外見によらず、かなり大胆な策略家と見える。
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さて、現代指揮界では、エサ=ペッカ・サロネンを代表として、フィンランド人の指揮者たちの活躍が目立つ。このブログでも何度かそのようなことに触れてきたが、このインキネンは未だ 30代で、これからまだまだ活躍の場が広がって行くべき人であり、そのような俊英の指揮を日フィルで聴ける喜びは大きい。だがフィンランド指揮者というと、ひとつ課題がある。それは、何かというとフィンランドの国民的作曲家であるシベリウスの作品を演奏することを求められることである。もちろんシベリウスの音楽は素晴らしいし、フィンランド人がそれを素晴らしく演奏することは事実である。だが、指揮者たるもの、自国の音楽だけ指揮してよいと思うわけもなく、自らが率いるオケとは、様々なレパートリーを演奏して行くべきである。その意味でこのインキネンと日フィルの関係は面白くて、首席客演指揮者時代からシベリウスを集中的に採り上げ、主要作品は既に演奏し終わってしまった。さてそうなるとインキネンとしては、「まず、求められる期待には応えたでしょう。あとは自分の好きなことをやりますよ」と言いたくもなるであろうし、実際最近は、ワーグナーの楽劇を含む後期ロマン派を集中して演奏している。そして、ブルックナーのシリーズもその一環であろう。パーヴォ・ヤルヴィと NHK 響、ジョナサン・ノットと東京響といったコンビもブルックナーをシリーズで手掛けているようだが、インキネンと日フィルには彼らなりの個性を聴いてみたいものだ。

だが、そのブルックナーに先立って演奏された曲が、なんとも気が利いている。現代フィンランドを代表する (そして、実は私は知らなかったのだが、昨年惜しくも亡くなった) エイノユハニ・ラウタヴァーラ (1928 - 2016) の作品。この人は、北欧らしいヒーリング的要素を持つ音楽を書いた人で、万人に愛される作風を持つ。アシュケナージはこの作曲家のファンだし、意外なところでは、サヴァリッシュもその曲を演奏していたものだ。かく言う私も大好きで、今手元の CD 棚を調べてみると、オンディーヌやフィンランディアといったレーベルから出ている彼の作品集を 5枚持っている。ただ、彼の珍しいファーストネームを今回初めて知って、これは覚えられないなと思っている (笑)。
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今回演奏された「In the Beginning」は、上に日本初演と書いたが、実はアジア初演。そもそも世界初演自体がつい最近で、それは今年の 9月 8日に、このインキネンの指揮するザールブリュッケン・カイザースラウテン放送フィル (まさにこの 9月にインキネンが首席指揮者に就任した) によってなされたばかり。プログラムには日フィル共同委嘱作品とあるので、インキネンが、自らが率いる 2つのオケを通して委嘱した作品であろうと思われる。作曲自体は 2015年とのことだが、いずれにせよラウタヴァーラ最晩年の作であって、作曲者自身も音として聴くことはできなかった。世界の創造のような弱音から始まり、緩急を交えて最強音に達したところで終わる曲だが、明らかに、この作曲家が生涯愛したフィンランドの自然の美しさが想定されているであろう。ここでの日フィルは、個々の楽器が実にニュアンス豊かに音の流れを表現していて、見事であった。

