カテゴリ:音楽 (Live)( 285 )

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バイロイトでティーレマンの指揮する「トリスタン」を見てから、ええっと、もう何ヶ月経ったかなぁと思って冷静に考えると、な、なに? まだ 3週間半だ。あっれー、随分昔のような気がするが、まだ 1ヶ月も経っていないわけである。それなのに、また「トリスタン」の全曲だ。今回の演奏は、読売日本交響楽団が、その常任指揮者、フランス人のシルヴァン・カンブルランと挑む、演奏会形式だ。1週間を挟んで 2度の公演があるが、チケットは完売。相変わらずの日本人のワーグナー好きが実感される。私はド M ではないので、別にこれに行かなくてもよいのだが、まあ行きがかり上しょうがない、行くことにした。うむ、実際には松本での小澤指揮のブラームス 4番の日程とダブってしまったのだが、躊躇なくこちらを選んだ。やっぱりド M なのかなぁ・・・。

さて、会場には、新国立劇場の音楽監督でワーグナーを得意とする指揮者、飯守 泰次郎や、音楽評論家数名、いつも見かける一連のコンサート常連おじさんたち、それから、先のバイロイト旅行で見かけた人たちも含めて、東京中のド M が大集合だ。今月の東京での演奏会では、まず注目度 No. 1 と言ってよいだろう。

シルヴァン・カンブルランは、1948年生まれ。南西ドイツ放送響 (バーデン・バーデン & フライブルク) の首席指揮者として、主に現代音楽の分野で頭角を現したが、そのレパートリーは広く、読響とも、2010年の常任指揮者就任以来、古典から前衛まで、あらゆる音楽を手かげている。このポニーテールが特徴。
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実は彼は現在、シュトゥットガルト歌劇場の音楽総監督も務めていて、今回の「トリスタン」は、その劇場での主役歌手を招聘してのもの。シュトゥットガルトには行ったことがないが、この歌劇場はなかなか面白そうだなとは思っていて、今回の演奏会は、日本でポストを持つ一流指揮者の海外の活動の一端が日本に紹介される機会ととらえることができるであろう。

演奏会形式でオペラを上演する場合、少し舞台装置や照明や歌手の演技がある場合もあるし、純粋に音楽だけの場合もある。今回は、ステージ上は通常のオーケストラコンサートよりも照明を落とし、オケはまるでピットにいるかのように、各譜面台に照明をつけての演奏。但し、舞台装置や特殊な照明の類は一切なし。歌手の演技も、視線を合わせるとか、ちょっと死んだマネとかいう、最小限にとどめられた。まさに、正面からワーグナーの音楽に取り組もうという姿勢が明確だ。

これまでカンブルランの指揮には何度も接していて、情緒的でないタイプであることは分かっていたが、その一方で、オケを鳴らすことには長けているので、ワーグナーの楽劇には適性があるものと期待していた。結果的には、その期待は、まずは充分に満たされたものと思う。前奏曲では音の粘りは最小限に、但し弦に対して管が反応する際の細かい神経の使い方は傾聴に値するものであった。読響も、まだ私の耳の底に残っているバイロイトのオケの響きと比較するとさすがに酷であるが、官能性溢れる音楽をニュアンス豊かに演奏したと言えるであろう。この曲、ほかのワーグナーの曲もそうであるが、とにかく言葉が途切れる瞬間が少ないので、指揮者は流れを作るのが大変であって、始終動き続けることになるのだが、このカンブルラン、若干スコアを見る時間の割合が高いようにも思われたが、的確な指揮ぶりではあった。第 2幕の途中で指揮棒を置いて素手で指揮していたのは、長丁場の 2重唱で、オケをうまく流すためであったろうか。歌劇ではなく楽劇とワーグナー自身が呼んだ通り、歌もさることながら、オーケストラのパートが重要なオペラであり、その意味で、読響の演奏は充分作品の要求を満たしたと思う。

一方で歌手はどうか。圧巻であったのは、マルケ王役のアッティラ・ユンである。
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韓国人のバス歌手だが、欧州各地で活躍しており、バイロイトの常連でもある (去年なら、ハーゲンを歌っていたらしい。ということは、やはりこの人も、ジークフリートを、背後からではなく、正々堂々 (?)、正面から金属バットで殴り倒したのだ 笑)。その存在感は素晴らしく、このオペラ、マルケ王の登場する 2つのシーンがとりわけ重要な意味を持っているように思えてくるから不思議である。実際、第 2幕と第 3幕の幕切れ近くでマルケ王の歌う内容は、主役 2人の陶酔と対局にある、物事に対処すべき大人がわきまえているべき分別と、悲劇を浄化する寛大な人間性を表しており、これがなければこのオペラ、全くスカスカなものになってしまうということに、改めて気づかされた。凡庸なバス歌手なら、単なる説教で終わるところ、ユンは、作品の新たな面に気づかせてくれた。

ブランゲーネを歌ったクラウディア・マーンケは、帰宅してから気づいたことには、今年のバイロイトの「指環」でフリッカを歌っていた歌手ではないか!! おー、なんということ。全く分からなかった。では今日の主要歌手 5名 (クルヴェナルまで含めて) のうち 2名が、あの最低演出の経験者か。なにせ、このマーンケさん、今回のプログラムの写真がこんな爽やかなのに、
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バイロイトではこんな感じでしたから。
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本当にオペラ歌手とは大変な職業である。ところで、このバイロイトの「指環」、最低最低と言いながら、最近少し懐かしく思い返すときがある。後追いながら、演出のコンセプトについての解説なども読み、はぁそういうことだったのかという点もないではない。ただ、一度最低と評価したものは、そう簡単に評価を変えてはいけません。ということで、相変わらず最低という整理にしておこう。

話がそれてしまったが、このブランゲーネは、それほど驚くような出来でもなかった。そうなると主役の 2人であるが、イゾルデ役には、もともとシュトゥットガルトで歌ったらしいクリスティアーネ・イーヴェンが病気のため、レイチェル・ニコルズという歌手に変更になった。この名前、聞き覚えがある。多分コヴェントガーデンで聴いたことがあるような気がする。代役で出てきた割には、譜面も見ずに堂々たる歌唱ぶりであった。まずは及第点といえよう (エラそうですみません)。

最後に、トリスタン役のエリン・ケイヴィスであるが、全曲危なげなく歌ったものの、正直なところ、音程、声量とももうひとつであった。まだ若い歌手なので、これからまだ成長して行くのであろう。私は時折思うのだが、本当にオペラ歌手、特にワーグナー歌いを職業に選択しなくてよかった。あれだけ長いドイツ語を覚えてちゃんと歌うなんて、人間業とは思われない。だから、こんな曲を全曲歌えるだけで、本当は拍手喝采なのだが・・・。

聴き終わった感想を一言にするなら、「やはりワーグナーの演奏会形式上演は、長い!!」というもの。この「トリスタン」は、ストーリーが単純であるため、演技があってもなくてもよさそうなものだが、やはりそうではなく、舞台があって初めて音楽が生きると思うのだ。このオペラのストーリーがいかに簡単か、例を採って説明すると、第 2幕の要約はこうだ。
 ブランゲーネ「イゾルデ姫、お気を付けを」
 イゾルデ「いいのいいの。あ、トリスタン様ぁ」
 トリスタン「おー、愛してる愛してる、イゾルデがボクか、トリスタンがキミか分からないくらい」
 イゾルデ 「Me, too」
 メロート「おっと、不倫現場発見!!」
 マルケ「なんちゅうことしてくれんねん」
 トリスタン「お詫びにわざと切られまーす」
これだけの内容を、実に 80分かけて延々歌い続けるのだ。どうですかねこれ。ちょっと長すぎやしませんか!! それから、演奏会形式ということで、歌手は時折水分を補給しながらの歌唱であったが、例えば、第 3幕大詰め、いよいよイゾルデが最後の絶唱、「愛の死」に入る直前に、侍女ブランゲーネが強く呼びかけるシーンがあるのだが、「イゾルデ様! 愛しい姫様! 忠実な侍女の言うことが聞こえませんか?」とド迫力で詰め寄るとき、イゾルデ役の歌手が、それを一切無視して、「さあいよいよ最後よ」とばかり水分をチュウチュウ吸うのを見て、ブランゲーネが、「おい、聞いとんのかい、ワレ!!」とイゾルデをドツくのではないかと、見ていてハラハラしたものだ (笑)。

