カテゴリ:音楽 (Live)( 285 )

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この日 2つめのラ・フォル・ジュルネのコンサート、登場したのはこの音楽祭の常連、ドミトリー・リス指揮のウラル・フィル (16:15 開演、コンサート No.214)。ロシア人の指揮者とオケのコンビであるが、前の記事でロワール管弦楽団がどこに所在するかを確認したと同様、ここではまず、このウラル・フィルがどこに本拠地を置いているのかの確認から始めたい。ウラルというからには、あのウラル山脈であろう。そう、このオケの本拠地は、ウラル山脈の東側、エカテリンブルクという都市。さて、どの辺にあるのだろうか。普段使うことはまずない大判の世界地図 (アトラス) を引っ張り出してきて、広大なロシアの西の数分の一のあたりを撮影してみた。ちょっと分かりにくいが、赤い矢印の先が首都モスクワ、青い矢印が件のエカテリンブルクである。距離にして 1,500km弱。東京からだと那覇のちょっと手前くらいのイメージか。
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実は上の地図に、エカテリンブルクからウラル山脈を挟んだ反対側に、小さく黄色い矢印も入っているが、それは何かというと、ウファという街の位置を示している。なぜそこを示したかというと、私が一度出張で行ったことがあるからだ (笑)。確か、「地球の歩き方」にも載っていない街だったので、そんなところに滞在している日本人は私だけだろうと思ったら、ホテルでやはり出張中の日本人を見かけてびっくりしたのだが、まあそれはこの際どうでもよい。モスクワから飛行機で 2時間半くらいかと思うが、実は時差が 2時間あるのである。もちろんロシアでは、飛び地のカリーンングラードを含めると、実に国内で最大 10時間の時差があるという、およそ日本では想像もできない制度になっているわけだが、私のビジネス相手のウファの人は、その時差がなんとも不便であると嘆いていたものである。エカテリンブルクも同じタイムゾーンである。

ともあれこのオケの本拠地エカテリンブルクは、ピョートル 1世の妻エカテリーナ 1世 (あの有名な 2世とは別人) に因んで名づけられた街で、僻地にある小さな街かと思いきや、なんと人口約 130万、ロシア第 5の大都会なのである。
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この街のオーケストラ、ウラル・フィルがラ・フォル・ジュルネでこれほど活躍している理由は知らないが、実はこのオケ、2002年に始まったラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンよりも早く初来日を果たしているのである。私はその 1996年の初来日時に聴きに行ったのだが、その理由は、プログラムが大変意欲的であったからだ。まず、これが当時のチラシ。「ロシアから、幻のオーケストラ、初来日!」とあって、また、「今や、モスクワ、サンクトペテルブルクのメジャーを越えた!」とまで喧伝されている。
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私が聴きに行った 10月24日のコンサート、また、聴きには行けなかったがやはり大変興味を惹かれた 10月25日のコンサートの曲目は以下の通り。その意欲的なこと、分かる人には分かるだろう。
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現在の音楽監督ドミトリー・リスは、実はこの初来日の前年、1995年からその地位にある。世界で派手な活躍をするようなタイプとは少し異なり、カリスマ性はあまりないと思うが、その代わり、非常に安定した指揮ぶりで、このオケの成長に大きな貢献があったことは間違いないだろう。
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そんなリスとウラル・フィルの演奏会は、今回のラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンでは実に 7回催され、その中には、これぞダンス音楽の定番、チャイコフスキーやショスタコーヴィチ、ハチャトゥリアンのバレエ音楽もあれば、ベートーヴェンの 7番、コンチェルトの伴奏など多彩な曲目が含まれるが、私の選んだコンサートの曲目は以下の通り。
 グリンカ : 幻想的ワルツ ロ短調 (管弦楽版)
 ラフマニノフ : 交響的舞曲作品 45

なるほどロシア物の舞曲だが、少しばかり変化球だ。特に、グリンカの曲は珍曲である。ロシア音楽の父と称えられるミハイル・グリンカ (1804 - 1857) は、一般には、一気呵成に駆け抜ける名曲「ルスランとリュドミラ」序曲によってのみ (と言って悪ければ、ほかに数曲は挙げることはできるが) 知られるが、この幻想的ワルツは、もともとピアノ曲で、1839年に作曲、管弦楽への編曲は晩年の 1856年に行っている。聴いてみると確かに緩やかなワルツで、この舞曲特有のどこか夢見るような雰囲気がなかなかよい。リスとウラル・フィルは肩の力の抜けた、しかし非常に洗練された音色でこの佳曲を演奏した。グリンカはこんないかつい人だったようだが、その内面はロマンチストであったのであろう。
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メインのラフマニノフは、この作曲家最後の作品。私は以前もこのブログに少し書いたかと思うが、正直なところ、どうもこの作曲家とのつきあい方に未だに確信が持てずにいる。69歳まで生きたので、さほど短い命ではなかったものの、作品番号 45が最後の作品ということは、寡作家だったというべきか。もちろん、ピアニストとしての活動が忙しかったり、精神的に参ってしまうことも何度かあったようなので、この作品数が多いか少ないかは一概に言うことはできないが、交響曲第 2番やピアノ協奏曲第 2番や、パガニーニの主題による変奏曲の第 18変奏のような、誰が聴いても天下の名曲というものもあるが、それら以外の彼の曲に、感動のあまり心が引き裂かれるという経験はあまりない。その点、この交響的舞曲は、私にとってはマゼールとベルリン・フィルの録音で学生時代に馴染んでから既に長い間、かなり親しい曲ではある。だが最近、この曲を聴いても以前ほどワクワクしないのはなぜであろうか。ひとつには、意外と演奏が難しいのかもしれない。今回のリスとウラル・フィルの誠実な演奏はもちろん評価すべき内容だとは思ったが、私個人として、この曲に聴かれる不定形の不安や、ある種の諦念というものに、心から共感する感覚が今は少ないのかもしれない。さらに強烈な力を持った音楽を聴きたいと思ってしまうことは否めず、そうであればこの作曲家の場合は、やはりピアノ曲を坦懐に聴く方がよいのかな、と思う次第。ともあれ、演奏者の皆さんはお疲れさまでした。
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既に 20年以上のコンビとなるこの指揮者とオケが、今後ますます活躍してくれることを期待したい。今回のプログラムを眺めながら、このコンビの 7回の演奏会のうち、本当はベートーヴェン 7番を聴きに行くべきだったかなぁと思っている (ちょうど私が、既に記事でご紹介した「ホンクリ・フェス 2017」に行っていた時間帯のコンサートだったので、どのみち果たせなかったのだが)。まあ、来年以降も聴く機会があると思うので楽しみにしているが、45分完結のこの音楽祭ではなく、通常の来日公演で、例えばマーラーなどやってくれれば、喜んで聴きに行きますよ!!

by yokohama7474 | 2017-05-06 01:03 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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東京有楽町にある東京国際フォーラムを舞台に 3日間に亘って繰り広げられるクラシック音楽の祭典、ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの 2日目。数々のコンサートの中から私は、3つの海外オーケストラの公演を選んで聴きに行くこととした。いずれも会場は A ホール。音楽祭に使われる 6つのホールのうち最大で、実に 5,008の客席を持つ。それぞれにかなりの入りであり、特に最初にご紹介するこのロワール管弦楽団の演奏会 (14:15 開演、コンサート No. 213) は、見たところほぼ満員の大盛況だ。会場は満 3歳以上なら入場可であり、確かに、かなり小さいお子さんを連れた人の姿もそこここで見られた。だが、客席は非常に整然としており、皆静かに音楽に耳を傾けていた。これはなかなか日本以外の国にはない聴衆マナーであろうと思われる。

さて、このコンサートで演奏したのは、フランス国立ロワール管弦楽団。指揮は、2014年からこのオケの音楽監督を務めるフランス人のパスカル・ロフェ。フランスは従来、日本以上に経済も文化も中央集権主義、つまりはなんでもかんでも首都に集中しているという評価になっており、国内ではそれがいけないという論調があるとは、もう随分以前に耳にした話。音楽に関しては、パリの名門オケもそれぞれに浮沈があり、すべてが盤石というわけではない状況である一方、地方都市ではなんと言ってもリヨンは素晴らしいオペラハウスとオーケストラを持ち、トゥールーズも過去 20年ほどで成長著しい。それ以外にも、ストラスブールだとかリルとかボルドー (アキテーヌ) いった都市のオケも、最新状況は知らないが、かつてはそれなりの頻度で活動を耳にした。そんな中、ロワールのオケとは? 私の理解では、ロワールという都市はなく、それは地方の名前であって、古城めぐりで有名だ。いつかは行ってみたいシャンボール城。
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実はこのオケ、ペイ・ド・ラ・ロワール (Pays de la Loire) という地域名を関しており、その本拠地は、ナントとアンジェ。ナントがこの地方最大の都市であり、そ、そして、な、ナント、この街こそが、ルネ・マルタンという発起人が 1995年にこのラ・フォル・ジュルネ音楽祭を起こした街なのである。そう、なんのことはない、この国立ロワール管弦楽団は、この音楽祭のお膝元のオケであったのだ。そういえば以前、オランダの名匠で、東京交響楽団の前音楽監督であるユベール・スダーンが以前このロワール管の音楽監督で、そのコンビのフランス音楽の CD を 2枚ほど聴いたことがあって、なかなかよかった記憶が甦ってきた。

