カテゴリ:音楽 (Live)( 260 )

今ここで明確にしておく。秋山和慶は、日本人指揮者として私が最も深く敬愛する人物だ。その状況は過去 20年ほど変わっていない。
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若い頃から白髪で、見た目穏やかな印象の指揮者であり、一般大衆向の名曲コンサートを振る機会も多く、かつ、現在では世界の一流オケよりは日本の地方オケやアマチュアオケ、吹奏楽に頻繁に登場することから、この偉大な音楽家の恐るべき実力が世の中で充分に理解されていないきらいがある。実際、「究極の仕事を選ばない指揮者」と呼ぶこともできるだろう (私の手元には、彼がムード音楽を指揮した超昭和な雰囲気のアナログレコードまである)。だが、数々の実演で彼の真骨頂 (その中には、1994年の伝説的な「モーゼとアロン」を含む) に鳥肌立ててきた私はことあるごとに、周りの人々にはその経験がいかに稀有であったかを説き、この指揮者の評価についての再考を促して来た。もしこのブログをご覧の方で、まだマエストロ秋山について間違ったイメージを持っている方がおられれば、即刻神に赦しを乞うて悔い改め、なんでもいい、次の彼のコンサートに出掛けてみて頂きたい。また、音楽活動 50年を記念して最近出版された自伝「ところで、きょう指揮したのは・・・」を、正座して読みなさい。この偉大な指揮者と同時代に生きていることの幸せを噛み締めることになるだろう。

さて、今回は新日本フィルの指揮台に登場し、ストラヴィンスキーの 3大バレエの一挙演奏という大仕事だ。秋山と新日本フィル? うーん、過去にこの顔合わせがあったという記憶が全くない。それもそのはず、楽団の説明によれば、今回が 40年ぶりとのこと。ということは、旧日フィルが分裂して、斎藤秀雄らによってこの楽団が生まれて間もない頃に指揮して以来ということか。

実はこの指揮者がストラヴィンスキーの 3大バレエを一晩で取り上げるのを聴くのは、2回目である。調べてみたところ、それは 2001年。当時の手兵、東京交響楽団を指揮した相模大野での演奏会であった。面白いので、当時のチラシをアップしてみましょう。
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ストラヴィンスキーの 3大バレエとは、言うまでもなく、「火の鳥」、「ペトルーシュカ」、「春の祭典」である。生涯を通してスタイルを変遷させたこの作曲家が、1910年代、30歳前後の若い時代にその才能を炸裂させた、未だに聴く度に驚嘆すべき傑作群。このうち「火の鳥」は全曲では長すぎるので、このコンサートでは組曲であるが、前回も今回も、最もポピュラーな 1919年版を採用している。面白いのは「ペトルーシュカ」で、結果的には前回も今回も 1947年改訂版での演奏であったが、2001年のコンサートのプログラムには、「1911年版 (注 : オリジナル版) を使用するとの告知をいたしておりましたが、指揮者の希望により1947年版 (注 : 改訂版) を使用させて頂きます」との記載がある。改訂版の方が編成が小さいことによるのであろうか。ただ、私の記憶違いでなければ、前回はエンディングのペトルーシュカの亡霊まで演奏されていたと思うが、今回はその手前で終了。聴きものの、最後の部分でのトランペットの叫びがなかった。ここで私は思い出すのである。この最後のトランペットを含め、前回の演奏は、大変残念ながら、あれこれ傷の多い演奏であったことを。帰り道でがっかりした思いを頂きながら、「この意欲的なプログラムを、東京の中心で耳の肥えた聴衆の集まるサントリーホールでなく、相模大野でだけ取り上げたのは、やはり自信がなかったからなのだろうか・・・」と邪推したことを。

それを思うと今回は、まさに雲泥の差。40年ぶりの顔合わせとなる新日本フィルは、その間に飛躍的な発展を遂げた。もともと木管楽器のうまいオケであったが、今回の演奏などを聴いていると、管のみならず弦も、それぞれの楽器が濃厚な表情をたたえつつ呼び交わしていて、オーケストラ演奏の醍醐味を存分に味わうことができた。バトンテクニックには抜群の定評を持つ指揮者だけあって、危うい場面は皆無。むしろ余裕すら感じられた。ハルサイの最後の和音が翻った瞬間、ざざっと鳥肌が立ったものだ。

秋山は今年まだ 74歳。これから本当の円熟に近づくだろう。心して彼の音楽を聴いて行きたい。

by yokohama7474 | 2015-06-21 14:13 | 音楽 (Live) | Comments(0)