そしてメインのブルックナー 5番は、インキネンと日フィルの個性がはっきり出た演奏になった。まず編成は、弦はコントラバス 8本だが、管楽器はスコアの指定通り、木管は 2本ずつで、金管の補強もない。この曲には終楽章をはじめとして大音響が炸裂する箇所が多いが、インキネンの意図は、壮大な音宇宙を描き出すよりも、まさにラウタヴァーラの曲の精神と同じような、自然への賛美を表現することではなかったか。それを表すように、オーボエ、そしてフルートを中心とした木管の透明度は素晴らしく、例えば第 2楽章の後半でそのオーボエとフルートが掛け合う箇所や第 3楽章スケルツォの中間部など、本当に美しい瞬間であったと思う。もちろん弦楽器 (ヴァイオリンは左右対抗配置) も揺蕩う大河のように、最初から最後まで集中力を維持して、この曲の持ち味を美しく歌い上げた。上のチラシの宣伝にあるように、確かに「瑞々しくも懐かしい」ブルックナーになっていたと思う。だが、私個人としては、これも宣伝文句にあるように、「こんなブルックナーを聴きたかった・・・」とまで思ったかというと、その点は保留しておこう。この曲も (奇しくも前座のラウタヴァーラの曲と同じく) 作曲者が生前に音になったのを聴かなかった曲であるが、ブルックナーの頭の中には、当時の奏者の演奏能力を超えた、壮大な音の大伽藍が鳴っていたものと思う。その意味では、この美しい演奏は、どこかこの曲の本質とは異なる点があるのかもしれない。その点、やはり課題は金管ではないだろうか。大詰めの巨大なクライマックスでは立派に鳴っていた金管だったが、むしろそこに至るまでの、時には弱い音でニュアンス豊かに吹くべきところには、まだまだ改善の余地はあったように思われてならない。そのピースがぴったりはまる時、このような一種独特の情緒のある演奏は、より一層説得力が増すのではないだろうか。明確な個性を打ち出しつつあるインキネンと日フィルの演奏にはこれからも触れて行きたいし、大いに期待するものである。
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インキネンの日フィルの次の登場は来年 4月。マゼールが編曲した「指環」の抜粋をメインとしたワーグナー特集がどのような演奏になるか、今から楽しみである。

by yokohama7474 | 2017-11-19 00:04 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 2017年11月13日 NHK ホール

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過去 2回のサントリーホールでの演奏会をご紹介してきた、90歳の巨匠ヘルベルト・ブロムシュテットの指揮するライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会、今回が東京での 3回目のもの。これは NHK 音楽祭の一環として行われたもので、会場は NHK ホールである。上の写真は、会場入り口に下がっていた垂れ幕。

実はこのブログでは、昨日からちょっとした異変が起こっている。このブログの通常の訪問者数は、大体 1日に 300くらいなのであるが、昨日 (11/12) は 424。今日 (11/13) に至っては、23時55分現在で 468と、当ブログ史上最高記録を更新である。また、昨日のゲヴァントハウス管の演奏会の記事のアクセスは 171であった。これも私の記憶にある限り、1日のアクセス数としては、過去にちょっとない数である。改めて、この老巨匠に対する人々の極めて高い興味を実感することができる。
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さて、今回のブロムシュテットとゲヴァントハウスの日本ツアーの掉尾を飾るのは、ブラームスの傑作、ドイツ・レクイエム作品45。バリトン・ソプラノ独唱と合唱団を伴う 70分の大曲で、通常はラテン語で書かれたカトリックの典礼文が使われる死者のためのミサ曲をレクイエムと呼ぶのに対し、プロテスタントの国ドイツの作曲家ブラームスは、マルティン・ルターによるドイツ語訳聖書から自ら歌詞を選んで、そこに個人的な故人への思いも託した上で、演奏会用の宗教曲を仕上げ、それをドイツ・レクイエムと題したのである。実はこの曲、今回のゲヴァントハウス管のほかの演奏会のすべての曲目と同様、このオーケストラが世界初演を行っている。それは 1869年のことで、指揮を取ったのは、作曲家として音楽史にその名を留めているカール・ライネッケであったという。このオケの 275年の輝かしい歴史に、改めて思いを馳せる。実はこのブロムシュテット、今回の日本でのほかの 4公演 (札幌、横浜を含む) を主催した音楽事務所 KAJIMOTO が制作したプログラムでのコメントにおいて、同音楽事務所ではなく、NHK 主催のこの演奏会のことに触れている。こんな具合だ。

QUOTE
このたび彼ら (注 : ライプイツィヒ・ゲヴァントハウス管のこと) は、楽団の豊かな歴史の中でも特に重要な役割を演じた 5つの傑作 --- かつてライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が世界初演を任された 5つの曲 --- を、皆さまのために演奏いたします。いずれも、楽団の個性の本質を成す作品です。とりわけ私は、日本の聴衆の方々の前でブラームスの「ドイツ・レクイエム」を初披露できることに心躍らせております。
UNQUOTE

