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レナード・スラットキン指揮 NHK 交響楽団 2016年 4月23日 NHK ホール

今日 4月23日 (土) は、東京近郊在住のクラシック・ファンとしては悩みに頭を抱える日であったろう。なにせ今日の 14時または 15時開始のコンサートとオペラは以下の通り。
 新国立劇場 : ジョルダーノ作曲 歌劇「アンドレア・シェニエ」
 紀尾井ホール : トレヴァー・ピノック指揮 紀尾井シンフォニエッタ (ピアノ : イモジェン・クーパー)
 東京芸術劇場 : 山田和樹指揮 読売日本響 (ピアノ : 小山実稚恵)
 サントリーホール : ピエタリ・インキネン指揮 日本フィル (ヴァイオリン : 庄司紗矢香)
 すみだトリフォニーホール : 準・メルクル指揮 新日本フィル
 ミューザ川崎 : ジョナサン・ノット指揮 東京響

うーん、これはまたすごい。どれに行ってもおかしくない。だが、苦渋の選択で私が選んだのは、NHK ホールでの NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の定期演奏会。指揮は米国の名指揮者、レナード・スラットキン。
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この指揮者が広くその名を世界に知らしめたのは、1979年から 1996年まで 20年近く首席指揮者を務めたセントルイス交響楽団でのことであった。ある雑誌で、当時文字通り世界最高であったゲオルク・ショルティとシカゴ響に続く米国第 2位という評価を勝ち得たことがきっかけだ。1944年生まれなので今年 72歳。N 響には 1984年以来 7度共演を重ねている。現在ではデトロイト響とリヨン国立管を率いている。近代フランスやアメリカの色彩感の強い曲を得意にしているが、今回の演奏会の曲目が興味深い。
 ベルリオーズ : 歌劇「ベアトリスとベネディクト」序曲
 武満徹 : 系図 (ファミリー・トゥリー)
 ブラームス : 交響曲第 1番ハ短調作品68

まあベルリオーズは分かるが、それ以外はスラットキンとしてはいささか異色の曲目と言ってよいだろう。だが特筆すべきは真ん中の武満の作品だ。今年の 1月31日付の記事で、山田和樹指揮日本フィルの演奏 (語りは上白石 萌歌) をご紹介したが、今回の演奏には特別な意味がある。というのはこの曲を世界初演したのは、今回の指揮者、スラットキンであるからだ (1995年、ニューヨークにてニューヨーク・フィルとともに)。私はたまたまそれを知っていたので、上記のような綺羅星のごとき演奏会の中でこれを選んだのである。スラットキンのレパートリーとして武満は異色であると思うが、一概に決めつけてしまうと、もしかすると楽しめるかもしれない世界を楽しめなくなってしまう。さてさて、スラットキンの武満やいかに。

この「系図 (ファミリー・トゥリー)」と題された曲は、作曲者が 10代の少女を語りとすべしと指定している関係で、語り役を見つけるところからしてなかなか骨であろうが、今回舞台に立ったのは、今年 16歳になる女優の山口まゆ。私はこれまで知らなかったが、最近活躍の幅を広げていて、演技派として将来有望である由。
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今回の衣装もこの写真と同様の白い服に、白い靴。ステージマナーにはなんとも初々しいところがあって、私の席の近辺のご老人たちは、自分の孫を見るかのようにハラハラドキドキ (笑)。今回の彼女の語りは、先に聴いた上白石 萌歌と比較すると、低い声での淡々としたもの。この曲で朗読される詩は谷川俊太郎の手になるものであるが、私にとってはそれほど感動的なものではなく、むしろ現代社会の病巣をさりげなく描いた感じに、少々うんざりする気もする。ただ、スラットキンの手になる演奏を聴いて、なるほどと思う点も多々あった。通常の武満の演奏は、繊細で美しい一方、その場で演奏とともに消えてしまうような儚さがつきまとう。ところが今回のスラットキンの演奏は、とにかく明快なのだ。また、譜面も何も見ずに語りをする若い山口まゆには、その語りの入りの部分で逐一合図を送る丁寧な指揮ぶりで、出てくる音はしんねりむっつりした要素はほとんど聴かれない。もしかすると作曲者自身もこのようなくっきりと明るい演奏を予期していなかったかもしれない。そう言えば今日の最初の曲、「ベアトリスとベネディクト」序曲も、オケの自発性弾ける明るい演奏であった。やはりこれがスラットキンの美質であると考えてよいだろう。これは必ずしも N 響の最良の資質ではないかもしれない。だが、それでもきっと指揮者自身も楽しくなるような鮮烈な音を出すことのできるこのオケは、本来はやはり日本でナンバーワンなのである。

後半のブラームス 1番は、これこそ N 響が世界有数のドイツ系指揮者と数限りなく演奏してきたオハコである。スラットキンとしても期するところがある演奏であったろう。決してドイツ的という形容がふさわしいとは思わないが、充分に一音一音重みのある演奏で、作曲者が 20年をかけてこの曲に込めた思いを、スラットキンは今回のプログラムの他の曲と同様、ここでも鮮烈に描き出していた。昨今流行りのインテンポ (ずっと一定のテンポで演奏すること) とは一線を画し、時に溜めを作り、時にそれを解き放つ円熟の芸だ。コンサートマスターのまろこと篠崎史紀のステージマナーは相変わらず堂に入ったもの。
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東京でこれだけいろいろな演奏会が開かれていることは、演奏家にとっては大きな刺激になるに違いない。まだまだ面白いことになって行くだろう。

ところで今回、演奏に先立って、熊本の地震の犠牲者を悼んで、バッハの「G 線上のアリア」が奏された。N 響の弦の音が艶やかかつ品性を感じさせるもので、心に沁みる演奏であった。実は今回のスラットキンの演奏はほかにも 2プログラムがあり、その中の 1つに、バッハの各種オーケストラ用編曲を連ねた挙句にプロコフィエフ 5番で締めくくるというものがある。その意味では、悲しい演奏とは言え、今回のバッハもスラットキンの登壇にふさわしい選曲であったと思われる。このような一流の指揮者が指揮を採ることで、一回一回の成果はよしんば些細であれ、確実にオケは進化して行くもの。これから 5年先、10年先が楽しみである。

by yokohama7474 | 2016-04-23 23:13 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

ピエタリ・インキネン指揮 日本フィル (ヴァイオリン : 庄司紗矢香) 2016年 4月22日 サントリーホール

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フィンランドからは多くの名指揮者が出ている。物故した人から若手まで、あるいは女性を含めて様々な個性があるが、そもそも国自体が西欧諸国と違ってマイナー感を免れないゆえに、たまたまこの国が輩出した大作曲家シベリウスの演奏というくびきのもとでの活動を多かれ少なかれ余儀なくされるのである。従って、フィンランド人指揮者が、シベリウスではない様々な音楽を指揮するということは、その土地またはオーケストラで広く支持されているという意味を示すのだ。ここに一人のフィンランド人指揮者がいる。ピエタリ・インキネン。1980年生まれだから今年 36歳になる。
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現在、プラハ交響楽団の首席指揮者であり、この日本フィル (通称「日フィル」) の首席客演指揮者。そして来シーズン、今年 9月からは日フィルの首席指揮者に就任する。この人の活躍ぶりによって東京のこれからの音楽界の活気が変わってくると言ってもよいだろう。現在シェフが空席になってしまっている東京フィルを除いて、東京の主要 7オケのシェフはなかなかの顔ぶれであって、今年という意味では、新日本フィルの上岡敏之とこの日フィルのインキネンが新たな就任なのである。そしてそのフィンランド人指揮者、インキネンが今回指揮するのはなんと、イギリス音楽だ。

 ブリテン : ヴァイオリン協奏曲作品15 (ヴァイオリン : 庄司紗矢香)
 ホルスト : 組曲「惑星」作品32 (合唱 : 東京音楽大学)

今回の来日でインキネンはヴェルディのレクイエムも採り上げているはずなので、もはやシベリウスの呪縛はない。ってまあ、首席客演指揮者かつ次期首席指揮者がシベリウスばかり採り上げるわけにはそもそもいかないのだが (笑)。

上に掲げたポスターにいろいろ謳い文句が記載されているが、今回のソリスト庄司紗矢香の紹介に、「インキネンと同門!」とある。庄司はいわずとしれたケルンの名教師ザハール・ブロンの教え子 (ほかにもレーピン、ヴェンゲーロフ、樫本大進等の綺羅星のごとき教え子たちがいる) だが、実はピンキネンもそうらしい。もともとヴァイオリンを学んでいて、ブロンのもとにいた 20年ほど前、ほんの少女の頃の庄司の才能に驚いていたということで、今回東京での初共演が叶ったとのこと。
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今回庄司が弾いたのは、あまり演奏されることのないベンジャミン・ブリテン (1913 - 1976) の協奏曲。私も、サヴァリッシュが最後に来日して N 響を振ったときにフランク・ペーター・ツィンマーマンのソロで聴いたのが唯一の生演奏体験。そのときに予習したヴェンゲーロフとロストロポーヴィチの CD を引っ張り出して再度予習の上、この演奏会に臨んだ。この曲はブリテン 25歳の若書きであり、スペインのヴァイオリニスト、アントニオ・ブローサがジョン・バルビローリ指揮ニューヨーク・フィルの伴奏で 1939年に初演している。実はこのブローサなるヴァイオリニストとブリテンは、その 3年前の 1936年にバルセロナで共演しており、そのときの音楽祭の一連の演奏会のうちのひとつが、ブリテンが深く尊敬していたというアルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲の初演であったとのこと (尚、ベルクのコンチェルトの初演者はルイス・クラスナーという別のヴァイオリニスト)。このベルクの白鳥の歌に感動したブリテンは、自分でもヴァイオリン協奏曲を書きたいと思い立ったのであろうか。この曲はベルクの曲とは全然似ていないが、唯一、緩 - 急 - 緩という構成だけは似ている・・・かなぁ (笑)。ところで年号を見て気づくのは、1936年といえば、スペイン内戦勃発の年ではないか。反戦主義者であったブリテンは、この曲にそこはかとないスペイン情緒を込め、静けさと闘争を経て祈りに至るという複雑な情緒を盛り込んだ。庄司は珍しく譜面を置いての演奏であったが、そのような複雑な情緒を、いつもながらの強い集中力で表現していた。第 2楽章などは彼女の得意とするプロコフィエフを思わせて実に鮮やかだったし、カデンツァでの弦の唸りも見事。また、聴かせるべきところは極上の美音を響かせる。こんな自在なヴァイオリンは、そうそう聴けるものではないだろう。インキネンはここでは脇役に徹していたが、大編成のオケをコントロールして危なげない。楽団がリハーサルのときのこんな和やかな写真を公開している。今回のコンサートマスターは、千葉清加さん。お、この人もサヤカさんなのだな。
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そして庄司はアンコールを演奏したが、何やら聴きなれないスペイン風の曲。アンコールの表示を見て驚いたことには、それはスペイン内戦時の軍歌で、「アヴィレスへの道」という曲。ネット検索してもそれらしい情報は出てこないが、まさにこのコンチェルトにふさわしいアンコールであったことになる。その研究熱心さに改めて脱帽だ。

