カテゴリ:音楽 (Live)( 285 )

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フランスの名指揮者シルヴァン・カンブルランと、彼が常任指揮者を務める読売日本交響楽団 (通称「読響」) の演奏会は、先週のマーラー「巨人」をメインに据えたものをご紹介したばかりだが、今回はまたなんとも意欲的な曲目で勝負をかけてきた。以下のようなものである。
 メシアン : 忘れられた捧げ物
 ドビュッシー : 「聖セバスティアンの殉教」交響的断章
 バルトーク : 歌劇「青ひげ公の城」(演奏会形式)

今の東京でこのような曲目を演奏するコンビとして最も期待できるのは、やはりカンブルランと読響ではないか。このブログでなるべくタイムリーにご紹介している在京の 7つのメジャー・オケの動向はますます面白くなって来ており、登場する指揮者の顔ぶれも、楽団ごとにかなり住み分けができているので (コバケンのような例外もいるが 笑)、各楽団とも、主要指揮者陣の個性に合わせた非常に意欲的なチャレンジができていると思う。やはり競争があるのは、聴き手にとっては歓迎すべきことである。時間のやりくりだけは、なかなか厳しくなって来ているが (笑)、今回のような演奏を聴くと、今後もなんとか時間をやりくりして、できるだけ多くの生演奏に触れたいと切に思う次第である。
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さて今回のプログラム、大変によく考えられている。前半のメシアンとドビュッシーはフランス音楽であるが、同じフランス音楽とは言っても、ラヴェル的、あるいは六人組的な明快さや洒脱さはなく、神秘的、瞑想的な雰囲気をたたえた曲であり、組み合わせて聴いてみると、書かれた時代は異なる (メシアンが 1930年、ドビュッシーが 1911年で、その間には第一次世界大戦が起こっている) ものの、その精神には近いものがあることが分かる。その意味では、後半に演奏されたバルトークの傑作「青ひげ公の城」は、宗教性こそないものの、おとぎ話の中にある残酷さや、人間心理の不可思議さを覚えさせるという点で、やはり作品の精神には共通点があるのである。また、大変興味深いことに、この「青ひげ公の城」が書かれたのは、前半で演奏されたドビュッシーの「聖セバスティアンの殉教」と同じ 1911年。この 2作品に世紀末的、象徴主義的な雰囲気が共通するには、同時代性という理由があるのだ。

まず最初の「忘れられた捧げ物」は、今年 1月にも秋山和慶指揮東京交響楽団で聴いていて、それも見事な演奏であったが、今回のカンブルランと読響の演奏も、甲乙つけがたい名演であった。カンブルランの手にかかると読響の柔軟性は最大限発揮され、金管の輝きや木管の点滅も、素晴らしいニュアンスである。全く何の不安もなく聴いていられる演奏で、小品、かつ作曲者の実質的なデビュー曲ながら、メシアンの音宇宙はそこに紛れもなく存在していた。

ドビュッシーの「聖セバスティアンの殉教」はもちろん、ローマの親衛隊長で、木に縛り付けられて矢で射られて殉教する聖者、聖セバスティヌスを題材にしており、もともとは戯曲につけられた音楽である。前項で、ストラヴィンスキーの「ペルセフォネ」に触れた際にその名を挙げた伝説のバレエ・ダンサー、イダ・ルビンシュテインのために、イタリア人作家ガブリエーレ・ダヌンツィオが書いた戯曲。作曲には曲折あったようだが、上演時間 4時間以上と言われる戯曲において、音楽が使われる箇所は 1時間程度。今回演奏された交響的断章は、ドビュッシーの友人カプレによる編曲で、4曲からなり、演奏時間は 25分程度。今回はそこに、第 3幕のファンファーレが最初に演奏された (ファンファーレは 2曲と発表されたが、予定変更で 1曲のみ演奏)。この曲、私も CD (ミュンシュ盤とは長いつきあいだ) や実演 (確か若杉弘は音楽を全曲演奏した) で何度か聴いているが、あまり印象的なメロディもなく、さほど親しんでいるわけではない。だが、あの聖セバスティアヌスの殉教というストーリーにもともとある耽美性は音楽から立ち昇ってきて、聴いていて蠱惑的な気分に襲われることは事実。カンブルランと読響の演奏は常にクリアで、実に見事であった。ところでこのダヌンツィオのフランス語の戯曲を、フランス語が充分できないのに一生懸命和訳した人がいる。ヒントはこの絵だ。
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そう、グィド・レーニの描く「聖セバスティアンの殉教」。もちろん三島由紀夫が「仮面の告白」で採り上げている絵である。聖セバスティアヌスに魅せられていた三島はこのダヌンツィオの戯曲を、池田弘太郎というフランス文学者に教えを乞いながら、共訳した。今試みに、私の手元にある新潮社の三島由紀夫全集 (1975年刊行) を調べてみると、第 24巻「戯曲 (5)」に収録されていた。せっかくなので、ちょっと雰囲気だけでもどうぞ (笑)。
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さて、今回のメイン、バルトークの「青ひげ公の城」であるが、20世紀の名作オペラとされてはいるものの、上演には常に大きな問題がある。それは、歌詞がハンガリー語というマイナーな言語であることだ。その音楽はしかし、演奏者をしてそのようなハンディを乗り越えようと思わしめるに充分な、いかにもバルトークらしい夜の雰囲気たっぷりの深い味わいのもの。幸いなことに (?)、登場人物は主人公の青ひげとその妻ユディットの 2人だけなので、メゾ・ソプラノとバスの男女 2名の素晴らしい歌手さえいれば、成功の第一条件をクリアできる。そして今回舞台に立ったのは、ユディット役がドイツ人のイリス・フェルミリオン。青ひげ役はハンガリー人のバリント・ザボ。このうちフェルミリオンの方は、インバル指揮のマーラーの交響曲や歌曲でよく歌っているようだし、もともとアーノンクール指揮の「フィガロ」でケルビーノを、「コシ・ファン・トゥッテ」でドラベッラを歌って国際的に注目された歌手。一方のザボは、スカラ座やバイエルン国立歌劇場に出演歴もあり、中でもこの「青ひげ」は、ハンガリー語を母国語とするだけあって、当たり役にしているらしい。演奏会形式だったので、双方ともドレスやタキシードで登場したが、このザボは譜面を持ってくることもなく、全曲暗譜での歌唱であった。
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ここでもカンブルランと読響の演奏は極めて高度な水準を誇り、暗い城の中の不気味に濡れた壁の触感から、拷問道具の血のしたたり、財宝の輝き、広大な領土を見晴るかすさまなどが、縦横無尽に描きつくされた。第 5の扉を開けるシーンでは金管のバンダ (別動隊) が入って圧巻なのだが、実は今回初めて知ったことには、そこにはオルガンも入るのだ。またオルガンは、終結部近くでも登場する。千変万化するオーケストラの響きを視覚的にも追うことができるのは、演奏会形式ならでは。ベラ・バラージュ (映画の歴史に詳しい方なら、その名を映画理論家としてもご存じだろう) の書いた台本が不気味に物語を進めて行くに際し、オーケストラの表現力が不可欠な要素として随所に駆使されていることを、改めて思い知る。もちろん 2人の歌手も、オケと一体となった音響を作り出して、この不気味な物語を雄弁に語ったのである。いつ聴いても楽しい曲では全くないが (笑)、人間の根源的な何かに迫る、類例のない音楽である。当然聴衆の人々は、この演奏の価値を知っているから、客席は大いに沸いたものである。夜の音楽を書き続けたバルトークも、このような演奏を聴くと満足するであろう。
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カンブルランが読響の常任指揮者に就任して、早 8年目。よくよく検討してみると、東京の主要オケとそのシェフのコンビを考えたときに、このカンブルランと読響は、プログラムの明確なコンセプトや、音の鳴り方の個性、また、実現している演奏水準の点を総合的に勘案すると、もしかするとナンバー・ワンかもしれない。少なくとも、ナンバー・ワンの一角を占めていることは間違いないであろう。今シーズンも楽しみな演奏会が沢山あるので、ピリリと辛口で知性あるアプローチに、ますます期待である。

by yokohama7474 | 2017-04-16 02:31 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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このブログでも既に何度かご紹介している、フィンランドの若手指揮者ピエタリ・インキネンは現在、日本フィルハーモニー交響楽団 (通称「日フィル」) の首席指揮者。2016年 9月に始まったこの関係は未だ半年であるが、その前に同オケの首席客演指揮者であった関係で、既に日フィルとは気心の知れた関係にある。その彼が、手兵日フィルとともにこの春取り組むのは、ブラームス・ツィクルスだ。ブラームスは言うまでもなく、ドイツ音楽を代表する作曲家であるが、彼の残した 4曲の交響曲はいずれも密度の高い音楽で、オーケストラに最上の洗練を求めるなかなかの難物である。しかも、重さを伴う音楽で、若手指揮者にとっては相性の問題もありがちだ。インキネンと日フィルのこの挑戦に立ち会いたくて、会場に足を運んだのである。
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まず今回のツィクルスであるが、初回の今回は、交響曲第 3番ヘ長調作品90と、交響曲第 4番ホ短調作品98の 2曲。通常なら番号順に演奏することが多いブラームス・ツィクルスであるが、今回は後半の 2曲を先に持ってきた。実はツィクルスの残り 2回 (私は残念ながらいずれにも行けないのだが) は、次が交響曲第 2番をメイインとしたもの、最後が交響曲第 1番をメインとしたものと、段々遡ることになる。だがユニークなのは、組み合わされた曲目だ。第 2番の日には、同じブラームスの「悲劇的序曲」はよいが、もう 1曲はなんと、デンマークの作曲家ニールセンのフルート協奏曲。第 1番の日には、リストの交響詩「レ・プレリュード」と、同じリストのピアノ協奏曲第 1番。つまり、ブラームス・ツィクルスと銘打ってはいるものの、交響曲 4曲以外の組み合わせは非常に自由なのである。考えようによってはこれはなかなか面白い。つまり、ツィクルスとは言っても、何もブラームスばかり演奏しなくてもよい、むしろほかの曲があった方が変化があってよい、という考えなのであろうか。実は今回の演奏会、開演前に指揮者のプレ・トークがあったのだが、私は最後の 2 - 3分しか聞くことができず、そこで彼は来シーズン (今年 9月以降) のプログラムの話をしていたが、その前にはきっとブラームス・ツィクルスの話をしていたのではないか。聞き逃してしまったので、彼の今回のツィクルスに対する思いは、想像するしかない。