コバケンが数ヶ月おきに 4度に亘り文京シビックホールに登場し、東京フィルを相手にチャイコフスキーの有名曲を演奏する。今日がそのシリーズの第 1回であったが、指揮者自身がステージから客席に語りかけたところによると、座席の 8割がシリーズ通し券で売れ、残りの 2割も今日は完売とのこと。一般の人々にも人気のあるコバケンという指揮者と、チャイコフスキーというポピュラーな作曲家の組み合わせならではのことだろう。下の写真は今回のコンサートのリハーサル風景で、会場に展示してあったもの。
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私は過去 35年くらい、折に触れこの指揮者を聴いているが、およそ枯れるということがなく、クラシックの人気名曲を手掛けては並ぶ者のない手腕に感嘆する。よく比喩として、カレーライスとトンカツとハンバーグをレパートリーにしている指揮者などと言っているが、カレーライスやトンカツやハンバーグを食べる人を魅了するということは、それだけで稀有なこと。日本がこの指揮者を持ったことに感謝しよう。

東フィルの充実ぶりには目を見張るばかり。繊細な木管楽器のやりとりや、力強い金管の炸裂も、申し分ない。この演奏能力でチャイコフスキーを演奏すると、演っている方も楽しいに違いない。

曲目を忘れていた。

歌劇「エフゲニ・オネーギン」作品24 からポロネーズ
バレエ音楽「くるみ割り人形」作品71 から金平糖の踊り、葦笛の踊り、花のワルツ
イタリア奇想曲
ロココの主題による変奏曲
大序曲「1812年」

イタリア奇想曲や 1812年のクライマックスが、自分の中の理想通りに鳴っているのを聴くのは素晴らしい体験だ。これぞコバケンのチャイコフスキーという感じ。

今回チェロを弾いたのは、まだ桐朋の学生でありながら、数々のコンクール歴を誇る、上野 通明。若々しい感性が大変魅力的であった。アンコールにはバッハの無伴奏の 6番の冒頭楽章を弾いた。これはバッハの組曲の中では最も躍動的と言ってもよい楽章で、いかにも勢いがあってよかった。
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今後のシリーズの残りの 3回は、3大交響曲のそれぞれを含む。考えてみれば、初めてコバケンを生で聴いたのは、東京交響楽団とのチャイコスフキー 4番だった。35年を経て、いかなる成熟を聴くことができるか、楽しみである。実は今回、プログラム後半でステージにチェリスト用の椅子が出てきたのを見て、近くに座っていたご夫婦が、「あ、客席の方を向いているね。指揮者が椅子に座って喋るんじゃないかな」と話をされていて、微笑ましかった。そのような方々が本当に感動できる音楽、この指揮者にはそれを奏でることができるのだ。

by yokohama7474 | 2015-06-13 23:26 | 音楽 (Live) | Comments(0)

今月の N 響の定期 3プログラムは、既にご紹介したドゥネーヴが 1つ、そしてこのポーガが 1つ、残りは尾高忠明だ。尾高はまさに今円熟の境地。ただ、時代の趨勢か、日本人指揮者が N 響定期を振ることができる機会が減って来てしまっているように思う。翻って言えば今月は、有望な若手外国人指揮者が 2人、指揮台に立つということになる。

アンドリス・ポーガ。1980年生まれのラトヴィア人。今年 35歳ということになる。
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音楽好きなら既に周知の通り、ラトヴィアの首都リガは、ワーグナーを宮廷楽長に迎えたこともあり、現代においても、指揮のマリス・ヤンソンス及びアンドリス・ネルソンス、ヴァイオリンのギドン・クレーメル、チェロのミッシャ・マイスキーを輩出した土地柄。きっと何か、音楽を導く要因があるのであろう。このポーガは、数年前に N 響のオーチャードホール定期に登場したことは知っていて、実際に聴くことはできなかったが、そのときのチャイコフスキー 4番が聴衆の熱狂を呼び起こしたとのこと。今回の演奏会を聴いて、それが分かるような気がした。強いて既知の指揮者に例えると、アラン・ギルバート (ニューヨーク・フィル音楽監督) に似ていると言えようか。もちろん、大柄な外見が連想を煽るということもあるが、大柄な割には繊細な部分があるところまで、そっくりである。ただ、すべてを吹き飛ばすような音響に、今の彼の真骨頂があると言って間違いでないように思う。

ともあれ、今日のメインのラフマニノフ作曲交響的舞曲作品45 は、依然粗削りな面もありながら、作品の本質に肉薄する名演であったと思う。私にとっては、マゼールとベルリン・フィルのディスクが新譜として出て以来の長いつきあい (30年?) の曲であるが、実演で聴ける機会はさほど多くない。このオケとしても、当然デュトワとは演奏していると思うが、それほど手の内に入った曲ではないはず。にもかかわらず、日本のオケがこれだけ作品の本質をあらわにする演奏をなしえることに、指揮者もなにがしかの思いを抱いたものではないか。ここでラフマニノフ論を展開すると長くなるが、今回新たに気づいたことは、彼の 70年の人生で、実はこれが最後の作品であるということ。たったの作品45である。やはり彼の人生においてはピアノを弾く時間が長かったのだろうなと、改めて思う。実際、その作品のうち、何曲が本当の名作であるのか。オーケストラ作品では、交響曲第 2番は無類の傑作 (最近では、映画「バードマン」で、いい使われ方をしていました)。でも、ほかには? この交響的舞曲は、ディエス・イレエの引用や、やけに耳に残るサックスの使用など、謎めいた点がある作品だ。その意味で、ハリウッドはラフマニノフ調の音楽を利用したというイメージはあるものの、彼の作品で本当に「ハリウッド調」のものは少ないと思う。

