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ステファヌ・ドゥネーヴ指揮 ブリュッセル・フィル (ピアノ : モナ=飛鳥・オット) 2017年 6月11日 東京芸術劇場

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注目のコンビが来日だ。私が深く尊敬する指揮者、ステファヌ・ドゥネーヴが音楽監督を務めるブリュッセル・フィル。この指揮者については、このブログを始めて未だ日も浅かった頃、2015年 6月 8日の記事において、NHK 交響楽団を指揮した演奏会で採り上げて絶賛した。当時の記事は未だ短いものであったのだが、この川沿いブログはその後膨張しており (笑)、様々な寄り道をしながらも、東京で接することのできる文化の隆盛を地方に海外に、また将来に伝えるべく、心してこの記事を書くこととしよう。

まずはベルギーの首都であるブリュッセル。EU の本部がある都市でもあり、先の空港でのテロにも負けじとヨーロッパの誇りを保ち、文化の灯をともし続けて欲しいものである。
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ベルギーは、いわゆるベネルクス 3国 (ベルギー、ネーザーランド (= オランダ)、ルクセンブルク) のひとつ。もちろんドイツやフランスというメジャーな国とは異なり、文化的にも多様なのであるが、それゆえにこそ、真にヨーロッパらしい存在であると言えると思う。私はこれまでに 3回ブリュッセルを訪れており、そのいずれもが、当時かの地のオペラハウス、モネ劇場の音楽監督であった大野和士の指揮を聴くためのものであったのだが、この街の中心にあるグラン=プラスは、かのヴィクトル・ユーゴーが「世界で最も美しい広場」と絶賛した場所であり、そこに身を置くと、本当に時間を忘れるのである。
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さて、ブリュッセルはそのような素晴らしい街なのであるが、では、ベルギーと聞いて人は何を思い出すだろう。ビール。チョコレート。もちろん。だが人物についてはどうだろう。まず思い出すのは、アガサ・クリスティが創作した名探偵、「灰色の脳細胞」を持つエルキュール・ポワロ。それから実在の人物では、もちろんブリューゲルほかのルネサンス期のフランドル絵画の画家たちもおり、世紀末象徴主義のクノップフ、そしてシュールのマグリット。音楽の分野ではなんといっても作曲家セザール・フランク。それから指揮者では、アンドレ・クリュイタンス。こうして並べてみると、フランスでもないドイツでもない、またオランダとも異なる、ベルギーという国の一筋縄では行かない個性を感じることができる。そんな国のオーケストラとしては、もちろん上述のモネ劇場のオケも素晴らしいが、それ以外ではやはり、ベルギー国立管弦楽団に指を屈する必要があるだろう。上に名前の挙がったアンドレ・クリュイタンスが手塩にかけたこのオケは、2003年に、当時未だ 20代で天才ともてはやされた音楽監督ミッコ・フランクのもとで来日した。だが今回、ドゥネーヴとともに初来日を果たしたこのブリュッセル・フィルはそれらとはまた異なるオケであり、1935年にベルギー国立放送のオケとして発足した。ドゥネーヴは 2015年 9月からそこの音楽監督を務めているのである。

ではこのドゥネーヴ、いかなる指揮者であるのか。1971年生まれのフランス人。ゲオルク・ショルティ、ジョルジュ・プレートル、小澤征爾らのアシスタントを務め、このブリュッセル・フィル以外にも、昨年まで名門シュトゥットガルト放送響の首席指揮者を務めたほか、現在はあのフィラデルフィア管弦楽団の首席客演指揮者でもある。私が過去 2回、彼の演奏に接したところで断じてしまうと、この人こそ、時代を担う巨匠になるべき素晴らしい指揮者だ。
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そのようなドゥネーヴとブリュッセル・フィルが今回演奏した曲目は以下の通り。
 ギューム・コネソン (1970 - フランス) : フラメンシュリフト (炎の言葉)
 ベートーヴェン : ピアノ協奏曲第 5番変ホ長調作品73「皇帝」(ピアノ : モナ=飛鳥・オット)
 ベートーヴェン : 交響曲第 3番変ホ長調作品 55

今回このコンビは全国で 9回のコンサートを開く (東京以外には名古屋、札幌、金沢、姫路、広島、観音寺、福岡) が、そのいずれのコンサートでも、コネソンの「フラメンシュリフト」が冒頭に演奏される。ドゥネーヴとブリュッセル・フィルは最近ドイツ・グラモフォンからこの作曲家の作品集を発売したようで、会場にもその CD のジャケットをあしらったこのような自立式の宣伝が見られた。
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演奏に先立ってドゥネーヴは指揮台でマイクを持ち、このオケの第 2ヴァイオリンの首席である萩原 麻利の通訳で聴衆に語り掛けた。傑作だったのは、開口いちばん、萩原が "Ladies and Gentlemen, good afternoon!" と英語で呼びかけたのに続いて、ドゥネーヴが「ミナサン、コンニチハ」と日本語で喋ったことであった。私はこのようなユーモアのセンスが大好きなので、客席で声を挙げて笑ってしまいました。そしてドゥネーヴが解説することには、このコネソンの曲は、ベートーヴェンとドイツ音楽に捧げられたものであり、冒頭の音型はあの第 5交響曲と同じであるとのこと。そして自分たちが最近コネソンの CD を出したことが述べられ、「終演後にはサインします」との発言もあった (この箇所での萩原の通訳は「終演後に CD をお買い求め頂けます」であったが・・・)。それから、ドゥネーヴが語ることには、来日の直前に難関コンクールとして知られるエリザベート王妃コンクールがブリュッセルで開かれ、チェロ部門で日本人の岡本侑也が 2位に入り、協奏曲の伴奏を自分たちが行ったこと、それから、日本を代表する作曲家、細川俊夫の新作を初演したこと (これは、同コンクールでチェロの課題曲となった「昇華」という曲のことだろう) が述べられた。
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今回の演奏会のプログラムは、ベートーヴェンの作品と、そのベートーヴェンへのオマージュから成っているわけだが、私も今回初めて知ったことには、ベートーヴェンの祖父はブリュッセル近郊の生まれ。彼の名前に入っている van は、確かにオランダあたりに多いもので、生粋のドイツ人のものではない。なるほど、ヨーロッパは誠に一筋縄ではいかないのだ。そして演奏されたコネソンの「フラメンシュリフト」は確かに、フランス的な曖昧模糊としたものではなく、弦がザッザッとリズムを刻むドイツ風の音楽で、かつ華やかさも併せ持つ 10分程度の曲。終演後にドゥネーヴがスコアを抱えて指さしていたのが印象的であった。

次に演奏された「皇帝」では、若手ピアニスト、モナ=飛鳥・オットが登場。1991年生まれだから今年 26歳。3歳年上の姉、アリス=沙良・オットと同じく、ドイツ人の父と日本人の母の間に生まれている。これは姉妹のツーショットだが、向かって右がモナ。むしろ姉よりも大人びた風貌と言ってもよいのでは。
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だが今回の演奏は、率直なところ、姉アリスの演奏レヴェルにはごくわずか届かないような気がしたのは私だけであろうか。非常にきれいな音で長い指が鍵盤を駆け巡るのであるが、この曲であればもう少し力強さが欲しいし、それに伴う山っ気というか、緩急の使い分けがあった方がよかったと思う。その一方、若い音楽家が自らを信じて疾走することは何よりも素晴らしいことであり、今の彼女にできる演奏であったという点には気持ちよいものを感じさせてもらった。今後の活躍を楽しみにしたい。アンコールとして弾いたリストの「巡礼の年『ヴェネツィアとナポリ』」のカンツォーネは、一転して暗い情緒を感じさせる名演であったことから、このピアニストの様々な可能性を感じることができた。

そしてメインの「エロイカ」であるが、これは快速テンポで駆け抜ける爽快な演奏となった。「皇帝」でもそうであったが、ドゥネーヴは指揮棒を持ち、ヴァイオリンの左右対抗配置も取らないが、弦楽器 (コントラバス 6台編成) にはヴィブラートをかけさせず、キビキビとした現代的なベートーヴェンを描き出した。第 1楽章のコーダでトランペットが「行方不明」になる箇所も、この勢いで聴くと気にならないから不思議である。かと言って無味乾燥な演奏ではなく、時にはごくわずかテンポを落としてみたり、第 3楽章スケルツォの中間部のホルン 3重奏もほのぼのとした味わいのものであった。このオケの性能はかなり高く、この気持ちよい演奏の実現においてその性能はいかんなく発揮されたと思う。ただ 1箇所、第 2楽章葬送行進曲の冒頭すぐに弦が細かく刻む場所でずれてしまい、音楽がギザギザな感じになってしまった点が惜しまれた。

アンコールとして演奏されたのは、(ドゥネーヴの日本語まじりの紹介のあと) シューベルトの「ロザムンデ」間奏曲第 3番。ここでは一転して遅いテンポで極めて抒情的な演奏が聴かれ、いかにもロマン派という雰囲気が醸成された。弦楽器を見ていると、ヴァイオリンはヴィブラートなしだが、チェロの一部は朗々とヴィブラートをかけていた。味わい深い演奏だったので、次は是非ドゥネーヴのドイツ・ロマン派が聴いてみたいものだ。

終演後のサイン会は、ピアニストが先に準備していて、指揮者は遅れてやって来ることとなったが、和気あいあいという大変よい雰囲気であった。モナは姉アリスと同様、日本語には全く問題なく、サインを求める人たちに丁寧に応対し、時折やって来る知り合いの人たちとも楽しそうに会話していた。一方のドゥネーヴはまた、きっちりとファンの目を見てコミュニケーションを図っており、サインをしては「ヴォアラ」(フランス語で「はいどうぞ」の意味) などと言いながら、これまた楽しそうであった。これらの写真で、その楽し気な雰囲気が伝わるとよいのだが。
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ベルギーからの初来日のオケと若手ピアニストは、これから地方巡業となる。奏者たち自身、是非日本での演奏を楽しんで頂きたいし、ヨーロッパの現在を我々日本人の前で表現して欲しいものだと思う。

by yokohama7474 | 2017-06-11 23:34 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ワーグナー : 楽劇「ジークフリート」(飯守泰次郎指揮 / ゲッツ・フリードリヒ演出) 2017年 6月10日 新国立劇場

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東京初台の新国立劇場が、現在のオペラ部門の芸術監督である飯守泰次郎の指揮のもとで進めている、ワーグナーの超大作「ニーベルングの指環」4部作の 3作目、「ジークフリート」である。初回の「ラインの黄金」は私も見に行って、2015年10月 2日の記事で採り上げた。2作目の「ワルキューレ」は昨年 10月に上演されたが、残念ながら私は見ることができなかった。そして今回の「ジークフリート」である。尚、新国立劇場では来シーズン (2017 - 18) の開幕演目として、今年 10月に最後の「神々の黄昏」を上演し、飯守体制の締めくくり第一弾とすることになる。これについてはまた後で述べることとしよう。