冗談はさておき、バーンスタインがバイエルン放送響とこのオペラをライヴ録音したとき、確か、各幕で 1回のコンサートであったはず。1日のコンサートで全曲は、ちょっときつかったというのが本音。但し、聴き通す忍耐を持った人間にとっては、なかなかに充実した内容であったと言ってよいと思う。次は舞台で見たい。

by yokohama7474 | 2015-09-07 01:03 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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私がこのブログを書いているのは、まあひとつは最近物忘れが激しいので、備忘ということもあるのだが (苦笑)、もうひとつ、一応目標としていることがある。それは、大それたことのようだが、東京をはじめとした日本で、その時その時に触れることのできるいろんな文化を書きとめることで、私たちがどのような社会に暮らしているのかについて、ほんの断片的であっても考える材料を提供したいということだ。もちろん、自分に興味のあることしか書けないので、大変偏りがあるのは事実だが、たまたま同じ興味をお持ちの方にご覧頂ければ、少しは「ほー」とか「へー」とか、あるいは「それは違うだろう」と思ってもらえるかなと期待しつつ、日夜執筆に励んでおります。

さて、今回取り上げるのは、東京交響楽団がその本拠地である川崎のミューザで定期的に行っている、「モーツァルト・マチネ」というイヴェントだ。マチネとは、ご存じの通り、昼の公演のこと。このシリーズは、非常にユニークなことに、休日の午前 11時から、休憩なしで 1時間くらいで聴けるお手軽コンサートである。お手軽と書いたが、なんのなんの、演奏者は一流だ。今回はこのオケの音楽監督、名指揮者ジョナサン・ノットが登場した。

このブログでいろいろご紹介している通り、日本のオケは、全般に演奏水準がメキメキ上がっているだけではなく、それぞれにユニークな活動を展開して来ている。川崎という、それなりに賑やかだけど、まあ一般的なイメージでは正直クラシックが似合うとは言い難い庶民の街 (失礼ながら・・・) において、こんな素晴らしいホールでこんな素晴らしい催しがあって、来ている人たちがみなとても楽しんでいるのが、何より嬉しいではないか。在京のオケでも、本拠地といえるホールを持っているのは、この東京交響楽団と、すみだトリフォニーホールを本拠地とする新日本フィルくらいであるが、今日のような演奏会に接すると、本拠地で練習も本番もできるメリットを活かし、地元の人たちに愛好されていることの価値を思い知るのだ。

指揮者のノットについては以前にもご紹介したが、世界各地で大活躍のイギリス人中堅指揮者。
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もともと現代音楽で名を上げたので、今回のような古典はいかがかと思いきや、アンサンブルの基本をしっかり踏まえた、純度の高い Intimate な音楽を聴かせてくれて、なんとも心が豊かになった気がする。曲目はモーツァルトの以下の 2曲。

 ヴァイリンとヴィオラのための協奏交響曲変ホ長調K.364 (Vn : 水谷 晃 / Vla : 青木 篤子)
 交響曲第25番ト短調K.183

モーツァルトの協奏交響曲は、この弦のものと、管楽器をソリストにしたものがあり、どちらも素晴らしい名曲だ。もっとも、管の方は復元楽譜しかなく、モーツァルトの真作であるか否か分からないとされている。その点、この弦の方がより愛好されている。よくオーケストラの首席奏者 2人がソロを務めて演奏され、今回もそのパターンだ。ソリスト 2人は、ソロの場面以外はオケのパートも弾いており、そのあたりも、気心の知れた仲間の演奏という雰囲気で、なかなかよい。ノットの指揮は予想通り、重く引きずることのない清澄な音できびきびと進められ、パート同士の掛け合いも誠に楽しいものであった。欲を言えば、ソロの 2人がもっと目を合わせ、呼吸を合わせて演奏してくれればもっとよかったが、若い男女なので、ちょっとばかり照れがあったのかも (笑)。

モーツァルトの時代、器楽曲が短調で書かれることは非常に稀で、交響曲では、この 25番と、よく知られた 40番の 2曲。ピアノ協奏曲も、20番と 24番の 2曲のみだ。いずれも最高の名作ばかりだが (もしご存じない方がおられれば、騙されたと思って全部聴いてみて頂きたい)。25番は、29番と並んで中期の交響曲の名作であるが、改めて聴いてみると、その疾走感は、後年の 40番との共通点が多い。但し、40番はさすがに作曲者晩年の神がかり的境地を示すのに対し、この 25番は、若さゆえの夢想された哀しみと、その裏にある安らぎが交錯して、宝石のように美しい。シュトルム・ウント・ドランク (疾風怒濤) とはこの時代の文化を表す用語であり、ハイドンにも短調のシンフォニーの名曲があるが、ハイドンの人間性に比べると、モーツァルトのアポロ性というべきものが際立っているのが分かる。このミューザ川崎の 1階席はすり鉢状になっていて、本当に最高の響きが鳴るのだが、この曲でのヴァイオリンの左右対抗配置を聴いていると、第 2ヴァイオリンが、ある時は第 1ヴァイオリンとハモっていることもあれば、またある時は、第 1ヴァイオリンの奏でる旋律をチェロ・コントラバスと同じ音型で支えることもあることがよく聞き取れ、まさに室内楽のように響く。
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この 2曲の編成には共通点があって、ティンパニとトランペットが使われていないことだ。時代の制約で、もちろんクラリネットやトロンボーンもない。つまり、ホルンとオーボエ、あとは交響曲 25番にファゴットが入るくらいだ。ああなるほど、祝典的な要素の代わりに、気心の知れた者同士での気持ちの通じ合いこそが、このマチネのテーマだったのだ。川崎市は、実はザルツブルク市とは姉妹都市。ザルツブルクに生まれた天才モーツァルトも、遠く離れたこの川崎でこんなに質の高いコンサートが開かれていることを知ったら、さぞや喜ぶことであろう。本当に有意義な日曜の昼になった。

by yokohama7474 | 2015-09-06 23:35 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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もしクラシックにあまり興味がない人でも、名前を覚えておいて欲しい指揮者がいる。山田 和樹。1979年生まれなので、今年 36歳ということになる。その活躍ぶりにはまさに目を見張るものがあり、今後ますます活動の幅を広げて行くことが期待されるし、何より、小難しいことを言わず、でも同時に通も唸らせるようなマニアックなことも、その童顔で文字通り涼しい顔でやってのける、そんな逸材だ。覚えておいてきっと損はないと思う。

日本フィルの正指揮者として彼が今回取り組んだのは、別宮 貞雄 (1922 - 2012) の交響曲第 1番。このオーケストラの意義ある活動のひとつとしてよく知られているのが、初代音楽監督であった渡邉 暁雄の提唱によって始まった日本フィル・シリーズである。これは現代音楽作曲家にオーケストラ曲を委嘱するというもので、1958年以降既に 39作に及ぶ新作を委嘱、初演してきた。そして今このオケが取り組んでいるのは、過去の初演作の再演である。現代音楽、特にオーケストラ曲は、初演に漕ぎ着けるだけでも大変であるのに、再演されるという機会はほとんどないのが実情である。集客の点でリスクを抱えながらも、そのような意義深い活動を地道に行っているこのオケの姿勢は、高く評価されるべきであると思う。委嘱作の再演はこれが 9作目である由。

今回のプログラムは実に凝っている。メインの別宮 貞雄の作品に至るまで、まず、作曲者が学んだフランスのダリウス・ミヨーの代表作のひとつ、バレエ音楽「世界の創造」作品 81 を置き、そこで登場する 23歳の若きサックス奏者、上野 耕平にソロを受け持ってもらうべく、イベールのアルト・サクソフォンと 11の楽器のための室内小協奏曲を加え、そして、別宮が終生尊敬したベートーヴェンの交響曲第 1番ハ長調作品21を持ってきたというもの。

私は特に熱心な別宮のファンではないが、その交響曲の CD は Fontec レーベルのものを何枚か持っていて、今回も、交響曲第 1番は手元にあるだろうと思って調べたところ、3番、4番、5番の 3曲だ。おっとー、1番はないか。と思ってあとでよくよく考えたら、NAXOS の日本の作曲家シリーズで持っていましたよ。交響曲 1番と 2番。これで、この作曲家の交響曲はすべて手元で聴けるということになる。
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別宮は、東大の理学部物理学科を卒業後、同じ大学の文学部美学科を再度卒業したという異色の学歴を持つ。パリ音楽院でダリウス・ミヨーやオリヴィエ・メシアンに学ぶ。これは貴重な、師ミヨーとのツー・ショット。
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詳細は省略するが、私はミヨーの音楽が大好きで、特に今日演奏される「世界の創造」は、学生時代に毎日のように聴いていた頃がある、思い出の曲だ。こういう機会に実演で聴くことができて、本当に嬉しい。また、イベールの洒脱味も独特のもので、若い上野のソロで活きのいい演奏を聴くと、なんともワクワクして来るのである。