今日の演奏会での主役は、実はホルンのラデク・バボラークだったと言ってしまった方がいいのかもしれない。
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言わずとしれた、もとベルリン・フィル首席の、現代最高のホルン奏者。演奏したのは、ロバート・レヴィン補完のモーツァルト作曲ホルン協奏曲第 1番ニ長調 K.412 に、R・シュトラウス作曲ホルン協奏曲第 1番変ホ長調作品11。まあとにかく唖然とするテクニックは健在で、こちらは客席でふんぞり返って聴いていても何の不安もない。まさに脱帽。このバボラーク、最近ではソロの CD なども出しているようであるが、考えてみれば、ホルン奏者でソロでやっていくということは、実際にはほぼ不可能に思われる。伝説のデニス・ブラウンから、ペーター・ダム、バリー・タックウェル、デイル・クレヴェンジャーなど、皆オケの楽員ですよね。バリバリの現役で、ソロでやって行こうなどと思えるのは、このバボーラクくらいではないでしょうか。是非、新時代を切り拓いてもらいたい。

ところで、バボーラクのアンコールは、自作のロッシーニを題材にした曲を取り上げたが、私は思うのである。今日の 1曲目、モーツァルトの交響曲第 1番変ホ長調 K.16 は、本当はロッシーニの序曲のどれかであるべきではなかったか。そうすれば、ポーガの音楽の生命力がより発揮されたであろうに。

by yokohama7474 | 2015-06-13 00:47 | 音楽 (Live) | Comments(0)

テミルカーノフと読響の 3つ目のプログラム。

プロコフィエフ : ピアノ協奏曲第3番ハ長調作品26 (Pf : デニス・マツーエフ)
ショスタコーヴィチ : 交響曲第10番ホ短調作品93

である。会場に到着すると、何やら張り紙が。同じ内容がプログラムにも挟んであって、なんでも、今日付でテミルカーノフが読響の名誉指揮者に就任するとのこと。
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上の写真では、指揮者のメッセージが切れているが、まあ、何も面白いことは言っていない。大変名誉だ。今後ともよい関係を続けたい。そのような淡々とした実務的な内容だ。読響は、桂冠名誉指揮者にスクロヴァチェフスキ、名誉指揮者にマズアとロジェストヴェンスキー、そして新たにテミルカーノフということになる。平均年齢は何歳になるだろうか。いずれにせよ、この名指揮者がこのようなタイトルを受けてくれたことは、東京の音楽界にとっては素晴らしいことだ。

そしてこの「披露コンサート」が華やかなものになったかというと、答えはイエス。但し、専ら前半においてだ。デニス・マツーエフ恐るべし。
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以前、ゲルギエフとマリインスキーの来日公演で彼のラフマニノフの第 3コンチェルトを聴いて驚愕したが、今回のプロコフィエフも実に鳥肌立つ超絶技巧。圧巻は終楽章で、めまいを覚えるようなめまぐるしさの末に、最後の和音を叩いてそのまま立ち上がった様子が、あたかも打鍵の勢いがあの巨体を突き上げたかのように見えたものであった。但し、まだ続きがあって、アンコールの 1曲目にリャードフの小品。抒情的で、オルゴールのような懐かしい響き。で、2曲目のアンコールが、どう聴いてもキース・ジャレットだ。かつての彼の即興を再現したものかと思って終了後の表示を見ると、なんと、「A列車で行こう」。確かにそれ風の旋律が出てくる箇所はあったものの、ほとんど原型を留めていなかった。ロシアの音楽家がロシアの音楽のあとにジャズを演奏する!! これは音楽のグローバル化と呼んでよいものだろうか。

さて、メインのショスタコーヴィチであるが、いつもにも増して抑制した指揮ぶりで、第 1楽章の冒頭から、暗い音の動きが凄まじい説得力。ただ、聴き進むうちに思ったのだ。この曲は、こんなに静かな箇所が多かっただろうか? 私にとっては、カラヤンの新旧両盤を学生時代に相当聴きこんだ、なじみの曲。聴きながら、心のうちで全曲を口ずさんでいる。それでも、なぜか今日の演奏は、見慣れた風景が急によそよそしく感じるような違和感があった。狂気の嵐のように駆け抜ける謎の終楽章も、鮮やかには終わったものの、カタルシスはない。これは、ロシアの指揮者による音楽のローカライゼーションなのか。名誉指揮者就任お披露目公演であるにも関わらず、終演後の指揮者に笑顔はなかった。その後、お得意のエルガー作曲エニグマ変奏曲から「ニムロッド」が演奏され、ようやくカタルシスが訪れたのである。