さて、この上演の意義については以前の「ラインの黄金」の記事に一通り書いておいたので、ここでは簡単に触れるにとどめる。ドイツ人ゲッツ・フリードリヒ (1930 - 2000) は、20世紀の後半において主にそのワ-グナー演出で世界を席巻したカリスマ演出家である。今回新国立劇場で上演されているツィクルスは、彼が晩年にフィンランド国立歌劇場で演出したもの。余談だが、先に来日したフィンランド人の名指揮者エサ=ペッカ・サロネンが近く同歌劇場で「指環」ツィクルスを上演するというニュースがあったが、その演出もこれになるのであろうか。そもそもフリードリヒの「指環」というと、ツィクルスとしての日本初演となった 1987年のベルリン・ドイツ・オペラのもの、いわゆる「トンネル・リング」と言われるものが知られている。以下、その「トンネル・リング」の一場面。全 4作を通じ、このようなトンネルが舞台奥にずっと存在しているというコンセプトであるようだ。今回初台で上演されているものは、これに比べれば随分と穏便な演出であると言える。
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この作品について指揮者飯守が語るところや、今回の上演のリハーサル風景などは、新国立劇場のウェブサイトで動画を見ることができるが、会場にもモニターが設置されてその映像が流れている。
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この飯守リング、世界一流のワーグナー歌手を集めた上演であり、その点こそまずは大きな意義を見出すことができるだろう。今回の主役ジークフリートを歌うのは、テノールのステファン・グールド。ワーグナーファンにとっては既におなじみの名前であろう。
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実はこの人、今回の「指環」4作にすべて出演する。実のところ、これは少し奇異である。「ジークフリート」と「神々の黄昏」でひとりの歌手がジークフリート役を歌うのは普通。また同じ歌手が「ワルキューレ」でジークムントを歌うのも大いにありである。だが、「ラインの黄金」は? そこにはいわゆる英雄的な役、ヘルデン・テノールは登場しないのだ。そしてこのグールドがそこで歌ったのはなんと、狡猾な策士である火の神、ローゲなのである!! 私は以前の「ラインの黄金」の記事でその違和感を述べておいたが、だがしかし、4作すべてに登場する役柄がないこの作品 (ヴォータンですら「神々の黄昏」には登場しない) で、世界的なヘルデンテノールがそのようにしてまで、すべての作品で歌唱を聴かせてくれる東京という街は、恵まれていると解釈しよう。その他の歌手としては、エルダのクリスタ・マイヤー、ブリュンヒルデのリカルダ・メルベートもバイロイト経験豊富なワーグナー歌手たち。
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それから、ミーメのアンドレアス・コンラッド、アルベリヒのトーマス・ガゼリ、さすらい人 (ヴォータン) のグリア・グリムスレイはいずれもこのシリーズで以前同じ役で出演していて、ツィクルス上演の一貫性があることになる。これは大いに意義のあることである。さてそのような恵まれたキャストを使った今回の公演、私の記憶にある 2年前の「ラインの黄金」よりもさらに優れた成果を挙げたものと高く評価したい。飯守はかつてバイロイトで助手を務めた経験から、日本ではワーグナー指揮者としての確固たる名声を保っているが、その彼も既に 76歳。円熟の年齢である。今回の東京交響楽団 (通称「東響」) を指揮しての演奏には、それぞれの示導動機 (ライトモティーフ) を丁寧に描き出そうという意図が明確に見え、オケの高い力量もあって、それが充分に成功していた。プログラムに掲げられた飯守自身の言葉 (これは奇しくも、やはりプログラムに載っているフリードリヒが残した言葉とも共通するのだが) によると、この「ジークフリート」は交響曲にたとえるとスケルツォ楽章であると。もちろん、古典的な交響曲の構成においては、第 3楽章は諧謔味のあるスケルツォなのであり、ワーグナー自身がどう考えていたかは知らないが、確かにこのオペラの第 1幕では、リズミカルで諧謔味のある個所が続く。だが、これも飯守自身が述べている通り、このオペラはまた同時に「指環」4作の中で最も抒情的な箇所も持つのであって、印象派に影響を与えたとされる「森のささやき」や、作曲者自身が「ジークフリート牧歌」として別の曲を書いた優しい主題は、「指環」のほかの 3作には聴かれないものだ。次作で神々が終末を迎える前に聴かれるこのユーモアや抒情性が、この作品を一筋縄でいかないものとしているのである。それゆえ、最後のジークフリートとブリュンヒルデの二重唱は、「まさに幸せの絶頂にあり、音楽的にもドラマにおいても『指環』四部作全体の一つの頂点である」と同時にまたそこには、「より深い意味を孕んだドラマ」があるとする飯守の解釈は納得性が高い。日本のワーグナー受容にも既に長い歴史があるが、東京の劇場でこれだけ音楽的にも知的にも刺激に満ちた上演がなされるようになったことは、一過性のものではない、東京の文化として将来につながるものになったと思うのである。

演出について少し触れておこう。第 1幕は、このような森の前にある鍛冶屋の小屋で展開する。メルヘン調もありながら、登場人物たち (さすらい人 = ヴォータンは上の森の方から現れ、ミーメと屋外のテーブルで対話する) がうまく動ける機動性もあって、よくまとまっている。
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第 2幕はなんといってもファフナーが変身した大蛇退治がメインだが、この大蛇にはおどろおどろしさは皆無。また、森の小鳥は黄、白、赤、緑、青と 5羽出てくる。このうち歌手が演じるのは 4羽 (日本の若手歌手による)、残りの 1羽、青い鳥だけはダンサーが演じた。
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第 3幕ではヴォータンとエルダ、ヴォータンとジークフリート、そしてジークフリートとブリュンヒルデというそれぞれの組み合わせの歌唱が、がらんとした空間で展開する。注目すべきはラストの二重唱であり、上記の飯守の言葉にある通り、これはただの幸せな歌ではなく、死に向かう自暴自棄の歌に変わって行くのであるが、そこで 2人の男女はブリュンヒルデの盾や鎧を放り投げ、その自暴自棄ぶりを明確にするのである。
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歌手の歌唱はいずれも危うげのないもので、特に出ずっぱりのジークフリート役、ステファン・グールドはさすがであったが、だがそれでもやはり彼も人間、大詰めでは少し疲れが見えたか。しかし、実際に舞台でこのような作品を見ると、むしろそのようなことは当たり前。上演全体を目で耳で味わうことが、オペラの醍醐味なのである。

超大作であるから、45分の休憩を 2回挟んで、5時間45分の上演時間。さすがにこれでは腹が減るので、会場には軽く食べられるものが売られていて、なかなか気が利いていた。ジークフリート限定、サンドウィッチ BOX (1,000円) なるものもあったが、私が食べたのはハッシュドビーフ。名前は「鍛冶屋の歌」。600円とリーズナブルだ。
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このオペラハウスは街中にあって敷地も限られているので、工夫して空間を作っているが、満員の聴衆が休憩時間に思い思いに過ごしているのを見ると、東京におけるオペラの楽しみも定着して来ているなと改めて感じた。来シーズンで開場 20周年。飯守体制最後の年となり、その後はいよいよ大野和士に芸術監督がバトンタッチされる。その飯守体制最後のシーズンのオペラ上演のラインナップは以下の通り。
 ワーグナー : 神々の黄昏
 ヴェルディ : 椿姫
 R・シュトラウス : ばらの騎士
 J・シュトラウス : こうもり
 細川俊夫 : 松風 (日本初演)
 オッフェンバック : ホフマン物語
 ドニゼッティ : 愛の妙薬
 ヴェルディ : アイーダ
 ベートーヴェン : フィデリオ
 プッチーニ : トスカ

なかなかバランスの取れた演目だが、この中で私にとっての注目は、細川の「松風」と、それから新演出の「フィデリオ」だ。この「フィデリオ」は飯守自身の指揮で、ノオノーレはリカルダ・メルベート。フロレスタンはステファン・グールド。そう、今回のジークフリートとブリュンヒルデのコンビである。そして演出はあの、カテリーナ・ワーグナー。むむむ。2015年のバイロイトでの「トリスタン」の演出には正直なところ閉口したが、今回はいかに。今からまだ 1年ほど先になるが、是非見てみたいと思う。あ、もちろん、既にチケットを購入している「神々の黄昏」では、ステファン・グールド以外にもペトラ・ラングのブリュンヒルデや、なんと新国立劇場初登場のヴァルトラウト・マイヤーが歌うヴァルトラウテ (端役だが・・・) も楽しみである。「オペラパレス」との名称を持ったこの新国立劇場が、今後ますます東京の音楽文化において欠かせない場所になって行くことを切に希望する。
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by yokohama7474 | 2017-06-11 11:34 | 音楽 (Live) | Comments(9)

タリス・スコラーズ (ピーター・フィリップス指揮) 2017年 6月 5日 東京オペラシティコンサートホール

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このブログでコンサートを採り上げるときには、どうしても私の好きな分野であるオーケストラ、しかもブルックナーやマーラーの大曲が多くなってしまう傾向がある。だが、たまにはそうでないものも聴きたいと思うのが人情。そこで出かけたのが、英国のア・カペラ合唱団、タリス・スコラーズの来日演奏会である。1973年にピーター・フィリップスによって設立され、ルネサンス期の宗教音楽を中心とした活動を展開している。私は Gimmel というレーベルから出ている彼らの CD (ジョスカン・デ・プレとかロシア正教の聖歌など) を何枚か持っているほか、昔エアチェックした FM 放送や BS 放送等のメディアによって、この合唱団が行う異様に美しい演奏にはそれなりに親しんできた。だが、今回実に 16回目の来日を果たす彼らを、これまで生で聴いた覚えがない。いつでも聴けると思ってはいけない。聴けるときに聴いておかないと。これが設立者兼指揮者のピーター・フィリップス。
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そもそもこの団体の名称はどこから来ているのか。タリスというのは、トマス・タリス (Thomas Tallis 1505頃 - 1585)、英国ルネサンス期の作曲家であろう。スコラーズとは Scholars、つまりは学者たちということか。つまり、タリスのようなルネサンス音楽を研究するグループという意味なのであろうか。だが、以前も少し触れたことがあるが、このタリス・スコラーズが本拠を置く英国は、オランダと並ぶ、いわゆる古楽のメッカであって、数々の演奏家が活動しているわけであり、やっている人たちの学歴も軒並み高く、知性は感じさせるのだが、彼らの演奏の内容は、学究的というよりは実に活き活きしていることが多い。とても学者さんの研究目的の音楽ではないのである。このあたりに英国特有の屈折というか、ユーモアがあるという見方もできるだろうが、何はともあれ、このタリス・スコラーズの歌唱を一度でも聴いてみれば、そこに音楽の喜びが溢れていることを感じない人はいないだろう。もし全くご存じない方がおられれば、手っ取り早く YouTube で検索頂くことをお勧めする。この合唱団の澄んだ歌声の宗教音楽が、日常生活に疲れた心と体を、存分に癒してくれることだろう。例えば、今回も歌われたアレグリの「ミゼレーレ」。
https://www.youtube.com/watch?v=xpzdB0G3TJU

今回彼らは西宮、東京、札幌、名古屋、長野で、2つのプログラムによる計 6回の演奏会を開く。今回私が聴くことができたのは東京での 1回目で、チケットは完売。曲目は以下の通り。
 トマス・タリス (1505頃 - 1585) : ミサ曲「おさな子われらに生まれ」
 ウィリアム・バード (1540頃 - 1623) : めでたし、真実なる御体 / 義人らの魂は / 聖所にて至高なる主を賛美もて祝え
 グレゴリオ・アレグリ (1582 - 1652) : ミゼレーレ
 クラウディオ・モンテヴェルディ (1567 - 1643) : 無伴奏による 4声のミサ曲
 ジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ (1525頃 - 1594) : しもべらよ、主をたたえよ

この演奏会にはタイトルがあって、「エリザベス 1世の英国国教会音楽の黄金時代と≪モンテヴェルディ生誕 450年記念≫」というもの。ここで簡単な頭の整理だが、西洋で「音楽の父」と呼ばれ、バロック音楽を集大成したヨハン・セバスティアン・バッハの生涯は 1685年から 1750年。ということは、上記の作曲家たちはバッハよりも 100年以上前に生まれた人たちばかりである。どれほど古い音楽であるかが分かろうというものだ。コンサートのタイトルにある通り、前半のタリスとバードは英国、エリザベス朝 (1558 - 1603) に活躍した作曲家たち。シェイクスピアと同時代人たちと言ってもよい。それに対して後半のアレグリ、モンテヴェルディ、パレストリーナはすべてイタリアの作曲家たち。実際に聴いてみると、やはりイタリアの作曲家たちの方が変化があって気が利いているように思える (笑)。