そして後半は、ホルストの「惑星」。これも、有名曲でありながら実演ではあまり接する機会のない曲だ。ここでインキネンは本領発揮。7曲からなる組曲で、実に色彩感豊かな曲であるがゆえに、まずは冒頭の「火星」で聴衆を圧倒する必要があるが、早めのテンポでグイグイ進めるインキネンは、先輩の大指揮者サロネンすら思わせる切れのよい指揮ぶりで、日フィルから輝かしい音を引き出した。そう言えばこの「火星」は、作曲者ホルストが迫りくる第一次世界大戦を予感して書いた予言的な作品とも言われる。今回の 2曲はいずれも、戦争の惨禍と関係しているのだ。冒頭のポスターに、「戦慄の時代が生んだ祈りのコンチェルトと壮大な音宇宙」とあるのは、そういう意味だったのだ。日フィルさん、なかなかしゃれたコピーを考えますなぁ。私が前回インキネンを聴いたとき (昨年 11月 8日の記事) には、最強音を聴けなかったもどかしさを書いたが、その点、今回は期待通りの素晴らしい最強音を聴くことができ、私の親指はぐっと立ったのである。このような音楽を聴かせてくれるなら、彼の存在によって東京のクラシック音楽シーンが一層面白くなるだろう。

終演後にはまたインキネンのトークがあった。いわく、今回の演奏会は日フィルと最初のことと最後のことが同時に起こったと。つまり、イギリス音楽を指揮したのは最初だったし、首席客演指揮者としての演奏は最後であったという意味だ。それからは上記の庄司についての話と、今年 9月に首席指揮者に就任することについての話。彼はこの年で既にシドニーでワーグナーの「指環」全曲を振った実績があるらしく、そのとき共演した歌手たちと、9月27日にサントリーホールで「ジークフリート」「神々の黄昏」を演奏するのが、今回の日フィルの首席指揮者披露公演になるらしい。なるほど、こうなってくるとシベリウス、全然関係ないですね!! 前任のアレクサンドル・ラザレフも面白い指揮者であったが、レパートリーがロシア物に偏重していたように思う。かつて「ロシアのカルロス・クライバー」と呼ばれた爆演系指揮者、ラザレフも、後任インキネンによる日フィルのさらなる発展に期待していることだろう。
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by yokohama7474 | 2016-04-23 01:11 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

パスカル・ヴェロ指揮 仙台フィル 2016年 4月17日 サントリーホール

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フランス・ロマン主義を名実ともに代表する作曲家、エクトル・ベルリオーズ (1803 - 1869)。彼の代表作である幻想交響曲は、クラシック音楽を聴く人誰もが夢中になる曲だ。かく言う私も中学生の時から数限りない回数、この曲を聴いてきた。この曲には標題があって、それがなんとも異常なのである。若くて才能のある作曲家がアヘンに溺れて自殺を図るが死にきれず、奇怪な夢を見る。その夢の中で作曲家は愛する女性を殺してしまい、その女性が悪魔を扇動して作曲家を断頭台に送るという、なんとも禍々しい内容だ。だがこの曲が人気があるのは、そのような暗く悲惨な設定の割には、音楽自体にはユーモアもあって楽しめる内容になっているからだろう。誰がなんと言おうと、天下の名曲である。この天下の名曲、作品番号 14という若さから知られる通り、1830年、作曲者が弱冠 27歳のときの初期の作品だ。ところが私がこの曲に親しみ始めた当初から、この曲の作品番号は本当は「14a」であり、実は「14b」という姉妹作があるのだということをモノの本で読んでいた。その姉妹作こそ、「レリオ、または生への回帰」なのである。

ところがこの「レリオ」という作品、滅多に演奏されないのだ。私も生で聴いたことが一度もないどころか、録音においても、ブーレーズの 1960年代のもの (語りを、あの「天井桟敷の人々」で有名なジャン・ルイ・バローが務めている)、それからインバルやデュトワのベルリオーズシリーズの一環と、ムーティがシカゴ響の音楽監督に就任した際のライヴ (語りはジェラール・ドパルデュー) に、同じムーティがラヴェンナで演奏した際のものくらいしかない。ベルリオーズを得意とした指揮者でも、シャルル・ミュンシュとかコリン・デイヴィス、あるいは小澤征爾、それにバレンボイムなども、この曲は録音していない。なので私は、いつかこの曲の生演奏を聴ける日を楽しみにして来たのである。「うーん、なんであまり演奏されないのだろう」と思案顔のベルリオーズ。
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その願いは思わぬ形で満たされた。仙台フィルの東京公演。指揮は、現在の常任指揮者で、以前新星日本交響楽団 (東京フィルに吸収合併されてしまった) のシェフであったフランス人、1959年生まれのパスカル・ヴェロだ。
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作曲者は、幻想交響曲の後にこのレリオを演奏するように指示しているらしい。そこにひとつの無理がある。幻想交響曲は 50分を要する大曲。このレリオには 1時間を要する。通常一晩の演奏会は、正味 1時間半が相場である。なのでこの 2作品を演奏すると長くなりすぎる。加えて、作曲者の分身が長々と鬱陶しく喋り続け、ソロのテノールがピアノやハープの伴奏で歌うかと思うと、合唱団が亡霊となったり盗賊となったり、支離滅裂な配列になっているのだ。そして、なんと言ってもコンサートの終わりには幻想交響曲の激烈さが欲しい。これを先に演奏してしまうと、コンサートの座りが悪い。そんなわけで、なかなか実演で聴くことができないレリオを、この耳で聴く日がやってきた。

仙台というと、言うまでもなく 2011年の大震災の被災地である。このコンサートは復興支援に対する感謝をこめて開かれるものであり、このコンサートのチケットは完売だ。会場に辿り着くと、スタッフがホールの入り口近くに並んで聴衆に礼を述べている。その中に、この楽団のミュージック・パートナーの称号を持つ若手指揮者の山田和樹の姿もあり、ちょっとした驚きだ。
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そして会場には、このような謝礼や、この仙台フィルが震災後に行ってきた復興活動 (各地でのコンサート) の様子についての説明板がある。
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ところが奇しくも今日本では、なんということか、新たな災害が進行中だ。熊本を中心とする九州での連続地震。最初の地震のあと余震が一週間程度続くとのことであったが、なんたること、大きな余震がいつ絶えるともなく継続しているという前代未聞の事態。本当に被災者の方々の身が案じられる。そのような中、この日の会場にもカンパを求める箱が設置されている。
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それから、これも驚きだが、もともとこの演奏会には天皇・皇后両陛下が臨席される予定であったらしい。だが熊本での地震が続いているため、このコンサート鑑賞はキャンセルされたという宮内庁の説明が貼られていた。
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そのような特殊な環境で開かれたコンサートであったが、内容はこの上なく充実したもので、音楽を聴くことができることのありがたさを身に染みて感じることができる機会にもなった。東京のオケの充実ぶりをいつもこのブログに書いている私であるが、東京以外にもこれだけの音楽を奏でるオケがあちこちにあるという事実に、心から感動を覚える。

今回、幻想とレリオを続けて演奏するにあたって、面白い工夫がなされていた。まず、オケの登場は一斉にではなく、三々五々。これによって聴衆は拍手する機会を奪われる。ふと見るとチューニング前に指揮者のヴェロも舞台に出ている。そして、舞台奥には木製のデスクが置かれていて、そこに何やら羽ペンを持った古い時代の芸術家の姿が。これは、仙台在住の俳優、渡部ギュウ演じるところのベルリオーズである。
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このベルリオーズ、開演前になにやら楽譜数枚を指揮者に渡し、指揮者がそれを何人かの奏者に配っている。演奏開始前から演技が始まっているわけである。そしてチューニングが始まり、またもや聴衆が拍手の機会を奪われるうち、幻想交響曲が始まった。私はこのオケも指揮者も初めて聴くが、いやー、その音楽に対する姿勢の真摯であること。弦も管も、また打楽器も大変いい音で鳴っており、特に木管の自主性は大したもの。ヴェロの指揮はある意味で職人性を感じさせるものでありながら、冒頭、音楽が動いては立ち止まる感じや、続く楽章でも、舞踏会の華やかさとそこに見える恋人の幻影の残酷さ、野の風景のシュールな感覚、断頭台への行進のおぞましさ、怪物たちの饗宴のそこはかとないシニカルさ、いずれも素晴らしい。そして、全曲が爆裂する和音で終わったときに一斉に照明が落ち、指揮者とベルリオーズ役の役者の姿が消えたところで前半終了。なんという鮮やかさ。幻想交響曲の演奏中、役者はほとんどずっと (野原で殺人を犯すとき以外???) 舞台にいて、若干その演技が過剰であったかもしれないが、まあ、イヤならそこを見ないという手もある。よく考えられた演出である。

後半のレリオもその延長線上にあり、ここでは渡部ギュウがベルリオーズ自身の手になる台本の日本語役を喋り続け、テノールのジル・ゴランとバリトンの宮本益光とが美声を聴かせ、この演奏会 (仙台で 2回、東京で 1回) のために結成された合唱団が、あるときは美しく、あるときは力強く、歌い上げた。この曲は、要するに前作幻想交響曲の毒から解放されるための独白と静かな音楽を含んでおり、作曲者自身がこのような解毒作用を必要としたということだろう。実際の曲は、彼が以前に書いた曲の寄せ集めで、編成も曲調も、ごった煮の感がある。だが、その音楽に耳を傾けると、本当に美しい箇所があちこちに見つかるのだ。特に冒頭のテノールを伴奏するピアノは、これはどう聴いても現代のミニマルミュージックの大家、フィリップ・グラス風だ。なんとも不思議な音楽なのである。語りの中においては、シェイクスピアに対する賛辞があれこれ聴かれ、もともと作曲者が曲を書くきっかけとなった、シェイクスピア女優、ハリエット・スミッソンへの思いが横溢しているようだ。よく知られている通り、ベルリオーズは後年この憧れの人と結婚し、そして離婚することになるのだが、まあそれにしてもよくもこんなこっ恥ずかしいテキストを公にしたものだ (笑)。根っからのロマン主義者ベルリオーズの本領発揮ということか。

そんなわけで、初のレリオ体験は非常に充実したものとなった。写真で見るとこの仙台フィルの本拠地のホールは大変近代的であり、音響もよさそうだ。かくなる上は、このオケやその他の優れた地方オケを、現地にまで聴きに行く機会を作りたい。スケジュールは、まあそれはタイトであるが、なんとかしたい。新たな発見がいろいろあることだろう。
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by yokohama7474 | 2016-04-17 23:54 | 音楽 (Live) | Comments(2)  

ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団 2016年 4月16日 東京オペラシティコンサートホール

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東京交響楽団 (通称「東響」) と現在の音楽監督、英国の名指揮者ジョナサン・ノットによる演奏会をこのブログでも何度かご紹介して来ているが、今回もいかにもノットらしい凝りに凝ったプログラムである。私にとっては必聴の内容。なぜならば、以下のような曲目であるからだ。
 リゲティ : アトモスフェール (1961年作)
 パーセル : 4声のファンタジア ト調Z.742、ニ調Z.739
 リゲティ : ロンターノ (1967年作)
 パーセル : 4声のファンタジア ヘ調Z.737、ホ調Z.741
 リゲティ : サンフランシスコ・ポリフォニー (1973-74年作)
 リヒャルト・シュトラウス : 交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」作品30