ショスタコーヴィチは、公的ステイトメントとして交響曲を書き、個人的な思いを弦楽四重奏曲に託したと言われてきた。ところがこの交響曲10番は、教え子の女性への恋情をテーマにしているという説が最近定説化しているという。ええっ、それって、「スターリンの死後に発表された初の交響曲で、政治的な抑圧やスターリンの肖像を描いた」という従来の整理とは、かなり違うではないの。ただ、もともとショスタコーヴィチ自身を表す音列のこの曲での多用は知られていて、何等かの個人的要素が含まれているという理解はあったわけだ。あまり意味を深追いしても仕方ないかもしれないが、聴けば聴くほどに謎めいてくる彼のシンフォニー。実際この後、11番、12番はまた革命を題材にした「公的」な内容となり、13番、14番では、あの当時のソ連の政治情勢では無謀と思えるほどの悲劇性、厭世性が迸り、そしてこの上なく謎めいた 15番で、彼のシンフォニーは終わるのだ。複雑な社会情勢が、天賦の際を弄んだということか。

ともあれ、テミルカーノフには、まだまだ元気で読響を振りに来て頂きたい。あ、そう言えば、以前、ロシアの音楽家が東京に集結していると書いたが、もう一人いました。アレクサンドル・ラザレフ。日本フィルの首席指揮者としての最終公演だろうか、明日、明後日と、やはりショスタコーヴィチの 8番をメインとするプログラムを振る。残念ながら聴きには行けないのだが。
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by yokohama7474 | 2015-06-12 00:22 | 音楽 (Live) | Comments(0)

N 響の指揮台には、入れ替わり立ち代わり名指揮者が登場するが、このドゥネーヴなど、まさにこれから出世間違いなしの逸材であって、このような指揮者に目をつける楽団経営陣の目は確かであると思う。
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私がこの指揮者に注目したのは、一昨年のサイトウ・キネン・フェスティヴァル松本で、小澤指揮の「子供と魔法」のあと、「スペインの時」を指揮したのに接したことがきっかけであった。その前に、手兵であるシュトゥットガルト放送響と来日していて、よほど客の入りが悪かったのか、直前にチケットがダンピングされていたのは知っていたが、正直、食指が動かなかった。なにやらややこしいフランス人の名前、決してイケメンとは言えない容姿が災いしたと率直に言ってしまおう。ところがところが、その「スペインの時」は、まさに驚愕すべき素晴らしい演奏で、小澤の「子供と魔法」(これはこれで大変よかったのだが) があたかも前座のようになってしまった。なんと表現すればよいか、音に色気があって、まさにここでこういう風に鳴って欲しいという音が鳴っていたのである。

さて、そして今日の演奏会である。曲目は、

ラヴェル : 道化師の朝の歌
ラロ : スペイン交響曲ニ短調作品21
ルーセル : 交響曲第 3番ト短調作品 42
ラヴェル : ボレロ

というオールフランスプロ。しかも、よく見ると、まさに「スペインの時」ではないが、スペイン風の音楽がメインで、そこにルーセルが加わっているというもの。プログラムによると、ドゥネーヴはトゥールコワンという街の出身で、ルーセルと同郷だそうだ。ということは、そのルーセルの代表作、交響曲 3番には相当な思い入れがあるはず。私にとっては、高校生の頃にブーレーズの録音を聴いて以来大好きな曲で、その後もクリュイタンス、アンセルメ、バーンスタイン、デュトワなどの CD を楽しんできた。いやそれどころか、時折冒頭部分や終楽章を無意識に口ずさむことすらあるくらいだ。今回の演奏会を必聴と考えた所以である。

実際、このルーセルが演奏会のハイライトになった。スコアを前にしながらも、全く開くことなく振り終えた指揮者は、最後の和音を響かせるとともに聴衆の方を振り返り、「どうだ」と言わんばかりの仕草 (まあ、いわゆるドヤ顔ですかね 笑) を見せた。さらに、即座にブラヴォを叫んだ聴衆に対し、「アンタ分かってるねぇ」という反応を見せたのだ。やはり、相当に自らの音楽に自信があるとともに、N 響の演奏にも満足したということだろう。この曲は、いわゆるフランス的なアンニュイな感じよりも、バリバリ合奏することが求められていて、その意味では、ドイツものの土壌の上にデュトワによってフランスものを叩きこまれたこのオケにとっては、恰好の腕の見せ所だったに違いない。このルーセルでも、あるいは「道化師の朝の歌」でもそうだったが、音楽の輪郭をはっきりさせる指揮ぶりが大変に好ましかった。