さて、今回の 2曲の演奏、私の感想を一言でまとめるなら、管楽器には若干の改善の余地はあったものの、弦楽器が上質な音質で音楽の流れを主導し、今のインキネンと日フィルが実現できる音楽の説得力を充分に示したものと言えると思う。この指揮者の持ち味として、熱狂という要素はあまり見当たらないものの、若さに似あわない着実な音楽の足取りは、確かにブラームスの本質のある面を表現していたと思う。例えば弦楽器がピツィカートで音の流れを支えるときには必ず、清流の流れを覗いた時に見える白い小石のように、実に揺るぎない存在感を持って響いていたし、第 3番の第 3楽章や第 4番の第 1楽章では、感傷に陥ることは注意深く避けながらも、紡ぎ出される重層的な音のつながりには瞠目すべきものがあった。力が入り過ぎると空回りする危険のある音楽であるから、このインキネンのやり方には周到な知性が感じられた。課題があるとすると、上記の通り、ここぞというときの熱狂 (第 4番第 1楽章や第 4楽章の大詰めでは、やはりその要素がもう少し欲しい) と、木管楽器のさらなる緊密な合奏ということになるような気がする。考えてみればインキネンは日フィルと、お国もののシベリウス (フィンランド人としてはこの作曲家を演奏するには宿命だ!! 笑) を除けば、マーラー、ブルックナー、ワーグナーといった後期ロマン派をかなり積極的に採り上げて来ている。彼の感性からすれば、バルトークやストラヴィンスキー、あるいはラヴェルやプロコフィエフといった近代の作曲家に、より適性があるようにも思うが、いかがであろうか。面白いのは、たとえそうであったとしても、ドイツ系の音楽の演奏を最初に重ねることで、その後の展開の素地が作られるように思われることだ。きっと彼は何年も先までレパートリーの展開を考えているのであろう。東京の音楽界はなかなかに競争が激しいが、日フィルならではの個性を作って行って欲しい。
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日フィルの 9月以降の新シーズンのプログラムが発表されている。定期演奏会の指揮者陣としては、インキネン自身と、桂冠指揮者であるアレクサンドル・ラザレフ以外には、正指揮者の山田和樹、小林研一郎、井上道義、下野竜也、広上淳一というユニークな日本人指揮者たちの登場が目立っている。いろいろ面白そうなレパートリーと指揮者の組み合わせの数々が見られるが、特筆すべきは、来年 5月、ラザレフによるストラヴィンスキーの「ペルセフォネ」(楽団の表記では「ペルセフォーヌ」) の演奏。これはなんと、日本初演なのである!! へぇー、ストラヴィンスキーのようなメジャーな作曲家の作品で、未だに日本で演奏されていなかったものがあったとは驚きだ。私は随分以前、多分学生時代に作曲者指揮のアナログ盤を購入したが、特に親しむほど曲を聴きこんではいない。時代は移り、セット物 CD がなんとも廉価で手に入ってしまう現在、私の手元には旧コロンビア・レーベルのストラヴィンスキー自作自演全集 56枚組がある。そのボックスを開け、この曲の CD のジャケットを撮影したのがこれ。ギリシャ神話に基づく物語であり、ボッティチェッリによく合う。
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実はこの曲、伝説のダンサー、イダ・ルビンシュテインの委嘱によるもので、語りの台本を書いているのは、なんとあのアンドレ・ジイドであるそうだ。日本初演が楽しみである。・・・とはいえ、それはこれから 1年以上先の話 (笑)。それまでにインキネンの薫陶を受けた日フィルがさらに進化を続けるのが楽しみである。

by yokohama7474 | 2017-04-16 00:59 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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この週末は、桜が満開だというのに、土曜も日曜も東京ではあいにくの天気。あぁ、今年も絶好の花見時を逃してしまった。だが、これも巡り合わせというもの。また来年を楽しみにしよう。来年の今頃桜が咲くことは、これはもう、まず確実なこと。なので、それを楽しめるように、まずは何よりも体調と、それから気持ちの余裕を持ち合わせるべく、来年に向けて準備しよう。春は必ずまた巡り来るのである。

そんな週末は、仕方がない。オーケストラでも聴きに行くか。あ、まぁ、どんな週末でも大体オーケストラを聴いているのが私の日常なのであるが (笑)。東京のオーケストラには、いわゆる日本の年度に合わせて 4月から新シーズンのところと、欧米に合わせて 9月から新シーズンのところがあるが、今回私が聴いた読売日本交響楽団 (通称「読響」) は前者。従って、4/8 (土)・9 (日) の 2日間に亘って行われた同じ曲目によるコンサートが、今シーズンのこのオケの開幕であったわけだ。指揮を取ったのはもちろん常任指揮者のシルヴァン・カンブルランで、曲目は以下の通り。
 ハイドン : 交響曲第 103番変ホ長調「太鼓連打」
 マーラー : 交響曲第 1番ニ長調「巨人」
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どこかの宣伝で、このコンサートの曲目を評して、「交響曲の最初と最後」とあるのを見たが、なるほど、番号付だけで 104曲の交響曲を書き、交響曲を器楽曲のメジャーな分野に押し上げたことで「交響曲の父」と呼ばれるハイドンと、19世紀末の頽廃の匂いを纏いながら、オーケストラ芸術の極限を実現し、伝統的な交響曲形式を破壊したマーラー。その意味では、確かにハイドンとマーラーは、交響曲の最初と最後ではあるのだが、さらに面白いのは、この「最初」のハイドンは、103番と、彼のほとんど最後の交響曲、「最後」のマーラーの方は 1番で、彼の最初の交響曲ということだ。だから「最初の最後と、最後の最初」という表現が正しい。

フランスの名匠カンブルランのレパートリーは広く、昨シーズンも今シーズンも、これぞフランス音楽の神髄という曲目も多い一方で、今回のようにドイツ系の音楽を振らせても、その鋭い切り口はそのままで、説得力のある音楽を聴かせるのである。そもそも、ハイドンの交響曲は、オーケストラの基礎となるべきアンサンブルを必要とする音楽であり、このようなレパートリーを愉悦感とともにきっちり弾きこなすことは、どのオケにとっても非常に重要なことであると思う。絵画に例えて言うならば、マーラーのような後期ロマン派の音楽が、色彩溢れる大作の油絵だとすると、ハイドンの交響曲はデッサンと言ってもよいだろう。画家が大作油絵をものするには、細部のデッサンが欠かせない。ともすると大作に圧倒されがちな鑑賞者ではあるが、その作品の裏にしっかりとしたデッサンが描かれているか否かによって、その大作への評価も変わって来ようというものだ。その意味で今回のハイドン、今の読響の充実を物語る、なんとも小股の切れ上がった素晴らしい演奏で、聴いていて本当に楽しかった。この曲はティンパニ (マーラーで使用されたそれとは異なる古いタイプのもので、サイズも小さく、バチも硬いもの) の連打で始まるために「太鼓連打」というあだ名があるのであるが、冒頭で太鼓だけがドコドコ鳴る部分は、なんとも祝祭的なイメージだ。これはシーズン開幕の祝砲であったのか。だが序奏では深いところで何かがうごめくような音楽になり、それがゆえに、主部に入ったときの溌剌感が強調される。すなわち、低音の充実が重要であるのだ。その点、チェロが 4本であったので普通なら 2本となるはずのコントラバスが 4本いて、しっかりと低音を支えていた。さすがカンブルラン、才気走っているようでいて、基本をきっちり抑えているのである。全 4楽章、読響の優れたアンサンブル能力がフルに発揮された、素晴らしい演奏であった。交響曲の最初と最後という観点でも、何か発見がないかと思って聴いていたのだが、この曲の終楽章には、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の大詰めの音楽に似た個所が現れる。また、第 1楽章の序奏では、ベートーヴェンの交響曲第 1番を思わせる部分があり、主部の勢いのある部分は、例えばシューマンの 2番を連想したくなる。うむ、そうなると、第 2楽章アンダンテはブルックナーの緩徐楽章に、第 3楽章メヌエットはマーラーのスケルツォ楽章に、つながっているような気がしてくるのである!!・・・まあさすがにちょっとそれは盛り過ぎですな (笑)。これが、「パパ」と呼ばれたハイドンの肖像。
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前半の演奏の充実になんとも楽しい気分になり、15分の休憩の後、後半のマーラーに入った。このような大作では、指揮者の持ち味が様々なところに出るものであるが、カンブルランの指揮は、決してオケを煽り立てることなく堅実に弾かせながらも、いざというところではテンポを落として溜めを作る。その自在な緩急が音楽に強い説得力をもたらしていたと思う。読響の音はここでも非常にクリアで、金管にほんのちょっとの課題が残った以外は、誰もが認める名演の域に達していたであろう。私はこれを聴きながら、昨今の東京のオケの充実に改めて思いを致していた。終楽章のコーダでスコアの指定通りホルン (と、トランペット、トロンボーン各 1人ずつ) が起立したのも、音の流れに乗った自然な行為と思われた。それを見ながら、日本のオケで日常的にこんなレヴェルの音楽が聴けるようになったことを改めて感じ、音の奔流に鳥肌が立ったものである。もちろん、この曲のクライマックスで鳥肌が立たなければ困るわけであるが (笑)。恐らくは西洋音楽の歴史において、少なくとも器楽曲の範疇でそれまでに達成された最大音量の記録を更新したであろうと思われるこの曲には、若きマーラーの青春が燃え立っているわけで、クライマックスに至るまでの長い長い道のりは、そのまま青春の炎なのである。私は今まで、実演及び録音・録画メディアを通して、何百回この曲を聴いたか分からないが、かれこれ 38年くらいに亘るこの曲とのつきあいの中で、控えめに見て年間平均 20回聴いたとすると、実に 760回!! ということになる。その中で、印象に残っているものそうでないもの、いろいろあるが、改めて今回の演奏に耳を澄ませてみると、演奏の達成度の高さが、曲の冗長さを排除しているように思う。思えば、朝比奈隆はブルックナーだけでなくマーラーにも造詣が深く、ほぼすべての交響曲を採り上げたが、唯一この「巨人」だけは採り上げなかった。その理由として、「いかに偉大なマーラー先生の作品とはいえ、終楽章が全くまとまっていない」という趣旨の発言をしていた。またクラウディオ・アバドは、ベルリン・フィルの音楽監督就任披露コンサートでこの曲を採り上げた際のリハーサルで、クライマックスで立ち上がったホルンに対し、確か「19世紀ではあるまいし、起立は不要」というような言い方で、着席での演奏を命じていた。だが時代は移り、ここ極東の地、日本では、聴衆はどんなに長くても終楽章の盛り上がりを楽しみに待っているし、ホルンの起立に鳥肌立っているのである。カンブルランもそのあたりの客席からの反応は、充分に感じていることだろう。これは若き日のマーラーの写真。
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さて、今回の演奏会の成功に重要な貢献をした人がいる。この 4月から新たに読響のコンサートマスターのひとりに就任した、荻原尚子 (おぎはら なおこ) である。
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私はこのコンサートに行くまで彼女のコンマス就任を知らなかったが、読響の 3月22日付の発表によると、これでこのオケのコンマスは、彼女と小森谷巧、長原幸太の 3人体制となり、日下紗矢子は、特別客演コンマスになった。この荻原さん、ベルリンやハンブルクで、豊田耕兒やコーリヤ・ブラッハーに師事、マーラー・チェンバー・オーケストラのメンバーを経て、2007年からケルン WDR 響のコンマスを務めたという。と書いていて、何か記憶の底がモゾモゾするので (笑)、自分のブログの過去の記事を調べてみると、おぉ、なんと、2015年12月 5日の記事で、オスモ・ヴァンスカ指揮の読響の演奏会で彼女が客演コンサートマスターを務めていたと書いていた。なるほど、しばらく準備期間を置いての就任であったわけである。もちろんこのオケの他の 2人のコンマスも素晴らしい人たちだから、刺激を受けることもあろう。思い出してみれば読響は、30年くらい前は弦楽器奏者は全員男性ではなかったか。それが今や、日下に続いてこの荻原のような才能豊かな人が率いることになっているのも、東京のオケの進化と言ってよいだろう。

