カテゴリ:音楽 (Live)( 260 )

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先に12月15日の記事でもその演奏をご紹介したチェコ出身の俊英指揮者、34歳のヤクブ・フルシャが、首席客演指揮者を務める東京都交響楽団(通称「都響」)を指揮して、ベートーヴェンの第9交響曲を指揮した。今回フルシャと都響が演奏する第九は3回。これはそのうちの最初のものである。これがそのフルシャ。真面目そうな人である。
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若い指揮者にとってこの曲は難物であろうと思う。作曲当時の常識をぶち破った型破りの巨大交響曲は、演奏する方も作曲者の破天荒ぶりに少しでも近づく努力をしないといけないのであるから。だがここは期待をもって、居心坦懐にフルシャの挑戦に耳を澄ませよう。まずは、私が独自に使用している「第九チェックシート」から。

・第九以外の演奏曲
  なし
・コントラバス本数
  6本
・ヴァイオリン対抗配置
  なし
・譜面使用の有無
  指揮者 : あり
  独唱者 : なし
  合唱団 : なし
・指揮棒の有無
  あり
・第 2楽章提示部の反復
  あり
・独唱者たちの入場
  第2楽章と第3楽章の間(ピッコロと、ティンパニ以外の打楽器奏者3名も同時入場)
・独唱者たちの位置
  合唱団の最前列の真ん中
・第 3楽章と第 4楽章の間のアタッカ
  なし

このフルシャの演奏を一口で語るとするなら、大変にオーソドックスなスタイルであり、破天荒な要素はほとんどなし。それゆえ、この将来有望な指揮者の堅実ぶりを実感するとともに、今後また訪れるであろう進化が楽しみになるのである。前回のフルシャ/都響の演奏会の記事では、彼の「安全運転」ぶりに多少の疑問を呈した私は、この第九においてまた違ったフルシャを聴き取ることができるかもしれないと思ったのであるが、結果的にはここでも暴走は聴かれず、だが音楽の本質にひたすら迫ろうという若い指揮者の奮闘ぶりを目の当たりにすることになった。フルシャはしばしば指揮台で飛び上がり、渾身の指揮ぶりであった。とはいえそれは、良識の範囲での熱演ということになるであろう。灼熱の狂気の表出は聴かれずとも、凡庸な音楽ではない。それゆえ、依然としてフルシャは私が期待する若手指揮者であるのである。

この演奏のひとつの特色は、ソリスト4人はいずれも二期会所属、そして合唱団は二期会合唱団であったことだ。日本において果敢なオペラ演奏に取り組んでいる二期会の演奏に関しては、このブログでも何度か記事にしている。そのせいか、独唱も合唱もオペラ風であったような気がしたものだ。4人のソリストは以下の通り。
 ソプラノ : 森谷(もりや)真理
 アルト : 富岡明子
 テノール : 福井敬
 バリトン : 甲斐栄次郎

男声2人は名実ともに日本を代表する歌手たちで、2人ともこのブログでかつて紹介したことがある。テノールの福井敬は長年に亘って日本のトップに君臨する人だし、バリトンの甲斐栄次郎は、今年7月24日のチョン・ミョンフン指揮東京フィルの「蝶々夫人」でのシャープレスの歌唱が忘れがたい。一方、この曲の女声パートには見せ場が少ないのであるが、今回の2人は素晴らしい実績を持つ歌手たちなのだ。ソプラノの森谷真理はこのような人。現在ウィーン在住である。
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経歴を調べてみると、2006年の大みそかにニューヨークのメトロポリタン歌劇場でモーツァルトの「魔笛」において、夜の女王役で出演している!!この上演は英語版であったようだが、指揮は当時の音楽監督ジェームズ・レヴァインであったようだ。これがそのときの写真。演出はあの「ライオンキング」のジュリー・テイモア。
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私は同じ演出の公演をMETで見ているが、残念ながら彼女の出た回ではなかった。今私の手元にあるMETの2006-2007年シーズンのプログラムを見てみると、「魔笛」の欄には彼女の名前はない。それもそのはず。METが若手発掘を目的に開催したオーディションを勝ち抜いての出演であったのである。
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そしてアルトの富岡明子は、ペーザロ・ロッシーニ音楽祭で2007年に「ランスへの旅」のマッダレーナ役を歌った実績を持つ。なんとなんと。あのイタリア語の連続射撃のようなオペラを、しかもロッシーニの生地ペーザロで開かれる由緒正しい音楽祭で歌った日本人がいたとは知らなかった。
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フルシャにとって日本での活動がどの程度の重みを持つことになるのか分からないが、第九を演奏する日本のオケの技術や、これだけの実績を持つ日本人歌手の存在には、きっと無視できないものがあるに違いない。今都響の来シーズンのプログラムを確認すると、彼が次に都響を振りに来るのは1年後、2017年12月である。チェコ音楽に加えて、ブラームスを集中的に採り上げる予定。若く才能ある指揮者のこと、もしかすると、これから1年の間に飛躍的進化を遂げているかもしれない。楽しみにその機会を待つこととしよう。

by yokohama7474 | 2016-12-23 23:33 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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このブログではもう何度も触れてきた通り、今年2016年は、武満徹(たけみつ とおる、1930-1996)の没後20周年。数日に亘って彼の創作活動を俯瞰するような大々的な催しこそなかったものの、それでもさすが20世紀日本を代表する芸術音楽の作曲家である。様々な演奏会において、没後20周年を記念して彼へのオマージュが捧げられた。そんな中、既にコンサートホールでは第九ばかりが鳴り響くこの年末に、渋谷のBunkamuraオーチャードホールにおいて、武満ファン必聴のコンサートが開かれた。それは、彼の映画音楽を採り上げて演奏するというもの。その内容を以下にご紹介する。

よく知られている通り、武満は大の映画好きであった。武満作品の熱心な紹介者でもあった指揮者の岩城宏之が何かのインタビューで、「武満さんに『最近映画はご覧になっていますか』と訊くと、『最近減っちゃってねー。年に100本くらいしか見てないよ』と答えたんですよ」と笑って語っていたのを覚えている。私は武満が亡くなったとき、作曲界というよりも、日本の文化シーンにおける大きな存在がなくなってしまったという空虚感を味わったものだが、彼のように自由な感性であらゆる文化から影響を受け、またあらゆる文化に影響を与えた芸術家は、日本にはそう多くないのである。そんな武満の創作活動にとって、映画音楽はひとつの柱になるものであった。生涯で100本ほどの映画音楽を手掛けたらしい。いわゆる現代音楽の作曲家でこれほど映画音楽を作曲した人は珍しい。私の知るところでは、もちろん日本の伊福部昭は特殊な例であろうが、例えばギリシャのミキス・テオドラキスとか、変わったところではポーランドのヴィトルド・ルトスワフスキなども別名で映画音楽を書いている。だが、誰も武満ほどの多様性と積極性をもって映画音楽を作曲してはいないだろう。ひとつの証拠を挙げよう。小学館による武満徹全集は、断片のみ残された舞台音楽などもすべて網羅した、まさにこの作曲家の全業績を音で辿ることのできる文字通り空前絶後の内容なのであるが、作曲分野によってセットが5つに分かれている。実にそのうちの2セットが映画音楽なのである。CDの枚数でいうと、全55枚中21枚!!我が家のCD棚のカオスの中からこの2セットを引っ張り出してみた。上に乗っている絵はなぜかマティス(笑)。
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それから、ビクターから出ていた「武満徹 映画音楽」というサントラを集めた6枚のシリーズ(監督別)や、その他の映画音楽だけのアンソロジーや、「乱」「燃える秋」と言った作品のサントラ全曲盤も手元にあって、要するに私は武満の映画音楽の大ファンなのである。これが、和田誠の手掛けた「武満徹 映画音楽」のジャケットだ。
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そんな私が今回の演奏会を必聴と考えたのは、もちろん演奏曲目もひとつの理由だが、何よりも登場する演奏者たちである。ギターが渡辺香津美と鈴木大介、アコーディオンのcoba、そしてパーカッションのヤヒロトモヒロ。実はこの4人は、2008年に武満の娘であるプロデューサーの武満眞樹からの呼びかけによって集められ、ワシントンDCで初めて武満の映画音楽を演奏した。以来ニューヨークやカリフォルニアのオレンジ・カウンティ、北京、上海、また国内では八ヶ岳、松本等で共演してきたが、実は東京での公演は今回が初めてとのこと。実に貴重な公演なのである。これは兵庫芸術センターでの公演の写真。
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ここで武満眞樹の言葉を引用しよう。

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最初の公演は2008年2月、米国ケネディ・センターで開催された「日本」がテーマの音楽祭で。この音楽祭のプロデューサーから連絡をもらい“タケミツの映画音楽を紹介したい。ただし日本から呼べるミュージシャンは4人くらい”と言われた。アコーディオン、パーカッション、ギター×2の4人というのは編成としてどうなのか、なんてことは深く考えず、私は即この4人に連絡をした。彼らが父の敬愛する音楽家だったから、そして父の音楽で自由に遊んでくれそうだったから。何より彼らの素晴らしさをワシントンDCの人々に知ってほしかったから。4人とも快諾してくれて、それから何度かプログラム選びのミーティング、編曲の割り当て、そして香津美さん宅でのリハーサルを経て、ワシントンDCでの本番。タケミツのことも4人のアーティストのことも殆ど知らなかった聴衆が、コンサートが進むにつれ、手拍子を打ったり、身体でリズムをとったり、歓声を上げたり。最後には全員がスタンディング・オベーション。遠い異国から来た4人の素晴らしい音楽家たちに惜しみない拍手を送っていた。作曲家の肉体は滅びても、その音楽は生き続ける、それどころか新しく生まれ変わることができる、ということを改めて感じた夜だった。
UNQUOTE