自社主催公演以外の公演をイチオシとしたこのマエストロの言葉に、KAJIMOTO の方には多少の同情は禁じ得ないが (笑)、その一方で、この指揮者の誠実なコメントに、ある種の感慨を抱くことができる点が大変好ましい。これだけ多くの来日を重ね、ドイツ物だけではなく北欧ものやロシアもの等、自らのほとんどのレパートリーを日本で披露していると思われるこの指揮者が、未だこの重要なドイツの作品を日本で指揮していなかったとは、意外である。実はブロムシュテットは、決して膨大なレパートリーを誇る指揮者というわけではなく、彼が採り上げる作品には必ず、彼自身が採り上げるべき理由についての確信があるとも言えるだけに、この老巨匠としても、この名作を披露できる今回は、期するところがあるということだろう。それからもうひとつ、実は私も比較的最近このコンサートのチケットを購入した (レオニダス・カヴァコスのリサイタルに行くかこれにするか、迷っていたのである) ときには気づいていなかったことには、合唱団に大変な驚きが隠されていた。このメジャーな声楽曲であれば、日本のどの合唱団も大変立派に歌うだけの優れた技量を持っているであろう。にもかかわらず、今回登場した合唱団はこの人たちだ。
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音楽ファンならすぐに判る、これはウィーンの楽友協会大ホール。そこを本拠地とする合唱団と言えば、もちろんウィーン楽友協会合唱団、Singverein である。これはなかなかの驚きだ。ちょっと調べてみたのだが、近辺の日程でこの合唱団単独のコンサート予定は見当たらず、どうやら彼らは今回、このドイツ・レクイエムを歌うためだけに来日したように思われる。そしてそこにもうひとつの歴史的要素を加えよう。ブラームスはこのウィーンの楽友協会の理事であった時期もあり、そのゆえんであろう、ここの小ホールはブラームス・ザールと名付けられているのだが、実は、ゲヴァントハウスによる全曲初演の 2年前、1867年に、このドイツ・レクイエムの最初の 3楽章がこのホールで試演され、その時の合唱を務めたのが、この楽友協会合唱団であったのである。なので、このオケにこの合唱団によるこの曲の演奏は、指揮者のこだわりによるものなのだと思われる。

このような歴史的な顔ぶれによる今回のドイツ・レクイエムは、この NHK ホールでの上演 1度だけで、会場はほぼ満員の盛況。期待感は充分であり、もちろんそこはブロムシュテットとゲヴァントハウスであるから、演奏が悪かろうはずもない。だが、正直なことを言えば、この日に先立つ 2日間、サントリーホールでこのオケの美音を聴き続けた身としては、今回 NHK ホールにおいて、この繊細な曲の本当の魅力が充分に耳に入ってきたかと問われれば、少々残念であったとお答えすることになろう。このドイツ・レクイエムは、もちろん有名な曲ではあるけれども、決して派手な曲ではない。その点で、例えば第九とかヴェルディのレクイエムとか、あるいはベートーヴェンのミサ・ソレニムスといった曲に比べても、音色の点ではさらに地味だと言ってよいと思う。既に冒頭の弱音からして、聴衆が耳を傾ける、まさにそのことによって音が動き始め、チラチラと炎が小さく燃え上がり、広がって行くような瞬間に立ち会いたい。今回も当然そのような音が鳴っていたと、想像力を駆使すればなんとか分かったように思うが、このホールでは残念ながら、「弱音に圧倒される」という経験は期待できないのである。冒頭以外でも、ブラームスらしい分厚い中音域が随所に聴かれ、そこに時折光が差すような高音やリズミカルな音型が入ってくるような箇所こそが、この曲の持ち味であると思うのだが、やはり、相当に想像力で音を補って聴く必要が出てきてしまった。一方、第 3曲のフーガなど、音が大きく渦を巻く箇所も何度かはあって、そういった箇所の迫力には傾聴すべきものがあった。だがやはり、弱音あっての強音の説得力であり、これがサントリーホールなら・・・と思ってしまったことは、正直に白状しておこう。私はこのブログで過去何度も、NHK ホールの音響についての課題に言及したことがあるが、最近はそれをやめていた。なぜなら、このホールを本拠地とする N 響の演奏では、最近は結構音が聴こえるような気がするからだ。もちろん、座席にもよるのかもしれないし、一概に言ってしまうのは適当ではないかもしれないが・・・。なので今回は久しぶりにこのホールにもどかしさを覚え、総勢 100名弱のメンバーが揃ったせっかくのウィーン楽友協会合唱団の歌も、多分に想像力で補って聴くこととなったし、ソリストについては、ソプラノのハンナ・モリソン (もともと予定されていたゲニア・キューマイアという歌手から変更になったが、経歴を調べると、バロック音楽を主に歌っている人であるようだ) は安定していたが、バリトンのミヒャエル・ナジは、やはり音響のせいかもしれないが、時に安定感を欠いていたようにも聴こえてしまった。それから、今回はステージ上に鍵盤が設置され、このホール自慢のオルガンを、音量は控えめながらも、使用していたようだ。調べてみるとこの曲でのオルガン使用は任意。私としては、上に書いた冒頭部分の弦楽器の伸びなど、純粋にオケの音に耳を澄ませたい場面であるところ、オルガンの周期的な音がごくわずかだが入ってきたこと (正確に言うと、冒頭部分で何か周期的な低音が入っていることが気になって舞台を見まわしてみたところ、オルガンが演奏していることが分かったのであるが) が少し興ざめであった点も、やはり残念であった。それにしても、交響曲もそうであるが、ブラームスの音楽は本当に上質の音色を必要とするし、実演ではホールの音響が演奏の印象に大きな影響を与えるだな、と実感したことである。