だが私は実は、トマス・タリスの音楽が大好きで、そのきっかけはもちろん、ヴォーン・ウィリアムズ作曲の美しい曲、「トマス・タリスの主題による幻想曲」であったのだが、私の手元には、10枚組の廉価なトマス・タリス全作品集という CD ボックスがある。
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これを見ると、CD ごとにタイトルがあって、例えば「ヘンリー 8世のための音楽」「宗教改革のための音楽」「メアリ女王のための音楽」「エリザベス女王のための音楽」等々とある。そうなのだ。このタリスは大変長生きで、英国の歴史を変えたあのヘンリー 8世による英国国教会設立 (ローマ・カトリックからの離別) の時代から、その息子で若くして亡くなったエドワード 6世、カトリックに復帰したメアリ 1世、そして、ヘンリー 8世の娘であり、英国国教会に戻ったエリザベス 1世にそれぞれ仕えた人なのだ。同じキリスト教でも、カトリックであれば典礼はラテン語だが、国教会になると英語が使われたらしい。なんとも忙しい時代であった。今回歌われたタリスの曲、そしてバードの曲はいずれもラテン語であった。そして後半の曲目はイタリアの作品だから、これらもすべてラテン語。

このタリス・スコラーズは 10名の歌手から成っている。普通、いわゆる古楽の団体でもア・カペラの合唱団だけというのは珍しいと思う。今すぐに思い出すのは、ほかにはヒリヤーズ・アンサンブルくらいしかない。この時代の音楽はいわゆるポリフォニーと言って、日本語では多声音楽というのだろうか、様々な声部がそれぞれに進行して行く音楽で、いわゆる主旋律と伴奏からなるホモフォニーとは異なる。この合唱団の歌を聴いていると、理屈でなくそのことが実感できる。なにせ、それぞれの歌手の声がすべて同時に響き、同時に聞こえるのだ。溶け合いが美しいとは言えるが、それぞれのパートがくっきりと伸びあがって行き、声の線と線が絡み合う点にこそ、この種の音楽の素晴らしさがある。その音の線の絡み合いを耳にすると、私のような不信心な人間でも、自然と宗教的な感興が沸いてくるのである。メンバー 10名の内訳は、ソプラノ 4名、アルト 2名、テノール 2名、バス 2名である。だが、これによって女 6名、男 4名と思うとさにあらず。舞台を見ると女と男がそれぞれ 5名ずつなのである。そのヒントは、6/3 (土) に聴いた鈴木秀美指揮新日本フィルの演奏についての記事で、北十字さんからのコメントを頂いて私も気づいたように、このような古い音楽においては、男がアルトパートを歌うことがある。いわゆるカウンターテナーの一種である。これがタリス・スコラーズの面々。指揮者のフィリップスを除くと、確かに男女 5人ずつなのである。
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今回の演奏会では、アンコールが 2曲演奏された。まず、指揮者のピーター・フィリップスが挨拶。いわく、この素晴らしい場所 (彼は "Hall" という言葉を使わず、"Building" と言った。つまり東京オペラシティ・コンサートホールという空間そのものを指していたのだろう) に戻って来ることができて大変嬉しい。明後日また違うプログラムでも歌いますし。と、そこで手に持った本を掲げ、タリス・スコラーズの活動の歴史について私は本を書きまして・・・。それはこのような本 (カバーを広げた写真) で、会場でも売られていたが、翻訳ではなく原書だけであった。タイトルは "What We Really Do"。つまり、「我々が本当にしていること」。
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それから唐突に、今年はモンテヴェルディ生誕 450年なので、アンコールとして、この作曲家の Cantate Domino という曲を歌いますと説明した。そして、鳴りやまぬ拍手に続いてもう 1曲。イタリアの作曲家、アントニオ・ロッティ (1666 - 1740) は、Crucifixus (十字架にかけられ) を何曲か作曲していて、2日後には 8声のものを歌うが、ここでは 10声のものを歌います、とのことであった。いずれも素晴らしい演奏であったことは言うまでもない。だが、ひとつ疑問があって、それは会場に掲げられていたアンコールの表記だ。写真を撮ったのでここに掲載するが、2曲目は明らかに舞台上でフィリップスの喋っていたことと違う!! これも英国人特有のおふざけで、急遽予定と違う曲を歌うことにしたのだろうか (笑)???
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と思って今、東京オペラシティコンサートホールのサイトを見てみると、そこに掲載されている同ホールのツイッターの写真では、ちゃんと訂正されている!!
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うーん、どうやら急いで書き直したのであろうか。いずれにせよ主催者の方々、誠にお疲れ様です!!

このような予期せぬアンコールの変更だかいたずらだか (?) があったにせよ、この合唱団の音楽を聴いて、心が澄んだという思いを抱かない人はいないだろう。煩雑な日常を忘れるためにも、このような演奏会は大変に貴重なもの。またタリス・スコラーズの CD を買い込みたくなって来た。

by yokohama7474 | 2017-06-06 00:34 | 音楽 (Live) | Comments(0)

山田和樹指揮 日本フィル マーラー・ツィクルス第 8回 2017年 6月 4日 Bunkamura オーチャードホール

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このブログでは昨年の 4、5、6番以降をレポートして来ている、山田和樹と日本フィル (通称「日フィル」) によるマーラー・ツィクルスもいよいよ 8回目。今回の曲目は以下の通り。
 武満徹 : 星・島 (スター・アイル)
 マーラー : 交響曲第 8番変ホ長調「千人の交響曲」

このマーラー 8番という曲は、西洋音楽史上でも一、二を争う規模の巨大な作品。私はこのブログのたった 2年の短い歴史の間で既に 2回、この曲の記事を書いたので (2016年 7月 3日のハーディング / 新日本フィルの記事と、2016年 9月 9日のヤルヴィ / NHK 響の記事)、これで 3度目になる。以前も書いたことだが、この曲が平均して年一回は演奏されるようなことは恐らく、世界広しと言えども東京でしか起こらない。さて今回も、演奏前に指揮者である山田和樹のプレトークがあって、それがまた大変面白いものであった。まず冒頭は、前回の 7番のときと同じく、このマーラー・ツィクルスを続けてきたことで自分のマーラー観が変わったという率直な思いの吐露に始まった。そして、今回のツィクルスで唯一、同じ曲目で 2回の演奏会を開く (それゆえ、この記事に掲げたチラシは、ツィクルス本体とは異なり、この演奏会独自のものである) ことについて言及された。それから、前日の演奏会の途中で山田の指揮棒が客席に飛んでしまったことに触れて客席の笑いを取ったのであるが、そもそもこの曲が 2回演奏された理由 (のひとつ) はもちろん、この曲を演奏するために必要とされる資金である。そこで山田は、お金が今回のキーワードのひとつという、芸術家にあるまじき (笑) 発言をしたのだが、その話がつながったのは、この曲の後半のテキストが採られているゲーテの「ファウスト」なのである。山田いわく、今回の演奏を期として、ちょっと「ファウスト」を勉強してみたが、ここには錬金術というテーマがある。もともと金銭は、硬貨というそれ自体が価値のあるものから、紙幣という、集団がその価値を信じないと流通しないものへと発展した。だが人間の欲望は、何もないところから金を生み出すという発想に憑りつかれていたのである。そして山田の話は、ゲーテの戯曲においては錬金術の延長で人間 (ホムンクルス) までも作り出してしまうことに触れられ、その魔術を達成するのが、あろうことか、ワーグナーという名前の男であること、そのようなことは既に科学の発展の結果、現代では AI によって既に現実のものとなりつつあること、等が述べられた。このツィクルスにおける山田の語りは常に熱意のこもったもので、スタッフの人が時間がないことをリマインドしに来るのが通例であるのだが、今回は舞台下から何やら紙が差し入れられた。山田がそれを読んでいわく。「そろそろ武満のことも喋って下さい、ですって」・・・なるほど、それには意味があったのだ。今回マーラー 8番と組み合わされて演奏された武満徹の曲は、「星・島 (スター・アイル)」。これは 8分程度の短い曲で、早稲田大学の創立 100年を記念して作曲され、初演は 1982年10月21日、岩城宏之の指揮による早稲田交響楽団によって行われたのであるが、そのとき後半で演奏されたのが、ほかならぬマーラー 8番であった由。山田自身はそのことを全く知らずにこの 2曲の組み合わせを考えたらしい。うーん、芸術においては時折そのような奇妙な偶然が起こるものなのである。あ、それからもうひとつの素晴らしい偶然。この曲の冒頭はよく知られる通り、ラテン語で「ヴェニ・クレアトール」、つまり「来たれ聖霊よ」なのであるが、西洋には聖霊降臨祭 (ペンテコステ) というものがあり、毎年年に 1日だけなのであるが、今年はなんとなんと、今日なのである!! 芸術における偶然と言えば、こんな話がある。マーラーがこの曲を書いたとき、声楽が入らないオーケストラだけのパートを短くしようとしたが、どうしてもできない。そのように呻吟していると、なんとその箇所は印刷のミスで歌詞が抜け落ちており、本来は声楽のテキストが入るべき箇所であったらしい。その抜けていたテキストは、マーラーが削ろうとしてどうしても削れなかった場所にピッタリはまったという。何やら身の毛もよだつような不思議な話である。これは 15世紀に描かれた聖霊降臨祭の様子。
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さて、今回この大曲に挑んだ日フィルは、一週間ほど前には、首席指揮者ピエタリ・インキネンの指揮でワーグナーのたった (笑) 2時間半のオペラ、「ラインの黄金」を演奏していたわけである。それぞれの演奏会のリハーサルを入れると、このところ日フィルの楽員さんたちは大変ヘビーな生活を送ってきたのであろう。しかも今回の演奏、歌手の皆さんもその「ラインの黄金」から続いての出演である人たちがいる。ソプラノの林正子、アルトの清水華澄、そしてテノールの西村悟である。まあしかし今回の演奏、(昨日の「天地創造」と同じく)、オケの楽員のごく一部を除いた全員の演奏者が日本人であることは、なんともすごいこと。世界広しといえども、そんなことをひとつの国の人たちで成し遂げられるのは、もしかすると日本だけではないだろうか。

武満の「星・島 (スター・アイル)」は、冒頭の金管がメシアンを思わせるもの。その後打楽器を含んだ強い音響も現れるが、全体的には弦楽器を中心とした美しい曲調なのである。今回の山田と日フィルの演奏は例によって丁寧なもので、武満ワールドを見事に現出した。大曲の前座の短い曲ではあったが、洗練された美しい演奏。未だ 30代の山田の世代は、このような日本の現代音楽をこれからも演奏し続けて行くことで、貴重な日本の文化遺産を後世につないで行ってくれることだろう。実は今回、私の手元にある武満徹全集の解説を見てみると、1987年に秋山和慶がチューリヒ・トーンハレ管弦楽団を指揮したこの曲の演奏について、興味深い批評が掲載されている。

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気持ちのいい不協和音で耳をくすぐり、多少苦味のある音響世界がまれに爆発しても、ご機嫌をとるような弦の和音に包み込まれてしまう。武満にはこれよりももっとオリジナルなものがあるはずである。
UNQUOTE

なるほど、この頃から武満は曲の個性よりも自らの感性を重視し始めたような気がする。1980年代の世界は、もう少し苦いものを武満に求めていたのか。なんとなく分かる気もする。山田の柔軟な感性はしかし、21世紀の我々には、このような武満の美しい曲が必要であることを明確に示すのである。