ルノー・カプソンは、いかにもフランスの香り高い音を聴かせるヴァイオリニストだ。立ち姿もすっきりとしており、興が乗るとつま先立つ様子が、音楽への没入を示している。アンコールにはグルックの精霊の踊りを演奏したが、これも透明感ある抒情的な演奏だった。

ボレロは、まあ大概の演奏が盛り上がるわけではあるが、はい、それはもう、飛沫が飛び散るような着地でした。お見事。

この指揮者、若き日にショルティに才能を見出されたという。感情に溺れすぎずに正確な音を紡ぐ姿勢が評価されたものであろうか。今後が楽しみだ。

by yokohama7474 | 2015-06-08 01:28 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ジョナサン・ノットが東京交響楽団の音楽監督として 2期目を迎えた。
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今季最初のこのコンビのコンサ-トの曲目は以下の通り。

R・シュトラウス : メタモルフォーゼン (変容)
ブルックナー : 交響曲第 7番ホ長調 (ノヴァーク版)

このプログラムに関して、ノット自身が語っている言葉を引用しよう。

QUOTE
両方とも和声が斬新でメロディが濃厚な曲です。実際にステージに出てくるのはたった23人の弦楽奏者ですが、メタモルフォーゼンは室内楽ではないと思うかもしれません。それだけ濃厚な音作りです。この弦楽器の世界から続くのは大編成のブルックナーによる金管楽器が特徴的な、まったく別の音の世界です。是非この二つの音の世界を楽しんでいただきたいと思います。
UNQUOTE

うーん、実は私は、昨年のクリスティアン・ティーレマン指揮のドレスデン・シュターツカペレの来日公演で、同じメタモルフォーゼンと、ブルックナー 9番の演奏を聴いたとき、まさに上記のような思いを抱いたものだ。ノットのヴィジョンたるや、おそるべし。
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ただ、残念なことに、ブルックナーは最高の出来というわけにはいかなかった。私はノットの指揮する東響を、もっとバルトークやストラヴィンスキーを振って欲しいなぁと思いながらも、あれこれ聴いてきた。マーラー、ワーグナー、ベルク。いずれも素晴らしく、今回のブルックナーに関しても、その適性をじっくり聴いてみたいと思った。ところがである。どうやらこのブルックナーという作曲家、指揮者によって如実に相性の良し悪しがあるように思われる。いかにもドイツ的な重々しい演奏もあれば、キリリと引き締まった演奏もある。その意味で、スタイルを問わず、ブルックナーの神髄を明らかにできる指揮者のパターンがあるような気がする。それにあてはめてみると、ノットの場合、ブルックナー指揮者ということにはならないだろう。何がどうと説明することはできない。でもそれが、ブルックナーという特異な作曲家の不思議なところであろう。メタモルフォーゼンは、それぞれの奏者の描く曲線の錯綜ぶりが素晴らしかったが、前述のドレスデンの演奏が耳に残っている身としては、やはり分が悪いことは致し方あるまい。

いずれにせよ、このコンビは今後も注目であることに違いはない。ただ、ノットに関してひとつ気になることがある。それは、演奏後のカーテンコールで、オケの奏者を個別に立たせることがないことだ。これは、オケの士気にもかかわることではないだろうか。例えば新世界を演奏したあとでも、コールアングレを立たせることはないのであろうか???? その日が来ることを待つこととしよう。

by yokohama7474 | 2015-06-07 23:50 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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今回のテミルカーノフの読響との協演、2つ目のプログラムは、マーラーの第 3交響曲だ。この指揮者のマーラーと言えば、1番を以前この読響でも取り上げていたし、サンクト・ペテルブルク・フィルとの来日公演では 2番を演奏したこともある。だが、私はそのいずれにも行けなかったので、今回が初のテミルカーノフによるマーラー体験だ。

結論から言えば、随所にテミルカーノフ節が聴けたとはいえ、マーラーの演奏としては課題の多いものになった。多少こじつけになるかもしれないが、ひとつの理由は、読響のこれまでの演奏の歴史の中で、この作曲家が必ずしもメインストリームであったとは言えない事情があるのかもしれない。考えてみれば、ザンデルリンク、フリューベック・デ・ブルゴス、マズア、ロジェストヴェンスキー、アルブレヒト、スクロヴァチェフスキー、それにカンブルランを加えても、マーラー指揮者というイメージはあまりない。もちろん、これらの指揮者のマーラー演奏を、実演や CD でそれぞれ聴いてきている私ではあるが、ただやはり、どちらかというとブルックナーの方がこれらの指揮者には似合うような気がする。

それが関係しているわけではなかろうが、今回は冒頭からもうひとつオケの集中力が高まらないもどかしさを感じた。もちろん、第1楽章の終結部や、最終楽章の大団円等、音楽が大きく弧を描く場面で、纏綿とテンポが落とされて歌が沸き起こる感覚には感動を禁じ得ないものはあったのであるが、マーラーに必要な混乱というべきか、統御された狂気というべきか、そのようなものは聴き取れなかった。