だが、繰り返しだが、この曲の魅力とこの演奏者の美的特色をある程度理解していて、そこに多少の想像力があれば、きっと今回も素晴らしい演奏であったのだろうということは、なんとか分かる。だがもうひとつ、これは本当に残念であったのは、終演後の拍手である。昨日のブルックナーと同じく、曲を振り終えて両手を静止させた指揮者が、ゆっくりと円弧を描いて右腕を下ろして行く最中、一人の人がかなりしつこく拍手を続けていたのだ。きっと、曲が終わったことを自分は知っていると、知識を誇示したかったのかと想像するが、それにしても、あれは明らかにマナー違反であろう。たった一人の行動によって、演奏会の雰囲気が台無しになるのは、なんとももったいないこと。文化都市東京においては、あのような行為は慎む必要があると思う。

今回の演奏は、もちろん NHK の主催であるからして、ほかの NHK 音楽祭のコンサートと同じく、FM と BS で放送される。きっと放送で聴くと、素晴らしい名演であることを認識することができるだろう。90歳のブロムシュテットの今回の来日公演は、それですべて終了。まだまだ意気軒高なマエストロは、またきっと来日してくれるであろう。実はそれは、早くも半年後、来年の 4月に予定されている。N 響定期 3公演に登場して、A プログラムでは、ベルワルト 3番と幻想交響曲、B プログラムでは、ベートーヴェン 8番、7番。C プログラムでは、やはりベートーヴェンのピアノ協奏曲 4番 (独奏はピレシュ) と交響曲 4番を指揮する。これまた、聴き逃せないものばかりだ。なるほど、これで、以前の記事で言及した、N 響とバンベルク響によるブロムシュテットのベートーヴェン・ツィクルス完了ということになるわけだ。ところで、ネット上でこんな写真を発見。ゲヴァントハウス管の新旧カペルマイスターの交歓の図であり、なかなか貴重なものだ。来年からはいよいよネルソンスが楽長に就任。このオケの今後も、また面白くなりそうである。
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by yokohama7474 | 2017-11-13 23:56 | 音楽 (Live) | Comments(3)

ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 (ヴァイオリン : レオニダス・カヴァコス) 2017年11月12日 サントリーホール

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前日に続き、サントリーホールで、275歳のオケを 90歳の指揮者が率い、50歳のソリストと共演するコンサートを聴いた。今回の曲目は以下の通り。
 メンデルスゾーン : ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64 (ヴァイオリン : レオニダス・カヴァコス)
 ブルックナー : 交響曲第 7番ホ長調