そして現在の音楽監督のロフェは、1960年生まれのフランス人。1988年のブザンソン指揮者コンクール (佐渡裕優勝の前年) 2位で、その後はピエール・ブーレーズが組織した現代音楽専門楽団、アンサンブル・アンテルコンタンポランで長らく指揮をした経歴を持つ。だがそのようなイメージとは裏腹に、気難しそうには見えないし、今回も以下の写真のような恰好で (つまり、男性楽員は全員ネクタイを締めて演奏したのに、指揮者だけはノータイで) 指揮した。その指揮ぶりは晦渋さのない非常にストレートなもの。
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今年のラ・フォル・ジュルネのテーマはダンスであるので、何かしら踊りに関係のある曲が選ばれているが、このコンサートはまた、なんとも親しみやすくてポピュラーな曲を揃えてきたものだ。
 デュカス : 交響詩「魔法使いの弟子」
 サン = サーンス : 死の舞踏作品40
 ラヴェル : ボレロ

それぞれの曲のイメージを並べてみよう。
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ボレロだけは CD のジャケット (私の好きなクラウディオ・アバド指揮ロンドン響の演奏) になってしまったが、なるほどそれぞれにダンスと関係していますねぇ (笑)。実際これはなかなかよくできたプログラムで、すべてフランス音楽で固めており、かつそのヴァラエティもなかなかだ。私はどの曲も長く親しんでいるし、どれも大好きだ。フランス音楽らしい、冴えた音を粋にまとめた洗練された演奏で聴きたい。そして今回のロフェとロワール管の演奏、その期待に見事に応えてくれ、いずれも大変楽しめる演奏になったのである。例えば「魔法使いの弟子」でほうきが呪文によって動き出すあたりのとぼけた味わいと、そのあとのシャレにならない大騒動の対比。「死の舞踏」での骸骨たちの骨の軋みを表す木琴のクリアな響きと、緩やかながら楽し気な低音部の動き。ボレロでの各楽器の (例えばコントラファゴットの) 余裕のある歌い方。それぞれに異なる踊りを粋に演出してくれた。この大きなホールだから、多分多少 PA は使っているのだろうが、私は 1階の比較的前の方で聴けたので、音響的にも不足はないし、左右に大きな画面が出るので、奏者の表情もつぶさに見ることができて、これも実に楽しい。あ、そういえば、女性コンサートマスターは東洋人であったが、調べたところパク・チユン (Park Ji Yoon) という韓国人のようだ。大変素晴らしいつややかなソロであった。ちなみに、同姓同名の女優もいるようだが、別人です。
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聴くたびに鳥肌立つボレロの最終和音を聴いて、私は早々にホールを退出してしまったのだが、その後館内放送で、そのボレロのラスト 1分くらいが突然また始まったのが聞こえたので、恐らくは、聴衆の鳴りやまぬ拍手に応えてアンコールを演奏したものだろう。惜しいことをした。だが、あの熱狂の終結部は未だに耳に残っているのである。あー、いつの日かロワールで古城めぐりをしながら、地元ナントでこのオケを聴く日がくることを夢に見るのである。

by yokohama7474 | 2017-05-05 23:28 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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前項のラ・フォル・ジュルネの演奏会を聴き終わり、屋台の焼きそばをかきこんで、急いで向かった先は池袋。東京芸術劇場で 17:30 開演のコンサートを聴くためである。その名は、「ボンクリ」。なに? 聞きなれない言葉だし、桃栗三年柿八年のような語呂だが、一体どういう意味なのか。実は、「ボーン・クリエイティヴ」の省略形。つまり、「人間は皆、生まれつきクリエイティヴだ」ということを意味しているそうな。では一体どのようにしてそのクリエイティヴな人間の能力が発揮されるのであろうか。実は、私が聴いたこの現代音楽のコンサート以外にも、終日会場の東京芸術劇場ではワークショップやセミナーが開かれていて、子供から大人までが事前申し込みによって参加できたという。演奏家も多く集い、新しい音を求めて終日ワイガヤをしたり真面目に演奏したりするらしい。今年から新たな企画として始まったとのことだが、このイヴェント全体のアーティスティック・ディレクターを務めるのは、作曲家の藤倉大。1977年生まれだから今年 40歳。このブログでも何度か言及してきている。これは以前テレビでも特集を見たことがあるが、現代音楽の大御所であり、藤倉の師匠でもあったピエール・ブーレーズとの貴重なツー・ショット。
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彼はロンドン在住で、その活躍はまさに世界的なのであるが、このような意欲的な企画を日本で実行してくれるとは嬉しい限りである。以下にご紹介する通り、これは東京の文化シーンにおいて見逃せない試みであり、このような試みの繰り返しから、日本の音楽界は進化して行くに違いないと思うのである。私の場合は、あるコンサートでもらったチラシの束の中に、上に写真を掲げたこのコンサートのチラシが目に留まり、「これはなんだろう?」と思って内容を確認した結果、これは是非聴きたいと思ったのである。というのも、作曲家として、藤倉以外に坂本龍一や武満徹、大友良英 (NHK 朝ドラ「あまちゃん」のテーマで知られる) の名前まであるではないか!! 演奏者には現代音楽を専門に手掛けるアンサンブル・ノマド (指揮 : 佐藤紀雄)、ソプラノの小林沙羅、そして、雅楽の伶楽舎と、意外な顔合わせである。チケットは 3,000円とお手頃だし、是非覗いてみたいと思ったもの。ここで曲目を書いておこう。まさに今躍動している音楽を中心に聴くことで、音楽には一体どんなことができるのかを考える面白い機会である。
 デヴィッド・シルヴィアン : Five Lines / The Last Day of December (ライヴ版世界初演)
 坂本龍一 : tri (ライヴ版世界初演)
 武満徹 : 雅楽「秋庭歌一具」から第 4曲「秋庭歌」
 同上 ライヴ・リミックス
 ブルーノ・マデルナ : 衛星のためのセレナータ
 大友良英 : 新作 (終演後「みらい」と曲名発表) (世界初演)
 坂本龍一 (藤倉大編) : thatness and thereness
 藤倉大 : フルート協奏曲 (アンサンブル版日本初演)

ざっと順番に見て行くと、まず最初の曲を作ったデヴィッド・シルヴィアンであるが、私はその名を知らなかったのであるが、もともと英国のニューウェーヴバンド、ジャパンの中心メンバーで、解散後も坂本龍一その他のミュージシャンとのコラボを行い、最近は前衛音楽分野でも活動しているらしい。
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彼は藤倉とは友人であるようで、この 2曲を楽譜に起こしたのは彼らしい。最近活躍著しい小林沙羅が、完全にオペラの歌唱法できれいに歌い上げたが (歌詞は英語なのであろうが、全然聞き取れなかった)、伴奏は弦楽四重奏を中心とした不思議な音楽で、心地よい浮遊感を味わうこととなった。
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2曲目の坂本の「tri」は、音程の違う 3つのトライアングルが響きあう異色の作品。前半は残響あり、最後の 1/3 くらいでは、残響をなくしてドコドコと乾いた音であった。メロディがなく、リズムだけであって、単純に響いていたように思うが、実は緻密に書かれているそうな。ここではイメージショットを (笑)。
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3曲目は、かつてこのブログでも昨年の全曲上演について記事を書いた、武満徹の雅楽「秋庭歌一具」からの 1楽章。演奏前に藤倉が、東京芸術劇場の担当者の女性と舞台に出てきて、今回のコンサートについて少し語ったが、「自分が尊敬する演奏家の人たちに出てほしいとお願いすると、ほとんどの人が OK して頂いて感激しています」とのこと。但し、舞台設営に 5分くらいかかるはずが、2 - 3 分で終わってしまったため (笑)、インタビューは尻切れトンボとなってしまったのが残念。ともあれ、雅楽演奏集団である伶楽舎のメンバー (笙の宮田まゆみを含む) が、相変わらず美しい演奏を披露した。この曲、よく聴くと本当に武満が常に目指していた移ろい行くものの儚さがよく表現されていて、心に深く残る曲である。残念ながら口ずさむことはできないが (笑)。これも雅楽のイメージで。
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この演奏中、後ろの席でヘッドフォンをつけながら何やら機械をいじっていたのは、ノルウェー人のヤン・バング。演奏終了後、怜楽舎のメンバーが引き上げると、藤倉と、それからやはりノルウェー人トランペット奏者のニルス・ペッター・モルヴェルという人が出てきた。PC が 2台開いていて、藤倉とバングがそれを操作。どうやら先刻の「秋庭歌」の演奏に加工を施したものが響き、そこにトランペットの即興が加わるというもの。音楽のデジャヴュのような不思議な効果を感じた。