そして今回のメインであるマーラー 8番。私は以前から山田のマーラーを、その音響の奇抜さに驚くのではなく、ごく当たり前に違和感なく受け入れ、また表現できる世代の演奏だと考えているのだが、今回もそのような鮮やかさを持つ、実に素晴らしい演奏であった。会場のオーチャードホールは、例えばサントリーホールと異なり、舞台の後ろと左右は閉ざされた空間。ゆえに、そこに陣取った 300人以上の合唱は、恐るべき力を伴ってまっすぐに客席を襲うのである。これは歌っている人たち自身も、クラクラと眩暈を覚えるほどの音響ではなかっただろうか。冒頭からして聴き手を驚かせるこの曲の大合唱は、今回の演奏では悠揚迫らざるテンポで始まったのであるが、そこで聴かれた様々な音たちのぶつかりあいを、なんとたとえよう。聖霊の降臨とはこのようなものであったのか。驚くべきは、前半がラテン語、後半がドイツ語で歌われるこの曲を、合唱団 (武蔵野合唱団と栗友会合唱団) 全員が暗譜で歌ったことである。これはすごいことなのであるが、この大規模な合唱を自在に操る山田の指揮を見ていると、彼の持つ多くの肩書のひとつが、東京混声合唱団の音楽監督兼理事長であることに思い至るのである。いわば、曲の最初から最後まで、もちろん第 2部前半のオケだけのパートを含め、人間の声が彩る宇宙の音 (マーラー自身が夢想したもの) が壮大に鳴り響いたと言ってしまいたい。今回は指揮棒を飛ばすこともなく (笑) 全曲を振り終えた山田は、客席から既にブラヴォーの声がかかっているにもかかわらず、終演後しばらくは指揮台で立ち尽くしていた。そうだ、後半に使われたゲーテの「ファウスト」の言葉を借りれば、「時よとどまれ、おまえは実に美しい」(私の手元にある池内紀の訳から)。もちろん、東京少年少女合唱隊 (楽譜を見ながらの歌唱) や、上記でご紹介した以外の歌手、ソプラノの田崎尚美と小林沙羅、アルトの高橋華子、バリトンの小森輝彦、バスの妻屋秀和、いずれも熱演であり、中でも「おいしい役」である栄光の聖母を歌った小林沙羅の声が天から降り注ぐことで、会場全体がマーラーの理想郷を具現したのである。ただ唯一惜しむらくは、合唱団の前に位置したソリストたちの声が合唱に埋もれがちであったことであろうか。ともあれ、この童顔の指揮者の今後が本当に楽しみである。
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この充実した演奏を聴くことができる東京の聴衆は幸せだと思うのであるが、今回隣り合わせで鑑賞した私の畏友、吉村さん (仮名???) と話し合って思い出したことには、この日フィルは随分昔にこのマーラー 8番を演奏している。それは、渡邊暁雄の指揮。日フィルの創設者である彼の指揮でこの曲が演奏されたのは、今を遡ること 36年、1981年のこと。実は私はその時の演奏を FM からカセットテープに録音していて、今でも手元にあるのだ。ちょっと恥ずかしいが、1982年 1月に放送されたその演奏を、当時 16歳の私が書いたカセットのカバーをお見せしよう。
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この写真で明らかな通り、私はこれを、当時から薄すぎて保存に問題ありと言われた 120分テープに録音したのだが、実は今日帰宅してから全曲聴いてみた。すると!! 結構いい音質で、全く保存上の問題もなく素晴らしい演奏が再現されて、心からビックリしたのである!! そもそも 21世紀も 17年経過している現在、カセットテープを聴くことができるとはなかなか希少なことかと思うが、私の手元の古い安物のミニコンポも、この演奏のクオリティにビックリしたのか、このようにフタが閉じなくなってしまった (笑)。もっともその後、なんとか押さえつけて閉めることができたのだが。後ろに見えるのは、バイロイトで買ってきた紙の袋と、2015年に国立西洋美術館で開かれたグエルチーノ展のポスターだ。
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ここでもう一度確認すると、武満の「星・島 (スター・アイル)」の初演時に岩城宏之の指揮でマーラー 8番が演奏されたのは 1982年10月のこと。そして上記の渡邊暁雄指揮日フィルで同じ曲が演奏されたのは、1981年 9月のこと。なんのことはない、東京では 35年も前から、この曲は毎年演奏されていたのである!! なお、上記のカセットテープには、このマーラー 8番の演奏の前に、尾高忠明 (当時 33歳) 指揮の東京フィル (通称「東フィル) によるモーツァルトの 1番と25番が収められている。このモーツァルトの演奏は、今ではありえないような分厚い音の演奏なのであるが、テープの余白に録音された放送時の解説によると、この年創立 30年を迎えた東フィルと、前年に創立 25年を迎えた日フィルの演奏を続けて放送したらしい。おっとここでもうひとつ思い出したが、当時何かの音楽雑誌に投稿した人がいて、そこには、「日本には誇るべき音楽が 2つある。ひとつは朝比奈隆指揮のブルックナー。そしてもうひとつは、渡邊暁雄指揮のマーラーだ」とあった。うーん、今この 8番の演奏を久しぶりに聴いてみて、その人の慧眼に思い至る。シベリウス演奏の世界的権威でもあった渡邊の業績を、今回の日フィルの素晴らしい演奏とともに思い出してみたい。そして東京の音楽界は、さらに先へと進んで行くのである。
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by yokohama7474 | 2017-06-04 23:58 | 音楽 (Live) | Comments(6)

鈴木秀美指揮 新日本フィル 2017年 6月 3日 すみだトリフォニーホール

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東京のオーケストラのあれこれの演奏会を採り上げているこのブログであるが、以前も少し書いた通り、昨今の東京のオケの指揮台に登る日本人指揮者の顔ぶれは、かなり固定化して来ているように思う。そんな中で、ほかの指揮者とは違うタイプでその地位を確かなものにしている人がいる。いや、人「たち」と言うべきであろうか。もともとは古楽器によるバロック音楽をレパートリーとしながらも、通常オケを指揮する人たち。その一人は、以前このブログでも東京交響楽団との演奏をご紹介したバッハの世界的権威、鈴木雅明。そしてもう一人はその弟、今回の指揮者、鈴木秀美 (ひでみ) である。
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この人は 1957年生まれだから今年 60歳になる。もともとはチェリストであり、兄雅明が主催するバッハ・コレギウム・ジャパンをはじめ、海外でも 18世紀オーケストラ、ラ・プティット・バンドといった名だたる古楽オケのメンバーとして活躍。ただ最近は指揮活動を活発に行っており、2001年には自らオーケストラ・リベラ・クラシカという古楽オケを結成、ハイドンの交響曲など、CD もあれこれ出している。今回はそんな鈴木が新日本フィルに客演し、採り上げる曲目はハイドンのオラトリオ「天地創造」である。東京という街が面白いのは、実際にステージで耳にできるレパートリーの多様性によるところ大である。古楽の世界で間違いなく世界トップクラスの指揮者が、このような宗教音楽の代表的作品を、通常オケで採り上げるのを聴くことができる意義は大きいのである。

この「天地創造」は、ハイドンのオラトリオとして最も有名であるだけでなく、上記の通り、西洋音楽における宗教音楽屈指の傑作として知られる。内容は文字通りキリスト教における天地創造の神話を扱っており、3部からなるうち、第 1部は天地創造の第 1日から第 4日「光、水、海と陸、すべての植物の誕生」を描いている。第 2部は第 5日と第 6日「すべての生物の誕生」、そして第 3部はアダムとイヴによる神の讃歌と愛がテーマ。全曲で 100分程度の曲で、通常は第 1部、第 2部が続けて演奏され、休憩の後に第 3部が演奏される。今回もそうであったのだが、その場合の時間配分は前半 70分、後半 30分という感じになる。だが内容に鑑みてこのアンバランスは致し方ないだろう。第 1部と第 2部は神による天地と生物の創造であるのに対し、第 3部は人間と、そこには明確なテーマの違いがあるからだ。今回も、ソプラノ歌手は前半と後半で衣装を変えて登場するという面白い趣向であった。そもそもハイドンの特色は、例えばモーツァルトと比較して明瞭であるのは、その人間性であろう。このような壮大な設定の音楽においても、常にどこか人間的な要素があるのであり、彼の音楽を演奏する際には、その点がやはりポイントとなってこよう。その点では今回の鈴木と新日本フィルの演奏、まさに万全とすら言える出来で、弦と管、合唱と独唱、独唱者同士、それぞれに呼吸をよく心得てニュアンス豊かな音がホールを満たしたのである。ヴァイオリンの左右振り分けと指揮棒の不使用は当然として、弦楽器が完全にノン・ヴィブラートであったのも説得力があり、何よりも各パートの活き活きしたこと!! 聴いていると心地よいばかりか、ちょっと大げさなようだが、この地球に生命が誕生したことへの感謝の念まで沸いてくるから不思議である。例えば最近記事にした、日原鍾乳洞の暗闇から出て明るい光のもとで小川の流れを見たときに五感が敏感に一気に反応したような、あの感覚を思い出してしまったのである。この地上に栄える命が、人間すらもが、絶対者の手による創造だという感覚は、どの宗教でも違和感なく共通するところがあるように思う。
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今回の演奏では、コーロ・リベロ・クラシコという合唱団が歌っていたが、これは、鈴木の結成したオーケストラ・リベラ・クラシカが 2015年 1月に大阪のいずみホールで行ったモーツァルトのハ短調ミサの演奏の際に結成された、プロ・アマ混在の合唱団であるらしい。もっとも、今回は陣容拡大の必要あり、合唱団名の最後に「アウメンタート」(拡張された) という語がついている。素晴らしい歌唱であったが、合唱指揮者がいないのか、演奏後にはメンバーのリーダーとおぼしき女性が、指揮者の紹介で拍手を受けていた。尚、通常の合唱団のメンバー配置は、女声と男声がはっきり分かれるものだが、今回の合唱団は、真ん中あたりでは男女が混淆していた。響きの効果と関係しているのであろうか。また、独唱者は、バス・バリトンの多田羅廸夫 (たたらみちお) は、ちょっとベテランの味が出すぎたきらいがないでもなかったが、ソプラノの中江早希やテノールの櫻田亮は、新鮮さに好感を持つことができた。このようにこの演奏、指揮者も独唱者も合唱団も、それからオケも (2名の外国人メンバーを除いては) 全員日本人。これはこれで、意義のあることには違いない。会場の入りはもうひとつであったが、これはまさに傾聴すべき名演であり、もっと多くの人に聴いて欲しいと思ったものである。

さてそれではここで、「川沿いのラプソディ」名物、脱線と行きましょう (笑)。まず、この鈴木秀美だが、私は以前、あるお寺の堂内で、彼のバロック・チェロの独奏を聴いたことがある。バッハの無伴奏の何曲かが演奏されたのだが、畳敷きの木造の部屋で聴くと、残響が全然なくて曲の持ち味が出てこず、閉口した。「あぁ、やっぱり西洋音楽は石造りの部屋で聴きたい」と思ったものだが、演奏の合間には鈴木のユーモラスな語りもあり、また終演後には直接会話させて頂く時間もあって、全体的にはなかなか楽しかった。バロック・チェロはこの写真のように、楽器を支える先端の金属部分がなくて、足で挟むから大変だと伺った。
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そのときにはまた、彼の「ガット・カフェ」というエッセイを購入して、そこにサインを頂いたのであった。
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さて今回の演奏会のプログラムを見ていて、彼が海外でそのメンバーとして演奏したという団体に、ラ・プティット・バンドがあるのを見て、ふと思い出したことがある。これは有名な古楽オケで、リーダーはシギスヴァルト・クイケン。私はこの団体の演奏を、もちろん日本でも聴いているが、一度海外でも聴いている。それはちょっと変わった場所なのだが、スペインの首都マドリードだ。その時にはバッハのカンタータなどを聴いたが、ソプラノが日本人であったことを覚えている・・・。と、そこまで思い出してから、急に私の脳髄を電流が走る。今思い出すとその歌手は、スズキさんではなかったか。もしそうなら、きっと鈴木美登里、つまりは鈴木秀美の奥さんである!!
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帰宅して書庫をあさったところ、プログラムが出て来た。1999年11月23日のこと。確かに Midori Suzuki とある。やはりそうだったか。そうするともしかして、そのときには秀美さんもオケでチェロを弾いていたのではないだろうか。そして、おっと、よく見るとアルトはなんとなんと、チェコの名花、マッダレーナ・コジェナーではないか!! 確かに彼女はバロックも歌うが、まさかこんなところに出演していたとは。
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因みこれがそのコジェナーとそのご主人。ん? この男性はどこかで見たことがあるぞ。確かクラシック界ではメチャクチャ有名な人ではないか (笑)。この人がベルリン・フィルと 11月に来日するようだが、そのチケットは現在、大変に高騰しているのである。もしご存じない方は、このブログの記事で「ベルリン・フィル」を検索してみて下さい。
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そんなわけで、様々な場所で様々な演奏家との巡りあわせがあるのも、文化逍遥の醍醐味と言える。そんな演奏家たちが入れ替わり立ち代わり登場する東京の音楽界、面白すぎる!!