前日のコンサートについての記事でもご紹介したが、この 275 / 90 / 50 という今回のツアーゆかりの数字の組み合わせはオリジナル T シャツになっている。前日もあったのか否か記憶にないが、会場の T シャツ売り場には、こんな写真が展示されている。言うまでもなく、左からヴァイオリンのカヴァコス、指揮のブロムシュテット、ひとり置いて、音楽事務所 KAJIMOTO の梶本眞秀社長。そして、後ろにいる人物は、多分このライプツィヒ・ゲヴァントハウス管の総支配人であるアンドレアス・シュルツであろう。今回の演奏会にも姿を見せていて、1階席真ん中あたりで、どなたかの紹介によって、小泉純一郎元首相を挨拶を交わしていた。尚、今回の客席には、指揮者の鈴木雅明、ヴァイオリンの成田達輝らも姿を見せていた。
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さて、この演奏会について、私ごときが何を語ろうか。あまり確信が持てないが、まずは語り始めよう。まず前半のメンデルスゾーンは、1845年にこのゲヴァントハウス管が初演した曲。初演を行ったのは、作曲者メンデルスゾーンがこのオケの楽長に就任する際にコンサートマスターに就任した、フェルディナント・ダヴィッド。
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この甘美なヴァイオリン・コンチェルトは、まさにこのゲヴァントハウスによって世に出されたわけである。それから 170年以上を経て、極東の地で、ギリシャ人のヴァイオリニストが、今や世界の名曲であるこのコンチェルトを見事に弾くことになろうとは、作曲者も初演者も、想像したことがあっただろうか。カヴァコスであるからもちろん、ただ甘美な演奏にはなるわけもなく、本来ならこの曲に似つかわしくないとすら言えるほどの、いわば哲学的な演奏であったと評価したい。長身で軽々とヴァイオリンを弾く彼であるが、出て来る音には常に細心の注意が払われていて、音楽を聴く楽しみ、あるいは人が今そこに生きて、音楽を聴いているということの意義といったものすらを感じさせる。私はこの人のヴァイオリンを聴いておよそ失望したことはないのだが、今回も最大限の敬意を払うべき演奏であったと思う。ブロムシュテットも、前日のブラームスに続いて、堅実な伴奏に努めた。そしてアンコールに演奏されたのは、今回もバッハの、無伴奏パルティータ 3番から「ガヴォット」。ここでも澄んだ音色に哲学性まで感じさせる、背筋が伸びるような演奏であった。つい先日も、ボストン響の演奏会においてソロを弾いたギル・シャハムが同じ曲をアンコールで弾いており、それはそれで、なんとも人間的な素晴らしい演奏であったが、今回のカヴァコスの演奏は、より孤独感の強い、だがやはり大変感動的な演奏であった。それにしてもこのカヴァコス、私は海外で初めて聴いて、これはすごいと思ったヴァイオリニストであるが、今回の聴衆の反応は、完全にこの人の音楽を強く支持するものであると思った。彼の活動はどんどん広がっており、ユジャ・ワンとブラームスのソナタ全曲を録音したり、同じブラームスのトリオを、ヨーヨー・マ、エマニュエル・アックスと録音していたりする。まさに今が旬のこのアーティストを、ブロムシュテットとゲヴァントハウスのような最高の伴奏で聴ける我々は、本当に恵まれている。
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そして、今回メインの曲として演奏されたのは、ブルックナーの大作、交響曲第 7番である。この曲の初演が、作曲者の生前の遅まきの成功のきっかけとなったことは当然知っていたが、その初演は 1884年、アルトゥール・ニキシュ (ベルリン・フィル第 2代音楽監督) の指揮するこのゲヴァントハウス管によってなされたことは、寡聞にして知らなかった。ウィーン・フィルではなかったわけである。この歴史的な初演を成し遂げたオケが、21世紀に至って、ブルックナーを得意とする 90歳の巨匠のもとでこの曲を日本で演奏することは、これまた大変意義のあることだ。ブロムシュテットのブルックナー 7番と言えば、昨年の今頃、これもドイツの名門オケであるバンベルク交響楽団と日本で演奏したことを、2016年11月 5日の記事に興奮した筆致で書いたのも、記憶に新しい。