メインの別宮の交響曲は、非常な熱演であった。作風は、最初の楽章はショーソンの交響曲風かと思ったが、抒情的に歌うところもあった。「なげき」と題された第 3楽章は、なかなかあなどれない深さと厳しさを持つ曲であったし、終楽章は、(山田がプレトークで語った通り) ショスタコーヴィチ風だ。山田は、常にめりはりをはっきりさせた明確な音楽を紡いで行く。過去の作品を継承する責任感と同時に、音楽を奏でる歓びにあふれる演奏であった。
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さて、この日の真の驚きは、ベートーヴェンである。21世紀のベートーヴェンは、小編成でキビキビと演奏されるのが通例。もし大規模オケで思い入れたっぷりにテンポを揺らそうものなら、指揮者の知性が疑われるような時代である。それを山田は、コントラバス 8本、管楽器は通常の倍の大編成でやってのけたのだ。実際、今までの人生で私自身、この曲をこれまでに何百回聴いてきたか分からないが、こんなに個性的な演奏にはついぞお目にかかったことはない。第 1楽章では、提示部を反復しつつも、ベートーヴェン特有の畳み掛ける音型を強調し、管の絡み合いと弦の推進力が絶妙。第 2楽章では、なんとなんと、冒頭の第 2ヴァイオリンがソロで始まって、その後ヴィオラ、チェロもソロとなり、木管との掛け合いの後、第 1ヴァイオリンが入るところで初めて合奏になっていた。そのような版の楽譜があるのであろうか。はたまた、音楽の展開を効果的にするための独自の変更か。いずれにせよ、これまで聴いたことがない!! (終演後に第 2ヴァイオリンの首席奏者を立たせていた) 第 3楽章は比較的スムーズであったが、やはり弦と管の掛け合いが顕著。そして、とどめの驚愕は第 4楽章だ。冒頭の和音が延々と延ばされ、まるで第九の "vor Gooooooot!!" のフェルマータかと思った (笑)。それから主部に入って音楽が走り続けるまで、音が止まってしまうくらいテンポを落とすのだ。言ってみれば昔の指揮者の芝居がかった音楽のようでもあるが、でもそこには不必要な音の粘りはなく、どんなにいじっても不潔な感じがしないのだ。これぞ指揮者の能力の見せどころ。山田の手腕はまさに天才的だ!!

この人、現在 3年がかりで進行中のマーラー・シリーズでもそうなのであるが、演奏前にプレ・トークをすることが多い。今回は珍しい作品が多いこともあり、ひとりで舞台に出てきて、20分くらい楽しそうに喋ってくれた (ステージマネージャーが舞台まで巻きを入れに来たくらい 笑)。このベートーヴェンについては、嬉しそうに、「大きい編成でやります」と言っていた。なんでも、4番のシンフォニーのベートーヴェンによる演奏のパート譜が残っていて、場面によって大編成で演奏したことがそれによって分かるという。確かに、同時代の楽器の性能の限界をもどかしく思っていたであろうベートーヴェンが、現代の進化したオケの大音響を聴くと、手を打って喜ぶかもしれない。原典ばやりの昨今、自分がよいと信じる方法で音楽を奏でることができるこの指揮者、本当に素晴らしいと思う。

プレ・トーク終了時に慌ててカメラを向けたが、去り際のこんな写真しか撮れなかった。まあでも、このプログラムを生で聴くことができた記念として、ご覧の皆様ともシェアさせて頂きます。山田 和樹、是非名前を覚えて頂きたい。
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by yokohama7474 | 2015-09-06 00:38 | 音楽 (Live) | Comments(0)

この日、2015年 8月29日 (土) の朝、松本市内の某ホテルの殺風景な一室に、一生懸命「から騒ぎ」の脚本を読む一人の男性がいた。しばらく前からこの本を鞄に入れて持ち歩いていたくせに、最初の数十ページ以降全然読み進めることなく、この日の朝になってようやく読む決意を固めたらしい。折しも 8月も既に終わりに近づき、あたかもこの男性が幼少の頃、夏休みの宿題をぎりぎりになるまで放置していたことを想起させる・・・。この男性とは、ほかでもない、この私である。これまでの生涯に亘って一度も優等生であったことのない私にとって、もちろん夏休みの宿題など、最後の数日にまとめてこなすものであったし、オペラ「ベアトリスとベネディクト」の原作、「から騒ぎ」は、鑑賞当日に読むものと相場が決まっている。

いや、多少話を面白くするために言っているのであって、本気で受け取られては困る (苦笑)。その証拠に、この珍しいオペラの CD は、ベルリオーズを得意とした大指揮者、コリン・デイヴィスの録音の中古国内盤を事前にオークションで購入して、ちゃんと日本語対訳と首っ引きで鑑賞し、ばっちり予習済だ。もっとも、それとても、この上演を見に行く 3日前のことだったが・・・。ちなみにこの曲の録音は非常に限られており、バレンボイムがドミンゴを起用したものもあるようだが、既に入手困難だし、唯一は、コリン・デイヴィスが同じロンドン響と行った再録音があるが、もちろん日本語対訳などついていない。そんなわけで、この曲の予習としては、曲自体とその歌詞の日本語対訳、そして原作のシェイクスピアの戯曲と、なんとか事前に触れることができたわけだ。これを称して結果オーライという。

ともあれ、この作品、フランス・ロマン主義を代表する大作曲家エクトル・ベルリオーズ (1803 - 1869) が 1862年に完成させたオペラ・コミーク (台詞付のオペラ) である。実は、彼は晩年の 6年間は作曲活動を行っておらず、これがなんと、この作曲家の最後の作品である。それなのに、序曲を除いては、ほとんど全くと言ってよいほど演奏されないのは、一体どういうことだろうか。小澤は以前ボストンでこの曲を取り上げており、今回は久しぶりにこの 2幕物の全曲を指揮すると発表されたが、残念なことに、8月 1日に入院先の病院で転倒、腰を強打して骨折と診断され、やむなくキャンセルとなった。あーあ、せっかくこんなオリジナルの幟まで作ったのに・・・。
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会場入り口には、こんな張り紙が。
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いや実は、そればかりでない。人知れず主役ソプラノまでが降板だ。しかも、代役の歌手の紹介は、プログラムにも入っていない。
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あっちゃー、大丈夫かねこれ。まつもと市民芸術館は、鰻の寝床のように奥行きがあって、入り口からこんな動く歩道に乗って劇場へ。
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さて、会場に辿り着くと、映像で小澤征爾のメッセージが流れている。なんでも、「この度は私の全く間抜けな骨折で」(ママ) 指揮できなくて残念だ。迷惑かけて申し訳ない。1980 年にこの作品をボストンで取り上げて以来、この松本で、サイトウ・キネン・オーケストラと演奏したかったと語っている。
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不幸中の幸いは、この珍しいオペラを指揮する代役の指揮者が見つかったこと。ギル・ローズ。少なくとも日本における一般的知名度はゼロだが、ボストンで現代の交響曲を採り上げる団体、ボストン・モダン・オーケストラ・プロジェクトを立ち上げた指揮者であるとのこと。タングルウッドで学んだという点で、小澤とも縁がある (指導しているはずだが、このビデオの小澤の発言を聞くと、初対面であったようにも聞こえる 笑)。ともあれ、この珍しいオペラに触れることができる貴重な機会だ。
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今回の演出は、フランスの若手、コム・ドゥ・ベルシーズだが、彼は 2012年にここ松本で、オネゲルの「火刑台上のジャンヌ・ダルク」(山田 和樹指揮、主役イザベラ・カラヤン) の演出をした人だそうだ。私は松本でこの作品が上演された 2回とも見ているが、どちらも素晴らしかった。因みにこのベルシーズ演出の「火刑台上のジャンヌ・ダルク」は、近々アラン・ギルバート指揮のニューヨーク・フィルで演奏される由。そこでの語りは、マリオン・コティヤールだそうな。おっとそう言えば彼女はフランス人だ。

今回の上演、結果的には大変楽しいものであった。若干若さを感じさせるものの、安定した歌唱を聴かせたソリストの歌手たち。とぼけた味わいを含めた盛り上がりを、素晴らしい歌声で作り上げた OMF 合唱団。キビキビした運びとともに、抒情的な音楽に寄り添う柔軟性を見せたオケ。ステージセットはご覧の通り。この作品が保養地バーデンバーデンで書かれたことにちなんで、貴族の屋敷ならいろんなところで見かける温室の中でストーリーが進行する。
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このオペラ、原作と比べると、ごくごく単純化されている。原作では、ベアトリスとベネディクト (原作においてはこの 2人の間で凄まじい舌戦が展開するが、オペラではかなり和らいでいる) を含む 2組の恋愛模様の諸々と、狂言回しからなっていたが、ここでは、タイトルロールの 2名がメインで、あとはつけたしのようなもの。またここでの音楽は、数々の大作で派手な演出を好んだベルリオーズとにしては、大音響を欠いている。その繊細さは、作曲者最後の作品に似つかわしい。それから、ここには本当に耳をぞばだてる必要のある曲がいくつかある。例えば、第 1幕の最後に歌われる女声 2重唱は極めて美しく、オッフェンバックの「ホフマンの舟歌」の先駆であるかのように響く。ここで私は興味を持って調べるのだ。この曲と、「ホフマン物語」の間には、20年近くの差がある。実はその間にフランスで、シェイクスピアを原作とするオペラが、少なくとも 2作書かれている。グノーの代表作「ロメオとジュリエット」(1867年) と、トマの「ハムレット」(1868年。私はかつてジュネーヴでこのオペラを見たことがある) だ。これらの美しい作品は、このベルリオーズの作品の影響を受けて書かれたものではないのか。19世紀後半のパリにおけるシェイクスピア受容がよく分かる。