ユニークであったのは、合唱団とソリスト (小山由美) の入場。第 3楽章が終わったあと、ようやく女声合唱 (新国立劇場合唱団) と児童合唱 (NHK 東京児童合唱団) がホールの後ろの席 (P ブロック) に入場し、ソリストに至っては、第 4楽章の冒頭部分でステージ袖から歩いてくるという登場ぶり。歌劇場での経験豊富なテミルカーノフとしては、何かこだわりがあったのかもしれないが、ちょっと無理があったのではないか。ソリストにしてみれば、歩き終わってすぐに、あの夜の雰囲気の静かな歌を歌う必要あるわけで、感情移入に高い難易度があったと思う。入りの部分の音程の不安定さに、聴いている方がハラハラするようなことになってしまった。

日本のオケの水準が著しく上がってきていることで、聴衆の期待も大きくなっている。このコンビには、次のプログラムに期待しよう。切り札のロシア物だ。
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by yokohama7474 | 2015-06-06 23:10 | 音楽 (Live) | Comments(0)

フェドセーエフの指揮する、旧モスクワ放送交響楽団を聴く。曲目はオール・チャイコフスキーで、

四季作品37b から 4月 / 6月 / 10月 / 12月 (ガウク編)
組曲「くるみ割り人形」作品71a
交響曲第5番ホ短調作品64

というもの。尚、今回初めて知ったが、「くるみ割り人形」の組曲のことを作曲者はもともと「クリスマスツリー」と題したので、フェドセーエフはそれを尊重したいとのこと。なーるほど、確かにクリスマスが題材という以上に、この愛らしいバレエ組曲にふさわしいニックネームですね。
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フェドセーエフは1932年生まれなので、今年83歳ということになるが、年齢を全く感じさせない指揮ぶり。もっとも、近年、N 響や兵庫芸術センター管弦楽団などの指揮のためにそれなりの頻度で来日しているので、健在ぶりは知っているつもりではあったし、生演奏にも接していた。ただ今回は改めて、その変わらぬ音楽に感銘を受けた。彼の音楽は、いわゆるロシア風のこってりしたものとは少し違っているが、金管が盛り上がって音楽の輪郭が膨張する瞬間などに、やはりロシア的情緒が聴かれると言ってよいであろう。今回の曲目では、アレクサンドル・ガウク (ムラヴィンスキーの師匠だ!) の編曲になるピアノ曲集「四季」の最初の音が鳴った瞬間に、もうロシア以外の何物でもない雰囲気が会場を満たした。「エフゲニ・オネーギン」のタチアナが読書しながら物思いにふける・・・まあそんな雰囲気で、なんとも抒情的だから、それをロシア的と表現したくもなるものだ。一方で、「くるみ割り人形」と交響曲5番は、名実ともに国際的な天下の名曲なので、ことさらロシア的などと考える必要はなく、遅めのテンポで丁寧に表情が描き分けられる様子がこのコンビの成熟度を表していて、聴きごたえは充分であった。また、今回はツアーの最終日であったせいか、4曲もアンコールが演奏され、これがいずれもすさまじい迫力。特に、(この日唯一チャイコフスキーでない)、ハチャトゥリアンの「レスギンカ舞曲」は、鳥肌立つ凄演であった。

ところで、私がいつも思うのは、昔の指揮者、生年でいえば恐らく1910年代くらいの人たちまでは、80歳前後で音楽がぐっと深みを増したような気がするのに対し、1920年代以降の生まれの指揮者には、あまりそのような要素がなく、60代に円熟の境地に達すると、それ以降の音楽作りにあまり差がなくなってしまうように思う。具体例は枚挙に暇がないが、日本で体験することができた例では、ベームやカラヤンやヴァントなどの感動的な晩年の演奏と、今のブロムシュテット、ハイティンク、ドホナーニ等の「若々しい」、と言って語弊があるなら、「以前から継続して円熟した」演奏との比較になろう。フェドセーエフもまたしかり。音楽に感動はできるのだが、命を削って没入するといったタイプではない。今回そのことを少し考えてみたのだが、あまり単純化するのは危険であるものの、音楽の世界におけるローカリズムの希薄化と関係があるのではないか。オケの技術が上がり、世界的に時差なく最新の情報が手に入る今となっては、本当にローカルなものを守るのは難しい。そうであるからこそ、逆説的ながら、コマーシャリズムはローカルなものを好む。このオケの名称がよい例だ。以前は「チャイコフスキー記念」を冠したモスクワ放送交響楽団であったが、今や、「チャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラ」だ。チャイコフスキー以外演奏しないのか??? いやいや、そんな馬鹿な。でも、もしかすると、国外ツアーではほとんどそうなのかもしれない。それは、「ロシアのオケはロシア音楽」というレッテルが、商売上便利だからだろう。でも私は、このコンビのブルックナーとかリヒャルト・シュトラウスを聴いてみたい。それは叶わないのだろうか。円熟のフェドセーエフが、若々しくないフェドセーエフが、そのような演奏から顔を出さないとは限らないではないか。あるいは、同じチャイコフスキーをやるでも、知名度が低くロシア的情緒を感じさせる「四季」の管弦楽編曲版の、抜粋ではなく全曲を前半に持ってくるようなことは無理だろうか。・・・無理か。
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by yokohama7474 | 2015-06-06 00:12 | 音楽 (Live) | Comments(0)