このように、大変気持ちのよい演奏会であったのであるが、ひとつだけ不思議な現象を経験した。私の席はステージに向かって右側の方だったのだが、後半のマーラーの演奏中、ずっとどこかからほかの音楽が小さな音で響いていた。独唱や合唱が声を張り上げており、ひとつだけ判別できたのは、「グリーンスリーヴス」であった。私の周りの人たちは、もしかして自分の携帯から音が漏れているのかと、しきりにカバンを覗いていたものである (笑)。それにしてもあれは一体何であったのか。別の場所のリハーサルの音声だったのかもしれないし、ラジオのようにも聴こえた。いずれにせよ、熱演に水を差す忌まわしき雑音であって、聴衆としては許してはおけないものだ。もし関係者の方がご覧になっていれば、事実確認をお願いしたい。

カンブルランと読響の演奏、来週末も、もうヨダレが垂れそうな素晴らしい曲目を聴きに行くことになる。そのときにもしまたあのような騒音が聞こえれば、私は大声でわめいてしまうかもしれませんよ!!

by yokohama7474 | 2017-04-10 00:12 | 音楽 (Live) | Comments(2)

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このブログでコンサートをご紹介するときには、なるべくそのコンサートのチラシまたはポスターの写真を掲げることにしているが、今回、前代未聞のことが起こってしまっている。つまり、このチラシに写っている指揮者と、実際に演奏した指揮者とが違う人物なのだ。今回、予定されていた指揮者グスターヴォ・ヒメノが個人的な都合によって来日できなくなり、代役としてクリスティアン・アルミンクが登場することは、事前に発表された。しかし、チラシやポスターの摺り直しをする時間がなかったのであろう。指揮者アルミンクの名前を印刷したチラシは、ついに作成されることがなかったのだ。だが、曲目は同じであり、さらに、直前になってから発表されたことには、このコンサートのコンサートマスターは、とある有名なヴァイオリニストが務めるという。代役の指揮者、ソリストを含め、充分に聴く価値ありと期待して会場に出かけた。

もともと出演が予定されていた指揮者グスターヴォ・ヒメノは、上のチラシにある通り、2015年11月にオランダの名門、王立コンセルトヘボウ管弦楽団の来日に際してその指揮を取り、ソリストがピアニストのユジャ・ワンであったことにも助けられ、ツアーを成功させた人。私はその際に名古屋と東京で同じ曲目のコンサートを聴くことができ、大変面白い事件に遭遇したこと、そして、その事件に関連した発見が、その後見たコンセルトヘボウ管に関するドキュメンタリー映画の中にあったことなどを、かつて記事にした。詳しくは、2015年11月10日と14日、そして 2016年 2月 7日の記事をご参照。

そして、今回の指揮台に立ったアルミンクは、2003年から 2013年まで、新日本フィルの音楽監督を務めたことは記憶に新しい。1971年生まれで、このような端正なルックスも人気の秘密であろう。実物はもっと男前かもしれない。
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最近の新日本フィルについての記事は、いろいろと書いているが、それはすべて、彼が音楽監督の座を退いてからの演奏。昨今のこのオケの充実は目を見張るものがあるが、それはもちろんアルミンク時代の習練によるところ大であろう。ところが、私が経験した彼自身の指揮する新日本フィルの演奏会は、正直なところ、あまり感心しないものが結構あった。なんと表現すればよいのだろう。音の緊密度とでも言おうか、その点に課題があると思うことが多かったと記憶する。私が聴けたコンサートではたまたま巡り合わせが悪かったのかもしれないが、指揮者とオーケストラの関係は非常に不思議なもの。10年も音楽監督を務めたにも関わらず、私の記憶では、それ以降アルミンクは新日本フィルを振っていないのではないか。2011年に東日本大震災が発生したときに「ばらの騎士」をキャンセルしたことでオケとの関係が悪くなったという噂もあるようだが、実際のところはどうなのだろう。ほかのオケでは、音楽監督や首席指揮者を退任してもそのオケを振りに時々戻って来ることが多いが、どうやらアルミンクと新日本フィルの関係は、そうではないようだ。だがこのアルミンク、NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の指揮台には最近何度か立っているはずだ。但し、定期演奏会ではなく、ほかの機会である。今回の演奏会も、渋谷のオーチャードホールで開かれる、いわゆる「オーチャード定期」であって、またしても、N 響が毎月 3プログラムで行っている正規の定期演奏会ではない。だが、その相性を聴くには興味深い機会であろう。今回の曲目は以下の通り。
 ブラームス : ピアノ協奏曲第 1番ニ短調作品 15 (ピアノ : クリスティーナ・オルティーズ)
 リムスキー = コルサコフ : 交響組曲「シェエラザード」作品35

まず紹介したいのは、客演コンサートマスターを務めたライナー・キュッヒル。天下のウィーン・フィルの文字通り顔と言える元コンサートマスターであり、先の東京・春・音楽祭における「神々の黄昏」でも N 響を率いてコンサートマスターを務めていたが、それに続いての登場。しかも今回、後半の曲目は、ヴァイオリン・ソロが縦横無尽に活躍する「シェエラザード」だから、期待もひとしおだ。
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さて、1曲目のブラームスでソロを務めるのは、ブラジルの女流クリスティーナ・オルティーズ。
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もう随分以前には世界第一線のピアニストとして活躍していた人で、最近あまり名前を聞かなくなった印象だが、私の経験では、そのような音楽家は、久しぶりに聴くことで新たな発見があることも多い。これはたまたまなのであるが、割と最近、彼女が、母国の作曲家ヴィラ=ロボスのピアノ協奏曲全集やピアノ・ソロの作品を録音した CD 3枚組がタワーレコードのヴィンテージ・コレクションで発売されたので、購入して手元にある (名前の表記はオルティーズでなくオルティスである)。
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ところが今回彼女が弾くのは、お国物ではなく、ブラームスのコンチェルトだ。ブラームスは 2曲のピアノ協奏曲を書いているが、いずれも 50分を超える大作 (2番に至っては、通常の 3楽章制ではなく 4楽章である)。これは興味深いことなのであるが、歴史的に女流ピアニストがブラームスのコンチェルトを弾くことは稀である。例えば、現代最高の女流であるマルタ・アルゲリッチや、ドイツ物をレパートリーの中心に据える内田光子も、ブラームスのコンチェルトを弾いたとは聞いたことがない。ちょっと考えてみよう。昔の人では、ブルーノ・ワルターと録音しているマイラ・ヘスがいるが、ほかの女流は思いつかない。既に世を去った大女流ピアニストでは、アリシア・デ・ラローチャ。ベテラン組では、アンネローゼ・シュミット、エリザベート・レオンスカヤ、日本人では、朝比奈隆と協演した伊東恵。海外の若手現役では唯一、エレーヌ・グリモーの名が挙がる。もちろん調べもしないで書いているので、ほかにもまだまだいるかもしれないが、いずれにせよ、ブラームスのピアノ協奏曲を、しかも 1番を、女流の演奏で聴くことは極めて珍しいのだ。そしてこの 1番のコンチェルト、ブラームス 20代のときの若書きだが、私にとっては 2番以上に大好きな曲であり、その燃えたぎえる情熱 (緩徐楽章の第 2楽章だって静かな情熱の音楽だ) には、何度聴いても胸がカッと熱くなるのである。老年の髭面からは想像しにくいが、青年ブラームスはこんな美男だった。そんな青年の燃える思いが、音楽の中でメラメラしている、ピアノ協奏曲第 1番。
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今回、オルティーズはドレス姿ではなく、上下とも黒のパンツルックで現れた。1950年生まれなので既に今年 67歳ということになるが、技術的な衰えは聴かれず、音楽の流れに乗り、オケ・パートで炸裂する音をよく聴きながら、自分の音を紡いで行く。素晴らしい。ただやはり、この曲では強い打鍵が必要で、そうでなければオケと張り合うことができない。その点にこそ、女流が敬遠する理由があるのだろうか。だがしかし、女性でも強い音を出す人はいるし、男性でも弱い音しか出せない人もいる。21世紀の今日、男女で打鍵の強さを云々するわけにはいかないし、それこそユジャ・ワンなどはいずれこの曲を弾くのではないか。そして、もし彼女がこの曲を弾いたら・・・と想像すると、残念ながらオルティーズは少し分が悪いかもしれない。彼女の持ち味には、強い音でバリバリ弾きこなすというイメージがあまりなく、時として弱音部で美麗な音を聴くことがあっても、オケ・パートでブラームスの若い情熱が極度の盛り上がりを見せたときには、どうしても音量が不足してしまう。もしかすると、指揮者としても伴奏が難しいのだろうか (そう言えばカラヤンは、2番は演奏したが、この 1番は演奏しなかった)。アルミンクは強靭な音を N 響から引き出すことには成功していたが、ピアノを浮き立たせるようなオケの鳴らし方は難しいのかもしれない。ともあれ、オルティーズの演奏は自らの持ち味を出したものであり、演奏後、「ワーオ」と声を出して、大変な曲であったことを聴衆に訴えて笑いを取ったのも、本人としては精いっぱい弾いた解放感があったからだろう。そして彼女が弾いたアンコールは、今度は母国ブラジルの作品。フルトゥオーゾ・ヴィアナ (1896 - 1976) の「コルタ・ジャカ」という曲。1931年の作で、サンバのリズムすら思わせる軽快な曲でありながら、きっちりとまとまった曲で、ここではオルティーズの千変万化するピアノの音が大変に効果的。新たな作曲家との出会いであった。

そうして後半の「シェエラザード」であるが、ここでは、私が以前アルミンクの演奏において課題と感じることもあった音の緊密さも申し分なく、胸のすく快演となった。考えてみれば N 響は、2月末から首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィとともにヨーロッパへの演奏旅行に出かけ、帰国してからは超大作「神々の黄昏」に取り組むといいった、大変に充実した演奏活動を継続しているわけであり、今回の演奏はその流れを感じさせるものであった。この曲は冒頭の重々しさが全体のトーンを決めるようなところがあるが、今回のアルミンクと N 響は、充分な音量、かつその中に細かいニュアンスも含む、大変にいい音で演奏を開始した。そして、いきなりキュッヒルのソロ・ヴァイオリンが美麗の極致を聴かせる。まさに独壇場。面白かったのは、何度も出てくるヴァイオリン・ソロの表情はその時によって違っていて、少し早めであったり、逆にゆったり歌ったりと、自由自在である。また、彼の存在によって (前半のブラームスもそうであったが) 弦楽器全体がうねりを伴って音を響かせており、さすがだと思ったものだ。アルミンクはもともとスリムな人だが、登場したときには一層痩せたように見えてちょっと心配だった。しかしながら、指揮台では充分精力的に指揮をして、彼の長所である明晰さを持ちながらも、腹に響くような重々しさも聞かせるという成果を見せた。オケは全員一丸となってこの難曲を楽しんで演奏したと言ってよいと思う。そして、アンコールとして演奏されたブラームスのハンガリー舞曲 1番も、湯気が沸き立つような名演で、会場は熱気に包まれた。