さて、ここで気づくことがある。このフェスティバルで昨年取り上げられたのは、ヴェルディの最後の作品、「ファルスタッフ」。今年はベルリオーズの最後の作品、「ベアトリスとベネディクト」。こうなると、来年はなんだろうか。まさか、プッチーニ最後の作品、「トゥーランドット」ではあるまいな。来年の演目を心待ちにしよう。

by yokohama7474 | 2015-08-30 23:32 | 音楽 (Live) | Comments(0)

日本人指揮者として知らぬ者とてない小澤 征爾が総監督として 1992年に始まった、サイトウ・キネン・フェスティバル松本は、今年からずばり、セイジ・オザワ松本フェスティバルとその名を変えることとなった。背景はよく分からないが、小澤が今年で 80歳を迎えるのでひとつの区切りと位置付けられているようだ。フェスティバルの内容を見ると、これまでと何か変わったようには見えないので、何か政治的、あるいは財政的事情があるのかと勘ぐる必要はなく、ただ純粋に、音楽の世界で文字通り体を張った孤独な激闘を続けてきた偉大なるマエストロの名を将来に引き継ぐとともに (あ、もちろんご本人にもまだまだ頑張って頂きたいが)、サイトウって誰だという人はいても、オザワって誰だという人はあまりいないことから、さらなる知名度アップが企図されたという事情もあるのかもしれない。街中にもこんな、Matsumoto の M の字と、山々の姿をかけたとおぼしき青い旗があちこちに見られる。
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私がこの音楽祭に足を運ぶのは、今回が 7回目か 8回目だが、2011年以降は毎年来ている。それは、小澤の指揮に接することができるのは最近ではここと水戸くらいになってきているからであるが、ここに来ても、さて本当に小澤さんは指揮できるのだろかとハラハラドキドキするのが常である。その点今年は、早々にオペラの指揮を断念したことが伝えられ、あきらめがつくと言えば言える (?) のだが、入院中に転倒して骨折と聞くと、なんとも切ない思いを禁じ得ない。一応、9月 6日のブラームス 4番と、9月 1日の80歳記念コンサートでも一部指揮をすることにはなっているようだが、残念ながら私はどちらにも行く予定はない。

さて、今年はお盆明けから天候不順となり、今日も雨が降ったりやんだり。この音楽祭に来て、このような天候であった記憶がない。せっかくのセイジ・オザワ・フェスティバルとしての初回なのに、なんとも気分が盛り上がらない。コンサート会場のキッセイ文化ホール。以前から思うのだが、この屋根の形は、バイロイト祝祭劇場そっくりだ。
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さて、ロビーに面白いもの発見。去年まではなかったような気がするが、もしその記憶が正しいなら、やはり記念すべきオザワフェスティバルの初回だからということであろうか。ひとつは、小澤家のピアノ。よく彼が自分の半生を語るときに出てくる、戦後すぐに兄弟で横浜から立川までリアカーで運んだという、アレだ。
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それから、1959年、ブザンソン指揮者コンクールで優勝したときの賞状と、その時使った指揮棒。
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それ以外にも、Seiji Ozawa Recordings という新レーベルが発足するとのことで、第 1弾、昨年演奏されたベルリオーズの幻想交響曲が、10月の一般発売に先駆けて、しかも割引価格で売っている!! しょうがない。行きがかり上、買うしかないでしょう。
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さらに、"Seiji 50 to 80" と題する写真集。つまり、50歳から80歳までということで、過去30年間のいろんな情景をとらえている。今まで見たことのない写真がいろいろ入っていて、ちょっと高いが買ってしまいました。但し、いつどこで、場合によっては誰とという写真の説明がないので、資料として見たときには大変残念だ。
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例えばこの 2ショットは、バーンスタイン最後の来日のときか。いやいや、1985年、広島平和コンサートのときかな。この征爾浴衣は、ロストロポーヴィチとの共演のときかもしれない。いずれにせよ、小澤のコンサート後にバーンスタインが楽屋を訪れたのだろう。
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これもすごい。スピルバーグ、ジョン・ウィリアムズ、ヨーヨー・マ。場所は間違いなくタングルウッドだろう。私が行った 2002年にも 2006年にも、同じような顔ぶれが揃ったように記憶するが・・・。
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さて、前置きが長くなってしまったが、今回のコンサートについて語ろう。指揮はイタリアの名指揮者、ファビオ・ルイージだ。昨年この音楽祭でヴェルディのオペラ「ファルスタッフ」を指揮し、今年はオーケストラコンサートに登場のこととなった。外国人指揮者の 2年連続出演は、この音楽祭においては初めてのことらしい。
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この人は、ドレスデン州立歌劇場の音楽監督であったとき、同歌劇場の素晴らしいオーケストラ、ドレスデン・シュターツカペレと何度か来日しているが、若干線は細いものの、大変に流れのよい美麗な演奏を聴かせてくれた。リヒャルト・シュトラウスなど、絶品であった。ドレスデンはその後、クリスティアン・ティーレマンを迎え入れることになり、ルイージとの間は何やら険悪になったように見受けられるが、さて、一体何が起こったものか。どんなに才能のある人でも、職場の向き不向きがあるのですね。サラリーマンと、そこはそれほど変わらない (笑)。

今回の曲目は以下の通り。

ハイドン : 交響曲第 82番ハ長調「熊」
マーラー : 交響曲第 5番嬰ハ短調

このハイドンの曲は、いわゆる「パリ・セット」の 6曲の中のナンバリングではいちばん最初の曲 (書かれた順番は今では番号通りでないことが分かっている)。83番の「めんどり」と並んで、ハイドンのユーモアが随所にあふれる、大変楽しい曲だ。終楽章冒頭のテーマが、ボォーンボォーンという低音で、熊の唸り声を思わせることからあだ名がついたもの。一方のマーラーは、このフェスティバルではほとんど取り上げられたことがない (記憶にあるのは 1番のみ。もっとも、夏の音楽祭ではなく、年末年始にシリーズで演奏される計画はあったが、確か 9番と 2番だけで止まってしまったはず)。マーラーの交響曲でも屈指の人気曲だけに、ルイージの手腕に期待がかかる。ハイドンは竹澤恭子、マーラーは豊嶋泰嗣がコンサートマスターだ。

まずハイドンであるが、ルイージらしい流麗な演奏であったと思う。ただ、このホールは響きがよくないせいか、あるいは私の席 (2階席) の問題か、ちょっと管と弦のバランスが悪いようにも思った。弦の細かいニュアンスが聴き取れないと、ハイドンの無類のユーモアのセンスが活きてこないのだ。楽譜に書かれている音符の数の少なさとは裏腹に、なんと難しい音楽だろう!! あとでも書きたいと思うが、このサイトウ・キネン・オーケストラの今後の課題は、一義的にはいかに優秀なメンバーを維持できるかということにあると思っていて、特に管楽器は、もともと日本人だけでは層が薄い点は否めず、当初から外人が多かったところ、フルートの工藤、オーボエの宮本といったオリジナルの中心メンバーが抜けた今、オケのアイデンティティという点からも、チャレンジが今後も続くだろう。寄せ集め方式でなんとかするしかないのであろうが、まずは優秀な奏者が必要だ。その点、今の管楽器の水準は、最近進境著しい日本のオケよりも更に上で、まずは盤石と言えるだろう。例えばこの曲の第 3楽章でのオーボエは、大概の演奏で無残にもひっくり返り、繰り返しこそは汚名挽回と焦った奏者が、またトチって、もうハチャメチャになるということも時折起こるのだが、今日の演奏では安心して聴くことができた。但し、音量が小さかった点だけが不満。