by yokohama7474 | 2017-06-04 01:59 | 音楽 (Live) | Comments(4)

ワーグナー : 楽劇「ラインの黄金」(演奏会形式) ピエタリ・インキネン指揮 日本フィル 2017年 5月27日 東京文化会館

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数日前の記事でハインツ・ホリガーの自作自演の演奏会を採り上げ、その曲が 2時間半休憩なしでの演奏であったと書いた。その際にも引き合いに出した、ワーグナーとしては異例に短い、たった (笑) 2時間半、休憩なしで演奏されるオペラは「ラインの黄金」。既にこのブログではおなじみの、超大作「ニーベルングの指環」4部作の第 1作目で、「序夜」と題されている。今回は、日本フィル (通称「日フィル」) がその首席指揮者、フィンランドの若手ピエタリ・インキネンのもと、演奏会形式で採り上げた。上のチラシにあるごとく、インキネンと日フィルのワーグナー演奏は今回が第 3弾。ではこれまでの 2回はいかなるものであったかというと、最初は 2013年 9月、「ワルキューレ」第 1幕。次は 2016年 9月、「ジークフリート」と「神々の黄昏」からの抜粋。つまり、今回を含めた 3回の演奏会で、「指環」の抜粋をこのコンビで演奏したことになる。そして、来シーズンのプログラムを見ていると、来年の 4月にはロリン・マゼールが編曲した「言葉のない『指環』」という管弦楽曲集を演奏する。日フィルのこれまでのワーグナー演奏がどの程度のものか、あまりイメージがないが、同じ指揮者とこれだけ「指環」の音楽を演奏することは、オケのレパートリーの成熟に大きく貢献することだろう。実はインキネンは既に 2013年にシドニー・オペラで「指環」4部作を指揮したことがあり、その演奏は絶賛されたらしい。このプロダクションは昨年 11月から 12月にかけてもやはり彼の指揮で再演されているというから、インキネン自身の「指環」経験は既に確固たるものになっているわけであろう。
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それにしても、いつも同じ感想で恐縮だが、日本におけるワーグナー人気は異常はほど。このブログでも、2015年のバイロイト音楽祭をはじめとして、ワーグナー関連記事へのアクセスは常に継続していて、驚くほどだ。今回も、会場の東京文化会館はほぼ満席。2時間半休憩なしも承知の上なのだ。今回の上演は演奏会形式なのではあるが、歌手は一人も譜面を見ることなく、またそれなりの衣装 (但しそれほど凝ったものはなく、2人の巨人たちも着ぐるみではなく、半そでシャツの前をはだけてサングラスに山高帽という、チンピラ風 (?) の雰囲気) をつけ、舞台前面を活発に動き回る。従ってほとんど舞台上演に近いものであり、佐藤美晴というウィーンで学んだ演出家の名前がプログラムに載っている。また、照明もそれなりに凝っていて、最初のライン川のシーンでは青い光が、神々が集う場所では白系の光が、地下のニーベルハイムでは赤い光が、それぞれかなり派手に舞台天井に投影される。

まず指揮については、テンポ感のしっかりしたワーグナーであったとでも言おうか。このブログでこれまでインキネンの演奏会を採り上げた際には、激しい音楽での熱狂感に私は若干の留保をしてきているが、今回もその傾向は同じで、作品の特性から言って、さらに暴力的に鳴らしてもよいのではと思う部分が何度かあった。例えば、ファフナーがファゾルトを殺すシーンのティンパニの鋭さや、終曲の「ワルハラ城への神々の入場」の高揚感には、課題があったと思う。だが、非常に丁寧にオーケストラをリードするインキネンを見ていると、これはこれでなかなかに優れた指揮であろうという気がしてきた。それは、このオペラの千変万化のオーケストラ・パートを描き出すに際し、次にやってくるうねりに備えるというか、着実に音の線を描き出すことができていたからではないだろうか。そもそもこの曲は、暴力的に鳴らすだけではどうにもならないわけで、このようにテンポ感がしっかりしてこそ、ドラマ性が活きてくると思う。なので、インキネンの音楽性はよく発揮された演奏であったと言えるのではないかと思う。

歌手陣では、ヴォータンのユッカ・ラジライネンと、アルベリヒのワーウィック・ファイフェが印象に残った。前者はフィンランド人でヴォータン役を得意としており、東京の新国立劇場のツィクルスでもその役を歌っている。後者はオーストラリア人で、上述のシドニーでのインキネン指揮の「指環」で同じ役を歌っている。特にアルベリヒのファイフェは、冒頭のラインの乙女にからかわれる惨めさから、ニーベルハイムでは一転して独裁的権力を握る人物としての冷酷さと重厚さをうまく出していた。外人勢ではほかにフリッカ役のリリ・パーシキヴィも安定していた。この人もフィンランド人で、エクサン・プロヴァンス音楽祭でのサイモン・ラトルとベルリン・フィルによる「指環」にもこの役で出ているという実績の持ち主。そしてなんと驚いたことに、フィンランド国立歌劇場の芸術監督なのだそうだ。多彩な人である。それから、ローゲのウィル・ハルトマンはドイツ人で、ウィーンやミラノでも活躍している人。実はこの前日の同じ曲目の演奏会では体調不良で降板した (西村悟が代役を歌ったようだ) が、今回の公演では、演奏開始前に日フィルの常務が舞台に出てきて説明したことには、未だ体調は万全ではないが、是非皆さんに自分の声を聴いてほしいと志願しての出演であったようだ。実際、時に声が若干かすれたり、自分が歌わないところでは咳をしていたが、ローゲらしい策士ぶりをうまく表現しており、体調不良を技術でカバーしたというところか。日本人歌手はいつものようにみな二期会の人たちで、それぞれに健闘であったと思う。その中で私の印象に残ったのは、フライアの安藤赴美子。少ない出番ながら、強い声で表現力豊か。そう言えばこのブログでも、アンドレア・バッティストーニ指揮のヴェルディのレクイエムにおける彼女の歌唱について述べたことがある。主役で聴いてみたい人である。
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現在東京のメジャー 7楽団は、それぞれのシェフや関係の深い指揮者陣とともに、その楽団ならではの個性を育てつつあるような気がする。なので私としては今後も、個々の演奏会の出来不出来よりも、東京で起こっている文化イヴェントという文脈で見て行きたい。あ、ただそれよりも、演奏される曲のよさを感じられることが、音楽を聴くいちばんの喜びであり、例えば 20年前には聴いてがっかりするようなケースもままあった日本のオケも、今ではそのような事態はほとんどない。競争があることも大きくプラスに働いているわけであり、これからもそれぞれのオケの充実ぶりを享受して行きたいなぁと改めて思う、充実した演奏会でした。

by yokohama7474 | 2017-05-28 01:34 | 音楽 (Live) | Comments(0)

コンポージアム2017 ハインツ・ホリガーの音楽 スカルダネッリ・ツィクルス 2017年 5月25日 東京オペラシティコンサートホール

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今回ご紹介する「コンポージアム」とは、東京オペラシティ財団が毎年開催している現代音楽のイヴェントである。この聞き慣れない "Composium" という言葉は、Compose (作曲する) と Symposium (シンポジウム) を合わせた造語であるらしい。うーむ。それなら「コンポージウム」ではないのだろうかという疑問はさておいて (笑)、このイヴェントが意義深いのは、毎年若手作曲家の新作に賞を与えていることである。その名は武満徹作曲賞。このブログでも何度も何度も名前が出てくる、日本を代表する作曲家であった故・武満徹 (1930 - 1996) の名を冠しているのだが、その理由は、このオペラシティコンサートホールの初代芸術監督はその武満であったことによる。なにせこのホールの正式名称は、最後に「タケミツ・メモリアル」とつくくらいであるのだ。この作曲賞は1997年から継続しており、今回は 19回目。審査員 (この賞の審査は極めて例外的なことに、複数の審査員ではなく、たったひとりの作曲家によってなされる) には、文字通り世界の名だたる作曲家が指名されるのであるが、今年はその審査員がハインツ・ホリガーなのである。ここで勘のよい人は察するであろう。1997年から毎年やっているなら、今年は 21回目のはず。なぜに 2回欠けて、19回目であるのか。それは、まず 2006年には武満の没後 10周年のイヴェントのために作曲賞の審査がなかったこと。そして、1998年には、審査員はハンガリーの大作曲家ジェルジ・リゲティであったのだが、入賞者なしという結果であったことによるのである。この 1998年のコンポージアムについては、たまたまつい最近、5/19 (金) のエサ=ペッカ・サロネン指揮のフィルハーモニア管の記事の中で触れているが、この年の入賞者なしとは、私も今回初めて知った。今手元にそのときのプログラムを再び出してきて読んでみると、なぜ 45曲の候補から入賞作を一作も選ばなかったかについての、リゲティの詳しい言明が掲載されている。ここではその点についての説明は割愛するが、まぁともあれ、作曲家という大変な職業を選択するのは大変なこと。そのような大変な職業を選んだ若い人にスポットライトを当てるこのような企画が継続していることは、何よりも文化的に大いに意義のあることである。主催・協賛の方々にここで最大限の敬意を表したい。このコンポージアムでは、武満作曲賞以外にも、審査員である作曲家自身の作品も演奏されるので、今後も聴衆として極力イヴェントに参加したいと思う次第である。

さて、前置きが長くなってしまったが、今回の主役ハインツ・ホリガーは、一般的な知名度はどうか分からないが、クラシック音楽の世界ではまさに知らぬ人のない、オーボエという楽器の神に等しい存在だ。1939年生まれだから今年 78歳になる。
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実は彼はオーボエを吹くだけではなく、活発な活動を続けてきた作曲家でもある。あまり日本ではそのことは知られていないように思うが、最近彼の作品に触れる機会が増えてきた。例えばこのブログでも、既に 2015年 8月23日の記事で、こちらはサントリー音楽財団のサマーフェスティバルにおける彼の作品の演奏会を採り上げたことがある。そちらは室内楽の楽曲であったのだが、今回は、コンポージアムのコンサートのひとつにおいて、小編成のオーケストラと合唱団による彼の作品の日本初演が行われた。曲名と演奏者をご紹介しよう。
 スカルダネッリ・ツィクルス (1975 - 91年作)
 指揮 : ハインツ・ホリガー
 フルート : フェリックス・レングリ
 ラトヴィア放送合唱団
 アンサンブル・ノマド

私がこの演奏会に興味を持ったのは、これが実に 2時間半の大作で、しかも休憩なしに演奏されるということを知ったからであった。それだけの長時間連続して行われる演奏に立ち会うことで、聴衆は何か特別なものを感じることができるのはないかと思ったからである。もちろん、通常のコンサートで、2時間半休憩なしということはまずない。ただ珍しい例としては、先般私がどうしても行くことができなかったアンドラーシュ・シフの来日リサイタルは休憩がなく、たくさん弾かれたアンコールまで含めるとそのくらいの時間であったというし、ワーグナーの「ラインの黄金」は、この作曲家にしては異例に短い作品だが (笑)、やはり 2時間半休憩なしだ。だがそれらは例外的で、普通のコンサートには休憩が入るものである。とはいえ、映画では 2時間半の大作も決して少なくなく、それらを見ている自分としては、膀胱破裂のリスクもそれほどあるとは思えない。頑張って聴いてみようではないか。