今回のプログラムにキュッヒルのインタビューが載っているが、N 響のことを褒めている。東京・春・音楽祭での 4年間の「指環」演奏のほか、2011年には尾高忠明の指揮で「英雄の生涯」のコンサートマスターも務めたが、オケのメンバーと早くコンタクトが取れ、やりやすかったと。もちろん N 響はウィーン・フィルと奏法が違うし、それが当然なので、あるときは自分が合わせたり、曲目によってはウィーン風のやり方を伝えるようにしているとのこと。そして、N 響は継続してよくなっていると発言している。うーん、そういうことなら、このような特別興行的な関与ではなく、期間限定でもよいから、N 響でコンマス業務を続けて頂けないものだろうか。奥様は日本人だし、N 響には昔、もとウィーン・フィルメンバーのウィルヘルム・ヒューブナーというコンマスがいたという実績もある。・・・と思って調べてみると、なんとなんと、今年の 3月31日付で N 響が、4月からキュッヒルの客演コンマス就任について発表している。
http://www.nhkso.or.jp/news/17582/

なるほどこれは大変な朗報だ。どの程度の割合で演奏してくれるのか分からないが、パーヴォ・ヤルヴィとも早く N 響で協演して欲しいものだと思います。東京の音楽界から、また目が離せなくなりましたよ。

by yokohama7474 | 2017-04-09 02:14 | 音楽 (Live) | Comments(2)

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今年も 4月に突入し、また春が巡って来た。結構寒い冬であったが、桜の開花の知らせを耳にしてから後、また寒い日が続いており、この日も、前日のみぞれ交じりの雨は弱まったものの完全にはやむことなく、終日曇り空の鬱陶しい天気であった。都内を代表する桜の名所である上野公園はこのような景色であり、桜は満開には程遠いにもかかわらず、人出は決して少なくない。さすが上野である。
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そんな中、今年も上野を舞台に繰り広げられる東京・春・音楽祭が既に開幕している。その目玉であるワーグナー作品の演奏会形式上演、今年は超大作「ニーベルングの指環」の 4作目にして最終作、楽劇「神々の黄昏」である。2014年から毎年 1作ずつ、足掛け 4年でこの 4部作のすべてを実演で耳にすることができたが、その成果は世界に問うことのできるレヴェルであり、改めて東京の音楽水準の高さを思い知る。最大の貢献者は、NHK 交響楽団 (通称「N 響」) を指揮したポーランド生まれのドイツ人指揮者、マレク・ヤノフスキであろう。1939年生まれであるから、現在 78歳。既に押しも押されぬ巨匠であると言ってよい。
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このシリーズ、昨年の「ジークフリート」の記事で、ヤノフスキの「指環」との関わりについて少し触れたが、レコーディング・デビューが名門シュターツカペレ・ドレスデンを指揮したこの超大作であったという衝撃ぶりであったものの、それからのヤノフスキの活動は、決して常に世界最前線の華やかなものであったとは言い難い。だが、ひとりの芸術家が生涯を掛けて世界を飛び回って音楽を追及して来た、その確かな足跡に思いを馳せるには、実際の演奏会に足を運ぶにしくはない。芸術家にはそれぞれ、活動期間に応じた環境の変化や自身の芸風の変化がついて回り、どの時点でその芸術家と巡り合うかという点も、聴衆にとっては予測できないもの。特に演奏芸術の場合は、その巡り合わせは大きな要素であると思うが、その意味で、この 4部作の実演を今のヤノフスキの指揮で聴くことのできた我々は、その幸運を感謝しなくてはならない。今回の会場には、シリーズ完結を記念したポスターが貼られており、同じ柄の A3 ポスターも売っていたので購入した。
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尚、このポスターの後ろには、今年の東京・春・音楽祭の一環として開かれる様々なコンサートのポスターが飾られている。世界で知られた有名演奏家たちが綺羅星のごとく並んでいるということでは必ずしもないが、だがしかし、音楽との接し方において、そのような点はさほど重要ではない。鳴っている音楽に虚心坦懐に耳を傾けることこそが、音楽の醍醐味であるはず。これらのポスターをひとつひとつ見て行くと、そのプログラムの妙から、演奏家たちの熱意までを感じることができ、そのいずれの演奏会にも足を運ぶことのない自分の怠慢を責めたくなるような思いに駆られるのである。その思いに耐えて (?)、ワーグナーの世界に入って行こう。
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まず、作品について少し語ってみたい。ステージ上で奏でられて耳にストレートに入ってくる上質の音楽を耳にしながら改めて気付いたことがある。ワーグナーが楽劇スタイルを確立して後のオペラ 7作品は、そのほとんどが正味演奏時間 4時間を超える大作ばかりだが、この「神々の黄昏」は不思議なことに、演奏時間の長さをさほど感じさせない作品なのである。例えば、この「指環」4部作中、恐らく最も人気の高い「ワルキューレ」でも、第 2幕のヴォータンとブリュンヒルデの二重唱や、終幕のヴォータンのモノローグなど、上演に接するたびに「長いよ!!」と言いたくなるのを抑えることができないし、刺激的な音楽が凝縮しているはずの「トリスタンとイゾルデ」でも、第 2幕で主役 2人が延々と歌い続ける箇所で、あくびをしないことは稀なのである (笑)。そんな私でも今回、この「神々の黄昏」を長いと思うことはなかった。15時開演で、30分×2回という短い (!!) 休憩時間のせいもあって、演奏終了は 20時10分。上演時間はほんの 5時間10分である・・・って、やっぱり普通に考えれば長いのであるが、その長さを感じさせない演奏であったのだ。ひとつには、作品自体において緩慢な箇所が少ないと言えるだろう。ワーグナーの作品で長くなりがちな二重唱としては、このオペラでも、序幕のジークフリートとブリュンヒルデ、第 1幕のヴェルトラウテとブリュンヒルデ、第 2幕のアルベリヒとハーゲン、等々あるが、いずれもストーリーを進めるために必要な長さ以上ではない。大詰めのブリュンヒルデのモノローグも適度な長さで、その意味では無駄のない作りと言えようし、またなんと言っても、「ジークフリートのラインの旅」「ジークフリートの葬送行進曲」「終曲」と言った、オーケストラの威力満開の曲もいくつかあり、また、「指環」4部作で唯一、合唱が入る作品でもある。ワーグナーは自作の脚本をすべて自分で書いた人だが、この「神々の黄昏」は、実は 4部作で最初にその台本の原型が書かれている。ということは、ワーグナーの芸術は、発展するとともに、ストーリーテリングの観点からは、どんどん肥大して行ったということだろうか。

そのような作品を、舞台上演ではなく、演奏会形式で聴く意味は大きい。ピットではなく舞台に並んだオーケストラが出す多彩な音を充分楽しむことができるし、音楽の構造も分かりやすく感じることができる。ヤノフスキはドイツ物をレパートリーの中心には置いているものの、決して、昔風の鈍重なワーグナーを奏でるのではなく、きめ細かくしなやかで、透明感もあり切れ味も鋭い音楽を鳴らす。これは大変な聴きものなのであるが、その指揮に応えているのが N 響であるというのが嬉しいではないか。かつて、サヴァリッシュやシュタイン、あるいはマタチッチといったワーグナーの大家のもとで演奏して来た楽団が、今また新たな成果をヤノフスキとともに達成する場に立ち会えることは、この上ない喜びだ。しかも、そこでコンサートマスターを務めるのは、先般ウィーン・フィルを定年退職したライナー・キュッヒル。いつもながら、全体を統率しながらも、彼自身のヴァイオリンだけが際立って艶やかに聴こえる瞬間が何度もあり、ここでもオーケストラ芸術の粋を堪能することができたのである。これは 2015年の「ワルキューレ」終演時の写真。
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ただ、今回会場で知ったショッキングなニュースがあったのだ。あろうことか、主役の 2人、ブリュンヒルデとジークフリート役の歌手が、揃って本番間近でキャンセルしてしまったのである!! ブリュンヒルデとして予定されていたクリスティアーネ・リボールはともかく、ジークフリート役のロバート・ディーン・スミスは、世界的な名声を誇るヘルデン・テノールであり、このシリーズでも、2015年の「ワルキューレ」でジークムントを歌っている、いわば上演の目玉歌手。そのキャンセルは痛い。主催者側の発表によるとこの 2人とも、既に来日してリハーサルに参加していたが、急な体調不良で舞台に立てなくなった由。だが、オペラとはいえショービジネス。The show must go on! 主催者はなんとしても代役を探さなくてはならない。そして本番 3日前、3/29 (水) に日本に到着したばかりの 2人の代役歌手たちが、その窮地を救った。ブリュンヒルデ役はレベッカ・ティーム。ジークフリート役はアーノルド・ベイズエン。
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会場で配布されていたプログラムにおいては、通常、歌手の紹介は写真なし、経歴 3行程度なのだが、この 2人はこのように、冊子に挿入された一枚ものの紙に、写真入りで非常に詳しい経歴が紹介されている。このあたりにも主催者の誠意が見えて好ましい。2人とも国際的に活躍している歌手のようである。
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とはいえ、あの超大作「神々の黄昏」の主要な役を、欧米から遥か離れた極東の地にまでやって来て、充分な準備時間もなしに、演奏会形式とはいえ全曲歌うということは、それだけで至難の業。急な代役でそんなことができる歌手が、世界に果たして何人いるだろうか。実際この日の歌唱で、この 2人の歌手は明暗を分けた。ブリュンヒルデのレベッカ・ティームは、細かい箇所で完璧でないことも何度かあったものの、技術を補うその強い声によって聴衆を圧倒した。その一方、ジークフリートのアーノルド・ズベイエンは、残念ながら、声量・音程・表現力とも課題ありで、何より、この役に必要な快活さ (それがないと悲劇が引き立たない) を聴くことができなかった。聴きながら私は、「同じ『指環』におけるテノールでも、この声なら、ジークフリートではなくてミーメとかローゲの方が合っているのでは?」と思っていたのだが、帰宅して調べると、なんとなんと、この東京・春・音楽祭では、2014年の「ラインの黄金」で、そのローゲ役を歌っていたのだ!! 舞台で「神々の黄昏」のジークフリートを歌った経験もあるようだが、役柄としては彼に適したものではないということだろうか。だが、上述の通り、突然の代役ではるばる日本まで飛んで来て、到着 3日後にこれやれと言われても、普通はできません!! 全曲歌いだけでも立派なもの。多くの聴衆も同じように感じたのだろう、カーテンコール時には、ブラヴォーも出なかったが、ブーを言う人もいなかった。日本のファンは思いやりがあるのである。