昨今、伊福部昭の人気には大変なものがあるが、それはもともと、ゴジラの音楽に日本人が感じる郷愁によるところ大であると思われる。しかしながら、伊福部人気からの波及であるのか、早坂文雄や芥川也寸志の音楽にもスポットライトが当てられているようだ。これは、日本人作曲家をそれなりに聴いてきた者としては、いささか複雑な感情を禁じ得ない。というのも、日本の作曲界の広がりは実に大したもので、必ずしも大衆性のない作曲家であっても、その作品を傾聴する機会が確保されるべきであるし、一方で映画音楽等で大衆性を獲得した作曲家にも、全く違った側面があるからである。ただ、なんであれ日本の作曲家が演奏会で取り上げられ、意外なほど多くの聴衆が集まることは、埋もれていた作品を発掘して継承して行くという点では、意義深いと評価できよう。
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さて、芥川也寸志である。なんでも、主催者側の「生誕100年まで待てない」という思いが結実したコンサートで、映画やテレビの音楽の再構成等、並々ならぬ関係者の労苦によって実現したものである。曲目は以下の通り。

Do Re Mi Fa Sol La Si Do!
祝典組曲No.3 marcia in do
NHK 大河ドラマ「赤穂浪士」組曲
映画「鬼畜」組曲
バレエ「KAPPA」組曲
NHK 幻のテーマ音楽集
映画「八つ墓村」組曲
映画「八甲田山」組曲
アンコール : みつばちマーチ

演奏は、1984年生まれの若い指揮者、松井慶太と、日本の作曲家を専門に演奏するオケとして 2012年に結成された、オーケストラ・トリプティーク。

演奏に先立ち、芥川がテーマ音楽を書いた映画「鬼畜」についての思い出を、同作品の監督である野村芳太郎の息子でプロデューサーの野村芳樹が語るプレトークがあった。実際の創作過程における当事者たちの苦労と熱意が伝わってきたわけであるが、古今東西、あらゆる芸術作品で、このような当事者たちの営為が繰り返されてきたことを思うと、実に興味深い話であった。
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驚いたのは、演奏の活きのよさである。このオケは、昨年の伊福部昭百年紀なるコンサートでも演奏を聴いていて、指揮者は異なれど、その鮮烈さは変わらない。35歳以下の奏者によって成っているとのことなので、芥川の没年が 1989年であることを思うと、作曲者の生前を知らない奏者がほとんどであろう。音楽の不思議さは、楽譜自体は音楽そのものを冷凍保存することを可能にする一方で、まさにこの世に生きて創作を行っていた作曲者の思いが、なんらかのかたちで奏者に影響することではないだろうか。通常クラシック音楽のコンサートでは、100年も 200年も前に書かれた曲を聴くことが多いのであるが、今回のようなコンサートは、作曲者の、未だ生きている思いが、ヴィヴィッドに音に現れる点、貴重であると思う。

私自身は、芥川の音楽のさほど熱心な聴き手ではないとはいえ、代表作のエローラ交響曲や、交響管絃楽のための音楽をはじめ、映画音楽もそれなりに聴いてきた。個人的な記憶では、小学生のときに見た「八甲田山」の音楽に強い Emotion を感じて、子供心に、ある種の恐怖心を覚えたことを鮮明に思い出す。伊福部の弟子であることを刻印したオスティナートと土俗的なメロディ、ロシア近代音楽を思わせる鉄琴、木琴の多用という明瞭な個性。時折ふと口ずさんでしまうような親しみやすさが、彼の音楽にはある。

ホールはほぼ満員で、一部マニアと思しき人たちもいたものの、普通のオジサンオバサンもいて、皆さん楽しんでおられるようだった。映画「鬼畜」のメインテーマは、ストリートオルガンで奏されるが、終演後のロビーで聴衆が自由にハンドルを回して音を出してよいということになり、たくさんの人々が集まって順々に楽しんでいた。このような風景もなかなかに珍しい。
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種々の困難を乗り越えて、この意義深いコンサートを成功に導いた関係者の方々の熱意と努力に、拍手!

by yokohama7474 | 2015-06-04 23:39 | 音楽 (Live) | Comments(0)