会場には武満が音楽を手掛けた映画のポスターや、この演奏会のポスターに奏者たちがサインしたものが展示されている。いかにもこの特別な演奏会の雰囲気が感じられて楽しい。
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今回はこの4人の演奏者のうち、ヤヒロを除く3名がそれぞれ編曲を手掛けて、この編成で武満の映画音楽の数々を演奏できるようにしたもの。この3名はまた、コンサートの進行の中で順番に曲の紹介をしたり、武満とのエピソードや、また自分の最近の活動について語ったのであるが、皆話が上手で、客席を沸かせていた。曲目は以下の通り。尚、*を付した曲は映画音楽以外。
 「フォリオス」より第1曲*
 不良少年
 伊豆の踊子
 どですかでん
 日本の青春
 太平洋ひとりぼっち
 = 休憩 =
 Tribute to Toru (渡辺とヤヒロによる武満徹に捧げる即興)*
 死んだ男の残したものは (ゲストヴォーカル : カルメン・マキ)*
 ホゼー・トレス
 狂った果実
 最後の審判 (三月のうた)
 他人の顔
 写楽
アンコール : 小さな空*

原曲をよく知っているものとそうでないものがあったし、原曲からはかなり違った雰囲気になっている曲もあったので、武満ファンにとってすべてが驚愕の演奏ということではなかったかもしれないが、だがここに集まったミュージシャンたちの熱意と技術とカリスマによって、何か本当に大切なものを思い出させてもらったような気がする。この編成では、アコースティックな音だけで広いオーチャードホールを満たすわけにはいかないため、PAを使用していたが、そこでスピーカーを通して聴かれる渡辺や鈴木のギター、cobaのアコーディオン、ヤヒロのパーカッション(ロックバンドのようなドラムではなく、ダブラのような太鼓を手で叩いたり、鈴やあるいは鳥の鳴き声のような音のする楽器を駆使していた)、それぞれが素晴らしい表現力で、なんとも惚れ惚れするものであった。それから、特別ゲストとして登場したカルメン・マキのヴォーカルはなんとも情念溢れるもので、ここだけエレキギターで伴奏した渡辺も、「リハーサルを重ねたけれど、本番がいちばんすごくて、身震いした」と絶賛であった。もちろん私も初めてのカルメン・マキ体験であったが、彼女の長い舞台経験から来る凄みに圧倒された。これが1969年の彼女のデビュー作。おぉそうだ、作詞はあの寺山修司なのである。
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まあそういった意味では、昭和へのタイムトリップという感覚もあるコンサートであったが、なんとも言えないノスタルジーとともに、これら一流のミュージシャンの手になる音楽の説得力は、ただのノスタルジーで済むものではない。その意味では、この音楽を我々は若い世代につなぎ、また世界にも発信して行かなくてはならない。満席とはならなかったオーチャードホールには大人の雰囲気が漂っていたが、それは要するに聴衆の年齢層が高かったということでもある(笑)。若い聴衆をもっと集める必要がある。ところでこれら映画音楽の中で私が最も好きなのは、勅使河原宏監督の「他人の顔」なのだが、この退廃的なドイツ・ワルツは何度聴いても素晴らしい。これはもちろん有名な阿部公房の小説の映画化で、私も昔名画座で見て痛く感動したものであるが、面白いのは、酒場のシーンの後ろの方に、エキストラとして武満が出ており、確か煙草を吸いながらだと思ったが、何やら喋っている映像が出てくる。このようなシーン。若い人たちはこのような映画を面白く思わないのかなぁ・・・。昭和は遠くなりにけり。
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最後にもうひとつ、私が以前体験した、やはり武満の映画音楽のコンサートについて少し触れてみたい。それは、今を去ること20年前。サントリーホールオープン10周年を記念するコンサートのひとつ。演奏は、あの小澤征爾指揮新日本フィルによるもので、当時のポスターはこれだ。
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この日付に注目して頂きたい。武満の逝去は1996年2月20日。このコンサートは同じ年の10月27日。作曲者の死後8ヶ月というタイミングだが、当然、作曲者が世を去るということを想定せずに企画されたものであろう。奇しくも、そのときのコンサートも今回のコンサートも、最後の曲に選ばれたのは、篠田正浩監督の「写楽」である。これは武満が生涯最後に手掛けた映画音楽であるが、陰鬱さはかけらもない、洒脱なディキシーランド・ジャズだ。20年前のコンサートでも小澤が楽しそうに指揮していたのをよく覚えている。また、コンサートの途中には小澤へのステージ上でのインタビューがあった。並ぶ者のない率直さで世界の頂点に登りつめた小澤は、このときも正直に、「いやー、ボクは不勉強でね、今日演奏する音楽のついた映画、一本も見たことないんだよ!!」と言っていた。あぁ、あれは楽しいコンサートだったなぁ。FMで放送されたのだが、エアチェックを忘れてしまい、今でも後悔しているのである。なんとかCD化してもらえないものだろうか・・・。そういえば武満が亡くなった1996年2月は私はニューヨークに長期出張中で、現地で訃報を知ったのだが、その直後に小澤はウィーン・フィルとカーネギーホールで一連のコンサートを行っていたのである。マーラーの「復活」の前に、武満を偲んで「弦楽のためのレクイエム」が急遽演奏されたが、大抵の場合は現場でチケットを入手できるニューヨークであるが、あの時ばかりは大変な人気のためにそれが叶わず、ホールの入り口に流れるモニター用の会場内の「音響」を聴きながら、極寒の中で悔しさを噛みしめていたのである。今確認すると、それは1996年2月29日のこと。
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ニューヨークと言えば、かの地の名門オケ、ニューヨーク・フィルが創立125周年を記念して委嘱した「ノヴェンバー・ステップス」が、世界における武満の出世作であり、1967年にその初演を指揮したのがもちろん小澤であった。その後の小澤はもちろん、武満作品の世界的権威と見做されて今日に至っているのである。
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「ノヴェンバー・ステップス」の初演からもうすぐ半世紀。既に歴史になった出来事である。20年前のコンサートにおける私の思いも、もはや歴史になりかかっているのかもしれないが(笑)、歴史とは常に作られ続けるもの。今回のような素晴らしい演奏会によってこそ、歴史が続いて行く。これからも新鮮な思いでそれを目撃して行きたいものだ。

by yokohama7474 | 2016-12-22 01:44 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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さて、今年もついに残り二週間。かくして東京の、いや東京だけでなく日本中のコンサートホールは、ただ一曲の長大な交響曲によって席巻される。それは、ベートーヴェン作曲、交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付」。いわゆるダイクである。今年も各楽団それぞれの指揮者の選択になっており、私が出かけるのはそのうちのほんの一部ではあるが、この時期に一体いかなる音楽イヴェントが東京で起こっているかの記録にはなると思うので、いつもの通り思いつきのまま書き記して行くこととしたい。

まず私が今年の年末の第九として初めて体験したのは、東京フィル(通称「東フィル」)による演奏。上のチラシで明らかな通り、指揮者は女性で、その名をアヌ・タリという。1972年生まれのエストニア人。私は彼女の実演にも録音にも接したことはないが、その名はどこかで耳にしたことがある。もちろん、音楽を聴く上で女性であるとかどこの国の人であるとかいうことはさほど本質的なことではなく、その人の音楽に真実味と説得力があるか否かだけ聴ければよいのであるが、音楽家の中でも指揮者という職業は、未だ女性の進出があまり進んでいない分野。そんな中で名を成しているというだけで、きっと何か素晴らしい能力を備えているに違いないと思い、強い関心をもって出かけることとした。今試みに、2010年に音楽之友社が発行した「世界の指揮者名鑑866」という本を見てみると、彼女もちゃんと掲載されている。これは、専門の指揮者という職業が確立した頃から、録音を残した最初の世代の人たち(だからニキシュやシュトラウスはもちろん、ピアノロールを残したマーラーも載っているが、ビューローは載っていない)以降のあらゆる指揮者たちを網羅しているのであるが、歴史上866人に入るというのは大変なこと。ちなみにそこでの彼女の紹介の一部を抜粋しよう。

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国内盤のディスクの帯に"エストニアの華"という惹句が記されており、美貌を売り物にした指揮者と勘違いした方もいらっしゃるかもしれないが、お国物の20世紀音楽をはじめ、ロシアや北欧の作品など、個性的なレパートリーと確固たる音楽的な主張を備えた実力派である。
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まあ確かに、顔の美醜で音楽できるわけではないから(笑)、その能力の高さに期待が募る。今回が日本デビューかというとさにあらず、既にこの東フィルをはじめ、札幌響や京都市響、広島響の指揮台にも登場している。もちろんその活躍は国際的で、バイエルン放送響、ベルリン・ドイツ響、フランス国立管、スウェーデン放送響、ヒューストン響等の名門オケとも共演しているほか、双子の姉カドリとともに創設したノルディック交響楽団の首席指揮者や、フロリダのサラソータ管弦楽団の音楽監督も務めている。
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さて、私は昨年末の一連の第九の記事において、オリジナルの「第九チェックシート」というものを作り、それぞれの演奏の客観的な事実を記録したのであるが、実は自分としても、これがあると後で見返したときに便利なので、今年もそれを使用することとしたい。今回の演奏については以下の通り。

・第九以外の演奏曲
  ヘイノ・エッレル(1887-1970) : 夜明け
・コントラバス本数
  6本
・ヴァイオリン対抗配置
  なし
・譜面使用の有無
  指揮者 : あり
  独唱者 : なし
  合唱団 : なし
・指揮棒の有無
  あり、但し第3楽章のみなし
・第 2楽章提示部の反復
  あり
・独唱者たちの入場
  第2楽章と第3楽章の間(オケのチューニング中)
・独唱者たちの位置
  合唱団の前
・第 3楽章と第 4楽章の間のアタッカ
  あり