歌手陣の中で最も印象に残ったのは、ハーゲン役のアイン・アンガーであった。このブログでも、昨年 9月のパーヴォ・ヤルヴィ指揮 N 響のマーラー 8番、11月のウィーン国立歌劇場来日公演「ワルキューレ」のフンディング役、同じく 11月のティーレマン指揮シュターツカペレ・ドレスデン来日公演「ラインの黄金」のファフナーをご紹介した。エストニア人の素晴らしい歌手。
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また、今回グンターを歌ったマルクス・アイヒェ、アルベリヒのトマス・コニエチュニー (2014年のこのシリーズでの「ラインの黄金」でも同じ役を歌っており、また昨年のウィーンの来日公演の「ワルキューレ」ではヴォータンを歌っていた) 等、国際的キャストは大変に充実。また脇役では日本人歌手も健闘していて、ここでは、3人のノルンと、それからやはり 3人のラインの乙女が全員日本人。実はこのそれぞれの 3人組のうち 2人までは同じ歌手が演じたが、ノルンの 1人、ラインの乙女の 1人は、その役だけで出演。そのうち、ラインの乙女の 1人は、おっとびっくりの小川里美だ。日本を代表するソプラノのひとりで、イタリア・オペラのイメージが強い人だが、ここではアンサンブルながら完璧な歌唱を聴かせていた。帰宅して調べたところ、2014年の「ラインの黄金」でもやはり同じ役を歌っていた (3人の乙女は彼女以外の 2人も併せて全員、その時と今回で同じ歌手)。
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そのように大変充実した内容が、今回のツィクルスの掉尾を飾ることとなった。ヤノフスキは昨年からバイロイトでこの指環を指揮しているはずであり、いよいよワーグナー指揮者としての頂点を極めようとしている。その彼の日本における業績はこれでひとつの区切りであるが、是非是非これからも様々な作品を指揮して欲しい。今年11月には N 響定期に登場して、ベートーヴェンの「英雄」をメインとしたプログラムを指揮する。これから N 響とさらに近い関係を築いて欲しいものだと思っている。最後に、プログラムに掲載されているヤノフスキのインタビューから一部を引用したい。

QUOTE
ちょうど 3年前、東京での『リング』が始まる少し前に東京・春・音楽祭からインタビューを受けました。そのときに私は、「資本主義の国々は多くの問題を抱えており、その形態を変える試みが今、早急になされるべきだ。その際、エコロジーの問題と経済的な問題とが調和しなければならない」と答えました。当時はまだイギリスの EU 離脱や、今のアメリカの大統領を想像していませんでした。欧米の多くの国々が自国中心の考えに傾いており、それがいいことだとは決して思いません。世界における貧富の極端な格差を縮めることは、この時代ますます難しくなってきています。『神々の黄昏』の最後でワーグナーは未来への希望を託しましたが、彼がもし生きていたら、このような表現をするかどうか、私にはわかりません。
UNQUOTE

芸術とは、時を超えるものでありながらも同時に、その時代を映すもの。この時代、我々が芸術から学ぶものは限りなく多いと思う。音楽を聴いているだけで世界が変わるわけでは決してないが、古い音楽から目の前の現実へのヒントをもらうことはあるはず。過度に教養的になるのもよくないと思うものの、やはり、活きた音楽から現代社会や自らの人生へのなんらかの示唆を得たいものであります。

by yokohama7474 | 2017-04-02 01:42 | 音楽 (Live) | Comments(11)

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昨年の「こうもり」に続く今年の小澤征爾音楽塾は、ビゼーの名作「カルメン」である。以前、2月 6日付の山田和樹指揮のこのオペラの上演に関する記事でも述べた通り、東京では昨年 12月から 4ヶ月連続でこのオペラが演奏されることとなり、その掉尾を飾るのがこの公演である。小澤征爾が心血を注いで継続しているプロジェクトの、今回が 15回目。日本のみならず、中国や台湾、韓国からもオーディションで選ばれた若者たちによる小澤征爾音楽塾オーケストラと、日本人からなる小澤征爾音楽塾合唱団が、国外からやって来たソロ歌手たちとともに奏でる今回の「カルメン」、昨年からはロームシアター京都という本拠地もでき、より一層練習から本番に向けてのよい環境が整った中での演奏である。その京都で 2回、東京と名古屋で 1回ずつ、計 4回の上演。尚このシリーズでは、2007年にもこの作品が上演されているが、歌手陣は総入れ替えである。81歳の小澤率いる、情熱と怨恨のオペラの出来や、いかに。これはプログラムに掲載されている、今回の稽古場における小澤の写真。
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昨年の「こうもり」同様、今回の指揮を小澤と分担したのは、水戸やウィーンで小澤のアシスタントを務めた、村上寿昭 (としあき)。残念ながらオペラ全曲を振り通すだけの体力がなくなってしまった小澤のいわば「分身」として、プロジェクトへの多大な貢献を果たしているが、2008年から 2012年まで、ドイツのハノーファー州立歌劇場の総監督を務めた実績の持ち主だ。
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2014年のこのプロジェクトで「フィガロの結婚」を他の指揮者と小澤が振り分けた際には、ある場面で指揮を交代すると、彼は袖に引っ込んでいた。だが昨年の「こうもり」と今回の「カルメン」では、オーケストラ・ピットの中に指揮台が 2つ設けられ、村上が指揮する場面でも小澤はそこにいて、このプロジェクトの「音楽監督」としての責務を果たそうとする意欲が見える。「カルメン」は 4幕から成るオペラであるが、第 1幕と第 3幕は小澤が、第 2幕と第 4幕は村上がと、交互に幕の冒頭を指揮したのである。全体を通した分担は、ほぼ折半か、もしかすると小澤の持ち分の方が若干多いのではないかと思われた。今や小澤の指揮を聴くには、水戸室内管と室内楽アカデミー (スイスと奥志賀)、そして夏のセイジ・オザワ松本フェスティバルに、あとはこの小澤征爾音楽塾しかなく、本当に一回一回が貴重なのであるが、今回のオーケストラ演奏は、私自身、過去 35年程度に亘って身近に親しんできたこの稀代の名指揮者の音楽としても、何か新たなものを示してくれるだけの素晴らしいものであったと思う。端的に言って、今回の小澤の指揮における発見はふたつ。ひとつは、指揮の身振りが多くの場面において極端に小さかったこと。もうひとつは、譜面をめくりながらの指揮であったことである。いかなる複雑で長大な曲も、暗譜で精力的に指揮する姿に親しんできた身としては、もちろん複雑な思いを抱かざるを得ないが、しかしこれは、80を超えて小澤が到達している高みを実感させるだけの意味のあることである。とは言っても、冒頭の前奏曲では力強く椅子から立ち上がっての指揮であり、遅めのテンポに音の密度はぎっしりだ。小澤がフランス国立管弦楽団と 1980年代に録音したビゼー作品集におけるこの曲の演奏も、確かこんな感じだったと思う。その数年後同じオケを指揮し、ジェシー・ノーマンを主役に迎えての録音ももちろん手元にあって、その演奏はまた確認してみたいが、やはり同じようなテンポだったのではないか。颯爽と駆け抜けて弾き飛ばすというよりも、来るべき悲劇すら予感させるような重みのある音での丁寧な音の流れに、小澤の変わらない解釈を見る思いである。そしてその後の音楽の展開において、やはり小澤ならでは切実感が聴かれたのが本当に嬉しかった。例えば第 1幕の「ハバネラ」では、舞台を見ていて急に音の重みが増したと思って指揮台を見ると、その曲から指揮が村上から小澤に交代していたのである。また、同じ 1幕で児童合唱 (京都市少年合唱団) が入るところでは、小澤の熱血指導が目に見えるような、子供たちの溌剌とした歌が楽しく耳に飛び込んできた。そして、曲が進むごとに 2人の指揮者の違いを判別するのは難しいほど、水準の高い演奏となったのであり、このような演奏に参加することのできた若者たちにとっては、まさに生涯誇るべき経験になったことだろう。様々に活躍する管楽器たちは常にクリアで音楽的。また、終幕の鬼気迫る音楽においても、実に仮借ない、まさに切れば血が出るような充実した音が鳴っていて、この曲の真価が発揮されるのを聴くことができた。小澤という指揮者の持つカリスマ性が、全体の公演を引っ張ったことは間違いないだろう。上記の通り、譜面を見ながら小さな身振りで凄まじい音を引き出すのを目の当たりにして、これからの小澤の新境地が本当に楽しみになったのである。

主要歌手陣は、米国人の若手が中心。ドン・ホセのチャド・シェルトン、ミカエラのケイトリン・リンチ、エスカミーリョのボアズ・ダニエル、それぞれに持ち味を出していたとは思うが、全体的な出来はまずまずというところであったと思う。カルメン役のサンドラ・ピクス・エディは、そのスリムで華やかな容姿がまさにこの役にぴったり。心が震えるような歌唱とまでは言わないが、終幕の情念の表現は卓越していたと思う。
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二期会や藤原歌劇団のように、全員日本人または主要な役柄だけ外国人というキャストの組み方ではなく、外国人がキャストのほとんどを占めているのであるが、だがそこはやはり、若手演奏家にオペラに接する機会を与えることを目的とした小澤征爾音楽塾。必ず日本人だけのカバー・キャストが組まれているのである。この点が、昔小澤が日本でシリーズとして行っていたヘネシー・オペラと異なるところ。カバー・キャストとは、メイン・キャストが何らかの事情で出演できない際に代役を務めるということであろうが、できればカバー・キャストが実際に舞台に立つ公演もあれば、歌手たちのモチベーションは著しく上がると思うがいかがなものか。尚、そのカバーの歌手たちの紹介を見ていると、藤原所属、二期会所属、それ以外と、日本的な派閥とは全く異なる幅広い人選であり、やはり小澤という名前と彼の発想が、日本のしがらみを取り払っているのを感じる。