休憩後最初は、20世紀半ばの前衛音楽の闘士、ブルーノ・マデルナ (1920 - 1973) の作品。アンサンブル・ノマドと、伶楽舎の人たちも一緒に演奏したが、最初はチューニングかと思ったら、それが曲の開始でした (笑)。「衛星のためのセレナータ」という題は、衛星の打ち上げの際に演奏すべく委嘱されたかららしいが、かなりの部分を即興で演奏する、まぁ今聴くと、「昔懐かしい現代音楽」のように聞こえてしまうのはやむないかもしれない。マデルナ自身には私も興味があって、以前はよく FM で彼の曲を聴いたし、指揮者としても、CD を見つけたらなるべく買うようにしている。
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次が面白くて、大友良英の「みらい」。アンサンブル・ノマドの指揮者でありギタリストでもある佐藤紀雄が、静かに抒情的なメロディをギターで弾きだすと、徐々に楽器が増えて音楽が盛り上がり、その間ギターは同じリズムを刻んでいる。そして、ターンテーブルを操作してギシギシギュルギュルという音を出す大友自身。やがて音楽はまた静まって、最初と同じギターのソロで終わる。新奇な音をいっぱい聞かせてもらったが、なかなか抒情性ある曲で、かつ前衛的。「あまちゃん」のテーマのあのノリのよさは、彼の一面に過ぎないのだと実感した次第。
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次は、坂本龍一の曲の藤倉による編曲。この thatness and thereness という曲は知らなかったが、1980年、彼の 2枚目のアルバムに入っているらしい。原曲を知らないと今一つ乗れなかったのが残念。これが若き日の坂本。わ、若い・・・。
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最後に演奏された藤倉のフルート協奏曲では、クレア・チェイスという米国の女性フルート奏者がソロを務めた。過去 10年で 100曲以上の新曲を初演しているというからすごい。今回は実に 4本のフルート (1本はピッコロ?) を持ち替えての演奏で、最大のものはなんと彼女の身長を超える大きさ。ちょうど数字の 4の、足の部分を長くしたような形態をしており、横棒のあたりにちょうど口が来て、そこから空気を吹き込みながら、左手ではガッチリ楽器を持ち、右手でガツガツと音を立てながら穴を押さえるという壮絶な演奏ぶり (笑)。曲自体も、藤倉らしい、重層的で、でもどこか抒情的な不思議な音楽。ただ、旋律を奏でずにぷっぷっと息を吹き込みながら短いタンギングで音を切る奏法が多く聴かれ、その点は若干耳についたような気がする。これは彼女のアルバム。
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現代において、新たな芸術音楽を創造するとは、どういう意味があるのか。音楽のジャンル分けは必要なのか。いわゆるクラシック音楽を聴いているだけでは、音楽の未来はないのだろうか。私自身は現代音楽にも多大な興味があり、なるべくオープンにあれこれ楽しみたいという欲張り者だが、時にそのような疑問の数々を抱くことがある。そんなときには、実際に現在創られている音楽をステージで聴くのが最も効果的。今回のような盛りだくさんな音楽に触れられる機会はそう多くないものの、関係者の方々の熱意に最大限の経緯を表するとともに、今後もこのような企画に積極的に接していく聴衆のひとりでありたいと思っている。ボンクリ、覚えておこう!!

by yokohama7474 | 2017-05-05 03:09 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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先に採り上げたコンサート終了後、速攻で一軒美術館を訪れ (その記事を書くのはしばらく先になってしまうが・・・)、15:45 から開かれたコンサート 144、再び井上道義指揮の新日本フィルの演奏を聴いた。今回の曲目は以下の通り。
 ピアソラ (マルコーニ編) : ピアソラ・セレクション (バンドネオン独奏 : 三浦一馬)
 バカロフ : ミサ・タンゴ

なるほどそう来たか。ここでは、アルゼンチンを代表するダンスであるタンゴが題材となっている。これもなかなかの慧眼だし、何より楽しいではないか!! タンゴとなるともちろんバンドネオン。ここでは 1990年生まれと未だ若手ながら、世界的な活躍をしている三浦一馬がソリストとして登場する。
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まず最初に 10分弱であろうか、彼のソロで、名実ともにタンゴの巨匠であるアストル・ピアソラ (1921 - 1992) の「グラン・タンゴ」その他をつなげた曲が演奏されたが、この編曲は、現在世界最高のバンドネオン奏者であるネストル・マルコーニ (1942 - ) によるもの。このマルコーニはピアソラ本人とも何度も共演しているが、現在に至るも三浦の師匠であるそうだ。アルゼンチン発祥の、怪しく、時にいかがわしささえ漂うタンゴという音楽は、もともと日本人からは非常に遠い存在であるはずだが、なぜかその音楽には世界共通のノスタルジアがあるようだ。前項の伊福部昭の音楽が日本人の精神性に根差した音楽であるとすると、これは地球の裏側からやってきた音楽である。だがそれを日本人が演奏することで音楽そのもののよさを味わうことができるはず。今回の三浦のソロは、ホール (1492席) がソロには少し大きすぎたかなと思わないでもないし、怪しさよりは流れのよさを感じさせるものであったようにも思うが、それでもそこに漂う詩情はただものではないと思った。

そしてメインの曲は、ルイス・バカロフ (1933 - ) のミサ・タンゴ。バカロフはアルゼンチン生まれのイタリアの作曲家で、映画音楽を多く手掛けている (代表作は、「フェリーニの『女の都』」や「イル・ポスティーノ」)。このミサ・タンゴという曲は、文字通りタンゴのスタイルを使ったミサ曲という変わり種なのである!! 演奏時間は約 35分。珍曲ではあるが、実は私は以前からこの曲を知っているのだ。というのも、チョン・ミョンフン指揮サンタ・チェチーリア音楽院管弦楽団による CD を所持しているからなのである。私の場合、持ってはいても未だ聴いていない CD が山ほどあるが (苦笑)、これは大丈夫、数年前に中古で購入して聴きましたよ。もともと私はピアソラが大好きで、ブームになったクレーメルのシリーズやヨーヨー・マのアルバムや、自作自演までいろいろ録音を持っているが、その流れで、どこかでこの曲のことを知り、そしてこの録音の存在を知るに至ったものだ。この盤のひとつの特色は、テノール独唱をあのプラシド・ドミンゴが担当していること。彼らしい視野の広い活動ぶりである。
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実際、今回のこのプログラムを見たときに、この曲を選ぶとはさすがミッチー!!と思ったのである。これはもちろんミサ曲であるから宗教的であることは間違いないのだが、そこには大衆性もあって、もの悲しいバンドネオンが、タンゴの情緒を宗教性と結び付けているのである。今年のラ・フォル・ジュルネのテーマはダンスであるから、確かにこの曲はそのテーマに沿ったものであると言える。この曲、キリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイと、通常のミサ曲の構成を取るものの、歌詞はラテン語ではなく、どうやらスペイン語なのだ!! そして今回、男声ソロはテノールではなくバリトンのガスパール・コロン、女声ソロは二期会のメゾソプラノ、池田香織。合唱は、これは新日本フィルとの顔合わせは初めてではないかと思われる、東響コーラス (つまり、東京交響楽団専属のコーラス) という顔ぶれ。もちろんバンドネオン独奏は三浦一馬である。

興味深かったのは、合唱団が全員暗譜で歌ったこと。相当な練習をしたのであろう。力強い箇所も繊細な箇所も、自信をもった歌いぶりだ。一方、独唱の二人のうちバリトンは、特に最初のうちは声量が充分でなく、何か落ち着かない様子であったが、体調でも悪かったのだろうか。その点メゾの池田は余裕の歌唱ぶりで、バリトン歌手に出番のあとの着席を促すなどしていた。井上指揮するオケはここでも大変に美しい演奏を聴かせており、そのメリハリは最高度である。新日本フィルの場合、最近特に演奏を楽しんでいる感じを覚えることが増えてきた。井上はかつてこのオケの音楽監督を務めており、私もその頃よくこのコンビを聴いたが、正直なところ、今の方があらゆる意味で進化していると思う。いわゆるミッチー節は、このような変化球でよく生かされるということは言えるかもしれないが、これからは、この手の珍品や現代音楽に加え、スタンダードなレパートリー、例えばブラームスなどやってみても面白いのではないだろうか。

などと勝手なことを唱えてはいるものの、とにかくこの 2回のコンサート (内容的には通常の 1回分だが)、大変充実した内容で、堪能した。実は明日、いやもう日が変わって今日になっているが、もう一度マエストロ井上のコンサートに行く予定としている。これも、今の彼なら大変期待できる曲目なので、楽しみなのである。私もちょっと記事のネタが溜まっていてちょっと時間が足りない状態であるものの、コンサートに関しては極力タイムリーに記事を書くというこのブログのポリシーに則って、がんばります!!
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by yokohama7474 | 2017-05-05 01:34 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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今年もゴールデン・ウィークの東京に、熱狂の日々がやってきた。3連休の間、文字通り朝から晩まで入れ替わり立ち代わり、世界的な名声を持つ人たちを含む多くの音楽家が登場する大規模な音楽祭、ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンである。今年も会場の東京国際フォーラムは大勢の人で賑わっている。沢山の屋台でエスニックや B 級グルメを含む食べ物・飲み物が販売され、コンサートのハシゴを楽しむ人たちの胃袋を満たしている。また、無料コンサートも開かれており、押し合いへし合いだ。例年のことながら、クラシック音楽を聴く人ってこんなに多かったっけ??? という嬉しい悲鳴の上がる大盛況なのである。
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この音楽祭には毎年テーマがあるのだが、今年は「La Danse 舞曲の祭典」というもの。もともとフランス発祥の音楽祭であるので、もともとのテーマはフランス語で設定されているのだが、まあ要するに、ダンスに関係する音楽を集めている。なるほどこれはよい着眼点だ。なぜなら、バロックの世俗音楽はその多くが舞曲だし、近代のオーケストラ曲には沢山のバレエ音楽の名曲がある。実際のプログラムを眺めてみると、リズムのある音楽ならすべてダンス音楽に分類できるだろうというばかりの幅広い曲目が並んでいる。作曲家として見当たらない名前は、そうだなぁ、ウェーベルンとブーレーズくらいかな (笑)。まあそれは冗談としても、毎年のことながら、よくもこれだけの音楽家を揃えてこれだけ多彩なプログラムを組めるものだと感心する。公式プログラムには、3日間で 350公演、2,000人のアーティスト (これはさすがにオーケストラの楽員数もすべて含めての数字であろう) が出演するという。尚この音楽祭、一回のコンサートの演奏時間は約 45分で、途中に休憩がない。それゆえ人々は、コンサートからコンサートへハシゴすることが可能なのである。