今年半ばのクラシック音楽界の大きな話題のひとつは、巨匠ユーリ・テミルカーノフの読響への客演であろう。今回、その最初の曲目を聴きに横浜に出かけた。このホールのよいところはロビーが全面窓になっていることで、天気のよい日は、窓から潮風の匂いすら漂うような気分になる。この日もすっきりとした晴天で、これから始まるコンサートへの期待がいやが応にも高めてくれた。
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今回の曲目は以下の通り。
 リスムキー・コルサコフ : 交響組曲「シェエラザード」
 ラヴェル : 左手のためのピアノ協奏曲 (独奏 : 河村尚子)
 ラヴェル : バレエ音楽「ダフニスとクロエ」組曲第2番

テミルカーノフという指揮者は、決して派手なことを狙うわけではなく、むしろ複雑な情緒をなんとも見事に紡ぎだして行く点に持ち味があると考えている。指揮棒を使わない指揮者は昨今では多いものの、この人については、抒情性の表現のために、両手の指を駆使する必然性があると思う。ただ、その抒情性が時として牙をむくまでに高まる点が、真に非凡なのである。かつて同じ読響で、サンクトペテルブルク・フィルで、またフィルハーモニアで、国内のみならずニューヨークやロンドンでその指揮に接して何度も感銘を受け、私にとっては敬愛おくあたわざる数少ない巨匠のひとりである。

さて、このような指揮者にかかると、「シェエラザード」は絢爛たる音の絵巻というよりは、管と弦が饗応する有機的な構造体という様相を呈する。実際、読響の個々の奏者が、他の奏者の音に敏感に反応して演奏していることがよく分かり、ただ驚嘆するのみであった。先般敢行したばかりの欧州ツアーの好影響もあるのであろうか (しかも携えて行った曲目のひとつが、メシアンのトゥーランガリラ交響曲だったとは!!)。このよく書かれたロシア音楽には、何よりそのオケの自発性が極めて効果的であり、力任せにならない演奏が心地よかったのであるが、それでいて、クライマックスでは波濤が大きくうねり、船が大破する様子が目の前に現れるのは、いつもながらのテミルカーノフの魔術的な能力である。日下紗矢子のソロ・ヴァイオリンも、そのような音楽作りにふさわしく、雄弁でコケティッシュでありながらも、粘りすぎない好演であった。

後半のラヴェルは、似て非なる音楽。全体的には、多少、切っ先鋭い響きには不足したかもしれない。ただ、私のように音楽の専門家でない者の特権は、うるさいことを抜きにして自由に音楽を楽しめること。それには、聴いているときの天候や体調も影響する。今回、この晴天の昼下がりに、ラヴェルの左手のためのコンチェルトの冒頭、地からうごめき出るような音たちが思い起こさせたのは、あのゴダールの「パッション」の開始部分、空に点々と生じる飛行機雲であった。なんという音楽! ジャズでもないドイツ音楽でもない、洒脱なフランス音楽なのに、使われているのは左手のみ、しかもこんなに暗く弱い音で始まるという逆説。河村尚子のピアノは、いつもながらに明朗で、音楽の雰囲気が変わるところでのアクセルとブレーキの踏み分けも見事。

ダフニスの方は、オケの真っ向勝負。上述の通り、シェエラザードの有機性と異なり、ここではひたすら精妙さが求められる点、少しテミルカーノフの持ち味と異なるような気もした。ただ、案の定というべきか、終曲の盛り上がりは熱狂的で、このコンサートを締めくくったのである。

いや、実は、定期演奏会であるにも関わらず、アンコールが演奏されたのだ。チャイコフスキーの「くるみ割り人形」の「パ・ド・ドゥ」。これぞまさにテミルカーノフの真骨頂。彼がこれまでアンコールで演奏したのを聴いたのは、たとえばシューベルトの「ロザムンデ」間奏曲や、エルガーのエニグマ変奏曲の「ニムロッド」だったりしたわけであるが、いずれも彼の特色をはっきり表していた。今回も同じ。温かい情緒が爆発的に盛り上がる様子は、なんと感動的であったことか。

というわけで、残る 2つのプログラムにもいそいそと出かけて行く予定であるが、ふと面白いことに気づいたので、書き留めておこう。今回、テミルカーノフの来日と同時期に、偶々手兵チャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラ (旧モスクワ放送響) を連れたもう 1人のロシアの巨匠、フェドセーエフが来日している。そして、ソリストとして同行しているのが、ヴァイオリンのワディム・レーピンだ。ところがなんたることか、ロシアのヴァイオリニストのもう一方の雄、マキシム・ヴェンゲーロフも来日中ではないか!!ピアノでは、テミルカーノフと共演するデニス・マツーエフが日本にいるし、また、これらの演奏家すべてと近しい庄司紗矢香が日本でツアー中である。これは密かに日本でロシア音楽マフィアの会合など開かれているのでは?! ま、だったらどうと言われても困りますがネ。マフィアの親玉には見えない、ということにしておきましょう。
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by yokohama7474 | 2015-06-04 01:29 | 音楽 (Live) | Comments(0)