無駄口はこのあたりにして、作品について少し語ってみたい。題名の「スカルダネッリ」とは、ドイツ・ロマン派の詩人、フリードリヒ・ヘルダーリン (1770 - 1843) が署名時に使用した架空の人物名のこと。おー、ヘルダーリンか。もちろん名前は知っている。だが恥ずかしながら作品を読んだことはない。唯一思い出すのは、ブラームスの「運命の歌」の歌詞がこの詩人によるものだということだ。その作品を含むヘルダーリンに因む作品を集めた演奏会を、クラウディオ・アバドがベルリン・フィルで行ったことも知っているが、私の知識はその程度だ。これが彼の肖像。
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実はこのヘルダーリン、若い頃には哲学者のヘーゲルやシェリングと学友であり、古代ギリシャに傾倒した作品を創作したが、30代から精神を病み、後半生の 36年 (人生のほぼ半分) は、塔の中で生活を送ったという。ドイツのテュービンゲンなる都市には、今でも彼が過ごした「ヘルダーリン塔」が現存するらしい。行ってみたいなぁ。
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さてこのホリガーの作品は、実は 3つの異なる作品の部分部分が様々に組み合わされて演奏されるもの。その 3曲とは以下の通り。
 無伴奏混声合唱のための「四季」
 スカルダネッリのための練習曲集 (フルート・ソロ、磁気テープと小管弦楽のための)
 フルート・ソロのための「テイル」

これらは 1975年から 1991年までの間に、ワーク・イン・プログレスとして 1曲ずつ作曲されたものがまとめられている。この 3曲は合計で 22の部分から成り、以前は一定の条件のもと、演奏者が曲順を自由に設定できたが、2014年にルツェルン音楽祭で改訂版が初演されたときに、各部分の演奏順序が決められたらしい。全体は 3つに大別され、それぞれの中で「四季」が一巡する中、ほかの曲も適宜挿入されて演奏されて行く。ヘルダーリンの詩は「四季」の歌詞として使われているのだが、そこでは、春夏秋冬、ドイツ語で Der Frühling (フリューリンク)、Der Sommer (ゾンマー)、Der Herbst (ヘルプスト)、Der Winter (ヴィンター) のそれぞれの題名を持った詩が、3部を通して演奏されることにより、合計で三巡することになる。面白いのは、指揮を務める作曲者のホリガー自身が、それぞれの曲の最初に該当する季節を大きな声で唱え、合唱が歌い終わったあとに、ヘルダーリンが署名している部分もまたホリガーが唱えるのである。いわく、「1758年 5月24日 スカルダネッリ」「1842年 3月15日 スカルダネッリ」「1940年 3月 9日 スカルダネッリ」等々。だがこれは妙だ。ヘルダーリンは 1843年に死んでいるので、1940年はありえないはず。だがそれこそ架空の人物スカルダネッリによる日付なのである。

この 2時間半の超大作においては、大音響が聴かれることは皆無。ひたすら静謐で拍節感のない音が流れて行く。それはもちろん、ワーグナーの楽劇のようなドラマティックなものとは大違いである。だが、なぜか客席でうたた寝している人は少ないように見えた。そのひとつの理由は、様々に工夫された斬新な音響ではないだろうか。第 1部では 3つの異なる大きさの寺の鐘 (りんというのだろうか) がごーんごーんと響く。かと思うと途中でガサガサ合唱団 (20名) がステージから去るので何かと思えば、2階客席の左右奥とホールの真ん中あたりに陣取って歌い、その一方で、舞台では 4人がワイングラスに水を注いでそのふちを指でこする。いわゆるグラスハープである。ここではイメージを拝借する。
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それから、バッハのコラールの引用がなされる箇所もあるし、第 3部の最初の曲に至っては、紙を破ったりクシャクシャにする音、紐の先に何か重りをつけて振り回す音、チューブを振り回す音、ドラの表面を何かで擦る音、何やら水に浸けては引き出す音、これでもかと奇異な音が聴かれる。フルートソロの後には、ツーンという電子音が継続して響く。また終曲では、再び合唱団が 4パートに分かれて、何かを押しつぶしたような低い声で歌い、遠い世界に響く祈りのようなやまびこのような、不思議な音の交錯が聴かれた。このような様々な音の工夫がなされつつも、基本的には 2時間半、なだらかな音風景が続くわけで、聴いているうちに、これはあの世の風景かしらんとまで思えてきた。こればっかりは経験しないと分からない。演奏会に居合わせた人たちだけが、長い時間をともに過ごして音楽に耳を傾けているうちに、じわじわと沸いて来た感情の泡のようなものが、会場を満たしていたといった印象だ。宗教体験に近いと言ってもよいかもしれない。なるほどこれは、休憩を入れるわけにはいかないわけだ。そして上記の通り、時々指揮台で声を発するホリガーが、司祭のごとく聴衆を静かに先導する。2年前にサントリーホールブルーローズで聴いた彼の朗読も、きわめて音楽的でよかったが、今回も、彼の声は曲の重要な一部になっていた。特に「スカルダネッリ」という言葉の響き、何かの呪文のようではないか。ただ一か所、「夏」なのに「春」と言いかけてしまったのはご愛敬。弘法も筆の誤りということか (笑)。

演奏に関しては、現代音楽の専門集団、アンサンブル・ノマドも見事なら、2014年の初演時にも合唱を担当したラトヴィア放送合唱団も見事。だが中でも素晴らしかったのは、フルート奏者のフェリックス・レングリ。スイス人で、往年の巨匠フルーティスト、オーレル・ニコレの弟子である。恐らくは、同じ木管楽器であるオーボエの超絶的名手であるホリガー自身が、奏者の生理をよく理解した上で曲を書いていることも関係していよう。見事な演奏であった。
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このように、静かでありながら大変充実した 2時間半であったのだが、実はこの曲にはホリガー自身による CD もある。私はその存在を会場で初めて知ったので、買おうかなと手に取りかけたのだが、今回はやめることにした。上に書いた通り、何かの儀式のような実演で経験した静かな感動は、なかなか録音では味わえないからだ。もっとも、もう一度実演を聴いてみるかと言われれば、その長さを思い出すと、それにも若干の躊躇を覚えるかもしれない (笑)。これが CD のジャケットだ。
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さて最後に、この曲の印象と共通する視覚的なイメージをご紹介する。今回合唱団がやってきたラトヴィアは、言うまでもなくバルト三国のひとつ。私は行ったことがないのだが、そこにある「十字架の丘」には、いつか是非行ってみたいと思っている。生と死がその境も曖昧になるようなこのような風景を知っている人たちだからこそ、様々な技術的困難を乗り越えて、今回のホリガーの作品をリアリティを持って歌えるのではないだろうか。
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世の中まだまだ知らないことばかり。発見の喜び、学ぶ喜びがある人生は、なかなかに楽しいものである。

by yokohama7474 | 2017-05-26 01:42 | 音楽 (Live) | Comments(0)

アンドレア・バッティストーニ指揮 東京フィル 2017年 5月21日 Bunkamura オーチャードホール

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イタリアの若手指揮者、今年弱冠 30歳のアンドレア・バッティストーニと、彼が首席指揮者を務める東京フィルハーモニー交響楽団 (通称「東フィル」) の演奏会は、このブログでも何度かご紹介して来たが、今回は 4月からの新シーズンにおける最初の定期演奏会での共演である。実はこのオケは 4月には新国立劇場で「オテロ」と「フィガロの結婚」の演奏を担当していて、また 5月に入ってからも同じく新国立劇場で今度はバレエの「眠れる森の美女」を演奏していたこともあり、今期これまで東京地区で行った演奏会は、5/17 (水) の 14時から東京オペラシティでの「平日の午後のコンサート」しかない。それゆえ、この渋谷の Bunkamura オーチャードホールでの演奏会には、オケの面々としても、相当に期するところがあったものと思われる。これは今回の会場に展示されていた「平日の午後のコンサート」のリハーサル風景。曲目はチャイコフスキーのイタリア奇想曲と、交響曲第 5番。バッティストーニは最近イタリアの RAI 国立響を指揮したチャイコフスキー 5番の CD を発表しており、そこでもいつもの熱い音楽を展開していたので、きっとこの東フィルとの演奏会でも、熱狂的な演奏であったのだろう。
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熱いと言えば、今日は各地で 30度を超える真夏日となり、東京もまさに真夏の日差し。そんな中、渋谷駅から Bunkamura に向かう文化村通りでは、交通を遮断し、なんでも「渋谷・鹿児島おはら祭」とかいうパレードが繰り出していて、はっぴを着た賑やかな踊りの列 (皆さん鹿児島から来られたのでしょうか? 「ラサール連」などという団体もありました) が実に楽し気だ。もちろん暑いに違いないが、祭りとは暑さの中で燃えるもの。私は、割って入って踊ることこそしなかったものの、心は参加者の皆さんと同じで、踊っていましたよ (笑)。

さて実は今回の演奏会の曲目も、テーマは踊りなのだ。以下の通り。
 ヴェルディ : 歌劇「オテロ」第 3幕より舞曲
 ザンドナーイ : 歌劇「ジュリエッタとロメオ」より舞曲
 ストラヴィンスキー : バレエ音楽「春の祭典」

もちろんお目当ては後半の「ハルサイ」なのであるが、振り返ってみれば、いや実にバッティストーニと東フィルらしい熱狂に溢れた素晴らしい演奏会であった。このホールではいつも、前半・休憩・後半・そして終演時刻とタイムテーブルが書いてあるのだが、今回は後半が「50分」とあるのが目を引いた。「春の祭典」はせいぜい 35分くらいの曲だ。はっはぁこれはきっとアンコールをやってくれるのでは、と思いながら入場した私であった。その勘が当たったか否かはのちほど。

最初の曲は「オテロ」のバレエ音楽だが、えぇっと、「マクベス」とか「アイーダ」ならともかく、「オテロ」にバレエ音楽なんてありましたっけ。実はこれ、ミラノでこのオペラが初演されてから 7年後、パリでの初演の際に追加で作曲されたもの。パリではバレエが人気で、作曲家はバレエ音楽を入れないとオペラを上演するのが難しかったことはよく知られていて、その最たる例はワーグナーの「タンホイザー」であるが、ヴェルディもやはりそれで苦労 (?) したようだ。最近では「オテロ」のパリ版が採り上げられる機会も増えているようだが、私は実演で見たことはないと思う。面白いことに、上述の通り東フィルは (ほかの指揮者のもとで) 「オテロ」を演奏したばかりであり、また、9月には首席指揮者バッティストーニ自身が演奏会形式で採り上げる予定になっているのだが、その版の選択はどうなのだろうか。ともあれ、決してポピュラーとは言えない「オテロ」のバレエ音楽、いきなり輝かしい金管の音色で始まり、それはもういつものバッティストーニ節が全開だ。素晴らしいと思うのは、オケの面々も、体でノリを見せながら呼吸を合わせて音楽を紡ぎ出していることで、このような積極性やモチベーションの高さは、このイタリアの俊英指揮者を頂くこのオケならではの持ち味になっているように思う。