そんな中、初日の 5/4 (木・祝)、私が出かけたコンサートは二つ。スケジュールを眺めていると、ピアニストやヴァイオリニストを中心に、本当に一日中聴いてみたい音楽家の名前が並んでいて悩んでしまうが、とりあえず今日はオーケストラコンサート二つに絞ることとした。そのいずれもが井上道義指揮の新日本フィルによるもの。この記事でご紹介するのは、13:45 から行われたコンサート 143 というもので、曲目は以下の通り。
 伊福部昭 : 日本組曲から 盆踊、演伶 (ながし)、佞武多 (ねぶた)
 伊福部昭 : オーケストラとマリンバのためのラウダ・コンチェルタータ (マリンバ : 安倍圭子)

なるほど、日本の土俗的なリズムを使った曲を多く書いた伊福部昭 (1914 - 2006) の音楽は、まさに踊りの音楽の恰好の例である。フランスをはじめ世界各国で開かれているラ・フォル・ジュルネであるが、日本での開催では日本ならではの曲を聴く意義が大きい。また、このブログであまり関連記事を書けていないが、私は伊福部音楽のかなりのファンで、CD もわんさか持っているのである。
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伊福部昭は一部ファンには大変な人気なのであるが、一般にはあまり知られていない名前かもしれない。そういう人には、あの「ゴジラ」の音楽を書いた人だと言えば通じるというのがまあ共通認識ではあろう。伊福部本人は、あまりに「ゴジラ」の作曲家と呼ばれすぎるのを嫌がっていた気配はあるが、もちろんオリジナルの 1954年の「ゴジラ」だけでなく、一連の東宝怪獣映画において彼の音楽はまさに欠かせないものであったし、「大魔神」を含めた昭和の特撮映画において、何か巨大なものがうごめくその迫力は、誤解を恐れずに言ってしまえば、あたかもブルックナーの交響曲のように壮大な響きを持って、今も人々の心を揺さぶるのである。そして、こちらはこのブログでは再三ご紹介してきた、指揮者の井上道義。今の彼の指揮をできる限り聴きたいと私はいつも思っているし、今回のコンサートでの曲目ならなおさらだ。
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演奏前に指揮者の井上 (愛称ミッチー) が舞台に出て来て、「1分半だけ喋ります」とのこと。この人の語りは面白いので、聴衆は大喜びなのだが、いわく、この GWの「みどりの日」(これは以前は 4/29 だったものが、今では 5/4 に変更になっているのですな) に伊福部の音楽を聴くのは大いに意義のあること。今回はほぼ満席で嬉しい。自分は伊福部と生前面識があったが、彼の音楽は日本人の心に深く根差していて、まさに大地の泥を踏みしめた音楽。騎馬民族の西洋人の音楽とは違う。今回演奏する「日本組曲」(注 : オリジナルのピアノ版は 1934年作曲) については、あまりに日本的なので「こんな音楽を書いて恥ずかしい」という声も当時あったが、とんでもない。そもそも日本は、昔は泥だらけ。自分の生まれた成城学園のあたりもそうだったし、このあたり (東京・有楽町界隈) だって、50 - 60 年前だったらまだ泥もあったはず。どうせ人間死んだら泥に返るのだから、是非このような音楽を楽しんでほしい。これがミッチーのメッセージであり、私は席でウンウンと大きくうなずいたのであった。

そして演奏された音楽は実に力に満ちて説得のある、かつクリアな音質のもので、最高の伊福部音楽の演奏であったのではないだろうか。井上の指揮はまさに、自らが踊っているようなもの (笑)。この人はもともとバレエダンサーであったので、昔から身振りが派手ではあったが、最近の彼は、その身振りに合うだけの素晴らしい音が鳴っている点、毎回感服するのである。実は今調べてみて分かったことには、この「日本組曲」の管弦楽編曲版は 1991年に作られていて、それを初演したのが、今回と同じ井上道義と新日本フィルであったのだ!! なるほど、井上はそのような言い方はしなかったものの、このコンビとしてはやはり思い入れの深い曲であったのだ。聴衆には若い人もいたので、我々の世代とは異なる耳で、伊福部音楽を聴いて行って欲しいと思うが、そのためにはこのような演奏に数多く触れて欲しいものだと思う。

さて、2曲目に演奏されたのは、マリンバ奏者として長らく世界でもトップを走り続ける安倍圭子が登場し、彼女の委嘱によって書かれた伊福部の「ラウダ・コンチェルタータ」(1976年) である。ここでも舞台転換の間に井上が出て来て説明することには、安倍より前にマリンバがオケの前で独奏を弾くようなことはなかったが、彼女の功績で沢山のマリンバのための曲が書かれた。弟子の数は既に、5000人や 1万人でない、大変な数だろう。既に 80歳だが、男の 80 よりも女の 80 の方が元気なのだと発言して会場を笑わせた。それから、一度袖に引っ込んでからまた出て来て、ひとつ言い忘れたが、安倍さんは今回アイヌの恰好で出てくるが、これは、北海道出身の伊福部の音楽がアイヌの文化の影響を濃く受けているからだと説明した。もちろん私は安倍の実績を知っているし、以前にもやはりこの曲を井上の指揮をバックに演奏したのを聴いたことがあるが、80歳と聞いてびっくりだ。
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演奏の質の高さについては改めて言うまでもないだろう。時に激しく、時に瞑想的に、安倍のマリンバは縦横無尽だ。若い頃はさらに切れ味があったかもしれないが、依然として技術的には申し分ない上、表現が大変に多彩であると思った。それにしてもマリンバの音の温かいこと。壮大な森林の中に響き渡る木霊の声といった風情である。ここには、日本でこそ味わえる日本の音楽がある。伊福部音楽の懐の深さを改めて実感できる、素晴らしい演奏であった。

これもダンスの一形態。何よりも、聴き終えて満足そうに会場を出る人たちの顔に、通常のコンサートではあまり巡り合うことのない高揚感があった。ラ・フォル・ジュルネ、今年も大盛況なのである。

by yokohama7474 | 2017-05-04 23:47 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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つい 2日前のアラン・ギルバート指揮東京都交響楽団の記事で、会場となった大阪のフェスティバルホールに私は何度か言及し、「次のフェスティバルホール体験はいつになるだろうか・・・」とつぶやいて記事を終えたが、あろうことか、その舌の根も乾かぬうちに同ホールを再訪している私 (笑)。全く人が悪いというか悪運が強いというか、一体なんなんだと思われる方もおられよう。種明かしをすると、前回の演奏会で聴くことのできたこのホールの音響が非常に気に入ったので、帰りがけにチケット売り場によって、ほとんど売切れに近かったこの公演のチケットを購入したというのが真相。ちょっとほかに大阪に用があり、有給休暇を取れる算段だったという事情もあるが、第一の理由はもちろん、期近のこのホールでの公演を調べて、おっと思うような魅力的なコンサートが見つかったからである。つまり、私の敬愛するマエストロ大植英次が、かつて音楽監督を務め、現在では桂冠指揮者という地位にある大阪フィルハーモニー交響楽団 (通称「大フィル」) を振る。最近大植を東京で聴く機会がなかった (去年府中で東京交響楽団を指揮するなどの機会もあったが、聴けなかった) ので、これは本当に貴重な機会。しかも後述の通り、その曲目が特別なのである。
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さて、新フェスティバルホールの第 2回の経験だが、前回は 14時からのコンサートであったところ、今回は 19時開演。ホワイエは薄暗く、なかなかにシックな感じだ。その名も中之島という、川と川の間の中州に建っているホールであり、建物に何本も刻まれたスリットから外を見ると、川とオフィスビルの組み合わせも都会的。大阪という大都会ではあるが、いつも見慣れた東京のホールの雰囲気とはまた違っていて、なんだか楽しくなってくる。以前からの私の夢は、定年退職したら、欧米各地に加えて日本でも、各都市にあるホールでその土地のオーケストラを聴いて回りたいというもの。その意味では、ここ大阪でその練習をしていると言ってもよい (笑)。コーヒーを飲むためのテーブルには、ロウソク風の卓上照明があり、目を上げるとホワイエに設置された電球が星々のようで美しい。
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では、私としては久しぶりに聴くこととなったこのコンビの今回の曲目、一体いかなるものであったのか。
 ベートーヴェン : 交響曲第 7番イ長調作品 72
 オルフ : 世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」