そしてマーラーであるが、大変面白い演奏であった。というのも、かなり情熱を入れ込み、テンポを落として入念に歌いこむ箇所が随所にあるにも関わらず、いかにもルイージらしく、重々しかったり粘りすぎたりすることが全然なかったのである。冒頭のトランペットは、指揮者によっては奏者に任せきりにするケースもあるが、ルイージはきっちり棒を振り、細かい表情づけも行っていた。あるいは、第 2楽章 (最も重苦しい楽章) では、アクセルとブレーキを頻繁に使い分けて、音の線がチラチラ燃えて行くような濃密な音楽になった。それでも、それはバーンスタインらのユダヤ系指揮者のマーラーとは全く異なる、流れのよいマーラーだったのだ。第 3楽章で朗々たるホルンソロを吹いたのは、以前も N 響の演奏会でご紹介した、もとベルリン・フィルのラデク・バボラク。音の張りといい艶といい、まさに超人的。第 4楽章アダージェットでのハープは、吉野直子がいつもながら大変素晴らしく、ポロンポロンという一音一音が、感情という重みを持った雫が垂れるように、意味深く響いていた。終楽章の熱狂と最後の追い込みも、スタイリッシュでいて感動的。終演後の客席はスタンディングオベーションとなった。

ということで、演奏会自体は大成功。聴衆の中には複数の音楽評論家や、東京でのコンサートの常連の顔も見え、このコンサートにかけられた期待の高さを実感できたが (金曜日なので、一般の人は、会社から有給休暇を取ってのコンサートということだから 笑)、それだけ質の高い聴衆をあれだけ沸かせたとは、素晴らしいことだ。

この音楽祭の方向性を考えたとき、ポスト小澤体制は現実のものとして考える必要ある段階に来ており、もしルイージのような才能ある指揮者が主導的な役割を担ってくれれば、高水準の音楽が維持されるに違いない。だが、この演奏会を聴きながら私が改めて逆説的に思ったことは、この音楽祭の本当の意義は、個々の演奏会の質はさておき、やはり小澤とサイトウ・キネンが演奏することにこそあるのではないかということだ。優れた指揮者と優れたオケの顔合わせなら、世界中にいろいろある。昔のように、超名門オケだけでなく、ローカルでも面白い味を持つオケが、相性のよい指揮者とユニークな活動を展開する例も多い。そんな中、弦は多くが日本人 (必ずしも桐朋でなくてもよい?)、管は外人中心というオケが、外国から指揮者を招いて夏の間だけ集まって地方都市で演奏会をすることで、果たしてどれだけ世界に発信することができるだろうか。東京のオケがそれぞれに飛躍的に能力を伸ばしている中、寄せ集めでできることには、やはり限界があるのではないか。もともとこの音楽祭ができたときに小澤がよく言っていた、「斎藤先生はこの箇所をどう教えてくれたっけ」という話ができる、「同じ釜の飯を食った仲間」がやっているからこそ意味があったのであって、その中心が小澤という卓越した存在であることで、ほかにない求心力が生まれていたわけだ。その状況が変わってしまうとき、本当にこの音楽祭の意義を再度考える必要があるだろう。

今から 30年以上昔、TBS がカラヤンとベルリン・フィルの来日の際にシリーズで放送した番組があり、その中で「オーケストラは公園のようなもの。いろんな指揮者が通り過ぎて行ったあとも、公園は残る」という言葉が紹介されていたのを鮮明に覚えている。つまり、メンバーが変わっても、それぞれのオケには引き継がれて行く音の質や伝統というものがあり、いかに優れた指揮者と言えども、それを変えることはできないという意味だ。その点、サイトウ・キネン・オーケストラは、公園ではなくて、座長とともに移動するサーカスのようなものではないか。そのカラヤンの特集番組には、小澤もゲストとして出ていたが、そのことを覚えているであろうか。もし覚えていれば、世界でもユニークなサーカスの座長という役柄を、自らの西洋音楽への挑戦の結論とすることに、どのような思いを抱いているであろう。私自身、これまでこの音楽祭を楽しんできただけに、雨の降る中、車をホテルまで運転しながら、少し複雑な気持ちで、キュッキュッと動くワイパーを見つめていた。

長くなってしまったが、ここで気を取り直して、小澤征爾が 80歳を迎えるに当たって、各界から寄せられた言葉がプログラムに掲載されているので、いくつかピックアップしてみよう。
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こうして見ると、村上春樹はやはり作家だけに、一度書いたものを推敲するのですな。ワープロで書く際には分からない作業です。でも、一度下書きして、推敲してから清書すればよかったのに (笑)。

by yokohama7474 | 2015-08-29 01:46 | 音楽 (Live) | Comments(0)

この日、渋谷で女性率 98% の演劇を見たあとサントリーホールに向かい、実にハードな現代音楽に接することとなった人間は、果たして何名いたことだろうか (絶対 1名だと思う 笑)。
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前日のハインツ・ホリガーの作品に続く、サントリー芸術財団のサマーフェスティバルの演奏会、大野 和士指揮の東京都交響楽団が日本初演したのは、ドイツの作曲家ベロント・アロイス・ツィンマーマン (1918 - 1970) の、「ある若き詩人のためのレクイエム」だ。B・A・ツィンマーマンと言えば、代表作 "Soldaten" (「兵士たち」) が有名 (???) だが、その作品が若杉 弘によって日本初演された 2008年には私は海外駐在中で、見ることが叶わなかった。この作曲家の作品を生で聴く機会は日本では非常に限られるため、今回の演奏は大変に楽しみであった。音楽評論家 長木 誠司の企画で、「拓かれた声 - 禁じられた 声 ケルン 1968 - 1969」と題されている。
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さて、この大野 和士は、今や世界を股に活躍を続ける指揮者で、私も、東京のみならずニューヨークで、ロンドンで、ブリュッセルで、またリヨンで、追っかけのようにして様々な演奏会やオペラを聴いてきた。一言で表現するならば、日本の指揮者の中で、最も知性と冒険心に富んだ人であり、この種の音楽を彼が指揮するとなると、いかに亀梨芝居のあとと言っても、何はさておき馳せ参じなければならない。しかも、現在絶好調の東京都交響楽団の音楽監督に今年就任したばかりだ。おっと客席には、前日の主役、オーボエ奏者のハインツ・ホリガーもいるではないか。亀梨芝居に負けじと、このコンサートもほぼ満席だ (いや、せってない、せってない)。

B・A・ツィマーマンが 50そこそこで自殺してしまった作曲家であるということは知っており、これまで、録音ではその陰鬱な作品のいくつかを聴いたことがあるので、この作品も聴く前から予想していたが、いやはや普通の作品ではない。現在手に入る数少ないこの曲の CD である、ベルンハルト・コンタルスキー指揮のオランダシンフォニアの録音を事前に入手、数回聴いてみたのであるが、やはりこれ、普通の曲ではない。
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前半はほとんどテープ音楽で、なにやら演説 (明らかにヒトラーのものを含む) や朗読が続き、遠くで「トリスタンとイゾルデ」の愛の死が流れるかと思うと、ジャズバンドがズンドコ生演奏し、第 9が一瞬顔を出したかと思うと、突然ビートルズの「ヘイ、ジュード」が鳴り響く。うむ、これは予習をしようとしまいと関係ないな (笑)、と思って当日は開き直って会場に向かったのだが、いや実に大変な演奏会であった。

演奏者のプレトークというものは、時々、実際の開演時間前にステージで行われることはあるが、今回は、演奏会の一部として、開演後に長木と大野の対談が行われ、その後休憩を挟んでこの曲の演奏という構成であった。さすがにこの 2人の会話は質の高いもので、この曲の概要を誰にでも分かるように説明してくれたのであるが、大野によると、「この曲は 1時間くらいなんですけど、オーケストラが本格的に入るのは最後の 20分だけで、僕はそれまでの 40分、進行役なんですよ」とのこと (実際には、これはまたなんとも大変な進行役だ)。また今回は、非常に意義ある試みとして、曲に登場する様々な言葉 (多国語に亘る上、同時並行で進み、実際に聞き取られることは想定されていない) を日本語字幕として、ステージ正面の巨大なスクリーンに投影したのだ。長木は冗談めかして、「中には、読めるもんなら読んでみろという字幕もありまして」と言っていたが、まさにその通り。言葉の迷宮と言ってもよい。それぞれの意味を考える必要はなく、音響として「体感」するしかない。もともとスピーカーを 8台使用する想定らしいが、この日はそれ以上の数が使われていた。