まず最初のエッレルという作曲家であるが、生没年で分かる通り、決して前衛の時代の現代作曲家というわけではない。その作風は後期ロマン派風のメロディアスかつ色彩感覚豊かなもの。実はこの人、「現代エストニア音楽の父」と呼ばれる作曲家で、首都タリンの音楽院の教授としてエドゥアルド・トゥビンやアルヴォ・ペルトという、後に同国を代表することになる後進作曲家たちを育てた人。
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この「夜明け」という作品は 1918年の作品で、演奏時間は約9分の交響詩である。文字通り薄暮から太陽が昇って行くところを描写した音楽であるが、プログラムの解説によると、当時独立を宣言したばかりのエストニアの民族意識にも訴えかけるものであるとのこと。確かに北欧的な澄んだ響きの中に力強さもあって、なかなか表現力豊かな曲である(ちょっと佐藤勝あたりの昭和な映画音楽を思わせるところもあったが・・・笑)。東フィルもタリの指揮に従って、非常に丁寧に、そして美しい演奏をした。日本初演かと思いきや、既に2003年というから13年も前に、この東フィルを指揮して日本デビューした際にこの曲を振っている。それにしてもこのタリは本当に小柄な人で、見た目は金髪碧眼の典型的な北欧美人ではあるが、無駄な愛想笑いのないその指揮ぶりは、職人性を感じさせる堅実なもの。最初の10分弱の曲にしてその高い能力の片鱗を見せることとなった。
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メインの第九の演奏を要約するなら、若干速めのテンポで駆け抜けながら、各セクションの分離もクリアで、大変に流れのよい演奏であったと思う。その指揮ぶりは決して器用なものとは言い難く、右手に握った指揮棒はほとんど単純に上下のビートを刻んでおり、左手を駆使して表情づけを行っていたが、大げさな身振りはほとんどなし(上の写真はそのイメージを多少なりとも伝えるものだろう)。また視線はかなりスコアに注がれていて、楽員とのアイコンタクトはさほど頻繁であったとは見えなかった。だがそれでも、オケの微妙なニュアンスは充分に発揮されていたし、書物から引用した上の言葉にある通り、「確固たる音楽的な主張を備えた実力派」であることは明らかな演奏であったのである。もちろんこのオケが(ほかの東京のメジャーオケ同様)このシンフォニーを、欧米ではありえないくらいの頻度で演奏している実績を持っていることも関係しているであろうが、一見単調な指揮ぶりから、大変広がりのある音楽が勢いよく流れてくるのを聴くのは、なんとも爽快な体験であった。実は彼女の髪は、束ねて後ろに流してはいるものの大変長く、肩と腰の間くらいまであるのだが、第3楽章あたりになるとその長い髪の先が左右ともに首の前に出て来て、まるでマフラーを巻いているかのように見えたのは貴重な経験だったが(笑)、それとても熱演の証として好感の持てるものであった。

今回の合唱団は東京オペラシンガーズ。いつもながらに力強い合唱で、終演後も合唱指揮者は挨拶に登場せず、プログラムにもその立場の人の記載がないので、歌いなれた第九であれば、メンバーたちだけで全部出来てしまうのだろうか。また独唱者は、以下の日本の歌手たち。
 ソプラノ : 小川 里美
 アルト : 向野 由美子
 テノール : 宮里 直樹
 バリトン : 上江 隼人
かつて井上道義指揮によるマスカーニの「イリス」の主役で強く印象づけられた小川里美以外にはあまりなじみのない若手歌手たちだが、それぞれに素晴らしい経歴を持ち、今後の活躍が期待される人たちばかりであろう。

そんなわけで、私にとっての今年の年末最初の第九は、新鮮さ溢れるものとなった。ちなみにこれが双子の姉、カドリとのツーショット。うーん、どっちがどっちだ(笑)。向かって左がアヌ。右がカドリ。こういうフレッシュな顔ぶれが、クラシック界に新風を吹き込んでくれることを期待しよう。
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by yokohama7474 | 2016-12-18 23:57 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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この数年、12月にNHK交響楽団(通称「N響」)の定期演奏会の指揮台に立つのは、スイスの名指揮者、シャルル・デュトワ。日本を代表するこのオケの以前の音楽監督であり、現在では名誉音楽監督なのである。12月も半ばに入り、早いもので残すところあとわずかに二週間。東京のオーケストラのすべてがベートーヴェンの交響曲第9番、通称「第九」に奔走する前の最後の時期のコンサートなのである。

そして今回の曲目が面白い。これぞザ・デュトワではないか。
 ブリテン : 歌劇「ピーター・グライムズ」から4つの海の間奏曲
 プロコフィエフ : ヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調作品19 (ヴァイオリン : ヴァディム・レーピン)
 ラヴェル : ツィガーヌ (ヴァイオリン : 同上)
 オネゲル : 交響曲第2番
 ラヴェル : ラ・ヴァルス

何がどうデュトワなのかというと、彼がこのオケのシェフになる前には、歴代の数々の名指揮者が指揮をしていたものの、このデュトワほど明確なヴィジョンでこのオケを変貌させた指揮者はいないであろう。ある意味では、このオケの歴史はデュトワ前とデュトワ後に分かれると言ってもよいのではないか。
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そのデュトワの中心的レパートリーは、フランスとロシアの音楽。今回の演奏会では、最初の曲こそ英国のブリテンによるものだが、その他はすべてフランスかロシアの作品なのである。しかも5曲も演奏してくれるとは、さすがサービス精神旺盛なデュトワらしい。その期待は、最初のブリテンの曲の冒頭に出てくる高音の弦楽器によって早くも満たされたのである。デュトワの指揮ぶりは相変わらず大変洗練されていて、滑空するがごとくスムーズなのだ。木管楽器の活躍も、さすがN響である。

そして、ヴァイオリン独奏を必要とする2曲が演奏された。ここに登場したのは、半ズボンの少年時代から神童として活躍し、今や押しも押されぬ大家として君臨するロシアはシベリア生まれのヴァディム・レーピン。
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時あたかも、プーチン大統領の来日中。まさかあの半ズボンをはいていたレーピンがロシアの国家的な活動に従事しているとも思えないが(笑)、まあ彼の実績を思えばそんなことがあっても不思議ではないとすら思われるのである。今回も2曲でソロを披露した。最初のプロコフィエフの1番のコンチェルトは、同じロシア人ヴァイオリニスト、ザハール・ブロン門下の庄司紗矢香も得意にするレパートリーである。ヴァイオリンの豊かな歌を味わうというよりは、その夢幻的かつモダンな感性を楽しむべき曲。今回のレーピンは、遊び心すら感じさせる余裕の演奏で、この曲の性格に見事な光を当ててみせた。ただ、時折音程がオットットという感じであったのは、果たして意図したものであったのだろうか。そしてもう1曲、彼が弾いたのはラヴェルのツィガーヌだ。この題名は、いわゆるジプシー、最近の用語でいうとロマのこと。10分ほどの短い曲であるが、前半はヴァイオリンの独奏で、後半には色鮮やかなオーケストラの伴奏がつく。レーピンの音はここでも若干ガサガサしたものを感じさせたが、この場合も曲の性格に即したものであったと思う。このレーピン、既に半ズボンははいておらず、端倪すべからざる音楽家なのである。尚この2曲は近い時期にパリで初演されている。プロコフィエフの作品は1923年、ラヴェルの作品は1924年。私が生涯を賭けて研究したいRolling Twentiesの雰囲気満点だ。

そして後半にも2曲の演奏があった。まず最初は、デュトワと同じスイス人のアルトゥール・オネゲルの交響曲第2番。この曲は弦楽合奏がほぼ全曲を演奏し、最後のほんの数分だけ独奏トランペットが入るというユニークなもの。第二次世界大戦中に書かれており、ほぼ全曲が低音を中心とした陰鬱な雰囲気であるが、最後の最後、第1ヴァイオリンと同じ高音の旋律をトランペットが奏でることで、救いの光が差してきたように感じるのだ。この曲はフランスの巨匠シャルル・ミュンシュが得意にしていたもので、スタジオ録音もあればライヴ録音もある。いかにも熱狂の指揮者ミュンシュにふさわしいレパートリーであるが、東京で生演奏を聴く機会は多くない。今私がすぐに思い出せるのは、小澤征爾が桐朋学園のオケを振った演奏だ。今調べてみると、それは1987年のこと。既に30年ほど前であるが、その演奏における当時の小澤特有の鼻息すら、昨日のことのように思い出すことができる。学生オケであっても全く手を抜かない小澤の情熱がひしひしと伝わってくる名演であった。最後にトランペットが出て来て、あたかもスキーが急停止するように終結するこの曲は、私の大好きな曲であり、CDであれば、今日の指揮者デュトワがバイエルン放送響を指揮したオネゲル全集が愛聴盤なのである。そして今回の演奏も、N響の弦楽器群がただならぬ音を発していて素晴らしい。演奏後のデュトワは弦の各セクションと堅い握手を交わしていて、会心の出来であったことを思わせた。極東の日本でこのような演奏が繰り広げられていることを、草葉の陰のオネゲルはどう聴くだろうか。
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そして最後の曲目、シュトワの十八番、ラヴェルのラ・ヴァルスである。この指揮者は通常どんな曲でも譜面を見ながらの指揮かと思いきや、この曲は暗譜での指揮。なるほど、名刺代わりの一発ということか(笑)。オネゲルの2番と続けて聴くと、どちらも冒頭は低音で共通しているものの、こちらの曲ではすぐに明るい曲調になる点、作曲家のテンペラメントの違いを実感する。この曲は極めてユニークで、ウィンナ・ワルツへのオマージュでありながら、同時にパロディになっていて、ラヴェルならではの機知と策略に富んだ曲。悔しいが、その機知と策略にまんまとはめられるのも、音楽好きの特権と言えようか(笑)。但し今回の演奏、フルートだけは課題が残ったと思うが、いかがであろうか。