演出は、このシリーズではおなじみのデイヴィッド・ニース。それなりに気が利いていて、しかも過激すぎたり理屈っぽくならない安定した演出を行う人である。プログラムに寄せた文章では、この「カルメン」には (先の 2月 6日の記事にも書いた通り) フランス語のセリフを入れるか、音楽に乗せたレチタティーヴォにするかという版の選択の問題があるが、ニースと小澤は、迷うことなく、オリジナルのセリフ版 (オペラ・コミック版) を選んだという。ただ、フランス語を母国語としない歌手たちのために、フランス語による演技は極力少なくすべしという方針から、セリフはかなり切り詰めたとのこと。それはそれで一見識だったと思う。演出の細部には興味深いものが多々あり、例えば、冒頭の前奏曲のあとの「運命の動機」では、終結部でドン・ホセが銃殺される場面の前兆になっていて、円環構造を示していた。また、1幕でミカエラとホセが二重唱を歌う場面では、カルメンが煙草を吸いながらこっそりそれを見ているという設定で、その後カルメンの起こす騒動が、彼女がホセの気を惹くための自作自演ではなかったと思わせる作りとなっていた。終幕では闘牛士たちの入場に対して真っ赤なテープが門の上層階から投げ入れられるが、その長いテープが地面で渦を巻いているところに、その後ホセに刺されたカルメンが横たわり、祝福のテープが一瞬にして鮮血に変わってしまうのである。なかなかに奇抜な演出で、面白かった。終演後はもちろんスタンディング・オベーション。すべての音楽ファンが慕い、その音楽を熱望する小澤の、その健在ぶりが本当に嬉しいのだ。これは京都公演のカーテンコール。
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このような元気な姿を見ると、今年のセイジ・オザワ松本フェスティバルが楽しみになるのであるが、先般発表された今年のスケジュールを見ると、若干複雑な思いにとらわれる。一昨年・昨年と小澤が指揮する予定であり、結局果たせなかったブラームスの 4番は、今年は予定されていない。8月25・27日にベートーヴェンの「レオノーレ」序曲第 3番、そして、9月 8・10日に内田光子の伴奏でベートーヴェンのピアノ協奏曲第 3番。小澤の登場はそれだけだ (その他では、今年もファビオ・ルイージが登場して、大作、マーラー 9番を振るのが注目だ)。うーん。例えば、ブラームス 4番 1曲だけのプログラムとし、途中に休憩が入ってもいいから、全曲やってもらえないものだろうか。今回のような元気な指揮姿を見ると、そのように思わざるを得ないのである。元気といえば、今回のプログラムに文章を寄せているドナルド・キーンを、会場で見かけた。既に 94歳ながら、しっかり歩いていた。小澤さんもまだまだ頑張って欲しいのである!!
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by yokohama7474 | 2017-03-26 23:39 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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とあるコンサート会場で、重ねて置いてあるチラシが目に入った。上に掲げた通り、ほとんど真っ白で、何やら記号のようなものが見える。なんだろうと思って手に取ると、東北ユースオーケストラとある。なるほど、震災復興イヴェントかと思い、そして、下の方に載っている不鮮明な写真に目を凝らしてみた。すると目に入ったのはこれだ。
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なに? これは坂本龍一ではないか!! 既に 65歳となり、癌の発表後、放射線治療をポリシーとして受けないと聞いてから、彼の健康状態を心配していたので、チラシの裏を見て「音楽監督・ピアノ : 坂本龍一」とあるのを見てビックリ!! このようなイヴェントがあるとは知らなかった。早速チケットを調べてみたが、軒並み完売。それからあちこち奔走し、何とかチケットを入手した。昔からやはり坂本ファンである家人とともに、このコンサートを聴けることになり、大変嬉しく思ったものである。

最初に、私にとっての坂本龍一を少し書いておきたい。当然最初は YMO で、私の世代は皆夢中になったものだ。ディスコなる場所では「ライディーン」に合わせてこういう振りをするらしいと教わり、友人たちと狂ったように踊っていた中学時代 (笑)。その曲が入った「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」というアルバム (もちろんアナログです。そう言えば英語の教師が、「どういう意味だろうね」と言っていましたね。笑) も購入して、クラシックの合間に飽くことなく聴いていた。その後何年も経ち、「戦場のメリークリスマス」、ベルトルッチの稀代の名作「ラスト・エンペラー」での映画音楽に魅せられ、生演奏にも足を運んだ (ちょうど「ラスト・エンペラー」でオスカーを受賞する直前で、自信満々のコメントをしていたのをよく覚えている)。それからは、ダンスリーとの「エンド・オブ・エイジア」、「千のナイフ」や「音楽図鑑」、そしてとりわけ「未来派野郎」等のアルバムが愛聴盤となった。あ、それから、高橋悠治が録音した新ウィーン楽派のアルバムで、連弾ピアノとして参加しているのも興味深かったし、また、私の友人がスタッフ関係のある、とある小さい劇団の公演を見に行くと、客席に矢野顕子と並んでいる彼の姿を見て驚いたこともあった。その他、最新の「レヴェナント : 蘇りし者」まで、数々の映画音楽にも注意して来た。総じて言えば、彼の作品においては、昔のテクノポップ時代とその続きのような、しっかりしたメロディラインでポップかつエスニックな雰囲気の曲がやはり好きで、あまりに抒情的なものにはそれほど興味を覚えない、というのが私の坂本感。せっかくなので、「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」のジャケットをここに載せておこう。1979年の発売ということは、ほとんど 40年前ではないか!! YMO のメンバーの 3人の若いこと!!
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さてこの東北ユースオーケストラであるが、東日本大震災で被災した東北三県 (岩手、宮城、福島) の小学生から大学生までをメンバーとするオーケストラで、坂本龍一の提唱により活動を開始し、本格的なコンサートは去年に続いて今回が 2回目。東京でのコンサートの翌日、福島の郡山でも演奏するとのこと。今回の内容は以下に紹介するが、最初に総括を述べておくと、さすが坂本の企画によるもの。大変に意欲的な曲目であり、実に勇気あるチャレンジをしたものであると思う。もちろんメンバーの中には家族を失ったり自宅に帰れなかったりという辛い経験のある人たち (コンサートで坂本は親しみを込めて「子供たち」と言っていたが、大学生まで含むとなると、我々部外者が「子供」と呼ぶのは失礼な気がする) もいるだろう。だがコンサートには湿っぽさは皆無で、ひたすらチャレンジと、未来に向けた溌剌とした希望に溢れていて、聴衆たちも大いに勇気づけられたことは間違いない。これこそ音楽の持つ力でなくてなんだろうか。坂本とオーケストラのメンバーたち。
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曲目を紹介する。前半は坂本自身の作品と民謡の編曲。そして後半は、なんとビックリのあの大作である。
 坂本龍一 : ラスト・エンペラー
 坂本龍一 : 八重の桜メインテーマ
 坂本龍一 : 映画「母と暮せば」より (朗読 : 吉永小百合)
 坂本龍一編曲 : 沖縄民謡「てぃんさぐぬ花」(協演 : うないぐみ)
 坂本龍一 : 弥勒世界報 (みるくゆがふ) (協演 : うないぐみ)
 藤倉大 作・編曲 : Three TOHOKU Songs
 マーラー : 交響曲第 1番ニ長調「巨人」

坂本は自作のほとんどではピアノ (PA つき) を弾いたが、唯一、吉永小百合が子供たちによる 3つの詩を朗読した「母と暮せば」(これはもちろん、彼女が主演した山田洋二監督の映画の音楽である・・・それにしても既に 72歳の吉永、遠目にはせいぜい 40代にしか見えず、実物はまさに驚異だ!!) では自身で指揮をした。見たところ病気の影響は全く見られないほど元気で、安心したものである。そして、マーラーを含む残りの曲目において指揮を取ったのは、柳澤寿男 (やなぎさわ としお)。彼の活躍ぶりはテレビでも紹介され、本も出ているが、あの痛ましい内戦に揺れた旧ユーゴスラヴィアで、互いに殺し合った民族間の協和を求めて、様々な民族の混成オケを指揮するという、大変に勇気ある活動を行っている指揮者である。指揮棒を使わずに、大変明快な指揮をする人だ。それから、吉永は昨年に続く出演で、今回は北海道ロケを抜け出して会場に駆け付けたという。
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全体の司会をアナウンサーの渡辺真理が務め、坂本、吉永、柳澤のコメントも聞くことができて、大変興味深かった。もともと坂本は、震災後に傷ついた心を持つ人たちを慰めるため、音楽を聴く機会を提供したとのことだが、そこから発展して、若者たちを集めてオーケストラをやってみようということになった由。今回のコンサートに向けて 8ヶ月に亘って準備をし、合宿を何度も行い、今回も合宿先で集中的に最後の仕上げをしてから、コンサート会場にそのまま乗り込んできたという。尚、若者たちだけでなく助っ人の大人も入っていると聞いて、なるほど、要所要所にいるのかと思えば、たったの 4人。すべて東京フィルのメンバーで、ヴィオラが 2人と、コントラファゴット、そしてハープ。つまり、今回の大編成 (総勢 104名) での演奏に当たり、どうしても奏者を集めることができなかったパートに限って、これら助っ人が入ったということだろう。実際の演奏は、猛練習の成果あって、なかなかに熱の入ったもの。前半で面白かったのは、東北の人たちがメンバーであるにもかかわらず、沖縄の音楽が演奏されたこと。坂本には沖縄民謡風のメロディを使った作品が数々あることは周知であろうから、これは彼らしいユニークな試みであった。本人も、「東北と沖縄は地理的には遠いけれども、音楽には近い点があって、日本の音楽が各地で深いところでつながっている証拠。実際に福島の僧が沖縄に渡って民謡を興したとも言われている」と説明した。協演の「うないぐみ」は、このような沖縄の伝統楽器による 4人組。なんとも沖縄らしい音楽が楽しかった。
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ほかに面白かったのは、前半最後に演奏された、ロンドン在住の作曲家、藤倉大が編曲した 3つの東北の民謡 (大漁唄い込み、南部よしゃれ、相場盆唄) である。藤倉はまさに日本が世界に誇る現代音楽のホープであり、今年 40歳になる気鋭の作曲家である。このブログでは、つい先日、3月18日の記事で、彼が作曲してパリで初演されたオペラ「ソラリス」に言及したばかり。本人の言がプログラムに載っていて、「(前略) 編曲というよりかなり作曲の域に入っていると思います。(中略) プロのオーケストラが弾いても弾きごたえのある楽譜になりましたし、ユースオーケストラなら元気いっぱい、掛け声も高々としたものになるだろうな、と思ってやりました。(後略)」なるほど、楽員が掛け声をかける場面もあって、実に溌剌とした演奏になったのである。藤倉はこんな人。
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さて後半のマーラー 1番であるが、なんでもメンバーから出た案によるものらしい。坂本は、「志が高いというと聞こえはいいけど、ユースオケにはちょっと難しすぎるよねぇ・・・」とコメント。もちろんそれは容易に想像できることであり、もちろんプロの演奏のレヴェルに達するのはさすがに難しいが、だが今回の演奏を聴いて、やはりこの曲の素晴らしさを改めて認識することができた。第 2楽章の冒頭など大変に勢いがあり、また終楽章の灼熱のコーダも、(ホルンの起立はなかったが) 全員一丸となって突き進む音楽になっていて、ここに至るまでの若者たちの努力と、何よりも 100人が力を合わせて難曲を演奏するというチャレンジに、爽やかな感動を覚えたのである。この演奏に参加した若者たちは、この経験を一生忘れることはないだろう。震災復興という意味合いだけでなく、彼ら彼女らの人生における大きな勇気の源になるであろう。音楽には本当に素晴らしい力があるのだなと、再認識することとなったのである。坂本や柳澤も主演後、「心配したけど大変よかった」「完全燃焼だったね」と、ねぎらいの言葉をかけていた。皆さん、お疲れ様!!