正直なところ、その時の演奏が既に期待に違わぬ歴史的な名演であったことから、今回は少しは冷静に聴くことができたと言ってもよい (笑)。その感想をここでグダグダと書くまでもないだろう。ブロムシュテットとゲヴァントハウスは、まさにこの曲の神髄を謳いあげたという言葉以上に、何が言えようか。ただ今回、実は私の耳には、この演奏の濃淡が、時折響いて来た。つまり、第 1楽章は金管のニュアンスが完璧ではなく、第 2楽章、それから第 3楽章も、開始部分は驚くほどの音の密度でもなかったものが、音楽が進んで行くにつれ、熱を帯びて行ったように思う。これは演奏の批判ではなく、そこに存在した人間性の証しとして捉えたい。そういえば、昨年の演奏に続き今回もノヴァーク版による演奏と明記されているが、昨年は、記事に書いた通り、ノヴァーク版の最大の特徴である、第 2楽章アダージョでの打楽器が欠けていた。ところが今回は、ちゃんと入っていたのである。但し、シンバルとトライアングルはなく、ティンパニだけであったが。尚、このコンビが 2006年に録音したこの曲は、実はノヴァーク版ではなくハース版であった。このあたりに、80代以降も続いているブロムシュテットの飽くなき探求心を感じることができる。それから、今回の演奏で最も心震えたのは、その第 2楽章アダージョで、ワーグナーチューバと続いてホルンが、ワーグナーを追悼する涙の叫びをあげたあとに、孤独なソロを吹くフルートである。私はこれまでの人生で、この曲をそれはそれは随分沢山聴いてきたが、ここのフルートがこんなに美しく響いたことは、ちょっと記憶にないくらいである。そうして、全曲が壮大な曲調で終了したあと、会場はまさに水を打ったような静けさに包まれた。それから、中空で停まった指揮者の右手が、何十秒もかけてゆっくりと下りてきて、ようやく緊張感がほどけたその瞬間に、わっと拍手が起こったのである。私は、この拍手が示す東京の聴衆の質の高さは素晴らしいと思うし、その一員になれたことを、誇りに思う。以前であれば、大きな音で終わる曲にはすぐにブラヴォーが沸き起こり、あるいは静かな曲でも、誰かがフライング気味に拍手をすることが多かった。だが今や東京の聴衆は、音楽の本当の楽しみ方をよく知っているのだ。私はステージに向かって左側で聴いていたので、よく見えなかったが、ブロムシュテットは体を右側にひねって、聴衆に対して拍手を送っていたようにも見えた。私の思い込みかもしれないが、演奏家としても、渾身の演奏に対してあのような反応があることは、本当に冥利に尽きるであろう。因みに、今回もブロムシュテットは全曲暗譜で指揮をした。
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ブロムシュテットとゲヴァントハウスの演奏、残るは NHK 音楽祭の一環として開かれるブラームスのドイツ・レクイエムだけである。これも心震えるような感動を期待したい。さて、ここでまた脱線だが、我が家のアーカイブで最も古いブロムシュテットの映像を引っ張り出して見てみた。それは、1991年 3月 8日に NHK ホールで行われた N 響の定期演奏会で、ここでは、ベルワルト (ブロムシュテットの母国スウェーデンの作曲家) の交響曲第 4番と、ブラームスの交響曲第 1番とを、ともに暗譜で振る 63歳のブロムシュテットの姿がある。興味深いのは、ここで彼は、現在のようにヴァイオリンの左右対抗配置を取っていないように見えるし、指揮棒も持っている。ここにも、常によりよい表現を求めて試行錯誤を重ねてきた、真摯な音楽家の姿を見ることができるだろう。当時、N 響の定期演奏会の一部は、BS で生放送していて、その休憩時間には曲の解説が入っていた。当時を知らない若い方のために、あるいは、当時を懐かしみたい方のために、映像をいくつかお見せしよう。解説は、作曲家の柴田南雄である。
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当時からブロムシュテットも進化したが、東京の聴衆も進化したと思う。大変素晴らしいことではないか。

by yokohama7474 | 2017-11-13 00:54 | 音楽 (Live) | Comments(0)