そもそも、ステージ内外に配置された演奏者を見てびっくりだ。オーケストラにはヴァイオリンとヴィオラがない。ピアノは、正面の 2台にジャズバンドのものを加えて、合計 3台がステージに乗っている (それでいて、それぞれの出番は非常に少ないのだ!!)。マンドリンもある。それから、オルガンも一部に参加する。また合唱団は、ホール正面 (P ブロック)、2階客席入り口側の最も手前 (C ブロック後列)、ステージ左右の席 (RB 及び LB ブロック) という 4ヶ所、要するに十字架型に配置されていて、それぞれに副指揮者がつく。テープに加えてこれだけの音響要素が揃うと、なんとも形容できない濃密な時間、ノスタルジーもあるが、また同時に目くるめくような、あるいは痛いような生々しい感覚が、そこに渦を巻いて発生するのだ。これは本当に、「体験する」音楽であって、「聴く音楽」ではない。CD で聴いても全く意味がない。一種のシアターピースと言ってもよいだろう。作曲者はこの曲を 1969年に書きあげ、翌年自殺した。つまり、このレクイエムは、作曲者自身のレクイエムになったわけだ。その意味を考えるとなんとも重い気分に沈んでしまうのだが、実際に音が鳴っているときには、圧倒される瞬間もあったものの、ミサに参加しているような敬虔な瞬間も存在した。凄まじい表現力を秘めた恐ろしい曲だ。
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そのような曲なので、演奏について云々するのは難しいが、大野はこの壮大な作品を、いつもにも増して強い集中力で率いて、実に素晴らしかった。新国立劇場合唱団も、実に豊かな表現力を聴かせた。この作品の実演には、今後もそうおいそれとは接することがあるとは思えない。いや、かなりの確率で、今回が生涯唯一の経験と言ってもよいだろう。そう思うと、この会場に集まった人々の間には、忘れられない絆ができたとも言えるわけである。ちょっと見にくいかもしれないが、プログラムに掲載されている、過去のこの曲の演奏一覧は以下の通り。あの鬼才指揮者、ミヒャエル・ギーレンが初演者で、彼はその後も各地で繰り返しこの曲を取り上げている。歴史上、今回が 38回目の演奏であるが、欧州以外で取り上げられたのは、ニューヨークのカーネギーホールで 1回あるだけで、アジアではもちろん東京が初めてだ。やはりここでも繰り返そう。恐るべし、東京。
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ふと想像してみた。この演奏会の前に行った芝居の脚本家、寺山 修司がこの曲を聴いたらどう思っただろう。好奇心が強かった彼は、きっとこの作品を気に入ったに違いない。寺山の芝居は 1963年の作。この曲は 1969年の作。全く異なる場所で活躍した 2人の芸術家の、ともに 1960年代 (世界に不安が満ちていた時代だ) の作品に連続して触れたことで、私の中に奇妙な化学反応が起こったのかもしれない。私の残りの生涯の中で、その化学反応がどのように影響して来るか、自分でも楽しみだ。寺山の有名な短歌を引いてみよう。

 マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

この曲の朗読に出てきてもおかしくない歌ではないか。

by yokohama7474 | 2015-08-25 00:51 | 音楽 (Live) | Comments(0)

世界で最も有名なオーボエ奏者、いや、人類の歴史上最も有名なオーボエ奏者は、誰だろう。もちろん、ハインツ・ホリガーだ。誇張ではない。空前絶後のオーボエ奏者である。
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若い頃の録音のジャケット写真も載せておこう。
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1939年スイス生まれの彼は、今年 76歳。しかしながら、その衰えを知らぬ活動は驚異的だ。夏の恒例のサントリー芸術財団の現代音楽フェスティバルでテーマ作曲家に選ばれたのも、むしろ遅すぎるかもしれない。ホリガーをご存じない方は、いや、オーボエ奏者としてご存じの方も、彼が多くの作品を生み出している作曲家でもあるということを、悪いことは言わない、この瞬間に認識すべきだ。私はかつて、FM で膨大な現代音楽をエアチェックしたが、その中で、ホリガーの作品に相当数接したものだ。その作風は、まあ簡単な言葉を使うと、前衛音楽。決してなじみやすい、思わず口ずさんでしまうような曲ではない。今回のフェスティバルでは、この室内楽の演奏会と、作曲者自身が東京交響楽団を指揮してのオーケストラ演奏会が開かれ、後者では委嘱作世界初演も行われる。

まあそれにしても、もともとマイナーなクラシック音楽の中でも、さらにマイナーな現代音楽のコンサートのはずなのに、大盛況だ。15時20分開場、16時開演なのに、15時10分には、開場を待つ長蛇の列が。
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しかも、聴衆は、私のようなむさいオッサンばかりかと思いきや、老若男女入り乱れ、まさに大盛況。東京恐るべし。作曲家の一柳 慧や、評論家の舩木 篤也の姿も見えた。

作曲家としてのホリガーは、ハンガリー人 (バルトークの弟子) であるシャーンドル・ヴェレーシュと、あの大御所ピエール・ブーレーズに作曲を師事している。そのルーツを本人は大変大事にしていることを、今回は知ることができた。オーボエは古い楽器なので、バロック音楽にはあれこれレパートリーがある。だが、協奏曲はどうか。モーツァルト 。リヒャルト・シュトラウス。・・・一般に知られているのはそれだけだ。そうなると、自然、新しいレパートリーが必要になる。ホリガーがずっと作曲を続けてきたのには、こういう必然性もあるのではないか。

曲目は以下の通り。演奏者は、ホリガー自身のオーボエに加え、ピアノの野平 一郎 (私、大ファンです)、ヴィオラのジュヌヴィエーヴ・シュトロッセ、クァルテット・エクセルシオなど。

ヴェレシュ : ソナチネ ~ オーボエ、クラリネット、ファゴットのための
ホリガー : クインテット ~ ピアノと 4つの管楽器のための
     トリオ ~ オーボエ (イングリッシュホルン)、ヴィオラ、ハープのための
     トレーマ ~ ヴィオラ独奏のための
     インクレシャントム ~ ソプラノと弦楽四重奏のためのルイーザ・ファモスの詩 (日本初演)

今回聴いて思ったことには、ホリガーの作品の成功は、やはり、不世出のオーボエ奏者である彼が自分で演奏することに大いに依拠しているということだ。つまり、どこの誰とも分からない作曲家が同じものを作曲しても、ここまで聴衆にアピールしないであろう。オーボエは、もともと歌う楽器だ。よって、ホリガーの奏するオーボエは、どんな雑な音にまみれた騒がしい状況にあっても、また、それ自体が汚い音を立てているときですら、常に一本の歌になっている。今回の演奏では、前半 3曲に彼自身のオーボエが入り、後半 2曲には入らない予定であったが、来日するはずのソプラノ歌手が来日しなかったので、最後の「インクレシャントム」は、ソプラノパートをホリガーがオーボエで演奏し、また、一部は詩の朗読をした。怪我の功名、なんともお得な演奏会であった (笑)。結果的に唯一、ホリガーのオーボエのない曲目となった、ヴィオラ独奏のための「トレーマ」は、朗々と歌うところは一切なく、終始音がせわしなく動き回っている曲であったが、そのことによって、歌の不在が強く認識され、聴衆はどこかで幻のオーボエの音を希求する、そんな曲ではなかったか。無機的なような音のつながりから、ほの差す日差しのような旋律を感じた。大変印象的であったのは、最後の「インクレシャントム」の後に、ホリガーによる詩の朗読があったことだ。この曲の詩は、スイスの女流詩人、ルイーザ・ファモスの詩によっているが、その詩が書かれているのは、スイスの地方でしか使用されていない、ロマンシュ語なのだ。ホリガーは聴衆の拍手を遮って、英語で、「こんな奇妙な言葉はおなじみがないでしょうから、ちょっと読んでみましょう」と告げ、6つの詩を読んだのだ。内容は非常に内省的かつ、スイスの澄んだ空気を思わせるようなもので、手元の歌詞を見ながら、ホリガーの読む、ドイツ語のようでもありフランス語のようでもありイタリア語のようでもある不思議な言語の響きを味わった。

終演後に、今回のホリガー特集を企画した、日本を代表する作曲家である細川 俊夫が、ホリガー本人とのトークを行った。ホリガーはドイツ語で話したが、話し出すと止まらないタイプで、要点を簡潔にというわけにはいかない。サラリーマンには不向きだ (笑)。いわゆる「絶対音楽」という言葉には否定的であること。ホリガーの知る限り最もひどいドイツ語で、作曲者自身のみが感情移入できる台本を書いたワーグナーの音楽は、感情過多であり、ナチズムに利用されたという苦々しい思い。戦後、ダルムシュタットを中心とする現代音楽の潮流では、その感情過多の否定から始まったこと。今回のフェスティバルで演奏されるベロント・アロイス・ツィンマーマンとシュトックハウゼンについて。特に前者の素晴らしい才能について。この日の曲目の 1曲目、「クィンテット」についての細かい説明。来週初演される新作が、自作の俳句に基づくものであること。そのもととなった日本体験は、武満 徹に多くを負っており、この作品も武満に捧げること。大変興味深い話を聞くことができたが、同時通訳の女性が、ホリガーの長い話を丹念にメモして、丁寧に訳していたのが素晴らしかった。

というわけで、かなり上機嫌のホリガーと握手する細川。いやはや、東京おそるべし。サントリー財団にはこれからも末永く、この意義深い催しを続けて頂きたい。
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by yokohama7474 | 2015-08-23 00:53 | 音楽 (Live) | Comments(0)