そしてアンコールが演奏されたのだが、そのステージの準備が行われている間に、男女 5人のメンバーがコメントした。皆一様に「楽しかった!!」と言っており、本当に充実感いっぱい。中には「演奏のときよりも、今ここで喋っている方が緊張します」と発言して笑いを取る子もいて、なんとも穏やかな雰囲気に包まれた。そして、再び坂本がピアノを弾き、柳澤指揮のオケとともに、自作の「ETUDE」を演奏した。おっ、これは、上で書いた私のかつての愛聴盤のうち、「音楽図鑑」に入っていた曲ではないか。そうそう、こういう坂本龍一、好きなんです。これがそのアルバム、「音楽図鑑」。もちろん自宅に戻ってから、久しぶりに家人とともに聴き入ったことは言うまでもない (笑)。
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せっかくの機会であるから、何かチャリティになるものを、と思ったが、残念ながら選べるアイテムがごく限られている。その中で、三越伊勢丹が 3年前から毎年制作していて、今年も 3月 1日から発売している「どんぐりバッヂ」なるものを購入。たった 300円だが、この収益から命を守る森を作るとのこと。もしこのオケが来年以降もコンサートを続けるなら、前年の演奏のライブ CD を発売して、その売り上げを震災復興に活用してはいかがでしょう。
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上述の通り、全体を通して、湿っぽくならずに前向きになれる、そして音楽の力を信じることのできる、素晴らしい演奏会であった。今の坂本は、永井荷風と藤田嗣治を足して 2で割ったような風貌であり (笑)、それだけでも私の好みであるが、何よりこのような企画を実現できる行動力も兼ね備えていて、やはり日本の音楽シーンにとってなくてはならない人である。今後も是非健康にご留意頂き、ご活躍下さい!!
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by yokohama7474 | 2017-03-26 01:54 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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名古屋フィル (通称「名フィル」) は日本の地方オケの雄のひとつ。通常は頻繁に東京公演を行っているわけではないが、今回は上記のチラシにある通り、昨年の創立 50周年を記念しての演奏会で、指揮を取るのは昨年 4月からこのオケの音楽監督を務める小泉和裕。会場にはそれを示す展示物の数々があり、楽団の歴史を刻む様々な演奏会の写真も展示されている。
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尚、名フィルの 1年前、1965年に創立された東京都交響楽団はこのコンサートの前日、音楽監督大野和士の指揮で名古屋公演を行っており、チケットの販売など、両楽団の間で協力が行われたようである。これはなかなか意味深い試みではないだろうか。会場にはその大野からの花環も展示されている。
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その名フィルが東京公演に選んだ曲目は、ブルックナーの大曲、交響曲第 8番ハ短調。今年は年初からブルックナーの演奏会が多く、1月にもこの小泉が件の東京都交響楽団を指揮しての 5番を採り上げた。だが今回はブルックナーが完成させた最後の交響曲であり、壮大で深遠な傑作、第 8番。指揮者もオケも、実に身の引き締まる思いで演奏に臨んだことであろう。ちなみに、最初の発表では (上のチラシの通り) 使用楽譜はノヴァーク版とのことであったが、指揮者の意向により、事前にハース版へと変更が発表された。ブルックナーの楽譜の版の問題は非常に複雑で、私自身も正直よく把握していないが、第 8番の場合、ノヴァーク版がブルックナー自身がこの曲を改訂した際の意図に最も近いとされるが、その改訂自体が他人の意見をもとにしているという説があるので、ややこしい。もちろん、その改訂以前の第 1稿や、第 2稿であっても今日ではまず演奏されない「改竄版」というひどい名前の版もある。だが、いわゆる第 2稿のハース版とノヴァーク版の違いはほとんどが細部に存在しているので、耳で聴いてはっきり何が違うということもあまりない。だから、どの版がどうのこうのという議論は、学者と一部マニアにお任せしよう。ただ、指揮者による版の選択は避けて通れないことであり、小泉の師であるカラヤンもこの曲の演奏にはハース版をいつも使用していたようだ。70歳に近づきつつある小泉が、現在の手兵とともにどれだけ感動的な音楽を奏でるかが楽しみであった。
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全体を通した印象では、推進力と音の美しさに満ちた熱演であったと思う。いつものように暗譜で指揮をする小泉の腕の動きは明確で、曖昧さは皆無。その一方で、纏綿と情緒たっぷりに歌うというよりは、強靭な歌がずっと続いているという印象であった。冒頭の低音の響きはあまり重すぎず、テーマが空間を切り裂くように出てくる場面の方により力点が置かれていたようだ。その音色の指向は全曲で見られ、重く暗いブルックナーではなく、高音域がドラマを導き出すブルックナーであったと思う。名フィルも技術的に安定した演奏であり、東京での見せ場を充分に作ったと言ってよいであろう。

最近の小泉は国内での活動に特化しているように思われるが、日本のオケの水準がこのように上がってくると、それはそれで意味のあることであろう。できればほかの国内オケとの組み合わせでも聴いてみたいものである。

by yokohama7474 | 2017-03-20 23:05 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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昨年の 9月に名古屋で勅使川原三郎 (てしがわら さぶろう) 演出による「魔笛」の上演が行われたのは知っており、首都圏でも上演されることも頭に入っていた。だが、月日の経つのは早いもの。ふと気づくと神奈川県民ホールでのこの上演まであと僅かという日程に迫っていた。しかも、週末とはいえ会社の予定が入る可能性はあるし、巨匠ピアニスト、アンドラーシュ・シフのリサイタルもあるし、いろんな要素が絡み合っていたのであるが、直前になってなんとか今日のチケットをゲットして見に行くことができたのである。

上記の通り、いちばんのお目当ては、勅使川原三郎の演出である。勅使川原は言うまでもなく日本が世界に誇る前衛ダンサー。このブログでも何度かその名前に触れているが、なんと言っても、今年 1月23日付の本拠地カラス・アパタラスでの公演に関する記事において、私の彼に対する熱烈な思いのたけはぶちまけておいた (笑)。この記事は一生懸命書いたのに、本当に悲しいほどにアクセスが少ないので、ここでもう一度宣伝する。文化に興味のある人なら彼のダンスは必見なのである。
http://culturemk.exblog.jp/24073769/
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その勅使川原がオペラの演出をする。随分以前にオーチャードホールで上演された井上道義指揮の「トゥーランドット」で演出をしていた記憶があるが、私はそれを見ていない。だが彼の経歴を見ると、海外 (ヴェネツィアやエクサン・プロヴァンス) ではバロックオペラの演出をしたり、2015年にはパリのシャンゼリゼ劇場で「Solaris」というオペラにおいて台本・演出・美術・照明・衣装を手掛けたという。これはもちろんあの「惑星ソラリス」の原作によるもので、作曲は藤倉大。あぁ、なんということ。 日本人のクリエーターたちによるその作品が日本で上演されていないとは、国家的な恥である。どこかの団体が採り上げてくれないものであろうか。これがその演奏のカーテンコールの写真。右から 3人目が勅使川原。その左が藤倉。そして右端が、今回の「魔笛」でも大活躍の、勅使川原のもとでずっと踊っている佐東利穂子。
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さて、「魔笛」は言うまでもなくモーツァルト晩年のメルヘンオペラである。ジングシュピールと言って、ドイツ語による歌芝居の形式で書かれているので、音楽のない場面で歌手がドイツ語で演技をする場面が頻繁に登場する。なので日本での上演では、そのセリフのところだけ日本語にするケースもある。例えば 2010年の二期会の公演 (指揮 : テオドール・グシュルバウアー、演出 : 実相寺昭雄) ではそのような方法を取っていて、歌はすべて原語のドイツ語でありながら、演技の部分では日本語が使われていた。指揮者もオーケストラも演出もその他スタッフも全員日本人の中で、唯一の外人である指揮者はどんな感じなのだろうと思って見ていた記憶がある。この言葉の問題はなかなかに難しく、セリフだけ日本語にすると、どうも話の流れが不自然に聞こえてしまう部分があるし、かと言ってドイツ語だと、日本における公演であれば、それはそれで何か隔靴掻痒の感を否めない。今回の上演ではその折衷的な方法が取られた。すなわち、歌はもちろんすべてドイツ語であるが、芝居の部分は一切排して、その部分のストーリーの展開を語り手が日本語で語って補うというもの。この方法ゆえに、「魔笛」にしては上演時間が短かった (14時に始まり、25分の休憩を経て 17時に終了)。だが、やはりこれも物足りない。このオペラになじんだ人間にとっては、特にパパゲーノが喋らないのはやはり淋しい。喋りすぎた罰として口枷をはめられる箇所や、パパゲーナが老婆として現れては消える場面は芝居を見たいし、また、首を吊ろうとしてパンフルートを手に「1、2、3」と数えるところはやはり、「アイン・・・ツヴァイ・・・・・・ドラーイ」でなければ!!

その一方、この上演方法のおかげで、音楽だけに集中して聴くことができたという面もあった。実は今回の上演、歌手陣と合唱団は二期会の人たち。手元に上述の 2010年の上演プログラムを持って来て比べてみると、ザラストロの大塚博章、タミーノの鈴木准、パミーナの嘉目真木子という主要キャストが今日の公演と全く同じ。また、今回の夜の女王は、前回もダブルキャストとして、私が見た日とは違う日に歌っていた安井陽子。逆に言うと、今回の上演は、二期会の主要歌手がずらりと出演するレヴェルの高いものであったと言える (ところで二期会はそれ以外でも最近では 2015年に宮本亜門の演出で「魔笛」を上演していて、そのときのキャストも今回と多くが重複する)。今回特に私の印象に残ったのは、まず、もともと芸達者でよく知られる、パパゲーノ役の宮本益光。本当はベラベラ喋って欲しかった。
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それから、パミーナ役の嘉目真木子 (よしめ まきこ)。母親の夜の女王とその敵にあたるザラストロの狭間で翻弄されながらも、一途にタミーノに思いを寄せる芯の強さを表現して素晴らしかった。
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さて今回の上演、勅使川原三郎は、演出だけでなく、装置、照明、衣装を担当している。と言っても装置は、何もない空間に何種類もの金属のリングが上がったり下がったりするだけのもの。極めてシンプルであるが、リングの動きそのものは、上下だけでなく、くるくる回ったり位置関係が変わったり、かなり複雑。第 1幕では大小 9つのリングが登場し、第 2幕の開始部分では舞台全面に円弧を描くような巨大なリングが圧倒的。以下は名古屋での公演から。
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スタイリッシュな空間なのであるが、そこに出てくる歌手たちは奇抜な衣装をまとっていて、なんともおかしい。上の真ん中の写真でボーリングのピンのように見える (笑) 2人は、ザラストロおつきの神官であり、いちばん下に見える 3人のベイマックス (笑) は、パパゲーノを導く童子たちなのである (今回は子供ではなく女性が歌っていた)。いずれも印象的だが、特にボーリングのピン風の神官の衣装は動くのもなかなか大変そうで、もし転んだら収拾がつかないほどの危険と隣り合わせなのだ!! これらは極めて単純な造形であるが、発想の源泉は、モダニズムの旗手でバウハウスでも教鞭を取っていたオスカー・シュレンマーではないのかなぁ、などと勝手に想像するのも楽しい。私はシュレンマーの大ファンなのである。
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だが、このモノスタトスの衣装はどう説明しよう。両腕は体の後ろからニュッと出てくる仕組みなのである。通常の怖いモノスタトスとはちょっと違った雰囲気だ。
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そして勅使川原の演出なので、当然のごとくダンサーたちが登場する。中でも、ソロで踊りながらも場面場面で語り手としてセリフ代わりのストーリーの説明をする佐東利穂子は、文字通り勅使川原の片腕。以前私が見たダンス・パフォーマンス「青い目の男」でも彼女の朗読を使っていたが、今回は実際に舞台で口元にマイクをつけての語りであったようで、これは大変だったのではないか。その声は淡々としていて、過剰な情緒をまとっていないところがよい。
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オペラの中であちこちにダンスが入るというのは、私は正直なところ、あまり好きではない。今回も (以前武満徹の「秋庭歌一具」の上演についての記事でも書いた通り) 場合によっては音楽自体の流れを乱してしまう面があったと思う。一方、第 2幕の群舞で、ダンサーが一人一人、倒れては起きる振付を見たときは、若き日の勅使川原自身の踊りを思い出してよかったし、荘厳な音楽にもよく合っていた。全体として見て、勅使川原の演出には何か決定的に素晴らしいというものは感じなかったが、理屈っぽくならずに新たな挑戦をしている点には好感を持った。