映画好きの方なら一目見てピンと来るであろう、最初のリゲティの「アトモスフェール」と最後の「ツァラトゥストラ」はともに、スタンリー・キューブリック監督の不朽の名作映画「2001年宇宙の旅」で使用されていた曲だ。
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プログラムに掲載されているノットと音楽評論家、舩木篤也の対談によると、もちろんノットはそれを念頭に置いて選曲したとのこと。ただその前に、現代における大作曲家のひとり、ハンガリー出身のジェルジュ・リゲティ (1923 - 2006) の音楽をたくさん聴かせたかったが、それだけでは成功は難しいので、この映画との絡みで「ツァラトゥストラ」との組み合わせを考えた由。なるほどそういうことだったのか。リゲティはもちろん現代音楽のビッグネームではあるものの、一般の音楽ファンに浸透した名前とは言い難い。よって今回の演奏会は、ノットの苦心のプログラミングにも関わらず、実際には空席の目立つ状況となってしまった。だが、それにめげることなく果敢な演奏を展開したノットと東響には、一部の熱心なファンからブラヴォーの声がかかるという、素晴らしいコンサートとなったのである。

上記にツラツラと曲名を記載したが、ラストのツラツララストならぬ「ツァラトゥストラ」以外、つまり前半の 5曲は連続して演奏された。要するに、3曲のリゲティの代表作の間にバロック時代の英国の作曲家、ヘンリー・パーセル (1659 - 1695) による作品を 2曲ずつ 2回に分けて、古楽器であるヴィオラ・ダ・ガンバの四重奏による演奏を挟んだというユニークな構成。ヴィオラ・ダ・ガンバの合奏は、神戸愉樹美 (かんべ ゆきみ) を代表とする合奏団。
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日本にこのような専門的なヴィオラ・ダ・ガンバの合奏団があるとは知らなかったが、30年以上活動を続けている団体であるそうだ。なんともたおやかな響きで、大変耳に心地よい。今回の演奏で彼女らはステージ後方上部のオルガンの横、向かって左側に陣取っており、オケがリゲティを演奏し終わると舞台の照明が落ちて、彼女らのいる箇所に照明が当たるという演出であった。このリゲティとパーセルの組み合わせはなんとも異色であるが、要するに双方ともポリフォニー (複数の声部が同時進行する音楽) を駆使しているという共通点がある。20世紀の、不安に満ち混沌とした音の密集によるポリフォニー (作曲者自身の言葉によれば、ミクロポリフォニー) と、古雅の極みと言えるバロック音楽の対比によって、そのコントラストがくっきりと浮かび上がることとなった。いわば、熱いサウナの後に水風呂に入るようなもので、水風呂に入ることでサウナの熱さを再度実感するという効果を感じることになった。関係ないが、これは水風呂を浴びるカピバラ。
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さて、リゲティの音楽であるが、私もこれまでにあれこれ聴いてきているものの、決して耳障りのよいものではない。ある意味では、戦後の前衛音楽のひとつの特徴である晦渋さを常に纏った音楽を書き続けたとも言えるのではないだろうか。但し、今回演奏された 3曲や「メロディエン」という代表作には、ただ耳で音楽だけ聴いたときには分からない面白さが実演にはあるのだ。このブログでは昨年 11月23日の記事で、やはりノットの採り上げたリゲティの曲について触れたが、それはまだ特殊作品の様相を呈した曲であった。オケがキュウキュウギュルギュルと唸る (?) リゲティ独特の美学は、今回の 3曲ではまさに全開である。不定形のアメーバのような印象もあるが、ただ実際に音が鳴る場に居合わせると、驚くほど表現力のある音楽なのだ。中欧の民族性の遠いエコーを感じる瞬間もある。これがリゲティの肖像だ。笑みなど浮かべて、意外と温厚そうな人でしょう (笑)。カピバラにも負けてはいない。
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今回、ヴァイオリンの左右対抗配置を採り、大きな楽譜を譜面台に置いて指揮棒を取ったノットであるが、その指揮ぶりは極めて明確かつ単純明快。そのような棒さばきから出てくる音であるゆえ、本来の複雑さを備えたまま、どこかに懐かしさがある、あえて言えば美しい音楽になっていたように思う。そうであるからこそ、途中に挟まれたヴィオラ・ダ・ガンバの合奏の妙なる響きの効果がまた絶妙であったわけだ。前半は通しで 1時間くらいを要したが、終了後には客席からのブラヴォーがかかり、オケの面々もほっとした笑顔。そして、演奏会の前半にしては極めて珍しいことだが、起立を促す指揮者に対してオケが椅子に座ったまま指揮者に拍手を送るということになった。東響の演奏能力は今やかなりの水準に達していて、それはノットが音楽監督に就任してからますます上がっていると言えると思う。あ、それから、ポリフォニー音楽を並置するだけなら、ほかのバロックの作曲家でもよかったわけだが、ここでノットがパーセルを選んだのは、もちろん彼の祖国の音楽ということもあろうが、私の勝手な勘繰りでは、やはりキューブリックの代表作「時計じかけのオレンジ」で、パーセルの「メアリー女王の葬送音楽」をワルター・カーロス (その後性転換してウェンディ・カーロスとなった) がシンセサイザーにアレンジした音楽が使われていたことによるのではないか。この演奏会の雰囲気には不気味に合った選曲であったと思う。

そして後半の「ツァラトゥストラ」は、申し分のない名演となった。前半のリゲティの嵐を無事通り過ぎたオケの面々の解放感だろうか、このスペクタキュラーな曲に対して全力で取り組む姿には、凄まじい集中力が感じられたし、リゲティの響きが耳に残っているので、過去を向いたシュトラウスではなく、現代音楽につながるシュトラウスを聴くことができたように思う。誰でも知っている堂々たる導入部からして気合充実。そこから始まる 35分間に目まぐるしく移り行く音楽的情景が、ノットと東響の共同作業によって鮮やかに描かれて行く。ノットは丁寧な指揮ぶりながらも前へ前へと進める推進力が凄まじく、指揮者自身が音楽にのめり込んで行く様を目撃するのはなんとも刺激的で、何度か鳥肌立つ瞬間も訪れた。本当に素晴らしい演奏であった。ただ、この曲にはトランペットの難所が多く、冒頭のファンファーレこそ、「展覧会の絵」とかマーラー 5番のようなソロではなく、4人で吹くのであるが、後半に出てくる、「ハイ、どうぞ」とばかりにうねる弦楽器と甲高いピッコロの上をソロトランペットの高音が響き渡る箇所などは、奏者にとっては、いかにプロであっても心臓バクバクではないかと思う。今回はそのような細部で若干の課題が残りはしたものの、大したことではない。例えばカラヤンとベルリン・フィルの絶頂期のライヴの FM 放送でさえ、冒頭のファンファーレに固唾を飲んで聴き入っていると、トランペットのうち 1本がプゥッ、というなんとも気の抜ける音を出していたのを覚えている。重要なことは細部の不備ではなく、大きな音楽の流れなのであって、今回の演奏には実に素晴らしい流れがあった点、大変に感動的であった。聴いているうちに上を見上げると、そこにあるホールの反響板が、「2001年」のモノリスのように見えてきたものである (笑)。
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ジョナサン・ノットとても、決して万能の指揮者ではない。だが、このようなプログラムではまさに面目躍如である。彼の存在は確実に東京の音楽シーンを熱く彩っている。今後ますます期待が募るのを抑えることができないのである。
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by yokohama7474 | 2016-04-17 00:13 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

東京・春・音楽祭 ワーグナー作曲 楽劇「ジークフリート」演奏会形式 (マレク・ヤノフスキ指揮 NHK 交響楽団) 2016年 4月10日 東京文化会館

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このブログの記事でもご紹介した、3月16日のリッカルド・ムーティ指揮による日伊国交樹立150周年記念オーケストラのコンサートによって開幕した今年の東京・春・音楽祭。一般的な知名度は分からないが、大変規模の大きい音楽祭で、上野地区を舞台に 50以上の大小のコンサートが開かれる催しなのである。私自身、全体のプログラムを見ながら、できればあれもこれも聴きたいなぁと思うのであるが、なかなか時間の捻出には苦労し、どうしても優先順位をつけざるを得ない。そして今年も、音楽祭の目玉のひとつであるこのシリーズだけは聴きに行かないわけには行かない。2014年に始まったワーグナーの大作オペラ、「ニーベルングの指環」の第 3回目、楽劇「ジークフリート」の公演である。指揮を取るのは 1939年生まれ、今年 77歳を迎えるポーランドの名指揮者、マレク・ヤノフスキ。
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この音楽祭では、ヤノフスキと、名実ともに日本を代表するオーケストラ、NHK 交響楽団 (通称「N 響」) との協演で、毎年 1作ずつ、このワーグナーの「指環」(全 4部作) を演奏しているのである。但し、通常のオペラの舞台上演ではなく、オーケストラがステージに上がり、歌手がその前で出入りしながら歌う、演奏会形式だ。舞台の奥には大きなスクリーンがあって、CG 映像が流れているが、抽象的なものではなく、実際の情景をなぞらえたもので、本当に最小限の情報が音楽に加わるのみである (その演出は田尾下 哲が担当。彼は先般、神奈川県民ホールでの黛敏郎の「金閣寺」を演出していた)。ワーグナーは、スタイルを確立して以降の自らの作品を、歌劇ではなく楽劇と名付けたが、その意味は、オーケストラが主体で奏でられる音楽によって劇が進行するからである。よってここには、アリアと呼べるものは基本的に存在しないし、歌手が拍手喝采を受けるためのオケの休止もない。始まったら最後、1幕 70 - 90分の間、停まることなく音楽が渦巻き、歌手の肉体は歌唱とともに演技に酷使され、聴いている方も否応なくそこにつきあうこととなる、ワーグナー独特のド S な世界。だからこそ、このような演奏会形式でじっくり音楽と対峙することも、作品の真価を知るための有効な手段となる。但し、オケが優秀であればの話だが。その点、その歴史において数々のドイツの名匠 = 極め付けのワーグナー指揮者を指揮台に頂いて来た N 響ほど、この舞台にふさわしい日本のオケはないであろう。しかもこのシリーズ、必ず客演コンサートマスターを迎えている。それは天下のウィーン・フィルのコンサートマスターで、日本でもよく知られたライナー・キュッヒルだ。
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先にこの点だけ書いてしまうと、これまでの 2回にも増して、今回のキュッヒルの貢献は大きかったと思う。彼の豊麗かつ独特のゆるさのあるソロ・ヴァイオリンは、まさにひとりウィーン・フィル。この「ジークフリート」では、森のささやきのシーンでソロ・ヴァイオリンが入るが、その変わらぬつややかな音にほれぼれした。もちろん、ソロにとどまらず、この休憩を含めて 5時間を要する超大作のオーケストラ・パートを、素晴らしい力で彼が牽引したのだ。N 響が燃えていたのは、もちろん一義的には指揮者の功績であろうが、このキュッヒルの貢献も大であったことは明らかだ。実際、今回の演奏によって、このオペラ全体を通じて弦楽器は本当に休む間もないことが視覚によって実感できたし、改めて「指環」のオーケストラ・パートの重要性を再認識した次第。そしてヤノフスキの的確かつ、時にごくわずかテンポを揺らす有機的な指揮に、N 響が本当によくついて行ったと思う。素晴らしい名演であった。