うーん、これは凄い。熱狂的な力を持つ大植の音楽が、最初から最後までリズムに乗って躍動するのが聞こえるようだ。そもそも、超のつく名曲であって、普通はメインに置かれるベートーヴェン 7番を前座にするとはなんと大胆な。もちろん、過去にも例えばマタチッチの最後の NHK 交響楽団への登壇の際 (メインはブラームス 1番) とか、確かシノーポリとフィルハーモニア管の来日公演でも (メインは「英雄」) 例があったと記憶するが、いずれにせよ大変異例。メインの曲目によほど自信がないとできない選曲であろう。もちろんベートーヴェンはこのオケにとって、育ての親であった朝比奈隆が生涯真摯に向き合った重要なレパートリーのひとつであるが、既に時代は移り、あのような重厚な音でベートーヴェンを演奏することはもはやなくなってしまった。だが、実際に充実した音が鳴っている限りは、演奏スタイルなど些末なこと。とにかく説得力のある音楽を聴きたい。その点今回の大植の演奏は、このコンビの持ち味を充分出したものであったと言えると思う。冒頭の和音からして弦楽器の響き合いが美しく耳をとらえ、そしてとにかく、この曲に必要な推進力に重点が置かれて演奏が進んで行った。編成はコントラバス 6本で、ヴァイオリンの左右対抗配置を取るという、昨今のスタンダードというべきスタイルであり、過剰な情緒を排してテンポも堅実であった。だが、そこには常に前に進む意志が感じられ、第 1楽章・第 4楽章とも提示部の反復がなされなかったのは、昨今では珍しいくらいだが、それも音楽の推進力を維持するためだったと解釈したい。それから興味深かったのは、第 1楽章の後半、リズムに乗りながら音楽が熱して行く箇所で、大植が指揮棒を使わず、素手で指揮したことだ。そもそもこの人、演奏中に突然指揮棒が姿を消したりまた現れたりと、魔術的なことがよく起こるのであるが (笑)、きっとあの独特の上着の袖の部分に、指揮棒が収納できるスペースが設けてあるのだろう。いずれにせよ、通常なら、リズムが勝った箇所ではなく、歌をオケから引き出すべき箇所において、指揮棒を使わない指揮者が多い (例えば小澤征爾は、現在では全く指揮棒を使わなくなってしまったが、若い頃は、オケから歌を引き出す箇所では必ず素手で指揮していたものだ)。その意味では今回大植が素手で指揮した箇所は、若干異例であったと思うが、オケから出る音全体を、なんというか、より高みに引き上げたいという意図の現れであったのではないか。それとは対照的に、指揮棒なしで演奏したくなるような、それこそ歌が必要な箇所である第 2楽章冒頭など、中音域を担うヴィオラのよく練れた表情を、きっちりと指揮棒を持って引き出していた。全体を通して、ホルンなどに若干の課題がないではないと思ったが、冒頭の和音から終楽章のヴァイオリンの手に汗握る掛け合いまで、大植の強いリードが、現在の大フィルの、これはこれで大変充実したベートーヴェンを実現していたと思う。

そして後半、ドイツのカール・オルフ (1895 - 1982) の「カルミナ・ブラーナ」(1937年初演) であるが、これはまた本当に血沸き肉躍る傑作なのである。中世ラテン語の歌から作曲者が歌詞を集めてきており、大規模な混声合唱と児童合唱を縦横に駆使した作品なのであるが、そのいちばんの特徴は、執拗なリズムなのである。炸裂する大オーケストラと合唱の音響を彩るそのリズムは、一度聴いたら絶対に忘れないし、何か呪術的なものさえ持ち合わせる曲。私はリッカルド・ムーティが若い頃に録音した、これ以上ないほどキレのよい演奏でこの曲に親しんだのだが、そのジャケットが曲のイメージをよく伝えているので、ここに写真を掲げておく。
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このメインの大曲で大植は、ベートーヴェンでの配置と異なり、第 1ヴァイオリンと第 2ヴァイオリンを向かって左に並べ、指揮者の右側にはヴィオラが陣取った。このような劇的な曲は前半のベートーヴェン以上に大植のテンペラメントに合っていると私は思うし、実際、最初の「おお、運命の女神よ」から流れ出た音の奔流には、圧倒されるばかり。細部にまで目の届いた実に輝かしい名演で、ここでは大胆にテンポを落としたり少し煽ったりする箇所も聴かれて、明らかにベートーヴェンを演奏するスタイルとは異なっていた。そのような違ったスタイルを使い分けることができるのも、気心のあったオケであるからだろう。そして、大フィル専属の大阪フィルハーモニー合唱団も、この曲に必要な野性味を充分に発揮して素晴らしかったし、暗譜で歌った大阪すみよし少年少女合唱団も熱演。さらに加えて、3人のソリスト、すなわち、ソプラノの森 麻季、カウンターテナーの藤木 大地、バリトンの与那城 敬も、それぞれ達者で、楽しめた。特に森の変わらぬ高音の美声には拍手。ただ、髪はこの写真よりもはるかにキンキンで、まるで人形の金髪のようであったが (笑)。
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振り返ってみて、まさにリズムの饗宴という曲目ではあったものの、残ったイメージはむしろ、何か大きな山が動いたような充実感だ。オーケストラ音楽の場合、リズムはリズムだけで終わらず、つまりその場で飛び跳ねるのではなく、常に前に進んで行くパワーとなる。今回のこのコンビの演奏で、そのことに気づかされたような気がする。そしてもうひとつ。「カルミナ・ブラーナ」の歌詞には下品であったりエロティックであったり、あるいは自暴自棄や皮肉などの、人間的な感情があちこちに散りばめられている。なにせ歌詞が中世ラテン語という特殊言語だから、子供たちでも照れずに歌えるという面もあるかもしれない (笑)。だが私はこの曲がこの大きなホールで響いているのを聴いていて、個々の人々の人生の集合がここで響いているのだなぁと思うと、なんとも高揚した気分になったのである。大阪の街で、大阪の人たち (と、若干数 ? の訪問者たち) が音楽に耳を傾けることの意義。教養とか文化とかいう能書きはなくとも、その音楽を楽しむことはできるが、平和や一定の経済力がないとそうはいかない。だから、このような音楽を実際に体験できる我々は、本当に幸せなのである。そしてこのホールは、大阪の人々にそのような幸せを与える、貴重な場所なのだ。

この大フィル、今後も素晴らしい指揮者陣が登場する。これが会場に貼ってあったポスターだが、左から、5月に登場するウラディーミル・フェドセーエフ (チャイコフスキー 5番など)、6月の準・メルクル (「ペトルーシュカ」など)、7月のエリアフ・インバル (マーラー 6番!!)、そして、写真では暗くて見えないが、9月はユベール・スダーン (シューベルト) だ。錚々たる顔ぶれではないか。
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普段なかなか体験できない大フィルの定期演奏会を堪能したので、ちょっと味をしめて、また次回はどうしようなどと考え始めている私。首尾よく行けば、またこのブログでご紹介します。井上道義体制から尾高忠明体制への音楽監督移行も注視したい。

by yokohama7474 | 2017-04-25 23:29 | 音楽 (Live) | Comments(2)

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4月19日の記事で、米国の名指揮者アラン・ギルバートと東京都交響楽団 (通称「都響」) との意欲的な演奏をご紹介したが、このコンビが今回取り組んだもうひとつのプログラムは、東京では昨日、4月22 (土) に東京芸術劇場で行われた。あいにく私はそのとき、NHK ホールでファビオ・ルイージ指揮の NHK 交響楽団の演奏会を聴いていたので、聴くことができなかった。だが、物事やはり様々な可能性を試してみることが何よりも大事である。今回、同じ曲目でのコンサートが大阪で開かれると知って、では大阪まで行くしかないでしょうと、実に単純な決断をしたのである。会場は中之島にあるフェスティバルホール。この名称は、大阪国際フェスティバルという音楽祭の会場になることによっており、このフェスティバルでは、なんと言っても 1967年にバイロイト音楽祭の引っ越し公演が実現したことや、1970年の大阪万博の際には、カラヤンとベルリン・フィル、バーンスタインとニューヨーク・フィル、ジョージ・セルとクリーヴランド管弦楽団などが登場し、そのことは、日本の西洋音楽史に燦然と輝く業績なのである。但し、これは本当の意味で欧米のいわゆる音楽祭のように、短い期間に集中的に世界的な音楽家が登場するという催しではなく、少なくとも現在では、数ヶ月のうちにいくつかの公演があるという形態であり、フェスティバルというよりも、個々の演奏会の内容で勝負している印象がある。実は今回のアラン・ギルバートと都響の演奏会も、フェスティバル提携公演という位置づけである。そうそう、書き忘れたが、このホールは、もともと大きい (2,700席) 割には音がよいと言われていたが、老朽化のために建て替えられ、現在のものは 2012年にオープンした新しいもの。私は以前のホールには何度か行ったことがあったが、新しく建て替えられてからは今回が初めてで、その興味も大きかったのである。これが現在フェスティバルホールの入っている中之島フェスティバルタワー。
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さて、現在ニューヨーク・フィルの音楽監督という、音楽界における世界トップの地位のひとつにいる指揮者アラン・ギルバートが採り上げた曲目は以下の通り。
 ベートーヴェン : 劇付随音楽「エグモント」序曲 作品84
 ラフマニノフ : パガニーニの主題による狂詩曲 作品43 (ピアノ : イノン・バルナタン)
 ベートーヴェン : 交響曲第 3番変ホ長調「英雄」作品55

なるほど、ドイツ古典派のベートーヴェンの名作 2曲 (当初発表では「エグモント」序曲は入っていなかったところ、追加されたらしい) の間に、ロシアロマン派のラフマニノフが挟まっているという構成だ。これは私の勝手な想像だが、この真ん中のラフマニノフは、ギルバートが、日本では未だになじみのない今回のソリストの本領を発揮させるレパートリーとして、あえて挟んだものではないのか。そう思った理由は後述する。