今回のバイロイトでの滞在も、いよいよこのオペラ鑑賞で最後となった。「ニーゲルングの指環」大詰めの、「神々の黄昏」である。

ここで何度も同じことを繰り返しても本当に詮無いことと知りながら、やはり私は言いたい。ある程度前衛的な演出でト書きやもともとの台本の設定を変えることはあってもよいだろう。しかしながら、オペラの場合はどんな演出をしようが、音楽だけは変えられないのだから、その音楽で表されている事象のうち、ストーリーの根幹に関わるものは所与のものと考えるべきであろう。また、読み替えをして斬新な演出をする場合、演出家の意図を観客が容易に読み取れる (たとえ感覚的でもよいので) ようにしなければならない。なぜなら、CD や映画と違い、オペラの場合は同じ演出を繰り返し実体験することは容易にはできないし、ましてやワーグナーの大作をバイロイトのような特別な環境で見ることは、普通の人はそうそうある機会ではない。わざわざこんなに、コスト面でも大きなリスクがあって、実際の上演にも多くの制約のあるオペラなどより、自分のやりたいようにできる演劇か映画を、表現手段として選べばよいのだ。なので、もし、「観客のレヴェルが低いからオレの意図を一度で理解できないのだ」ということを考えるようなら、オペラの演出などやめた方がよい。もっとも、今回の演出家、フランク・カストルフが実際にどんな考え方の人で、どんなことを語っているのか、不勉強にして知らない。少しは誠実な物言いのできる人なのであろうか。

さて、このカストルフ版「神々の黄昏」で、ワーグナーの原作と異なる主要点は以下の通りだ。
・ハーゲンはジークフリートを背後から槍で刺すのではなく、金属バットで正面から殴り殺す。
・大詰め、火事らしきものは起こるものの、水がすべてを押し流すのではなく、ハーゲンが本物の火に向かって淋しげに両手をかざす焚き火 (って、オイオイ!!) をするところで幕となる。
その他、ジークフリートが殺される前にラインの乙女のうちのひとりと車の上で情事に至る点なども、見ていてなんとも不愉快な気分になった。そんなことをすると、主人公に感情移入できず、悲劇が成り立たないではないか。

ついでに前作、「ジークフリート」での同様の点については以下の通り。
・ジークフリートはノートゥングを鍛えるのではなくカラシニコフ銃を組み立て、当然剣を振るって鉄床を叩き切ることはない。
・ジークフリートは森の小鳥 (というより、見かけは夜の蝶だ) の誘惑を受け、ブリュンヒルデと出会う前に鳥と交わる。
・ジークフリートはファフナーを殺すのに、ノートゥングを使うのではなく、カラシニコフ銃で銃殺する (しかも音楽をかき消す大きな発砲音あり)
・ファフナー登場と同時に、大蛇というか、ワニが数匹出て来るが、ファフナーが死んだあと、大詰めでもワニが集団で登場する。なに、あのワニ?
・ジークフリートはミーメを殺すのに、ノートゥングを使うのではなく、ナイフを使って街のチンピラ風に何度も刺す。
・エルダはさすらい人 (ヴォータン) に対して突然オーラルサービスをする (さすがのワーグナーも、そんなシーンは考えもしなかったはず!! 爆笑)。
・大詰め、ブリュンヒルデを目覚めさせて愛を高らかに歌いながらもジークフリートは、森の小鳥を捕まえて屋外でコトに至る。

あーもう、書いていてまたムカついて来た。このうちの幾つかは、見ながら最初は少し笑っていたものもある。しかし、その笑いは凍り付くのが常であった。上記のうちのいくつが、演出上どうしても必要なポイントなのだろうか。私には、ただ原作を曲げることに汲々としているとしか思えない。ワーグナーにはナチ問題が関係するから、とにかくなんでもかんでも否定しようというのか? そんなことは、自分ひとりでおやり下さい。大枚はたいて日本から来た我々が、どんなに深くがっかりするか。いや、日本人だけでなく、ヨーロッパ人でも米国人でも同じこと。過激な表現を使っても、それが 4作の中で織り成すメッセージの一部を必然的に構成するならともかく、今回は 4作を通じて時間的な発展もないし、各楽劇間の演出テーマの共通性も感じられない。追って記事を書く予定の、バイロイトの街中で出会ったオジサンは、「ヨハン・ボータはデカいだろ。だから派手に動けない。なので、『ワルキューレ』だけは動きの少ない演出なんだよ」と笑いながら呆れていた。そういうこと? 演出家のメッセージは一体どこにあるのだろう。

ただ、フェアに言うと、今日の「神々の黄昏」で、ハーゲンがジークフリート殺害の決意を固め、グンターが懊悩する場面などに、演劇的なドラマ性が相当あったことは認めよう。でも、それ以外で理解不能が多すぎる!!

この演出を見ていると、段々歌手の出来もよく分からなくなってくる。ただペトレンコ率いるオーケストラだけが、相変わらず壮絶な音で鳴っていた。この劇場の場合、オケの人は舞台を見ることができないから幸せだ。舞台を見てしまったら、あんな音はきっと出せなくなってしまうだろう。終演後舞台に上がってきたオケの面々。やはり皆さんカジュアルな格好だが、充実したいい顔だ。演出家はカーテンコールには参加しなかったので、ブーの嵐が飛ぶことはなかった。
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それから、最初の 2作に合わせ、後半 2作のキャストの写真も貼っておこう。
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ところで、今日の終演後、私がバイロイトに来て一週間で、ようやく初めて雨が降っていて少し驚いたが、きっと天の神が、「おいおい、このオペラは最後は洪水で終わるんだよ。なに焚き火して終わってんだよ。しょうがない、ワシが雨を降らせて、ちゃんと結末をつけてやろう」ということで、恵みの雨をふるまってくれたに違いない。焚き火して終わる「神々の黄昏」、ありえないでしょう???

バイロイト滞在の総括は追って記事にします。

by yokohama7474 | 2015-08-15 11:10 | 音楽 (Live) | Comments(2)

いきなり個人的な話で恐縮だが、まあそもそもブログなんて個人的なことをダラダラ書きつづるものだし、個人的なことを書いて何が悪いと開き直る手もあるのだが、最近、日によっては 3ケタのびっくりするような数のアクセスがあることもあり、一応世界の片隅であれこれ無責任にわめいていることがいろんな人に見られてしまうことを考えると、やはり少し断った方がよいかと思ったりもするのだが、要するに、2015年 8月13日は、私の 50回目の誕生日であったのだ。実は今回、バイロイトに行きたいと思ったのも、この人生の折り返し点 (もっと来ているって 笑) で、究極のド M 体験をしてみるのも何か新しい発見があってよいのではないか、ということもきっかけのひとつであった。何はともあれ、家族友人上司部下、先輩後輩、恩師 (ってあまりいませんが)、その他ご縁のあった皆々様に感謝して、これからも精進して参ります。

というわけで、8月13日である。今から 139年前のこの日、1876年 8月13日に、ここバイロイトで何が起こったかご存じでしょうか。実は、ルートヴィヒ 2世臨席のもと、ハンス・リヒターの指揮で「指環」の全曲初演の、まずは「ラインの黄金」が演奏された日なのだ。やはり私は、生まれながらにして指環と何らかのご縁があったのだ!! 因みに今調べてみると、この初演には、リストはもちろん、ブルックナーやチャイコフスキーも聴衆の中にいたらしい。ブルックナーがワーグナーの心酔者であることは周知だが、チャイコフスキーとワーグナー、また、チャイコフスキーとブルックナーなんて、言葉を交わしたのだろうか。

さて、今回は私の 50歳を記念して、バイロイト音楽祭が特別に新プロジェクトを用意してくれた (わけない)。現在の音楽祭総監督のひとり、カタリーナ・ワーグナー (御大ワーグナーのひ孫で、前総監督のウォルフガンク・ワーグナーの娘) が新演出した、「トリスタンとイゾルデ」だ。1978年生まれと、まだ若いカタリーナさんだ。
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そしてなんといっても、指揮が今や中堅の超カリスマとして押しも押されぬ地位を獲得した、クリスティアン・ティーレマン。
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今年のバイロイトでも抜群の人気を誇る公演で、チケットの争奪戦となった模様。そんな中、代理店が頑張って確保してくれたのは、なんとなんと、かぶりつきの席だ。正真正銘、最前列だ。最高の誕生日プレゼントになりました。ただ、バイロイトのチケットは記名式で、私のもらったものには、ザールブリュッケンに住むなんとかミューラーなんとかさんの名前が入っている。まあ、どうひいきめに見ても、私はザールブリュッケンのなんとかミューラーさんには見えないので (笑)、ちょっと緊張したものの、全く問題なかった。当然チケットの合法的な流通市場のある国なので、問題はあるわけないのだが、バイロイトはちょっとうるさいという話を聞いたことがあったので、若干の心配はあったものの、杞憂でした。