歌手陣も、過去のプログラムと照らし合わせてみると、アルベリヒのトマス・コエニチュニー、ヴォータン (さすらい人) のエギルス・シリンス、ファフナーのシム・インスン (彼は「ワルキューレ」ではフンディングだった) 等、シリーズに一貫して出ている人たちが多い。特別に有名な歌手は今回は出ていないものの、経歴を見ると、それぞれに世界的に活躍している。特に題名役のアンドレアス・シャーガーは、バレンボイムの指揮のもとスカラ座で「神々の黄昏」のジークフリートを歌った実績があり、チョン・ミョンフンが東フィルで「トリスタンとイゾルデ」を採り上げたとき (私はどうしてもチケットが入手できずに断念したが)、トリスタンを歌ったらしい。昨年末のバッティストーニ指揮東京フィルの第九もよかったが、今回も素晴らしい出来で (最後にはさすがにほんのわずかの息切れを感じたものの、人間だから仕方ない 笑)、これからますます活躍の場を広げることであろう。
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とにかく、演奏の質は非常に高く、このシリーズでも白眉であったと思われるが、聴衆の方にも余裕が見え、さすが東京のワーグナーファンは耳が肥えているなという感じ。これはきっと演奏者も感じたことではないか。よい演奏では演奏者と聴衆の間に相互作用があると思うが、今回はそれが実際に起こったと思う。例えば、第 3幕開始前、オケのチューニングを待つタイミングで、誰かが 2回立て続けに大きなクシャミをしたのだが、会場のあちこちから笑いが漏れたのだ。それだけ聴衆もリラックスしていたということだろう。演奏の成功がそのような空気を生み出していたとも考えられる。

さて、指揮者ヤノフスキであるが、今年と来年、ワーグナーの聖地、バイロイトでこの「指環」を指揮することになっている。確認していないが、多分バイロイト・デビューであろう。昨年 8月に私が現地で見た、フランク・カストルフ演出、キリル・ペトレンコ (ベルリン・フィル次期音楽監督) 指揮の演奏は、このブログでも現地で記事を書いたが、まあそれはそれは、衝撃の演出であって、申し訳ないが私はもう二度と見たくない (笑)。ペトレンコの降板は、音楽監督を務めるミュンヘン・オペラのスケジュールとの兼ね合いという説明であるようだが、本音のところは演出に辟易したということがあっても全く不思議ではない。ただ、そんな演出ではあったがオケの鳴りには凄まじいものがあって、さすがバイロイトと唸ったものだ。今年からヤノフスキが指揮者となっても、やはり同じように説得力溢れる音楽と、呆れるような過激な演出という組み合わせになるのであろう。このヤノフスキにとって、「指環」は特別な曲であるはずだ。というのも、彼のレコーディング・デビューがこの作品であったからだ。未だ東独時代のシュターツカペレ・ドレスデンを指揮してデビューした無名の若手指揮者であったが、やはり「指環」の録音で名を上げたショルティの再来という宣伝もあったと記憶する。だが、その録音が世界を席巻したというイメージはなく、ヤノフスキはどちらかというと地味な指揮者として現在に至っている。だが、今にして耳にする彼の指揮ぶりには、もはやドイツの巨匠の雰囲気が漂っているのである (ポーランド人だが若い頃からドイツで生活している)。従って、これからが本当に楽しみな指揮者と言えるだろう。今回会場で売られていた CD で、現在の手兵であるベルリン放送響とも、この「指環」全曲を含む数々のワーグナーを録音していることを知った。実際、バイロイトのライヴ盤以外で 2種類の「指環」の全曲盤を録音した指揮者は、バレンボイムを例外とすると、ほかにいないのではないか。素晴らしいことである。

ちょっと思い立って、レコード芸術誌が毎年付録として作成している、その年に国内で発売された録音・録画をすべてまとめた「レコード・イヤー・ブック」を引っ張り出してみた。私の手元には 1980年以降のものが揃っているが、最近では年々薄くなっているのは致し方ない (笑)。ヤノフスキの「指環」の第 1弾「ラインの黄金」は 1982年に発売されている。「指揮のヤノフスキは現在最も注目を集めているポーランドの新進」と書いてある。
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そして全 4部作の発売は 1984年。なになに、「大作『リング』の CD での初の全曲盤である」とな。歴史を感じますなぁ (笑)。
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そんなわけでヤノフスキにはこの夏、奇天烈な演出に負けない立派な音楽を期待したいと、心から思います!!

by yokohama7474 | 2016-04-11 00:53 | 音楽 (Live) | Comments(2)  

マウリツィオ・ポリーニ ピアノ・リサイタル 2016年 4月 9日 ミューザ川崎シンフォニーホール

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現代のピアノ界において誰もが認める最大の巨匠は、言うまでもなくイタリア人のマウリツィオ・ポリーニ (1942年 1月 5日生まれ) である。今年既に 74歳になったということだ。なに? ポリーニが 74歳??? にわかには信じがたい。私が彼の生演奏を初めて聴いたのは 1986年。ついこの間かと思いきや、なんと。ちょうど 30年前である。NHK ホールでの、「青少年のためのコンサート」と称した低価格のコンサートであった。なにせ彼のチケットの値段は破格であって、その辺の外来オーケストラよりも遥かに高い。今手元に当時のプログラムを持ってきて、その青少年のためのコンサートのチケットが 3,000円均一であったのを確認。30年前とはいえ、これは安い。だが、30年経ってもあまり進歩のない私は、今回も最も安い席であるステージの裏側のチケットをゲットして、ようやくこのコンサートに出掛けることができた (笑)。

いかにチケットが高いとはいえ、数年おきに東京にやってくる彼のリサイタルは、やはり万難を排して聴きたいものだ。先の記事でご紹介した、91歳でかくしゃくと指揮をするネヴィル・マリナーに比べると、70代にしてはちょっと老けているように見える昨今のポリーニ。
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私が前回彼を聴いたのは 2010年。既に 6年を経ており、その間に彼の盟友であったクラウディオ・アバドは世を去り、また彼が深く尊敬する大作曲家、ピエール・ブーレーズも、今年の 1月 5日に 90歳で亡くなってしまった。因みにブーレーズが死去した日は奇しくもポリーニの 74歳の誕生日。恐らくは、言葉にはできないいろいろな思いが彼の内部に渦巻いていることだろう。会場ではこのようなポリーニのメッセージが配布された。今回はリサイタル以外に彼の企画になる室内楽演奏会も 2回予定されており、そこではブーレーズ作品も演奏される。
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今回の曲目は以下の通り。
 ショパン : 前奏曲嬰ハ短調作品45、舟歌嬰ヘ長調作品60、2つのノクターン作品55、子守歌作品57、ポロネーズ第 6番変イ長調作品53「英雄」
 ドビュッシー : 前奏曲集第 2番

実は最初の発表では、ドビュッシーの代わりにシューマンのアレグロ ロ短調作品 8と幻想曲 ハ長調作品17が予定されていて、それらが前半に演奏されるはずであった。そしてショパンは後半、しかも一部曲目と曲順が違っていた。ピアニストの真意は分からないが、ロマン的、夢幻的なシューマンよりも、機知に富み音色の幅の広いドビュッシーの方が、ポリーニを聴くには適していると思うので、私としてはこの曲目変更を歓迎したい。しかもこのポリーニ、ドビュッシーの前奏曲集は、第 1巻の録音はあるが、第 2巻の録音はまだないようだ。第 1巻には「亜麻色の髪の乙女」「沈める寺」といった有名曲が含まれていて、そちらの方がポピュラーであるが、第 2巻も目まぐるしい変化に富んだ名曲。安い席とはいえ (笑)、大変に楽しみだ。もっとも今回の来日プログラムは 2種類で、ドビュッシーの前奏曲集第 2巻は、もうひとつのプログラムではもともと予定されていた曲目なのであるが。

ステージに現れたポリーニは、やはり少し年老いた感じがした。猫背になってしまったように見えるし、足取りもヨボヨボとして見えた。だがこの日の演奏、ある意味では変わらない輝かしいポリーニ、またある意味ではさらに深化したポリーニを聴くことになり、大変に感銘深いものとなったのだ。

ショパンの演奏では、すべて通して演奏するのかと思いきや、ほぼ 2曲ずつ終わる度に拍手を受けて一旦ステージから退出していた。体力的な問題なのかと少し心配になったが、出てくる音は我々のよく知っている、感傷のない、切れ味鋭いポリーニの音であって、その意味では持ち味が健在であったとはいえようか。だが一方で、以前のようなバリバリ弾くイメージは少し減退したようにも見える。曲の選択にもよるのであろうが、甘く華麗なサロン音楽を書いたショパンではなく、自己を厳しく見つめ、望郷の強い思いを譜面に書き連ねたショパンを感じることになった。そのようなショパン像を描くには、今のポリーニは孤高ともいえる高みに達しているのではないだろうか。舟歌など、以前から彼の演奏で聴くと、楽譜に書かれた音以上の引き締まったロマン性 (妙な表現だが・・・) が厳しく立ち現われるのであるが、今回もしかりであり、しかも、孤独感が以前よりも深まってはいなかっただろうか。もともと卓越した技術で世界を席巻した人が、その技術は克己心によって懸命に維持しながらも、従来から目指していた技術の先にあるものを、巧まずしてより明確に表現できるようになってきたと考えられるのではないだろうか。もちろん、前半最後に置かれた「英雄ポロネーズ」だけは華やかな技巧を誇示するように書かれているが、これも以前からそうである通り、ポリーニがショパンのポロネーズを弾くときの姿勢は、とても技巧の誇示というレヴェルではない、あえて言えば魂の飛翔のような燃焼力の高さを伴っていた。今回、決して彼の技巧が衰えたとは思わないし、そもそも彼自身が年齢による技術レヴェルの低下を甘受しているとも思わないが、技術など些細なことだとでも言いたげに聴こえたように思う。つまり、70代半ばにして、技術を越えた何かに孤独に迫るピアニストとして、新たな次元に達しつつある、そのような感銘を覚える演奏であった。

後半のドビュッシーは 12曲連続の演奏。圧巻という表現は少し似合わないが、1曲 1曲の丁寧な磨きこみに、聴衆は皆、固唾を飲んで聴き入ることとなった。「霧」「枯葉」「風変りなラヴーヌ将軍」「水の精」「花火」などという標題があれこれついているものの、ドビュッシーが仕組んだ音の交錯は、ロマン的な西洋音楽の範疇を越えて、多種多様な表現となって結実しているので、標題を過度に気にする必要はないように思われる。ポリーニの演奏は、技術的な破綻は皆無であることはもちろんだが、輝きはあるのに、同時にある種淡々としていて、近代音楽特有の前衛性と、それを現代に生きる我々が聴く意味を、改めて考えさせてくれるようなものであった。ドビュッシーは近代音楽の原点であり、いわゆる現代音楽の元祖でもあるわけだが、それから我々は既に 100年を経過してしまったにもかかわらず、未だにドビュッシーの音にドギマギしているようなところがありはしないか。ポリーニの指からは、ドビュッシーの先にいるブーレーズのポートレートも浮かび上がる。そう、このドビュッシーの視線には、「頼むよ、後世の人たち」という意味が込められているのだ。
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ポリーニの仕事は、それに対して「もちろんです。頑張っていますよ」と答えることだ。その姿にはしかし、やはり孤独がつきまとうのだ。ブーレーズは、「まあまあ、一緒に頑張ろうよ」と言っていたが、先に逝ってしまった・・・。
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終演後、最近では珍しくなった、ステージに花束を届けるファンも 2人いて、客席は大きな拍手に包まれた。そしてアンコールでもドビュッシーとショパンが 1曲ずつ。「沈める寺」と、バラード第 1番だ。今回の演奏会を要約するように、輝かしくまた繊細なタッチの向こうに、遥かな美と孤独を感じることとなった。これからポリーニはどこに向かうのであろう。同時代を生きる偉大な芸術家の姿を、これからもしっかりとフォローしたい。