さて、最初の「エグモント」序曲だが、颯爽と駆け抜けるというよりも、かなり重心の低い音色による堂々たるベートーヴェンであったと思う。冒頭の長い和音から音楽はドクドクと息づき、不安や情熱を絡みつかせながら、悲劇的な様相を帯びて進んで行く。都響の弦は明らかにほかのパートをよく聴きながら、有機的に伸びていた。実に素晴らしい反応力。ギルバートほどの実績ある指揮者にも臆することなく (むしろオケを臆させない点こそがギルバートの持ち味と言ってもよいのかもしれない)、持てる力をフルに音楽に乗せたという印象。コントラバス 6本 (これはメインの「エロイカ」でも同じ) で、今日のベートーヴェン演奏の基準というべき通常の規模であったが、ヴァイオリンの対抗配置は取らず、ヴィブラートも過剰にならない程度にはかかっていて、昔風という言うと当たっていないだろうが、古楽の影響を過度に受けた教条的な演奏とは全く異なる、活きたベートーヴェンであった。

そして、2曲目のラフマニノフを弾いたソリストは、イスラエルのピアニスト、イノン・バルナタン。1979年生まれというから、今年 38歳。既に、若手というより中堅というべき年齢である。
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経歴を見ても、○○コンクール優勝という説明がない。実際、最近の若手や中堅の演奏家は、コンクール歴がなくとも素晴らしく個性的な人が多くいるので、特に驚かない、というよりも、コンクール歴なしで世界で活躍しているとするなら、むしろその才能が本物である証拠ではないかと思いたくなる。実際彼は、ギルバートが音楽監督を務めるニューヨーク・フィルの初代アーティスト・イン・アソシエーション (日本語にするとつまり、ともに音楽を作り上げるパートナーとしての音楽家ということか) に指名されているという。ニューヨーク・フィル以外にも米国の名門オケの数々と共演していて、ヨーロッパにも活動を広げているようだ。実は都響にも過去に一度出演していて、それは、2016年 1月、やはりギルバートの指揮で、曲はベートーヴェンの 3番のコンチェルトであった。そのときのメインはやはりベートーヴェンの 7番で、うーん、そんなコンサートに私はなぜ行かなかったのかと思って調べてみると、山田和樹指揮日本フィルのマーラー・ツィクルスの第 4番と重なっていたのであった。それはそれでやむなかったのであるが、それにしても今回聴けてよかった。彼は、ちょっとないような素晴らしく個性的なピアノを弾く音楽家であることが分かったからだ。きっとその実力を知るギルバートが、前回のベートーヴェンとは異なるレパートリーで日本に再度紹介したかったのではないか。大変小柄な人なのであるが、その音楽の自由闊達なことは無類。そもそもこのラフマニノフの曲は、狂詩曲 (そう、このブログの題名と同じ、「ラプソディ」です!!) というだけあって音楽は勝手気ままに流れ、途中に誰もが知る超絶的に美しい抒情的な箇所 (第 18変奏) がある以外は、ピアノがのべつ好き勝手に飛び跳ねているような曲。もちろん、パガニーニが使用し、ラフマニノフ自身も様々な作品で引用したグレゴリオ聖歌の「怒りの日」(死者を弔う音楽の一節) をテーマとしている以上、そこに終末的な思想があるわけだが、むしろ死をあざけ嗤うような曲なのである。だがこの音楽は正直なところ、すべての小節が心に響いてくることにはならず、実演では結構退屈するようなこともある。それなのに、今回のバルナタンの演奏は実に見事で、聴いていて飽きることがない。もしこのような音楽を奏でるピアニストをほかに探すとすると、クラシックのピアニストではなく、例えばキース・ジャレットではないか。都会的な美音でありながら、そこに安住せず、常に自由さを忘れずに飛翔する。そのようなイメージである。もちろんそのピアノの質の高さによって、有名な第 18変奏では、ギルバートが唸りながら引き出した弦楽合奏の美しさがより一層増したことは言うまでもない。素晴らしい演奏であり、聴衆の拍手はなかなか鳴りやまなかったが、アンコールは演奏されずに休憩に入った。

そしてメインの「エロイカ」も、冒頭の「エグモント」と同様、実に堂々たるベートーヴェンで、もしかするとギルバート自身が新たな次元に入っているのではないかと思わせるような充実感を感じることとなった。ここでも都響の弦はいつもの芯のあるずっしりしたもので、もともとベートーヴェンへの適性はあると思うが、その音を充分に引き出した指揮者の手腕もさすがのものである。解釈において奇をてらったところは皆無であり、まさに正攻法。やはりよい音楽は、このようなストレートな表現によって活きるのだということを改めて実感した。終演後、既に聴衆たちの退場が始まっているときに、客席から「コントラバス、本当にうまかったぞ!!」と大きな声を舞台にかけた男性がいて、ちょっとびっくりではあったが (笑)、いやいや実にその通り。コントラバスが安定していたからこそ、弦全体のうねりが生まれたものと思う。

都響の大阪公演はさほど頻繁に行われているとは思えないが、この 2,700席のホールがきっしり満員。今後も、例えば音楽監督の大野和士とも大阪公演を行ってみてはいかがか (先日名古屋公演は行っていることでもあり)。私が今回聴いたのは 1階席のかなり前の方であったが、その音響は大変満足のできるものであり、大阪のホールとして、あの素晴らしいザ・シンフォニーホール (収容人数 1,700人) を忘れることはできないが、このフェスティバルホールでも充分素晴らしい音楽体験ができることを理解した。私の場合は、東京の音楽活動だけで既に手一杯状態ではあるものの、極力時間を作って、ほかの都市でも頑張って音楽を聴きたいものだ。さて、次のフェスティバルホール体験はいつになるだろうか・・・。
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by yokohama7474 | 2017-04-23 23:14 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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イタリアの名指揮者、ファビオ・ルイージ指揮による今月の NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の定期演奏会の 2つ目のプログラム。今回の曲目は以下の通り。
 ベートーヴェン : ピアノ協奏曲第 1番ハ長調作品 15 (ピアノ : ベアトリーチェ・ラナ)
 ブラームス : 交響曲第 4番ホ短調作品 98

なるほど、今回は王道のドイツ音楽一本で勝負するルイージである。但し、4月16日にご紹介した前回のルイージと N 響の演奏会も、実はすべての演目がドイツ・オーストリアの曲目であったのである。なるほどなるほど。今回彼が採り上げた 2つのプログラムは、すべてドイツ・オーストリア系。これまでのキャリアでドイツ語圏のシュターツカペレ・ドレスデンやウィーン交響楽団を率いてきたルイージと、元来ドイツ物をバリバリ弾くという持ち味で勝負して来た N 響。これは面白いことになりそうだ。

まず 1曲目、ベートーヴェンの 1番のピアノ・コンチェルトを弾いたのは、イタリアの若手女流、弱冠 24歳のベアトリーチェ・ラナ。N 響には初登場だ。
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日本のオケには様々なソリストが登場して、大家もいれば中堅もおり、若手もいる。このような機会に新たな演奏家と出会うことは、コンサート愛好者の特権なのである。さしずめ今回のラナなどは、そのような特権を感じさせてくれる素晴らしいピアニストであったと言えると思う。彼女の経歴を見てみると、2011年、18歳でモントリオール国際コンクールで優勝、2013年にはヴァン・クライバーン国際コンクールで 2位ということで、これはこれで素晴らしいのだが、どのようなピアニストであるのかは、実際に聴いてみないと分からない。そして、実際に聴いてみて分かったことには、非常にクリアな音で鍵盤を駆け抜ける素晴らしいピアニストだということだったのである。このベートーヴェンのコンチェルトは、本当に溌剌とした元気の出る曲であり、それをこのように演奏してもらえれば、聴き手としてはまず第一に、曲の素晴らしさを感じることができるわけで、それこそが音楽の醍醐味なのだと思う。第 2楽章で彼女のピアノは、まるでバッハを弾くかのような透明感をもって、感傷的になることなく、だが大変に美しくて平穏な世界を紡ぎ出した。この楽章の終盤に出てくるクラリネットとの絡みも実に見事で、本当にいい音楽なのだと実感したのである。いつも私がこのブログで主張していることは、演奏家が若いか年寄りかは、音楽を聴く上では重要な要素ではなく、それぞれの演奏家はそれぞれのキャリアがあるのであって、若い時にピークを迎える人もいれば、老年に至って真価を発揮する人もいる。さらに言えば、何をもってその演奏家のキャリアのピークであるかは、誰にも分からないのである。その意味で今回のラナは、今の彼女の持てる力を巧まずして発揮することで、ベートーヴェンの若書きの音楽の素晴らしさを表現したと言えると思うし、彼女の音楽がまた今後変わって行くことがあるにせよ、今の彼女の音楽は充分に魅力的だということだ。そして彼女が演奏したアンコールは、ドビュッシーの「ピアノのために」の第 1曲。うーん、ベートーヴェンの後にドビュッシーを弾ける感性は素晴らしいと思うし、実際、常に輝きを保ちながら鍵盤を縦横に駆け巡った彼女には、聴衆が聴き惚れるものがあった。因みに、以前誰かが書いていたが、ドビュッシーは「ピアノのために」という曲をフォルテで始めているのである (笑)。ラナの溌剌とした演奏を聴くと、そんなこともどうでもよくなって来るのである。