終演後のデュトワはここでも上機嫌であったが、彼に花束が贈呈された。これは、N響の定期演奏会としては今年最後のものであり、「カルメン」全曲の演奏会形式での上演を含む3つの多彩なプログラムを振りぬいた今年80歳(!!)のデュトワに対する感謝の念の表れであったろう。そして、花束を持ってきた女性団員に対して、いわゆるフレンチ・キスというのであろうか、両頬にチュッとするキスを強要し、せちがらいセクハラをあざ笑うかのような演奏会の締めくくりであった。それにしても、デュトワも既に80歳とは全く信じがたい。これからも毎年12月に洒脱な音楽を聴かせてほしいものだ。

コンサートの終了は17時頃であったが、NHKホールの外は既に薄暮。おっと、このような青いイルミネーションが、代々木公園を彩っている。もうすぐ年の瀬。今年も最後まで無事に済ませることができますように。
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by yokohama7474 | 2016-12-17 23:22 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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このブログを始めて1年半の間に、東京のメジャーオーケストラに登場する多彩な指揮者たちをそれなりの人数、ご紹介できたと思っているのであるが、それでも、東京のオケでポストを持っている優れた指揮者でありながら、未だ紹介できていない人がいる。その名はヤクブ・フルシャ。彼は現在東京都交響楽団(通称「都響」)の首席客演指揮者。以前この都響で実演に接したときに、すぐに「これは大物だ」と実感した。これは通常の人と人のめぐり合わせでもある程度言えることだと思うが、音楽家との出会いにおいて、第一印象は大事にすべきであると思う。未だ34歳の若手チェコ人指揮者であるフルシャの演奏に私の五感が反応して以来、彼の次の演奏を今か今かと待っていたのである。このブログを続けている1年半の間、私が彼の紹介を怠っていたわけではない。なぜならこのコンサートのプログラムに、以下のような楽団との質疑応答が掲載されているからだ。

QUOTE
Q : 久しぶりに都響を指揮するに当たって、お気持ちをお聞かせください。
A : 待ちきれません。本当に楽しみにしています。2年はあまりに長かったです。
UNQUOTE

そうなのだ。首席客演指揮者フルシャが都響の指揮台に戻ってくるのは2年ぶり。あーよかった、私が責務を怠っていたということでなくて(笑)。
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フルシャがなかなか都響の指揮に戻って来られなかったには明確な理由がある。忙しすぎるのだ。まず、周知の通り、今年の9月からジョナサン・ノット(東京交響楽団音楽監督)の後任として、名門バンベルク交響楽団の首席指揮者に就任した。それ以外に、2015/16年シーズンの活動には以下のようなものがある。
・アムステルダムの王立コンセルトヘボウ管弦楽団へのデビュー
・ウィーン国立歌劇場へのデビュー(指揮したのはヤナーチェクの「マクロプロス事件」で、これはウィーン国立歌劇場での初の上演演目)
・ジュネーヴのスイス・ロマンド管弦楽団へのデビュー
・ミラノ・スカラ座フィルへのデビュー
・ロンドンのフィルハーモニア管弦楽団への客演
・チェコ・フィル(常任客演指揮者を務める)との演奏
・オーストラリア(シドニーとメルボルン)での指揮
・アメリカ(シアトルとロサンゼルス)での指揮
・その他ドイツを中心としたヨーロッパでの指揮
・英国グラインドボーン音楽祭での指揮(ヤナーチェク「利口な女狐の物語」とブリテン「夏の夜の夢」)
この活動は、どう見ても世界一流の指揮者のものである。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの若手指揮者が、共演を「待ちきれません」とまで言う都響は、堂々と世界に胸を張ることができるのだ。

さてそのフルシャが指揮した今回の演目は以下の通り。
 ドヴォルザーク : ヴァイオリン協奏曲イ短調作品53(ヴァイオリン : ヨゼフ・シュパチェク)
 マーラー : 交響曲第1番ニ長調「巨人」

曲目・演奏者ともに、これはオール・チェコ・プログラムなのである。作曲者でいうと、ドヴォルザークはもちろん名実ともにチェコ音楽の代表中の代表だし、マーラーはユダヤ人であるが、生まれはカリシュトという寒村で、これは当時オーストリア帝国の領土ではあったが、ボヘミア地方で、現在はチェコ共和国の領土である。指揮者は上述の通りチェコ人、そして独奏ヴァイオリンを弾くシュパチェクは、今年未だ30歳の若手であるが、2011年から2015年まで、チェコを代表するオーケストラ、チェコ・フィルのコンサートマスターを務めた。このようになかなか精悍な人だ。
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今試みに2009年と2015年のチェコ・フィルの来日公演のプログラムを持って来て確認すると、2009年の際には彼の名前はないが、2015年には最上部に載っている。いや、別に経歴を疑っているわけではないのだが(笑)。
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今回のドヴォルザーク、なかなかに鮮やかな演奏であり、土俗性、抒情性からスピード感までラインナップ豊富で、安心して聴くことができた。ここでは都響の弦も、音楽監督大野和士の言う通りの音の圧力を感じさせるもので、フルシャの指揮のもと、がっちりとした伴奏を聴かせてくれ、迫力充分だ。私がこれまで接したこの曲の実演では、弦楽器はコントラバス4本という比較的小編成ばかりであり、今回もそうであったが、各パートがこれだけ鳴れば言うことなしだ。さてここで私が考えたいのは、チェコの音楽家のチェコ音楽との関わりである。私もプラハは2度訪れたことがあり、そのうち1度はこのブログでも記事を書いた。残念ながらかの地でチェコ・フィルなど本格的なオケを聴いたことはないのであるが、ひとつ確実なことは、チェコ人は本当に音楽が好きなのだということ。だがそうであればこそ、彼らはドヴォルザークを聴いたり演奏しているだけで満足するだろうか、いつも疑問に思うのである。私はいつもチェコの音楽家のドイツ音楽やフランス音楽を聴きたいと思っているし、その意味でチェコの音楽家たちにはドヴォルザークの存在はなんとも複雑な、ある場合には厄介なものではないだろうか。もっとも、フィンランドの場合はシベリウス一辺倒であるところ、チェコにはスメタナもヤナーチェクも、またちょっと渋いがマルティヌーとかスークなどの作曲家がいるので、多少のヴァラエティはある。とはいえ、どう転んでもチェコの演奏家は、チェコ音楽の演奏というある意味でのレッテル貼りから逃れられない面は、どうしようもなくあると思う。このような演奏会での曲目が別にドヴォルザークでなくてはならない法はなく、例えばブラームスでもよかったし、あるいはサン・サーンスでもラヴェルでもよかったと、私は思う。その証拠にシュパチェクはアンコールとして、ドヴォルザークの「ユーモレスク」ではなくて(笑)、ベルギーの作曲家イザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番の第4楽章を弾いたのである。ここではグレゴリオ聖歌のディエス・イレエ(怒りの日)が使われていて、悪魔的な雰囲気が満載なのであるが、チェコ音楽(ヤナーチェクのみは除いておこう)と悪魔性ほど遠いものがあるだろうか。いやもちろん、プラハは魔術的都市であるが、ことチェコの音楽に関しては、どうしても中庸性が耳についてしまうのだ。シュパチェクの志向はきっと、中庸なものではないのであろう。これは私が昨年撮ったプラハのカレル橋の写真。絵になりますなぁ。
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この中庸性への思いは、実はチェコの指揮者についても同様で、この国からはこれまでにも十指に余る世界的名指揮者が輩出しているが、本当の意味でデーモンを感じさせる凄絶な演奏を残したのは、ひとりラファエル・クーベリックくらいではないか(カレル・アンチェルを数えてもよいかもしれないが、クーベリックの格にはやはり劣るだろう)。それゆえ私は、このフルシャには、そのようなチェコのくびきを超えた悪魔的なレヴェルの凄みある活躍を望みたいのである!! その意味で今回の「巨人」には大きな期待をかけたのであるが、第1楽章は正直、どうも安全運転に終始したような気がした。やはり都響の弦はゴリッとした実体のある音を繰り出していたものの、肝心の指揮者がそれを縦横無尽に操るというイメージではなかったのである。第2楽章には勢いが必要なので、推進力はかなり発揮されたが、続く第3楽章はむしろちょっとおとなしめに戻ったか。中間部で葬列が踊り出すようなイメージの箇所ではかなりデフォルメを強調していたものの、デモーニッシュなものまでは感じなかった。第4楽章は長い長いクライマックスへの道のりなのであるが、時折金管楽器の演奏にごく僅かな傷があったりなどして、完璧な出来と言うには若干の躊躇を覚える。さすがにホルンが起立する大団円ではオケのパワー全開で、かなり充実感のある演奏にはなったものの、全体を振り返ってみると、フルシャならもっともっとできる演奏であったように思う。かつてこのオケで聴いたエリアフ・インバルの同じ曲の演奏では、最後のホルンの起立の場面では、もう何がどうなるのか分からないくらいの興奮(笑)が自分の中に沸き起こったことを思い出していた。

終演後には指揮者とソリストのサイン会が行われたので参加した。やはり若い演奏家というのは華やかでよいものだ。
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上記は少し厳しい意見かもしれないが、フルシャへの期待が大きいがゆえの個人的見解と免じて頂きたい。今回彼は、ショスタコーヴィチ10番をメインとしたプログラムを来週振るが、これはチェコ音楽ではないので、きっと何か新境地が聴けるのではないか。残念ながら私は忘年会のためにその演奏会は泣く泣く諦めたが、まだチャンスはあるのだ。そう、年末の第九をこのフルシャが振る。そこに次の期待を込めることとしよう。

by yokohama7474 | 2016-12-15 00:29 | 音楽 (Live) | Comments(4)