ところで今回、開演前にステージの反対側から見ていると、主として女性たちが大勢ピアノの前に押し寄せて、何やら熱心に写真を撮っている。25分間の休憩時間にも同じことが起きていたので、ちょっと見に行ってみた。そうすると、ピアノの右側面、客席に面した側に見えるメーカー (Steinway & Sons) の社名の下に、何やら太い金色の文字のサインが。Fabbrini と読める。そして、現代に生きる人間の特権を活かし (?)、その場ですぐにネット検索すると、この方はポリーニ専属の調律師であるらしい。招聘元のサイトにもこんな情報がある。
http://www.kajimotomusic.com/jp/news/k=2440/

へぇー、私はこのアンジェロ・ファブリーニさんのことを恥ずかしながら全然知らなかったが、あれだけ多くの人が写真を撮りに来ていたということは、ポリーニ・ファンにとっては常識なのだろうか。ちょっとびっくりだ。中には、なんだかよく分からずに便乗で撮影した人もいたのでは・・・とはゲスの勘繰り (笑)。でも、皆さん熱心に写真を撮っていたにもかかわらず、その場で実際に調律をしている頭の大きな外人さんには、全く注意を払っていなかったようでしたがね・・・。カジモトのサイトでもシャイなので写真はないと書いてあるが、今検索して、若き日のポリーニとファブリーニの写真を発見。年は取っているが、確かにあの場で調律していた人ではないか。あ、それから、この写真のピアノにも、既に Fabbrini というサインが入っている。
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芸術家の孤独な作業の裏には、必ずこのような協力者がいるものだ。よし、これを覚えておいて、次回の公演では真っ先に写真を撮りに行くぞ!! 安い席から駆け付ける分、ハンディにはなるが・・・。

by yokohama7474 | 2016-04-10 10:29 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

ネヴィル・マリナー指揮 アカデミー室内管弦楽団 2016年 4月 9日 東京オペラシティコンサートホール

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サー・ネヴィル・マリナー (1924年 4月15日生まれ) の指揮に関しては、昨年11月28日の記事で、NHK 交響楽団との演奏会を採り上げた。今回の記事を書くにあたり、念のためと思って読み返してみたが、いや、これはまた率直に書いておりますなぁ (笑)。そこでのひとつのテーマは、現在 91歳の (そしてもうすぐ 92歳になる) このマリナーという指揮者の真価を知りたいということである。上に写真を貼ったチラシは、最近の演奏会ではかなり大量にばら撒かれていて、「91歳堂々来日」のコピーでなんとか集客をしたいという主催者の希望がよく表れていた。今回、マリナーと彼が創設したかつての手兵、アカデミー室内管弦楽団との日本での演奏会はこの 1回きり。でも、今回の会場での立ち話で耳にしたところでは、ほかにもマカオや香港 (?) などを含むアジア・ツアーの一環である模様。

ご存じない方のためにこのオケについて簡単にご紹介しよう。日本ではアカデミー室内管弦楽団という名称が定着しているが、英名は Academy of St.-Martin-in-the-Fields である。この St. Martin in the Fields は、恐らくは聖マルティノという聖人に因んだ教会なのであるが、ロンドンにその教会はあるはず。今、充分調べる時間がないが、ナショナル・ギャラリーに面するトラファルガー広場に、その名前の教会があったと記憶する。正しいか否か保証はしかねるが (笑)、私の知識の範囲では、そこを拠点とする室内管弦楽団 (別に部屋の中で演奏するという意味ではなく、室内楽的な小さい編成という意味。あ、念のためです。笑) である。私は昔からこの日本名に違和感を抱いているのだが、まあ確かに聖マルティノが誰だとかどこの教会に属するとかいったことはどうでもよいので、まあ、この名称でも目くじらを立てる必要はないのかもしれない。

マリナーは、1958年にこのアカデミー室内管弦楽団を創設。夥しい数のレコーディングを残し、1978年にはその音楽監督の地位を女性コンサートマスターのアイオナ・ブラウン (最近名前を聞かないが、どうしているだろうか・・・と思って調べたら、昨年逝去したらしい) に譲り、ミネソタ管弦楽団やシュトゥットガルト放送交響楽団という名門を率いた指揮者である。最近の彼はこんな感じ。90 を越えているとは思えないほど元気である。
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一方、今回のプログラムに載っている、設立当初のマリナーとアカデミーのメンバーたちの写真。見るからに勢いがあるではないか。
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この 60年近い結びつきの指揮者とオーケストラを日本で聴ける機会は最後であるとのこと。これは聴きに行く価値があるはずだ。今回の曲目は以下の通り。いかにもこのコンビのよさを出せるプログラムではないか。
 プロコフィエフ : 交響曲第 1番ニ長調「古典交響曲」作品25
 ヴォーン・ウィリアムズ : タリスの主題による幻想曲
 ベートーヴェン : 交響曲第 7番イ長調作品92

簡単に総括すると、なんとも聴きごたえのある、よい演奏であった。明らかにこのオーケストラはこの指揮者のために全身全霊で演奏をし、またある意味の鷹揚さをもってそれを操縦したヴェテラン指揮者の面目躍如たるものがあった。全体を通してテンポは概して速めで、プロコフィエフの終楽章やベートーヴェンの両端楽章では、昨今ではむしろ珍しいことに提示部の反復もなく、とにかく勢いを重視した演奏であったと思う。

プロコフィエフの「古典交響曲」は作曲者 26歳の若書きであるが、なんとも清々しい名作だ。私はマリナーとアカデミーによるこの曲のレコードを学生時代から持っていた (メインはビゼーの交響曲であったと記憶する)。本当に楽しい曲であるが、昔から録音では散々聴いてきたこのオケが現在でも高い水準を保った楽団であることを実感できる、なんとも楽しい演奏であった。楽員の間からも目配せや笑みのこぼれる演奏は、日本のオケではまだほとんど聴くことができない。英国らしいウィットということなのかもしれないが、管も弦も、この曲の持ち味を最大限生かすことを目標としているようで、まさにかゆいところに手が届く演奏だった。

2曲目のヴォーン・ウィリアムズの曲も親しみやすい名曲。私はいつもこの曲を聴いて、久石譲の手になる「風の谷のナウシカ」の音楽を思い出してしまうのだが、一般の人々にとっても耳に心地よい音楽だろう。この作曲家、シンフォニーはあまり面白くないので、この曲と「グリーンスリーヴスによる幻想曲」だけでもまずは楽しみたいと思う。編成は弦楽器だけで、しかも 2群に分かれていたり、弦楽四重奏が出てきたりと、それなりには凝っている。ここで鳴る弦の音は本当に美しい。私はこれまでマリナーの実演では、どうにも平板な印象をぬぐえなかったのであるが、自ら結成したこのオケとの相性がよいのか、それとも曲との相性がよいのか、ここで聴かれる音楽には何か真実の美がある。あぁ、遠く英国から来た演奏者たちが、桜がほぼ散ってしまった東京でこんなにたおやかな演奏をしてくれているのだと思うと、何やら胸が熱くなるのを抑えることができなくなってしまった。

そして最後のベートーヴェン 7番。弦楽器はコントラバス 2本の極小編成。管楽器も各 2本ずつだが、唯一ホルンのみは 4本であった。昨今のオリジナル流行りとはちょっと異なる、ヴァイオリンの左右対抗配置も取らなければ、ヴィブラートもかける演奏であったが、まあスタイルがどうあれ、うーん、90を超えてこれだけ新鮮な音楽を奏でるとは、実際驚きである。この呼吸の良さはなかなかないであろう。こんなことを言うと不謹慎かもしれないが、マリナーが各地の通常オケと行ってきた演奏は、やはり古巣での演奏には叶わないのではないか。もともと彼は大きな身振りで指揮するタイプではないが、この室内オケのメンバーはそのメッセージを最大限理解してニュアンス抜群の音にするのである。もちろん、この激しい曲の終楽章では息が上がるほどの熱狂的な指揮ぶりを示したマリナーであるが、そこには明らかにオケに対する最大限の信頼があったと思う。聴いている方にもその信頼感が伝わってきて、誠に充実感溢れる演奏となった。

このベートーヴェンを聴いている最中から、アンコールがあるとしたら何だろうと考えた。この編成でこの流れなら、最もふさわしいのはモーツァルトの「フィガロの結婚」序曲であろう。と思っていたら、予想的中。やはりキビキビしたテンポで「フィガロ」が演奏された。ところがこれで終わらない。2曲目のアンコールは、あの「ロンドンデリーの歌」(ダニーボーイ)。これは実に胸に迫る演奏であった。過度に感傷的というわけではないが、マリナーとアカデミーを日本で聴く最後の機会と思うと、いや、そんなことを思わずとも、万人が胸にぐっと来る曲であり演奏である。ほぼ弦楽合奏だが、最後にホルンが入る (このためにホルンを 4本用意した???) あたりで客席を見渡すと、涙をぬぐっている人たちの姿がそこここに見られた。ここで私は実感する。マリナーの「平板」な演奏は、彼の美質の裏側であったのだ。やはり N 響との演奏だけでは分からないことを、今回の演奏で理解することができた。指揮者とオーケストラの不思議な関係は、言葉でなかなか説明できないものの、確実に存在するのだ。このような経験を一度でもすると、今後のマリナーの演奏への接し方が変わって来る。そうだ。これだけ元気な彼のこと。まだまだ来日を続けて欲しい。

終演後にサイン会があった。この手のサイン会は CD の購入者が対象になる場合が多く、今回面白かったのは、終演後に CD 売り場に人々が殺到していたことだ。つまり、演奏を聴いてから CD の購入とサイン会への参加を決めた人が多かったということか。そして驚くべきことに、マリナーのサインを求める人たちは、一方向の列に収まらず、折り返してまた長々と続いたのである。
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そして、ほんの 15分ほどでマエストロ登場。えっ、早くないか。もうすぐ 92歳というスゴい年の指揮者にしては驚異的だ。しかも、服装もコンサートのままなら、なんと指揮棒まで持っている。
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そして長蛇の列の聴衆へのサインに大変丁寧に応じ始めたのだ。
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私がプログラムにもらったサインはこちら。大変丁寧なものであるとお分かり頂けるだろう。あ、ちゃんと CD も買いましたよ (笑)。2013年、ポーランドのポズナン・フィルを指揮したモーツァルトとベートーヴェンのライヴ録音だ。
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時の流れは残酷なものであるが、誰にも平等なものでもある。人によって美しい老後を過ごせる人とそうでない人がいる。芸術家の場合も、その能力のピークにはそれぞれ差異があろう。今回のマリナーのようなケースはなかなかないとは思うものの、人間の持つ力を再認識させてくれるような貴重な機会であったと思う。いや、別に指揮者が老人だからとかいった余分なことはこの際忘れよう。このような音楽なら、是非是非また聴いてみたい。音楽の力から自分自身の生きる力をもらえるからである。マエストロ・マリナー、次の来日をお待ちしておりますぞ。

by yokohama7474 | 2016-04-10 00:49 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