そして後半、天下の名曲ブラームス 4番。これは事前の予想通り、ルイージらしいタメの効いた演奏。冒頭の滴り落ちるような音型は、うぅーんっとカーブを描いて絞り出されたが、そこはさすが N 響。ルイージの要求によく応え、音楽的情景の移り変わりを実に充実した音で描き出していた。弦楽器が重層的で深い音色を出していたのは当然で、また木管奏者のそれぞれが、実によい音で鳴っていたのである。だがルイージの音楽は、昔のドイツの巨匠のような重い音にはならず、第 2楽章で深々と歌う箇所でも、推進力のあるキレのよい音で一貫していた。終楽章ではオーボエが入りを間違えるハプニングもあったものの、その後見事に挽回。寂しげなフルートも実に表情豊かで、終演後に指揮者が真っ先に立たせたのも納得できよう。なるほどこれが、イタリアの魂を持ったドイツ音楽なのである。美しくも爆発力のある音楽は、まさにルイージの明確な個性であると思う。ルイージと N 響には今後も長い共同作業を続けてもらい、日本において新時代のクラシック音楽の水準を打ち立ててもらいたい。先頃発表された N 響の来シーズン (今年 9月から) の定期演奏会の指揮者陣にはルイージの名前はないが、またその次のシーズンを心待ちにしている。この写真は、上に掲げた今回のプログラムで使われたルイージの写真。眠そうに見えないこともないが、大丈夫。ひとたび指揮を始めると、マジカルな手腕が発揮されるのである (笑)。
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by yokohama7474 | 2017-04-22 23:22 | 音楽 (Live) | Comments(2)

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世界に冠たる名門オーケストラ、ニューヨーク・フィルの音楽監督。それが今日の指揮者が現在持つタイトルである。米国では文句なしにナンバーワンの輝かしい栄光の歴史を誇り、設立もあのウィーン・フィルと同じという古さを持つニューヨーク・フィルの音楽監督ともなれば、それはそのままで世界超一流を意味する。その指揮者の名前はアラン・ギルバート。ともにニューヨーク・フィルの楽員であった米国人の父と日本人の母の間に生まれた 50歳。今まさに脂の乗り切った世代であるわけだが、2017-18年のシーズンでニューヨーク・フィルのポストを降りることが決定しており、その後の去就が注目されるところ。そんな中、昨年に続き今年も来日して、東京都交響楽団 (通称「都響」) の指揮台に立つ。このブログでも、昨年 1月26日と 7月25日の同じコンビによる演奏をご紹介したが、今回は 2種類のプログラムによる 4回の演奏会 (うち 1回は大阪でのもの) が実現する。私が敬愛するギルバートと都響の組み合わせは、実のところこれまでは、課題もちらほら感じるような出来が多かったと個人的には思っているが、とにかく共演を重ねることで、関係を練り上げてもらい、東京の音楽界に大いなる刺激を与えてもらいたい。その意味で今回の演奏は、何かこのコンビとしても大きな飛躍のきっかけとなるようなものだったと言えるのではないか。
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曲目は以下の通り。
 ラヴェル : バレエ音楽「マ・メール・ロワ」全曲
 ジョン・アダムズ : シェエラザード .2 - ヴァイオリンと管弦楽のための劇的交響曲 (ヴァイオリン : リーラ・ジョセフォウィッツ、日本初演)

なるほど、前半には 20世紀前半を代表する精緻を極めるフランス音楽、メインには現代を代表する米国作曲家の近年の大作という、かなり意欲的なプログラムである。まず前半の「マ・メール・ロワ」は、マザー・グースを題材にしたメルヘン物で、まさにラヴェルならではの繊細でキラキラしたオーケストレーションを聴くべき曲。冒頭の木管のハーモニーにごく僅かなずれを感じたが、その後音色は修正されて、スムーズな進行のうちに 30分の演奏を終えた。もともと都響の弦楽器は、このブログでも再三述べているように、何か芯が入ったような重量感のある音が鳴り、得意のマーラー等の後期ロマン派ではその音色が最大限生きるのであるが、この「マ・メール・ロワ」の終曲の最後の和音の響きには、そのずっしりとした音が中空にすぅっと伸びて行くような感覚があり、これはこれで実に後味のよい演奏であった。都響がマーラーの響きのみに偏っているという気は毛頭なく、当然ながら、フランス音楽にも柔軟性を持って対処できる優れたオケであることを再確認できて、大変有意義であった。さて今回私は、舞台を見渡せる席に座ったのであるが、チェレスタの横に、もう少し小型のやはり鍵盤楽器があるのに気が付いた。終曲のキラキラした響きの中に、奏者がこの楽器を懸命に叩いている音が含まれていることを知ったが、これは一体何という楽器だろう。プログラムを見て分かった答えは、ジュ・ドゥ・タンブル。
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これは鍵盤の形態を取ったグロッケンシュピール (いわゆる鉄琴ですな) であるそうな。珍しい楽器なので、通常のグロッケンシュピールで代用することも多いようだが、今回はオリジナル通りの編成での演奏であったわけだ。指揮者のこだわりが分かる。

さて、今回のメインは一風変わった曲。上記のポスターにもある通り、「世界各地で話題の新作、待望の日本初演」なのである。また、これは会場で撮影した別のポスター。現在短髪にしているギルバートの姿と、後ろには東京オペラシティのオープン 20周年のシールも見えて、将来見返したら貴重な写真になりそうだが (笑)、ここにも、「世界中で初演ラッシュ! 待望の日本初演」とある。
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作曲者のジョン・アダムズ (1947 - ) は、このブログでも何度かは名前に触れたが、一般的にはミニマル音楽に分類されることが多い米国の作曲家。だが最近の作品はいわゆるミニマルの範疇には入らない語法の作品を書いていて、これもそのひとつ。もちろん、ミニマル風な要素が皆無というわけではなく、例えば、寄せては返す音の波のような劇的な箇所が多く聴かれるのは、その名残りではないだろうか。いずれにせよ、私にとっては大変になじみ深く、興味を惹かれる作曲家なのである。だがその私も、この作品が「世界で初演ラッシュ」とは知らなかった (笑)。どんな作品なのだろう。これがジョン・アダムズの肖像。
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題名の「シェエラザード」はもちろん、ロシアのニコライ・リムスキー=コルサコフの手になる絢爛豪華な交響組曲が有名だが、そう言えばほかに、ラヴェルの歌曲もある。題材はアラビアン・ナイトで、荒れ狂う王を前にして面白い話を毎晩語り続けたことで命をつないだ賢い王妃、シェエラザードの物語。今回のアダムズの作品は、作曲者自身の発音によれば、「シェラザード・ドット・ツー」ということになるらしい。この作品では、アラブの男性社会で虐げられている女性の姿をシェエラザードになぞらえているとのこと。なるほど、社会派の顔も持つアダムズらしい発想だ。2015年 3月に、今回のソリスト、リーラ・ジョセフォウィッツとアラン・ギルバート指揮ニューヨーク・フィルによって世界初演されたこの曲は、実質的なヴァイオリン協奏曲で、全 4楽章、演奏時間 50分に達する大作だ。これが、近現代のレパートリーを得意とするカナダのヴァイオリニスト、ジョセフォウィッツ。2015年 9月25日の記事で、オリヴァー・ナッセンが指揮するやはり都響との共演を採り上げた。
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この曲の印象は、上記の通り、寄せては返す波のようで、静かで瞑想的な部分と、激しく高揚する部分とが交互に現れる。初めて聴く人にも耳になじみやすい曲だとは思うが、R=コルサコフの「シェエラザード」のように、女主人公を表す独奏ヴァイオリンが時々入るのではなく、最初から最後まで、ほぼのべつまくなしに近い状況で演奏し続けるのだから大変だ。ジョセフォウィッツは、その大変なヴァイオリンソロを全曲暗譜で弾き通し、場面場面で曲想に応じて、時にのびやかにまた時に激しく、全身で音楽を表現し尽くした。オケの音に自らの体を投げ込むような仕草で挑んで行く姿は、あたかも野生動物のようで、彼女のこれまでの音楽家人生の集大成ではないかとすら思われた。これは推測だが、初演者として、きっと作曲過程にも深く関与したのではないか。そうだとすると、それほど演奏家冥利に尽きることもないだろう。つまり今回我々は、米国を代表する作曲家の力強い新作を、その初演者たちによる渾身の演奏で聴くことができたわけである。いわば芸術音楽の世界における最前線を体験できたわけだ。これは、モーツァルトやベートーヴェンやブルックナーやマーラーの名演を体験すること以上に、現代を生きる我々にとっての社会的な意味を感じさせる体験だ。もちろん都響も集中力のある熱演で、指揮者とヴァイオリニストに応えたのであり、そのことも大変素晴らしいことだと思う。尚ジョセフォウィッツは既にこの曲を、デイヴィッド・ロバートソン指揮のセント・ルイス交響楽団と録音している。
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さて、最後にこの曲の楽器編成について少し書いておこう。ヴァイオリンと並んでソロとしてフルに活躍するのは、ハンガリーでよく使われる楽器、ツィンバロン。ハンマーで弦を叩く構造で、いわばピアノの元祖だが、独特の郷愁を感じさせる音が鳴る。クラシックのレパートリーでは、コダーイの「ハーリ・ヤーノシュ」が有名である。
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今回は生頼 (おうらい) まゆみというマリンバとツィンバロンの専門奏者が演奏した。いやーお疲れ様でした。
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その他、興味深い奏法もいくつかあって、例えば、グロッケンシュピールの横の部分を弦楽器の弓ですーっと擦る奏法。だがこれは実際には時々見る。それよりも珍しかったのは、一人の奏者がドラの表と裏を同時に叩くというもの。これはちょっと見たことないですねぇ (笑)。それから、楽器としては、大小様々なドラ (?) を沢山吊るしたものが大変面白かった。あれだけ巨大な楽器は、運搬も演奏も大変だろう (昔見た、中国古代の「曽侯乙墓」から出土した巨大な鐘を沢山吊るした楽器を思い出してしまった)。かと思うと実はこの曲、ティンパニは使っていないのだ。通常ティンパニに委ねられる、いざというときに音楽のベースとなるべきリズムは、弦楽器が激しく刻むことで表現されていたということか。ところで客席で、日本の作曲界の大御所を 2人発見。一人は一柳慧で、もう一人は池辺晋一郎だ。いずれの作曲家の作品も、このブログで紹介したことがあるが、彼らはこのアダムズの作品をどのように聴いたのだろうか。実は、休憩時間のあと (アダムズの作品の演奏前)、前者が後者に何やら話しかけているのが見えた。芸術音楽と現代社会の厳しい切り結び方についての議論であったのか、はたまた、ただの世間話であったのかは、知る由もない (笑)。