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東京交響楽団(通称「東響」)を本気で世界一流のオーケストラにしようとしている英国の名指揮者ジョナサン・ノットの意欲的な試みはこのブログでも何度か紹介して来ているが、これはまた楽しい企画があったものだ。演奏会形式によるモーツァルトの傑作歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」である。ノットのこれまでの経歴にオペラハウスの音楽監督はなく、もっぱらオーケストラを率いてきた指揮者かと思いきや、なんのことはない、そのキャリアの初期にはドイツのフランクフルトとヴィースバーデンの歌劇場で修業を積んでいるのだ。そう言えば彼の経歴で○○コンクール優勝というものはない。ノットは昔ながらの叩き上げの指揮者であったのだ。
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今回の「コジ」は、このノットと東響の共演によるモーツァルトのダ・ポンテ・オペラ三作の最初のものになるらしい。イタリア人ロレンツォ・ダ・ポンテが台本を書いたモーツァルトのオペラとは、言わずと知れた「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」、そしてこの「コジ・ファン・トゥッテ」である。題名は、「女はみんなこうしたもの」という意味。「フィガロ」の中の歌詞の一部でもある。これがダ・ポンテの肖像。
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以前の記事にも書いたが、ノットが東響の音楽監督の期間を2026年まで伸ばしたきっかけはモーツァルトの演奏であったということであるから、ノットとしてもこの演奏には相当な気合が入るに違いない。だが、この「コジ」という作品を考えてみると、「フィガロ」「ドン・ジョヴァンニ」に比較すると演奏頻度が低いような気がする。それには理由があって、ほかの2作には印象的なアリアや二重唱があるのに対し、この「コジ」は完全にアンサンブル・オペラであって、ソロの聴かせどころよりは、6人の登場人物の様々な組み合わせによる重唱が特徴的なのである。ここでノットの言葉を引用してみよう。

QUOTE
東京交響楽団とオペラをやるのは初めてです。モーツァルトとダ・ポンテによる3作をシリーズで上演する予定ですが、第1作に「コジ」を選んだのは、3作のなかでいちばん難しいからです。笑。この上演で「コジ」を好きになっていただければ、あとの2作には必ずいらしていただけるでしょうし、成功するに違いないと。笑
UNQUOTE

うーん、なるほど。私にとって「コジ」は既に親しいオペラであるが、まさにノットの言う通り、今回の上演の楽しさにやられてしまって、早くも残り2作には絶対行くぞ!!と決意を固めてしまっている(笑)。そもそもこのオペラのストーリーは至って簡単。フィオルディリージとドラベッラという姉妹と恋仲のグリエルモとフェルランドという青年士官がいて、そこにドン・フェルナンドといういう老哲学者が説教をする。「女なんてすぐ浮気する信用できない存在である」と。それを鼻で笑う男性士官たちはドン・フェルナンドとの賭けに従い、アルバニアの金持ちに扮して、お互いに相手を替えて口説くことになる。そこに活発な女中のデスピーナが絡んで、さてさてどうなるか、というもの。その内容は時に救いのないくらい低俗なものであり、堅物のベートーヴェンなどは、モーツァルトの才能の浪費を惜しんだという。だが、ここで聴かれる音楽に溢れる人間性は本当に素晴らしいものであり、いつのまにか低俗さが人間賛歌に昇華していることに、聴衆は気付くのである。

今回は演奏会形式での上演であったが、歌手たちは舞台上演と同じ程度の演技を行い、自在にステージを歩きまくる。その自由さには圧倒的なものがあり、オケがピットに入っているよりもむしろ音楽をよく聴くことができて、実に素晴らしい経験となった。そもそも、序曲の冒頭、弦の導入に続いて聴かれるオーボエ・ソロの表情豊かなこと。先般聴いたドイツ・カンマーフィルのオーボエよりも絶対こちらの方が上だ。二人いる女性のオーボエ首席奏者のうちの、荒木秦美の演奏だ。
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その後の演奏においても、東響の木管のレヴェルにはまさに脱帽。弦はヴィブラートなしの古楽風であり、トランペットに至っては、ピストンのないバロック風の楽器が使われていた。
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また、全編に亘りノット自身が通奏低音をハンマーフリューゲル(ピアノフォルテ=チェンバロとピアノの中間的な楽器)で演奏していた点も、この指揮者の本気度を示すものであり、その集中力は凄まじい。
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さて、このアンサンブル・オペラの成功は、オケの融通無碍で柔軟な表情もさることながら、歌手陣の貢献も大いなるものであった。その中心は、英国の誇る現代最高のバリトン、トーマス・アレンである。古くからなじみの歌手であるが、いつの間にかサーの称号を得ているのだ(笑)。今回の演奏では、ドン・フェルナンドを演じるとともに、舞台監修も務めている。
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その他の歌手陣も、それぞれスカラ座やメトロポリタン歌劇場やザルツブルク音楽祭に出演している一流歌手ばかりで、そのアンサンブルの出来栄えにはただただ感嘆するばかり。以下、フィオルディリージ役のリトアニア人、ヴィクトリヤ・カミンスカイテ。ドラベッラ役のスペイン人、マイテ・ボーモン。グリエルモ役のオーストリア人、マルクス・ウェルバ。フェルランド役のアメリカ人、アレック・シュレイダー。デスピーナ役のルーマニア人、ヴァレンティナ・ファルカス。いや実に国際的なキャストである。いずれも素晴らしい出来であったが、カミンスカイテとウェルバに特に拍手。このうちカミンスカイテは急遽決定した代役であったのである。それが信じられないくらい、全く危なげない歌唱ではあったが、後半、男たちの軍服を来て戦場に出かけると言い始めるシーンだけは、楽譜を見ながらの歌唱であった。
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繰り返しだが、これだけ国際的なキャストでこのようなレヴェルの公演が開かれる東京は、本当に世界一級の音楽都市なのである。その感動を一層盛り上げたのが、終演後のサイン会。6名の歌手と指揮者が勢揃いして、ワイガヤの楽しい雰囲気。実は、ノットだけは参加できないという発表であったにもかかわらず、律儀さを発揮してのことか、ちゃんと彼もサイン会に馳せ参じたのである。以下、そのサイン会の様子。
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彼らのサインをまとめて掲載しておこう。うーん、見返しても楽しい!!
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また、ノットと東響の最新録音、ブルックナーの8番のCDが、会場先行発売で売られていた。私も生で体験し、このブログでの記事としても採り上げた演奏会のライヴである。
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ノットと東響の演奏はあれこれ聴いてきたが、今回の「コジ」によって何かひとつステップアップしたように思われる。東京から世界に発信できる音楽を、もっともっと創り出して行って欲しい。

by yokohama7474 | 2016-12-12 00:52 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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イーヴォ・ポゴレリッチ。1958年ベオグラード生まれの58歳。彼が生まれた頃、いやそれどころか、ピアニストとして活動し始めた頃には未だユーゴスラヴィアという国があったわけだが、彼の生地ベオグラードは現在ではセルビア共和国の首都。一方でポゴレリッチ自身はクロアチア人であるそうだ。旧ユーゴの内戦の複雑さは、日本人にとっては何とも理解しがたいものであったが、このピアニストがやって来たのは、そのような場所であるということは認識しておいて損はないかもしれない。だが、1980年のショパン・コンクールでその個性的すぎる演奏によって本選に残らなかったことに激怒した名ピアニスト、マルタ・アルゲリッチが審査員を辞任してしまった事件以降、若き天才として世界にその名を馳せた彼の活躍において、母国の政治的混乱は直接関係なかったようにも見える。若い頃の録音のジャケットには、ナイーブさを滲ませた好青年が写っている。
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だが彼にとっては、演奏家としてのキャリアの初期に、最も重要な出会いがあり、そしてその後別れがあった。22歳年上のグルジア人ピアニスト、アリス・ケゼラーゼ。師でもあり、ショパンコンクールの年に結婚した妻でもあった彼女が1996年2月に癌で亡くなってから、精神を病んでしまい、数年の静養期間を経ることになってしまったのである。だが今調べてみると、ケゼラーゼの死の直後である1996年4月にはN響70周年を記念して日本でショパンの2番の協奏曲を演奏しているし、同じ年の11月にも再来日、また1997年、1999年にも来日している。つまり、師/妻の死とともに突然彼が気力を失ってしまったわけではなく、徐々に崩れて行ってしまったようだ。静養を経て、日本にはその後2005年に再来日。以来かなり頻繁に来日している。私が生演奏でポゴレリッチを初めて聴いたのは比較的最近で、2010年のこと。その際のショパンの3番のソナタなど、超絶的にスローで拍節感の全くない演奏であったので、大変驚いたが、そこで聴かれた凄みには震撼した。実は、彼の録音は1995年でストップしてしまっていて、その時々の彼の演奏活動の実像を知る術は生演奏しかなかったところ、私の場合は不覚にもその機会が2010年までなく、彼が何か特別な世界に足を踏み入れて行っていることを、その時まで知らなかったことになる。

それから2012年、2014年の来日リサイタルを経て、今回の演奏会である。まず会場のサントリーホールに足を踏み入れると、開演前なのに客席の照明がかなり暗い。実は舞台上に、これから演奏会を始めるピアニスト本人が、先端にピンクの大きい毛玉のついた黒か紺のニット帽をかぶり、ブカブカのカーキパンツをはいて、ジャンパーの下からピンクのシャツがはみ出ているというラフないで立ちで、ポロポロと弱音でピアノをまさぐっているのだ!!確か以前の演奏会でもそんなことがあったような気がするが、開演15分前の18時45分になって、係の人が舞台にやって来て彼に何かつぶやき、ようやく袖に入って行った。そんな彼の演奏会、今回の曲目は以下の通り。
 ショパン : バラード第2番ヘ長調作品38
 ショパン : スケルツォ第3番嬰ハ短調作品39
 シューマン : ウィーンの謝肉祭の道化作品26
 モーツァルト : 幻想曲ハ短調K.475
 ラフマニノフ : ピアノ・ソナタ第2番変ロ長調作品36(改訂版)