フランソワ・グザヴィエ・ロト指揮 東京都交響楽団 2016年 4月 7日 サントリーホール

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あれは 2007年のことだったと思う。ロンドンで弁護士と面談していて、なぜか音楽の話になった。彼が言うには、休暇で米国に遊びに行って、ロサンゼルス・フィルの素晴らしい演奏会を聴いたと。指揮者名を問うた私に、しばらく考えてその弁護士が紙に書いた名前は、"François-Xavier Roth"。苗字を「ロト」と発音していた。へー知らないなぁ、フランス人だろうけどスペイン風の響きもあるかなと思い、どうせ大したことのない指揮者が間違ってロス・フィルの指揮台に立ったのだろうと決めつけ、その場では適当に話を切り上げたのである。さて、そして数年。恐らく日本では、ストラヴィンスキーの「春の祭典」初演 100年で沸いた 2013年頃からであろう、彼の新譜 CD が軒並み話題となったのは。ま、とはいえ、所詮はマイナーなクラシックの世界。別に彼について書かれたブログが炎上することもなかっただろうし、連日テレビのバラエティ番組で彼の新譜について芸能人が興奮して語るということもなかったろう。だが、2003年に彼自身が結成したオリジナル楽器 (曲の書かれた時代の楽器) による楽団、「ル・シエクル」(世紀という意味) と録音した「春の祭典」が 2014年の日本レコードアカデミー賞の、しかも大賞 (いわばグランプリだ) を受賞。つまり、その年に発売されたクラシックの CD の中で最優秀と、日本の批評家たちが評価したということだ。既にその前、毎年ゴールデンウィークに開かれるラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンに、2008年に手兵ル・シエクルと共に参加しているほか、その後 SWR バーデン=バーデン・フライブルク交響楽団と来日したり、また N 響に年末の第九を振りに来たり、昨年は読響を振ったりして、来日を重ねている。だが私は、ああなんという怠慢か愚鈍な男か。そのいずれにも足を運ぶことなく、また、クラシック界で話題騒然の彼の CD を 4枚購入しながら、最近に至るまで 1枚も開封することすらなかったのである。そして今回、この東京都交響楽団 (通称「都響」) との演奏会に接して、前非を深く悔いるに至った。こんなに面白い演奏会は、そうそうあるものではない。以下、何がそんなに面白かったのか、書いてみよう。
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フランソワ・グザヴィエ・ロト。1971年パリ生まれのフランス人である。あまり若くは見えないものの、まだ今年 45歳という若手指揮者だ。経歴を調べても、なんとか指揮者コンクールで優勝したという記述は見当たらない。2010年音楽之友社発行の「最新 世界の指揮者名鑑 866」(物故者を含めて 866人の指揮者を紹介した本) を開いても、彼の名前は見当たらない。それだけ過去数年で急速に評価を高めた人なのである。現在、SWR バーデン=バーデン・フライブルク交響楽団の首席指揮者であるとともに、ケルン市音楽総監督として、同地に所在するケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団とケルン・オペラを率いている。それにくわえ、自身が結成したレ・シエクルとともに、いわゆるバロックの古楽演奏だけでなく、20世紀前半のレパートリーを意欲的に演奏・録音しているのである。

今回は都響に初登場であろうか。曲目は以下の通り。

 シューベルト (ウェーベルン編) : ドイツ舞曲 D.820
 リヒャルト・シュトラウス : メタモルフォーゼン
 ベートーヴェン : 交響曲第 3番変ホ長調「英雄」作品55

先月行われたローター・ツァグロゼク指揮の読響のコンサートでも、似たような組み合わせの曲目が演奏され、「メタモルフォーゼン」を含む演奏会については私も記事を書いた。そう、クラシックファンなら誰でも知っている通り、この「メタモルフォーゼン」は、ベートーヴェンの「英雄 (エロイカ)」交響曲の第 2楽章、葬送行進曲がテーマとなっている。だが、今回のプログラムの凝り方はそれだけではない。プログラム冊子に寄せられているロトのメッセージを要約しよう。いわく、プログラム作成は、組み合わせによって曲が異なって聴こえる機会を作ること。ベートーヴェンが「エロイカ」を作曲したときには未来を見ていただろう。一方、シュトラウスが「メタモルフォーゼン」を作曲したときには過去を見ていただろう。未来へ向かう視点と過去へ向かう視点という異なる時間軸が、今回のプログラムには存在する。加えて、最初のドイツ舞曲は、近代の作曲家ウェーベルンが過去のシューベルトの作品への敬意を持ってモダンにオーケストレーションしたゆえに、ひとつの作品の中に 2つの時間軸がある。・・・なるほど、なんという慧眼。それがどのように音になるのであろうか。

舞台に現れたロトは、指揮棒を持たずにすべて譜面を見ながらの指揮であった。だが、最初の曲とメインの「エロイカ」ではヴァイオリンの左右対称配置を取ったにもかかわらず、「メタモルフォーゼン」ではそうではなく、舞台に向かって左手側に第 1ヴァイオリンと第 2ヴァイオリンを混在させ、真ん中にチェロ、そして右側にヴィオラ。その奥にコントラバスが並ぶという変則的な配置。この曲は敗戦間近のドイツで老巨匠が書いた痛ましい音楽なのであるが、副題に「23の独奏弦楽器のための習作」とある。そう、これは弦楽合奏のための曲ではなく、23人の弦楽ソリストの集合体のための曲なのだ。昔のカラヤンの 2度の録音以来、耳になじんだ曲ではあるが、実演に接したことはさほど多くない。だが今回のロトの演奏で初めて曲の副題の意味を理解することができた。CD で聴いているだけでは分からないし、生演奏でも座席によっては視覚で確認しにくいだろうが、この曲の各パートは、本当にそれぞれが独立しているのだ。例えばコントラバスは 3本だが、3人揃って弾くところもあれば、1人であったり 2人であったり、またその 2人も、組み合わせが異なる場合がある。その他のパートでも、いわゆる首席奏者でない人だけが演奏する箇所もあるのだ。そして最後に現れる「エロイカ」の葬送行進曲のテーマを奏するのは、ヴァイオリンでもチェロでもなく、コントラバス。言うまでもなくベートーヴェンの時代には、この楽器がメインのメロディを演奏することなどないので、原曲の「エロイカ」には出てこない音に集約するのが、このシュトラウスの作品なのだ。ロトの指揮は決して流れがよいわけではないが、この曲のいわばモザイク状の構造を、面白いようにあちらこちらで次々取り出してみせる。聴いているうちに、この切れ切れの音たちは、断ち切られた希望、あるいはバラバラになってしまった文化のようなものではないかと思うようになった。だがその破片たちには、それぞれが夕日を反射しているかのような美しさがある。だからこれは、ただ感傷に沈んで行くような曲なのではなく、滅び行くものが持つ深い美をも表しているのであろう。ロトの指揮によって、初めて曲の本質に触れたような気がしたのだ。

順番が逆になったが、最初のドイツ舞曲も、表面上はなんとも流れの悪いギクシャクした演奏で、そうであるがゆえに、永遠の前衛作曲家アントン・ウェーベルン (1883 - 1945) の目指した極小世界の本質を表すものであろう。いつもながら都響の演奏能力は高く、聴き手をはっとさせるロトの際立った解釈を、見事に音にしていた。そういえばウェーベルンは、戦後の混乱の中、米兵の誤射によって1945年に 61歳で命を落としている。シュトラウスの「メタモルフォーゼン」も戦争末期の所産であるし、また「エロイカ」も、ナポレオン戦争と密接な関係がある。つまりこのプログラム、戦争のイメージも見え隠れしているのだ。これは若い頃のウェーベルン。神経質そうだが、実は非常に感情豊かな人でもあったようだ。
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そして今回のメイン、ベートーヴェンの「エロイカ」だが、この何百回聴いたか分からない曲に、実に新鮮な思いを持って接することができたのは、なんとも嬉しい驚きであった。以前、作曲家の諸井誠だったと思うが、面白いことを言っていた。ベートーヴェンが交響曲第 2番からこの第 3番へ大きな飛躍を達成したことは間違いないが、よく聴いてみると、スフォルツァンド (局部的に音を大きくすること) の多用という点で両者は共通すると。確かに 2番は明るく楽しい曲だが、目まぐるしく動く音楽の中に、痙攣的なアクセントが頻繁に出現する。一方この「エロイカ」は、冒頭の 2つの和音が、いわばその継続の象徴のようであり、全曲においては多くの箇所でやはり痙攣的なアクセントが現れる。確かに雄大なスケールを持つ、音楽史上前代未聞の大作交響曲にはなったものの、曲想にはそのような過去のしっぽが潜んでいる。今回の演奏では、そのような指摘を思い出したのだ。ロトの指揮からは、ありきたりの劇的な交響曲は出現せず、鳴っている音の細かいところまでくっきりと表された、またもやモザイクのような構成が見えるようであった。もちろん迫力に不足することはない。ヴィブラートは最少であったがゼロではなく、音の持つ重みは充分に重視されていたと思う。音の情景は多様で、同じ音型も、立ち現われる度に違う新鮮さを持って迫ってくる。また、終楽章主部開始間近の、通常は弦楽合奏が無窮動的な音形を刻む箇所が、弦楽四重奏 (第 1、第 2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのそれぞれソロ奏者のみ演奏) になっていた。この解釈、以前も聴いたことがあるような気がするが、思い出せない。そのような出版譜もあるのだろうか。

ところでこの曲の終楽章は、ベートーヴェン自身、バレエ音楽「プロメテウスの創造物」にも使用しているテーマによる変奏曲であるが、人類に火をもたらした英雄としてのプロメテウスへの思い入れは、いかにもベートーヴェンらしいと語られることがある。だが今回の演奏で私が想像したのはむしろ、火を盗んだため、ハゲタカに内蔵をむしばまれるという拷問を受けたプロメテウスが、その再生能力によって内臓を復元させることで、果てることのない拷問に苦しんだということだ。そう、英雄プロメテウスの繰り返される苦しみ。テーマが展開するにつれて少しずつ音楽的情景が変わるこの曲は、もしかするとそのような意図で作られているのではないか。ふとそんなことを考えたりした。これはルーベンス描くところのプロメテウス。
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私は音楽の専門家でもなく、演奏家でもないので、音楽の聴き方が情緒的かもしれないし、思い込みも激しいかもしれない。でも、ただどの音が正しいとか美しいとかいうことだけで音楽を語るよりも、演奏家の表現力や曲の文化的背景などを、充分に味わいたい。そのような人間にとって今回のロトの演奏は、凡百のオーケストラ演奏にはない、知的興奮を煽る箇所が多く存在しており、そうは出会えない刺激的なコンサートになったのであった。かくなる上は、心して手元にある彼の CD を聴き、最初に彼の名前を手書きで教えてくれた英国の弁護士に、改めて感謝するとしよう (笑)。ロトと都響の演奏会は、来週 4/12 (火) には、今度はストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」と「火の鳥」全曲という垂涎のプログラムが組まれている。残念ながら私はそれは聴きに行けないが、今後の彼の来日公演には、万難を排して出かけるつもりである。


by yokohama7474 | 2016-04-08 00:55 | 音楽 (Live) | Comments(2)  