このような、様々な刺激に満ちた演奏会であった。ギルバートと都響の演奏が、これを機会に一層の深まりを見せてくれることを祈りたい。このコンビが演奏するもうひとつのプログラムは、これは名曲中の名曲、ベートーヴェンの「英雄」をメインに据えたもの。そちらにもなんとか出かけたいものだと考えているが・・・。果たせるか否か、乞うご期待。

by yokohama7474 | 2017-04-19 00:56 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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今月の NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の指揮台に立つのは、イタリアの名指揮者、ファビオ・ルイージ。1959年生まれなので、今年 58歳という、指揮者として最も脂の乗る世代。このブログでも、毎年夏に開かれるセイジ・オザワ松本フェスティバルの記事で一昨年、昨年と、マーラーの演奏などをご紹介している。ルイージはまさに世界の第一線での活躍を続ける素晴らしい指揮者なのであるが、N 響とも 2001年の初共演以来何度も顔を合わせている。今月も 2つのプログラムでこのオケの定期に登場するが、まずその 1つめの今回の演奏会、曲目は以下の通り。
 アイネム : カプリッチョ 作品 2
 メンデルスゾーン : ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品 64 (ヴァイオリン : ニコライ・ズナイダー)
 マーラー : 交響曲第 1番ニ長調「巨人」

さて、ルイージについて語りたいのをぐっと抑えて、まずはソリストのズナイダーから話を始めたいと思う。1975年デンマーク生まれ。だが、今回初めて知ったことには、両親はポーランド人なのだそうだ。国際的なコンクール歴としては、1997年、エリーザベト王妃コンクールに優勝している。だが、もうそんなことはどうでもよい。経歴が何であれ、彼こそ、今世界で最も傾聴すべき素晴らしいヴァイオリニストであるからだ。
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以前このブログでも、ギリシャのレオニダス・カヴァコスと並んでこのズナイダーを、現代の最も優れたヴァイオリニストとして挙げたことがあるが、今回久しぶりに実演に触れて、そのことを再認識した。今回彼が演奏したメンデルスゾーンのコンチェルトは、演奏によってはなんとも甘ったるい調子となってしまうのだが、冒頭のズナイダーの節回しは、つっけんどんにすら聞こえるほどそっけないもの。だが、よく耳を澄ませると、昔の巨匠たち、例えばハイフェッツやオイストラフをすら思わせるような、素晴らしく艶やかな美音なのである!! つまり、その音は文句なく美しいのだが、聴き手に媚びることが全くないので、その表面上の美しさではなく、音楽そのものの純粋な力だけが、巧まずして聴き手に迫ってくると言えばよいだろうか。だから私はこの演奏を聴いているうちに、ヴァイオリン協奏曲というよりは、メンデルスゾーンの無垢な魂が歌として響いているような気がしてきて、危うく涙すら浮かべそうになってしまった。この曲でこのような経験は少ない。彼はかなりの長身であり、ヴァイオリンを弾く姿には余裕すら漂っているが、当然ながら大変な研鑽を積んでこの境地に達したのであろう。演奏家における天才とは、練習せずに音をうまく弾ける人のことを言うのではない。血の出るような努力をして、自分の持てる表現力を誰にでも分かるかたちで音にできるようになった人、それを天才というのである。このズナイダーは、まさにそのような天才であり、曲の個々の部分の音色がどうの音程がどうのテンポがどうの、ということは気にならない。なかなか出会うことのない、実に素晴らしい演奏であった。アンコールでは、指揮者ルイージもステージ奥の椅子に腰かける中、「アリガトウゴザイマス」と日本語で聴衆を笑わせ、「2つめの知っている日本語は、コンニチハ。3つめは、『バッハ』です」(と、"Bach" の独特な日本語での発音のことを言っていると想像した。舞台近くの人しか聞き取れないほどの小さな声だったが) と言って、バッハの無伴奏パルティータ第 2番のパルティータを演奏した。これまた、感傷もなく誇張もない、とにかくまっすぐなバッハであり、演奏する長身の立ち姿が神々しくすら思われる、崇高な音楽であった。今回ズナイダーは、4月18日 (火) に浜離宮朝日ホールで、4月20日 (木) には横浜のフィリアホールで、それぞれリサイタルを開くが、私は聴きに行くことができない。この記事をご覧の首都圏の方々には、是非にとお勧めしておこう。

さて、1曲目に戻って、オーストリアの作曲家ゴットフリート・フォン・アイネム (1918 - 1996) の、「カプリッチョ」である。アイネムと言えば、私がクラシックを聴き出した 40年近く前でも、代表作であるオペラ「ダントンの死」は、いろんな書物に採り上げられていたし、若き日のズービン・メータがウィーン・フィルを指揮したフィラデルフィア交響曲 (もともとはユージン・オーマンディとフィラデルフィア管弦楽団のために書かれた曲) の録音で、その名はある程度知られていた。それ以外にも、ザルツブルク音楽祭で重要な役割を果たしたということも、一応知識としては知っている。だが、名前が有名な割にはその作品を聴く機会は少なく、この「カプリッチョ」(もちろん「奇想曲」 = 「気まぐれ」という意味だ) も今回初めて耳にした。1943年、作曲者 25歳のときの作品で、作品 2という若い番号が示す通り、実質的な楽壇デビュー曲であるらしい。めまぐるしく曲想が変わる曲だが、なかなかモダンで楽しめる (書かれているのは戦争中なのだが)。ここでのルイジは、ギアをしきりと切り替えながら、素晴らしい精度で曲の持ち味を表現したと思う。この「ギアの切り替え」、あるいは「アクセルとブレーキの踏み替え」という言葉が私のルイージ感を表していて、昨年、一昨年の松本での彼の演奏についての自分の記事を読み返してみても、同じようなことを何度も言っている。なんだ、じゃあもう一度感想を言う必要ないじゃないの (笑)。だが実際のところ、これだけ自在に音楽をコントロールできれば、いかなる曲にも対処できようし、その指揮者の要求に鮮やかに応える N 響も素晴らしい洗練度である。これは比較的若い頃のアイネムの写真。
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そして最後の「巨人」である。ルイージは夏のセイジオザワ松本フェスティバルでもマーラーのシリーズを連続で手掛けていて、5番・2番に続いて今年は大作 9番を振るが、今回の N 響では 1番と、比較的取り組みやすい (?) 作品だ。実際私もつい先週、シルヴァン・カンブルランと読響の名演に接したばかりであり、その比較が楽しみであった。結果的には、ここでもルイージの緩急を心得た自在な音楽運びが顕著であり、イタリア風に歌心があるというのとは一味異なる多彩な表情が聴かれ、そして例によって最後に起立するホルン奏者全員 (と、トランペット、トロンボーン各 1人) の姿を見て、鳥肌立ってしまった。実はこの箇所でホルンが起立しても、曲が終わる前にまた座ってしまう演奏も多いのだが、今回は最後まで起立。大いに盛り上がる演奏であった。但し、細部を見て行くと、それなりに課題もあったかなという気もする。管楽器のごくわずかなミスには目くじら立てる必要はないだろうが、マッスとして鳴っているオケの音自体に、N 響ならさらに緊張感が出せるのではないかと思う瞬間が何度かあった。例えば第 2楽章冒頭の頻繁な「ギアの切り替え」では、指揮者の指示を待ちきれない部分もあったように思い、さらに凄みが出るとよいのに、と感じてしまったものである。一方、第 3楽章では途中で曲想の変化に応じたテンポの変化が誇張され、ここでは面白い効果が出ていた。全体を通した燃焼度は、また今後の共演を経て上がって行くものと期待したい。

ところで今回の演奏では、第 3楽章の冒頭のコントラバスがソロではなく合奏であり、最近時々そのような演奏を聴くなぁと思って調べたら、1992年に出版された新全集版ではそうなっているとのこと。慣れの問題もあるかもしれないが、個人的にはここは、ちょっと調子が外れたようなソロで聴きたいものである。そうそう、この第 3楽章の冒頭部分は、黒澤明の「乱」の予告編で使用されていた。「乱」本編の音楽における黒澤と、音楽担当の武満徹の確執など、面白い話はいろいろとあるし、黒澤ファンとして「乱」という作品自体について語りたいこともいろいろあるが、長くなるので割愛し、懐かしのイメージのみ掲げておく。
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例によって話があらぬ方向に行ってしまったが (笑)、ルイージのような名指揮者を日本で頻繁に聴けるのはありがたいこと。今年の松本には行けるか否か分からないが、N 響とは是非、密なる共演を重ねて頂きたい。その巧みなギアの切り替えに、今後一層磨きがかかりますように!!
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by yokohama7474 | 2017-04-16 22:36 | 音楽 (Live) | Comments(4)