続くザンドナーイの曲も、珍しいものだ。リッカルド・ザンドナーイ (1883 - 1944) はイタリアのオペラ作曲家で、あのマスカーニの弟子に当たる人。ダンテの神曲に想を得た「フランチェスカ・ダ・リミニ」(チャイコフスキーも同名の管弦楽曲を作曲している) の存在がかろうじて知られているが、実際の演奏に触れることは少ないし、ほかの作品に至っては、名前も聞いたことがないものがほとんど。実は、有名な出版社リコルディは、未完に終わったプッチーニの「トゥーランドット」の補完にザンドナーイを起用しようとしたが、無名だということでプッチーニの息子が断り、アルファーノが選ばれたとの経緯があったらしい。今回演奏された「ジュリエッタとロメオ」は、もちろんシェークスピアの「ロメオとジュリエット」に基づくものであろうが、私は今回初めて耳にする。これがザンドナーイの肖像。なかなかにダンディな人である。
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この「ジュリエッタとロメオ」は 1922年の作品で、その管弦楽版は東フィルが1956年に (おそらく) 日本初演、1968年にも再演しているらしい。指揮はこのオケでイタリア音楽の紹介に努めたニコラ・ルッチ。既に100年を超える東フィルの歴史にはこのような貴重な活動があり、またそのようなゆかりのレパートリーを、今またバッティストーニが発掘していることはなんと意義深いことか。そして驚くべきは、この曲の面白いこと。レスピーギの「ローマの祭り」を思わせるような音型も出て来て、迫力満点だ。ここでもバッティストーニと東フィルは、もうこれ以上ないといういうほど力感に溢れた演奏を展開。多くの人にとって初めて聴く曲でありながら、終演後の客席は沸きに沸いた。指揮者はスコアを抱えて客席に見せたが、そうなのだ。このような面白い曲がまだまだ埋もれているとは、実に惜しいこと。ザンドナーイのほかの作品も是非、採り上げて頂きたい。

休憩後の「春の祭典」は、冒頭のファゴットが、通常よりも長く引き伸ばされて始まったのを聴いて、演奏の方向性が分かったような気がした。指揮者はしばしばテンポを落としてじっくりと音を停滞させ、いざというところでは煽り立てる。いわばこの曲の現代性よりも土俗性を強調した演奏ではなかったか。私個人としては、もう少し切れ味鋭い現代的な演奏の方が好みではあるが、いやしかし、これだけの迫力で演奏されると、その説得力には脱帽だ。ここでも東フィルの各奏者は自発性と、暴力的なまでの積極性を見せ、瞠目すべき演奏を実現した。実は東フィルの公式ホームページを見ると、バッティストーニのこの曲についての結構詳しい解説を読むことができて大変興味深い。この人、若さとイタリア人の血に頼って力任せに指揮棒を振っているわけでは決してなく、広範な音楽史の知識と深い洞察力が背景にあっての、あの情熱的な指揮であるわけである。この解説では、「春の祭典」についての興味深い発言が数々あるが、ここではプログラムにも引用されている次の印象深い言葉をご紹介する。

QUOTE
「春の祭典」は、音楽史のうえで決定的な、この作品「以前」と「以後」を分ける力がある、真のマイルストーンである。西洋音楽の流れの中で、これほど大きな発展と革命の力を孕んだ作品はほとんどない。他にはおそらくベートーヴェンの「英雄」、ベルリオーズの「幻想交響曲」、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」、そしてシェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」だけだろう。
UNQUOTE

全くその通りだと思う。この音楽の衝撃は、初演後 100年以上を経ても未だに衰えておらず、実演に接する度に興奮を抑えられない曲なのである。これは、この曲を題材にした女優画家ヴァランティーヌ・ユゴーのスケッチ。昔、ムーティ指揮の極めて鮮やかな録音の銀色のジャケットに使われていましたねぇ。
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そして、終演後の拍手をバッティストーニが遮り、聴衆に向かって「ドウモアリガトウゴザイマシタ」と挨拶してから説明するには、今回はシーズン最初の定期演奏会なので、これから聴衆に対するプレゼントを提供する。踊りの音楽を演奏したので、もう少し踊り続ける。但し今回は日本風に、とのこと。そして聴こえてきた拍子木で、ファンにはすぐに分かったのだ。外山雄三の「管弦楽のためのラプソディ」の大詰め、八木節である!! 以前はよく日本のオケの海外公演で演奏されて好評を博していたが、まぁこれは日本の祭囃子そのものであり、海外ではいつも大受けなのだ。日本人が聴くと少し気恥ずかしい気もするが、だが、演奏者側が本気のノリでやってくれれば、やはり聴いていて血が騒ぐ音楽。指揮者もオケも渾身かつ楽しんでの演奏で、会場は熱狂した。私はこの曲を何十年も知っているが、まさか自分が「ラプソディ」を冠したブログをやろうとは、ほんの 2年前にふと思いつくまでは夢にも思っていなかったので (笑)、この曲のラプソディックな盛り上がりに、感慨を新たにしたものである。それにしても、若いバッティストーニが、その成長を東フィルとともに成し遂げて行くことは確実であり、本当に楽しみだ。今後も是非ラプソディックに盛り上がって頂きたい。

15時から始まったコンサートは 16時半には終了し、外に出ると、未だに日差しはあるものの、既に「渋谷・鹿児島おはら祭」は終了しており、宴の後の雰囲気だ。命あるものは踊り、歌う。その時間が有限であるがゆえにこそ、踊ったり歌ったりしている時間が貴重なのである。そして私が川沿いの住まいで踊って歌っているここでのラプソディとは、気ままにその、生という貴重な時間を逍遥する楽しみ。今日の踊りと音楽に、何か力を与えられたように勝手に都合よく思ってしまっているのである (笑)。

by yokohama7474 | 2017-05-21 23:56 | 音楽 (Live) | Comments(0)

エサ=ペッカ・サロネン指揮 フィルハーモニア管弦楽団 (ヴァイオリン : 諏訪内晶子) 2017年 5月20日 東京芸術劇場

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先に東京オペラシティコンサートホールでのマーラー 6番ほかのコンサートをご紹介した、フィンランドの名指揮者エサ=ペッカ・サロネンとその手兵、ロンドンに本拠を置くフィルハーモニア管弦楽団の演奏会。土曜日に池袋の東京芸術劇場で開かれた演奏会は、リヒャルト・シュトラウスの作品の間に、名実ともに日本を代表するヴァイオリニストである諏訪内晶子が弾くコンチェルトを挟んで行われた。曲目詳細は以下の通り。
 R・シュトラウス : 交響詩「ドン・ファン」作品20
 メンデルスゾーン : ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64 (ヴァイオリン : 諏訪内晶子)
 R・シュトラウス : 交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」作品30

今回のサロネンとフィルハーモニアの来日ツアーは、西宮、名古屋、熊本を含む 7回のコンサートから成っており、ソリストは、ピアノが 2015年のショパン・コンクールの覇者である韓国のチョ・ソンジン (ベートーヴェンのピアノ協奏曲第 3番を演奏)、ヴァイオリンが諏訪内である。以前の記事でご紹介した通り、このフィルハーモニア管は、2008年にサロネンが首席指揮者に就任して以来、2 - 3 年に一度は来日している印象であり、既に日本でもおなじみだが、思い出してみると、1986年のサントリーホール開場に伴う一連のシリーズの中でもこのオケは、当時の音楽監督であったジュゼッペ・シノーポリの指揮で、マーラーを演奏していた。また、今回の演奏会場である池袋の東京芸術劇場が 1990年に開場したときには、やはりシノーポリの指揮で、ほぼ二週間の間に 10回のコンサートを開いて、マーラーの全交響曲 (歌曲集「子供の不思議な角笛」、「リュッケルトによる 5つの歌」、「亡き子をしのぶ歌」、「さすらう若人の歌」、「カンタータ「嘆きの歌」、大地の歌と、10番のアダージョも含めて!!!) を演奏するという、およそ常軌を逸した偉業を成し遂げてもいる。最近の若い人はそれを信じないかもしれないので、バブル時代の熱狂を後世に伝えて行くためにも (笑)、その時のプログラムを掲載しよう。なお、このときの「大地の歌」の演奏会では、たまたま来日中であったダニエル・バレンボイムが客席でスコア片手にシノーポリとフィルハーモニアの演奏に聴き入るというシーンも見られたのである。
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さて、昔話はこのくらいにして、現在に戻ってこよう (笑)。今回のサロネンとフィルハーモニアの演奏では、先のマーラーと同じ系統、つまりは後期ロマン派に属するリヒャルト・シュトラウスの音楽がメインとして演奏されたわけであるが、全体を通しての私の感想はマーラーと同じで、強い推進力による華麗なるオーケストラのマッスとしての響きに圧倒されたと申し上げよう。最初の「ドン・ファン」は 20分程度の曲であり、音楽史上最も有名な交響詩のひとつ。だが今回の演奏を聴いていると、まるでその倍くらいの長さに感じたものである。それだけ音の密度が濃かったということであろうか。サロネンの指揮は基本的に切れ味のよいもので、重々しく歌い込むというタイプではないのだが、それにしてもこの鳴り方は大変なもの。マーラーのときと同様、独奏ではなく専ら合奏を行う弦楽器セクションにしてからが、ひとりひとりの奏者の強いコミットメントが音楽全体を揺るがしながら進んで行くのである。例えばウィーン・フィルやコンセルトヘボウやボストン響のような、有機的な、音が滴るアンサンブルというものとは少し違っているが、これはこれで非常に高いレヴェルであると思う。「ツァラトゥストラ」はもちろん、キューブリックの名作映画「2001年宇宙の旅」で使われたことで、クラシック音楽に縁のない人でも誰でも知っている曲であるが、その冒頭がいかにうまく書けているか、今回改めて実感して、鳥肌が立った。トランペットは慎重に音を出し、ミスを回避できたが、圧巻は若いティンパニ奏者である。あれだけ思い切って叩ければ、気持ちいいだろうなぁ。このようにシュトラウスの 2曲は、オーケストラの醍醐味を存分に味わえるだけの、強い表現力を持った名演であったのである。これが若き日のシュトラウス。
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その間で演奏されたメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲は、天下の名曲として知られているわけであり、諏訪内の演奏は充分に美麗で、またオーソドックスなものであったと思う。面白かったのは伴奏のオケで、「ドン・ファン」でのコントラバス 8本が 4本に減らされたのはまあよいとして、ティンパニ (この曲では最初から登場する) は古いタイプの小さくて硬いものに変更され、トランペットもまた、ピストンのない古いタイプのものに持ち替えて演奏していた。フィルハーモニア管の本拠地ロンドンでは、何十年にも亘って古楽演奏が盛んであり、そのような土地柄も関係しているのかもしれない。ただこの曲の場合、驚くような演奏に出会うことはさして多くなく (その驚くべき演奏は、このブログでも採り上げた、ニコライ・ズナイダーによって最近成し遂げられたのであるが)、気持ちよくきれいに響くことがまずは大事であろう。その条件は充分に満たしており、彼女の安定した技量が感じられた。また、アンコールでは今回はいつものバッハのアンダンテではなく、イザイの無伴奏ソナタ第 2番の第 1楽章が演奏された。バッハの無伴奏パルティータ 3番の冒頭の模倣に始まり、悪魔的な旋回の中から、グレゴリオ聖歌の「怒りの日」が浮かび上がるという、異形の曲だ。冴えた技巧によって、曲に込められた「オブセッション」がよく表現されていた。

さて、諏訪内といえば、今年で 5回目を迎えた「国際音楽祭 NIPPON」である。
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この音楽祭の最初の年 (2013年) であったと思うが、彼女はやはりサロネン / フィルハーモニアと共演し、サロネン自身の作曲によるヴァイオリン協奏曲の日本初演を行った。その時、演奏前にサロネンが自作を語るのを聞いたが、諏訪内に一部演奏を依頼して、「上手ですねぇ」と誉めていたことを思い出す。サロネンは今後、作曲活動と指揮活動を、どのように両立させて行くつもりなのであろうか。現在はニューヨーク・フィルのコンポーザー・イン・レジデンス (日本語で言うと「座付き作曲家」ということか) であり、またフィンランド国立歌劇場のアーティスト・イン・アソシエーション (これは日本語では「提携芸術家」とでも訳しますかね) でもある。このフィンランド国立歌劇場では、あのワーグナーの超大作「ニーベルングの指環」の上演も予定されているという。サロネンの「指環」、一体どんな感じになるのであろうか。実は今回の演奏会では、アンコールにワーグナーの「ローエングリン」第 3幕への前奏曲が演奏された。これはまた、オケの機能全開の胸のすく快演であったが、そのエンディングは通常そのまま終始和音になる (原曲ではそのまま結婚行進曲に入るので) ところ、今回はフンパーディンクが編曲した劇的なエンディング (鳴り響くのは「禁門の動機」?) を使用していた。この版は決してポピュラーではないが、昔はトスカニーニが使用しており、確かクラウディオ・アバドもこのかたちで演奏していたことはあるはず。サロネンのある種のこだわりを垣間見たような気がする。彼の「指環」、一体どのようなものになるのであろうか。