泊っているホテルの近所に映画館があって、この公演のポスターが貼ってある。どうやら、いわゆるライヴ・ビューイングで、劇場でリアルタイムで見られたようだ。確か、上映時間「360分」と書いてあったはず。さすがにこの長いオペラも、正味 6時間はなく、うち 2時間は休憩だ。でも実際、16時に始まって 22 時頃の終了だったのだが、映画館にいる人は、休憩の間どうしているのでしょうか。以下は恐らく、インターネット中継の宣伝でしょうか。
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まずは最前列ということで、オーケストラピットがどうなっているかをまじまじと観察。オケ自体は舞台下の穴倉のようなところに入っているが、客席に面して、かなり高さのある土饅頭のような形状の覆いがあって、それがゆえに、指揮者の姿も客席から全く見えないようになっている。そして、今回目撃できたことには、楽団員も (そして、モニターを見た人によると、指揮者も) T シャツ、短パンというラフな格好での演奏だ。そうでないと、暑さで参ってしまいますな。ピンボケながら、少しイメージを持ってもらえれば。
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同じツアーに参加している人たちも、「指環」の演出のあまりのひどさに、この「トリスタン」に期待する声が大きく、私も全く同感だったのである。

今回は趣向を変えて、3つの幕それぞれの舞台装置と、そこでの登場人物たちの動きからご紹介しよう。まず第 1幕は、垂直性を強調した可動式階段の組み合わせ。
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一見してエッシャーを連想したが、プログラムにはピラネージの牢獄の絵が記載されている。なるほど、それならそれで、迷宮のイメージとして、よいではありませんか。私はピラネージは大好きで、以前、マルグリット・ユルスナールの「ピラネージの黒い脳髄」など喜んで読んだことがある。まさか、「ピラネージなんて知らねーじ」とは言わせません。有名です。
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この第 1幕では、トリスタンとイソルデは青い服、それぞれのおつきであるクルヴェナルとブランゲーネは茶色か緑系の服という色合いで、4者があちこち動き回る。ただこれが、例の「指環」の演出ほどではないが、若干うるさい感じが否めない。また、この演出の特色は、主役 2人は、最初から明らかに愛し合っていて、あろうことか、薬を飲む前から抱き合ってチュッチュするのである。おいこら、まだ早いだろ、と思っていると、毒 (= 実は媚薬) を飲むはずのシーンは、これだ。
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おいおいおい、こぼしてどうするよ。もったいないなぁ。要するにこの二人、死ぬつもりが惚れ合う仲になるという本来の設定を離れ、自分たちの意志で愛を貫こうとするらしい。そのような設定変更によって、何か劇的な説得力ありますかね。ロマン性が薄れて、私はあまり好きではないですけどね。ま、「指環」に比べたらこのくらい、まだかわいいものだ。因みにこの日の演奏では、鳥だかコウモリだかがステージに紛れ込んでいて、時折舞台の上の方を横断するなど、偶然とはいえ、なかなか面白い効果があった。

第 2幕がまたユニーク。高い塀に囲まれた、どうやらこれも別種の獄のような場所で、上から監視されている中、トリスタンとクルヴェナル、イゾルデとブランゲーネがぶち込まれてくる。舞台上には、以下のような、何やら駅の近くの自転車置き場 (笑) のような金属の半円が。
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これが立ち上がったり、肋骨の部分が開いたりと、あれこれ動いて、例えばこんなふうに。
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うーん、これは何を表しているのだろう。この第 2幕、ひたすら夜の静謐で濃密な音楽が続くので、あまり小細工は必要ないように思った。因みにマルケ王はこんな人。
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そして第 3幕は、全編紗幕を下ろしたまま、非常に薄暗いシーンに終始する。そしてイゾルデを待つトリスタンの前に、このような幻想のイゾルデが三角形の中に次々現れる。
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あるイゾルデは、自分で首をもいだり、またほかのイゾルデは、全身が溶けてしまったり、あるいは顔から血を流したりと、これでもかとばかりトリスタンの抱くイゾルデのイメージが崩れて行く。ただこれも、一体どんなメッセージが込められているのか、今一つピンと来ない。そして最後、息絶えたトリスタンがストレッチャーのようなものに乗せられているのに、それを抱き起して、死体と並んで座って「愛の死」を歌うのだ。
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私には頑迷で乱暴なひとつの持論があって、オペラの演出家で紗幕を多用する人は、才能がないということなのだ。それはそうではないか。演出家には無限のパレットが与えられているのに、ただ薄暗くしたいというだけで紗幕を使うなんて、安易すぎる。ごく一部ならともかく、1幕を通してそれをやられると、観客は白けてしまう。実は日本にも紗幕を多用する演出家がいて、その人の舞台を何度か見たことで確立した持論である。今回、久しぶりにそれをやられてしまった。

そもそもオペラの演出とは、そんなに奇抜なことを考えなければならない業務だろうか。バイロイトの場合は、いろんなくびきの中での活動ということになるので、勢い奇をてらった演出になるのか。それとも、この程度では、奇をてらっているとは言えないのだろうか。

純粋に音楽面だけを見ると、やはり瞠目すべき演奏であったことは間違いない。オーケストラに至近の席であったため、足元に音による振動が伝わってきて、興奮した。ティーレマンの指揮はやはり只者ではなく、滔々と音が流れる中にもあれこれと起伏があって、大きな生き物のようなオケを自在に操る魔術師さながらの手腕であった。

主役 2人は、かなりの高水準を示したと思う。トリスタンのスティーヴン (ステファン?)・グールドは、ワーグナー歌いとして活躍の場を広げているが、そういえば新国立劇場での大野和士指揮の鬼気迫る演奏でも、トリスタンを歌っていた。今回も安定した歌唱であったと思う。一方のイゾルデ、エヴリン・ヘルリツィオスも、実は昨年の新国立劇場で飯守泰次郎新音楽監督が名刺代わりの一発で上演した「パルシファル」で、クンドリを歌っていた。クンドリはかなりよかったと思ったが、今回のトリスタンでは、ここぞというときに強い声は聴けたが、ややむらのある感じも否めなかった。それにしても東京は、バイロイトで歌う歌手が練習 (?) として歌う場なのだろうか。なんであれ、上り坂の歌手たちが東京で歌う機会が増えていることに感心する。ただ、とは言っても、同じ演奏家を聴くにも、やはりヨーロッパで聴くことには違った価値があるものだ。かぶりつきでカーテンコールを見ながら、日本とヨーロッパの実際の距離について、ぼんやりと考えていた。あ、それから、指揮者は T シャツ短パンだったはずなのに、いつ着替えたのか・・・ということ。
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ともあれ、結論は、課題は多々あれども、なかなかに凝った演出で、とてつもないオーケストラの音ともども、聴衆としてのよい経験となった。思い出に残る誕生日となった。


by yokohama7474 | 2015-08-15 08:29 | 音楽 (Live) | Comments(4)

「ニーベルングの指環」4部作のうちの 3作目、「ジークフリート」。正直に言おう。この公演の演出は、私がこれまでに見たオペラの演出の中で、文句なしに最悪のものだ。何がどうおかしいかを細かく書いてみようかと思ったが、やめておこう。私はこの演出、間違っていると思う。吐き気がする。前にも書いたが、こんなことをするくらいなら、オペラの演出なんてしないで、オリジナルの芝居の脚本を自分で書くか、映画でも作ればよい。終演後のブーイングも大変なものであり、聴衆の総意は明らかであるように思われる。ただこの種の演出家は、そんな悪評は一切意に介さない強靭さを持っているのが通常だが、さて、一体本人は、この演出に意義を見出しているのであろうか。「オレの演出、すげーだろー」などと思っているのだろうか。一度訊いてみたいものだ。パトリス・シェローとピエール・ブーレーズがバイロイトでこの「指環」を演奏したときにも大変なブーだったと聞いているが、当初から高く評価する声はあったし、今では伝説的公演となっている。それに引き換え、この演出はそうはならないだろう。どなたか、賭けをしませんか。

但し、ペトレンコの音楽の表現力だけは相変わらず凄まじく、大詰めでブリュンヒルデが目覚める前の音楽の高まりと、そこから持続した濃密な時間は大変なもの。ジークフリートのシュテファン・フィンケと、(「ワルキューレ」ではそれほど印象に残らなかった) ブリュンヒルデのキャサリン・フォスターの 2人も圧巻であった。

画像なしに悪口だけでは淋しいので、一応本作の舞台写真を使った現地発行の雑誌の表紙を掲載しておく。マルクス、レーニン、スターリン、毛沢東。なんですかねこれは。
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by yokohama7474 | 2015-08-13 08:19 | 音楽 (Live) | Comments(0)