マスネ作曲 歌劇「ウェルテル」(指揮 : エマニュエル・プラッソン / 演出 : ニコラ・ジョエル) 2016年 4月 3日 新国立劇場

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フランスの作曲家、ジュール・マスネ (1842 - 1912)。いくつかそこそこ知られた管弦楽曲もあるが、最も有名な彼の作品は、ヴァイオリン独奏による「タイスの瞑想曲」だろう。夢見るような旋律が大変美しく、このマスネという作曲家の本質的な資質のよく表れた曲だ。これは実は彼のオペラ「タイス」の間奏曲である。この作曲家、25曲ものオペラを作曲しており、19世紀後半から 20世紀初頭にかけての重要なオペラ作曲家であったのだ。この「ウェルテル」は彼のオペラの中でも、「マノン」と並んで有名な作品であろう。新国立劇場では既にこの 2作に加え、「ドン・キショット」(あの名バリトン、ルッジェロ・ライモンディ主演であった) も既に上演済であり、ヴェルディやワーグナーだけではなく、フランス物にもなかなかの上演実績を誇っているわけだ。しかも今回の「ウェルテル」は、2002年上演のプロジェクトの再演ではなく、新たな演出だ。未だ 20年に満たない歴史しかない新国立劇場が、既にして「ウェルテル」の 2つめのプロダクションを舞台にかける意義を確かめたい。

この「ウェルテル」という作品は、その題名で明らかな通り、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」を原作としており、大変劇的で美しい旋律に溢れた名作である。しかしながら、日本ではそれほど多く上演されておらず、なんと上記の 2002年の新国立劇場での前回の上演が原語での初演であった由。私自身はそれは見なかったのであるが、1999年 7月にマドリッドのテアトロ・レアルで、ジュリアス・ルーデル指揮、ラモン・ヴァルガス主演の舞台を見た。また 2009年には、大野和士が手兵のリヨン歌劇場管弦楽団との来日公演で演奏会形式で上演したのも素晴らしい音楽的事件であった。

今回の上演、私にとって最も興味があったのは指揮者である。1933年生まれ、今年 83歳になる現代最高のフランス音楽の解釈者、ミシェル・プラッソン。長らく音楽監督を務めたトゥールーズ・キャピタル管との数々の録音に加え、日本にはドレスデン・フィルと来日したり、単身で N 響を何度か振りに来ているし、二期会でも「ファウストのごう罰」「ホフマン物語」などで素晴らしい音楽を聴かせてくれた名匠。・・・ところが、会場にはこのような貼り紙が。
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主役を演じる予定であったテノールのマルチェロ・ジョルダーニとともに、指揮者も交代になってしまっている。転倒による骨折とは、やはり高齢によるものなのだろうか。心配である。そして代役の指揮者の名は、エマニュエル・プラッソン。
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これはどう見ても息子であろう (笑)。主役と指揮者の交代は随分前から判明していたらしく、プログラムには既に両者の名前も写真も経歴も印刷されている。ま、親子で指揮者という例は珍しくないが、親父のキャンセルを息子が穴埋めするというケースは珍しい。この際、期待を持って臨もうではないか。

この作品のあらすじは至って簡単。ウェルテルという若い男がシャルロットという女性に一目ぼれする。だがシャルロットにはアルベールというフィアンセがいて、彼と結婚してしまう。そして絶望したウェルテルはピストルで自殺。これだけだ。なんという純愛。なんという悲しい情熱。振られた腹いせのストーカー殺人などが人々の気持ちをいやーな気分にさせることも多い現代の日本。たまにはこのような青春の清い情熱に触れて、新鮮な気持ちで人生の意味を見つめ直すのも悪くない。いやもっとも、死んではいけません。失恋くらいで、何も死ぬことはない。私は以前マドリッドでの舞台を見たあとに原作も読んだが、書簡形式のロマン主義的な作品だ。文字で綴る文学という分野なら、情熱の発露という点の表現形態として、最後が主人公の死でも成立しよう (この作品の発表当時、影響を受けて自殺する若者が多かったらしいが、それは 18世紀後半から 19世紀前半の、欧州全体がのべつ戦争に巻き込まれていた時代であったことによる厭世観とも関係しているのでは?)。でもオペラともなると、少し工夫が必要だろう。朗々と歌うだけでは作品にならず、管弦楽がロマン主義的感性を表すべく雄弁に語る必要が、どうしてもあると思う。そしてこのマスネの「ウェルテル」は、まさにそのような曲なのだ。マスネはワーグナーの一世代下だが、楽壇の巨人ワーグナーがパリでも大きな影響力を持っていた時代に生きた。ここで頻繁に聴かれる甘美な音だけ取ってみればワーグナー的ではなくとも、音がドラマを作るという基本構造は、やはりワーグナーなしには考えにくいだろう。

その点、今回のプラッソン息子 (という言い方は失礼だが・・・)、素晴らしい成果を挙げていたと思う。オーケストラは東京フィルであったが、弦楽器がつややかにドラマを歌いあげると同時に、木管楽器が素晴らしい積極性を発揮していて、なんとも表現力豊か。プラッソンの指揮は決して要領がよいようには見えなかったものの、非常に丁寧にオケに指示を与えていて、音楽の大きな流れを創り出していた。これだけ振れるのなら、父の辿った道をさらに超えて、フランス音楽の使徒になってもらいたい。

主役のウェルテルとその相手役シャルロッテは、結果的に両方ロシア人となり、どちらも今回が新国立劇場デビューだ。ウェルテル役のディミトリー・コルチャックは、既に国際的なキャリアを持つテノールで、今回の「ウェルテル」に加え、今年秋のゲルギエフ指揮のマリインスキー歌劇場の来日公演では、チャイコフスキーの「エフゲニ・オネーギン」のレンスキーを歌う。ともに抒情性が重要な役であるが、今回のウェルテル役を聴く限り、レンスキーも大変楽しみだ。最初に舞台に登場したときには少し声量がどうかとも思われたが、歌い進むうちに、今日これだけ美しいリリコもそうはいないだろうと思われた。有名な第3幕のアリア「オシアンの歌」も実に素晴らしく、よくぞこれだけの代役を探し当てたものだ。
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普通テノールの相手方はソプラノが多いわけであるが、ここではメゾ・ソプラノだ。今回シャルロッテを歌ったエレーナ・マクシモワは、やはり世界の主要オペラハウスに出演している歌手で、今回は演技も含めて難しい役柄を、素晴らしい表現力で演じた。来シーズンにはこの新国立劇場で「カルメン」を歌うとのこと。かなり期待できると思う。
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シャルトッテの夫となるアルベールを演じたのは、オーストリア人のアドレアン・エレート。おっと彼は、先日の小澤征爾音楽塾での「こうもり」で、アイゼンシュタインを飄々と演じていたあの人ではないか。ここでは一変して、落ち着いた雰囲気のイヤな奴を見事に歌っていた。あ、もっとも、このオペラのひとつの特色は、本物の悪人がひとりも出てこないこと。このアルベールにしても、ウェルテルの横恋慕に対して、立派に大人の対応ぶり (?) だ。誰も悪人がいないからこそ、青春の情熱が巻き起こす悲劇が、悲劇たらしめられるのであろう。
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その他日本の歌手の皆さん (児童合唱も含め) それぞれに見事で、大変見応えのある舞台であった。歌、オケ、ともに国際水準をクリアした素晴らしい舞台でした。そして演出を担当したのは、フランス人のニコラ・ジョエル。
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このオペラでは、あれこれ余計なことをやられると音楽が活きて来ず、作品のよさを殺してしまうと思うが、その点彼の演出は非常にオーソドックスで無駄な動きもなく、練達の演出であったと言えるであろう。第1幕は木洩れ日の差す屋外、第2幕はアーチの下の半屋外、第3幕は家の中で完全な屋内、そして第4幕は大量の本が並ぶ、天井裏とおぼしきウェルテルの窮屈な部屋で、徐々に狭いところに追い込まれて行くウェルテルの心理をそれとなく暗示していたと思う。以前、藤原歌劇団がグノーの「ロメオとジュリエット」を上演したときも彼の演出であったことを後で知ったが、実は今回、会場でプログラムに彼の名を発見したときに、妙なデジャヴを覚えたのだ。それは、上に記した通り、私がこれまで唯一舞台でこの作品を見た機会であるマドリッドでの公演プログラムを、事前に自宅で引っ張り出して見ていたからだ。
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そこで、休憩時間に早速自宅にいる家人にメールを打ち、そのプログラムのスタッフ表の写真を送ってくれるように依頼。そして送られてきた写真にはしっかりと、ニコラ・ジョエルの名が。
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正直なところ、そのときの演出はよく覚えていないが、今回のものとは別だったと思う。だが同じように無駄のないオーソドックスな演出であったように記憶する。2回しか実演で見ていないオペラの演出家が 2回とも同じとは、妙なご縁もあるものだ。ついでにご紹介すると、スペインと言えば、このウェルテルを当たり役とした偉大なテノールがいた。そう、アルフレード・クラウスだ。このときのプログラムにはクラウスが演じるこの役の写真が小冊子として添付されている。スペイン語なので何が書いてあるが分からないが、この上演の 2ヶ月後、1999年 9月にクラウスは 71歳で死去。当時病床にあった国民的テノールへのオマージュであったのだろうか。
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またこのときマドリッドで主役を歌ったメキシコ人のラモン・ヴァルガスは、ヴェッセローナ・カサロヴァと組んだ録音で名唱を聴かせている。
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このように、実際に見た舞台からあれこれの連想が飛んで、それがまた作品体験に跳ね返ってくる。私にとってそれほど身近でないはずのこのオペラに、様々な発見がある。そこで最後に、作品中で気になるセリフがあるのをご紹介しよう。それはこのオペラに出て来る脇役カップルが口にする言葉だ。名前はブリュークマンとケートヒェン。この作品のあらすじを書いた文章にも、ほとんど出てこない名前だと思うが、実はこの二人、ウェルテルとシャーロッテの分身であるらしい。それは、上記のヴァルガスの CD の解説に出て来る説明で、そういえば確かに、第 1幕でウェルテルとシャーロッテが出会う場面では仲睦まじく、そして別離に至る第 3幕では、男が女を探しているのだ。これらのキャラクターはオペラの創作であろうと思うが、面白いのは、第 1幕で彼らが口にする「クロプシュトック」という言葉。実はこれは、原作ではシャーロッテの呟くセリフ。そして、この響きのよい言葉は、ゲーテよりも一世代上の、18世紀ドイツの詩人の名前なのである。この詩人への敬意を通して二人は情を通わせるという設定だが、またまたこの CD の解説によると、当時の若者にとってこの詩人の名前は、1960年代の若者にとってのビートルズに匹敵しただろうとのこと。もともと原作はゲーテの実体験 (人妻シャルロッテ・ブフへの恋情と、友人カール・イェルーザレムのピストル自殺) が下敷きになっているが、さしづめこのクロプシュトックという名前も、ゲーテ自身の青春の中にあった偉大な憧れであったのであろう。ところでこの詩人の名、クラシックファンにとっては既におなじみのはず。あのマーラーの第 2番「復活」の終楽章、あの感動の合唱によって歌われる歌詞は、クロプシュトックによるものなのである。18世紀に書かれた詩であるが、マーラーの作曲した時代は既に 19世紀後半。文化の諸相に見える絶えざる変化と、時代を超えた不変のものが、ここにも共存している。