今回のツァーは中国3ヶ所(上海、北京、深圳)のあと、この東京と、来週末の水戸と豊田で開催され、いずれも曲目は同じ。加えて12/13(火)には、読売日本交響楽団をバックにラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を演奏する。今のポゴレリッチは出家したかのようなスキンヘッドだが、その深々とした音楽は相変わらず極めて個性的で、しかもこれからさらに新しい境地に入ろうとしているように思われる。これは心して聴かねば。
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前半はショパンの2曲とシューマンで、これらの曲をポゴレリッチは途中で椅子から起立することなく、通して演奏した。実はこのショパンの2曲は、作品番号が続いていることから分かる通り、同じ1839年に書かれている。そしてそれらに続くシューマンの曲は、その1839年に着手されている。つまり、同じ1810年生まれのこの二人の作曲家が、同じ頃に創造した世界を聴くことになったのである。ショパンの2曲はやはり非常にスローなテンポの演奏であったが、精神的に不健全な感じはしなかった。バラードの冒頭は非常に穏やかで美しく、あたかも天体から響いてくるような不思議な浮遊感と透明感に満ちていた。だがその一方で、急速な部分での力強さは大変なもので、シューマンの終曲の打鍵など、普通ピアノから聴くことができる音量を遥かに凌駕する大音量であった。この激しさはちょっと聴いたことがないようなものだ。すなわち前半では、緩やかに歩む弱音から爆発的な最強音まで、凄まじいダイナミックレンジが披露されたわけで、もしかすると曲の持っている持ち味以上の表現がなされたのではないだろうか。

そして後半も、モーツァルトとラフマニノフが連続して演奏された(モーツァルトの後で拍手が起こったが、演奏者の趣旨を組んで、あそこは拍手は避けるべきだったのでは)。この二人の作曲家は全くタイプの異なる人たちだが、実はこれらの曲には共通点がある。ともにいくつかの部分からなるとはいえ、連続して演奏される。そしてそこに表れる情緒は、非常に深いものでありながらも、移ろい行く天気のようで、晴れたかと思うと曇り、雨かと思うと日が差すという具合だ。これをもってともに「幻想的」な曲であると呼んでもよいであろう。モーツァルトでの清澄な音はやはり天上的な感じすら覚えるものであったし、ラフマニノフの壮大な音の洪水は、カラフルな壁画でも見るかのような迫真性であった。技術的には非常に高度であるにもかかわらず、そのようなことを感じさせない。技術を超えた表現力に圧倒されっぱなしなのである。このようなピアノを弾ける人が、世界にそう何人もいるとは思えない。いよいよポゴレリッチは、余人の追随を許さない深い表現力を発揮し始めたということなのだろう。

彼の演奏姿は、過度な没入はないが、高い集中力に支えられている。笑いは浮かべていないが、ステージマナーは非常に丁寧で、演奏会の始まるつい15分前までラフな格好をしていたとは思えない(笑)。長身を定義正しく折り曲げ、ステージ正面のみならず、後方席や左右の席にもゆっくりとお辞儀をするのだ。そして万雷の拍手に応えて彼はステージから、よく響くバリトンの声で「ジャン・シベリウス、ヴァルツ・トリステ」とアンコールを紹介した。そう、「悲しきワルツ」である。これもまた格段にテンポの遅い演奏ではあったが、音楽が弛緩することは一切なく、常に緊張と、音楽的情景の変化の予感に満ちた感動的な演奏であった。

終演後にはサイン会があったが、その列はこれまでに見たこともないような、非常に長いものになった。練習時のラフな格好に着替えて出て来たポゴレリッチは、置いてある椅子に腰かけることもなく、立ったままサインを続けて行った。黒・金・銀の3色のペンが用意され、サインをもらう際に希望を言えるようになっていたが、私が金を求めると、「金は銀より高いんだけどねー」と英語で呟いていた。いや、ペンの値段は金も銀も同じだと思いますが、違いますか(笑)。
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そのユニークな個性に、個人的・社会的な変動の影響が入り混じることで、様々な変遷を経てきた彼の音楽であるが、きっとこれからも、不断に変遷を続けつつ、さらなる高みに到達することだろう。同時代人としてその変遷を常に見て行きたいと思っている。

by yokohama7474 | 2016-12-11 02:58 | 音楽 (Live) | Comments(4)

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ベルギーの首都ブリュッセルの王立モネ劇場(2008年まで大野和士が音楽監督を務めた)で2009年に世界初演された作品の日本初演である。上のチラシにある通り、これはあの川端康成の「眠れる美女」を原作としたオペラなのである。日本の文学作品の海外でのオペラ化というと、以前このブログでも採り上げた黛敏郎の「金閣寺」や、ハンス=ヴェルナー・ヘンツェの「午後の曳航」を思い浮かべるが、いずれも三島由紀夫の原作をドイツ語でオペラ化したもの。川端はもちろんノーベル賞作家であり、海外でも知られた名前であるゆえに、彼の小説がオペラの題材になっていてもおかしくないようにも思うが、まあ考えてみれば、「伊豆の踊子」でも「雪国」でもよい、オペラになるだろうか。うーん(笑)。映画はともかく、オペラともなると、やはり難しいだろう。それらに引き替え、この「眠れる美女」はストーリーよりも心理描写に重点のある作品であり、設定がいささか突飛であるゆえ、現代オペラの題材になるのは理解できる。

この川端の原作は1961年の発表。老人が隠れ家で若い女性と添い寝するという設定であり、間違っても文部省特選になるタイプの小説ではない(笑)。私の周りにも、中学生のときにこの小説のエロティシズムに陶酔する早熟なクラスメイトがいたが、彼がその内容を本当に理解できていたか否かは分からない。原田芳雄と大西結花が出演した映画は1995年の制作で、やはり川端の「山の音」という作品と組み合わせた内容であった。冬の大気と老人の諦観を感じさせる印象的なシーンはいくつかあったが、全体としては、現実感がファンタジーを阻害していて、あまり感銘を受けなかった記憶がある。今回、会場で原作を販売していたので、念のためと思って購入して帰宅して書棚を調べたところ、しっかり手元にも1995年(ということは上記の映画の制作年だ)発行の新潮文庫第46刷を既に所有しておりました(笑)。ちなみに私が今日買ってきたのは、同じ新潮文庫で昨年発行の第76刷だ。売れているのである。ちなみに装丁は東山魁夷かと思いきや、平山郁夫なのである。
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上記の通り、いささか不道徳な内容の原作ではあるが、今パラパラと原作を見てみると、ここに流れる耽美的な雰囲気はやはり、川端文学独特のものであると再認識する。この種の小説を映画にすると、往々にしてポルノ調になってしまう(これは、川端もさることながら、谷崎潤一郎の場合に顕著である)と思う。その点において、オペラの場合はまだ、音楽と舞台上の演出でストーリーそのもの以外の要素を出すことができるので、原作の持ち味を映画とは違った面で援用できるのではないか。だがその取り組みは容易ではないだろう。その容易でない作業に取り組んだのは二人のベルギー人だ。まず作曲を担当したのは、ジャズ・ピアニストでもあるクリス・デフォート。
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そして演出を担当したのが、ギー・カシアス。ミラノ・スカラ座であのダニエル・バレンボイム指揮の「ニーベルングの指環」の演出をしたという輝かしい実績を持つ演出家である。
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この二人はともに台本執筆にも参加している。今回の日本初演は、東京文化会館の開館55周年とともに、日本・ベルギー友好150周年を記念して行われたもの。祝典的な出来事にふさわしい題材とも思えないが、まあともあれ、エロスを芸術の域にまで高められるかという点に、作り手の手腕が問われるのである。そもそもブリュッセルのモネ劇場は、時にかなりハードな現代作品も上演しているようで、私の手元にも、ボスマンスという作曲家の「ジュリー」という現代オペラを大野和士が指揮したDVD(ただ、本拠地を離れたエクサン・プロヴァンス音楽祭での収録だが)がある。そんなわけで、この「眠れる美女」にも期待が集まるのである。

このオペラは休憩なしで演じられ、会場での発表では演奏時間90分とのことであったが、実際には100分くらいであったと思う。幕間はないものの、ストーリーは3夜仕立てになっている。ソリストの歌手は男と女がひとりずつ(バリトンのオマール・エイブライムとソプラノのカトリン・バルツ)であるが、4人の女声陣が全編に亘ってストーリーを補完する役割を果たす(歌唱は英語)。それに加えて、主人公の老人と、少女との添い寝を斡旋する宿の女主人が出て来て、歌ではなく芝居を演じる。ここで演じているのは、長塚京三と原田美枝子だ。youtubeに二人のこの作品へのメッセージがアップされている。
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また、会場にはこの二人向けの花輪があれこれ並べられている。
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実際この二人の名優はここで非常に充実した演技を見せて、オペラ全体を引き立てることに大きく貢献した。二人とも当然マイクを使っての日本語での演技ということになったが、男の落ち着きと冷めた態度の裏にある好奇心や欲望を、長塚は抑えた演技で巧みに表現したし、原田もまた、原作の女主人のイメージにぴったりだ。ただ難を言えば、この二人の演技時間、ちょっと長すぎないか。原作にかなり忠実にストーリーを作っていることによる苦肉の策かもしれないが、オペラであればもう少し演技の部分を縮め、音楽に表現を委ねるべきではなかったか。加えて、原田は女主人のセリフのみならず、原作の地の文章を朗読するような語りを行う場面があり、役柄の希薄化という観点から、これはあまり賛同しがたいものであった。