このサロネン、実はウィーン・フィルとは相性が悪いという説があり、それはドイツ古典をきっちり振れないからだとも言われている (そういえばウィーン・フィルの日本公演で病気の小澤征爾の代役にサロネンが抜擢されたが、キャンセルになったことがあった)。私にはその真偽のほどは分からないが、確かに彼のレパートリーには古典派は少ないし、たとえばロマン派でも、シューマンやブラームスなどは聴いたことがないような気がする。だがその一方で、これは私がある舞台上で N 響奏者の発言を実際に聞いた話なのだが、1988年に彼が N 響に最初に登場したとき、練習場に童顔の彼が姿を現しただけで、オケのメンバーは「コイツはできる!!」と思ったそうだ。そして、N 響との共演のうち、実際にストラヴィンスキーの「プルチネルラ」などは、抜群の切れ味であったことを覚えている。どの指揮者にも持ち味があって、適性がある。作曲活動に大作オペラの指揮と、多忙な身ではあるものの、このロンドンの名門オケとの蜜月を続けてくれれば、音楽史に新たなページを加える日が来るのではないかと思う。また N 響を振りにくる時間は、ちょっとないかもしれないが、できればそれもまた実現することを期待しよう。
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by yokohama7474 | 2017-05-21 03:03 | 音楽 (Live) | Comments(2)

ウラディーミル・フェドセーエフ指揮 NHK 交響楽団 2017年 5月20日 NHK ホール

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前回の記事で、86歳の「ロシアの老巨匠が指揮するブルックナー 5番」の演奏をご紹介したが、実は今日、2017年 5月20日には、2つの東京のオーケストラがその「派生形」(?) とも言うべき演奏会を開く。ひとつは「ロシアの老巨匠」の演奏会、もうひとつは「ブルックナー 5番」の演奏会だ。このうち後者は、ジョナサン・ノット指揮の東京交響楽団によるもの。楽しみにしてチケットを購入したが、昨今の東京では珍しくないほかのコンサートとのバッティングで、「さぁ、どちらを選ぶ?」という問いに迫られ、結局あきらめることとした。だが前者の方、「ロシアの老巨匠」の演奏会には万難を排して出かけることとしたのである。1932年生まれ、今年 85歳になるウラディーミル・フェドセーエフが指揮する NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の演奏会だ。
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冒頭の写真は今月の N 響の定期演奏会のプログラムであるが、そこには 2人の指揮者の姿があしわられている。ひとりは既にご紹介したピンカス・スタインバーグ、そしてもうひとりが今回の指揮者フェドセーエフである。N 響が行っている毎月 3種類のプログラムを複数の指揮者が振り分けることは珍しくない。だが待て。私の頭の中には、既にご紹介したスタインバーグの「わが祖国」と今回のフェドセーエフの演奏会以外に、今月の N 響定期のイメージがない。・・・そう思ってプログラムをめくってみると、あ、そうだ。通常は B ブログラムとしてサントリーホールで開かれているシリーズが、同ホールの改修によって現在は開催されないのである。その間 N 響は、「水曜夜のクラシック」という NHK ホールでのシリーズと、「午後のクラシック」という平日 15時からのミューザ川崎でのシリーズを開催する。うーん、平日の NHK ホールは勤め人には厳しいし、15時の川崎に至っては、会社を休まないと無理ということになる。東京の音楽界において、いかにサントリーホールが欠かせない存在であるか、改めて思い知るではないか。

ともあれ今回の指揮者フェドセーエフは、この C 定期と、来週の「水曜夜のクラシック」とに登場して、すべてロシア音楽を指揮する。そういえば彼は今年 2月にも来日して、やはり N 響のオーチャードホール定期に登場し、これまたロシア音楽ばかりを指揮していた。フェドセーエフクラスになると、別にロシア音楽でなくてもなんでも振れると思うのだが、楽団の要請なのか指揮者の意思なのか、本当に N 響ではロシア音楽ばかり振っている印象である。以前には東京フィルにも頻繁に登場していたし、旧モスクワ放送響 (チャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラ) との度重なる来日でもおなじみのこの名指揮者については、以前にも何度かこのブログで採り上げているが、今年 85歳!! とは本当とは思えないほど元気で、椅子もなしに、立ったまま最初から最後まで指揮をするし、指揮台に上がるときには、よいしょっとばかりに勢いをつけて乗るのである!! 前回の記事で採り上げたロジェストヴェンスキーよりも 1歳若いだけであり、ロジェストヴェンスキーも年の割には充分若いと思ったが、フェドセーエフはちょっと異常なくらい若い。考えてみればこの 2人、旧モスクワ放送交響楽団やウィーン交響楽団のシェフとしての先輩後輩なのであるが、直接の交流はあるのだろうか。大変に興味のあるところである。さて今回、そのフェドセーエフが指揮したのは以下のプログラム。
 グリンカ : 幻想曲「カマリンスカヤ」
 ボロディン : 交響曲第 2番ロ短調
 チャイコフスキー : 交響曲第 4番ヘ短調作品 36

なるほど、どう見ても妥協の余地のないほどロシア音楽だ (笑)。もともとフェドセーエフには若干不思議なところがあって、ある場合にはいわゆる爆演系の指揮者になることもあれば、またある場合にはとても職人的に音色をまとめる手腕を見せるのである。その彼が指揮するロシア音楽を、実のところ私はさほどロシア的であるとは思っていない。そもそもロシア的などと言っても、一体何をもってそう言うのか。同じロシア人であっても、唯一無二の巨匠であったムラヴィンスキーと、まさに泥臭いロシアという印象のゴロワーノフは、まるで違う指揮ぶりを示している。また、日本でもカリスマ的な人気を誇った、今はなきコンドラシンやスヴェトラーノフ。あるいは件のロジェストヴェンスキーやキタエンコやテミルカーノフ、それにゲルギエフ。枚挙にいとまのないロシアの名指揮者たちには、それぞれの個性があって、ロシア的云々と言える個性があるのか否か疑問である(そう言いながらも、ロシア音楽の特性にはそれなりの理解があるつもりだが)。だから今回は、それぞれの曲の面白さを楽しみたいと思ったのであるが、さすがにフェドセーエフと N 響、見事な演奏を聴かせてくれた。

最初の「カマリンスカヤ」は、ロシア音楽の父と言われるミハイル・グリンカ (1804 - 1857) による 8分ほどの小品で、私も以前はよく聴いていたが、今回随分久しぶりに耳にした。2つのロシア民謡を引用しているらしいが、音楽自体はそれほど派手ではない。今回の演奏では、N 響の弦や木管がクリアな音で鳴っていて、退屈することなく聴くことができた。そして 2曲目はアレクサンドル・ボロディン (1833 - 1887) の 2番。いかにもロシア的な曲と言えば言えるであろうし、実際、私が中学生の頃初めてアンセルメのレコードでこの曲を聴いたときには、ちょっと泥臭くてついていけないなぁというのが正直な感想であった。それは今でも基本的に変わらない感想でもあるのだが、それでも注意深く聴くと、ここには疾走したり揺蕩ったりという音のドラマがある。たまたまロシアで生まれた情感豊かな交響曲ということで、楽しく聴くことはできるのだ。指揮棒を持たずに素手で指揮をするフェドセーエフには、もちろん祖国の音楽を広く世界に紹介したいという義務感もあるに違いないが、人間の感情を音で表すことに喜びを見出していると考えたい。それはもはや、ロシア的であるか否かは関係ないであろう。そのような普遍性を感じさせる見事な演奏であった。そうそう、そういえばこのボロディン 2番には、面白い CD がある。あのカルロス・クライバーと、その父でやはりとてつもなく偉大な指揮者であったエーリヒ・クライバーの演奏を 1枚に収めたものだ。ここでこの父子についての私の思いを述べ始めるときりがないが、確かカルロスの伝記の中で、彼が若き日にこの曲を演奏したのは、父の演奏に影響されてのことだと書いてあったはず。そう言えば、この曲の冒頭は、いかにもカルロスの疾走する音楽としてふさわしいではないか。
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えぇっと、このあたりでフェドの演奏会に戻りましょう (笑)。この日のメインは天下の名曲、チャイコフスキー 4番である。この日の曲目の流れで聴いてみると、確かにこれもれっきとしたロシア音楽であり、ロシア民謡の引用に民族性を明確に感じる一方で、そこに表れた音のドラマこそ、世界のいかなる土地でも人々の感情にそのまま訴えることのできる普遍的なものであると理解できる。チャイコフスキーは 1840年生まれで、ボロディンよりわずか 7歳年下であるだけだ。そして、前述のボロディン 2番の初演は 1877年 2月。チャイコフスキー 4番の初演は 1878年 2月。たったの 1年しか違わないのである。つまりこの 2曲は同時代音楽なのだ。だがそこには歴然とした洗練度の差があることは自明だ。チャイコスフキーは生前からいわゆる西欧派として、ボロディンらいわゆる「ロシア五人組」とは一線を画していたわけなのであるが、そのことの意味を改めて感じる機会になった。今回の演奏では、遅めのテンポ設定の中、弱音と強音の間にかなり強いコントラストがつけられ、輪郭がくっきりする一方で、このノリノリの交響曲に素直にノってしまうことを躊躇させるような雰囲気 (?) も感じられた。例えば、第 3楽章では弦楽器は弓を置き、一貫してピツィカートで演奏するのだが、陰鬱な第 2楽章から休むことなく、そのまま第 3楽章に続いたのである。全く違う世界がそこでは連続していた。一方で第 3楽章終了後、通常はそのまま勢いで第 4楽章になだれ込むことがほとんどであるところ、今回は間を置く方法が選択され、それによって弦楽器奏者たちは落ち着いて弓を手に取ることができた。だがこうなると、この曲を聴く人たち 100人のうち 100人全員が期待している、第 3楽章からそのまま雪崩れ込むべき第 4楽章の喧騒が、少し違った響きを帯びてくるのである。これはなかなか単純には行かない流れではないか。全体を通してテンポは通常よりも遅めであって、場面場面できめ細かい情感を引き出しながらフェドセーエフの見ているところは、何か現実を超えた遠い世界であるような気もした。世界音楽であるチャイコフスキー。その再現には様々な方法があり、正真正銘のロシアの宝である老巨匠が今回取った方法は、彼ならではの強いメッセージがあったのかもしれない。そう、そうなのだ。フェドは爆演タイプであることもあれば、大変に洗練されたタイプであることもある。そこには謎がある。もし次回、ロシア音楽以外を聴くことができれば、彼の世界の謎にもう少し迫れるのではないだろうか。

・・・と言いながら、今回の N 響との演奏会の次に予定されているこの指揮者の来日は、11月の手兵チャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラとのもの。ここでは、おっ、ラフマニノフ 2番という大曲が予定されている。同じロシア音楽ではあるが、その感傷性は独自のもの。聴きたいと思う一方で、例えばブルックナーなんかもいいのではないかなぁとひとりごちております (笑)。
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by yokohama7474 | 2017-05-21 01:06 | 音楽 (Live) | Comments(0)