そんなわけで、いろいろ考えるヒントをもらった公演となった。新国立劇場の意欲的な上演に改めて拍手を送りたい。

by yokohama7474 | 2016-04-04 00:41 | 音楽 (Live) | Comments(2)  

水戸室内管弦楽団 (一部 小澤征爾指揮) 2016年 3月29日 サントリーホール

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水戸市の水戸芸術館を本拠地とする水戸室内管弦楽団は、1990年に設立された、日本を代表する室内管弦楽団である。メンバーは一流のソリストや内外のオケの楽員が中心で、サイトウ・キネン・オーケストラとも重複するメインメンバーも多い。なので、この言い方には語弊はあるかもしれないが、この水戸室内管弦楽団はミニ・サイトウ・キネンと考えれば、さほど間違っていないであろう。小澤征爾はこのオケとは設立時から深い関係を保って来たが、水戸芸術館の初代館長は彼の恩師の音楽評論家、吉田秀和。今小澤は同館の第 2代館長であり、同時にこのオケの芸術監督でもある。今回は第 95回定期演奏家の東京公演である。

小澤は病を克服してからここ数年、このオケとベートーヴェンの交響曲を演奏、録音してきており、既に 2・4・7・8番がリリースされている。今回は第 5番。一般に「運命」というあだ名で知られるが、最近では大仰なこのあだ名ではなく、ただ単に 5番と呼ばれることも多い。今回のポスターやプログラムもそうなっていて、私としては大いに同感だ。もともと小澤の指揮するベートーヴェンは、昔ながらの重々しいドイツ風ではなく、非常にすっきりとしたスタイルであって、それ自体の賛否は以前からあるものの、既に齢 80、自らの信じる道を進んで来た信念の人であるから、純音楽的に鳴ってくれるはずであり、大仰なあだ名は不要であろう。このベートーヴェン・シリーズ、私は 2014年 5月に水戸まで 7番を聴きに行ったが、その際には予想通り、集中力とオケとの呼吸が素晴らしいと思ったものである。

さて今回の演奏会、曲目は以下の通り。前半の 2曲は指揮者なし。後半のベートーヴェンのみ小澤の指揮。最近の小澤の演奏会では、最初から最後まで振り通すことが体力的に難しいらしく、残念だがやむを得ない。
 シベリウス : 悲しきワルツ (劇音楽「クオレマ」作品44から)
 モーツァルト : クラリネット協奏曲イ長調K.622 (クラリネット : リカルド・モラレス)
 ベートーヴェン : 交響曲第 5番ハ短調作品67

会場に入ると 1階ロビーに何やら献花台がある。
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これは、先ごろ 74歳で逝った水戸室内管弦楽団のティンパニ奏者、ローランド・アルトマンの死を悼むもの。彼は 1975年からウィーン・フィルの首席ティンパニだった人らしい。そしてこのような告知が。
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開演前、ホール内の照明が落とされ、オケのメンバーとともに小澤が入って来る。このときに残念だったのは、客席から盛んな拍手が起こったことだ。もちろん、上の「お知らせ」には、「演奏終了時の拍手はご遠慮ください」とはあっても、「演奏者入場時の拍手はご遠慮ください」とはない。また、この告知を見逃した聴衆もいただろう。だがそれにしても、照明が落とされて、演奏家が聴衆に挨拶せずに舞台に入ってくる場合に、盛大に拍手するのは常識的にいかがなものか。あるいは館内放送で説明すべきであったろうか。ともあれ、ここで演奏されたのは、サイトウ・キネンのテーマとも言われる (斎藤秀雄が厳しく指導した曲である)、モーツァルトのディヴェルティメント K.136 の第 2楽章。小澤は通常でもこの曲を極めて遅いテンポで演奏するが、今回は追悼演奏であり、さらに感情移入が深い。彼は以前、この種の機会にはほぼ毎回、バッハの G 線上のアリアを演奏していたが、いずれにせよ、彼がよく口にする「音楽による (宗教ではない) 祈り」は、曲のスタイルを超えて胸を打つものだ。

そして、指揮者なしで演奏された 2曲。最初のシベリウスの「悲しきワルツ」は、よくアンコールで演奏される小品であり、カラヤンの愛奏曲でもあった。低弦のピツィカートで静かに始まり、滑らかなメロディに移行して、その後加速する部分もあるので、指揮者なしで演奏するのはかなり難しいと思う。だがさすが水戸室内管、この曲でコンサートマスターを務めた竹澤恭子 (世界一流のソリストである!!) のもと、よく息のあった美しい演奏であった。最初の曲から追悼の雰囲気が、少し変形しながら続いているような感じ。次に演奏されたモーツァルトのクラリネット協奏曲は、作曲者晩年の傑作であり、この曲の第 2楽章も、あまりに美しすぎて追悼の音楽 (あるいは天国の音楽) にふわさしいと言ってよいだろう。ソリストは、このオケのクラリネット奏者であるリカルド・モラレス。本職は名門フィラデルフィア管の首席クラリネットだ。正直なところ、超絶技巧を聴かせるタイプではなく (またもちろんこの曲には超絶技巧は必要ないわけだが 笑)、びっくりする音楽ではなかったが、安心して聴くことができた。
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そして後半のベートーヴェン 5番。休憩終了時にふと 1階席の数列前を見ると、いつも見かける小澤ファミリー (夫人と、征良、征悦の姉弟) が後半から臨席だ。そして、実はホールに入った瞬間から SP の存在に気づいていたので、誰か VIP がおいでになることは分かっていたが、皇太子夫妻かと思いきや、なんと、天皇・皇后両陛下が、やはり後半の小澤の指揮だけを聴きに来られたのだ。何年かに一度はこのようなことがあるので特に驚かないし、いつも客席総立ちで両陛下に拍手を送ることになるのも、何やら一体感が醸成され、穏やかな気分にもなるので、大変結構なことである。以前ロンドンでチャールズ皇太子とカミラ妃臨席のコンサートがあったときには、あのひねくれものの英国人たちも一応全員立っていましたからね (笑)。日本なら当然こうなるでしょう。

小澤はこのオケを指揮するときは以前からそうなのだろう、指揮台がない。そして、なぜだか使わない譜面台が置いてあって、そこには何も乗っていない。指揮中に座れるように、座面が横長で足がしっかりした椅子が置いてあり、その横にはパイプ椅子。その横長の椅子は結局使われず、終始立っての指揮であったが、楽章の間 (第 3楽章と第 4楽章は続けて演奏されたので、使用回数は 2回だけだったが) には小澤はパイプ椅子にどっかり座り、ヴィオラの店村眞積からペットボトル入りの水を受け取ってゴクゴクやるのである。今の彼にとって、指揮をするとはそれだけの重労働なのであろう。
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小澤はこのベートーヴェン 5番を過去 3回録音している。キャリアの初期に RCA にシカゴ響と。活動全盛期にテラークにボストン響と。そして、旧フィリップスに全集の一環としてサイトウ・キネンと。私はもちろんすべて所持しているが、今回の演奏に先立ち、その最初の 2枚を CD 棚から久しぶりに取り出して事前に聴いていた。今回の生演奏まで含めた結論としては、いずれの演奏も、テンポを含めた演奏スタイルには大きな変化はないと思う。ただ今回の演奏は、コントラバス 2本という、室内管弦楽団でもとりわけ小さいサイズの編成であり、自然、管が浮き出る効果があるので、響きが新鮮である一方、やはりこの曲の鬼気迫る音の畳みかけという点では、多少の不満があることは否めない。弦はどこを取っても美しくてニュアンスたっぷり。だが半面、最近の古楽器演奏などで耳にする鋭い切り込みはあまり聴かれず、現代におけるベートーヴェン演奏の難しさを思い知るのである。だがもちろん、この半世紀、世界のトップで活躍して来た大家が、流行に右顧左眄する必要はなく、彼の信じるベートーヴェン像に敬意をもって聴き入るべきだと思う。ひとつ言えることは、小澤の身振りがそのまま音になっていたように感じたことで、これは彼の全盛期の指揮ぶりと同じである。私には何よりそれが嬉しかった。終演後、すぐにスタンディングオヴェーションが始まり、両陛下を含む聴衆全員がまさに総立ち。小澤は楽員全員と握手を交わし、オケはすぐに退場した (両陛下の警備上の問題もあったのかもしれない)。このような情景は、まさに小澤の演奏ならではであろう。

小澤は、4月初旬には久しぶりにベルリン・フィルの指揮台に復帰し、これもまたベートーヴェンの、「エグモント」序曲と合唱幻想曲を指揮する。私は彼が前回ベルリン・フィルを振った 2009年 5月のメンデルスゾーンの「エリア」は現地で聴いたが、今回はベルリンまで飛んで行くことはできない。だが今回の調子なら、ベルリンの聴衆たちに楽しんでもらえるだろう。この小澤という人、もちろん自分には大変厳しい芸術家だが、その人当たりのよさに、天性のピュアな精神を見ることができる点、ほかの指揮者たちと違うのだ。今回のプログラムに、亡くなったティンパニ奏者ローランド・アルトマンへの追悼の言葉が掲載されているのでご紹介しよう。

QUOTE

ローランはまっすぐの人だった。音楽に対しても私達友人に対しても。
そしてやさしい人だった。
ウィーンで家族テニスによんでくれ、ロッテ (夫人) の手料理。想い出がたくさんつまってる。
元気でニコニコしてたのに何と悲しいことか。

UNQUOTE

なんという真実の想いに溢れた、心に沁みる言葉であろう。素朴で飾らないこの言葉、いわゆる日本的なエラい人には到底無理な、透明な感性であると思う。ちなみに、「まっすぐの人」という表現は原文のままで、「まっすぐな」ではない。

最後にもうひとつ。たまたまこのコンサートを聴いた日の昼間に、あるカメラ会社のショールームを通りかかったところ、昭和を彩った様々な文化人・芸能人の写真が展示されていて、その中に若い頃の小澤の姿を発見。1963年だから、実に今から 53年前。
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ちょうどバーンスタインの下でニューヨーク・フィルの副指揮者をしていた頃であろう。まだ 20代の若者である。実はこの表紙に使われた同じ写真が別に展示されていて、こちらでは背景を見ることができる。
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これは明らかにカーネギーホール。聴衆の姿はなく、また、燕尾服は着ているものの、音楽をするときの彼の集中した動きのある姿勢には見えないから (笑)、コンサートでないのはもちろんリハーサルでもなく、この撮影用の特別なセッションであったのだろう。時の流れは様々なものを変えて行くが、変わらないものもあるものだ。これからも小澤征爾の情熱を感じ続けて行きたい。

by yokohama7474 | 2016-03-30 01:39 | 音楽 (Live) | Comments(0)