舞台の奥には大きな二段構えのセットがあり、下の段や枠の部分には映像が投影され、上の段は襖のように左右に開いて、奥でダンサーが踊る。なかなか強烈な視覚的な刺激ではあったと思う。ダンサーは伊藤郁女(かおり)。だが私には、正直このダンスも、場合によっては少しうるさく感じる瞬間があった。
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音楽は小編成のオーケストラによって奏でられ、現代音楽としてはかなり聴きやすい方であろう。もちろん明るく爽やかな音楽という箇所はごく限られていて、ほとんどはベルク調の影を帯びた音であったが、心理劇としてはこの語法は適正なものであったと思う。ただ、再度演技との関係に戻ると、役者二人の演技の間はオケではなく録音によるピアノ音楽が流れていたようであり、このあたりも、オペラとしては少し邪道である上、ちょっと長いように思った。オケの演奏はパトリック・ダヴァン指揮の東京藝大シンフォニエッタ。指揮者のダヴァンは、ブーレーズやエトヴェシュに学んだ経歴もあって現代音楽を得意にしているようだが、国際的な活躍において、通常のオケも指揮している。1964年生まれの、やはりベルギー人だ。手堅い手腕を持つ人と見た。
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今回のメンバーによって行われた上演は、総合すれば非常に意欲的なものであったと思う。情念の世界の表現において、いくつも感心する点があったことは事実。その一方で、やはり文学の持つ自在な時間の伸縮と心理描写の多様性に比べると、音楽にはどうしても単純化の要素が必要であることも、再認識することになった。いっそ原作を忘れてさらに単純化・抽象化した方が凝縮力が出て来たかもしれない。まあ、とはいえ、日本文学がこのようなかたちで国境を越えて芸術家たちに刺激を与えることは素直に喜びたいと思うし、過去に凝り固まったレパートリーだけではなく、東京で時折行われるこのような新しい活動にも極力アンテナを張り続けたいと思う。今回私が鑑賞したのは、東京文化会館でお気に入りの5階のサイド席で、チケットはたったの3,000円。このような低廉な価格であるので、さらに多くの人々にこのような上演を見てもらいたいと願う次第である。川端先生はどのようにお考えだろうか。
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by yokohama7474 | 2016-12-11 01:23 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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この週末(12/3・4)はブログの記事をアップしなかった。その間に、上岡敏之指揮新日本フィルとか、ジョナサン・ノット指揮東京響とか、本来なら必聴と考える公演があったのは知っている。だが私はそれらに行かなかったのである。正直なところ、9月以降、特に10月・11月に多くのオペラ、オーケストラ公演にどっぷり浸りすぎて、少々疲れたのである。いくら音楽が好きでも、さすがに胃もたれすることもある(笑)。そんなわけで、週末はコンサートを忘れて小旅行を楽しんだのであるが、それについてはまた別途アップします。

このコンサートで採り上げるのは、今年の怒涛の一流演奏家来日ラッシュの実質的にトリを飾るもの。1962年エストニア生まれ、もうすぐ54歳になる(12月30日生まれだそうだ)現代屈指の名指揮者、パーヴォ・ヤルヴィが指揮するドイツ・カンマーフィルの演奏会である。ドイツ語の"Kammer"は英語の"Chamber"、日本語にすると「室内」という意味である。つまりこのオケは、規模の小さい、いわゆる室内管弦楽団である。本拠地をドイツのブレーメンに置いていて、2004年からこのパーヴォ・ヤルヴィを芸術監督に頂いており、日本にも過去何度かやって来て、毎回フレッシュな演奏を聴かせてくれている。
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パーヴォとドイツ・カンマーフィルと言えば、すぐに連想するレパートリーは、ベートーヴェン、シューマン、ブラームスという3人のドイツの作曲家である。そして今回彼らが日本ツアー(11/25からこの12/5までの11日間に8回のコンサート)で演奏するのは、まさにすべてがこの3人の作曲家の作品なのである。今回はツアー最終日で、曲目は以下の通り。
 ブラームス : ハイドンの主題による変奏曲作品56a
 ベートーヴェン : ヴァイオリン協奏曲二長調作品61(ヴァイオリン:樫本大進)
 シューマン : 交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」

通常、楽員がステージに揃うとまずはチューニングを行うものだが、今回はそれがなかった。私自身、過去に同様の経験を持った記憶があって、それはやはりパーヴォとドイツ・カンマーフィルの演奏会であったような気もするが、どうも思い出せない。いずれにせよ、前半の曲と曲の間にはチューニングをしていたので、コンサート冒頭と後半の曲については、ステージに登場する前に裏でチューニングしてから出てくるのであろうか? ところでチューニングは、通常オーボエが最初に音を出すのであるが、たまたま今回のコンサートの最初の曲、ブラームスのハイドン変奏曲の冒頭で演奏するのは、そのオーボエなのである(笑)。だが私はこのオーボエには正直あまり感心しなかった。その後次々と登場するほかの木管楽器も、水際立ったテクニックとまでは思われず、最初は演奏に乗れなかったのであるが、だが弦の献身的な演奏ぶりによって徐々に音のパースペクティヴがよく見えるようになって行った。そう、実際、聞こえるというよりは見えると言いたいくらい鮮やかであったのだ!!

なるほどこれがこのコンビの演奏の美質だったなぁと思っていると、2曲目のベートーヴェンのヴァイオリン・コンチェルトには強力な共演者が登場し、その美質をさらに磨き上げる結果となった。樫本大進(かしもと だいしん)だ。
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今年37歳。いよいよ油の乗り切った感のある彼は、一般的にも既にベルリン・フィルの第1コンサートマスターとして知られているだろう。かつての安永徹同様、今やベルリン・フィルの顔と言ってもよい活躍ぶりで、生でベルリン・フィルを聴くと、彼の音だけ飛び抜けて聴こえてくることすらある。彼がベルリン・フィルのコンサートマスターに就任したのは2010年12月。その前に内定の後の試用期間があったのだが、実は私はさらにそれより前、ベルリン・フィルのトップで弾く彼を聴いている。それは、調べてみると2009年の1月のこと。小澤征爾がベルリン・フィルを指揮するコンサートを現地まで聴きに行ったとき(曲目は、ラン・ランをソロに迎えてのメンデルスゾーンのピアノ協奏曲1番とブルックナー1番であった)、何の予備知識もなく彼をコンマスの席に見出して、椅子から転げ落ちそうになるくらい驚いたのである。天下のロン=ティボー国際コンクールで史上最年少で優勝した逸材が、ソロからコンサートマスターに転じるとは思っていなかったからだ。だが今回久しぶりに彼のソロを生で聴いて、ベルリン・フィルでの体験が、彼のヴァイオリニストとしての成長に大きく役立っているように思われて、大変に感動したのである。彼のヴァイオリンは若い頃から、超絶技巧を誇示するものではなく、あえて言えば老成したものであったが(例えば、同門で5歳年上のマキシム・ヴェンゲーロフと比べれば顕著である・・・そういえばこの日、ヴェンゲーロフはサントリーホールでリサイタルを開いていたはず。恐るべし東京)、今回のベートーヴェンは、驚くような艶やかな音に加えて、大変な勢いが迸っていて、むしろ若返った(?)と思われるようなものであったからだ。実際、この演奏時間50分を要する協奏曲はなかなかに難物で、長い割には圧倒的に劇的な雰囲気がなく、むしろ淡々とした曲調が続くために、妙に静かな演奏になってしまうことが多いのだが、今回の演奏は隅々までエネルギーの充溢した素晴らしく生命力のあるものであった。樫本の美音で私が思い出したのは、往年の巨匠オイストラフであった。そのくらい、飛び切りの美音であったのだ。それでいて、ただ美しいだけではなく、もちろん疾走性も力感もあるので、次々と移り変わる音楽的情景に飽きることがない。本当に最初から最後まで、充実感に溢れた演奏であった。第2楽章の終わりの方では、まるで瞑想しながら深い水に沈んで行くようであったが、そこから一転して鮮やかな第3楽章のロンドに雪崩れ込むときの強い集中力には忘れがたいものがあった。ここではヤルヴィの伴奏も万全で、ウンと唸って突き出される指揮棒に自在について行くオケの各パートの弾ける自発性が顕著。ここぞというときに爆発的な力を発揮して、樫本のソロとの間に素晴らしい相乗効果を生み出していたと思う。・・・ここで私が思い出したことがひとつ。そういえばパーヴォが初めてN響の指揮台に立ったときにやはりこのコンチェルトを演奏したのを、私は聴いているのだ。ソロは、カナダ人のジェームズ・エーネスであった。そのときの演奏は、残念ながら全体があまりよい出来ではなくて、このベートーヴェンは、上に書いたような、妙に静かな演奏であったと記憶する。帰宅して調べてみると、それは2001年1月のこと。今から約16年前のことで、パーヴォは既に活躍していたとはいえ、「名指揮者ネーメ・ヤルヴィの息子」という位置づけであったと思う。その彼が今やそのN響の首席指揮者とは・・・。いろんなご縁があるものです(笑)。せっかくだからそのときのプログラムから転載してみよう。
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そして後半の曲目、シューマンの3番「ライン」も期待通りの名演。この副題は作曲者がつけたものではないが、序奏もなくいきなり始まる冒頭の音楽が、いかにもライン川の雄大な流れを思わせることは事実。ステージに現れたヤルヴィが、拍手も終わらないうちに、指揮台に登って振り向きざまに指揮棒を振り下ろした瞬間、昔のドイツ系の指揮者のような重々しい大河の流れではなく、むしろ渓谷の急流と呼ぶべきスムーズな音の流れが耳に入り、聴衆を押し流してしまった。いつもN響で見慣れている器用な指揮ぶりではあるが、オケの資質に合わせて適応するあたりのヤルヴィの能力は素晴らしい。ここでもやはり弦楽器の各パートが明晰に、しかし圧倒的な情熱をもって音楽を紡ぎ出し、全体として非常に勢いのあるものとなった。シューマンの4曲の交響曲は、根強い人気はあるものの、ベートーヴェンやブラームスに比べると生演奏の頻度は落ちる。それはオーケストレーションに難があってよく響かないからだと言われることもあるが、このような演奏で聴くと、そんなことは根拠のない話に思えてくる。確かに全体として安定感を欠く面のある音楽ではあるが、この作曲家特有の夢幻性には、ちょっとほかにない魅力があることも事実。今回のようなストレートな演奏で聴くことによって、シューマンの交響曲の再評価にまでつながるのではないかと思われてくる。シューマンが聴いたらきっと喜ぶと思う。
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聴衆の鳴りやまぬ拍手に応えて演奏されたアンコールは2曲。まずブラームスのハンガリー舞曲の3番。続いて1番であった。3番は気楽な曲であるが、チンチンと静かに鳴るトライアングル(シューマンの曲では使われていないので、アンコール用に奏者(日本人)が袖から出て来た)がいい味わいを出している。考えてみればトライアングルは、ブラームスが交響曲の中でもティンパニ以外に唯一使用した、特別な打楽器なのであった(笑)。一方の1番の方はかなり情熱的な曲であり、ここでのヤルヴィは、あたかもジェットコースターのように思い切りメリハリをつけて自在なテンポ設定を見せ、メインの曲目とはまた違った表情の音楽を導き出して、実に楽しかった。満場の大喝采が巻き起こったことは言うまでもない。