忘れてはならないのは、川瀬賢太郎指揮の神奈川フィルの演奏である。この指揮者は 1984年生まれと未だ大変若いのであるが、この神奈川フィルの常任指揮者を務めている。序曲の冒頭、古楽風の硬い音のするティンパニが耳に入ってきて、新鮮に響く。主部に入ってからの疾走する感じもなかなかよい。順調な滑り出しだと思ったが、その後も一貫して実に若々しさ溢れる清新な音楽で、きめ細かく歌手たちをリードした。なかなかの手腕である。川瀬と神奈川フィル、今後注目しよう。
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そんなわけで、今回の演奏は、歌手も合唱団も指揮者もオケも演出家もダンサーも、全員が日本人。意欲的な試みには拍手を送りたい。

by yokohama7474 | 2017-03-18 23:26 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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2017年も始まって早くも 1/5 が過ぎようとしている。だが考えてみると、その間に海外からのオーケストラの来日は幾つあっただろうか。新年のウィーン・フォルクスオーパー管弦楽団を除くと、恐らくは現在相次いで来日している、ハンブルクに本拠を置く NDR エルプ・フィル (旧北ドイツ放送響)、プラハ交響楽団と、それからこのベルリン・コンツェルトハウス管が、今年初めての本格的な外来オケの一群なのではないだろうか。今後、上半期全体にまで目をやっても、5月のフィルハーモニア管、6月のブリュッセル・フィルとドレスデン・フィルくらいしか思いつかない。ほかにもあるかもしれないが、いずれにせよ、上記の中には初来日の団体や若干渋めの団体もあり、超一流外来オケ猛襲来という感じはない (笑)。もっとも、秋以降になると、ベルリン・フィル、コンセルトヘボウ、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス、ボストン響、ロンドン・フィル、チェコ・フィルなど、ビッグな名前が目白押し。シュターツカペレ・バイエルンもオペラの来日とともにオーケストラコンサートを開くし、なんとも過酷なスケジュール繰りを強いられることは必至なのである。

ともあれ、このベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団の演奏会だ。上のポスターでも明らかな通り、2日前に行われた上岡敏之指揮新日本フィルによるマーラー 6番の演奏会とセットになっていて、「すみだ平和祈念コンサート 2017」と銘打たれている。この 2つのコンサートが捧げられる対象は 2つの悲劇。ひとつは 2011年の東日本大震災であり、もうひとつが 1945年の東京大空襲であることは、上記コンサートの記事に既に記した。いずれがいずれと明記はないものの、今回のコンサートの顔ぶれは、第二次世界大戦でやはり灰燼と帰したドイツの首都ベルリンのオケとユダヤ人の指揮者が、ドイツの音楽であるワーグナーとユダヤの音楽であるマーラーを演奏することに意義を見出すことを考えれば、東京大空襲の犠牲者に捧げられるべきとも思われる。その一方で、今回演奏されたマーラー 5番は、これも以前の記事に書いた通り、大震災当日にこのホールで演奏された曲目でもあるのだ。平和な時代に安心して音楽を聴くことができる我々は、幸せなのである。ここで改めて曲目を書いておこう。
 ワーグナー : 楽劇「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死
 マーラー : 交響曲第 5番嬰ハ短調

壮大で濃厚な音響が鳴り渡る、素晴らしいプログラムである。今回演奏するベルリン・コンツェルトハウス管は、聞き慣れない名前かもしれないが、旧東ベルリンに存在したベルリン交響楽団の現在の名称である。昔からのファンなら、巨匠クルト・ザンデルリンクの指揮した録音の数々を思い出すだろう。名称のコンツェルトハウスとは、以前の名前はシャウシュピールハウスというコンサートホールのこと。ドイツ新古典主義を代表するカール・フリードリヒ・シンケルの設計による建築。それこそ戦争で焼けてしまったが、戦後元通りに再建された、このように壮麗な建物である。
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ここは東ベルリン地域であり、ベルリンの壁崩壊後にあのバーンスタインが世界の一流オケのメンバーを集めて第九を演奏したのはこのホールであったし、東西ドイツ統一後まもなくの頃、ベルリン・フィルハーモニーホールが改修で閉鎖されていたときには、ベルリン・フィルの定期演奏会の会場にもなっていた。かく言う私も、初めてベルリンを訪れた 1992年、このホールでジュリーニやバレンボイムの指揮するベルリン・フィルを聴いたものだ。だが、建物自体は非常に素晴らしいのだが、肝心の音響は残念ながらよくなかったと記憶する (当時のコンサートマスターの安永徹もそのような発言をしていた)。今では改善されているのであろうか。

そして今回指揮を取るのは、かつて 2001年から 2005年までこのコンツェルトハウス管の首席指揮者を務めた、イスラエル出身の指揮者、エリアフ・インバル。日本でも既におなじみの指揮者であり、とりわけそのマーラー (とブルックナー) 演奏は、東京においても他を絶する偉大な足跡を刻んでおり、80歳になった今も精力的に活動する巨匠指揮者である。
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繰り返しだが、とにかく曲目がよい。そして指揮者がインバルと来れば、期待が高まるのを抑えることはできない。そして今回の演奏、大変深く心に残るものであったと断言しよう。そもそもインバルは、どちらかと言えば爆演系であり、きっちりアンサンブルを整えた流れのよい演奏よりは、マーラーの場合には特に顕著な、音楽の中の矛盾する要素をそのまま取り出して見せ、大きな弧を描いて劇性を強調するタイプである。指揮ぶりは決して華麗ではなく、私は以前から彼の指揮姿は、「ちぎっては投げ、ちぎっては投げ」だなぁと思っているのであるが (笑)、ここに来て彼の芸風は一段と凄みを増してきたように思う。今回の演奏では、それをはっきりと再確認することができた。最近の東京でインバルを聴く機会が多いオケは、もちろん東京都交響楽団 (通称「都響」) なのであるが、都響の、芯がありながら艶やかな音とは違い、このコンツェルトハウス管の音は、もっと渋くて地味で重めである。だが、「トリスタン」冒頭のチェロが鳴り始めたとき、極度の緊張や洗練はないものの、何かどっしりとした確信のようなものが感じられ、はっとした。この音楽は彼らの内部の深いところから響いている。頭で考えてきれいに弾こうとか情緒を表現しようとか思っているのではなく、彼ら自身の血の中にあるものを、そのまま出している。なんと大人の音だろう!! と思ったのである。このワーグナーの「トリスタン」前奏曲と愛の死という絶品は、私としても当然、限りなく心酔している曲であり、過去にも様々な演奏で体が震えるような感動を覚えてきている。今回の演奏は、超絶的な名演ということではないにせよ、この音楽の持つ怪しさと強さを巧まずして表したという点で、これからも長く記憶に残ることだろう。時に人間心理のひだの奥を抉り出すような深い音も聴かれ、気負いも衒いもなく、この凄まじい音楽の神髄を聴かせてくれたと思う。

メインのマーラーは、これまたインバルの面目躍如である。引き続きオケの音は、華麗とは言えないが独特の味わいがあり、冒頭のトランペットの表情づけも、若干地味ながら、やはり素晴らしい。私はこのブログでマーラーの演奏についての記事を書く際、時に「表現しがたい違和感」に触れることがある。これは私個人の感想なので、言葉で説明するのは難しく、異論も承知の上なのであるが、マーラーの音として鳴って欲しい、そんな音のイメージがあって、音楽が進行して行く中で、指揮者によってはその響きに違和感を感じることがままあるのである。ところがインバルの場合には、そのような違和感を感じることは一切なく、まさにマーラーの音があるべき姿で常に鳴っているという、そういうイメージなのだ。天性のマーラー指揮者と言うべきではないだろうか。喧騒が渦巻き、陰鬱な世界苦が表出され、絶叫や絶望や、だがそこからまた沸き起こる希望や、圧倒的な勝利の凱歌や壮麗な人間賛歌など、様々な感情や音楽的情景を強烈な色彩で描いたマーラーの音楽を、これだけ仮借なく描き出す指揮者が、バーンスタイン以降何人いただろうか。しかもその指揮ぶりは、「ちぎっては投げ」なのにである (笑)。もちろん私は、違うタイプのマーラー演奏も好きで、例えばマゼールの、例えばアバドの、あるいはメータやヤンソンスやシャイーや、それぞれの指揮者にそれぞれの持ち味があることは当然知っている。だが、インバルのマーラーには何か特別なものがあり、多くの人はその演奏にただただ打ちのめされるのである。しかしながら、今回の演奏で唯一、少し疑問符がついたのは、終楽章の中間あたり。まずこの楽章の冒頭で木管が旋律を受け渡して行くとき、クラリネットが少し詰まってしまった。それでケチがついたとは言わないが、その後トランペットが入りを間違えるシーンもあり、少し緊張感に隙が生じたように思い、このオケがいわゆる一般的な意味での世界の超一流という存在ではないことを想起してしまったのは、正直残念であった。だが、瞠目すべきはその後の終盤までの追い込みである。上記の通り、音が華麗とか艶やかではない分、その音楽には一貫した強い個性があり、大団円では聴く者すべてに鳥肌を立たしめるような勢いにまで達したことで、多少の技術的な問題など雲散霧消してしまった。これぞまさに生演奏の醍醐味。かくして終演後は、素晴らしい指揮者と素晴らしいオケの共同作業に、心からなる喝采を送ることになったのである。

ひとつ書き忘れていたが、このオケのコンサートマスターのひとりは、日本で読売日本交響楽団 (通称「読響」) のコンマスも兼任している、日下紗矢子。このように大変華奢な人なのだが、既に読響の数々の演奏会でも実証している通り、音楽に敏感に反応してオケを引っ張るリーダーとしての素晴らしい才能を持っている。今回は「トリスタン」でトップ、マーラーではサブを務めたが、今回の演奏の成功には、彼女の貢献も大きかったと思う。2008年からこの地位にあり、子育てしながら日欧で活躍しているというスーパー・ウーマンなのである。
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会場には、2005年にこのホールで開かれた、同じ指揮者とオケ (但し名称は未だベルリン交響楽団であったはず) による「すみだ平和祈念コンサート」の際のサイン入りの写真が掲示されていて、興味深い。
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また、なんと、会場限定販売という CD も 2,000円で販売しているので早速購入した。曲目は、フェルッチョ・ブゾーニの「踊るワルツ」という珍しい曲と、リヒャルト・シュトラウスのアルプス交響曲。聴くのが楽しみだ。
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改めて思うに、東京の聴衆は本当にインバルに感謝しなければならない。彼のおかげで、どれだけマーラーの神髄を経験することができているか。80代の指揮活動の中で、またさらに円熟味を増して行くことを期待しましょう。

by yokohama7474 | 2017-03-14 01:55 | 音楽 (Live) | Comments(4)