ヤルヴィとドイツ・カンマーフィルの蜜月は既に12年も継続している。なんでもできてしまうヤルヴィのこと、様々なレパートリーがこれから演奏されて行くだろう。シューベルトやメンデルスゾーンは当然近いターゲットであろうし、ハイドンやモーツァルトももちろん期待できようが、ドイツ物を離れて、ラヴェルとかプロコフィエフとかのフランス・ロシアの近代ものを聴いてみたい。それにしても、この素晴らしい指揮者の活動の重要な面を、この室内オケと並んでN響が負っているという事実も無視できない。これからの東京の音楽シーンの活況は、この指揮者に期待するところますます大である。「やはり、私がイチバンでしょう」とおっしゃっているのでしょうか(笑)。順番はつけられないが、東京にとって最も重要な指揮者であることは事実。とりあえず今回のツアー、お疲れ様でした!!
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by yokohama7474 | 2016-12-06 01:29 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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今年は日本を代表する作曲家、武満徹(たけみつ とおる)の没後20周年。このブログでもいくつかの記事で、彼の作品が演奏される機会をご紹介して来た。だがこれは一味違ったコンサートなのである。オーケストラでもピアノやヴァイオリンでも、はたまた合唱でもない武満作品の演奏。雅楽によるものだ。雅楽とは、1000年以上の歴史を持つ日本の宮廷音楽で、ユネスコの世界無形文化遺産にも登録されている。宮内庁のホームページの説明から一部を引用する。

QUOTE
5世紀頃から古代アジア大陸諸国の音楽と舞が仏教文化の渡来と前後して中国や朝鮮半島から日本に伝わってきました。雅楽は、これらが融合してできた芸術で、ほぼ10世紀に完成し、皇室の保護の下に伝承されて来たものです。その和声と音組織は、高度な芸術的構成をなし、現代音楽の創造・進展に対して直接間接に寄与するばかりでなく、雅楽それ自体としても世界的芸術として発展する要素を多く含んでいます。
UNQUOTE

そうなのだ。西洋音楽とは全く異なる雅楽には、現代音楽の創造・進展に寄与する要素があるわけである。武満の創作活動の中には西洋と東洋の葛藤が時に見られるが、安易な東西融合ではなく、高度な次元での融和であったり、ある場合には西洋楽器と和楽器の対決の様相を呈する。そんな彼が雅楽のために書いたオリジナル音楽は「秋庭歌一具(しゅうていがいちぐ)」だけである。今回の演奏会は、雅楽の演奏団体である伶楽舎が演奏を担当するが、この団体は、もともと宮内庁に在籍していた芝 祐靖(しば すけやす)が1985年に設立した団体だが、古典だけでなく現代曲も頻繁に演奏している。この芝さん、随分以前にNHK開局何十周年とかで教育テレビ(今のEテレ)で武満徹を含む何人かの文化人と話しているのを見て、やっていることは過激だが、なんとも品のよい人だな(笑)と思ったものだが、80を超えても現役で活躍されているとは何よりだ。今回のコンサートのプログラムによると、この団体は過去に既にこの武満の「秋庭歌一具」を24回演奏しており、国内だけではなく、ヨーロッパではグラスゴー、ロンドン、バーミンガム、ケンブリッジ、ケルン、ベルリン、オスロ、アムステルダムで、米国ではシアトル、タングルウッド、ニューヨーク、ロサンゼルスで演奏している。既に重要なレパートリーになっているのだ。

これが伶楽舎の通常の雅楽公演。もちろん一ヶ所に集まって演奏する。
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そしてこれが、2005年にサントリーホールでこの「秋庭歌一具」が演奏されたときの様子。秋庭というメインのグループと、木魂1、2、3というグループに分かれて演奏する。
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私にとってもこの曲は、録音では随分以前に親しんだが、実演では初めて聴く曲。私が聴いていたレコードは、この曲を初演した東京楽所(とうきょうがくそ)による1980年の録音。手元にある小学館の武満徹全集に入っているのもこの録音で、私は今回、そのCDを聴いて予習して行った。こんなジャケットでした。懐かしい。
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また、今回の会場である東京オペラシティコンサートホールは、正式名称はその後に「タケミツメモリアル」とつく。ロビーにはこのようなプレートが掲げられている。今回初めて知ったことには、宇佐美圭司の手になるものだ。確かに言われてみればなるほど納得だ。そういえば、宇佐美は武満の著作の装丁も手掛けていた。
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それから、会場には作曲家の池辺晋一郎がいて、休憩時間に女性二人組に挨拶していたが、あれは武満夫人である浅香さんと娘の眞樹さんではなかったか。上から遠目に見ただけなので、違っていたらすみません。

実は今回の演奏には、もうひとつの目玉がある。それは、冒頭に掲げたポスターにもある通り、この人の舞である。
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日本を代表する舞踏家である勅使川原 三郎(てしがわら さぶろう)。彼の振りつけのもと、最近では常にデュオを組んでいる佐東 利穂子も共に踊るのである。私が以前からいかに彼を尊敬して来たかは、今年1月23日の記事に書いているが、この記事は、せっかく頑張って書いたのに、アクセスが非常に少なくて私は落胆しているのです(笑)。是非読んで下さい!!リンクは以下の通り。
http://culturemk.exblog.jp/24073769/

そんなわけで、役者は揃った。一体いかなる上演になったのか。その前にもうひとつ寄り道すると、私は今回のコンサートに行けるか否かは直前まで分からなかったのでチケットは買っておらず、どうせ売れ残っているだろうと甘く見ていると、前売り券は完売。ただ、当日80枚ほど追加席が売り出されるというので、それを購入した。価格はたったの2,000円!!その代わり、「ステージの1/3が見えません」との注意事項付だ。構うものか、この貴重な公演に立ち会えるなら。

実は武満作品の前に、芝 祐靖の復元・構成による「露台乱舞(ろだいらんぶ)」という曲が演奏された。これは平安時代から室町時代にかけての宮中での酒宴と歌舞を再現したもの。優雅でいて実はユーモアもあり、当時から人々は酒を飲むのが好きだったのだなと分かるような曲だ(笑)。雅楽特有の立ち昇るような音が美しく、実に聴き惚れるばかり。中でも、雅楽の中で最も知られた越天楽(えてんらく)が3回繰り返される箇所では、徐々に奏者が減っていって、最も活躍する篳篥(ひちりき)奏者も最後は旋律の途中を吹かなくなるという演出で、聴衆は頭の中で旋律を思い描くことでイマジネーションが刺激された。雅楽は面白いではないか。

そして武満作品であるが、上記の写真の通り、奏者がいくつかのグループに分かれるのであるが、今回の演奏では2階のステージ奥(オルガン前)と左右の席での演奏となり、ステージ上は、メイングループが演奏する緑の敷物を囲むようにコの字型 (ステージ手前が空いている向きで)の廊下状の壇が設けられ、そこで勅使川原と佐東がパフォーマンスを披露した。
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演奏は実に素晴らしく、伝統的な雅楽を聴いた後だけに、武満の音の作りの斬新さに唸る場面が多々あった。太古の昔から響いてくる先祖の声のようでもあり、空気中を漂う精霊の羽音のようでもあり、ただゆらゆらとうごめく植物の動きのようでもあり、詩的な雰囲気に満ちている。一方でダンサーの二人は、6楽章からなるこの曲の楽章間でも同じように踊り続けており、全体を通して動きの変化に乏しかったのは致し方ないが、まるで全身で空間に彫刻を刻んで行くようなダンスに、非凡なものは当然あった。ただ私は若い頃の勅使川原の、自分の体をナイフのように地面に叩きつけるような激しいダンスの合間に、ふっと緊張感を持って佇む姿が好きだったので、今回のパフォーマンスでは終始ゆったりした動きであった点、やや残念な思いを持ったことは事実。そもそもこの曲に舞が必要かとも思ったりしたが、初演の際にも女性二人の舞が舞われたとのことで、作曲者自身も、しばしば舞を伴う雅楽の伝統には敬意を払っていたということだろうか。

このような意欲的な試みも東京では多く行われているので、これからも極力アンテナを高くして、才能のぶつかりあいを目撃して行きたいと思う。

by yokohama7474 | 2016-12-01 00:53 | 音楽 (Live) | Comments(0)